天地創造、それは主の愛のみわざ その2

聖書箇所;創世記2章1節~25節 メッセージ題目;天地創造、それは主の愛のみわざ その2 神さまが天地を創造されたという事実を受け入れるとき、私たちは創造者を認め、謙遜にさせられます。そして、創造者のみこころは何であるかを知ろうとし、聖書を熱心に読むようになります。そうすれば素晴らしく用いられる、喜びに満ちた人生を歩んでいくことができます。 さて、今日の箇所は、創世記2章、神さまの最高の被造物である人間の創造について、くわしく書かれている箇所です。 人とはどのような存在か? 私たち人間は自分の存在について、たえず問いかけていますが、みことばから学ぶならば、私たちはそのことを知ることができます。そして、私たちの生きる指針をいただいて、神さまの御目にふさわしい生き方をしていくことができます。ともに学んでまいりたいと思います。 第一のポイントです。神さまは人に、霊的ないのちを与えられました。 7節のみことばをお読みしましょう。……人間の原料は、大地の土です。神さまは霊なるお方なので、物質的な形をお持ちの方ではありません。しかし人間は、物質であるわけです。創造主と被造物のちがいが、ここにも現れています。 人間の原料は土です。このことを知ることは、人を謙遜にさせないでしょうか。もし、神さまに形づくられなかったら、私たちは土の泥のような存在のままです。なんだか得体の知れない存在です。そこに何の「神のかたち」を見いだせるでしょうか。しかし私たちは土のちりにすぎなかったのに、もったいないことに、神さまの御手によって「神のかたち」に仕上げていただいたのです。 神さまのかたちに仕上げていただいたのは、人間だけです。サルの種類は人間に姿かたちが割と似ていますが、彼らは「神のかたち」ではありません。単なる獣、動物です。神さまがご自身のかたちに創造されたのは、ただ、人間だけです。 それだけでしょうか? 神さまはいのちの息を、人間に吹き込まれました。それで人間は生きるものとなったと、みことばは語ります。いのちの息、つまり霊が吹き込まれたと特にみことばが証しする被造物は、これも人間だけです。 神の息吹が吹き込まれている、これぞ、人がほんとうの意味で生きているということです。これは人が霊的な存在にされているということであって、それゆえに人は神さまと交わりを持つことが許されます。神さまとの交わりもなく、神さまのみこころをないがしろにして生きているということは、生きてはいても死んでいるような状態であるということです。 私たちの「生きたい」と願う飢え渇きを満たすことができるのは、いのちの息を吹き込んでくださった神さまだけです。だから私たちは、。朝に夕に、主を求めてまいりましょう。本来創造された主のみこころに忠実になり、いのちの息が吹き込まれた者としてふさわしく主との交わりを持ちつづけるならば、主は必ず私たちを、大いなる祝福へと導き入れてくださいます。 では、その祝福とは何でしょうか? 第二のポイントです。神さまは人に、生活の彩りと戒めをともに与えられました。 9節のみことばをお読みしましょう。あらゆる果樹が実を結びます。16節もお読みしましょう。その果樹から、好きなだけ食べていいというのです! 果物というものは、創造のはじめから人間を養うために神さまがお造りになった、特別な存在です。果物はいろいろな形、いろいろな色をしています。味もさまざまです。 果物は実に不思議なものです。果樹が葉っぱで光合成をし、また土に下ろした根っこから水分と栄養分を取り出し、大きくなり、時が来ると実をつけます。太陽の光には味などなく、果樹も、土も、舌で舐めたらえらいことになります。それなのに、結ぶ実は甘くておいしく、栄養がたっぷりです。神さまはそういうシステムで人間を養われることを良しとされたのです。 神さまはみことばの中で、神さまとの交わりを通して私たちの生活に現れる良い結果のことを、しばしば「実」と表現しています。特に有名なのが、ガラテヤ人への手紙5章22節、23節の「御霊の実」です。これはちょっと読んでみましょう。新約聖書の382ページです。 ……こういう実を結ぶには、それなりの忍耐が必要です。神さまの恵みという光を浴び、水を得るのです。時には風雪に耐えながらも、神さまのみことばという大地に根を下ろしつづける、つまり、揺るぐことのない神さまに拠り頼みつづけなければなりません。ある聖書箇所では、みことばは腹に苦かった、とありますが、土が口にできたものではないが果樹に栄養を供給するように、みことばは時に、口に甘しといえるようなものではない、厳しいものであるかもしれません。しかし、私たちはみことばに根を下ろすことで、養われ、健康に成長するのです。もし、安逸をむさぼり、神さまの恵み以外のものから栄養を得ようとするならば、その結ぶ実はひどいものであり、とても食べられたものではありません。その悪い実のことを、聖書は「肉のわざ」と呼びます。お読みしませんが、19節から21節にリストアップされています。このような悪い実を結び続けるのは、この世の快楽という肥料から栄養を取ることをやめようとしないからです。神の子どもらしく生きるならば、こんなことは早くやめるべきです。 木に代表される植物というものも、数えきれないほどの種類がこの世界には存在します。それは神さまが、私たち人間の生きるこの世界がつまらないものとならないように、かぎりない彩りを与えてくださったゆえと言えるでしょう。そのようなバラエティに富み、そして美しい被造物を見るとき、私たちは創造主なる神さまを認め、その被造物とされていることを覚えて謙遜にさせられるものです。 そう、私たちは被造物です。私たちが被造物であることを、神さまは「善悪を知る知識の木」というものを備えることによって教えてくださいました。これは、神さまの設けられた限界です。神さまが聖である、つまり、神さまは被造物と同じレベルの存在では決してありえないことを、お示しになる「教材」ともいうものでありました。それを食べるとき、あなたは必ず死ぬ。神さまはこの木によって、ご自分が聖なる存在であることを示されたのでした。あなたがもし、わたしのこの命令に背くならば、あなたは必ず死ぬ。 なぜ、従順ということが大事なのでしょうか? それは、従順がいのちだからです。しかしある人は、この従順という考え方に反発をいだきます。それは大きく分けて、2つの理由があるからです。 ひとつは、この世の従順を強いるあらゆる存在は完全ではなく、その存在のもとで従順の生き方をするならば、とても苦しい目に遭う、ということがその理由です。ブラック企業、などということばがありますが、企業の経営者が人に給料、すなわち経済的な安定を提供する代価として、長時間の労働、劣悪な環境のもとに留め置くわけです。従順というものをひどく悪用するケースでしょう。 もうひとつ、人が「従順」を嫌がる理由があるとすれば――こちらの方が深刻ですが――、それは権威に対する反発、自己中心から来るものです。神さまなど認めない、従順な生き方などするものか、自分の好きなように生きてやる……しかしこのように、神さまよりも自分の欲望を優先させる傾向の強い私たちが、神さまに従順に従う道を選ぶならば、それは幸いなことです。しかし私たちはなんと、禁止されていることを見て、自分のことを不自由だと思いたがるのでしょうか! なぜ、自分に与えられた大きな自由、恵みに目を留めようとしないのでしょうか! ここに私たちの自己中心、罪の性質が現れています。私たちはそのような発想から、早く自由になる必要があります。 私たちはぜひとも、「神さまの与えた自由」を基準としながらも、神さまに対する不従順の罪を犯させようとするあらゆる罪に警戒し、従順の歩みを実践していきますようにとお祈りします。それが、いのちの道です。 第三のポイントにまいります。神さまは人に、愛する相手を与えられました。 18節と19節をお読みします。……神さまはまず、鳥や獣をアダムのもとに連れてこられました。それは、人が名前をつけるという、その作業を与えられるためでした。 世界中のあらゆる動物には、名前がつきます。新種が発見されたら、ただちに新しい名前が命名されます。まことに、同じ土から造られた被造物であっても、その被造物の特徴にしたがって名前をつけることができるのは、人間だけです。動物はほかの動物に名前などつけません。これは、人間が、その与えられた知性をもって、動物に代表される被造物を統べ治める存在であることを示しています。ここに神さまが、この地を従えるわざを人間に与えられたことを見ることができます。 人はあらゆる生物に対するネーミングライツを持っていますが、その所有者は神さまです。人間が被造物を従えるということは、その被造物に対して勝手気ままに振る舞っていい、ということではありません。どこまでも創造主なる神さまとの関係で、被造物を管理する必要があります。それが、被造物である人間に与えられた使命です。 これらの被造物はみなわたしのものだ、けれどもあなたがこれを治めるのだ、私がその責任と権限をあなたに与えよう。私たちがこの環境を浪費してはならないのは、それが神さまのものだからです。しかしその一方で、この環境を保護する、というときもまた、それは創造主であり、すべての被造ぶちの持ち主である神さまとの関係において考えていくべきことです。 さて、神さまは人がこの地に増え広がるようにとみこころを定められましたが、男の助け手としてふさわしい動物はいませんでした。 それは、動物にはいのちの息が吹き込まれていない、すなわち神さまと交わりを持つことができる存在ではないことが、その大きな理由といえるでしょう。二人は一体となる、それは、肉的に一体となるということもさることながら、同じひとりの御霊によってひとつとなる、という意味を含みます。最近私は、海外のある国ではペットの犬との結婚が合法化される、などというニュースを見ましたが、とんでもないことです。それがとんでもないということは、アダムのはじめからそうでした。霊のない動物では結婚して助け手にすることなどできないのです。そのため神さまは、人から人をお造りになりました。 アダムはエバを見て、何と告白しましたでしょうか? 23節のみことばです。……ここからわかることは、男性と女性は平等な存在、ということです。心臓にいちばん近いあばら骨から取られ、造られたということがそれを象徴しています。お聞きになった方もいらっしゃると思いますが、頭の骨から取られたならば、女は男より上ということになるでしょう。足の骨から取られたならば、女は男より下ということになるでしょう。そうではなくてあばら骨、まさしく、対等の立場の助け手です。 あばら骨のそばには、いのちを司る心臓や肺があります。私はこのあたりに関しては、個人的に言うべきことがあります。私は中高生のとき、肺を手術するため、両胸のあばら骨の間にメスを入れました。それ以来、そのあたりの皮膚や筋肉の感覚がおかしくなり、30年経った今もそれは治っていません。天気が悪いときは呼吸が苦しくなり、からだ全体に影響が出ます。あばら骨を取らなくてもそうなのだから、いわんやあばら骨を取ったとしたら、それはどれほど苦しいだろうかと思います。 そう、愛するということ、助け合うということに召されているとは、相手が生きるために、あえて苦しむことです。アダムよ、エバにいのちを与えるために、そして、エバと助け合う生き方をするために、苦しみなさい、しかしその苦しみは、喜びだよ、神さまはそうおっしゃっているようです。 24節のみことばを見てみると、そのことが一層はっきりします。……このみことばは一見すると、結婚についての一般的な概念を語っているようですが、このほんとうの意味が、モーセがこのみことばを記して1600年経って、パウロによって明らかにされました。これは、キリストと教会を指したみことばだということです。 男があばら骨を取られて女をいのちに生かす。それは痛みの伴う、苦しいことです。しかし、あたかもそれは、私たち教会に永遠のいのちの喜びを与えるために、十字架の上で傷ついて苦しまれた、イエスさまの苦しみを現しているようです。しかし、もったいないことに、イエスさまは私たちを愛するあまり、喜んでご自身を差し出し、痛みを背負ってくださったのでした。私たちはイエスさまの痛みによって、生きるものとされたのでした。 私たちもまた、愛する人のために苦しむ道を選べるでしょうか? なかなかそうなれない、自己中心の醜い姿を思って落ち込むかもしれません。しかし神さまはそんな私たちであると知ってもなお、イエスさまの十字架によって私たちの罪を完全に取り去ってくださり、神さまの子どもらしく歩ませてくださいます。日々、イエスさまの十字架を思うことです。 私たちは自分には愛がないと思っているようでも、神さまの恵みによって、愛する人になれるのです。愛するためにあえて苦しみを選ぶ、祝福の生き方ができるようになるのです。その約束を握って、祈りつつ歩んでまいりましょう。 神さまは私たち人間に、霊的ないのちの祝福、従順の祝福、愛することの祝福をくださいました。私たちの人生は、あらゆる祝福に満ちています。ただ、創造主なる神さまとの交わりの中で、その祝福のほんとうの意味を知ることができます。ともにこの祝福を味わい、神さまのすばらしさを讃美してまいりましょう。

天地創造、それは主の愛のみわざ

聖書箇所;創世記1:1~31 メッセージ題目;天地創造、それは主の愛のみわざ 私たちの教会は創立以来、創造主の御手によりこの天地万物が形づくられたという、その事実をとても大事にしてきました。その事実を堂々と宣言するもの、それは聖書のみことばです。私たちは聖書のみことばから、神さまについて、この世界について、そして私たち人間について、何を学ぶことができますでしょうか。 今日の本文はおそらく、これまで50年以上にわたる当教会の歴史において、おそらく相当な回数、日曜礼拝の聖書本文になったことと思います。しかし私はといえば、この教会に赴任して5年になりますが、このように日曜礼拝において創世記を1章から学ぶのは、はじめてのことです。 私はこの教会の伝統にしたがって、といいますよりも私が生涯信じ受け入れてきた神学の立場にしたがって、創造の事実を大切にいたしますが、私自身は創造科学の学者ではありません。聖書、特に創世記を創造科学の観点から観察するのは専門の先生方にお任せして、私はみなさまのことを、みことばによって整える働きが委ねられた牧師としての立場から、創造という事実を基礎に、この創世記をはじめからみなさまとともに学んでまいりたいと思います。 今日の本文を、3つのポイントから学びます。第一のポイントです。私たちの信じる神さまは、すべてを創造されたお方だということです。 聖書は、始まりからすごいことが書いてあります。「はじめに神が天と地を創造された」。この世界は偶然にできたとか、進化してできたとか、そんなことはどこにも書いてありません。天と地、水、光、大空、地、海、植物、天体、海洋生物、水生動物、鳥類、家畜、小動物、哺乳類……これらが日を追うごとに、そう、神さまの手によって創造されたわけです。そしてその創造のわざの完成として、人が、男と女が創造されました。 神さまが万物を創造されたということは、何を意味しているのでしょうか? それは、神さまがこの天地万物の主権者であられるということです。 私たちが神さまの御前で被造物であるという事実が突きつけられるとき、私たちの取る道は2つに1つです。謙遜に創造主を認める道と、創造主を認めずに自分勝手に振る舞う道です。 人がもし創造主を認めるならば、その人は謙遜な歩みをすることになります。あらゆる無駄な浪費を慎むことになるでしょう。なぜならばこの世界にあふれるものは、全能なる神さまが持っておられるものであり、人間はそれらの資源を一時的に預けられ、管理する存在にすぎないからです。また、神さまの前にへりくだり、神さまがお定めになった秩序の中で身を低くして生きていくことを選ぶようになるでしょう。しかし、そうではなくて、創造主を認めないならば、その人の歩みはとても驕ったものになります。聖書のみことば、創造主がおられ、その創造主が天地万物をお造りになったと語ることは、そのようなあらゆる罪人に対する大いなる戒めとなります。 全能なる神さまがこの天地万物をお造りになったということは、また、神さまがこの天地万物の持ち主であるということも意味します。創造主がその壮大なみこころを実現する場、それが、私たちの置かれているこの大宇宙であり、地球であるわけです。 この夏、教会学校は、岩手県のキャンプ場、シオン錦秋湖に行ってまいりました。そこで私たちは素晴らしい体験をいたしました。自然の中で遊ぶという経験です。中でも忘れられないのが、星空を観察するという経験です。キャンプ場から数百メートル歩き、なんと、道路の上に一斉に寝そべります。真下から星空を見るわけです。あのようなものを見てしまうと、夜でも煌々と明かりが照らされている住宅街など、なにほどのことがあろうか、ほんとうに、人間は小さいなあ、しかし神さまは何と大きなお方なんだろう、と考えてしまいます。みなさまも機会があれば、ぜひ、晴れ渡る夜空の星たちを眺めていただければと思います。神さまを感じていただく絶好の機会です。 しかし人間はなんと、この世界の主権者である神さまに逆らって生きていることでしょうか。その果てに考え出したものが、進化とか偶然という概念です。これで人間は、万物のあらゆる原理を説明できる気になっています。教育も、マスメディアも、あらゆるものは進化ということを真理また真実として受け入れることが前提となっています。それはしかし、聖書に啓示された創造主、神さまを否定することからすべては始まります。その結果人間はどうなったでしょうか? 自分が何者かということを見失ってしまいました。 ローマ人への手紙1章を読むと、この世界にあふれる被造物を見ると、人は創造主なる神さまを認めざるを得なくなる、しかし、それでも人は、神さまを認めようとしない、その神さまを礼拝する代わりに、被造物や偶像を礼拝するようになった……そのような人間に、神さまは怒りを下され、人がその罪深い性質のまま生きるように放っておかれた……という意味のことが書かれています。この世界はなぜこんなにも、破壊、争い、怒り、憎しみ、淫乱に満ちているのでしょうか? すべては、創造主なる神さまを認めないで、人間がその罪の性質のままに歩むことにあります。 しかし、忘れないでいただきたいことがあります。第二のポイントです。私たちの信じる神さまは、すべての創造のみわざを「良しと見られた」お方です。創造の記述の、それぞれの締めくくりをご覧ください。「神はそれを良しと見られた」とあります。最後の創造の日、第六日目に至っては、何と書いてありますか?「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。」すべての創造のみわざは、神さまの御目から見て、完全だったのです。 完全な世界。神さまがお喜びになっておられる世界。どれほどのものでしょうか。私たちもこの世界を生きていて、そこかしこに創造主なる神さまのみわざを見ることができます。それがどれほど緻密で、すばらしいものであるか。私たち人間も素晴らしい叡智を働かせてあらゆるものをつくり出しますが、究極的なことを言ってしまうと、所詮それは、神さまのみわざの真似をしているだけです。いわんや大自然に目を留めるならば、そのようなわざは逆立ちしても人間にできないことを、ただ認めるだけです。 このみことばはまた、神さまがお認めになることとは、ことごとく、神さまが「良しと見られる」ことであることであるとわかります。神さまは正義をもってこの世界を統べ治めるお方です。というより、神さまがすべての基準なのですから、神さまが良しと見られないことは、すべてが不義、義ではないことと言うほかありません。 だから、私たち人間が生きる基準は、この世界の創造主であり、また持ち主である神さまが「良しと見られる」ことであります。私たちはこの基準を、神さまのみことばである、聖書から知ることができます。この聖書が、「はじめに神が天と地を創造された」と冒頭に記しているとおり、創造主なる神さまを認めるところから、神さまが「良しと見られる」ふさわしい生き方を始めることができるわけです。それこそ聖書が、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」と語るとおりです。若いときから神さまの「良しと見られる」歩みをしていくことができるならば、その人はどれほど神さまに用いられ、また、喜びに満ちた生涯を送ることができるでしょうか! 罪ということばの原語が「ハマルティア」といって、それが「的はずれ」という意味だということは、お聞きになった方も多いと思います。神さまが「良しと見られる」正しい基準を守り行わなければならなかったのに、それを守り行わない、つまり「良しと見られる」基準の的から外れている、これが「罪」です。 法律に反すること、それもたしかに「罪」です。盗みとか、殺人とか。しかし、この場合の「罪」は、神さまが「良しと見られる」基準から外れた、その結果ともいうべきもので、やはりほんとうに問題にすべきは、神さまが「良しと見られる」、そのみこころから外れて生きようとすることです。 神さまが「良しと見られる」かどうかなど、まるで関係ない生き方をする、それもやはり罪です。創造主が「良しと見られている」この世界のあらゆる環境から搾取し、環境を破壊する、そういうことができてしまうのは、神さまのこの「良しと見られた」という視点が、人間から決定的に欠けているためということができるでしょう。しかし神さまは、最後に創造された被造物、人間に対し、どのようなみこころを持っていらっしゃいますでしょうか。 第三のポイントです。私たちの信じる神さまは、最高の被造物として人間を愛してくださるお方です。 第一日目から第六日目までの創造のわざ、その最後に、神さまは人間を創造されました。人間は最高の被造物です。人間だけが、神さまとの交わり、コミュニケーションを持てる存在として創造されました。 すると、それまでの第一日目から第六日目までのあらゆる創造のわざは、何のために行われたのでしょうか? それは、人間が住むのに最高の環境が整えられるためでした。 この整えられた環境の中で、人は創造主なる神さまを喜び、神さまの栄光を現すのです。では、人はどのようにして神さまの栄光を現すのでしょうか? その答えは、28節に書かれているとおりです。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」 地上のあらゆるものを従え、支配する。神さまはその役割をわれわれ人間にお与えになりました。これは、人間が環境を勝手気ままに用いていいということではありません。神さまのみこころがこの地上に行われるように、管理するのです。そのために、生めよ、増えよ、と、神さまは人間に命じられました。まことに、人がこの地に増え広がるのは、大きな祝福のしるしです。みなさん、赤ちゃんが生まれるということは、とてもうれしいことですよね? そうです、それは生めよ、増えよという、主のみこころがまたひとつ実現し、神さまのご栄光がこの地に現れたためです。 愛しているから用いたい! 愛しているからわたしのつくった完全なこの世界に広がってほしい! これが私たち人間に対する、神さまのみこころです。私たちがこの神さまのみこころに忠実に生きるとき、神さまはそのような私たちのことを「良しと見られる」のです。 しかし人間は、神さまが「良しと見られる」歩みをしない道を選びました。それが最初の人、アダムとエバから始まり、すべての人は罪を犯したので、神さまからの栄誉を受けることができない状態となりました。そう、神さまは、このように神さまを認めない歩みをするようになった人間の罪を「良しと見られる」ことはとてもおできにならず、罪をおさばきになるしかありません。 それでも私たち人間は最高の被造物です。神さまが愛してやまない存在です。なによりも「良しと見られる」最高の存在です。神さまはそんな愛する存在をさばきたくはありません。 それで神さまがお選びになった道は、自分勝手な道を歩んでご自身から離れた人間の罪を赦す、究極の「良しと見られる」ことです。イザヤ書53章、4節から11節をお読みします。 これは、十字架の上で死なれた、神の御子イエス・キリストを預言したみことばです。イエスさまはなぜ十字架で死なれたのでしょうか? それは、私たちを神のさばきから救うという、神さまのみこころを成し遂げるためでした。11節のみことばをご覧ください。「彼は自分のたましいの 激しい苦しみのあとを見て、満足する」……そう、満足する、とあります。御父と御子が切り離されるという、このあまりにも激しく苦しいみわざは、神さまがご覧になって「良しと見られた」ことだったのです。このイエスさまの十字架によって罪が赦されたと信じるならば、人は神さまの子どもとされ、永遠のいのちが与えられます。そう、十字架こそ、究極の「良しと見られた」ことです。神さまはそれほど、私たち人間のことを愛してくださったのです。 私たちが生きている世界は、あらゆる罪がはびこっています。環境も破壊されています。私たちはそのような世界を生きることに、時に大きな苦しみを覚えます。しかし神さまは、それでもこのあらゆる被造物を「良しと見ておられる」のです。なぜでしょうか? 最高の被造物、最高の「良しと見ておられる」存在である私たちが、現実に生きている世界だからです。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。私たちは愛されています。イエスさまを信じる信仰によって罪赦された私たちの生きるこの世界、そしてこの世界に住む人々を、神さまは愛してくださっています。 私たちは何をすべきでしょうか? この世界に、生めよ、増えよ、地を満たせ……主のみこころ、良しと見られることを守り行う、そのわざを広めることで、この地を主の栄光に満たすことです。私たちクリスチャンは、そして私たち教会は、そのために存在します。 私たちは、主の主権を思いましょう。そして、この主権者なる主が、私たちのことを「良しと見られた」、愛しておられる、喜んでおられることをしっかり心に留め、主に用いられる歩みに踏み出してまいりましょう。

イエスさまのなさったこと―祈り、励まし、ケア

聖書箇所;マタイの福音書14:22~36 メッセージ題目;イエスさまのなさったこと―祈り、励まし、ケア 一時期、特にアメリカのクリスチャンの間にはやったグッズに、「WWJD」と書かれた リストバンドがありました。ホワット・ウッド・ジーザス・ドゥ、自分がイエスさまだったらどうするだろうか、という意味です。クリスチャンの歩みがイエスさまにならうものであるならば、私たちは何よりも、イエスさまならばどのように振る舞われるだろうか、そのことを常に考える必要があります。そのために、私たちは何よりも、聖書をお読みする必要があります。 今日の箇所をお読みしますと、イエスさまが、父なる神さまに対して、弟子たちに対して、そして群衆に対して、どのように振る舞われたかが書かれています。私たちはこの箇所から、自分に問いかけられているWWJD、イエスさまならどうするだろうか、その答えをそれぞれの生活に適用していただき、この一週間の歩みに一歩踏み出していただきたいと思います。 第一のWWJDです。イエスさまは父なる神さまに対して、お祈りをされました。 先週も学びましたとおり、イエスさまはこのとき、バプテスマのヨハネの殉教の知らせを聞いて、すぐにでも御父にお祈りされる必要がありました。しかし、群衆をケアしていては、それもかないませんでした。 そのときイエスさまは、群衆のあらゆる必要に応えてくださいました。病気の者をいやしてくださいました。たましいの飢え渇く者にみことばを教えてくださいました。そして、空腹に悩む何万もの群衆を満腹させるという奇蹟を行われました。私たちはそのときお弁当を差し出した少年や、大勢の群衆に食べ物を配った弟子たちのように、奇蹟のために献身すれば用いられるということを、先週のこの時間に学びました。 そしてようやく、この食事を分ける時間は終わりました。イエスさまは弟子たちを舟に乗りこませて先に行かせ、群衆を解散させられました。いよいよ祈りの時間です。イエスさまはお祈りを必要とされていました。イエスさまはおっしゃいました。「わたしと父とは一つです。」それは、父なる神さまとイエスさまがひとつのご存在として、交わりを保っておられたということです。ゆえにイエスさまはどんなに忙しくても、御父の前に出てお祈りする時間を持っておられました。 また、イエスさまのお祈りは真剣なものです。十字架を前にしたゲツセマネの園でのお祈りは、汗が血のしずくのように流れた、と描写されています。どれほど真剣なお祈りだったことでしょうか。このときも、バプテスマのヨハネがむごたらしい殉教の死を遂げたことに、真剣な祈りをささげずにはいられなかったはずです。 しかも時間の経過を見てみましょう。イエスさまは夕方まで山におられたとあります。相当に長い時間、山にお一人でこもられたということです。イエスさまのお祈りは、簡単には終わりませんでした。まさしくイエスさまは、お祈りによって生きられたお方です。父なる神さまとのたえざる交わりの中で、父なる神さまが行われるとおりのみわざを、そのとおりにこの地上において行なっておられたのでした。 もし、私たちが神さまに用いられたいと願うならば、イエスさまのこのようなお祈りの姿は、私たちにとって見習うべきお姿です。私たちが動物と異なる点は、神さまと交わりを持つことのできる「霊」を持っている、ということです。私たちはこの世の人たちと異なり、私たちも神さまによらなければ、ほんとうの意味で生きていくことができないということに気づかせていただいた存在です。私たちの生きる目的はどこまでも、私たちをイエスさまの十字架によって贖ってくださった神さまのご栄光を現すことです。そのためにも、私たちにとっては、お祈りはどうしても必要なものです。お祈りしない、神さまのみこころを聴こうともしない者を、神さまが喜んでお用いになることがあるでしょうか? そこで、私たちがイエスさまにならうお祈りをささげるために、具体的に何ができるかを考えてみたいと思います。私たちは日常生活を営む中で、どこかで必ず、一人で過ごす時間を持っているでしょう。その時間をお祈りに充てるのです。声を出せるならば出した方がいいですが、大きな声を出す必要はありません。ひとりでいる場所で、父なる神さまに語りかけるのです。これは、実践してみることではじめて、その益を体験することができます。 一人でも多くの方に、イエスさまにならう真剣なお祈りを実践していただければと願います。 第二のWWJDです。イエスさまは何をなさったか? イエスさまは弟子たちに対して、成長を促すケアをされました。 弟子たちは舟をこぎ出していました。しかし、何時間漕いでも、向かい風と波のためになかなか前に進むことができませんでした。 この船にはイエスさまが乗っていませんでした。彼らは自分の力で、この大風の中で舟を漕いでいかなければなりませんでした。それは、いかにガリラヤ湖の漁師出身のペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネがこの弟子たちをリードしていたといっても、簡単なことではありませんでした。 イエスさまがいないならば、私たちは自分の力で物事を切り拓いていかなければなりません。このとき弟子たちは、まさにそのような困難を体験していました。しかし、イエスさまがともにおられることを体験するまでは、その道が開かれることはありません。 私たちももちろん、人生を生きるにあたってはそれ相応の努力が必要です。しかし私たちは、みことばとお祈りによってイエスさまの導きをいただくことなしに、何か物事に取り組もうとしてはいないでしょうか? そうなると私たちは、この弟子たちのように、あらゆる逆風や波によって苦しむとき、何の手立てもないということになります。 しかしイエスさまは、夜通し漕ぎつづけた弟子たちのところに、なんとも驚くべきことに、湖の上を歩いていらっしゃいました。弟子たちは肝をつぶしました。幽霊だ! しかしそれはイエスさまでした。しっかりしなさい! わたしだ! 主は私たち神の子どもを、決して離れず、またお見捨てになりません。私たちは困難に立ち向かわなければならないとき、イエスさまが駆けつけて、助けてくださる恵みをいただきます。聖書は、イエスさまのことを、不思議な助言者、と表現しています。大風の湖を渡ってやって来られるイエスさまは不思議です。そのように、不思議なようにして、イエスさまは私たちのところにやってきてくださいます。私たちの味わっている、あらゆる大風と波を越えて来てくださいます。 さて、ここでペテロが、この湖の上のイエスさまに話しかけました。「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください。」この真っ暗で大風が吹き荒れた湖の上で、ペテロはどれほどイエスさまに会いたかったことでしょうか。おお! あなたはほんとうにイエスさまなのですね! 私は早くあなたにお会いしたいから、湖の上を歩いて行かせてください! 果たしてイエスさまは「来なさい」とおっしゃいました。そのことばどおりにペテロが湖へと足を踏み出すと、なんと、ペテロは湖の上を歩きはじめました。驚くべき奇蹟を、ペテロは体験したのでした! ペテロのように、イエスさまを一身に見つめて一歩を踏み出そうとする者には、それ相応の報いをお与えになりました。あなたにも湖の上を歩かせてあげよう。このことによってあなたは、わたしが主であることを知るようになる。イエスさまが主であることを知るならば、私たちは全能なるイエスさまを信じて、イエスさまへと一歩を踏み出せるようになれるはずです。ここに、私たちの信仰が働きます。どのような嵐の中にあっても、イエスさまへと向かっていくならば、私たちは守られます。 しかし、風は相変わらず吹いていました。聖書を見てみますと、ペテロが「強風を見て怖くなり、沈みかけた」とあります。強風というものは体に感じるものであり、それを「見る」とはふつう言いません。しかし、いろいろな訳の聖書を見てみても、これは「強風を見た」というふうに訳されています。 強風を見た、ということは、何を見なかったのでしょうか? イエスさまを見なかったのです。イエスさまよりも、全身をなぎ倒すようにまとわりついてくる風のほうが気になり、恐ろしくなったのでした。その結果、ペテロは湖の上を歩くことができなくなり、おぼれだしました。 イエスさまさえ見えていれば安全なのに、それ以外のリスクに目を留める、そういう弱さを人は持っています。しかしその弱さのゆえに、私たちは溺れてしまうのです。人が絶対立てない湖、迫りくる大風、波……こういう現実的なリスクは、私たちの生活にもたえずついて回るでしょう。そのようなとき、私たちはそれでもイエスさまを見つめられるか、それとも現実的な計算をしてしまうかで、大きく変わってしまいます。 しかし、イエスさまはペテロをつかんで、引き上げられました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」しかし、私たちはペテロを不信仰となじることなどできるでしょうか? このペテロの姿は、私たちの姿です。私たちはイエスさまを見つめているつもりでも、どこかで現実的な計算をしてしまうものです。 しかし私たちは、そんなペテロを引き上げられたイエスさまのお姿にこそ目を留めたいものです。信仰のチャレンジをして、それでも信仰が貫けなかったとしても、イエスさまはそんな私たちの姿勢に責任を取らせるようなことはなさらないお方です。どこまでもご自身の責任において、私たちの手を取って危険から救い出してくださるお方です。 おっちょこちょいのペテロでしたが、それでもわずかでもイエスさまを見つめて、湖の上を歩いて行けました。そのような、少しずつの信仰のチャレンジの積み重ねで、私たちの信仰は深まってまいります。そのチャレンジは私たちが用意するものではありません。主が備えてくださるものです。一歩を踏み出してまいりましょう。 そしてイエスさまが舟にお乗りになると、大風はやみました。弟子たちはイエスさまが神の子であると告白し、礼拝しました。イエスさまがともにおられるならば、私たちはもう、大風のような人生の困難を考えなくていいのです。私たちのすることは、あれこれ考えることではなく、ただひたすら、イエスさまを礼拝することです。 私たちが主の弟子であるならば、イエスさまはそれにふさわしいケアをしてくださり、私たちの信仰が成長するようにしてくださいます。難しいことができなくていいのです。私たちはただ、目の前にはイエスさまだけが見える、イエスさまに向かって進んでいく、私たちの人生の歩みはそうありたいものです。 そして、私たちもお互い、イエスさまだけが見えるように励まし合っていく、そのような歩みをともにできますように、お祈りいたします。 第三のWWJDです。イエスさまは何をなさったか? イエスさまは群衆に対して、ただ愛する働きをされました。 イエスさまのご一行は向こう岸に着かれました。するとそこに、大勢の群衆がやってきて、癒していただいたいと迫りました。イエスさまにはどれほど多くの人が押し寄せたことでしょうか? 着物のふさにでもさわりたいと願う人がいた、ということは、イエスさまは押し寄せる群衆でもうもみくちゃだった、ということです。 イエスさまは、ご自身のもとに来る人たちを拒むことをせず、ただひたすらに愛されました。彼らがいやされたいと願うならば、その願いどおりになさいました。イエスさまはまことに、愛にあふれたお方でした。 私たちにそのような愛はあるか、ということが問われます。ホワット・ウッド・ジーザス・ドゥ、という問いを自分に投げかけるとき、神さまの愛によって自分がほかの人に対して行動しているか、ということが問われないでしょうか? 使徒パウロは弟子のテモテに、終わりの日には困難な日がやってくる、と語りました。その終わりの日の特徴として第一にパウロが挙げたことは、人々は自分だけを愛するようになる、ということでした。要するに、自分のことしか考えない、自分さえよければどうでもいい、そんな考えをする人間ばかりになる、ということです。自分しか愛さない人間ばかりなんて、世も末だ、ということです。 そこで私たちの愛のあり方が問われます。私たちはどれほど、人のために献身すること、犠牲を払うことをお互いの間で強調しているでしょうか? 私たちの愛は、ただ愛されることを願うばかりの初歩的な段階を早く卒業しなければなりません。私たちが神さまに愛されていることをほんとうに知るためには、私たちこそがだれかをとにかく愛することを実践することです。 もちろん、その愛の行いは、だれかに見せていい人に見られたい、などという動機で行なってはなりません。私たちの愛の行いは、日々の主との交わりの中から生まれるものです。 私たちが毎日みことばを読み、お祈りするのは、宗教的に霊的ステージを上げるためでは決してありません。みことばに書かれているとおりを具体的に生活の現場で行うことで、神さまと隣人に対して愛を行うためです。 その愛も、見返りを期待してはなりません。いったいイエスさまは、人々に施しただけの愛の見返りをお受けになったでしょうか? 私たちは、ただ内側からあふれる神の愛によって、人々に愛を具体的に実践していくのみです。 私たちは互いの成長に役立てるように、交わりを保っていますでしょうか? 私たちは愛を実践していますでしょうか? その源となるのは、神さまの御前に一対一で出ていく祈りの時間です。日々この深い祈りを通して、互いの成長のために役立つ行いのできる私たちへと成長させられますように、人々に無償の愛を実践できる私たちへと成長させられますように、主の御名によってお祈りいたします。

奇蹟への献身

聖書箇所;マタイの福音書14章13~21節 メッセージ題目;奇蹟への献身 私たちの礼拝するお方、イエスさまは全能なるお方です。イエスさまが全能であるということを、私たちは聖書のみことばから知り、信じることができます。 イエスさまは実にいろいろな奇蹟をなさいましたが、その奇蹟の中でも、本日お読みした、五つのパンと二匹の魚の奇蹟は、特筆すべきものです。といいますのも、この奇蹟は、四つの福音書、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、すべての福音書に記録されているみわざだからです。イエスさまの復活を別にして、四つの福音書すべてに記録されている奇蹟は、この五つのパンと二匹の魚の奇蹟、これだけです。 しかし、私たちはこの奇蹟について学ぶにあたって、まず覚えておくべきことがあります。それは、イエスさまにとっては、とても大事な人、バプテスマのヨハネを、たいへん不幸な形で失ったという、その背景の中でこの奇蹟が行われたということです。 「刎頚之友」ということばがあります。この親友のためならば首を斬られてもかまわない、という、中国の故事成語です。ヨハネは、イエスさまにとって、刎頚之友となりました。バプテスマのヨハネは、聖書の教えに殉じた人でした。この殉教は、言うなればイエスさまのことばの正しさを証明したということであり、バプテスマのヨハネはほんとうの意味で、イエスさまにとっての「刎頚之友」となってその生涯を果てたのでした。 そしてその殉教が、ヨハネの弟子たちによってイエスさまに知らされました。そのときのイエスさまのお気持ちを考えてみましょう。イエスさまは、ご自身にやがて来たる十字架の死を思われなかったでしょうか。そして、それと同時に、どれほどヨハネの死を悲しまれたことでしょうか。イエスさまには祈りの時間が必要でした。ただちに寂しいところに退かれ、祈りの時間を過ごすことにされました。 しかし、群衆はそんなイエスさまを目ざとく見つけました。イエスさまのそんなお気持ちを知ってか知らずか、イエスさまを放っておきませんでした。ぞろぞろとついてきました。 ここでイエスさまは、ひとつの決断をされました。御父なる神さまのもとに行って一対一の祈りの時間を持つ前に、まず目の前の群衆にみことばを語り、病気の者をいやさなければ……。 イエスさまは、ひとり寂しいところに向かおうと漕ぎ出していた舟を岸辺につけ、群衆をお迎えになりました。 しかし、ここで群衆の気持ちも考えてみましょう。群衆はイエスさまの前に出ることに、どれだけ差し迫っていたことでしょうか? とにかくイエスさまの話を聞きたかった! イエスさまに触れていただいて、いやしていただきたかった! その思いにあふれていました。しかし、彼らはそれで満足するあまり、肝腎のご飯を食べることを忘れていました。 弟子たちの中には、村に行ってめいめいに食べ物を食べさせればよい、群衆を解散させましょうと言う者もいました。しかし、ここに集っているのは男性だけで5000人はいます。近くにあるのが都会でも、そんな大量のパンなどおいそれと調達できるものではありません。いわんや近くにあるのは単なる村里です。何もできません。 しかし、イエスさまはさすがです。ご自身についてくる人たちを、決して飢えさせたままにはされないお方です。イエスさまは彼らに、必要なだけのご飯を分けてあげるという奇蹟を行われました。そうです! イエスさまの手にかかれば、私たちは養われるのです。私たちは安心して、イエスさまについて行っていいのです。イエスさまが必ず、私たちのことをあらゆる面で養ってくださるからです。 私たちは、イエスさまが全能なるお方であることを知っています。また、イエスさまは全能なるお方であると告白します。しかし私たちは心のどこかで、イエスさまよりも、この世の常識のほうを拠り所として、計算しながら信仰生活を送ってはいないでしょうか? 私たちがもし、全能なる神さまのみわざを見たいと願うならば、疑わずに全能なる神さまを全面的に信じ、その信仰を働かせてお祈りする必要があります。 さて、このイエスさまの奇蹟を前にして、三種類の人が登場します。第一は、五つのパンと二匹の魚を差し出した少年、第二は弟子たち、そして第三は、食べて満腹した群衆です。 まず、少年から見てみましょう。マタイの福音書では、食べ物を差し出したのがだれかを明記していませんが、ほかの福音書では「少年」と書いています。 少年は幼い分、充分にこの世の経験を積んでいないかもしれません。しかしはっきりしているのは、それだけ世間ずれしていなくて、イエスさまに対する純粋な信仰を持っている、ということです。 大人になると、いろいろな世間のしがらみによって、とかく発想が窮屈になります。いちばんいけないのは、イエスさまに対する信仰が「理詰め」になることです。しかし、この少年はちがいました。少年にとって、お弁当はもちろん大事です。しかし、このお弁当をもしイエスさまに差し出したならば、みんなのことをいやしてくださっているイエスさまのことだもの、きっと何かしてくださる……そう信じきっていたのでした。 しかし少年は、ただ純真だっただけでしょうか? そうではなかったはずです。少年は、イエスさまと一緒に過ごす時間が、おそらくかなり長くなるのではないか、そうかんがえていたはずです。だからこそ、腹ごしらえができるようにお弁当を持ってくることを忘れなかったのでした。 この少年はイエスさまについていくにあたって、お弁当を忘れなかったように、やるべきことは抜かりなく行なっていました。その備えをしていたという点で、ほかの群衆とはちがっていました。その結果、主に用いられる栄光に浴したのでした。 私たちは常識にとらわれて信仰を働かせないのも困りますが、むやみやたらに無鉄砲なことをしてもいけません。「人事を尽くして天命を待つ」ではありませんが、神さまが人に与えてくださった能力を最大限に生かし、それでも自分の努力ではどうしようもない領域に全能なる神さまが働いてくださるように御手にゆだねる……これでまいりたいものです。 次は弟子を見てみましょう。群衆はどれほどの数だったでしょうか。成人男子だけで5000人いたとありますから、女性ですとか、それこそこのお弁当を差し出した少年を含む、子どもまで入れたらとんでもない数になります。この群衆に、たった12人の弟子で食べ物を配りなさいとイエスさまはおっしゃいました。一人で1000人は担当しなければならない計算です。 しかし、弟子たちはやり遂げました。弟子たちは、イエスさまがパンと魚を信じられないほどに増やされる奇蹟を目撃しただけではありません。このたいへんな働きに、「用いていただく」光栄にあずかったのです。 イエスさまのみわざは、単独で行われるものではありません。いかにイエスさまがパンと魚を増やされたとしても、それを配る人が必要です。イエスさまのみわざは、イエスさまに聴き従う弟子たちによってなされます。主の働きというものは、教会奉仕にしても、伝道にしても、取り組んでいるときに、時に疲れを覚えることもあるかもしれません。しかしそんなとき……この重労働とさえ言える奉仕に取り組んでいた十二弟子を考えてみましょう。彼らの顔を想像してみましょう。彼らは、イエスさまのみわざを今まさに目撃している喜び、イエスさまに今まさに用いていただいている喜びに輝いていたにちがいありません。 イエスさまとともに、イエスさまによって、これが、私たちの信仰生活にとって何よりも大事なことです。この、イエスさまの御前に生きる意識がなければ、私たちの信仰生活はことごとく、人に見せるために行うものにすぎなくなってしまいます。礼拝堂のお掃除をしないとほかの兄弟姉妹の目が気になる、食事の準備や片づけをしないとほかの兄弟姉妹の目が気になる……もちろん、奉仕は大事ですが、イエスさまの御前でする意識を持つのと、ほかの兄弟姉妹の目を気にするのとでは、同じことをしているようで、まったくちがうことをしていることになります。信仰生活とは、人の目を気にして行うものではありません。 イエスさまが私のことを喜んで用いてくださるから、私も喜んで取り組む、主人であるイエスさまの喜びを、この信仰生活によってともに分かち合う、それでこそ私たちは、この十二弟子にならう本物の信仰生活を送っていると言えるのではないでしょうか? みことばは語ります。「受けるより与える方が幸いである。」私たちはとかく、恵みを受けることばかり求めるものです。しかし、主に用いていただくときに味わう喜びは、主から何かを受けるときに味わう喜びとはまた違う、すばらしいものです。用いていただく体験をした人しかその素晴らしさは分かりません。この喜びに、私たちがひとりももれなくあずかれますようにお祈りします。 最後に、群衆を見てみましょう。彼らは、イエスさまが好きでたまりませんでした。イエスさまがお祈りをしようというのに追いかけていき、みことばを聴き、病気を治してもらい、そればかりか、奇蹟のようにご飯を食べさせてもらった……群衆はまさしく、イエスさまを追いかけただけの祝福をいただきました。 しかし、ヨハネの福音書を読んでみますと、この話には続きがあります。イエスさまはこの群衆に対して、あなたがたは食べて満腹したからわたしについてきただけだ、とおっしゃいました。そのおことばにつづけて、ほんとうの食べ物とは、イエスさまご自身のからだ、そして血であるとおっしゃいました。これを口にする者にまことのいのちがあるということです。 もちろん、これは私たち人間を救う、イエスさまの十字架を指して語られたおことばでしたが、このおことばに、群衆はふるいにかけられました。このことばは彼らに難解すぎたのです。あるいは、群衆はこのおことばに、血なまぐささ、野蛮さを感じたのかもしれません。もちろん、その意味を深く尋ねて、さらにイエスさまにしがみつけばよかったのですが、単なる肉的な祝福で満足しようとした群衆は、イエスさまのおことばに、今風の表現でいえば、「引いた」のでした。 残ったのは十二弟子でした。あの何万人もいた群衆はどこに行ってしまったのでしょうか。残ったのはほんとうにわずかな人、しかし、それがイエスさまの方法でした。イエスさまが何を語られようと、イエスさまのおことばにとどまり、分からなければ何度でもイエスさまに教えていただく、それが、群衆と弟子を分けるものです。主に用いられるのは、弟子です。主に用いていただくことに恵みを覚え、感謝できるのは、弟子です。私たちは自分のことを、群衆でいいと思っていますでしょうか、それとも、弟子でありたいと願いますでしょうか? 私たちは、イエスさまのみわざを茫然と眺め、ただ単にイエスさまが神さまであると告白するところにとどまったままでいてはいけません。イエスさまは、ご自身に献身する人を求めていらっしゃいます。お弁当を差し出した少年も、食べ物を配った弟子たちも、共通しているのは、「イエスさまに用いていただいた」ということです。イエスさまに用いていただくということ、これは、イエスさまの奇蹟を体験し、満たされること以上に恵まれること、喜びにあふれることです。 私たちもイエスさまの御手によって用いられる、その恵みをともに体験していきますように、主の御名によってお祈りいたします。

現代のティキコ、それは私たち

聖書箇所;エペソ人への手紙6章21~24節 メッセージ題目;現代のティキコ、それは私たち  暑い夏にぴったりのみことばを、ひとつご紹介します。箴言25章13節のみことばです。……言うべきことを忠実に伝言してくれる人がもしいるならば、それはその人にとってとてもすばらしいことです。    私たちにもそんな人がいるといいですね。パウロにはいました。それが、今日学びます、ティキコという人です。このティキコという人は、それこそ、夏の雪のようにすごい役割を果たしたわけです。夏に行きが味わえるということは、ただ爽快というだけではありません。ありえないようなことです。この、ありえないような恵みをもたらしたティキコについて、そして、このティキコの人となりから学べることを、これから見てまいりたいと思います。    第一に、ティキコはパウロと初代教会をつなぐ人となりました。  ティキコは脇役です。黒子です。しかし、私たちにみことばの教えが届くうえで、大きな役割を果たした人です。21節をご覧ください。……パウロはティキコのことを、主にある忠実な奉仕者であると、わざわざエペソ教会に向けて紹介しています。このティキコがエペソ教会にとって大事な存在であるパウロのことを伝えるということは、それは同時に、このエペソ人への手紙という書簡を言づけされていたことを推測させます。同じようにパウロが書簡の巻末でティキコのことに言及しているものには、コロサイ人への手紙、テトスへの手紙、テモテへの手紙の第二があります。   獄中のパウロが万感の思いをこめて書いた手紙を、パウロの指導してきた教会や弟子に届ける、それは、よほど信頼されていなければできないことです。パウロは獄中という限られた空間の中においても、ティキコがその任を全うできると見抜き、彼にすべてを任せたのでした。その結果、私たちはいまこうして、聖書を手にすることができているわけです。   パウロにしても、獄中ではなくて自由の身であったならば、それだけ人々にみことばを伝えて回り、より効果的に教会や指導者を訓練できたかもしれません。しかし、パウロは福音の正しさを立証する道を歩み続けた結果、こうして獄につながれることになったわけです。こうしてつながれることは、パウロにとっては避けられない道でした。   しかし、パウロは獄につながれようとも、愛をもって育てた教会や指導者を養育する道が残されているかぎり、最善を尽くしました。そのパウロのことばが届くために働いた無名の人、それがティキコでした。   ティキコのしたことは一見すると、パウロのしたことに比べるととても地味なもののように思えるかもしれません。しかし、彼のしたことは、パウロの手紙を忠実に、教会や指導者に送り届けたということです。   パウロの書簡の巻末の部分を見てみると、だれだこれは? というような名前が結構登場します。たとえばローマ書を見てみると、すごいです。プリスカとアキラは使途の働きとか、ほかの箇所に出てきたからまだ知っているとして、エパイネト、マリア、アンドロニコ、ユニア、アンプリアト、ウルバノ、スタキス、アペレ、アリストブロ、ヘロディオン、ナルキソ、トリファイナ、トリフォサ……。   まだまだ続く、ここ以外には出てこない名前が、これでもか、これでもか、と書かれています。しかし、こういう信徒たちがローマ教会を支え、それがこのローマ人への手紙を書く原動力になったと考えるならば、彼ら無名の信徒たちの存在は、実は私たちと関係があることになります。私たちがみことばによって生かされるというとき、その背後にはこのような無名の信徒たちがいたことを、私たちは忘れてしまうそうになりますが、彼らの存在は使徒パウロにとって、かけがえのないものでした。   私たちは、無名であっていいのです。要は、主に用いられるかどうかです。新約聖書、コリント人への手紙4章、1節と2節をお読みください。……パウロは、初代教会の指導者のチームを指して、「神の奥義の管理者」と言っています。その管理者になる資格は「忠実であることと」というわけです。そういう点では、諸教会や指導者に手紙を届けたティキコも立派な初代教会指導者チームの一員であり、パウロが「忠実」と太鼓判を押すだけのことはあるわけです。   有名じゃない、黒子のようだった、しかし忠実だった、そういう人によって、こんにち私たちが手にしているように、神のみことばである聖書を読めていることを、私たちは深く心に留め、そのような人を備えてくださった神さまに感謝をおささげしたいものです。    第二のポイントにまいります。ティキコは現代の働き人のモデルです。 ティキコは、パウロの様子を伝えただけではありません。23節、24節をご覧ください。……この祈りをもって締めくくられるエペソ人への手紙を、過不足なくエペソ教会に届けたことにありました。   ほんとうの働き人は、ほかでもない、みことばをこそ届ける人です。私たちの信仰生活は、たとえ有名ではなかったとしても、忠実にみことばをもって神と人とに仕える、多くの人の支えによって成り立ってきました。中には、名前さえ挙げられない人もいるかもしれません。しかし、そういう日本中、世界中の、あらゆる歴史に存在した有名無名の聖徒たちによって、私たちは支えられてきました。    私たちにもだれか手本になる人がいると思います。それは有名人である必要はありません。要は、私たちにとってのティキコがだれなのかを思い、その人との交わりの中で神さまに育てられることが必要です。   私たちにもだれかそのように、信仰を保つように祈ってくれた人、働きかけてくれた人がいるのではないでしょうか。ちょっと思い巡らしてみましょう。それはだれでしょうか? 有名な牧師のような実力者でなくてもいいのです。無名であっても信仰を支えてくれた、そのような方の存在はどんなにありがたいでしょうか。そういう方々に支えられてキリスト教会は成り立ち、私たちは成長するのです。このような方々を備えてくださった神さまに感謝いたしましょう。    第三のポイントです。ティキコは私たちのモデルです。 このエペソ人への手紙は、「恵みがありますように」ということばで締めくくられています。そうです、だいじなのは恵みです。私たちが救われ、神の子どもとなっていることは、ひとえに神さまの恵みによるものです。私たちが何かいい人であったり、努力をしたりしたからではありません。   エペソ人への手紙の中から、一箇所、だいじなみことばを抜き出すとしたら、どこになるでしょうか。それはおそらく、2章の8節と9節です。お読みしましょう。……これこそがクリスチャンです。恵みのゆえに、信仰によって。神からの賜物。賜物とは、プレゼントです。   私は一時期、トランプをたくさん持っていました。教会の子どもお楽しみ会などでかなり分けましたが、それでも手もとにはまだいくつか残っています。なんでこんなにたくさんトランプがあるのでしょうか? それは、トランプのコレクションが趣味の友人からもらったからです。   このあいだ、山中先生がこちらにいらっしゃったとき、私は山中先生と一緒にその友達に会い、伝道しました。そのとき、恵みということを説明するとき、私はこんなことを言いました。もし君がくれたトランプの値段をいちいち僕が計算して、じゃあ、これだけ払うよ、と、財布からお金を取り出したらどう思うかい。彼は、そんなのはいやだ、と、はっきり言いました。プレゼントにお金で応えてはならないのです。同じことは、救いというものにも言えることで、何かの努力の報酬として救われるのではありません。人は罪人ですから、罪がある以上、何をどうしても聖い神さまのもとには行けません。   神さまは人を愛しているから、さばきたくない。しかし、人には罪がある以上、きよい神さまは罪をさばかなければならない。その神の愛と神の正義を同時に実現したものが、イエスさまの十字架でありました。   このイエスさまの十字架を信じる信仰により、私たちは救いを受け、天国に入れていただけるのです。このプレゼントは、ただ受け取るだけでいいのです。何の努力もいりません。   このような恵みを受け取った者として、その恵みがあるように人のために祈る、また、その恵みのみことばを人に伝える、その働きを担うことは、難しいことではありません。私たちはだれかを愛しているならば、その人に主を信じる恵みがあるように祈るのではないでしょうか? その人が恵みのみことばを受け取れるように、努力できるようになるのではないでしょうか?   私も、講壇から語るメッセージが、難しくなりすぎないようにしなければ、と思います。予告しますが、9月からは創世記を1章から学びます。メッセージの仕方ももっとわかりやすくする取り組みもしていくつもりです。私は有名な牧師などではありませんが、ティキコのように、無名だけれども忠実、これを目指していきたいのです。   みなさんにも励んでいただきたいのです。この水戸第一聖書バプテスト教会という、キリストのからだなる教会を建て上げるために、神さまと人の前に、まず忠実であることを目指していただきたいのです。そのように忠実であるならば、第一コリント4章のみことばのように、神さまは私たちに、みことばの奥義を管理する働き、すなわち、みことばを学び、その学んだことを人々にふさわしく宣べ伝える働きを委ねてくださいます。忠実であることを目指してまいりましょう。   私たちがティキコのようであるために、ティキコのようになるために、しばらく祈りましょう。神さまがティキコの存在を通してこの恵みのみことばをこの地に残してくださったこと、私たちにもティキコのような信仰の先輩、信仰の友を備えてくださり、私たちの信仰を成長させてくださったこと、私たちもまたティキコのようになれるように、忠実さを増し加えてくださいますように、しばらく祈りましょう。

代表戦士に必要なもの、とりなしの祈り

聖書箇所;エペソ人への手紙6:10~20 メッセージ題目;代表戦士に必要なもの、とりなしの祈り だれかが自分のために祈ってくれている。その嬉しさは、私たちならばだれでも感じることではないでしょうか。本日は、昨年のメッセージの復習になりますが、あらためまして、「神の武具」について学び、その前提で、「とりなしの祈り」というものについて学んでまいりたいと思います。 まずは本日のみことばの、10節のみことばをお読みしましょう。……私たちが主によって「強められる」こと、これは「強められなさい」とあるとおり、命令です。しかし、この命令は、自分の力で「強めなさい」と言っていないことがわかります。「強められなさい」なのです。 私たちはなぜ強められる必要があるのでしょうか? そのことが11節、12節で説明されています。お読みします。……ここから分かることは、私たちの戦いが、血肉、つまり、人間を相手にする戦いではない、ということです。そして、悪魔の策略とは何でしょうか? それは教会を無力にすることです。 なにしろ教会というものは、キリストのからだであるわけです。悪魔はイエスさまを十字架につけ、神の国とそれに属するすべての民もろとも滅ぼそうとしました。しかし、イエスさまは復活されました! 悪魔と悪霊どもはもはや、頭が踏み砕かれた蛇も同然になりました。 しかし、敵もさるものです。どっこい、頭が踏み砕かれても、まだ完全に死んだわけではありません。教会に影響を及ぼすだけの力は残っています。よくも、俺様の頭を踏み砕いてくれたな……復讐心に燃えた悪魔は、それ以来2000年にわたって、キリストのからだなる教会を弱体化させるためには、どんな方法でも用いてきました。 教会を悪魔の攻撃から守るためには、霊的リーダーのためにも、あらゆる信徒のためにも、そして自分のためにも祈る必要があります。それが霊的戦いです。とりなしの祈りとは即、悪魔と悪霊を相手にした霊的戦いです。 キリストのからだなる教会は、私たち一人ひとりが形づくっています。ということは、悪魔と悪霊の攻撃は、ほかならぬ、私たち一人ひとりに及ぶことになります。だからこそ私たちは、お互いのことについて具体的に関心を持ち、お互いのために祈る必要があるわけです。また、自分のお祈りの課題を、教会というこの共同体の中で分かち合い、祈ってもらう謙遜さも必要になります。 では、私たちはどのようにして悪魔や悪霊と戦うのでしょうか? 悪魔が何者かを知るのと同時に、私たちがどういう者にされているかを知って、戦いに出て行くのです。 13節をお読みください。……「邪悪な日」、と書いてあります。「邪悪な日」とは、私たちのいま生きているこの時代といえないでしょうか? 神さまはしかし、そんな時代に生きる私たちに、はっきりと使命を与えておられます。そのために私たちは、「神の武具」を身につけます。武具も身につけないで戦うならば、それは死ぬことを意味します。 武具は6つ出てまいります。ともに学び、しっかり武装しましょう。 ①まず14節です。「腰には真理の帯を締め」……帯、要するに「ベルト」です。ベルトをびしっと締めるならば、それだけ装備全体がきっちり身につきます。真理とはつまり、神さまのみことばは真理である、ということですが、このみことばの真理を身につけるならば、それが神の武具という装備全体を引き締める役割をする、ということです。 私たちを引き締めるものは、みことばの真理です。そうでないならば、あっという間に不安に落ち込みます。そこを悪魔は容赦なく狙うのです。私たちが聖書を学ぶ理由は何でしょうか? それは私たちが、まことの真理なるイエスさまを心にお迎えしている者にふさわしく、その真理を身に着け、真理の道を生きるためです。真理がしっかり身についているならば、どんな脅かしがあっても私たちは簡単には揺れ動きません。不安に陥ることもありません。 だからまず何よりも生きる基礎として、私たちは真理を身につけるのです。そのためにみことばをつねに読むのです。 ②次に、「胸には正義の胸当てを着け」……胸当ては、心臓や肺のように、いのちを司る臓器を守ります。ですから、正義がいのちを守るのです。 私たちにとっての正義は、神さまご自身であり、正義の基準は、神さまのみことばです。よく、私たちは「神は愛」と申します。しかしそれは単なる甘やかしとは、根本的に異なるものです。この神さまの愛には、いっさい譲ることのできない神さまの正義、悪を悪として徹底的にさばかれる神さまの正義の裏付けが、厳然として存在します。 その、正義の裏付けに満ちた愛の究極の形、それはイエスさまの十字架です。神さまにそむく罪を犯すことを選んだ人間は、死をもってさばかれることを選んだも同然でした。そうならないと、神さまはもはや、正義ではありえません。しかし神さまは、その罪の罰を、ひとり子イエスさまに負わせられました。イエスさまのあの十字架……ほんとうは私たちこそ、あのようにむごたらしく死んで、神さまに見捨てられて地獄に墜ちるべきだったのです。しかし、その罰をあえて御子イエスさまに負わせられることで神さまは正義を果たされ、私たちを滅びから免れさせて、愛を果たされました。 この愛に裏打ちされた正義こそ、私たちのいのちを守るものです。私たちも心の中にイエスさまをお迎えしている限り、そのように、いのちを捨てていのちを生かす、正義の人になれます。私たちにその力がなくても、神さまが恵みによって、私たちをそのような正義の人に変えてくださいます。これは、素晴らしい祝福の生き方です。 ③次に15節にまいります。「足には平和の福音の備えを履きなさい。」 戦場の土地は、さまざまな姿を見せます。それは岩地であるかもしれませんし、砂地であるかもしれません。草が生い茂っているかもしれません。 低い木々が生えているかもしれません。ぬかるみかもしれません。そのように、どんな場所であるか予測もつかない場所を縦横無尽に駆けるには、きちんと足にフィットし、なお丈夫な靴を履く必要があります。そうすれば、どんな攻撃にも対応でき、どんな攻撃も積極的に仕掛けることができます。戦場の環境によって無意味に傷つくこともありません。 その履物とは、「平和の福音の備え」であるとみことばは語ります。世の中には「福音」ということばがあふれていますが、私たちにとっての福音とはそもそも、イエスさまの十字架によって私たちは神さまと和解させられた、十字架を信じさえすれば私たちは救われて神の子どもとなり、永遠のいのちをいただく。 それには何の努力もいらない! これぞ福音です。平和の君イエスさまによって、神さまと平和を得ることができる……しかし、この福音、よき知らせを告げることには、「準備」がそれなりに必要になります。 私たちはいつでも、人にきちんと福音が語れるように、自分自身を訓練する必要があります。準備をするのです。福音の語り方を練習するだけではありません。私たちはだれに福音を語るのか、そのためにはその人とどんなコミュニケーションをあらかじめ取る必要があるのか、しっかり考える必要があります。ここにも「準備」が必要です。 履物をしっかりはいて戦場に行き、動き回って、福音を必要とする人々のたましいを悪魔の手から奪還する……これぞ霊的戦いであり、非常に奥深く、わくわくするものです。 しかし、私たちはその戦いに実際に出て行くには、それなりのクールな準備をする必要があるわけです。いざ伝道するにあたって、自分の態度やコミュニケーションの取り方には、もしかしたら問題がないか、相手とはどのように会話したら最も心を開かせられるか……また、相手に語る内容にしても、さまざまな側面を持つ福音の中でも、どの要素から順に語ったらよいか、あらゆる準備を普段からしておくことです。そのようにして、縦横無尽に福音を伝えるにふさわしい備えをするのです。 ④では、つづいて16節にまいります。「これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。」……これらすべての上に……つまり、真理と正義、平和の備えによって武装したうえで、信仰を働かせなさい、と語っています。 真理が自分自身を律すること、正義がいのちを守るもの、福音宣教の準備が実際の霊的戦いの備えだとすれば、信仰とは、悪い者の放つ火の矢、つまり悪魔と悪霊の具体的かつ激しい攻撃を見極め、それに合わせて用いるものである、ということがわかります。 矢は鋭くとがっており、これが刺さっただけでも相当なダメージを受け、当たりどころが悪かったらいのちにかかわります。それに火がついていたら、めらめら燃えた状態で刺さるのだから、ただの矢とは比べ物にならないほど、ダメージは大きくなります。火の特徴は、燃え広がる、ダメージを果てしなく大きくする、という点にあります。 この、悪魔の「2段階攻撃」を防ぐもの……それが「信仰」という名の「盾」であります。盾はもちろん、手で持つわけですから、火の矢が飛んで来る方向を見極めて、その方向に向けて盾を差し出せば、火の矢はからだに刺さらず、落とすことができます。悪魔は四方八方から、火の矢を放ってきます。しかし、悪魔の存在と策略が意識できていれば、悪魔と悪霊どもは私たち教会に向けて、いかなる攻撃を具体的に仕掛けてくるか、見抜けるようになります。そのように、敵の攻撃がいかに及ぶかを見極め、その攻撃を防ぐことを可能にするのが、信仰です。勝利のイエスさまがともにおられるという信仰、これこそが、私たちを悪魔のどんな攻撃に対しても勝たせる力です。 ⑤ では17節、「救いのかぶとをかぶり」、かぶととは何でしょうか? 私たちの頭を保護するものです。 旨と同じように、この「頭」というところも、攻撃されれば確実にいのちにかかわります。不測の攻撃を防ぐために、かぶとはいつも頭にかぶって戦う必要があります。 また、古代の戦争は馬に乗って戦うことも多くありましたが、落馬して頭でも打ったら、それこそいのちがありません。兜はそういう点で、頭を守る「ヘルメット」の役割も果たしています。以上のことから言えることは、兜とは、「いのちを守る物」であると言えます。 また、かぶとが覆っている頭とは、人を代表するものです。人は頭にかぶとをかぶれば、すぐにはそれがだれかということは見分けがつきません。かぶととは、その人の人格の象徴である顔を隠すものです。 言い換えるならば、人のいのちを守るにはその人の人格が隠れている必要がある、それを可能にするのが、救いである、というわけです。 私たちのすることは「自分ではなくキリストを現して生きること」、これではないでしょうか? キリストの救いが、私たちの顔、つまりいのち、全人格を覆うのです。そのように、キリストを現して生きることこそ、救いの兜をかぶって霊的戦いに臨む姿勢です。このような私たちにはもはや、悪魔の付け入るすきはありません。 ⑥そして、「御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。」剣は「攻撃」のために用いる武器です。今まで見てきた5つの武具はすべて防御のためのものです。しかし、私たちは攻撃をしない限り、悪魔に勝利することはできません。そのために剣を用いるわけですが、このみことばではその「剣」とは、聖書のみことばであると語っています。 マタイの福音書4章で、イエスさまが公生涯に出て行かれる前、荒れ野で悪魔の試みをお受けになったとき、悪魔のささやきを何によって退けましたか? そう、「みことば」です。しかし、この場面にはミソがあります。悪魔を退けるたびに、イエスさまはみことばを引用しながら、「……と書いてある」と、いちいちお語りになったのです。イエスさまがこのようにみことばを引用して語られたのは、それが私たちクリスチャン、そして教会にとって、正しい悪魔への攻撃の方法であることをお示しになったからでした。 以上、霊的戦いにおける「武具」について見てまいりましたが、その「霊的戦い」において、私たちが何よりもすべきこと、それは「祈り」です。 この「祈り」の中身も、このみことばから見ますと、大きく分けて「聖徒のための祈りの勧め」と「著者パウロのための祈りの要請」に分けられます。 私たちはだれのために祈るのでしょうか? 「聖徒」のためです。みことばは私たち教会のひとりひとりのことを、「聖徒」と呼んでいます。「聖なる者」なのです。なぜならば私たちは、イエスさまの十字架を信じ受け入れたゆえ、すべての罪が赦され、神の子どもとなり、天国に入れられたからです。 しかし、私たちはこうして「聖徒」と呼ばれてはいても、依然として罪を犯すことがやめられません。いえ、罪深い考えそのものをやめることが、できないでいるのです。そのようなひどい罪人であるのは、どうしようもない事実です。しかし、そんな私たちであっても、私たちクリスチャンはお互いのことを、何を基準に見るべきでしょうか? 私たちが互いを見る基準は、人のことを「聖徒」としてくださった神さまです。だからこそ私たちにとって、互いのために祈ることに意味が出てくるのです。その人を「聖徒」としてくださった神さまのために、その人のことを神さまが用いてくださるように……そのように祈ってこそ、私たちのお祈りは、みこころにかなうものとなるわけです。 そればかりか、「すべての聖徒」のために祈れ、とあります。教会という、この共同体のひとりひとりのために祈ることが基本になります。しかし、自分たちの共同体の外にも、主の民、神の家族は存在しているわけです。 そして「どんなときにも……目を覚まして……忍耐の限りを尽くして」……率直にお聞きします。こんな風に祈れますか? 「どんなときにも」ですよ? それも「目を覚まして」ですよ? しかも「忍耐の限りを尽くして」ですよ? 発想を変えましょう。一人でお祈りを引き受けようと思うからいけないのです。大勢のチームを編成して、たくさんのお祈りの時間を積み重ねると考えてはいかがでしょうか。そうすると、祈りの時間はあっという間に積み上がります。 それなら私たちは、何をどうやって祈ればいいでしょうか? 具体的にあれこれ考える前に、聖霊なる神さまの助けによってお祈りする、そこからはじめていただきたいのです。そうすればみなさんは、何を祈るのがみこころかを教えていただけて、確信をもってお祈りできるはずです。 みなさんはもちろん、この礼拝に対しては、一定の重荷をお持ちのことだと思います。 しかし、だからといって、祈りの課題を羅列した「リスト」のようなものを手渡されても、それを見ながら毎日、本腰を入れてお祈りするのは少し厳しくはないでしょうか。もっと率直に言えば、退屈ではないでしょうか。厳しいと思ったり、あるいは退屈だと思ったりするのは、理由があります。それは、「聖霊に助けられて」祈っている確信がないからです。聖霊の助けをいただかないでその「祈りのリスト」を眺めていたって、たましいの通(かよ)ったお祈りなどできるはずもありません。 聖霊に導かれる祈り、神によって聖なる者とされたお互いのための祈り、それを「絶えず目を覚まして根気よく」祈りつづけるには、私たちが1つのキリストのからだであることをしっかり受け止めていること、これがどうしても必要です。私たちはキリストの1つのからだですか? そう思えなくても、みことばがそう言っています。水戸第一聖書バプテスト教会という、この共同体のために重荷を持って祈る私たちとなりますように、そのために、日々聖霊なる神さまの助けをいただく私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。 そして、聖徒を導く教職者のための祈りについて学びます。 言うまでもなく、この「エペソ人への手紙」は、新約聖書を代表する大使徒、パウロが書いたものです。しかし、このエペソ人への手紙を書いたとき、パウロは獄中に幽閉されていました。その足で移動して、福音を伝えて回ることなどできません。あの、女神アルテミスの神殿の門前町、エペソに立てられた教会のことは、パウロとしては気がかりでならなかったでしょう。偶像礼拝をしなければ生きていけないような文化において、壮絶な戦いを体験しているエペソの聖徒たち……彼らへの万感の思いを込めて、このエペソ書は書かれたわけです。 しかし、パウロは彼らに対して、ただ守ってあげるだけの存在として、上から見下ろすようにして接していたわけではありません。いかにエペソ教会が、異教社会にあって立場の弱い群れであったとしても、彼らには自分のためのお祈りを頼んでかまわない……あなたたちは同労者なのです、仲間なのです……なぜならば、彼らもやはり、聖徒、神の民、キリストの同じからだなのだから……。 そのことを前提にして、本文を見てまいりましょう。19節です……。パウロはどんなことを祈ってほしいと頼んでいますか? まず、「語るべきことばが与えられて」、そのようにして「福音の奥義を大胆に知らせることができるように」です。…

従順と支配の相似形――人にではなく主に仕えるように

聖書箇所;エペソ人への手紙6:5~9 メッセージ題目;従順と支配の相似形――人にではなく主に仕えるように    本日のメッセージのタイトルは、「従順と支配の相似形」とつけさせていただきました。  「従順」というと、韓国から日本に来られる宣教師の方が好んでお用いになることばです。この「従順」ということばは、「従順な」という表現があるように、形容詞ですが、韓国の先生は、「従順する」と、動詞形で表現される方が多くいらっしゃいます。それはもちろん、神さまに対する従順であるわけですが、時にそれは、神さまが立てた権威ということで、牧会者のようなリーダーに対する絶対服従という意味合いが込められたりします。  「支配」はどうでしょうか? ワーシップソングに、「われらは歌う あなたの偉大なみわざを 天はその御手の中 治められて 支配されています」という歌詞の歌があります。しかし、この「支配」ということばの持つイメージは、プロ野球の「支配下選手登録」だったり、ホテルの「支配人」だったり、上から絶対的な権威を行使する存在という感じではないでしょうか。 私などは、この「従順」ですとか、「支配」ということばを聞いたり、口にしたりすると、何といいますか、居心地の悪さを感じてしまいます。「いいか、黒いカラスでも、私が白といったら白だ!」というような、不条理な従順と支配、といったようなものです。それは私が、不幸にも、この教会に導かれるまでの道のりで、あまり健全ではない主従関係を体験したことが、いまに至るまで人生に若干暗い影を落としているせいかもしれません。  もしかするとみなさんは、そこまでの不幸な体験をせず、つねに健全な人間関係の中で、従順と支配というものを体験してこられたかもしれません。しかし、そのようなみなさんにも、今日の本文から考えていただきたいのです。私たちは、神さまがこの地上に住む人間にとって、上に立たれるお方であることを認めるとき、どうしてもこの地上における従順と支配というものの相似形としての、自分と神さまとの関係ということを考えずにはいられないはずです。 私もまた、以前体験した不幸な主従関係は、神さまと自分との健全であるべき関係にも、確実に暗い影を落としたと思います。それゆえに、神さまとの交わりの中で時間をかけて、この暗い影が取り払われるように、解決へと歩みを進めていきました。そのようにして、どこまでも健全な主従関係である神さまと自分との関係から、この世におけるあらゆる主従関係というものをとらえ直す知恵を得ることができるようになりました。  そこで、今日の本文です。奴隷という存在が当たり前のようにあった時代において、パウロが勧めをしたことにはどのような意味があったか、ともに見ていくことによって、私たちを支配していらっしゃる主に従順に従うことについて学びたいと思います。 まず、奴隷と主人という関係は、クリスチャンと神さまの関係の相似形と言えます。と言いますのも、この「主人」ということばは、原語では「キュリオス」といって、まさしく、神さまを意味する「主」を意味することばです。5節のみことばを読んでみますと、「キリストに従うように」「地上の主人に従いなさい」と命じられていますが、この「地上の主人」とは、原語においては「肉による」主人です。まさしく、肉体を取られてこの世に来られた主イエスさまを彷彿とさせます。このように、神さまを主とするクリスチャンは、地上の主人のもとにある奴隷と相似形を成していると言えます。 そこで、奴隷という存在について考えてみましょう。 同じ箇所の6節には、「キリストのしもべ」と出てきます。しかし、「奴隷」と「しもべ」は、見てみるとちょっとニュアンスが異なりますが、原語では同じ「ドゥーロス」です。「奴隷」も「しもべ」も、まったく同じです。そこで、主人に従う奴隷の立場を考えることで、私たちにとっての従順のあり方を深めることができると信じます。 もともと、主の民にイスラエルにおいては、奴隷というものに対する扱いが、他の民族に比べて際立っていました。みことばを読んでみればわかりますが、奴隷というものの人権をきわめて大事にしていたことがわかります。出エジプト記21章、1節から6節をお読みください。…… イスラエルはもともと、人間的な隷属状態で激しい苦しみの中にありました。主はそれを憐れんで、彼らをその奴隷状態から救い出してくださいました。エジプトにそのような目に遭わされた彼らは、こうして主に救っていただいた以上、またとそのような非人権的な扱いを人にしないようにと、主に導かれたのでした。 そのような背景で、このような奴隷に対して手厚い制度が定められたわけですが、生涯隷属させるわけでもない、だからといって一定期間が来たら放り出してあとは知らん顔、ということでもない、そのような中で、7年目になって年季が明けるときに、主人を気に入って、主人に生涯仕えることを選べるように定められたわけです。このようにして、主人に仕えることを選ぶことは、主の主権の中で与えられた自由意志において主にお従いすることを選ぶ、クリスチャンの歩みに似たものがあります。 そういうわけで、奴隷という、かぎりなく弱い立場の存在に寄り添うということは、律法の精神であり、みことばの精神です。 この精神は、新約聖書に入り、イスラエルの共同体の枠を超えた宣教地にて教会が形成されていく際にも発揮されていくことになります。今日の箇所のエペソ6章もその文脈で理解できます。 それだけではありません。ピレモンへの手紙は、オネシモという奴隷が主人ピレモンのもとから逃亡したのちに、獄中のパウロの教えを受けて回心し、やはり信仰者として応分の成長を遂げたピレモンのもとに送り返されるという内容ですが、この中でパウロはピレモンとオネシモの関係について、このような表現を用いています。「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟……」 「あなたにとっては、肉においても主にあっても、なおのことそうではありませんか」 そうです。主にあるということならば、人間関係は主従関係で終わるのではありません。主にあって兄弟という、新たな関係に入るのです。 主人も奴隷も兄弟。これはとてもすばらしいことです。というよりも、主がそのように人をお造りになった以上、これは受け入れるべき真理です。しかし、これは権力者にとっては、恐るべき危険思想に映るものです。小中学生の時、秀吉の時代に日本がキリスト教を受け入れなかった理由は、まさにこの平等思想にあったと教えられました。しかしそれを危険思想どころか、進んで受け入れる主人があるならば、そこから社会は改革されていくはずです。近年とみに「ブラック企業」というものがクローズアップされていますが、マネジメントをする人たちにみことばの教えが伝わり、多くの苦しんでいる人たちが解放されるように願ってやみません。 しかし、兄弟だからといって、それなら奴隷が主人を兄弟扱いしてもいい、ということではないわけです。テモテへの手紙第一、6章1節と2節をお読みください。 兄弟という関係は、主にあって確かめるべき立場です。しかしそれ以前に、私たちはこの地上に生かされているものであることを忘れてはなりません。この地上に一定の上下関係という秩序の中で生かされているゆえに、むしろますます、勤勉になり、ああ、さすがクリスチャンだ、すばらしい働きをしているではないか、と、人々の称賛を得られるようにする責任があります。 私にとっても、クリスチャンの「上司」と呼ぶべき存在はいました。この教会にやって来てから2年半の間は、宇佐神先生がそうでしたし、それ以前にもいろいろな教会で、主任牧師、また、さらに下積みのときには、副教職者に仕えてまいりました。 しかし、その先生方のことを、もし「兄弟」などと思って軽く見たならば、私は何一つ学ぶことはできなかったはずです。組織の秩序もあったものではなく、ただ生意気な存在として遠ざけられ、周りのクリスチャンにも、証しにも何にもならなかったはずです。上下関係をきちんとさせることは、主を証しする生活において、とても大事なことです。 さて、エペソ書に戻りましょう。キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。すばらしいことばです。私たちはどれほど、キリストを恐れ尊んで従っているでしょうか? この世の権威に従順になることは、日々の交わりの中で形作られるキリストへの従順の度合いに比例すると言えます。 6節のみことばを見てみましょう。「ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく……」このように警告されているということは、主が人の心の中をご覧になる、ということを意味します。 普通に考えるならば、奴隷にとっての労働の目的は、主人の気持ちを満足させることであったとしてもいいはずです。実際、気まぐれな主人というものはいるもので、かわいそうに、その主人の顔色に左右されながら仕えざるを得なかった労働者は、古今東西どこにでもいたことでしょう。 もちろん、形さえこなしていれば、あるいは主人は満足してくれるかもしれません。それで充分かもしれません。しかし、みことばが主にある奴隷に求めている労働の態度は、それをはるかに上回るものです。心の中でどう考えているか、これが大事です。 表面的に取り繕いさえすればそれでいい、それは、ほんとうの意味では、主の栄光を現していることにはなりません。神に従っているのではなく、人に従っていることにすぎなくなります。神の御顔を見ているのではなく、人の顔色を見ているのにすぎません。 私たちの信仰生活も、これと同じことが言えます。私はDコースを始めて、ディボーション、聖書通読を毎日したか、また、お祈りを一日どれくらいしたかということをチェックするシートをメンバーに渡していますが、それは、ある人はできた、ある人はできなかった、ということを比較してもらうためではありません。それをしてしまうと、神さまとの関係で成長すべきなのに、人を意識してしまうことになるからです。弟子訓練牧会の落とし穴はいろいろありますが、最大の落とし穴といえるものは、神さまにある訓練が、いつの間にか、人を意識した訓練に取って代わられる危険と隣り合わせ、ということです。 いえ、これは弟子訓練にかぎりません。およそ人のいるところでは、神さまよりも兄弟姉妹を意識した教会生活を送りがちなのは、みな注意しなければなりません。もちろん、よい信仰生活を送る兄弟姉妹はモデルにはなりえますが、その兄弟姉妹に認めてもらおうとして信仰を成長させるわけではありません。いわんや、教会の中で、あの人は素晴らしい信仰者だという噂を立ててもらおうと、人を意識した教会生活を送ることなどは論外です。 私たちのあらゆる信仰生活、あらゆる奉仕に打ち込むことは、即、主にお仕えすることという意識を持つことが、どうしても必要です。と申しますより、私たちが日々愛をもって交わりを保っている主に対し、その愛を表現する場は、奉仕の場、労働の場です。心の中でだけ主を愛している、とはならないはずです。ほんとうに愛しているならば、兄弟姉妹と共有する場において、心からの働きを実践してこそ意味があります。 8節のみことばです。……このみことばをお読みすると、よい行いには主からの報いがあることが示されています。私たちは、人からの評価に左右されず、いまもなおよい行いに打ち込んでいらっしゃる方々が多くいらっしゃることでしょう。そのようなみなさんは、人生に何か特別なプラスアルファを期待することよりも、そのようにして主のご栄光を現すことそのもので、主からの祝福、報いを受け取っていらっしゃるわけです。 しかし、間違えてはなりませんが、私たちはよい行いをすることで「救い」をいただくわけではありません。私たちはイエスさまを信じる信仰によって、すでに救われています。救いを受けて天国に行くために、これ以上努力をする必要はありません。しかし、救われたゆえに、救ってくださったお方のために喜んで働きたい、となってしかるべきではないでしょうか? 考えてみてください。神さまがこの天地を創造され、人を創造されたとき、最初の人アダムに与えられたことは、労働でした。その労働は、もちろん祝福でした。労働することそのものが喜びに満ちた祝福であることを、私たちはこの身をもって、この世界に復活させる必要があるはずです。 さて、ここまで学んでくると、今度は「主人」に立てられた人はどうか、という問題になります。9節のみことばをお読みしましょう。 このみことばを見ると、奴隷に対しての主人は、天におられる主、また地上の主人と、2人いて、同時に天におられる主は地上の主人にとっても主である、という構造が見えてきます。 この、地上の主人である者もまた、奴隷同様、エペソ教会を形づくるメンバーであるわけです。したがってクリスチャンです。しかし彼らは、奴隷に対して一定の権限を持つことが認められている存在です。 このような上下関係の、上に立つ者が主にある人の場合、その責任は重くなります。聖書をご覧ください。名もなき奴隷や庶民のことがクローズアップされる箇所に比べ、王や教会指導者のようなリーダーがクローズアップされる箇所のほうが、それこそけた違いに多くあります。そう考えると、聖書はリーダーの物語といえます。 では、なぜこれほどリーダーの物語が聖書に登場するのでしょうか? それは、アダム以来、「地を従えよ」と神さまから命じられている私たち主の民が、それこそ「地を従える」リーダーとしてふさわしく振る舞うべく、時にモデル、時に反面教師として、神さまが聖書を通して、それぞれの時代のリーダーを提示しておられるからと考えられます。 そういう前提で聖書を読むと、この箇所その他に登場する「奴隷」もまた、「地を従える」リーダーと読み取れなくもないのですが、それはともかくとして、「主人」は、この地上において主の権威と支配を「代行」する立場として、私たちにとっての主にあるリーダーシップを確認する上で、とても大事なモデルです。 「脅すことはやめなさい」とあります。このところ、芸能事務所の社長が、その看板タレントを、仲間たちの解雇を盾に脅したことが話題になりましたが、あれが批判されるのはもちろん、パワハラという、非人道的な支配を行うことだからです。パワハラとは「パワー・ハラスメント」で、上下関係、力関係を用いた嫌がらせ、という意味です。あのタレントはそれこそ、記者会見を開くことで風穴を開けることができましたが、奴隷にはいったい、そのような力などどこにあるというのでしょうか。だから、奴隷が主の民として保障されるためには、主人が主を恐れることが、どうしても前提として必要になります。 主にあるリーダーシップを行使することは、その組織を維持させるうえで、時には必要になります。それもなくだらしなく振る舞うならば、組織がどうやってふさわしく運営できるというのでしょうか。しかし、だからといって、人間的な厳しさで組織が保たれるわけではありません。主人もまた、主にあって部下に接する必要があります。それが、自分もまた、主のしもべであるという態度を謙遜に持つ者としてふさわしいことです。 私たちはいろいろな形で上下関係に生かされています。時に私たちはしもべのような立場におかれますし、また主人のような立場におかれます。この上下関係の中で、私たちが人を意識するか、それとも神さまを意識するか、その違いはとても大きいものです。私たちは神さまにある振る舞いを選択してまいりたいものです。 大前提として、私たちは人のしもべである以前に、主のしもべです。だれであれ、主のしもべとして振る舞うことが求められています。主のしもべとして歩むのです。その歩みは、この世界の片隅で苦しむ、奴隷状態にある人たちが解放されていく歩みへとつながります。 その歩みを私たちが一歩一歩進めていくことができるように、そのようにして、私たちがこの地にまことの平和を実現する者として用いられる者となりますように、主の御名によってお祈りいたします。

従順と養育の相似形 後篇――子どもを怒らせない教

聖書箇所;エペソ人への手紙6章4節 メッセージ題目;従順と養育の相似形 後篇――子どもを怒らせない教育    インターネット上には怒りと呪いのことばがあふれています。それは、人は何かで怒り、鬱憤を晴らしたいからではないかと思います。しかし多くの場合、その怒りはとても幼稚なものです。なぜ人は幼稚な怒りをいだくのでしょうか? それはもしかすると、幼いときからいだいてきた怒りの感情を、大人になってそれ相応に成熟してきたはずなのに、いまだに捨てることができないでいるせいではないでしょうか?  怒るのは大人の特権ではありません。子どもも怒ります。エペソ書6章4節、私たちはこの短い箇所から、子ども怒らせない教育、主の教育と訓戒によって育てる教育はいかにあるべきか、ともに考えてみたいと思います。   まず、親である大人が子ども怒らせるときとは、どのようなときでしょうか? それは子どもが、してはならないことをしたり、するべきことをしなかったりして、叱責し、その結果、反抗心をいだいて怒った場合でしょうか? そうではありません。 多くの教育理論においては、反抗期というものが当たり前に存在することを教えます。しかし、この理論に、真っ向から異議を唱える牧師先生が日本にいらっしゃいます。岡野俊之先生という方で、弟子訓練を軸とした牧会で、とても健康に教会形成をされている方です。以前も岡野先生のことは、メッセージの時間にお話ししたことがあるので、ご記憶の方もいらっしゃると思います。 岡野先生はおっしゃいます。いったい、反抗期というものは、聖書に書いてありますか? クリスチャンのみなさんは、聖書よりも、一般的な教育理論のほうを正しいと思っているのですか? 私もときに、子どもの教育に手を焼くことがあります。私以上に子どもに関わる時間の長い妻などは、なおさらそう感じていることと思います。しかし、岡野先生のお話をお聞きして以来、私は子どもたちのその跳ね返る態度を、反抗期という、まことしやかに語られているもののせいにするまい、と考えるようになりました。 それなら、子どもが怒って反抗するならば、それを親である大人はどうとらえるべきなのでしょうか? それは「罪」と見なすべきです。箴言のみことばをご覧ください。箴言はどれほど、子たる者に、親に対して従順であるべきことを説いていることでしょうか? また、親に対する不従順のもたらす害毒について、これでもか、と語っていることでしょうか? 私も親ですので、子どもが罪を悔い改めないままでいてほしくありません。私自身を振り返ってみると、時に自分が親としてふさわしくない、親と呼ばれるに値するほど成熟していないことを痛感させられますが、しかしそのたびに立ち帰らされる事実、それは、ほかならぬ神さまが、私のことを2人の娘の親に立ててくださったという事実です。私がいかに未成熟であろうとも、また人格に欠けがあろうとも、その欠けは、神さまにあって解決すべき問題です。それなのになお、私が自分のことを親失格などと言うとすれば、それは私のことを親にしてくださった、神さまに対する冒瀆ということになります。私がどうしても自分の欠けに目が留まってならないならば、それを満たしてくださる神さまにこそ目を留めるべきです。 そういうわけで親に立てていただいた者として、子どもが罪の状態にとどまることがないように、時には厳しいことも言わなければなりません。子どもが悔い改めるならば、とても素晴らしい神の子どもとしてふさわしい人に、またひとつ変えていただくことができるからです。 『境界線』という題名の本があります。ご存知でしょうか。読めば人生観が変わるようなとてもいい本です。お読みいただければと思います。『境界線』という本です。その本は、ヘンリー・クラウド先生とジョン・タウンゼント先生というお二人の共著で、人はそれぞれ、神さまから定められた境界線を持っている、その境界線の中でこそ責任を果たし、境界線を乗り越えてくるような者たちには「ノー!」と言うことを学びなさいと言う、なかなかのチャレンジを与えてくれる内容ですが、このお二人は子育てということに関しても、これまた素晴らしいことをおっしゃっています。 「親の仕事は、子どもの中に眠っている『神の似姿』が成長し、それが花開くように手助けすることです。」 創世記1章27節をお読みすると、人は「神の似姿」に創造された、とあります。神の似姿ゆえに、聖書に啓示されている神さまに似た者へと変えられ、またそれ以上に、神と交わりを持つことができます。前にも何度か語ったことがあります。キリスト教というものはひと言でいえば「神との交わり」です。子どもが成長して、神と交わり、神のみこころを行えるだけの、神のかたちへと整えること、それが親の役割です。うちの子どもたちも、単に勉強ができるようになったり、単に身の周りのことができるようになったりすることが、教育することの目的ではないはずです。もちろん、それもたしかに大事なことでありますが、やはり大事なことは、子どものうちに神のかたちが育ち、神との交わりに生きる人になるように育ってくれることです。 しかし、そのように神のかたちが育つためには、子どものうちにある幼い罪の性質を、徹底して取り除いていく必要があります。それでも子どもは抵抗するでしょう。しかしその抵抗もまた、神さまが立ててくださった親という権威に対する不従順であり、したがって神さまに対する不従順です。育てる親の側もそのことをわきまえ、徹底して対決していく必要があります。 しかしもちろん、それは簡単なことではありません。ヘブル人への手紙12章11節をご覧ください。……このみことばには「苦しい」ということばが出てまいります。これは以前の訳の聖書では「悲しく思われる」と訳していて、もともとの意味は、単なる苦しみや悲しさではなく、「耐えがたいほどの悲しさ」を意味します。子どもの罪を取り扱うことは、その分子どもに痛みを覚えさせることであり、それはいわば、耐えがたいほどの痛みです。子育てがしばしば難しくなるのは、親の側に幼いころからの痛みが残されていて、その痛みを子どもが今まさに味わっている痛みに重ね合わせてしまうためと言えます。そういう点では、親もまた親としての役割を果たしていくために、日々主との交わりの中で傷をいやしていただく必要があります。そうしてこそ、しつけや教育のプロセスで現れる子どもの痛みに立ち向かえるようになります。 子どもは抵抗します。親から妥協や譲歩を引き出そうとするでしょう。しかし、そういうときこそ、親は、神さまが自分に与えてくださった権威のうちにとどまり、子どもに対してふさわしい導きをすることを、最後まで実践する必要があります。言うなれば、子どもとの間に引いてある、境界線にしがみつくのです。 もちろん、それは高圧的にすべしということではありません。子どもは生まれつき、自分は何でもできるという全能感の中で生きています。しかし、自分は決して全能の存在ではないというk十を思い知らせるのは、親たる大人の務めです。子どもは、自分から全能感が剥ぎ取られるとき、それをたまらなく不愉快に感じます。しかし、そうだからこそ、親はもがき苦しむ子供のそばに寄り添ってあげる必要があるわけです。そのようにして、子どもの痛みに充分に共感してあげられるならば、子どもの中には訓練された者にふさわしい、平安な義の実が結ばれ、人格的に成長し、キリストの似姿へと変えられるようになります。 しかし、このみことばが問題にしているのは、そのふさわしい子育てのプロセスで子どもが怒りを発することではありません。そうではない場合で、大人の身勝手な言動によって子どもが怒りを覚える場合、これが問題になります。  子どもが幼稚であることはもちろんなのですが、時に大人も幼稚さのゆえに子どもを怒らせることがあります。それは、子どものためを思って子どもをしつける際、その反応として子どもが怒ることとは異なります。   「つべこべ言わずにやりなさい」ということばがあります。一見するとこれは、大人が権威を示しているようでいいように思えますが、実のところ、行動だけではなくて、態度や感情においても大人の望むようにコントロールしようとすることばです。もちろん、勉強をさせたり、お手伝いをさせたりするとき、それをいやがる子どもにはそれ相応の権威をもって接する必要はありますが、その上で子どもの感情をろくに理解しようともしないで高圧的に接するならば、問題はちがってきます。  そうなると子どもは、表面的には従うふりをしても、心の中は怒りで満ちるようになります。また、やる気を失ったりもします。それで、心から親の教えに同意して、喜んで従うという状態からは程遠いことになります。  さらに子どもは、大人のダブル・スタンダードにも耐えられません。私たち大人も、ダブル・スタンダードを人に使われていい気持ちのする人はいないはずです。自分に甘く、他人に厳しい。それを親たるものが子どもにしてしまうならば、子どもはどれほど悲しみ、また、怒ることでしょうか。そういうわけで大人も、自分自身のことを律する必要があります。それでももし大人が、自分の居場所を保ちたいと思っているならば、子どもにも居場所を確保させてあげるだけの余裕を持つことが必要になるはずです。  私自身もとても自戒させられることですが、スマートフォンに向かっていたいときに、子どもにせがまれて遊びの相手ができるならば、きっとその人は、子どもを喜んでみもとに呼び寄せた、イエスさまの心に近い人ではないかと思います。自分に死んだ人、子どものために自分を喜んで差し出せる人、それこそ主の弟子にしていただけるにふさわしい人です。  また子どもは、どんなときに怒るのでしょうか。自分の人格を否定されたり、見下すような態度や言動を取られたりしたときに、子どもは怒ります。  上から目線、ということばがあります。、本来親しく人格的な関係を結ぶべき家族の間に、封建的な上下関係が存在するとするならば、それはたまったものではありません。  もちろん、親は子どもに対して権威を示す必要はあります。しかしイエスさまは、近寄ってくる子どもたちに対して、果たしてパリサイ人や、みこころを無視する言動に出た弟子たちに対するような、とてもきびしい態度をなさったでしょうか。決してそんなことはなかったはずです。イエスさまは子どもを抱き上げて、だれでもこの子どものように神の国を受け入れる者が、天の御国でいちばん偉いのです、とおっしゃったのでした。イエスさまの用いられた権威とは、そのような柔和に満ちて、それでいて決してさげすまれることはなかったような、したたかな権威です。  そういう権威と、むかしのカミナリ親父のようなおっかないばかりの人間的な権威とを、私たちはごっちゃにしてはなりません。日本のクリスチャンがときに不幸なのは、みこころにかなう権威のモデルを示すお父さんに出会う確率が、日本の教会にいるととても低いということではないかと思います。しかし、嘆いてばかりもいられません。嘆くくらいならば、私たちがそのモデルになるように取り組み、また、そのようなお父さんが生み出されていくようにお祈りすればいいことです。  イエスさまは少なくとも、私たちの人格を否定したり、軽んじたりするように接することはなさいません。私たちもイエスさまにならい、子どもを柔和に受け入れたけれども決して子どもに見下げられることはなかった、イエスさまの権威と人格に少しでも近づくものとなりたいものです。  最後に、神さまというお方は私たちにとって、どのような「親」でいらっしゃるでしょうか。言うまでもなく完璧なお方です。しかし、時に神さまは、人が罪ゆえに道をそれることを、あえてお許しになるお方でもあられます。あれほど神さまに愛されたダビデをご覧ください。子育てにおいてどれほど失敗したことでしょうか。ダビデは子どもを4人亡くしていますが、いずれも子育てであったり、ダビデの不始末であったり、そういうことの責任を取らされた結果とも見ることができます。それを、ひどい、と言うこともできるかもしれません。しかしそれでも、ダビデは神さまに愛されたことに変わりはありません。 私たちも失敗するでしょう。子どもを怒らせてしまった、主の訓戒と教育によって育てていることからは程遠い、そんな自分の姿にほとほといやになることもあるかも知れません。しかし、神さまはそんな私たちであろうとも、変わらずに愛してくださっています。教会において、親族の中において、学校において、あとに続く世代をふさわしく育てる私たちとなることができるように、私たちのために忍耐してくださっています。私たちもまた、神さまという親に育てられています。私たちは神さまによって理不尽に怒らされたことなど、あるはずがありません。日々みことばと祈りによって、教えられ、訓戒されています。そんな私たちは、だれであれ、子どもを育てるのにふさわしい大人へと変えていただけるのです。

従順と養育の相似形 前編

聖書箇所;エペソ人への手紙6:1~4 メッセージ題目;従順と養育の相似形 前編 先週に引きつづき、「相似形」シリーズです。今回は、従順と養育の相似形、と題しまして、親子関係を扱います。 親子関係は何の相似形でしょうか? そう、神さまと私たち人間の関係との相似形です。聖書を読みますと、神さまを「父」と表現する箇所がなんと多く登場することでしょうか! 私たちも信仰によって、この神さまを、天のお父さま、とお呼びすることができるのです。 ご案内のとおり、イエスさまが天のお父さまに呼びかけられたことばは「アバ」です。日本語の聖書によっては「アッパ」と書かれています。これもご存知の方は多いと思いますが、妻の母国韓国のことばで、パパ、は、「アッパ」といいます。日本語だと、かつてなら「お父ちゃん」ということばがありましたが、今、そんなふうに呼ぶ子どもなどいるのでしょうか。 それに比べると、韓国語の「アッパ」というのは自然です。むかし東京に住んでいた頃に奉仕していた韓国人教会の主任牧師は、もちろん韓国の人で、メッセージを韓国語で語る人でしたが、メッセージに熱が入ると、イエスさまが天のお父さまを呼びかけるシーンに差し掛かるたび、「アッパ、アッパ」なんておっしゃっていたものでした。私はそれを聞くたび、韓国語ということばに大きな嫉妬を覚えたものでした。特定の言語に嫉妬というのも変ですね。より正確に言えば、韓国語を母語とする韓国のクリスチャンたちに対してでしょう。ただし私は、韓国人のクリスチャンの方が、天のお父さまに向かって「アッパ」と呼びかけているのを聞いたことはありません。それはあまりに畏れ多いことだと感じておられるのだと思います。 今日学びますのは、そういう、天のお父さまと私たちの関係を映す鏡としての、地上の親子関係についてです。本日はその前編として、子どもから親に向かう関係を扱います。 まず、主にあって自分の両親に従いなさい、というみことばから見てまいります。 「主にあって」が鍵です。それがないとどうなるでしょうか? 自分の両親に従えって、じゃあ、親が物を盗め、と言ったら、盗んでもいいの? なんて言われたら、まともに反論しにくくなります。 もう100年ちかく昔の映画になりますが、みなさんは、チャップリンの「キッド」という無声映画をご存知でしょうか? しみじみする名作です。でも、こんな場面もあります。チャップリンは長屋で貧しい暮らしをするガラス屋さんです。ひょんなことから彼は、捨て子の赤ちゃんを拾って育てることになります。その子は5年経って、かわいい男の子に成長しますが、彼は石を投げてひとんちの窓ガラスを割ります。するとそこにガラス屋のチャップリンが現れて、直し、儲けるという、「親子」がグルになってのとんだ悪知恵に観る者が大笑いする仕掛けになっています。でも、いかに親の命令で、親を助けるためといっても、これは「主にあって親に従う」ことというには、もちろん無理があります。 うそをついてはいけません、ケンカしてはいけません、勉強しなさい、これらの命令もまた、「主にある」ものだから従うべき、ということになります。 私たちの主にある考えやことばや行動の基準を決めるお方は、神さまです。より正確に言えば、神さまご自身が「主にある」ということの基準です。神さまはこのご自身という基準を人間に教えてくださるにあたり、聖書のみことばを備えてくださいました。聖書には、この人間の守り行うべき基準が、ことごとく記録されています。そういう点では、聖書には「説明書」という側面があります。 しかし仮に聖書が「説明書」だとしても、現代人が何かの製品を手にしたときについてくる説明書とちがって、被造物である人間の図面がついているわけでも、「よくある質問」のように使い手に合わせた懇切丁寧な解説がついているわけでもありません。ここに私たちは、聖書を解釈する必要というものが出てくるわけです。 聖書を解釈させてくださる方は、聖霊なる神さまです。聖霊なる神さまが、神さまのみ思いを私たち人間に伝えてくださいます。ですから私たちは、聖書を読むにあたり、自分の人間的な知恵で読んでしまわないように、聖霊なる神さまの助けをいただく必要があります。お祈りしてから聖書を読むのです。 そして、聖書の解き明かしにも普段から触れておく必要があります。礼拝メッセージを聴くことももちろんですし、毎日のディボーションのテキストをはじめ、聖書に忠実な書籍を数多く読むことも大事になります。 そして何よりも、この悟らされたみことばの教えを、私たちが集うときにともに分かち合うことが必要です。このことによって私たちは多角的にみことばを学ぶことになります。その分、みことばに対する理解が深まるわけです。 浅田次郎という小説家はかつて、ベストセラーになったウォルター・ワンゲリンの『小説 聖書』を評して、この本は難解な聖書を通読せしめる、と語りましたが、たしかにその本は素晴らしい作品にはちがいありませんが、どうしたって「二次創作」です。それを読んだからと、聖書を通読したことにはなりません。 聖書そのものを理解するには聖書を読むしか方法がありませんし、今あげたとおり、聖霊の働き、聖書に基づく解き明かし、分かち合いがなければ、浅田さんのおっしゃるとおり、聖書は難解なものでしかありません。だから私たちが、主にあって両親に従う、といっても、その根幹をなす聖書のみことばを基準とすることにおいて、この3つの要素を欠いてはならないのです。 しかし、そこから導き出される聖書の教えを、実は親たるもの、多く語っているものです。それは親であれ子であれ、人間である以上、神のかたちにつくられた存在だから、もちろんのことなのです。 私は今回のメッセージを備えるにあたって、岡野俊之先生の本、そしてもう1冊、ヘンリー・クラウドとジョン・タウンゼントの共著の本の、合わせて2冊を通読しました。そのどちらにも語られていたことは、子どもをしつけるのに妥協してはならない、ということでした。 よく、子どもは天真爛漫、純粋無垢などというフレーズが人々の口にのぼりますが、そういう面ももちろんある半面、子どもはいわば、「小さな罪人」です。親の命令に反抗したり、ケンカしたり、うそをついたり……誰から教わったわけでもないのに、そういう罪深いことをやってのけます。しかしもちろん、そのままでいいはずがありません。 そういう子どもたちをしつけるとなると、とても激しい反抗にあうことを覚悟しなさい、しかし、子どもは従順に従う喜びを知っているものです。あきらめずにおやんなさい、私はその2冊を読みながら、大きなチャレンジを与えられました。 何よりも、親に従順に従うことを知る者は、神さまに従順に従うことに何のためらいも覚えなくなります。まさしく、天のお父さまに従順になられた、実に十字架に至るまでも従順になられたイエスさまこそ、私たちのモデルです。もし、私たちが神さまとの関係において健全ではない部分があるならば、もしかすると私たちには、親との関係において、神さまのお取り扱いを受けなければならない部分があるかもしれません。 そこでつぎのみことばにまいります。「あなたの父と母を敬え。」 これはもちろん、モーセの十戒のことばです。この十戒の構造は、どうなっているでしょうか? 一応念のため、おさらいしましょう。第一、わたし以外にほかの神があってはならない、第二、自分のために偶像を造ってはならない、それらを拝んではならない、第三、主の名をみだりに口にしてはならない、第四、安息日を覚えてこれを聖なるものとせよ、第五、あなたの父と母を敬え、第六、殺してはならない、第七、姦淫してはならない、第八、盗んではならない、第九、偽証してはならない、第十、隣人の家を欲しがってはならない……。 さて、この10の戒めが、前半は神さまとの関係を語り、後半が人との関係を語るものであることは、お分かりだと思います。しかし、第五の戒め、「あなたの父と母を敬え」に関しては、この両者の橋渡しをする役割をしており、たんに生んでくれた親を敬いなさいという意味であるのと同時に、私たち被造物の親なる、父なる神さまを敬え、という意味にもなりえます。 この、敬うということは、「従順になる」ということで具体的に現れます。しかし実際のところ、親を敬っていても親の言うことを聞けてはいないということは、往々にして起こります。それは、神さまを信じ、愛していても従えていない、ということと相似形、といえます。 しかしそれでも、私たちがたとえ親に対して不従順の行いをしてしまったとしても、基本的に親を敬っていて、ごめんなさいと言えば許してもらえるという信頼があれば大丈夫でしょう。それは、もし私たちが神さまの御前に罪を犯したとしても、そのことに良心のとがめを与えてくださる聖霊なる神さまの働きによって悔い改めに導かれ、神さまとの関係を回復していただけるだけの信仰がうちに保たれていることと相似形です。 問題は、「敬う」という心がなかった場合です。もし人が、創造主なる神さまを敬うことができないならば、もはやみこころに沿った悔い改めなど期待すべくもないということになります。従順となるとなおさらです。 もちろん、よい行いをすれば、それはみことばに示されたよい行いと重なる部分はあるでしょうが、そのよい行いで神さまに認めてもらえるわけではありません。神さまの怒りは相変わらず、その人に注がれています。 同じことで、自分の親なのに敬うことをしないならば、いったいどうやって親に従うことなどできるでしょうか。というより、その人にとって、親に従うことなど、したくないことか、どうでもいいことかのどちらかでしょう。もしそれでも、親に従うことをその人がしたとするならば、それはたまたまか、いやいやながらか、計算ずくのおためごかしか、といったところでしょう。 しかし、親を敬うということは、従順によって秩序が保たれるという結果が伴う以前に、主のご命令です。私たちは主が地上に備えてくださった親を敬うことで、はじめて父なる神さまを敬う、すなわち聖なる恐れをもって近づくことができます。 ただ、このような話をよく聞きます。自分は父親との関係が悪かった。だから、父なる神さまという存在がどうしても信じられない。 なんとも悲しい話です。神さまとの関係すらゆがめてしまうような親子関係だったなんて、考えるだけでとても胸が痛みます。 そういう人は、こう考えたらどうでしょうか。地上の父親はどこまでも不完全だった。しかし、私が信じている神さまは、私の肉の父親のようではない、完全なお父さんだ。この天のお父さまは、決して私を裏切らない。このお父さまとの関係を、日々の主との交わり、礼拝と学び、交わりによって、しっかり保ち、それによって、地上の不完全なお父さんのことを少しでも赦す道が開かれるように、祈るのみです。 いえ、こうは申しましても、赦すということは、お父さんのところに行って和解しなさい、という意味ではありません。それをすると、下手をすればそれまで以上に、何倍にも傷つきます。お父さんと現実に関係がよくなければ、避けるべきでしょう。そうではなく、十字架の上ですべての人を赦してくださったイエスさまを思い、憎しみと怒りを手離すことを「選択」するのです。悪い思いに捕らわれているかぎり、私たちは前に進むことができません。それこそサタンの思うつぼです。 もちろん、「父と母を敬え」というこのみことばを律法的に守りさえすればいいわけではなく、守れないなら守れない自分であることを御前に告白し、そういう自分であることを自分で受け入れることも必要です。しかし、その守れないことは絶対に変えられない宿命では、ない、ということも、私たちは心に留める必要があります。 では、私たちは父と母を敬えば、何か祝福があるのでしょうか? あります。それが、第三のポイント、「幸せになる」ということです。 3節を読んでみますと、「あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」とあります。 これは、もとの十戒の第五戒、出エジプト記20章12節と比較すると、若干異なる点があります。まず、「あなたは幸せになり」ということばは、出エジプト記には書かれていません。これはいわば、聖霊なる神さまがパウロに与えてくださった、十戒の解釈のフレーズと言えます。 しかし、幸せとだけ言うと、その受け取り方や定義は人それぞれ、十人十色です。そこで私たちは、なぜパウロがこのように、「父と母を敬う」ことは「幸せになる」道だと語ったのか、もう少し見てみる必要があります。 そこでもうひとつの相違点を見てみましょう。エペソ書で「その土地」と言っているものは、出エジプト記では、「あなたの神、主が与えようとしているその土地」と書かれています。これはこの、出エジプトのただ中にあるイスラエル民族にとってみれば、「約束の地カナン」という、特定の地域を指します。その具体的な場所で長く生きますよ、という、イスラエルに向けた約束だったわけです。 これに対しエペソ書のほうでは、「その土地」としか書いてありません。このみことばを受け取ったエペソ人がユダヤ人ではなく、いわゆる「異邦人」であったことを考えると、パウロがこの十戒のみことばから「約束の地カナン」を意味するフレーズを省略したことはもっともなことです。 しかし、約束の地カナンとは、罪から贖われて永遠のいのちが与えられた者の生きる、神の国の象徴であると考えるならば、このエペソ書のみことばは、単にこの地上で長生きするという意味ではないことがわかります。神さまはなぜこのようなことをお許しになるのか、そのみこころは計り知れないものがありますが、私たちクリスチャンの間にはしばしば、幼いうちに天国に行く家族がいます。しかし、この「あなたの日々は長く続く」というみことばを表面的に読み取らず、そこから天国という意味を読み取れるならば、私たちはかぎりない慰めをいただくことができるのです。 この天国に入るものはだれでしょうか? イエスさまは、「幼子のように神の国を受け入れる者」とおっしゃいました。この幼子とは言うまでもなく、さきほど申し上げたような「小さな罪人」としての子どもではありません。一心に親を見上げ、親の言うことならなんでも喜んで従う心構えのできている子どもです。そして、そのような心構えで素直にみことばを受け入れ、イエスさまを信じる信仰を持つからこそ、天国に入れていただけるのです。 私たちはみな、子どもとして生まれました。お父さん、お母さんの子どもであるのと同時に、神さまの子どもです。まことに、地上の親の存在は、天のお父さまと私たちとの関係をあらためて考えさせてくれる存在です。そして、天のお父さまとの関係を通して、私たちは、この世にご存命にせよ、もう亡くなられたにせよ、地上の親との関係を捉え直し、私たちが主にあって何者かということを確認させられるものです。私たちを、親によってこの地上に生まれさせてくださり、その訓戒によって育ててくださり、この地上において主のご栄光を現す者として成長させてくださる主に感謝をささげましょう。