教会が麗しいのは

聖書箇所;ピリピ人への手紙4:1 メッセージ題目;教会が麗しいのは  昨日、私ども一家は千葉にある東京基督教大学のオープンキャンパスに行ってきた。素晴らしい時間だった。それは、そこに集まった多くの人々、ことに若者たちは、みな、聖書が神のみことばであると信じ告白するクリスチャンたちであり、その聖徒の群れが献身を志して学ぼうとする姿に、希望を見る思いがしたからである。  このような場に赴くと、私たちクリスチャンは決して孤独ではない、普段どんなに離れていても、愛し合うべく召されていることを思わされる。しかしやはり、こうして教会に戻ってきて、聖徒のみなさまを前にすると、やっぱり、ここに帰ってきていいもんだ、と思う。  私たち教会は麗しい群れである。それは聖書が語っているとおり。今日の箇所から、私たちはなぜ麗しいのか、ともに学んでまいりたい。  今日の本文をあらためてお読みしよう。パウロはここで、ピリピ教会の兄弟姉妹のことをどのように呼び、また、どのようなことを勧めているだろうか?「私の愛し慕う兄弟たち」と呼んでいる。なんとも麗しい。  この「愛し慕う」の「愛」は、主の愛を現す「アガペー」から来ることばが用いられている。主が愛しておられるように、私はあなたがたを愛します、と語っているわけである。  主が愛されるように、教会の兄弟姉妹を愛する。このことは、主の愛を知る者だけができることである。主がどのように自分のことを愛してくださっているか知っているからこそ、そのように兄弟姉妹を愛したい。これぞ、私たちクリスチャンの歩むべき歩みである。  高校生の頃だからもう30年以上前のこと、私がまだ韓国語を学ぶ前、夏休みのある日、韓国から日本に短期宣教にやってきたチームに会う機会があった。日本語のできる通訳の方を介してコミュニケーションを取っていたのだが、みんなと会話しているうちに、そのチームの中の、私より少し年上の若い姉妹が私に向かい、日本語で、「わたしは、あなたを、あいします」と言った。みんな、きょとんとしている。それで、通訳の兄弟がその意味をみんなに訳してあげると、チームのみんなはどっと沸いた。真っ赤になった彼女はすかさず言った、「イエスさまの愛で愛します!」  こういうことが言えるのが、主の愛を知る者どうしの強みである。ともに主に愛されているどうし、主の愛がどんなにすばらしいか、わかっている。その愛をもって互いに愛し合う……この愛は、民族や言語や国境を越える。  またパウロは、ただ愛するだけではない、愛し「慕っている」と語る。慕うということは、そばにいたくてたまらない、ということ。これは、特別な関係である。  主が、ただ愛するにとどまらず、「慕う」関係へと導き入れてくださってはじめて、クリスチャンはパウロがピリピ教会の兄弟姉妹に対して告白するように、お互いのことを「慕う」ことができるようになる。 あの時の短期宣教の姉妹は、たしかに同じ主の愛を受けているどうし、「イエスさまの愛で愛します」くらいのことは言ってくれた。しかし、「慕ってくれていた」かというとどうだろうか? 慕うほどの特別な関係だったら、そのときかぎりの出会いで終わることなどなかったはずである。うちの妻の場合ならどうだろうか? はじめて出会ったのは今から18年前のことだが、たった2日顔を合わせただけで離ればなれになっても、それから後もしょっちゅう電話のやり取りをした。これは、お互いが慕っていたということ。  先週も申し上げたが、私はこの教会に赴任して、ちょうど10年経った。みなさまのお姿を見ていて思うことは、みなさんは教会をただ愛するのみならず、愛し慕っているのだなあ、ということ。10年前のことを振り返ってみると、教会から牧師招聘のお話をいただいたとき、私は韓国にいた。このお導きに感謝するとともに、自分は霊的面をはじめ、あらゆる面で整えられなければと願った。  そこで取り組んだことは、毎朝のように近所の教会の早天祈祷会に出席することだった。そうして祈れば祈るほど、私の中にも、教会を愛し慕う思いが確実に育っていった。今思えば、教会を愛し慕う兄弟姉妹のその愛に負けまいという思いを主がくださったのだろう。あれから10年、教会の兄弟姉妹を愛し慕う気持ちは増し加わるばかりである。  そういうわけで、愛することは主の愛の与えられたどうしならばだれでもできることであるが、慕うのは、特別な関係へと導き入れられている者がはじめてできることである。そこで私たちは、自分の身の周りの人間関係を考えてみたい。私たちには主にあって「愛し慕っている」といえる存在が、いったいどれくらいいるだろうか? もし、そのような存在がおられるならば、それはとても素晴らしいことである。その関係を大事にしていただきたい。ダビデがヨナタンとの友情をはぐくんだように、私たちも大事な人との慕い慕われる交わりをとおして、主にある愛をはぐくんでいきたい。 また、慕う対象がもしいるという実感がないならば、どうかその対象を心から慕い求めていただきたい。異性ではないほうがいい。男性は男性の、女性は女性の、それぞれ慕う対象を祈り求めていこう。  1節のつづきだが、パウロは、ピリピ教会のメンバーを指すことばに「私の喜び」という表現を用いている。ピリピ人への手紙は喜びの手紙と呼ばれている。それはピリピ教会こそがパウロの喜びそのものだったからである。  先ほども言ったことだが、私たちに愛し慕う対象がいたとする。しかし、その人に、「あなたは私の喜びです!」と言えるだろうか? ちょっとためらってはしまわないだろうか? しかし、パウロは心からそう言えた。  そう、パウロにとって、ピリピ教会は存在そのものが喜びだった。これはちょうど、親にとって子どもが、目に入れても痛くない、存在そのものが素晴らしいのと同じである。  パウロは結婚していなかったというのが定説だが、ということは、子どももいなかったことになる。しかしパウロは、実の親が子どもに注ぐのと同じように、心からの愛情をピリピ教会に注いだ。  ピリピ教会の存在そのものが、パウロにとって限りなく愛おしかったわけである。パウロはしばしば、自分が信仰に導き、訓練した信徒について「産んだ」という表現を用いている。産む、ということは、出産を経験された婦人の方ならどなたもご存知のとおり、とても大変なことであるが、いざ生まれると、その苦しみは途方もない喜びに変わる。そしてふつう親ならば、喜んで子育てをする。産むだけではなく、子育ても大変な労力を必要とするが、親ならばその労を惜しまない。それは、子どもの存在そのものが喜びだからである。  パウロも迫害を逃れつつ労苦して人を信仰告白に導き、どんな迫害にも耐えられるだけの信仰を持つように鍛え上げた。それは、主を愛していたからであるし、主から自分に託された羊の群れがたまらなく愛おしかったからである。  羊は弱いままでいてはならない、蛇のさとさと鳩の素直さを身に着けさせ、狼の群れにも勝てるようにと、羊の群れをこの上なく強力に育て上げた。それは、惜しみなく愛情を注いで、子どもを強い子に育てようとする親心そのものである。  そしてパウロはこのピリピ教会を、ただ愛し慕い、喜ぶにとどまらない。「冠」と呼んでさえいる。  頭にかぶるものは、その人が何者であるかを象徴します。プロ野球のチームの帽子ならば、そのチームのファンであることを誇りにしている人という意味合いを持ちます。YGマークの帽子をかぶれば、その人は巨人ファンである。ヒジャブと呼ばれるスカーフ状の布で頭部をおおう女性は、ムスリムないしはイスラム圏に住む女性ということになる。 その中でも、冠だったらどうだろうか? 冠をかぶる資格のある人は、王さまのような位の高い人である。あるいは、マラソンの勝者のような栄光あふれる人である。「栄冠」というぐらいである。彼らは間違っても、王座についているときや、表彰台に上るときのような、晴れの舞台で庶民のかぶるような帽子をかぶってはならない。 また冠は、栄光ある人の頭に置かれるからこそ価値があります。王冠とか月桂冠といった冠は、平凡な人かぶってはならない。 ここでパウロは、ピリピ教会を「冠」と呼んでいる。なぜパウロは彼らのことを「冠」と呼んだのだろうか? いま、マラソンの勝者に与えられる「月桂冠」のことを例に出したが、そもそも、われら終わりの日の勝者のことを「月桂冠」を授与されるスポーツ選手に例えたのは、パウロである。コリント人へ第一の手紙、9章の24節から27節をお読みしよう。 ……パウロは、朽ちない冠を受けるためにあらゆる自制をし、目標の定まった闘いをすると述べている。何のために自制するのだろうか?  コリント教会やピリピ教会のような教会を形成するために、その一方で、その指導者としてふさわしくあるように自制するのである。また、何を目標とするのだろうか? 聖徒を整えて奉仕の働きをさせ、教会全体をキリストの満ち満ちた身たけにまで成長させる、ことばを変えれば、キリストの似姿へと成長させるという目標である。 その教会の成長という目標のために、あらゆる闘いも辞さない。これぞ、牧者のあるべき姿である。そのようにしてこの世の闘いを闘いおおせて、終わりの日に主の御手から受けるわが勝利の冠、それが、あなたがた教会だというわけである。私たちは終わりの日に勝利の冠を受けるということをみことばから学んでいるが、その冠がどんなものか、イメージできるだろうか? パウロは、それは教会の兄弟姉妹であるとはっきり語った。 救い主キリストを宣べ伝えて人を永遠のいのちに導き、永遠のいのちの素晴らしさを生涯体験すべく訓練する。そのようにして、天国の民、キリストの似姿とされた人たちの存在、それが、世の終わりに永遠に王とされる者にとっての、朽ちることのない栄光なのである。 私たちはお互いのことを「冠」と信じて教会生活を送っているだろうか? お互いがお互いにみことばの恵みを語り、成長させられ、ともにキリストの似姿へと変えられていくならば、この教会の兄弟姉妹こそ、私たちを王ならしめ、勝利者ならしめる「冠」である。お互いがお互いにとって、とても大事な存在なのである。 パウロは、以上述べてきたように、ピリピ教会の信徒たちは何よりも大事な存在だからこそ、「主にあって堅く立ってください」と勧めている。教会は、締まりも必要であり、秩序も必要である。創造主なる神もキリストも認めたがらないこの世にあって、キリストが生きておられること、信じ受け入れるべきお方であることをしっかりと証しする使命が教会に与えられている。 そして、パウロはどんな思いをこめて、「私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ」と、ピリピ教会に呼び掛けたのだろうか? それは、自身が告白したとおり、キリストが心のうちに生きておられるゆえに、キリストの心を持ってそう呼びかけたのだった。 そう、私たちのことを「わたしの愛し慕う兄弟たち、わたしの喜び、冠よ」と呼んでくださるのは、イエスさまである。それほど私たちはイエスさまに愛されている。主は私たちのことを、ご自身のひとみのように守ってくださる。そして、可愛い子には旅をさせよということわざのように、冒険の生涯を通して私たちを鍛え、キリストの似姿へと変えてくださる。終わりの日には、私たちが王の王なるイエスさまを冠として飾る。 そして私たちもまた、心のうちにキリストが生きている存在である。だからこそ私たちもお互いに対して心から、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ! と言うことができる。なんと麗しいことだろうか。 私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。そうお互いに呼びかけ合う、それが心からの告白となる、その同じ思いで一致して、今日も、そしてこれからも、ともに歩んでいこう。

ことばでしくじる私たち

聖書箇所;ヤコブの手紙3章1節~12節 メッセージ題目;「ことばでしくじる私たち」  このところ私たちは、政治家の「ことば」に注目するニュースに接している。せんだっての選挙の候補者だった人の発言が高飛車ではないかとか、どこかの国の大統領が、よりにもよって間違えてはいけない人物の名前を何度も間違えたとか……。こういうニュースに接すると、政治家のような大集団のトップでかじ取りをする人にとって、いかにことばというものが大事かを痛感する。  しかし、こういうニュースはまた、私たちのことも考えさせられる。特に、今日のみことばと考え合わせよう。私たちは政治家でなくても、ことばはやはり大事である。1節を見ると、多くの者が教師になってはならない、と語る。それは、「より厳しいさばきを受ける」からというわけである。かつての新改訳聖書では、この箇所は、「格別厳しいさばきを受ける」と訳している。  「懲らしめ」ではない。「さばき」である。それは何によるものであるか。2節にあるとおり、「ことばで過ちを犯す」ことによる。そこからわかることは、教師の犯すあやまちは、もっぱらことばによるものである、ということ。  教師は何をする人なのだろうか? みことばを解き明かす人である。しかし、みことばをふさわしく解き明かさないならば、その影響のもとにある群れは異端になったり、カルト化したりする。つまり、教師の悪さは教師一人でとどまるものではなく、その語ることばを通じて群れ全体が悪くなるわけである。特にその群れが本来、教会、すなわちキリストのからだとして健康に保たれるべきところ、大いに病んでしまっているならば、主はその責任を教師なる牧者に問われる。  私も牧者の端くれであるが、この水戸第一聖書バプテスト教会という群れを担当させていただいている者として、その責任は重い。ほんとうに、語ることばには慎重にならざるを得ないが、しかしそれでも、悲しむべきことにことばで失敗をすることもあるものである。そしてそれは厳しいさばきに値するものだというこのみことばをお読みするとき、震え上がる思いである。  しかし、2節のみことばは別の側面も語っている。それは、「私たちはみな、多くの点で、特にことばで過ちを犯すものである」ということである。もし、ことばで過ちを犯すことがなかったならば、どうだろうか? その人は完璧だというわけである。  ことばというものは、からだの中でもとりわけ小さな器官である舌を用いて話される。3節、4節を見てみると、大きな家畜である馬も、大勢の人や大量の荷物を載せられる船も、ごく小さなものによって御することができるように、舌も人間を制御する器官であることがわかる。  だが、その舌とはどういう器官なのか? 私たちが思うほど、私たちの柔和な考えに従順ではない。5節、6節を見よう。舌とは、火であると語る。火が森についたら、火を消し止めないかぎり森は丸焼けになる。また、前に進むべき人生の車輪を焼いて進めなくしてしまう。柔和どころか、激しすぎる。破壊しかもたらさない。それが、舌というもの、すなわち、私たちの発することばというものである。  7節のみことばが語るとおり、人間は地を従えている存在である。だが、8節が語るとおり、そんな人間にも従えることができないものが舌である。それも、少しも休むことをしない悪であり、死の毒に満ちている、と語る。なんと恐ろしいものを私たちは持っているのであろうか。  その、死の毒に満ちた舌を野放しにするわれら人間の行動の一例が、9節、10節に書かれている。このヤコブの手紙の読者はクリスチャンだから、当然、主であり父である神さまをほめたたえる。素晴らしいこと、立派なことである。だが、そのように神さまをほめたたえるきよくあるべき存在が、賛美をするのと同じ口をもって、神さまの似姿につくられた人間を呪うというわけである。それは、あってはならないことだとヤコブは警告する。だが、私たちはそういう、あってはならないことを普通にしてしまうのである。  このことをヤコブは、11節、12節のように説明する。  要するに、賛美と呪いを同じ口から出すという行為は、そもそも自然の摂理に反している、というわけである。あってはならないこと、ありえないこと。  だが、そう言われたからと、私たちはここまでこのメッセージを聴いて、「わかりました! では、神さまのみこころにかなうように、これからは語ることばに気をつけ、みこころにかなったことばを語るようにします!」と決心するだろうか? しかし、はっきり申し上げたい。その決心は無駄である。  なぜだろうか? それは2節以下で語られているとおり、私たちはことばで過ちを犯すものだということは、もはや動かしがたい事実だからである。  しかし、それでもヤコブは、「賛美と呪いが同じ口から出ることは、あってはなりません」と語る。つまり、ことばで過ちを犯すことはもはや宿命で、一切どうにもならないことではない。そんな私たちであっても、必ず賛美のみを語れるようになれるからこそ、ヤコブはあえてこのような不可能に思えること、2節のみことばに照らせば矛盾のようなことを、私たちにチャレンジしているのである。  日本のことわざに「人を呪わば穴二つ」というものがある。人を呪ってはならないと戒めることわざだが、この「穴」とは墓の穴であり、人に害を加えようとして墓穴を掘る者は、その報いが自分にも及び、自分の墓穴を掘らなければならない、という意味だそうである。  それでは、日本のことわざではなくて、イエスさまなら、人を呪うことを何とおっしゃっているだろうか? マタイの福音書5章21節、22節にあるとおりである。人を呪ったならば、殺人罪のさばきを地獄に落ちて受けなければならない、ということである。みなさま、人を呪うことはどれほど私たちの人生にあふれているだろうか?「あの人さえいなくなったらいいのに」と思うだけでも立派に「呪い」、すなわち、神さまがご覧になるならば、「殺人罪」を犯すことである。人を馬鹿にすることもそう。殺人罪がなぜ罪なのか、それは、神さまのかたちに造られた人を抹殺すること、そのようにして、神さまのみこころを抹殺することだからである。  それが私たちである。私たちはそうだとすると、何度地獄に堕ちなければならないことだろうか? そんな罪人の私たち、地獄こそがふさわしい私たちは、どうしなければならないだろうか?  救いの道はただひとつしかない。イエスさまにつながることである。イエスさまは、どんなに頑張っても神さまの義の基準、聖さの基準に遠く及ばない、だから地獄行きこそがふさわしい私たちのために、私たちに注がれる御父なる神さまの怒りを十字架の上でことごとく受け止め、私たちを完全に赦してくださった。私たちにできなかったこと、すなわち、神さまの義をまっとうすることを、イエスさまは私たちの身代わりに十字架の上で成し遂げてくださり、私たちはイエスさまの十字架のみわざを信じ受け入れることによって、みことばを完全に成し遂げてくださったイエスさまとひとつになり、私たちもみことばを完璧に守り行なったと神さまに認めていただいた。そう、救いの主体は私たちの努力の行いにあるのではない。どこまでも神さま、イエスさまにある。  そのような私たちはイエスさまというぶどうの木につなげていただいた枝である。ご存じの方も多いと思うが、ぶどうの枝というものは実をつけないかぎり、何の役にも立たない。友達にぶどう農家の人がいるのだが、話を聞くと、ぶどうの枝というものはほんとうに役に立たないらしい。寒いときに集めて火をつけても、暖を取れるほどの火も燃えないそうだ。だから、ぶどうの枝は木を離れては役に立たない。役に立つときがあるとすれば、それはただひとつ、木につながっているときだけ。木につながっていれば、実を結ぶ。豊かに実を結ぶ。  イエスさまはおっしゃる。わたしにとどまりなさい。このみことばは、十二弟子という、もう充分にイエスさまにとどまってきた人たちに対しておっしゃったおことばである。十二弟子にして「わたしにとどまりなさい」と言われなければならなかったならば、いわんや私たちはどれほど、イエスさまにとどまらなければならないことだろうか。  イエスさまにとどまるということは、弟子たちにしてあえてそう命じられなければできなかったことのように、私たちも意識してとどまることが必要である。よく、「神さまが私たちとともにおられるように」と私たちは祈る。立派なことである。しかし、私たちはどこかで、「神さまがともにおられたら都合が悪い」となっているような時はないだろうか?   むしろ私たちは、「神さまに近づく」ことが必要である。神さまは必ず私たちを迎えてくださる。そのようにして、神さま、イエスさまにとどまることが、私たちにとって必要である。これはいのちの営みである。  だから、早天祈祷やディボーションや聖書通読といったものを、それをする自分は努力できたから偉い、などと考えるようでは、まだその人の発想は自己中心である。どうしても神さまにつながらなければならないからつながる、それでこそ私たちの日々の神さまとの交わりは本物となる。  そのようにしてイエスさまにとどまることによって、私たちは初めて、ことばが整えられていく体験をする。イエスさまに近づくとどうなるか? みこころにかなったことばを優先的に話せるようになるだけではない。悪いことばの飛び交うような、この世的な楽しみの場からも距離を置きたがるようになる。そうなると私たちのことばの生活、ことばの習慣が、悪いものによって損なわれることがなくなっていく。  ヤコブの用いたたとえにもう一度注目しよう。甘い水を出す泉は、甘い水を出すから価値がある。先週、日本のある町で産出するミネラルウォーターから、発がん性物質のPFASが検出されたということで問題になったが、名水のはずがからだに悪いものを含んでいてはたまらない。しかしそれは、水源が公害という、悪い環境に置かれていた、ということである。  甘い水はイエスさまが内から湧き上がらせてくださるいのちの水である。御霊の水である。ヨハネの福音書7章37節、38節でイエスさまがお語りになっているとおりである。この水が自分を潤し、人を潤すのである。そう、キリストのからだなる教会という群れの教師、牧者が、まず自分こそが優先的にみもとに近づき、御霊の水に潤されなければならない理由がここにある。自分が潤されて、人を豊かに潤すのである。  それが悪い環境に置かれたら、苦い水になる。イエスさま以外のものにつながっていたら、その泉がいつ汚され、苦い水を出すようになるかわかったものではない。だから、そのように自分を汚すものから距離を置かなければならないのである。私は常日頃、牧師が趣味を持つことは、パウロが病気がちのテモテに「少量のぶどう酒を用いなさい」と言ったように、とかく生真面目、固くなりがちな牧師の生活に潤いを与える、つまり、ひいては信徒たちに潤いを与えるうえで必要なことだと言っているが、それも程度と内容による。人に言えないような趣味は持つべきではないし、牧会そっちのけで趣味に没頭するのもだめである。さもなくば泉は苦くなり、人を潤すべきことばは荒れることになる。  もうひとつ、木はふさわしい実をつけてこそ、ということで、いちじくの木はオリーブの実をならせない、ぶどうの木はいちじくの実をならせない、とも語っているが、いちじく、オリーブ、ぶどう、すべて、神の民イスラエルに注がれた主の恵みを象徴する実である。しかし、木がまったく別の木の実をつけたならばめちゃくちゃ、第一ありえないこと。この中でも「ぶどう」の木は、ほかならぬイエスさまがご自身を指して象徴された木。私たちがイエスさまというぶどうの木にくっついて、とどまって結ぶぶどうの実は、イエスさまのみことば、人を生かす、神の口から出るひとつひとつのことばである。そう、人は神の口からであるひとつひとつのことばによって生きる、とイエスさまはおっしゃったが、そのことばを人に語って聞かせ、人を生かすのは、やはり人のすることである。  しかし、この人を潤し、人にみことばを食べさせて生かす働きは、牧師だけのすることではない。ここにいらっしゃるみなさまにはできるし、積極的にしていただきたい。分かち合いはぜひ、神さまの恵みの分かち合い、みことばの分かち合いを優先的にしていただきたい。それによって私たちは、神さまの御前にふさわしいことばが語れるようになる。  舌はもともと、みことばが語るとおり、よいものさえも焼き尽くす火であった。他人であれ、自分であれ、人を呪い殺す死の毒に満ちたものであった。しかし主は、このような私たちのことばをきよめてくださった。あとは私たちがイエスさまにつながり、とどまり、みこころにかなったことば、神の愛に満ちたことばを語らせていただくように、祈っていこう。

信仰が死なないために

聖書箇所;ヤコブの手紙2章14節~26節 メッセージ題目;信仰が死なないために  教会に備えつけの『オペレーション日本祈りのガイド』はとてもすぐれている。日本中のキリスト教会にまつわる施設の情報が都道府県ごとに掲載されていて、各都道府県のためにとりなして祈るうえでとても役に立つ。しかし、そうして各都道府県の祈りの課題を見てみると、病院のような医療関係、老人ホームのような福祉関係、幼稚園や学校のような教育関係と、クリスチャンの働きが実に多岐にわたっていて、しかもそれが、病気の人やお年寄りや子どものような、社会的に見れば「弱者」の働きに集中していることがわかる。  先週の木曜日、茨城キリスト教学園にお伺いして、もと玉川聖学院中学高校の校長の水口洋先生という方のお話をお聴きした。そこで教えられたことのひとつに、日本の教会は歴史的に、病気の人や障碍者や子どもや女性といった社会的弱者のための教育や医療、福祉に力を入れることで、その領域になかなか光を届けることができていなかった世の中の信頼を勝ち得てきた、ということがあった。いま、多くのそのような働きがブランド化、形骸化してしまったという嘆かわしい現実にも触れてくださったが、本来、私たちキリスト者の取り組むべき働きはそういうもの、社会的弱者に関わる愛の実践をすることだと、はっとさせられたものだった。  この教会は多くの方が、医療、教育、福祉に関わっている。それはこの教会の特徴と言えないだろうか。言い換えれば、本来そのようにして世の中に対し、生ける神さま、弱い者の味方であるイエスさまを証しすべきキリスト教会の本来の使命を果たしうる教会、それが私たちの群れではないだろうか。  そんな私たちだが、ほんとうの意味で神の愛を実践するために、どのような実を結ぶことが神さまから期待されているだろうか。本日はそのことをみことばから学んでみたい。  14節。これは、ヤコブの手紙全体を貫くテーマのようである。しかしこれは、信仰より行いが大事であると説いているわけではない。信仰があるというなら行いがあってしかるべきである、と語っているわけである。  私たちは行いで神さまに認められようとしてはならない。しかし、私たちのすべきことはイエスさまが完全に成し遂げてくださった。私たちはイエスさまを信じ受け入れ、ひとつとなることによって、私たちに求められている律法の要求が全うされるのである。私たちにできないことは、イエスさまがしてくださった。  それが信仰ということであるのだから、イエスさまのみこころのとおりに振る舞えていない、つまり、行いの実を結んでいないということは、おかしいことなのである。「自分はイエスさまを信じているから、何をやっても許される!」と言うことができないのは、だからなのである。  しかし、人を愛されるイエスさまとひとつになるゆえに、隣人を愛する愛の実を結ぶべき私たちが、しばしばこんなことを言わないだろうか。15節と16節。  中身が伴わないで口だけ。なんとも冷たいことばだと思うだろう。しかし、これと同じことを、私たちはふつうに、平気でやっているのである。ほんとうである。それは、「祈っています」とたやすく口にすることである。  たとえば、社員を採用する企業は、俗に「お祈りメール」と呼ばれるものを、選考で落とした応募者に送る。「残念ながら、ご期待に添いかねる結果となりました……」云々。そして最後に、「末筆になりますが、○○さまのこれからのご活躍を心よりお祈り申し上げます」で締めくくる。しかし、ほんとうにその人の活躍を祈っているならば、ちゃんと採用すべきではないだろうか? 人事部の人のその「祈り」など、むなしい、というか、偽善的、というかしかない。  同じことを私たちクリスチャンもする、とこのみことばは警告している。私たちは祈る。それは結構なことだ。  しかし、祈っているとおりにその貧しい人が食べるものを食べ、着るものを着るには、身銭を切ってその人のために使わなければ、嘘である。その人に食べものや着るものが天から降ってくることを求める以前に、なぜ自分の食べものや着るものを差し出さないのか。奇蹟を求めるのもいいが、神さまはまず日常生活の中で愛のやり取りをするところから働かれることを忘れてはならない。  しかし私たちは、実際の自分自身を見てみよう。私たちの目の前、身の回りには、困っている人、貧しい人がたくさんいないだろうか? そういう人のために何もできていないわが身であることを、私たちは気づかされないだろうか? そんなとき、私たちは何と愛のないものであるかと悟らされ、がっかりさせられないだろうか?  ここに私たちは、イエスさまのあわれみを求める必要があることを思い知らされる。主よ、あなたはこんな私を愛してくださっているのに、私は周りのだれのこともまともに愛せません。私には愛がありません。こんな愛のない私を助けてください。その祈りをささげるとき、主は私たちに、少しでも愛する力を私たちに与えてくださる。  私たちの信仰が死なないためにすることは、脅迫的に行いに走ることではない。まずはそのように、自分は愛の実を結ぶ信仰がないものであることを認め、主の御前に降伏し、ただあわれみを求めることである。主はそこから私たちの信仰を生かしてくださる。  18節をお読みしよう。信仰と行いというものは、しばしば対照的なものとして描かれる。「信仰か、行いか」、そういう二元論のような捕らえ方を、われわれ人間はついしてしまう。クリスチャンであってもそういう傾向がある。  パウロが書簡の中で語っている、恵みのゆえに信仰によって救われた、行いによるのではない、ということは、誤解してとらえてしまうと、行いが必要ない、となってしまう。しかしそうなってしまうなら、このただでさえ悪い世界において、私たちキリスト者はイエスさまがおっしゃるとおりの、世の光、地の塩としての役割を、何一つ果たせないことになってしまう。  そういうことだから、世にあるあらゆる宗教の中には、世直し的な奉仕にいそしむことで神的存在に認められようという教えを説く群れも現れる。こういう群れは押しなべて世の中の評判がいい。なにしろいいことをボランティアでしてくれているからである。しかし、いかにいいことをしていたからといって、ほんとうの神さまを信じ従っているわけではない以上、神さまがそういう人たちの善い行いを認めてくださるとはかぎらない。それと同じようなやりかたで、神さまに認められようとすることを私たちキリスト者もしてはいないか、ということは、つねに問われるところでないだろうか。  行いによって自分の信仰を見せる、ということは、そのどちらでもない。なぜならば、行いの実を結ぶ信仰は、人に由来するものではなく、神さま、イエスさまに由来するものだからである。私には一切できない善い行いを、この堕落しきった私のことを完全に救ってくださったイエスさまがさせてくださる。そのように、もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きてくださっているほどに、私のことを救ってくださり、私と完全に一つとなってくださっている。この境地から、行いによって自分の信仰を見せることができるのである。  19節はこの流れの中で、唐突に挿入されているような印象を受ける。しかし流れに従って読むと、これは唐突ではない。悪魔は唯一の神になり代われない。そんな悪魔は、少しでも永遠の滅亡をともにする人間が現れるように、すでに救われていて、もっと多くの人を救いに導こうとするクリスチャンたちの力を削ぐことに必死になっている。そこで悪魔はこういう作戦を用いる。悪魔はクリスチャンたちに、神はおひとりだと信じるほどの立派な信仰を持ちさえすればそれで万事が解決したと思わせる。  間違っても、信仰が行いの実を結ぶようなイエスさまとの交わり、聖霊の満たしなど体験させない。聖霊の満たしと呼びながらも、そのじつ何の愛の実も結ばない、世の中に対して毒にも薬にもならないことにだったら集中させる。  言ってみれば、クリスチャンをたんなる「宗教」の信者にするか、「カルト」の熱狂的な分子にするかして、けっして「世の光、地の塩」にはさせない。それが、神がおひとりであることに身震いする悪魔が、人間、わけてもクリスチャンに対して取る戦略である。  20節以下を見てみよう。行いのない信仰がむなしい代わりに、行いのある信仰がどんなに意味があるかを、ヤコブは旧約聖書の2つの実例から挙げている。まず、21節から23節。アブラハムが神を信じた、その信じたことはいかなる行いに現れたかについて語っている。  一見すると、子どもを犠牲にして殺すようなことが信仰の行いとして尊い、と受け取ってしまわないだろうか。しかしこれは、新約聖書のヘブル人への手紙11章17節から19節を合わせて読まないと分からない。  つまり、アブラハムの行動は、神さまはイサクから子孫を生まれさせてくださるという約束を受け取っている以上、イサクは必ず生きて子孫をもうけると信じ切っていたゆえにできたことであった。そしてアブラハムのこの行動は、はるかのちに御父なる神さまがひとり子イエスさまを十字架におつけになり、そしてよみがえらされたことに通じる。なんと、イエスさまの十字架の贖いと復活さえもはるかに望み見た行いとなった。つまり、アブラハムの行いはどこまでも信仰によること、信仰ゆえに行いに出られたわけだった。  もちろん、私たちはアブラハムのこの犠牲を見るとき、自分にはとてもそんなことはできない、と思うしかないだろう。だからこそ私たちは、私の中にはこのような行いができる何かなど、何一つないことを認めるしかない。ただ、その犠牲は御父なる神さまが、イエスさまを十字架につけることによって成し遂げてくださった、そのイエスさまと私がひとつにしていただいていることで、私たちは少しでも愛の行い、犠牲の働きができるようにしていただいている、そうして主に用いていただいている、そのことに感謝するばかりである。  もうひとつのケースとして、ヨシュア記に登場する遊女ラハブのことが書かれている。エリコに偵察に来たイスラエルの兵士をエリコの軍からかくまった女性である。このケースの場合、ラハブのいのちをエリコ聖絶から助けたのは、イスラエルの兵士たちであった。しかし、ラハブがイスラエルの兵士をかくまったのは、まことの神さまに対する信仰のゆえであったことを、やはりヘブル人への手紙の11章は証ししている。お従いすべきはまことの神さまである、このお方によればやがてこの邪悪な都市は崩され、滅びる、なんとか助からなくては、そういう思いが持てたのは、まことの神さまに対する信仰による。ほんとうに信じるべきお方がだれかをわかっていたゆえに、だれの味方になるべきかが判断できた。  26節のみことば。このみことばは、人間のからだを信仰、霊を行いになぞらえている。普通なら逆になぞらえたくならないだろうか?   信仰は霊的なものであり、行いは人間の肉体を用いてするものだからである。しかし、この箇所を見ると、逆である。つまり、からだと霊、信仰と行いは、切っても切り離せないものだということである。  さて、この一連のみことばから、私たちは行いがとにかく必要だということを教えられるが、「だから行いを大事にします!」では、苦しくなるばかりである。神さまはそんなことを私たちに望んではいらっしゃらない。私たちは「行えない」、そのことを徹底して認める必要がある。行えるのはただ一人、イエスさまである。このイエスさまと私たちはひとつにならせていただいている、ゆえにそこから、少しでも行いの実が結ばれ、主のご栄光をあらわすものとして用いていただける……このことのゆえに感謝しよう。  信仰が死なないために。行おうと努力しなくていい。まず、すべてを成し遂げてくださったイエスさまとひとつにしていただいてることに感謝しよう。いまこのとき、イエスさまとの交わりに入れていただこう。

愛を行う教会を目指して

聖書箇所;ヤコブの手紙2章1節~13節 メッセージ題目;「愛を行う教会を目指して」  現代人もそうだし、おそらく古今東西どの国や民族においてもそうだと思うが、私たちはえこひいきというものに敏感だろう。子どもなどでも、あの子のほうがボクよりもたくさんお菓子をもらった、なんてなったら、たいていは怒る。  今日のみことばの中で戒められていること、それは、人をえこひいきしてはいけない、ということである。えこひいきしてはいけない、とはっきり語っている以上、えこひいきは特にクリスチャンにはふさわしくないことである。  ただし、私たちにとって人をえこひいきするとはどういうことなのか、また、えこひいきしてはなぜいけないのか、ということも見てみたい。それが、私たちがえこひいきをすることで主のみこころを損なうことのないために必要なことである。以下、見ていきたい。  1節。私たちクリスチャンが人をえこひいきしてはいけないのは、私たちが栄光のイエス・キリストへの信仰を持っているからである。単にこの世の常識としてえこひいきがいけないのではない。私たちのうちに巣くうえこひいきという病巣は、イエス・キリストの栄光によって取り扱われ、取り除かれなければならないものである。  それがどういうことなのかは追い追い見ていくとして、ヤコブはこの問題となっているえこひいきというものについて、具体的な例を挙げている。2節と3節。  これをお読みになってどうお思いだろうか?「うわ、ひどい! それでも教会か!」と吐き捨てたくならないだろうか?   しかし、教会ならばどんな教会でもふさわしくないからとこんなえこひいきをしないなら、そう、それこそここに書いてあるような醜く露骨な差別をしないなら、そもそもこのようにヤコブが書く必要などなかった。この醜い差別、それは、私たちクリスチャンが平気で行なっていることである。  金持ちが入ってきたとする。そういう人は上座に通される。これはどういうことだろうか? それを理解するには、金持ちと教会の関係性に注目することである。  まず、金持ちは言うまでもなく、お金を持っている。そういう人が教会で歓迎されるのはなぜだろうか? 言うまでもない。献金をたくさんしてくれる可能性がとても高いからである。  この時代のヤコブが導いていた群れも恐らくそうだが、教会というところはお金がなく、お金を必要としているところである。そういう群れにお金持ちが入ってきたなら、そのようなお金持ちに献金してもらうことを期待してしまう。ときには、そういう人が教会に来たことを、クリスチャンたちは平気で、これは神さまからの祝福です、なんて口走ったりする。しかし、それでいいのだろうか?  また、金持ちはたいていの場合、この世的に名声を博している。中には取税人ザアカイのような嫌われ者もいるにはいるが、たいていの場合、金の多さとこの世での評判の高さは比例している。そのような金持ちが来るような教会ならば信頼していい、なんて、この世の人たちは思ったりして、金持ちはまるで広告塔のようになってしまう。それは、この世ではマイノリティ、弱者、迫害の対象になりがちな教会にとっては都合のいいことではあろう。しかし、それでいいのだろうか?  もちろんこれは、金持ちや有名人、有力者が教会に来てはならないということではない。そういう方々にも喜んで来てもらえる教会を目指すことも必要である。しかしその目的は、金持ちによって教会が富んだり、名声を博したりするためではない。  このみことばで、金持ちが「金の指輪」をしている人、ということに注目する必要がある。聖書の中で指輪をした人といえば、あらゆる権力者の中の権力者、王様である。新約聖書ではイエスさまのたとえ話の放蕩息子の父親である大金持ちも指輪をしているが、これとて王の王なる神さまの象徴と考えると、やはり王である。すなわち、王ほどの金持ち、権力者であろうとも、えこひいきしてはならない、というのである。これは大変なチャレンジをわれわれに突きつけているのではないだろうか?  では、もうひとつの「貧しい人」はどうだろうか?「いや、私はちゃんとケアしています」と言えるだろうか?   これからいうことはかなりストレートなものの言い方になるので、誤解しないで最後まで聞いていただきたいが、そもそも「貧しい人」を教会が歓迎しないのはなぜだろうか?  それは、身もふたもない言い方をすれば、貧しい人は献金をしてくれる見込みがない一方で、その生活を支えることが教会に求められている、すなわち、お金がかかるからではないだろうか?   しかし、それゆえに貧しい人の存在を嫌がるようでは、教会は弱い人たちの集まる場所という誇り高い呼び方などとても似合わない。  お金持ちを優遇し、貧しい人を追いやる。そういうえこひいきの態度に、聖書のみことばは鉄槌を下している。4節。それはれっきとした差別である。人をさばくことである。「いや、これは差別じゃなくて区別ですよ」とでも言うつもりだろうか?   しかし、聖書ははっきりと、えこひいきは差別という罪を犯していることだと断罪する。そもそも、貧しい人と金持ちの正体はどういうものだろうか? 5節から7節。貧しい人はこの世に身寄りがない。この世の居場所を失った人である。しかし、そんな孤独な彼らには頼るべきお方がおられる。それがイエスさまである。そして、彼らがイエスさまに頼るということは、イエス・キリストのからだなる教会に頼ることによって全うされる。そいうすることで彼らは信仰に富む者となり、ついには御国を受け継ぐにふさわしく整えられる。つまり、教会はほんらい、そんな貧しい人たちが主体であるべき共同体だということである。私たち教会を形づくるひと枝ひと枝の兄弟姉妹は、そのことを意識して信仰生活に励む必要があろう。  一方で、金持ちはどうか。このみことばでは、金持ちは3つのことをするという。まず、あなたがたクリスチャンを虐げる。あなたがたを裁判所に引いていく。あなたがたクリスチャンをクリスチャンにする尊いイエスさまの御名をけがす。  これが、この世の金持ちというもののすることである。なぜならばここでいう金持ちとは、この世の反キリストの悪い文化をつくる主体であり、その悪い世界を悪く保たせる存在だからである。そんな悪い反キリストの存在を有難がった結果、教会は貧しい人を排除しにかかるわけである。だが、それは彼らを辱めることであるとみことばは喝破する。  8節のみことばをお読みしよう。私たちは隣人を愛する存在として召されている。それも、自分を愛するように愛するのである。しかし、この「自分のように愛する」相手は、金持ち、愛しやすい人だけではない、貧しい人、愛しにくい人も当然含むのである。  それが主のみこころである。だが、私たちの語る隣人愛というものは、なんとエゴイスティックなものだろうか。  人をえこひいきして、愛しやすい人、愛したい人しか愛さない、愛したくない人には冷たい、それが、口では偉そうなことを言いながら、実際にはまるで行えていない、私たちの愛というものの実際である。  9節によれば、そういう者は違反者として責められる。早い話が罪人である。神さまの前に罪人としてさばかれるべき罪を犯していることになる。では、それはどんな罪だろうか? 10節、11節をお読みしよう。  なんとこれは「殺してはならない」という戒めを破る罪だというのである。そしてそれゆえに、律法のすべてを破る完璧な罪人だということ。そんな馬鹿な! とお思いか。しかし、「こんなお金もない、めんどくさい人なんて、教会からいなくなってほしい」などと、口にこそ出さなくても心の中で考えるならば、その人の存在を心の中で抹殺したということであり、それは神さまの御目から見れば、大事なご自身の子どもであるその貧しいを無視した、存在しない者として扱ったということ、それは存在を消すこと、すなわち殺人である。これは言い過ぎではない。兄弟に対し、「バカ」とか「能なし」とか言う者には地獄ゆきのさばきを下されるのが御父だとイエスさまがおっしゃっている、その基準を考えるべきである。  そう考えると私たちはどれほどの罪人か。しかし、私たちはここでもうひとつ考えるべきことがある。私たちの考えやことば、行いをさばいて地獄にふさわしいとささやくのは、サタンである。  では、神さまのさばきとはどのようなものだろうか? 12節。神さまの律法は自由をもたらす。どういうことか? 私たちは神さまの基準に従えば、死刑に処せられる究極の罪人である。  貧しい人をさげすみ、有力者をことさらにありがたがる私たちには、神さまから下される死のさばきを受けるにふさわしい。しかし神さまは、このような私たちのことを憐れんでくださった。  私たちの罪は律法で明らかにされたが、私たちは律法によって、神さまのあわれみにすがらなければもはや生きていけない存在だと教えられた。私たちを生かすのは律法を守り行うことではない。律法を守り行えないゆえに、私たちの身代わりに十字架の上でその死により、神の律法をまっとうしてくださったイエスさまを信じることである。そうすれば私たちは、律法を守り行えないゆえに下される神の怒り、のろいから完全に解放していただける。  そうしてイエスさまのゆえに、律法は呪いの律法ではなく、自由の律法となった。「守らなければならない」ものから、「守りたい、守れる」ものになった。神さまの愛、イエスさまの愛を思えば、貧しい人を顧みたい、積極的にかかわりたい、そうなれる。そうなる。  しかし、そうなれない自分を意識すると、神さまはこんな自分のことを怒っておられるのではないか、でもできない、13節のみことばにあるとおり、あわれみのない自分にはあわれみのないさばきが下されるに違いない、ああ、どうしよう、とならないだろうか? しかし、13節は最後まで読んでいただきたい。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇る。神さまのあわれみゆえに、神さまはイエスさまを十字架におつけになり、私たちの受けるべきさばきをすべて負わせられ、もはや私たちがさばかれることは一切ない。  この神さまの愛とあわれみを思う者となろう。そうすることが、私たちを愛に富む共同体へと育て上げる。えこひいきしない、主のからだらしい共同体を形づくれる。

みことばを行うこと

聖書箇所;ヤコブの手紙1章19節〜27節 メッセージ題目;「みことばを行うこと」  今日からひと月ぶりにヤコブの手紙の学びに戻る。  ヤコブの手紙は耳の痛いみことばである。旧約聖書の「箴言」に匹敵する耳の痛さであろう。  クリスチャンはつい、こんなことを言ってしまわないだろうか?「イエスさまの十字架によって罪が赦されたのだから、何をしても許される。」しかし、それで済むなら、聖書はこんなに分厚い必要はない。  私たちはもちろん、分厚い聖書のみことばをことごとく守り行うことによって救われるわけではない。しかし、分厚い聖書はまた、私たちがどんなに罪深いか、それゆえに主に徹底して拠り頼まなければならないかを、これでもか、これでもか、と教えている。聖書のみことばは、私たちが主に拠り頼む信仰を持つうえで必要十分なものであり、その中でもヤコブの手紙は、私たちがどれほど、みことばを守り行うべきであるというみこころから外れた罪人なのかを明らかにしている。  そこで今日の本文を読んでみたい。  第一のポイント。みことばは素直に受け入れるべきものである。  19節。語ることや怒ることは、自分から出てくること、自分を現すこと、自分を表現することである。人はだれしもその欲求がある。しかし、その欲求のままに生きていても、神さまのみこころにかなうものとなれるわけではない。一切語ってはいけない、一切怒ってはいけない、というわけではない。しかし、語るのに遅くあれ、怒るのに遅くあれ、というのがみこころである。つまり、語りたい、怒りたい欲望をセーブして振る舞いなさい、ということである。  実際、20節の語るとおりである。怒ることで正義を果たすかのように振る舞う人がいるが、それはふさわしくない。私は先々週シオン錦秋湖で、ある若干ご年配の牧師先生と同じ部屋になっていろいろお話ししたが、先生は以前、気に入らないことがあると信徒の前でも癇癪を起こすことがよくあったそうである。しかし、それはよくないと示され、先生は睡眠をとることを心掛けるようになったという。そうしてこの10年あまり、怒りの感情から解放されるようになったという、示唆に富んだお分かち合いをいただいた。  ヨナ書を見てみると、神とその民イスラエルに敵対する民であるニネベの人々の間にリバイバルが起こったことにヨナが激怒し、すねてしまったという記述が登場する。そんなヨナに神さまは、「あなたは当然のように怒るのか」と問いかけられた。ヨナは、自分が死ぬほど怒るのは当然のことです、と答えている。神さまに敵対する民が祝福されるなんて、神の働き人としては耐えがたい話だろう。しかし、それでは神さまのみこころから外れている。ここはヨナは、神さまのみこころにしたがって感情を従わせていく謙遜さが求められていた。  なぜ、怒るのに遅くあらなければならないのだろうか? それは、神さまが怒るのに遅いお方だと、みことばが語るからである。どれほど、詩篇のみことばは、神さまが怒るのに遅いお方だと繰り返していることだろうか? しかし考えていただきたい。神さまは私たち人間の不従順のゆえに、天から怒りを啓示しておられるお方である。私たち人間は神さまのこの怒りに触れて、すぐにでも滅ぼされるべき存在である。しかしあわれみ豊かな愛なる神さまは、私たちが滅びることをよしとされず、怒りを遅くしていらっしゃる。神さまのその愛を思うならば、私たちは怒るのに遅い神さまのその御姿に似た者として、怒るのに遅くなれるように取り組めるはずである。  そもそも、神さまの怒りはまったく正当なものである。神さまの怒りには一切間違いがなく、人はそれに対して何も言う資格などない。それなのに神さまは怒りを控えて、私たちのことを赦してくださっている。  いわんや私たちの怒りは肉に属するものだから、どれほど怒りを控えなければならないことだろうか? 私たちの怒りなどどんなに言い訳したところで、所詮人の怒りでしかない。そのような怒りを発することは、主の御前にふさわしいとは言えないことである。  さて、それでは、語ることにおいてはどうだろうか? 人は、自分の心のうちにあるものを語ることしかできない。ということは、自分の中にある語るべきものがよいものでないならば、よいことなど語ることができないわけである。そこで私たちに求められる姿勢は、「聞くのに早い」姿勢である。とにかく耳を傾けることが習慣となっているならば、その人は賢くなるし、その分用いられる。  しかし、聞くに早くあることは相当な努力を必要とする。というのも、人は自分が聞きたいものを優先して聞きたがるものだからである。人の陰口、うわさ話。インターネットから流れてくるあらゆる流言飛語。テレビやラジオ、好きな音楽。こういったものが優先してなだれ込んでくると、もっと落ち着いてじっくり、耳を傾けるべきものが聴けなくなってしまう。聞いたことがないだろうか? 洪水のとき、飲み水がない。あふれるばかりの洪水の中に身を置きつづけているならば、ほんとうに身になるものを受け取れなくなってしまう。  そんな私たちのほんとうに聴くべきもの、「聞くには早く」あるべき対象、それは21節の語るとおり、みことばである。神さまは私たちに、みことばを「素直に」受け入れることを求めていらっしゃる。そのためには何をするのか?「すべての汚れやあふれる悪」を捨てなさい、というわけである。  私たちのうちには、汚れや悪がいっぱいである。イエスさまはおっしゃった、人のうちに入るものは人を汚さない、人から出るものが人を汚すのである、実に、私たちのうちには人を汚すけがれ、また悪がいっぱいである。これらの汚れや悪があるかぎり、私たちはみことばを聴こうにも聴けない。  だからまず、私たちのうちにある汚れや悪を捨てて、心をきれいにすることからしなければならない。それが悔い改めということである。自分がどんなに聖い神さまから外れたものかを御前で素直に認め、しかしそのような自分のことを十字架の上で完全に赦してくださったイエスさまの贖いの恵みに感謝し、この愛の神さまが私を愛するゆえに語り掛けてくださるみことばをただ受け入れる。そうするとき、私たちは神さまの愛をさらに深く味わい、救いの恵みに感謝できるようになる。  しかし、みことばを聴くゆえに神さまに感謝するのは結構なのだが、果たしてそれだけで充分だろうか?   そこで第二のポイント。みことばは聞くだけで終わらせてはならないものである。  みことばは聞くだけで終わらせてはならない。このことをこのみことばは、鏡を見る人になぞらえている。ただ鏡をしばらく眺めて、あとになったらそこに映る自分の姿を忘れてしまうようなものだと。  聖書のみことばは人のありのままの姿を映し出す、鏡のようなものである。それに照らされる自分の姿に、私たちはどれほど自分自身というものを悟り、ああ、これではいけない! と思うことだろうか。ところが不思議なことに、聖書を読んでも読んでも、変わるべきところが変わらないということが往々にして起こってくる。それはなぜだろうか? 鏡に映った自分の姿がよくなければ、それを「直す」ということをしないからである。  その「直す」という生き方。それは、鏡を見て、明らかによくないところ、たとえば顔にごみがついていたら取り、髪に寝癖がついていたら櫛を通すように、ちゃんとなるようにする、そのように、みことばに「せよ」と命じられていることを行い、「するな」と戒められていることをしない、その繰り返し、また積み重ねである。  いや、今日はざっとだけど通読箇所の聖書を読んだよ、それで充分じゃん、というようでは、このヤコブの手紙のみことばによれば、「自分を欺いてただ聞くだけの者」になってしまう。みことばは実践してこそ意味がある。  では、みことばを行うにはどうする必要があるだろうか? 25節。自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて離れないように。聖書のみことばは私たちを束縛して不自由にするものではない。私たちに自由をもたらすものである。  このみことばをひたすら見つめる生き方をすること。そうすれば私たちは、みことば、またみことばに照らされる私たちの改めるべきところを心に留め、みことばを守り行わなければとなる。  提案したいのは、みことばを毎日お読みすることである。そう聞いてげんなりなさらないように。みことばほど私たちを自由にし、喜びを与えてくれるものはない。毎日少しずつでいい。みなさまのお手元の週報には、QT、そしてマクチェイン式聖書通読の箇所が書いてあるが、これを実践していただきたい。時間がないという方はまずはQTの箇所からだけでもお読みいただきたい。少しずつでいい、まずはみことばを読むことから始めていただきたい。そして、しっかり習慣として定着したら、マクチェイン式聖書通読のほうも並行してトライしていただきたい。  しかし、読んだみことばを行うとはどうすることだろうか? それがわかっていないと、読むには読んでも読んだだけになってしまう。そこで第三のポイント、みことばは「具体的に実践すべき」ものである。  26節には何とあるだろうか? 自分の舌を制御しないものは自分の心を欺いている、とある。何といっても整えられなければならないものは、私たちが口から出すことばである。さきほども語ったとおり、私たちは自分の心の中にあるものを語ることしかできない。したがって、汚いことばを語るならば、その人の心は汚い、言うなれば、その人は汚い、ということになる。  ことばづかいは大事である。みことばには、「下品な冗談を避けなさい」という一節がある。これは冗談が好きな人には、厳しい聖書箇所と映るだろう。しかし、下品な冗談、尾籠な冗談や卑猥な冗談もそうだし、人の外見や障害を笑いものにするなど、良識のある人なら恥ずかしくてとても口にできない。人を馬鹿にすることば、罵倒することばもそうだ。イエスさまはそういうことを言う者は死のさばきを受けるとすらおっしゃっている。ことばづかいをどれほど気をつけなければならないことだろうか。  一般の人でさえ口にするのをためらうのに、クリスチャンを名乗る人でこういうことを口にしてはばからない人は考えたほうがいい。彼らはそれがとがめられたら「何を言うか。自分はその人を神の愛で愛しているからこういうふうに言うんだ。ほかの人たちはことばづかいがきれいでも、愛していないじゃないか」などと開き直るつもりだろう。実際そういう人に私はこれまでのクリスチャン生活をとおしてときどき会ってきた。しかし騙されてはいけない。私たちがキリストの人格に変えられるなら、また、聖霊に満たされるなら、ことばづかいもそれにふさわしく整えられるべきであり、下品な冗談、人を罵倒することばを口にするようでは、その人は神の人として認められない。  そういうわけで私たちが具体的に変えられるべきところは、なによりも、どんなことばを口にするかということである。人をののしることば、人に笑いを強要するような冗談ではなく、神さまをほめたたえることば、隣人を愛してその徳を立てることばを語る。それには、みことばを見つめつづけるしかないが、そのみことばから何を語るべきかを、毎日示していただくこと、また、だれに対してそのことばを語って神の愛をあらわすかを示していただくこと、その積み重ねが大事である。  そして27節のみことば。孤児ややもめが困っているときに世話をする、とある。単に愛することをすればいい、というレベルではない。なぜ彼らなのだろうか? それは、お金や着るものや食べるもの、住むところを提供するように、具体的に愛する行いを実践した分の見返りが到底期待できない人のことこそ、優先的に愛することが、神さまのみこころだからである。  うちの教会を見てみると、社会人の方には医療関係や福祉関係の仕事についている方が目立つ。それは、それだけ社会的に弱いところに置かれている人、優先的にケアされるべき人たちをケアする賜物を神さまが授けておられる人たちのことを、神さまはこの教会に多く置いてくださっている、ということではないだろうか。私たちは私利私欲で働いて自分のために稼ぐことがみこころではないことを、私たちはみことばから日々受け取っている。  しかし、私たちは何をすることがみこころであるかということは、この分厚い聖書、言い換えれば、愛の実践の方法をあらゆる形で示している書物から、毎日少しずつ具体的に学ぶ必要がある。この箇所でいえば、ことばを整えること、孤児や寡婦のケアをすることが示されるわけである。  しかし、このみことばをお読みして、そうだ、ことばを何とかしなくちゃ、社会的に弱い人たちのことをケアしなくちゃ、と思うだけでは、鏡を見てそこから離れたら顔を忘れてしまう人と同じである。  もし、このみことばが示されたならば、5W1Hでいけば(これは「たとえば」の話だからそのとおりに必ずしもしなくていい。でも、このとおりに示されたらしていただきたい)、Why、それは神さまがみことばで命じられたから、Who、私は、When、今週中に、Where、○○という団体に対して、How、献金を○○円送金するという方法で、What、神の愛を実践する、というように適用できるわけである。  ことばでいえば、これもサンプルだが、Why、みこころに反しているから、Who、私は、When、きょう一日、Where、一人でいるときも人前でも、どこにいても、How、○○という口癖をしないように祈りながら、What、悪いことばを口にしない、というふうに。たった一日でいい。その積み重ねで私たちは口癖が変わる、というより、神さまのとの関係が深まり、心のうちにあるものが変わる。  こういうことをするのがQT、クワイエット・タイム、すなわち静かにみことばを黙想する時間である。この時間を毎日持つことを心からお勧めする。聖書本文は何を語っているか、とにかく観察して「傾聴する」、そこから、その日に受け取るべき真理を教えていただく、それを生活に具体的に適用し、実践する。  その適用によい方法は、5W1Hである。なお、この場合の5W1Hにおいて、Who、だれ、は、つねに「私」である。家族であれ、教会の人であれ、みことばをほかの人に適用してはいけない。みことばを聴いて変わるべきは、つねに自分である。  そうして、聴くに早くなる人が、肉に属することばを語るに遅く、また怒るに遅くなる、つまり、みこころにかなう人になり、みこころを実践できる人になる。この祝福を私たちはともにいただいていこう。

日本の教会を元気にする

聖書本文;コリント人への手紙第一9章16節~23節 メッセージ題目;日本の教会を元気にする  聖書の中でも、コリント人への手紙第一は面白い。神さまがお選びになったのは、強い人や賢い人ではなく、弱い人や愚かな人だったというのである。今日は韓国の方が複数いらしているが、私は長年、韓国の教会に身を置いてきた。みなさまご存じのとおり、韓国の教会はとても強い。信徒の数も多く、礼拝堂も大きい。賜物のある信徒もたくさんいる。そんな教会とつい比較してしまう日本の教会を思うものだが、日本の教会は弱いゆえに選ばれたことを、このみことばから受け取り、慰めをいただくものである。  そのコリント教会、ギリシャの商業都市、港湾都市に立てられた教会という性格からして、キリスト信徒にあるまじき罪深さ、弱さの露呈した群れであり、そんな点で日本の教会に似ている。本日の聖書本文、コリント人への手紙第一は、問題の塊のようだったコリント教会で使徒パウロが奮闘する様子がそこかしこに垣間見えるみことばである。しかし、その奮闘、苦闘は、「やらされた」「強いられた」苦しみのような、悲壮感、受け身の態度を感じさせない。むしろパウロは、コリント教会を主の教会らしくさせなくしているあらゆる問題にあえて立ち向かっていくような、積極性、やる気に満ちていて、パウロのその態度は読む者に大いなるチャレンジを与えている。  コリント教会の問題はすごい。問題のデパート、総合商社だ。どのリーダーにつくかを巡っての分派分裂、みことばに対する無理解、そのくせ指導者であるパウロを認めない態度、クリスチャンとして到底ふさわしくない性的な問題、教会内の問題解決を自分たちでしないで教会外の者に任せる訴える情けなさ、聖徒としての権利ばかり主張して弱い人を顧みないこと、リーダーに立つべきではない女性がリーダーの男性を差し置いて権威をふるっていること……こんな群れを牧会するパウロはどれほど大変だったか。  しかし、その中でも今日のみことばは注目に値する。異邦人の地であるコリント、俗的な商業都市、港湾都市であるコリントにパウロが福音を宣べ伝え、教会を形成する、その原動力はどこにあったか、それがこのみことばから見えてくる。  これは、日本の地で教会を形成する私たちにとって必要なみことばである。私たちは基本的に、イエスさまを信じていない人たちに囲まれている。その人たちは悪い人かもしれないし、いい人かもしれない。しかし共通してはっきりしていることは、彼らは一様にイエスさまを信じていない、というより、イエスさまを知らないから、そもそも神の愛によって振る舞うとはどういうことか、一切学んだことも教わったこともなく、したがって神の愛を実践することなど一切できない人たち、ということである。そういう人たちに伍して生きていくことは、狼の中で羊が知恵を総動員して生きることを意味し、それだけに毎日みことばをいただき、お祈りすることが欠かせない。  要するに、彼らのことばばかり心に留めていては、私たちはこの世にこき使われるしもべで終わってしまう。そういう者がこの世に対し、いったい何の影響力を発揮することができるだろうか。せっかく生きているというのに、それではあまりにももったいないではないか。今日の本文で、パウロは奴隷の道を選択した旨語っているが、世にこき使われる不自由な奴隷という意味ではない。世のことばに左右されているなら、世の奴隷となるしかないが、そのようなものは自由ではありえない。  そこで今日のみことばである。私たちは何者なのか。何のために生きているのか。それを今日のみことばから確かめたい。実を言うと、私はこのところ、否が応でもそのことを意識せざるを得ない環境に置かれつづけてきた。先週の保守バプテスト同盟の総会につづくチームワークミーティング、そしてその帰り道に寄った、地元にカフェとして開かれている教会、なによりも、うちの教会を整備するという大事な働きをしてくださったふたりの主のしもべ……こういった方々との交わりをとおして、日本の教会を元気にするために一生懸命になっている聖徒たちの麗しさをあらためて知った。  それなら、私たちはどう生きるべきだろうか……今日はそんな思いを込めて、みことばをお取り次ぎしてまいりたい。あとでお楽しみもあるので、期待して聴いていただきたい。  16節。パウロは誇り高き福音宣教者であり、その誇りを、福音宣教の報酬を払ってやるから言うことを聞けとばかりに接してくる教会員たちに奪われてなるものか、という態度が根底にある。だからパウロは、福音宣教者として当然主張できた報酬を一切受け取らず、自発的に、この問題だらけの群れで仕えつづけた。  パウロがしたことは、教会形成であった。しかし、教会形成とは同時に、福音宣教である。イエスさまを信じれば救われますよ、とキリストを伝え、その人がイエス・キリストを救い主と信じ受け入れてバプテスマを受け、クリスチャンになったならばそれで福音宣教は終わりではない。  教会とはみことばが語りつづけられることによって形づくられるもの、という前提に立つ以上、その教会を立て上げ、形づくる教会形成とは、即、福音宣教である。パウロはその福音宣教において誇り高いプライドを持っていた。しかし彼は同時に、福音を宣べ伝えることは自分の誇りではない、とも告白している。これは矛盾しているようだが、矛盾してはいない。これは、この誇りは主にあっていだくべき誇りであって、パウロという人間個人に帰せられる誇りではない、ということである。  そして神さまはパウロに、福音を宣べ伝える生き方しかお許しにならなかった。その福音宣教に外れた生き方をすることは一切できないことをパウロはわかっていた。だからその召命に忠実に生きるしかなかった。その召命にちょっとでも外れることはわざわいであった。私たちは国道沿いを歩くとき、必ず歩道だけを歩き、車道にははみ出さない。車道にはみ出したらいのちに関わると知っているから、歩道しか歩かない。同じように、神さまの召命以外の道を歩んだらわざわいと知るから歩まない。その召命が、福音宣教である。その道を歩くとポイントが増えるからいいとか、霊的ステージが上がるからいいとかいうことではない。それ以外の道は危険だからとても歩けない、召命に従えば安全だから歩くということである。  17節によれば、パウロにとってのこの福音宣教の働きは、自発的ともいえるし、自発的ではないともいえると告白している。これはどういうことかというと、パウロの働きは神さまがさせてくださるものであり、同時に、パウロがやる気を出して取り組んでいることでもある、ということである。神さまが志を立てさせ、事を行わせてくださる。神さまと人がひとつとなって神の栄光のためのことを推し進める、召命とはそれゆえに素晴らしいものである。  さて、18節を見ると、そんな自分の働きには報いがあると告白している。まるごと読もう。……一瞬、目を疑わなかったか? 無報酬、自分の権利を用いない、これがいったい報いなのか? しかしこれはれっきとした「報い」なのである。それは、この世に属する報いではない。この世に属する報い、たとえば献金であったり、福音伝道者としての名声であったり。また、それに付随して、「エライ」先生として振る舞ったり。そういうものは神さまの御前にはすべてむなしいものである。そういう報いが一切ない、というより、そういう報いからまったく自由である、報いはなにか、神さまご自身。これは最強の報いである。  これは、イエスさまを信じれば病気が何もかも治る、とか、お金持ちになる、とか、人々から尊敬されるようになる、とか、そのような、きわめて底の浅い福音理解の対極にあるものである。いったい、そのような目に見える祝福を求めることは、神の栄光と何の関係があるというのか? 新興宗教のようなご利益を私たちクリスチャンが追求することは果たして神の前にふさわしいことだろうか? もちろん、みこころにかなえばそのような目に見えるものを祝福としてくださることもあろうが、ほんとうの祝福はそのようなものではない。神さまご自身である。私たちが「よくやった、良い忠実なしもべだ。主人の喜びをともに喜んでくれ」との御声を終わりの日に聞きたいなら、求めるべきは、どうかパウロのこの境地に立たせてください、私はあなたさまだけで満足します、どうか用いてください、と、つねに祈ることではないだろうか?  19節の告白を見よう。こんな境地に立てたパウロはどれほど自由だろうか? しかし、パウロは、すべての人の奴隷となったと告白する。これは、人に強いられて奴隷になったのではない。自由人として、神と人の奴隷となる道を選んだという、自由の中での選択である。したがって、この上なく不自由な立場である奴隷ではあっても、パウロはだれよりも自由であった。  それは、ここにあるとおり、「獲得するため」とある。もしパウロが、ユダヤ人という立場にこだわったり、あるいは逆に、異邦人宣教の使徒という立場にこだわったりしていたならば、パウロは自由ではありえない。しかしパウロは、あらゆる立場の人の奴隷に進んでなることによって、だれよりも自由な立場に置かされていたのである。  24節。このパウロの告白はすごい。すべてのことを福音のためにしている。私も言ってみたい。私たちの地上の歩みは、こう言い切れるほどに生きることを目指しつづける歩みである。この境地に達していないからとあきらめてはならない。この生き方を主が完成させてくださることを信じ、主に希望を置いて歩みつづけることである。  パウロはその歩みをすることが、福音の恵みをともに受けることであると告白する。私たちは福音宣教に用いられるならば、この世の何者も与えることのできない喜びを体験する。いや、時には祈っても聞かれないような苦しみのどん底の中に置かれよう。しかし、そこにも主がともにいてくださり、御父の右の御座で私たちのために涙を流してとりなして祈ってくださっていることを知る。いかなるときにも神さまがともにいてくださること、その恵みは、すべてのことを福音のためにすることを目指しつづけることによって味わえるものである。  さて、今日のメッセージのタイトルを、私はなぜ「日本の教会を元気にする」とつけたか? それは、さきほども少し触れたが、「すべてのことを福音のためにして、福音の恵みをともに味わう」方々の姿に触れ、私たちもそうなりたい、私たちも自分の属する日本の教会を元気にする働きに用いられて、祝福と恵みを味わいたい、と思うからである。  先週火曜日と水曜日に岩手県のシオン錦秋湖で行われた、保守バプテスト同盟のチームワークミーティングは、教職者たちのための研修会である。今年のテーマはクリスチャンの「婚活」について、また「J-Venture(保守バプテスト同盟関連の宣教団体)」の働きについてで、まったくちがう2つの働きの紹介だった。しかし、一見するとミスマッチなこの両者に共通するものは、「日本の教会を元気にすること」であった。  「婚活」ということについて、「リベカ」の中西代表、辻副代表、そして「リタマリッジサービス」の津村所長のプレゼンテーションをお聴きした。商売敵が一緒にコラボを組む、なんて、とても面白い。彼らのコンセプトはこういうことである。次世代が育っていれば日本の教会はどんなに元気になっていたか、自分たちの教団教派にこだわりつづけた結果、教会を超えた信徒同士の結婚がうまくいかず、晩婚化が進んだり、日本の教会はとても弱くなってしまったではないか、クリスチャンの婚活サービスは、そんな日本の教会を元気にする、極めて福音宣教志向的なミニストリー。  J-Ventureの宣教師もすごい。教会の牧会だけではない。伝道と弟子訓練のツール開発と普及の働き、メディア宣教、ゴスペル教室やノイズミュージックといった音楽をとおしての宣教、学校の先生……実に多種多様な活動をとおしての福音宣教の働きに、アメリカやカナダからここ数年で何と40もの家庭が献身して日本にやってきた。この働きで確実に日本の教会は元気になっていることを実感した。  帰り道、私は車に乗せてくださった千葉先生という方の牧会する、山形市の「こひつじキリスト教会」に立ち寄り、おいしいコーヒーをごちそうになった。一見すると教会とは思えないようなしゃれたカフェで、ちょい悪おやじのような外見の千葉先生がコーヒーを淹れてもてなしてくださる。こうした働きで確実に山形の教会は元気になっていることを実感した。  そして、先週の木曜日、うちの教会にふたりの韓国の兄弟がいらしてくださった。とにかく日本の教会を元気にしたい情熱に燃えた、賜物がたっぷり与えられた方々である。そのお働きで見ていただきたい、照明も音響も見ちがえるようになった。うちの教会が元気になった。  まず、そのおひとり、「ジョン神谷」さんことチョン・ソンヨン兄は、「エゼルミニストリー」という働きをしていらっしゃる。もともとが有能なビジネスマンであったとともに、音響や演奏や工事などあらゆる賜物をお持ちの方だが、このたび兄弟の献身によって、音響を整えていただき、浴室を直していただいた。まさに教会を元気にする方である。神谷兄の働きは多岐にわたっていて、被災地における物心両面での復興支援、教会の夏のキャンプの企画、格安で光る十字架を礼拝堂に取りつける働きなどなど。最近力を入れているのは、千葉、浦和、八王子といった、首都圏の都市部で若者たちを複数の教会から集め、訓練して賛美集会を運営させる「リズン」という働き。こうして次世代が育てられ、教会は元気になる。その恩恵に私たちの教会もあずかったというわけで、感謝というほかない。  そしてもうひとり、ハン・ジョンソクさん。韓国の一流企業で18年にわたって建設部門を担当し、退職して信徒宣教師として日本とフィリピンの宣教に献身してこられた。ちょっとお証しをしていただこう。  あらゆるしかたでキリストが伝えられている。それによって日本の教会は元気になっている。私たちが疲れて動けなくなっているとき、主は御使いを遣わすようにして、助けてくださる兄弟姉妹を起こし、その働きをもって教会を祝福してくださる。そんな働き人の見返りなく働く献身の歩み、それは祝福の歩みというほかない。  私たちはいつか、元気にならなければ。いや、今からでも歩き出したら、主はそれに見合った力をくださるではないか。列王記第一19章のみことばのように。私たちの旅、神の栄光をあらわしつづける旅路はまだまだ続く。その旅に力を得させてくださる方々の存在ゆえに主に感謝したい。そして、私たちも力を得て、日本の教会を元気にする働きに用いられていこう。受けるより与えるほうが幸い、その祝福をともにいただこう。

ペンテコステと福音宣教

聖書箇所;使徒の働き2:1~4 メッセージ題目;ペンテコステと福音宣教  メッセージのはじめに、ペテロの手紙第一1章8節と9節で、ペテロが聖徒たちに語ったみことばを紹介したい。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」  イエスさまを見たことはない、そう、ペテロの宣教によってイエスさまを信じた人たちは、イエスさまのお姿を肉眼で見たわけではなく、肉声を耳で聞いたわけではない。しかし、イエスさまを愛しているし、イエスさまを信じている。喜んでいる。それは、信仰を持っているから。信仰によって、たましいが救われているから。  このみことばは、初代教会の信徒たちだけでなく、古今東西、イエスさまを信じている人ならだれにでも当てはまる。もちろん、私たちだってそうではないか。もし、今からみなさまに呼びかける問いに「そのとおりだ」と同意するなら、「アーメン」と言って答えてほしい。私たちはイエスさまを愛しているか? イエスさまを信じているか? イエスさまゆえに喜んでいるか? イエスさまの救いをいただいているか? みんなアーメンではないか。  この、イエスさまへの信仰を得させてくださるお方はだれか? イエスさまを愛させてくださるお方はだれか? それが、聖霊なる神さまである。イエスさまは十字架にかかり、復活され、天に昇られ、いまここには目に見える形ではいらっしゃらない。しかし、イエスさまが天に昇られて、私たちには聖霊なる神さまが送られた。私たちは聖霊さまによって、イエスさまを信じ、救われ、導きをいただいて神のみこころを知ることができるようになった。みこころにお従いして、この地において神の栄光をあらわすことができるようになった。みな、聖霊なる神さまのみわざである。  今日はペンテコステ、聖霊降臨祭である。2000年前、聖霊がお下りになり、キリストのからだなる教会はほんとうに呱呱の声を上げた。この日はそれゆえに、「教会の誕生日」とも言われている。そうだとすると、ペンテコステは、イエスさまのお誕生をお祝いするクリスマス、イエスさまのご復活をお祝いする復活祭と同じように大事な日と言えるのではないだろうか?  そこで今日は、このペンテコステの日に何が起こったかを見てみたい。それは神さまが大いなるみわざを起こされた日であり、この日だけでペテロのメッセージによって3000人ちかくもの人がバプテスマを受け、教会の仲間に加えられた。たいへんなことである。  本日は、この日に起こったできごとの最初の部分、使徒の働き2章1節から4節に記録されている部分から集中的に学んでみたい。1節のみことば。みなは集まっていた。彼らはイエスさまによって立てられた十二弟子を中心とした群れであった。十二弟子のほかに、ヤコブの手紙を書くことになるヤコブ、ユダの手紙を書くことになるユダたち、マリアから生まれたイエスさまの肉の弟である、いわゆる「主の兄弟」たちがいたし、イエスさまにつき従っていた女性たちもいた。そこにはイエスさまの母であるマリアもいた。  彼らは集まって何をしていたのだろうか? 先行する箇所である使徒の働き1章14節によると、いつもともに集まっては祈っていたことがわかる。実は、福音書から通して時系列に従って読んでみると、その前に彼らがお祈りしたという箇所は、ゲツセマネの園の箇所にさかのぼる。イエスさまがゲツセマネの園にペテロ、ヤコブ、ヨハネの弟子のリーダーのトリオを連れていかれたとき、イエスさまは彼らに「祈りなさい」と命じられたのに、彼らは疲れと悲しみで祈れなくなり、眠り込んでしまった。つまり、彼らは祈ることに失敗していたのであった。  しかし、十字架と復活を経た彼らは強くなった。そして今はもうイエスさまは天に昇られてここにはいないが、彼らはひたすら祈った。ゲツセマネの園でひとたび祈ることに失敗した彼らの祈りを成功に導いていたものは、120人ほどの信徒の存在だった。  ここに、ともに祈ることがどんなに大事か、見えてこないだろうか? ここで私は恥ずかしい罪の告白をしたい。私はもともと、早天祈祷を当たり前のようにささげる教会で過ごしてきた。1997年から韓国の神学校で学んだが、神学校は朝5時からの早天祈祷の出席を、会社で使うようなタイムレコーダーで管理していた。所定の出席回数が足りない神学生はどうなるか? 次の学期から寄宿舎にいられなくなる。早い話が、早天祈祷をささげられない神学生はペナルティとして追い出されるわけである。そんなわけで、否が応でも早天祈祷は出なければならない。こういう生活を私は3年つづけた。  その後、仙台の教会で3年、東京の韓国人教会で7年奉仕したが、どちらの教会も早天祈祷は「義務」、「ノルマ」だった。眠いなどといってちょっとでも休んだら、どんな制裁を受けるかわかったものではなかった。そのとき牧師から受ける叱責のことばは、早天祈祷に欠席する私は牧師になるのにふさわしくないというほどの激しいもので、私はそのことばを聞きたくない一心で、どんなに眠くても、どんなに疲れていても、早天祈祷に出席した。  以上合わせて13年の生活をとおして、早天祈祷は当たり前にささげるものという考えが染みついていた。しかしこの13年は言ってみれば、「やらされて」やっていた祈りに過ぎなかった。それを覆すできごとが起こったが、それは私が、この水戸第一聖書バプテスト教会にお招きいただけるかもしれないというお話をいただいたということで、2013年の暮れごろのことだった。それから私はほぼ毎日、家の近所にあった妻と私の派遣教会の早天祈祷に通い、祈りつづけた。おそらくその経験は、私が心から必要に迫られて毎日夜明けの祈りをおささげした、初めての体験だったといえる。そこまで来るのに、神学生になってから実に16年の月日を要した。  そうして私は日本に来たが、年齢にして40代だったそのとき、まるまる40代のほぼ毎日、私は早天祈祷をささげることをしなかった。何度となくチャレンジしようとはしたものの、多分に律法的な発想で、つまりしょせんは肉の発想で早天祈祷をしようとしていたから、肉体の弱さが霊の働きに大勝ちし、眠くてどうにもならなかったというわけだった。  しかし、今年、ペンテコステを前にして3週間の早天祈祷をするように導きをいただくと、私は休まずに毎日、お祈りをささげることができるようになった。それは、オンラインでつなぐことで、たとえ礼拝堂にはいらっしゃらなくても出席してくださる信徒の方と、早天の祈りにおいてつながるという、義務感、サボってはならないという危機感もさることながら、それ以上に、ともに祈る仲間が送られている喜びが、私の朝のお祈りにおいて背中を押したのだった。  事程左様に、祈りにおいては仲間の存在が大事である。私たちはともに集まるということをしていなくても、個人的に祈りの生活をしています、と、たやすく口にしてはいないだろうか? ともに祈ることの力を体験していただきたいが、それはともに集まって祈ることでしか体験できない。本日、特にメッセージのあとで祈りの時間をじっくり持ちたいが、ともに祈る恵みをそこで体験していただきたい。  さて、本文に戻るが、彼らが集まって祈っていると、そこに主のみわざが起こされた。2節。激しい風は列王記第一19章に、主のご臨在の現れとして登場する。その激しい風は岩さえも砕き、バアルの預言者たちに勝利してもなお敗北感に打ちひしがれていたエリヤに、主はご自身のご臨在と御力をお見せになった。そのほかにも旧約聖書にはところどころ、「激しい風」が登場するが、ひとつを除いてみなそれは偉大な主と関係を持っており、その多くは主がさばきを行われるさまをあらわしている。  そう、主が激しい風をもって臨まれるということは、人々にさばき主としてご自身を現されるということである。  ここで私たちは、ペンテコステの日にペテロが聖霊に満たされて語り、人々を悔い改めと信仰に導いたメッセージが、「神が今や主ともキリストともされた(この)イエスを、あなたがた(イスラエルの全家)は十字架につけたのです」(36節)というものだということに注目すべきであり、あなたがたの罪とはイエス・キリストを十字架につけることである、その罪のさばきを免れるにはイエスさまを信じて悔い改めなさい……ペテロの語るメッセージは激しいさばきをもってこの世をさばくさばき主であったが、そこから救われる道は悔い改めてイエスさまを信じ、その御名によってバプテスマを受けることであるとも語った。  さて、激しい風のような響きが家全体を覆ったと思ったら、今度はもっとすごいことが起こった。3節。……舌とは何だろうか? なぜ、聖霊降臨をあらわす炎のようなものを「舌」と言っているのだろうか?   私たちは「舌」というと、どういうイメージを持つだろうか? 「舌つづみ」「舌が肥えている」など、ものを味わうイメージだろうか? あっかんべーと相手を威嚇したり、照れ隠しにペロッと出したりするイメージだろうか? しかし、そういうイメージに左右されるのではなく、聖書が「舌」というものについて何と語っているかを知る必要がある。  今回のメッセージを準備するにあたり、私は聖書に「舌」という表現がどのように登場するか調べてみた。すると、新改訳聖書2017で「舌」と訳された語句が登場する節が、旧約聖書には86節、新約聖書には、今日の箇所を含めて19節登場することがわかった。合わせると105節になる。これはかなり多いのではないだろうか?  意味はいくつかある。ひとつは言うまでもなく、人間、または動物の肉体の器官としての「舌」である。これが旧約にかぎると(聖書解釈のしかた次第で数え方が変わることもあり得るが)8節。しかし、圧倒的に多いのは、「ことばを発する器官」としての「舌」、あるいは「ことば」その者を象徴的に指しての「舌」である。合わせると、旧約で86節のうち77節、新約は本日の箇所を除いた18節のうち実に16節が「ことば」と関係がある。104節のうち93節、実に89パーセント以上、10か所のうちざっと9か所は、舌とはことばを指す。  となると、聖書的文脈から、この使徒の働き2章3節の「舌」、彼ら祈る者たちに臨んだ火のような舌は「ことば」と深い関係があると考えるのが自然である。実際、そのできごとにつづいて、4節にあるとおり、彼らは御霊が語らせるままに語り出した。聖霊とはまさしく、ことばを授けてくださる主である。  ここで、さきほど、舌は舌でも「肉体的器官」と「ことば」のどちらにも分類しなかった2つのみことばを取り上げてみたい。それはイザヤ書5章24節と、同じくイザヤ書30章27節で、そのどちらも、さばき主である主の御怒りをを「火の舌」になぞらえている。5章24節では神の民に対するさばき、30章27節では諸国に対するさばきが宣告されているが、いずれも「火の舌」がさばくとある。  これだけではなぜ、主の御怒りを「火の舌」と表現しているかがわからない。しかし、イザヤ書5章24節に注目しよう。イスラエルが主の御怒りに触れたのは、「彼らが万軍の主のおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のことばを侮ったからだ」とある。つまり、このさばきは主のみことばと強い結びつきがあるのである。  さきほども少し触れたが、ペンテコステの日にペテロに授けられたメッセージは、神の子主イエスを十字架につけたイスラエルの民に対する警告のことばである。イエスさまとはどなただろうか? 神のみことばが人となってこの世界に来られたお方である。この方を信じる人には神の子どもとされる特権を与えてくださる。それは、神に反逆することを自ら選ぶゆえに神の御怒りのさばきを受けるにふさわしい私たちを、永遠に救ってくださり、神のものとしてくださる、ということである。  ヨハネの福音書3章16節から18節をお読みしよう。神のみことばはさばきではなく、愛である。しかし、このみことばを侮り、ないがしろにする、すなわちイエスさまを十字架につけるほどの罪人であってもなお、イエスさまに立ち帰ることをしないならば、そういう人は「御子に聞き従わない者」であり、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまるとみことばは語る(ヨハネ3:36)。  彼ら主の弟子たちが、国々からエルサレムに集まった在外ユダヤ人や異邦人からの改宗者たち、そんな五旬節の巡礼者たちそれぞれのいろいろな言語で語ったことは、異口同音に「神の大きなみわざ」であった。それが具体的になんであったかは聖書には書かれていないが、私たちは「神の大きな(最大の)みわざ」は、イエスさまが人となって来られたこと、このイエスさまを信じれば救われて、永遠のいのちをいただく、ということである。  ペンテコステの日に語ったのは、神の大いなるさばきであるとともに、神の大いなる救いであった。私たちの神は愛であるが、甘ったるい愛ばかり語ってもほんとうに伝道したことにはならない。あなたは愛されています、と語るのも結構だが、私たちが神を知るうえでほんとうに知らなければならないことは、私たちは神のみことばである主イエスを無視した罪人、主イエスさまを十字架につけたほどの罪人であり、なんとしてでもそれゆえに受ける罪の罰、死とさばきと滅びという罰から救っていただかなければと必死になること、そうして私たちは、すべての罪の罰を十字架の上で身代わりに背負ってくださるほどに私たちを愛してくださったイエスさまに出会い、イエスさまを受け入れ、永遠に救っていただくのである。  この、世の悪を明らかにされる聖霊をいただいた私たちは、世に対し、人々の罪を明らかにし、そこから救ってくださるイエスさまを、聖霊に満たされて語るべく召されている。十字架にかかられて死なれたが、しかし復活されたイエスさまは、弟子たちにおっしゃったように、私たちにおっしゃっている。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」そのとき私たちは火の舌、炎の舌のように燃えることばで、世の罪、人の罪を明らかにすることもあるかもしれない。しかし、その罪から救ってくださるイエスさまの福音も同時に語る。その福音を受け入れた人は、私たちのことばをとおして罪が赦される。  この、人の罪を赦し、永遠のいのちを得させるわざ、これぞ伝道、宣教である。その働きを私たちにさせてくださるお方、そのときどきにそれにふさわしい必要なことばを授けてくださるお方、それが聖霊である。  主よ、遣わしたまえ。語らせたまえ。今日はともに祈ろう。

反面教師の親、模範的な親

聖書箇所;サムエル記第一2章12節~21節 メッセージ題目;反面教師の親、模範的な親  昨日私と妻は、「わたしのかあさん」という映画を観に行ってきた。知的障害を持った親を葛藤を抱えながらも受け入れられるようになるにつれ、成長していく少女の物語である。この作品を見ると、人はたとえ知的障害を持っていようとも素晴らしい存在であり、大きく用いられる、という、勇気づけられるメッセージを受け取れる。何といっても、どんなに母親に対して悲しんだり、怒ったり、呆れたりする娘のことを変わらずに愛しつづける母親の姿にとても感動した。ほんとうに、教会のみなさまにご覧いただきたかった。機会があればぜひご覧いただきたい。  そんな映画の余韻に浸りながら、私は母の日を迎えた。ああ、そういえばうちの母にもしばらく電話していなかったなあ。親孝行しなくちゃなあ。そんなことも思う。今日、母の日に、私たちは親というものについて考えていこう。  聖書は親子関係というものについても扱っているが、今日はその中から、サムエル記第一の最初の部分から学びたい。サムエル第一、それは預言者サムエルと、そのサムエルに油注がれて王となったサウル、そしてダビデについて語るみことばだが、サムエル記第一の最初の部分は、サムエルがどのように生まれ、神の人として立てられ、育てられてきたかを語っている。  その、サムエルの生い立ちに対し、対照的な姿で登場するのが、サムエルの母であるハンナを導いた祭司エリの息子、ホフニとピネハスである。今日の箇所は、神の人として立てられ、育てられながら、あまりに対照的だったこの両者を育てた親の様子から、親というものは主の御目にどのようであることがふさわしいか、特に今日が「母の日」であることから、サムエルの母ハンナの立場に注目して見てみたい。  12節。彼らはよこしまな者たち、とあるが、新改訳聖書の欄外脚注にあるとおり、これは直訳すると「ベリヤアルの子ら」となる。ベリヤアル、とは、「無益な、悪い、役に立たない」という意味であり、したがって彼らは、無益な子、悪い子、役に立たない子、というわけであった。祭司としてハンナとサムエルの親子を霊的に導いた父親エリとはまったくちがう、役立たずの子ども、というわけだった。  なぜ彼らはそのように悪く、無益で、役立たずだったのか? それは「主を知らなかった」ということばに集約されている。別の訳の聖書を読めば「主を知ろうとしなかった」とある。彼らはちゃんと祭司という肩書を持っていた。ハンナとサムエルの親子をりっぱに導けるだけの霊的指導者、エリを父親に持っていた。彼らは主を知り、みことばを学ぶ環境においては最高だった。なのに彼らは学ばなかった。学ぼうとしなかった。  いったい、何が彼らを、主を知ることから遠ざけていたのか? それを説明するのが13節以下のみことばだが、早い話が、彼らは民のささげる肉のいけにえを横取りして、いけにえとして焼き尽くして主にささげることをせず、むさぼり食うことをしていたのだった。  そのことを17節では、彼らホフニとピネハスが「主へのささげ物を侮った」と総括している。これがどれほど大きな罪か想像できるだろうか? いけにえとしてささげる家畜は、初子の最良のものでなければならない。ちょっとでも傷があったり、障害があったりするものは、ささげてはならない。  家畜を飼う者たちとしては、初子、はじめて生まれた子どもたちは、とても愛おしい存在ではないだろうか。しかもその中でも、傷のない完璧なもの……しかし、それを惜しげもなくほふり、焼き尽くすということは、最良のいけにえをどうか主に受け入れていただきたいという、切なる献身の現れである。  いけにえを焼き尽くす炎を見るとき、イスラエルの民は、痛みの伴った献身を果たすことができたことに、心からの感謝を主におささげしたことだろう。主よ、あなたさまはこうして、私の献身を受け入れてくださいました! 感謝します!  それが何か。その肉を焼き尽くすことをしないで、勝手に肉を取って食べるわけである。俺は生の肉を食べるぞ、ということは、焦げて食べられなくなった肉ではなく、少し焼いていかにも香ばしい肉を食べるわけである。いけにえになるのは最良の家畜ですから、それを焼いて食べたらおいしくないわけがない。だが、それは焼き尽くしてささげるものであり、みな主のものである。祭司とは、そのようにして民のささげ物を主にささげる役割をする立場にあるのに、その肉を神さまになり代わって食べようというのだろうか。神さまにささげる最高の礼拝を私利私欲のために横取りしようというのだろうか。  祭司の子は祭司、という、世襲は、残念ながら主に対する敬虔さ、また恐れというものまで伝えてはくれなかったようである。だが、ホフニとピネハスの発言に、とても気になる表現がある。15節を見るとこのようにある。 「人々が脂肪を焼いて煙にしないうちに祭司の子はやって来て、いけにえをささげる人に、「祭司に、その焼く肉を渡しなさい。祭司は煮た肉は受け取りません。生の肉だけです。」と言うので、とあるが、自分たちのことを肩書で「祭司は」と言っていることに、注意が必要である。自分たちのことを肩書で呼ぶなんて、いかにも自分が霊的に特別な存在だとでも言いたいのだろうか。  ホフニとピネハスはエリにとって次世代にあたるが、次世代がしっかり育つ上で、私たち年長の世代の者たちの責任は大きい。反面教師として、ホフニとピネハスの父親であるエリの場合を見てみよう。エリは、ホフニとピネハスがいけにえの肉を横取りしていること、そればかりか、神殿で仕える女性たちに姦淫の罪を働いている、ということを聞いた。だがエリは何と言っているか? 24節。……うわさが悪いから彼らが悪いのか? いや、人のうわさが彼をさばくのではなく、神が彼らをさばく。ホフニとピネハスがそのような罪を犯していることを、神殿の責任者であり、ホフニとピネハスの監督者でありながら普段から見抜けなかったエリにも大きな問題がある。いえ、見抜けなかったどころか、そのようなよこしまな指導者を、エリは親として育ててしまったわけである。  25節のエリのことばを見よう。……確かに、言っていることは正論である。しかしよく見てみよう。何かおかしくはなかろうか? 仲裁に立つ存在はいないわけではない。私たちには仲裁に立つ存在がおられる。それはイエスさまである。イエスさまは十字架にかかってくださり、神と人との仲裁の役割を果たされた。ということは、こんなことを言うエリは、祭司でありながら、キリストが見えていなかったことになる。神に対して人が犯す罪を仲裁される存在であるキリストに出会えなかったならば、祭司である自分自身も罪人ゆえに神の御前にへりくだって出るべきであることがわからなくなってしまう。エリは、子どもたちを救い主に出会わせるという、本来もっともすべきことができていなかったのである。 百歩譲って、この時代はイエスさまが生まれるはるか前の時代だった、だからエリにキリスト理解がなかったのは当然ではないか、と考えてみよう。しかし、それまでの時代にも、救い主キリストを見せた役割をした人はいて、祭司ともあろう者なら、そういう人たちをとおして、救い主キリストが見えていなければならなかったはずである。例えばモーセがそうだった。神を捨てて金の子牛を礼拝した民を滅ぼすとおっしゃった神さまに、いえ、むしろ、私の名前こそいのちの書から消していただきたいと懇願した。それをお聞きになった神さまは、イスラエルを滅ぼし尽くすことをなさらなかった。アブラハムもそうだった。ソドムとゴモラを滅ぼすと告げられた神さまに何度も交渉して、10人の正しい人がいれば滅ぼさないでいただきたい、と条件をつけ、神さまから約束を引き出した。神さまはその祈りに応え、ロトを救われた。 こういうケースを、エリが知らなかったはずがない。しかもモーセやアブラハムの場合は、自分が罪を犯さなかったのに、身代わりとなって神さまに懇願したわけである。エリはどうか。このようにホフニとピネハスを育ててしまったことに対する悔い改めが先立ってしかるべきではないか? その上で、神さまに対して自分自身が、親として、霊的指導者として、仲立ちに立つ祈りをささげるべきではなかったか? みことばがわからなかったという点でも、子どもたちの罪の責任を負おうとしなかったという点でも、エリは親としてふさわしい役割を果たすことができなかった。 ここで、もうひとりの親、サムエルの母、ハンナのケースを見てみよう。 ハンナはエルカナという男性の妻だった。しかし、エルカナにはもうひとり、ペニンナという妻がいて、このペニンナには子どもがいた一方で、ハンナには子どもがいなかった。子どもがいないということはその頃、祝福が臨んでないことと見なされていた。そんなハンナはエルカナに愛されていたが、ハンナのことを、子どもがいないという理由でペニンナはいじめた。 この一家は、毎年1回、主の神殿に参詣することを常としていた。そう、エリの親子が仕えていた神殿である。エルカナの一家は、それほどまでに主に敬虔な家族であったが、ともに主の前にこの家族が出るとき、ハンナは否が応でも、子どものいないわが身の悲しさを思ったことだろう。 ハンナは思いあまって、泣きじゃくって神さまに祈った。まるで酔っ払いのように取り乱して祈った。しかし、その祈りの内容が振るっていた。生まれた子どもを主にささげるというのである。そう、子どもは私のものとしてほしいのではない、あなたのものとして、あなたの必要のために送り出します、というのであった。 そして神さまはハンナの祈りを聴き届けてくださり、子どもを授けてくださった。ハンナは祈って誓願を立てたとおり、サムエルを神さまにささげた。具体的には、祭司エリのもとで、主の献身者、すなわち祭司になるための教育を受けさせた。それも、乳離れしたらすぐにサムエルをエリのもとに住まわせるという徹底ぶりであった。 それでも、ハンナは母親であることをやめたわけではなかった。ハンナは年ごとの神殿における礼拝に赴く際、幼いサムエルのために小さな上着をつくり、持っていってやった。 その小さな上着を縫ってやっているハンナの気持ちを考えてみよう。先週の礼拝で、初穂とは最良のものであると学んだが、サムエルを神殿に送ったということは、ハンナにとって最良の初子のいけにえ、奇蹟をもって応えられたたましいをささげたということである。 その息子とつながれるのは、この母親の祈りをこめて縫い上げた服……それを着ていてくれるならば、母と息子はつながっていられる……どんな気持ちでハンナはこの服をつくったことだろうか。肉親としての息子に対する愛情を注いだという意味もあるが、息子といういけにえをより神さまに受け入れられるにふさわしく整えたという意味もないだろうか? そんなハンナが、じっくりつくり上げた小さな上着を手にして神殿に参詣し、献身者として成長するサムエルを見たら、どんなにうれしかったことだろうか? 私たちの小さなころを思い起こしていただきたい。幼稚園や小学校の名札、体育着には、お母さんがていねいに名前を書いてくれた。そんなお母さんは普段、学校という場所には決して入ることができない。しかし、子どもを人として整えてもらうために、あえて幼稚園なり学校なりに送り出す。子どもの持ち物を親が用意してあげることは、そんな、会えない子どもと親をつなぐ絆のようなものではないか。 そんな親の楽しみにしているもののひとつが、授業参観である。子どもの置かれている現場にまでやってきて、そこで子どもがどのように育てられているか、さらには用いられているかを見ることは、親として大きな喜びというしかない。私は昨日子どもの授業参観に行ってきた。普段、思いを寄せていても決して入れない場所に行ってきたわけである。親として用意してやった制服に身を包んで子どもが授業を受けるさまは、見ていて感動を覚える。先生が生徒たちに課題を出して、それを一斉に解かせるとき、うちの子どもの鉛筆は動いているかな、と見守るのは、なかなかハラハラドキドキの体験である。しかし、こうして学校という現場で育てていただいていることはとても感謝なことだと感じるしかなかった。 幼いサムエルに小さな上着を持っていってやるハンナがその神殿でささげる祈りは、やはりサムエルのことであっただろう。その母の祈りに主はお応えになり、やがてサムエルは全イスラエルをさばくリーダーとなり、果てはダビデ王を立てる神の器となった。 ハンナの熱い祈り、ハンナの献身を主は喜んで受け入れてくださり、サムエルに代わる子どもを授けてくださった。あの、どんなに祈っても子どもが産めず、夫の無理解、もうひとりの妻のいじめに耐えてきたハンナのことを、ついに主は顧みてくださったのだった。 とは言っても、だいじな初子を神さまにささげたという事実に変わりはない。その献身に導かれるのは、実に大きな恵みなしにはできないことである。 サムエルは、エリのような愚鈍な霊的指導者、ホフニとピネハスのようなならず者の先輩に囲まれ、霊的指導者として訓練されるうえで、条件はよくなかった。しかし彼は、すばらしく成長し、神と人とに愛されたとみことばは語る。その背後にはハンナの祈りがあった。  サムエルは、エリが愚鈍な指導者だからとか、父親失格だからといって、霊的な指導を軽んじることをしなかった。語られることばのみを、乳飲み子が乳を慕い求めるように、しっかりいただいて、霊的にすばらしく成長した。彼を神の人にしたのは、母のとりなしの祈り、そして、その祈りの中で育てられた、主ご自身に対する態度だった。  私たちはどうだろうか? エリやホフニやピネハスは、いわば反面教師である。このような霊的な愚鈍さ、むさぼりを、私たちのうちから除き、サムエルのようになりたいものである。そしてハンナのように、私たちキリストにある兄弟姉妹は主にささげられていることを心から認め、お互いが主にささげられている「生きたいけにえ」としてふさわしい生き方ができるように、次世代を育ててまいりたい。母の日、それは次世代の親の役割を果たすべき私たちが、次世代を覚えて祈る日である。  また、母の日は、親という存在をとおして神さまがどんなに私たちひとりひとりに「愛」というものを教えてくださったかを覚える日である。私たちの中には、お母さんは明確な信仰告白をしないままお亡くなりになったという方がおられるかもしれない。いわゆる「毒親」としか思えない母親のもとで不幸な育ち方をしたとしか思えない方もおられるかもしれない。しかし、どんなお母さんであれ、お母さんをとおして神さまがこの世界に生を享けさせてくださり、育ててくださったという事実に変わりはない。それでもお母さんを赦せない人は、その怒りを主の御手に委ねる選択をしていこう。しかし、神さまがお母さんをとおして私たちをここまでにしてくださったという、この恵みに感謝し、世界のお母さんたちが(お父さんたちも!)みこころにかなう人になれるように、次世代を神の子どもとして育てる人になれるように、祈ろう。 https://www.youtube.com/watch?v=0Ay710qiQrc