「祈りの向こうにある祝福」

招詞 詩篇126篇/祈り/使徒信条/交読 詩篇51篇/主の祈り/讃美歌338/聖書朗読 申命記3章23節~28節 メッセージ題:「祈りの向こうにある祝福」 もし、うちにある日、こんな招待状が届いたとします。東京の方にある、ネズミさんの遊園地です。「おめでとうございます! あなたはこのたび、当園の、特別ディナーショーの特等席に当選しました。ご家族みなさまでお越しください。」封筒には、家族4人分の入場券、ディナーショーのお食事券、遊園地の隣のホテルの宿泊券、水戸から東京までの往復のバスの切符が入っていて、何月何日という日付も印刷してあります。もちろん休日で、学校も教会もありません。ああ、キャンペーンに応募してよかった! ところが、子どもたちがこう言ったとしたらどうでしょうか。「行きたくない! めんどくさい! うちでカップ麺食べて、テレビ見てる!」何度説得しても、言うことを聞いてくれません。そして当日……チケットはよそにやって、うちではテレビにカップ麺……。想像するだけでもいやな世界です。でも、私たちはけっこう、同じことをしているのです。神さまにお祈りするとき。神さまは私たちに、もっともっと、すばらしいものをくださろうとしてるのに、私たちの側で、ちっちゃなちっちゃなことしか祈らない、祈ろうとしない……これでいいのか、ということです。 その点、むかしの人のお祈りは豪快でした。ジョージ・ミューラー、彼は5万回もお祈りが応えられたといいます。でも、それはむかしの、特別な人だけのことでしょうか? いいえ、現代の日本の私たちも、お祈りは立派に応えられます。ようは、私たちがみこころにかなうお祈りを、いつでも、大胆にささげているかどうかです。 ただし、私たちはしばしば、祈っているはずのことが叶えられそうになくて、戸惑うことがあります。なんで! こんなに一生懸命祈っているのに! まちがいなくみこころなのに! みことばも与えられているのに! お祈りが応えられないことほど、つらいことはありません。私にも何度もそういうことがありました。そんなとき、いやー、お祈りが応えられなかったのは、それはみこころじゃなかったんだよ、ってなれるほど、私は悟りきっているわけではありません。だれだってそうだと思います。 そんなとき、私たちの祈りを超えた神さまのみこころに気づくことができたとすれば、どんなに素晴らしいことでしょうか。もちろん、それは簡単なことではありません。現実に苦しみの中にいるとすれば、なおさらのことです。それでも……神さまがその苦しみの中でもさらに大きなみこころを示され、平安を与えてくださるとすれば……。 いま、私たちはだれもが、コロナウイルスの災厄を取り去ってくださいと祈っています。たしかに茨城は、緊急事態宣言は解除となりました。しかし、だからといって、コロナの脅威まで去ったわけではありません。このようなとき、神さまは私たちの祈りを超える、どのようなみこころをお持ちなのかと思わされます。今日の本文をもとに、そのあたりのことをともに考えてまいりたいと思います。 先週、ギデオンの祈りについて私たちは学びました。そのとき、神さまを試みる罪についても触れました。モーセとイスラエルの民との間に起こったできごとです。出エジプトの途上、荒野において、イスラエルは叫びました。「水をくれ! 神さまはわれわれを死なせるつもりか!」そのとき、神さまはモーセに命じ、岩から水を湧き出させる奇蹟を起こされました。これは神さまのあわれみによることでした。しかし同時に、この水の湧き出た場所は、「マサ」と名づけられました。「神さまを試みた」という意味です。不名誉な名前です。そして、それだけでなく、「メリバ」とも名づけられました。「神さまと争った」という意味です。やはり不名誉です。悪い意味での記念です。 これに懲りて、イスラエルはもう、神さまを試みて、神さまと争うような真似はやめるべきでした。それなのに、イスラエルはまた、神さまに反抗しました。今度も水です。もうひとつの「メリバ」が起こったのです。 詳しくは民数記20章のみことばをお読みいただきたいと思いますが、そのときその地には、水がありませんでした。またもやイスラエルは、前にメリバで不平を鳴らしたのと同じようなことを言って、モーセに迫りました。水がない! 死ぬ! モーセとアロンよ、あなたがたが荒野にわれわれを導いたのは、われわれを死なせるためか! 進退窮まったモーセとアロンは、神さまの前に出て、神さまのお告げを聞きます。杖を取れ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。 しかしこのときモーセとアロンは、身勝手な民に対する怒りのあまり、前後不覚に陥っていました。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から、われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」モーセはそう言って手を挙げ、彼の杖で岩を二度打ちました。すると岩から、豊かな水がわき出ました。 だが、このことは、神さまのあわれみのみわざであった一方で、モーセにとっては一生の不覚ともいえることでした。主はおっしゃいました。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」 みなさん、これをお読みになって、神さまはあんまりなお方だ、とお思いになりますでしょうか? 悪いのはイスラエルだ! モーセが何をしたんだ! そう思いますか? しかし、よくお読みください。モーセは、神さまに従順でありさえすればよかっただけのことです。なにもせずに、単に、岩に「水を出せ」と、ことばで命じれば、水は出たのです。それが神さまの方法でした。それなのにモーセは、岩に命じる前に民に向かって、われわれが水を出さなければならないのか、と宣告し、怒りを言い表しています。そればかりか、杖で岩を打ちました。一度で水が出ないので、もう一度、合計二度。しかし、モーセのこの言動は、イスラエルを戒めること以上に、神さまに対する不信仰と不従順を民の前に堂々と示すという点で、大きな問題がありました。神さまが、「わたしが聖であることをあなたは現さなかった」とお叱りになったとおりです。 どういうことかといいますと、出エジプトの旅程の間中、反抗と反逆を重ねるイスラエルの民に、モーセはほとほと疲れ果てていました。折しも、姉のミリアムが亡くなったばかりで、悲しみと虚無感も抱いていたことでしょう。もしかすると、カナン入城を前にしてミリアムのいのちを取り去った神さまのみこころをはかりかねて、ちょっとした不信仰に陥っていたかもしれません。そこへもってきて、この水騒動です。お水を飲めないで苦しいのは、モーセも同じです。モーセの中で何かがぶち切れたとしても、おかしくありませんでした。 しかし残念ですが、モーセのこの怒りは、新約聖書・ヤコブの手紙に書いてあるとおりの、人の怒り、神の義を実現しない怒りです。モーセが神の御前から去り、イスラエルの会衆の前に行くと、相変わらず、不平不満を顔に表した連中ばかりです。モーセに見えているのは、きよい神さまではありません。罪深い人間の罪深い顔、顔、顔……。モーセは、自分が何者かを見失いました。神のしもべとしてこの民を導く、ゆえに神と人の前に謙遜であろうとすることよりも、こんなかたくなな連中のリーダーに祭り上げられていることに、なかば怒りのようなものを覚えていました。しかしそれ以上に、こんな民のことをそれでも、ご自身の民として、ご自分のひとみのように守って愛してくださる神さまのみこころを、すっかり見失っていました。神さまはこの民をあわれんでいました。水をもって潤してあげよう、そのようにみこころに決めておられました。だがモーセにはあわれみのかけらもなく、神さまのみこころに不従順にも、岩にことばで命じず、怒りに任せて民に語り、岩を二度も打ちました。 たしかにそれで、水は湧き出ました。しかしそれは、モーセが神さまの言うとおりにしたからでしょうか。そうではありません。神さまが民をあわれんでくださったからです。それで、たとえモーセが不従順の言動に出ても、水を飲ませてくださったのです。その代わりモーセは、神さまのきついお仕置きを受けることになりました。 とはいえ神さまは、モーセの霊的権威、リーダーシップまで剥奪されたわけではありませんでした。モーセが岩を打てば水がわき出た、このできごとによって、民はあらためて、神さまがこのような権限をモーセにお与えになったことを恐れ、今まで以上に、民はモーセに従うようになったはずです。 <後半につづく> モーセにはビジョンがありました。乳と蜜の流れる地、カナンにイスラエルの民を導き入れる、ということです。そのビジョンがあったからこそ、いつ果てるとも知れない苦難の荒野生活も、耐え抜くことができたわけです。だが神さまは、イスラエルのリーダーという役割は残される一方で、カナンに導く働きまではモーセに残してはおかれなかったのでした。 モーセは、この二度目のメリバのことを、どんなに悔い改めたことでしょう。だが神さまは、みこころを変えられることはありませんでした。そこで、さきほどお読みした、申命記のみことばです。24節、モーセは、偉大なる神さまの、その偉大なる御業によって特別に選ばれた神のしもべというアイデンティティがありました。自分に対する主の特別なみこころ、使命を受け取っていたのです。それがあったからこそ、出エジプトの旅程にて、どんなに苦しくても耐え抜き、頑迷なイスラエルの民を導きつづけることができたのでした。まことに、神さまとの出会い、そして神さまからの召命は、人を支えます。 しかし、ときに神さまは、その神の人のあり方に限界を加えられます。モーセはカナンに入れてくださいと切望しました。しかし、神さまはその祈りを聞き入れてはくださいませんでした。もう、二度と祈るなとさえおっしゃいました。 26節を見てみますと、「主はあなたがたのゆえに私に激しく怒り」とあります。これはもちろん、イスラエルの不平不満がモーセの怒りを引き起こし、結果として神さまを怒らせた、という意味もあります。しかしほかにも解釈できます。それは、神の怒りを引き起こすイスラエルの民の全体の代表として、モーセが神のその怒りを一身に受けた、ということです。 その結果モーセに下されたのが、民もろとも、カナンの地に入れていただけなかった、という、神さまのお取り扱いでした。 そもそも、出エジプトを果たしたイスラエルの第一世代で、カナン入城を果たせたのは、ヨシュアとカレブだけでした。それ以外はみな、荒野に斃(たお)れました。みんな、不信仰のゆえだったとユダ書5節のみことばは語ります。その不信仰の民の中に、モーセも含まれるのです。かわいそうな気もしますが、それはしかたのないことだったのです。 民のために祈るということは、民と無関係の立場に自分を置いて、高みの見物のように、上から目線で祈ることではありません。自分もその一人として、民と同じ立場になって、祈るのです。民の罪、民の痛み、民の苦しみ……みんな自分の身に背負って、祈るのです。いいえ、というよりも、みんな自分のことだから、祈るのです。わかりますか? モーセは確かに、神さまと顔と顔を合わせて語る特別な神の人でした。アロンと言えど、モーセのような特別な立場にはなれませんでした。そんなモーセでも、神さまのさだめられた限界からは自由ではありえなくて、荒野でいのちが取り去られる一人とされました。 考えてみましょう。ただでさえ特別だったモーセが、それ以上に、不信仰に対する懲らしめ、カナンに入らせていただけないというお仕置きを、お祈り一つで撤回していただくほど特別な存在だったならば、いったい、人の救いはどこにあるのでしょうか? 神さまはモーセだけをえこひいきなさって、あとの民は罪にしたがってさばかれるのだとすれば、いったいだれが救われるというのでしょうか? しかし、神さまは公平なお方です。不信仰の罪にふさわしいお取り扱いをなさるという点では、モーセにしても、民にしても、同じことでした。 ではそれなら、モーセは「さばきを受けた」わけでしょうか? そうではありません。モーセはピスガの頂において、神さまから何を見せられるのでしょうか? カナンです。しかし、神さまのみこころは、モーセをこの目の前に広がるカナンの地に入れることではなく、ヨシュアによってイスラエルを導かせ、カナンに入れることでした。こうして、イスラエルがカナンに入城するという、神さまのビジョンは果たされるのでした。みこころはなるのです。ただ、みこころがなることに、モーセが用いられないだけです。 しかし、そんなモーセはどこに行くのでしょうか? 天国です! カナンだって乳と蜜の流れる素晴らしい場所ですが、天国ははっきり言って、カナンとは比べ物にならないほどすばらしい場所です。モーセ、よくやった、あなたはわたしと民に対し、よい忠実なしもべだった、ごくろうさま、あなたの働きはこれで終わりだ、わたしはあとのことを、忠実なしもべヨシュアに任せよう、さあ、ゆっくり休むがよい。 しかし、民を40年にわたって荒野にて導いたモーセの歩みは、死んでバトンタッチして、それで終わりのむなしいものではありませんでした、その40年の歩みは、出エジプト記から申命記まで、実に120章以上にもわたって記録された膨大なもので、その記録を読むとき、私たちはこの民のように頑なにならず、信仰によって神さまに従順になるように、ということを、立体的に、具体的に学ぶのです。そうです、モーセの歩みはのちの世代のためのものです。モーセの生涯はヨシュアにバトンタッチすることで果てましたが、さらには、モーセ以降のすべての信仰者のため、そう、私たちのための生涯です。神さまはモーセによって、どれほど多くの神の民を生かし、養ってくださったことでしょうか! 私たちは主のみこころがなることを願うでしょう。そして、主のみこころが成し遂げられたとします。しかしそのとき、私たちは、自分の思っていたとおりに事が運ばなくて、不平不満を言ったりしたくなるようなことはないでしょうか? イエスさまについて、ひとつだけつけ加えたいと思います。十字架とは、イエスさまにとっても、あまりに耐えがたいことでした。イエスさまは血の汗を流して、この杯を私から過ぎ去らせてください、と、何度も天のお父さまにお祈りされました。……しかし、考えていただきたいのです。もしあのとき、イエスさまの祈りを天のお父さまがお聞きになったとしたら、どうなったでしょうか。もちろん、天のお父さまにできないことはないので、そのお祈りをお聞きになることもおできになるお方です。しかし、そうなったら……だれひとり救われる人はいません。イエスさまが私たち人間の罪という罪を、ことごとく十字架で負ってくださるという御父のみこころを成し遂げてくださったゆえに、イエスさまを信じるすべての人は救われ、神の国、神のご支配、神のご栄光は実現したのです。私たちも救われ、永遠のいのちをいただき、天国に入れていただくことができたのです。こんなことを被造物なる人間が言う資格などありませんが、イエスさまのお祈りを御父が聞かれなかったゆえに、すばらしいみわざが実現したのでした。 私たちもいろいろなことを祈ります。しかし、神さまのみこころは、私たちのお祈りの向こうにあるものです。それはどんな形を取るにしても、すべては祝福です。神さまが私たちのことを愛してくださっているからです。もしかすると私たちの連ねる祈りのことばは、あまりにちっぽけなものにすぎないのかもしれません。ゆうゆうと大きなみこころにゆだねたっていいのではないでしょうか? 神さまは私たちがいま思い描いているよりも、はるかに大きなお方で、はるかに私たちのことを気にかけてくださっているお方です。 祈りましょう。私たちはいま、何を祈っていますでしょうか? 私たちを心配してくださり、私たちにとっていちばんよいもので満たしてくださる神さまにゆだねましょう。 祈祷/聖歌462/献金 讃美歌391/祈祷/頌栄 讃美歌541/祝祷/後奏