神の知恵を求めなさい

聖書箇所;ヤコブの手紙1章5節~8節 メッセージ題目;神の知恵を求めなさい  このところ私たちは、リビングライフで列王記第一をとおしてソロモン王のことを学んできた。ソロモン王がどんなに知恵に満ちていたか、あの、赤ん坊を巡っての遊女の争いをさばいたエピソードや、大小さまざまな植物や動物についても知り尽くしていたという記述からもわかるような、一国の王という立場に納まらない見識、また博識ぶりは、神さまがソロモンにそれだけの知恵を与えてくださったからである。  神の知恵、といえば、私はかつて、知恵さん、という名前の教職者とともに同じ教会で働いたことがある。クリスチャンホームに生まれ育った彼女の名前の由来は、「神を知る恵み」ということだった。私は彼女の父上にもお会いしたことがあるが、実に素晴らしい信仰をお持ちの方で、神を知ることは実に神の恵みである、その神を知る恵みをいただくことが人間にとってどんなに大事なことか、という父上の信仰がその名前に込められているようである。  あまりよくないことばの用い方では、知恵をつける、という表現がある。家族や親戚や小さなお店の店員のような人間関係のごく近いどうし、立場の弱い者が法律などの正当な知識を用いて立場の強い者の理不尽さに対して攻撃したり、抗議したり、距離を置いたりするとき、やられた側は、「いったいどこで知恵つけてきたんだろう」とぼやいたりする。本来、愚かであってくれるほうが都合がいいものを、よくも賢くなりやがって、なまいきな、と思うわけである。  そういうわけで、知恵をつける、とは、実に上から目線の嫌味な言い方であるが、そういう言い方を聞くと、知恵を持つことは何かいけないこと、後ろめたいことのように思えてくるかもしれない。しかし、私たちが押さえておくべきことは「何のための知恵か」ということである。  決して自分が人を出し抜くためではなく、神さまの栄光のために神さまの知恵を用いること、これが、私たちが「知恵」というものを肯定的に理解する上での大前提である。同じ日本のキリスト教会の牧師として口にするのも嫌な不祥事だが、一時期、日本のごくごく一部のキリスト教会が、ふさわしくない牧師の独裁によってカルト化して、日本のキリスト教会全体の大問題になった。そのとき、パワハラにあっていたクリスチャンたちは法的手段に訴えたが、そのことは、聖書に基づいてふさわしく「知恵」を用いたからであり、何ら責められることではない。  そういう、知恵。私たちは第一列王記とともに、そのソロモンが大部分を記している「箴言」もこのところ通読してきたが、箴言は何とも知恵に満ちていて、読めば読むほど賢くなれそうである。もとへ、なれる。神さまがソロモンに与えてくださった知恵を、こうして箴言のみことばという形で分かち合っていただけるのだから、私たちは幸せである。  長い前置きになったが、今日の本文は「知恵をもとめること」を語っている。まずは5節。……知恵が欠けているなら知恵を神さまに求めなさい、ということだが、そもそも人は、どうしたら自分が知恵が欠けていることを意識し、それゆえに知恵を求めるべきだと考えるのだろうか?  やはりここは知恵の宝庫、箴言のみことばを見てみよう。まず、箴言3章7節。自分を知恵のある者と思わないことが必要。たとえ、人からリーダーとか先生とか言われて尊敬されている人であっても、自分は知恵がない、愚かだと心から思っていること。それだけ、神と人の前にへりくだることが大事である。同じく箴言の26章12節もご覧いただきたい。愚かなら賢くなろう、成長しようと考える。しかし、自分は充分に知恵を持っている、学ぶ必要はないと考えるなら、もはやその人には成長は望めない。同じく26章の16節は、そのような成長するための努力をまるでしない怠け者は、七人の賢者よりも自分のほうが知恵があると思っていると語る。手の施しようがない。  だから、自分はまだまだ未熟者だ、学ばなければならないと考える人は見込みがある。私もこれまで、自分も子どもだったし、また現に子育てもしているくらいで、数えきれないほどの子どもを見てきたが、親や先生といった大人がいかに「勉強しなさい」とがみがみ言ったところで、自分の知恵の足りなさを痛感して勉強が必要だとならないかぎり、子どもは勉強しない。もちろん、それは大人も同じことで、自分の足りなさを悟って必要に迫られ、はじめて勉強する気になる。しかし、本を読むにも視力も落ち、記憶力も落ち、だいいち忙しすぎるという現実をいやでも悟らされて、愕然とするわけである。ああ、若い頃から勉強しておけばよかった! なんて。  そういうわけで知恵を得ることは難しい。しかし、みことばはここに素晴らしい方法を示している。それは、神さまに求めなさい、ということである。神さまはだれにでも知恵をくださる。神さまはいくらでも知恵をくださる。求めるならば必ず知恵をくださる。何とすばらしいことではないか。  しかし、私たちはそうと知っても賢くなれないことがとても多い。それはなぜなのかもみことばは語る。6節を読もう。……神さまから知恵をいただける条件は、少しも疑わないで、信じて願うことである。まず、信じて願う、のほうから見てみたいが、願うということは、時に時間をかけることも覚悟しなければならない。現代はインスタント、コンビニ、インターネット……何でもあっという間に手にできる時代だけに、「待つ」ことの意味を忘れてしまいがちだが、ほんとうに欲しいものを手にするためには、待つこともできるはずである。  子育てをするとき、幼いその姿についてんてこ舞いしてしまうが、私たちは心のどこかで、その子がやがて大きく立派になる姿をビジョンとして持っているのではないだろうか? だから、それまでに何年かかったとしても、私たちは忍耐できる。それと同じことで、私たちに知恵が必ず与えられると信じるならば、その知恵が手に入るためにどんなに苦しい勉強をしなければならなくても、かならず充分な知恵を授けていただけると信じて、どこまでも祈って求めていけるはずである。  そう、ここで求められるのは、祈りつづけられるだけの信仰を働かせられるか否かである。6節の「疑う人」のたとえを見ていただきたい。どこかで見たことのある表現ではないだろうか? そう、これは、湖の上を歩くイエスさまを見て、ペテロがイエスさまの招きに従ったときの、あのみことば。ペテロはイエスさまの「来なさい」ということばに従って湖の上に足を踏み出し、イエスさまのほうに向かっていったとき、なんと水面を歩けた。しかし、ペテロは湖の波を見たとたん、おぼれてしまった。ペテロが見るべきはイエスさまおひとりであるべきだった。イエスさまを見ないならば、おぼれてしまう。  「どうせ自分なんて頭が悪いから」、「どうせ自分なんて信仰が弱いから」、こんなふうに自分のことを考えてしまっているとき、その人の目に果たしてイエスさまが見えているだろうか? そのような不信仰な人、神さまを信じているといってもそれは口先だけで実際は信じていないような人には、神の知恵はふさわしくない。そういう、中途半端な者には、神さまは知恵をお授けにならない。  「自分は必ずできる」、「やればできる」、「信じる」、そういう人は、簡単にはへこたれない。祈りつづけることができるし、その祈りに裏打ちされた、知恵を得るためのあらゆる努力を惜しまずにすることができる。神の知恵はそういう人にこそふさわしく、必ず与えてくださる。  7節、8節をお読みしよう。疑う人は、主から何かをいただけると思ってはならない。知恵の初めに知恵を買え、あなたが得たものすべてに換えて悟りを買え、と箴言4章7節のみことばは語る。それほど知恵とは何が何でも求めるべきものだということであり、逆に言えば、神の知恵さえ充分に与えられていれば、人間関係であれ、環境であれ、お金を含めた持ち物であれ、神さまが私たちに必要として与えられるものはすべてそろうのである。  しかし、神さまに対して疑いの思いを持っているようでは、知恵も何もいただけはしない。神さまに対して不信仰な者を、神さまはお用いになりようがないからである。その人のことを神さまがお用いになれないのは、その人は自分が用いられたいからと神の知恵を求めようともしない、怠け者だからである。求めない者には神さまは知恵も何もくださらない。  8節は、そういう人が二心の人だと説く。表面的に見るとご立派なことを言っていて、神さまを信じているように見える。しかし、ほんとうに彼が信じているのは、不確かでしかない自分自身である。主を心に迎えてはいるものの、心の王座に座っているのは自分という状態である。お祈りすると申し訳程度に神さまを心の王座にお迎えしたようなポーズは示すものの、ほんとうのところ、その人にとっての人生の主人はイエスさまではない。  そう、所詮は不確かな「自分」という存在が導く人生だから、心が定まっていないのは当たり前である。不信仰ということ、そして、知恵は必ず与えられると信じて求めることをしないことは、これほどまでに不確かな人生しか保証しない、ということである。  ちょっと、これからお読みになるリビングライフの第一列王記の内容を先取りしてしまうが、知恵を用いて国を治め、立派な神殿を建てて国民を礼拝者として整えたという点で、ソロモンは確かに素晴らしい王だった。それにふさわしい栄華も神さまはソロモンに与えてくださり、その栄華は主イエスさまもお認めになるほどだった。しかし、イエスさまはソロモンの栄華をお認めになってはいるが、ソロモンが知恵深かったと評価しておられるわけではない。やがてソロモンは政治において数々のしくじりをするようになった。いちばんいけないのは、政略結婚も含めてとんでもない数の女性と通じ、彼女たちが外国の神々を持ち込むままにさせ、イスラエルの霊的純潔をけがしたことである。神さまはソロモンに、充分な従順を果たせば齢を長くしてあげようと約束されたが、実際には60歳くらいまでしか生きなかった。これは、彼がそれだけ不従順だったことの何よりの証拠であり、神の摂理である。  そんなソロモンは知恵ある生き方をしたと言えただろうか? 晩年は、箴言というみことばを伝えた人物ととても同じには見えない。知恵を求め、知恵を用いたとは到底言えない、肉の思いに満ちた俗物となり下がっていた。まさしく聖書を代表する、晩節を汚した人物。  ソロモンにしてこうなのである。私たちはどうだろうか? ソロモンのこういう姿を私たちは反面教師としたい。ソロモンは父ダビデの従順により恵みを受けた存在にすぎなかったのに、王座に座って何十年も経つうちに、気がつけば勘違いもはなはだしかった。私たちもいまあるのは主の恵みゆえである。神の知恵を求めることは一生もの、いのち果てて御国に行くその日まで、私たちは日々お祈り、日々勉強あるのみである。  お祈りして、お伺いしてみよう。私たちはほんとうに愚かだと悟らされているだろうか? そんな私たちに、神さまはどんな知恵をお授けになろうとしているだろうか? 静まって、みこころを、そして知恵を求めよう。そして、これからも知恵を得るために励みつづける力をいただこう。

聖徒の忍耐

聖書箇所;ヤコブの手紙1章1節~4節 メッセージ題目;聖徒の忍耐  今日から「ヤコブの手紙」より学ぶ。計画では8月いっぱいまで。  この書の強調していることは、信仰とは行いあってこそ、ということ。もちろん、神さまに救っていただくには、イエスさまを信じさえすればよい。救いは行いによるのではない、信じることによる、これは大前提。  しかし、信じるということは果たしてどんなことなのだろうか? 自分が基準の自己中心による信じ方では果たしてどうだろうか?「俺は神さま信じてるよ」と言いながら、その生活が到底、神さまを信じている人とはいえないような自堕落なものだったら、その人はほんとうに神さまを信じているといえるだろうか? そういう態度の人でも救いは保証されているのだろうか? 今日から5か月間の学びにおいては、そういうことを中心に考えてまいりたい。  今日はその冒頭、1節から4節。まず1節の部分はあいさつのことばであり、これを見ると、このヤコブの手紙がどういう人に必要だったかが見えてくる。  その前に著者から見てみよう。「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」とある。このヤコブは、十二弟子のリーダー集団、ペテロ、ヨハネ、ヤコブの、そのヤコブではない。このヤコブは使徒の働き12章にあるとおり、まだ教会が充分に成長する過程にある前に、ヘロデによって殺されて殉教した。そのヤコブではなく、「主の兄弟ヤコブ」、つまり、主イエスさまのお生まれになったあとで、ヨセフとマリアの間に生まれた、イエスさまの肉親としての弟である。このヤコブはイエスさまの公生涯のころには、イエスさまがキリスト、救い主であるという信仰を持っていなかった。むしろ、おかしな人だと見なして連れ帰ろうとしたり、かと思うと、あなた自身を世に現せばいいでしょうが、などと、差し出がましいことをイエスさまに言ってみたりする。要するにイエスさまを信じていなかった。  しかしヤコブは、イエスさまの十字架と復活、そして昇天ののちに教会が成り立つようになってからは、教会の指導者となっていった。もちろん、イエスさまをキリストと信じられるようになった。そしてここにあるとおり、神と主イエス・キリストのしもべ、と自己紹介するまでになっている。イエスさまを主キリストと告白している。ここには、イエスさまが肉親だったという誇りや驕りなどかけらも存在しない。ヤコブにとってイエスさまは兄弟ではなく、主キリストであった。  ゆえに、このヤコブの手紙は、イエスさまの兄弟だったという視点から書かれたのではなく、イエスさまが主キリストであるという告白のもとに書かれている。私ヤコブも読者のあなたがたも、イエス・キリストは主と信じ告白しているのです、これからみなさんがお読みになるこの手紙は主イエス・キリストのみこころです。という前提で書かれている。  では、国外に散っている十二部族とはだれだろうか? 大前提としてこれは、アッシリアによるイスラエル王国滅亡、バビロンによるユダ王国滅亡により、世界中に散らされて久しいイスラエル人のことを指している。ただし、イスラエル人といっても、その中でも教会による宣教活動を通して、イエスさまをキリストと信じ告白する人たちである。  ローマ人への手紙はローマの異邦人に向けて書かれた手紙だが、その中の9章から11章はイスラエル人のイエスさまへの回心について書かれている。そのうち11章23節と24節に注目すると、彼らイスラエルは異邦人よりもよりたやすくイエス・キリストに接ぎ木される、すなわちいざとなるとイエスさまへの信仰を持ちやすいことが語られている。イスラエルとはそういう民族である。  このイスラエルは、世界に散っている。21世紀の今もなおイスラエル人は、イスラエルという本国ができた現在も世界に散った民である。しかし、そのイスラエルがひとつに集められるのはイスラエルの悲願である。エレミヤ書31章7節から9節、エゼキエル書37章21節から28節は、その悲願を主が成し遂げてくださるという預言である。  その預言を主はどのようにかなえてくださるのだろうか? それはヨハネの福音書11章52節に書かれているとおりである。カヤパはローマからユダヤを守る捨て石にイエスさまを差し出せばよいと意見したが、図らずもその意見は、イエスさまの十字架が神の民のためであったことを預言したことばとなった。そう、エレミヤ、エゼキエル以来のイスラエルの悲願は、イエスさまという牧者がひとつの主の民を牧してくださることにおいて成就するのである。  そのイスラエルに、私たち異邦人は接ぎ木されている。養子は血のつながった実の子でなくても、法的に実の子どもと見なしてもらえるのと同じように、私たちの血統がイスラエルでなかろうと、私たちも主イエスさまを信じる信仰により、神の民に加えていただいている。ゆえにこの手紙は、終わりの日にイエスさまによってひとつに集められるべき民に向けて書かれた書簡であり、その対象には私たちも含まれている。私たちは日本の茨城に散っているが、やがてイエスさまが再臨されるとき、私たちは世界中から集められる神の民の一員として、栄光のイエスさまの御前に集う。  その前提で2節以下を読もう。試練がこの上もない喜び、というのは、単に我慢しなさいということではない。さもなくば、試練に合うことにマゾヒスティックな喜びをいだきなさい、ということでも決してない。  3節は、試練を受けることがなぜ喜びと思うべきことなのかを語っている。2節の定義によれば、試練とは信仰が試されることである。その結果、忍耐が生じる、だから喜びなさい、というわけである。  では、忍耐が生まれるとなぜ喜ぶべきことになるのだろうか? それは4節で説明されているとおりである。4節。まず、忍耐とは働かせるべきものである。彼らは何に忍耐しなければならなかったのだろうか? 同胞のユダヤ人からも、異邦人からも受ける迫害に対してである。そのような中で、彼らはつねにイエス・キリストを否む誘惑にさらされていた。第二テモテ2章12節。この箇所からすると、忍耐を働かせるとは、キリストを否まずに最後まで告白しつづけることである。  そのように、あらゆる迫害にも忍耐して、キリストを誇りとする生き方をことばと行いにおいて徹底するならば、何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な人になることをみことばは約束する。この約束は、私たちの地上のいのちが終わり、御国に移されるときにかなう。地上においては何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な人には到底なれない。しかし、私たちが忘れてはならないのは、私たちの信じ受け入れているイエスさまは、何一つ欠けたところのない、成熟した、完全なお方であるということ。このお方との交わりを日々欠かさず持ちつづけることで、私たちはこの完全に成熟したお方、キリストに似た者へと日々変えられる。その歩みが、この地上でのいのちが果てるときに完成するのである。  私たちは生活していると、いやなこと、理不尽なことに出会うことが避けられない。それからいちいち逃げていては切りがないし、成長もしない。しかし、一方で考えなければならないことは、そういう「させられる」我慢は果たしてすべてがすべて主のためにしていることなのか、イエスさまの十字架を忍んでしていることなのか、ということ。この箇所を表面的に読むと「忍耐すること」そのものを称賛していることにしか思えないかもしれないが、ほんとうに考えるべきは「何のために忍耐するのか」「だれのために忍耐するのか」ということ。  忍耐、といえば、ローマ人への手紙5章1節から5節のみことばは外せない。ここでも今日の箇所同様、忍耐が語られているが、忍耐が練られた品性を生むことはなぜ素晴らしいのだろうか? それは、その練られた品性とは、るつぼや炉に金銀が入れられて金(かな)かすが除かれて精錬されるように、私たちが試練に合う中で主にお従いするうえで不必要な肉の性質が取り除かれ、その結果キリストに似た者となった品性、ということ。それゆえに練られた品性を備えることはすばらしい。  そして、練られた品性を備えた人、すなわち練られてキリストに似た者となった人が持つ希望は、失望に終わらない。それは、その希望とは、御国でイエスさまとともに過ごす永遠のいのちにあずかる、不滅の希望だからである。  その希望を保障してくださるのが聖霊なる神さまであり、その希望に私たちのことを満たしてくださるほどに、神さまは私たちのことを愛してくださる。だから私たちは忍耐するのであるが、その忍耐が神の栄光につながることのない、いわば「不本意に苦しまされる」ものであるならば、そこから距離を置くことを祈ってみてはいかがだろうか。不必要な忍耐でせっかくの主のたまものなるいのちを浪費することは賢いとはいえない。  とはいえ、簡単にその苦しみから逃れられないこともあろう。祈っていても果たしてその苦しみが主のゆえのものか判断がつかず、理不尽に耐えなければならないこともあろう。それこそ旧約聖書のヨブ記のヨブのようにである。しかし、私たちはその中でも、可愛い子にあえて旅をさせてくださる御父なる主の親心を思い、忍耐するものでありたい。そこから主との交わりが生まれ、永遠の御国に至る希望を仰ぐことができる。  考えてみよう。古今東西、この世界に存在した最も理不尽な忍耐とは、神の子なるイエスさまがこの世界に人としてお生まれになり、何の罪もないのに人のすべての罪を背負われ、十字架に死なれるほどに忍耐の生涯を送られた、ということでなくて何だろうか。しかし、この忍耐は神の栄光を現すものであった。この忍耐のすえに、ピリピ人への手紙2章にあるとおり、イエスさまは王の王、主の主として、すべての名にまさる名をお受けになった。  そのように、私たちは主の栄光のゆえに忍耐するならば、イエスさまがやがて再臨され、四方から御民を集められる終わりの日に、私たちはしぼむことのない栄光の冠を受ける。イエスさまを信じているということは、そのように、きわめて終末的な信仰を持つということであり、終わりの日に栄光をもって再臨されるイエスさまの前に恥ずかしくなく立つことを目指す信仰を実践する、ということである。  イエスさまを信じるということは、イエスさまのために生きるということである。もちろん、イエスさまのために生きることは簡単ではない。私たちはできれば自分の欲望を優先させていきたいと願うように、イエスさまにお従いしたいという御霊の願うことは私たちの肉の思いに逆らい、同じように私たちの肉は御霊に逆らう。  しかし、だからといって、肉に従っていきたいと願う私たちの欲望を言い訳にして、不従順な歩みを正当化してはならない。私たちがイエスさまに従順でありたいと願う歩みは苦しみの伴う、忍耐を必要とするものだが、主はその末に私たちを完全な成熟へと導かれる。すなわち、御国にて完全な聖徒として迎え入れてくださる。その日を目指して、今日忍耐すべきことにともに取り組み、ともに主の栄光をあらわしていこう。

復活から派遣へ

聖書箇所;マルコの福音書16章9節~20節 メッセージ題目;復活から派遣へ  今月、2人の娘の卒業式があった。一方は中学校、もう一方は小学校。卒業式というものは、単なる「卒業」を記念してお祝いするだけのものではない。進級先の学校という新たな環境に「派遣」される日でもあった。よその学校の校長先生から祝電が届いたりするのだが、いわく「みなさん、苦しんでください」なんて。保護者達にはその言わんとしたことは分かったと思うが、果たして生徒のみなさんにはちゃんと伝わったか。あまりに厳しすぎると思わなかったか。しかし、派遣されるとはそういうことなのだろう。  今日は喜びの日。イエスさまが復活されたことをお祝いする日。あらためて言おう。「主イエスは!」「よみがえられた!」イエスさまは十字架で死なれて終わりではない。復活されたのである。イエスさまは私たち人間のすべての罪を背負われて十字架に死なれた。しかし、イエスさまは死なれて3日目に復活された。イエスさまによって、私たち人間は永遠に罪と死に勝利した。私たちはイエスさまを信じるならば、永遠に罪と死に勝利し、すべての罪が赦され、永遠のいのちをいただくのである。  さて、冒頭で「派遣」の話をしたが、「派遣」はイエスさまの「復活」とひとつのセットになっている。それは今日のみことばをお読みいただければ一目瞭然である。弟子たちはイエスさまの復活を体験し、それから派遣されている。しかし、復活というものは、イエスさまからずっと聞かされていた一方で、弟子たちがそれとわかるように体験するには、少し時間を必要とした。  弟子たちは、イエスさまがよみがえったという、マグダラのマリアたちからの伝聞によって信じるしかなかった。別の福音書によれば、空っぽになったお墓という状況を証拠として信じ受け入れるしかなかった。それでも、イエスさまがよみがえるというおことばがそのとおりになったと信じられたならば、彼ら弟子たちは喜べたはずだった。ところが彼らは喜べなかったばかりか、悲しんで泣いていた。  そのあたりのことはのちほど詳しく見るとして、今日の箇所、9節のみことばから見てみよう。イエスさまはなぜ、マグダラのマリアにご自身を現されたのか? それは何といっても、ユダヤ人から何をされるかわからないという危険を顧みずにお墓に行った、その信仰にイエスさまが応えてくださったから、と言えよう。  もちろん、「救われる」ことに特別な条件は必要ない。特別な行動をとらなくても救っていただける。しかし、イエスさまに特別に近づいただけの恵みというものは頂けることを覚えておこう。ここでマグダラのマリアは、勇気をもってイエスさまのおられるところに近づいたら、イエスさまにまみえるという恵みをいただいた。私たちもイエスさまに近づいただけの恵みは受け取らせていただけるのである。  こうしてマリアは、弟子たちのいるところに知らせに行った。しかし、弟子たちはどうだっただろうか? 10節。弟子たちは嘆き悲しんで泣いていた。彼らからはイエスさまが3日目に復活するという信仰がすっぽり抜け落ちていた。彼らは、イエスさまが十字架の上でむごたらしい死に方をなさったそのお姿があまりにも鮮烈に目に焼きつき、もはや信仰を働かせるどころではなかった。  そんな彼らのところに、マリアは喜びの知らせを持っていった。しかし、彼らは信じられなかった。イエスさまが死なれた、それも十字架でむごたらしく死なれた、王として立ててくれるはずのユダヤの宗教社会にむごたらしく捨てられた、という現実の前に、彼らは打ちひしがれて悲しみに暮れていた。  現実。それはイエスさまの復活を見せなくするものである。あるミッションスクールの聖書の授業では、イエスさまの復活を信じてもいいし、信じなくてもいいと教えるという。ある教会の牧師夫人がその授業を受けたことがあると証言しているから、それは事実であろう。  彼女はそのことを、霊の先週のメッセージの冒頭でお話しした、主の晩餐のありがたさを説いた先生にお話しした。その先生は血相を変え、吐き捨てた。「あほか!」  キリスト教会が現実におもねって聖書を読むようでは、この時の弟子たちと同じである。もし、そのミッションスクールの学生が何かの理由で悲しみに打ちひしがれるようなことがあったら、いったいだれがその悲しみを解決してくれるのだろうか? キリストに復活がないならばこんなにむなしいことはない(Ⅰコリント15:14)。実にイエスさまの復活とは、キリスト信仰の中心も中心である。悪魔は隙あらば、現実のほうにこそ目を留めさせ、イエスさまの復活を見させなくし、主への信仰を奪い去る。この時の弟子たちも、イエスさまの復活が見えなくて、信仰が奪い去られた状態にあった。そうなると悲しみに圧倒されるしかない。  そこで12節。イエスさまは彼らのうち2人に現れてくださり、ご自身が復活されたことを証しされた。ただし、別の姿で現れてくださったとある。これはルカの福音書のみことばを見ると、彼ら弟子たちとともに行かれた方がイエスさまだとは気づかなかったという記述とも一致する。ルカの福音書を読むと、イエスさまがなさったことは、わたしだ、わたしはよみがえったじゃないか、とご自身をお示しになることではなかった。みことばを解き明かして、落ち込んで暗い顔になっていた彼らの心をイエスさまご自身へと向け、その心を燃やされることにあった。  イエスさまはなぜわざわざ、十字架におかかりになる前の、いわば「生前の」お姿で現れることをなさらなかったのか? 理由として考えられるのは、イエスさまが復活後、弟子のトマスにおっしゃったことば、「見ずに信じる者は幸いです」ということばから考えると、イエスさまの復活を信じるのはまず、イエスさまを見たから信じるのではなく、イエスさまのみことばがそのとおりになっていると、みことばに対する信仰ゆえに信じることが、どんな人にとっても大事であることをお示しになったから、ということが考えられる。  ここでも弟子たちは、はっきりイエスさまに出会ったことを証言する彼らのことばを信じていなかった。前にも言ったが、信仰とは「信じ仰ぎ見る」ということと同時に、「仰せを信じる」ということでもある。ことばが信じられないならば、イエスさまを信じること、すなわちイエスさまの復活を信じることは不可能である。たまに、夢なり幻なりでイエスさまに出会ってイエスさまを信じた、という話を聞くが、そういう人たちにしても、いざ信仰生活を送るとなると聖書のみことばに頼って生活することになるわけで、やはりみことばを聴いて信じることが信仰の大前提になることは変わらない。だれであれみことばを聴くことは必要なのである。  しかし14節。とうとうイエスさまは、そんな不信仰な彼らの前に現れてくださった。そして何をなさったか?「彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった」とある。イエスさまの復活も信じられない不信仰、イエスさまの復活を受け入れられない頑なさは、イエスさまの弟子として最もふさわしくない姿勢であり、イエスさまに責められてしかるべきである。  しかし、イエスさまが弟子たちをお責めになるのは、もうお前たちは役立たずだ、わたしの働きなどとても任せられない、と切り捨てるためではない。むしろ、おいおい、おまえたちにはちゃんと教えたじゃないか、思い出せ、しっかりしなさい、と、本来の弟子としての立ち位置に戻してくださるためである。  私たちもイエスさまに用いられたいと願うだろう。しかし、頭ではそう願っていても、心の弱さ、信仰のなさで、イエスさまを信じ切れないことが多くあるのではないだろうか。しかし、そんな私たちだからと、イエスさまは私たちのことを切り捨てられたりはしない。むしろ私たちがちゃんとなれるように、いつでも励ましてくださる。  その励ましを受ける最善の道は、教会という、キリストのからだなる共同体から離れないことである。私たちは教会を離れてしまうと、イエスさまの弟子として歩むことはいかにもきつい。  ヘブル人への手紙3章13節によれば、頑なになるのは罪に惑わされるからだということであるが、そうならないために、日々互いに励まし合うことが命じられている。その励まし合いをする共同体が教会の交わりである。私たちは励まし合うことで、頑なになって罪に陥ることから守られる。  ともかくも、イエスさまはひとたび弟子たちをお責めになったが、それで終わりではない。不信仰と頑なという罪が取り扱われた弟子たちのことを、イエスさまは派遣されたのである。15節。この働きを受けた弟子たちは、自分たちが働いたのはもちろんのこと、バルナバ、そしてパウロと、そのあとに続く聖徒たちを訓練して宣教の働きを担わせ、その命脈は2000年にわたって全世界に広がり、いまここ、2024年の茨城にまで広がっている。  16節。信じる、ということと、バプテスマを受ける、ということはセットになっている。信仰を持つ人はバプテスマを受けることに躊躇してしまう、ということは、特にここ日本では往々にして起こる。しかし、このみことばに従順に従うならば、イエスさまを信じることはバプテスマを受けることとセットである。すなわち、バプテスマを受けることによって、ほんとうの意味でイエスさまを信じたと聖書的に認められることになる。  一方で、信じないならば罪に定められる。それは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」とイエスさまがおっしゃっている以上、そうなのである。イエスさまを信じないならば、聖い御父から離れますと宣言していることになり、そういう人にはその選択にしたがって、さばきが下される。この選択の責任は自分が取らなければならないのである。  さて、17節と18節を見ると、信じる人はすごい体験をする。ここに書かれているような人になれるなんて、イエスさまを信じるとはなんとすごいことだろうか。ただし、前提として押さえておくべきことは、「イエスさまを信じる」人は即、「イエスさまを宣べ伝える」人になる、ということである。「イエスさまを信じさえすれば(主の弟子なり働き人にならなくても)このようなスーパーマンになる」ということではないのでご注意を。  具体的にひとつひとつ見てみよう。「わたしの名によって悪霊を追い出し」、私たちは悪霊を追い出す、すなわち、祈りをもってみことばを宣べ伝えることによって、悪霊の支配する領域(個人なり、家庭なり、地域なり)から悪霊を追い出し、主の支配される領域へと変えることができるようになる。  「新しいことばで語り」、ストレートに言うと、いったいどこのことばだろうかと思えるようなことばが口から飛び出してくる「異言」という霊的な働きのようでもある。しかし、本来「使徒の働き」で語られた最初の異言は、神の大きなみわざを、はっきりそれとわかるほうぼうの外国語で語ることばであり、そう考えると、「外国、他民族のことばが語れるように主が道を開かれる」とも言える。実際、大学で外国語を専攻した立場から言わせていただければ、外国語を読み書きするのは、ある意味「賜物」を必要とする領域である。その賜物が与えられて、世界宣教に大いに用いられるようになる、という意味のことをイエスさまがおっしゃったといえよう。  もちろん、私はこの箇所を、いわゆる「異言」のことを指しているという解釈を排除しているわけではない。むしろ、異言を語る人は確かに新しいことばを語っているわけだから、このみことばは当てはまっている。教派的にペンテコステ派やカリスマ派ではないから異言を語るのはふさわしくない、ということはない。私は韓国の教会に長年身を置いたが、早天祈祷ともなると、私の感覚ではほとんどの人が聞き取れる韓国語ではなく、異言を語っている。私がいたのは長老派やバプテストだったので、いわゆる「聖霊派」ではなかったが、異言は堂々と語られていたわけである。  もちろん、秩序は必要だからむやみやたら、のべつ幕なしに異言を語ったりするのは、第一コリント14章のみことばに照らしてふさわしいとはいえないが、同じ第一コリント14章は同時に「異言を語ることを禁じてはいけない」とも語っている。異言が語れる人は大いに語り、霊的な恵みを存分に味わっていただきたい。  「その手で蛇をつかみ」、この箇所は、毒まむしに噛みつかれてもそれを火の中に振り落とし、なんともなかったパウロを連想するが、パウロがそのように蛇を操り、その結果、地元の人から神さま扱いされるほど絶大な尊敬と信頼を得られるようになったように、蛇に象徴される悪魔と悪霊どもを制するだけの霊的権威を授けていただける、ということである。私たちは自分が思っている以上にはるかにすごい霊的権威が与えられている。祈ることによって行使できる。行使しなければもったいないではないか。  「たとえ毒を飲んでも決して害を受けず」、これは、なら、毒を飲んでみなさい、害を受けないから、ということではない。それは神を試みる愚かな行為である。ただし、自分から毒をあおる場合ではなく、毒を盛られた場合はどうか。ある宣教師の先生が、東南アジアのある国の、福音宣教を受け入れない地域で毒を盛られたというお話を、その先生の教え子の方から聞いたことがある。その先生は90歳を超えた今も元気に働きを続けておられるが、もし毒を盛られたという話がほんとうだとすると、このみことばはまことだったことになる。  ただ、聖書が「毒」というものをどう扱っているかを見てみると、単にからだに有害な物質を飲んでも大丈夫、ということに限定されないことがわかってくる。ヤコブの手紙3章8節、ローマ人への手紙3章13節を読むと、人のことばが毒となることがわかる。私たちはゆえなく誹謗中傷、罵詈雑言を浴びる。普通ならばそのようなことばを聞いたら傷つき、容易には立ち直れない。しかし、神さまとの交わりを保つならば、そのようなことばの毒を「解毒」するように、私たちがいちいちそのような激しいことばに傷つかないようにしてくださる。そういう点で「毒を飲んでも害を受けない」者にしていただいていることは、私たち主の弟子たちの強みである。  そして、病人に手を置けば癒される。イエスさまはこの癒しのみわざをもって、神の国を拡大された。同じことを私たちも行えるのである。私たちの教会は医療宣教で始まり、今も多くの信徒の方が医療に携わっている。人をいやす働きに特化した教会であり、また、私たちの教会における祈りによって、実際癒される方がいらっしゃる。みなさま、実際にこの教会はいやしのわざが行われているではないか! 病の絶望が、いのちの喜びに変えられているではないか!  最後に19節、20節。イエスさまは天において栄光をお受けになった。しかし、同時にイエスさまは私たちのために祈ってくださっている。また、イエスさまは、天におられると同時に、私たち主の弟子のいるところどこにおいてもともにおられる。私たちが祈るならば、イエスさまは応えてくださる。私たち主の弟子を、宣教のために用いてくださる。  私たちは不信仰ならば主に叱られる。しかし主は復活の恵みをもって、私たちを遣わし、主の復活を証しする証し人として力づけ、用いてくださる。復活は私たちの、弟子としての歩みと密接な関係を持っている。主のために労する私たちも、やがてこの地上のいのち果てたら、その先には復活、イエスさまとともに過ごす永遠のいのちが待っている。  今日は特に、イエスさまの復活を喜ぼう。イエスさまの復活を信じる信仰が与えられていることに感謝しよう。復活の主が私たちを派遣してくださっていることに感謝しよう。

主の弟子は主にあってひとつ

聖書箇所;ヨハネの福音書17章20節~26節 メッセージ題目;主の弟子は主にあってひとつ  本日は主の晩餐を執り行う。これは私たちが大事にすべき教会のわざである。現在、東京は世田谷にある日本基督教団奥沢教会の牧師をしておられる洛雲海(ナグネ)先生という方、もともと日本人だが韓国が大好きで名前まで韓国式にし、一時期は韓国の神学大学院で教えておられた先生だが、神学生時代、たまたまこの先生とお会いして神学談議におつきあいすることになったとき、洛雲海先生は主の晩餐というものについて、こんなことをおっしゃった。「イエスさまのみからだと血潮を味わうんだよ! これがからだの中に溶けて入るんだよ! すごいことだと思わない!?」  それまで、そんなことを意識することもなかっただけに、洛雲海先生のこのおことばを聞いて以来、主の晩餐の味や香りを意識するようになった。言うまでもなく、主の晩餐は少量とはいえ、食べ物、飲み物である。それが血となり肉となって、私たちのからだを形づくる。その前段階として、私たちは味わう。イエスさまはこのようにして、ことばを聴いたり読んだりするだけでは体験しきれない恵みを味わう道を、私たちに備えてくださった。今日はそのことを意識して主の晩餐に臨もう。  主の晩餐は英語で「コミュニオン」という。これは、主にある交わり、コミュニケーションという意味でもある。したがって、主の晩餐とはキリストのからだなる教会の共同体としてのわざである。私はこの教会に赴任して以来、一貫して、教会の兄弟姉妹が「ひとつ」ということを強調してきた。しかし、ひとつのからだとして交わりを持つことはどんな教会においても簡単なことではない。むかしこの教会では、聖徒の交わりを持つためにどうすべきかという議論が大いに戦わされたと聞いている。みなさまのその祈りを込めた議論が、豊かな交わりを目指す今の教会の祝福につながっているならば感謝である。  主の晩餐は、そのように、主の民が、キリストの弟子たちが、キリストにあってひとつのからだである、共同体であることをともに味わい知り、見つめる、大事な教会のわざである。ということは、私たちが主の晩餐にあずかることにおいては、ともにひとつのお盆からパンと杯を取り、ともに味わうことに意味があるといえよう。  そこで、主にあって私たちがひとつとはどういうことか、今日、受難日を目前にした私たちは考えてみたい。実は、私たちがひとつになることは、イエスさまにとってのもっとも強い願いであった。本日お読みしたヨハネの福音書17章のみことばは、十二弟子を前にしたイエスさまの最後の、御父に向けたお祈りの箇所である。イエスさまは何を切に祈っていらっしゃるのだろうか? それは、ご自身が御父とひとつであられるように、主の弟子たちがひとつになることである。  主の弟子たちはたった今、イエスさまが自ら裂かれたパン、分けられたぶどう酒をともに口にして、イエスさまとひとつであることを体験した。イエスさまは主の晩餐というこの厳かな食卓を、ずっと守りつづけるように弟子たちにお命じになった。それは、弟子たちが主にあってひとつだからである。  今日は特に20節以下に集中してまいりたい。この人々とはもちろん、イスカリオテのユダを除く十一人の弟子である。しかしイエスさまは、彼らだけではなく、「彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも」御父にお祈りをささげていらっしゃる。  彼らとは弟子、言い換えれば、イエスさまに遣わされた使徒である。人は使徒たちの語ることばを聞いてイエスさまを信じ受け入れる。そのことばは教会を通じ、聖書のみことばによって代々伝えられ、こんにちに至っている。そして、私たちもまた、「彼らのことばによってイエスさまを信じる人々」とならせていただいたのであり、ということは、イエスさまは何と2000年前のユダヤで、2000年後の日本の茨城にいる私たちのために祈ってくださっていたのであった。これは驚くべきことではないだろうか? イエスさまは私たちにとって決して遠いお方ではない。2000年前のあのとき、イエスさまはここにいて、主の晩餐を囲む私たちのことを覚えていてくださったのであった。  では、なぜ、私たちはひとつにならなければならないのだろうか? それは、主イエスさまがそのように切に願われたからだが、では、イエスさまはなぜそのように願われたのだろうか? それは21節のみことばにあるとおりである。……ここでイエスさまは、3つの願いを語っていらっしゃる。まずイエスさまは、御父とご自身がひとつであるように、すべての人がひとつであることを願っていらっしゃる。そう、イエスさまは、人が争わず、対立せず、平和に暮らすことを願っていらっしゃる。主イエスさまがそう願われる以上、主の子どもたち、キリストの弟子たちに対立や分裂はふさわしくない。争いやさばき合いがあってはならないのである。自分の正しさを盾にいともたやすく他者をさばく、さばき合う、そんな姿をイエスさまはどれほど悲しんでいらっしゃるだろうか?  もちろん、ひとつになるのは難しい。私たちはみな、生まれも育ちも性格もちがうからである。しかし、そんな私たちにも主は道を備えてくださった。それが第二の願い、「彼らも私たちのうちにいるようにしてください」である。私たちは同じイエスさま、父なる神さま、聖霊さまにあってひとつになれるのである。考えてみていただきたい。私たちの群れからキリストを取ったら、いったい何が残るだろうか? しかし私たちはキリストという「わたしはある」お方によって、あってあるもの、存在そのものにしていただいた。  そう、それはまた、私たちが三位一体の神さまとの交わりから外されたら、そこには永遠の滅びしかない、ということでもある。神のいのち、永遠のいのちの中に保たれない人を、聖徒とかクリスチャンとか呼んではいけない。だから人は、なんとしてでもイエスさまから離れてはならないのであるが、もしかしたら自分は弱いから離れてしまうかも、と思うような方は、安心していただきたい。イエスさまは、そのような人が神のいのちの交わりから離れてしまうことがないように、御父にとりなして祈ってくださっている。イエスさまの祈りに信頼しよう。  そして、聖徒がひとつであること、聖徒と主がひとつであることは、なぜ必要か? それは、「あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるため」であるとイエスさまはお語りになる。主とひとつとされた教会という共同体が、唯一なる神さまがお遣わしになった方はイエス・キリストであると語るのである。それ以外の何ものも、イエスさまのことは語れない。  イエスさまがこのように祈られたとき、イエスさまに迫害の魔の手を伸ばしていた者は、なんと、神はおひとりであると、しかも聖書をもとに信じ告白していた宗教指導者たちであった。彼らは御父を認め、信じ従っていることにはだれよりも誇りと確信を持っていた。しかし、ほんとうのところ、御子イエスさまを認めない以上、彼らは御父を信じているとはいえなかった。唯一の神を信じることと御父を信じることはイコールではない。ヤコブの手紙2章19節には、「あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています」とある。私たちの信じているのは単なる神さまではなく、「神のひとり子イエス・キリストの父なる神さま」である。これを告白しないものはどんなに唯一の神さまを信じていると主張しようとも、異端であり、別の宗教である。  人は、道であり、真理であり、いのちであるイエスさまをとおしてでなければ、御父のもとに行くことはできない。悪魔と悪霊どもはそれを知っているので、唯一神ということに人をこだわらせ、イエス・キリストを決して見せないように誘導する。そのように、イエスさまに対して堅く目が閉ざされている世に対し、まことの神への道、すなわちイエスさまを語るのが、神とひとつ、互いにひとつとされた、教会のわざである。イエスさまが託されたこのわざを担うために、教会と聖徒は神との交わりがおろそかになったり、互いに対立したりさばきあったりしてはならないわけである。  さらにイエスさまは、主の弟子なる教会に何をお与えになるだろうか? 22節。御父がイエスさまに与えてくださった栄光を教会に与えてくださる。イエスさまは十字架にかかられる前に、すでに、十字架の果ての復活、そして天の御国での栄光のお姿、さばき主としての再臨、御国の永遠の王としての栄光を受けておられた。  この、イエスさまのみがお受けになることのできる栄光を、主は教会に与えてくださる。教会とはそれほど栄光ある共同体である。私たちはそのひと枝であり、教会という共同体においてキリストにつながっている以上、私たちも終末にいたる栄光をすでに受け取っているのである。しかし、私たちは自分たちの姿を見るとふさわしくないと思えてならないだろう。こんなにもきたない、こんなにもみすぼらしい。そのくせ、お互いを見ると、自分の目に梁があることも忘れて人の目のちりが見えてならない。  しかし、私たちが見るのは自分自身やお互いの足りなさではない。それを丸ごと赦し、私たちを完全に贖ってくださったイエスさまの十字架である。この栄光に私たちはあずからせていただいている。それは、イエスさまが私たちのために十字架で苦しまれたように、私たちもイエスさまのために、そしてイエスさまのからだなる教会のために苦しむ栄光が与えられている。これが栄光といえるのは、私たちがイエスさまのゆえに苦しむならば、その末にイエスさまの復活と御国の栄光にあずかるからである。  23節。ここでイエスさまは私たちと神さまとの関係において、大事なことを語っておられる。私たちがイエスさまを宣べ伝えるその前提は、御父がイエスさまを愛しておられるその愛で、私たちのことを愛されている、ということである。私たちはそれほどの愛を受けている。具体的には、御子イエスさまがいのちを捨ててくださるほどに、私たちは愛されている、ということである。  このように、キリストを信じてキリストのからだのひと枝になるならば、神さまにことのほか愛される存在になることを証しするのが、教会のわざである伝道である。伝えるものは福音、人をまことのいのちに至らせる唯一の道である。それだけに、どれほど私たちの愛は隣人によい証しとならなければならないことだろうか。福音提示も独善的になっては神の愛も何もなく、そのようになってしまっている人はほんとうにふさわしい形で神の愛を味わっているか、よく考える必要がある。  24節。イエスさまは栄光をもっていついかなるときも、どこにでもおられる。私たちはこのお方がどこにいても、どんなときも、ともにおられることを認めているだろうか? 普段の振る舞いはどうだろうか? 栄光のイエスさまがともにおられると意識しないで振る舞うことがあまりにも多くないだろうか? イエスさまの気持ちを考えよう。  25節。この時代のユダヤの宗教社会さえ、イエスさまのことを知っているとはいえなかった。つまり、イエスさまによって御父に至るということを信じていなかった。それが罪人として当たり前のことだったが、イエスさまに選ばれて弟子に取っていただいた者たちは、イエスさまを知る光栄にあずかった。すなわち、イエスさまをとおして御父をほんとうの意味で信じ、永遠のいのちに至る光栄にあずかった。この、もったいないばかりの恵みをいただいているのが、私たち教会である。  最後に26節。私たちにはイエスさまの御名が与えられている、イエスさまの御名によって御父に願うなら、みこころにかなうものをなんでも与えていただける。それほどまでに私たちは、イエスさまにあって御父に愛されている。この愛を受け取っている私たちは、御父に愛されている証しを、イエスさまの御名によって大胆に御父に祈る祈りをもって果たしていく。  御父とイエスさまがひとつであられるように、イエスさまと私たちはひとつ、そして私たちはひとつ、それを今日、主の晩餐においてともに体験し、ますます愛し合う共同体として成長してまいりたい。

主の弟子は主を認める

聖書箇所;マタイの福音書10章32節~42節 メッセージ題目;「主の弟子は主を認める」  ちょっとお尋ねしたいが、みなさまは人々の前で、自分がクリスチャンであることを明らかにしていらっしゃるだろうか? もちろん、なかなかそうする機会がないという方もおられるだろう。それはしかたがない。しかし、いざというとき、自分の信仰を語るような機会が巡ってきたとき、果たして私たちは、自分がクリスチャンであることを言えるだろうか?  日本のようにクリスチャンが少ない国では、イエスさまを証しすることが難しい。しかし、それを言ったら、初代教会はいまの私たちとは比べ物にならないほど難しかったはずである。イエスさまをメシアと認めないユダヤ教と、皇帝崇拝をさせるローマ帝国。まさに、前門の虎、後門の狼。  そのような背景の中で、イエスさまはあえて弟子たちを遣わされた。彼らは羊のように弱い、しかも彼らを取り囲む環境は狼たちがうようよしているとご存じの上で。そんな弟子たちをお遣わしになったイエスさまのみこころを知ることにより、私たちはこの世界においてどのようにキリスト者として、すなわち、主の弟子として振る舞うことができるかを教えていただく。  それでは今日の本文に行こう。32節、ですから、で始まっている。先週学んだ31節以前を指しての「ですから」だが、そこで語られていたことは、あなたがた主の弟子たちは、無限大の価値を神さまから与えられている、神さまはそのような大事な存在として、あなたがたのことを見ておられ、守ってくださる、ということ。  神さまがそのように私たちのことを認めてくださっているのはなぜだろうか? 本来私たち人間はみな罪を犯した罪人であり、まことのいのちという神さまの栄誉を受けることができない存在だった。しかし、あわれみ豊かなイエスさまは、そのような私たちが滅びることがないように、私たちがかかるべき十字架に身代わりにかかってくださり、私たちを神の怒りから、罪と死から救い出してくださった。このイエスさまの犠牲によって、神さまは本来人間を創造されたとき、人間に対して持っておられたその価値どおりに、私たちの無限大の価値を回復してくださった。私たちは恵みによってイエスさまを信じる信仰を持たせていただき、自分にこのような無限大の価値があることを受け取らせていただいた。  だから私たちは、イエスさまを人々の前で認めるのである。そのことばで、行いで、イエスさまが私の主です、と証しし、あなたもイエスさまを信じてください、と促すのである。創造主なるイエスさまに出会うことで初めて、人は本来のいのち、本来の価値を取り戻すのであり、それを神さまが願っておられる以上、私たちがイエスさまを証しするのは当然のことである。  そしてイエスさまは、そのような私たちを認めてくださると約束してくださっている。これは信仰義認と矛盾するのだろうか? イエスさまを信じさえすれば救われるのに、それになにか付け加えているということになるのか? しかしこれは、こう考えるべきだろう。「イエスさまを信じれば救われる」という「信仰義認」は、たしかに簡単きわまるシンプルな真理であり、そうでなければ救われない。しかし、信じるということは、ヨハネの黙示録3章20節にあるように、イエスさまを心の中に受け入れることであり、ガラテヤ人への手紙2章20節にあるとおり、もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるという生き方そのものである。自分が基準として生きることから、イエスさまに生きていただく人生へと変えていただく、それが「信じる」ということである。「キリスト教」という「宗教」を信じるなどというレベルではない。言ってみれば、「キリスト命(いのち)」。観光地の落書きなどで、恋人の名前を書いて、「○○ちゃん命」なんてある、あれみたいなもの。  いのちだから、寝ても覚めてもイエスさま。だから、人々にイエスさまのことを話したくてたまらない。十字架にいのち捨てられるイエスさまのためには、いのちを懸ける、それほど惚れ込む弟子ならば、イエスさまは御父にその人のことを誇りとされるだろう。アバ、見てよ、この人はあなたのためにいのちを懸けていて、すごいんだよ!  逆に、イエスさまのことを知らないと言ったらどうなるか? 33節。これを見て、私たちはぎょっとしないだろうか? やっぱり、信仰義認なんて嘘なのか? しかし、ここはもう少し考えていただきたい。私たちが信じているイエスさまは、私たちのために何をしてくださった方か、私たちは果たしてほんとうに知っているだろうか? 私たちが目にしている十字架は、単に十字架だけで、これはイエスさまが復活してもう十字架にかかっていないからだ、といわれる。そんな私たちは一度でいいから、カトリック教会の十字架を見るといい。イエスさまがかかっている。これを見ると目をそむけたくなる。しかし、これがイエスさまのほんとうの姿である。イエスさまをこのような目に合わせた、それが私たちの罪であった。しかし、こうも言える。イエスさまは私たちをかぎりなく愛しておられるから、私たちがこんな死に方をしなくていいように、身代わりに十字架にかかってくださった。  その、イエスさまの十字架の愛を知りながら、人前であたかも、イエスさまなんて知らないよ、というような行動をとってしまったならば、イエスさまのお気持ちはどうなるだろうか? ただし、イエスさまのこのおことばを聞きながら、なお、イエスさまを知らないと、しかも、知らないというのが嘘ならば呪われてもいいと誓いながら宣言した弟子がいた。それはペテロだった。ペテロはそのように誓った途端、鶏が鳴いてわれに返り、自分のしたことに泣き崩れた。だがイエスさまは、彼のことを知らないとはおっしゃらなかった。かえって、ご復活されてから、あなたはわたしを愛しますか、わたしの羊を養いなさい、と、3度もおっしゃって、働き人として回復してくださった。それは、イエスさまが、ペテロの信仰がなくならないように祈ってくださっていたからだった。  私たちだってイエスさまを知らないと言っているも同然の振る舞いをしてしまうことがあろう。葬儀や地鎮祭のような宗教儀式に参加して礼拝の対象を拝んでしまうなど、その最たるものだろう。あるクリスチャンは、そのように拝むことでクリスチャンは変な人だと思われないで済む、これは神さまを証しするためだ、と言い訳するだろう。だが、たとえばムスリムやエホバの証人の信者だと周りにすでに知られている人が、そのような宗教儀式を強制されることがあるだろうか? 周囲がそういうことを理解するのは、それがまことの神の前に正しいかどうかは別にして、彼らが自分たちの信じている対象を人前で認める人たちであると、周囲に理解させる努力をつねにしているからである。彼らにできていることを私たちがしないのは、とどのつまり、ただ、悪く思われたくないから、恥ずかしいからなのではないか? だから、私たちクリスチャンが宗教行為をしてしまったら、イエスさまを知らないと3度も言ったペテロのような後ろめたさを覚えるだろう。  しかし、私たちがもし、そのような宗教行為をしてしまって、なおそんな自分を悲しむ思いがあるならば、神さまは私たちに再スタートするチャンスを与えてくださっている。何とか悔い改め、今度こそイエスさまを人々の前で知っていると言えるに値する生き方ができますようにと、祈って取り組んでまいりたい。本来ならばイエスさまが「そんなことをするあなたのことなど知らない」とおっしゃるところを、悔い改める余地を与えていただいただけでも私たちは救われている。そのチャンスが与えられている間にも、私たちはイエスさまに知っていただいている者にふさわしく歩んでまいりたい。  さて、イエスさまのみことば、次は34節から39節だが、人々の前で主イエスさまを認めるということは、ときに家族との関係にも影響を及ぼす。イエスさまは平和の君であるが、イエスさまをてこでも認めない者との間にまで平和をもたらされることはない。イエスさまはパリサイ人や祭司たちのような宗教指導者、すなわちイエスさまを迫害した者たちとの間に平和を築きなさいとはおっしゃらなかった。イエスさまの弟子でありつづけるということは、時に家族であろうとも、そのような既存の宗教観に固執するならば対立することさえいとわないように、ということだった。  イエスさまのこういうお話を聞いてしまうと、キリスト信仰とはもし家族が未信者だったら大事にしなくてもいいということなのか、それでは、隣人を愛しなさいというご命令は矛盾ではないか、ととらえるだろうか? しかし、それは短絡的というものである。イエスさまは何も、無条件で家族を粗末にせよ、とはおっしゃらなかった。私たちは人一倍愛を示すべき存在だから、家族は大事にすべきである。  しかし、もしイエスさまへの信仰と、イエスさまに従わない家族と、どちらを取るかはっきりせよ、となったとき、私たちは決断を迫られる。もちろん、イエスさまに従わない家族に黙々と仕えることがイエスさまに仕えることである、というお導きがある場合もあろう。しかし、それで家族のことをイエスさまより優先するような生活をするならば、それをイエスさまにお従いする生き方と言っていいのか、という問題が生まれてくる。そのように問われるとき、イエスさまを選ぶならば、周りからの罵詈雑言にも耐えなければならないだろうが、イエスさまはそのような弟子たちの味方である。ぜひ、26節、27節をご覧いただきたい。彼らはどんな苛烈な迫害を加えてきても、キリストにある永遠のいのちまで取り去ることはできない。主は、この救いを握って忍耐する者の味方であられる。  38節もご覧いただきたい。注意が必要なのは、イエスさまがこのおことばをおっしゃったとき、このおことばを聞いた当の弟子たちはだれも、イエスさまが十字架におかかりになって死なれるとは知らなかった、ということ。というより、夢にも思わなかっただろう。私たちはイエスさまというお方を十字架とセットで考える癖がついているから、つい、弟子たちもそういう理解でいたと思ってしまうが、そうではない。  しかし、イエスさまがおっしゃったこのみことばは、強烈に弟子たちの心に刺さったからこそ、わざわざここで記録しているのではなかろうか。十字架というのは極悪人がかかる呪いの木であり、それを背負うなんて、人間として最低のことである。それを背負ってイエスさまについていくということは、自分は最低最悪の罪人であると認める、しかし、そんな自分のことをイエスさまは導いてくださる、ついていかせてくださる、弟子に取ってくださった、という信仰を告白しつづけることである。  私たちは自分のことを罪人だと思えてならないときがあろう。悪いことを考えたり口走ったりしたとき、仕事で失敗したとき、人間関係でしくじったとき、過去の忌まわしい記憶がふとしたことでよみがえり、ぐるぐると頭の中を巡るとき……だが、十字架を負うとは、そういうふうに自分が自分自身のことを思うよりもはるかに罪深い、比べ物にならないほど罪深い、呪わしい、ということである。  だから、私たち自身のことを見てはならないのである。見たって罪しか見つからず、絶望するしかないからである。自分を見てはならない。目の前のイエスさまを見て、イエスさまの歩まれるあとをひたすら進みつづける、それが私たち主の弟子のすることである。そうなると、主ばかり見ることになるから、人々にはおのずと、主を語るようになる。そうして人々は私たちのことを馬鹿にしたり、遠ざけたり、迫害を加えたりするかもしれない。中にはそういったことを血を分けた家族がしてくるかもしれない。しかし、私たちの前を歩かれるイエスさまは、十字架を背負っておられる。その十字架に私たちの罪は、イエスさまもろとも釘づけになり、私たちは完全に赦されるのである。このようにしてくださったイエスさまを私たちは誇らずにいられない。見るべきはイエスさま、認めるべきはイエスさまである。  さて、私たちはそうして、主の弟子として歩むなら孤独になるように思えるだろう。だが、忘れてはならない。40節から42節。そう、主は、ご自身の弟子をやさしく受け入れてくれる存在を備えてくださっている。そういう存在に主は報いてくださると約束してくださっている。  十二弟子がイエスさまとともに共同体を形づくっていたときも、すでにそういうありがたい存在はあった。ペテロの姑がそうだった。イエスさまに熱をいやしていただいて元気になったら、ただちにイエスさまの一行をもてなした。  マルタとマリアの姉妹がそうだった。マルタは奉仕のしすぎで不満がたまってしまうという失敗はしたものの、もてなしのために頑張ったことそのものは評価されるべきだろう。最後の晩餐のために大広間を用意した人も、その大事な席でイエスさまが弟子たちと時間をともに過ごし、みことばを授けるという大事なみわざに貢献したわけである。  その後も、つまり、イエスさまの復活と昇天後も、「使徒の働き」を見てみると、皮なめし職人のシモン、マルコの実家、キプロスの地方総督セルギウス・パウルス、ティアティラの紫布商人リディア、コリントのアキラとプリスキラの夫婦……こう言った人々によって主の弟子たちが支えられ、福音宣教が前進していったことがわかる。  こんにちにおいて、弟子たちのその働きを支えるのはどこだろうか? だれだろうか? 私たち教会である。中には、未信者の篤志家によって教会が支えられるというケースもなくはないが、それはよほど特殊な場合であって、基本的に主は、私たちのことを主の弟子であると認める信仰をお授けになった人たちを通してお働きになる。それは、私たち教会である。私たちは主の弟子を支えるうえで、裕福な篤志家である必要はない。初代教会のように、お互いの必要のために分かち合えれば充分である。私たちは主の弟子として遣わされている一方で、主の弟子を養うベースキャンプの役割も同時に担っている。そのように、お互いを主の弟子と認め、祈りにおいて、また具体的な助けによって、必要な力を注ぐことは、主の弟子として主を認める行いを実践することである。このよい働きに集中し、主の報いをいただけるという喜びに満たされてまいりたい。

主の弟子の価値は無限大

聖書箇所;マタイの福音書10章24節~31節 メッセージ題目;「主の弟子の価値は無限大」    みなさまにお尋ねしたい。ご自分は、どのくらい価値があるとお思いだろうか? つい私たちは、失敗したり、人から悪口や批判のことばを言われたり、過去の忌まわしい記憶がよみがえったりするとき、ああ、自分なんてダメだ、と思ったり、口にしたりしないだろうか?  そんな私たちに対して、神さまは語ってくださっている。イザヤ書43章4節。ヨハネの福音書3章16節。そう、私たちは自分のことをどう思おうとも、神さまが変わらずに愛してくださっているのである。  神さまが愛しているものを、ダメだと言ってはいけないだろう。人に対しても、自分に対しても。私たちはつい、自分はダメだと思って落ち込んでしまう。そんなとき、神さまの愛に立ち帰ることができたらどんなにかすばらしいだろうか。私たち教会とは、何かと落ち込みがちなお互い、人をそしってしまいがちなお互いが、神さまの愛によって愛されていること、神さまの愛によってお互いが愛し合えることを心に留め、愛の奉仕をすることで成長する共同体である。神さまと兄弟姉妹の愛を受けて、神さまと兄弟姉妹、そして隣人を愛する、私たち主の民は、そうして自分の価値を確かめ、神さまに感謝する。  聖書は語る。「神は愛です。」したがって、神の子イエスさまの弟子である私たちも、その神の愛の御姿にならう存在。私たちはなかなか、師であるイエスさまのその愛の姿にならうのは難しいが、あきらめないで愛することを取り組んでまいりたい。  今年の年間テーマは「宣教する弟子」である。しかし、宣教というのは、人を「キリスト教」という宗教の教えに染めて、先輩である自分は教えてあげたからと大きな顔をすることでは決してない。そうすることは傲慢であり、愛の反対であり、「宣教」の名に値しない。「宣教」するとは愛すること、仕えること、癒すこと。だから、へりくだっていないと無理な働きである。人間、へりくだることはほんとうに難しいが、聖書をつねにお読みして、私たちのためにへりくだって仕えてくださるイエスさまのお姿にいつも触れるならば、私たちもへりくだることの麗しさを習い、腰が低くなっていこう。隣人、まだイエスさまとはどんなお方か知らない人に、イエスさまが愛されたようなその愛を実践すること、小さなことでも気がついて手伝ってあげるでもいい、人より早く出勤、遅く退勤して、主にある勤勉の具体的な姿を示すでもいい、悩みを抱えた人の話を聞いてあげるでもいい、そういう、アーサー・ホーランドのことばを借りれば、「1ミリだけ難しく生きて」隣人を愛することをする、それが、イエスさまの望んでおられる宣教ではないだろうか。  もちろん、ことばで筋道立ててイエスさまとはどういうお方かを語れるようになることは大事である。それは確かに宣教のコアにあたる部分であり、必須である。しかし、ことばがご立派でも行いが伴っていない人の話など、説得力はないというものである。ことばで伝道することも、愛の行いをすることも難しいが、励まし合ってチャレンジしていこう。  本文に入ろう。イエスさまは弟子と師の関係を語っているが、マタイ23章10節によれば、師と呼ぶべきお方はキリストである。私たちはイエスさまをキリストと告白するので、イエス・キリストという師の弟子である。その最初の弟子が、いまこうしてイエスさまからみことばを授けられている十二弟子。その弟子たちは、師以上には出られない、と語る。また、しもべというのは、イエスさまを主と告白する、すなわち主人と告白する者たち、イエスさまのしもべであるわれわれクリスチャンであり、ここでは、まずこの弟子たちを指している。弟子もしもべも、どちらも同じである。その共通点は、低い存在として高い存在の言うことを聞き、行動する、ということ。絶対のことばに従う。それはこの世の上下関係でもそう。ただし、ほんとうの師であり主人であるイエスさまは、黒いカラスでも私が白といったら白だ、というような、理不尽な上下関係を強要される方では決してない。  師という存在、主人という存在が崩れたら、そのもとにいる者たちは守ってももらえず、用いてももらえない。だから、永遠の師であり主人であるイエスさまが私たちにいてくださるということは、ほんとうにありがたいことである。  25節。このイエスさまのみことばによれば、弟子でも師のようになれ、しもべでも主人のようになれることを約束しておられる。これはルカの福音書6章40節によれば、充分な訓練を受ければ、という条件がつく。訓練というのは、Ⅰテモテ4章7節から8節によれば、今のいのちと来たるべきいのちが約束されるための、敬虔のための訓練であり、それは肉体の鍛錬にもまして有益であるという。イエスさまは今のいのちにおいても、来たるべきいのちにおいても、今からのち永遠に私たちの主であられる。主との聖い交わりを保つことは訓練が必要な領域である。好きなところに遊びに行くのではなくて主日に教会に来ることも、毎日時間を確保して聖書を読んでお祈りをすることも、訓練によって少しずつ身についていくこと。私はしょっちゅう弟子訓練ということを強調しているが、弟子とは牧師の弟子ではなく、キリストの弟子であり、キリストの弟子になるには教会がみんなして訓練に入っていく必要がある。  そうして私たちは、師であり主人であるキリストの似姿に近づいていくのだが、同時に私たちは迫害も受ける。ユダヤの宗教エリートたちはイエスさまのことをベルゼブル呼ばわりして、そのみわざを全否定してみせた。だが、そこまで言われるイエスさまよりも、より悪く言われるのが、その弟子、そのしもべにあたる、主の子どもたち、クリスチャンたちだというのである。  クリスチャンに対する悪口。これは、キリスト教会が宣教するようになったここ160年ほどの日本で、絶えず聞いてきたことばだろう。「ヤソ」とか「アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン」とか。こういうことはイエスさまを指して言うことばではなく、クリスチャンを指して言うことばである。東京の寄席に行くと今でもよくかかっている「宗論」という噺があるが、この演目はイエスさまに対する悪口ではなく、クリスチャンに対する偏見に満ちた悪口のオンパレードである。恐れ多いとでも思うのか、イエスさまへの批判などできないような人たちも、クリスチャンへの批判や非難、罵詈雑言は容赦ない。まさにイエスさまがおっしゃるとおりである。  しかし、26節。イエスさまは、ですから、恐れてはいけません、と語っておられる。クリスチャンを待ち受ける現実は決してたやすいものではないとお語りになっているのに、なぜ、恐れてはいけません、と語っておられるのか? だいたい、何が「ですから」なのだろうか?  それは、師であるキリスト・イエスのようになれるほど、神さまは私たち教会に、無限大の価値を見出していらっしゃるからである。私たちはどれほど尊い存在だろうか? 私たちのいのちが救われるために、神のひとり子イエスさまのいのちが犠牲になったほどである。そんな無限大に尊い存在を、神さまはサタンにやられるままには決してなさらない。  サタンに魅入られた狼のような人たちに神の愛を施す、宣教のわざをしても、彼らは私たちの善意に対して理解せず、非難したり、無視したりするかもしれない。しかしイエスさまは約束しておられる。今はそのよい行いの源である福音が、彼らの目には隠されているかもしれない。しかし、それはやがて明らかになる。覆われたままではいない。隠されたままではいない。彼らはやがて、私たちの信じているお方を見るようになる。  27節。イエスさまは全能の神さまであられたから、やろうと思えば世界中の人々にたちどころに福音をお語りになることもできた。しかしイエスさまのとられた方法は、十二人に限定した共同生活の中で時間をかけて弟子訓練することだった。その間のイエスさまにみことばを授けられている共同体生活は、閉じていた。しかし、遣わされたら広々とした世界に向けて堂々と語った。まさに、十二弟子が人目につかないところで聞いたことばが、宣べ伝えられ、今や世界中で語られるようになったのである。イエスさまがおっしゃったとおりになった。そのようにイエスさまは、福音宣教という最高のわざのために、ご自分の愛する弟子をきたえ、広く用いられるのである。  その働き、無限の神さまがになってしかるべき働きを託していただけるほどの存在、それが主の弟子。私たち主の弟子は、そんな無限の価値を持っている。だから恐れてはならないのだが、それでも私たちは恐れないだろうか? 私たちの恐れの正体とは何だろうか? その正体はほぼ、「失うこと」と言えるだろう。現在、マクチェイン式聖書通読はヨブ記を毎日読んでいるが、ヨブ記は、家族、財産、自分の健康や妻の尊敬さえ失った、喪失の悲しみに打ちひしがれた者の嘆きに満ちている。同じ旧約聖書の「哀歌」も、ユダという国を失った亡国の悲しみに満ちている。私たちも、健康、財産、名誉、愛情、人間関係、尊敬、安全、安心……そういうものを失うことを恐れている。私たちがそれらを失うのを恐れるのは、その結果私たちが「死ぬこと」「滅びること」を、心のどこかで恐れているからではないだろうか。  だからこそ私たちは、いのちの主なる神さまが私たちのいのちを握っておられることを覚え、そのことに平安を覚えるべきなのである。サタンは、私たちに喪失の恐怖をちらつかせ、失うな、とばかりに、悪の勢力に隷属させようとする。よく見てみよう。サタンに牛耳られたこの世界は、どんなに「得ること」、「手に入れること」を私たちに宣伝しているだろうか? 愛情、快楽、安定、健康、名声、尊敬、財産、安全……だが、それらのものを手に入れようとも、ほんとうに満たすお方であるイエスさまに出会わないならば、人はサタンに隷属するしかなくなる。  イエスさまに出会うには、自分が大事に思っているものを、どこかで「失う」決断をすることも時には必要である。それは、サタンに従う者にはあらゆる喪失に加え、いのちさえも喪失させ、永遠の滅びにお定めになる神さまとの出会いをとおしてできることである。神さまがすべてを持っておられる、そのすべてを私にくださっている、それほど私は無限大の価値のある存在である、そう知れば、神さまから滅びに定められるようなことなど、恐れ多くてとてもできない、となろう。  その無限大の価値を、イエスさまは雀に例えて語っておられる。29節。1アサリオンとは、一日分の労賃1デナリの16分の1だから、日本円に直して簡単に考えれば、ワンコインランチのお値段くらい、500円かそこら。それが2羽分だから、1羽ではおにぎり2つ買えるか買えないかくらい。ほんとうに安い。しかもほかのイエスさまのおことばによれば、2アサリオンあれば雀は5羽買える。つまり、1羽分はおまけ。おにぎり2個どころではない、ただ。  しかし、神さまはそんな雀の1羽さえも、みこころに留めて生かしていらっしゃる。そのいのちを司り、労働もしないその鳥に食べ物をつねに備えてくださるほど、神さまは関心を持っていらっしゃる。1羽の雀に無限大の神さまの無限大の愛は注がれている。ゆえに1羽の雀の価値は無限大。その雀は数えきれないほどたくさんこの世界にいる。数学的に言うとおかしい言い方かもしれないが、無限大に無限大をかけたよう。それよりもあなたがた、弟子たちには価値があると、イエスさまはおっしゃる。  なぜ恐れてはならないのだろうか? 無限大かける無限大の価値を見出すほど、神さまは私たちを愛し、関心を持ってくださっているから。髪の毛ひとすじに至るまで数えておられるとは、髪の毛ひとすじも失わせないほど、つまり、私たちの髪の毛一本サタンの手に渡さないほど、私たちを完璧に守ってくださる、ということ。  私たちが無限大の存在ならば、ひとつでも何か欠けたら、もうそれで無限大ではなくなる。神さまは、そんなことはさせない、髪の毛一本に至るまでも守るように、私たちの全存在を守ってくださり、私たちを完璧な存在、無限大の存在として保ってくださる。それは、神さまが私たちに備えてくださった唯一の道、御子イエスさまを信じ従うことによって許されることである。イエスさまを信じていこう。  ともかく神さまは私たちに、無限大の価値を与えてくださった。私たちにこれほどの価値があるなら、私たちはもう、自分なんてダメだ、と嘆くまい。そんなことは言えないではないか。神さま、これほど素晴らしい存在にしてくださって感謝します! ハレルヤ! 喜んで信じます! これでいこうではないか。  その喜びは、イエスさまの弟子が味わえる特権である。宣教とは、自分はその無限大の価値を持っている、その喜びを、へりくだって愛することによって人々に分かち合うことである。「あなたがたも無限大の価値を持っているんです。神さまに愛されていることを知ればそれがわかります。」  その愛する働きをするとき、抵抗されたり無視されたりすることもあろう。でも、忍耐して種蒔きをしよう。主は必ず、その、涙とともに蒔いた種を芽吹かせ、育て、豊かな実りを与え、刈り取らせてくださる。私たちの間で隠されていた愛の福音は必ず、この世に広く宣べ伝えられる。私たちの愛の奉仕によって。その積み重ねで、人々がイエスさまに大いに立ち帰る、リバイバルは必ず来るから、イエスさまを信じ、あきらめないでよい働きに、愛の働きに献身していこう。

主の弟子は守られる

聖書箇所;マタイの福音書10章16節~23節 メッセージ題目;主の弟子は守られる  大なり小なり、クリスチャンが迫害という形で悪い目にあうことは避けられない。そんなとき私たちは、どのようにそういったことに対処するものだろうか? もちろん、個別のケースのちがいがあるので、具体的にどうこうすべし、と一概には言えないが、その原則として、私たちには聖書のみことばが与えられている。特に、今日のみことばは、私たちが迫害にあうときにどう対処すべきかを詳しく語っているので、このみことばを原則として歩めばよい。  16節。このみことばと同じことを語るルカの福音書のみことばについては、ついこの間の礼拝で取り上げた。そのとき、羊らしい主イエスへの従順の行いをもって主を証しし、サタンに従う狼を主に従う羊にしていこう、これぞ伝道である、とお語りした。しかし、そうはいっても一方で、そのように狼自身が実は羊であることを自覚できるようになることは、神の時にしたがってのことであり、それまで狼はやはり、羊を取って食う狼である。そのような者の攻撃に対して無防備であれ、とイエスさまは教えておられるわけではない。  そこでイエスさまが説いておられることが、蛇のようにさとく、鳩のように素直に、ということ。前回のメッセージでは、この原則を、狼を羊にしていくわれわれにとっての伝道のわざに適用したが、狼から不必要な危害を受けることから身を避けることに関しては、こういうことが言えよう。  蛇とは何だろうか? 言うまでもなくサタンの象徴である。また、出エジプトにおいて、火の蛇が荒野において、片っ端からイスラエルの民に危害を加えていったように、滅ぼす者の象徴である。そういう存在がさとい、とみことばは語る。  イエスさまは、サタンに属する者、そのような知恵を受けた者を、ルカの福音書16章の不正な管理人のたとえにおいて、こう評しておられる。「この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについて、光の子らよりも賢い」。主人の債務者のための証文を偽造して彼らの歓心を買おうとすることは、ほんとうならばいよいよ主人の信用をなくすこと。しかし、主人はこれをほめた、とイエスさまは語っておられる。ずるがしこいことはこの世の流れ、この世の知恵であり、この世が何に関心を持っているかに無知であってはならない、ということも教えている。  そもそも、私たちの敵である蛇、サタンがどのような戦略と戦術で私たちを脅かしにかかるかが分かっていないならば、私たちはどうやってこの世の人々に伍していくことができるだろうか? ただでさえ彼ら狼は、私たちが善良な羊なのをいいことに、そんな私たちのことを食い物にする者たちである。狼を狼ならしめている蛇の知恵、サタンの知恵を見抜くこと、それが私たちに必要である。  サタンのことを知るには、サタンの動かしているこの世のニュースを知る必要ももちろんあろう。しかし、それにいちいち対応していては切りがない。サタンとは何物で、どんなことを考えて行動しているか、という原則を私たちは知る必要がある。聖書のみことばを学ぶならば、サタンがどんな知恵を持っているかを私たちは知ることができる。  そうすることによって、私たちは蛇のように賢くなることができる。これはなにも、蛇の知恵を身に着けてその知恵にしたがって行動するようになる、という意味ではない。それでは私たちは反キリストの手先になってしまう。  そうではなくて、蛇の思考パターン、行動パターンを読み、それにふさわしい戦略、戦術を立て、この世のあらゆる歩み、家庭生活や職場生活、近所づきあいといったことに入っていくことができる、ということである。こうすることで、私たちは主のからだの一部分である自分自身、また信仰の仲間を、人を介してのサタンの余計な攻撃に晒すことから避けさせることができるようになる。  同時に必要なのが鳩のように素直なこと。鳩は、御父からくだってイエスさまにとどまられた聖霊なる神さまのお姿。鳩のように素直に、とは、聖霊なる神さまが御父と御子に従順に従われ、そのみこころをつねにあらわされる、その素直な姿勢を指している。  サタンの思考パターンを知るだけでは充分ではない。それ以上に必要なのは、聖霊なる神さまによって私たちはどれほど愛なる神さまとの深い交わりに入れられているか、その素晴らしさを日々体験することである。私たちを取り囲む世界はサタンに魅入られた狼にあふれていて、そのひねくれた見方ばかりとつきあっていたら、私たちもいつしか、ことばづかいやものの見方がサタンの影響を受けすぎてしまう。私たちが素直になる対象はサタンではない。御父、御子、御霊の三位一体の神さまに対してである。そうなることで私たちは、平常時にも、いざというときにも、神さまの導きをいただいて狼のような存在に伍していける。  使徒が活動しはじめたばかりの初代教会のころ、狼のようなユダヤ人は使徒たちを告訴したり、暴力的な迫害を加えたりして苦しめた。そのような者たちを用心しなさい、とイエスさまは語っておられる。彼らに捕らえられ、福音宣教がストップしてしまったら、元も子もなくなる。たしかに私たちは、主の弟子だからというそれだけの理由でこの世から不当に憎まれるが、その憎む者たちに対して無防備に身を晒していいわけではない。彼らのことを避けることができるならば避けるのも知恵である。私たちはまず、自分自身を守らなければならない。それは自分がかわいいからではなく、神さまが私たちのことを大事に思ってくださっているからである。私たちは犬死にのように、苦しめる者の手に自分のことをやすやすと渡してはならない。  しかし、迫害ということにはほかの側面もある。それは、証しをする機会が開かれる、ということである。18節にあるとおり。ステパノがそうだったし、このステパノの最後の説教を聴いたことがのちの回心につながったといえるパウロもそうだった。しかし、語ることは普段からどうしようと心配していた末に出てきたことではない。19節、20節にあるとおり、聖霊の交わりによって語られたことである。  私たちはいざというとき、未信者に対して救い主イエスさまのことが語れなくて、口惜しい思いをしたことがないだろうか? そんな私たちに必要なのは、彼らを突き動かす蛇の知恵を見抜き、彼らに証しする神の知恵を授けてくださる聖霊のお働きに、普段から従順でありつづけることである。何を語るかをあらかじめ考えないのは、相手が何を言ってくるかを想定するときりがないからでもあるが、なによりも、相手にもいのちを与えて生かしておられる主のみわざが、相手にも臨み、導きを与えるため。パウロの宣教がヘロデ・アグリッパ王を動揺させた、すなわち、自分がクリスチャンになったらどうしようとうろたえた、使徒の働き26章のようなことが起こるからである。  ただ、そのように御霊ご自身が現れるダイナミックな宣教の働きに用いていただける一方で、迫害を加えてくる存在はとても身近な人たちであったりする。きついのは、血を分けた親子や兄弟でさえ、迫害を加える存在となる、ということ。そのようなとき私たちの信仰が問われる。私たちは何も、彼らに強い態度で立ち向かって勝負を挑み、勝つべきなのではない。私たちはまず、謙遜であることが求められる。  そうはいっても、彼らに迎合することがみこころにかなっているのではない。たとえば、葬儀などで、偶像礼拝行為を強要してくるとき、彼らは私たちの善良さにつけこむ。私たちの罪責感を刺激するようなことを言ってくる。偶像礼拝行為をして当然、それが私たちの持つべき信仰の姿と彼らは理解し、しなければ、私たちの信仰を攻撃する。考えてみればとんでもないことである。  私たちは知恵深く、こういったことを避ける必要があるが、だからといって、たとえが極端だが、織田信長の伝説のように、位牌に抹香を投げつけるようなこともすべきではない。やっぱりあいつはヤソだから、などというひんしゅくをあえて買うことをしてはならない。迫害者の魔の手を避けながらも謙遜に……。簡単ではないが、蛇のようにさとく、鳩のように素直に普段から考え、振る舞っているならば、かならずできると信じていただきたい。  「最後まで耐え忍ぶ人は救われます」。この、耐え忍ぶということは、神の恵みによってできることである。ペテロをご覧いただきたい。彼はイエスさまについていきますと誓い、大見得を切った。そんな彼もいざとなると、自分がイエスを知らないというのが噓なら呪われてもいい、という、とんでもない誓いを立ててイエスさまを否定した。だが、彼は呪われることなく、のちにはイエスさまについていくことができた。なぜか? ペテロのことをサタンがふるいにかけようとも、信仰がなくならないように、イエスさまが祈ってくださっていたからである。  立っていると思う者は倒れないように気をつけなさい。しかし、気をつけるのは人間的な努力や気合でどうにかなることではない。あのソロモンも晩節を汚(けが)したことを、私たちはもっと聖書の警告として受け取る必要がある。恵みに拠り頼まないで、千人からの女の人やエジプトの富に拠り頼むような人の晩年は悲惨なものだった。しかし、私たちは覚えておこう。私たちが主に拠り頼むことができるように、主イエスさまは私たちのために祈り、恵みをくださっている。  私たちは守られる。だから、もしかしたら自分は迫害にあって、たいへんな思いをするかもしれない、と、恐れたり、おびえたりしないでいただきたい。そんな私たちはしかし、繰り返すが、あえて迫害にとどまろうとすることをする必要はない。23節。私たちの証しを受け入れない人、それこそイエスさまがお語りになったように、真珠のごとき大事な福音を語る者に対して恩知らずにも攻撃を仕掛けてくる「豚」のような人。  豚に真珠を与えてはならない、とイエスさまはおっしゃる。日本の猫に小判が西洋の豚に真珠だ、と言われるが、正確にはちがう。猫に小判を投げても「なんだろう?」という表情を浮かべるだけだが、豚は真珠を投げると真珠を足で踏みにじり、投げた人に危害を加えるとイエスさまはお語りになっている。福音の価値がわからないどころではない、福音をけがれたものとみなし、福音を語る人をいたく傷つける、そういう人に構っている必要はない、とイエスさまはお語りになっている。これは、足のちりを払い落としなさいとおっしゃることにも通じる。  そういう場合には次の町に逃れなさい。つまり、福音を語る働き人のことを受け入れてくれる人たちのもとに行きなさい、ということ。人の子が来るときまで、すなわち、イエスさまが再びこの世界に来るときまで、あなたがたはイスラエルの町々を巡り終えることはできない、つまり、福音を完璧に宣べ伝えきることはできないとお語りになる。これは、そうだという事実、人の力は及ばないということを受け入れてあきらめなさい、ということではない。福音宣教とはそれだけ急を要するものである、ということ。このみことばは、自分の愛するあの人のもとに福音が宣べ伝えられ、それからイエスさまが来られますように、そのために私のことを用いてください、というチャレンジを私たちに与える。  私たちはその働きをすることにおいても守られる。サタンは、福音宣教のわざがなされ、人々がひとりでも救われていくことにならないように、さまざまな妨害を仕掛けてくる。  しかし、私たちは信じよう。主が福音宣教の働きのために私たちを召され、用いてくださる以上、主は私たちのことを、また、私たちが福音を証しすべき人たちのことを、サタンの魔の手から守ってくださり、この地に私たちをとおして、神の国を成し遂げてくださる。  私たちは何か恐れていることがあるだろうか? なにゆえに恐れているのだろうか? 何かを失うことだろうか? それを失うと何がいけないのだろうか? 逆に、私たちにとってほしいものは何だろうか? なぜそれがほしいのか? それを手にすることでどのような益があるのだろうか?  神さまは、もしみこころのゆえに失ってはならないものがあるならば、必ず保ってくださり、必要なものがあるなら与えてくださる。私たちは主の弟子であるゆえに、主がそのいのちに責任を取ってくださり、守られる。私たちを守ってくださる主に感謝しよう。

「主の弟子は『エイレーネー』を祈る」

聖書箇所;マタイの福音書10章11節~15節 メッセージ題目;「主の弟子は『エイレーネー』を祈る」  一部の神学校を除き、神学校というところではギリシャ語とヘブル語を勉強する。これは、およそ聖書を学ぶ人ならば、日本人ならば日本語など、自分が用いている言語の聖書に訳しきれない、もともとの聖書の意味を把握するために必要だからである。私も神学校で学んだ。本来ならば入学式の前に、1月と2月に合宿形式で学ばなければならなかったのだが、まだ日本の大学が終わっていなかったのでこれは免除していただいた。のちに1学年が終わってその合宿に参加したのだが、1年間神学校で学んで慣れていたはずだったのに、それでも大変だった。いきなり学びはじめた人たちは、どれほど大変だっただろうかと思う。  そういう、聖書原語。今日のメッセージタイトルは「主の弟子は『エイレーネー』を祈る」である。エイレーネーとは何かご存じの方もおられるとは思うが、これはギリシャ語である。今日のタイトルはあえて日本語を使わなかった。その理由も含め、エイレーネーとは何のことかあとで説明するので、楽しみに(?)お待ちいただきたい。  今日の箇所でイエスさまは、主の弟子たちが宣教を展開するにあたり、まずどのように振る舞うべきかを教えておられる。11節。まず、主の弟子たちは、「ふさわしい人」がどこにいるかを調べる。何にふさわしいのだろうか? それは追い追い読み進めればその中身がわかってくるが、まず言えることは、宣教に協力してくれる人である。  イエスさまとその弟子たちが宣教の活動を展開していくうちに、そのように、受け入れてくれる人というありがたい存在が現れるようになっていた。ベタニアのマルタ、マリア、ラザロの三きょうだいなど、その典型的な例であろう。ほかにも、イエスさまのエルサレム入城にろばを貸してくれた人、最後の晩餐に二階の大広間を提供してくれた人、まことに福音宣教は、そういう人たちの存在に支えられていた。  そういう人たちは、まず、神さまが選び、その働きに献身するように導いておられた。先週学んだみことばでは、お金も、余計な持ち物も持たずに宣教の旅に出るべきなのは、必要なものは神さまが与えてくださるという信仰を働かせ、祈るべきだからだと学んだが、ここでもイエスさまは、必要な人は神さまが起こし、導いてくださるという信仰を働かせるべきだとおっしゃっているわけである。  さて、そういう人が見つかったら、弟子たちは何をする必要があるのだろうか? 12節。ここで、平安を祈るあいさつをしなさい、とあるが、この「平安」が、原語のギリシャ語では「エイレーネー」である。宣教の拠点にふさわしい人のところにたどり着いたら、その人のために「エイレーネー」を祈りなさい、というわけである。  ここで、「エイレーネー」ということばのもうひとつの意味を見てみたい。それは「平和」である。英語ではどちらも「ピース」と訳せるが、日本語では文脈によって「平安」と「平和」と訳し分ける。しかし、これでは印象が少し違わないだろうか? また、日本語で一般的に言われている「平安」や「平和」ということばは、聖書の語るそれと同じなのか、違うのか?  日本では一般に「平安」というと、多くの場合それは「平穏無事」や「安心」というイメージではないだろうか? ほっとする、というような。また、「平和」というと、何といっても太平洋戦争で庶民が大いに苦しんだこの日本である、戦争だけはこりごりだ、というような、敵の攻撃が及ぶことが一切ない、安心していられる状態、というイメージがあろう。  そんな日本人にとっては、イエスさまがここで命じておられる、「平安(エイレーネー)を祈るあいさつをしなさい」は、「どうかあなたが平穏無事でありますように、シャローム」と挨拶するイメージでとらえてしまわないだろうか? もちろんそれも間違ってはいない。しかし、エイレーネーを祈るあいさつをするということは、それにとどまらない、もっと深く、かつスケールの大きいことである。  キリストの弟子が語るエイレーネーの本質はどこにあるだろうか? それは、キリストによって、人が神とエイレーネーを保つことにある。ローマ5章1節に語られているとおりである。この「神との平和」の「平和」とは、原語で「エイレーネー」である。  キリストは罪人である私たちのことを神と和解させてくださった。まず、キリストの福音を聴くべき人は、キリストとはそのようなお方であることを受け入れる必要がある。弟子たちがイエスさまに遣わされて福音を宣べ伝えたこの時点では、イエスさまの十字架の贖いのわざが明らかになっていなかったので、ここで弟子たちが祈る平安とは具体的にどんな根拠があるかまでわかったうえでの挨拶となっていたわけではなかろう。しかし、イエスさまの十字架を伝える以前に、イエスさまを伝えてはいた。平安を祈るあいさつの本質は、エイレーネーの主なるイエスさまのエイレーネーがその人に及ぶことである。  前にもお話ししたが、「あいさつ」とは、単に「こんにちは(シャローム)」と声掛けすることだけを指すのではない。時間をかけて行うれっきとしたコミュニケーションである。「先生にごあいさつに伺う」と言ったら、お久しぶりです、ではさようなら、ではない。ある程度時間をかけて話し合う。同じように、平安を祈るあいさつとは、神との平和、すなわちイエスさまを信じる信仰が分かち合われることである。何ごともここからスタートする。  考えてみよう、私たちもだれかによる、平安を祈るあいさつ、つまりキリストとの平和があるように祈るコミュニケーションがあったからこそ、主の働きを担う者どうしの祝福の祈りの輪に加われたのではなかったか。伝道の働きにあずかる者になれたのではなかったか。13節を見よう。私たちは平安にふさわしい者とされていた。つまり、神のエイレーネーを受け入れるにふさわしい者として選ばれていた。ふさわしいとは、単に宣教の役に立つ人としてふさわしいというにとどまらない。神のエイレーネーを受ける人としてふさわしいということである。  それなら、13節の続きのみことばはどういうことだろうか? エイレーネーにふさわしくない、つまり、エイレーネーを受け入れるにふさわしくない態度の反抗的、無関心な人、ということ、ゆえに、エイレーネーの君なるイエスさまを宣べ伝える働きに協力するつもりもない人である。そういう人がエイレーネーを祈るあいさつにふさわしくなければ、エイレーネーが返ってくるようにしなさい、これはどういうことだろうか?  これは、キリストの弟子に対して敵対的な態度の者たちに対し、どんな態度を取るようにしなさいとみことばが語っているかを見ればわかる。イエスさまは、右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい、とお語りになる。少し考えればわかるが、右の頬を打つことは一般的に利き手である右手の手のひらを使ってはできない。右手の甲で打つ。これは相手にものすごい屈辱を与えることである。そんな者にも逆の頬さえ向けなさい、ということ。これはマゾヒスティックになれと教えているのではない。そんな相手であろうとも、祝福しなさい、と教えているのである。  パウロはさらに具体的に、あなたがたを迫害する者を祝福しなさい、祝福すべきであって、呪ってはいけません。彼らが飢えたなら食べさせなさい、渇いたなら飲ませなさい、とも語っている。そんなパウロは第一コリントのみことばで、自分はののしられても相手を祝福する、と告白している。そう、キリスト者の本質はどんな相手であれ、相手を祝福することにある。  迫害する者のために祈り、敵を愛する、それでこそ御父の子どもになるのであると、イエスさまはお語りになる。御父の子どもであること以上の祝福はこの世にはありえない。全世界を手に入れても御父の子どもではなくなり、永遠のいのちから零れ落ちてしまうならば、すべてを失ったことになる。  だから、たとえ福音を受け入れない人、それこそイエスさまがおっしゃったように、真珠を与える人に飛びかかる豚のような人が相手であろうとも、私たちのすることは神のエイレーネーをもって祝福することである。そうすることによって、私たちは神の子どもとして御前に立たせていただくという、エイレーネーをわがものとさせていただくのである。  だが、エイレーネーを受けれない人を呪ってはいけない一方で、彼らに迎合したり、彼らに受け入れられようと恋々としたりしてもいけない。すべきことは、あなたがたは神のエイレーネーを受け入れませんでした、私はあなたのその態度と選択に責任を負いません、その責任はあなたが負うのです、と、足のちりを払い落とすことである。  足のちりを払い落とすように彼らとのかかわりを絶たないならば、その土地を汚しているちりがその人を汚すように、その悪い習慣や考え、行いに染まったまま、神への従順に踏み出そうとしてしまう。私たちは人生の遍歴の中で、いろいろな人に出会ってきた。親をはじめ、兄弟、親戚、学校の友達や先輩後輩、職場の同僚、近所の人、それだけではなく、テレビや新聞や本やインターネットなどをとおしても、いろいろな人の意見を聞いてきた。いつの間にかそういう影響を受けて、ことばづかいや行いが染まってきた。そういうものを私たちはどこかで引きずって生きている。みことばを読めば、聖くあらねばならないことを教えられるが、私たちはなお世の影響を受けてしまっていて、聖い生き方ができなくなってしまっている。足についたちりのような、むかしのものを払い落とさないまま神への従順を実践しようとしても、うまくいかない。どこかでこの世と調子を合わせてしまうのである。  主の弟子がこの世と調子を合わせないためには、ローマ人への手紙12章1節にあるとおり、心の一新によって自分を変えていただくことである。どうすればいいだろうか? イエスさまに洗っていただくのである。これが悔い改め、自分から神への方向転換である。  弟子たちは俗塵にまみれた足を、恐れ多くも主なるイエスさまに洗っていただいた。イエスさまは神であるのに、私たちの足を洗ってくださるお方である。私たちは勇気を出してイエスさまに、俗塵にまみれた足を差し出そう。そしてイエスさまとの交わりの中で、エイレーネーの福音の備えをすべき足についていてはいけないこの世のちりは何か、示していただき、落とす決断をしよう。  15節をご覧いただきたい。エイレーネー、神との平和を受け入れない者には、神さまがそれにふさわしいお取り扱いをされる。ソドムとゴモラ、それは、御使いさえも辱めようとしたほど霊的に壊れた、神をも恐れぬ集団である。ロトは神のあわれみを受けた義人として、それを捨てて命がけで逃げなければならなかった。ロトの妻はしかし振り返り、その場で塩の柱になって息絶えてしまった。ふさわしくない集団に対する足のちりを払い落とせず、むしろそれに恋々としてしまった証拠である。  私たちはエイレーネーを祈る。前にも言ったが、韓国のクリスチャンたちは家や教会を訪問したらお祈りをするが、これはエイレーネーがこの家にあるように祈っているわけである。しかし私たちは、相手がふさわしかろうとふさわしくなかろうと、エイレーネーを祈るべきである。それがみこころだからである。まことに、私たちのすることは、平和の主なるイエスさまが私たちの主として統べ治めてくださるように、あらゆる時と場合に、エイレーネーを祈ることである。  最後に、マタイの福音書5章9節のみことばを読もう。この「平和をつくる者」のもともとのことばも「エイレーネー」である。単なるピースメーカーとか、平和運動、反戦運動ではない。もちろん、それもとても大事にはちがいないし、いのちをかけてそのような努力をする方々のことはとても尊敬するが、このみことばの語る「エイレーネー」は、エイレーネーの主なるイエスさまを主とするところから生まれる。神とのエイレーネーを保つという大前提あってのものである。その上でつくるエイレーネーだからそれ相応の努力を必要とする。しかしその一方で、神の恵みにとってその努力をする働きは成し遂げられる。  私たちはイエスさまとのエイレーネーに入れられていることに感謝しよう。イエスさまによって御父と保っていただいているエイレーネーにつねに憩おう。そこから、主にあってエイレーネーをつくり出す働きに用いていただこう。イエスさまの十字架こそは、エイレーネーそのもの、恵みに拠り頼んで十字架の道を生きるならば、私たちはエイレーネーをつくり出す神の子としての生き方に、必ず用いていただける。宣教とはまさしく、神と人のエイレーネーを成し遂げ、そこから人と人のエイレーネーをつくり出す働きである。用いていただき、私たちの周りから神のエイレーネーが実現していくように祈ろう。

主の弟子の召命

聖書箇所;マタイの福音書10章5節~10節 メッセージ題目;主の弟子の召命  「私は何者なのか?」考えたことがあるだろうか? 私も忙しくしていると、自分が何者か意識しなくなり、それが生活のあらゆる局面にゆがみをもたらすようになる。Who、武井俊孝は、When、この2024年という50歳になる年を毎日、Where、茨城県央の茨城町で、What、キリスト教会において神と人に仕えることを、How、弟子訓練の牧会をもって行う。しかし、それらの4W1Hを支える「Why」がしっかりしていないと、たちまち足元をすくわれる。Why、それは神さまの召命だから、つまり、神さまが「せよ」とおっしゃっている以上、しなければならないことだから。  その「Why」はしかし、普段から神さまと親密な関係を持っていなければ身についていない。私は14年以上にわたる牧師生活の中で、その生活を続けていくうえで何度となく危機を覚えたものだった。それは意志が弱いせいだからというより、忙しさにかまけているうちに、神さまとの交わりが希薄になってしまっていたからだと言える。  わたしの目にはあなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している、こういう御声がお題目のようにではなく、それこそ生きた神さまからの御声としてつねに聞けていて、愛されていることの喜びと感謝に満ちているならば、燃え尽きから守られる。これはまた、同じ召命を与えられた仲間たちとの交わりを通してでも受け取っていく必要のあることで、先週も学んだとおり、イエスさまが弟子たちを共同体のうちに生かされたのは、ともにイエスさまの御声を聴く仲間たちの存在がそれほど大事なように、イエスさまが私たちのことをおつくりになったからである。  ここで、弟子たちに対するイエスさまの召命に照らして、私たちに対するイエスさまの召命は何かを考えることに意味があるだろう。私はかつて神学生だったが、イエスさまに生涯かけて献身した者であるという召命観においては、神学生も牧師も変わらない一方で、神学生はまだ牧会の責任を負う立場には置かれていない、基礎の基礎を身につけていくべき、いわば「ひよっこ」である。段階を追って働き人になる。働き人に見合うだけのアイデンティティはまだ持ち合わせていない。その点では神学生も、まだイエスさまのもとで十二弟子の訓練を受けている弟子たちも、同じと言えよう。  ただし、神学生にしても、十二弟子の共同体にしても、のちの働きに出ていくための基礎を身に着けるプロセスにある点では同じである。神学生はヘブライ語やギリシャ語、組織神学など、実際の牧会においてはそこまで多くの割合を占めるわけではないことについてかなり勉強する。それは、確かに多くの割合を占めてはいなくても、牧会の基礎になる聖書解釈にとっては必須だからである。同じように十二使徒の働きも、その基礎にはイエスさまのもとで受けた弟子訓練がある。その弟子訓練における召命は、私たちが主の弟子としてこの世で振る舞う上でも基礎になることである。ともに学んでみたい。  まず、5節と6節のみことばを見てみよう。イエスさまは十二弟子をどこに遣わしているだろうか?「イスラエルの家の失われた羊たち」のところに行くようにとおっしゃっている。近隣のサマリア人や、ましてや異邦人の住むところではないのである。  これは、神さまのみこころの優先性に関することである。この直前のマタイの福音書9章の最後の部分で、イエスさまがイスラエルの群衆を見て、羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている様子に、ひどく心を痛められる場面が出てくる。そんな神の民がなぜそのように弱り果てていたかというと、霊的世界を牛耳っている宗教指導者たちによって、あらゆる形で搾取され、痛めつけられていたからである。イエスさまは宗教指導者たちに対して、自分も負いきれないほどの重荷を負わせているのに、自分はそれに指一本触れようとはしないと糾弾しておらるが、そのような、みことばというよりも恣意的なみことばの解釈をみな守らざるをえなくて苦しむ民、そんな彼らの苦しみに、イエスさまは深く同情された。  しかし彼らは、神の国をずっと待ち望んでいた人たちである。そんな彼らが神の国に入るには、方法はひとつしかなかった。間違ってもそれは、パリサイ人が教えるとおりにみことばを、というよりその解釈を守り行うことではない。今まで、そうしなければ神の国に入れないと信じ込まされてきたけれども、それでは決して神の国に入れない。いまや神の国の王であるイエスさまがこの世界におられるのだから、信じるべきはイエスさまである。彼らイスラエル、神の国を激しく待望してきた民が第一に、イエスさまの福音を聴くべきであった。  イスラエルへの宣教は一種の戦いだった。イエスさまはすでに、あらゆる町や村を巡って、みことばを語り、しるしを行なっておられたが、イスラエルの霊的世界を牛耳る宗教指導者たちは、そのみわざは悪霊によるものだと語ってやまなかった。そのような指導者たちのせいでイエスさまに出会う道が閉ざされ、結果、弱り果てるしかなかった神の民がほんとうの意味で神の民になるためには、イエスさまの命(めい)を受けた弟子たちが複数散っていって語る必要があった。  まず、神の民から祝福を受ける道が開かれる。それがこの時の宣教の原則だったから、異邦人やサマリア人のところに行く前にまずイスラエルに、ということだったわけだが、その原則はやがて、イエスさまが全世界に弟子たちをお遣わしになり、「使徒の働き」に入って、異邦人に至るまで宣教が展開するかたちに昇華された。しかしこれは、ユダヤ人が、神の国の主そのものでいらっしゃるイエスさまを、十字架にまでつけ、そのうえで福音を受け入れなかった結果、子どもの食卓から落ちたパン屑を小犬が食べるように、異邦人にまで救いが及んだ結果であり、異邦人宣教がイスラエルへの宣教に本来優先していたわけではないので、私たち異邦人は勘違いしてはならない。  イエスさまはご自身のその、イスラエルへの宣教のわざをなされるにあたって、彼らの同胞である十二弟子をお用いになった。神の民から選抜された十二弟子からイスラエル宣教がなされ、やがてイエスさまの十字架と復活によって神の国がすべての人に開かれる道が与えられ、イスラエルから異邦人、すなわち世界宣教へと展開した。その姿は聖書において、イエスさまの昇天後の時代の記録、使徒の働きや書簡などに登場しているとおりである。  しかし、イエスさまが本来十二弟子にお語りになった宣教戦略は、どこまでもイスラエルへの宣教が優先されているものである。これは私たちを含む異邦人が差別されているということではない。むしろこう考えるべきである。創造のはじめからのみこころ、神の民を選んで律法をお授けになったみこころ、そのみこころがまずイスラエル宣教という形でなされ、その延長線上に私たちを含めた異邦人への福音宣教がある。私たちが同じイスラエルの神さまを信じるには、まず、律法と預言者、すなわち旧約聖書という基礎のあるイスラエルが、旧約の成就である神の子イエスさまを知り、そこから世界へと宣教が展開していく必要があったのである。  これを私たちに適用するとどうなるだろうか。イスラエルをこれほどまでに優先される神さまのみこころを知るために、イスラエルに注がれたみこころの集大成、旧約聖書をよく読む必要がある。偉大な神さまが特別に人を選ばれ、その人と民に特別にみこころを注がれる、その神さまの愛のリアルさは旧約を熟読することによってはじめてわかる。そして、この旧約を基礎に私たちの信仰生活があることが受け入れられ、私たちは神さまのみこころをより深く理解できるようになる。  週報にも書いたが、韓国のクリスチャンは国と民族をとても愛している。その韓国の教会は、伝統的に旧約聖書を重んじてきた。つまり、旧約に示されたイスラエルに対する神の愛に感動を覚える伝統があったのである。その、神さまのイスラエルに対する選びの愛が基礎にあって、エホバの神は特別にわが国と民族を選び、愛していらっしゃるという、クリスチャンらしい健全な愛国心につながっているのである。その旧約が信仰の基礎にしっかりあるからこそ、韓国のクリスチャンたちは日本の宗教政策であった神社参拝を、命を懸けて拒否しつづけることができたのである。そのように、神に対する深い信仰は、旧約聖書を重んじるところから生まれていて、世界宣教がイスラエルに始まっているのは、私たちもイスラエルに対する主のみこころを知る必要があるからという意味もある。  さて、その神の国を宣べ伝える宣教の働きは、第一にイエスさまの霊的権威を与えられたものである。8節のみことばは、イエスさまは創造主、癒やし主であるゆえに、これほどまでの権威が弟子たちに与えられているということであり、現代社会にはこういうことが人を通して起こらないからと、イエスさまのこのみことばを疑うのは正しくない。むしろ、イエスさまの権威を受けた十二弟子がこういうことを行えないほうがおかしいと考えるべきだろう。  逆に、このことがわざわざ聖書に記録されているということは、直弟子(じきでし)にそれだけの権威をお与えになるイエスさまのすばらしさが現れている、ということである。イエスさまはみこころならば、私たちも主の弟子である以上、私たちにこのような権威をお与えになれるお方である。私たちはだから、イエスさまの御名によって、人々から悪霊が追い出されるようにとも、お医者さんがさじを投げるような病気の人が癒されるようにとも祈るわけである。  ただし、このようなしるしはすべて、神の国と関係を持っている。もし、奇跡が起きたとして、その結果わざを行う人がほめられて、神の国が成り立たなくなったり、果ては教会に分裂が起こったりするならば、いかにミラクルなことが起こっていようとも、それはとても問題なわけである。  そうではなくて、祈りが聞かれて奇跡が起こることによって、私たちがみな神のご栄光をほめたたえ、教会が立て上げられることが大事なわけである。そうだとすると祈りとは、個人的な願望を神さまに申し述べることにとどまらず、教会全体の取り組むべきわざである。なにかの奇蹟的な現象が起きたからといって、その結果教会に深刻なダメージが及んだとすれば、その奇蹟なるものは果たして神さまのみこころにかなっていたのか、大いに疑わしい。  さて、9節と10節によれば、この宣教の働きはどこまでも、すべてを与えてくださる神さまのご主権によって行うべきことである。余計なものを持っていたら、それらのものに拠り頼み、神さまに拠り頼まないでも事をこなしてしまう癖がついてしまう。物を持ってはいけないということではない。しかし同時に、物が神さまに拠り頼むことの妨げとなってしまってはいけないことは確かである。  私たちはこの世に対してみことばを宣べ伝えるべく遣わされている。だから、この世のことはよく知る必要がある。みんながみんなバプテスマのヨハネのように、世捨て人のようなライフスタイルでいては、少なくともこの現代の日本では福音の伝わりようがない。ある程度はこの世に伍することで福音を伝える機会が開かれるのは確かである。しかし、この世に染まってしまっては、つまり、ただの人のように歩んでしまっては、私たちは世の光である自分自身を升の下に隠していることになるし、地の塩として機能しないことになってしまう。塩気をなくした塩は外に捨てられることになってしまう、と、イエスさまは警告しておられる。  私たちが第一に求めるべきものは、神の国とその義である。それを第一とするとき、私たちに必要なものは与えられる。より正確に言えば、私たちが神のみこころを行う上で必要なすべてのものは与えられる。私たちに仮にほしいものがあって、祈って求めてみても与えられなかったからと、何だ、与えられないじゃないか、となるのは、それが与えられることは実は神さまのみこころにかなっていなかったからか、まだこの時点では神さまがお与えになることはみこころではないからか、もっと素晴らしいものを神さまは用意しておらるからかのいずれかである。  要は、イエスさまが「いらない」とおっしゃっているかどうかである。お金も余計な持ち物も持つな、とおっしゃるのは、それがイエスさまのみこころだからである。その代わりイエスさまは、そのおことばに責任を持ち、必要なものを必ず、みこころにしたがって与えてくださる。これが、イエスさまのこの、一見するととても厳しいおことばからわかることである。  私たちも、自分にとって何がほんとうに必要なのか、言い換えれば、神さまは何を自分に与えてくださるのがみこころなのか、普段からの祈りとみことばによる神さまとの交わりの中で、具体的に理解している必要がある。私はかつてマンガやビデオゲームやCDがとても好きだったが、私にはそれが必要ないと神さまがおっしゃっていると受け取ったとき、それを片づけることをした。  神さまにお従いするにあたっていらないものは、神さまが示してくださる。その代わり、そのように御国のために捨てることができた人の生活は、神さまが責任を取ってくださる。その弟子にほんとうに必要と思われるものは、必ず与えてくださる。まさにマタイ19章29節にあるとおりである。だから、このみことばを信じて、みことばを宣べ伝える働きに用いられてまいりたい。  主の弟子の召命。それは、イエスさまを自分の人生のすべての領域における主と信じ、お従いすることである。その、自分にとって絶対のお方である主が、みことばを宣べ伝えよとおっしゃるから宣べ伝える。そう、みことばを宣べ伝えるのは、教会の仲間内で熱心な人に見られてほめられたいからとか、教会の規則としてどうしてもしないと後ろめたいからとかいう理由でするのではない。イエスさまの召命だからである。その召命を確かに持つためにも、旧約に始まる神の民に対する愛をみことばを読むことで、リアルに体験する必要がある。そして、そのような神の愛は厳しくある一方で、神のみこころに歩む私たちのすべてに責任を持ってくださるゆえに、私たちは余計なものを抱え込む必要はなく、ただ神さまだけに信頼することをつねに学んでいこう。

主の弟子の共同体

聖書箇所;マタイの福音書10章1節~4節 メッセージ題目;主の弟子の共同体  学生時代、友人のクリスチャンは、共同生活をする人が多かった。それは生活費の節約につながるだけではない。霊性を保てるようになるし、そればかりか、霊的な訓練を受けられるようになる。そんな生活にあこがれた私も、留学で親元を離れるにあたって、韓国の地方からソウルに上京してきた学生たちと共同生活を送った。男8人が3LDKの一軒家で共同生活を送る、なんとも男くさい生活だった。朝ご飯は交代でつくる。鍋をテーブルの真ん中において、みんなしてスプーンですくって飲む。夜になったらみんなで集まり、一日どんなことがあったか報告し、祈りの課題を分かち合う。そしてみんなで手をつないで祈る。こういう生活をとおして否が応でも鍛えられたものだった。  私たちはさすがに、このような共同生活をするのは難しいかもしれない。しかし、共同体に生かされているという点では同じであろう。私たちはこうして教会に集うことで、自分たちが弟子の共同体に生かされていることを体験する。  そのような私たちがモデルとするのは、イエスさまが弟子たちを呼び寄せられて共同体とされた、十二弟子の共同体であろう。今日の箇所から私たちは、このような共同体に生かされる私たち、宣教する弟子である私たちがいかなる存在にされているか、ともに学んでみたい。  第一に私たちの宣教は、イエスさまからの権威を託されて行うものである。  1節のみことばによれば、イエスさまは弟子たちに、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。  霊どもを制することによって、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすことができるようになる。人が病気になったり、わずらったりすることがなぜいけないのだろうか? その理由を考えるには、病気、わずらいの結果、人がどうなってしまうかを考える必要がある。神さまは時に、たとえば御民の王のような神のしもべがみこころから逸脱するとき、その健康を打たれて病を与えられることがあるが、それは懲らしめ、ひいてはさばきのわざである。  しかし、いやされるべき病気やわずらいは、神さまのさばきの結果ではない。その病は悪い霊に由来するものである。すなわち、その病を抱えることで、人はまことの神さまにお従いする愛のわざ、従順のわざという行動をすることができなくなってしまう。ゆえに、神のご栄光は顕されない。  イエスさまはそのような病をいやし、人が従順のわざを行えるようにしてくださる。ペテロのしゅうとめは重い病で臥せっていたが、イエスさまは彼女をいやされた。すると彼女は、イエスさまとその一行をおもてなしした、と聖書は語る。これがいやしの持つ意味である。実に癒しは、主への従順ができるほどの回復をもって完成し、また証しされる。  つまり、弟子たちが悪霊追い出しの伴う宣教を行う理由は、人々が主に従順になれるようにすることにその第一の目的がある。悪霊の支配が取り払われ、人々が主を見上げることができるようになるならば、神さまへの従順はそれだけ成り立つようになる。  私たちもまた、そのような宣教を行う必要がある。私たちは何も、オカルト映画のような悪霊追い出しを行うわけではない。みことばを宣べ伝えること。これに尽きる。  そして、みことばを第一とするならば、私たちには悪霊に属する、相応しくない文化も見えてこよう。  悪霊を慕うような音楽、映画、マンガ、ゲーム、ドラマ……そういったものから人々を解放し、神さまのものとすることが宣教であるが、その宣教が成り立つかどうかは、私たちがそれだけ祈っているかどうかにかかっている。宣教は悪霊が追い出されるための霊的働きである。祈って聖霊なる神さまに働いていただくようにするしかない。  さて、そこで第二のポイントに行くが、この宣教の働きは、ひとりで行うものではない。共同体のわざである。第二に私たちの宣教は、イエスさまによって共同体とされて行うものである。  イエスさまはこの、悪霊が追い出されて神の国が拡大する働きのために、12人の共同体を形成された。12人というのは分かち合い、励まし合いが成立する最大の単位である。  この群れにはいろいろな特徴がある。最初の4人、ペテロとアンデレ、またヤコブとヨハネは血のつながった兄弟である。同じ家族からでも弟子に取られる。さらに言えば、この4人はガリラヤ湖の漁師仲間でもある。もともと仲間意識を持ったどうしを弟子にお取りになるともいえる。  しかし、到底仲間とはいえないどうしでも、弟子の共同体に加えられるともいえる。最後のほうに出てくるシモンは「熱心党」とあるが、これは国主ヘロデに忠誠を誓う保守の人たちである。正確な言い方ではないかもしれないが、「右翼」のようなものだろう。しかし、マタイは「取税人」とある。ローマにおもねるためにはユダヤ民族も売るような人である。シモンからしたら本来許しがたい存在だろう。そういうどうしもともに弟子の共同体に加えられるのである。  さらに言えば、イスカリオテのユダまで加えられている。しかもこの箇所を見ると、彼がのちにどんな行動を取るようになるのかまで書いてある。  しかしもちろん、弟子たちはよもやユダがそんな人だったとは知る由もなかった。最後の晩さんの席から出ていってもわからなかったくらいである。どうしてユダがそんな人だったと知り得ようか。しかしユダは特別なご計画の中で弟子の共同体に加えられていた。  別の切り口で見ると、後先考えずに行動するペテロがいるかと思えば、冷静に判断を下すピリポがいる。疑い深いトマスもいる。天から火を呼び起こしてサマリアの人を焼き滅ぼしましょう、などと物騒なことを言うヤコブとヨハネもいる。性格もさまざまである。  人間的に考えれば、たとえば企業や役所の採用試験のように、その組織の求める基準に合致していなければ共同体に入ることはできなかろう。いわんやイエスさまは王の王、主の主である。本来ならばだれひとり、弟子として合格できる人はいない。  しかし、私たちはヨハネの福音書15章16節を忘れてはならない。私たちがイエスさまの弟子となるのは、第一にイエスさまのご主権による。ゆえに、どんな人が教会にいたとしても、その人がイエスさまのご主権によって弟子にされている人であることを認め、イエスさまのゆえにその人を受け入れ、その人とともに宣教の働きを担っていく必要がある。  その人の性格、言動の癖を見てしまうと、ともに働きをすることが難しいと思えよう。そんなとき私たちは、このようなちがったどうしを同じ弟子の群れに加えてくださったイエスさまをともに見上げていこう。そして、同じイエスさまが与えてくださった召命を握っていこう。  私たちはちがったどうしだが、互いに愛し合おう。その姿に人々は神の愛、イエスさまのご存在を認め、そこから悪霊の支配は追い出され、神の国が実現する。今日はこのちがったどうしが、ともに主のみからだと血潮にあずかる。私たちはイエスさまの十字架と復活を信じる信仰により、ひとつとされていることに感謝しよう。