偶像礼拝とは自分可愛さの罪

聖書箇所;出エジプト記20章1節~4節メッセージ題目;「偶像礼拝とは自分可愛さの罪」  先週から始まった十戒の学び、今日は第二戒である。 茨城は巨大な像があちこちに存在する。水戸常澄のダイダラボウ、水戸内原のハニワ、石岡の獅子頭、そして何といっても、牛久の仏像。いずれも、桁外れに大きい像である。これらの巨大な像は礼拝の対象であったり、なかったりする。しかし、いずれの像も極めて霊的な意味を持っているのはたしかで、そういう意味ではこの第二戒で戒められている、つくることも拝むことも神の民には禁じられている、偶像に分類できよう。そう考えると、茨城観光にやってくるようなお客さんのことは、あんまりお連れしたくないような場所である。 先週のメッセージで、ほかに神がいてはならないはずのイスラエル民族が、その律法が与えられてほとんど時間が経たないうちに、金の子牛の像をつくってそれをこぞって拝んだ、神の民にしてそうだったのである、という内容のことをお語りした。では、そんな私たちには、偶像はないのだろうか? 私たちはつい、偶像というと、神社仏閣や新興宗教の施設にお参りするイメージを思い浮かべ、いや、自分はそんなことなどしていないから大丈夫だ、などと思ったりしていないだろうか? そんな私たちは、偶像とは何か、そして、この第二戒で戒められている、自分のために偶像を造ってはならないとはどういうことかを知る必要がある。以下、見てまいりたい。 第一に、第二戒は、「いわゆる宗教行為としての偶像礼拝」のために偶像を造ってはならない、という意味である。 これはさきほども述べたとおり。現在私たちはマクチェイン式聖書通読で、列王記第一を読んでいるが、南北に分裂したイスラエルの、北イスラエル王国は、金の子牛を拝ませた。出エジプトの途上で起こった忌まわしいことをそっくりそのまま再現したわけである。さらに時代が下ると、アハブ王の時代になって、バアル、アシェラといった偶像神が礼拝される時代になる。 金の子牛にせよ、バアルやアシェラにせよ、唯一神なる神の民であるイスラエルにはありえない存在、あってはならない存在である。しかし、現実にイスラエルにそういうものが存在し、そういうものが礼拝の対象になっているということは、とかく神さまから離れたいと願う人間の罪の性質が、神さまから離れるという悪い行いを、偶像の神々をつくり、またそれを拝むということをもって表現する、ということであるといえるだろう。 しかし、当時のイスラエルの民にとってはどうだったか。金の子牛にせよ、バアルやアシェラにせよ、国の政策で民がこぞって礼拝するように仕向けられていた存在であった。その点ではそういう国策を敷いていた王にいちばんの責任があり、列王記を読み進めていくうちに登場する様々な王の紹介に、「彼は主の目の前に悪を行い」と書かれ、国を挙げての偶像礼拝の責任が王にあることを明らかにしているのだが、それなら民は仕方なかったと免罪されるのか。そうではない。民もまた、偶像礼拝をしたものとして神のお取り扱いを受けるべき存在となるわけである。 これはとても厳しいことかもしれない。しかし、アハブが政策としてバアルとアシェラを礼拝するようにさせていた暗黒時代、預言者エリヤのほかに主のしもべはいなかったようでも、神を恐れる侍従オバデヤのような人物はいたし、バアルにひざをかがめることをしない7000人の人が残されていた。民は、偶像礼拝は仕方がない、と言い訳する余地はなかったといえる。 これに酷似した歴史は日本や朝鮮半島もかつてたどっていた。日本はかつて、国家神道の国策が敷かれていて、それは太平洋戦争に敗れ、GHQの支配下に入るまで続いたが、その国家神道の政策は朝鮮半島でも強要された。朝鮮半島は当時、あらゆる政治結社が解散させられていた中で、キリスト教会をはじめ宗教団体は辛うじて存続していたが、やがて、国家神道に従うことはキリスト教会にも強要されることになった。 現代において、こうして守られて礼拝をささげている私たちからしたら信じられない話なのだが、礼拝の前に東方遥拝、すなわち皇居のほうを向いて拝礼し、それからようやく、まことの神さまを礼拝するのである。これが偶像礼拝でなくて何であろうか。そして、当然のように神社を参拝させられた。しかし、この国家的な流れを断固として拒否した牧師や長老がいた。彼らは投獄され、牧師と長老合わせ58人が殉教したと伝えられる。神を神とするとはそういうことである。 しかし、戦時中の日本の教会はほぼ例外なく、神棚を礼拝堂に飾り、それに拝礼することを常としていた。これを私たちはどう考えるべきだろうか? 生き残るために仕方がなかったから、と考えるべきだろうか?  それならそれで、何のために生き残ろうとしたのだろうか? 神の栄光のためだろうか? では、そうすることでなぜ神の栄光が現れるのか、と問われると、どう答えるべきだろうか? 所詮は、自分のために偶像を造り、生き残ることを画策したに過ぎなかったのではないだろうか? しかし、自分のために偶像を造るという行為、それを拝むという行為は、当時の日本だけではない。現代の日本に生きる私たちにとっても大きな課題である。家々に仏壇や神棚が当たり前に存在するのがこの日本という国である。それを当たり前に拝み、家族の命日やお盆やお彼岸には墓参りをして、お線香をあげて手を合わせるのがこの日本という国の常識である。親族や知人が亡くなったら、お線香をあげに訪問するのが日本という国の常識である。そして……だれかが亡くなるという厳かなとき、仏式の葬儀ではお焼香をし、神道の葬儀では真榊をささげることもする。 こういうことを、クリスチャンでありながら行うということは、何を意味するだろうか? いや、自分はこういう行為をしているけれども、心の中では神さまにお祈りしているから大丈夫です、とでもいうのだろうか?  こういうケースで好んで引用されるみことばが、神を信じたアラムのナアマン将軍がエリシャに対し、自分の主君である王の偶像礼拝を手伝うことをお許しいただきたい、と申し出、エリシャがそれを許可した、という箇所である。エリシャが大いなるみわざのなされたナアマンにそれを許したのだから、私たちも偶像礼拝をせざるを得ないときは、しても許される、と。 しかし、これは主がその民に偶像を礼拝を許容されることもある、ということの根拠にはまったくならない。その時代にあってイスラエル民族以外に、それもイスラエルの敵に対してみわざが行われたということは限定的、例外的なことであり、神さまはなにも、ナアマン将軍をとおしてアラムにリバイバルを起こすことがみこころだったわけではない。アラムが神の民イスラエルの敵国でありつづけることは、神さまのみこころでさえあり、すなわちこの民をイスラエルにもまして祝福されるということは、少なくとも神さまのみこころではなかった。この日本における証し人として召されている私たちとナアマンとでは、状況が全く異なるのである。 

ほかに神はいない私たち

聖書箇所;出エジプト記20章1節~3節 メッセージ題目;ほかに神はいない私たち  今日はこのメッセージのあとで、バプテスマを控えている。新たに神の民として公式的なスタートを切られる姉妹に向けたメッセージとして、今日のメッセージを用意させていただいた。  むかしのアメリカの映画で「十戒」というものがある。1956年の作品で、チャールトン・ヘストン主演。聖書が今よりもずっと尊重されていた、古き良きアメリカを象徴する映画。イスラエルの民がエジプトの圧政から救い出され、荒野に導き出され、シナイ山にて神さまと契約を結ぶ、という、出エジプト記の記述を映像化したものである。特撮の歴史に残る作品でもあり、イスラエルの民の目の前で、紅海が真っ二つに割れるシーンが特に有名。なお、なぜか日本ではこの主人公の名が「モー『ゼ』」となっているが、もちろん正しくは「モー『セ』」。一般的な日本人がとかく「モー『ゼ』」と言ってしまうのは、なんとかしてほしいところだが、この映画の日本語版のせいと言えなくもないだろう。  この作品の題名、私たちだったらなんとつけるだろうか? つい「出エジプト」と名づけてしまうかもしれない。しかし、実際には「十戒」とつけられた。実に意味のある題名となった。この作品のタイトルが「出エジプト」ではなく、「十戒」であったことは、聖書になじみのない日本人にとっても、「十戒」という聖書の教えがどれほど大事か、ということを強く印象づける役割を果たしたといえ、それはすばらしいことだった。この十戒とは、聖書66巻のもっとも基礎になるものであり、この十戒の教えによって教えられることにより、私たちは神の民としてふさわしく歩むことができる。  今日はまず、姉妹のバプテスマをお祝いする意味も込めて、第一戒から学ぶ。今年いっぱいで第十戒まで学べるので、しっかり予習してきていただきたい。少なくとも、聖書に書かれている、十戒全体をつねに読んでいただきたい。  第一戒。あなたがたは、わたし以外に、ほかの神があってはならない。  あの、チャールトン・ヘストンの映画が、「十戒」であることを日本人は知ったわけで、それなら「十戒」には何が書いてあるのだろうか、と興味を持って読んだら、その第一戒がこれ、ということで、八百万の神々の風土に生きる日本人は、そりゃないよ、と思うだろうか? しかし、ここは、なぜ神さまは「わたし以外、ほかの神があってはならない」とおっしゃったのか、そしてなぜ彼らは、そのように命じられなければならなかったのか、それをちゃんと押さえておかないと、神さまは悪い独裁者であるかのように大きく誤解をしてしまう。  このご命令、戒めは、先行するあらゆる聖書の記述が前提となる。まず、神さまがこの世界をおつくりになったこと。そして、神さまにお従いする民として、セツの子孫が増えていったこと。しかし、地上には悪が増大し、唯一ノアだけがその中で神さまのみこころにかなっていたので、ノアとその家族だけを全地球規模の滅びから救ってくださったこと。そして時が下り、神さまはアブラハムと契約を結ばれ、アブラハム、その子のイサク、その子のヤコブの神となられたこと。ヤコブとはイスラエルという名前が与えられた人であり、ヤコブの子孫たちはイスラエル民族、神さまはアブラハム、イサク、ヤコブの神であられるゆえ、イスラエル民族がもろとも、神さまの民として神さまの契約の中にある形になる。  そのイスラエルが異国の地で苦しむが、やがてもろとも救われることは、神さまがアブラハムにすでに約束してくださったことろであった。はるか昔に与えられた預言、それが時至って、出エジプトという形で成し遂げられた。時にイスラエル民族は、エジプトの地で奴隷生活を強いられ、ものすごい苦しみにあっていた。しかし民がその神に叫び求める祈りをおささげすると、神さまはその祈りを聴き届けてくださり、指導者モーセを不思議なようにして立ててくださった。  そしてモーセの導きのもと、エジプトには十種類のすさまじい災いが下され、根負けしたファラオはイスラエル民族を国から追放した。しかし、いざ追放して彼らが国からいなくなってみると、ファラオはまたもや考えを変えた。軍隊を派遣して、イスラエルを取り返しにかかった。目の前は広い海、紅海、後ろにはエジプト軍が迫るという、この危機的な状況の中で、神さまは紅海を真っ二つに分けられ、全イスラエルを通らされた。しかし、あとを追ってきたエジプト軍の上には、道の両側にそそり立つ水の壁が襲いかかり、ひとりとして残らなかった。  このようにして、この20章2節にあるとおり、神さまは、イスラエルをエジプトの地、奴隷の家から導き出した彼らの神、主としてのご栄光をあらわされたのであった。そう、彼らが苦しみと悲惨の中にあったとき、神さまがお救いになった。「だから」、わたしの言うことにとどまりなさい、というわけである。これは、神さまの親心にも似た愛である。  ほんとうに愛する子どもだったら、勝手なことは許さないだろう。それは親としての沽券にかかわるからではない。つまり、「親の顔が見たい」なんて人から侮辱されたくないから、ではない。子どもが子どもらしく、ちゃんとなるためである。夜ふかししたり、スマホばかりやったり、おいしくても栄養のない食べ物でおなかをいっぱいにしたりということを許さないのは、子どもが憎いからではない。かわいいからである。神さまもそう。ご自身の子どもがきちんとなることが、神さまにとって最高の喜びである。救われている以上、罪の奴隷になっていてはならないのである。  私たちもそうである。私たちはイスラエル民族ではないが、神さまの一方的なあわれみによって、神さまの子どもとなる契約を、イエスさまを信じる信仰によって与えていただいた、という点では同じである。私たちクリスチャンも契約を結び、神の民にしていただいた。  だから、2節のみことばは、地理的、歴史的な古代エジプトではないにせよ、古代エジプトがイスラエルのことを、神さまのことをまともに礼拝させないような奴隷状態、苦役にあえぐような奴隷状態に留め置いたように、私たちのことを、神なくて、罪の奴隷であった奴隷状態から、神さまが救い出してくださり、私たちはイエスさまを信じる信仰が与えられ、自由といのちを与えていただいた、という点で、私たちにも適用できる。  そういうわけで、十戒が与えられる大前提は、「救い」である。だから、そもそも、イエスさまを信じていなくて、したがって神さまの「救い」とは何かということなどまったく知らない、わからない人が、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」と言われれば反発心を覚えるのは当然である。  しかし、神さまによって救っていただいた人ならばどうか? 救っていただく前の自分の悲惨さ、それも絶望的な悲惨さを思い、そこから救ってくださったことへの感謝があってしかるべきである。神さま、こんな私のことを救ってくださり、ありがとうございます。私はこれからの人生、聖書のみことばに書いてあるとおりに、あなたさまにお従いします。そうなってこそしかるべきである。  この、神さまというお方は、ただひとり、イエスさまというお方、神の御子によって解き明かされたお方である。その解き明かしの集大成が、聖書のみことばである。だから、聖書のみことばをお読みすれば、この目に見えないまことの神さまに、どのようにお従いすべきかということがわかるようになっている。  その神さまは、天地万物をおつくりになった創造主であり、また、イエス・キリストの父なるお方である。このお方以外に神はいない。それは事実であるが、世の中の人々は、このお方以外にも神がいるかのように信じ、また振る舞っている。現代の日本に至っては、何やら素晴らしく見える人やものに至るまでも「神」と呼んではばからない。汎神論、ここに極まれり、といった感じだが、私たちはだれが何と言おうとも、創造主なる唯一の神さま以外のものは、すべて限りある被造物である、という信仰告白を曲げない生き方をするように召されている。  3節の表現にもう少し注目しよう。わたしのほかに神はない、とは言っていない。「あなたには」と言って、「あってはならない」と言っている。つまり、神さまと私たちひとりひとりの関係の中で、わたしは「あなたにとって」ただひとりの神なのだよ、「あなたには」ほかに神はいてはならないんだからね、と語っておられるわけである。  それゆえ、私たちは、生きているかぎり、つねに自分の目の前に唯一の神さまをお迎えする生き方を徹底する必要がある。何といっても、このような戒めが与えられて間もなくというタイミングで、早くもイスラエルの民は、自分たちを導き出した神だ、といって、金の子牛の像を刻んでそれに礼拝する、という、たいへんな罪を犯している。神さまの御手によって数々の奇跡を体験しながら救いを味わった彼らにしてそうだったのである。そう、神ならぬものを神とするという態度は、私たちのうちにつねにあるものである。私たちはそれを絶えず警戒しなければならない。  そのような、神ならぬものを神とする態度の種とでもいうべきものは、私たちの中に絶えずある。私たちがもし、自分のお金や時間や人生の関心を、まことの神さまにつかえるためよりも、もっと別のものに用いがちだったならば、それは「ほかの神」が私たちの中にあるせいかもしれない。音楽、遊び、グルメといった趣味が、それこそ「神」になってしまっているのである。あるいは、人前で自分がクリスチャンであるように振る舞わない、振る舞えないとしたら、その理由はもしかして、イエスさまを信じていることが周りにばれたら恥ずかしい、と思っているからではないだろうか? そうだとすると、私たちは周りの人たちのことを、神さまよりも大事にしている、言い換えれば、「世間様」という「神」に仕えていることになる。  しかし、いちばん警戒しなければならない「神」は「自分自身」である。自分が好きなように振る舞う。神さまを無視して自分のことばかり考える。そうなると、神さまのみこころは行えなくなる。自己中心。それが「罪」の究極の形である。しかし、神さまは私たちがそのような存在であることをすべてご存じの上、ひとり子イエスさまという完璧なささげ物によって、私たちを罪から贖いだしてくださった。救われるために、私たちはそれに何かつけ加える必要はない。ただ、信じればいいのである。  今日、バプテスマをお受けになる姉妹は、ただ、イエスさまの十字架の贖いを信じる信仰により、救われ、神さまの子どもにしていただく契約を結んだ、大事な私たちの家族でいらっしゃる。姉妹にとって、神さまのほかに神はないように、私たちにとっても、神さまのほかに神はない。私たちはともに、神さまのほかに神はない歩みをしていくように、励まし合っていく、大事な存在とされている。今日のバプテスマをお祝いし、私たちがひとつ家族にしていただいていることに感謝しよう。

教会は癒やしの共同体

聖書箇所;ヤコブの手紙5章13節~20節 メッセージ題目;「教会は癒やしの共同体」  ヤコブの手紙の学びも今日で最後となった。私たちはここまで、信仰とは行いあってこそということを学んできた。さて、その行いが、教会という共同体の中では、どのように実が結ばれるものだろうか? 今日の箇所をお読みするとまず、祈り、そして賛美をおささげすることに始まっていることがわかる。  13節。私たちの間で苦しんでいない人などひとりもいない。自分は何も苦しんでいない、という人がいるかもしれないが、そういう人もどこかで苦しんでいるものである。そのように、私たちはみな苦しんでいる。しかし私たちクリスチャンは神の子どもたちである。私たちが苦しむ姿を見つめてくださっている天の父なる神さまが私たちにはおられる。私たちが神さまに叫び求めるならば、神さまはその叫びに耳を傾けてくださり、必ず応えてくださる。  とはいえ、この叫び求める祈りを予想外に長くささげなければならない時も、私たちにはあるかもしれない。イエスさまはおっしゃっている。求めなさい、そうすれば与えられます。探しなさい、そうすれば見つかります。門をたたきなさい。そうすれば開かれます。しかし、このみことばは、求めつづけなさい、探しつづけなさい、門をたたきつづけなさい、という意味なのはみなさまご存知だろう。とすると、この苦しみから解放してください、というお祈りも、応えられるまでずっと、ずっと、ささげなければならない、ということも起こってくるかもしれない。  しかし、ここは神さまの愛を信頼していただきたい。このように、神さまは必ず祈りを聞いてくださるという信仰は忍耐を生み、その忍耐を完全に働かせると、私たちは何ひとつ欠けたところのない人として成長させていただけると、みことばは約束している。ここは忍耐して祈ろうではないか。  さて、そのようにして祈りが聞かれ、苦しみから解放されたとする。そうしたら、私たちのすることは「神さまを賛美すること」であってしかるべきである。なにも歌を歌いなさいというのではない。もちろん、歌を歌うのが賛美なのはもちろんだが、そのようなことが神さまのみわざだと認め、そのようなことをしてご自身のご栄光をあらわしてくださった神さまの御名をほめたたえる、神さまにご栄光をお帰しすることが、神さまを賛美することである。  しかし、実際には、このように「神さまを賛美する」という、人として最高のわざまでたどり着くことがなかなか人にはできない。喜んでそれで終わりということがどんなに多いことだろうか。イエスさまにツァラアトを癒やしていただいた10人の人。だが、癒やされてイエスさまのもとにやってきたのは、その中のたったひとりのサマリア人だった。イエスさまはその人のことをどんなにほめてくださったか。そして、感謝をしにやって来なかった人たちのことをどんなにお嘆きになったことか。よいことがあったら神さまをほめたたえ、感謝することは、人のなすべきわざである。  さて、苦しみの最たるもの、それは、神の栄光をあらわす信仰のわざに踏み出していきたいと願いながら、それを果たすことができないゆえの苦しみではないだろうか。早い話が病である。私たちはこの肉体を用いて主の栄光をあらわす仕組みになっている。それが病気やけがなどで主と人々のためにまともに働けない、これほど苦しいことはほかにない。  そのような人にはどうしなさいと語られているだろうか? 14節。教会の長老たちを招いて、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい、ということである。オリーブ油が基本的に食用油だと思っている日本人のわれわれからしたら、病気の人にオリーブ油を塗る、というのは不思議な感じがするかもしれない。しかし、先週私は小児科病棟に入院した話をしたが、心臓の手術をする男の子が、おへそにオリーブ油を塗ってもらっていたのを見た。看護師さんに聞いたら、消毒の意味があるとのことだった。オリーブ油にそういう効能があると知って、私は高校生なりに新しい知識を得て満足したものだった。  実際、イエスさまの「良きサマリア人」のたとえ話では、強盗に半殺しの目にあった旅人を介抱したサマリア人が、旅人の傷口にオリーブ油を注いであげた、と語っていらっしゃる。そういうわけで、オリーブ油は主イエスもお認めになる、痛みによく効く薬のようなものでもある。  15節のみことばと考え合わせてみたい。油を用いて教会の長老たちが患者のために祈るならば、その患者は救われる。何から救われるのか? その人を立ち上がれなくしている存在から救われるのである。それは病気かもしれない。その病気も、その人が犯した罪や悪習慣がもたらしたものかもしれない。しかしその人はそれを悔い改め、全面的に神さまの癒やしの御手に自分を委ねる決断をするのである。  教会の長老たちが祈るとは、教会の霊的責任を負う人たちが祈る、ということである。私たちバプテスト教会は、教会員がみな教会における霊的責任を負うという立場に立つわけで、牧師や責任役員のことが長老なのではない。長老がいるとあえて仮定するならば、私たちがみな長老である。だから、私たちがみな祈るのである。  オリーブ油を用いることは聖書のみことばに従順でありたいという信仰の姿勢から来るのならば「あり」ではある。しかし、オリーブ油が霊的に何を意味しているのかを少なくとも考える必要はあるし、それが考えられているならば、手許にオリーブ油がなくても一向にかまわないというべきだろう。教会の長老たちが油を用いて人を立ち上がらせることは、イスラエルの長老たちが油を注いで人を王に立てることを象徴しているといえよう。王とはだれだろうか? ペテロの手紙第一2章9節によれば、その王とは祭司であり、聖なる国民、神のものとされた民、とある。そしてそれは「あなたがた」、すなわち、私たちクリスチャンである。私たちクリスチャンに油を注いで「王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民」としてくださるのは、聖霊なる神さまである。  したがって、私たちがだれかのために祈るならば、それは聖霊の油注ぎを祈ることであり、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民としてこの世界に雄雄しく羽ばたけるようにとりなすことになる。病気であったりけがをしたりという、弱さの中に留まったままでは、王としても祭司としても振る舞うことなどおぼつかない。それを人として、クリスチャンとして立てること、言い換えれば、王として、祭司として立てること、それが教会が御霊の力によってとりなして祈ることである。そうすれば病や痛みの中にある人も、王として振る舞えるし、祭司として振る舞える。  16節もこの文脈から読む必要がある。たとえ隠しておきたくても、教会の中では互いに対して罪を告白しあわなければならない、のではない。それを間違えると、リーダーが自分のことを一切報告義務がないところに置いたまま、教会員たちが秘密を告白しないとならないような共同体をつくってしまいかねない。それは別名「カルト」というのである。そのように、互いに対して罪を告白しなければならないと取ってはならない。目的は「癒やされるため」。罪の告白しっこの結果、共同体が病むならば、それは目的と手段を取り違えて、やってはならないことをしたことになる。  罪の告白は、共同体が、また共同体をなすひと枝ひと枝が癒やされるためにすべきものである。しかしそれもまずは、神さまの御前にすることが最優先である。また、罪の告白をするにあたっては、教会の「徳」を立てること、「徳」を高めることを最優先で考えたうえでする必要がある。そう考えると、うかつにはできないこと、慎重にすべきことであることがわかる。  しかし、こうも言うことができる。「罪」というからおどろおどろしくなるが、これを「弱さ」と言い換えたらどうだろうか? 肉体の弱さ、性格の弱さは往々にして、罪深い考え方、罪深い行動に直結する。「弱さ」と「罪」は必ずしもイコールではないが、兄弟姉妹が告白する「弱さ」のためにとりなして祈ることは、結果としてその兄弟姉妹の「罪」が取り扱われることになる。パウロも自分の肉体の「弱さ」を告白したが、同じパウロは「もし福音を宣べ伝えないならば、私はわざわいです」とも告白している。肉体の弱さのせいで福音を宣べ伝えられなくなる、わざわいな状態は、すなわちパウロにとっては罪である。  だから彼はその弱さが覆われるように祈る必要があったし、また、祈ってもらう必要があった。そのように私たちも、弱さが覆われて罪を犯さないように、いや、力強く主の働きができるようになる必要がある。その祈りは聴かれる。なぜならば、私たちは正しい人だからである。正しい人とは「義人」ともいう。私たちはことさらに、自分のことを「罪人」だと卑下していないだろうか? よく考えていただきたい。主はおっしゃるのである。「神がきよめたものを、あなたがきよくないと言ってはならない。」私たちをきよめてくださったイエスさまの十字架の血潮のきよめは絶対である。私たちは自分の力で祈るのではない。全能なる創造主、イエスさまの御名で祈るのである。だから私たちの祈りは聴いていただけるのである。  その祈りの力は旧約聖書に書かれているとおりである。17節、18節。みことばがこう語る以上、私たちもエリヤのように、全能なる神さまのみわざが起こるように祈れるのである。このみことばを信じない人はどうぞご自由にと言うしかない。私たちは不信仰にならず、このみことばのとおりである、このみことばのとおりになると信じて祈ろう。そしてその全能の御手は、病んでいる人を立ち上がらせるということをもって実現するのである。  最後に、教会という共同体は真理を保つためにあらゆる努力を傾けるべきだが、それでも真理が何かがわからなくなってしまう人がいる。19節、20節。真理から迷い出た人、言い換えれば罪人のことを、迷いの道から連れ戻す人とはだれだろうか? 罪人のたましいを死から救い出し、また多くの罪を覆う人とはだれだろうか? それはイエスさまである。  真理から迷い出るのは、イエスさまというまことの羊飼い、道であり、真理であり、いのちであられるお方についていくことをしないからである。イエスさまについていくことを怠けてしまう。その結果、目の前の何やら魅力的に感じられるものに惹かれてしまう。かくしてますます、真理から迷い出てしまう。イエスさまについて行くことをしないなら、その人は神中心ではなく、自己中心、偶像中心の生き方をしていることになり、そういう人を罪人と呼ぶ。何やら目立った罪を犯すから罪人なのではない。イエスさまという、ついて行くべき目標を外した生き方、ハマルティア、的外れの罪、だからそういう人は罪人なのである。真理から迷い出た人が罪人とは、そういうことである。  イエスさまはそのような、迷える羊を捜して、みもとに連れ戻してくださる。しかしこのみことばを見よう。イエスさまがそれをなさるとは書いていない。むしろこのみことばは、私たち教会へのチャレンジと読めないだろうか? そう、私たちはキリストのからだだから、罪人を迷いの道から引き戻すことは、教会がみんなで取り組むべきことである。  ここでも教会がいやしの共同体として機能すべきであることがはっきりする。真理の道から迷い出ている、すなわち、イエスさまについて行くことをせず、イエスさま以外のものについて行っているならば、その人は罪人であり、したがって罪に病んだ「病人」である。その人が回復するために私たちは働く必要がある。異端やカルトにやられてしまっているならば、彼らを教会の共同体からさらっていったその異端なりカルトなりのことをよく知る必要があるし、そんな彼らの「教理」に負けない、論より証拠の愛を実践して示す必要がある。  そういう点で私たちは、この世の魅力を振りまくものたちの存在や動きに無知を決め込んではならない。彼らは執拗に私たちのうちの弱い羊たちを狙ってくる。彼らの作戦を見抜き、彼らから羊たちを取り戻すために祈りをもって力を尽くしていこう。それが私たち、キリストのからだなる教会のなすべきことである。  私たちの信仰の行いは、教会という共同体、キリストのからだなる共同体において、互いの癒やしのために祈ることにおいて実現する。今日学んだとおり、そんな私たちお互いの弱さが覆われ、また迷う身から救い出され、癒やされ、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民としてふさわしく振る舞い、この地をキリストのものとしていく助けができるように、お互いのためにともに祈っていこう。

備えよう、主が来られる時に

聖書箇所;ヤコブの手紙5章7節~12節 メッセージ題目;備えよう、主が来られる時に  アメリカの歴史を代表する政治家、エイブラハム・リンカーンは、大統領になって閣僚を任命するにあたり、ある人物の推薦を受けた。それでその人に面接したが、結局、閣僚に採用しないことを決めた。なぜ採用しないことにしたかと問われ、こう答えたという。「顔が悪すぎる。男は40歳になったら自分の顔に責任を持ちなさい。」  この「男は40歳になったら自分の顔に責任を持て」とは、私のように年齢よりもはるかに若く見られ、したがって人並みの苦労をしていないことがバレバレな人間からしたら、なかなか耳に痛いことばだが、小説家の中島らもは、このことばを受けて、こんなことも言っている。そうか、40になるまでは、顔に責任を持たなくていいのか、とのんきにしていたら、40になったらきっちり、無責任な顔になっているだろう。たしかに顔ほど怖いものはない。  この場合、生きるということは、どんな生き方をしてきたか、そういうことが顔に刻まれて人の目に明らかになるという、40歳というひとつのリミットに向けて生きるということだ、とも言える。そう、どう生きてきたか、それは40(しじゅう)の男なら顔であるように、わかるひとにはしっかりわかってしまうものである。だが、ほんとうのところ、人生は40歳で終わりではない。きょうび、日本は少子高齢化で、あるいは私自身が50にもなったから余計にそう思うのだろうが、40なんてまだまだ、若者の部類のように見えてしまう。人は80、90まで生きるのもざらという時代である。40で生き方の審判を受けるのはいかにも早すぎる。そしてもっと大事なのは、人の生き方を審判するのは人ではない。さばき主なる神さまである、ということ。  先週学んだみことばは、地上で神をも恐れず贅沢にふけった罪人、その不敬虔が、イエスさまを十字架につけたほどの、そんな罪人を待ち受ける、あまりに怖ろしいさばきを語っている。今日のみことばはそれに続くことばで、やはりさばき主なる主の再臨の日を語っているが、こちらはヤコブが書簡を書き送っているその読み手、教会を形成する主にある兄弟姉妹に語ることばである。そんなクリスチャンたちのことを、ヤコブはどのように励まし、また勧めているだろうか? ともに見ていこう。  7節。みことばは私たちクリスチャンに、耐え忍ぶことを教えている。それはいつまでのことか? さばき主なる主が来られる、再臨されるまでのことである。そのように耐え忍ぶべきである私たちにとっての模範が、大地の貴重な実りを待つ農夫であるとみことばは語る。  初めの雨、後の雨、とあるが、これはイスラエルの地域の季節がどうであるかということが前提となっている。日本では季節といえば春、夏、秋、冬だが、イスラエルは雨が降らない「乾季」と、雨に大地が潤される「雨季」の二つの季節となっている。言うまでもなく乾季は雨が降らないので、人も大地もからからに渇く。どんなに日が経っても一向に雨が降らないわけだから、農夫はどれほど忍耐を強いられることだろうか?  しかし、この「雨がまったく降らない」ということは、今後も変わることのない状態ではない。なぜならば時が来れば、創造主なる神さまは大地に秋の雨を降らせてくださり、乾季を終わらせてくださるからである。この、雨期に入る秋の雨、これが「初めの雨」であり、その後春に降る雨が「後の雨」である。このような雨というものは、聖書のみことばによれば、神さまの恵みの象徴である。  農夫たちは、日照りの乾季にも農作業など、しなければならない日々の厳しい仕事に取り組む。しかし、その働きを完成するものは、雨という自然のもたらす神の恵みであり、それが時至ってもたらされるということを知っていなければ、いや、それを現実に見ていない以上、信じていなければ、という方が正確だが、雨は必ず降ると信じていなければ、その激しい環境の中の重労働はあまりにむなしいものとなってしまう。そんな彼らを支える希望は、神さまが時至って、必ず雨をもって大地を潤してくださるという信仰である。  みことばは、あなたがたが忍耐することも、それと同じである、と語る。私たちを取り囲む環境は決して生易しいものではない。この手紙を読んでいた聖徒たちも、時の権力者たちの迫害に晒されながらの、文字どおり命がけの、たいへんな信仰生活を送っていた。  私たちはそれに比べると、いのちこそ安全かもしれないが、恵みを分かち合って励まし合える兄弟姉妹の数はけっして大勢とはいえないし、偶像礼拝をしてこそ当たり前、日曜日は礼拝ではなく仕事をしてこそ当たり前という、日本の環境に生きるしかない。  それだけでも大変なのに、毎日のディボーションの時間を持つにも忙しすぎたり、疲れすぎたりしている。さらに、生活の糧を得る手段である仕事も、スキルの面でも人間関係の面でも厳しく、しかもそのストレスの真っただ中の重労働のすえに得られる生活の糧はわずか、休みもろくに取れないから疲れも抜けない……そのように、苦しみの中にある点では初代教会の信徒たちと立場は同じであり、私たちもまた、ヤコブをとおして与えられるこのみことばの励ましを受け取るべき立場にある。  私たちも毎日、いわば種を蒔く生活をしている。毎日のディボーションを通じて神さまからみことばをお聴きし、そこで命じられたみことばを具体的に守り行い、隣人を愛し、隣人に仕えるという、よい働きをすることで、私たちのうちに生きておられるキリストが伝わるように努力する。ことばを用いても、あるいは無言の行動をとおしても、私たちは努力する。だが、その日々の努力を周りは何とも思っていないことがほとんどではないだろうか。そればかりか、私たちが主にあってよかれと思って語ったことやした行いが悪く受け取られ、嫌われたり、悪口を言いふらされたりする。私たちの人生に雨ひとつふらない乾季が、これでもか、と続くようである。  それでも私たちが心折れず、絶望に陥らないのは、やがてその努力が報いられる、神の恵みに潤された大地が豊かな実りをつけるがごとき、天の御国に入れていただけるという信仰が確かにあるからである。その天国に入るにあたって、私たちがイエスさまを信じてここまで来たことを堂々と言えるならば、どんなに素晴らしいことだろうか。その日を目指して、今日のあらゆることに忍耐するのである。農夫が、乾季が来る日も来る日も続こうとも心折れないのは、初めの雨と後の雨を神さまが必ずもたらしてくださるからだと知っているように、私たちもやがて入れていただける天国の恵みを覚えて、今日の働きに取り組むことができるからである。  8節。だから私たちは心を強くするのである。主は近い。それはイエスさまが天に上げられて以来、世々の聖徒たちがつねに意識し、生きていくうえでの真実であった。振り返れば2000年にわたり、主はまだこの時を来たらせてはおられなかった。それで、楽天的な人は、これからもまだまだ世は終わらない、と思うかもしれない。しかし、私たちは今の世界を見て思わないだろうか? あまりにおかしくなっていないだろうか? そんな世相を見るにつけ、主は近い、と意識しないだろうか?   主は近い。しかし、その意識を持ちつづけることは、私たちを厭世的にするのではない。むしろもっと積極的に、だから私たちは主の御前に徹底して生きよう、というやる気を起こさせることである。すぐにでも来られる主の御前に恥ずかしくなく立てるように、しっかり生きよう、そうなってしかるべきである。  さて、さばき主を意識するならば、私たちがしてはならないことについても、今日のみことばは2つ語っている。まず9節、文句を言い合ってはいけない、ということである。これは、人を罪に定めてさばくようなことを、教会という主のからだなる共同体においてお互いしてはいけない、ということである。  なぜ、聖徒は人をさばくということをしてはいけないのか? それは、だれもがほんとうのさばき主のさばきに服することになっていて、それは人様を罪に定めてさばく人も例外ではないから、ということである。人を罪に定める、さばくということをすることとは、すなわち、自分は人をさばけるだけの正しい人、きよい人だとうぬぼれていることであり、また同時に、まことのさばき主なる神さまになり代わってさばき主の座に座ることである。どれほど傲慢なことだろうか?  しかし、この罪は、神を神とする、聖書のみことばがまことであると告白するような人は特に陥りやすい罠である。新約聖書の福音書には、イエスさまがパリサイ人のことを糾弾されるみことばがこれでもか、と登場するが、あれは、律法主義ではなくて信仰によって救われた私たちクリスチャンは、こんないけ好かないパリサイ人のようでなくてよかった、と、私たちが安心するために書かれているのだろうか? それはちがうだろう。むしろ、神の恵みのゆえに信仰によって救っていただいたはずの私たちが、聖書のみことばを盾にして人をさばくようなパリサイ人になりかねないことを、これでもかと警告しておられるからではないだろうか?   ことばを選ばず申しあげれば、私たちは現代のパリサイ人である。人をさばくことで優越感を覚え、もっといえば快感を覚える存在である。いけ好かないのは私たち自身である。しかし、パリサイ人からもパウロのような人が出た。私たちはパウロがそうしたように、私たちは信仰のゆえに恵みによって救われた、行いによるのはない、と自分自身が信じ、クリスチャンたちにそう呼びかける人である。  正しいみことばを「所有している」ことで慢心するのは、自分の義に拠り頼んでいる証拠である。いわんやそのみことばを人様をさばくための道具にするなど、もってのほかである。そうではなく、私のようなこんな罪人のことさえも救ってくださった、神の恵みにのみ拠り頼むべき存在、それが私たちクリスチャンである。私たちの本来の罪深さを思うならば、どうして人様のことを罪に定め、さばく資格などあろうものか?  もうひとつ、みことばが戒めていること、それは12節にあるとおり「誓う」ことである。これは結婚式の新郎新婦や、牧師按手を受ける献身者のように、神と人の前に責任を果たすべく、厳かに約束することを言っているのではない。そういうことと本質的に異なることである。  「誓う」ことがさばき主のさばきにあうことであると警告されているのは、これが「文句を言い合う」ことと本質的に同じだからである。つまり、人間の分際で全能の主の座にのし上がることだからである。特に「誓う」ということは、こういうことは必ず起こる、と、神の名さえ用いて自分の名を高める行為である。これは十戒で戒められている「神の御名をみだりに口にする」行為である。  これは私自身のみっともない経験の分かち合いだが、わかっていただける実例だと思うので、恥を忍んでお伝えする。高校1年生のとき、私は肺の病気の入院をとおして、それまでの人生のすべてが神さまの恵みであることを知って、ものすごくうれしくなった。この体験を私は、私の入院と手術を覚えて一生懸命祈ってくださった教会のみなさまに、礼拝中の「証し」という形でお話ししたほどだった。  具体的に言えば、両方の肺を同時に手術するような大掛かりなものになるところだったのが、片方の肺を軽く手術するだけで済んだ、同時に入院した病棟が小児科の病棟に回され、おいしい病院食を食べてお友だちができるなどあまりに楽しかった、そういうことになったのは、神さまの恵みによることだったと思い至った、ということだったのだが、問題はその先、これほどまでに神さまがよくしてくださるならば、私の人生はもっと上向きになるはずだ、と考え、当時私は学年で後ろからすぐに数えられるほど成績が悪かったが、神さまが味方なら絶対に次の試験はいい成績が取れる、と、周りにそう言って回った。  しかしふたを開けてみると、成績は相変わらず悪いままだった。理由ははっきりしていた。勉強をしなかったからだった。当たり前である。しかし、この悪い成績という現実を目の前にしてくよくよしていたとき、聖書のみことばを開くと書いてあった。「一切誓ってはならない。」私は砕かれた。そうだ、私は誓うという罪を犯してしまった。  今振り返ってみると、私の何が悪かったかはわかる。私が夢見ていたものは、「キリストがたたえられること」ではなかった。むしろ、「キリストを信じている『自分』がたたえられること」だった。そんな自分がよい入院生活を送れたのは完全に神さまの恵みであり、御名がほめたたえられることであったのに、私は勘違いもはなはだしく、だいいち傲慢だった。  というわけで、私たちは主のわざを行う歩みの中で、文句を言ったり、誓ったりすることで主のみこころを損なう誘惑にさらされている弱い者であることを、謙遜に認める必要がある。しかし、最後まで耐え忍ぶものは救われる。10節、11節を読もう。聖書は、忍耐した人たちの記録である。特にここでは、そのような信仰の先達を代表する立場として「預言者」という立場を挙げている。預言者とは読んで字のごとく「主のみことばを預かる者」である。お預かりした主のみことばをイスラエルの民の代表として語ったのが預言者だが、私たちもまた、日々の主との交わりの中でみことばをいただき、その生活において、ことばと行いをとおしてみことばをこの世に宣べ伝えるものである。その点で私たちも預言者である。  そんな私たちは、預言者がときに理不尽な目にあって苦しんだように、苦しみの中に置かれよう。中にはここで例に挙がっているヨブのごとく、答えのない中をいつまでもぐるぐると回らされる不条理を体験するかもしれない。しかしそんな私たちが覚えておくべきことがある。それはこの11節のみことばが語るとおり、「主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる」ということである。  信仰の鑑だったヨブも苦しみの中でさらに親友たちから責められ、神さまに対してつぶやくことばを口にしてしまった。しかしその苦しみの中でヨブはほんとうの意味で神さまに出会った。それは「慈愛に富み、あわれみに満ちておられる」神さまだった。  ヨブだけではない。主に選ばれ、用いられた主の働き人はことごとく、苦しみの中にあってもなお、慈愛に富み、あわれみに満ちておられる主との交わりをとおして、励ましと慰めをいただき、希望を失わなかった。やがて来る初めの雨と後の雨のような、神の恵みに満ちた天の御国に入れられる日、完全に苦しみから解き放たれる日をはるかに望み見ることができていたのである。  私たちもこの地上でまだしばらくの間、苦しむ日が続くかもしれない。しかし私たちはやがてともに、恵みの雨に潤され、この世の苦しみが報われる日が来る。主が来てくださり、その恵みの日を来たらせてくださるのである。その日をともに望み見つつ、失望しないで働きつづける恵みをいただけるように祈っていこう。

金持ちとはだれか

聖書箇所;ヤコブの手紙5章1節~6節 メッセージ題目;「金持ちとはだれか」  多くの人は、お金持ちになることに憧れ、またそうなれるように努力する。しかし、お金持ちというものはそんなに憧れるべきものなのだろうか? 聖書のみことばを見ると、必ずしもそうではないことがわかる。  本日の箇所は、お金持ちに対する警告である。1節のみことばからして「金持ちたちよ、よく聞きなさい」ということばから始まっている。「迫り来る自分たちの不幸を思って、泣き叫びなさい」、穏やかではないが、これが聖書のメッセージである。  もちろん、お金持ちになることが神さまの祝福のひとつであることは、聖書も語ってきたとおりである。ヨブ記のヨブがそうだったし、ダビデにしても、ソロモンにしてもそうだろう。しかし、それは特別なケースであって、だれもがお金持ちになるわけではない。むしろ神の民は、お金持ち、権力者によって虐げられてきた弱者である。  イエスさまのたとえ話に、金持ちとラザロ、という話がある。金持ちの家の前で物乞いをしていたラザロは、死んで天国に行くが、金持ちは地獄に落ちてしまう、という話。また、イエスさまは、金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴をくぐるほうがもっとやさしい、とおっしゃった。まさしく「不可能」というレベルである。  そういう前提でこのヤコブのことばを聞くと、金持ちになった以上、服するべきさばきに服さなければならないというように思えてくる。すると、もし自分がお金持ちだという自覚のある方、人からお金持ちだと言われている方は、もうだめなのだろうか? 読み進めていこう。  2節と3節。金持ちが後生大事にしている富は、腐っている。自分のことを立派に見せている服は、どんなに立派でも、実は虫に食い荒らされている。私たちはタンスに防虫剤を吊るせば虫に食われることはなくなると考えるが、ほんとうのところ、防虫剤を吊るそうが何をしようが、その服はすでに虫に食い荒らされている。  そして、金銀はさびている。さびが彼らを責め、その肉を火のように食い尽くす。考えるだけでも怖ろしいことだが、彼らがなぜそのような目にあうのかというと、「終わりの日に財を蓄えた」からだという。つまり、もう神さまはすでに終わりの日をもたらしておられる、その終わりの日に神さまを無視して、役にも立たない富や財を蓄えてきたからだ、ということである。  その人はどうしなければならなかったのだろうか? イエスさまはお教えになった。マタイの福音書6章19節から21節。自分のために蓄えるのではなく、天に蓄えればよかった。つまり、神の国とその義のために用いればよかったのである。思いつくところではいろいろあろう。教会や宣教の働きに献金するとか、貧しい人、困っている人のために用いるとか。いずれにせよ、自分の快楽のために用いない、自分さえよければという用い方をしないことである。  5節のみことばの表現を借りれば、自分の心を太らせるような財の用い方をしている人は、どういう生き方をしてきただろうか? 4節。自分が経営する組織、こんにちの日本なら会社や法人と言い換えてもいいだろう、で働く者たちが重労働にあえいでいるのに、ろくに養われない。ブラックな職場である。そんな労働者たちは神さまに叫んでいる。まさに、エジプトの横暴に耐えかねて神さまに叫んだイスラエルのようである。つまりこの場合、金持ちは神さまのみこころをいたく踏みにじる権力者と化しているわけである。  みなさまも職場でたいへんな思いをなさっていないだろうか? そのとき、主に叫んだ経験はないだろうか? 安心していただきたい。主は必ず、その叫びを覚えておられる。そして、その叫びに応えてくださる。まさにエジプトに報いられたようにである。エジプトの手からイスラエルをお救いになった神さまの御手は、今も変わらずに私たちのことを導いてくださる。  しかし私たちは、そのような主人に自分で復讐をすべきではない。これは、ローマ人への手紙12章19節と20節にあるとおりである。わざと手抜きして働いたりして、組織に損失をもたらすようなことをしてはいけない。むしろそのようなときこそ、心身の健康が許すかぎりかぎりまじめに働こう。  そうすることが相手の頭に燃える炭火を積む、とある。炭火とはイザヤ書6章のみことばにおいては、天の御国で燃やされているものであり、そこから取られた火が唇にあてられるとその人の不義はきよめられ、神のことばを宣べ伝えるにふさわしいものとされる。同じことはヨハネの福音書にも見られ、イエスさまの裁判を見守るペテロのそばで赤々と燃えていた炭火は、ペテロが土壇場になってイエスさまを裏切る罪人であることを照らし出した。  しかしのちにペテロは復活のイエスさまに会うが、そのときイエスさまはやはり燃える炭火で魚を焼いて、傷心のペテロのために朝ごはんを用意してくださり、まことの羊飼いとしての使命を回復させてくださった。このときイエスさまが用いられたものも炭火だったわけである。炭火はそのように、人の罪を示し、悔い改めに導く聖霊の働きを象徴している。だから、相手の頭に炭火を積むことは一見すると相手を焼き滅ぼすようなさばきを加えることに見えるが、ほんとうのところ、相手が罪を自覚させられて悔い改め、神さまのみこころに沿う人になるということにつながることである。  だから私たちはどんな環境でも忠実に働くことが求められるが、心身の健康が許すかぎり、これは大事。労働の結果心身の健康を壊してしまったら元も子もない。私たちの善意を悪で返す権力者はいるものである。今日の箇所で問題にしている「金持ち」とは、まさにこのタイプの悪辣な権力者、自分を肥え太らせるためならば人がどうなってもいい人のことを言っている。  そうやって人から搾取する者のすることは何か、といえば、5節にあるとおり。肥え太らせるのは「心」である。ごちそうをたらふくたべてからだが太ったら、ジムにでも行けばいい。サプリでも飲めばいい。少なくともからだは引き締まる。しかし、からだが格好よく引き締まろうとも、心に贅肉がつきまくっているという事実に変わりはない。人を人とも思わないくらい、人を愛せなくなってしまうくらい、心が肥え太って鈍くなってしまっているわけである。  屠られる日のために、とあるが、そのように贅沢のかぎりを尽くして肥え太った者は、終わりの日にほふられる。言い換えれば、永遠の死へと突き落とされる。自分のために富んでも、神の前に富まなかった生き方、その生き方がことごとくさばきにあうわけである。  さて、6節のみことばに注目しよう。金持ちの人を人と思わない生き方とは、人を不義に定めて殺す生き方だということである。金持ちに雇われる立場の人が、あえて金持ちに歯向かうことがあるだろうか? こうして、金持ちの横暴に身をさらすしかなくなり、ついにはいのちを落とす。私も高校時代の親友が働きすぎで過労死をしたが、過労死させられるような人は、まさにこの横暴の中に抵抗もできずに身をさらしつづけた、やさしい人ではないかと考える。  さて、金持ちが雇用するような人はたいていひとりではなく、少なくとも2人以上、複数だろう。しかしこのみことばを見ると、「正しい人」、「彼」と、単数になっている。これは注目すべきことである。つまり、これはひとりの人を指すと考えるべきである。  もう、おわかりだろう。同じヤコブの手紙2章6節と7節、金持ちにおもねって貧しい人を差別する教会を糾弾するみことばであるが、このように金持ちとは、主の御名をけがす存在である。そのように、主の御名をけがすことにおける究極の形、それは神の御子イエスさまを十字架につけることでなくて何だろうか。そう、イエスさまという何の罪もない正しい方を、不義に定めて殺した、イエスさまはそのような者たちに一切抵抗されず、粛々と十字架を背負われた、この6節のみことばは、時の権力者たちがイエスさまを十字架につけたことを語っているのである。  さあ、そうなると、このみことばは「イエスさまを十字架につける者」という視点で問い直す必要がある。今日学んでいるみことばは、果たして、金持ちを自認する人、人から金持ちと思われている人だけのものだろうか?   私たちも多かれ少なかれ、腐る富、虫に食われる衣、さびる金銀を後生大事に取っておく傾向がないだろうか? 私たちが肉に属する生き方をやめないなら、どうしてもこの世のものに執着するようになってしまう。その点で私たちは、世の終わりを意識もしないで自分を肥え太らせる金持ちと五十歩百歩である。  そうだとすると、私たちは客観的に見て金持ちであろうとなかろうと、自分の身に不幸が迫っていることを嫌でも考えなければならない。不幸とは何か? 持っていたものがすべて滅ぼされ、下手をすると自分まで永遠に滅ぼされかねない、ということである。  しかし、あらためて1節のみことばを見てみよう。このみことばは何と命じているか? そう、「泣き叫びなさい」である。「金持ちたちよ、よく聞きなさい。あなたがたに不幸が迫っているのはもはや避けられないから、その不幸を粛々と受け入れ、地獄に落ちて永遠に苦しみなさい」とは書いていない。「泣き叫びなさい」である。気高い金持ちにふさわしくないほどに、恥も外聞もなく泣き叫びなさい、というわけである。  泣き叫ぶその声はだれが聞くのだろうか? そう、神さまである。神さま、このままでは私は救われません! 滅んでしまいます! 私を滅ぼさないでください! 助けてください! その叫びを神さまは必ず聞いてくださる。  泣き叫ぶのは金持ちだけのすることではない。もし私たちが、ふさわしく富を用いていないと気づかされたならば、また、人を人と思わないような行動に出ていたと気づかされたならば、その罪ゆえにイエスさまが十字架におかかりになったと認め、悔い改める必要がある。泣いて叫んで悔い改めるくらいのことをしたっていい。おなかのすいた赤ちゃんが大きな声で泣くように、私たちも生きるために神さまに向かって泣き叫ぶのである。  私が韓国の教会で学んだことはたくさんあるが、その中でも特に学んだことは、神さまの御前に泣き叫ぶように大きな声を上げてお祈りすることである。これは日本のような環境ではなかなか難しいかもしれない。しかし、機会があればどこかで実践してみられることをお勧めする。神さまに実際に声を上げることによってはじめて、神さまがこの切なる叫びを聞いてくださっているということを実感できるようになるからである。論より証拠、ぜひ実践してみていただきたい。  そうして泣き叫ぶ祈りは、私たちの富の用い方、そして人との接し方を変え、ひいてはイエスさまとの関係を変える。イエスさまを十字架につけたほどの罪人にふさわしい、富を用いることにおける罪、人と接することにおける罪、そういった罪が悔い改めに導かれる。ここから私たちの行いが変えられ、行いをもって私たちの信仰が証しされるようになるのである。  何度も繰り返すが、ヤコブの手紙は私たちに対し、行いによって救われるなどと一切語ってはいない。確かにヤコブの手紙は、行いというものを強調してはいるが、それは行いによって救われると語っているわけではない。ただ、まことの信仰はまことの行いを生み出してしかるべきであると語っているわけである。  私たちの富の用い方、また、人間関係のつくり方を振り返ってみよう。私たちはこの箇所で糾弾されている金持ちのことをさばくことができるだろうか? 私たちも多かれ少なかれ同じことをしているならば、悔い改め、天に宝を積む働きをし、また、人々の赦しをいただいてこれまで以上によい関係を築いて働いていこう。そのようにして、この世に生けるイエスさまを証しする働きをするために用いられていこう。

主の晩餐は弟子のしるし

聖書箇所;ヨハネの福音書6章41節~66節 メッセージ題目;主の晩餐は弟子のしるし  先週の水曜日、私たちの愛する兄弟が天の御国に凱旋されました。昨日が兄弟の葬儀でした。このような中で今日私たちは第一主日につき、主の晩餐のひとときを迎えています。さらにここには、いずれこの主の晩餐にあずかるべく、バプテスマの備えをしている姉妹もいます。……こういう状況の中で語るべきはどのみことばだろう、かなり祈って考え、今日、この箇所を選ばせていただきました。  兄弟は生前から、ご自身のご葬儀をどのようにするか、ということをよく語っていらっしゃいました。それは、死からのよみがえり、そして永遠のいのちに対する信仰を、堅く保っていらっしゃったからでした。死で終わりではない。おそらく、日本のほとんどの人は、死んだらどうなるかということを知りません。知らないということは、死ということを大いに怖れるという結果を招きます。だから、普通お葬式は悲しく暗く沈んでいます。  しかし、昨日の告別式はまったくそうではありませんでした。告別式をとおし、兄弟が主のみもとに召され、いま永遠のいのちの安息に憩っておられることを、私たちは確信しました。私たちには寂しさはもちろんありましたが、しかし平安がありました。  そう言えるのは、兄弟にはそれこそ、いまお読みいただいたみことばの44節にあるとおりの、神さまに選んでいただいているという信仰、それゆえに、終わりの日によみがえらされるという信仰があることが、確かなことだからです。イエスさまを信じて義と認められた人は、よみがえって永遠のいのちを受けます。もはや死も苦しみもありません。あるのは滅びることのない喜びだけです。まさに47節が語るとおりです。イエスさまを信じるならば、永遠のいのちを持っています。  しかし、イエスさまは群衆たちの耳に、奇妙に聞こえることもおっしゃいます。48節。わたしはいのちのパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。  それだけではありません。イエスさまはこんなことさえおっしゃっています。53節から58節。これを聞いた人々はパニックになりました。「これはひどいことばだ。」尾山令仁先生の翻訳された現代訳聖書では、このニュアンスを生かす形で、「第一、血なまぐさいし」ということばを挿入しています。ただし、これは別の解釈も可能で、韓国語の聖書では「このことばは難解だ」という意味に表現されています。しかし、ひとつ言えることは、ひどいと思ったにせよ、難しいと思ったにせよ、イエスさまの言わんとしていることがちゃんとわからなかった、ということは確かです。それで、せっかくイエスさまのことを慕ってついてきたというのに、このことばの難解さ、血なまぐささに恐れをなし、というより、俗っぽい言い方をすれば「ドン引き」して、彼らはもう、イエスさまの弟子であることを辞めて去っていってしまいました。  しかし、十二弟子はちゃんと残りました。残って、引きつづきイエスさまのみことばを聴きつづける特権にあずかりました。実は、イエスさまは群衆にお語りになるとき、多くの場合、たとえをもって語られました。それを聴いた人々は、難しい話だけれども何となくありがたい、くらいに思って、ああ、なんだか知らないけれどもいい話を聞いた、とばかりに、帰っていったのではないでしょうか。しかしこのようなみことばの聴き方は、「群衆」の聴き方です。このたびの、イエスさまのことばにつまずいた人たちもそうでした。彼らのことを聖書は「弟子」と言っていますが、イエスさまのことばを皮相的にしかとらえられなかったという点では、「群衆」のレベルにとどまっていました。  「群衆」と「弟子」を分けるものは何でしょうか? イエスさまがたとえで語られた真理の謎を解いていただき、真理をわがものとさせていただく立場になった者、それが「弟子」です。この時代の群衆は、イエスさまのたとえ話の意味を知ろうとすることにそこまでの情熱を傾けなかったため、「弟子」になりきることができませんでした。  さて、それなら、現代における「弟子」とはだれでしょうか?「弟子」というものが、イエスさまのたとえ話の解釈を直接教えていただける立場にあるものと考えるならば、聖書を手にしている人はだれであれ、「弟子」になるように招かれているといえます。なぜならば、聖書を読みさえすれば、難解なイエスさまのたとえのその意味することを、ちゃんと理解することができるからです。  しかし、言うまでもないことですが、聖書という本を持ってさえいれば「弟子」なのではありません。イエスさまのおっしゃるとおりのことを守り行う人、それが弟子ですから、まず、聖書を持っているだけではなくてちゃんと開く、毎日読む、読んで黙想し、生活に適用し、それを実践することで聖書のみことばを具体的に守り行う、毎日のその繰り返しが私たちのことを弟子に育て上げます。  では、私たちは「群衆」にとどまることと、「弟子」の道を進むことと、どちらがよりいいでしょうか? イエスさまのことばに去っていった弟子たちは、もう弟子になんてなりたくない、と思ったわけです。こんにちにおいても、弟子の歩みをわざわざするなんて馬鹿げている、と考える人が少なくありません。そのように生きていれば、いろんなことを我慢しなくていい、好き放題のことをできると考えるでしょう。  しかし、「弟子」の歩みをする人は、少なくとも、まことのいのちなるイエスさまの弟子でありつづけることゆえに、だれにも奪えないほんものの喜びを日々体験しつづけます。イエスさまとともにいる喜び、イエスさまにならって隣人を愛し仕える喜び……その喜びを日々体験できるのは、その人が「弟子」だからです。その歩みを喜べる人は、好き放題に生きることのむなしさを知るゆえに、そのような生き方をあえてしようとしません。神と隣人を愛するという、ほんとうに意味のある人生を生きようと一生懸命になります。はたして、どちらがよりよい生き方でしょうか? 申し上げるまでもないことです。  天国に行かれた私たちの愛する兄弟は、ほんとうにイエスさまの弟子だったと思います。兄弟は学校教育という世界で用いられていた方でしたが、学校教育の現場の中で、真に世の中の役に立つ人を育てるために、まず、むなしい人生観に生徒たちが支配されないように、進化論は学校教育に必要だからもちろん教える一方で、創造論の論理を提示することを常としておられたとうかがっています。勇気のいることだったと思います。しかし、兄弟は最後まで聖書の真理に立ち、創造のみわざの確かさを徹底して説く生涯を送られました。  さて、弟子であるということは、イエスさまがこうしてお語りになったことの真の意味を悟らされた人であるということですが、イエスさまはその真理、永遠のいのちを人が得るためにご自身の血と肉を分け与えてくださるということを、十字架で肉を裂かれ、血を流されることによって示してくださいました。そして人は、イエスさまの十字架の死が自分の罪の罰の身代わりであったことを信じ、そしてイエスさまが3日目に復活されて罪と死に永遠に勝利してくださったことを信じることによって、救われ、罪赦され、神の子どもとなり、永遠のいのちをいただき、天国に入れていただけます。  このことを、はっきりわかる形で私たちに示してくださったもの、それが主の晩餐です。「わたしの肉を食べ、血を飲む者に永遠のいのちがある」、これを信じられる人は、十二弟子に匹敵する献身に招かれている人であって、ちょっとやそっとのことでつまずいて去っていく群衆のような人では断じてありません。そして、その弟子の歩みをする人は、第一ペテロ3章21節にあるとおり、バプテスマを受けることをもって主に生涯お従いする誓いを立てた人です。そして、弟子だからイエスさまの血と肉にあずかれる以上、主の晩餐をもってイエスさまのみからだと血潮にあずかる人は、バプテスマをもって生涯主の弟子として歩むことを約束した人なのです。しかし、私は声を大にして申しあげますが、死の弟子として歩むクリスチャンの歩みは、イエスさまがいつもともにいてくださるという、何にも代えがたい歩みです。いま、その喜びがいまひとつ湧きあがらないという方も、主の晩餐に招かれています。召しあがってください。主が生きてうちに働いてくださるという、まさにそのことを、どうか体験していただきたいのです。  ここには、バプテスマの準備を進めておられる方がいます。その方にとって今日の主の晩餐が、どうか生涯最後の「見学」となり、来月にはバプテスマをお受けになって、ともに主の晩餐にあずかられるように、教会のみなさまで祈っていただければと思います。  主の晩餐は弟子の証しです。私は弟子です。私は弟子として歩みます。どうか弟子として歩ませてください。その切なる祈りをもって、今日の晩餐に臨みましょう。

みこころにかなう計画

聖書箇所;ヤコブの手紙4章13節~17節 メッセージ題目;「みこころにかなう計画」  今日は、メッセージの内容をもとに、あとで交わりの時間にともに分かち合いのときをお持ちしたいと思う。週報の、いつもなら牧会コラムを掲載しているページに、交わりの時間に考えていただくための質問を掲載させていただいた。今日のメッセージは、ここに掲載したことを具体的に考えながら聴いていただきたい。そして、今日、みことばをとおして示されたことがあるなら、どうかあとでともに分かち合い、せめて今日から次の主日の一週間の間だけでもまず、祈り合ってまいりたい。  今日のテーマは、「みこころにかなう計画」である。  みなさまは「計画」ということばを聞くと、どんなお気持ちになるだろうか?「さあ、何かの取り組みの前には必ず、しっかりした計画を立てるぞ! 計画大好き!」と、わくわくしてくるだろうか?「いや、計画を立てるなんて苦手だ、実行するのはもっと苦手だ!」となるだろうか? 私は残念ながら、苦手な方。むかしから計画を立てるのも、実行するのも得意ではなかった。それだけに計画を立て、それを実行することに成功したときのうれしさといったらない。でも、この教会を牧会するようになって11年になるが、計画を立てたり実行したりするのが苦手、などと言っている場合ではない。  さて、今日のみことばを読むと、のっけからかなり衝撃的なみことばとなっている。13節、14節。  13節のようなことばは、この世界に住む人は普通に口にしていることではないだろうか? 商売という経済活動で口に糊することの何がいけないというのだろうか? しかし14節を読むと、そのような計画を立てる人間がどんなにむなしい存在かということを説いている。それはそうかもしれないが、それを言っちゃあおしめえよ、とならないだろうか? 私たちはいつかこの地上からいなくなるのですから。  現にこの時代のクリスチャンたちは、迫害に絶えず囲まれていて、明日をも知れぬ状態であった。いつ殺されるかわからない。のんきに商売のことを考えている場合ではない。そしてこんにちの私たちも、ついこのあいだ、南海トラフ騒ぎがあったばかりである。いつか死ぬとは分かっているけれども、いつ死ぬかわからない。しかし、そんなことを意識していたら、明日の計画を立てることさえためらってしまう。みことばは、人はすべからく計画を立てるのをやめるべきである、と言っているとでもいうのだろうか? 計画を立てることがそんなにいけないことなのだろうか?  しかし、みことばには続きがある。15節。大前提が書かれている。「主のみこころであれば、私たちは生きていて」。この告白がつねに伴うのが、私たちクリスチャンである。主のみこころによって生かされていることを謙遜に認め、そう告白することが、私たちにとっての大前提である。  このみことばと深い関連を持ったことがらを、イエスさまはお話しになっていらっしゃる。ルカの福音書12章13節から21節。  遺産相続で取り分を多くするためにイエスさまを利用しようという者がいたが、イエスさまはその人の心の中を見抜き、それは神の前に富む態度ではないと喝破された。このみことばは、経済的な祝福を求めることが真理とばかりに駆り立てることの愚かさを語っている。もし、人が大いに富んだとしても、それは富ませてくださった神さまの恵みなのであり、それを自分の快楽のために用いることなど言語道断である。その者のいのちは神さまの御手のうちにある以上、神を認め、神の栄光をあらわすことを、富や財産の用い方においても実践すべきであった。  こういう計画を立ててはならないわけである。しかし聖書を見ると、計画を立てることが聖徒の模範として示されている箇所がたくさんあらわれている。エジプトの総理大臣に抜擢されたヨセフは、世界が飢饉に陥らないように食糧計画を立てた。ヨシュアはカナンに進攻する際作戦を立てたが、これも「計画」のひとつといえるだろう。ダビデはソロモンに神殿建築の計画を授けている。みな、計画である。  しかし、これらの計画が聖書的に見て模範であるのはなぜかはもうお分かりだろう。そう、これらはみな、「主のみこころ」が成し遂げられるための計画だからである。  もうひとつみことばを見てみたい。ピリピ人への手紙2章13節。クリスチャンにとってみこころにかなった志(こころざし)を立てること、その志にしたがってことを行うことは、祝福のわざであることをこのみことばは語る。しかし、志というものは、人の側で主体的に立てるものでもある。行ってみればクリスチャンにとっての志とは、神さまと人との「合作」であるといえるだろう。その志はやみくもに行動することで成し遂げられるのではなく、人が祈りのうちに「計画」を立てることによって成し遂げられるのではないだろうか。ヨセフの食糧計画、ヨシュアのカナン進攻の計画、ダビデの神殿建築の計画、みな、神と人との「合作」といえるものだった。  そういうわけで私たちも計画を立てる。ところが、場合によっては、16節のみことばのような警告を受けるような計画を立てることにもなりかねない。これはどういうことか? 神さまがその能力を与えてもいらっしゃらないのに、「自分にはこんなことができるぞ」とばかりに公言する。このことは、同じヤコブの手紙で警告され、イエスさまも警告しておられることと同じである。5章12節。マタイの福音書5章34節から37節。  そう、「誓う」という行為。しかし、たとえば結婚式で、神と人の前に「病めるときも、健やかなるときも、この人を愛することを誓います」という行為もいけないことになるのか。そうではない。要は「主にあって『誓う』」ということであるかどうか。14節にあるとおり、明日のことがわからないのが私たち人間であり、そういう限定的な被造物にすぎない分際で、おいそれと「誓う」という行為などできないものである。  そういう行為をしてはならないのは、自分が、何もかもお見通しで、未来に至るまでみこころの計画を立てておられる神さまになり代わることだからである。そう、神さまは創造のはじめから世の終わりに至るまで、確固たる計画を立てておられることは、神のみことばである聖書を読めばわかることである。人間が勝手に計画を立てることは、その確固たる計画を立てておられる神さまに対する挑戦であり、越権行為である。神さまはそのようなものに怒りを発しておられる。  そのような流れで17節を読むと、なすべき正しいこととは何か、それを行わないとはどういうことかがわかる。そう、なすべき正しいこととは、「主のみこころであれば」という前提のもと、へりくだって、主のみこころを絶えず求め、計画を着実に立てていくことである。だから、その正しいことを行わない罪とは、主のみこころを求めもせずに自分勝手に計画を立て、それを行おうとすることである。  先週学んだみことばに、悪い動機で願うものは与えられない、というくだりがあった。しかし考えてみよう。悪い動機、すなわちみこころから外れた動機で求めたものが与えられないということは、むしろその人にとって祝福と言えることではないだろうか? むしろ、みこころから外れたものをその人が手に入れることが、その人にとってはわざわいと言えるだろう。  計画を立てることにおいても同じことが言える。神さまに祈りもしないで立てた計画が、あとでどんなに祈ってみたところでなることがなくても、不思議ではない。そのとき、その計画がならないことを、神さま、こんなに祈っているのになぜかなえていただけないんですか! と恨み言を言ってみたところで始まらない。最初からよく祈らずに、つまりみこころと確信するだけの確信も平安もなしに始めたことだからである。  今日はともに、少し立ち止まって祈ってみたい。私たちはおそらく、いろいろと求めるべきものがあるだろう。仕事の特定のスキルだろうか? 仕事のための新たな資格だろうか? はたまた、新たな職場だろうか? 配偶者だろうか?  みな、すばらしいものにちがいない。しかし、それらのものがなぜ自分に必要なのだろうか? 神さまのみこころは、ほんとうにそういったものを私たちに与えてくださることなのだろうか?   実際、それらのものを求めることにおいて、平安があるだろうか? みことばに裏づけられた確信があるだろうか? そしてその祈りの課題は、私たち教会でともに共有して祈ってもらえているだろうか? その祈りは必ずかなえていただけるという、御霊による確信をいただいているだろうか?  みこころにかなう計画というものは、まずなによりも、神さまが与えてくださっているという確信が伴ってくるものである。そういう人には平安がある。「それ、ほんとうにみこころですか?」と突っ込まれても、動揺せずに確信をもって、「はい、みこころです」と答えることができる。裏づけとなるみことばもあれば、キリストのからだなる教会、仲間のクリスチャンたちにも同様の確信、導きが与えられ、その計画がなるようにみんな積極的に祈ってくれる。  最後に、私がこの教会に導かれたことが、ほかならぬみこころを求めつつ立てた計画の実現だったことをお証しして、メッセージを締めくくりたい。  私がイエスさまを信じ、教会員になった母教会、北本福音キリスト教会は、特定の教派に所属しない、単立の教会だった。しかし同時に、幼児洗礼を施さず、また浸礼によるバプテスマをもって洗礼を施していた。また、役員会もあったが、事実上の最高意思決定機関は、年に1回行われる、全教会員が集まって合議する総会だった。そう考えると、北本福音キリスト教会の教会形成は、バプテスト教会のそれだった。ただ、バプテストを標榜していなかっただけであり、実質バプテストだった。  のちに私は韓国教会から学ぶことで日本の教会を元気にしたい思いで、韓国の長老派の神学校に学んだ。神学生としての奉仕教会も同じ教派の教会である。その長老派の環境で私は、ひとことでまとめると「神の御前で徹底して生きる」ことをモットーとした長老派の根幹をなすカルヴァン主義に共鳴し、これが生涯目指すべきものという確信に至った。  しかし、私はいずれ日本に戻らなければならない。だが、母教会は主任牧師が立てられて間もなかった時期で、私の帰る場所はなかった。私はどこの教会、あるいは教団教派に行くべきか、『キリスト教年鑑』を購入して韓国の神学校に持ち込み、それをしょっちゅう眺めては祈っていた。  その結果、あることをきっかけに実に理想的な教会につながった。もともと、保守バプテスト同盟の重鎮だった宣教師の開拓した教会で、カルヴァン主義をもってバプテストの教会を形成する群れだった。その群れは、私が大学生の頃に取り組んでいた子ども伝道、弟子訓練の働きにも先鋭的に取り組むことで、当時日本中の教会から見学に訪れてくるような教会で、私は行ってみてたちまちとりこになり、その教会に所属しながら、神学校の残りの後半を過ごすことになった。その教会の縁で、当時韓国で押しも押されもせぬモデル教会だったサラン教会で学ばせていただくという恵みにもあずかった。  しかし、神学校を卒業して実際にその教会で働きを始めてみると、私は実は牧会者になるには向いてないのではないか、と思わされることばかりが起こり、やがて私は召命観を失ったまま、失意のうちに鬱々として何年間も過ごすこととなった。そんな中、私のことを心配した父が大芝居を打ち、自分は重い病気にかかったから帰って来い、と言い、帰っていかざるを得なくなって実家に戻り、地元の教会に厄介になることになったが、そこでも召命が回復することはなかった。  そんな私はしかし、韓国の神学校に推薦してくださった宣教師の開拓教会を、伝道師という肩書で手伝うことになった。妻ともその開拓教会の働きを通じて出会い、結婚したり、試験を受けて牧師の資格もいただいたりと、働き人として大きく前進することになったが、私はほんらい、韓国で学んだのは、日本の教会を元気にするため、すなわち日本宣教がおおもとのビジョンとして与えられていた人間である。そして妻もまた、日本宣教のビジョンをいだいて訓練を受け、来日したわけである。だがその開拓教会は韓国語で礼拝を行い、お昼には韓国料理を食べ、したがって韓国人ばかりが集まる群れであって、私は韓国語ができる日本人であったためにある程度の働きはできたものの、所詮は「小間使い」のようなものであった。  そのような下働きのような働きをしていたころ、私にはいちどでいいからやってみたいことがあった。それは「韓国での日本語礼拝の牧会」であった。  私は下の娘が生まれたタイミングで、妻と相談し、足かけ7年にわたる韓国人教会の働きを辞めることになったが、なんと渡りに船で、ちょうどそのとき、日本語礼拝部の牧師を募集している教会がソウルにあって、私どもは韓国に引っ越した。  しかし、この働きは長くできるものではないことはわかっていた。やはり私どもにとっての召命は、日本宣教であることを確信していたからである。私は神学生時代の頃のように、またいろいろな教会のことを調べながら祈りはじめた。その中でも、神学生時代に共鳴したカルヴァン主義バプテストの群れである「保守バプテスト同盟」など特に自分の召命に照らして向いているのではないか、と考えるようになった。  そのような中でお話しをいただいたのが、この水戸第一聖書バプテスト教会だった。保守バプテスト同盟の教会。ここに、神学生時代以来の長年の祈りがついにかなうことになった。そして10年以上にわたってここでお働きすることが許されていることに、主の立てさせてくださった計画を思わずにいられない。また一方で、人間的に立てた計画がならなかったことも、これまでの人生を振り返ってみるとどんなに多かったかを思う。しかし、その人間的な計画がならなかったのは、神さまの恵みであった。それがそのとおりになっていたら、少なくとも今、茨城でみなさまとともに味わっている目海にあずかることはできなかった。  あらためて、ピリピ人への手紙2章13節のみことばをお読みしよう。みなさまが主にあって確信しているみこころの計画はどうだろうか? 祈って考えていただきたい。それがみこころにかなう以上、成し遂げられるように、自分のために、そして、お互いのために祈っていこう。

平和をつくるために

聖書箇所;ヤコブの手紙4章1節〜12節 メッセージ題目;「平和をつくるために」  先週の15日、日本は終戦記念日を迎えた。1945年8月15日、昭和天皇のスピーチがラジオ放送され、日本国民が敗戦を知った日である。しかしこの日はところ変われば、まったく違う意味を持つ。韓国なら何の日だろうか? 光復節といい、同じ1945年8月15日、日本の支配から脱したことを記念する日である。  このような、戦争を記念することにおいて世間がデリケートになっているさなか、パリオリンピックのメダリストが、戦争の記念館を訪問したいと発言して物議をかもした。その反響が韓国や中国のような国に及んでいるのを見ると、つくづく、このようなことを語ることの難しさを痛感するものである。  私は韓国人と国際結婚をしたほか、韓国とのつながりを人一倍持ちつづけてきた立場から、日本は韓国と平和を保ってほしいと願うし、また、同じように世界が平和でいてほしいと願う。それはクリスチャンにかぎらず、人であるならばだれもが願うべきことだろう。  私たちクリスチャンは、イエスさまから、平和をつくる人は幸いです、その人は神の子と呼ばれるからです、と言っていただいている存在である。イエスさまを信じて神の子にしていただいているならば、主が願っていらっしゃるように、平和を愛するのみならず、平和をつくり出してしかるべきである。それでは、私たちはどのようにして平和をつくるのだろうか? 今日のみことばはそのことを語っている。  1節。みことばは、なぜ人は戦い、争うのか、それはその人の欲望が、戦いたいと願うから、争いたいと願うから、と喝破する。何か人のせい、環境のせいではない、自分のせいで戦い、争うのである。  2節。その、戦い、争う欲望はどこから出てくるのかが語られている。そう、何ものかを欲しがっても、それが手に入れられない場合、戦ったり、争ったりする。世界で起きている戦争や紛争など、まさに領土や財産を手に入れようとしての争いだろう。まさにそれゆえの破壊と人殺し、それが戦争、紛争である。  しかし、この「人殺し」というものは、実際に人のことをあやめるという行動に出なくても、私たちがしてしまう罪であることを、イエスさまは言っておられる(マタイ5:22、23)。主にある兄弟に「おまえは馬鹿だ」と腹を立てることが人殺しであり、それは最高のさばきを受けて地獄ゆきがふさわしい、と。考えてみよう。私たちは欲しいものが自分のものにならないと、「いいなー」はまだしも、「不公平だ」とか「けち」とか「あいつばかりいい思いして」とか、人を引き下げるようなことを思ったり、口にしたりしないだろうか。  そういう態度は神さまの御前で一切正当化されない。なぜそのようなことを言ったりしてはいけないか。それは、神さまが愛してやまない存在をさばく、すなわち、神さまの愛のみこころをかぎりなく粗末にすることだからである。言い換えれば、神さまのみこころを傷つけることである。この、さばくということの害悪については、あとであらためて学んでみたい。  2節の続きを読むと、願っても欲しいものが手に入らないのは、求めないからだ、とある。神さまは必要とあらば必ずくださるのに、祈り求めないから、もらえるものももらえなくなる。  しかし、祈りはしたものの、手に入らない場合もある。それは3節で語っているとおりである。悪い動機、肉的な動機で願っているから、というわけである。私たちがみこころにかなっていると思って祈り求めているものが、実は神さまのみこころと関係ない、自分の肉欲でしかなかったということは案外あるものである。もし、祈り求めている対象がそういうものだったら、それを手に入れるために、あくどい手段を選ぶことも辞さないだろう。しかしそうなるとそれはもはや、祈って求めていることにはならない。  4節を見てみよう。このような自己中心の祈りは、世を愛することであり、それは神に敵対すること、節操のないことであると語る。しかし私たちは考えないだろうか? ヨハネ3章16節のみことばはたしかに、神はひとり子イエスさまをくださるほどにこの世を愛された、神さまがこの世を愛しておられるのに、私たちはこの世を愛してはならないのか?  しかし、ここでいう「世を愛する」というのは、「神の愛」ではない。聖書を原語で読むとフィレオーの愛、すなわちもとが兄弟愛を意味することばだから、「世の仲間になる」こととでも解釈すればいいだろう。このみことばではそれを「世の友となる」と言い換えている。つまり、神さまのみこころを知って、神さまが私たちに必要と定めていらっしゃるものを求める代わりに、世の中の人たちの価値観にしたがって、世の中の人たちがあたりまえのように求めているものを求めること、あたかもそれが神さまのみこころであるかのように振る舞うことを、厳しく戒めているわけである。  世はそもそも、神さまにお従いすることを選ばない。少しでも神さまのみこころが漂うように思えたら、たちどころに拒否する。それが世の中であるのだから、私たちはもしかしたら、世の人たちから嫌われたくない一心で、いろいろな面で妥協したりしていないだろうか。「いや、そのようにして自分はこの世にイエスさまを証ししている」とでも言うのだろうか。しかしそれでも、実際はこの世に妥協している点では変わらない。  この世に妥協することは、イエスさまを証しすることにはならない。なぜならば私たちがこの世に妥協してみせたところで、この世はそれをクリスチャンとして当然の態度と思いこそすれ、私たちのへりくだりを認めてイエスさまを信じたりなどしないからである。私たちがこの世においてイエスさまを証しするために必要なことは、イエスさまを脇に置いてこの世に妥協することではなく、たとえ世の中からどう思われようとも、イエスさまにお従いする態度を徹底することである。 5節のみことばは、神さまが私たちをどう思っていらっしゃるか、ということを語っている。このみことばは2種類の訳し方をすることができ、それはこの聖書本文、また欄外の訳注にそれぞれ書かれているが、まず父なる神さまは、私たちのうちに御霊なる神さまを住まわせてくださっている。そして、私たちのうちに住まわせられた御霊を御父がねたむほど慕っておられる、ということは、欄外の別訳でもわかるとおり、御霊が私たちのことをねたむほど慕っておられる、ということ。  私たちは御霊に満たされるべき存在である。なぜならば、私たちはもはや世の者、肉に属するものではなく、神のもの、キリストのものだからである。御霊に満たされることは、神さまが願っていらっしゃることであり、御霊に満たされるなら、私たちは世の思いではなく、神さまのみこころに従うことができるようになる。御霊なる主は、私たちの努力でどうにもならない、神さまにお従いすることをできるようにしてくださるお方である。  それが、私たちには御霊さまというお方がありながら、神さまのみこころを無視する歩みをするならばどうであろうか。主なる神はねたむ神である。ねたむ、というと、私たちはつい人間的などろどろした、否定的なものととらえがちかもしれないが、自分の愛する人をどこの馬の骨とも知れぬものに取られ、帰ってこないなら、そのとき覚える感情は「ねたみ」といっていいのではないだろうか? 果たして、神さま以上の愛を注ぐことのできる存在がこの世にあるというのか? それを知っていてなお、ほかのものに心を寄せるならば、それは神さまの御怒りを買うべきことである。  しかし、神さまは私たちに怒ってばかりのお方ではない。6節のみことば。神さまは豊かに恵んでくださる。神さまのおおもとのみこころは、救いという最高の恵みを与えていただいた私たちのことを、さらに豊かに恵んでくださることにある。  神さまは私たちを恵みたい。なぜなら、私たちの身代わりに御子イエスさまを十字架につけてくださったほどに、私たちのことを愛してくださっているからである。肉の思い、この世の思いに浮気しないで、ただ一心に神さまに向かう私たちのことを、神さまは恵まずにはいられない。神さまの愛を信頼しよう。  しかし、条件がある。高ぶらないでへりくだることである。高ぶるとは、神さまを認めないで自分中心に振る舞うこと。へりくだるとは、神さまを認めて被造物、神のしもべ、キリストの弟子としての分をわきまえて振る舞うことである。へりくだっているならば、互いを自分よりもまさった人だと心から認めることができ、その態度で生きる人を神さまは喜んでくださる。そのような人を大いに恵んでくださる。  そのために必要なことは何だろうか? 7節。まず、神に従うこと、それから、悪魔に対抗することである。この順番を間違えてはならない。神に従うとは、8節にあるとおり、神に近づくことによって可能となる。8節のみことばは、神に近づく者に神さまが近づいてくださることを語っている。自堕落な生活をやめないでいる人に神さまが近づいてくださることを期待する前に、まず悔い改めて神さまのみもとに行く必要がある。ここでも順番が大事である。神さまに近づくことによって、はじめて悪魔は私たちから去っていく。神さまに近づきもしないならば、悪魔は私たちから去ることはない。  神に近づく者のすることは、このみことばにあるとおり、罪人の手をきよめることである。つまり、間違っている罪深い行動を一切断ち切ることができるように、祈って取り組むことである。しかしそのためには、二心をきよめる、つまり、みこころに従いたい御霊の思いと、肉に従いたい思いが同居するこの二心を、完全に御霊の思いに従わせる。日々の主との交わりは、私たちにそのような献身をもたらす。こうして心が完全に主に向かうことではじめて、肉に従った罪深い行いから人は自由にしていただき、そういう者から悪魔は逃げ去る。  しかしそのための取り組みは生半可なものではない。9節を見よう。これは「いつも喜んでいなさい」というみこころと何ら矛盾しない。変えるべき喜びは、伝道者の書7章6節が語るような喜びである。だらだらとテレビやスマホを眺めて楽になった気になろうとも、神さまとの交わりがないために生まれる大きな危機から救ってはくれない。自分がどんなに大変なところにいるか自覚するなら、泣きわめくしかない。そして、徹底した悔い改めをするしかない。  10節。そのようにしてへりくだる者を主は高くしてくださる。いつ高くされるか、それはこの地上に生きている間のいつかかはわからなくても、世の終わり、新天新地が始まり、イエスさまが王として永遠に統べ治められる御国において、確実に私たちは高く引き上げていただける。それは、それだけ私たちが主のみこころにしたがってへりくだることによって、この地において主のご栄光をあらわすことができたことを、「よくやった。よい忠実なしもべだ」と、主が最大限にほめてくださるからである。  そうすることが平和をつくることにつながるのだが、11節、12節を読んでいただきたい。私たちが平和をつくるうえで妨げとなることがある。それは、互いをさばきあう、ということである。  しかし、人をさばく人は言うかもしれない。これはさばいているわけではない。悪口を言っているわけではない。建設的な批判だ。共同体の益のために必要なことだ。しかし、それは神さまから見れば、人をさばいていることに変わりはない。  人をさばく人がよって立つものは、神のみことばだろう。見なさい、この人はこんなにもみことばから外れている、よってみこころにかなっていない、罪人だ。  しかし、これはみことばを尊重していることではない。人を愛するための定めを人をさばくための定めに引き下げるという、たいへんな罪を犯していることになる。それが、律法をさばき、律法の悪口を言うということである。  私たちがクリスチャンをさばくとすると、そのように兄弟姉妹をさばく行動は、そうか、キリスト教は神のことばを盾に人をさばく宗教なのか、神のことばとはそういう冷たいものなのか、という未信者の印象につながったりしかねない。そうなると、どれほど聖書のみことば、神のおきては間違って受け取られ、そしられることになるだろうか。  人をさばくことはそれだけではない。神さまになり代わってさばき主の座につくという、この上なく不遜な態度を取っていることになる。若者がよく、分不相応な発言をする者に対して、誰だよ、などと言ったりするが、人をさばく者などは、神さまからしたらまさしく「誰だよ」である。  このように、みことばを軽んじ、神さまになり代わる、ここから争いが生じ、平和が壊される。だから、平和をつくる者となるためにまずすることは、神を神とし、みことばに従って人を尊重し、人を愛することである。  私たちはだれからも、神の子と呼んでいただくにふさわしくありたいと願わないだろうか? それは私たちの中に戦う欲望があるかぎりとてもむずかしい。まず、そのような私たちであることを神さまの御前に謙遜に認め、そこから救っていただくべく、神さまのあわれみと恵みを求めていこう。

ひとつの家族

聖書箇所;エペソ人への手紙2:11~22 メッセージ題目;ひとつの家族  先週、私ども一家は韓国に行ってきた。ちょうどいま、パリオリンピックが開かれていて、日本に戻ってニュースを見てみると、いま韓国は愛国心の高揚とともに、反日感情が高まっているともいう。  それはそうかもしれない。今回の韓国滞在で、私は西大門刑務所跡の記念館に行ってきた。西大門刑務所は、日本が韓国を支配していた20世紀初頭につくられた、ソウル市内の一等地にありながらきわめて大きなもので、建築当時のレンガ造りの建物を今に残す。そこには、かつて日本が独立運動家たちに対してどれほど残酷なことをしてきたかがこれでもかと示されていて、その膨大な展示を前にしては、日本人としてさすがにうなだれるほかない。極めつけは、その片隅に今も残る小さな建物である。死刑台の建物。そこはさすがに中にまで入ることはできないが、建物に手で触ることができるほどには近づける。  こういう歴史をしっかり後世に残している国と民族が、日本に対して反感を持たないほうがおかしいと考えるべきであろう。ときどき日本では、韓国は反日教育を行なっていると批判する人がいるが、そういう批判は韓国の人にしてみれば大きなお世話であろう。日本でも、たとえば広島や長崎が原爆を記念し、のちの世代に教育することは当然のことである。もしそうしなかったら、それこそおかしいわけで、日本に支配された過去を今に伝えるのも、それと同じことではないだろうか?   そのような中で、オリンピックのような機会ともなると、やはり日本憎しの感情が盛り上がるのも仕方なかろうと思う。これは日本人が批判すべきことではない。しかしである。韓国には、このような日本を赦し、受け入れ、日本のために祈っている人たちがいる。それはクリスチャンたちである。今年の夏も韓国教会は日本の各地に短期宣教チームを送っている。なんとか日本にリバイバルが起きてほしいという、切なる思いで祈りをもって仕えてくださっている。  私は大学生のときだから30年近く前になるが、当時の日本の教会は「リバイバル」ということが一種の合言葉になっていた。私もその中で、「燃える」ムーブメントに身を投じていた。それは、100年以上宣教活動が続いていても一向に成長しない日本の教会に対して、一種の危機意識をいだいていたからではないかと思う。私はキャンパス・クルセードに入って伝道の訓練を受けたり、大きな集会に行って大声で祈ったり歌ったりした。しかし、一向に教会の成長の兆しは見えてこなかった。  きょうのみことばは、そのような葛藤の中にあり、日本ではなく、韓国の神学校で学ぶことを決意し、その入学試験のために韓国に行ったとき、ひとり聖書を読んでいて、示されたみことばである。この箇所は、過去、現在、未来の、三つの時制で語ることができるので、順番に見ていきたい。  まずは「過去」。過去、彼らエペソのクリスチャンたちは、とても悲惨な状態にあった。11節、12節。……福音が伝えられ、それを信じ受け入れる前のエペソの人たちの状態。まず彼らは、割礼を施されていない者だったとある。割礼は、創造主なる神さまとの契約のうちにあるというしるしに、男子が性器の包皮を切り取る儀式で、そのように肉体に痕跡を残しているということは、まさしくイスラエル、ユダヤという、神の民であることの証しだった。それも男性に限っての儀式であり、きわめてユニークな方法である。 そういうイスラエル、ユダヤにしてみれば、割礼を受けていないということは、イコール、神の民でない、はなはだしくは神に敵対する、憎むべき存在、ということになる。少年ダビデが巨人ゴリアテと闘ったとき、ダビデはゴリアテのことを、無割礼のペリシテ人と呼んで闘いに赴いたが、割礼か無割礼かということは、神の民にとってそれほど重要なことである。そしてもともとの神の民イスラエル、ユダヤからしてみれば、エペソの人たちは、無割礼の異邦人の群れである。 また、エペソの人たちは、「キリストから離れ」とある。道であり、真理であり、いのちであるお方、御父に至る唯一の道なるお方、このお方に出会うことなしに、どのようにしてまことの神さまを信じることができるだろうか? 約束の契約については他国人、つまり、神の民として、神さまが契約を結んでくださった民族ではない、というわけである。家であれ車であれ、売る人と買う人の契約というものをとおしてはじめて買う人の手に入るように、契約によって神さまは人に、神の民としての市民権を与えられる。イエスさまに出会っていないということは、アブラハムと交わされた契約のまことの成就である、イエスさまの十字架の血潮という契約などそもそも関係ない。そういう者であるならば、いったいどうやって創造主なる神さまに出会うことができるだろうか。まことの望みを与えてくださる神さまに出会うことができるだろうか。 ただ、彼らは、偶像にすぎないアルテミスを崇拝することで、宗教心を満足させるのが精いっぱいで、それではとてもまことの神さまに出会うことなど叶わなかった。異邦人とは、そのようなかぎりなく悲惨な状況にある存在である。このような存在に、救いはあるのだろうか?    そこで「現在」を見てみよう。彼らエペソの人たちは、キリスト・イエスによって神の民とされた。 ひとつ前のみことばの中の、「キリストから遠く離れ」ということばがかぎになる。キリストとは、道であり、真理であり、いのちであるお方である。このキリストを通してでなければ、父なる神さまに出会うことはない。 しかし、ほんとうのことを言うと、キリストから遠く離れていたのは、ユダヤ人も同じだった。我らこそはメシア待望の民、という自負心をいだいていた彼らだった。そんな彼らはイエスさまをキリストと認めず、十字架につけた。彼らもほんとうの意味でキリストに出会っていなかった。 しかし、キリスト・イエスの十字架を信じることにより神さまとの和解に導かれる、その信仰は、ユダヤ人から始まった。ペテロの説教で悔い改め、ほんとうの意味で神の民になった人たちが大いに増やされ、エルサレムに教会が形成された。この、キリストにつくユダヤ人と同じように、異邦人ゆえにまことの神に対する望みのなかったエペソの人たちも、キリスト・イエスの十字架を信じる信仰へと導かれた。 13節。「近い者となりました」とある。だれと近い者となったのか? それは、外見上の割礼によらず、イエスさまへの信仰によってまことの神の民とされたユダヤ人であり、そしてそれ以上に、そのようにまことの救いに導いてくださった、神さまに近い者とされた、ということである。もはや以前のような、神さまからも神の民からも無関係な、悲惨な存在ではなくなったのである。 14節から16節。この箇所の主語はキリストである。言うまでもなく、ユダヤ人たちが思い描いていたようなキリストではなく、イエス・キリストである。イエスさまは十字架にお掛かりになることで、イエスさまを信じる者を神さまと和解させてくださり、そのようにして、ご自身をとおして神さまに近づく者どうしを、和解に導いてくださった。お互いの間に存在していた敵意も、滅ぼしてくださった。 平和をつくる者は幸いです、とイエスさまはおっしゃった。世界のさまざまな人たちは、争いと憎しみの絶えない世界において、平和をつくる働きに献身している。それはとても素晴らしいことである。では、平和をつくる者は幸いです、とイエスさまに言われている私たちクリスチャンは、どのようにして平和をつくる働きに参与するのだろうか? それは、イエスさまを信じる者どうしで、手に手を携えるところから始まるのではないだろうか? そのようにして和解に導かれ、敵意が滅ぼされるだけではない。17節。……ユダヤはたしかにまことの神さまに近い存在だが、ほんとうの意味でイエスさまを受け入れていたわけではない。まことの神さまから遠い存在の異邦人の場合はなおさらである。どの国も、クリスチャンの多い少ないにかかわらず、宣教が必要である。その宣教のわざを通して、神さまから近い民族にも、神さまから遠い民族にも、ほんとうの意味での平和の福音は伝えられ、一つとなって御父に近づく。それがいずれ、民族どうしの和解へと導かれると、私たちは信じてまいりたい。 私たち日本のクリスチャンは、たしかにこの国に暮らしていると、マイノリティとしての弱さを痛感させられる。しかし、どうか元気を出していただきたい。私たちはけっして、彼らに見劣りする存在ではない。 私は神学生のとき、神学校のある授業で、教授に突然指されて質問されたことがあった。「日本にはどれくらいクリスチャンがいますか?」私は正確な数字を知っていたわけではなかったが、よく言われる日本のクリスチャンの割合からざっと計算してみて、そうですね、27万人くらいでしょうか、とお答えした。クリスチャンばかりの国に生まれ育った韓国人の神学生たちを前にして、恥ずかしいな、という思いもあったが、教授はすぐにこうおっしゃった。「そうですか! それなら、決して少なくありませんね!」私はこのおことばに、どれほど励まされたかわからなかった。 私たちが日本のクリスチャンであることは、誇りとすべきことである。この国の中から、この民族の中から、イエスさまを信じる信仰へと導かれた、それによって世界の兄弟姉妹とともに神さまに近づく存在とされた、なんとすばらしいことであろうか。 19節……創造主なるイエス・キリストを中心に、すべての民族はひとつの家族とされる。ことばや民族がちがおうとも、同じ家族である。このことをどうか、信仰によって受け取っていただきたい。 最後に、未来の姿。20節から22節。……民族は、単に和解させられるだけではない。創造主なるキリスト、王の王なるキリストのからだである教会を、ともに形づくる。 20節を見ると、使徒たちや預言者たちという土台、とある。使徒の著したものは新約聖書であり、預言者たちの著したものは旧約聖書である。旧約と新約、この聖書全体を土台として、教会は建てられる。 そして、その聖書の啓示するお方、キリスト・イエスを基として、教会が建てられる。いかに聖書を学び、また伝えていても、キリスト・イエスが伝わっていないならば、それは「異端」である。それをキリスト信仰と呼んではならない。しかし私たちクリスチャンはそうではない。私たちは、聖書において啓示されたお方、イエスさまを中心に、この教会、共同体を建てるべく召されている。 教会という場所は、神さまに礼拝をささげ、祈り、交わりを行い、みことばに学び、奉仕し、みことばを宣べ伝えるべく、この地上に存在する共同体である。しかしそれは、特定の民族や言語にかぎって形成する共同体ではない。民族や言語の枠を超えて、神さまに創造され、イエスさまの十字架を信じる信仰によって贖われたどうしが、ともに形づくるもの、それがまことの教会である。 しかし私たちは、この教会に対して視線を注ぐのと同時に、もうひとつのビジョン、究極のビジョンに目を留める必要があろう。それは、世の終わりのビジョンである。ヨハネの黙示録、5章6節から14節。……この大礼拝が想像できるだろうか? あらゆる民族から、あらゆる部族から、あらゆることばを話す民から、救われて主を礼拝する。この世の終わりに、私たち日本のクリスチャンも、多くの民族、部族、ことばを話す民に交じって、主の御前に召し出される。私たちはその日まで、和解の福音を語り、人々を神さまと和解させ、敵対するどうしを、福音によって和解に導く働きに用いていただこう。この民に、私たちは福音を語っていこう。そして、ともに教会形成に励み、キリストのからだなる共同体をこの地にうち立てる働きに用いられていこう。 私たちの過去を思うと、どれほど悲惨だったことだろうか。神さまから離れていた、それが私たちの現実だった。祝福を受けた民からするとこの日本は悲惨に思えてならなかったことだろう。しかし私たちは、イエスさまを信じ受け入れる信仰に導いていただき、神さまに近づき、神の民に加えていただいた。そのような私たちは今後、神さまによって召された者どうし、キリストのからだなる教会という共同体をこの地にうち立てていくように求められている。 この、喜びあふれるわざに用いられる私たちとなるように祈ろう。