エリヤの祈り後篇疲れし者への神の応答

招詞 詩篇133篇/祈祷/使徒信条/交読 詩篇65篇/主の祈り/讃美 讃美歌516/聖書朗読 列王記第一19章1節~18節/メッセージ「エリヤの祈り後篇 疲れし者への神の応答」  この日曜礼拝のメッセージの時間、私たちはこれまで、代々(よよ)の聖徒たちの祈りの模範を、聖書から学んでまいりました。しかし今日は、模範というアプローチとはちがったかたちで「祈り」について見てみたいと思います。  コロナ疲れ……先週水曜日、教会で幾人かの信徒たちで集まったとき、改めて私たちが、「コロナ疲れ」というものにやられていたことを思わされました。私たちはどうでしょうか? 疲れてなんかいない、と思っているような方でも、実は疲れていた、ということはありえると思います。非常事態が長く続き、そこから緊張の糸が解けたときが、いちばん危ないのではないかとも思われます。  疲れから回復する技術を持っている人はすばらしいです。しかし時に私たちは、そのキャパシティを越えて、もうどうにもならなくなるときというものがあるものです。しかしそんなときにも、神さまは私たちを祈りに招いていらっしゃいます。先週に引きつづき、エリヤの祈りから学びましょう。  第一のポイントです。神さまは疲れ切った者をどこまでも慰め、力づけてくださいます。  先週みことばから学びましたとおり、エリヤは素晴らしい業績を上げました。しかしその目的は、エリヤがスーパースターになることではありません。アハブ王をはじめ、神の民イスラエルが、偶像を捨てて、主に立ち帰ることに大きな目的がありました。  しかし、結果はどうなったでしょうか? 主のみわざを見たならば、今後もう偶像を礼拝するのはやめて、まことの神さまにだけ礼拝するようになるべきだったのに、結果はあべこべでした。1節、2節のみことばをご覧ください。  エリヤにとって、あの雨乞合戦は相当な労力を要するものでした。午前中いっぱい、バアルの宗教儀式をじっと見つめることは、いかにその神々が実体のないものだと知っていても、霊的にとても疲れることだったはずです。みなさんも神社仏閣に行くようなとき、どこかしら霊的に疲れを覚えませんか? 仏式や神道式のお葬式に参列するようなときなど、なおさらでしょう。そして、まことの神さまが臨んでくださったときには力を得たとしても、神さまに敵対するバアルやアシェラの預言者850人を聖絶するということは、それが必要なこととはいえ、たいへんな労力を必要とします。しかし、そこまでしたというのに、アハブの王家は悔い改めず、イゼベルは直接対決を避け、自分のいのちにかけて刺客(しかく)を送ることをエリヤに言い送ったのでした。  聖書は、このときエリヤがどんなに絶望したことかもしっかり記録しています。やはりエリヤはスーパースターではなかったのでした。3節と4節です。エリヤは、今ここで殉教するということにより、主なる神さまの確かさを証しするという選択ができなかったのでした。むしろ、自分のいのちを救うために逃げたのでした。  しかしエリヤは、現実を見誤っていました。もしイゼベルがほんとうにエリヤを葬り去るつもりだったら、そのまま刺客を送ってエリヤを暗殺していたはずです。しかしもし、そのようなことをしたらどうなったでしょうか? エリヤは殉教したことになり、主なる神さまの正しさが証しされることになります。イゼベルとしては、何としてもそのようなことは避けなければなりませんでした。イゼベルには悪魔的な知恵があったのでしょう。自分の献身する神々の名にかけてエリヤを脅迫すれば、エリヤは逃げるにちがいないという計算があったはずです。果たしてエリヤは、まんまとイゼベルの術中にはまりました。イゼベルはこうして、エリヤを敗北者に仕立て上げることに成功したのでした。  エリヤは、ひとりでユダの南にある荒野に行きました。日の照りつける荒野では、暑さをしのぐことができるのは、低い灌木であるエニシダの木陰くらいしかありません。エリヤはそこに座り、何をしたか。自分の死を願ったのです。  エリヤの中には何らかのシナリオがあったことでしょう。バアルがさばかれ、神さまが3年6か月ぶりに雨を降らせてくださった。イスラエルはこれを見て、地位の高い者から低い者まで、まことの神さまに立ち帰るにちがいない。しかし現実はそうならなかったばかりか、イゼベルはますます強情になり、バアルの神々の名によってエリヤを葬り去りにかかりました。火をもって応えられ、大雨を降らせてくださった……あれだけのことを神さまはしてくださったというのに、バアルはまだ、まことの神さまに負けてはいなかった。エリヤはこの現実にうちのめされました。それなら、イゼベルの刺客によっていのちを落とすくらいなら、神さまの御手に陥ってこの世を去らせていただきたい……エリヤはそこまで思い詰めてしまったのでした。  エリヤはスーパースターではありませんが、神さまのみこころにかなった人でした。だからこそ神さまは、雨乞合戦においてエリヤの祈りを聞いてくださったのでした。それなら、エリヤのこの死を願う祈りも、みこころにかなった人物だからという理由で、お聞きになるのでしょうか? そうはなさらなかったのでした。  だれであれ、死にたくなることはあるでしょう。しかしわれわれクリスチャンの場合、いのちというものが神さまの御手のうちにあることを知っています。だからなおさら苦しくなるのですが、その苦しさに耐えられなくなると、本気で死にたいと思い、どうかいのちを取ってくださいと祈りたくもなります。しかしそれなら、神さまはその祈りをみこころにかなうものと受け止め、その祈りのとおりにいのちをお取りになるのでしょうか。とんでもないことです。神さまがその祈りにお応えにならないのは、生きるのがみこころということが、大前提だからです。  神さまは追い詰められている私たちの味方です。5節から7節をお読みください。……聖書は私たち人間のことを、どのように表現していますでしょうか? 土の器、とも語っています。聖霊の宮、とも語っています。私たちは有限な存在であり、壊れやすい存在です。だから、どこかで壊れやすい私たち自身を保たせる必要があります。  私たちはしばしば、信仰生活というものを、何やらとても宗教的な修養(しゅよう)のようなものと勘違いしている節はないでしょうか? コロサイ人への手紙2章の末尾を読めばわかりますが、そんな禁欲的な生き方はしょせん肉を満足させているものにすぎないと言い切っています。それでは、好き放題のことをする快楽主義の生き方と、見かけはちがっても同じことをしていることになります。  神さまの恵みにすがる生き方は、禁欲主義でも快楽主義でもありません。あえて言えば「恵み主義」です。私たちの肉的な努力で生きることに限界を覚えるとき、神さまの御手へと主導権を渡すのです。そのとき私たちは、そこからさらに禁欲的になる必要はありません。疲れたら寝てもいいですし、好きなものを食べてもいいですし、罪にならないかぎり、好きな映画のビデオを観たっていいのです。神さまが願っていることは、私たちが元気を出すことです。  神さまはエリヤの疲れ切った肉体に、いちばん必要な物は休息と食べ物だということを教えてくださいました。さあ、起きて食べなさい。旅はまだ遠い。  しかし、この旅は、ひとりで行かなければならない孤独な旅ではありません。神さまが一緒にいてくださるうれしい旅です。つねに慰めと励ましをいただく旅です。この世を生きる人たちは、みな旅人に例えることができるでしょう。私たちクリスチャンは、イエスさまが重荷を負ってくださる旅人です。つねに必要を満たしていただく旅人です。疲れたら後ろめたさを覚えずに休んでいい旅人です。私たちは天国という、はるか遠くの目標に向かって歩むために、今体験している苦しみがすべてだと思ってはなりません。疲れたら疲れている自分を認めて休み、栄養を補給することは、むしろみこころにかなっていると思ってください。それでもいま休めないでいる兄弟姉妹に、憩いのときが与えられるように、私は祈りますし、みなさんも祈っていただきたいのです。  第二のポイントです。神さまは次なる目標を見せてくださり、否定的な現実から自由にしてくださいます。  力を得たエリヤは、四十日四十夜歩き、神の山ホレブにつきました。ここはモーセが神さまに出会った場所でもあります。特別な場所です。  エリヤは御使いの備えた食べ物と飲み物を得たら、それですぐに働きに復帰したわけではありません。エリヤにはまだ、リトリートの時間を必要としていました。神さまとの交わりを持つために、実に40日にもわたってホレブ山に歩いて行ったのでした。  ここでエリヤは、神の御声を聴く体験をします。9節です。……ここで何をしているのか。神さまはもちろん、全知全能なるお方ですから、お尋ねにならなくてもエリヤが何をしているかご存じでした。しかしそれでもあえてお尋ねになったのは、エリヤの現住所をエリヤ自身が神さまの御前で知る必要があったからでした。  あなたは、何をしているのか。私たちが日々、神さまの御前に出る時間は、私たちがいまどこにいて、何をしようとしているのか、神さまの御前で確かめ、明らかにする時間です。しかしここでエリヤは、何と答えていますでしょうか。10節です。……これが、エリヤの訴えたかったことでした。これだけいっしょうけんめい神さまにお仕えしたのに、相変わらず偶像が幅を利かせ、神さまにお仕えする者たちは皆殺しにされている。ただ一人残った私さえも、今や殺されそうになっている。神さま、私が置かれているところは、こんなところなのです! 私はこの場所から、神さまに訴えさせていただきます!  聖書注解書など、この箇所に関するいろいろな解説を読んでみました。多くは、エリヤは間違った自己憐憫に捕らえられていて、自分を見失っている、というものでした。たしかに、そうかもしれません。しかし、そういう状況に陥っていたことは、当のエリヤがいちばんよくわかっていたのではないでしょうか。  岡目八目、ということばがあります。当事者の立場からいったん距離を置いてみると、見えていなかったものが見えてくる、という意味です。しかし私たちは、このエリヤの苦悩を見て、なお傍観者のような態度を取って、だからエリヤは間違っている、などと論評するのは、正しいことでしょうか? エリヤの悩みは、あれだけ神さまとの交わりを持った者にしていだかされた激しいものです。いわんや凡人の私たちは、どれほど悩みに右往左往させられることでしょうか?  しかし神さまは、エリヤのこの赤裸々な祈りに対し、臨在、という形で回答を与えられました。11節、12節をお読みしましょう。  岩を砕く激しい大風、地震、それに続く火……いかにもこれらの現象は、大いなる神さまを象徴しているように思えます。だがそのいずれの中にも、神さまはいらっしゃいませんでした。先週のみことばを思い返しましょう。雨乞合戦。水浸しの祭壇を土もろとも火でなめ尽くすほどのみわざを行われたお方、そして、3年6か月にわたる干ばつをあっという間に大雨で潤されたお方、それが全能なる主であり、イスラエルもアハブ王もこの現象に、神さまを認めました。だがそれでも、イスラエルは根本から変わったわけではありません。神さまの臨在を目に見える現象に求めるならば人は燃え尽きてしまいます。  先週、いのちのことば社の営業の方が、教会にたくさんの本のサンプルを持ってお見えになったとき、私はウィリアム・ウッド先生が書かれた「新使徒運動」に関する本を見つけ、さっそく購入しました。 新使徒運動とは、現代においても聖書に書かれているとおりの使徒が存在すると主張する立場のムーブメントで、現代に立てられた「使徒」は、キリストの何より預言し、命じればどんな悪しきものも治められる、というものです。実際、このコロナウイルスの流行においては、アメリカの各地でコロナウイルスに命じて退散させる大祈祷会が開催されたそうです。だがそれとは逆に、アメリカでは流行の拡大はとどまらず、この立場に立つ牧師さえもコロナウイルスに感染して亡くなったとのことでした。ウッド先生はこのムーブメントを、はっきり危険なものと評価していらっしゃいます。それは、単に命じる祈りをすることにとどまらず、この祈りをすることにより主が必ず聞いてくださる、すなわちどんな悪い自然現象も治めてくださると会衆をあおることにより、結果としてそうならなかったときに会衆がどれほどむなしさに襲われるか、最悪の場合にはイエスさまへの信仰をなくしてしまうか、そう考えると、これはやはり支持すべきムーブメントではないと、私も考えるようになりました。 しるしという「現象」は、神さまのご臨在の本質ではありません。では、神さまはエリヤに、どのようにご自身を現されたのでしょうか? それは、火のあとの、かすかな細い声です。 神さまは大いなるお方ですが、私たちにみこころを啓示されるその御声は、もしかすると聞き逃してしまうそうになるほど細くて小さい御声です。これを聞きとるには、全身を耳にする必要があります。「ヒア」の聞く、と、「リッスン」の聴くは、漢字で書くとちがいます。リッスン、のほうは、十四の耳と心、と書きます。それだけ耳を澄まして、心を注いで「聴く」ことが、御声を聴くうえで必要になります。 エリヤはこのとき、もはや神さまの御前に出る以外にすることはありませんでした。それがリトリートというものです。しかし私たちの場合はどうかといいますと、意識しないと神さまの御前には出られないのではないでしょうか。県境を越えて移動することは解禁になったとはいえ、まだまだどこかに行くのには慎重になりますし、だいいちそんな時間を確保するには余裕がなければなりません。日々のディボーションの時間が、形式的に聖書を読んでお祈りして、それで終わりでは、あまりにももったいないことです。そこで神さまが語っていらっしゃるさやかな御声に耳を傾け、全身を耳にして御声を聴くことです。 でも、間違ってはいけません。神さまは人に意地悪をして、わざと小さな声で語っておられるのではありません。あなたが聴く姿勢ができているなら、わたしはいくらでも語って聞かせよう、さあ、心を整えてわたしのもとに来てごらん……私たちは、このみこころを受け取ることです。 神さまはエリヤに語りかけられます。エリヤよ、ここで何をしているのか。神さまはもう一度同じことをおっしゃいました。それに対してエリヤは、またも同じことを答えました。エリヤの訴えたかったことはこのことでした。もはや進退窮まっていました。 しかし神さまは、この試練に脱出の道を備えてくださいました。15節から17節です。 これは、神さまが歴史の主人であることをお示しになった、ということです。イスラエルに敵対する国の王も、アハブに代わる王朝を立てる王も、エリヤの後継者として霊的権威を行使する者も、みな主がエリヤの霊的権威を持ってお立てになる、ということです。 このように、神さまはなおもエリヤのことを、神の国イスラエルのキャスティング・ボードを握る者として用いようとしていらっしゃる、そのみこころをお示しになりました。エリヤは、死んでいる場合ではなかったのです。まだまだ用いられる必要がありました。 18節にも注目しましょう。……エリヤは、バアルに従わずに神さまに従っているのは、自分ひとりだと思っていました。しかし、そうではなかったのです。この7000人の存在、そしてとりなしの祈りに支えられて、エリヤの存在とその働きがあることを思い起こさせてくださいました。 コロナウイルス流行は、私たちを孤独にしたように感じさせました。しかし、私たちは決して孤独ではありません。みなさんは、この水戸第一聖書バプテスト教会のために、全国の保守バプテストの教会が、そして韓国のカルバリ教会、さらには韓国の日本宣教に特化した宣教団体が祈ってくださっていることをご存じでしょうか? 私たちは孤独ではないのです。 私たちは倒れたままでいることはありません。必ず立ち上がらせていただけます。いま目の前に何も見えないようでも、神さまは私たちに、次に進む道を備えてくださっています。その道を行くことは喜びです。 いま、私たちは否定的な現実しか見えなくなっていないでしょうか? どうか、細いけれどもやさしい、主の御声を聴いていただきたいのです。そこから、主が示してくださる次の目標へと踏み出す力を、受けていただきたいのです。 まだ、そこには踏み出せないでしょうか? それはもしかしたら、働きすぎて疲れているせいかもしれません。主のみもとに休みましょう。でも、休んだままで私たちは終わるのではありません。ここからさらに、私たちは大きく用いられます。神さまを信じて、踏み出すための力をいただいてまいりましょう。 讃美 聖歌409/献金 讃美歌391/感謝の祈り/栄光の讃美 讃美歌541/祝祷

エリヤの祈り前篇 雨乞合戦

招詞 詩篇131篇/祈祷/使徒信条/交読 詩篇63篇/主の祈り/讃美 讃美歌62/ 聖書朗読 列王記第一18:16~40/メッセージ題目;エリヤの祈り前篇 雨乞合戦 新型コロナウイルス流行という事態の中、日本中、世界中の教会が、すべてを司っておられる神さまに祈ってまいりました。一刻も早くこの流行をとどめてください! 旧約聖書にも、人間の力ではどうにもならない事態に人々が巻き込まれたという記録が、いくつも登場します。本日学びます箇所、エリヤの時代のイスラエルも、実に3年6か月にわたる干ばつに見舞われていました。このときイスラエルはどのような状態にあったのでしょうか? そうです、創造主なる神さまを捨て、偶像の神バアルを国を挙げて礼拝していました。なんといっても、バアル礼拝の背後には、まるでバアルのパトロンのごとく君臨するイゼベル王妃がいました。しかしこのとき、神を捨てたイスラエルには、明らかに懲らしめの御手が、干ばつという形で臨んでいました。イスラエルは、神さまに立ち帰ることが求められていました。 しかし、イスラエルのためにとりなして祈れる人は、もはやエリヤだけになっていました。エリヤが神さまに従う者として、アハブ王からも相当に煙たがられていたことが、17節からも知ることができます。まるで雨が降らないのは、エリヤのせいだとでも言わんばかりの態度です。それはある面ではあたっています。たしかにエリヤは、そのとおりに祈りました。しかしそれは、国を挙げた偶像礼拝をイスラエルが悔い改めないゆえでした。しかし、ここに決着をつけるときが来ました。エリヤは、まことの神さまが雨を求める祈りに応えてくださるのは今だ、とばかりに、雨乞合戦を提案しました。 雨乞合戦――ささげたいけにえに、天からの炎をもって応える神がほんとうの神。その神こそ、この干ばつに覆いつくされたイスラエルに雨をもって応えてくださる神。アハブよ、あなたがそこまでして従っているバアルの神がまことの神ならば、その預言者をことごとく集めたらどうだ。従うべき神がはっきりするではないか。そこでアハブは、バアルの預言者450人と、そのつがいの女神アシェラの預言者400人を、エリヤの提案どおりにカルメル山に集めました。全イスラエルもカルメル山に集まりました。 さて、この雨乞合戦、エリヤにとっての祈りに至るプロセス、エリヤの祈り、その祈りの結果、この3つのポイントから見てみると、エリヤにならう私たちはいかなる理由で祈るのか、よく見えてまいります。この雨乞合戦から、ともに学んでまいりましょう。 第一のポイントです。雨乞合戦は、偶像の神のむなしさを示しました。 エリヤはまず、ここに集まったイスラエルの民に尋ねました。21節です。……イスラエルの民は、なぜ答えることができなかったのでしょうか? それは、エリヤを前にしては、間違っても、バアルがまことの神だとは言えなかったからでした。しかし一方で、創造主なる神さまがまことの神さまだと言い切るには、彼らはあまりにもバアル崇拝に染まっていました。 このようにはっきりした答えを出せない状態は、日本の多くのクリスチャンが置かれた状況に通じるものがあります。人前でクリスチャンであることを言い表すことができない。法事などがあったら右へ倣えで合わせてしまう。私たちは果たして、このどっちつかずのイスラエルの民を見下すことなどできるでしょうか。 偶像というものは目に見える形で鎮座している分、人に強烈な存在感を示します。神の民はかねてより、偶像を礼拝してはならないことを神さまからずっと戒められてきました。それは、偶像というものに惹かれ、いとも簡単にまことの神さまを捨て去ってしまう人間の罪深さを、人が思い知る必要があるからでした。 そのためにもエリヤは、偶像に頼ることがどんなにむなしいかを示しました。エリヤは彼らに、長い時間を与えました。彼らはその長い時間、踊りまわりました。しかしもちろん、何の奇蹟も起こるはずもありません。バアルは単なる人間のイメージであり、存在するはずがないのです。 何をどうしても奇跡が起こらない中、エリヤはバアルの預言者たちにあざけりのことばを投げかけました。27節です。……リビングバイブルというバージョンの聖書では、ここをどう訳しているか。「もっと、もっと大声を出せ。おまえたちの神には聞こえんぞ。だれかと話し中かもしれんからな。トイレに入っているかもしれんし、旅行中かもしれん。それとも、ぐっすり寝こんでいて、起こしてやる必要があるかもしれんな。」トイレとはずいぶんな訳をつけたものだ、と、笑ってしまいますが、ともかく、このようにエリヤが言ったのはなぜだったか。それは、バアルの預言者たちをあおることそのものが目的だったのではありません。イスラエルの民に、偶像の神は存在しない、むなしいことをはっきりわからせるためでした。 私たちは気をつけなければなりません。私たちの生きている世界は、偶像の神でも奇跡を起こせる、と吹聴するような者たちで満ちています。八百万(やおよろず)の神、ということばを侮ってはいけません。それは、どこもかしこも神を名乗る者たちで満ちている、ということを意味します。 私たちは、まずそのような存在から自分自身を守るため、偶像の神がどれほどむなしいかを心から認める必要があります。そのためには、この世にうごめく八百万の神がどのようなものか、いちいち検証するのではありません。そんなことをしていてはきりがありません。私たちのうちに、私たち神の民にとっての変わらない基準である聖書のみことばを保つことから、すべては始まります。歴代誌第一、16章25節と26節をお読みください。……これです、これが私たちの基準なのです。私たちの主は、あらゆる神々と呼ばれるものたちにまさって偉大なるお方、このことを私たちは、いつでも確かな信仰告白として自分のうちに保っておく必要があります。このほかにも聖書には、このエリヤの箇所だけでなく、たとえばギデオンの箇所のように、偶像のむなしさが描写された箇所、また、出エジプトにおける金の子牛やダニエル書の王の像のように、神の民に対しチャレンジを与えるような箇所が登場し、そこから私たちは、この世で神と呼ばれている存在に対しいかに対処するか学ぶのです。繰り返します、この世の神々のことを知ろうとする前に、聖書をしっかり学んでいただきたいのです。 さて、ついにバアルの預言者たちは、刃物や槍でからだを傷つけはじめました。まるでここに備えた牛のいけにえでは足りなくて、自分たちをいけにえにするがごとしです。しかしそんなことをしても、もちろん、バアルへの祈りが何らかの奇跡を呼ぶはずもありませんでした。ここから私たちは、何を教えられますでしょうか? この世の神々に身をささげた者たちは、むなしく傷つくだけである、ということです。私たちの隣人がそのようなむなしさに陥っているならば、そこから早く抜け出せるように、私たちはとりなして祈っていく必要があります。私たちの主は、傷を与えるお方ではありません。あらゆる傷をいやしてくださるお方です。ともかく、偶像のむなしさを私たちはしっかり悟り、私たち自身も、そしてほかの偶像にとらわれている人たちも、その支配から自由になるように、祈ってまいりたいと思います。 第二のポイントです。雨乞合戦は、主への祈りの確かさを示しました。 ついに何も起こらなかったバアルの陣営を尻目に、自分の番が回ってきたエリヤは、何をしたのでしょうか? 20節、まず、壊れていた主の祭壇を築きなおしました。 そうです、それまでイスラエルは、まことの神さまを礼拝することをなおざりにするあまり、祭壇は壊れるに任せていました。壊れたままに放っておかれた祭壇は、今のイスラエルの壊れた霊的状況を象徴しているかのようでした。しかしエリヤは、まずこれを立て直すことから始めました。イスラエルよ、あなたがたがすることは、神さまとの壊れた関係、壊れた礼拝の態度を立て直すことではないか、あなたがたは壊れている、でも今からでもやり直せる、さあ、礼拝に招こう……それが神さまのみこころでした。 祭壇は、十二の石で築きました。十二の石は、イスラエルの十二部族を象徴しています。エリヤは神さまの御前に、一人で英雄のように立ったのではありません。エリヤの祈りにはイスラエル全体もともにあることを神さまの御前で明らかにし、同時にここに集う全イスラエルの前で明らかにしたのでした。まことにこの祈りは、イスラエル全体の祈りでした。イスラエルがまことの神さまへの祈りを回復したことを象徴していました。 さて、エリヤはいけにえをささげる際に、何をしたでしょうか? 33節から35節です。いけにえは水びたし、もはや、普通に火をつけてもぜったいに火などつかない、燃えるなどもってのほかという状態です。さあ、見よ、イスラエルよ、神さまが全能ならば、このいけにえも火で焼き尽くされよう。 そして、ささげものは完成しました。エリヤは祈りました。この祈りのことばを見てみましょう。36節と37節です。……アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。私たちイスラエルの民は、先祖が神さまと直接契約を結んでくださった神の民。あなたさまがイスラエルの神であることを明らかにしてください。私が今日行うこの礼拝が、神さまのみことばに従うことであることを明らかにしてください。祈りに応えてくださることによって、この民があなたさまに立ち帰ったことを自ら知るようにしてください。 そうです、神さまが祈りに応えてくださることは、エリヤがすごいスーパースターとしてイスラエルの民の間で輝くためではありません。すべてはイスラエルの信仰が復興するためです。 神さまはこのお祈りに、お応えになりました。38節です。……天から下った激しい炎は、いけにえも、石の祭壇も薪も、水も、もろともなめつくしました。奇跡を起こされたのは主だったのです。主は全能なるお方だったのです。そして、主はすさまじいまでのその主権を現してくださったのです。 私たちはもちろん、何らかのしるしと不思議がなければ信じないというレベルにとどまるものではありません。しかし、主が全能であることを私たちがほんとうに信じているならば、私たちはその全能の御手にすがり、そのご栄光を民全体に現してくださり、民が主を信じるようにと祈ってしかるべきではないでしょうか? 主は必ず、この祈りに応えてくださいます。 さて、それならばその一方で私たちには考えるべきことがあります。主が全能の御手を下してくださっていることを、私たちはどれほど認め、主の御名をほめたたえていることでしょうか? たとえば今、うちの娘は夜の聖書通読の時間ごとに、コロナウイルスの流行が収まりつつあることを主に感謝しています。私は、夜ごとささげられる祈りを聞いて、娘のこの態度からとても教えられています。コロナウイルス流行の終息には、だれもがほっとしています。しかし私たちは果たして、その背後に全能なる主の癒しのみわざがあることを、どれほど認め、また感謝しているでしょうか? コロナウイルスだけではありません。個人的な病気のいやし、経済的な回復、人間関係の葛藤の解消、これらすべては、人間の力でどうにかなるものではなく、すべて、全能なる神さまのご介在のうちに可能になることです。ならば私たちは、感謝していますでしょうか? しかし、私たちならば、これらのことに主の御手を認め、感謝する余地が残されています。それでは周りを見回してみましょう。いったい、あらゆるできごとの中に全能なる神さまの御手を認め、神さまに立ち帰る人がどれほどいるというのでしょうか? 私たちは自分たちのためだけでなく、周りの人たちのためにも祈る必要があります。主がその方々の前に御業を示されるとき、彼らが主を認め、主に立ち帰るように、祈ってまいりたいものです。 第三のポイントです。雨乞合戦は、主への信仰告白を引き出しました。 祭壇をもろともなめ尽くす火を見たとき、全イスラエルの恐れはどれほどのものだったことでしょうか。39節をご覧ください。 このイスラエルの信仰告白、賛美のことばはどうでしょうか。イスラエルがこぞって、ひれ伏して、「主こそ神です。主こそ神です」と告白したのです。エリヤは、この雨乞合戦に勝ったのです。 雨乞合戦は雨が降ることにその目標があったのではありません。人々から「主こそ神です」という信仰告白を引き出すこと、これが雨乞合戦の究極の目標でありました。エリヤはそのために、いかなる努力も惜しみませんでした。しかしさらに言えば、この信仰告白はエリヤの努力の結果のみによってもたらされたのではありません。やはりなんといっても、主ご自身がイスラエルの民を憐れんでくださったゆえでした。かくしてイスラエルの民はこぞって、主こそ神です、とひれ伏して告白したのでした。 さて、この「主こそ神です」という信仰告白を引き出すという、雨乞合戦におけるこの究極の目標は、私たちの人生においてもやはり、究極の目標となるべきものです。 ちょっと目を閉じて、私たちの周りの人たちの顔を、思いつくかぎり思い起こしてみてください。クリスチャンであるなしにかかわらずです。そんな彼らがこぞって、「主こそ神です」と叫ぶ場面を想像してみてください。胸が熱くなりませんか? はい、目を開いてください。 エリヤの人生は、人々をして「主こそ神です」と言わしめることに、その究極の目標がありました。その生き方は、私たちにとっても同じように目標となるべきものです。マタイの福音書5章16節の、イエスさまのお語りになったみことばをお読みしましょう。……これが私たちの人生の、究極の目標です。 しかし、この生き方をするために、クリスチャンならぬクルシミチャン、ガンバルチャンになる必要はありません。毎日みことばを開き、どうすることが主の栄光を人々の前で輝かせることなのか、みことばに照らして必要な行動を具体的に教えていただくのです。そして、その行動の目標を、ほんの少しでいいですから、それこそ、一日にたった一つでいいですから、聖霊なる神さまの導きと助けの中で実践するのです。頑張ろうとして息切れし、あとはいいや、とならないためにも、毎日少しずつ、こつこつと実践することです。 JTJ神学校の創設者である中野雄一郎先生が普段からおっしゃっていることば、コツ、コツ、勝つ、コツ、いいことばでしょう? コツコツ取り組んで何に勝つのですか? 世と悪魔にです。 エリヤも主のみことばを聴いて行うことにおいて、コツコツ、ということを実践していたことに疑いの余地はありません。その結果神さまは、エリヤを通してご自身とイスラエルの民の勝利をもたらしてくださったのでした。 私たちも同じです。人々が私たちのよい行いを見て、天におられる神さまをほめたたえる生き方をする、そのことによって世と悪魔に打ち勝つものとなるために、日々、みことばと祈りによって御前に進み出ることを願っていらっしゃいます。これまでなかなかできなかったならば、今日から始めましょう。主は喜んで、私たちを受け入れてくださり、用いられるにふさわしく、私たちを整えてくださいます。 最後に、エリヤとはどんな人物だったのかも見てみましょう。ヤコブの手紙5章17節と18節です。神さまは奇跡のようにしてエリヤの祈りを聴いてくださいましたが、聖書の評価によれば、エリヤは「私たちと同じ人間」でした。それなら、エリヤが神さまに従うことができて、私たちがお従いできないということは、決してないはずです。今日の雨乞合戦の学びから、偶像のむなしさ、祈りを聴いてくださる主の素晴らしさ、人を信仰告白に導く私たちの人生の究極の目的を学んだ私たちは、エリヤのように、主の前に立たせていただいている一人の信仰者として、主の御力をいただきながら、この世において用いていただくものとならせていただきたいと、切に祈り求める者となることを願います。 では、お祈りします。 讃美 聖歌604/献金 讃美歌391/感謝の祈り/栄光の讃美 讃美歌541/祝福の祈り「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」

「祈りは聞かれる」

招詞 詩篇130篇/祈祷/使徒信条/交読 詩篇62篇/主の祈り/讃美歌66/聖書朗読 マタイ9:18~26/メッセージ;「祈りは聞かれる」    聖書には、数多くの、お祈りが聞かれたことの記録が登場します。本日は、イエスさまがお祈りを聞いてくださったことについての学びです。  イエスさまがこの地上に生きておられたとき、イエスさまが神の御子であると信じることのできた人は幸いでした。律法主義に毒されていたユダヤ人たちは、ことあるごとにイエスさまをなきものにしようとしました。イエスさまが神の子だとわかっていたなら、なきものにするなどという発想そのものが浮かぶわけもなく、ただひたすら礼拝するのみでしょう。しかし神の民であるはずのユダヤ人はイエスさまを迫害し、十字架にまでかけました。  私たちがその時代のユダヤに生きていたならば、どのような態度をイエスさまに対して取ったでしょうか? イエスさまを神の子と信じて、どこまでも従うことができたならば幸いです。そのような人は特別な恵みをいただいた人ということができるでしょう。  特別な恵みは、イエスさまに対し純粋な信仰を持つという形で現れます。ユダヤの宗教共同体に毒されていたならば、イエスさまのことはただの人としか映らず、間違ってもこのお方を創造主の御子と認めることはできなかったでしょう。それほど、神の民であるはずのユダヤの宗教の教えは、イエスさまがどのようなお方であるかを見えなくしていました。  今日の本文には2人の人が登場します。いずれもイエスさまへの信仰を恵みの中で持ち、その結果素晴らしいみわざを体験した人たちでした。彼らはどのような信仰を持ち、どのようなみわざを体験したのでしょうか? ともに見てまいりましょう。  まず、18節からまいります。……やって来たのは会堂管理者でした。折しも、彼の娘が死んでしまいました。ほかの福音書の並行箇所を読んでみますと、彼女は12歳だったということです。わずか12歳、洋々たる前途が、死んでしまったことによっていっさい閉ざされました。どれほど悲しいことでしょうか。そして絶望的なことでしょうか。  しかし、この会堂管理者は、イエスさまというこの方ならばきっと生き返らせてくださる、という信仰をもって、イエスさまの御前に進み出ました。イエスさまが娘に手を置いてくだされば、必ずいやされる。  この会堂管理者は、自分の管理していた会堂にていろいろな集会が催されるのを見てきた人です。もちろん、ユダヤ教の教師による集会も体験している一方で、この町まで巡回してこられたイエスさまの持たれた集会を目撃していました。 この会堂管理者は、長年ユダヤ教の教師たちによる集会を見てきた立場として、イエスさまの集会がどれほど彼らのと異なり、神からの権威に満ちていたかをよく体験していました。もしかしたら、イエスさまがその会堂で何らかの奇蹟を行われたりしたのかもしれません。ともかくこの会堂管理人は、イエスさまのそのお姿を見て、この方なら必ず娘をいやしてくださる、という、確かな信仰を持ったのでした。イエスさまの教えは、口だけの教えではない、権威ある方の教えである、そのことを会堂管理者はわかっていたのでした。  ただ、もしかすると、この会堂管理者という立場ゆえに、それまでイエスさまに対する信仰を公に言い表せなかった可能性もあるかもしれません。普段はユダヤ教の教師を迎え入れている会堂の管理者であるわけで、もしイエスさまが神の御子であると告白したら大変なことになります。しかし、もうなりふり構っていられません。娘は死んでしまったのです。会堂管理者は、イエスさまにすべてを懸けて、御前にひれ伏しました。  19節のみことばです。イエスさまはただちにバプテスマのヨハネの弟子たちとの議論を中断し、会堂管理者の家へと向かっていかれました。そこに、イエスさまの弟子たちもついて行きました。あとで詳しくお話ししますが、イエスさまのみわざはひそかな形で行われたものでした。そこに弟子たちを伴われたということは何を意味するのでしょうか? そう、弟子たちには、神の御子としてのご自身のひそかなみわざをしっかりお示しになった、ということです。その秘められたみわざを目撃する特権にあずかった存在、それがイエスさまの弟子です。  しかし、こんにち私たちは、聖書をお読みするという形で、弟子たちと同じようにイエスさまの秘められたみわざを目撃することができています。その、聖書に書かれたみわざをそのまま信じ受け入れるならば、私たちもまた、イエスさまのみわざを目撃し、イエスさまが神の御子であることを信じ受け入れる弟子であるわけです。だから、この秘められたみわざの記録された聖書に相対するとき、私たちはイエスさまのみそばでみわざを目撃する、イエスさまの弟子となる特権に招かれているということになります。私たちは聖書を読むとき、弟子の態度で、よく目をひらいて、みことばに記されたイエスさまのみわざを見ることが必要です。  ともかく、早く行かなくてはなりません。しかし、ここに、ひとりの女性が登場します。十二年の間わずらっている女性です。「長血」とありますが、これは婦人病です。並行箇所であるマルコの福音書から推察しますと、からだから血が流れだしつづけ、ひどい痛みがつねにともなっていたようです。彼女は治りたくて必死でした。多くの医者を訪ね歩きましたが、彼ら医者たちは彼女から治療費を取るだけ取って、治してなどくれませんでした。彼女は生活のために持ち物をみな売り払い、まったく絶望的な状態にありました。  しかし、彼女の中には治りたいという思いが保たれていました。人生を悲観して自殺しかねないほど追い詰められていた彼女の中にも、治りたい、救われたいという、最後の思いが残されていたのでした。彼女はこのような中で、イエスさまが近くに来られたということを知り、いてもたってもいられなくなりました。しかし、イエスさまの周りにいたのは弟子たちだけではありません。おびただしい群衆があとをついてきていたのでした。彼女は群衆にまぎれました。そして、どうしたでしょうか? 20節、21節です。  この姿は、会堂管理者の姿と対照的です。会堂管理者は社会的に信用される地位にあり、イエスさまに堂々と近づいてイエスさまが神の御子なるお方であることを告白することで、ユダヤ教の宗教指導者を敵に回す危険なリスクを抱えていました。しかし彼は堂々とイエスさまの御前にひれ伏し、イエスさまの御腕にすがったのでした。 対照的にこの女性はどうでしょうか? 当時の宗教社会を支配していたのは、律法、またその解釈でした。漏出を病んでいるならば、その人にさわってはいけないことになっています。なぜならば「けがれる」と見なされるからです。 人は罪人です。他人が自分よりも明確にけがれているように見え、なおかつ律法がそう語っていると解釈するならば、人は他人を自分よりもけがれた存在と見なし、遠ざけます。あたかもその人に触れたならば、強力な伝染病のごとく、自分にもそのけがれが伝染するぞと言わんばかりにです。そんなわけで彼女は堂々とイエスさまのもとに出ていくなどということはできませんでした。群衆に紛れこんでイエスさまの服にさわったら、あとはひそかに去っていこう……ただ、それでも彼女を支えていたものは、イエスさまの服にでもさわれたら治るという信仰でした。社会の最底辺のような地位におかれた彼女がひそかにイエスさまに近づいたのは、社会的地位のある会堂管理者が堂々とイエスさまに近づいたのと実に対照的ですが、どちらにも共通していたのは、「イエスさまならできる」という、純粋な信仰でした。ともかく、この女性はイエスさまの着物のふさにさわりました。するとたちまち、いやされました。 しかし、イエスさまはそこで立ち止まられました。並行箇所の福音書を読んでみますと、だれがさわったのか、と、わざわざ問うておられます。しかし、弟子たちも言うとおり、イエスさまのところには群衆が押すな押すなと押し寄せており、だれがさわったかはわからないものです。しかしイエスさまは、いや、たしかにさわった者がいた、わたしの中から力が出ていったのを感じた、と語られました。それでこれ以上隠れていることができなくなって、この女性が名乗り出たのでした。 そう、イエスさまに触れる人はたくさんいます。しかし、イエスさまに「信仰をもって」触れるか、そうでないかの違いはとても大きいものです。大ぜいの群衆はイエスさまにさわっていました。しかしイエスさまの力は、その人たちに向かっては出ていきませんでした。彼らはたださわっていただけだったからです。しかし、この女性はちがいました。お着物にでもさわれたらきっと治る、その必死の信仰でイエスさまにさわった結果、イエスさまは御力をもって彼女をいやされたのでした。22節をお読みしましょう。……まさにそのように、イエスさまは彼女の信仰に応えてくださったのでした。 それにしても急いでいるときに、イエスさまはなぜわざわざこのようにこの女性のために時間をお取りになったのでしょうか? それはなんといっても、この女性とは格別な個人的コミュニケーションが必要だったからではないでしょうか? イエスさまは、はるか遠いお立場のスーパースターにも等しいお方です。お着物のふさにさわれた、それでよかった、それでも人間というものは満足してしまうものです。しかしイエスさまは、アイドルの握手会や寺社参拝のような、一方的な願望の投影の対象ではありません。信仰をもって近づく人と、ちゃんとコミュニケーションをとってくださるお方です。この女性がそのまま去っていくことをお許しにならず、しっかりした信仰に立たせてくださいました。イエスさまとはそういうお方です。私たちにみわざを体験させてくださるのみならず、その意味を深く悟らせてくださいます。そうしてイエスさまとのより深い関係に入れていただけるのです。 だが、このような中で、人を不信仰に引き戻そうとする力は働くものです。マルコの福音書によれば、イエスさまがこの女性と話している間に、会堂管理者の家から人がやってきて、お嬢さんは亡くなったのだから、これ以上イエスさまをわずらわせるべきではありません、と告げたのでした。とにかく、死んでしまったという厳然たる事実を受け入れさせようとしたのでした。その人は親切心からそのように告げたとも考えられますが、それは逆に考えれば、引導を渡すことばを告げたとも言えます。しかしイエスさまはそのことばをお聞きになっても、「恐れないで、ただ信じていなさい」とおっしゃいました。引導を渡す人のことばなど、神の御子であるイエスさまには関係ありませんでした。 そしてイエスさまは、もう群衆がついて行くことをお許しになりませんでした。それどころか、十二弟子もより分けられました。特に弟子の中でリーダー的な役割を果たす、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人に絞って連れていかれました。この3人は、変貌山のできごとに同伴させていただくなど、イエスさまにとって奥義に等しい場面に伴われていますが、この会堂管理者の娘の家にも伴われました。 ともかく、女性はいやされて帰り、イエスさまの一行はいよいよ会堂管理者の家に着きました。そこには弔いの笛を吹く者たち、また葬儀に来た者たちが待ち構えていました。彼らは泣き悲しんで大騒ぎしていました。もう彼女を葬ってしまう手はずは整っていました。あとはその父親である会堂管理者が帰ってくれば、彼女を墓に運ぶだけでした。しかし、会堂管理者はイエスさまを連れてきました。 家に到着され、イエスさまは騒ぐ彼らを一喝しました。23節、24節です。……彼らはあざ笑いました。なぜでしょうか? 現実に彼女は死んでいることが、だれの目にも明らかだからです。しかし、イエスさまをお呼びしたのは会堂管理者であることを考えると、この群衆はその管理者の管理する会堂でイエスさまのメッセージを聴いたこともあったでしょう。そしてもしかしたら、先ほども申しましたとおり、イエスさまのみわざも会堂の中で目撃したかもしれません。何よりも、神の御子そのものであるイエスさまを、彼らはその目ではっきりと見ているのです。しかし、彼らは信じませんでした。このお方がいのちの主なるお方であることも、創造主なる神の御子であられるということもです。 その不信仰が、畏れ多くもイエスさまをあざ笑うという行動に出ます。イエスさまの語られるみことばを評価し、判断するのです。これはしょせん被造物である人間に許されていることではありません。だが人間はなんと傲慢なのでしょう。聖書を批評し、天地創造に始まりノアの洪水やバベルの塔、イエスさまのみわざ、果ては十字架や復活に至るまでも神話と片づけ、聖書の記述よりも人間の理性のほうに重きを置きます。窮極の不信仰です。 イエスさまは彼らのことを家の外に出してしまわれました。そして、娘の両親と3人の弟子だけを伴われ、床に横たわっている娘の傍らに立たれました。そして……少女よ、あなたに言う。起きなさい。……このひとことで、娘をよみがえらされました。そうです。イエスさまにあっては、死んだ人というのはいません。すべては眠っているだけの人です。イエスさまにある人を、終わりの日にイエスさまがよみがえらせてくださる……イエスさまは実に、ご自身が復活され、人々を復活させてくださるお方です。 この奥義を、イエスさまはご自身が十字架にかかられ復活される前に、おもだった3人の弟子にお示しになったのでした。この復活の真理は、イエスさまが十字架にかかられ、墓からよみがえられ、それによってイエスさまが神の御子であることが証しされることによって実現する、それがなっていないこの段階では、イエスさまはこのことを人にお話しになることをお許しになりませんでした。 ただ、それでも、死んだはずの娘はぴんぴんして外を出歩くようになるわけで、ほどなくしてうわさは広がるわけです。しかし、いったいどういううわさでしょうか? ものごとを表面的にしか見ない人には、所詮現象しか見えません。それは「群衆」にとどまっている人です。しかし私たちは、みことばをお読みすることで、イエスさまに伴われてこの娘の傍らに立たせていただき、みわざを目撃させていただいた、ペテロ、ヤコブ、ヨハネと同じ立場にならせていただけるのです。信仰の窮極の形、それは、日々自分の十字架を負ってイエスさまについて行く、イエスさまの弟子になることです。 私たちもこの女性のように、そして会堂管理者のように、絶望的な状態から救っていただいた存在です。イエスさまは私たちに、「生きよ!」と言ってくださいます。私たちにとって真に生きることは、イエスさまにだけ信仰を置き、日々イエスさまの弟子としてお従いすることです。イエスさまの秘められた御業が克明に記録されたこのみことばを、私たちは信じますでしょうか? 私たちもこの女性のような、そして会堂管理者のような信仰をもってイエスさまに近づくとき、イエスさまの弟子に加えられる光栄に預かります。 ひとつだけ、イエスさまがお祈りを聞いてくださるのは、御父のご栄光を顕してくださるゆえです。ときに私たちが祈っても、その祈りが応えられなかったり、あるいは「すぐには」応えられなかったり、ということは、往々にして起こるものです。しかしそれでも、私たちは祈ることをやめてはなりません。私たちは祈るうちに、そして、日々みことばをお読みするうちに、イエスさまはどのようなお祈りに応えようとしていらっしゃるかを知ることができ、お祈りにおいて的を外すことがなくなります。お祈りを聞いていただけるようになるのです。 その信仰を私たちのうちに確かにしていただきたいと願っていますでしょうか? イエスさまは私たちの祈りを聞いてくださるお方です。イエスさまが祈りを聞いてくださることを、私たちは日々、あらゆる局面で体験し、弟子としての歩みを確かな者としていただきたいものです。祈りの生活の中で、日々、そして生涯、イエスさまの弟子としてお従いする恵みが与えられる私たちとなりますように、主の御名によってお祈りします。 聖歌516/献金 讃美歌391/感謝の祈り/栄光の讃美 讃美歌541/祝祷

主イエスは医者なり

招詞 詩篇127篇/祈り/信徒信条/交読 詩篇57篇/主の祈り/讃美 讃美歌9/主の祈り/聖書朗読 マタイの福音書9:9-13 メッセージ題目;主イエスは医者なり  イエスさまは、律法学者、パリサイ人に対して、何度となく警告のことばを発されました。マタイの福音書23章などその最たるもので、パリサイ人のいろいろな悪い特徴を列挙しながら「わざわいだ」と語っておられます。さて、パリサイ人は律法を守り行うことにより救いを完成させようと教える者たちであり、ゆえにイエスさまと対立するわけです。 ならば、恵みによって救われたと信じている私たちは、このパリサイ人をさばくことのできる側にいるのでしょうか? いいえ、聖書がこれほど、パリサイ人に対する警告に紙面を割いているということは、私たちクリスチャンにもこのパリサイ人のような要素があることを警告しておられるからではないでしょうか? いえ、極言するならば、私たちこそがパリサイ人なのであって、神さまの怒りを受ける存在です。だから私たちは神さまのあわれみにすがる必要があります。下手をすれば、救われたはずの私たちは、気がつけばちっぽけな肉を誇りとし、パリサイ人のようになってしまうのです。  そんな私たちではありますが、イエスさまに救っていただいたときの感激は今も胸にあるでしょう。そのときの感激を思い起こしていただきたいのです。さきほどお読みいただいたみことばは、そのように救われた感激に裏打ちされたみことばということができます。では、ともに見てまいりましょう。三つのポイントでお話しします。 第一のポイントです。イエスさまは、罪人を招くお方です。 9節をお読みしましょう。「イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、『わたしについて来なさい』と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。」 マタイは、収税所にすわっていました。取税人です。前に教会にいらっしゃった水谷潔先生のメッセージをおぼえていらっしゃるでしょうか? ユダヤの三大悪人は、「強盗、人殺し、取税人」です。宗主国ローマの手先となって同胞ユダヤ人から税金を取り立て、しかも決められた以上のお金をむしり取って自分を肥え太らせる……とんでもない輩(やから)です。しかし、税金というものは納めなければなりません。 この取税人という存在は、いわば「必要悪」とでも言うべきものですが、この役割にある者は、どのような気持ちでこの仕事についていたのでしょうか? 神の民のアイデンティティを持って生きたくても、ローマの権威をかさに着て生きるかぎりそれもできない、なぜならば、信仰をともにする民の共同体からのけ者にされているからです。それでもあえて金持ちになるためにこの職にしがみつかざるを得ない、そんな取税人の気持ちが私たちにわかりますでしょうか? その日もマタイは収税所に座っていました。道行く人々は、彼に極めて冷たい視線を投げかけたでしょう。唾を吐きかける人もいたかもしれません。マタイはそれでも、自分は間違っていない、自分は社会に必要とされているからこの仕事をしているんだ、社会に相手にされない分、少しぐらいお金を自分のふところに入れたからって、どうだと言うのだ……もちろん、こんな言い訳をしたところで、重い税金をむしり取られる立場のユダヤ人は納得するどころか、何を言っているんだと反発するでしょう。しかしマタイにしてみれば、こうでもして自分を慰めるしかなかったことでしょう。 そこへ通りかかったのがイエスさまです。イエスさまはマタイを見つめられました。マタイは、はっとしたはずです。自分を見つめるまなざしがまったくちがう! イエスさまは、やさしいまなざし、しかし強い意志のこもったまなざしで、マタイのことをじっと見つめられたのでした。マタイは思ったことでしょう。このお方はちがう! あるいはマタイが、すでにうわさでもちきりの先生だったイエスさまのことを知っていた可能性は充分にあります。もしそうだとすると、なぜこのような先生が自分のことを見つめておられるのだろうか……それもこのような嫌われ者の自分のことを……マタイは、驚きと感激で胸がいっぱいになったことでしょう。 そして、イエスさまはおっしゃいます。「わたしについて来なさい。」当代一の先生でいらっしゃるイエスさまにここまで言われては、マタイの答えは決まっていました。「はい! お従いします!」収税所をあとにして、イエスさまにお従いするのみでした。 マタイにとっては、お金持ちとして生きる生き方が終わりを告げることを意味していました。これから待つ生活は、人間的に見ればとてもきびしい生活です。マタイにそれがわからないはずがありませんでした。しかし、ついて行きました。そして、それは正しい選択でした。なぜでしょうか? 天地万物を創造され、動かし、生かしておられる全能なる主のみそばにて、ともに過ごす生き方へと入れられたからです。表面的には何も持たないように見えても、実際は宇宙のすべての富を手にしたも同然の生活です。マタイはこの無限の富に目が開かれたのでした。 それにくらべると、いかにお金持ちになれると言っても、取税人として得られる富などたかが知れています。しかもその富は、あえて嫌われ者になる道を選んで手にした富です。その富は、人として当然受けるべき愛情というものを失ってまで、言い換えるならば人としての在り方、人間らしさというもの失ってまでして得たものです。 そこまでして富を得て、いったい何の意味があるというのでしょうか? そこにはただ、絶望とむなしさしかありません。イエスさまはそのむなしさから救ってくださり、汲めどもつきぬ永遠のいのちの世界に導き入れてくださったお方です。 さて、ここで、マタイにとっては、救いが即献身であった点にも注意したいと思います。私たちも救っていただいたならば、即、主に身をささげてしかるべきです。何もそれは、教職者になるべきというのではありません。 「置かれた場所で咲きなさい」ということばがありますが、このことばを私なりに解釈すると、それぞれが遣わされている家庭、職場、学校の人間関係の中で、主のご栄光を顕す生き方をする、と言うことができると思います。その生き方を実践すべくつねに祈りつつ取り組んでいる人は、主に献身した人ということができます。マタイが特別なのではありません。私たちは一人の例外なく、イエスさまに「わたしについて来なさい」とお声をかけていただいた存在です。私たちの することは、イエスさまについて行くことです。 また一方で、私たちは人に伝道して救いに導くことについて、どのような考えを持っていますでしょうか? その人が信仰告白に導かれてバプテスマを受けるところまでこぎつけたならば、「さらに」信仰が成長して神さまに献身するようになればラッキー、そんなことを考えてはいないでしょうか? 違うのです。イエスさまは、信仰告白をする者をすべて、献身者と見なしていらっしゃいます。人の側で勝手に段階や優劣をつけて見てはいけません。私たちにも、救われてほしい、伝道させてほしいと祈る対象はいるでしょう。その人たちのことを私たちは、イエスさまによって御国の献身者に召された人、と見るべきです。そういう意味で、クリスチャンはみんなマタイなのです。 ついでに申し上げれば、このマタイは言うまでもなく、この「マタイの福音書」を書いている人です。そのマタイがこのような記事を書いた意図は何でしょうか? 自分のような者もイエスさまは召してくださったのだから、イエスさまはあなたのことも召してくださるのですよ……そういうメッセージを読者に、まごころをこめて送っていると読み取るべきでしょう。そう、私たちはみな、イエスさまに召されたマタイです。罪の奴隷から神のしもべへと完全に生き方が転換させられた、この上なく素晴らしい存在です。 私たちのかつての姿を思うならば、イエスさまの救いがどんなにすばらしいかわかるでしょう。そのような罪人に、イエスさまはどう接してくださいますでしょうか?  <後半につづく> 第二のポイントです。イエスさまは、罪人と交わるお方です。 10節のみことばをお読みします。「イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。」……JTJ神学校を創設された岸義紘(きしよしひろ)先生が語っておられましたが、これはマタイが、イエスさまの弟子共同体に加入するために取税人仲間とお別れパーティを開き、そこにいろいろな人を招いたのだ、ということです。そうだとすると、イエスさまのそばになぜこうも取税人や罪人が多く集まったのか、納得がいきます。嫌われ者のマタイにとっての友達は、このような嫌われ者しかいなかったでしょう。 しかし、先ほども少し触れましたが、取税人はいわば社会の必要悪です。取税人が税金を取り立てるから、パレスチナはローマによって平和が保たれると言えます。罪人というのも、言ってみれば世の中から必要悪にされてしまった人たちではないでしょうか?  たとえば遊女。漢字で「遊ぶ女」と書くのでとても誤解しやすいですが、彼女たちは何も遊んで暮らしているわけではありません。貧しい家を支えるために、売られて、好きでもない男の欲望のはけ口になる、あまりにもかわいそうな社会的弱者です。そしてこういう言い方をするのはとてもつらいですが、社会は彼女たちを必要悪に仕立てています。それでいて社会は彼女たちのことを忌み嫌うのです。 また、以前にもクリスマスのときお話ししましたが、羊飼いというのも罪人扱いされています。クリスマス物語の聖画などを見ると羊飼いがとても神聖に、かつ格好良く描かれていますが、もともとこの時代のパレスチナでは羊飼いとは、ならず者が社会から追いやられてつく職業でした。何しろ彼らは羊の番をするので、安息日に礼拝に行くこともままなりません。ますます社会は彼らを罪人扱いします。 その他にも、律法の解釈で罪人扱いされる人というのはいろいろいたわけです。律法学者、パリサイ人たちはそのような者たちを片っ端から罪人扱いし、そうすることで共同体をきよく保とうとしました。しかし、そのように共同体から切り捨てられるということは、目に見える神の民に属せなくなるということで、それは彼らにとって、死ぬことも同然でした。 イエスさまはそのように、共同体から罪人扱いされている人と一緒に過ごされました。一緒にごちそうを食べ、一緒にワインを飲み、笑い合いました。神の民の共同体であるはずのイスラエルからは除かれていた彼らは、ほかならぬイスラエルの神であられるイエスさまと出会い、交わり、だれよりも確実な回復をいただいたのです。 ヨハネの黙示録3章20節に、イエスさまのおことばが書かれています。このおことばによれば、イエスさまはどのようなお方でしょうか? お読みします。「見よ。わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」 取税人や罪人は、喜んで自分の心の扉を開けました。イエスさまが、「いっしょに交わろう! あなたと友だちになりたいんだ!」と言ってくださったからです。「はい、喜んで!」彼らは心の扉を開けて、イエスさまを迎え入れました。そのような彼らとイエスさまは飲んで、食べて、親しく交わってくださいました。 イエスさまは神であられるのに、へりくだって、人の視線に降りてくださるお方です。その人が罪人であろうが何だろうが、嫌ったりせず、むしろ「友だちになりたいんだ!」と、近づいてくださるお方です。私たち罪人はイエスさまと、一生の友情を分かち合いつつ、成長させていただく存在です。 イエスさまとの交わりを楽しみにしましょう。聖書を開いてお祈りする時間はイエスさまとのデートの時間です。デートだったら時の過ぎるのも忘れるでしょう。このスイートな時間を心から味わい楽しんでいただきたいのです。 第三のポイントにまいります。イエスさまは、罪人をいやすお方です。 11節のみことばです。「これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、『なぜあなたがたの先生は、取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか』と言った。」取税人や罪人を受け入れ、交わりを持たれるイエスさまのことを、パリサイ人は批判しました。みことばを教える教師ともあろう者が、このような輩(やから)と交わりを持つとは何事か。……このようなことを言うパリサイ人は、間違っても罪人たちといっしょに食事をしたりなどしませんでした。 しかしイエスさまは、このようなことを言うパリサイ人に反論されました。12節です。「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。』」彼らはいやされる必要のある病人なのですよ、彼らのことを放っておくつもりですか! それが愛のみことばを説く者のすることですか! わたしはだれが何と言おうとも、この病人たちをいやして立ち上がらせます! さて、このイエスさまのみことばには、一種の皮肉が込められています。あなたがたは人を罪に定めているところを見ると、どうやらいやされる必要のない丈夫な人のようですね。そうおっしゃっているかのようです。しかし、イエスさまによっていやしていただかなくてよい人などどこにいるのでしょうか? 人はみな罪人であり、罪という名の病によって病んでしまっている人たちです。イエスさまと食事をともにした取税人や罪人たちは、自分が罪人であり、したがって自分は赦され、いやされなければならないことをよくわかっていました。だが、パリサイ人にはその自覚がありませんでした。自分のことを神と人の前に正しいと思ってはばかるところがありませんでした。神さまにいやしていただかなくとも、自分は充分に丈夫だとうぬぼれているようです。 イエスさまは、このように宗教的に正しいとうぬぼれて、弱者を踏みにじる人たちの味方ではありません。むしろ、罪人、罪に病んだ人たちの味方です。イエスさまはそのような罪人のお医者さんであると自ら宣言されました。 言うまでもないことで、お医者さんになるのはとても難しいことです。いっぱい勉強しなければなりません。人の体や病気のことなら何でも知っていなければなりません。そしてそれ以上に、病気が治りたいと願う患者さんの味方になって、患者さんと二人三脚で治療に取り組むような愛にあふれたお医者さんである必要があるでしょう。どんなに頭がよくて腕がたしかでも、患者さんを利得の手段としか見なさないで、検査漬け、薬漬けにするようなお医者さんでは困ります。 イエスさまは何でもご存知の神さまです。私たち罪人のことを何でも知っておられます。私たちがどんな罪人で、どんな罪の中にいるかも、みーんな知っておられます。しかし、だからといって、お前はこんな罪を犯しただろう、だめな奴だ、などと、その罪にしたがっておさばきになることは「ありません」。 かえって、私たちの罪の性質が取り除かれてきよいキリストの似姿に変えられるように、とことんまで私たちにつきあって、私たちをいやし、きよめてくださるのです。 ところで、私たちはお互いの顔を見てみましょう。お互いもまた、いやされなければならない罪人です。神の民、クリスチャンにしては整っていない部分が垣間見えることもあるでしょう。しかし、それでがっかりしてはいけません。みんな、イエスさまというお医者さんにいやしていただく罪人、病人です。あの十二弟子にしたって、完全に整ってからイエスさまの弟子となったわけではありません。問題行動や問題発言がたくさんありました。言うなれば彼ら十二弟子もまた、病人の集団でした。しかし、イエスさまが根気よくいやしてくださり、整えてくださって、初代教会の礎となる使徒となって用いられたのでした。 だから私たちもお互いをさばいたりしてはいけません。それではパリサイ人と同じです。さばいたり批判したり、人の陰口をたたいたりするくらいならば、むしろ自分自身の罪深さにまず目を留めて悔い改めるべきです。それから、だれにも言わないでその人のために祈るべきです。悪口や陰口というものはしばしば、「祈りの課題」という形を借りて教会の中に蔓延します。私たちがパリサイ人にならないためにも、気をつけなければなりません。むしろ自分こそがいやされるべき罪人であると自覚し、また、兄弟姉妹もまたいやされるべき存在として、そのいやしをとりなして祈る者とならせていただきましょう。  まとめたいと思います。私たちはイエスさまにいやしていただくことではじめて健やかになれる、罪に病んで傷ついた存在です。イエスさまは、そんな私たちのことを弟子として招いてくださいました。私たちは生涯イエスさまに弟子としてお従いし、鍛えられることによって、この罪の病、傷をいやしていただけます。イエスさまは、私たちが罪の中で孤独になることがないように、いつでも私たちと交わってくださいます。その交わりの中で、私たちはいやしていただくのです。  私は取税人のような罪人ではない、と言って、その救いの御手、いやしの御手を拒んではいないでしょうか? 私たちに必要なのは、「私は罪人のかしらです」という、真剣な告白であり、いやされたいと真剣にイエスさまのみもとに行くことです。イエスさまは私たちをいやして健やかにする交わりに招いてくださり、私たちはその交わりの中でいやされます。今日も、そしてこれからも、いやし主なるイエスさまに自分を差し出し、ともに健やかになり、ともに罪人の姿からキリストの似姿に変えられて、主のご栄光を顕す者として用いられてまいりましょう。  では、お祈りいたします。 聖歌261/献金 讃美歌391(お手元に献金を聖別してください)/頌栄 讃美歌541/祝福の祈り

「祈りの向こうにある祝福」

招詞 詩篇126篇/祈り/使徒信条/交読 詩篇51篇/主の祈り/讃美歌338/聖書朗読 申命記3章23節~28節 メッセージ題:「祈りの向こうにある祝福」 もし、うちにある日、こんな招待状が届いたとします。東京の方にある、ネズミさんの遊園地です。「おめでとうございます! あなたはこのたび、当園の、特別ディナーショーの特等席に当選しました。ご家族みなさまでお越しください。」封筒には、家族4人分の入場券、ディナーショーのお食事券、遊園地の隣のホテルの宿泊券、水戸から東京までの往復のバスの切符が入っていて、何月何日という日付も印刷してあります。もちろん休日で、学校も教会もありません。ああ、キャンペーンに応募してよかった! ところが、子どもたちがこう言ったとしたらどうでしょうか。「行きたくない! めんどくさい! うちでカップ麺食べて、テレビ見てる!」何度説得しても、言うことを聞いてくれません。そして当日……チケットはよそにやって、うちではテレビにカップ麺……。想像するだけでもいやな世界です。でも、私たちはけっこう、同じことをしているのです。神さまにお祈りするとき。神さまは私たちに、もっともっと、すばらしいものをくださろうとしてるのに、私たちの側で、ちっちゃなちっちゃなことしか祈らない、祈ろうとしない……これでいいのか、ということです。 その点、むかしの人のお祈りは豪快でした。ジョージ・ミューラー、彼は5万回もお祈りが応えられたといいます。でも、それはむかしの、特別な人だけのことでしょうか? いいえ、現代の日本の私たちも、お祈りは立派に応えられます。ようは、私たちがみこころにかなうお祈りを、いつでも、大胆にささげているかどうかです。 ただし、私たちはしばしば、祈っているはずのことが叶えられそうになくて、戸惑うことがあります。なんで! こんなに一生懸命祈っているのに! まちがいなくみこころなのに! みことばも与えられているのに! お祈りが応えられないことほど、つらいことはありません。私にも何度もそういうことがありました。そんなとき、いやー、お祈りが応えられなかったのは、それはみこころじゃなかったんだよ、ってなれるほど、私は悟りきっているわけではありません。だれだってそうだと思います。 そんなとき、私たちの祈りを超えた神さまのみこころに気づくことができたとすれば、どんなに素晴らしいことでしょうか。もちろん、それは簡単なことではありません。現実に苦しみの中にいるとすれば、なおさらのことです。それでも……神さまがその苦しみの中でもさらに大きなみこころを示され、平安を与えてくださるとすれば……。 いま、私たちはだれもが、コロナウイルスの災厄を取り去ってくださいと祈っています。たしかに茨城は、緊急事態宣言は解除となりました。しかし、だからといって、コロナの脅威まで去ったわけではありません。このようなとき、神さまは私たちの祈りを超える、どのようなみこころをお持ちなのかと思わされます。今日の本文をもとに、そのあたりのことをともに考えてまいりたいと思います。 先週、ギデオンの祈りについて私たちは学びました。そのとき、神さまを試みる罪についても触れました。モーセとイスラエルの民との間に起こったできごとです。出エジプトの途上、荒野において、イスラエルは叫びました。「水をくれ! 神さまはわれわれを死なせるつもりか!」そのとき、神さまはモーセに命じ、岩から水を湧き出させる奇蹟を起こされました。これは神さまのあわれみによることでした。しかし同時に、この水の湧き出た場所は、「マサ」と名づけられました。「神さまを試みた」という意味です。不名誉な名前です。そして、それだけでなく、「メリバ」とも名づけられました。「神さまと争った」という意味です。やはり不名誉です。悪い意味での記念です。 これに懲りて、イスラエルはもう、神さまを試みて、神さまと争うような真似はやめるべきでした。それなのに、イスラエルはまた、神さまに反抗しました。今度も水です。もうひとつの「メリバ」が起こったのです。 詳しくは民数記20章のみことばをお読みいただきたいと思いますが、そのときその地には、水がありませんでした。またもやイスラエルは、前にメリバで不平を鳴らしたのと同じようなことを言って、モーセに迫りました。水がない! 死ぬ! モーセとアロンよ、あなたがたが荒野にわれわれを導いたのは、われわれを死なせるためか! 進退窮まったモーセとアロンは、神さまの前に出て、神さまのお告げを聞きます。杖を取れ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。 しかしこのときモーセとアロンは、身勝手な民に対する怒りのあまり、前後不覚に陥っていました。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から、われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」モーセはそう言って手を挙げ、彼の杖で岩を二度打ちました。すると岩から、豊かな水がわき出ました。 だが、このことは、神さまのあわれみのみわざであった一方で、モーセにとっては一生の不覚ともいえることでした。主はおっしゃいました。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」 みなさん、これをお読みになって、神さまはあんまりなお方だ、とお思いになりますでしょうか? 悪いのはイスラエルだ! モーセが何をしたんだ! そう思いますか? しかし、よくお読みください。モーセは、神さまに従順でありさえすればよかっただけのことです。なにもせずに、単に、岩に「水を出せ」と、ことばで命じれば、水は出たのです。それが神さまの方法でした。それなのにモーセは、岩に命じる前に民に向かって、われわれが水を出さなければならないのか、と宣告し、怒りを言い表しています。そればかりか、杖で岩を打ちました。一度で水が出ないので、もう一度、合計二度。しかし、モーセのこの言動は、イスラエルを戒めること以上に、神さまに対する不信仰と不従順を民の前に堂々と示すという点で、大きな問題がありました。神さまが、「わたしが聖であることをあなたは現さなかった」とお叱りになったとおりです。 どういうことかといいますと、出エジプトの旅程の間中、反抗と反逆を重ねるイスラエルの民に、モーセはほとほと疲れ果てていました。折しも、姉のミリアムが亡くなったばかりで、悲しみと虚無感も抱いていたことでしょう。もしかすると、カナン入城を前にしてミリアムのいのちを取り去った神さまのみこころをはかりかねて、ちょっとした不信仰に陥っていたかもしれません。そこへもってきて、この水騒動です。お水を飲めないで苦しいのは、モーセも同じです。モーセの中で何かがぶち切れたとしても、おかしくありませんでした。 しかし残念ですが、モーセのこの怒りは、新約聖書・ヤコブの手紙に書いてあるとおりの、人の怒り、神の義を実現しない怒りです。モーセが神の御前から去り、イスラエルの会衆の前に行くと、相変わらず、不平不満を顔に表した連中ばかりです。モーセに見えているのは、きよい神さまではありません。罪深い人間の罪深い顔、顔、顔……。モーセは、自分が何者かを見失いました。神のしもべとしてこの民を導く、ゆえに神と人の前に謙遜であろうとすることよりも、こんなかたくなな連中のリーダーに祭り上げられていることに、なかば怒りのようなものを覚えていました。しかしそれ以上に、こんな民のことをそれでも、ご自身の民として、ご自分のひとみのように守って愛してくださる神さまのみこころを、すっかり見失っていました。神さまはこの民をあわれんでいました。水をもって潤してあげよう、そのようにみこころに決めておられました。だがモーセにはあわれみのかけらもなく、神さまのみこころに不従順にも、岩にことばで命じず、怒りに任せて民に語り、岩を二度も打ちました。 たしかにそれで、水は湧き出ました。しかしそれは、モーセが神さまの言うとおりにしたからでしょうか。そうではありません。神さまが民をあわれんでくださったからです。それで、たとえモーセが不従順の言動に出ても、水を飲ませてくださったのです。その代わりモーセは、神さまのきついお仕置きを受けることになりました。 とはいえ神さまは、モーセの霊的権威、リーダーシップまで剥奪されたわけではありませんでした。モーセが岩を打てば水がわき出た、このできごとによって、民はあらためて、神さまがこのような権限をモーセにお与えになったことを恐れ、今まで以上に、民はモーセに従うようになったはずです。 <後半につづく> モーセにはビジョンがありました。乳と蜜の流れる地、カナンにイスラエルの民を導き入れる、ということです。そのビジョンがあったからこそ、いつ果てるとも知れない苦難の荒野生活も、耐え抜くことができたわけです。だが神さまは、イスラエルのリーダーという役割は残される一方で、カナンに導く働きまではモーセに残してはおかれなかったのでした。 モーセは、この二度目のメリバのことを、どんなに悔い改めたことでしょう。だが神さまは、みこころを変えられることはありませんでした。そこで、さきほどお読みした、申命記のみことばです。24節、モーセは、偉大なる神さまの、その偉大なる御業によって特別に選ばれた神のしもべというアイデンティティがありました。自分に対する主の特別なみこころ、使命を受け取っていたのです。それがあったからこそ、出エジプトの旅程にて、どんなに苦しくても耐え抜き、頑迷なイスラエルの民を導きつづけることができたのでした。まことに、神さまとの出会い、そして神さまからの召命は、人を支えます。 しかし、ときに神さまは、その神の人のあり方に限界を加えられます。モーセはカナンに入れてくださいと切望しました。しかし、神さまはその祈りを聞き入れてはくださいませんでした。もう、二度と祈るなとさえおっしゃいました。 26節を見てみますと、「主はあなたがたのゆえに私に激しく怒り」とあります。これはもちろん、イスラエルの不平不満がモーセの怒りを引き起こし、結果として神さまを怒らせた、という意味もあります。しかしほかにも解釈できます。それは、神の怒りを引き起こすイスラエルの民の全体の代表として、モーセが神のその怒りを一身に受けた、ということです。 その結果モーセに下されたのが、民もろとも、カナンの地に入れていただけなかった、という、神さまのお取り扱いでした。 そもそも、出エジプトを果たしたイスラエルの第一世代で、カナン入城を果たせたのは、ヨシュアとカレブだけでした。それ以外はみな、荒野に斃(たお)れました。みんな、不信仰のゆえだったとユダ書5節のみことばは語ります。その不信仰の民の中に、モーセも含まれるのです。かわいそうな気もしますが、それはしかたのないことだったのです。 民のために祈るということは、民と無関係の立場に自分を置いて、高みの見物のように、上から目線で祈ることではありません。自分もその一人として、民と同じ立場になって、祈るのです。民の罪、民の痛み、民の苦しみ……みんな自分の身に背負って、祈るのです。いいえ、というよりも、みんな自分のことだから、祈るのです。わかりますか? モーセは確かに、神さまと顔と顔を合わせて語る特別な神の人でした。アロンと言えど、モーセのような特別な立場にはなれませんでした。そんなモーセでも、神さまのさだめられた限界からは自由ではありえなくて、荒野でいのちが取り去られる一人とされました。 考えてみましょう。ただでさえ特別だったモーセが、それ以上に、不信仰に対する懲らしめ、カナンに入らせていただけないというお仕置きを、お祈り一つで撤回していただくほど特別な存在だったならば、いったい、人の救いはどこにあるのでしょうか? 神さまはモーセだけをえこひいきなさって、あとの民は罪にしたがってさばかれるのだとすれば、いったいだれが救われるというのでしょうか? しかし、神さまは公平なお方です。不信仰の罪にふさわしいお取り扱いをなさるという点では、モーセにしても、民にしても、同じことでした。 ではそれなら、モーセは「さばきを受けた」わけでしょうか? そうではありません。モーセはピスガの頂において、神さまから何を見せられるのでしょうか? カナンです。しかし、神さまのみこころは、モーセをこの目の前に広がるカナンの地に入れることではなく、ヨシュアによってイスラエルを導かせ、カナンに入れることでした。こうして、イスラエルがカナンに入城するという、神さまのビジョンは果たされるのでした。みこころはなるのです。ただ、みこころがなることに、モーセが用いられないだけです。 しかし、そんなモーセはどこに行くのでしょうか? 天国です! カナンだって乳と蜜の流れる素晴らしい場所ですが、天国ははっきり言って、カナンとは比べ物にならないほどすばらしい場所です。モーセ、よくやった、あなたはわたしと民に対し、よい忠実なしもべだった、ごくろうさま、あなたの働きはこれで終わりだ、わたしはあとのことを、忠実なしもべヨシュアに任せよう、さあ、ゆっくり休むがよい。 しかし、民を40年にわたって荒野にて導いたモーセの歩みは、死んでバトンタッチして、それで終わりのむなしいものではありませんでした、その40年の歩みは、出エジプト記から申命記まで、実に120章以上にもわたって記録された膨大なもので、その記録を読むとき、私たちはこの民のように頑なにならず、信仰によって神さまに従順になるように、ということを、立体的に、具体的に学ぶのです。そうです、モーセの歩みはのちの世代のためのものです。モーセの生涯はヨシュアにバトンタッチすることで果てましたが、さらには、モーセ以降のすべての信仰者のため、そう、私たちのための生涯です。神さまはモーセによって、どれほど多くの神の民を生かし、養ってくださったことでしょうか! 私たちは主のみこころがなることを願うでしょう。そして、主のみこころが成し遂げられたとします。しかしそのとき、私たちは、自分の思っていたとおりに事が運ばなくて、不平不満を言ったりしたくなるようなことはないでしょうか? イエスさまについて、ひとつだけつけ加えたいと思います。十字架とは、イエスさまにとっても、あまりに耐えがたいことでした。イエスさまは血の汗を流して、この杯を私から過ぎ去らせてください、と、何度も天のお父さまにお祈りされました。……しかし、考えていただきたいのです。もしあのとき、イエスさまの祈りを天のお父さまがお聞きになったとしたら、どうなったでしょうか。もちろん、天のお父さまにできないことはないので、そのお祈りをお聞きになることもおできになるお方です。しかし、そうなったら……だれひとり救われる人はいません。イエスさまが私たち人間の罪という罪を、ことごとく十字架で負ってくださるという御父のみこころを成し遂げてくださったゆえに、イエスさまを信じるすべての人は救われ、神の国、神のご支配、神のご栄光は実現したのです。私たちも救われ、永遠のいのちをいただき、天国に入れていただくことができたのです。こんなことを被造物なる人間が言う資格などありませんが、イエスさまのお祈りを御父が聞かれなかったゆえに、すばらしいみわざが実現したのでした。 私たちもいろいろなことを祈ります。しかし、神さまのみこころは、私たちのお祈りの向こうにあるものです。それはどんな形を取るにしても、すべては祝福です。神さまが私たちのことを愛してくださっているからです。もしかすると私たちの連ねる祈りのことばは、あまりにちっぽけなものにすぎないのかもしれません。ゆうゆうと大きなみこころにゆだねたっていいのではないでしょうか? 神さまは私たちがいま思い描いているよりも、はるかに大きなお方で、はるかに私たちのことを気にかけてくださっているお方です。 祈りましょう。私たちはいま、何を祈っていますでしょうか? 私たちを心配してくださり、私たちにとっていちばんよいもので満たしてくださる神さまにゆだねましょう。 祈祷/聖歌462/献金 讃美歌391/祈祷/頌栄 讃美歌541/祝祷/後奏

「祈りとは『主を試みる』ことではない」

招詞 詩篇125篇/祈り(各自でお祈りください)/使徒信条/讃美 讃美歌515/主の祈り/聖書朗読 士師記6章36節~40節/ メッセージ題目 「祈りとは『主を試みる』ことではない」 しかしそれなら、私たちはいついかなるときも、奇蹟を求めてはいけないのでしょうか?……本日お読みしたみことばは奇蹟に関する箇所ですが、聖書全体の中でも異彩を放っています。イスラエルの士師ギデオンは、ミディアンやアマレクの連合軍と戦うにあたって、なんと2度にわたって、奇蹟を求めています。それも、自分の言うとおりに奇蹟を起こしてほしい、というものです。そして、神さまはギデオンの祈ったとおりにみわざを成してくださいました。 でも、私たちはほかの聖書の個所で、あなたの神である主を試みてはならない、というみことばも知っています。そんな私たちは、当惑しないでしょうか? 神さまはなぜ、ご自身を試すような、ギデオンの言うことを聞かれたのでしょうか? 今日の箇所から、果たしてギデオンのささげた祈りは、神を試みるというものであったのか、ということを学び、その上でこの学んだことを私たちに適用し、新型コロナウイルス流行という、今置かれている状況においていかに祈りをささげるべきか、ともに探ってまいりたいと思います。 まずは、神さまを試すことは許されない、ということから学びましょう。ギデオンは神さまから選ばれたイスラエルの士師、さばきつかさですから、当然、律法のみことばが何を語っているか知っていました。その律法のみことばは、神を試みることを厳格に禁じています。律法のみことば、申命記6章16節には何と書いてありますでしょうか?「あなたがたがマサで行ったように、あなたがたの神である主を試みてはならない。」 マサとは、「試みる」という意味です。出エジプトの途上、荒野の中にあったイスラエルの民は、飲み水を欲しがって神とモーセに不平を鳴らしました。民がこうして不平を鳴らしたは、このような苛酷な荒野の生活の中にあっても神さまが絶対的に守ってくださるということを信じない、不信仰のゆえでした。主は私たちの中におられるのか、おられないのか……イスラエルは今や、神さまを試みて、大胆不敵にも神さまに挑戦する態度を示していました。神さまはそのような民に譲歩し、モーセを用いて、岩から水を湧き出させるようにしてくださいました。しかし、この水の湧き出た土地の名前は、メリバ、争い(つまり神さまと争う)、という意味の地名とともに、マサ、試み、と名づけられ、民が主を試みる不信仰を犯したことが悪い意味での記念となってしまいました。 時は下り、この申命記6章16節のみことばをイエスさまが用いて、サタンの誘惑を退けるというできごとがありました。マタイの福音書の4章、5節から7節です。お読みします。……もし、この神殿の屋上から飛び降りて、しかもみことばの約束どおり、天使たちに守られて傷一つ負わなかったならば、人々は拍手喝采して、このお方こそメシアだ、と迎え入れたことでしょう。しかしイエスさまは、もしそのようなことをするならば、それはみことばに書かれているとおり、神を試みることである、と拒絶されたのでした。 いえ、サタンは、詩篇91篇のみことばを用いているではないですか。そのみことばに従順になれば、それは神のみことばに従順になることであり、神さまの護りをいただけたのではなかったでしょうか。しかし、そうではありませんでした。イエスさまは、それ以前に、神を試みてはならない、というみことばこそ絶対であると、サタンの誘惑をはねつけられたのでした。なぜそれが、神を試みることになるのでしょうか? そして、それのどこがいけないのでしょうか? それは、従順を実践する対象、という問題になります。 イエスさまは、御父の栄光を顕すことを何よりも願っておられたお方です。しかし、神殿の屋上から身を投げるなら、もし仮に、仮にです、みことばどおり、御使いによって守られたとしても、神の御子キリストの栄光、すなわち御父の栄光が顕れることにはなりません。なぜかというと、御父に従順になることではなく、サタンに従順になることだからです。現れるのは、サタンの栄光です。 サタンの栄光を顕すこと。それは、神の名を利用して、自分のしたいように生きることです。ときには、みことばさえも好き勝手に利用します。それは、神に仕えているのではありません。サタンに仕えているのです。 神を試みることが問題になるのは、そういうときです。みことばに照らしても、明らかにみこころではない。わがうちにおられる御霊なる主は平安を与えていらっしゃらない。しかし、大丈夫だとばかりに押し切る、ときにはその自分の欲を押し通すためにみことばさえも利用する、そのような自分に祝福が与えられるようにと自分勝手な祈りをささげる、それがみこころだとばかりに人々を扇動する……。 よく考えましょう。そのような態度で祈ったとして、その祈りのとおりに事がかなったとします。もちろんそれは、結果としては神さまのみこころどおりになったと言えましょうが、果たしてそれを神さまの祝福と言い切ることができるでしょうか? 神の栄光ではなく、人の栄光が顕れる結果にしかならないならば、それは罪としか言いようがありません。これが、神を試みてはならないケースです。では、ギデオンの祈りもそのようなものだったのでしょうか? ギデオンはもともと、ミディアンを恐れてこそこそ隠れていた人でした。しかし、主はギデオンを選んで勇士としてくださいました。主の使いがギデオンに現れ、主は、ギデオンの供え物を、火をもって受け入れる奇蹟を見せてくださいました。勇士となったギデオンは、父親の礼拝していたバアルの祭壇とアシェラの像を壊すように主に導かれました。ただ、やはり彼にはまだ恐れがあり、それを白昼堂々行うことはせず、夜目に隠れて行いました。そのようなギデオンも主の霊によってだんだんと士師として整えられ、彼につく軍団が増えていきました。そのとき、今日お読みしたとおり、ギデオンはちょっと変わった祈りをささげたのでした。 もしあなたが言われたとおり、私の手によってイスラエルを救おうとされるのでしたら、羊の毛にだけ露がおり、土が乾いているようにしてください。すると、そのようになりました。羊の毛を搾ると、鉢が水でいっぱいになったというから、この奇蹟は相当なものです。 しかし、ギデオンはなおも祈りました。39節です。……すると、神さまはやはり、ギデオンの祈りを聴かれたのでした。なーんだ、神さまを試みてもいいのか、神さまはこんな無茶な祈りも聞いてくださるじゃないか……そう考えるのは早とちりです。ここでは、「なぜ」神さまはこんな、一見すると無茶な祈りを聞いてくださったのか、考えてみたいと思います。 神さまがギデオンによってイスラエルを救うことはみこころでした。それは、直接主の使いがギデオンに現れ、6章14節と16節にあるように、主がギデオンによってイスラエルをミディアンからお救いになることが告げられているとおりです。 このようにギデオンは、主が自分のことを選んでおられるという主のみこころを受け取っていました。しかし、ギデオンの側にはまだ確信がありませんでした。恐れもありました。ギデオンが整えられていなかったのです。このとき主は、ギデオンの言うとおりに奇蹟をお示しになることによってギデオンを整えることをよしとされました。 ギデオンは確かに恐れの中にありました。しかし彼は、主が全能であることにかけたのでした。主が全能であるかぎり、この臆病な私のこともつくりかえ、勇士として大きく用いてくださる……ギデオンは、自分の無茶な要求は神さまを怒らせるかもしれない、という恐れも一方ではありました。しかし、それにもかかわらず、大胆に神さまに要求したのは、神さまを信じる信仰、また、全能なる神さまへの大きな信頼があったからでした。 ゆえに、ギデオンの、一見すると神を試しているような祈りは、不信仰のようでいて、実は大いなる信仰に裏打ちされたものだったのです。 信仰をもってみこころにかなう祈りをささげるには、ギデオンのように、主との明確な出会いが必要です。もちろん、何年何月何日、という正確な日付まで覚えている必要はありません。要は「いま、主に出会っている確信がある」かどうかです。 主がイエスさまの十字架と復活を信じる信仰を与えてくださり、私を新しく生まれさせてくださったことにより、みこころにかなう祈りはどんな祈りでも聞いてくださる……この信仰をもって主の御前に進み出るのです。 私たちはときに、祈っている内容が「主を試す」ことになっていないだろうか、と恐れることはないでしょうか。しかし、安心していただきたいのです。聖書には、なんと主ご自身が、主の民に「わたしを試してみよ」と語られる箇所があります。旧約聖書のいちばん最後、マラキ書の3章、8節から10節をお読みしましょう。 これは、多くの教会で導入されている、「什一献金」の根拠とされているみことばです。しかしこれは、収入の十分の一を形式的に、宗教的にささげればそれでよし、ということではありません。ここでは、「なぜ」主を試してみよということになるのか、それを見てみましょう。 それは、主が民を祝福することを願っておられる、ということです。しかし民は、主に従順に従うことをせず、本来は主のものとしてささげられるべき十分の一のささげものを自分のものにするなど、自分かって、自分中心に生きていました。 神さまはしかし、この民が立ち帰るように耐え忍ばれ、ご自身の祝福の交わりを分かち合うように道を開いていらっしゃいます。十分の一のささげものをもってわたしに従順になってみなさい。試してみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。わたしはあなたがたをあふれるばかりに祝福しよう。 そうです。主は、ご自身の民を祝福してくださることによって、ご栄光をお受けになります。ご自身の民を祝福されることは、みこころの中のみこころなのです。問題はそのことを、肝心の主の民がわかっていないで、不信仰と不従順を繰り返している、ということです。そのような神の民に向けて、あなたを祝福するかどうか、わたしを試してみなさい! 主はこのようにおっしゃいます。 この生き方は、マサのできごとで戒めとなった「主を試みること」とはまるで違うことをご理解いただけると思います。ギデオンにとっては、主に選ばれ、主に用いられることがみこころである以上、主に求めたとおりのしるしは起こされたのです。また、マラキの言ったとおりの祝福を、主に求める者は受けるのです。 以上のことから、私たちはこのご時世においていかに祈るべきかを考えましょう。 私たちが神さまに求める祈りは、どのような動機でなされているのでしょうか。自分の欲望のために神を利用するのか、神さまのご栄光を求めて祈るのか。マサのできごとをはじめ、出エジプトの途上で神さまに不平を鳴らしたイスラエルの民の「祈り」は、自分の欲望のための祈りでした。神さまはそんな人間を憐れんで、祈りを聞いてくださることもありますが、しかし人間の側が、「神を試みる」罪を犯したことには変わりはありません。 しかし、イエスさまを信じる信仰が与えられ、主のみこころが何であるかを御霊によって悟らされるべく、日々へりくだって主の御前に進み出る者たちの祈りは、そうではありません。神さまがこの世界を「なぜ」祝福し、「なぜ」癒そうとしていらっしゃるか、知っています。私たちはそれが「みこころだから」ということを知っています。そのみこころを握って祈るのです。神さま、あなたさまは私たちを祝福することがみこころではないですか! 私たちを癒されることがみこころではないですか! そのみわざを私たち神の民に施してくださることによって、あなたさまはご栄光をお受けになるのではないですか! 私たちを癒してください! そう信じて主のみわざを求めて祈ることは、罪ではありません。そればかりか、主のご命令です。 コロナウイルスという災厄が取り去られることは、私たちにとって悲願でしょう。では、なぜ悲願なのですか? 神さま抜きの楽な生活を味わえるようになるためですか? もしそれが願いならば、私たちの祈りは、自分の欲望に神さまを用いる、神さまを試みることにほかなりません。 そうではなくて、神さまのみこころは回復にある、いやしにある、祝福にある……私たちはそのように、主がみわざを行われ、御名があがめられることを願って、祈るのです。 ゆえに、コロナウイルスから、あらゆる病気や事故から、人間関係の葛藤から、サバクトビバッタから、山火事から、大地震から、放射能から、マイクロプラスチックから、主がこの世界を救い出してくださることはみこころであり、そこに全能の御手を伸べてくださることを信じて、祈るのです。目的は、神さまがみわざを行なってくださることにより、神さまの御名があがめられるためです。 私たちはギデオンの祈りを、無茶だとか、途方もないなどと言って片づけてはなりません。祈りとはそもそも、すべてが無茶なものです。人間業では不可能なことが叶えられるようにと、本気で願うことだからです。しかし、私たちの祈る対象は全能なる神さまです。私たち神の民を祝福するというみこころのゆえに、みこころにかなってどんなことでも成し遂げてくださいます。信じますか? そのようにみわざを主が成し遂げて、私たちを祝福してくださるとき、そこには主のご栄光が顕れ、私たちは主の御名をほめたたえ、主にすべてのご栄光をお帰しするのです。祈りをもって、主にすべてのご栄光をお帰しする私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 では、ともに祈りましょう。 聖歌511/献金 讃美歌391(お手元に献金をご用意ください)/頌栄 讃美歌541/祝福の祈り「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン」 」

「あなたの民」のために祈れ

招詞 詩篇124篇/祈祷/使徒信条/交読 詩篇48篇/主の祈り/讃美 讃美歌501 聖書箇所 出エジプト記32:7~14 メッセージ 「あなたの民」のために祈れ 私たちは祈ります。自分のためばかりではなく、家族のためだったり、親族のためだったり、職場や学校のためだったり、さらには国や民族のために祈ります。みなさん、国や民族のために祈っていますか? 韓国の兄弟姉妹は、ほぼ例外なく、祈祷会において国や民族、つまり韓国と韓国人のために必ず祈ります。私たちがほんとうに日本という国を愛しているならば、日本という国と、日本の民族のことを覚えて祈ってしかるべきです。まさしく、内村鑑三が「ふたつのJ」、つまり、ジーザスとジャパンを愛すると言ったとおりです。 もう、あまり口にしたくありませんが、コロナウイルス流行による緊急事態宣言はまだまだ解除される見通しが立っていません。このようなとき、私たちにできることは祈ることです。「祈ることしかできない」のではありません、「祈ることができる」のです。わかりますか? ここ、間違えてはいけません。 先週から、「祈り」について学んでいます。先週はダビデの態度から、いざというときに祈る者となるためには普段から祈る必要があることを学びました。今日は、とりなしの祈りについて学びます。この日本、そして世界がこの災厄から救われるために、私たちのすることは、この世界のためにとりなしの祈りをすることです。では、私たちは、なぜとりなしの祈りをしなくてはならないのでしょうか? 本日はこの「なぜ」ということを、みことばから学んでみたいと思います。 今日の箇所は、モーセが、シナイ山に登って神さまと顔と顔を合わせて交わりを持ち、何週間にもわたって、イスラエルの民をいかに導くべきかの手ほどきを受けていたそのとき、山のふもとでは目も当てられないような事態が展開していたそのとき、モーセが神さまと交わした対話です。イスラエルの民の導き手だったモーセがいなくなり、もうそれが6週間になろうとして、民は目に見える形で神を求めはじめました。 折しもシナイ山のふもとでは、モーセの兄のアロンがモーセの代理として民を導いていました。民はアロンに詰め寄りました。それで、アロンのしたことは何だったのでしょうか? 民から金の装飾品を集め、それを溶かして子牛の像をつくりました。そして、それを民に見せ、「これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ」と宣言したのでした。民は喜び、その像の前で乱痴気騒ぎのお祭りを始めました。 これは、神さまご自身の御手によって導かれた民として、いちばんしてはならないことでした。それは、みなさんが子どものお父さん、お母さんならわかることでしょう。うちにも子どもがいますが、もしうちの子が、私がしばらく家を留守にしている間に、粘土で人形を作って、「お父さん!」なんて呼びかけでもしていたら、なんて、考えただけで悲しくなります。イスラエルの民は、それと同じようなことをしたのです。 神さまの御怒りが燃え上がりました。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。下りて行け。神さまはこの民をどうなさろうというのでしょうか。わたしに任せよ。わたしはこの民に怒り、この民を絶ち滅ぼす。あなたを大いなる国民(くにたみ)としよう。 神さまの御怒りはもっともです。イスラエルの民を選び、エジプトの圧政から解放された神さまのご栄光を、そのような牛の偶像と取り代えるなど言語道断です。これほどまでに神の民にふさわしくない者どものことなど、神さまは滅ぼしてしまわれて当然でした。 神さまはつづけて、なんとお語りになったでしょうか。モーセから大いなる民を起こすとおっしゃいました。モーセは、現実に神さまの御前に立って、神さまと語り合えるほど、神さまに選ばれるにふさわしい存在とされていました。堕落してしまったイスラエルとは大違いです。神さまのおっしゃることは、ごもっともと言えましょう。 しかし、モーセは神さまのこのみことばを聞いて、はい、そのとおりです、イスラエルをさばいてください、みこころどおり、私から大いなる神の民を興してください、とは言いませんでした。むしろ、神さまのこのおことばを聞いて、どうかイスラエルを赦し、御怒りを収めてくださいと嘆願しました。 なぜモーセはそのように祈ったのでしょうか? 本文を読んでみますと、3つの理由がわかります。ひとつは、このイスラエルの民は神さまがエジプトから導き出された、神さまの民であるということ、そして、もし神さまがイスラエルをここで滅ぼされたならば、神さまとその民の敵は、神さまを嘲るであろうということ、そして、神さまがイスラエルを導き出されたのは、先祖アブラハム、イサク、ヤコブに約束された新しい地に入れてくださるためだというわけです。 まず、神さまがこのイスラエルの民を導き出されたのは、イスラエルがほかならぬ、神さまご自身の民だということから見てまいりましょう。神さまはご自身の民を特別に扱われます。民を愛されます。しかしそれは、民がほかのどの民族よりも正しい行いをしているからではありません。理由はただひとつ、イスラエルは神さまの子どもだからです。 大事なのは「関係」です。親は、自分の子どもであるならば、その子がいい子であろうと悪い子であろうと、変わらずに愛情をかけます。親として育っていないと、ときにその愛情のかけ方はへたくそかもしれませんが、それでも、子どもを愛する思いに変わりはありません。いわんや天のお父さまは、どれほど正しく愛情をかけてくださることでしょうか。それもこれも、イスラエルは神さまの子どもだからです。神さまの子どもという「関係」に入れられているからです。 しかし、今やその「関係」は、風前の灯火になっていました。神さまに問題があったのではありません。子どもの側から、神さまがお父さんであることを拒否し、別のものをお父さんだと言い出したのです。神さまは、彼らの選択に任せようとされました。そうかい、わたしとの愛の関係が切れたならば、あなたはどうなるかわかっているね。 しかし、ここでモーセがとりなしました。……いいえ、この民はいまこうしてあなたさまを捨てたかのように振る舞っていますが、あなたさまの民であることに変わりはありません。モーセは、彼らの「振る舞い」以前の、彼らと神さまとの「関係」にかけて、神さまに訴え出たのでした。 これが、とりなして祈る者の姿勢です。いま世界を見てみますと、なんと多くの人がその道を外していることでしょうか。そのためになんと、多くの不義と不正が横行していることでしょうか。神さまのお気持ちを考えてみましょう。こんな世界などすぐにでも滅ぼされたって、私たちは何の文句も言えないのではないでしょうか。しかし、人が滅ぼされず、神さまのあわれみによって保たれるためには、神さま、この民はあなたさまのものです、と、とりなす者たちの存在が必要です。私たちこそ、そのとりなす者となりたいものです。私たちが神さまのあわれみによって救っていただき、神さまの子どもにしていただいたように、この世界の人々がひとりでも救われ、神さまの子どもとして回復されるように、私たちは愛をもって人をおつくりになった神さまのあわれみにすがり、祈る必要があります。 ふたつめにまいりましょう。神さま、このままあなたさまがイスラエルを滅ぼされたら、あなたさまがイスラエルをエジプトから導き出されたのは、イスラエルを荒野で滅ぼされるためだったなどと、敵どものあざけりの的となってしまいます……。 神さまはそのご主権のままに、人を生かし、また、人を滅ぼされます。それに異議を唱えることはだれにもできません。しかしそれでもモーセは、主が敵どもの嘲りにあわれてはならないから、民を滅ぼさないでいただきたいと申し上げたのでした。 モーセの祈りの焦点は、主のご栄光に当てられていました。主の栄光が顕されるように、私たちの生きる目的は、その一点であるべきですし、私たちは生活すべてを通して、主の栄光を顕すべく召されています。その生き方ができるように、私たちは日々祈るものです。 主のご栄光が顕れるようにということにはもうひとつの側面があります。それは、主に敵対する者が主の御名をそしるがままにさせないことです。見てみましょう。この世界はなんと、主なる神さまの御名をそしる者たちに満ちていることでしょうか。聖書をそのまま、主のみことばとして受け入れ、お従いするような人たちのことを、やれ原理主義者だ何だと悪口を言い、まるでいけないことをしているかのようにそしります。そのような者たちは当然のこと、イエスさまをまことの神さまとして信じることをしません。イエスさまが単なる人であるとか、処女降誕も復活も作り話だなどと語ったりして、聖書の記述をちゃんと信じるクリスチャンたちを批判したり、笑いものにしたりします。しかしそれは、神さまを批判したり笑いものにしたりすることであり、神さまの栄光をいたく傷つける行為をしていることです。 彼らは神さまに敵対する言動しています。しかし、このような者たちの声が大きくなるならば、神さまに栄光をお帰ししないことが常識となり、もしかすると、私たちクリスチャンさえも、神さまの栄光を顕す生き方と関係のない生き方を選んでしまうかもしれません。そうなったとき喜ぶのは、神さまの敵だけです。 私たちの祈りは、神さまに敵対する者たちが神さまとその民を引き下げ、自分たちが正しいものであるかのように誇ることのないようにと、神さまのご介在を求める祈りであるべきです。 私たちはもちろん、そのような世界に対し、少しでも神さまに従順に従う生き方をすることで、神の栄光の小さなともしびを灯すでしょう。しかし、闇の勢力はあまりにも大きなものです。私たちはこの勢力に対して、あまりにも無力であることを謙遜に認める必要があります。しかし、無力さを悟ることは、神さまに祈ることの始まりとなります。何度でも申します。私たちは「祈ることしかできない」のではありません。「祈ることができる」のです。祈りにより、この世界の暗やみの勢力は押し流され、神さまの栄光は現れます。今こそ祈るときです。 三番目のモーセのとりなしの理由、それは、「主がエジプトから民を導き出されたのは、イスラエルの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブに約束された地に入れてくださるためではないですか」ということです。 どういうことかというと……神さま、あなたさまの約束は変わらないはずではないですか、あなたさまは約束にしたがって、神の民を空の星のように増やしてくださる、そして、この増え広がる民が、主のさだめられた地を受け継ぐ、それがみこころではないですか、ということです。 神さまが民を選ばれたということは、神さまの約束があったからです。約束は、変わることのない神さまが結ばれた以上、変わることがない効力を持っています。 約束を破るのは、いつでも人間の側です。神さまがアブラハム、イサク、ヤコブに約束してくださったその約束は確かなものなのに、人間の側は神さまがその全存在をかけて結んでくださった約束をいとも簡単に忘れ、罪を犯します。それなら、と、神さまはそのようにして約束をほごにした人間に、それ相応の報いをなさって当然でした。神さまがアブラハムと契約を結ばれたとき、いけにえの獣が真っ二つに切り裂かれてささげられたのは、この約束を守らなかったならば真っ二つに切り裂かれても構わない、という意味です。しかし神の民はいまこうして、神さまとの約束を軽んじました。それゆえ今、神の民は真っ二つに切り裂かれんとしていました。 しかし、ここでモーセは神さまにとりなしました。神さま、あなたさまが契約を結んでくださった民である以上、この民は永遠にあなたさまのものではないですか、あなたさまの約束にかけて、この民をなにとぞ救ってくださいますよう、伏してお願いいたします……。 人が神さまを信じて救われるということは、アブラハムが神さまを信じて救われ、神さまと契約を結んだように、永遠のむかしから定められていたことです。神さまがアブラハムに約束された「空の星」の中に、この私たちも含まれているのです。永遠の約束に含まれているということです。 それなのに私たちは、なんとその約束にふさわしくない生き方を平気で選ぶことでしょうか。そのために神さまの愛をいたく傷つけてしまうことでしょうか。 しかし、それにもかかわらず、私たちが滅ぼされないでいるのは、神さまがアブラハムと結んでくださった契約のゆえです。あなたも、のちの子孫も、みな神の民である。私たちはこの契約に含まれているので、変わらずに神の民にしていただいているのです。 私たちはこの世界を見るとき、いとも簡単に見限ってしまってはいないでしょうか? こんな神さまと関係ない生き方をしている世界のことなど知らないよ、などと。しかしそれでも、神さまはこの世界のためにとりなして祈ることを私たちに求めていらっしゃいます。なぜでしょうか。この世界の中には、神さまが選んでおられる民がいるかもしれないからです。 予定説、という神学の概念があります。神さまはすでに、救われている人を選んでいらっしゃる。私の学んだ神学校もその立場に立つので、私も基本的には予定説の立場に立っています。しかしそれは、どうせ救われている人が決まっているならば、伝道や宣教やとりなしの祈りを含め、この世界に対して何のアクションも起こさなくてよい、ということではありません。むしろその逆で、神さまがこの世界のうちにすでに救いに選んだ人を置いておられるのだから、あなたがた主の民は積極的に伝道し、宣教するのだ、と考えるのがふさわしいです。そうです、神の選びと救霊は全く矛盾しないばかりか、どちらがどちらを補うためにも必要なものです。 だとすると、この世界にはまだ私たちに見えていないだけで、神の民がたくさんいるということになりはしないでしょうか。その世界を滅ぼすことが、果たして神さまのみこころでしょうか。とんでもないことです。ここに、私たちがこの世界をおぼえてとりなす意味が出てまいります。この民のうちにもしかしたら神の民に選ばれた人がたくさんいるかもしれないと考えるならば、私たちのすることは、間違っても、この地に災厄がもたらされることを祈ることではないでしょう。この地が救われるように、回復されるように、平安が与えられるように、祈ってしかるべきです。 以上、モーセの3つのとりなしから、私たちの祈るべき内容について見てまいりましたが、最後に、モーセが「なぜ」、自分ひとりが生き残るよりも、イスラエルの民全体が救われることを神さまに祈り求めたか、その理由を考えましょう。 結論から先に申します。それは、モーセには、神の御子イエスさまの心があったからでした。実にモーセとは、イエスさまのみこころを、この出エジプトの時代において現す代表選手でした。 モーセは、山から降り、実際イスラエルの民が造って礼拝していた金の子牛を目撃しました。その存在は、主から離れたイスラエルの堕落そのものでした。怒りに燃えたモーセは、金の子牛を礼拝しないで主につくことを表明したレビ族によってイスラエルの多くの者を処刑しました。しかし、モーセがしたことはそれにとどまりませんでした。モーセはふたたびシナイ山に登り、主と対面しました。そしてモーセは、彼らの罪を赦してくださるように祈り、それがみこころにかなわないならば、自分のことをいのちの書から消し去ってほしい、つまり、滅ぼして地獄に落としても構いません、と祈ったのでした。 そのようなモーセにまず神さまがおっしゃったのは、7節にあるとおり、「あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民」というおことばです。もはや神さまは、この民は主ご自身が連れ出された主の民とはおっしゃらなかったのです。モーセよ、あなたが責任を取りなさい、と、主はモーセに迫られたのでした。その結果モーセが選んだのは、とりなし手となることでした。 これは、十字架にお掛かりになって、人のすべての罪を引き受けられ、のろわれたものとなってくださった、イエスさまの姿そのものです。モーセは、自分が救われることよりも、堕落した民の代表として、主の御前に立つことを選びました。イエスさまはなおさらそうでした。ご自身を十字架につけるような者たちを即座に滅ぼしてしまわれて当然だったのに、すべての人を代表して十字架につかれ、御父の御前に、彼らをお赦しください、と、いのちをかけてとりなされました。 とりなすとはそういうことです。私たちがイエスさまの御名によってとりなして祈るということは、自分を安全圏に置くということではありません。この罪を犯している民のひとり、代表として、この平安がなくてうろたえている民のひとり、代表として、いのちをかけて主の御前に出ていくのです。 讃美 聖歌465/献金 讃美歌391/感謝の祈り/栄光の讃美 讃美歌541/祝祷・後奏

危機の祈りは平時の祈りから

詩篇122篇/祈り/使徒信条/交読 詩篇47篇/主の祈り/讃美 讃美歌495 聖書箇所;詩篇34篇1節~22節 メッセージ題目;危機の祈りは平時の祈りから 新型コロナウイルス流行は、教会の在り方を変えてしまいました。何よりも、一緒に集まることをやめたりしないで、かえって励ましあい、かの日、すなわち主の再臨が近づいているのを見て、ますますともに集まり励ましあいましょう、という、へブル10章25節の主のご命令に、教会が従えなくなってしまった、ということです。使徒信条で告白している「聖徒の交わり」、これが持てなくなった教会の受けたダメージは、そうとうに大きなものがあります。 コロナウイルスの流行という世界の危機は、東日本大震災という、やはり日本を襲った危機と比べてみると、その恐ろしさが際立っています。東日本大震災でも多くの人のいのちが奪われ、破壊的な被害をもたらしましたが、それでも人々はボランティア活動などを通して一緒になってこの問題に立ち向かうなど、連帯が生まれました。「絆」ということばが流行したとおりです。しかし、このたびのコロナウイルス流行は、その人として持つべき、人と人との「絆」を断ち切るものとなりました。目の前の人に感染させるかもしれない、逆に、感染させられるかもしれない、だれのこともそのように思って、おちおち会話することもできない、出かけることもできない、そんな事態が今まであったでしょうか? このようなとき、私たちのできることは何だろうか……祈っているうちに与えられたのが、今日の本文です。そうだ、聖徒の交わりを持てないと嘆くのではなく、神さまとの交わりを持つべきではないだろうか! そこで、今日の本文から祈りについて学びたいと思います。 今日の本文、詩篇34篇はダビデの祈りの告白です。今日は特に、やや長い本文のうち、7節までを中心に学びたいと思います。 まずはタイトルをご覧ください。これは、サムエル記第一の21章にて、サウル王から逃れたダビデがガテの王アキシュのもとに落ち延びたとき、家来が、この男は「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と歌われた、あのダビデではないですか、と王に注進しました。本来ならばダビデは、そうです、その私があなたのもとに助太刀にまいりました、と、自分をアピールして、ちゃっかりガテの軍隊に加わってもよさそうなものでした。しかし、今ダビデは恐れに取りつかれていました。サウルという名前を聞いただけで震え上がるような心境にいました。 それでダビデは、早くここから逃げなければ、と思い、一計を案じて、気がおかしくなったふりをしました。門の扉に傷をつけたり、ひげによだれを垂らしたりしました。なぜこんな奴を連れてきた……アキシュは呆れ、結局ダビデは追い出され、事なきを得ました。この詩篇34篇はそのできごとの後に生まれたものだと、題名で明かされています。 ダビデはこの行動によりいのちは守れましたが、未来の王としての尊厳など、あったものではありませんでした。みっともない姿をさらした……見ようによっては、これはイスラエルの偉大な王さまダビデの「黒歴史」ともいうべきものです。「黒歴史」……思い出したくない歴史というものは、だれにでもあるものでしょう。それが何かの拍子に脳裏をかすめると、気がおかしくなりそうな、あの行動。私にもたくさんあります。ダビデは、まさにその最悪な事態のただ中にありました。 しかし、このおかしな行動のゆえにダビデが屈辱に打ち沈んだ、とか、自己憐憫に陥ったというような記述は、聖書のどこを探してもありません。むしろ、この詩篇は何を語っていますでしょうか?「私はあらゆるときに/主をほめたたえる。/私の口には/いつも主への賛美がある。」嘆きや自己憐憫ではありません。賛美です。 ダビデは、わが身を守るためとはいえ、神の民なるイスラエルの王となる人物にあるまじき行動を取ったことに変わりはありません。しかし、ダビデがそのようなおかしな行動をしたことは、結局はダビデのいのちを救いました。神さまが守ってくださったのです。 そんなダビデの恥を覆ったものは何でしょうか? 神さまへの賛美です。では、ダビデはその賛美を、どのようなときにささげると言っていますか?「あらゆるときに」「いつも」……そうです、ダビデは今、いのちの危機から脱したということへの感謝の祈り、また逆に言えば、いのちの危機から脱したものの、人前でとんでもなく恥ずかしい行動に出たという事実、しかし、それをもってしても消すことのできない賛美と感謝をささげています。 このような最悪なときにも賛美と感謝が絶えないのはなぜでしょうか? それはダビデが、普段から賛美と感謝を主におささげすることが身についていたからです。詩篇をお読みになるとわかりますが、多くはダビデによるもので、ダビデがいかにして、神さまの御前に祈りをささげていたかを知ることができます。時には激烈な表現さえも用いて、敵がどんなに悪い存在なのかを表現したり、敵がさばかれることを祈ったりしています。そこには、いかにも達観したような取り澄ました態度は見られません。この、詩篇に現れたダビデの祈りを目にすると、これぞ「祈りの達人」という印象を受けます。取り澄ました表現ややたらと文学的な表現を多用するのが達人なのではありません。 4節から7節をお読みしましょう。……主はどのようなお方でしょうか? すべての恐怖から救い出してくださるお方、すべての苦難から救い出してくださるお方、主の使いによって助け出してくださるお方です。ダビデもそうであったように、主の子どもたちも恐怖に陥ります。しかし主は、どんな恐怖からも救い出してくださるのです。 敵の前、異邦人の前で醜態を見せる、ダビデは最悪の状態にありました。しかし、5節のみことばをご覧ください。彼は「辱められていない」のです。なぜなら、主を仰ぎ見て輝いているからです。主の光は、恥と屈辱に歪む顔を、恐怖に歪む顔を、その表情もわからないほどに照らし、主のご栄光に変えてしまうのです。 私たちも今、コロナウイルス流行という恐怖に置かれています。しかし、ダビデをあらゆる恐怖から助け出してくださった主は、私たちのことを助け出してくださいます。恐怖に歪む顔は、主の光に照らされるのです。いえ、それだけではありません。私たちは主を呼び求めると、助け出していただけるのです。信じますか。 この信仰を養うことが、いま私たちに必要とされていることです。私たちはいろいろな情報に囲まれていて、その数々の情報に耳を傾けてばかりいると、翻弄され、何が正しいかわからなくなります。そればかり見ていると、私たちはどんなに怖ろしくなるでしょうか。また、不安になるでしょうか。しかし、幸いなことに、私たちは主を呼び求めるならば平安が与えられます。それは、主ご自身が助け出してくださるということです。 私たちがもし、普段からあらゆる場合に、そしていつも賛美の祈りをささげることを忘れないでいるならば、「いざというときに」私たちは、祈りをもって主の御前に出ていくことができます。今はまだ、コロナウイルスは私たちの身の周りにまで及んでいないかもしれません。しかし、もしかすると、私たちは予期せぬような危機に瀕することもあるかもしれません。それこそ、いざというとき、が私たちに臨むのです。そうなる前に、私たちは備えておく必要があります。 私たちは、祈らなければ、と思っていても、なかなか祈れない自分の現実に気づき、落ち込んだりするかもしれません。しかし、お祈りをしているかどうかということは、クリスチャンとして優秀かそうでないかのバロメーターのようなものではありません。お祈りできていないからと、自分はだめなクリスチャンなどと、自分をさばかないでいただきたいのです。そんなことをしたら、それこそサタンの思うつぼです。私たちがすることは、自分をさばいて落ち込むことではありません。「だからこそ」主の御前に出ていくことです。祈れない姿そのままに、主の御前に出ていくのです。そんなことができるのでしょうか? できるのです! むかし読んだ信仰書籍の中に、絶えず祈るためのヒントが書かれていました。それは祈る際に、短いことばで祈るのです。一息で繰り返せる短い文章や短い句を選びます。短いみことばを引用してもいいです。それを、できるだけ頻繁に祈るのです。そうすることによって、心に祈りとみことばが深く根づくようになります。私はこれを「ツイッターの祈り」と呼んでいます。この「ツイッターの祈り」の積み重ねは、やがて祈りを介した神さまとのたえざる交わりへと発展していきます。 私たちの心の中には、祈らなければという切なる思いがあります。ローマ人への手紙8章26節にありますとおり、御霊なる神さまが私たちのために言いようもない深いうめきをもってとりなしていてくださるので、私たちの霊もその御霊のとりなしに共鳴して、祈らなければ、という思いになるのです。問題はその祈りが、ことばにならないことです。 それは言ってみれば、ふたをされている状態です。世の常識ですとか、私たちのみこころにかなわない習慣ですとか、そういったことが、ふたをしているわけです。私たちはですから、何によって祈れていないかを聖霊なる神さまの導きの中で見極めて、正直に告白する必要があります。そこから、祈りの生活は始まるのです。 例に挙げたいのが、水道管と蛇口です。しばらくひねっていない蛇口からは、赤さびで汚くなった水がしばらく出ます。しかし、その水が汚いからと、また蛇口を閉めてしまうならば、水道管の中の水は汚いままです。どうすればいいのでしょうか? 蛇口を開ければいいのです。蛇口を開け放って、汚い水を全部出してやれば、きれいな水が出てきます。その水は飲めますし、料理にも使えます。 同じように、私たちは自分の中の祈りたい思いを、少しでもことばにして開放する必要があります。とにかく、どんなことばでもいいです、祈ってみることです。個人でささげる祈りのことばはだれも聞いていません。だれに聞いてもらう必要もありません。何でもいいですから、祈るのです。もし、ことばや表現が神さまに聞いていただくにふさわしくないものならば、聖霊なる神さまがふさわしいものへと整えてくださいます。そうすることで私たちは、自分の中に満ちている思いをことごとく、主に知っていただくことができます。 さきほど申しましたツイッターの祈りは、少しずつでも祈りを表現することにより、うちに秘めている祈りたい思いを開放する行動です。もし、祈れていない自分を嘆くならば、少しずつでいいですから、短いことばにして祈りを表現してみることを強くお勧めいたします。そこからだんだんと、長いお祈りへと発展していきます。 だから、長く祈れないからと落ち込むことはありません。このような状況の中で、祈らなければならないと思わないクリスチャンなどいないはずです。ただ、ことばにならないだけです。でも、そろそろ、祈りの水道管を開放してみてはいかがでしょうか? 最初は自分でも何を祈っているんだろうと思えても、やがて、ふさわしいことばに変えられていき、主のみこころと一致した祈りをささげている確信を持てるようになります。 さて、そうなると、逆に「長い祈りをささげる」ことはどうなのか、という問題が出てきます。みなさんの中には、短くよりもむしろ長く祈る方が平安がある、という方もいらっしゃると思います。すばらしいことです。それだけ、みこころを握っていらっしゃるということでしょう。 ただしそれでも、気をつけることがあります。その連ねている祈りのことばは、神さまとの生きた交流になっているだろうか、ということです。マタイの福音書6章の5節から8節をお読みしましょう。……このみことばからわかることは、お祈りとは、人に見せるためのパフォーマンスではないということ、また、長ければいいというものではない、ということです。異邦人のように、というのは、答えてくれるかどうかもわからない偶像に向かってお勤めのようにことばを連ねることで、宗教的な満足を満たしてはならない、ということです。それは、普段から祈っているということではありません。 私たちがもし、長く祈れるようになったならば、さやかな御声を聴くためにいちど静まって、黙想する習慣も身に着けたいと思います。私たちの祈りは、神さまの御声であるみことばによって導かれるべきです。 お勧めしたいのは、短いみことばを暗唱することです。そうすると、聖書のみことばを字引を引くようにいちいちめくらなくても、私たちはスムーズにお祈りをつづけることができるようになります。 さあ、今日はまず、決心したいと思います。いざというときはいつやって来るかわからない状況にあります。そのときに備え、少しずつでいいです、祈る者となりましょう。今日から始めましょう。 「賛美します。」「感謝します。」「御手にゆだねます。」このような短いフレーズでいいのです。そこから始めましょう。そして、お祈りの達人を目指すならば、みことばを暗唱しましょう。暗唱したみことばを口に出して、また祈りましょう。神さまは私たちのことを、ご自身とよい交わりを持つにふさわしい人へと整えてくださいます。 讃美 聖歌524/献金 讃美歌391/栄光の讃美 讃美歌541/祝祷

見ないで信じる人たちは幸いです

聖書朗読;ヨハネの福音書20:24~29 メッセージ題目;見ないで信じる人たちは幸いです 先週の礼拝で私たちは、イエスさまのご復活をお祝いしました。そして、イエスさまの復活はどれほど、人から怖れを取り去り、そして主の働き人として遣わしてくださるものなのか、ともに見てまいりました。今日の箇所は、前回学びましたマルコの福音書とはまた異なる、復活のイエスさまに弟子が取り扱われる内容のみことばです。復活のイエスさまが弟子たちにどのように接してくださったかを学び、私たちもイエスさまの復活の喜びにあずかる者となることを願います。 今日の箇所を読みますと、復活のイエスさまに出会えなかった、トマスという弟子が登場します。このトマスは、まず、イエスさまが復活されたという、弟子たちの言うことを信じませんでした。しかし、その彼もまた、復活のイエスさまに会うという恵みを体験することになりました。私たちはイエスさまを見ていなくても、イエスさまを信じています。イエスさまとお交わりしていると、堂々と語ることができます。それがどれほど「幸い」なことなのか、今日、その意味を学び、主とのさらに深い交わりに導かれますようにお祈りいたします。 今日のみことばの第一のポイントです。イエスさまは私たちに平安を与えてくださるため、何度でも出会ってくださいます。 復活のイエスさまに会うことができた弟子たちは、その場にいなかったトマスに言いました。「イエスさまはよみがえって、僕たちに会ってくださったんだよ!」しかし、実際にイエスさまに会うのと会わないのは、何というちがいでしょうか。トマスはとても信じられない、と言いました。それも、何と言ったのでしょうか。「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。」 このトマスのことばは、ほかの弟子たちにどんな影響をもたらしたでしょうか。言われてみれば弟子たちは、イエスさまの手に釘の跡を認めたわけではなかった。槍で刺された脇腹に手を入れてみたわけでもなかった。してみると、弟子たちは揃って、幻を見たのかもしれない。弟子たちはあのとき、復活のイエスさまに息を吹きかけられて「聖霊を受けなさい」と言われ、直接遣わされ、この世に罪の赦し、すなわちイエスさまの十字架の福音を宣べ伝えるべく聖霊なる神さまの力をいただいたというのに、またもや元の状態に逆戻りしました。もう復活のイエスさまに会ったから大丈夫、堂々と世に出ていこう、とはならなかったのです。結局、またもや弟子たちは、ユダヤ人を怖れて扉に鍵をかけて、みんなで引きこもってしまったのでした。まことに、不信仰というものは、ひとりから全体に伝染する、恐ろしい力を持っています。だから私たちは、この共同体の中からとにかく不信仰というものを除き去らなければならないわけです。 しかし、弟子たちがそうして閉じこもっていたそのとき、またもや驚くべきことが起こりました。26節です。……トマスの疑いに満ちたことばが、弟子たちからイエスさまの復活の確信を奪っていたそのとき、彼らにもう一度、イエスさまは現れてくださったのでした。 私たちはこのことから、どんなことを学ぶことができるでしょうか。それは、ひとたびイエスさまが弟子として選んでくださった人ならば、イエスさまはけっして見捨てない、ということです。イエスさまを見失ったならば、イエスさまは何度でも出会ってくださるのです。出会ってくださり、不安に満ちていたその心に、限りない平和を与えてくださるのです。 トマスのように、イエスさまが目に見えないものだから信じない、というようなことを言う人は、世界中に満ちています。そんな世に生きる私たちは、どれほど、イエスさまに対する信仰を持つことが難しいことでしょうか! もしかしたら私たちさえも、そのようなこの世と調子を合わせることをいともたやすく選んでしまい、イエスさまを見失ってしまいはしないでしょうか? しかしみなさん、安心していただきたいのです。イエスさまはおっしゃっています。ヨハネの福音書、15章の16節です。いみじくも十字架に掛かられる直前に、イエスさまが弟子たちにお語りになったみことばです。……十二弟子は、イエスさまによって救われ、さらにはイエスさまの働きが託された人々でした。トマスももちろん、その中のひとりでした。ひとたびイエスさまが弟子として召され、ひいては働き人として召されたならば、もうその人は、どんなことがあったとしても、イエスさまの側で手離さないのです。不信仰に陥り、使命を見失ってしまったならば、イエスさまが出会ってくださり、信仰を回復させてくださいます。平安がありますように、主はおっしゃいます。私たちが不信仰ゆえに言いようのない不安に取りつかれていたならば、主が臨んでくださり、平安に満たしてくださいます。 これだけは忘れてはなりません。主の民になった、主の弟子になった、主の働き人になったということは、イエスさまが召されたということです。私たちからイエスさまに弟子入りしたのではありません。 イエスさまが私たちのことを、弟子になれる、働き人になれると見込んで、弟子に取ってくださったのです。そうであるならば、私たちの人生は、イエスさまが責任を取ってくださいます! 信仰をなくさないように、必ず守ってくださいます! ところで、率直にお聞きしますが、先週の復活祭の日に、礼拝を通して復活のイエスさまへの信仰が確かにされてもなお、この一週間、私たちは生活のどこかで、復活のイエスさまと関係のない生活を送ってはいなかったでしょうか。そのせいで、心に不安を抱えたり、神さまを見失ったり、問題が起こったりしなかったでしょうか。 復活のイエスさまはそんな迷える私たちに、何度でも出会ってくださり、平安をくださいます。何度でも出会ってくださり、不安を平安に変えてくださいます。それでも私たちは不信仰に陥って、不安に陥ることもあるでしょう。しかし、私たちのそのような感情を越えて、イエスさまのご臨在は絶対です。神さまのみことばである聖書が、そう言っているからです。 私たちが生きる世界は、新型コロナウイルス、世界恐慌以来とも言われる不況、大地震、放射能、サバクトビバッタ、森林火災、環境破壊、天変地異、あらゆる形で危機に陥っており、そのニュースを目にする私たちも、悩まないわけにはいきません。そのようなとき私たちは、イエスさまだけがくださるこの絶対的な平安を味わってまいりたいものです。そして、そのような世の中に生きる地の民が、主の弟子となり、平安をいただくことができますように、イエスさまの御名によって祈ってまいりたいものです。 第二のポイントにまいります。イエスさまは不信仰を、信仰へと変えてくださいます。 27節のみことばをお読みしましょう。……せっかく、復活のイエスさまに出会って喜んでいた弟子たちに、不信仰そのもののことばを語って冷や水を浴びせるような行動に出たトマスに、イエスさまは特別に語りかけてくださいました。このことばはまさしく、トマスが弟子たちに語ったことと同じです。トマスよ、あなたが弟子たちに言ったとおり、あなたの手をこの傷あとに差し入れてみなさい。 イエスさまはあえて、証拠がなければけっして信じようとしないトマスの目の高さまで下りて、あなたの求める通りのことをしてみなさい、とおっしゃったのでした。それは、トマスが、「信じない者ではなく、信じる者になる」ためです。そのためならば、傷あとにさわらなきゃ信じないなどという、そのあまりに厚かましい要求にだって、わたしは応えてあげよう。 みなさまも体験していらっしゃることと思いますが、ひとたび信仰から迷い出た人を再び神さまのもとに引き戻すのは、とても難しいことです。しかし、もし神さまがその人を、すでに神さまの子どもとして召しておられるならば、また、イエスさまが弟子として召しておられるならば、その人が今どんな不信仰に陥っていたとしても、イエスさまは必ず、その人の不信仰のどん底まで下りてきてくださり、その人が何によって信仰をなくしているか、ことごとく理解してくださいます。 ローマ人への手紙8章を読みますと、聖霊なる神さまは私たちのために、言いようもない深いうめきをもってとりなしてくださっている、と書かれています。そうです、私たちがまことの信仰を持てるように、聖霊さまはうめいて、うめいて、祈っていてくださるのです。 私たちはトマスを笑ったり、批判したりはできません。私たちだって、24時間365日、1秒たりとも不信仰に陥らないでいる人など、ひとりもいません。どこかでトマスのような不信仰に陥るものです。しかし、それでも私たちが信仰をまったく捨てないでイエスさまを信じていられるのは、それは主が私たちに恵みを与えてくださっているからです。いつでも神さまが目を注いでおられる存在、それが私たちです。間違っても、私は神さまに見捨てられている、などと思ってはいけません。私たちは、特別に恵みによって神さまの子どもとして選んでいただいています。そんな私たちのために、聖霊なる神さまはうめいて祈り続けてくださっています。それゆえ、私たちは神さまを信じる恵みと喜びに満たされていられるのです。 今年の教会の標語は、「信仰によって歩もう」です。今年初め、私たちは信仰を働かせてそれぞれが決心をしました。しかし、あれから3か月以上が経った現在、私たちはどれだけ信仰を働かせて、それぞれの決心を保っていますでしょうか? むしろ私たちは、不信仰に陥ったりしてはいないでしょうか? 今、不信仰に陥って苦しんでいる方々のためにお祈りします。しかし、その方が神さまに選ばれた人であるかぎり、必ずイエスさまはその方に出会ってくださり、信仰を回復してくださいます。そして、その方が不信仰に陥って苦しんでいた年月が無駄にならず、同じようにいま不信仰に陥って苦しんでいる人のために豊かに用いられるようになります……そして、信仰の守られている人はそれを当然のことと考えず、その信仰を与え続けてくださる神さまの恵みに感謝できますように……そのようにお祈りいたします。 第三のポイントです。イエスさまは、目に見ないでイエスさまを信じる者は幸いであるとおっしゃいました。 イエスさまが直接、トマスの要求に最大限寄り添うことばをかけてくださったとき、トマスはイエスさまにこう答えました。「私の主、私の神よ。」しかし、そんなトマスにイエスさまはおっしゃいました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」 一見するとイエスさまのこのみことばは、トマスにだけ語られているように見えます。けれども、よく考えていただきたいのですが、イエスさまを見たからようやく信じたのは、トマスだけではなかったはずです。ほかの弟子たちも同じでした。イエスさまの弟子たちは、もはや何年にもわたって語られていたイエスさまの復活についての教えなど、十字架によって完全に消し飛び、もはや恐れのかたまりにしかなっていませんでした。そんな彼らが信仰を回復するには、復活のイエスさまが再び出会ってくださるしかありませんでした。その意味でもトマスにかぎらず、ほかの弟子たちだって、イエスさまを見たから信じた人でした。 しかしイエスさまはやがて、この地上での生涯を終えて、天におられる父なる神さまのみもとに上らなければなりませんでした。ここから先は、イエスさまを目に見ないで信じる者たちがこの地上に神の国を形づくる時代です。天に上られたイエスさまが、この地上の主の民に送ってくださった聖霊さま……このお方、聖霊さまが、働き人を遣わされ、目に見えないイエスさまを信じるようにしてくださり、目に見えないイエスさまを宣べ伝えさせてくださるのです。 そのようにして、イエスさまを見たことはなくても信じる人たちのことを、イエスさまは、幸いである、と言ってくださるのです。そうだとすると、私たち主の教会、主の民は、どれほど幸いな存在にさせられていることでしょうか! なぜならば、復活のイエスさまを実際に目に見なければ到底使い物にならなかった弟子たちとちがって、実際にイエスさまを目に見えなくても、イエスさまを信じ、イエスさまのために働くことができている、それが私たちだからです! このことがどれほど「幸い」なことか、よく思いを巡らして、感謝していただきたいのです。ペテロの手紙第一、1章8節をお読みしましょう。……私たちがこのような状況に置かれていても喜べるのは、イエスさまを見ずに信じる信仰を与えていただいているからです。 そこで私たちは考えてみましょう。私たちはいま、イエスさまが見えなくなっていないだろうか? そのために不安に陥っていないだろうか? それはなぜなのか考えてみてください。私たちは聖書を読んだり、お祈りをしたりするよりも、この世の情報にばかり目を留めてはいませんか? インターネット、テレビ、人のうわさ話……そのようなものが私たちを救うでしょうか? 私たちにほんとうの意味での平安を与えてくれるでしょうか? むしろ私たちは、みことばを握って祈ることをしていかなければならないのではないでしょうか? それが私たちをまことの平安にとどまらせ、世に対して平安の主を宣べ伝えるべく、主に用いていただく道です。 イエスさまは私たち主の弟子が不安に陥ってしまわないよう、何度でも出会ってくださり、平和に満たしてくださいます。そして、私たちを主の弟子として選んでくださったかぎり、私たちがどんな不信仰に陥っても、必ず信仰に戻してくださいます。そんな私たちは、イエスさまを実際に見たことはなくても信じ従う、主の弟子とされた幸いな者です。どれほど感謝なことでしょうか。わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てないと約束してくださったイエスさまの愛に感謝して、いま神さまにお祈りいたしましょう。 讃美 聖歌631「罪に満てる世界」/献金 讃美歌391(お手もとにて献金を聖別してください)/頌栄 讃美歌541/祝祷

復活から派遣へ

聖書箇所;マルコの福音書16:9~20 メッセージ題目;復活から派遣へ 讃美;聖歌547 お祈り;各自お祈りしましょう。  本日は復活祭、イエスさまのご復活をお祝いする日です。ほんとうならばこの日は、盛大にお祝いしたいところでした。しかし、折からのコロナウイルス流行で、食事を囲んでのパーティもままならなくなってしまいました。私たちもいつ、集まらないという決断を下さざるを得なくなるかわかりません。ともにお祈りしてまいりたいと思います。  本日はもうひとつ、愛するファミリーを遠くに送り出さなければならない日です。さびしいのは確かです。しかし私たちはどうか、悲しみの涙を流すのではなく、新たな地で姉妹が用いられるようにという祈り心をもって、そして彼の地にてファミリーが用いられるというビジョンを、喜びをもって描いて、祝福とともに送り出したいものです。  復活と派遣。本日の箇所は、そんな私たちにとってこれ以上ないほどぴったりしたみことばではないかと思われます。ともに見てまいりましょう。  イエスさまの弟子たちは、悲しみの中にいました。私たちの愛するイエスさまは、十字架に釘づけになって死んでしまわれた! 次は自分たちにも迫害の魔の手が伸びてくるにちがいない! 弟子たちは隠れて、ぶるぶる震えていました。  しかし、この暗闇のような状況を打ち破るできごとが起こりました。それは、イエスさまが復活された、ということです。イエスさまの墓に訪れたマグダラのマリアに、復活されたイエスさまが現れました。マグダラのマリアは大喜びで、このできごとを弟子たちに知らせに行きました。しかしです、弟子たちは信じようとしませんでした。  イエスさまはまた、2人の弟子たちの前に現れてくださいました。彼らもまた、ほかの弟子たちにこのこと、イエスさまの復活を知らせました。しかし、やはりほかの弟子たちは信じませんでした。  それでイエスさまはどうなさったでしょうか? ご自身が直接、11人の弟子たちに現れてくださいました。イエスさまは彼らに対し、その不信仰とかたくなな心をお責めになりました。  私たちには不思議に思えないでしょうか? いったい、3年間も寝食をともにし、ご自身の十字架と復活をつねに聞かされてきた弟子たちが、イエスさまの復活のことを聞いても信じられなかったのでしょうか? しかし聖書は、そうだった、弟子たちは信じられなかった、それほど弟子たちはかたくなだった、と評価しています。  弟子たちはイエスさまの昇天の直前まで、最後までその信仰と態度を取り扱われる必要がありました。十二弟子にしてそうだったのです。まことに、人にとって、不信仰という問題はどれほど根深いものかということを思わされます。  しかし、こうも言うことができます。これまで弟子たちは、イエスさまという存在を直接目で見て、イエスさまのみことばを直接耳で聞ける状況にありました。しかしこれからは、もうそうはいきません。イエスさまを直接肉の眼で見ていなくても、イエスさまがともにおられるものとして生きていく必要があります。みことばを聞くということにおいてもそうです。たとえ実際目にしている世界にイエスさまがともにおられなくても、イエスさまを信じてお従いすることは、まず弟子たちから始めなければなりませんでした。そうすることであとに続くすべての聖徒が、たとえ目に見えなくても、信仰によってイエスさまにお従いすることができます。だからまず、弟子たちの不信仰さえ取り除かれれば、あとはだれにでも、復活のイエスさまを信じる信仰への道は開かれることになります。信じる上で何の妨げもなくなります。  ともかく弟子たちは、このお叱りによって変えられ、続くイエスさまのおことばによって、恐れに震えて閉じこもる思いは大きく変えられることになりました。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」そうです、復活のイエスさまに出会うならば、その人はイエスさまに、新たな地へと遣わされるのです。 しかし私たちは何も、まだ見たことのない地域や国々、それこそ地球の裏側などを思い浮かべなくてもよいのです。私たちの周りでまだイエスさまの福音を聞いたことがない人がいるならば、その人のいるその場所こそ「全世界」であり、「地の果て」です。   しかし、その人に福音を伝えようとするならば、私たちがまず、福音に生きることを喜びとしている必要があるでしょう。私たちは何をもって喜ぶのでしょうか? 復活し、今も生きておられるイエスさまによってです!  いま私たちは、このコロナウイルスの流行を思うと、とても喜べないと思えてならないかもしれません。しかし、私たちは喜んでいいのです。私たちの置かれた状況は確かに厳しいですが、その中においても、私たちと苦しみをともにし、悩みをともにしてくださるイエスさまは生きておられ、私たちの祈りに耳を傾けてくださっています。要は苦しみの中に、主がともにおられるゆえの喜びを見出すかどうかです。  私たちも状況のせいにして不満を言うことはたやすいことです。しかし、状況に目をとめていやな気持ちになるのではなく、その状況を超えてともにおられる主に目をとめ、主との交わりを保つならば、どんなに幸いなことでしょうか。この主に私たちは遣わされ、それぞれの場所に出て行くのです。  イエスさまのことばは続きます。「信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」信じる、ということは、神さまと個人的な契約を結ぶことです。永遠の神さまの子どもにしていただく契約を結ぶのです。神さまと契約を結ばせていただいたことを、私たちは、「バプテスマを受ける」という形で表明します。教会において聖徒の前でバプテスマを受け、教会というキリストのからだのひと枝に加わるのです。  しかし、バプテスマという「水に浸されること」以前に、必要なのは「信じる」ことです。イエスさまが十字架の上で私の罪のために死なれたこと、そして、三日目に死人のうちよりよみがえってくださったことを信じ受け入れるのです。  そのように信じた人には、しるしが伴うとあります。17節、18節を読むと、一見すると驚くべきことが書かれています。読んでみましょう。……このようなことがほんとうに起こるのだろうか? 半信半疑でしょうか? しかしこれは、イエスさまの十字架と復活を信じ、ゆえにイエスさまに全世界に遣わされた人に伴うしるしであるという前提で読むべきです。  悪霊を追い出し、とありますが、悪霊は人がイエスさまを信じることをありとあらゆる形で妨害します。しかし、主のみことばを語る人は、この悪霊の妨げに、信仰によって打ち勝つのです。  新しいことば、それは、福音のことばです。罪人の私を神さまが恵みによって救ってくださったこと、あなたも信じれば救われる、ということです。主の復活を体験した人は、この新しいことば、福音のことばを語ります。  その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます……これは、文字通りにそのとおりにせよ、と勧めているのではありません。これも、私たちにとっての宣教とは何かという文脈で考えるべきことです。 私たちにとって、みことばをその身をもって宣べ伝える普段の生活において、蛇、すなわちサタンの存在や、毒、すなわちサタンの攻撃にさいなまれることはあるものです。しかし、その影響を受けたままでいることはありません。なぜならば、私たちとともにおられるイエスさまは、サタンなど足元にも及ばないほど強いお方だからです。私たちのうちにおられるイエスさまの力で、私たちはサタンに打ち勝てるのです。   そして、病人に手を置けば癒やされる、とありますが、これも、福音宣教という文脈で、病人ないしは病というものを定義しなおす必要があります。私たちの場合、何が癒されるべき病なのでしょうか? それは、父なる神さまとの関係が絶たれ、たましいが病んでいる、死んでいる状態にあるということです。しかし、イエスさまを信じて、神さまとの関係が結びなおされるならば、その人は生きるのです。永遠のいのちに生かされるのです。私たちが人々に語るのはこの希望の福音です。福音こそ、死に至る病の中にあるたましいを癒し、救うことができます。イエスさまの復活を信じる私たちは、その大事な働きのために、主に用いていただけるという特権が与えられています。  そうです。福音を語り告げることは、イエスさまが私たちのために復活してくださったことと密接な関係があります。復活は、死をも地獄をも打ち破る力です。私たちは、復活のイエスさまに出会ったならば、心燃やされ、イエスさまを伝えずにはいられなくなるはずです。  主は、私たちがそこまで燃えることを願っていらっしゃいます。主が私たちに復活の信仰を与えてくださったのは、私たちのことを、この地に福音を宣べ伝える使者、アンバサダーとして遣わしてくださるためでした。私たちさえ満足してそれで終わりではいけません。  考えてみましょう。主は私たちにどれほど、ご自身の夢を託してくださったことでしょうか? ごらん、あなたの前に広がるこの世界は、わたしが愛している人に満ちている。この世界に住む人々を、わたしのもとに連れ帰ってきてほしい。この働きは、あなたじゃなければできないのだよ。さあ、行っておくれ。……私たちにこの御声が聞こえますか? 聞こえたら、主よ、私がここにおります。私を遣わしてください、そう言ってお応えしましょう。私たちひとりひとりは、人を救うという主の大いなる夢が託された、大事な存在です。  このたび私たちにとって大事なファミリーを遠くの地に送り出すことは、なによりも、その地に住む人々を主のもとに導くという大いなる使命のために、主が遣わされたということです。いつまでも寂しがっている場合ではありません。しかしそれと同時に、私たちは覚えておきましょう。私たちひとりひとりもみな、主によって遣わされています。それぞれの職場に、学校に、家庭に、地域社会に……私たちは日々、復活のイエスさまに出会い、復活のイエスさまと交わり、復活のイエスさまに力づけられ、復活のイエスさまに遣わされてそれぞれの地に出て行くのです。イエスさまは遣わしてくださった先々でも、私たちと一緒にいてくださいます。  私たちは復活を喜びましょう。そして、主の復活を語り告げましょう。私たちは復活の信仰をもって、遣わされます。私たちが遣わされた先々には、サタンに打ち勝つ数々のしるしが現れ、人々を救いに導くために用いられると信じていただきたいのです。今、新型コロナウイルスの流行は、人々を不安に陥れていますが、私たちはそのような世界に、復活のイエスさまを宣べ伝え、人々を永遠のいのちに、変わることのない平安に導くのです。私たち自身を、主の御手にゆだねる祈りをいたしましょう。主よ、私たちに復活の力を味わわせてください! そして主よ、私がここにおります。私をお用いください。遣わしてください!  では、お祈りいたしましょう。