恵みの契約 後篇

聖書箇所;創世記17:9~27/メッセージ題目;恵みの契約 後篇 今から12年前の8月16日、私ども夫婦は韓国のソウルで結婚式を挙げました。その中で、互いに対する誓約書を取り交わす、というプログラムがありました。「私、武井俊孝は生涯、この妻を愛することをここに約束します」とか何とか、細かい文章は覚えていませんが、その「誓約書」のいちばん下に、サインを書くコーナーがあり、私どもは司式の牧師先生からペンを渡されて、サインを書いたものでした。これにサインをしたとき、結婚とは契約であることをしみじみ思ったものでした。 先週私たちは、神さまがアブラハムと結ばれた契約とはどのようなものかということを学びました。本日はその学びの続き、「恵みの契約 後篇」と題してメッセージを取り次がせていただきます。 神さまはアブラハムと契約を結ばれるにあたって、アブラハムも、アブラハムの家にいるすべての男子も、そしてアブラハムの子孫もみな、神の民であるしるしとして、割礼を受けることを命じられました。   このご命令は何を意味しているのでしょうか? 私たちが神さまと結ぶ契約は、まず自分からはじまり、それから家族に及び、そして、そののちの世代につながる、ということです。 私たちは、自分さえ救われればそれで充分と考えていないでしょうか? 私たちから救いの輪が、家族に、そして周りの人たちに、そしてのちの世代までも広がっていくように、そのために用いていただくように、祈ってまいりたいものです。 しかし、その救いのしるしのため、なぜわざわざこのような、割礼などということをするのでしょうか? 女性のみなさまにもご理解いただきたいことですが、割礼、これは男性の性器に施すわけで、痛いではすまない思いをします。 神の民になるにはそうまでして、きつい思いをしなければならないのでしょうか? しかし、これにも意味があります。   割礼により、人は壮絶な痛みとともに、血を流します。これは、神さまと契約を結んだ民であることを確証するうえで必要なことでした。私たちは実印であれ、認印であれ、はんこを押すとき、朱肉を使います。はんこはペーパーレス化が進んだ現代日本においても今なお大事なもので、このはんこを書類に押す必要があることが、職場のテレワーク化がなかなか進まない一因とも言われています。さて、はんこに用いる朱肉は、言うまでもなく赤です。それもなんとなく、血の色に近い色をしています。 はんこの朱肉がなぜ赤いか、一説によれば、むかしの血判状、かつて重要な書類には指に血をつけて押したことが、朱肉が赤い色となったことの起源と言われています。はんこの朱肉は血の色というわけです。 そうだとすると、私たちははんこを押してその血のように赤い色を見るたびに、そのはんこを押すことにいのちを懸けていることをどこかで意識しているのではないでしょうか。そのように、大事な契約は血を流すことによって結ばれるもので、神さまとの契約においてはそれが、割礼という形を取るというわけです。 割礼とは、神のかたちを現す男性が神さまのご命令により、極めて痛い思いをして血を流し、からだに傷をつけるわけです。これは、何かを連想しないでしょうか? そう、イエスさまの十字架です。 神の民の男子が割礼を受けることは、はるかのちの時代に神の御子イエスさまが私たちのために痛みをその身に受け、血を流してくださったことを表しています。窮極の割礼は、イエスさまの十字架の血潮によって神さまと契約を結んでいただいたことを信じることです。ゆえに、イエスさまが十字架にかかられたならば、人は十字架による罪からの贖いを信じるかぎり、肉体に割礼を施す必要はないのです。 神さまと契約を結ぶということは、それ相応の痛みが伴うことです。割礼で切り取られる性器の包皮が象徴する、私たちの肉が処分される必要があります。私たちは罪深い肉がその身に生きているかぎり、神さまに受け入れられることはありません。私たちの罪が切り捨てられることによって、はじめて私たちは神さまに受け入れられます。 私たちの罪は処罰される必要があるのです。しかし、その罰を身代わりにイエスさまが十字架の上で受けてくださり、血を流してくださったことによって、私たちはイエスさまを信じる信仰のゆえに、もはや罪の罰を受けることがなく、神さまに受け入れていただけるのです。 さて、このようにアブラハムの家の男子がすべて割礼を受け、神のものであることを確証するように導かれたわけですが、神さまのみこころは、サラとの間に奇蹟的に子どもを生まれさせてくださり、そこから神の民を増やされる、ということでした。神さまはアブラハムに、アブラムに代わる名前、アブラハムという新しい名前を与えてくださったように、サラにもサライに代わるサラという新しい名前をお与えになりました。そして、神の民を生むという役割を確かにしてくださいました。 これこそ奇蹟です。アブラハムやサラにとっては、こんなおじいさん、おばあさんから子どもが生まれるだなんて、冗談もほどほどにしていただきたい、と、おのが身の悲しさに笑ってしまうような神さまのおことばでした。しかし、神さまがこのサラから生まれさせてくださると約束されたイサクは、「彼は笑う」という意味です。年老いたおのれの悲しさに笑ってしまうような冷たい笑いが、神さまのみわざによって、まことの喜びに満ちた温かい笑いになるのです。 私たちはもう、自分の不遇さを呪って笑わなくていいのです。もう私たちは不遇ではないからです。むしろ私たちは、神さまに救っていただいた喜びをもって、賛美の笑いを神さまにおささげし、兄弟姉妹でともに喜ぶべきです。私たちがもし、自分のことが不遇に思えてならないならば、まことの喜びを与えてくださる神さまを見上げることです。 さて、サライに代わる新しい名前をつけられたサラは「母親」です。サラは数えきれないほどの神の民を生みます。 女性という存在に関してパウロは、このように語っています。「女は、慎みをもって、信仰と愛と聖さにとどまるなら、子を産むことによって救われます。」(Ⅰテモテ2:15)このみことばは、数えきれないほどの信仰の子孫を産むことになるサラを意識していると見るべきです。 信仰と愛と聖さにとどまる女性は、外見上のきらびやかさを超える、周りに憧れをいだかせる品位を身に着けます。それは、人々のたましいを救うことにつながります。どういうことかと言いますと、この女性を見る周りの人が、こんな素晴らしい女性のように私もなりたい、この人の信じているイエスさまという方を私も信じたい、と思うようになるからです。 伝道というものは、ことばさえ伝えればそれでいいのではありません。もちろんことばで伝えるのも大事ですが、それ以上に大事なのは、主にお従いするその生き方をもって、周りにその生き方の素晴らしさを示すことです。たまにいるのですが、言っていることは立派でも、その生活がまったくなっていない人というのがいるものです。私たちは単純に神さまとそのみことばを信じたならば、生活にも変化が訪れてしかるべきです。 では、どうすればいいのでしょうか?先週私たちは、恵みの契約、という主題でみことばを学びました。みことばにお従いする生き方もまた、契約、ということで説明できます。 みなさまは、何らかのを契約するとき、細かい字がやたら書いてある、約款、というものをご覧になったと思います。この、契約につきものの約款を、私たちは隅から隅までちゃんと読んだうえで、契約を結んでいますでしょうか? しかし私たちは、契約を結ぶにあたっては、その約款をいちいち読む前から、その契約を結ぶとはどういうことかを普通理解しているものです。 それは、約款を細かく読んで納得することによって契約を結ぶのではない、ということです。契約を結ぶのは、約款をすでに理解して用いているそのサービスなり製品なりのユーザー、つまりそれを使っている人のことば、それ以上にその人の人格を信頼して、そのサービスなり製品なりを手に入れるために契約を結ぶのです。百のテレビコマーシャルよりも、親しい人のひとつのことばのほうを、私たちはよほど信頼して、製品を手にしないでしょうか? 私たちの信仰生活にも同じことが言えます。神さまと契約を結ぶとどのような祝福を得られるか、ということを、私たちはアブラハムの生き方から学ぶことができるわけです。ここに、私たちがアブラハムの生涯から学ぶ意味が出てまいります。 しかし、私たちの信仰生活の手本になる人物は、アブラハムだけではありません。聖書に登場する人物は神の民であるかぎり、すべて、契約の恩恵にあずかった祝福を私たちに示しています。 その究極のお姿はもちろん、人としてこの世界に下ってくださった神の御子、イエスさまです。このお方に至っては、契約を結んだ人であるどころか、契約をもたらしてくださった当事者です。 イエスさまのその十字架の死を信じるなら、私たちは神さまと永遠の契約を結ぶ恵みにあずかります。私たちが、神さまが人と結んでくださった契約の素晴らしさを知るには、とにかく、イエスさまのお姿をみことばから学ぶことです。 私たちは、いにしえの聖徒たち、世々の聖徒たちにならい進む、今なお生きて証しする聖徒たちから学びます。その聖徒たちは有名人にかぎりません。この礼拝堂の中にいらっしゃいます。顔を見合わせてみてください。この兄弟姉妹こそ、私たちの習うべき兄弟姉妹です。 それだけではない、私たちは学ぶだけではありません。私たちもまた、主と契約を結ばせていただいた当事者として、証しの生き方をするのです。 そうだとすると、契約の「約款」に当たるものは何でしょうか? 聖書です。私たちは、神さまの恵みによって契約を結ばせていただきました。そして、その契約がどんなに素晴らしいものであるかということを、契約の約款ともいえる聖書を読み返すことによって知るのです。 しかし、この約款はこの世の約款のように無味乾燥、退屈なものではありません。読めば読むほど、神さまの愛、恵みが伝わってきます。まるでラブレターです。 聖書には神さまの愛が完全に表現されています。この世界にあふれる自然をとおしても創造主なる神さまの素晴らしさを知ることはできますが、神の御子イエスさまを通して結ぶ恵みの契約の素晴らしさを私たちに伝えるものは、ただ、聖書だけです。 だから私たちは聖書を、毎日でも読むのです。この愛の契約に入れられた恵み、その素晴らしさを、私たちは毎日味わってまいりたいものです。 最後に、アブラハムが、この神さまの命令をいただいたらすぐに、イシュマエルも含めた家の男子すべてに割礼を施したことについても、ひとこと申し添えておきましょう。 神の民はイサクから増え広がることがアブラハムに告げられても、アブラハムは家の男子すべてに割礼を施せという主のご命令を実践しました。これは、アブラハムが神さまと結んだ契約に、家長としての権限をもって、自分につくすべての者を与らせることになったわけです。 もちろん、神さまと契約を結んだ神の民となるのはあくまでイサクから生まれる民です。聖書がときに私たちの神さまを、アブラハム、イサク、ヤコブの神と表現して、イエスさまもそう表現されたとおりです。 しかし、こうしてアブラハムの家のものが、アブラハムの家系に属していない者まで含め、みな割礼を受けているのは、人が神の民として契約することが特定の血筋によらない、恵みによるものであることを暗示しています。 アブラハムの家で奴隷となっていただけの人は、見ようによっては、たまたまそうだっただけとも言えます。しかしそんな彼らも、神の民として契約の輪の中に入れられたのです。 この、アブラハムの家の者の姿は、私たちのことを暗示してもいます。私たちも恵みによって、たまたま福音を聞くポジションに置かれただけです。そんな私たちですが、神さまの恵みによってイエスさまを信じる信仰が与えられ、神さまと契約を結ぶ者としていただきました。だから、私たちのことを誇ってはいけません。 エペソ2章8節と9節のみことばを読んで、今日のメッセージを締めくくります。……アブラハムが恵みによって神の民の源となったのとまったく同じことで、私たちも恵みによって、神の民としていただきました。この恵みをくださった主に、今週も、そしてこれからも感謝し、恵みの主をほめたたえつつ、お従いしてまいりましょう。 このお従いする生き方は、聖書をお読みすることによって実現します。また、お従いするということは、隣人にイエスさまを証しする、愛の歩みをすることによって実現します。この歩み、恵みの契約に入れられた民としてふさわしい歩みをさせていただくことで、日々主の御手に用いられる私たちとなることができますようにお祈りします。

恵みの契約 前篇

聖書箇所;創世記17:1~8/メッセージ題目;恵みの契約 前篇  本日から、長らくお休みしていたアブラハムのお話を、半年ぶりに再開します。これまではコロナウイスル流行の非常時を意識して、祈りとは何かという主題に集中したり、ヨハネの福音書のみことばを連続して学んだりしました。 しかし、もうここまで来てもコロナウイルス流行は収まる気配がなく、「ウィズコロナ」でいくしかないようで、そうなったらもう、特別バージョンなどと言っている場合でもありません。あらためてメッセージを通常運転に戻し、創世記の学びを再開したいと思います。 本日の箇所は、アブラハムが神さまと結んだ契約に関する場面です。私たちは神さまと契約を結ぶということを、聖書に書かれているアブラハムをモデルにして学ぶことができます。 モデルとしてのアブラハムの存在に注目しましょう。聖書においてアブラハムの存在が、きわめて基礎的な位置を占めるということは、みなさんもご存じのとおりです。聖書はなぜ、アブラハムのことをこれほどまでに語っているのでしょうか? 主はみことばによりアブラハムの姿を私たちにお見せになっています。そのことにより神さまは、ご自身と契約を結ぶ者はこのようである、ということを示され、その恵みの中に入ることの素晴らしさを私たちに教えてくださっています。  アブラハムはどんな状態で神さまと契約を結んだのでしょうか? それは創世記12章から16章までのみことばに書かれているとおりです。 アブラハムは神さまの御声にしたがって、父祖の地を離れて遠い旅に出ました。それは、信仰的に大胆な冒険に出たということで、素晴らしいことです。その旅の途上で、アブラハムは甥のロトを伴っていましたが、別れて別々の道を行くことになったとき、アブラハムはロトに、とても潤った良い地を選択させました。若い者にチャンスを与えた上に自分は譲るような、そういう意味で人格者です。 しかしその新たな土地で、ロトは敵に攻められて窮地に陥りました。アブラハムはそのことを聞くと、自分の群れの屈強な者たちを引き連れて敵と戦い、ロトを助け出しました。アブラハムはそういうわけで、身を挺して犠牲を払い、人のために生きることを知っている人でもあります。 それだけではありません。アブラハムは、その戦いに勝利した感謝を、いと高き神の祭司メルキゼデクに、戦利品の十分の一をささげることで表明しました。アブラハムはそういうわけで、敬虔な信仰者としての姿も示しました。アブラハムの生涯はなんとも、褒められることの多かった人です。  しかしその一方で、アブラハムは、まるで証しにならないことも多くした者でした。ききんを避けて妻とともにエジプトに落ち延びたとき、アブラハムは、自分がエジプトの権力者に殺されないようにと方便を使い、妻サラをエジプトのファラオに召し入れさせるがままにしました。これは言わば、妻を売ったという行為です。 もちろん、神さまは特別な計らいで、サラのこともアブラハムのことも助け出してくださいましたが、それにしてもアブラハムはとんでもないことをしたものでした。 それだけではありません。アブラハムは、神さまが必ずアブラハムに子孫を与えてくださるというその約束を待ちきれなくて、召使のハガルとの間に子どもを設けました。おかげで、サラとの間に葛藤が生じ、サラがハガルのことを苦しめるがままにさせ、結果としてハガルをいたく傷つけました。 そのように私たちがアブラハムを見ると、いったいこれが信仰の人だろうかと疑わしくなる行動も見られます。しかしさきほども申しましたとおり、アブラハムは一方で、とても素晴らしい行いもしているわけです。しかしそれなら、アブラハムはそのようなよい行い、正義の行動で神さまとの契約を勝ち取ったのでしょうか。決してそうではありません。良い点、褒められる点もたくさんあった一方で、とても褒められない行いをしてもいます。 一般的には、人が神的な存在に認められるためには、よい行いを積み重ねるだけ積み重ね、悪い行いをしないようにしよう、となるでしょう。しかし、それはだれにもできないことです。人はどこかで罪を犯すものです。きよい神さまがその罪をご覧になるかぎり、救われる人など、この世界には一人もいません。 アブラハムが神さまと契約を結んだ理由は、罪を犯しているかどうかという、そういう基準で見るべきではありません。アブラハムが神さまと契約を結ぶことができたのは、行動の良し悪しを神さまが判断されたこととは関係なく、ただ、神さまが契約にふさわしい存在として、選んでくださったからです。  この救いに定める選びを、聖書は、恵み、と呼びます。まことに、神さまが契約を結んでくださるのは、人の行いではなく、神さまの恵みゆえです。神さまの恵みをいただいた人は、素直に神さまを信じる信仰を持たせていただけます。神さまがこの罪深い私のために、ひとり子イエスさまを身代わりに十字架にかけてくださった、そのことを信じるだけ……それで自分は神さまに充分に受け入れていただける……この素直な信仰が与えられます。  さて、神さまがアブラハムとの間に立てられた契約はいかなるものかが、この17章で語られています。まず何とおっしゃったでしょうか? 1節です。 「わたしは全能の神である。」まず、神さまのこの宣言に始まります。すべては、神さまがすべての上に君臨される全能なるお方であると認め、そう告白することから始まります。 私たちにとっての信仰は、「キリストを信じる」、すなわち、キリストに信頼してお従いする、神との交わりの歩みです。形だけの宗教として「キリスト教」という宗教を信じるのではありません。 神との交わり。この、神との交わりの歩みをするためには、何よりも、私たちのお従いするお方が全能の神であるということを信じ受け入れ、そのように告白することが大前提となります。礼拝のたびに唱和する、「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と、私たちが告白するとおりです。 では、この、全能なる神さまは、アブラハムに何をお求めになったのでしょうか?「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」いつ、いかなるときにも、神さまとの健全な関係を保ち、その御前に徹底して生きることをお求めになりました。 ここで神さまが要求された「全き者であれ」ということは、道徳的に、宗教的に完璧であれ、とおっしゃったのではないことに、注意する必要があります。それは不可能なことです。 私たちのあるべき「全き者」という姿は、「完全」ではなく、言ってみれば「健全」です。「健全」という意味での「全き者」ということです。あなたはわたしの前に健全でありなさい。そのようにお命じになった上で、神さまはアブラハムと契約を結ぶことを宣言されたのでした。 健全ということは、神さまとの関係が正しく保たれている、ということです。まことのぶどうの木であるイエスさまとそのみことばにいつもとどまり、そのみことばを守り行う生き方、よい実を結ぶ生き方をいつも目指していく、そういう人になれるように祈る……そういうことが私たちに求められているわけです。 聖書の本文に戻ります。神さまは今後アブラハムがどのようになるとおっしゃったのでしょうか?「あなたを、おびただしくふやそう。」 このおことばには、神さまがアブラハムに奇蹟を起こして、アブラハムから肉の子孫を増やしてくださるという意味ももちろんあります。しかしもうひとつ、アブラハムのように、神さまとの健全な関係を保って幸せに生きる「信仰の人」を増やしてくださるという宣言でもあります。 「信仰の人」とはほかならぬ、信仰によって神さまの子どもとしていただいた、すべてのクリスチャンのことで、当然、私たちも含まれます。だからこそアブラハムは私たちにとって「信仰の父」となるのです。 それでは、神さまはこの約束を成し遂げるために、アブラハムに何をしてくださったのでしょうか?   まず、彼の名前を変えてくださいました。それまで彼はアブラムという名前でしたが、それがアブラハムとなったのでした。この名前はなんといっても、神さまご自身が名づけられた名前です。 名は体(たい)を表す、ということわざがあります。名前というものは、その人そのもの、その人のすべてを表しているといえます。神さまが、過去の名前を捨てさせ、新たな名前を直接名づけられたということは、神さまがアブラハムのことをまったく新しい人生に導かれた、ということを意味しています。 神さまが直接名づけられたアブラハムという名前は、私たち神の民すべてにとっても重要な意味を持ちます。 有名な、コリント人への第二の手紙5章17節のみことば、これは、このようなみことばです。暗唱できる方は暗唱しましょう。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」   アブラハムは、神さまによって新しい名前が付けられたことが象徴するように、まったく新しくされたのでした。では、アブラハムはどのように新しくされたのでしょうか? これもまた、名は体を表す、ということわざのとおりですが、アブラハムという名前の意味を考えれば、神さまがどのようにアブラハムを出発させられたかがわかります。  アブラハムのもともとの名前は、アブラムといいました。アブラムの意味は、「高貴な父」、「高められた父」という意味です。これに対してアブラハムは、「多くの国民(くにたみ)の父」という意味になります。 名前の語感はとてもよく似ていますが、「アブラハム」という名は、「アブラム」という名のほんとうの意味を、さらにはっきりとさせています。神さまが彼をアブラハムと名づけてくださることにより、なぜ彼がもともと、「高められる父」だったのか。彼から多くの国民(くにたみ)、数えきれないほどの神の民が生まれ出てくるから、その意味で「高められる父」だったのです。 アブラハムに与えられた新しい名は「多くの国民の父」でした。まさに、主を単純に信じる信仰を持つ者がまことの神の国の民となるということを、神さまはアブラハムと契約を結ぶことによって示してくださったというわけです。私たちは、アブラハムにつづき、信仰をもって神さまと契約を結んでいただいた存在、天国の民です。 私たちは、イエスさまの救いをいただいて、天国に入れていただき、永遠のいのちをいただきました。その天国の民としてのアイデンティティをもって、私たちはこの地上の生活、神の栄光を顕す生活をしていくように召されています。    さて、聖書本文のアブラハムをつづけますが、主は、アブラハムから生まれる神の民から、王たちが生まれると語られました。この預言のとおり、のちの時代においてダビデ王をはじめ、多くの王が生まれました。また、カナンの地を永遠に所有するとも語られました。   これらのみことばは実際には、どのような形で実現したのでしょうか? 神さまを信じる信仰を持つ者として、数えきれないほどの神の民が生まれました。 彼らのことを聖書は、ヨハネの黙示録22章5節にあるとおり、「彼らは世々限りなく王として治める」と語っています。また、ペテロの手紙第一2章9節にあるとおり、「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です」とも表現しています。 そうです。神さまは私たちのことを王として扱ってくださっているのです。そうです、私たちは王なのです。私たちはいま自分のことを見て、貧しいなあ、とか、弱いなあ、と思ってはいないでしょうか。神さまの宣言に立ちましょう。私たちは王です。この地を祈りによって統べ治める王さまです。このことを忘れないでいたいものです。 そして、この信仰の民である私たちに対し、永遠の王である私たちに対して、神さまは、永遠に受け継ぐ地を与えてくださいました。それは、天にある御国です。 アブラハムは、カナンの地を受け継ぐという神さまの約束をいただきました。その約束のとおり、アブラハムが神さまと契約を結んではるかのちの時代に、イスラエルの民は、約束の地カナンを所有しました。ただ、その地を所有するために、イスラエルは戦いを経験することになります。 その、カナンを奪い取るための地上の戦いは、いわば、私たちが努力して狭い門より入り、天の御国に定住するための戦いを比喩していると言えます。こんにちを生きる私たちにとっての戦いは、血肉に対するものではありません。血肉に対する戦いは先週もお話ししたとおり、イエスさまがはっきり否定されたことです。 そうではなく、私たちにとっての戦いとは、サタンとその支配下にある悪霊どもの支配から、この世の捕らわれの民を奪還する戦いです。それは逆説的ですが、隣人を愛する愛をもって平和をつくり出す私たちのたえざる努力によってなるものです。それが戦いです。 この戦いに召されている者とは、それは神さまの一方的な恵みによって、全能の神さまに対する信仰を持たせていただき、神さまとの間に永遠のいのちの契約、罪の赦しの契約を結んでいただいた私たちです。私たちはいま一度、神さまが結んでくださった契約の意味を考えたいと思います。 私たちの行いは何一つ誇れません。私たちが誇るべきは、一方的なあわれみと愛で私たちを神の子どもとして召してくださった、イエスさまの、十字架です。今日このとき、イエスさまの十字架をもって私たちといのちの契約を結んでくださった主の恵みを覚え、主の恵みに思いを巡らしましょう。 主の御前に健全な信仰を保ちますように、新しい存在とされているにふさわしい、肉の生き方を脱ぎ捨てた生き方へと踏み出していけますように、この世を祈りをもって統べ治める王の働きをもって、この世に捕らわれている人々を悪の手から奪還する戦いに打ち勝つべく、祈りとみことばをもって主にお従いする私たちとなりますように……。 しかし、すべては主の恵みを受け取り、主の恵みにお応えするゆえに実践すべきことです。恵みにいかにしてお応えできるか、主の導きを求める祈りをささげてまいりたいと思います。

8月15日、その次に

水戸第一聖書バプテスト教会 日曜礼拝 導入讃美「主の愛はとこしえまで」「主イエスの十字架の血で」/祈祷/使徒信条/交読 マタイ5:3~16/主の祈り/讃美 讃美歌338/聖書箇所 マタイ4:1~11/メッセージ題目 8月15日、その次に  本日、8月16日は、主題を決めてメッセージをさせていただきます。その主題は、「みこころに従って、いかに平和をつくる者となるか」ということです。  この8月16日という日は、私個人にとって、人生を左右する3つの体験をした日でもあります。最初は1990年8月16日、高校2年の夏、この日私は、松原湖バイブルキャンプにいました。音楽ゲストの小坂忠・岩渕まことのデュエットの歌う讃美が流れる中、講師のアーサー・ホーランド牧師の導きで、献身を約束する祈りへと踏み出しました。  次は1992年8月16日、大学1年の夏、私ははじめてこの日、韓国の地にて、韓国語で礼拝をささげました。夕礼拝にも出席し、その席上で私は前に出て、自分が韓国に召されていることを証ししましたところ、満場の礼拝者のみなさまから大きな拍手をいただき、礼拝後、多くの方に握手をしていただきました。私はその日、自分が日本人のクリスチャンとして、韓国教会から生涯学ぶ者であるという意識を新たにしたものでした。  3度目は2008年8月16日、私と陳宣教師はその日、韓国で結婚式を挙げました。今日は結婚記念日です。まあ、この日についていろいろ解説するのは野暮というものでしょう。  そんな私ですから、8月16日という日については、毎年この日が巡ってくるたび、人一倍、この日の象徴する意味について想い巡らしてきたものです。今日はそのような私の黙想に、おつきあいいただきたいと思います。 8月16日の前の日は言うまでもなく8月15日、日本では終戦記念日ですが、この日の持つ重みが、戦後75年、年を追うごとに薄れてきてはいないでしょうか。そのような中で憲法改正ですとか、再軍備といったことが、一部で声高に言われるようになっています。 一方、韓国では、この日を「光復節」といいます。足掛け36年にわたる日本の支配から解放された日として、韓国にとってこの日は特別な意味を持っています。  私はその方面の社会問題をこのメッセージの時間に扱うつもりはありません。この時間は、聖書から私たちにとっての平和のあり方を語りたいと思います。 私たちにとって、戦争が終わったこと、終戦は、たしかにめでたいこと、うれしいことにはちがいありません。昨日のように、8月15日を終戦記念日と定めて覚えるゆえんです。しかし、そこにとどまっていてはならないのではないでしょうか。 問題はそのあとです。戦争というこの悲惨なことを繰り返さないことが、私たちに求められているのは言うまでもありません。特に私たちは、「平和をつくる幸いな神の子」として、神さまから召されている存在です。 そのために私たちは、何を祈り、どのように行動すべきか、いろいろ問われるでしょう。本日はそのような中でも、直接「世界平和」に言及していない、しかしまことの「世界平和」を実現するうえでとてもぴったりしたみことばから、ともに学びたいと思います。題して、「8月15日、その次に」。 本日の箇所は、イエスさまが荒野の40日の断食の果てに、悪魔の試みを受けられた場面です。それが平和をつくることとどのように関係があるのか、以下、見てまいりたいと思います。 まず、1番目の誘惑から見てみましょう。2節から4節です。 断食というものは、生きるための命綱である食物を絶つことで、身もたましいも神さまに集中させることです。 イエスさまにとってそれは、食べるものも口にしないで、聖霊なる主に荒野を引き回される厳しい祈りの時間でありました。そこには、罪深い肉欲の入り込む余地はありません。 しかしイエスさまは、人間の肉体をもってこの地に生きられたお方です。空腹を覚えられました。それはただごとでなかった空腹だったはずです。40日の断食のあとの空腹です。目の前の石がパンに見えてくるような空腹です。 主がそれまで40日の断食を行なっておられたのは、御父のもとに徹底してへりくだることでありました。それを、全能のわざは自分にもあるとばかりに、そのわざを用いて石をパンに変えるならば、それは何を意味しているのでしょうか? もしそのようなことをなさるならば、ほんとうに人の必要を満たすものは、あくまで肉の糧である、それは霊の糧なるみことばに優先する、という世的な常識に、イエスさまも従われた、ということになりはしないでしょうか。 この世においては、世界平和は肉の糧が満たされるか否かという次元で考えがちなものです。もちろん食糧が確保されることも必要ですし、いのちの安全が保障されることも大事です。食べ物は必要です。しかし、この世の多くの人が見落としていることがあります。それは、人はパンだけで生きるのではなく、この世界を統べ治める創造主なる神さまの御口から出るひとつひとつのことばによって人は生きる、ということです。 平和というものは、特定の国や民族さえ安定していればいいうものではありません。世界のすべての人が神さまに創造された存在であるかぎり、世界のどこにおいても、平和は実現している必要があります。そのためにも、そのようにすれば人は神さまのみことばによってまことの飢え渇きをいやし、平和をつくり出すものとなれるかを祈りつつ考えなければなりません。 しかしこの世界は、ひたすら神さまとそのみことばの存在抜きで、すべての人が幸せに過ごすことを追求したりします。しかし、少なくとも私たちクリスチャンは、そのようなこの世の流れを正しいと考えてはいけません。ほんとうに平和をつくることができるお方は、平和の主なるイエスさまだけです。 この世界は、イエスさまによって御父と和解させられることなしに、まことの平和を受け取ることはできません。平和をつくり出す人間の努力は確かに素晴らしいものですが、それは石をパンに変えることもできない被造物、罪人の働きでしかないことを、どこかで私たちは謙遜に認める必要があります。 神さまがイエスさまを通して平和を与えられたことを、何によって私たちは知り、身に着けるのでしょうか? みことばです。それもイエスさまがおっしゃるとおり、神の口から出るひとつひとつのことばとしてのみことばです。 「神の口から出る」とわざわざイエスさまがおっしゃっているのは、どういうことかといいますと、聖書のことばを読みさえすればそれで平和をつくり出すものに自動的になれるわけではない、ということです。神の口から出ることばで生きる、つまり、聖霊なる神さまの導きの中で、神さまとの密なコミュニケーションを分かち合ってみことばをしっかりお聞きするのです。 こういうことができている人は、この世界にどれくらいいるでしょうか? 私たちにはできているでしょうか? もっとそういう人が増えるならば、この世界はもっと平和になるはずなのに、と思います。 そういうわけで第一の誘惑、それは、神さま抜きでこの地上に人が生き残る道を提示することです。私たちはこのような、この世の流れに流されてはなりません。平和は神さまのみことばにお従いするところから始まる、これを私たちは忘れてはなりません。 それでは2番目の誘惑にまいります。それは、みことばを曲解して神さまを試みる誘惑です。それは、平和をつくり出すこととどんな関係があるのでしょうか? 5節をご覧ください。イエスさまは悪魔に、エルサレム神殿のてっぺんに連れて行かれました。そこで悪魔は、下に身を投げよ、おまえが守られることは、聖書のことばにも書いてあるとおりじゃないか、と誘惑しました。 しかし、これをイエスさまは拒否されました。なぜでしょうか? みことばの根拠も立派にあるのではないでしょうか? いいえ、これは約束のみことばではありますが、神を試みる者をそれでも守ってあげよう、という意味のみことばではありません。むしろ、悪魔にとっては皮肉なことですが、悪魔が6節で引用したこの詩篇91篇のみことばは、このような、悪魔に試みられるような状況に陥って神さまの護りを必要とする人のことを、神さまは必ず守ってくださる、という意味のことを語っています。かくして、このみことばのとおり、イエスさまは守られたのでした。 クリスチャンはしばしば、自分の祝福を願ってみことばを引用するということを行います。まあ、それもあると思います。何もかも悪いわけではありません。しかしそのために、自分の行動はみこころにかなっているから大丈夫だ、とばかりに、反省もしないで突き進むような場合は問題です。 かつて日本は、天皇を中心とした神の国ゆえに、まつろわぬ国や民族は征伐する、とばかりに、他国に戦争を仕掛け、そのために多くの人が犠牲になりました。その根底にあるものは神社参拝に代表される霊的なものでした。戦争で死ねば護国の鬼となって靖国神社に祭られる、靖国で会おうということばを合言葉に兵士たちは戦場にいのちを落としました。その当時の日本のキリスト教会は、ほぼすべてが、国家によるそのような宗教的管理、霊的管理に屈し、神ならぬものを神とすることをみこころだとばかりに教え、国家の宗教政策に協力していったのでした。 一方で、この戦争の相手国はどうだったのでしょうか? もともとが聖書的に信仰によって人々が育てられてきた誇らしい理念を持った国でした。しかし彼らの実際にしたことは、先住民を虐殺し、アフリカから奴隷を連行して酷使し、そして日本には2度も原爆を落としたということです。これが、誇るべき信仰を持っているはずの彼らがしたことです。 私たちが先祖の罪を悔い改めるというときには、日本民族にかぎらず、同時代に「ゴッド・ブレス・アメリカ」を叫びながら、まるでそれが主のみこころのように信じてわが国を攻撃した、かの国の兄弟たちの罪をわがこととして悔い改めることを、ここに提唱したいと思います。 クリスチャンにとっての戦争、それは、神の祝福はあるとばかりに突き進みながら、実はその神さまがどこまで忍耐され、沈黙されるか試すような、神を試みる罪を犯していることであることを、私たちはしっかり考え、先祖の罪を悔い改める必要があります。 考えてみてください。イエスさまはいったい、主の民が主のために武器を取って戦うことをみこころとして奨励されたでしょうか? とんでもないことです。イエスさまははっきりおっしゃいました。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」イエスさまははっきり、武器を取るな、とおっしゃったのです。主のために武器を取れ、なんて、まやかしでしかありません。 クリスチャンでありながら戦争を好んだり、争ったりする、それは、そうしてはいけないのがみこころだと心のどこかで知っていながら、自分の立場を主が祝福しておられるから大丈夫だ、とばかりに突き進む、きっと神さまは忍耐される、そう信じ込む、そのような、神を試みる罪を犯していることになります。 先の戦争の記憶が薄れてきたということは、人はまた、戦争に向けて突き進むようになるということにはならないでしょうか。私たちは目覚めて祈っている必要があります。私たちは自分勝手みことばを解釈しがちな罪人です。それでもって、神さまを試みる罪を犯しがちな罪人です。私たちはこの罪が自分のうちにあることを認め、まず自分こそが悔い改め、国のため、主にある兄弟姉妹のためにとりなして祈ってまいりたいと思います。 平和を壊す働きはどんなにみことばを用いてでも正当化しようとしても、神のみこころでは決してありません。それは忍耐深い神を試みる罪であることを、私たちはしっかり、心に留めたいと思います。 3つ目の誘惑にまいります。8節から10節です。 ……さて、イエスさまは神の子であるので、全知全能の、すべての上に高くいますお方でいらっしゃいます。ということは、すべてをお持ちのお方ということもできます。韓国式には、イエスさまのことを、万有の主、とおっしゃるとおりで、すべてを所有しておられるお方です。 そう考えるならば、サタンがイエスさまのことを、この世の王国とそのすべての栄華をもって誘惑したことは、果たして誘惑になるのだろうか、という疑問がわいてはこないでしょうか? これは、見方を変えて見てみたいと思います。並行箇所のルカの福音書4章6節では、サタンは国々とその栄華のことを、「国々の権力と栄光」と表現していて、それらはすべて自分に任されている、と語っています。 そうです、国々の権力と栄光は、サタンに支配されている領域です。古今東西、栄華を誇った国々はその背後に、重労働や重税などの搾取、行き過ぎた国民の管理、国を挙げての偶像礼拝、姦淫……そういったものが存在し、神さまのみこころをいたく損なってきましたが、それはすべて、この世界の国々がサタンの手に陥っているからです。 そのようにサタンとその勢力にやられ放題の人間、それなのにけっして創造主なる神さまのほうに行かない人間、その悲惨さの中で死んでいき、滅びゆく人間……その人間たちは主が愛をもって創造された、かけがえのない存在です。私たちがイエスさまだったら、どう思うでしょうか? 乞うまでして人間を支配し、隷属させるサタンに対し、「やめてくれ!」と叫び出したくはならないでしょうか? しかし、このときサタンは、ひとつの条件を出してきました。「私を拝むなら、おまえにこれらすべてをくれてやろう。」この悲惨さから人間を解放してやっていい、だが条件がある、私を拝め……。 しかし、イエスさまのお答えはひとつでした。下がれサタン、みこころは、主を礼拝し、主にのみ仕えることだ。 これしか答えはありません。下手をすると人間は、世界平和を達成するために、悪魔にたましいを売るようなことさえしかねない存在です。平和をつくるために神さまを礼拝することを放棄する、そういうことをしてしまうのです。 みなさん、インターネットでもいいですし、書店のキリスト教のコーナーに並ぶ本でもいいです。いろいろなところで触れるキリスト教の姿は、戦争をつくり出す元凶(げんきょう)のように描かれてはいないでしょうか? イエス・キリストの父なる神以外に神はないと主張する者が、いちばん戦争をつくり出している……。 絶対にだまされてはいけません。私たち自身を考えてみてください。私たちは人と平和をつくるために、どれほど努力していることでしょうか? なぜなら、それがみこころと信じているからです。 ただしサタンは、私たちが善良なクリスチャンでありたいという思いを、悪い意味でのお人好しな生き方へと取り替え、この世において光でも塩でもない、毒にも薬にもならない生き方へと妥協させようとします。 具体的に言えば、キリスト教式ではないお葬式に参列するときなど、いわゆる神仏を拝む行事に私たちクリスチャンが接するとき。そのようなとき私たちは、どういう行動を取るでしょうか? お焼香をしたり合掌をしたりするでしょうか? そうする理由は何でしょうか? ご遺族や親戚と波風を立てないためでしょうか? それは言うなれば、平和をつくる行為でしょう。 だが問題は、どういう根拠によって平和をつくるかです。この行為は間違いなく、「主だけを拝み、主だけを礼拝する」という、主のみことばに反しています。そうやって人にへりくだれば証しが立てられるぞ、人はイエスさまを信じるかもしれないぞ、しかしこれは、悪魔のささやきというものです。そのようにして平和をつくったつもりになっても、主の栄光はけっして現れることはありません。 私たちがクリスチャンとして平和をつくり出すことは、他の宗教と妥協することではありません。世は私たちの持つ聖書信仰でないかぎり、多様な宗教のあり方としてその存在を奨励しますが、唯一私たちだけは、その存在を許されないか、他の宗教と混在することを求められます。しかし、私たちの信じる神さまは、ほかの神々に並んで存在するお方ではありません。世の中が私たちに何を求めようとも、私たちは神さまだけに従うことをやめてはいけません。…

過越と十字架を巡る人々

聖書箇所 ヨハネの福音書11:53~57/メッセージ題目「過越と十字架を巡る人々」  今週のみことばは、これまで学んできたヨハネの福音書11章の終わりの部分で、とても短い箇所です。しかし神さまは、この短い箇所からも私たちにいろいろなことを教えてくださっています。 イエスさまが、その友ラザロをよみがえらされるにあたって、神の時にしたがって歩まれたことは、すでに学んだとおりです。そして、そのすべての歩みの究極の目的は、父なる神さまのご栄光を顕すことにありました。 ラザロのときだけではありません。イエスさまはすべての歩みにおいて、父なる神さまの時に従って歩まれました。それが、御父とひとつということであり、御父に従順であったということです。  私たちも、御父に従順であることが求められ、また、そのように教会で教えられます。しかし、人のレベルでは、神の時に従って生きるということは、そうと意識をしようとしても簡単なことではありません。私たちはただ、私たちの心の中にお迎えしているイエスさまがつねに神の時に従って歩んでいらっしゃるゆえに、私たちもまた、イエスさまに導かれて神の時に従って歩むことを許されるという。その信仰を持ち、主と主の時に信頼する必要があるわけです。  私にとっても時というものはありました。その最も顕著だったのは、1989年7月26日の深夜です。そのとき私は15歳、高校1年生で、すでにイエスさまを信じてバプテスマも受けていましたが、信仰と実際の生活はまったく別々のものになっていて、それに葛藤を覚えることもありませんでした。  しかしそんな私も、自然気胸という肺の病気でたびたび入院し、いやでも自分の弱さと向き合わなければなりませんでした。その夏も私は病気を発症し、手術を伴う入院生活を余儀なくされていました。ところが、大きな手術になるはずだったのが、病院を変わるとまったく簡単な手術で終わり、あっという間に退院となりました。そればかりか、入院をとおして友達ができたりして、苦しいはずの闘病生活がとても楽しいものとなりました。退院2日前の夜、1989年7月26日、私はなぜこのようなことが自分に起こったのか、病院のベッドでまんじりともせずひとり想い巡らしていました。 そのとき、それは神さまが私のことを特別に選び、愛してくださっていたからだという示しが与えられました。私はすっかりうれしくなり、興奮して眠れなくなり、しかし入院生活は睡眠をとらなければならないわけで、睡眠薬をもらってようやく眠りについたというわけでした。 私はこのことを通して、神さまの近くにいさせていただくように人生が変わりました。この喜びを私は、教会の日曜礼拝の時間に証しという形でお話しさせていただいたものでした。 これが、時というものであると私は体験しました。それまでの不信仰を信仰に変えていただいた「時」でした。その体験から確信を持って言わせていただきますが、人それぞれの時は、主がそのご主権をもって導いていらっしゃいます。要は私たちが、その、神の時にあらがわず、主に従順になることによって、その時その時に従って歩ませていただき、主に用いられることです。 イエスさまのこの、荒野に近いエフライムの町に退かれたことも、イエスさまが神の時に従順であることというポイントから説明できます。カヤパによるイエスさま殺害のプランがユダヤ最高会議にて採択された以上、彼らはすぐにでもイエスさまを逮捕し、死刑に処することを願ったわけです。しかしイエスさまが死なれるということは、神の民を御父の怒りから過ぎ越させる過越の子羊としてほふられる、ということを意味していました。この年の過越が、神の目から見て最後の過越、究極の過越となるためには、イエスさまはすぐ逮捕されて死刑に処されてはならなかったのでした。過越の時が満ちる必要がありました。イエスさまは荒野の町に退かれ、その御父の時を着々と待たれたのでした。 しかし、イエスさまはこの退かれる時間を、おひとりでは過ごされず、弟子たちとともにお過ごしになりました。イエスさまにとって御父と過ごす特別な時間に伴わせていただく特別な存在、それが主の弟子です。私はよくこのメッセージにおいても、それ以外の牧会の現場においても、「弟子訓練」ということを強調させていただいていますが、それは他人を凌駕する何やらすごい人にならせるための訓練だったり、牧師や教会という組織に絶対服従する人を育てるためのプログラムであったりはしません。言うなれば、「どんなときにもイエスさまとともにいる」訓練です。おわかりでしょうか? イエスさまが私たちといつもともにいてくださるということは、見方を変えれば、イエスさまのおられるところにいつも私たちがいさせていただく、ということです。たとえば私たちは、隣人やこの世界を覚えて、とりなしの祈りをすることが主から求められています。これは、いま天の御国において、御父の右の御座にてひたすらとりなしの祈りをささげてくださっている、イエスさまのそのお祈りにともにあずからせていただくということです。 イエスさまとともにささげる祈りである以上、それは主のみこころにかなっているものであるべきで、そうなっているならば、神さまは必ずその祈りを聞いてくださる……その信仰をもって、イエスさまの御名によってとりなして祈るのです。 またイエスさまは、ゲツセマネの園にて血の汗を流して祈られたとき、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子たちにも、そこにともにいて、目を覚まして祈るようにおっしゃいました。私たちも時に、血の汗を流して祈らなければならないようなときがあることでしょう。それは、イエスさまのゲツセマネの園の祈りに、ともにいさせていただくということであり、そのときもし私たちが、肉体と精神に限界を感じてそれ以上祈れなくなったならば、それはペテロやヤコブやヨハネがそうだったように、心が燃えていても肉体が弱かった、その弱さを主にあって思い知らされ、主の御前で認めることになります。 しかし、それにとどまりません。その弱さをイエスさまの十字架の贖いによって覆っていただく体験をすることであり、それもまた恵みの体験となるのです。いずれにせよ私たちは、ゲツセマネの園で血の汗を流して祈られた、イエスさまの祈りに伴わせていただく恵みをいただくのです。 このように私たちは、イエスさまとともにいるべく召されています。しかし、ともにいるためには、私たちの側からも「歩み寄る」必要があります。そのためにも、みことばと祈りにより、一定の訓練を私たち自身に課す必要があるわけです。 この、11章54節の時間もまた、十字架の受難を前にした、イエスさまにとって大事な時間であり、そこに弟子たちが伴わせていただいたということでした。私たちもまた、聖書をお読みしてイエスさまの歩みにふれるとき、その歩みに伴わせていただく恵みを、そのたびごとに体験します。イエスさまが退かれて十字架に備えられたそのときに、私たちも伴わせていただくのです。 では、その時間は私たちにとって、どのような意味があるのでしょうか? それは、私たちもまたイエスさまのあとについて十字架を負う者になるために、イエスさまのそばにいて、祈りをもって備えよ、ということです。 私たちはバプテスマを受けてクリスチャンになったら、自動的に主に従順な敬虔の生活を送れるようになるのではありません。主にお従いするように、自分のために祈り、教会の兄弟姉妹のために祈って、私たちの従順の意識が育つようにしていただかなくてはなりません。 はっきり申しまして、十字架を負ってイエスさまのみあとを従う生き方は、はやりの生き方ではありません。人気のある生き方ではありません。しかし私たちは、この生き方が何にも替えることのできない恵みの生き方、喜びの生き方であることを知っています。 ただ、この生き方をする上で、私たちの中には、肉を満足させたい思い、世の友となりたい思いがつねにあり、十字架を背負う生き方、従順の生き方を邪魔するものです。 だから私たち教会は、この生き方をともに最後まですることができるように、励まし合い、祈り合う必要があるのです。それが、イエスさまの苦難の場に伴わせていただいている私たち、主にある兄弟姉妹に求められている姿勢です。見てください。イエスさまが伴われたのは、「ひとりの」弟子ではありません。弟子たちという「共同体」です。私たちもまた、ひとりひとりで信仰生活を送っているのではありません。「ともに」イエスさまのみあとをお従いするのです。 いま、この世はまたもやコロナウイルスの流行を意識しなければならない時勢になり、礼拝に来ることも多数の人前に出ることである以上、感染を念頭に置くと控えざるを得ないという判断が下されるようになりつつあります。それはもちろん、主の宮なるからだを守るという次元から考えるならば、尊重されるべきことではあります。 しかし、同時に忘れてはならないことは、各自の家でインターネットなりCDなりで礼拝をささげることになったとしても、私たちは礼拝の共同体をなすひとりであるということです。私たちは孤独であると考えてはなりません。自分はキリストのからだという共同体を形づくっている一員であるという意識と自覚を、つねに持っていただきたいのです。 また、こうしてともに集っている私たちは、ここに来ることができないでいる兄弟姉妹を覚え、その兄弟姉妹はここにいなくてもともに共同体を形づくっている家族であるということを意識し、とりなして祈っていただきたい、できればメールなり電話なりお手紙なりで励ましていただきたい、ということも思います。この励ましととりなしの祈りのわざは、牧師だけがするのではなく、教会でともに取り組んでいただきたいと願います。 さてそれでは、55節にまいりたいと思います。このときエルサレムには、地方からも多くのユダヤ人が集まっていました。 彼らは過越の祭りに備えて、宗教的に身をきよめる期間をしっかり持とうとしていました。ユダヤ人にとって過越の祭りは、それほど大切なものでした。しかしこの年においては、ユダヤ人たちが過越の祭りにおいて、特別に大きな関心をいだいていたことがありました。56節です。 そうです、イエスさまが来られるかどうかが、彼らにとって大きな関心事でした。イエスさまはユダヤ人の王として待望されていたお方で、この方をエルサレムにお迎えして過越の祭りの時を持ったならば、彼らユダヤ人にとっては忘れがたい祭りになるのはたしかなことでした。 しかし57節をご覧ください。イエスさまを見かけた者は当局に通報せよ、とのお触れが出ています。そのような中にイエスさまはあえて入っていくことはなさいませんでしたが、それでも、イエスさまが祭りに来られることに期待するユダヤ人は一定数いたと見るべきでしょう。実際、エフライムでの生活を切り上げ、時満ちてイエスさまが子ろばに乗ってエルサレムに入城されたとき、ユダヤ人たちはこぞって、イエスさまのことを熱狂的に迎えました。 もっとも、この56節の表現はイエスさまのことを指して「あの方」とか「来られない」などと、尊敬形の訳し方をしていますが、それはもちろん、この箇所は、ユダヤ人はユダヤ人でも、イエスさまをメシアとして待望していたユダヤ人たちが話した会話という前提で訳されているわけです。別の日本語訳の聖書でも、口語訳、新共同訳、聖書協会共同訳では、特に尊敬形を用いてはいません。つまりユダヤ人といっても、イエスさまのことをメシアとして待望していたとはかぎらない人たちだった可能性もあるわけです。 とするとこのユダヤ人たちは、それこそ、イエスさまを死刑にして葬り去ろうと陰謀を巡らしていたユダヤ人だった可能性もあるわけです。ユダヤ人の王というならば、この過越の祭りに来ないはずはなかろう。そうだとすると、彼らはこの過越の祭りを、彼ら自身の意識しなかった形で、動物の子羊ではない、神の子羊を血祭りにあげる究極の機会として、虎視眈々と狙っていたということになります。なんということでしょう、彼らは究極の子羊をほふるという点で、たしかにユダヤの宗教指導者らしくはありました。いえ、それ以外の何者でもなかったからこそ、彼らはそのような行為に及んだとさえ言えます。 しかしこれは、先週、あの十字架を意味する預言をした大祭司カヤパを例にして申しましたとおり、宗教者として結果的に主のみこころを実践したからといって、その行為がその人を救うわけではありません。私たちも、それがみこころにかなうとばかりに、宗教的行為をすることで満足していても、結果としてみこころを損なうことをしているならば、何の得にもならず、かえってその宗教的行為は呪わしいばかりです。このようにささやき合ってイエスさまを待ち構えて手ぐすねを引き、過越の祭りを血祭りの機会とするような宗教指導者たちなど、まさにその典型です。 私たちもきわめて問われるところです。もし私たちがこの時代のユダヤに生きていたならば、いったいどんな立場の人になったでしょうか。 いちばんなりやすい立場は、イエスさまを迎えようと気分が高揚していた一般のユダヤ人の立場かもしれません。イエスさまが子ろばに乗って入城すると、熱狂的にイエスさまを迎えました。しかし、政治的メシアになってほしいという自分たちなりの願望がなくなるや、宗教指導者たちにあおられるままに、イエスさまを十字架につけろと叫び、そのためには極悪人のバラバを釈放させることもいとわなかった者たちでした。 彼らは一見すると神の民のようでも、神さまではなく世に流されていたために、そういうことになり、結果として神さまのみこころをいたく損なったわけです。この世と調子を合わせることが結果として主を十字架につける罪につながるということを、彼らはよく示しており、これがもっともなりやすいタイプといえるでしょう。もちろん、私たちはこのような、ユダヤの群衆のようであってはなりません。 他のタイプは、ユダヤの宗教指導者たちです。彼らは確信をいだいてイエスさまを十字架につける者たちです。流されて罪を犯すユダヤ人ももちろん問題ですが、彼ら宗教指導者は、イエスさまを十字架につける、つまりあえて神に敵対することを、まるでこの上ない喜び、人類の究極の目標のようにして実践します。もちろん神さまは、彼らのそのどす黒い企てをとおしてさえ、十字架による罪からの贖いという永遠のみこころを成し遂げてくださるお方です。しかし、神に敵対する生き方を悔い改めることもなく、あえてイエスさまを十字架につけるようなことは、なんと恐ろしく、また悲しい生き方でしょうか。 最近私は、妻から教えてもらい、インターネットなどを通じて、現代社会のあちこちをおおっている反キリスト、キリストに敵対する文化の諸様相を見させていただいています。これまで聖書の価値観から悪とされていたものが、現代においてはみな相対化され、受け入れるべきもの、美しいものという扱いを受けるようになっています。しかしそうなると何が起こるのでしょうか。そういうものと相対化された聖書の教え、イエスさまの教えは、やれ偏狭だ、やれ独善的だ、などと攻撃され、まるでいけないことのような扱いを受けるようになっています。 こういう邪悪なムーブメントに乗せられる方も問題ですし、そういうムーブメントを罪深いとわかっていながらもつくり出し、世界をその悪しき文化に染め、人々に聖書もキリストも信じなくさせる勢力は、世界のいたるところに存在しますし、それはこの日本も例外では ありません。 時の宗教指導者たちはイエスさまを十字架につけた張本人であったという点で悪魔の手先でありましたが、こんにちの邪悪な勢力は、自らがはっきりとキリストに敵対し、悪魔を崇拝する者たちであることを表明しつつ活動する分、ある意味で時のユダヤの宗教指導者たちよりひどい存在です。 私たちはけっして、このような闇の勢力の味方になってはいけません。もし私たちの近くにそのような勢力の中にいる者がいたならば、私たちはひたすら、彼らが悪の道から立ち帰るように、主にとりなして祈る必要があります。 しかし、今日の本文を見てみますと、そこにはユダヤの群衆でも宗教指導者でもない存在が見えてきます。そうです、さきほども集中的に学びましたが、イエスさまの弟子たちです。イエスさまの弟子たちは、たしかにイエスさまの十字架を目の前にしては、弱い姿、みっともない姿をさらしてしまいました。しかし少なくとも、彼らはイエスさまを十字架につける勢力についてはいませんし、なによりも、イエスさまを十字架につけたりはしていません。 もちろんその中には、イスカリオテのユダのような物もいました。しかし私たちは少なくとも、イエスさまを主と告白してお従いする姿勢を保ちつづけるならば、ユダのようにイエスさまを十字架につける勢力にあえてなることはありません。私たちはどこまでも、主によって召され、主に遣わされた弟子です。そのアイデンティティを最後まで保つことです。 弟子であるならば、私たちは十字架を経て、まことの悔い改めを経験し、聖霊の力を着せられてこの世に遣わされ、主の栄光を顕す者、主の愛をもってこの世を愛する者として用いていただけます。私たちはあおられるユダヤ人、イエスさまを十字架につけるユダヤ人の姿を見て、自分もそうだなどと考えることはありません。 もちろん私たちは、かつてはイエスさまを十字架につけるほどの罪人でした。それでも、そのような存在だったところから救い出してくださり、ご自身の弟子としてくださった、ご自身の救いの生きた証人としてくださったイエスさまを見つめ、イエスさまを賛美しましょう。主の弟子であることに心から感謝し、この世にて大きく用いられてまいりましょう。

まずは救われよ

聖書朗読 ヨハネの福音書11章45節~53節/メッセージ題目 まずは救われよ  アメリカの黒人霊歌に、「オール・マイ・トライアルズ」(「私の試練」)という歌があります。ハリー・ベラフォンテやピーター・ポール・アンド・マリーのベスト盤にも収録された有名な歌です。その一節に、「もし信仰がお金で買えるものならば、お金持ちは生きて、貧乏な人は死ぬだろう」とあります。貧しい者、持たざる者にされたアメリカの黒人の叫びが聞こえるようで、聞いていて胸が苦しくなる歌詞です。 しかしこの歌詞の意味するところは、それこそむかし高校の国語の古文の授業で習った反語のように、「お金持ちは生きて、貧乏な人は死ぬのだろうか、いやそんなことはない」という意味に取るべきです。そのように聞くと、現世では貧しく、隅に追いやられたような立場に置かされた弱い者が、天の御国では現世とは反対に、すばらしい恵みを得ることになるという、ことばにできない感動を味わうことができます。   イエスさまがこの地上に生きておられたとき、宗教指導者たちは本来、みことばにおいて啓示されたキリストが来られたことに大喜びし、イエスさまにお従いし、イエスさまを礼拝し、イエスさまを伝えるべきでした。ところが彼らはイエスさまを排斥し、迫害し、ついには十字架にまでつけました。一方で、宗教共同体においては絶望的な罪人扱いされていた者たち、羊飼いや取税人や売春婦のような人たちにこそ、救いの道が開かれ、イエスさまを信じる信仰が与えられ、天の御国に入れられるのです。  私たちはもちろん、たとえ持たざるものであってもイエスさまを受け入れる人でありたいものです。しかしひとたびイエスさまを受け入れたからと、あとは安逸に過ごしてもよいものなのでしょうか? イエスさまを受け入れて永遠のいのちが与えられたのをいいことに、まだ救われていない人を見下したり、自分たちさえよければという態度で生きたりしてもいいものでしょうか?  そこで私たちは、イエスさまを排斥した、ときの宗教指導者たちを反面教師として、私たちにとってふさわしい信仰のあり方をともに模索していきたいと思います。では、見てまいりましょう。  イエスさまがラザロをよみがえらせ、ご自身が神の御子キリストであることをいよいよはっきりとユダヤ人たちの前でお示しになったとき、多くのユダヤ人がイエスさまを信じ受け入れました。  だが、あわてたのは宗教指導者たちです。彼らは何を恐れたのでしょうか? 48節をご覧ください。……このままではユダヤが民族を挙げて、イエスさまを信じるようになってしまうことを恐れたのでした。そうなると、ローマ軍がユダヤに攻めてきて、土地も民族もみな取り上げてしまう、ということです。  これはどういうことかと言いますと、この時代にユダヤで待望されていたメシアなる王は、ローマ帝国の支配から脱出させてくれる革命家のような存在でした。民衆はイエスさまに対し、そのようなこの世的な救世主であることを期待していました。そのような革命家がユダヤに起こり、人々を扇動するようになったら、ユダヤにこれまで保障されていたある程度の自治権はひとたまりもなく吹き飛び、彼ら宗教指導者たちは国と民族を治めるどころではなくなります。それだけは困る、というわけです。  もちろん、イエスさまは彼ら宗教指導者たちやユダヤ民族が思っていたような救世主ではありません。それはイエスさまが総督ピラトに、わたしの国はこの世のものではありません、とお答えになり、ご自身がユダヤ民族を扇動する革命家であることを明確に否定されたことからも明らかです。しかしユダヤ人は、われわれにはカエサルの他に王はない、しかしこのイエスは、カエサルに代わる王になろうとした、したがってこの反逆者を十字架刑にしていただきたい、とピラトに迫り、そしてそのとおりになったのでした。  このようなことをわめいたユダヤ人も、つい数日前には、イエスさまを王としてエルサレムに迎えた者たちでした。そんな彼らの考えを変え、ユダヤの王として尊ばれるべき存在をローマの反逆者として十字架につけさせたのは、大祭司カヤパのどす黒いまでの知恵によることでした。  カヤパは何を語ったのでしょうか? 49節、50節です。……かくしてイエスさまは、ユダヤを解放する王から、最悪の反逆者として処刑されるという道へと歩み出されたのでした。  しかし、このカヤパのことばは、単なる陰謀以上の意味がありました。カヤパは、ユダヤという神の民にとって、もっとも宗教的な権威を持つ大祭司でした。その彼の語ったことには、どんな霊的な意味が秘められていたのでしょうか? 51節、52節です。……  あの反キリストの権化のようなカヤパが、これほどまでに本質的に、イエスさまの十字架の持つ意味を言い当てたのです。福音書はその理由を、カヤパがその年の大祭司であったからだと語ります。つまり、カヤパは人間的考えで語ったのではなく、神の霊的権威を託された者として語らせられたのです。  だがこのカヤパの預言は、なんと皮肉だったことでしょう。この預言は十字架という神のご計画を実行する原動力となったのですが、その預言はカヤパのことも、それに扇動された宗教指導者たちのことも救いませんでした。人に与えられた霊的権威は主の民の霊的共同体を保つ上で必要なものだったにせよ、その権威を与えられた者のことは、けっして真似をしてはならなかった、主にある実もないものでした。  イエスさまは、群衆と弟子たちに対するメッセージで、このようなことを語っていらっしゃいます。「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。」  これは、マタイの福音書23章のみことばの最初の2節と3節の部分ですが、それに続いてイエスさまは、彼ら宗教指導者たちがどれほど、みことばを振りかざしているくせに自分たちはまったくそれを守らないものか、歯に衣着せぬ痛烈なおことばで批判していらっしゃいます。  これは、心して読むべきみことばです。私が礼拝メッセージを語るときに心がけていることは、その語ったことを聴くみなさまが守り行なっていただきたい、その一心で語ることです。そのためにできるだけわかりやすく、また、具体的に生活に適用できるように語ることを心がけます。しかし、それよりもはるかに大事なことは、ほかならぬ私自身がその語るみことばを守り行うことである、ということです。私は偉そうなことを言っているけれども、人さまに真似してもらえるにふさわしく生きているだろうか?  クリスチャンでよく、こんなことを言う人がいます。私は罪人です。どうか私ではなく、イエスさまを見てください。一見するともっともなように見えますが、しかしこれは詭弁というものです。その人がイエスさまに従う生き方をする、すなわち、キリストに似た者として生きることをしないで、どうやって人にイエスさまを伝えることができるでしょうか? 私たちは、信仰によって救われているだけで満足していてはなりません。日々みことばと祈りによって、キリストに似たものへと変えていただく歩みをしていく必要があります。  聖書の中でイエスさまが、あれだけパリサイ人たちを批判していらっしゃるのは、私たち律法主義から解放された者たちがそれを読んで、あーよかった、私たちはあのような者たちとはちがう、などと安心するためでは決してありません。むしろその反対で、人ならばだれもが陥るわな、宗教的になって人を顧みなくなる、愛も行わなくなる、そういう間違った生き方を、イエスさまによって救われて神の民となった私たちもしかねないからです。 まことに、私たちは小さなパリサイ人です。しかしそんなパリサイ人でも、ひたすら信仰によって前進したパウロのように、みこころにかなう愛の人としていただけます。私たちはつねにこの自覚を持ちたいものです。 語ることはみこころにかなっている。実に聖書的だ。だがそれを語る当の本人が、いちばんみこころにかなっていない。そればかりか、主に敵対する者にさえなっている――こういうことは往々にしてあるものです。このカヤパの場合なども、まさしくそのケースでした。イエスさまがすべての神の民のために死なれることを言い当てているのだから、まさしく福音の神髄といえる十字架の預言、これほどまでにみこころを表すことばはないくらいです。 しかしどうでしょうか、このような預言をしたカヤパは、だからといって救われて神の国に入り、永遠のいのちをいただくに値するのでしょうか? 聖書は、カヤパが最終的にイエスさまの十字架を受け入れたかどうかについては沈黙していますが、もしそのまま悔い改めることがなかったならば、カヤパは到底、救われるはずなどなかったわけです。それもそのはずです、イエスさまを葬り去る提言をここまではっきりと語り、宗教指導者をはじめユダヤ全体をイエスさまに敵対させた張本人、キリストの敵が、それでも赦されるということなどあり得るでしょうか? 考えてみるまでもないことです。 このカヤパの姿に、私のような献身者はとても恐ろしいものを感じます。私はこれまで、多くのみことばを語ってまいりました。もしかすると多くの方が、私の語ることばに恵みを覚え、主の働きをするために遣わされ、この世で用いられたかもしれません。しかしそれらのことは、私が天国に行けるかどうかということと何の関係もありません。 これはけっして言い過ぎではありません。マタイの福音書の7章21節から23節をお読みください。……主よ、主よ、と呼びかけさえすればそれでいいわけではない、と、イエスさまがおっしゃった真意がお分かりでしょうか? たんに宗教的に神さまとの関係を持ったつもりになっている人は、普段から「主よ、主よ」と呼びかけてはいます。しかしそれは、しょせん自分の宗教的満足のために、そう呼びかけていることでしかなく、そのことで神さまと交わりを持っているわけではありません。 しかしその姿を見る人は、ああ、この先生はいかにも霊的だ、神さまの近くにいらっしゃる、と尊敬してくれるでしょう。その尊敬を一身に受けたら、その宗教家はいやでもうぬぼれます。うぬぼれるために主の名を利用する、尊敬されて高い地位に就くために主の名を利用する、そのために、主よ、主よと呼びかけることもいとわないのです。 だが、このように呼びかける対象であるお方がさばき主であることを、その人は忘れています。あるいは、意識しもしません。もしかしたら、自分は絶対にさばかれない立場にあると見くびっているかもしれません。そういう者が終わりの日になって、火よりも恐ろしいさばきにあうわけです。みこころにかなう行いをしてこなかったという、その理由ゆえに地獄に落とされるのです。 そのとき、宗教家は弁解します。主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇蹟を行ったではありませんか。 しかし、それが仮にも本当のことだとしても、神さまはそれを天国に入れる条件にはしてくださいません。いかにも宗教的な行為をしたことなど、天国に入るにあたっては何の役にも立たないのです。 カヤパならばこう弁解するでしょうか。主よ、主よ、私はあのとき、あなたの名によってイエスさまの死なれることの意味を言い当てました。それはみこころにかなったことではなかったですか。それなのに私はどうして地獄に落ちなければならないのですか。 もちろん、こんな弁解をしたところで、神さまはカヤパのことなど天国に入れてくださるはずもありません。カヤパはキリストに敵対した張本人です。正しい意味の預言を主の権威によってすることと、その預言をした者が救われて天国に行けるかどうかは、まったく関係のないことです。 私たちは、この世でなした業績で天国に入れるかどうかが決まるのではありません。では、何によって決まるのでしょうか?「天におられるわたしの父のみこころを行う者が入る」と、イエスさまは語られます。 それは、御子イエスさまを信じることです。具体的には、イエスさまの十字架を信じる信仰によって罪赦され、御父と和解し、神さまの子どもにしていただくということによってです。イエスさまご自身がおっしゃったとおり、イエスさまを通してでなければ、だれひとり父のもとに行くことはありません。だがカヤパや宗教指導者たちのしたことは、自分たちがイエスさまを信じなかったばかりか、もはやその道が永遠に閉ざされよとばかりに、イエスさまをなきものにしようとしたということです。悔い改めないかぎり、赦されるはずもありません。 私なども恐ろしいです。およそ牧師というものは、目に見える神さまのための働きであるだけに、この働きで忙しくしていれば、それで満足してしまう危険性とつねに隣り合わせです。正直に告白しますが、どんなに忙しくしていても、いちばん大事な神さまとの働きがとても希薄になっていた、ということも、一度や二度ではありませんでした。 しかし感謝なことに、ヨハネの黙示録で主がエペソ教会の信徒たちに語られたように、あなたは初めの愛から離れてしまった、だからどこから落ちたのかよく思い出し、悔い改めて初めの行いをしなさい、と、主は私に語りかけてくださり、私のことを悔い改めに導いてくださり、今こうして神さまとみなさまに支えられて、ここに立つことを許されています。 私のすべての行いは、牧会は、説教も週報づくりも信徒のみなさまに連絡をすることも、あるいは家庭を治めることも、言ってみればみな「行い」の範疇に属するものです。しかしそのすべての「行い」は、イエスさまの十字架の愛に応えての愛ゆえに湧き上がるものであってしかるべきです。何よりも大事なのは、イエスさまの十字架という「初めの愛」という出発点であり、そこからすべての働きは始まります。 これは、献身者にかぎりません。私たちもみな、動機が問われます。ローマ人への手紙14章23節に、「信仰から出ていないことは、みな罪です」とあります。私たちは果たして、信仰によってすべてのことをしていますでしょうか? 単なる人間的な宗教的満足でしているだけになってしまう危険と、私たちはいつも隣り合わせです。イエスさまとの交わりなしにこなしてしまう、それでもどうやらそれなりのことができてしまう……これは危険なことです。 それでもひとつ、私たちは覚えておくべきことがあります。このカヤパのような悪人のはかりごとをとおしてでも、神さまはご自身のご計画、イエスさまの十字架による私たちの救いを成し遂げてくださったということです。今後もこの世界には、あらゆる悪を行う勢力が幅を利かせ、私たち主の民をますます苦しめていくことが予想されます。しかし私たちは忘れてはなりません。すべてを相働かせて益としてくださる神さまは、悪人のその悪しきはかりごとを用いてさえも、ご自身のご計画、人の救いと神の国の実現をもたらしてくださいます。 神さまより強い存在はこの世のどこにもありません。私たちは恐れてはなりません。神さまは、私たちの味方です。私たちに敵対するものは何もありません。私たちも主に敵対する行為ができないように、私たちのことを、罪を嫌われる聖霊なる神さまが守ってくださいます。 私たちはまず、主との交わりからすべてを始めることです。主の愛を動機にすべてのことを行うことです。そうすれば私たちは、愛のない律法主義から解放され、主に用いられるのはもちろんのこと、天国に入れていただけるという平安の中でつねに主と交わりながら、喜びと賛美に満ちた歩みをともにしていくことができます。この歩みをともに目指すものとなりますように、祈ってまいりましょう。

祈りは聞かれるから

聖書朗読;ヨハネの福音書11:38~45/メッセージ題目;祈りは聞かれるから  みなさんにお伺いしたいと思います。みなさんにとって、祈りとは何でしょうか?  今も心痛む、忘れられない想い出をお話しします。それは私が大学生のときのことで、ある人から別れ際に、こんなひと言を言われたのでした。「いいか、よく覚えておけ。祈りは、演技だ!」それまで私は彼のことをクリスチャンと思ってつき合い、つい今しがた、別れる前に彼の祝福を祈ったばかりでした。そして返ってきたことばがこれでした。「よく覚えておけ、祈りは、演技だ!」  私も若くて、どう言い返せばよいかわかりませんでしたし、それに彼は、ストレートに福音を受け入れるには、あまりにも傷が深い人でした。そういう状況で聞いたことばであることを割り引いても、そのとき聞いた「祈りは、演技だ!」ということばは、28年経った今も、ときどきに私の心の中で首をもたげてきます。  みなさんならば、大事にしている人から「祈りは、演技だ!」と吐き捨てるように言われたら、どう答えますか。ほんとうに、祈りとは演技にすぎないものなのですか。実を申しますと、私は今に至るまで、彼に対してその答えを言ったことはありません。振り返ってみると、私の人生は祈りが応えられたことの連続でしかなかったのですが、それを言ったところで、もし今もなお彼が考えを変えていなかったとしたら、彼はけっして私に起こされた祈りの応答など認めないでしょう。私がどう祈ろうと、それは演技なのでしょう。  彼がそう思うのは、しかたないのです。第一コリントに書かれているとおり、御霊のことは御霊によってわきまえる、とありますが、最初から御霊のわざなる祈りというものを疑ってかかるならば、祈りというものほどリアルなものはないこと、祈りは実に愛にあふれた神さまとのコミュニケーションであることを、わかるわけがなく、演技と見なす自分を正当化するばかりでしょう。なぜなら、不信仰であることをやめないことにより、御霊の導きが自分に臨むことを拒否しているからです。  でも私たちは、祈りというものを身近にした生活をしていますでしょうか? 早い話が、祈っていますでしょうか? あなたのしていることはしょせん演技です、などと言いがかりをつける人が現れたとしても、少なくとも私たちの心の中は平安でしょうか?  本日のみことばは、その真ん中の部分に、イエスさまが御父にお祈りすることばが出てまいります。まさしく、祈りです。しかしこの祈りは、兄弟ラザロを生き返らせてくださいとイエスさまにすがった、マルタとマリアの声なき声の祈りに応えられての祈りであると言えましょう。 本日の箇所から、私たちにとって祈りとは何か、受け入れていただける祈りとは何か、ということを、ともに学んでまいりたいと思います。 イエスさまは憤っておられました。アダムの堕落以来、人を悲しみに陥れる死というものがなお人の世界を支配している現実……イエスさまはこの、死というものへの怒りをいだいておられたのでした。 この怒りはまた、よみがえりであり、いのちであるイエスさまのご存在を見えなくさせてしまうほどの死の持つ力に対する怒りとも言えました。この怒りに私たちは共感できないでしょうか?  あれは私が大学生のときでしたが、芸能界のおしどり夫婦として知られていたあるカップルの、奥様が亡くなったときのことです。奥様はクリスチャンで、教会でご葬儀をした様子までワイドショーで報道されていました。私も知っていた教会だったので、ちょっと驚いたものでした。それはともかく、その教会でインタビューに応じていた旦那さんが、口元に笑みさえ浮かべながら、「妻はいま天国にいますから」と答えていらしたのが、とても印象的だったものでした。 しかし、ワイドショーのコメンテーターは、こんなことを言うのでした。「天国にいますから、なんておっしゃるそのおことばに、とても深い悲しみが感じられました。謹んでご冥福をお祈りいたします。」私は旦那さんの平安に満ちた表情を見て、すこしも悲しみをこらえた様子が見えなかっただけに、このコメンテーターのコメントは的を外れていると思い、天国の福音をちゃんと伝えようとしないワイドショーのあり方に、怒りを覚えたものでした。しかし世の中とはそういうものです。永遠のいのちなるイエスさまがわからないものだから、天国よりも死のほうをよほど現実的に捉えてやまないのです。 それは、ここにいる人たちも同じでした。いのちなるイエスさまがここにおられるというのに、イエスさまが見えず、ラザロの死という現実の前に打ちのめされて、泣いていました。そして、一度は正しい復活信仰を持ったマルタさえも、揺れ動いてしまいました。   新約聖書のヤコブの手紙を読んでみますと、私たちが祈るとき、少しも疑わずに信じて願いなさい、疑う人は風に吹かれて揺れ動く海の大波のようであり、そういう人は主から何かをいただけると思ってはなりませんと書かれています。この箇所は明らかに、イエスさまの呼ぶ声にこたえると湖の上を歩けた、しかし波を見ると急に怖くなって、そのとたんおぼれかかった、ペテロのことを念頭に置いていると言えるでしょう。   湖の上など渡れるわけがない、これが常識です。しかし、イエスさまのみわざはときに常識を超える、なぜならばイエスさまは全能なる神さまだから……その信仰を働かせるとき、主が私たちのただ中にみわざを起こしてくださる余地が生まれます。  マルタはついさきほど、イエスさまがラザロを実際によみがえらせてくださると信じ受け入れたばかりでした。しかし墓を前にすると、マルタのその信仰は揺れ動きました。死んで4日経った、そんな人は生きているはずなどないという現実的な考えに圧倒されました。その考えは、イエスさまが全能なる神さまであることを忘れさせてしまうのです。  この病気は治らない、この人間関係はもう修復できない、このあやまちからはもう立ち直れない……常識というものは私たちの実生活を支配しますが、それは何のためでしょうか? そのために私たちが絶望するしかなくなったならば、罪責感たっぷりになって自分を責めるしかなくなったならば、そんな常識など何の役に立つのでしょうか? しかし、こういうときに私たちは、祈ることができるのです。私たちにできないことを、全能なる神さまが必ずしてくださるという信仰を働かせるのです。  私たちはときに、常識という現実の前に圧倒されます。このときのマルタがそうだったようにです。しかし、イエスさまはマルタになんと語りかけられましたか? 40節です。主は、私たちが不信仰だからとおさばきになり、もう知りませんとお見捨てになることはけっしてありません。私たちの信仰が弱いことをご存じの上で、強い信仰へと成長させてくださいます。 要は、私たちがあきらめないことです。マルタは確かに揺れ動いていましたが、それでもイエスさまを呼び寄せるだけの信仰の行動はありました。イエスさまはマルタの信仰を表面的に評価することはなさらず、その奥底の心を汲んでマルタの信仰を一段と成長させてくださったのでした。 私たちも、心で信じたならばそれ相応の行動が伴ってしかるべきでしょう。しかし、信仰というものはいわば「内的衝動」とでも言うべきものであり、ほんとうに信じた人の中には、主のために何かせずにはいられないという衝動が大きくなり、行いという形で実を結ぶものです。 でも、このようなことを申しますと、自分は主のために何もできていない、と、落ち込む方がいらっしゃるかもしれない、と心配にもなります。しかし大丈夫です。問われる思いがあるならば、それは主がそれぞれの殻を破るように信仰を成長させてくださる前段階(ぜんだんかい)にあると考えるべきです。私たちは弱さを弱さとしたままで落ち込んでそれで終わりにするのではなく、弱さを強さに変えてくださる神さまに祈って、変えていただくのです。ここに、私たちは信仰を働かせるのです。 さて、それでは、イエスさまが祈りを聞いてくださるとはどういうことなのかを、41節、42節から考えてみましょう。お読みします。 ここでイエスさまは、御父がイエスさまの願いを聞いてくださったことを感謝しています。これこそが、祈りというものです。おわかりでしょうか? 祈りとは、イエスさまが御父に願うことです。 私たちはお祈りするとき、「イエスさまの御名によって祈ります」と言ってお祈りを締めくくります。これは、単なる決まり事とか、習慣のようなものではありません。お祈りはイエスさまの御名によって祈らなければ、御父に届かないのです。 人間は、神的な存在に対して祈ります。ギリシャ語で人間とは、アンスローポスといいますが、これは「上を見上げるもの」という意味で、人間とはみな宗教的な存在であることが暗示されています。だから人は祈ります。しかし問題は、「イエスさまの御名によって祈っているか」ということです。イエスさまの御名によって祈り、その結果として祈りが父なる神さまに届いているかということです。 もし私たちがイエスさまの御名によって祈るなら、その祈りの内容は、イエスさまが御父に祈る祈りと一致している必要があります。そうするとき、私たちの祈りははじめてかなえられるのです。私たちの肉的な欲望、願望が、いくら祈ってもかなえられないのは、それが、イエスさまが御父に祈るべき祈りの内容ではないからです。 そうだとすると、私たちの祈りは、なんと形式的なものに終わっていたり、自己中心だったりして、イエスさまの祈りに一致していないことが多いことでしょうか! それは単にことばを羅列しているだけで、神さまとのコミュニケーションという意味でのお祈りにはなっていないのです。もちろん、かなえられるはずもありません。 もっとも、みこころにかなうお祈りというものは、かなえられるかどうかで判定されるものではありません。イエスさまご自身がそうでした。ゲツセマネの園で苦悶の中で、この杯をわたしから取り除けてください、と御父に祈られたお祈りは、結果として十字架にかかられたということを見ると、かなえられたわけではありません。 しかし、このお祈りは、十字架という主のみこころが成るうえでどうしても必要なお祈りでした。イエスさまのこのお祈りは、かなえられなかったお祈りだったからといって、ふさわしくないお祈りだったのではありません。 私たちにしてもみこころにかなう祈りであると知ってもそれがかなえられないからと、失望してはなりません。祈りつづけることです。家族の救い、病気のいやし、教会の成熟、人格の成長……みな、みこころにかなっています。一朝一夕にかなえられなくても、祈りつづけることが大事です。 ともかく、祈りというものは、どんな祈りであっても、聖霊なる神さまの導きの中でささげるべきものです。聖霊の導きに敏感になるなら、私たちの祈りはイエスさまの祈りと一致した、的を外さないものへと整えられていきます。祈りが整えられるためには、まず祈ることです。そして祈りのうちに、私たちのすべてを、聖霊さまの導きに明け渡すことです。 御霊に満たされなさい、というみことばがあります。御霊は私たちクリスチャンを、いつでも満たしてきよめようとしてくださっているのです。みこころにかなうものへと整えようとしてくださっているのです。要は、私たちが御霊の導きに明け渡すかどうかです。御霊の導きに明け渡すならば、私たちの祈りは、イエスさまが御父に祈られる祈り、すなわち御父が聞き届けて栄光を顕してくださる祈りへと整えられます。 さきほど、若き日の私に向かって「祈りは演技だ」と言い放った人のことを言いましたが、これはもしかすると、耳に痛いことばとして受け取るべきなのかもしれません。思い返せば、私はなんと、形ばかりの、それこそ演技のような祈りをすることで済ましてきたことかと、悔い改めさせられるものです。そのような通り一遍のことばの羅列で祈ったような気分になっていたとき、聖霊なる神さまはどれほど悲しんでおられたことか、それを思い起こすなら、私はどれほど悔い改めなければならないことかと思います。 私たちの祈りは果たしてどうでしょうか? 私たちの祈るそのお祈りを、イエスさまがまったく同じことばで、父なる神さまに祈っておられる姿が想像できますでしょうか? 恥ずかしくならないでしょうか? はたして、私たちの祈りのことばはふさわしいでしょうか? しかし、イエスさまの御名で祈るにふさわしいお祈り、みこころにかなう祈りなら、イエスさまがそのとおりを御父に祈られ、御父は聞いてくださいます。ラザロをよみがえらせるのがみこころであったように、私たちにみわざを起こされるのがみこころなら、すなわち、そのみわざにより、私たちを通してご自身の栄光を顕してくださるのがみこころなら、必ず私たちの祈りは聞かれます、信じて、祈ってまいりたいものです。 さあ、イエスさまは祈られたあと、何とおっしゃったでしょうか。43節です。……この命令のことばに応えて、ラザロが出てきました。生き返ったのです! 特に44節の表現に注目しましょう。ラザロ、とは書いてありません。死んでいた人、という表現をしています。この表現は、ラザロが特にイエスさまに愛されていたからよみがえるということではなく、死んでいた人はだれもがイエスさまに引き出されるならばよみがえる、ということを暗示しています。イエスさまとはまさしく、死んでいた人をよみがえらせるいのちの主なるお方だということです。 私たちも、罪と罪過の中に死んでいた者でした。しかしあわれみ深いイエスさまは、罪からの報酬である死の中に閉じ込められていた私たち、まさしく、死んだ者が閉じ込められた墓の中にいたような私たちに、「出てきなさい!」と大声で呼びかけられ、死からいのちに移してくださいます。 もう私たちは死んではいません。永遠のいのちに生かしていただいています。しかしこのように贖っていただいた今、かつての自分の姿を考えてみましょう。私たちはどれほど死んでいたことでしょうか? どれほど神さまと断絶して、自分でも何をしているかわからないまま生きていたことでしょうか? しかしイエスさまは、そんな死につながれていた私たちのことを、「出てきなさい!」と、呼び出してくださったのです。 ラザロは最初、布に巻かれたままでした。この時点ではまだ、生き返った死体です。イエスさまはこの布をほどかせました。こうなるとラザロはもう、生き返った死体ではありません。生きているラザロです。 ラザロのその生きる姿は、イエスさまがよみがえりであり、いのちであることを証しする姿そのものとなりました。このラザロを見てユダヤ人たちはイエスさまを信じましたし、のちに生き返ったラザロを一目見たいと、ユダヤ人たちがぞろぞろとやってくることにもなりました。 そうです、罪と死のただ中から「出てきなさい!」と呼び出された者は、いのちに生き生きしてしかるべきです。その姿は、いのちなるイエスさまを証しし、こんな素晴らしい生き方があるだろうか、なんと素晴しいのだろうか、と、人を惹きつけてやまないのです。 こんなふうに生きる祝福が約束されているのならば、私たちは用いていただくべく、祈らずにはいられなくなりませんでしょうか? 主よ、ここに私がおります、用いてください、と祈る祈りは、間違いなく、イエスさまが御父に祈られるにふさわしい祈りです。 私たちは、もはや不信仰ではいられません。形だけの祈りをささげて済ましてはいられません。死んでいた私たちに直接大声で「出てきなさい!」と呼びかけ、永遠のいのちを与えてくださったイエスさまの御声が、今も聞こえますか? もう一度信仰を働かせ、祈りましょう。 私たちが祈るのは、祈りは聞かれるからです。いまともに生きておられる神さまは、私たちを死からいのちに移してくださった贖い主です。このお方に、みこころにかなうお祈りをささげるならば、必ず聞かれます。不信仰を信仰に変えていただき、死からいのちに移していただいた恵みに感謝して、祈りましょう。

よみがえり、いのちなるイエスさま

聖書箇所;ヨハネの福音書11:17~37 メッセージ題目;よみがえり、いのちなるイエスさま  毎週金曜日の英語教室では、現在「自己紹介」というものをしています。マイネームイズだれだれ、ですとか、アイアム・エイト・イヤーズ・オールド、ですとか。自己紹介というものは、多くの場合初対面のときにするものですが、英語教室での自己紹介は初対面にかぎりません。この自己紹介の練習を何度も繰り返すことで、お互いがお互いのことをよく知ることができるようになります。  ヨハネの福音書を読んでみますと、イエスさまはいくつかの箇所で、わたしはなになにです、という自己紹介をなさっています。わたしはよき羊飼いです、とか、わたしは羊の門です、といった自己紹介です。このおことばを聞くと、イエスさまがどのようなお方であるかがあらためてわかります。  今日の箇所では、あの有名なみことば、「わたしはよみがえりです。いのちです」という、イエスさまの自己紹介が出てまいります。このみことばは、愛するラザロの死という悲しいできごとの中で語られたみことばです。  私たちもいろいろな悲しみの中に置かれています。その悲しみから救い出していただくために、いまこそ私たちはイエスさまの慰めのみことばに耳を傾ける必要があるのではないでしょうか?  本日の箇所は先週学びましたみことばの箇所の続きです。先週私たちは、神の時に従って行動されたゆえにマルタとマリアのもとにあえてすぐにはいかなかったイエスさまの行動から学びました。しかし時満ちて、イエスさまはユダヤへと向かわれました。そして本日の箇所、イエスさまがユダヤのベタニアに到着されてからのできごとです。  ベタニアは、エルサレムから距離にして15スタディオンほど離れていたとあります。これは3キロメートルにもならない距離であり、それはこの教会からだと、水戸駅どころか、ケーズデンキの水戸本店にまでも届きません。ほんとうにエルサレムの隣町です。まさに、イエスさまを石打ちにしようとしたユダヤ人たちが待ち構えているような場所です。そこを目がけて、イエスさまは入っていかれました。  ユダヤ人たちに殺される心配はなかったのでしょうか? 大丈夫です。先週も学びましたとおり、それをイエスさまは昼間の十二時間に例えられました。つまずくことのない時間、神さまのための働きが許されている時間ならば、彼ら悪の勢力は手出しができない、というわけです。  イエスさまが到着されたとき、ラザロは墓の中に入れられて4日が経っていました。ユダヤでは、死んで4日も経っているならもはやたましいは肉体を離れている、と信じられていました。絶望しかない状態です。  19節をご覧ください。マルタとマリアは、死んで4日してもなお、深い悲しみの中にいました。彼女たちを慰めるために、大勢のユダヤ人が来ていました。ここで、友達と書かず、「ユダヤ人」と書いてあることにも注目しましょう。まさに、直前の10章において、イエスさまを石打ちにしようとした者たちのことを、ヨハネの福音書は「ユダヤ人」と表現しているのです。ともすればイエスさまに敵対するような人たち、しかし、神の民としてだれよりも神の栄光を見るべき立場にあった人たち……マルタとマリアに付き添っていた人たちは、そういう人たちだったと言えましょう。  20節から、マルタとマリアの姉妹がようやく登場します。イエスさまを迎えに出たマルタ、家にとどまったマリア、この対照的な行動に出た2人を巡っては、かなり対照的な場面が展開します。これは、マルタとマリアの性格のちがいに起因すると言えそうです。  聖書を順番どおり、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと読み進めますと、本日の箇所以前にもマルタとマリアの姉妹が登場しています。ルカの福音書に登場しています。その箇所を読んでみますと、マルタとマリアの姉妹の性格のちがい、態度のちがいを知る手掛かりが得られます。ルカの福音書10章の38節から42節をお読みしましょう、新約聖書の136ページです。  わかることは、マルタはイエスさまの愛、といいますかご存在に応えて、何かせずにはいられなかった人ということです。とにかくよく働いています。しかし、ほかの人にとってイエスさまを大事にすることにまで思いが至らず、自分のしていること、奉仕こそがいちばん必要なことと思い込むあまり、不満が積み重なってしまったような弱さを持っていました。それゆえ彼女はイエスさまに叱られています。  マリアはどうでしょうか。とにかくイエスさまの足もとに座って、イエスさまのおっしゃることに耳を傾けました。マリアはまさしく、人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばによって生きる、というイエスさまの語られたみことばを実践した人でした。その結果、マルタがしているようにイエスさまを奉仕によってもてなすことはしなかったのですが、それをイエスさまはお咎めになることはありませんでした。かえって、マリアは必要なことを選んだのである、と評価していらっしゃいます。  これは、奉仕よりもみことばをお聴きする方が大事である、という意味ではありません。そうだとすると、教会におけるあらゆる奉仕は意味のないものになってしまいます。みことばをお聴きすることはもちろん大事ですが、それは奉仕と優劣をつけるべきことではありません。イエスさまが問題にされたのは、マリアが、主にあって必要なことと判断してイエスさまのもとに座って耳を傾けていることに、マルタがマリアの境界線を越えて介入しようとしたことです。マルタがもし、イエスさまにあって必要なのが奉仕と判断したならば、ただ奉仕に集中しさえすればよかっただけのことです。  この箇所からほかにもわかることは、マルタのことばは記録されているのに、マリアのことばは記録されていない、ということです。これは、マルタが能動的で、マリアが受動的であったことをほのめかしているとも言えます。マルタは能動的だからイエスさまに物申す行動に出て、マリアは受動的だから何も言わなかった、何か言ったとしてもここには記録されなかった、というわけです。  しかし、マルタは能動的な言動をする人だったぶん、その言動に直されるべき部分があるならば、それが明らかにされて、正されやすかった、という特徴も持っています。このたび、イエスさまをお迎えしに出ていったときもそうでした。一方でマリアも、その受動的な性格がよく表れた言動をイエスさまの前に取っています。ただ、その背後で展開する場面は、マルタを巡る場面のほうは静かで、マリアのほうは動的です。まずは、マルタのほうから見ていって、私たちも学んでまいりたいと思います。    21節、マルタがイエスさまを出迎えに行ったとき、何と言っていますでしょうか? まず切り出したのは、あなたはなぜここにいてくださらなかったのか、いてくださらなかったか、ラザロは死んでしまいました、という、恨みにも似たことばです。  恨んでいるから悪いのではありません。私たちも、神さまを恨みたくなることというのはあるものではないでしょうか? 豪雨に見舞われた地域の兄弟姉妹は、天を見上げてなんとおっしゃっているか、考えるだけで心が苦しくなります。いったい、なんとお声がけをしたらよいか、ほんとうにわかりません。 私たちもそれほどではないにせよ、何かあって、神さまを恨みたくなる気持ちになることがあったとしても、不思議はありません。それは不信仰のひとことで片づけるべきではないだろうと思います。ご覧ください。ダビデをはじめとした詩篇の詩人はどれほど、神さまに向かって赤裸々な訴えをしていることでしょうか。私たちも悲しいなら、心にあることを神さまに向かって吐き出す祈りをささげて構わないのです。  ただ、ここでマルタの信仰が取り扱われる糸口となることばを、マルタは語りはじめています。22節です。……マルタは、イエスさまがどのようなお方であるかよくわかっていました。全能なる神さまに求めることは何でもかなえられるお方。この方にすがるならば、今でも願いは聞いていただける。マルタはここで、最後の信仰を働かせようとしたのでした。  私たちもそうです。現実の絶望的な状況にのみ目を留めているならば、そこにはやはり、絶望しかありません。そこで私たちの目を、現実そのものから、現実を越えて司っておられる神さまへと転じるのです。そこから私たちのうちには信仰が育ち、神さまがみわざを起こしてくださる余地が生まれます。  イエスさまはマルタのことばを聞いて、あなたの兄弟はよみがえります、と言ってくださいました。そうです、祈りと願いを聞いてくださったのです。だがマルタは、イエスさまのこのみことばを、半分しか理解していませんでした。マルタは、終わりの日のよみがえりを信じ、そのときにラザロがよみがえることを知っているとは告白しましたが、その告白は充分ではありませんでした。  ここでイエスさまは、きわめて本質的な自己紹介を交え、マルタが、そして私たちが、拠って立つべき信仰の対象としてのご自身のお姿をあらためて示してくださいました。読みましょう、25節と26節です。  ……イエスさまはここで、2つの自己紹介をしていらっしゃいます。第一に「よみがえり」、第二に「いのち」です。  まず、「よみがえり」です。イエスさまは「よみがえり」でいらっしゃるゆえに、イエスさまを「信じる者は死んでも生きるのです」。マルタの告白は、よみがえりを告白していた点では正解でした。しかしイエスさまは何をはっきりされたかというと、ほんとうのよみがえりをもたらすご存在はイエスさまご自身である、ということです。  終わりの日にはみなよみがえります。しかし、天国に行けるのは、罪からの救い主、イエスさまを受け入れた人だけです。人がもし罪があるならば、聖い神さまはどうやって私たち人間のことを受け入れてくださるでしょうか。私たち人間が救われるための道はただひとつ、イエスさまを受け入れることだけです。そうすれば、たとえ死んでもよみがえって永遠のいのちをいただくことができます。まさしく、「わたしを信じる者は死んでも生きるのです」とイエスさまがお語りになったとおりです。  一方で、イエスさまが「いのち」である、ということは、26節でイエスさまご自身が解き明かしてくださっているとおりです。この場合のいのちとは、イエスさまを信じることによって、この世界を生きながらすでに与えていただいている「永遠のいのち」です。「永遠に決して死ぬことがない」というのは、とりあえずは、肉体が死なないという意味ではないことは理解できます。だれでも人は肉体が死にますし、それに例外はないからです。 しかし、イエスさまを信じる人は、霊において生かされて、永遠に生きる存在としていただきます。その永遠のいのち、いのちなるイエスさまとともに生きるいのちは、天国から始まるのではなく、つまり死んだあとから始まるのではなく、この地上にてイエスさまを受け入れた瞬間から始まるのです。私たちはそれゆえに、いま現実に、決して死ぬことがない、永遠のいのちに生かされているのです。 しかしイエスさまは、この2つのことを同時にお示しになるため、ラザロをよみがえらされます。これを目(ま)の当たりにするとき、マルタもマリアも、そしてユダヤ人たちも、ひいては私たちも、イエスさまがよみがえりでありいのちである、したがって、イエスさまを信じる者は死んでも行き、生きていてイエスさまを信じる者は決して死ぬことがないことを受け入れるのです。 ここまでお語りになったイエスさまのみことばを聴いて、マルタはようやく、正しい信仰を持つことができるようになりました。そして、27節、立派な信仰告白をしています。イエスさまは単に友達ではない、全能なる神の御子である、このお方がラザロをよみがえらせてくださる……そう告白したのでした。   私たちはイエスさまに対して何と告白しますでしょうか? イエスさまは世に来られる神の子キリスト、そのように告白できるならば幸いです。私たちは多くの試練を体験します。そのような中で私たちの信仰がきよめられ、イエスさまに対する揺るがない信仰告白へと導かれ、まことのいのち、永遠のいのちを実際に体験しつつ生きるものへと日々変えられますように、主の御名によってお祈りいたします。   それでは次に、マリアのほうにまいりましょう。マリアは、マルタが呼びに来るまで家にとどまっていました。イエスさまを愛していたマリアがすぐにでもイエスさまのもとに駆けつけなかったのはどうしてだろう、そんなことも思います。しかし、マルタが呼びにいったら、マリアはすぐにイエスさまのもとに出ていきました。ユダヤ人たちもマリアにぞろぞろとついていきました。  イエスさまに出会うや、マリアはイエスさまの足もとにひれ伏しました。そして何と言ったでしょうか。32節です。  このことばは、マルタが言ったことばとそっくりそのまま同じです。しかしその後の展開は、大きく異なっています。マリアのことばはそこで終わり、あとは彼女はただ泣くだけです。そして、一緒にいたユダヤ人たちも泣いています。  イエスさまはこの様子に、霊に憤りを覚え、心を騒がせた、とあります。人を絶望と悲しみに陥れる死の勢力に怒りと悲しみを覚えられたのでした。  主が愛をもって創造された世界は、人間の堕落によって死が入りこみ、人は絶望と悲しみに陥るばかりとなりました。だがそれは、愛なる神さまにとってあまりにもつらいことでした。愛をもって創造された人間が永遠に生きることなく、死ぬ。どんなにおつらいことでしょうか。そしてそれを目にする人間も、その人がどうなったかわからない、それをご覧になる主も、どんなにおつらいことでしょうか。  しかし、イエスさまの霊の憤り、そして涙の意味は、ほかにも考えられはしないでしょうか?  ラザロがもちろん、イエスさまをまことの神さまとして信じていたことは疑いのないところです。それを信じていたならば、マリアにしてもユダヤ人たちにしても、もっと平安でいるべきだったことでしょう。なにしろ行った先は天国です。現実のこの世界よりもよほどすばらしい場所です。喜んだっていいくらいです。しかし、死の悲しみは彼らを圧倒しすぎるほどに圧倒していました。もはやマリアには、イエスさまがよみがえりでありいのちであることがわからなくなっていました。あれだけイエスさまのみことばを聴くことを奉仕することよりも大事にしていたマリアが、そういうこともわからなくなってしまっていたのでした。  イエスさまはこのことを目の当たりにして、涙を流されました。いのちの主なるイエスさまがここにいるのに、悲しみのあまり見えない……人よ、よみがえりであり、いのちであるわたしがここにいるのに、見えないとは! 立ち帰るなら永遠のいのちを与える神、わたしがここにいるというのに、見えないとは! 私たちには、イエスさまの悲しみがわかりますでしょうか?  人が死ぬこと、いのちをなくすことは、たしかに悲しいことです。だからこそ新型コロナウイルスに対するワクチンの開発が急がれているわけです。何があっても死んではならないからです。しかしそれでも、人は死にます。問題は、いのちを司っていらっしゃるイエスさまがここにいるならば、イエスさまが見えているかどうかです。見えていると思うなら、イエスさまがどのようなお方であるかがわかっているかどうかです。  マリアは純粋な信仰を持った人でしたが、マルタのようにしっかりした信仰告白に至る論理的な主とのコミュニケーションができなかった弱さがありました。それは私たちにも共通した弱さではないでしょうか? 状況ばかりが見えてしまって、いのちの主なるイエスさまの臨在がまったく見えなくなってしまう。しかしそれでも、イエスさまはこの悲しむ私たちとともに涙を流され、同時に、どうかわたしがいのちの主であることを信じてほしい、と、涙を流しておられるのです。  私たちは、よみがえりでありいのちであるイエスさまが見えていますでしょうか? イエスさまに愛されている私たちが、イエスさまのことがわからないために、イエスさまは涙を流してはいらっしゃらないでしょうか?  しばらく、静まって祈るひとときを持ちましょう。イエスさまが見えていないならば、今ここにおられるイエスさまを見ることができるように、心の目を開けていただきましょう。そして、いのちの主なるイエスさまとつながっている喜びをわがものとさせていただきましょう。

それでも「神は愛なり」と言うために

聖書本文;ヨハネの福音書11章1~16節 メッセージ題目;それでも「神は愛なり」と言うために  今日のメッセージに臨む私の心は、とてもつらいものがありました。日本は大雨に見舞われ、多くの方々が亡くなり、家々は破壊され、道路は寸断され、人々は避難所での生活を余儀なくされています。しかも東京にはこれまでにないほどのコロナウイルス感染者が現れ、いよいよ第二波がやってきたのか、と、戦々恐々とさせられています。  このような中にあって、人々はどんな気持ちでしょうか。私たちはそれでも、神は愛なり、と告白することができるでしょうか。いいえ、このときだからこそ、私たちは自分の中の告白をしっかり保つべきだと考えます。  コロナウイスルの流行がたけなわになってきたころ、保守バプテスト同盟で総会議長として奉仕する大友幸証先生が同盟役員会の席でおっしゃっていました。このようなとき人々は、クリスチャンが何を言うかに期待しているのではないだろうか……。ほんとうにそうだと思います。 いったいこのような中で、ほんとうの希望を語ることができる立場にある者が、語らないでどうしようというのかと思います。私たちこそが、愛なる神さまを語り伝えることにより、この世界にまことの慰めを提供することができるはずです。だからこそ私たちは、このようなときだからこそ、私たちのうちにある希望を確かに保つ必要があるはずです。  しかし、現実はとてもきびしいものです。テレビや新聞で連日報道される悲しいニュースを見るたび、私たちはいかにして自分の信仰を働かせるべきか、とても問われていることと思います。その信仰は、それでも神さまは私たちを愛してくださっている、神は愛なり、と、告白するところから始まります。 私たちの信仰は、移ろいやすい感情に根ざしたものであってはなりません。もちろん、悲しみに暮れる人たちに寄り添う務めも私たちにはあるので、感情というものを無視することはふさわしくありませんが、私たちはまず、感情に流される以前に、変わることのない神さまに対する信仰、そしてその信仰を告白するところから、すべてを始めてまいりたいものです。   そこで今日の本文から学びたいと思います。本日の箇所、ヨハネの福音書11章は、先週の箇所の続きです。イエスさまがエルサレムでの迫害をのがれ、ヨルダンの向こう側に行かれ、そこでみことばを語られ、多くの人がまことの信仰に立ち帰った、というのが、先週の箇所の締めくくりでした。  その流れから本日の箇所にまいりますと、イエスさまの一行は、ヨハネがバプテスマを授けていた場所から、ラザロの家まで行くように要請されていたことになります。実はこのどちらの地も、共通点がありました。それはどちらの地の名前も「ベタニア」という名前だった、ということです。 ベタニア、それは、悩みの家、貧しさの家、という意味です。まさにこの地名は、悩みの中で貧しくされた者たち、ヨハネからバプテスマを受けた者たちもそうですし、マリアとマルタとラザロの三きょうだいもそうですが、貧しさの悩みの中で神にすがる信仰が育てられた人たちの信仰を象徴しているようです。 貧しさが貧しさに終わらない秘訣、悩みが悩みに終わらない秘訣、それは、すべての富の源でいらっしゃるイエスさまに立ち帰ることです。その富は金銭的、物質的なものとはかぎりません。しかしイエスさまに出会うならば、この地において神さまを見上げる、主と交わるという、何にも代えがたい富、豊かさを得られるのは確かなことです。 私たちはこのことを、ほんとうの豊かさと認めていますでしょうか? ならば、貧しさを感じられてならないとき、悩みの中に置かれていると思えてならないとき、イエスさまを呼び求めることです。イエスさまはきっと、そんな私たちに出会ってくださいます。 だがときに、イエスさまを呼び求めても、イエスさまが来てくださっていることが感じられなくてならない、そういうことはあるものです。今日の本文のマルタとマリアの姉妹がまさにそうでした。彼女たちは、イエスさまにすぐにでも来てほしいと、イエスさまのもとに使いを送りました。だが、イエスさまは何とおっしゃいましたでしょうか? 4節です。 イエスさまのこのおことばは、何とおっしゃっていることになるのでしょうか? 「ラザロはよくなる! 心配しなくてもいい!」でしょうか? 「わたしが行って、ラザロの病気を治してあげよう!」でしょうか? いいえ、「ラザロは死ぬ!」と、はっきりおっしゃっているのです。 しかし、5節をご覧ください。イエスさまがこの三きょうだいに対し、どのように思っていらっしゃったかが書かれています。そう、愛しておられたのです。この関係をある人は、「イエスさまの友」ということで説明します。 しかしこの友だち関係は、イエスさまの側から友だちにしてくださったというべきでしょう。前にもお話ししましたが、私が大学院の面接試験を受けるときのこと、大学に着いたはいいが、どこに行ったらよいか迷っていたら、私のことを知っていた教授が私を見つけ、総長のお部屋まで連れて行ってくれて、「この友だちの面接をしていただきたいのですが……」と切り出してくださり、事なきを得て面接をしていただき、晴れて合格しました。 あのときの「友だち」ということばに、私は教授のとりなしを見る思いがいたしました。しかしこの「友だち」ということばは、目上の立場におられる教授が言うべきことばであり、間違っても私から、教授を「友だち」と呼ぶべきではありません。 イエスさまにしても、この上ないほど目上の存在といえましょう。しかしこのお方はへりくだって、この庶民の三きょうだいを友としてくださったのでした。彼らを愛しておられたのです。私たちもまた、イエスさまの弟子であるとともに、イエスさまの友としていただいていることをしっかり心に留めてまいりたいものです。 さて、イエスさまがほんとうに彼らを愛していたならば、それなら、すぐ駆けつけてしかるべきだと思うでしょう。だが6節をご覧ください。この使いのことばをお聞きになってもなお、イエスさまはそのおられた場所になお2日とどまられたのでした。 人は、神さまに期待して祈ります。自分の願っていることが願いどおりに叶えられるように、切なる期待を込めて祈ります。しかし、神さまのお答えは、人の願っているとおりではなかったりするものです。 イエスさまがなぜ2日もさらにその地にとどまられたか、その地にはまだまだ語るべき人がいたからだとか、行うべきみわざがあったからだとか、説明はいくらでもつけられるでしょう。しかしこの理由については、聖書は沈黙しています。わかっていることは、イエスさまはこのことをお聞きになってもなお、そこにさらに2日とどまられたという、その事実だけです。 しかし、イエスさまがこのように振る舞われた理由を考えるならば、ひとつだけ確実なことが言えます。それは、イエスさまが「神の時にしたがって」行動された、ということです。 聖書の原語であるギリシャ語では、「時」というものを表すことばは「カイロス」と「クロノス」の2つがあります。早い話が、カイロスが神の時を指すのに対して、クロノスは人の時を指します。私たち人間にとって時間というものは大事です。この時間をしっかり把握するために、人は時計を用い、この時計の動きに合わせてみな行動します。現にこの礼拝も、午前10時30分という時間に始まり、11時30分くらいを終わりにするのも、クロノス、人の時の基準にのっとっているわけです。 しかしカイロスはちがいます。これはときに、人には測れないような形で現れます。マリアとマルタは、一刻も早くイエスさまに駆けつけていただきたかったでしょう。しかしイエスさまが御父から受け取っておられたスケジュールは、人の思いとはちがうものでした。神の時にしたがって行動された結果、2日さらにその地にとどまられたというわけです。 しかしその次の7節をご覧ください。イエスさまは、三きょうだいの家に向かうためにユダヤに行こうと弟子たちにおっしゃいました。神の時が満ちたのです。しかし弟子たちは、恐れました。今度こそイエスさまは石打ちに遭われるのではないだろうか。どうか行かないでいただきたい。 実際、イエスさまが直接ユダヤに行かなくても、ラザロを治す方法などいくらでもあったのではないかと考えられるでしょう。実際、直接患者のところに行かないで、みことばひとつでその病んだ人を癒されたということを、イエスさまが何度もなさったということが、福音書には記録されています。今度もそのようになさったならば、石打ちに遭うかもしれないという危険を避けることはできようというものです。 しかし、イエスさまはここでも、神の時にしたがって歩まれることを宣言なさいました。9節、10節をお読みください。……のちにイエスさまが捕らえられ、裁判へと引いていかれるとき、イエスさまは彼らに向かって「今はあなたがたの時だ、暗やみの時だ」とおっしゃいました。神の子を十字架につけようとするサタンの勢力がいよいよ盛んになるとき、それが暗やみのとき、霊的な夜であり、そうなるまでは、いかに敵対する者たちがイエスさまの周りにうごめいていようとも、手出しなどできないのです。 これこそ「神の時」です。弟子たちはこのときも、「人の時」で物事を推し量ろうとして怖れていましたが、神の時は人の時に優先するので、怖れることはなかったのです。 さて、イエスさまは何をしに行かれるのでしょうか? 眠ったラザロを起こしに行くためだとおっしゃいました。しかし、眠った、ということばを、弟子たちは誤解していました。単なる睡眠だと思ったのです。睡眠ならば、助かるでしょう。このことばの裏には、睡眠ならば助かりましょう、何も出向いていって危険にさらすことはありますまい、という弟子たちの思いが隠れているといえます。 しかし、眠る、ということばは、聖書にもしばしば用例がありますが、死んでたましいはもう地上にない、という意味でもあります。だからこそ14節をご覧ください、イエスさまははっきりと、ラザロは死にました、とおっしゃいました。 さらに15節をご覧ください、イエスさまがその場に居合わせてラザロのことをすぐに病気から立ち直らせることをしなかったのは、あなたがた弟子たちのためによかったのだった、わたしはそれを喜んでいる、とさえおっしゃっています。それは、あなたがたが信じるためである……。 イエスさまの弟子にとっていちばん必要なもの、それは、イエスさまが神の時にしたがってみわざを行われるという信仰です。その信仰があなたがたの間で確かになるために、わたしは死の眠りについたラザロを起こす、すなわちよみがえらせる……これは、十字架について死なれるイエスさまが、墓からよみがえり、いのちの主の栄光を豊かに現されるその前触れであり、とても大事なみわざでした。 弟子たちはのちの日に、復活の主を宣べ伝えるべく派遣されます。そのためには、何を差し置いても、イエスさまのこのみわざを目撃する必要があったのでした。 するとこのことばを聞いたトマスが、何を思ったか、こんなことを口にしました。16節です。……これだけはっきり、今はみわざを行う昼の時であるとイエスさまがおっしゃったというのに、トマスはこれを殉教の時と勘違いしたのです。トマスはなおも、神の時を人の時ととらえることをやめてはいませんでした。 ときに私たちは、主のみことばを聴き、主のみこころが示されてもなお、それを充分に受け取れず、神さまはきっと私が思っているような最悪の状況を用意しておられるにちがいない、ならばいっそ、それを覚悟して臨もう、などと思い込んでしまうことがあるものです。しかしトマスは、ほかの弟子たちとともに何を見たでしょうか? イエスさまの死ではありません。イエスさまの栄光です。実にイエスさまのみわざは、私たちの先入観、思い込みを越えてあまりある形で現されます。私たちはつねに、その主のみわざに余裕をもって期待してまいりたいものです。 ただ、トマスのこのことばはのちの日に、神の時至って実現しました。十二弟子は、脱落したイスカリオテのユダと、ヨハネを除いては、みな殉教の死を遂げました。トマスもその中に含まれていました。主とともに死ぬのはこのときではありませんでしたが、やがて充分に整えられた者となったとき、トマスもまた、主のために死ぬという栄光に浴することができたのでした。これもまた人の時ではない、神の時が成るということです。 そこで私たちもまた、神の時というものを考えてみたいと思います。コロナウイルスの流行はいつ終息するのか、日本列島が大雨の苦しみから解放されるのはいつだろうか、そればかり思うならば、私たちは絶望的な気分にならないでしょうか? このようなとき、私たちはどうすれば、その絶望的な気分から解放されるのでしょうか? 天を見上げることです。イエスさまはいかに歩まれたのでしょうか? 神の栄光が顕されるため、立ち止まるときには立ち止まられ、進むべき時に進まれた、イエスさまの歩みに心を留めてまいりましょう。 神さまが働かれない領域、神さまが目を留めていらっしゃらない領域は、この世界のどこにも存在しません。今この日本にも、神さまは目を留めておられ、最善をなしてくださると信じ、どうかこのときこそ最善をなしてくださいと祈ることです。そして、神の時にゆだねることです。そうすれば私たちは、絶望から救われます。 イエスさまのもとに使いを送ったマルタとマリアの気持ちを考えてみましょう。そばにイエスさまがいらっしゃらなかったことを、どれほど恨めしく思ったことでしょうか。どれほど、イエスさまのみわざを待ち望んだことでしょうか。しかし、イエスさまに与えられた父なる神さまのみこころは、マルタとマリアの思ったとおりではありませんでした。しかしイエスさまがみこころを持って働かれると、そこには最高のみわざが現され、主のご栄光が豊かに現されたのでした。 私たちも今、同じ思いで主を待ち望むべきではないでしょうか? 恨みたくもなるでしょう。泣きたくもなるでしょう。私はこれまで、自分がどんなにひどい目にあっても、神さまを恨むようなことはしないできました。それが信仰者としての在り方だと固く信じてきたからです。しかし今度ばかりは、涙をもって天を見上げる兄弟姉妹の痛みがひしひしと伝わってくるような気がしてならなくなっています。 助けたい。しかし私たちもはやり病に痛んでいる。しかもこのはやり病のせいで、被災地にボランティアにも行けない。かつての大震災は痛みの中で人を束ねることにもつながりました。まさにその痛みの中で、人は「絆」ということばの尊さに気づかされました。 しかし今度はちがいます。コロナウイルスは「絆」そのものを持たせないまま、人をかぎりなく病ませます。大雨に痛む人を行って助けることもできない、こんなことはかつてありませんでした。 こんなとき私たちは、それでもラザロ、マルタ、マリアの三きょうだいを愛された同じ愛をもって、イエスさまが被災地の人たちを愛し、コロナにおびえる私たちを愛してくださっている、それゆえに、神の時をもってみわざを必ずなしてくださることを信じ、その神の時を待ち望む信仰を育てていただくべく、祈ってまいりたいものです。 私たちは、人間のちっぽけな器で神さまを推し量るような愚かなことをしてはなりません。神さまは、イエスさまは、私たちがいま考えているよりも、知っているよりも、はるかに大きなお方であり、はるかに知恵に富むお方でいらっしゃいます。このお方がそのときにしたがってみわざを行われるなら、それこそ「最善」と呼ぶべきことです。 今こそ言いましょう。「神は愛なり」。神さまのみこころは、人の思いをはるかに超えます。

イエスさまを信じるということ

導入讃美「たたえよ栄光の神」「イエスが愛したように」/祈祷/使徒信条/交読 詩篇67篇/主の祈り/讃美 讃美歌532/聖書箇所;ヨハネの福音書10章31節~42節/メッセージ題目;イエスさまを信じるということ  今年のテーマは「信仰によって歩もう」、この標語を掲げて、もう今年も後半に突入しました。なんといっても今年の前半は、3分の2以上もコロナウイルスのことで話題が持ちきりで、メッセージもかなりそのことを意識したものとなりました。  しかし考えてみれば、いえ、考えてみなくても、私たちにとって祈るべきことは、コロナに関することにとどまりません。平安のため、健康のため、安定のため……しかし私たちは、少しも疑わずに、信じて願うようにとみことばで命じられています。その、つねに信じて願う信仰は、その信仰の対象である、イエスさまがどのようなお方であるかをみことばから教えられ、それゆえに私たちはイエスさまとどのような関係に入れられているかを知ることに始まります。  先週、私たちは自分を義とするゆえに祈りが聞き入れられないパリサイ人を反面教師として学びました。今日の箇所も、ユダヤ人とありますが、イエスさまを責め立てるユダヤの宗教指導者の姿が描かれています。  この、イエスさまを迫害する宗教指導者たちとの対話をとおして、イエスさまはご自身がどのようなお方か、明らかにしていらっしゃいます。このイエスさまに対して信仰を働かせるとはどういうことか、学んでまいりましょう。本日も、3つのポイントからお話ししたいと思います。  第一のポイントです。イエスさまは、神のことばであられるゆえに、信じるべきお方です。  今日の箇所は、イエスさまがエルサレム神殿のソロモンの回廊という場所で、ユダヤの宗教指導者たちに取り囲まれて詰問される場面から続いています。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」  しかし、ユダヤ人たちがイエスさまにそう迫ったのはなぜでしょうか? イエスさまがもし、ご自身がキリストであると彼らにおっしゃったならば、彼らは信じるのでしょうか? 自分の罪が救われ、神の子どもとなるために、イエスさまを信じるのでしょうか? とんでもないことです。そうではないことは、あとにつづく会話からもはっきりしています。イエスさまは、すでにご自身がキリストだと話したのに、彼らユダヤ人たちは信じないとおっしゃいました。そうです、すでに語っておられるのです。  それならば、なぜ彼らは受け入れないのでしょうか? これもイエスさまがおっしゃっているとおりです。それは彼らが、イエスさまの羊ではないからだ、ということです。 イエスさまの羊である人は、イエスさまについていく人、イエスさまが永遠のいのちを与えてくださる人、御父がイエスさまに与えてくださっている人だと、イエスさまはおっしゃいました。ということは、このイエスさまを詰問する宗教指導者たちは、そのどれにも当てはまらない者たち、ということになります。  そしてイエスさまは、このはっきりした事実に加え、わたしと父とは一つです、とまでおっしゃいました。ユダヤ人たちはこのおことばを聞いて、イエスさまに対する殺意が燃え上がり、投げつけるために石を取りました。  そのような彼らに対し、イエスさまはおっしゃいます。32節です。……これは、どういうことでしょうか? イエスさまが行われた数々の奇蹟は、みな、父なる神さまとイエスさまが一つであることを示している、それを見て、それでもわたしのことを石打ちにする理由はなかろう、というわけです。このことについてはのちほど詳しく扱いますが、ともかく、イエスさまのみわざを見てきたならば、彼らはいやでも、そこに父なる神さまのご存在とみこころとみわざを認めざるを得ないはずです。それなのに彼らは、イエスさまのことを迫害しているのです。  彼らの言い分を聞いてみましょう。33節です。……イエスさまが行われたわざが「良いわざ」であることは、さしもの彼らも認めざるを得ませんでした。だが、彼らにとっては、イエスさまがいかに良いわざ、愛にあふれた奇蹟を行おうとも、関係ありませんでした。彼らは、イエスさまがご自身のことを、神であると言っていることが冒瀆であると問題にしているのです。  しかし、イエスさまがキリストであるということは、ほかでもなく、イエスさまが人であるのと同時に、神さまであるということを意味します。それを認めることができないとは、やはりイエスさまの羊の群れに属していない者たちということになります。あなたがキリストならばはっきりおっしゃってください、と詰め寄りながら、あなたは自分を神としているのだから冒瀆だ、などとは、彼らが何を考えていたかよくわかります。語るに落ちる、とは、このことです。ここまで傲慢ならば、何をどうしてもキリストを主と告白する、すなわちイエスさまを主と告白することなどできません。  だが、自分のことを神と名乗ることは、イエスさまに関しては、冒瀆に当たりません。そのことをイエスさまは、旧約聖書・詩篇82篇のみことばを引用して証明されます。  まずイエスさまは、このみことばを「律法」と呼んでおられます。つまり、彼ら宗教指導者にとってはいのちのように大切なものです。このみことばが何と語るかを示せば、いかに彼らでも受け入れざるを得ないわけです。  そのみことばは、何と語っているでしょうか。……わたしは言った。「おまえたちは神々だ」。この「わたし」とは神さまです。では「神々」とはだれでしょうか。神さまのみことばを託されながらも、そのとおりに守り行わず、弱い者を切り捨て、悪しき者の味方をする者のことです。 もちろん、この「詩篇」が第一にはイスラエル人、のちのユダヤ人の間で唱和されたことを考えると、この警告を受けた「おまえたち神々」とは、ユダヤ人です。まさに、このようにしてイエスさまを責め立てている者たち、みことばを託されているのに悪を行う宗教指導者たちのことと言えます。  さて、この訳は「神々」となっています。これは、日本のだいたいの聖書は「神々」と訳していますが、新改訳の以前の訳や、文語訳の聖書は、ずばり「神」と訳しています。日本語のイメージでは、「神」と「神々」では全く異なり、「おまえたちは神だ」となったら、どういうことだろうかと思いませんか?  しかし、詩篇の原語であるヘブル語によれば、「神」も「神々」も、どちらも同じ「エローヒーム」であり、「神」とも「神々」とも訳してもいいのです。よく、日本語の「神」は聖書の語る唯一なる創造主とはちがう存在だから「神」と呼ぶべきではなかろう、という議論があり、韓国語には唯一の創造主を表す「ハナニム」ということばが特別にあることをうらやましがるクリスチャンがいますが、考えてみれば私たちは、このお方を「神さま」と呼んだからと、正確な聖書信仰を持っていない、ということにはなりません。詩篇82篇、そしてそれを引用されたイエスさまのおことばを根拠にすると、「神」と「神々」の区別さえ、本来はなかった、あくまで文脈で理解し分けるべきものだということがわかります。しかもイエスさまはそれに加えて「聖書は廃棄されない」とさえおっしゃっています。あなたがたは廃棄されることのない聖書を根拠に生きている、その聖書は何と語っているか、正確に耳を傾けよ、それはユダヤ人にも、私たちにも語られている、主のみこころです。  その聖書は、驚くべきことに、神のことばを託された者たちを父なる神さまが、神々になぞらえていらっしゃると語ります。では、イエスさまはどうでしょうか? イエスさまは神のみことばを託されているどころではありません。このヨハネの福音書が冒頭から語っているとおり、神のみことばそのものです。イエスさまがここで、御父が聖なる者とし、世に遣わされた存在、それがご自身であると語っていらっしゃるとおりです。 したがってイエスさまは、父なる神さまから神と呼ばれるのに、これほどふさわしいお方はいらっしゃらない、ということになります。それを、みことばを託されていようとも、しょせん人間にすぎない者に、あなたは神ではないから神を名乗るなど冒瀆だ、などと言われる筋合いはありません。 私たちはイエスさまをどのようなお方と信じ受け入れていますでしょうか? もし私たちが、イエスさまのことを、肉体をとってこの世界にいらっしゃった神のみことばなるお方であると信じ受け入れているならば、私たちのみことばに向かう姿勢は変わるはずです。この聖書のことばは、イエスさまのご本質と、神のみことばであるという点で同じです。そう考えますと、私たちには恐れが生じないでしょうか? 私たちはその恐れをもってみことばをお読みしていますでしょうか? 日々、みことばをお読みする時間は、イエスさまに出会う時間です。単なるお勤めとか、人生の素養を増し加える時間とはちがいます。みことばをお読みするとき、それが私たちにとってイエスさまに出会い、イエスさまと深く交わる時間となりますように、その時間を毎日大切にする私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。  では、第二のポイントにまいります。イエスさまは、神のみわざを行うゆえに、信じるべきお方です。  37節、38節をお読みしましょう。……イエスさまが、ご自身が神の御子であることを証ししたものは、イエスさまが行われた奇蹟、わざでした。マタイの福音書11章5節で、バプテスマのヨハネの弟子たちにイエスさまが語られたとおりのことを、イエスさまはなさっていました。そのわざはすべて、イエスさまがメシアとしてこの地に来られたことを証しするものでした。  これを主のわざとして受け入れ、それゆえにイエスさまを救い主として信じる人は幸いです。その人はイエスさまを信じる信仰によって、永遠のいのちをいただくことができるからです。実に、この奇蹟を受け入れるかどうかは、永遠のいのちをいただけるかどうかの分かれ目となります。  イエスさまは、すばらしいみことばをたくさん語られました。しかしそれは、単なる道徳的な教師のことばではありません。それは、ご自身が神である、父なる神とひとつであると語られるみことばでもありました。人によっては、こんなことはとても聞いていられない、という告白です。実際、イエスさまの十字架刑を決定づけたものは、まさにイエスさまが、大祭司の前でご自身が神の御子キリストであると告白されたことでした。その告白を聞いた大祭司らユダヤの指導者たちは、即座に死刑を言い渡し、そしてその死刑とは十字架だったのでした。ご自身が神であるということゆえにイエスさまは十字架に死なれたわけです。  それがユダヤの社会の不寛容さでした。このような社会において、その宗教的な構造ゆえに苦しまされていた庶民たちを救ったのは、この力あるみことばを証拠づける、数多くの奇蹟でした。この奇蹟は、人々をそれで惹きつけておいて、自分の配下に下った者を意のままに操り、搾取するような、悪魔に魅入られたような者たちのものとは根本的に異なっていました。まさに、この数々のわざは、神の国の到来を告げるに充分なものでした。  イエスさまを信じるということは、イエスさまがこの数々のわざを行われたということを信じる、ということです。時代が下り、あらゆることを科学的に説明しようという風潮になり、科学的に説明できないものは事実ではないと切り捨てる社会において、次第に人々は、イエスさまのみわざは神話にすぎないとばかりに、遠ざけるようになりました。しかしそのような人は、仮にクリスチャンを名乗っているとしたら、イエスさまの何を信じているというのでしょうか。 聖書のあらゆる記述は、科学の発達した現代にさえも説明できないことばかりです。ある人は聖書の記述と科学を調和させようとあらゆる努力をしたり、聖書の奇蹟を科学で説明しようとしたりします。それは科学という観点から見ればとても面白い取り組みには違いないのですが、その作業が、神さまの起こされたわざを奇蹟と受け入れることによって神さまを恐れ、神さまを信じ受け入れることにとって障害となってしまうならば問題です。  10年以上前、埼玉の実家に住んでいたときのことです。ある日私は父と一緒に、NHKの番組を見ていました。それはアメリカの科学番組で、出エジプト前夜に起こった十のわざわいをすべて科学的に説明するという内容でした。ご覧になったという方はいらっしゃいますか? 実によくできた番組でした。その説明はすべて、無理も矛盾もないように思えました。私はテレビを眺めていて、へえ、十の災害をこうまでみんな論理的に説明できてしまうなんて面白い! などと無邪気に感心していましたが、ノンクリスチャンである父が番組を見終わって、ぼそっと言いました。「こうまで説明しちゃ、奇蹟の意味がないよなあ。」  いったい私たちは、科学の力で弁護しなければ聖書が真実である、事実であると受け入れないのでしょうか? こんなことを事実として書いている聖書のことを人に伝えたら、私たちの信仰はどう思われるだろう? そんなことを考えて、福音を人に伝えることをためらってはいないでしょうか? いいえ、神さまが選んだ人ならば、聖書が現代科学の説明に合わないなどとは考えません。私たちがそうしたように、ちゃんとみことばを真理として受け入れます。  要は、及び腰にならないことです。「臆病者は神の国を継げない」という、私たちにとって恐ろしい警告のことばが聖書にありますが、私たち、ああ、自分は臆病だ、神さまはこんな私をとがめられる、とお思いでしょうか? 私たちにとって大事なのは、何よりも、聖書を真理として受け入れる点で臆病にならないことです。この聖書を事実、真実、真理として受け入れることにためらう恐れがあってはなりません。私たちはみことばを受け入れることにおいて、大胆になる必要があります。このみことばの語るとおり、奇蹟は起こった、今もなお主は祈りを聞いてくださり、奇蹟をもって応えてくださるお方である、そう信じて、みわざをもって祈りに応えてくださる主がともにいてくださることを信じつつ、日々の歩みをなしていくことです。  私たちはまだ、聖書に書かれているイエスさまのみわざ、父なる神さまのみわざが、信じきれていない、ということはないでしょうか? 私たちのうちに信仰が増し加わり、どんなわざも信じ受け入れ、そのわざをなしてくださったイエスさまに対する信仰をますます強い者にしていただくように祈りましょう。私たちの不信仰が信仰に変えられる、これは実に素晴らしいみわざです。日々の主とともに歩む歩みの中で、このみわざを味わい、主に感謝する歩みをなす私たちとなることができますように、主の御名によってお祈りいたします。  最後に、第三のポイントです。イエスさまは、預言の成就そのもののゆえに、信じるべきお方です。  40節から42節をお読みしましょう。……ヨハネは、ヘロデの罪を告発したことが原因で逮捕され、ヘロデの妻へロディアによって無残な死を遂げました。このヨハネは、イエスさまの到来を告げる働きをしていましたが、ある人はこのヨハネがメシアではないかと考えていました。  しかし、メシアはイエスさまであって、ヨハネではありません。そもそも、生前のヨハネは、イエスさまを差し置いて自分がメシアとして人々に扱われることなど、考えることさえしませんでした。  イエスさまも、ヨハネの業績がすべて、ご自身の到来をもって成就することを証しされる必要がありました。ヨハネを信じていた人々が、そのまま、イエスさまを信じないままでいるようなことがあってはならないからです。もしそうなったら、彼らはキリストには出会えなかったということになります。そういうわけで、ヨハネのバプテスマしか知らなかった人たちは、イエスさまによってフォローされる必要がありました。イエスさまは彼らに奇蹟を行われ、イエスさまこそメシアであることを示してくださいました。  また、イエスさまがヨハネの後をご自身でフォローされたということは、もうひとつの意味があります。マタイの福音書11章13節で、イエスさまがヨハネについて評価していらっしゃるみことばから、そのヒントを得ることができます。お読みします。「すべての預言者たちと律法が預言したのは、ヨハネの時まででした。」  つまり、イエスさまご自身は、ヨハネが最終的に示した旧約の預言を、究極的に成就されたお方である、ということです。そのとき信じた人たちは、イエスさまはヨハネが語ったとおりのお方だった、と言っていますが、それはつまり、イエスさまは旧約の預言の成就だった、ということになるわけです。  イエスさまがこのような、みことばの成就、わけても旧約のみことばの成就そのもののお方でいらっしゃるということに私たちが心を留めるなら、私たちの聖書の読み方は豊かにならないでしょうか? 私たちはホテルなどでよく、新約聖書の分冊を見ます。ないよりはある方がいいのでしょうが、新約聖書だけというのは、これは正確には「聖書」とはいいません。英語でもそれは「ニュー・テスタメント」であって、「ザ・バイブル」にはならないわけです。  千代崎秀雄先生という方がおっしゃっていますが、推理小説を解決篇だけ読んでも面白くないでしょう、そこに至るまでの伏線をじっくり読むから、推理小説は面白いのです、旧約聖書もそれと同じで、解決篇に当たるイエスさまの登場までの伏線をじっくり読むということです……。  しかし、多くのクリスチャンにとって、旧約聖書はとっつきにくいことは否めません。難しい、というより、退屈、という印象を受けたりはしないでしょうか? そんな旧約聖書を生き生きとお読みする、ひとつのヒントをご提供します。それは、そこに書かれている記述から、イエスさまを発見することです。これは、イエスさまがどのようなお方であるかを新約聖書から学んでいるほど、発見しやすくなります。そして発見するたび、イエスさまというお方の豊かさに触れることになり、私たちの信仰はいやがうえにも深まります。みなさんも面倒くさがらないで、ぜひ旧約をお読みいただければと願います。イエスさまに秘められた豊かさをどんどん発見し、恵みを大いに体験していただきたいのです。  以上見てきたことから結論を下しますと、イエスさまを信じるということは、旧約そして新約に証しされたイエスさまのご存在、おことば……そしてみわざに至るまで、すべて事実、真実、真理と信じ受け入れることを意味します。イエスさまを信じることと聖書のみことばを受け入れることは、密接な関係があるどころではありません。同じことです。私たちが座右に聖書を置いてみことばとともに歩むとき、イエスさまがつねにともに歩んでくださり、私たちを恵んでくださる祝福をつねに体験する私たちとなりますように、そのために、みことばに絶えず親しむ私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 讃美 聖歌475/献金 讃美歌391/頌栄 讃美歌541/祝福の祈り

だれの祈りが受け入れられるのか

招詞 詩篇134篇/祈祷/使徒信条/交読 詩篇66篇/主の祈り/讃美 讃美歌514/聖書本文;ルカの福音書18章9節~14節/メッセージ題目;だれの祈りが受け入れられるのか  コロナウイルス流行に伴って「私たちはいかに祈るか」ということを、これまでこの日曜礼拝の時間に学んでまいりました。この事態を主が鎮めてくださるように、私たちはどれほど祈らされたことでしょうか。しかし主は、日本にかぎってのことではありますが、ある程度の回復をくださいました。そこで、今日でひとまずこの「祈り」をテーマにした学びを締めくくりたいと思います。  私がはじめてお祈りしたときのことを想い出します。それは日曜学校の中高生科のことで、先生も交えて数人のメンバーでお祈りしました。いきなり私の番が回ってきて、しどろもどろになりながらお祈りしたものでした。しかし、そのグループには歳の近い長老のお嬢さんがいらっしゃり、彼女はすらすらと、きれいなことばづかいさえ用いてお祈りしたものでした。そう、私にとって初めてのお祈りは、ちょっとコンプレックスを覚えるような体験でもありました。  あれから30年以上たち、それなりに私のお祈りのことばは豊かなものになったと思います。しかし考えなければならないことは、神さまはお祈りの表現の豊かさ、きれいさにしたがって、お祈りを聞いてくださるわけではない、ということです。今日お取次ぎするメッセージを備えながら、自分はどうだろうか、自分のお仕えしているこの群れはどうだろうか、と、たえず問われる思いでいっぱいでした。それでは、みことばの解き明かしにまいりたいと思います。  イエスさまは、お祈りということに関して、2種類の人を例に挙げられました。それは、自分は正しい人間だと確信していて、ほかの人々を見下している人たちを戒めるためです。具体的には、当時の宗教界を支配していた人たち、律法学者のパリサイ人たちを念頭に置いてのおことばでした。彼らパリサイ人の宗教的支配により、実に多くの人が不自由を強いられ、悩みと苦しみの中にありました。イエスさまは、そのように抑圧された人々に対し、彼らを解放するみことばを語られた一方で、パリサイ人を戒め、その宗教的な偽善を暴き出されました。  少し考えてみましょう。私たちはパリサイ人でしょうか? そうではない、自分は恵みによって救われた、と思いならば、自らに問うてみる必要があります。自分は神さまの正しさを基準に、人のことをさばいていないだろうか? 自分は神さまに近い分、人は自分よりも劣っているとか、けがれているとか、間違っているなどと思っていないだろうか? もしそうならば、私たちは立派に、鼻持ちならないパリサイ人です。福音書の記者たちがあれだけ、パリサイ人に関する記事に紙面を割いているのももっともなことになります。 心して聖書をお読みする私たちになりたいものです。  宮、これはエルサレム神殿です。エルサレムの中でも高いところにあります。この高きに向かって上っていくとき、神さまに出会うんだという高揚感はいやがうえにも高まろうというものです。みなさんも、服装を整えて車に乗り、はるか茨城町長岡を目指していらっしゃるときにも、同じような思いになられるのではないかと思います。しかし問題は、宮に上ることそのものではなく、その宮においてどんな祈りをささげるかです。  宮に上った2人の人、パリサイ人と取税人……イエスさまはこの2人を、とても対照的な姿で描かれます。まず、パリサイ人の祈りの特徴を、3つのポイントに分けて見てみたいと思います。  第一にパリサイ人は、敬虔ななりをして自分を義としました。  パリサイ人はどこで祈っていますでしょうか? 宮です。まさに、自分のような宗教指導者にとっては本拠地です。  ここで祈るということは、いかにも自分は宗教的にすぐれた人であるとばかりに、人に見せびらかすに充分なことです。イエスさまは、偽善者は人々に見えるように、会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだと喝破していらっしゃいます。そのような者は、すでに自分の受け取るべき報いを受けている、ともおっしゃいました。祈っただけの報いをその後も、いわんや天国においても受け取る余地はない、ということです。  このパリサイ人もまさに、そのような偽善的な態度で、宮にいたわけです。愛するみなさん、私たちの信仰生活を、日々のお勤めにも似た宗教行為ののりでしてしまうならば、それはとても危険なことです。することそのものが目的となり、することによって自分が何やら霊的な人になったように思えたり、霊的な人と思ってもらえたり……イエスさまなら、それは偽善者の態度であるとおっしゃることでしょう。  かく申します私などは、なまじ牧師のような働きをしているゆえに、どれほどそのように宗教的に満足することの誘惑にさらされていることか、どうか理解していただきたいのです。イエスさまは、先生と呼ばれてはいけません、とおっしゃいました。しかし私は今、みなさまに先生と呼んでいただいています。そう呼んでいただけることが主の御目には素晴らしいことである一方で、私は決して慢心してはなるまい、と、心を新たにさせられます。  しかし、あえて申しますが、私たちもみな、多かれ少なかれ、パリサイ人になりえる要素というものを持っているものです。特に、イエスさまの十字架にの恵みにより、信仰によって救われた、その証しをする聖書は誤りなき神のことばである、と信じ告白する私たちのことを、一般には「福音派」と呼びますが、われわれ福音派は一歩間違えると、とても鼻持ちならない集団と化します。自分たちこそ神さまが選んでくださった、自分たちこそ神さまと交わりを持たせていただいている、自分たちこそ聖書もイエスさまもよく知っている、あとは正しくない、足りない……私たちはときに、こんなことを考えたりしていないでしょうか?  そのような私たちであることに気づかされたならば、すぐにでも悔い改める必要があります。そのような者の祈りは、一見するととても立派なことばに飾られています。しかしそこには、神さまとの交わりが成り立つ余地はありません。立派なことばを使ってお祈りすればいいというものではありません。もちろん、お祈りのことばが整えられるのは大事にはちがいありませんが、それ以上に大事なのは、立派な自分ではなく、神さまに焦点を合わせたお祈りをすることです。 私たちの普段ささげているお祈りを点検しましょう。お祈りしているとき、神さまが見えていますか? いえ、神さまだけを見つめていますか? 神さまだけを見つめるならば、宗教的に飾った自分のことなど見えなくなります。  パリサイ人の祈りの、第二の特徴にまいります。パリサイ人は、他者との比較で自分を正しいとしました。  11節を見てみますと、パリサイ人は、4つのことを感謝しています。自分が奪い取る者ではないこと、不正な者ではないこと、姦淫する者ではないこと、そして、その祈りの場にともにいる取税人のようではないことをです。  たしかに、彼の祈ったとおりなのかもしれません。法律的、道徳的規準から言えば、奪い取ったり、不正だったり、姦淫したりはしていないのかもしれません。それに、取税人のように、ユダヤ人から税を取り立ててローマに貢ぎ、必要以上に取り立てたぶんで私腹を肥やすようなことはしていないのかもしれません。  しかし、それを感謝した気分になるということは、神さまに栄光をお帰しする態度ではなく、自分の手柄のように誇るということです。そこには神さまの恵みを認め、感謝する余地はありません。  さらに厳密に言えば、パリサイ人はこのどの比較によっても義と認められることはできません。パリサイ人は窃盗犯や強盗のように人からものを奪うことはしていないかもしれません。しかし彼らは、合法的に庶民を苦しめるように宗教社会をつくり上げ、彼らを搾取してはばかりません。まさにパリサイ人は奪い取る者です。そして、そのようなことをきよい神、公平な神、愛なる神の名において行うのは、これ以上ないほど不正なことです。また、肉欲を行使するか否かという点でも、姦淫の罪は犯していないでしょう。しかし、律法というものは、十(とお)のうちひとつでも破るならば、すべてを破ったと見なされます。姦淫の罪を犯していないことなど、何も誇ることではありません。  さらにこのパリサイ人は、そばでともに神さまに祈っている取税人を、同じ神の民として扱ってはいません。人としてすら扱っていないようでもあります。取税人は確かに取税人という悪い肩書を持っていますが、同じユダヤ人、神の民であることに変わりはありません。そのような彼に対するあわれみの心など欠けらも持ち合わせず、自分さえよければという思いでいっぱいです。兄弟としての意識もなく、さばく思いでいっぱいです。  神さまは、あなたが人と比べて罪深くないから受け入れてくださる、というお方ではありません。神さまの前にはみな罪人です。義人はいません。ひとりもいません。それなのに、人よりも自分のほうが罪深くないとか、すぐれているとか言ってみたところで、何になるのでしょうか。  私たちが神さまを恐れているならば、くれぐれも、人と比較して自分のほうがすぐれているなどと、誇ったりしないことです。そのような態度は、救いようのない罪人だったのが恵みによって救いっていただいた、そのような私たちに、いちばんふさわしくないものです。私たちの祈りを点検しましょう。くれぐれも人と比較しないでいただきたいのです。  パリサイ人の祈りの、第三の特徴を見てみましょう。パリサイ人は、宗教的行為で自分を義としました。  12節を見てみますと、2つの宗教的行為をこなせていることを彼は誇っています。まず彼は、週に2回断食していると言っています。……しかし実際に聖書が呼びかけている断食は、週に2回というものではありません。年に数回の「贖罪日」に断食を要求するのみです。しかし、時代が下り、宗教指導者たちは週に2度の断食をすることが慣わしとなっていました。  みなさん、断食というものをなさったことがおありでしょうか? あれは、とても苦しいものです。特に、食べないと血糖値が下がってふらふらになるような方の場合、生きた心地がしなくなります。しかし断食とは本来、主のみこころをより深く自分のものにさせていただくためにすべきものであって、断食そのものによって、自分が何か偉い人になったかのように錯覚するためのものではありません。  一日、断食をしたとします。しかし、そのことで、自分はすごいことができたなどと自分を誇る態度になったならば、はっきり申します、その断食は大失敗です。パリサイ人は、そのようなひとつも実を結んでいない失敗の宗教的行為を、しかも週に2回、年に換算すると100回以上もしているわけです。これほどむなしいことがあるでしょうか。  そして彼は、全収入の十分の一をささげていることを誇ります。この十分の一というささげものについては、モーセ律法五書のあちこちにその根拠があり、ささげるべきものと教えています。しかし、パリサイ人に関しては、その全収入は本来、ユダヤの宗教社会の中で人々から受け取っているものであり、「労働の対価」というのとは性質が異なります。だからパリサイ人の十分の一は、庶民が労働で得た収益の中から苦労して十分の一をささげることとは、本質的に異なります。パリサイ人にとっては、いわば宗教的生活の一環です。それはパリサイ人という「職業」についているかぎりささげるべきものであって、誇るなど筋違いもいいところです。  断食と十分の一献金は、私が韓国教会と関わるようになって、はじめて身近なものとなり、これを生活化して信仰生活を送っている韓国教会から大いに学ぶべきだと、最初私は思っていました。 しかし自分が韓国教会の中に実際に身を置いてみると、その、断食と十分の一を実践することはどんなに難しいことかと、身をもって思い知りました。しかし人によっては、あまり悩まないでできてしまう人もいるものでした。でもそういう人は、「えらい」のではありません。それだけ、主の恵みを受け取っているにすぎないだけです。  私は、そのような「断食と十分の一」の流れに長年身を置いたので、それが教会形成において重要なことはわかっています。しかしそれだからこそ、私はみなさんに、断食と十分の一を強制するような牧師にはなりたくないと切に願います。これを強制でするならば、万一、一日断食ができた、今月十分の一をささげることができた、と、実践に移した場合、そんな自分のことを誇る余地が出てきてしまうものです。そうではありません、断食にしても十分の一にしても、日々いただく神さまの恵みがあまりにも素晴らしいことを受け取れて、はじめて可能になることです。はっきり申し上げます、もしそのような恵みがどうもわからない、とお思いの方は、断食や十分の一に象徴される教会生活に、そんなに一生懸命にならなくても大丈夫、と思います。もちろん、恵みを体験していただくことがいちばん素晴らしいことなので、私はそのようなみなさまのためにお祈りしますが、くれぐれも、人の目を気にして無理するようなことはなさらないでいただきたいのです。  では、パリサイ人を反面教師としてここまで見てきましたが、それなら取税人のほうはどうなのか、ということも見てみたいと思います。  取税人は、ただ自分が罪人だということを認めて嘆き悲しみ、神さまにあわれみを求めました。  13節をご覧ください。……この「あわれんでください」ということばは、岩波書店発行の福音書の訳では「お慈悲を」となっています。これなら、日本人にもわかりやすいのではないかと思います。とにかく、この取税人は、宮から遠く離れ、それでも宮にできるだけ近づいて、うなだれて胸をたたいて、ひたすらに祈ります。宮の中には彼のような立場の者は受け入れてもらえません。それでも彼は、少しでも主の臨在を求めて近づきます。うなだれるのは、自分の罪深さに恥じて、天におられる神さまに合わせる顔がない、という態度でしょう。そして、罪深い思い、そしてそれを悔いる思いでいっぱいの心をたたくように、胸を打ちたたき、叫びます。「神さま、罪人の私をあわれんでください。」  はっきり自分のことを罪人と認め、告白しています。罪人だから神さまに受け入れていただくなどとんでもない、彼はよくわかっていました。でも、彼は一縷の望みをいだいて、神さまにあわれみを求めました。あわれんでください!  彼の祈りは必至です。まるでこの祈りは、神さまのあわれみで覆っていただかなけば、死んでしまいそう、そう、必死に叫んでいるかのようです。  さあ、どちらの祈りを神さまは聞いてくださり、義と認めてくださったのでしょうか。14節です。 ……さて、この14節の「あのパリサイ人ではなく、この人です」ということばに注目しましょう。これはギリシャ語の原語でも、「パリサイ人」、「この人」と書いてあります。「この人」なのであって、「取税人」ではないのです。  これは、どういうことでしょうか? 神さまが義と認めてくださったならば、神さまはもはやその人を「取税人」に象徴される罪人としては扱わない、ということを暗示しています。神さまに罪赦されて、取税人としての在り方を外していただいた「この人」です。 一方で、「パリサイ人」は、やっぱり「パリサイ人」です。みこころから外れたこと、自分を正しいとする高慢なことを祈るような者は、依然として、人をさばき、人を不自由にする罪を決して悔い改めない「パリサイ人」として、御父もイエスさまも扱われる、ということです。  これが神さまのみこころであることを知った私たちは、ただひたすらに、神さまにあわれみを求める祈りをささげるべきです。しかし、よく考えてみましょう。私たちはなんと、小さな自分を誇る祈りをささげることでしょうか。人と比較して自分を正しくする祈りをささげることでしょうか。そんな私たちは何という罪人でしょうか。  しかし、私たちはそれでも、神さまに祈りを受け入れていただく余地があります。それは、そのような罪人、人をさばき自分を義とする罪人であることを素直に認め、その罪から自由にならないことを嘆き悲しみ、神さまの御前にあわれみを求めるのです。神さまはそんな私たちの祈りを、必ず聞いてくださいます。罪を赦し、義としてくださいます。  へりくだりましょう。神の国は、私たちげへりくだるときに、神さまが私たちに与えてくださるものです。 讃美 聖歌426/献金 讃美歌391/栄光の讃美 讃美歌541/祝福の祈り「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」