従順と養育の相似形 前編

聖書箇所;エペソ人への手紙6:1~4 メッセージ題目;従順と養育の相似形 前編 先週に引きつづき、「相似形」シリーズです。今回は、従順と養育の相似形、と題しまして、親子関係を扱います。 親子関係は何の相似形でしょうか? そう、神さまと私たち人間の関係との相似形です。聖書を読みますと、神さまを「父」と表現する箇所がなんと多く登場することでしょうか! 私たちも信仰によって、この神さまを、天のお父さま、とお呼びすることができるのです。 ご案内のとおり、イエスさまが天のお父さまに呼びかけられたことばは「アバ」です。日本語の聖書によっては「アッパ」と書かれています。これもご存知の方は多いと思いますが、妻の母国韓国のことばで、パパ、は、「アッパ」といいます。日本語だと、かつてなら「お父ちゃん」ということばがありましたが、今、そんなふうに呼ぶ子どもなどいるのでしょうか。 それに比べると、韓国語の「アッパ」というのは自然です。むかし東京に住んでいた頃に奉仕していた韓国人教会の主任牧師は、もちろん韓国の人で、メッセージを韓国語で語る人でしたが、メッセージに熱が入ると、イエスさまが天のお父さまを呼びかけるシーンに差し掛かるたび、「アッパ、アッパ」なんておっしゃっていたものでした。私はそれを聞くたび、韓国語ということばに大きな嫉妬を覚えたものでした。特定の言語に嫉妬というのも変ですね。より正確に言えば、韓国語を母語とする韓国のクリスチャンたちに対してでしょう。ただし私は、韓国人のクリスチャンの方が、天のお父さまに向かって「アッパ」と呼びかけているのを聞いたことはありません。それはあまりに畏れ多いことだと感じておられるのだと思います。 今日学びますのは、そういう、天のお父さまと私たちの関係を映す鏡としての、地上の親子関係についてです。本日はその前編として、子どもから親に向かう関係を扱います。 まず、主にあって自分の両親に従いなさい、というみことばから見てまいります。 「主にあって」が鍵です。それがないとどうなるでしょうか? 自分の両親に従えって、じゃあ、親が物を盗め、と言ったら、盗んでもいいの? なんて言われたら、まともに反論しにくくなります。 もう100年ちかく昔の映画になりますが、みなさんは、チャップリンの「キッド」という無声映画をご存知でしょうか? しみじみする名作です。でも、こんな場面もあります。チャップリンは長屋で貧しい暮らしをするガラス屋さんです。ひょんなことから彼は、捨て子の赤ちゃんを拾って育てることになります。その子は5年経って、かわいい男の子に成長しますが、彼は石を投げてひとんちの窓ガラスを割ります。するとそこにガラス屋のチャップリンが現れて、直し、儲けるという、「親子」がグルになってのとんだ悪知恵に観る者が大笑いする仕掛けになっています。でも、いかに親の命令で、親を助けるためといっても、これは「主にあって親に従う」ことというには、もちろん無理があります。 うそをついてはいけません、ケンカしてはいけません、勉強しなさい、これらの命令もまた、「主にある」ものだから従うべき、ということになります。 私たちの主にある考えやことばや行動の基準を決めるお方は、神さまです。より正確に言えば、神さまご自身が「主にある」ということの基準です。神さまはこのご自身という基準を人間に教えてくださるにあたり、聖書のみことばを備えてくださいました。聖書には、この人間の守り行うべき基準が、ことごとく記録されています。そういう点では、聖書には「説明書」という側面があります。 しかし仮に聖書が「説明書」だとしても、現代人が何かの製品を手にしたときについてくる説明書とちがって、被造物である人間の図面がついているわけでも、「よくある質問」のように使い手に合わせた懇切丁寧な解説がついているわけでもありません。ここに私たちは、聖書を解釈する必要というものが出てくるわけです。 聖書を解釈させてくださる方は、聖霊なる神さまです。聖霊なる神さまが、神さまのみ思いを私たち人間に伝えてくださいます。ですから私たちは、聖書を読むにあたり、自分の人間的な知恵で読んでしまわないように、聖霊なる神さまの助けをいただく必要があります。お祈りしてから聖書を読むのです。 そして、聖書の解き明かしにも普段から触れておく必要があります。礼拝メッセージを聴くことももちろんですし、毎日のディボーションのテキストをはじめ、聖書に忠実な書籍を数多く読むことも大事になります。 そして何よりも、この悟らされたみことばの教えを、私たちが集うときにともに分かち合うことが必要です。このことによって私たちは多角的にみことばを学ぶことになります。その分、みことばに対する理解が深まるわけです。 浅田次郎という小説家はかつて、ベストセラーになったウォルター・ワンゲリンの『小説 聖書』を評して、この本は難解な聖書を通読せしめる、と語りましたが、たしかにその本は素晴らしい作品にはちがいありませんが、どうしたって「二次創作」です。それを読んだからと、聖書を通読したことにはなりません。 聖書そのものを理解するには聖書を読むしか方法がありませんし、今あげたとおり、聖霊の働き、聖書に基づく解き明かし、分かち合いがなければ、浅田さんのおっしゃるとおり、聖書は難解なものでしかありません。だから私たちが、主にあって両親に従う、といっても、その根幹をなす聖書のみことばを基準とすることにおいて、この3つの要素を欠いてはならないのです。 しかし、そこから導き出される聖書の教えを、実は親たるもの、多く語っているものです。それは親であれ子であれ、人間である以上、神のかたちにつくられた存在だから、もちろんのことなのです。 私は今回のメッセージを備えるにあたって、岡野俊之先生の本、そしてもう1冊、ヘンリー・クラウドとジョン・タウンゼントの共著の本の、合わせて2冊を通読しました。そのどちらにも語られていたことは、子どもをしつけるのに妥協してはならない、ということでした。 よく、子どもは天真爛漫、純粋無垢などというフレーズが人々の口にのぼりますが、そういう面ももちろんある半面、子どもはいわば、「小さな罪人」です。親の命令に反抗したり、ケンカしたり、うそをついたり……誰から教わったわけでもないのに、そういう罪深いことをやってのけます。しかしもちろん、そのままでいいはずがありません。 そういう子どもたちをしつけるとなると、とても激しい反抗にあうことを覚悟しなさい、しかし、子どもは従順に従う喜びを知っているものです。あきらめずにおやんなさい、私はその2冊を読みながら、大きなチャレンジを与えられました。 何よりも、親に従順に従うことを知る者は、神さまに従順に従うことに何のためらいも覚えなくなります。まさしく、天のお父さまに従順になられた、実に十字架に至るまでも従順になられたイエスさまこそ、私たちのモデルです。もし、私たちが神さまとの関係において健全ではない部分があるならば、もしかすると私たちには、親との関係において、神さまのお取り扱いを受けなければならない部分があるかもしれません。 そこでつぎのみことばにまいります。「あなたの父と母を敬え。」 これはもちろん、モーセの十戒のことばです。この十戒の構造は、どうなっているでしょうか? 一応念のため、おさらいしましょう。第一、わたし以外にほかの神があってはならない、第二、自分のために偶像を造ってはならない、それらを拝んではならない、第三、主の名をみだりに口にしてはならない、第四、安息日を覚えてこれを聖なるものとせよ、第五、あなたの父と母を敬え、第六、殺してはならない、第七、姦淫してはならない、第八、盗んではならない、第九、偽証してはならない、第十、隣人の家を欲しがってはならない……。 さて、この10の戒めが、前半は神さまとの関係を語り、後半が人との関係を語るものであることは、お分かりだと思います。しかし、第五の戒め、「あなたの父と母を敬え」に関しては、この両者の橋渡しをする役割をしており、たんに生んでくれた親を敬いなさいという意味であるのと同時に、私たち被造物の親なる、父なる神さまを敬え、という意味にもなりえます。 この、敬うということは、「従順になる」ということで具体的に現れます。しかし実際のところ、親を敬っていても親の言うことを聞けてはいないということは、往々にして起こります。それは、神さまを信じ、愛していても従えていない、ということと相似形、といえます。 しかしそれでも、私たちがたとえ親に対して不従順の行いをしてしまったとしても、基本的に親を敬っていて、ごめんなさいと言えば許してもらえるという信頼があれば大丈夫でしょう。それは、もし私たちが神さまの御前に罪を犯したとしても、そのことに良心のとがめを与えてくださる聖霊なる神さまの働きによって悔い改めに導かれ、神さまとの関係を回復していただけるだけの信仰がうちに保たれていることと相似形です。 問題は、「敬う」という心がなかった場合です。もし人が、創造主なる神さまを敬うことができないならば、もはやみこころに沿った悔い改めなど期待すべくもないということになります。従順となるとなおさらです。 もちろん、よい行いをすれば、それはみことばに示されたよい行いと重なる部分はあるでしょうが、そのよい行いで神さまに認めてもらえるわけではありません。神さまの怒りは相変わらず、その人に注がれています。 同じことで、自分の親なのに敬うことをしないならば、いったいどうやって親に従うことなどできるでしょうか。というより、その人にとって、親に従うことなど、したくないことか、どうでもいいことかのどちらかでしょう。もしそれでも、親に従うことをその人がしたとするならば、それはたまたまか、いやいやながらか、計算ずくのおためごかしか、といったところでしょう。 しかし、親を敬うということは、従順によって秩序が保たれるという結果が伴う以前に、主のご命令です。私たちは主が地上に備えてくださった親を敬うことで、はじめて父なる神さまを敬う、すなわち聖なる恐れをもって近づくことができます。 ただ、このような話をよく聞きます。自分は父親との関係が悪かった。だから、父なる神さまという存在がどうしても信じられない。 なんとも悲しい話です。神さまとの関係すらゆがめてしまうような親子関係だったなんて、考えるだけでとても胸が痛みます。 そういう人は、こう考えたらどうでしょうか。地上の父親はどこまでも不完全だった。しかし、私が信じている神さまは、私の肉の父親のようではない、完全なお父さんだ。この天のお父さまは、決して私を裏切らない。このお父さまとの関係を、日々の主との交わり、礼拝と学び、交わりによって、しっかり保ち、それによって、地上の不完全なお父さんのことを少しでも赦す道が開かれるように、祈るのみです。 いえ、こうは申しましても、赦すということは、お父さんのところに行って和解しなさい、という意味ではありません。それをすると、下手をすればそれまで以上に、何倍にも傷つきます。お父さんと現実に関係がよくなければ、避けるべきでしょう。そうではなく、十字架の上ですべての人を赦してくださったイエスさまを思い、憎しみと怒りを手離すことを「選択」するのです。悪い思いに捕らわれているかぎり、私たちは前に進むことができません。それこそサタンの思うつぼです。 もちろん、「父と母を敬え」というこのみことばを律法的に守りさえすればいいわけではなく、守れないなら守れない自分であることを御前に告白し、そういう自分であることを自分で受け入れることも必要です。しかし、その守れないことは絶対に変えられない宿命では、ない、ということも、私たちは心に留める必要があります。 では、私たちは父と母を敬えば、何か祝福があるのでしょうか? あります。それが、第三のポイント、「幸せになる」ということです。 3節を読んでみますと、「あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」とあります。 これは、もとの十戒の第五戒、出エジプト記20章12節と比較すると、若干異なる点があります。まず、「あなたは幸せになり」ということばは、出エジプト記には書かれていません。これはいわば、聖霊なる神さまがパウロに与えてくださった、十戒の解釈のフレーズと言えます。 しかし、幸せとだけ言うと、その受け取り方や定義は人それぞれ、十人十色です。そこで私たちは、なぜパウロがこのように、「父と母を敬う」ことは「幸せになる」道だと語ったのか、もう少し見てみる必要があります。 そこでもうひとつの相違点を見てみましょう。エペソ書で「その土地」と言っているものは、出エジプト記では、「あなたの神、主が与えようとしているその土地」と書かれています。これはこの、出エジプトのただ中にあるイスラエル民族にとってみれば、「約束の地カナン」という、特定の地域を指します。その具体的な場所で長く生きますよ、という、イスラエルに向けた約束だったわけです。 これに対しエペソ書のほうでは、「その土地」としか書いてありません。このみことばを受け取ったエペソ人がユダヤ人ではなく、いわゆる「異邦人」であったことを考えると、パウロがこの十戒のみことばから「約束の地カナン」を意味するフレーズを省略したことはもっともなことです。 しかし、約束の地カナンとは、罪から贖われて永遠のいのちが与えられた者の生きる、神の国の象徴であると考えるならば、このエペソ書のみことばは、単にこの地上で長生きするという意味ではないことがわかります。神さまはなぜこのようなことをお許しになるのか、そのみこころは計り知れないものがありますが、私たちクリスチャンの間にはしばしば、幼いうちに天国に行く家族がいます。しかし、この「あなたの日々は長く続く」というみことばを表面的に読み取らず、そこから天国という意味を読み取れるならば、私たちはかぎりない慰めをいただくことができるのです。 この天国に入るものはだれでしょうか? イエスさまは、「幼子のように神の国を受け入れる者」とおっしゃいました。この幼子とは言うまでもなく、さきほど申し上げたような「小さな罪人」としての子どもではありません。一心に親を見上げ、親の言うことならなんでも喜んで従う心構えのできている子どもです。そして、そのような心構えで素直にみことばを受け入れ、イエスさまを信じる信仰を持つからこそ、天国に入れていただけるのです。 私たちはみな、子どもとして生まれました。お父さん、お母さんの子どもであるのと同時に、神さまの子どもです。まことに、地上の親の存在は、天のお父さまと私たちとの関係をあらためて考えさせてくれる存在です。そして、天のお父さまとの関係を通して、私たちは、この世にご存命にせよ、もう亡くなられたにせよ、地上の親との関係を捉え直し、私たちが主にあって何者かということを確認させられるものです。私たちを、親によってこの地上に生まれさせてくださり、その訓戒によって育ててくださり、この地上において主のご栄光を現す者として成長させてくださる主に感謝をささげましょう。