未来に向けて種を蒔く

聖書箇所;創世記23:1~20/メッセージ題目;未来に向けて種を蒔く 私が青春をささげた東京での教会開拓時代のことは何度かお話ししましたが、千駄木という東京の下町で、教会開拓の働きを始め、私も伝道師という立場でそこに混ぜてもらっていました。 最初は、マンションの一室からのスタートです。しかし日曜礼拝がスタートして1か月で、そのマンションの商業スペースが、大家さんの好意で安く使えることになり、そのスペースを改装して、礼拝堂にしました。 しかしたいへんだったのは、近所から苦情が来て、礼拝や集会が中止する寸前まで追い込まれたことが何度もあったことです。今でも思い出すと緊張しますが、礼拝の時間に、苦情を申し立てた人がお巡りさんを引き連れてやってきたこともあったものでした。 泣きっ面に蜂、と申しますか、その好意を示してくださった大家さんはマンションの所有権をほかの不動産屋さんに売り、すると、教会のテナント料が数倍にはね上がり、ただでさえ苦しい教会財政を思いきり逼迫させました。 これはなんとかしなくては……主任牧師はほうぼうからお金を集め、韓国の教会から支払われる退職金さえ前借りして、千駄木から少し離れた千住の町に良い物件を見つけ、開拓からわずか2年でしたが、引っ越しました。 千住のその物件は袋小路にあり、表通り沿いだった千駄木の物件に比べると、その点では見劣りしました。また、千住は千駄木のような観光地でもなく、町としていかにも地味でした。しかし私たちは、これ以上ないほど喜んだものでした。ああ、これで動かなくてすむ! 礼拝も堂々とささげられる! 教会の方々は、ほぼ韓国の方々で固められていました。私はそのような方々をお相手に働かせていただいて、それこそ聖書の表現を借りれば「寄留者」として日本に生活することは、どれほど不安定で、また気持ちも不安になることか、思わずにはいられませんでした。 せめて、神さまを礼拝する場所ばかりは、安定した場所になってほしい、私はそのように祈りを込めて働かせていただいたものですが、土地建物が自分たち教会のものになり、そこで堂々と韓国語で礼拝をささげ、韓国語で賛美をし、韓国語でお祈りをし、韓国語で会話をし、キムチを中心とした韓国料理を食べる教会生活ができるようになって、ああ、ほんとうによかったなあ、と思ったものでした。 本日の聖書箇所、創世記23章をお読みし、学びながら、そのころのことを思い出しました。まことに、寄留者として客地に生きることは不安定な生活を強いられることですが、それでもその地に生きる証しを立てることは必要です。なぜならば、子どもたち、孫たちまで、不安定な生活をさせるわけにはいかないからです。 今日の箇所にまいりましょう。1節、2節のみことばをお読みします。……アブラハムの愛する妻、サラは死にました。127歳ですから、長寿を全うしたというべきですが、アブラハムは泣きました。 サラとは、いろいろなことがありました。異邦人の王に2度も召し入れられそうになっても、アブラハムは自分の身を守ろうともしました。サラ以外の女性と交わり、子をなしたこともありました。その子イシュマエルを巡ってサラの激しいことばを受け入れざるを得なくて、大いに苦悩したこともありました。しかしそれでも、サラはアブラハムにとって、愛する女性だったのでした。 主にある人が亡くなるということは、天国に行くということであり、それは喜ぶべきことといえば確かにそうです。しかし、私たちは堂々と悲しんでいいのです。泣いてもいいのです。主よ、なぜ愛する人のいのちを取ったのですか! 私たちはこのように、何度も悲しみに正面から向き合いながら、悲しむ者とともに涙を流してくださるイエスさまの愛を知ることとなるのです。 しかし、アブラハムはいつまでも悲しんでばかりもいられません。サラを葬るということをしなければなりません。しかし、アブラハムはその土地にあって寄留者です。サラを葬るために、この土地の所有者にお金を支払って、土地を手に入れなければなりません。 この「土地を手に入れる」ということは、重要な意味を持ちます。アブラハムはすでに、ベエル・シェバという、定住すべき土地がありました。しかし、それでもなお、アブラハムは、半分遊牧民のような生活を続けていました。 それが、サラの葬られる土地を手に入れるということは、そこに自分も葬られるということであり、息子のイサクも葬られるということです。時代は下り、イサクの妻のリベカ、ヤコブの妻レア、そしてヤコブがそこに葬られることとなりました。子孫に至るまで葬られる、これは、神さまが約束してくださったこの地を所有する権利を持っている、ということを、明らかにしていることになります。 そのためにもアブラハムは、サラを葬るこの土地を、正式な手続きを経て手に入れる必要がありました。3節と4節をお読みしましょう。 アブラハムの申し出に、この土地のヒッタイト人たちは何と答えたでしょうか? 5節、6節です。 アブラハムはヒッタイト人から見れば外国人、寄留者です。そんな彼のことを彼らは高く評価し、最上級の待遇をしようという意思を示しています。 しかし、これを額面通りに受け取り、彼らの好意に甘えるということは、いかにも厚顔無恥なふるまいです。第一コリント13章にありますように、神の民に備わっている「愛」の特質は、「礼儀に反することをしない」ことにあります。 この箇所は読み進めていきますと、ヒッタイト人がアブラハムのことを、それこそ下へも置かない待遇をしているわけではないことがはっきりします。私たちの場合はどうでしょうか? 神さまにお従いする生き方をしているなら、そこには、愛、寛容、親切、善意、誠実といった対人関係における御霊の実が結ばれていき、それはほかの人たちにとって私たちに対する素晴らしい評価へとつながるのですが、だからといって、私たちがいかにも、御霊の実を結んでいる素晴らしい人であるかのように自任して、振る舞うのはいけません。私たちがほんとうに御霊の実を結んでいるならば、謙遜になることが求められています。 とはいいましても、アブラハムは、土地を手に入れることは自分のするべきこととして主張しました。謙遜というものは、卑屈とはちがいます。いえ、私はそのような評価に値しません、そのようにへりくだるのは結構ですが、へりくだるあまり、この世界に対して引いてしまい、何の影響も与えられないようでは困ります。 アブラハムの場合は、どのようにしてこの土地を所有するヒッタイトに対して影響力を行使しようとしたのでしょうか? 8節、9節です。 まず、アブラハムは、「死んだ者を私のところから移して葬ることが、あなたがたの心にかなうのであれば」と、ヒッタイト人たちの心に委ねています。お墓というものは、なんといっても、亡骸(なきがら)を置く場所であり、ぞっとしないものです。いわんや、この時代、異邦人のお墓を用意してあげようなどということは、普通ならば考えられないことです。アブラハムは、異邦人の遊牧民として生きる自分の弱い立場を認めながら、なお、ヒッタイト人の好意にすがろうとしていました。 そしてアブラハムは、どこに葬るつもりかを語っています。ツォハルの子エフロンの所有する、マクペラの洞穴。このようなことをアブラハムがすぐに言えたのは、どこならば葬るのを許してもらえそうかということを、事前によくリサーチしていた、ということです。あるいは、11節でエフロンがアブラハムに対して語ったことばを見ると、アブラハムはエフロンとの間に、一定の信頼関係を築いていた可能性もあります。 11節を詳しく見てみましょう。エフロンは民の集まっている前で、それをアブラハムにただで譲ると宣言しました。エフロンとしては、気前のいいところを示したのでしょうか。あるいは、アブラハムに対する尊敬の念を示したつもりだったのでしょうか。 しかし、この土地をただで取引したとなると、後々まで問題を残すことになります。なによりも、この土地はヒッタイトの好意で手に入れたもの、という事実が、アブラハムとその家族を支配することになります。それは、ひいてはアブラハムの子孫であるイスラエル民族にも影響を及ぼすことになります。 それだけではなく、アブラハムの一家は、ヒッタイト人の土地をただでせしめた家門という悪名も手にすることになります。これでは、神さまが約束の地としてイスラエルにカナンを与えられることが、きわめてふさわしくない形でその根拠を持つことになります。 この点でも、アブラハムが彼らの「ご主人」と呼びかけたりすることばや、妙にへりくだった態度を示したりすることを真に受けなかったことは、よいことだったと言うべきです。アブラハムは何と答えたでしょうか。13節です。 アブラハムは、あくまで通り相場で土地を買わせてくださいと申し出ました。といっても、この点でも彼らの判断に委ねました。彼らヒッタイト人が許すならば、相応のお金を払って土地を買います、ということです。 するとエフロンは、前言を翻しました。15節です。 この銀400シェケルというのは、時代によって価値が異なります。だから、それが高すぎるか適正な値段なのかはわからない、という神学上の見解があります。私も基本的にはそうだろうとは思います。しかし、聖書のほかの箇所を読んでみますと、この「シェケル」に関して、興味深い事実が見えてきます。 サムエル記第二の最後に、ダビデがイスラエルの軍事力を推し量るために民の数を数えたという、主のみこころにかなわないことを行なったため、主の懲らしめを民が受けるという、大変なことが起こったことが記録されています。疫病でいっぺんに7万人が倒れたのでした。 今、私たちの生きるこの世も、疫病の流行という時代であり、この箇所はとてもリアルに感じられないでしょうか? しかし、現代のコロナウイルスの流行のこれといった責任者の所在を問うのがとても難しい一方、サムエル記第二の疫病の責任者ははっきり、ダビデでした。 心が咎めたダビデは、主にいけにえをささげることを決意しましたが、その場所をいけにえの牛とともに提供したアラウナは、最初ダビデ王の申し出に恐れ入って、どうかただで使ってください、と言ったのですが、ダビデは、いや、お金を払って買い上げたい、と、ゆずりませんでした。それでようやく、アラウナはダビデから銀を受け取ることを承知し、土地と牛を提供しました。なんとなく、今日の箇所に構造が似ています。 ダビデは、イスラエルが主の下されたわざわいから救われるように、ダビデ王自身の悔い改め、神との和解のために、このようにいけにえをささげることを必要としました。問題はこのとき、ダビデがアラウナに支払った銀です。それは50シェケルでした。 シェケルというのは通貨の単位ではなく、重さです。1シェケルが11.4グラムですから、50シェケルは570グラム、なかなか重いですが、これは言うなれば、ダビデが神さまと和解し、イスラエルがわざわいから救われるために支払われる代価を象徴的に表しています。 一方、アブラハムがエフロンに支払った額はいくらでしょうか? 銀400シェケル、約4.5キロの銀です。一応、この時代のシェケルがダビデの時代のシェケルと同じ価値と考えると、銀400シェケルは、ダビデが払ったシェケルの、なんと8倍です。単純に考えると、王さまが自分の罪のとがめのために払ったお金の、8倍もするということです。 そう考えると、相当に高い額を吹っ掛けられたと言えなくもありません。それでもアブラハムはいっさい値切らず、言い値で買うことを承知しました。それは、それほどこの地に拠点を置くことが、自分にとっても、ひいては神の民にとっても大事であったからです。 そして、アブラハムがこのように、相手の言い値を唯々諾々と受け入れて土地を買ったということは、それだけ、居留させてもらっている土地の主人であるヒッタイト人のことを大事に思っている、ということです。アブラハムは裕福な族長として、自分の権勢を誇って、ヒッタイト人の下へも置かない扱いを当然のこととすることもできたはずです。しかしアブラハムは、そのように振る舞うのをよしとしませんでした。 アブラハムは、このようにしてきっちりとお金を払うことで、この地のヒッタイトにとって証しとなる行動をしました。これは、私たちにとっても模範となる行動ではないでしょうか。 ペテロの手紙第一、2章11節と12節をお開きください。……はい、旅人、寄留者という表現は、明らかに旧約聖書のアブラハムのことを意識したうえで、私たちのことを指しています。アブラハムが寄留者であるように、私たちもこの世にあっては、天の御国を目指しながらこの地に寄留する、寄留者です。 そんな私たちは、この世の論理で生きることを余儀なくされますし、何よりも、私たちはこの世に生きているかぎり、肉の性質を帯びて生きることは避けられません。この肉の欲は私たちのたましいに戦いを挑み、私たちが神さまに従えなくなるようにする、すなわち、神さまのご栄光を顕すという、人として最高の生き方、当然の生き方をできないようにしてしまいます。 だから、この肉の欲を避ける生き方を私たちは、ともに目指す必要があります。アブラハムは肉の欲の源ともいえる、お金に対する執着を切り捨ててでも、アブラハムから見れば異邦人であるヒッタイト人の前で立派に振る舞いました。アブラハムのこの生き方がヒッタイト人をして創造主なる神さまをほめたたえさせたかどうかは神のみぞ知る、といったところですが、少なくとも、私たちもやはり異邦人でありましたが、アブラハムのこの生き方を見て、神さまをほめたたえています。 そして今度は、私たちがその生き方によって、あとにつづく人々が神さまをほめたたえるようにするのです。時にその生き方は、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けるあまり、アブラハムが400シェケルの銀を手離したように、大きな犠牲を伴うものであるかもしれません。 しかしこれは、未来に向けて種を蒔くことと理解しておきたいものです。私たちは、葛藤を覚えるとき、天のお父さまを思いましょう。ひとり子イエスさまを十字架におつけになるほどの大きな犠牲は、信じるすべての人を生かし、そこに天の御国を実現してくださいました。私たちも十字架を信じる信仰ゆえに、天の御国に入れていただいています。 アブラハムは400シェケルの銀で、やがてイスラエルが約束の地を手にする礎を築きました。イエスさまは十字架の死によって、信じるすべての者を神の民としてくださり、御国を築いてくださいました。私たちも手離すことにより、大きな、大きな収穫を神さまが得させてくださることを、信じてまいりたいものです。 私たちにはまだ、これは自分のもの、これだけは譲れない、と、こだわっているものはないでしょうか? それを神さまの御手にゆだねる決心が与えられるように、祈ってみてはいかがでしょうか? 私たちの財産、私たちの時間の使い方、私たちの趣味……いろいろあると思います。しかし、私たちのあとにつづく人々から御国が立てられ、私たちも主とともに統べ治める者となるならば、何を惜しむことがあるでしょうか? それを手離すことにより、どれほど豊かな実を結ぶでしょうか? しばらく祈りましょう。アブラハムが、あとにつづく神の民のために、異邦人の間で立派に振る舞うために、400シェケルの銀を手離した、すなわち、未来に向けて種を蒔いた、その信仰に倣うために、私たちは何を手離すべきか、お示しください……。

アドナイ・イルエの神の子羊

聖書箇所;創世記22:1~24/メッセージ題目;アドナイ・イルエの神の子羊 私たちが聖書を読んでいると、ときに、感覚的によくわからなくなる記述に出会います。特に、神は愛なり、と語られているのに、なぜ神さまはこのようなことをお許しになるのだろうか、と、首をかしげてしまったりしないでしょうか。 しかし、それは得てして、私たち聖書を読む側の思い込みに問題があったりするものです。神は愛なり、というとき、私たちが思い描く「愛」というものが、聖書が語っている「愛」というものと一致していない、ということが、往々にしてあるわけです。 聖書を読んで感覚的に受け入れられなくなるとき、私たちのすることは、一回聖書を読んで拒否感を示したら、それきり読まなくなる、ということではありません。その箇所を一回こっきりではなく、何度でも聖書全体をお読みし、神さまのまことの愛とは何かを受け取ることです。聖書に語られていることが理解しにくいからと、あきらめないで、何度でも読み込んでいただきたいのです。 そこで本日の箇所です。本日の箇所も、なぜ神さまはこのようなことをお命じになるのだろうか、子どもをささげよだなんて! と、とまどったりしないでしょうか? そこで私たちは、この箇所のほんとうに語ろうとしていることを学び、神さまのみこころを受け取ってまいりたいと思います。 1節のみことばです。神さまがアブラハムに与えられたものは「試練」です。あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを、全焼のいけにえとしてささげなさい。」 このご命令を受けたとき、アブラハムはどのような思いだったことでしょうか。私の個人的なことですが、まだ下の娘が小さかったとき、2人でごっこ遊びをしていて、娘はこんなことを言うのでした。私はブタの丸焼きになるから、とどめを刺して! 娘は「ブヒー、ブヒー」なんて言うんです。そこに私が刃物を振り下ろす真似をします。しかし、娘はまだ「ブヒー、ブヒー」なんて言います。これでは丸焼きにはなれません。 しかし、私はもう、刃物を振り下ろす真似などできなくなり、「もうやめよう……」と言って、別の遊びを始めさせました。ごっこ遊びとはいえ、娘に手をかけているような気持ちでいっぱいになり、あまりにもつらかったのでした。 ただのごっこ遊びでさえそうなのです。ましてや、山へ連れていき、ほんとうに全焼のいけにえとしてささげよと命じられたアブラハムは、どんな気持ちになったことでしょうか。 神さまがおっしゃるとおり、アブラハムにとってイサクは、「愛しているひとり子」です。手になどかけられるものでしょうか。しかし、神さまのご命令は絶対です。 もう、お分かりだと思います。アブラハムとイサクの関係は、御父なる神さまと御子なるイエスさまの関係を示していました。アブラハムがイサクを全焼のいけにえとして神さまにささげることは、父なる神さまが愛する御子イエスさまを十字架に死なせられることを示していました。 しかし、アブラハムの従順は、イサクをほふってそれで終わり、というレベルにとどまってはいませんでした。5節のみことばをお読みください。……アブラハムは、イサクとともに戻ってくると約束しました。イサクは、生きて帰ってくる。アブラハムはそう確信していたということです。これはどういう意味なのかは、のちほどお話ししているうちに明らかになってまいります。 6節をご覧ください。アブラハムは火と刃物を取りました。火はいけにえを焼き尽くすためのもの、刃物はいけにえをほふるためのものです。どちらも、いけにえのいのちをささげるために用いる道具です。そうです、イサクのいのちがアブラハムの手のうちにあることを、アブラハムが両手に持った火と刃物は雄弁に物語っています。 一方でイサクは、薪を背負っています。薪は言うまでもなく、木です。木を背負って山道を登るイサクの姿に、やはり何かを連想しないでしょうか? そうです。十字架を背負ってゴルゴタの丘をのぼるイエスさまのお姿です。まさしくイサクは、神さまがまことのいけにえとして十字架の上にて砕かれるイエスさまのお姿を、その十字架のできごとのはるか昔に表していたのでした。 ただし、イエスさまとイサクはちがうところもあります。イエスさまはご自身が十字架に掛かられ、いけにえとなられることの意味をよく理解していらっしゃいました。これに対してイサクは、まさか自分がいけにえとしてささげられようとは、思いもしていなかった模様です。7節と8節の会話をお読みしましょう。 まず7節で、イサクはここでようやく、なぜアブラハムがいけにえの羊を連れてこなかったのか疑問に思いました。しかしアブラハムは、その羊は神さまがその場で備えてくださると答えています。 アブラハムはこのように答えていますが、アブラハムは、当のイサクがいけにえとしてささげられるということに気づかれまいと、嘘をついたか、ごまかしたかしたのでしょうか? いいえ、そうではありません。アブラハムには、羊が備えられるという信仰はあったと見るべきです。 とはいっても、この時点でははっきり、アブラハムが神さまからそのように御声を聞いたという形跡はありません。2節をお読みください。しかし、それにつづいて神さまは、「……しかし、わたしは、その場に全焼のささげ物の羊を備えよう」とおっしゃってはいないわけです。 神さまがイサクの代わりに羊を備えてくださるということは、信仰をもって信じてはいました。実際に神さまは、アブラハムに対して具体的にそのことを約束してくださっていたわけではありません。しかしアブラハムは、約束の子イサクはきっと生きて帰る……必要なら神さまは、いけにえとしてささげる羊も備えてくださる……そのように、わずかな望みにかけながら、一歩、また一歩、歩みを進めていったのでした。 そしてアブラハムとイサクは、ついに神さまがお示しになった場所に着きました。神さまのご命令はあくまで、イサクを全焼のいけにえとしてささげるということです。アブラハムは祭壇を築いて薪を並べました。そしてイサクを縛って、祭壇の薪の上に横たえました。 イサクは、アブラハムのなすがままになっています。しかしイサクは、もう子どもではありませんでした。いけにえを焼き尽くせるほどの薪を背負って山を登れるほどの体格があったのですから、充分立派でした。しかしイサクは、アブラハムが命じるとおり、縛られるままになり、祭壇に横たえられるままになりました。そして、振り下ろされる刃物を待つのみとなりました。 これは、イサクの従順を表しています。神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださる。イサクはアブラハムのそのことばを信じていました。しかし、神さまが父アブラハムにお命じになったのなら、自分が全焼のいけにえになれとのご命令にもお従いしよう……まさしく、全き従順です。 そしてアブラハムもまた、いよいよ主に対する従順を果たそうとしました。刃物を取り、息子イサクをほふろうとしました。そのとき、御使いがアブラハムの手を止め、語りました。12節です。 アブラハムは、2つの理由で、神さまから与えられた試練に合格しました。ひとつは、神を恐れていた、ということ、もうひとつは、ひとり子さえも惜しむことがなかった、ということです。 アブラハム以来受け継がれてきた私たちの信仰は、神さまを恐れるということ、そしてそれと同時に、御父なる神さまが、惜しむことなくひとり子イエスさまを十字架につけてくださった、ということを信じることです。 では、アブラハムがこのように行動したことは、信仰ということとどのような関係があるでしょうか? ヘブル人への手紙11章17節から19節です。 メッセージの冒頭でも申しましたが、時に私たちにとって難解に思える聖書箇所は、聖書全体をよく読むことによって、その葛藤を解決することがふさわしい方法です。この、ヘブル人への手紙の箇所をお読みすることもそれにあたります。 このヘブル書の箇所は、創世記22章のアブラハムのエピソードに対する、またとない解き明かしです。まずこのみことばは、アブラハムはイサクを「ささげた」と評価しています。 しかし、形だけ見ると、アブラハムはイサクを全焼のいけにえにしたわけではありません。そればかりか、イサクのことを刃物でほふってさえいません。しかしヘブル書のみことば、つまり神さまのみこころから見たら、アブラハムはイサクを「ささげた」のです。それは、御使いが「もう充分だ」と、アブラハムがイサクに手をかけるのを許さなかったことからも明らかです。 さらに18節、19節も見てみましょう。神さまがアブラハムに、イサクをささげよ、とおっしゃったことは、「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」と神さまがアブラハムにおっしゃったことと矛盾するではないか、という印象を持たなかったでしょうか? しかし、そうではないならば、残る可能性はただひとつ、「アブラハムはイサクが復活することを信じていた」ということです。 しかし、イサクは死にませんでした。代わりに、そこに備えられた羊、「主の山に備えあり」、「アドナイ・イルエ」の羊がささげられたのでした。それでもヘブル書のみことばは、アブラハムがイサクのことを「死者の中から取り戻した」と評価しています。 ここに、イサクをとおして私たちは、イサクの二重の立場を垣間見ることになります。まず、イサクはイエスさまの象徴でした。アブラハムは、イサクをほふっていけにえとすることをみこころとして受け取っていました。しかし、それと同時に、イサクは死んだままではなく、復活して、そのイサクから約束の民、神の民を生まれさせてくださると信じていました。 イエスさまも、その死によって御父に対する宥めの供え物となられましたが、三日目に復活されました。御父はイエスさまを、死者の中から取り戻されたのでした。 それでもイサクとイエスさまとの間には、決定的な違いがあります。言うまでもないことですが、あえて申します。イサクは死ななかったのですが、イエスさまは死なれたのでした。イエスさまを十字架の上で死なせるしかなかった御父のみ思いは、いかばかりだったことでしょうか。 イエスさまは十字架の上で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、叫ばれました。何の罪のない神の御子が、私の、あなたの、私たちの罪をみな背負って、十字架の上で呪いを受けられました。そのように御子が叫ぼうとも、見捨てるしかなかった御父のみこころは、いかばかりだったことでしょうか。 もうひとつのイサクの姿、それは、備えられた羊によって全焼のいけにえとなるのを免れた姿ですが、何に似ているでしょうか? それは、まことの備えられた羊なるイエスさまによって焼き滅ぼすさばきの火を免れた、私たち信仰する者たちの姿です。 私たちは罪人です。私たちにふさわしいものは、焼き滅ぼす神の怒りの炎です。滅ぼされるべき者たちです。しかし、イエスさまは、私たちを愛して、この炎と燃えさかる御父の怒り、罪人を滅ぼさんとする怒りを、十字架の上に釘づけにされた両手で受け止めて、私たちを御怒りからかくまってくださいました。 イサクが、備えられた羊によって無事に帰ってくることができたのは、私たちがさばかれる代わりに、イエスさまがそのさばきを身代わりとなって受けてくださった、それゆえに私たちがいのちを得させていただいた、そのことを象徴しています。 最後に、本日学びましたアブラハムのイサク奉献について、新約聖書のまた違った角度の評価からも学んでみたいと思います。ヤコブの手紙2章21節から24節をお読みしましょう。 アブラハムが信仰の人であったということは、実際にイサクをささげるほどに神の御声に聞き従うことで証明された、というわけです。そうです、信仰は行いという形で実を結んでこそしかるべきであるわけです。 たしかに、イエスさまを信じさえすれば私たちは救われるのであって、救われて永遠のいのちを得るためには、それ以上のことをする必要はありません。 しかし、今度はその信仰を、神に救われた者としてふさわしい行いへと実を結ぶべく、神さまに拠り頼む方向へと生かしていく必要があります。 面倒なことはしなくていい、やりたくないことはしなくていい、なぜならもう、信じているのだから……このように安易に考えることが許されるのならば、聖書のみことばがここまで分厚い必要はありません。私たち人間は、そこまで単純な存在として創造されているわけではありません。 偉大な神さまのみこころにお従いすることは、どんなに素晴らしいことか、そのことをみことばは、時にはモデルを示しながら、時には反面教師を登場させながら、私たちに教えてくれています。 アブラハムの場合は、イサクをささげるということを実践することで、信仰とは御父が御子をいけにえとされたことを信じることであると、私たち主の民に教えてくれています。そこから私たちも、いずれの日に取り戻させていただくという信仰をもって、わずかでも自分の持つものをささげる実践をさせていただくというわけです。 本日は主の晩さんを執り行います。備えられた羊なるイエスさまのみからだにあずかり、血潮にあずからせていただいているという事実を、いまいちどこの共同体が確かに受け取らせていただく時間です。 この大事な時間に備え、一週間私たちは祈ってきたことと思います。それでも私たちは、主の御前にふさわしくないことをしてしまったかもしれません。悔い改め、それでも主のみからだと血潮にあずかるものとならせていただいていることに感謝し、主の晩さんに臨みたいと思います。しばらく祈りましょう。

寄留者の祝福

聖書箇所;創世記21:22~34/メッセージ題目;寄留者の祝福 今日のメッセージのタイトルは、「寄留者の祝福」とつけさせていただきました。「寄留者の祝福」とは、「寄留者の受ける祝福」であり、「寄留者の与える祝福」です。 アブラハムは、神さまから祝福の源として召されていました。それは、アブラハム自身が祝福を受けるということであり、同時に、アブラハムが祝福を人々にもたらすということでもありました。しかしその祝福は、どこかに定住してもたらしたものではありません。天幕生活、放浪の生活の中で、祝福を受け、祝福をもたらしたのです。 さきほどお読みしたみことばは、そのようなアブラハムの「寄留者の祝福」を、如実に描いています。このみことばから「寄留者の祝福」を、「寄留者の受ける祝福」と「寄留者の与える祝福」の2つの側面から学んでまいりたいと思います。 まずは、「寄留者の受ける祝福」です。22節をご覧ください。……アブラハムの受けていた祝福は、この地の王であったアビメレクも認めざるを得なかったようなものでした。 それはそうです。アブラハムは100歳にして、90歳の妻サラを通じて子どもをもうけました。そのプロセスで、当のアビメレクがサラに指一本ふれることを神さまはお許しになりませんでした。そしてアブラハムは無事子どもイサクをもうけました。さらには、イサクが跡取りになることにおいて最大の障害であったイシュマエルは去りました。 アビメレクはその様子を見て、アブラハムの背後にはどれほど、神の見えざる手が働いていることかを感じずにはいられなかったことでしょうか。 アブラハムは、ゆえなく祝福されていたわけではありません。創世記12章の1節と2節をご覧ください。……聖書に記録されているかぎり、アブラハムがお聴きした最初の主の御声は、このように語っておられたのでした。わたしはあなたを祝福する。あなたは祝福となりなさい。 アブラハムが祝福されることは、最初から神さまによって定まっていたことでした。主は与え、主は取られる。私たち人間が祝福されるかどうかは、すべて神さまにかかっています。 私たちはどうでしょうか? 私たちは祝福を受けた存在です。最大の祝福、それはイエスさまの十字架を信じる信仰が与えられ、罪赦されて神の子どもとなり、永遠のいのちが与えられた、ということです。 しかし、このことが祝福であることを実感するには、どのように生きる必要があるでしょうか? そこで私たちは、「神の栄光を顕す」生き方をする必要があります。私たちのことを罪から贖い出してくださった神さまの、その素晴らしさを、私たちの生き方によって、隣人に証しするのです。 お開きにならないでよろしいですが、マタイの福音書5章16節で、イエスさまはこのようにおっしゃっています。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」 光は闇の中に輝いています。闇の中を生きているかぎり、私たちはこの世にあってつまずき倒れます。しかし、光に照らされているかぎり、私たちは安全です。神さまの導きをいただいている確信を持って、日々を生きる力が与えられます。 世界はサタンの支配のもとにあり、そのために人々は悪の道を歩み、あるいは搾取され、塗炭の苦しみを味わっています。この世界にあって、私たちがイエスさまにあって解放された生き方を示していくならば、人々はそのような私たちの生き方を見て、私たちの信じる神さまが素晴らしいことを知るようになるのです。 私たちは、自分が祝福されていることをどれほど知っていますでしょうか? 私たちが聖書を読むこと、お祈りすることは、その、神さまの宝物のような自分の価値を発見させていただくことであり、そのような自分が人々に神さまのすばらしさを顕すということにおいて、神さまの御手に用いられるという、祝福の道に踏み出していくことでもあります。 アブラハムとアビメレクの話に戻りますと、アビメレクはアブラハムの姿を見て、いやでも、そこに神さまが生きて働いておられたことを見るのでした。 そこで、「寄留者の祝福」を、こんどは「寄留者の与える祝福」という側面から見てまいりたいと思います。 23節のみことばを見てみましょう。……あなたは何をしても神がともにおられる。だから、私と私の子孫を裏切らないでいただきたい。私があなたに示した誠意にふさわしく、私にも、この土地にも、誠意を示していただきたい。 このようなことをアビメレクが言った背景には、明らかに、アブラハムの偽ったことばによって、危うく自分がサラを召し入れて、いのちを失うところだったという、アブラハムに対する叱責が込められています。アブラハムは確かに祝福されている。しかし、あなたの祝福、うまくいっていることが、すなわち私とその民に対する呪いとなってはたまらない、私とその民も、主にあって祝福されるようにしていただきたい、ということです。 先々週も学びましたが、アブラハムはアビメレクとその民を、創造主なる神さまを恐れることがないゆえに私のことを殺すような者たちだ、と断じました。まるで野蛮人のような扱いです。しかし、実際はそうではありませんでした。アブラハムは確かに祝福されていましたが、神さまを恐れていたという点では、アブラハムよりも、アビメレクとその臣下の方が上でした。 アビメレクは確かに、アブラハムの姿に創造主なる神さまの栄光を見ることができたのですが、その神の栄光を正しく表すことをしていなかったアブラハムのことは難じました。あらためてアビメレクは、アブラハムが誠意を尽くすことで神の祝福が自分とその民に臨むように、すなわち、呪いから自由になるように、アブラハムに要請したのでした。 私たちが隣人に対して神の栄光を顕すことは、隣人をさばいたり、蹴散らしたりするような形になってはなりません。人々は神さまにお従いする私たちの姿を見て、何やら特別な力が働いている、と思うかもしれません。それはありえることです。 しかしそんな当の私たちが、周りの未信者のことを、イエスさまを信じていない、救われていないなどと、見下したり、さばいたりしていいわけがありません。私たちのすることは愛することであり、さばくことではありません。 しかし、私たちは時に、そのようにまるでパリサイ人のごとく振る舞う自分の傲慢さが、事もあろうに未信者によって指摘されることがあります。そのようなとき私たちは、神の栄光を隠してしまった、とか、証しにならないことをしてしまった、などと、落ち込む必要はありません。 私たちのすることは、そのような傲慢な自分を神の前でも人の前でも素直に認め、悔い改めることです。私たちは所詮、まだまだ整えられている段階にある者です。そうして私たちは、神の栄光を顕す者としてますます整えられます。これは祝福です。 そもそも、神さまは私たちの不完全さによって、そのご栄光が隠れてしまうような小さい方ではいらっしゃいません。 アブラハムは嘘をつき、その結果アビメレクとその民に破滅をもたらしかねないことをしたわけですが、それでもアビメレクは、アブラハムの神なる創造主を、かえって認めています。神の栄光をアビメレクは見ているわけです。 神さまは、そのご栄光を顕すべく遣わされた人間の卑小さを超えて、ご栄光を輝かせるお方であることを覚えましょう。私たちはなにも、人間的な努力をして神の栄光を輝かせようしたり、輝かなかったからと落ち込んだりなどしなくてもよいのです。 アブラハムの話に戻りますと、アブラハムはアビメレクに促されて、アビメレクとその子孫を裏切らない、そして、アビメレクにもその土地にも誠意を尽くすことを誓いました。これで、アブラハムの受ける祝福はアビメレクにとって呪いではなく、祝福となったのでした。 しかし、アブラハムには解決すべき問題がありました。自分が掘った井戸がアビメレクのしもべに奪い取られたというのです。アブラハムは、これは不当であるとアビメレクに抗議しました。 井戸というものは、掘るのに相当な労力を必要とします。しかし、荒野の中で井戸を掘ることをしないならば、遊牧生活をしていたアブラハムにとっては自分の家族やしもべたち、家畜に飲ませる水が確保できないことになり、死活問題です。アブラハムにはどうしても井戸が必要でした。 しかし一方で、アブラハムの寄留していた土地はゲラルの地、アビメレクのものです。アビメレクのしもべたちが、この土地に掘られた井戸の所有権を主張するのは、当然といえば当然のことでした。アブラハムにしてみれば、取られた、奪われた、という意識が強かったでしょうが、アビメレクのしもべたちは、アビメレクの土地を管理する者として、当然のことをしたまででした。 しかし、26節をご覧ください。アビメレクは、そのことは知らなかったし、あなたもそのことを今まで私に告げてはくれなかった、と、反論しています。アビメレクは、それは知らなかったのだから私を責めないでほしいと主張している一方で、もし必要ならばあなたに返還する用意がある、ということも語っていることになります。話が分かる人です。 アビメレクのしもべたちが遊牧生活を送るアブラハムから井戸を奪ったということは、おまえはもうこの土地にいるな、というメッセージを送っていることにもなります。 このような反応は、かつてアビメレクがアブラハムからサラを取って召し入れようとしたとき、あやうくアビメレクにも主のさばきが及ぼうとして、それを聞いたしもべたちも大いに恐れたことと考え合わせると、どうなるでしょうか? アビメレクのしもべたちもまた、アブラハムがあらゆる形で主の祝福を受けていたことを見ていたはずです。そんなアブラハムの姿に、彼らは恐れをいだいたでしょう。このままでは自分たちの土地も奪われるかもしれない、それも不当な形で、なにしろ、サラの一件でもあれだけ不当なことをしたというのに、結局は創造主なる神の祝福を受けているではないか……。 このようなとき、彼らの取る手段は二つに一つです。ひとつは、アブラハムの神である創造主の御前にひれ伏すこと、もうひとつは、創造主を恐れるあまり、創造主の寵愛を一身に受けているアブラハムを遠ざけることです。彼らが取ろうとした手段は、後者、アブラハムを遠ざけることでした。出ていけ。この井戸は、われわれの土地に掘られたものであるかぎり、われわれのものだ。 しかし、アビメレクはそのようには考えませんでした。アブラハムの掘った井戸は、あくまでアブラハムのものであると見なしました。あらゆる面で神がともにおられるアブラハムに、彼が採掘した井戸の所有権を与えることにより、アブラハムが寄留するゆえに神さまがその土地に注がれる祝福を、ともに享受する道を選びました。 ただしアブラハムは、その井戸をただで返してもらうことはしませんでした。自分の群れの中から羊と牛を取って、アビメレクに与えました。これが両者の間の契約となったのでした。アビメレクは土地を提供し、アブラハムは家畜を提供する、そういう契約です。 このことにより、アブラハムはアビメレクの治める土地から井戸水をくみ上げ、しもべたちや家畜とともに土地に寄留することが許されました。しかし、アブラハムは契約を結んだだけではありません。アビメレクに贈ったその家畜の中から雌羊7頭を取り分け、井戸は私アブラハムが掘ったという証拠としていただきたい、と言うのでした。 ここから、この土地の名前がベエル・シェバと名づけられました。ベエル・シェバは2つの意味を含む掛詞(かけことば)となっていて、ひとつは「誓いの井戸」という意味、もうひとつは「七つの井戸」という意味です。この名前、また、アブラハムが贈った羊が7頭であったことから、アブラハムが所有権を主張した井戸は7箇所であったようですが、ともかく、この7つの井戸は、誓いによってアブラハムのものとなっている、というわけです。 このようにして、アビメレクはこの井戸のある土地、ベエル・シェバは、アブラハムの寄留する地であると認めた、と誓いました。これは、創造主なる神さまにかけて誓ったということで、絶対です。こうして、アブラハムはこの地に寄留する権利を、神さまからも、そしてこの地を治める王からも、正式に得ることになりました。 それだけではありません。アブラハムはこの地に、1本のタマリスクの木を植えました。木を植えることは象徴的です。やがて去る土地であるならば、木など植えても仕方がないわけで、木を植えるということは、この地に定住しようというアブラハムの誓いを見ることができます。 そして、次章22章を読むと、アブラハムはここベエル・シェバに腰を落ち着け、ついにウルの地から出発した放浪生活に終止符を打つことになるのでした。もはやアブラハムは、寄留者ではなくなるのでした。 とはいいましても、アブラハムの子孫であるイスラエルがほんとうの意味で「ダンからベエル・シェバまで」と象徴的に言われる、ここパレスチナの地に住むようになるのは、ずっとあとのことですし、その民もさらにのちの時代、2度にわたってこの土地を追われることになりました。イスラエルは寄留者としてこの地を長く生きることになったのでした。 現在は国としてのイスラエルが復興し、多くの人がイスラエル人として国に帰還していますが、世界には今なお多くのディアスポラ、散っている人が存在しています。寄留者なのです。 一方、イエスさまを信じる信仰によって神の民とされ、アブラハムを信仰の父と呼ぶことが許されている、私たちの場合はどうでしょうか。私たちはこの世界の地上の、日本という土地に住んでいますが、いかに自分の土地を持ち、自分の家を建てても、やがてこの地上を去ることが定められています。私たちもまた、寄留者です。 それでも私たちは、寄留者でありながらも、どれほど多くの祝福を神さまからいただいていることでしょうか。私たちには食べるものがあります。住む場所があります。そればかりではありません。神さまをともに礼拝する、主キリストのからだなる教会のひと枝ひと枝とされています。 やがて私たちは、寄留者の生活を終え、永遠の天の御国に入れられます。神さまが私たちを、永遠の住まいに迎えてくださると誓ってくださった以上、私たちは入れていただけるのです。 だから私たちはこの地上の生活に汲々となるのではなく、上にある天の御国をつねに見上げて生きる者となりたいものです。 また私たちの存在は、この寄留している地に祝福をもたらしているという自覚を持って生活したいものです。アビメレクがアブラハムの存在の背後に創造主なる神さまを認めて恐れたように、私たちも神さまとともに生きる生き方をしていくことで、この世に神さまを証しするのです。 その生き方は、この世の人々を愛し、祝福するという形で実を結びます。そして、私たちの愛や奉仕を受け取るこの世の人たちも、私たちのその神さまにならうよい行いに触れて、神さまはおられること、その神さまは世界万物を造られ、人をつくられた創造主であられること、そしてその神さまは愛であられること、その愛によって自分も愛されていること、このお方こそ信じ受け入れ、お従いすべきお方だということを、受け入れられるようになります。 そのような人は、私たちと同じように、この世界は寄留するだけの土地であり、やがて天の御国に迎えられる日を待ち望み、それゆえに日々その天の御国に入れられるにふさわしく、主の栄光を顕して生きるようになります。 私たちは、寄留者として生きるこの地上で、主の栄光を顕して生きるという祝福が与えられており、その祝福は周りの人々を祝福します。こうしてともに、御国を受け継ぐ祝福に入れられるのですから、どんなに素晴らしいことでしょうか。この祝福ゆえに、ともに神さまをほめたたえつつ、この地上の歩みを歩みおおせてゆく私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

恵みに目が開かれる

聖書箇所;創世記21:1~21/メッセージ題目;恵みに目が開かれる  私は、独身時代から結婚を経て、下の娘が生まれたころまで、千住(せんじゅ)という東京の下町にある韓国人教会で働いていました。私もまだまだ若かったころで、いろいろな想い出がありますが、その中でも忘れられないのが、上の娘が1歳の誕生日を迎えたとき、教会のみなさまに祝っていただいたことです。  韓国人ばかりが集まって韓国語で礼拝をささげる教会なので、行事の持ち方も韓国式になります。1歳のお祝いというのは、韓国社会では特別な意味を持つものでして、「トルジャンチ」という特別な呼び名もあるくらいです。このトルジャンチを教会のみなさまに祝っていただいたわけです。私ども夫婦はみなさまのお祝いに感謝して、お餅をお配りしました。 お餅といっても、日本式のお餅ではありません。日本で暮らす韓国の人たちを相手に、ちょっと離れた西新井(にしあらい)という町にある韓国式のお餅を売るお店から、わざわざ取り寄せたものでした。教会のみなさまにも喜んでいただけたと思います。懐かしい想い出です。   私どもにとっては、このトルジャンチは日本にいながら韓国式に持ったこと以上に、特別な意味がありました。娘は、3か月早産、27週の超未熟児で生まれており、特に、かかりつけの産婦人科で手の施しようがなくなり、救急車で1時間かけて大学病院に運ばれたときなど、私はおそらく、それまででいちばんいっしょうけんめいにお祈りしたのではないかというくらいに祈ったものでした。 そのような娘を、神さまはしっかり育ててくださったのでした。ああ、よく育ってくれた! まことに、このトルジャンチは、感慨深いものがありました。  私どもですらそうだったのですから、アブラハムとサラの間に生まれたイサクが、乳離れまで果たしたとは、彼らにとってどれほど大きな喜びとなったことでしょうか。何しろ100歳、90歳のときに生まれた子どもです。こんなに年を取ってしまったとは、子どもだけでなく、親も心もとないところです。それが無事に育ってくれて、親も達者でいたとは、喜びもひとしおというものです。 ところが、この喜びが一転、家庭の不和と深刻な悩み、そして別れへとつながるという、聖書を読んでいてもとてもつらいできごとへとつながっていきました。そんな今日の箇所は、私たちに何を教えていますでしょうか? ともに見てまいりたいと思います。 まず、1節と2節のみことばを見てみましょう。神さまは約束を果たされて、サラの身からイサクを生まれさせてくださいました。ここからわかることは、神さまは約束を果たして、人を顧みてくださるお方である、ということです。サラからご自身の民を生まれさせてくださると約束してくださった以上、そのとおりにしてくださるのです。 このように神さまが、特別な約束を果たしてくださったことは、アブラハムとサラにどのような祝福をもたらしたでしょうか? 3節のみことばです。 名前に注目しましょう。イサクという名前、これは欄外の脚注にもありますように、「彼は笑う」という意味です。この「笑い」はサラにとってどんな意味を持っていたかは、6節のみことばを読めばさらによくわかります。そうです、サラはここで、ようやくほんとうの意味で、にっこりと笑うことができたのでした。 サラはかつて、御使いの訪問を受けて、男の子を産む、と告げられたとき、こんなお婆さんが子どもを産むなんて、と、笑いました。その笑いはうれしくてにっこりと笑うその笑いではなく、年老いてついに子どもを授からなかったおのが身の悲しさに皮肉な笑いを浮かべた、その笑いです。 そのサラが、このように約束の子どもを授かり、ついにほんとうの意味で「笑う」ことができるようになったのでした。神さまが約束をかなえてくださるということは、「笑い」を回復させてくださる、ということでもあります。 その笑いに満ちた時間、それが、盛大な乳離れの宴会でした。この宴会は、だいたい3歳くらいになると催されたといいます。まさに、年寄り子が寵愛を一身に受けていた様子が伝わってくるようです。 ところが、この笑いに満ちた家族の喜びが、一転して悲劇にたたき落とされます。きっかけとなったのは何でしょうか? 皮肉なことに、これも「笑い」だったのでした。 9節をご覧ください。エジプトの女ハガルがアブラハムに生んだ子、これはイシュマエルですが、イシュマエルがイサクをからかっていた、とあります。この「からかう」ということばをいろいろな聖書の翻訳を比較して読んでみると、「戯れていた」「遊んでいた」という訳もある一方で、「笑っていた」という訳もあります。 しかしこのときイシュマエルの取った行動は、聖書原語のヘブライ語のニュアンスから見ると、イシュマエルは笑うは笑うでも、イサクのことを「あざ笑っていた」と解釈するのがいちばん妥当で、この新改訳聖書の「からかっていた」という表現は的を射ていることになります。 イシュマエルのこの行動がサラを怒らせ、ハガルもイシュマエルも追い出してください、ということになったわけですが、これは、弟をからかうなんて子どもとしてよくあることではないか、何もそんなに目くじらを立てなくても、という問題ではありません。 このときイシュマエルは、乳離れして3歳にもなっていたイサクよりも13歳年上なので、すでに16歳になっていました。イサクがいかに幼児といえども、アブラハムとサラとの間に生まれて家督を継ぐ正式な跡取りとなり、神の民を生み出す源となっていたことを知らないはずがないばかりか、そのことの持つ重みを、イシュマエルは充分に理解していてしかるべきでした。 それが、そのようにからかった、あざ笑ったということは、神さまがイサクに与えられた神の民の源としての権威を無視することでした。サラが耐えがたい思いをしたのは、自分が産んだわけではないイシュマエルがイサクを馬鹿にすることに対してともいえますが、サラの怒りがかきたてられたことは、大局的に見れば、主の大きなみわざが行われる契機となったのでした。 こうまで神の権威をないがしろにするイシュマエルは、やはりアブラハムのあとを継いで神の民に数えられるにはふさわしくなかったのでした。イシュマエルはやはり、出ていかなければならなかったのでした。 しかし、アブラハムは悩みました。もとはといえばイシュマエルは、自分のあとつぎにすべくもうけた子どもであり、まだイサクが生まれる前には、自分に与えられた神の民としての祝福を受け継ぐ存在としてずっと育てつづけてもきたわけです。 そもそも、アブラハムとサラが待ちつづけることができて、神の時にしたがってイサクひとりをもうけていればこんなことにならなかったのです。アブラハムは自分のしたこととはいえ、きわめてつらいかたちで刈り取りをすることを迫られていました。 しかし、神さまはそのように苦境に陥ったアブラハムに、助け舟を出してくださいました。どのようにしてでしょうか? みことばを語られることによってです。12節、13節をお読みください。 ここからわかることは、人は神さまの御手に悩みをゆだねるならば、神さまはその悩みから解放してくださる、ということです。苦しんではならない、そう神さまは語ってくださいます。 ここで神さまは、わたしはあなたに約束したとおり、イサクからあなたの跡継ぎとなる民を増え広がらせる、とおっしゃいました。しかし、神さまはイシュマエルを切り捨てられたわけではありません。イシュマエルからも民を増え広がらせることで、神さまはアブラハムに与えてくださった祝福を実現してくださることを約束してくださったのでした。 世に、望まない妊娠、などということばがあります。望まないのに妊娠したからと、中絶を考えたりします。しかし、子どもをみごもらせてくださることは神さまの主権のうちにあると考えるならば、望まないのはあくまで人間の側であり、神さまにとっては「望まない」ということはないはずです。 この、イシュマエルの存在も、イサクが乳離れするほどに育った今となっては、特にサラにとっては「望まない」存在となっていたかもしれません。しかし、「望まない」のは人間の都合であり、神さまはイシュマエルが生まれることを望んでおられたのです。 神さまがみこころのままにみごもらせ、出産させ、育ててくださった以上、「望まない」ということはありえないのです。神さまはイシュマエルをとおしても、民を増え広がらせる祝福を約束してくださいました。 14節をご覧ください。アブラハムは、翌朝早く、ハガルとイシュマエルを家から出しました。決断と行動は早くしなければならなかったのでした。ハガルは正妻ではなく、奴隷の身分です。主人に言われたならばそのとおりに従わなければなりませんでした。 食べ物と水の入った皮袋を持たせたといっても、そこから先のことまでアブラハムは責任を持つことはできません。あとは、ハガルとイシュマエルで何とかするしかありませんでした。しかし、荒野をさまようのもむなしく、ついに水は尽きてしまいました。 イシュマエルももはや、精も根も尽きたのでしょう。イシュマエルを荒野に立つ灌木の下に放り出すと、ハガルはそこから離れました。ハガルは遠くからイシュマエルの姿を見つめていて、声を上げて泣きました。 思えば、ハガルの人生は、奴隷という立場ゆえに、アブラハムの身勝手さに翻弄されてばかりの人生でした。もともとハガルはエジプトの人でしたが、アブラハムがエジプトに落ち延びてサラを自分の妹だなどとファラオに偽り、その際にファラオがアブラハムに贈った奴隷の中にいたのがハガルでした。そして、神さまの約束を待ち切れなかったアブラハムの子どもをみごもる羽目になったのもハガルでした。ハガルはその身重の身で、サラにいじめられて逃亡し、神の声を聞いてアブラハムのもとに戻ったりしました。 ハガルが泣き叫んだのは、そんな翻弄されてばかりのおのが悲しさのゆえでしょう。「笑い」という意味の名前が与えられたイサクのゆえに追放されることになった自分たちは、もはや笑いとは正反対の身に置かれました。なんと皮肉な生き方を強いられたことでしょうか。 しかしハガルは、神さまを恨むべきではなかったのでした。神さまは何をしてくださったのでしょうか。17節です。……神さまはハガルの泣く声を聞いてくださいましたが、それ以上に、イシュマエルの声を聞いてくださったのでした。イシュマエルとは、「神は聞く」という意味です。まさに、イシュマエルの存在が衰え果てようとしていたとき、神さまはイシュマエルの、声にならない声を聞いてくださったのでした。 イシュマエルは、放っておかれてはならなかったのでした。主のみこころは、ハガルがイシュマエルを放っておいて、死ぬに任せることではない、イシュマエルをしっかり抱きしめ、元気づけることだったのです。 そのとき主は、ハガルの目を開いてくださいました。するとそこには、井戸がありました。もうこれでイシュマエルは死ぬことはありません。イシュマエルは元気づきました。 イシュマエルは神に見捨てられた人ではありません。かえって、神さまはイシュマエルとともにいてくださり、荒野にあっても自分で身を立てて成長するすべを身に着けたことをみことばは語っています。のみならず、結婚まで果たしました。ここから神さまは、先祖をアブラハムとする民を生まれさせてくださったわけでした。 以上見てきたところから私たちが学ぶこと、それは、約束の民に属さない者に対する、神さまのかぎりない恵みとあわれみです。 神のみこころを正しく受け取ることをしなかったアブラハムとサラに翻弄されることになったのは、ハガルとイシュマエルの責任ではありません。しかし神さまはそれでも、イサクからご自身の民を増え広がらせるというご自身のみこころを成し遂げるために、ハガルとイシュマエルをアブラハムのもとから去らせました。イシュマエルは約束の子どもではなかったからでした。 そんな神さまは薄情なお方なのでしょうか? 私たちはそう考えてはなりません。このようなイシュマエルの民に象徴される異邦人も、ほんとうの意味でアブラハムの子どもとして回復されるべき時が来ます。それは、神の御子イエスさまを信じる時です。 エペソ人への手紙2章11節から19節をお開きください。特に12節、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人である、異邦人とはそのような存在ですが、それはすでに、イサクとちがって跡取りから除外されたイシュマエルにすでに、このような悲惨な異邦人の現実は実現していました。 しかし、彼らのそのような悲惨な現実も、イエスさまの十字架を信じ受け入れることで、ほんとうの意味でアブラハムの子孫となることにより、祝福へと変えられるのです。 いま、アラブ人の宗教であるイスラム教は、自分たちが先祖イシュマエルをとおして神の祝福を受け継いでいると教えます。しかしこれは、聖書の教えとは相受け入れるものではありません。ほんとうに祝福を受け継ぐのは、イエスさまを信じ受け入れることによってです。 イシュマエルの子孫を祝福するという神さまのみこころは、今や世界の一大勢力となった、われらキリスト教会と同様に一神教であることを主張するイスラム教が勃興したことで実現したわけではありません。イスラム教は、イエスさまのことを預言者と見なそうと、神さま、主としてお従いしているわけではありません。 一部では、私たちの信じるイエスさまの父なる神さまとイスラム教の神であるアッラアが同じ神であるなどと解釈して、キリスト教とイスラム教を一致させる「クリスラム」または「キリラム教」などと呼ばれる神解釈を推進させる運動がありますが、聖書的に考えるならば、これは間違いです。 しかし、そのような非聖書的な運動が推進される一方で、アラブ社会の中には迫害をものともせずにイエスさまを信じる人たちが起こされているのをご存じでしょうか。彼らアラブ社会のクリスチャンたちは、ほんとうの意味で、イシュマエルが引きついだアブラハムの子孫としての祝福を受け取っているのです。 イシュマエルの子孫が祝福されているという、その祝福は彼らによって実現しているのです。迫害を避けて妥協して「キリラム教」などと主張するのと、アラブ社会の中で迫害されようともイエスさまを純粋に信じようとするのと、どちらが聖書的か、すなわち、まことの神さまのみこころにかなっているか、言うまでもないことです。 ひるがえって、私たちのことを考えてみたいと思います。私たちはもしかして、イエスさまを否定し去るような日本の社会に生まれたことで、神さまを恨んだりしてはいないでしょうか? あるいは、キリスト教社会としての長い歴史を持つ欧米をうらやんだりしていないでしょうか? しかし、その必要はないのです。私たち日本人が、世々の聖徒とともに恵みを受け継ぐことはないなどと、だれが決めつけるのでしょうか? 私たちはそのような中でも、キリストの十字架を信じる信仰を与えていただき、すべての時代、すべての世界の兄弟姉妹とともに、神の民にしていただいているのです。 ハガルとイシュマエルをあわれんでくださった恵みの神さまは、約束の民から除外されたまま生きていたと思わされていた悲惨さから救ってくださったように、私たちのことも救ってくださいます。いま私たちの周りには、神さまから見放されたとばかりに悲しみの中にいる方がいらっしゃるかもしれません。 そんな方々に対し、神さまの恵みに目を開かせた御使いの役割を果たすのはだれでしょうか? 私たちではないでしょうか? 私たちも恵みによって救っていただいたように、そのような方々が神さまの恵みに目を開くために私たちのことを用いていただけるならば、どんなに素晴らしいことでしょうか。 そのためにもまず、私たちが、神さまの恵みに目を開いていただきましょう。そうしてこそ私たちは、愛する同胞、家族を主のもとにお連れすることができます。自分のことしか見えなくなり、何も見えなくなっていたハガルが、目の前の井戸に目が開かれ、死にかかっていたわが息子、イシュマエルを生かすことができたようにです。 私たちは異邦人であろうとも、キリストの血によって神の民に加えていただいた。この恵みに日々感謝し、私たちを愛して召してくださった主にお従いする私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。

人の思いを超える祝福

聖書箇所;創世記20:1~18/メッセージ題目;人の思いを超える祝福 劇作家のつかこうへいが言っていました。詐欺師は、嘘をつくことにおいて、まるで芸術家のようだ。嘘をつくことの犯罪は、最近ですとオレオレ詐欺、にせ電話詐欺、などという、ぞっとしないものが目立ちますが、あれだけ手が込んだ犯罪など、よく思いつけるものだと思います。あんな手合いを芸術家などと呼びたくはありませんが、きっと、あのような犯罪を考えついた者たちは、それがうまくいったときなど、まるで絵や音楽が上手に創作できた芸術家のように、自分たちの悪知恵に酔いしれていることでしょう。 しかし、嘘がどんなに素晴らしく思えても、神さまがご覧になったらいかがでしょうか? 偽証してはならない、と、律法は語ります。あのような悪質な嘘でなくて、嘘も方便、などというケースもあるかもしれませんが、嘘は嘘です。それがどんな理由でなされたものでも、神さまは喜びません。 今日の聖書箇所でも、アブラハムは嘘をついたような振る舞いをしています。サラのことを、自分の妻だと言わず、妹だと言ったことは、かつてエジプトででも行なったアブラハムの処世術でしたが、サラはたしかにアブラハムにとって、母親ちがいの妹ではありましたが、妻という立場が優先するはずです。 そればかりではありません。もっと重大な問題があります。サラは約束の子、神の民の源なるイサクを生むべき立場にありました。アブラハムのこの嘘をついた振る舞いは、自分自身の罪だけではなく、イスラエル民族の危機につながり、神さまのみこころを損なうことにつながる、重大な問題でした。 ともかくも、アブラハムはゲラルの地に寄留していたとき、サラのことを、自分の妹であると公言しました。アブラハムが自分の身を護るためでした。そのためには、サラが取られて人妻となってもかまわない、とさえ言っているような態度です。 それにしても、ここまで私たちは聖書を読んできて、おかしい、と感じないでしょうか? あれだけアブラハムは、神さまの約束のみことばを受け取り、自分の妻であるサラから約束の子どもが生まれることを聞いていたというのに、この不信仰はいったい何だ、そんなことを思わないでしょうか? しかし、これは私たちにとっては反面教師として、しっかり心に留めておくべきことです。私たちはいつもみことばを読んでいます。神さまの語りかけを受け取っています。 それなのに、私たちはなんと、そのみことばのとおりに振る舞えないことが多いものでしょうか。聴いていたはずのみことばを実行できず、かえって、そのみこころと反対の、罪深いことを行なってしまうものでしょうか。 アブラハムの姿は私たちの姿です。だから、アブラハムの正体見たり、とか、アブラハムは魔が差したのだろう、などと切り捨ててはなりません。今日の箇所からともにじっくり学び、私たちもまた、信仰の人としていかに考え、また語り、振る舞うべきか、考えてまいりたいと思います。 さて、ともかく、アブラハムのもとに王から使いがやってきて、サラは王のもとに召し入れられました。ここでもさらに、私たちは、おかしい、などと思ったりしないでしょうか? サラはこのときで90歳にもなります。90歳のおばあちゃんを召し入れる王さまなどいるのだろうか! 聖書の言っていることはいかになんでも! などと、ちょっと混乱しないでしょうか? しかし、最近私には、このサラにまつわる聖書の記録は決して誇張でもなく、嘘をついているわけでもないと確信したできごとがありました。その日私はテレビを視ていました。すると、はっとするほど綺麗な女性がテレビに出てきました。明らかに若い人ではないのですが、何と申しますか、並々ならぬ気品をたたえていて、ああ、綺麗だなあ! と、見とれてしまうような女性でした。 いったいだれでしょう? 岸恵子さんでした。いえ、過去の映像とかではありません。新作の舞台の宣伝だったので、今の岸恵子さんです。その女性が岸恵子さんだとわかったときには、もう、びっくりを通り越して、呆れかえってしまいました。 岸恵子さんは昭和7年、1932年のお生まれです。そう、今年88歳になられます。米寿です。映画「君の名は」に出演されたのはもう70年ちかくむかしですが、ずっとお綺麗な方だったわけです。 あの、岸さんのお姿を見て、私は確信しました。岸さんがあれだけお綺麗ならば、子どもを産めるようにしてくださっただけの若さを神さまから与えられた、サラはもっときれいだったにちがいない。年齢がどうあれ、王さまが召し入れることも、充分ありえたはずだ。 アビメレクも、このような美人を召し入れることに成功して、さぞかしご満悦だったのではないでしょうか。しかし神さまは、ご自身の民を生む未来の母に、指一本ふれることをお許しになりませんでした。 3節をご覧ください。……おまえは、夫のある身の女を召し入れたゆえに、死ぬことになる。恐ろしい警告です。しかし、この警告を受け取れたことはアビメレクにとって幸いでした。なぜならば、召し入れることをやめるならば、死ななくて済むからです。 神さまは全能のお方であり、あわれみ深いお方です。このように、まことの神さまを恐れる文化になっていない民族にも、臨んでくださり、みことばを語りかけてくださいます。私たちは、神さまを過小評価してはなりません。私たちクリスチャンにとってだけ、神さまは神さまなのではありません。すべての世界、すべての人を創造された神さまは、人間だれにとっても神さまです。 もちろん、人の側で神さまを神さまと認めるかどうかという問題はありますが、それでも神さまは、すべての人を生かし、その人々の中から、みこころを示すべき人を選んでくださいます。 このときのアビメレクもそうでした。神さまがアビメレクに語られたのは、イスラエル民族を守られるという意味もありましたが、同時に、アビメレクのいのちを救われるためでもありました。 アビメレクはどういう人だったのでしょうか? その語ったことばから、アビメレクの人となりを知ることができます。4節と5節です。 アビメレクは、サラが人妻と知っていたら、当然、召し入れるなどということはしなかった、私は殺されるようなことは何もしていない、潔白だ、と、神さまに訴えています。 その訴えに対し、神さまは何とおっしゃっているでしょうか? 6節と7節です。 まず、アビメレクが神さまの御前で罪ある者とならないように、と、神さまはアビメレクのことを守ってくださいました。あとは、アビメレクが、この夢の中で語られたことばを神さまのことばとして受け取り、神さまを恐れてお従いして、サラを手離す決断をするだけです。 神さまは、いつでも人にみことばをもって警告しておられます。どんな人に対してもです。責任の所在は、その警告を警告として受け取らない、人間の側にあります。人がさばかれるのは神さまの勝手きまぐれではありません。 しかし、人がもしほんとうに神さまを恐れる人だったならば、神さまがその人を守ってくださいます。このときのアビメレクもそうでした。のみならず、アビメレクに祝福が臨むように、神さまは取り計らってくださいます。神さまにあって祝福を祈る神の人につなげてくださるという、最大の祝福をその人はいただくことになります。 私たちもこの世の人たちを恐れてはいけません。私たちに与えられているイエスさまの御名は、みこころにかなう祈りならば何でも求めれば御父にきいていただけるという、すばらしい力を持った御名です。 私たちがイエスさまの御名によって人々のためにとりなして祈り、また祝福するとき、それは、イエスさまがとりなしてくださり、また祝福してくださる、ということです。金銀のような財産がなくても落胆しないでいただきたいのです。私たちには、イエスさまの尊い御名が与えられています。 アビメレクは神さまを恐れていました。そして翌朝、アビメレクがこの夢のことをしもべたちに告げると、しもべたちも一様に神を恐れました。 アビメレクはアブラハムを呼びつけ、抗議しました。あなたはサラのことを妹と言ったではないか、そのために、私にもわが王国にも大きな罪がもたらされるところだった。 ここでアビメレクが罪と言っている、「罪」といういい方にも注目しましょう。罪とは、神さまとの関係の中で生じるものであり、神さまとの正しい関係を保つために、罪があってはならない、と、アビメレクは告白しているわけです。 アビメレクのこのことばに対し、アブラハムは何と言っているでしょうか? まずは11節です。 ゲラルの人々は神を恐れないので、サラのゆえに私を殺すと思った。しかし、今までも見てきたとおり、ゲラルの人々は神を恐れていました。偶像の神々をではありません。創造主なる神さまを恐れていました。それをアブラハムは正当に評価せず、神を恐れないゆえに殺人を犯す者たち、と決めつけています。とんでもない評価を与えたものです。 そして、12節、13節を見てみましょう。……いったい、真実の愛を尽くすとはどういうことでしょうか? アブラハムが生き残るためには、サラがどうなってもかまわない、アブラハムのいのちに危険が及ぶなら別れたっていい、それがアブラハムに対し真実の愛を尽くすことだ、とでもいうのでしょうか? しかし、その考えがどんなに間違っていたかは、エジプトでファラオがあやうくサラを召し入れそうになったとき、神さまがファラオとその宮廷を痛めつけられたことですでに明らかになっていました。それなのに、同じことを繰り返したのです。 これは、嘘も方便では済まされない話です。アブラハムとサラとの間の愛情という点でも大きな問題をはらんでいますが、事はそれにとどまりません。下手をすると、アブラハムの子どもではない子をサラがみごもるかもしれないという話です。そうなったら、約束の子ども、神の民が生まれるため、神さまがここまでアブラハムとサラを導いてこられたことは、すべて水の泡と化します。 要するに、何が問題だったのでしょうか? アブラハムの不信仰です。ご覧ください。ゲラルのアビメレク王とそのしもべたちの方が、アブラハムよりもよほど神さまを意識しているという点で、信仰的とすら思えないでしょうか? しかし、ここでも私たちは考えてしまうかもしれません。異邦人よりもよほど信仰的ではないアブラハムが、それでも信仰の父と呼ばれるにふさわしいのだろうか? そこで私たちは、アブラハムという人ではなく、そのようなアブラハムを選ばれた、神さまに目を留めたいと思います。いざというときに不信仰から、このようなとんでもない行動を取ってしまうアブラハムをとおして、それでも神の民を生み出してくださるお方、それが神さまです。 頭がよいとか、品行方正であるとか、そういったことは、ときに生まれながらにして備えているかのような人がいます。しかし神さまは、そういう人を信仰の父として選ばれたのではありません。 かえって、欠けだらけの人を選び、それでもこのように、失敗や弱さを思い知らせてくださることにより、神さまに拠り頼む信仰を育ててくださることによって、整えてくださるのです。それはアブラハムにかぎったことではありません。私たちも同じなのです。 私たちは取るに足りない者ですが、神さまはときに、この世の人たちが私たちに好意を持つようにさせ、その方々の好意により、私たちを祝福してくださいます。このとき、アビメレクが多くの贈り物をアブラハムとサラに与えたことも、神さまの祝福と深い関係がありました。アビメレクは、サラを取ったり、アブラハムを殺したりするような人ではありませんでした。神を恐れるゆえに、アブラハムを祝福しようと願う人だったのです。 私たちが生きているこの世界、特に日本は、神さま、イエスさまを信じている人がほとんどいないで、その現実に目を留めるならば、私たちは心細くなるかもしれません。しかし、私たちを取り巻く環境の中を生きる人たちのことを生かしておられる神さまにこそ目を留め、その人たちに神さまの祝福があるように、私たちは祈ってまいりたいものです。 イエスさまは、主の弟子としてこの地を生きるさすらいの私たちを励ますことばを語ってくださっています。マタイの福音書10章40節から42節をお読みしましょう。 これが、神さまのみこころなのです。私たちはですから、私たちに対してよくしてくださる方々に、イエスさまの福音を語ることをためらったり、あきらめたりしてはなりません。私たちのことを主の弟子、主のしもべと見込んでよくしてくださる方々のことを、主は祝福してくださる、この主のみこころを私たちは受け取り、あきらめずに福音を語ってまいりたいものです。 アブラハムはといいますと、アビメレクを祝福しました。私たち主のしもべにできることは、金銀をもって人々を養うことでなかったとしても、ナザレのイエス・キリストの名によって、人々を立ち上がらせることです。主は私たちの祈りを聞いてくださり、人々を祝福してくださいます。 アビメレクはどんな祝福を受けたでしょうか? また、子をなすことができる祝福を受け取りました。今日の箇所の最後の部分、18節で、それまでアビメレクの家が子をなすことができなかった理由が述べられています。……アブラハムの妻サラのことで、つまり、サラがみごもることになるイサクは、あくまでアブラハムの子どもであり、アビメレクがなした子どもではない、ということが強調されているわけです。 しかし、アビメレクがこのように主を恐れる人であったことは、結果として、アビメレクが子どもをもうけることができるようになったという、大きな祝福を受けることにつながりました。アブラハムが死ぬか、それともアビメレクが死ぬかという瀬戸際で、主が介在され、そのどちらの悲惨なことにもならず、サラも二夫にまみえるようなことにもならず、すべては丸く収まり、それ以上の祝福を、アビメレクも、アブラハムも、受け取ることになったのでした。 私たちは恐れるかもしれません。私たちの不信仰がもしかして、事をおかしくしないだろうか。神さまのみわざが隠されないだろうか。証しにならないのではないだろうか。人につまずきを与える人々のよくない話を見聞きすると、余計そんなことを私たちは考えるかもしれません。 しかし、そのように思えるときこそ、私たちは神さまの大きさに心を留めたいものです。私たちがこの地に祝福をもたらす器として神さまに選ばれているかぎり、私たちが神さまのご栄光をいたく傷つけるようなことから、神さまは私たちのことを守ってくださいます。この神さまの愛と選びにまず信頼し、アブラハムのように度重なる不信仰と不従順の罪を犯すことから、守っていただくよう、祈ってまいりたいものです。 神さまの祝福はとても大きなものです。私たちはまだまだ整えられなければならないところが多いものですが、そんな私たちの祈りを神さまは聞いてくださり、この世界に祝福をもたらしてくださいます。この神さまの愛と選びに信頼して、今日もこの愛なる主のみ手に用いられるべく、整えられることに感謝してまいりましょう。

十字架に向けての入城

聖書箇所;ヨハネの福音書12:12~19/メッセージ題目;十字架に向けての入城  先日まで行われていた大相撲秋場所は、正代(しょうだい)関が初優勝と大関昇進を決め、大きな話題となりました。さて、大相撲の本場所の優勝にはいろいろなセレモニーが伴いますが、残念ながら、昨今の事情でできなくなっているセレモニーがいろいろあります。優勝力士がオープンカーに乗ってのパレードなど、その最たるものでしょう。  紋付き袴、大銀杏の優勝力士は、沿道を埋め尽くす群衆に、満面の笑みをたたえて手を振ります。隣で優勝旗を持った、やはり大銀杏に紋付き袴の関取も、うれしそうです。なんとも晴れがましい姿! 私はむかしから大相撲が好きで、この優勝パレードの様子は何度となく見たものでしたが、見ているこちらまでうれしくなり、祝福したくなる気分になります。  さて、このオープンカーの祝賀パレード……そのオープンカーに乗った主人公が、オープンカーではなく、何の変哲もない軽トラックの荷台に乗って登場したら、どうしますか? でも、沿道の群衆が割れんばかりの歓声で迎えたとしたら、どうしますか? 今日はそんなお話です。  今日の箇所は、イエスさまのエルサレム入城のエピソードです。これは、前回のヨハネの福音書の学びの時扱いました、ベタニアの三きょうだいの家をイエスさまが訪問された、あのできごとの翌日のできごとです。そのとき、何があったでしょうか? マリアがイエスさまに、香油を注いだのでした。 売れば数百万にもなろうかという大変な宝物を、惜しげもなくイエスさまに注いだという……弟子たち、特に、イスカリオテのユダなどはこれを見て憤慨し、マリアを責めましたが、イエスさまはむしろ、これはご自身の葬りの日のためにマリアが行なったことだと、マリアのこの行動をほめてくださいました。 マリアが香油を注いだというこのことにより、いよいよイエスさまの死、十字架の死が備えられることになりました。今日の箇所は、その翌日のできごとで、イエスさまはベタニアからエルサレムに入城されます。 14節に、イエスさまはろばの子に乗られた、とあります。このろばは、荷物を載せるための子ろばです。まだ、だれも乗ったことのないろばです。この子ろばの持ち主は、主がお入用だから連れていきます、と弟子たちが言うと、喜んで、とばかりに子ろばを引き渡します。 かくして、イエスさまは子ろばにまたがって、エルサレムに入城されました。イエスさまがラザロをよみがえらせたことを知って、その話題で持ちきりになっていたエルサレムの住民たちは、沿道に群れを成して、メシアなる王を迎える態度で、なつめやしの枝を手にし、自分の上着や木の枝を道に敷いて、最大級の歓迎をしました。 そんなイエスさまがまたがっているのは、しかし、荷物用の子ろばです。しかし、王さまなら、立派な白馬にでもまたがったほうがよくないでしょうか? しかし、イエスさまが乗られたのは、荷物用の子ろばです。まさしく、オープンカーではなく、軽トラの荷台です! 15節を見てみますと、これは、旧約聖書みことばの成就であると書かれています。ゼカリヤ書9章9節で預言されていたとおりです。 ちょっと、ゼカリヤ書の9章9節を開いてみたいと思います。……イエスさまは、義なるお方として、勝利の凱旋をされることが強調されています。しかし、この神さまの絶対的なさばきによって人をさばき、罪に定めるのではありません。「柔和な者」とあります。そうです。イエスさまは柔和な方なのです。 イエスさまは、マルタ、マリア、ラザロの三きょうだいを友とされたお方でもいらっしゃいます。十二弟子にしても、厳しく鍛えられたばかりではなく、この世の徒弟制度のような関係ではない、友として接してくださいました。イエスさまは、このような罪だらけの私たちにとって、大上段(だいじょうだん)にさばくお方ではありません。むしろ、このような私たちを諦めることなく、どこまでも寄り添ってくださる、それこそ「友」、柔和なお方です。 そんなイエスさまに似合っていたのは、この世に堂々と君臨する「白馬」ではありません。庶民の視線に降りてきてくださる「子ろば」でした。群衆はそんなイエスさまの姿に、自分たちの味方となってくださる王さまという、かぎりない親しみを感じたにちがいありません。しかし何よりも、彼らのこの熱狂的な歓迎ぶりは、ゼカリヤ書9章9節の成就であり、かくして、みことばはほんとうだったということが明らかになったわけでした。 それにしても私たちは、もし、イエスさまが私たちのことを用いてくださるとするならば、自分のことを立派な「白馬」だと思いますか? それとも「子ろば」だと思いますか? いえいえ、私たちは「白馬」などと言いきれるものではないでしょう。せいぜい「子ろば」程度のものでしょう。しかし、「子ろば」であろうと、私たちはその背中にイエスさまをお乗せできるならば、立派に用いていただけるのです。主のご栄光を顕させていただけるのです。 むかし、榎本保郎という牧師がいらっしゃり、彼の物語は三浦綾子が小説にして週刊朝日に連載し、「ちいろば先生」というあだ名とともに有名になりましたが、取るに足りない子ろばのような存在、華やかなオープンカーではなくて軽トラのような存在でもイエスさまをお乗せできるならば栄誉極まりないことです。 榎本先生だけではありません。私の母教会、北本福音キリスト教会で30年にわたって牧会していらっしゃる小西直也先生は、この子ろばがイエスさまをお乗せしたという箇所に示され、自分のような者でも主をお乗せして用いていただけるならば、と、直接献身に踏み出されたと語っていらっしゃいます。 イエスさまが柔和な王さまでいらっしゃるのは、それが、私たちのように、罪を認めてへりくだる者、けっして威張らない、威張れない者の、王さまとなってくださるゆえです。この世の王さまなら、大金持ち、偉い人、そういう人の上に堂々と君臨したがるでしょう。しかしイエスさまはちがいます。私たちのような者たちの上に君臨するどころではありません、「仕えてくださる」お方です。その汚い足を洗ってくださるお方です。イエスさまはそんな王さまです。   しかし、イエスさまが王であられるのは、この世の者たちが王に立てたからそうなるのではありません。このとき、エルサレムの者たちは、イエスさまを王として迎えましたが、そんな彼らがイエスさまを王にしたのではありません。イエスさまを王に立ててくださったのは、父なる神さまです。どのようにして御父はイエスさまを王にお立てになるのでしょうか? イエスさまを十字架におつけになることによってです。  イエスさまがエルサレムに入城されたのは、いわば「王の戴冠式」、冠をかぶせられて王に立てられる、そのためのご入城といえましょう。では、イエスさまにかぶせられた冠は、どんな冠でしょうか? 茨の冠です。茨の冠のあとを待つものは、十字架でした。  イエスさまを大歓迎したはずのユダヤ人たちは、宗教指導者たちに焚きつけられ、イエスさまを裏切り、イエスさまのことを、十字架につけられるほどの極悪人と見なしました。十字架は、彼らユダヤ人にとっては、この上ない呪いを表す存在でした。 しかし、主に選ばれた者たち、私たちにとっては、この血なまぐさい存在、目をそむけたくなる存在が、どれほど麗しく、慕わしいことでしょうか? イエスさまは十字架の上で両手を広げ、御父が私たち罪人に怒涛の如く注がれる激しい御怒りから、私たちをかくまってくださいました。私たちは王なるキリストの打ち傷によって、いやされたのです。 イエスさまの十字架はまた、私たち人間のうちに平和をもたらす存在です。世の王たちは、臣民に平和を実現してこそ、よい王として認められます。イエスさまこそは、私たち人間のうちに平和を実現してくださるお方です。 その平和は、まず私たち人間が神さまと和解させていただく、つまり、神さまと平和な状態にしていただくところから始まります。その、父なる神さまとの平和を実現してくださるのは、イエスさまの十字架をおいてほかにありません。イエスさまの十字架によって平和を実現していただいた私たちは、同じイエスさまの十字架によって和解していただいたどうし、お互いの間に主にある平和を実現していくのです。こうして、キリストが王として統べ治める御国が、私たちの間に実現します。 ただ、このときイエスさまのことを「ホサナ!」主、わが救い、と大歓声でお迎えした群衆は、わずか数日後にはそんな自分たちが一致団結してイエスさまを十字架につけよなどと叫ぼうとは、思いもしなかったことでしょう。彼ら群衆がイエスさまを十字架につけさせるように、扇動した存在がありました。宗教指導者たちです。そんな彼らの苦々しいつぶやきが、19節に書かれています。 イエスさまはおっしゃいました。彼ら群衆が黙れば、石が叫ぶ、と。彼ら宗教指導者たちは、まるで石が叫び出すようなとんでもないことを、着々と進めていたわけでした。彼らはこのとき、群衆を見て、何を思ったでしょうか。律法に通じた彼らのことです。ゼカリヤ書9章9節のメシア預言を連想したにちがいありません。しかし、彼らはこのように、ゼカリヤ書のとおりにイエスさまが現れても、なお信じませんでした。かえって、よくもこのとおりになったな、と、怒りまくったわけです。 何とかたくななのでしょうか。しかし、主の真理に目がふさがれ、けっしてその覆いをイエスさまによって取り除けていただこうと思わない者は、どんなにみことばによってイエスさまが神の子であると示されても、受け入れることはありません。かえって、彼らのすることは、ますますイエスさまに敵対し、したがって神さまに敵対することです。 ただ、このようなパリサイ人に関する記述を、聖書が、これでもか、と書いているのは、なぜだとお考えでしょうか? それは、私たちが、イエスさまを信じることによって自分はもはや律法主義者じゃない、ばんざーい! それに引き換え、あの律法主義者どもはなっていない、などと、安心して、人を罪に定めるためでしょうか? いえ、それこそが、パリサイ人のすることなのです。おわかりでしょうか? パリサイ人に関する記述に聖書があれほど紙面を割いているのは、私たちもパリサイ人になりうる、もっと言えば、私たちもパリサイ人である、からです。 パリサイ人とはもともと、分離主義者、という意味です。世の中のけがれ、俗から分けられた生き方を目指す存在です。しかし、それが度を過ぎると、みことばを一字一句、文字どおりに守り行なわなければ認められない、という、極端な考えになります。その発想に立つならば、たやすく人を罪に定めるようになります。 でも、そのような生き方は、私たちもしばしば、してしまったりしてはいないでしょうか? 私はイエスさまの十字架を信じてきよい存在としていただいた。それなら私たちは、イエスさまの十字架を誇るべきなのに、私たち自身を誇るという、実に愚かなことをするのです。そればかりか、自分の目の梁を差し置いて、人の目のちりを取らせてもらおうとするのです。 聖書に書かれたパリサイ人、宗教指導者は、そういうわけで、自分と関係ない存在と考えてはいけません。いわば反面教師であり、自分の中にもそのようなダークサイドがあることを、謙遜に認める必要があります。 ともかく、ユダヤの宗教指導者たちは、この時点ではイエスさまを引き渡すための十分な策を練ることができずにいましたが、しかし、それであきらめたわけではありません。結局彼らは、最終的に、エルサレムの民衆を抱き込むことに成功しました。彼ら民衆は、イエスさまを王として迎えたはずだったのに、わずか数日後にはピラトに向かってイエスさまを十字架につけよと騒ぎました。暴動寸前になるところで、ピラトはイエスさまを十字架につけました。 それは、御父のみこころが成就したということでもありますが、だからといって、エルサレムの者たちの罪が減じられたということにはなりません。彼らエルサレムの住人たちは、どうなったのでしょうか?  彼らはのちに、ペテロの説教によって、心を刺されて悔い改めました。「神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのだ!」その一回の説教で、実に三千人もの人が主の弟子になったとみことばは語ります。大変な数です。それから日々、イエスさまを信じる人は増し加わり、宗教指導者たちに翻弄されたエルサレムの住民たちは回復しました。 このときこそエルサレムの民は、イエスさまを王としてお迎えしたことのほんとうの意味を知ったのでした。イエスさまはローマ帝国の支配から解放する王ではなかった。十字架によって成し遂げてくださった神の平和により、私たちを統べ治めてくださる王さまであった。イエスさまの十字架を受け入れるならば、私たちも神との平和を得させていただける。それまでは、律法を守り行うことで神さまに認められようとしたユダヤ人たちは、ようやくほんとうの意味で救いを得ることができたのでした。 エルサレム入城……それは、柔和な王としての入城で、十字架におかかりになることで、私たちを王として統べ治めてくださるための入城でした。 私たちのうちに王として入城されたイエスさまは、その十字架によって私たちを統べ治めてくださいます。私たちのすることは、十字架をもって私たちに仕えてくださったイエスさまの、その御力をいただいて、主と、人々を愛し、お仕えすることです。 今日私たちは、主の晩さんをもって主の十字架をしのびます。私たちが主の晩さんにあずかるとき、罪人のこの私に寄り添うように、子ろばに乗って私のもとに訪ねてきてくださったイエスさまとひとつとされていることを心から感謝し、イエスさまの十字架の犠牲をしのぶ者となりましょう。

救われよ、神をも恐れぬ世代から

聖書箇所;創世記19:1~38 メッセージ題目;救われよ、神をも恐れぬ世代から  日本と西洋の神観を端的に示すエピソードを、私は以前、ある本で読んだことがあります。第二次世界大戦のころだそうですが、同盟国どうしである日本とドイツの軍人どうしが、自慢比べをしたそうです。ドイツの軍人は言いました。「私は、神以外の何ものも恐れない。」これに対して、日本の軍人は言ったそうです。「私は、神をも恐れない。」日本の軍人は勝ったつもりなのでしょうが、ドイツの軍人に嗤われたそうです。  みなさん、日本人ならこのようなことを言いそうだと思いませんか? 私は神をも恐れない。しかし私たちはクリスチャンとして日本という国を見るとき、政府にせよ国民にせよ神をも恐れないために、どれほど不幸になっていることかと思いませんか?  神を恐れないことは、すべての罪の根源です。これは日本にかぎりません。古今東西、神を恐れない国や民族が、どれほど存在してきたことでしょうか。このような民は、旧約聖書の創世記の昔から、既に存在しました。先週、そして今週と学んでいますソドムの町など、まさにその典型的な例です。  先週学びましたとおり、アブラハムはこの町が滅ぼされないようにと祈りました。それは、義人が少しでもいれば、その義人もろとも滅ぼすことは主のみこころではないのだから、ということで、主はアブラハムのひざ詰めの祈りに、10人でも義人がその町にいるなら滅ぼさない、と、約束してくださいました。  さて、そのソドムとはどのような町だったのでしょうか? まず、主の使いは、ソドムの町を訪れました。ロトがソドムの門のところに座っていると、御使いがやってきました。ロトは彼らが御使いであることがわかりました。ロトはしきりに勧め、彼らを家に招き入れ、食事をもってもてなしました。  これは、先々週アブラハムのエピソードから学んだことと同じです。ロトは、主の使いをそうと認め、もてなしました。もてなすということにおいて、彼は模範を示しています。しかし、問題なのは、そのもてなしは行き過ぎ、といいますか、ピントの外れた方に行ってしまっていた、ということです。  4節、5節をご覧ください。……彼らをよく知る、とは、婉曲的な表現です。これは、彼らは主の使いだからいろいろ教えてもらって、神さまに対する知識を増し加えたい、という意味ではありません。彼らと性行為に及びたいから引き出せ、ということです。  アブラハムやロトをご覧ください。彼らはちゃんと、この訪問客が神の使いであることを知っていました。ところが彼らソドムの者たちは何でしょうか。よりにもよってこの聖なる存在を、性欲を満足させる存在と見ているのです。神をも恐れぬ、とは、このことです。この存在を犯す、われわれ神の民にとっては、震え上がるほど恐ろしいことを、彼らはしようとしていたのです。  罪は特に、性的に粗暴になることで現れます。それはとりもなおさず、人間のことを、性欲という自分の欲望のために粗暴に扱うことを意味します。人間とは何でしょうか。神のかたちです。神のかたちを性的に粗暴に扱うのです。いわんや、ロトのもとを訪ねてきた彼らは、神の使い、すなわち神の顕現でさえあります。神の顕現が性欲のはけ口にしか見えないとは、ソドムの者たちは、どれほど呪わしいことでしょうか。  たとえば同性愛や強姦といったことが問題になるのは、それが神のかたちである人間に対する「アビューズ」であるからです。アビューズ、ということばは「虐待」と訳されますが、この「アビューズ」という英単語を分析すると、アブ、異常に、ユーズ、用いる、すなわち、性的に異常な用い方をすることが、問題となるのです。神のかたちである人を異常に扱うから虐待となるわけですが、ともかく、このソドムの連中のように、性的に異常なことは「アビューズ」であり、これは、人が何と言おうと、どんなに美化しようと、神さまの視点、聖書の視点から見るとそうなります。  私たちが普段、当たり前のように接している、映画やテレビ番組や音楽、小説のような文学、演劇、雑誌やインターネット、これらのものには、性的に堕落した文化が詰め込まれていて、あたかも、性的に堕落することは仕方ないとか、格好いいとか、そういうように喧伝します。私たちクリスチャンはそのようなこの世の毒に慣らされてはいないでしょうか? この創世記19章、合わせて38節分の短い箇所の中に、いろいろな立場の人物が登場しますが、私たちはだれに似ていますでしょうか? よもや私たちは、このソドムの連中のような存在に与(くみ)する者となってはいないでしょうか?  私たちは、私たちのうちに形づくられている神のかたちを、アビューズしてはなりませんし、神のかたちをアビューズするこの世の文化を格好いいとか、しかたないなどと考えては決してなりません。もし、そう考えていたならば、私たちはすぐにでも悔い改める必要があります。それを格好いいなどと考えるならば、神のみこころにかなって物事を考え、判断すべき私たちの霊、また頭脳を、それこそ「アビューズ」していることになります。  しかし、「アビューズ」という点では、ロトも同じだったようです。ロトは、自分の処女の娘たちを差し出そうとしました。そうまでして、御使いたちを彼らの魔の手から守ろうとでも思ったのでしょうか。しかし、これはとんでもないことです。あまりに人間的で、罪深い解決策というものです。 結局、11節にあるとおり、御使いたちはソドムの連中に目つぶしを食らわせ、ロトの一家を守りました。御使いが人間どもによって何か悪いことをされることなど、ありえないことでした。このことは、主がそのご主権によって敵をさばかれるのであって、それに対して人間が何か愚策を弄するべきではないことを示しています。   ロトのこの、いざというときにめちゃくちゃな判断をする性質は、おそらく、一族にも伝わっていたのでしょう。14節にはロトの婿たちが登場します。この婿たちは、ロトとひとつ屋根の下で暮らしている娘たちの「いいなずけ」と解釈するのが、いちばんしっくりきます。実際、口語訳聖書ですとか、尾山令仁先生の訳された現代訳聖書ですとか、いくつかの聖書の訳を見てみますと、この「婿」は、この時点ではまだロトの娘と結婚していない立場として訳されていますし、原典のヘブライ語からもそのように訳すことが可能です。 ともかく、ロトはこの未来の花婿たちを説得しようとしました。しかし、彼らはこのさばきの知らせを本気にしませんでした。悪い冗談、とありますが、別の訳では「たわごと」などと訳しています。このことは、ロトが普段、一族に対していかなる霊的リーダーシップを発揮していたかを、如実に示してはいないでしょうか? いざというときの真剣な話でさえ、信じてもらえないという。結局、彼らは本気にしなかったことにより、天からの火によって焼き滅ぼされてしまいました。   さて、ロトが婿たちを訪ねたのは、12節にあるとおりの、御使いの警告があったからでした。「あなたの婿や、あなたの息子、娘、またこの町にいる身内の者をみな連れ出しなさい」とあります。しかし、ロトが声をかけたのは、19章全体を読んでも、婿たちだけのようです。 それなら、ロトには息子、娘がいるのに、声をかけなかったのでしょうか? それとも御使いたちは、全能の主の知恵が与えられているはずなのに、ロトに息子や、家の外に暮らす娘、あるいは一族はいないことを知らなかったのでしょうか?   これは、この聖書箇所の前後関係から考えると、ロトには息子や、一緒に暮らしていない娘はいなかったと考えるべきです。声をかけているのは婿たちだけだからです。それでも御使いたちがそのようにロトを促したのは、これは、ロトひとりの問題ではなく、後世になってこのみことばを読むすべての人、ひいては私たちに対する警告のためではないでしょうか?  コリント人への手紙第一10章11節には、旧約聖書の記述は何のためにあるのかということが書かれています。このように語られています。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」  私たちは、創世記19章のこの記述からどのような教訓をいただくのでしょうか? 息子や娘、婿のような身内の者がいるかぎり、この世の終わり、崩壊を警告する使命が与えられている、ということにならないでしょうか? 私たちは、愛する家族を救うのです。そのために、語るべきことを語るのです。 もちろん、その警告をどう受けとるかの責任は、最終的に彼らが負うことになりますが、それでも私たちには最低限、彼らを説得する責任があります。もちろん私たちには、それを冗談と取られないような、説得の知恵も必要ですし、何よりも、そのリーダーシップに信頼してもらえるだけの信頼関係が必要です。ロトのように、冗談としかとられなかったら、それこそ終わりです。  結局、婿たちの説得に失敗したロトは、それでもぐずぐずしていました。しかし彼は、御使いたちにせき立てられ、ついには妻、そして二人の娘とともに、手をつかまれて連れ出されます。これは、主のあわれみによることであると、16節のみことばは語ります。   私たちはこの世に滅亡が訪れることを、本気で信じているでしょうか。残念ながら、私たちはまだ、この世界というものを買いかぶっています。まだ、この世界がよいものであるかのように思っています。しかしはっきり申しますと、これほど堕落した世界をまだ神さまが滅ぼさないでいてくださっていることは、神さまのあわれみ以外の何ものでもありません。 私たちは、聖書全体に記された神さまの怒りというものに目を留めるならば、どれほどこの怒りからかくまってほしいと思うことでしょうか。イエスさまの十字架に逃げ込まなければと思うことでしょうか。   しかし、この世界に注がれる怒りから人が救われるのは、ひとえに神さまのあわれみによることです。私たちの努力以前の問題です。神さまはみこころのままに人を救い、人を用いられます。私たちも人の救いのために用いられることを願い、祈って行動しますが、その結果だれかが救われたならば、それは私たちの努力の結果以前に、神さまがその人をあわれんでくださったからです。私たちは自分の行いを誇るのではなく、神さまのあわれみに感謝すべきです。  実際、私たちにしても、そのような神さまのあわれみによって救っていただいた存在です。しかし、救っていただいたならば、あとは何をしても許されるのではありません。いのち拾いをさせてくださった神さまのおっしゃることに従うべきです。ロトの話に戻りましょう。このとき御使いは、ひとつのことをロトに命じられました。17節です。  滅びというものは、私たちが考える以上に壮絶なものです。しかし、この世というものの持つ魔力は、なんとわれわれのことを惹きつけてやまないことでしょうか。私たちは世界が滅びに定められていると知るかぎり、そこから全力で逃げ出すべきなのに、まだこの世に未練を持ち、やり残したことにうじうじと拘泥するのです。 結局、ロトの妻はみことばを守らず、振り返ったので、塩の柱になってしまいました。そんなにとどまりたければ、そこに永久にとどまるがいい、柱にして永久に立たせてやるから……そのような主のさばきが下ったかのようです。私たちがもし、天国よりもこの世を愛するならば、このようなさばきが下されてもなにも文句が言えないことになります。   一方、ロトは別の意味で不信仰でした。御使いははっきり、山に逃げなさい、と言っています。御使いがそう言った以上、どんなに天からの火が迫ってきていても、全力で逃げるならば逃げられるのです。要は、ありったけの力を込めて逃げることです。自分を救うために死力を尽くすのです。しかしロトは、私たちはきっと山にまで逃げることはできませんから、あそこにある小さな町に逃げさせてください、と御使いに楯突きました。   しかし御使いはそのことばを聞き入れ、ロトがその町、ツォアルに逃げるまで、さばきの手を下すことはしませんでした。これも主のあわれみによることです。しかし、ロトはそうなるまで、二重の間違いを犯しています。まずロトは、主のみこころを信じず、主のおっしゃるとおりにするならば滅びる、と言っています。これは不信仰です。 そればかりではなく、自分の考えに従って、別の提案をしています。小さな町に逃げさせてください、と。これは、神さまのみこころよりも自分の考えを優先させる、不従順です。不信仰と不従順、ロトはそういう2つの罪を犯したのです。しかし神さまは、そんなロトの言うことを聞いてくださり、ロトのことを救われたのでした。   神さまが救ってくださったのは、なぜだったのでしょうか。29節のみことばをお読みしましょう。……それは、神さまと契約を結んだアブラハムのゆえでした。   先週のメッセージでも少し触れましたが、ペテロの手紙第二2章7節のみことばは、以上見てきたとおり、これほど信仰的におかしかったロトのことを、それでも「義人」と呼んでいます。その根拠として、ソドムの連中の振る舞いに心を日々痛めていたことを続く8節で挙げていますが、彼がそのような良心を持てるほどの義人だったのは、ひとえに、アブラハムのとりなしの祈りがあったからです。神さまはアブラハムのその義に目を留めてくださり、ロトをこの滅びの中から救い出してくださったのでした。   だが、そのようにして滅びから救っていただいたロトは、きわめて不道徳なことを行いました。娘たちが自分たちの子孫を残そうと、こともあろうに父親であるロトと性行為をして、妊娠しました。それはロトにしてみれば、お酒に酔った上でのことであり、ロトは自分が何をしたか全くわからなかったとみことばは語りますが、だからといって、彼がしたことは免責されるものではありません。立派な罪です。酒の上でとばかりにセクハラやパワハラを働くおじさんがいますが、それが許されることではないのと同じです。   ロトが娘たちにはらませた子どもは、モアブ人とアンモン人の先祖となりました。この両民族は旧約聖書を読めばわかるとおり、イスラエル民族に激しく敵対する存在となりました。どれほど敵対したか、それは、申命記23章3節から6節に書かれているとおりで、彼らの祝福を祈らないことは主の命令ですらありました。   しかし、このような中にも、主のあわれみは注がれました。モアブ人の女性、ルツは、マフロンというイスラエル人に嫁いだことから主の会衆につながる道が開かれ、のちにイスラエル人のボアズと再婚したことで大きな祝福を得て、その子孫にダビデ王が生まれました。そのダビデの子ソロモンのあとを継いだ王レハブアムは母親がアンモン人のナアマという人であり、つまりソロモンはアンモン人の女性との間にあとつぎをもうけたことになります。   すると、どういうことになるでしょうか? ダビデ王家はモアブ人とアンモン人双方の血が流れていることになります。このダビデ王家のすえにおられる方はどなたでしょうか? イエスさまです! ということはイエスさまの先祖は、モアブ人でもあり、アンモン人でもあるのです。   全能の神さまの御前に、宿命ということはありません。神さまはみこころのままに人をお救いになり、人を立てられます。こんな血筋に生まれたから絶望するしかない、ということは、主にあってあり得ないことです。…

とりなし手となろう

聖書箇所;創世記18:16~33 メッセージ題目;とりなし手となろう 先日、東京を中心に「路傍伝道」、道行く人々に福音を伝える働きをなさっている、菅野直基先生という方とお話しする機会がありました。路傍伝道を展開される際の苦労話などいろいろお伺いしましたが、中でも面白い、というか、クリスチャン生活全般において実に示唆に富むできごとについても分かち合ってくださいました。 それは、とりなしの祈りの持つ力についてです。それは原宿の竹下通りで伝道していらっしゃったときのことだそうですが、道行く人々にチラシを配ろうとしてもなかなか受け取ってくれない。ちょっと、霊的な妨げのようなものを感じたのだそうです。 すると、その伝道チームのうちの何人かが、とりなしの祈りをすることを買って出て、祈りはじめました。すると、不思議なように、するするとチラシを配ることができるようになったそうです。このことについて菅野先生は、イスラエルとアマレクとの戦いにおいて、とりなしの祈りをささげるモーセの天に挙げた手を両側から支えた、アロンとフルのようだったとおっしゃいました。 今日は、とりなしの祈りについて学びます。本日の箇所のアブラハムの姿から、私たちもとりなして祈る者となるために何を学ぶべきか、ともに見てまいりたいと思います。 先週学びましたとおり、神さまと御使いたちの一行が、アブラハムのもとを訪ねてきました。そのとき、サラの不信仰が取り扱われたというのが、先週学んだ内容です。今週の箇所は、それに引きつづく箇所で、主はアブラハムに語っておられます。これもまた、主がアブラハムのもとを訪ねてこられた目的でもありました。 16節です。……主はソドムを見下ろしておられました。神さまが来られた目的は、ソドムに対するさばきにありました。このことについてはあとで詳しくお話しするとして、17節以下の主のみことばをまず見ておきたいと思います。 17節のみことばです。……主はすべてを超えて存在される、大いなるお方です。まことに、主のみこころは計り知れません。だからこそこのお方は、神さまであると言うことができるでしょう。しかし、このお方はときに、みこころにかなう人に対し、その隠されたみこころをお示しになることがあります。 このとき、主がアブラハムを選び、そのみこころをお示しになったこともそうでした。アブラハムが主のみこころを知ることができたのも、まさしく、主の一方的なあわれみのゆえでした。 私たちも、神さまの隠されたみこころを受け取ることができます。それは、聖書に余すところなく示されています。ただし、私たちがみこころを受け取るには、この聖書が誤りなき神のみことばであると受け入れていることが条件になります。 まさしく、アブラハムが目の前におられる方のお声を主のみことばと受け取れたように、私たちも、この聖書のことばを神のことばとして受け取ることです。主は、大いなるみこころを、私たちに示してくださいます。 それでは主は、何をアブラハムに隠さないで示してくださったのでしょうか? それはソドムとゴモラに対するさばきですが、その前提として、神さまがどれほど、アブラハムを特別な存在として選んでおられたか、そのみこころが描写されたみことばが登場します。それが、17節から19節のみことばです。 18節をご覧ください。主はアブラハムとその子孫を祝福されることを宣言されました。この宣言は、すでに、創世記12章、13章、15章、17章で語られ、聖書に記録されているだけでも5度目になります。主がこの年老いたアブラハムから祝福の子孫を生まれさせてくださるということを、これでもか、これでもか、と語ってくださったのでした。 私の神学生時代、弟子訓練という形で私の霊的ケアをいっしょうけんめいしてくださった牧師先生、ホン・ジョンギ先生という方は、よくおっしゃっていました。神さまとアブラハムとの関係について、それはアブラハムが神さまに「説得される」プロセスだった。とても印象に残るおことばでした。 アブラハムは信仰の父として選ばれましたが、何かの折に人間的な不信仰が現れてしまうものでした。しかしそのようなアブラハムのことを神さまは決してあきらめることはなさらず、これでもか、これでもか、と説得してくださり、そのようにしてアブラハムは、信仰の父としての成長を遂げることができたのでした。 私たちの歩みもそうです。私たちも信仰によって歩むことが必要であると知っていても、なんと人間的、肉的になってしまうものでしょうか。しかし、神さまはそんな私たちのことを諦めることはなさいません。何度でも、何度でも、私たちをみことばによって説得してくださり、信仰者としての道に戻してくださいます。 私たちもこの主の恵みに感謝こそすれ、甘えることはせずに、主の御声をお聞きする歩み、信仰者としてつくりかえられる歩みをとどめないでまいりたいと思います。 もう少し、アブラハムへの祝福の内容を具体的に見てみましょう。18節にあるとおり、アブラハムは強く大いなる国民となります。しかしそれは、自分たちだけが祝福されて、あとは祝福されない、という意味ではありません。「地のすべての国民は彼によって祝福される」とあります。 祝福をもたらす権威が与えられている、ということは、大いなることです。もし、その人が祝福を祈ったら、その祈られた対象は祝福されるのです。その存在に対して神さまがみこころを注がれるのです。実に、神の人の祈りには、絶大な力があります。このことについては、あとの箇所で大事な意味を持つようになりますので、まずは覚えておいていただければと思います。 しかし、神さまがひとたび選ばれたならば「自動的に」祝福され、地上に祝福をもたらす存在になるかといえば、それはちがいます。19節をご覧ください。神さまがアブラハムを召し出された理由が書かれています。……まず、アブラハムがその子どもたちとのちの家族に命じて、彼らが主の道を守り、正義と公正を行うようになるため、とあります。 正義と公正。これが主のみこころです。しかし、これは神の民としてひとたび選ばれたならば、自動的に実践できるものではありません。そうと意識して守り行なうことが必要になります。それは、一歩間違えると、まったく正反対のこと、罪を行うようになってしまうからです。 イザヤ書5章7節を見てください。実は、「公正」と「流血」、「正義」と「悲鳴」は、表裏一体ともいえるものです。ヘブライ語で「公正」は「ミシュパート」に対して「流血」は「ミスパーハ」、そして「正義」は「ツェダーカー」に対して「悲鳴」は「ツェアーカー」、もちろんこの両者は、ヘブライ語の文字で書いてもよく似ています。 「公正」や「正義」は、神の民だからと自動的に備えることができるものではなく、むしろ、神の民であるぶん、より責任をもって「公正」や「正義」を行うべく主のみことばを積極的に守りなさい、と警告されているわけです。 そのようにして、正義と公正を行うことによって主のみことばを守ることは、どのような結果をもたらすでしょうか? 主がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就する、とあります。 まことに、信仰とは、みことばを守り行なうことによって完成されるものです。間違ってはなりませんが、行いを積み重ねて救われるのではなく、救われるのはあくまで、信仰によることです。しかし、ひとたび信仰によって救われたならば、その信仰による救いのあまりの素晴らしさに、みことばを行わずにはいられない……信仰は、行いという形で生活に実が結ばれてしかるべきです。このあたりのことは、あとでおうちにお帰りになって、ヤコブの手紙をお読みいただきたいと思います。 さて、20節にまいりましょう。ここで主が、アブラハムに隠さないで伝えようとされたみこころが登場します。そうです、このソドムとゴモラの悪は、主のみもとにまで立ち上っていました。この町を滅ぼすべきか見てみるつもりだ、という、神さまのみこころを、主はアブラハムにお示しになりました。 神さまはときに、滅びをもたらすお方である……しかし、こういう聖書箇所を読むと、必ずこんな反応をする人がいるものです。残酷だ! 人を滅ぼすなんて、そんな神さまは残酷だ! そんな神さまなど信じるものか! しかし、それなら、そういう方々に問いたいのです。悪を放置することが神さまの愛なのでしょうか? 悪が放置されているならいるで、問題にはならないでしょうか? なぜこの世界にはこんなにも悪があふれているのか! 神はいるのか! そういうことにならないでしょうか? 聖書は、そのような悪の中にいる者たちに対して、神さまは速やかにさばきを行われるお方であると語っています。私たちが信じるべきは、このさばき主なる神さまです。恐れるべきお方です。私たちも本来、神さまのさばきを受けるに値する罪人であったことを覚える必要があります。 しかし、このみこころが示されるや、アブラハムは神さまの前に立ちはだかりました。23節です。 もし、悪い者がその悪さのゆえに滅ぼされるならば、ある意味、彼らは自分のその悪の責任を取らされたということであり、しかたのないことでしょう。しかし、その中に正しい人、すなわち、神さまのみこころにかなった人がいて、その者たちまで彼らの巻き添えになるとしたらどうでしょうか。あってはならないことです。それこそ、神さまご自身の正義と公正はどこにあることになるのでしょうか。 アブラハムは、神さまが正義と公正のお方であることに訴えました。正しい人が50人いれば滅ぼさないでください! すると、神さまはこの訴えを聞いてくださいました。26節です。その人たちのゆえに、その町のすべてを赦そう。 むかし読んだ本、それは聖書に関するキリスト教書籍というよりも、一般の世界史の謎のような本でしたが、神さまが悪に満ちたソドムとゴモラを天の火をもって焼き滅ぼされたという記事の中に、このようなことが書かれていました。「現代だったら、何度でも焼き滅ぼされているのではないだろうか。」 みなさま、そう思いませんか? このところ妻と私は、世界にどれほど悪がはびこっているか、そのようなニュースばかりに接して、暗澹たる気分になっています。今にも神さまは、こんな悪い世界など、滅ぼし尽くすのではないかと思えてならなくなります。しかし、神さまはまだあわれみをもって、この世界を滅ぼさないでいらっしゃいます。それは、神さまの御目から見て正しい人の数が、まだこの地に満ちているからではないでしょうか? イエスさまは、あなたがたは地の塩です、とおっしゃいました。地の塩とは、この世を腐敗から救う防腐剤としての役割をする存在です。食べ物が腐らないように塩するには、たくさんの塩を使う必要はありません。少しでも充分に腐らなくなります。それと同じで、私たちクリスチャンは少ないように思えるかもしれませんが、それでも私たちが塩としての役割を果たすことによって、この世界は腐敗から免れます。まさに、ソドムに50人の義人がいれば、彼らに免じて主はすべてをお赦しになるのです。わずかの義人の存在は、どれほど大事なものでしょうか。 しかし、もしかすると義人は50人もいないかもしれない。そうなったら、神さまは滅ぼされよう。しかし、それであきらめるアブラハムではありませんでした。まず27節です。 まず、祈る者にとっては、この認識が必要です。アブラハムは信仰の父として選ばれていますが、神さまの御目にはちりや灰にすぎません。神さまに何か申し上げられるような立場になどありません。そのことを悟ることが、主の御前に出る上での第一条件です。自分はひとかどの人間のように思う態度では、主の御前に出る資格はありません。 アブラハムは、ちりや灰であると告白しました。自分がそのような存在であると、心底知っていました。しかし、ソドムとゴモラを主の怒りの日から救えるかどうかは、自分の祈りにかかっていることも知っていました。さきほども学びましたとおり、地のすべての国民がアブラハムによって祝福されることがみこころである以上、彼はソドムとゴモラの祝福を祈らなければならなかったのでした。 しかし、神さまが受け入れられた条件は、義人50人でした。この条件に不足するということは、すなわち、神さまがお赦しになる条件を満たしていない、ということを意味します。アブラハムは、その条件にやや不足して、義人が45人ならば、それでもあなたさまは滅ぼされるのですか、と、神さまに食い下がりました。 神さまはアブラハムの祈りを聞かれました。滅ぼしはしない。 しかし、アブラハムはそれであきらめることはしませんでした。40人なら? 滅ぼしはしない。 まだあきらめませんでした。お怒りにならないでください。30人なら? 滅ぼしはしない。 まだあきらめません。あえて申し上げます。20人なら? 滅ぼしはしない。 あのソドムとゴモラに、義人がたった20人。悪が圧倒している状態です。その悪は依然として、主のみもとに立ち上ることでしょう。しかし主は忍耐して、その20人のゆえに町を赦すと約束してくださいました。しかしそれでも、アブラハムはあきらめませんでした。32節です。 しかし、これで主はアブラハムのもとを去って行かれました。アブラハムも帰りました。これが主のみこころだったので、受け入れるばかりでした。 もちろん、これほどまでにアブラハムが祈りつづけたのは、愛する甥のロトの存在を思ってゆえでした。彼には助かってもらわなくては! 天から炎が下ってはおしまいだ! しかし結果として、ソドムとゴモラには天から火が下りました。そうです。義人は10人もいなかったのです。ロトの家族しかいませんでした。ロト自身、ロトの妻、ロトの2人の娘、その夫たち……合わせて6人。逃げなさい! 主の命令が下りました。しかし、ロトの婿たちはソドムの滅亡を冗談ととらえて信じようとせず、結局、御使いに連れ出されるしかなくなり、連れ出されたのは、ロトの妻と娘たちだけ、しかも、ロトの妻は主のみことばを守らず、死んでしまいました。その娘たちもあとになって、極めて不道徳な形で子どもをもうけるということをしており、その子孫はイスラエルに敵対する民族となりました。ほんとうの意味で正しいだったのは、第二ペテロ2章の語るとおり、ロトでした。 アブラハムは、ロトに助かってもらいたい一心で、とにかくとりなしの祈りをささげました。50人なら! 45人なら! 40人なら! 30人なら! 20人なら! 10人なら! 実に6度も食い下がりました。 みなさま、こんな悪い世界など滅ぼされるのがみこころだ、自分たちはどうせ、この悪い世界から救われて天国に行くのだから関係ない、などとお考えではないでしょうか? それは絶対に主の願っておられる態度ではありません。私たちは世界を祝福する立場にあります。とりなして祈る立場にあります。 残念なことに、私たちの生きて暮らしている世界は、とても悪いです。どれほど多くの人が、神さまのみこころを損ない、その道を乱していることでしょうか。しかし私たちは、この世界にやがて主がもたらすと警告された火のさばきを、ただ待っているだけでいてはなりません。とりなして祈る必要があります。神は愛です、とみことばが語るとおりの、その神さまの愛によりすがって、どうかこの世界を滅ぼさないでください、この世界から正しい人を救い出してください、と、祈るのです。 神は愛、ということは、私さえ愛されればそれでいい、ということでは、絶対にありません。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 これがみこころです。間違ってはいけません。神は愛なのです。しかし主は、やがてこの世界を火をもって滅ぼすときのことを、みことばにおいて警告されています。その日に、義人として主の御前に立つべき人が滅ぼされてはなりません。 私たちは、愛する人のために祈っていますでしょうか? ちょっと祈っても救われないからと、ああ、みこころじゃないんだ、と、祈ることをやめていないでしょうか? あるいは、この世界がよくなるように祈っても、少しもよくならないから、ああ、みこころじゃないんだ、と、祈ることを諦めてはいないでしょうか? それは、地に祝福をもたらす責任を放棄していることです。いざとなればロトのことを特別に滅びから救い出された主は、この世の終わりの滅びからも、私たちの愛する人たちを救い出してくださいます。私たちはそう信じているならば、粘り強く、祈ってまいりたいものす。それが、信仰によって生きる、祝福の源としての私たちの生きる道です。…

不信仰は取り扱われる

聖書箇所;創世記18:1~15/メッセージ題目;不信仰は取り扱われる  何度かメッセージの時間にお話ししている、ダウン症のあっこちゃんのことをお話しします。彼女はとても喜んでバイブルキャンプから帰って来ましたが、そのことは、教会に深入りすることを望まないお母さんをうろたえさせ、それを見て取ったあっこちゃんは、あれだけ恵まれたキャンプを境に、ぱったり教会に来なくなりました。  そんなあっこちゃんを心配して、日曜学校の先生があっこちゃんに電話をしました。するとあっこちゃんは、こんなことを言ったというのです。……このあいだ、イエスさまが私のお部屋にやって来たの。どんな恰好かっていうと、立派な格好じゃなくて、パジャマを着ていたの。行くところがないから、あたしの部屋にやって来たんだって!  先生はそれを聞いて感動されたそうです。私はその話を日曜学校の先生にお伺いして、ああ、よかったなあ、と思ったものでした。あの純粋な信仰を持ったあっこちゃんには、イエスさまのお気持ちがよくわかるのだろうなあ、とも思いました。  もし仮に、イエスさまが私たちの家にやってきたら、私たちならどのように接するでしょうか? ちゃんとお迎えして、おもてなしするでしょうか? それとも、イエスさまだとわからなくて、面倒をかけないでよ、と、追い出してしまうでしょうか? ちゃんとお迎えできる、子どものような信仰を保っていますでしょうか?  さあ、今日の箇所は、アブラハムが神さまをお迎えし、おもてなししたというお話です。神さま、そしてその使いが人の姿を取ってこの世界に臨んだという記述は、創世記18章と19章に登場しています。18章はアブラハムの一行のいるマムレの樫の木の場所、19章はロトのいるソドムでのお話で、とても対照的です。今日は18章の、アブラハムが神さまとその使いの、3人のお客さんを迎えた場面から学びます。  主とその使いは、人の姿を取って、アブラハムのとどまっていた天幕の前までやってきました。アブラハムはこのお方がどなたなのか、たちどころに分かりました。アブラハムは急いで走っていって、この一行をお迎えしました。  神さまはご自身の時に従って、私たちのうちに臨まれます。このときもアブラハムは、神さまが臨まれるというご予定を知らずにいました。しかし現れたのが神さまだと知るや否や、すぐに走っていきました、 先月学びました、ヨハネの福音書11章のみことばでは、イエスさまが神の時、神さまのタイムスケジュールに従って歩まれたことを学びました。神さまの時は、しばしば人の予測するときとは異なるものです。また、神さまは思いがけない時に臨まれます。 このときのアブラハムもそうでした。お客さんを迎えに走っていく、これは普通、アブラハムの生きた中東の習慣にはないことです。しかしアブラハムは神さまの御前だからと、なりふり構わず駆けよっていきました。神の箱の前で恥も外聞も捨てて踊り跳ね回ったダビデ、イエスさまに再会したけれども裸だったのでうれしはずかし、服をまとって湖に飛び込んで泳いでいったペテロのようです。まさにイエスさまのおっしゃる、子どものように神の国を受け入れる人! アブラハムは年長の男性としての威厳も捨てて、子どものようにこの一行に駆け寄り、まず、ひれ伏して礼をしました。そして、足を洗うための水を用意しました。まさしく、おもてなしです。そして、「食べ物を少し持って参ります」と言っていますが、約23リットルとたっぷりの小麦粉でパン菓子をつくらせ、柔らかくておいしそうな子牛を料理させました。この野にある天幕生活にあって、最高のおもてなしです。 アブラハムは、神さまと契約を結んでいただき、永遠のいのちに生かされ、また、のちの子孫、すなわち、アブラハムのように信仰をもって主を受け入れる人たちもまた永遠のいのちに生かしていただくという約束を神さまからいただきました。アブラハムはどれほど、神さまに感謝していることでしょうか。その感謝の表現が、こうして、ささげ物をもってするもてなしへと実を結んだのです。 そしてアブラハムは、自分も食卓にあずかったわけではありません。給仕をしています。先週学びましたラザロの三きょうだいの箇所でも、マルタはイエスさまをはじめ、お客さんたちに給仕をすることによって、主を礼拝する表現をしています。アブラハムのこの箇所でも、奉仕とは信仰の表現、礼拝の表現であることがわかります。 子どものように神の国を受け入れる、と申しました。しかし、子どもっぽい、つまり分別がない、しつけられていない子どものような状態では困ります。そういう幼稚な状態では、仕えることよりも仕えられることを求めるようになります。それではいつまでたっても、神の子どもとしての成長を期待することはできません。 「子どもっぽい」と「子どもらしい」はちがいます。アブラハムの場合は「子どもらしい」です。全能の神さまがみわざをなしてくださると語られたら、そのとおりに素直に信じる。神さまの御前に出るときには、後先のことを考えないで、持てるかぎり最高のものをおささげする。こういうことが大人になると、できなくなる人がなんと多いことでしょう。 私たちは子どもの信仰、素直に神の国を受け入れる信仰を保たせていただきたいものです。神の国……信仰によってイエスさまを受け入れた者たちを、主ご自身が統べ治めてくださる御国、それは私たちのただ中に実現させてくださるもので、神の国を実現させていただくには、なによりも、私たちが子どものようになることです。 神さまはこのように、アブラハムに対し、幾たびかの訓練をとおして純粋な信仰をくださいました。特に、この年老いた身から男の子を生まれさせ、その子孫が星の数のように増やされるという約束を受け入れるとは、どれほど純粋な信仰へときよめられたことでしょうか。しかし、アブラハムがこの信仰を持つことができたように、私たちもこの信仰を持たせていただくことができるのです。それこそ、信仰を働かせてまいりましょう。 しかし、アブラハムのこの信仰が完成させられるために、その信仰が取り扱われなければならない人がいました。それはサラです。 神さまははっきりと、90歳になるサラから男の子が生まれ、その男の子から子孫が増え広がることを約束されました。しかし、このことをアブラハムは信じ受け入れましたが、サラの場合は、それを信じ受け入れるためには、神さまが直接介入してくださることを必要としていました。 私は男なので感覚的にわからないことばかりですが、女性にとっての生理というものは、いわく表現しがたい感覚になるものと聞いております。しかし、女性の方が月に1回の生理を迎えるなら、そのなんともいえない苦痛とともに、血を流されることによって、女性とはいのちを生み出す存在であることをとても実感されるのではないかと想像します。まさに聖書の語るとおり、血はいのち、それが如実に実感できるように、神さまは女性という存在に生理というものを許されたのかもしれません。 サラは、生理が止まって久しくなっていました。90歳にもなるのだから当たり前です。ただでさえもともと、サラは子どもを産めないまま生きてきました。しかも生理まで止まって、90歳にまでなってしまいました。神さまから何と言われようとも、サラの絶望はリアルです。なんと言っていますでしょうか? 12節です。   ……私も老いぼれた、主人も老いぼれた、私にはもはや、子どもをもうける楽しみなんてあるわけないでしょう、ご冗談はおよしください……。サラは、おのが身の悲しさに、心の中で薄笑いを浮かべました。  この笑いは、それまでの人生において子どもを与えてくださらなかった、神さまへの怒り、抗議、また、絶望も多分に含んでいると言えましょう。この時代は、子どもが与えられないということは、その人は祝福されていないと世間に思われていました。アブラハムもサラも子どもを欲しがり、召し使いのハガルによって子どもを産ませるということをしたくらいです。しかし、しょせんその子どもはサラが直接はらんで産んだ子どもではありません。ハガルの存在はサラにとってとても疎ましいものとなってしまう、という悲しい結果を生みました。  神さま、あなたは私にこの齢になるまで、子どもを与えてくださらなかったじゃないですか。子どもを産む? 今さら何をおっしゃるのですか。冗談ではありませんよ。もう、怒る気も起きませんわ。サラのそんな深い悲しみも見えてくるようです。  しかし、アブラハムが信仰の父であるかぎり、サラは信仰の子どもたちを数限りなく産む、いわば「母親」です。彼女の不信仰は神さまの御手に取り扱われる必要がありました。13節、14節をお読みしましょう。  まず13節です。主はサラの感情をお見通しでした。主は、サラの不信仰を問題にされました。しかし、よくご覧ください。すぐそばにサラが立ってはいましたが、この厳しい質問を投げかけられた相手は、アブラハムです。  つまり、サラの信仰が確立するか否かは、アブラハムの信仰にかかっていて、さらには、その信仰をもとに、どれほど普段からアブラハムがサラを教えていたかにかかっているということです。  もともと、サラが子どもを産むというお告げを受けたのはアブラハムです。それならばアブラハムは、普段からサラに対し、あなたは男の子を産む、信じなさい、と教えるべきでした。しかし、このように主が現れて直接語られる、という、千載一遇のチャンスに、みじめにもサラは、不信仰の姿をさらしてしまいました。それはアブラハムの責任でもありました。 12節でサラはアブラハムを、「主人」と呼んでいます。この呼び名は重要です。これは第一ペテロ3章6節にある、サラがアブラハムを「主」と呼んで従った、という記述の重要な根拠になります。しかし、責任が重いのは、従う側のサラではなく、従わせる側のアブラハムです。いざというときに不信仰の態度を示してしまったサラの責任を、神さまはアブラハムに問うていらっしゃいます。  では、なぜ、サラは信じなければならなかったのでしょうか。笑ってはならなかったのでしょうか。それは14節に記されているとおりです。  まず、主にとって不可能なことがあるだろうか、いや、ない。主は全能だからです。生理が止まったすでにおばあちゃんになって久しいサラからでも男の子を生まれさせてくださり、その子から子孫を星の数のように生まれさせてくださることなど、全能なる神さまには当然おできになることです。  しかし、この全能のみわざは、神さまの時に従って行われることです。「来年の今ごろ、定めた時に」とあります。神さまがみこころによって、みわざを行われる時を定められます。サラにとってその「時」とは、90歳のおばあちゃんになったときだった、というわけです。このことにより神さまは、ご自身が全能の神さまであることをお示しになられるというわけです。  人が思い描く時というものと、神さまが計画しておられる時というものは、しばしば異なるものです。イエスさまがラザロのもとをお訪ねになるのも神さまの時に従われた結果で、そのことによって、ラザロは死んだがイエスさまによって生き返らされ、イエスさまが全能の神さまであることが示され、主のご栄光が顕された、というわけです。  私たちにしても、自分の思い描いていることが実現しないでやきもきすることもあるでしょう。しかし、私たちは忘れてはなりません。つねに実現するのは、神さまの時です。そして、それが最善なのです。まさに、伝道者の書3章11節に、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」とあるとおりです。  だから私たちは、神さまが時にかなって実現してくださるみこころを信じ、握りしめているものを手離す決断もときに必要です。私たちが何らかの計画を立てることもたしかに大事ですが、それ以上に大事なのは、ヤコブの手紙4章15節にあるとおり、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と、私たちの生活のすべての領域において、その時に従ってみわざを行われる主のご主権におゆだねすることです。  さて、サラは、このように何もかもお見通しの主のおことばに、怖ろしくなりました。サラは「私は笑っていません」と言いました。しかし、主は容赦されません。「いや、確かにあなたは笑った。」  サラの不信仰は、世間の常識で考えれば、思い描いて当然のことと思われるでしょう。おばあさんが出産するだなんて! しかし、主の御目には、これは罪なのです。主のおっしゃること、主のご計画を信じていないことは、どんな理由づけをしようと、罪は罪です。  さらにその上、サラは自分の不信仰が問われると、自分は否定的な反応、皮肉な反応をしなかったと、ごまかしました。しかし、主は容赦されません。あなたは確かに笑った、あなたが不信仰の罪を犯したことをきちんと認め、悔い改めなさい、と迫られます。  あなたは確かに笑った。このお取り扱いは、私たちにも向けられています。書店のキリスト教のコーナーをご覧ください。図書館のキリスト教のコーナーをご覧ください。テレビなどで放映されるキリスト教に関する番組をご覧ください。  それらのものは相当多くが、聖書の記述が現代の科学や常識と合わないからと、むりやり合理的な説明をしていたり、さらには、聖書の記述が間違いであるかのように語ったりしています。まさに、サラのごとく、神さまが全能であることを信じず、全能の神さまに対してうすら笑いを浮かべているのです。  世の中の人々は、そういうものがキリスト教だと思わされています。しかし、それはキリスト教を「標榜」しているだけで、アブラハムが持つ純粋な信仰、子どものような信仰からしたら、あまりに距離がありすぎるものです。私たちは、書店に並んでいるからとか、図書館に並んでいるからと、それらの信仰的ではない資料に権威を覚えたりする必要はありません。  しかし、このサラのうすら笑いは、この世界に生きる私たちもしばしば心にいだいてしまうものであることを、謙遜に認める必要があります。私たちは果たして、聖書と、テレビ番組と、どちらを信頼しますでしょうか? 聖書と、家族の言うことと、どちらを信頼しますでしょうか? 私たちがこの「世間」というものに囲まれているということは、それだけ、その「世間」で通用する「常識」というものが、私たちを純粋な聖書信仰から遠ざけてしまうものであるということを、私たちは認め、そこから守られるように祈る必要があります。  本日から始まる「いのちの道コース」は、アブラハムのように純粋な信仰を持つ上で、そして、サラのように神さまのみことばに対して皮肉な笑いを浮かべない、主に喜ばれるものとなるために、ぜひとも教会全体で共有してまいりたい学びです。しっかり取り組むことで、アブラハムの信仰を受け継ぐ、すなわち、主を信じることによって義と認められる、という、その信仰を受け継ぐ、主に喜ばれる者として整えられる体験をしてまいりたいのです。  もう一度問います。私たちの信仰は子どものようでしょうか? 子どもっぽい、ではなく、子どもらしい、です。この子どもらしい信仰により、私たちは心からささげる生き方、仕える生き方をしてまいります。神さまのみことばを疑わずに、笑わずに受け入れるようになります。もし、私たちのうちに不信仰があるなら、神さまのお取り扱いの御手にゆだね、純粋な信仰を持たせていただくように、ともに祈ってまいりたいものです。 純粋な信仰――その信仰が私たちのうちにともに育てられ、神さまに喜ばれる共同体となることができますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

三きょうだいに学ぶ礼拝

聖書箇所;ヨハネの福音書12:1~11/メッセージ題目;三きょうだいに学ぶ礼拝  もし、みなさんが、2000年前のパレスチナの、エルサレムにほど近い、ベタニアという町にいたとしましょう。その町には、三人で肩寄せ合って暮らしている、けなげなきょうだいがいました。ところがその家は、その中の男のきょうだい、ラザロが亡くなるという悲劇に見舞われました。 そのおうちでラザロのお葬式が執り行われ、人々はわんわん泣いている姉妹たちを慰めてあげたりしました。ところがそこに、この三きょうだいが慕ってやまない、イエスさまがやってきて、ラザロを生き返らせました。もちろん、このことは大変な話題となりました。ところがイエスさまは、このできごとのあとに、姿を消してしまいました。  さて、ユダヤの一大イベントの過越の祭りがあと6日に迫りました。そのとき、イエスさまは再び現れ、この三きょうだいのもとに来られました。たくさんの人が集まります。さあ、みなさんならここに来たいと思いませんか? あのよみがえったラザロに会えるのです! いえ、それ以上に、ラザロをよみがえらせたイエスさまに会えるのです! それもごはんつきです! 私なら行っちゃいます。  さあ、それでは、みなさまもこの復活パーティーの現場にいると思って、今日のみことばからともに恵みをいただいてまいりたいと思います。  このパーティーは、イエスさまをお迎えしてのパーティーです。シモンという人の家を借りて行われましたが、このホスト役は、マルタ、マリア、ラザロの三きょうだいです。この三きょうだいは、イエスさまへの礼拝という観点から見て、実に際立った模範を示しています。  まずはマルタから見てまいりましょう。マルタは、奉仕をもって主を礼拝しました。言い換えれば、マルタは彼女の「現在をささげました」。  2節のみことばをお読みしましょう。「人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。」  ベタニアの人たちは、食事を用意することでイエスさまをもてなす奉仕をしました。しかしこの中で、ホスト役として腕を振るっていたのはマルタです。「マルタは給仕し」と、わざわざ書いてあるとおりです。  マルタにとって、仕えること、特に食事の奉仕をすることは、賜物とさえ言えるものでした。ルカの福音書10章で、イエスさまのご一行をこの三きょうだいの家がお迎えしたという場面が出てまいります。そのとき、マルタが忙しく立ち働いていたことが記録されています。ただ、忙しさにわれを忘れ、手伝ってくれない姉妹のマリアを叱ってやってくださいな、と、イエスさまに言いつけるようなことをしてしまって、かえってそのせいで、イエスさまに注意されています。  それでもマルタは、こうしてイエスさまをはじめ、やってくるお客さんたちをこうしておもてなししているのは、やはり奉仕というものが、マルタにとっての賜物だったからといえるでしょう。  賜物を用いて奉仕するということは、現在自分に与えられているものを用いて主を礼拝するということでもあります。礼拝とは、いまこうして、日曜日の午前10時半から1時間ほどの時間を用いて礼拝することだけを指しているのではありません。もちろん、この時間もとても大事な礼拝の時間ですが、ローマ人への手紙12章1節には、何と書いてありますでしょうか?「ですから、兄弟たち。私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」  からだをもって献げることがふさわしい礼拝……以前の訳の聖書では、この「ふさわしい礼拝」ということばを、「霊的な礼拝」と訳しています。それは、現在持てるものをことごとくささげる生き方をする、ということであり、それが聖徒としてふさわしいことであり、また霊的である、ということです。 マルタは、イエスさまやその一行、また、そのほかにやって来た人たちをもてなすという、いわば「労働」をしました。それは、体力があってこそ可能なことであり、マルタはいわば、今与えられている「健康」を主にささげたことになります。 また、やってきた人たちは彼女の近所の人、友達、知り合いであることを考えると、マルタは、彼らのことをイエスさまの御前に導くという点で、「人間関係」を主にささげてもいます。もちろん、自分で食べ物や飲み物も用意したでしょう。「財物」もささげています。 私たちが「奉仕」をしたり、「伝道」をしたり、「献金」をしたり、といったことは、そういう文脈で考えると、「ささげる」ことではありますが、この世で言うところの宗教行為と同じとは言えません。そうすることで私たちの霊的ステージを上げて、より天国に近づく、などと考えるのは大間違いです。 私たちはすでに、イエスさまとその十字架を信じる信仰によって、天国に入れていただいています。何かの努力や犠牲で天国に入ろうと思ったり、またそのように人に教えたりすることは、絶対にしてはなりません。 しかしそれでも、私たちはこの与えていただいた救いの恵み、天国の恵みに何か応えたくはならないでしょうか? 生活に行いの実が結ばれていくのです。 行いの実が結ばれていくプロセスで、私たちは、私たちに財物が与えられていることに感謝して、お金をささげる「献金」や、ものをささげる「献品」をするのです。救いを与えてくださった神さまを礼拝する喜びを伝えたくて、与えられている人間関係に感謝しつつ「伝道」をするのです。健康や技術が今自分に与えられていることを感謝し、その感謝の表現として「奉仕」をするのです。 すべては、現在の自分をもってささげる礼拝のあり方で、ローマ12章1節のみことばに従順にお従いする「表現」です。 そういうわけでマルタは、現在の自分をささげました。もちろんこれは、宗教行為などというレベルの話ではありません。きょうだいラザロを復活させてくださったイエスさまは、ご自身語ってくださったとおり、よみがえりであり、いのちであり、イエスさまを信じる者は死んでも生きる。生きていてイエスさまを信じる者は、決して死ぬことがない。……このイエスさまを前にして、マルタは正しい信仰を持たせていただいたわけです。 本来罪に死ぬはずだった私が生かしていただいた。永遠のいのちを与えていただいた。この信仰を持たせていただいたことに感謝して、マルタは自分の「現在」をおささげしたのです。 私たちの礼拝も、イエスさまによって罪赦されて神さまの子どもとなり、永遠のいのちを与えていただいたことに由来するものです。この時間にささげている礼拝も、献金も、奉仕も、伝道も、すべては永遠のいのちへの応答、感謝の表現です。私たちはこの永遠のいのちの恵みに感謝して、真剣に私たち自身をささげてまいりたいと思います。 次に、マリアを見てみましょう。マリアは彼女の、「未来をささげました」。 3節をご覧ください。「一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」 この短い記述をよく読むと、マリアがイエスさまに対して何をしたか、実にいろいろなことがわかってきます。 ナルドの香油、これは嫁入り道具です。とても高価なものです。一リトラ、これは欄外の脚注によれば328グラムであり、よく女性の方や男性の方が手にしておられる香水の瓶よりもよほど分量があります。並行箇所であるマルコの福音書14章によれば、この女性はこのナルド香油の壺を割ってイエスさまに注いだとあります。家は香油の香りでいっぱいになりました。 彼ら三きょうだいがイエスさまとそのご一行をもてなした場所は、さきほども申しました、シモンという人の家です。しかしこのシモンは、マルコの福音書によれば、当時差別されていた病気、ツァラアトの患者でした。そんな人の家であったことを考えると、この三きょうだいの経済状況は推して知るべしです。そんなマリアが嫁入り道具に取っておいたナルドの香油は、売れば300デナリにもなります。それは、1デナリが一日分の賃金に相当することを考えると、何百万円もする宝物です。 それは嫁入り道具、本来、花婿のために使われるべきものです。それを惜しげもなくイエスさまに注いだということは、私の花婿はイエスさまです、と、みなの前で告白した、ということです。家中に広がったナルド香油の芳香をかいだ満場のお客さんたちは、このマリアの犠牲を伴った信仰告白に、まことの花婿とはイエスさまであることを、弥が上にも実感したことでしょう。 ヨハネの黙示録に描かれていることですが、終わりの日には、子羊なるイエスさまと花嫁なる教会の結婚式が持たれます。教会は飾られた花嫁として、聖くされた姿をもって子羊なるキリストの前に出ていきます。先週、結婚式の話をしましたが、結婚式というものは、このキリストと教会の結婚式、窮極の結婚式を象徴していると言えます。 私たち教会はイエスさまというお方にふさわしくなるように、御霊によってきよめられ、整えられ、花嫁として御前に出ていくのです。まことに、私たちにとってのこの地上の歩みは、イエスさまの花嫁修業です。 マリアは、未来にだれかこの世界の男性のお嫁さんになることを諦めてでも、イエスさまの花嫁になることを選びました。なぜ、これだけの献身ができたのでしょうか? それは、愛する兄弟ラザロをよみがえらせてくださったイエスさまに対し、自分の未来を託す信仰を持つことができたからでした。 イエスさまはラザロをよみがえらせてくださったように、いずれこの地上でいのち果てる私のことも終わりの日によみがえらせてくださり、花嫁としてくださり、永遠にイエスさまともに生きる者としてくださる……その信仰をマリアは、自分の持てる最高のもの、嫁入り道具の香油をささげ尽くすことにより、はっきりと表明したのでした。 このことをイエスさまは、7節のみことばで、このように評価していらっしゃいます。「わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。」 マリアは、イエスさまが兄弟ラザロをよみがえらされたことが宗教指導者たちを激怒させ、彼ら宗教指導者たちが、イエスさまを死刑にするために捜査をはじめたことを知っていました。もはやイエスさまに残された時間はわずか、自分もイエスさまに会える時間はわずかしかない……マリアは、そのわずかの時間に懸けたのでした。 礼拝とは、イエスさまの死と復活にあずかることです。本日の礼拝において「主の晩さん」が執り行われますが、「主の晩さん」はイエスさまの死にあずかることであり、私たちにとっては極めて大事なものです。これを守ることは、イエスさまの死と復活にあずかり永遠のいのちをいただいた私たちにとって、本来、欠かすべからざることです。 しかし、イスカリオテのユダはここで何と言っているでしょうか? 一見すると「正論」ともいえることを主張して、マリアを責めました。こんな高価なナルドの香油をむだにしたとは何事か、これを売れば貧しい人に施しができたではないか……。 しかし、これは一理あるように見えても、イエスさまの御目にはそうではありませんでした。貧しい人を助けることはいつでもできる、しかし、わたしの葬りの備えをすることは、このとき一回限りだ。そのままにさせておきなさい。 もちろんイエスさまは、貧しい人を助けるな、とおっしゃったのではありません。時と場合を見極めよ、とおっしゃったのです。よく言われることですが、ベストの最大の敵はベターです。貧しい人を助けるのは確かに素晴らしいことで、何もしないよりははるかにいいことにはちがいありません。しかし、それは「ベター」です。ほんとうの「ベスト」は、主の十字架と復活、再臨を忍んで、主に礼拝をおささげすることです。 私たちが主を礼拝することは、この世でクリスチャンとして善行を積み、証しを立てることに優先します。クリスチャンとしてのすべてのよい行いは、こうしてともにささげる礼拝から始まります。そこから、生活そのものを聖い生きた供え物としておささげする、生活をもってする礼拝へとつながるのです。 しかし、私たちはこのユダのことばから、さらに真剣に考えるべきことがあります。善行を積もうとすることはしばしば、罪を犯すことに取って代わられる危険があることを、私たちは謙遜に認める必要があります。 この箇所を読むと、ユダがなぜこのような発言をしたか、その背景が語られています。彼は十二弟子の会計係でしたが、この共同体にささげられた献金をひそかに盗んでいました。ユダは、マリアからナルドの香油を受け取ったらそれを売って、それでつくった300デナリの中から盗もうという魂胆だったことが、ここでほのめかされています。 しかし、残念なことですが、こういうことはクリスチャンの間でも、しばしば起こることです。私たちキリスト教会は、神さまを礼拝することに集中すれば基本的にはそれで充分ですが、ときにそれに付随して、いろいろな事業を行います。クリスチャンどうしが集まって学校を経営したり、病院を経営したり、さらには、神学校を経営したり、宣教団体を運営したりと、いろいろな働きが展開されます。 それらの働きは、クリスチャンとしてこの世界に仕えたいという純粋な意図をもって始められ、運営されているものです。素晴らしいことです。しかし、そのような意図を持った働きの中でも、金銭的な問題が起きることはあるものです。それはやはり、神さまの御前に徹底して生きる姿勢がどこかで欠けてしまっているからではないでしょうか。私たちはやはり、イエスさまの助けがなければ片時も生きていけない罪人であることを謙遜に認める必要があります。 だから私たちは、主の御前に真剣に礼拝をささげることが大事になります。礼拝はまるでともに集っている人を意識するように、形だけささげていればそれで充分なのではありません。御霊と真理によって、主の御前に徹底して礼拝をささげることです。御霊に導かれ、真理のみことばを握って、真剣に礼拝をささげるのです。 世の中の人たちは、私たちクリスチャンに対していろいろ期待することがあると思います。特に私たちには、まるでボランティアのような善行を積むことをおそらく世間は期待しているはずです。もちろん、それも大事なことにはちがいありませんが、私たちにとって何よりも大事なのは、私たちが未来のいつかの日に完全に贖われることを望み見て、今日この日に、主の十字架の死と復活、再臨を覚えて、真剣に礼拝をささげることです。 私たちのこの、善行よりも礼拝を最優先にする姿を、世間は理解せず、かえって批判したり、非難したり、あるいは嘲ったりすることもあるかもしれません。 しかし私たちは、終わりの日、贖いの日を見据えるなら、そんな世間の評価など、どれほどのことがあるでしょうか。私たちは周りがどう評価しようと、変わらずに、主に礼拝をささげ、贖いの日を待ち望むのです。 私たちの毎日は、終わりの日、イエスさまと教会との結婚に備える、花嫁修業の日です。私たちはその日を待ち望み、主の御前に徹底して、真剣に礼拝をささげる生き方をしてまいりたいものです。 最後に、ラザロの姿を見てみましょう。ラザロは彼の、「存在そのものをささげました」。 ラザロは、イエスさまに復活させていただいたいのちそのものを生きていました。そしてこのラザロは、ここではどのような存在となっていたでしょうか? 9節をお読みしましょう。「すると、大勢のユダヤ人の群衆が、そこにイエスがおられると知って、やって来た。イエスに会うためだけではなく、イエスが死人の中からよみがえらされたラザロを見るためでもあった。」 復活のいのちを生きるラザロは、イエスさまとともにいました。イエスさまがラザロを訪ねてきてくださったからです。私たち、イエスさまによって復活のいのちを生かしていただいている者がイエスさまとともにいさせていただく、そこに礼拝が成り立ちます。ラザロの存在がマルタとマリアを礼拝に導いたように、私たちも復活のいのちに生かされている存在そのものをもって、人々を礼拝へと導くのです。 生き証人、ということばがあります。このラザロの存在は、イエスさまがよみがえりであり、いのちであられることを、雄弁すぎるほどに語っていました。まさに「生き証人」です。ユダヤ人の群衆は、イエスさまを見に来ただけではありません。ラザロを見て、イエスさまがよみがえりであり、いのちであることを信じるために来たのです。 ラザロは何かしたわけではありません。主のあわれみによってよみがえらせていただいただけです。 私たちも主の御前で何かしているわけではありません。ただ、存在しているだけです。しかしこの存在は、イエスさまによって復活のいのちを生きる者としていただいたという存在です。…