復活から派遣へ

聖書箇所;マルコの福音書16:9~20 メッセージ題目;復活から派遣へ 讃美;聖歌547 お祈り;各自お祈りしましょう。  本日は復活祭、イエスさまのご復活をお祝いする日です。ほんとうならばこの日は、盛大にお祝いしたいところでした。しかし、折からのコロナウイルス流行で、食事を囲んでのパーティもままならなくなってしまいました。私たちもいつ、集まらないという決断を下さざるを得なくなるかわかりません。ともにお祈りしてまいりたいと思います。  本日はもうひとつ、愛するファミリーを遠くに送り出さなければならない日です。さびしいのは確かです。しかし私たちはどうか、悲しみの涙を流すのではなく、新たな地で姉妹が用いられるようにという祈り心をもって、そして彼の地にてファミリーが用いられるというビジョンを、喜びをもって描いて、祝福とともに送り出したいものです。  復活と派遣。本日の箇所は、そんな私たちにとってこれ以上ないほどぴったりしたみことばではないかと思われます。ともに見てまいりましょう。  イエスさまの弟子たちは、悲しみの中にいました。私たちの愛するイエスさまは、十字架に釘づけになって死んでしまわれた! 次は自分たちにも迫害の魔の手が伸びてくるにちがいない! 弟子たちは隠れて、ぶるぶる震えていました。  しかし、この暗闇のような状況を打ち破るできごとが起こりました。それは、イエスさまが復活された、ということです。イエスさまの墓に訪れたマグダラのマリアに、復活されたイエスさまが現れました。マグダラのマリアは大喜びで、このできごとを弟子たちに知らせに行きました。しかしです、弟子たちは信じようとしませんでした。  イエスさまはまた、2人の弟子たちの前に現れてくださいました。彼らもまた、ほかの弟子たちにこのこと、イエスさまの復活を知らせました。しかし、やはりほかの弟子たちは信じませんでした。  それでイエスさまはどうなさったでしょうか? ご自身が直接、11人の弟子たちに現れてくださいました。イエスさまは彼らに対し、その不信仰とかたくなな心をお責めになりました。  私たちには不思議に思えないでしょうか? いったい、3年間も寝食をともにし、ご自身の十字架と復活をつねに聞かされてきた弟子たちが、イエスさまの復活のことを聞いても信じられなかったのでしょうか? しかし聖書は、そうだった、弟子たちは信じられなかった、それほど弟子たちはかたくなだった、と評価しています。  弟子たちはイエスさまの昇天の直前まで、最後までその信仰と態度を取り扱われる必要がありました。十二弟子にしてそうだったのです。まことに、人にとって、不信仰という問題はどれほど根深いものかということを思わされます。  しかし、こうも言うことができます。これまで弟子たちは、イエスさまという存在を直接目で見て、イエスさまのみことばを直接耳で聞ける状況にありました。しかしこれからは、もうそうはいきません。イエスさまを直接肉の眼で見ていなくても、イエスさまがともにおられるものとして生きていく必要があります。みことばを聞くということにおいてもそうです。たとえ実際目にしている世界にイエスさまがともにおられなくても、イエスさまを信じてお従いすることは、まず弟子たちから始めなければなりませんでした。そうすることであとに続くすべての聖徒が、たとえ目に見えなくても、信仰によってイエスさまにお従いすることができます。だからまず、弟子たちの不信仰さえ取り除かれれば、あとはだれにでも、復活のイエスさまを信じる信仰への道は開かれることになります。信じる上で何の妨げもなくなります。  ともかく弟子たちは、このお叱りによって変えられ、続くイエスさまのおことばによって、恐れに震えて閉じこもる思いは大きく変えられることになりました。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」そうです、復活のイエスさまに出会うならば、その人はイエスさまに、新たな地へと遣わされるのです。 しかし私たちは何も、まだ見たことのない地域や国々、それこそ地球の裏側などを思い浮かべなくてもよいのです。私たちの周りでまだイエスさまの福音を聞いたことがない人がいるならば、その人のいるその場所こそ「全世界」であり、「地の果て」です。   しかし、その人に福音を伝えようとするならば、私たちがまず、福音に生きることを喜びとしている必要があるでしょう。私たちは何をもって喜ぶのでしょうか? 復活し、今も生きておられるイエスさまによってです!  いま私たちは、このコロナウイルスの流行を思うと、とても喜べないと思えてならないかもしれません。しかし、私たちは喜んでいいのです。私たちの置かれた状況は確かに厳しいですが、その中においても、私たちと苦しみをともにし、悩みをともにしてくださるイエスさまは生きておられ、私たちの祈りに耳を傾けてくださっています。要は苦しみの中に、主がともにおられるゆえの喜びを見出すかどうかです。  私たちも状況のせいにして不満を言うことはたやすいことです。しかし、状況に目をとめていやな気持ちになるのではなく、その状況を超えてともにおられる主に目をとめ、主との交わりを保つならば、どんなに幸いなことでしょうか。この主に私たちは遣わされ、それぞれの場所に出て行くのです。  イエスさまのことばは続きます。「信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」信じる、ということは、神さまと個人的な契約を結ぶことです。永遠の神さまの子どもにしていただく契約を結ぶのです。神さまと契約を結ばせていただいたことを、私たちは、「バプテスマを受ける」という形で表明します。教会において聖徒の前でバプテスマを受け、教会というキリストのからだのひと枝に加わるのです。  しかし、バプテスマという「水に浸されること」以前に、必要なのは「信じる」ことです。イエスさまが十字架の上で私の罪のために死なれたこと、そして、三日目に死人のうちよりよみがえってくださったことを信じ受け入れるのです。  そのように信じた人には、しるしが伴うとあります。17節、18節を読むと、一見すると驚くべきことが書かれています。読んでみましょう。……このようなことがほんとうに起こるのだろうか? 半信半疑でしょうか? しかしこれは、イエスさまの十字架と復活を信じ、ゆえにイエスさまに全世界に遣わされた人に伴うしるしであるという前提で読むべきです。  悪霊を追い出し、とありますが、悪霊は人がイエスさまを信じることをありとあらゆる形で妨害します。しかし、主のみことばを語る人は、この悪霊の妨げに、信仰によって打ち勝つのです。  新しいことば、それは、福音のことばです。罪人の私を神さまが恵みによって救ってくださったこと、あなたも信じれば救われる、ということです。主の復活を体験した人は、この新しいことば、福音のことばを語ります。  その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます……これは、文字通りにそのとおりにせよ、と勧めているのではありません。これも、私たちにとっての宣教とは何かという文脈で考えるべきことです。 私たちにとって、みことばをその身をもって宣べ伝える普段の生活において、蛇、すなわちサタンの存在や、毒、すなわちサタンの攻撃にさいなまれることはあるものです。しかし、その影響を受けたままでいることはありません。なぜならば、私たちとともにおられるイエスさまは、サタンなど足元にも及ばないほど強いお方だからです。私たちのうちにおられるイエスさまの力で、私たちはサタンに打ち勝てるのです。   そして、病人に手を置けば癒やされる、とありますが、これも、福音宣教という文脈で、病人ないしは病というものを定義しなおす必要があります。私たちの場合、何が癒されるべき病なのでしょうか? それは、父なる神さまとの関係が絶たれ、たましいが病んでいる、死んでいる状態にあるということです。しかし、イエスさまを信じて、神さまとの関係が結びなおされるならば、その人は生きるのです。永遠のいのちに生かされるのです。私たちが人々に語るのはこの希望の福音です。福音こそ、死に至る病の中にあるたましいを癒し、救うことができます。イエスさまの復活を信じる私たちは、その大事な働きのために、主に用いていただけるという特権が与えられています。  そうです。福音を語り告げることは、イエスさまが私たちのために復活してくださったことと密接な関係があります。復活は、死をも地獄をも打ち破る力です。私たちは、復活のイエスさまに出会ったならば、心燃やされ、イエスさまを伝えずにはいられなくなるはずです。  主は、私たちがそこまで燃えることを願っていらっしゃいます。主が私たちに復活の信仰を与えてくださったのは、私たちのことを、この地に福音を宣べ伝える使者、アンバサダーとして遣わしてくださるためでした。私たちさえ満足してそれで終わりではいけません。  考えてみましょう。主は私たちにどれほど、ご自身の夢を託してくださったことでしょうか? ごらん、あなたの前に広がるこの世界は、わたしが愛している人に満ちている。この世界に住む人々を、わたしのもとに連れ帰ってきてほしい。この働きは、あなたじゃなければできないのだよ。さあ、行っておくれ。……私たちにこの御声が聞こえますか? 聞こえたら、主よ、私がここにおります。私を遣わしてください、そう言ってお応えしましょう。私たちひとりひとりは、人を救うという主の大いなる夢が託された、大事な存在です。  このたび私たちにとって大事なファミリーを遠くの地に送り出すことは、なによりも、その地に住む人々を主のもとに導くという大いなる使命のために、主が遣わされたということです。いつまでも寂しがっている場合ではありません。しかしそれと同時に、私たちは覚えておきましょう。私たちひとりひとりもみな、主によって遣わされています。それぞれの職場に、学校に、家庭に、地域社会に……私たちは日々、復活のイエスさまに出会い、復活のイエスさまと交わり、復活のイエスさまに力づけられ、復活のイエスさまに遣わされてそれぞれの地に出て行くのです。イエスさまは遣わしてくださった先々でも、私たちと一緒にいてくださいます。  私たちは復活を喜びましょう。そして、主の復活を語り告げましょう。私たちは復活の信仰をもって、遣わされます。私たちが遣わされた先々には、サタンに打ち勝つ数々のしるしが現れ、人々を救いに導くために用いられると信じていただきたいのです。今、新型コロナウイルスの流行は、人々を不安に陥れていますが、私たちはそのような世界に、復活のイエスさまを宣べ伝え、人々を永遠のいのちに、変わることのない平安に導くのです。私たち自身を、主の御手にゆだねる祈りをいたしましょう。主よ、私たちに復活の力を味わわせてください! そして主よ、私がここにおります。私をお用いください。遣わしてください!  では、お祈りいたしましょう。