まずは救われよ

聖書朗読 ヨハネの福音書11章45節~53節/メッセージ題目 まずは救われよ  アメリカの黒人霊歌に、「オール・マイ・トライアルズ」(「私の試練」)という歌があります。ハリー・ベラフォンテやピーター・ポール・アンド・マリーのベスト盤にも収録された有名な歌です。その一節に、「もし信仰がお金で買えるものならば、お金持ちは生きて、貧乏な人は死ぬだろう」とあります。貧しい者、持たざる者にされたアメリカの黒人の叫びが聞こえるようで、聞いていて胸が苦しくなる歌詞です。 しかしこの歌詞の意味するところは、それこそむかし高校の国語の古文の授業で習った反語のように、「お金持ちは生きて、貧乏な人は死ぬのだろうか、いやそんなことはない」という意味に取るべきです。そのように聞くと、現世では貧しく、隅に追いやられたような立場に置かされた弱い者が、天の御国では現世とは反対に、すばらしい恵みを得ることになるという、ことばにできない感動を味わうことができます。   イエスさまがこの地上に生きておられたとき、宗教指導者たちは本来、みことばにおいて啓示されたキリストが来られたことに大喜びし、イエスさまにお従いし、イエスさまを礼拝し、イエスさまを伝えるべきでした。ところが彼らはイエスさまを排斥し、迫害し、ついには十字架にまでつけました。一方で、宗教共同体においては絶望的な罪人扱いされていた者たち、羊飼いや取税人や売春婦のような人たちにこそ、救いの道が開かれ、イエスさまを信じる信仰が与えられ、天の御国に入れられるのです。  私たちはもちろん、たとえ持たざるものであってもイエスさまを受け入れる人でありたいものです。しかしひとたびイエスさまを受け入れたからと、あとは安逸に過ごしてもよいものなのでしょうか? イエスさまを受け入れて永遠のいのちが与えられたのをいいことに、まだ救われていない人を見下したり、自分たちさえよければという態度で生きたりしてもいいものでしょうか?  そこで私たちは、イエスさまを排斥した、ときの宗教指導者たちを反面教師として、私たちにとってふさわしい信仰のあり方をともに模索していきたいと思います。では、見てまいりましょう。  イエスさまがラザロをよみがえらせ、ご自身が神の御子キリストであることをいよいよはっきりとユダヤ人たちの前でお示しになったとき、多くのユダヤ人がイエスさまを信じ受け入れました。  だが、あわてたのは宗教指導者たちです。彼らは何を恐れたのでしょうか? 48節をご覧ください。……このままではユダヤが民族を挙げて、イエスさまを信じるようになってしまうことを恐れたのでした。そうなると、ローマ軍がユダヤに攻めてきて、土地も民族もみな取り上げてしまう、ということです。  これはどういうことかと言いますと、この時代にユダヤで待望されていたメシアなる王は、ローマ帝国の支配から脱出させてくれる革命家のような存在でした。民衆はイエスさまに対し、そのようなこの世的な救世主であることを期待していました。そのような革命家がユダヤに起こり、人々を扇動するようになったら、ユダヤにこれまで保障されていたある程度の自治権はひとたまりもなく吹き飛び、彼ら宗教指導者たちは国と民族を治めるどころではなくなります。それだけは困る、というわけです。  もちろん、イエスさまは彼ら宗教指導者たちやユダヤ民族が思っていたような救世主ではありません。それはイエスさまが総督ピラトに、わたしの国はこの世のものではありません、とお答えになり、ご自身がユダヤ民族を扇動する革命家であることを明確に否定されたことからも明らかです。しかしユダヤ人は、われわれにはカエサルの他に王はない、しかしこのイエスは、カエサルに代わる王になろうとした、したがってこの反逆者を十字架刑にしていただきたい、とピラトに迫り、そしてそのとおりになったのでした。  このようなことをわめいたユダヤ人も、つい数日前には、イエスさまを王としてエルサレムに迎えた者たちでした。そんな彼らの考えを変え、ユダヤの王として尊ばれるべき存在をローマの反逆者として十字架につけさせたのは、大祭司カヤパのどす黒いまでの知恵によることでした。  カヤパは何を語ったのでしょうか? 49節、50節です。……かくしてイエスさまは、ユダヤを解放する王から、最悪の反逆者として処刑されるという道へと歩み出されたのでした。  しかし、このカヤパのことばは、単なる陰謀以上の意味がありました。カヤパは、ユダヤという神の民にとって、もっとも宗教的な権威を持つ大祭司でした。その彼の語ったことには、どんな霊的な意味が秘められていたのでしょうか? 51節、52節です。……  あの反キリストの権化のようなカヤパが、これほどまでに本質的に、イエスさまの十字架の持つ意味を言い当てたのです。福音書はその理由を、カヤパがその年の大祭司であったからだと語ります。つまり、カヤパは人間的考えで語ったのではなく、神の霊的権威を託された者として語らせられたのです。  だがこのカヤパの預言は、なんと皮肉だったことでしょう。この預言は十字架という神のご計画を実行する原動力となったのですが、その預言はカヤパのことも、それに扇動された宗教指導者たちのことも救いませんでした。人に与えられた霊的権威は主の民の霊的共同体を保つ上で必要なものだったにせよ、その権威を与えられた者のことは、けっして真似をしてはならなかった、主にある実もないものでした。  イエスさまは、群衆と弟子たちに対するメッセージで、このようなことを語っていらっしゃいます。「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。」  これは、マタイの福音書23章のみことばの最初の2節と3節の部分ですが、それに続いてイエスさまは、彼ら宗教指導者たちがどれほど、みことばを振りかざしているくせに自分たちはまったくそれを守らないものか、歯に衣着せぬ痛烈なおことばで批判していらっしゃいます。  これは、心して読むべきみことばです。私が礼拝メッセージを語るときに心がけていることは、その語ったことを聴くみなさまが守り行なっていただきたい、その一心で語ることです。そのためにできるだけわかりやすく、また、具体的に生活に適用できるように語ることを心がけます。しかし、それよりもはるかに大事なことは、ほかならぬ私自身がその語るみことばを守り行うことである、ということです。私は偉そうなことを言っているけれども、人さまに真似してもらえるにふさわしく生きているだろうか?  クリスチャンでよく、こんなことを言う人がいます。私は罪人です。どうか私ではなく、イエスさまを見てください。一見するともっともなように見えますが、しかしこれは詭弁というものです。その人がイエスさまに従う生き方をする、すなわち、キリストに似た者として生きることをしないで、どうやって人にイエスさまを伝えることができるでしょうか? 私たちは、信仰によって救われているだけで満足していてはなりません。日々みことばと祈りによって、キリストに似たものへと変えていただく歩みをしていく必要があります。  聖書の中でイエスさまが、あれだけパリサイ人たちを批判していらっしゃるのは、私たち律法主義から解放された者たちがそれを読んで、あーよかった、私たちはあのような者たちとはちがう、などと安心するためでは決してありません。むしろその反対で、人ならばだれもが陥るわな、宗教的になって人を顧みなくなる、愛も行わなくなる、そういう間違った生き方を、イエスさまによって救われて神の民となった私たちもしかねないからです。 まことに、私たちは小さなパリサイ人です。しかしそんなパリサイ人でも、ひたすら信仰によって前進したパウロのように、みこころにかなう愛の人としていただけます。私たちはつねにこの自覚を持ちたいものです。 語ることはみこころにかなっている。実に聖書的だ。だがそれを語る当の本人が、いちばんみこころにかなっていない。そればかりか、主に敵対する者にさえなっている――こういうことは往々にしてあるものです。このカヤパの場合なども、まさしくそのケースでした。イエスさまがすべての神の民のために死なれることを言い当てているのだから、まさしく福音の神髄といえる十字架の預言、これほどまでにみこころを表すことばはないくらいです。 しかしどうでしょうか、このような預言をしたカヤパは、だからといって救われて神の国に入り、永遠のいのちをいただくに値するのでしょうか? 聖書は、カヤパが最終的にイエスさまの十字架を受け入れたかどうかについては沈黙していますが、もしそのまま悔い改めることがなかったならば、カヤパは到底、救われるはずなどなかったわけです。それもそのはずです、イエスさまを葬り去る提言をここまではっきりと語り、宗教指導者をはじめユダヤ全体をイエスさまに敵対させた張本人、キリストの敵が、それでも赦されるということなどあり得るでしょうか? 考えてみるまでもないことです。 このカヤパの姿に、私のような献身者はとても恐ろしいものを感じます。私はこれまで、多くのみことばを語ってまいりました。もしかすると多くの方が、私の語ることばに恵みを覚え、主の働きをするために遣わされ、この世で用いられたかもしれません。しかしそれらのことは、私が天国に行けるかどうかということと何の関係もありません。 これはけっして言い過ぎではありません。マタイの福音書の7章21節から23節をお読みください。……主よ、主よ、と呼びかけさえすればそれでいいわけではない、と、イエスさまがおっしゃった真意がお分かりでしょうか? たんに宗教的に神さまとの関係を持ったつもりになっている人は、普段から「主よ、主よ」と呼びかけてはいます。しかしそれは、しょせん自分の宗教的満足のために、そう呼びかけていることでしかなく、そのことで神さまと交わりを持っているわけではありません。 しかしその姿を見る人は、ああ、この先生はいかにも霊的だ、神さまの近くにいらっしゃる、と尊敬してくれるでしょう。その尊敬を一身に受けたら、その宗教家はいやでもうぬぼれます。うぬぼれるために主の名を利用する、尊敬されて高い地位に就くために主の名を利用する、そのために、主よ、主よと呼びかけることもいとわないのです。 だが、このように呼びかける対象であるお方がさばき主であることを、その人は忘れています。あるいは、意識しもしません。もしかしたら、自分は絶対にさばかれない立場にあると見くびっているかもしれません。そういう者が終わりの日になって、火よりも恐ろしいさばきにあうわけです。みこころにかなう行いをしてこなかったという、その理由ゆえに地獄に落とされるのです。 そのとき、宗教家は弁解します。主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇蹟を行ったではありませんか。 しかし、それが仮にも本当のことだとしても、神さまはそれを天国に入れる条件にはしてくださいません。いかにも宗教的な行為をしたことなど、天国に入るにあたっては何の役にも立たないのです。 カヤパならばこう弁解するでしょうか。主よ、主よ、私はあのとき、あなたの名によってイエスさまの死なれることの意味を言い当てました。それはみこころにかなったことではなかったですか。それなのに私はどうして地獄に落ちなければならないのですか。 もちろん、こんな弁解をしたところで、神さまはカヤパのことなど天国に入れてくださるはずもありません。カヤパはキリストに敵対した張本人です。正しい意味の預言を主の権威によってすることと、その預言をした者が救われて天国に行けるかどうかは、まったく関係のないことです。 私たちは、この世でなした業績で天国に入れるかどうかが決まるのではありません。では、何によって決まるのでしょうか?「天におられるわたしの父のみこころを行う者が入る」と、イエスさまは語られます。 それは、御子イエスさまを信じることです。具体的には、イエスさまの十字架を信じる信仰によって罪赦され、御父と和解し、神さまの子どもにしていただくということによってです。イエスさまご自身がおっしゃったとおり、イエスさまを通してでなければ、だれひとり父のもとに行くことはありません。だがカヤパや宗教指導者たちのしたことは、自分たちがイエスさまを信じなかったばかりか、もはやその道が永遠に閉ざされよとばかりに、イエスさまをなきものにしようとしたということです。悔い改めないかぎり、赦されるはずもありません。 私なども恐ろしいです。およそ牧師というものは、目に見える神さまのための働きであるだけに、この働きで忙しくしていれば、それで満足してしまう危険性とつねに隣り合わせです。正直に告白しますが、どんなに忙しくしていても、いちばん大事な神さまとの働きがとても希薄になっていた、ということも、一度や二度ではありませんでした。 しかし感謝なことに、ヨハネの黙示録で主がエペソ教会の信徒たちに語られたように、あなたは初めの愛から離れてしまった、だからどこから落ちたのかよく思い出し、悔い改めて初めの行いをしなさい、と、主は私に語りかけてくださり、私のことを悔い改めに導いてくださり、今こうして神さまとみなさまに支えられて、ここに立つことを許されています。 私のすべての行いは、牧会は、説教も週報づくりも信徒のみなさまに連絡をすることも、あるいは家庭を治めることも、言ってみればみな「行い」の範疇に属するものです。しかしそのすべての「行い」は、イエスさまの十字架の愛に応えての愛ゆえに湧き上がるものであってしかるべきです。何よりも大事なのは、イエスさまの十字架という「初めの愛」という出発点であり、そこからすべての働きは始まります。 これは、献身者にかぎりません。私たちもみな、動機が問われます。ローマ人への手紙14章23節に、「信仰から出ていないことは、みな罪です」とあります。私たちは果たして、信仰によってすべてのことをしていますでしょうか? 単なる人間的な宗教的満足でしているだけになってしまう危険と、私たちはいつも隣り合わせです。イエスさまとの交わりなしにこなしてしまう、それでもどうやらそれなりのことができてしまう……これは危険なことです。 それでもひとつ、私たちは覚えておくべきことがあります。このカヤパのような悪人のはかりごとをとおしてでも、神さまはご自身のご計画、イエスさまの十字架による私たちの救いを成し遂げてくださったということです。今後もこの世界には、あらゆる悪を行う勢力が幅を利かせ、私たち主の民をますます苦しめていくことが予想されます。しかし私たちは忘れてはなりません。すべてを相働かせて益としてくださる神さまは、悪人のその悪しきはかりごとを用いてさえも、ご自身のご計画、人の救いと神の国の実現をもたらしてくださいます。 神さまより強い存在はこの世のどこにもありません。私たちは恐れてはなりません。神さまは、私たちの味方です。私たちに敵対するものは何もありません。私たちも主に敵対する行為ができないように、私たちのことを、罪を嫌われる聖霊なる神さまが守ってくださいます。 私たちはまず、主との交わりからすべてを始めることです。主の愛を動機にすべてのことを行うことです。そうすれば私たちは、愛のない律法主義から解放され、主に用いられるのはもちろんのこと、天国に入れていただけるという平安の中でつねに主と交わりながら、喜びと賛美に満ちた歩みをともにしていくことができます。この歩みをともに目指すものとなりますように、祈ってまいりましょう。