危機の祈りは平時の祈りから

詩篇122篇/祈り/使徒信条/交読 詩篇47篇/主の祈り/讃美 讃美歌495 聖書箇所;詩篇34篇1節~22節 メッセージ題目;危機の祈りは平時の祈りから 新型コロナウイルス流行は、教会の在り方を変えてしまいました。何よりも、一緒に集まることをやめたりしないで、かえって励ましあい、かの日、すなわち主の再臨が近づいているのを見て、ますますともに集まり励ましあいましょう、という、へブル10章25節の主のご命令に、教会が従えなくなってしまった、ということです。使徒信条で告白している「聖徒の交わり」、これが持てなくなった教会の受けたダメージは、そうとうに大きなものがあります。 コロナウイルスの流行という世界の危機は、東日本大震災という、やはり日本を襲った危機と比べてみると、その恐ろしさが際立っています。東日本大震災でも多くの人のいのちが奪われ、破壊的な被害をもたらしましたが、それでも人々はボランティア活動などを通して一緒になってこの問題に立ち向かうなど、連帯が生まれました。「絆」ということばが流行したとおりです。しかし、このたびのコロナウイルス流行は、その人として持つべき、人と人との「絆」を断ち切るものとなりました。目の前の人に感染させるかもしれない、逆に、感染させられるかもしれない、だれのこともそのように思って、おちおち会話することもできない、出かけることもできない、そんな事態が今まであったでしょうか? このようなとき、私たちのできることは何だろうか……祈っているうちに与えられたのが、今日の本文です。そうだ、聖徒の交わりを持てないと嘆くのではなく、神さまとの交わりを持つべきではないだろうか! そこで、今日の本文から祈りについて学びたいと思います。 今日の本文、詩篇34篇はダビデの祈りの告白です。今日は特に、やや長い本文のうち、7節までを中心に学びたいと思います。 まずはタイトルをご覧ください。これは、サムエル記第一の21章にて、サウル王から逃れたダビデがガテの王アキシュのもとに落ち延びたとき、家来が、この男は「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と歌われた、あのダビデではないですか、と王に注進しました。本来ならばダビデは、そうです、その私があなたのもとに助太刀にまいりました、と、自分をアピールして、ちゃっかりガテの軍隊に加わってもよさそうなものでした。しかし、今ダビデは恐れに取りつかれていました。サウルという名前を聞いただけで震え上がるような心境にいました。 それでダビデは、早くここから逃げなければ、と思い、一計を案じて、気がおかしくなったふりをしました。門の扉に傷をつけたり、ひげによだれを垂らしたりしました。なぜこんな奴を連れてきた……アキシュは呆れ、結局ダビデは追い出され、事なきを得ました。この詩篇34篇はそのできごとの後に生まれたものだと、題名で明かされています。 ダビデはこの行動によりいのちは守れましたが、未来の王としての尊厳など、あったものではありませんでした。みっともない姿をさらした……見ようによっては、これはイスラエルの偉大な王さまダビデの「黒歴史」ともいうべきものです。「黒歴史」……思い出したくない歴史というものは、だれにでもあるものでしょう。それが何かの拍子に脳裏をかすめると、気がおかしくなりそうな、あの行動。私にもたくさんあります。ダビデは、まさにその最悪な事態のただ中にありました。 しかし、このおかしな行動のゆえにダビデが屈辱に打ち沈んだ、とか、自己憐憫に陥ったというような記述は、聖書のどこを探してもありません。むしろ、この詩篇は何を語っていますでしょうか?「私はあらゆるときに/主をほめたたえる。/私の口には/いつも主への賛美がある。」嘆きや自己憐憫ではありません。賛美です。 ダビデは、わが身を守るためとはいえ、神の民なるイスラエルの王となる人物にあるまじき行動を取ったことに変わりはありません。しかし、ダビデがそのようなおかしな行動をしたことは、結局はダビデのいのちを救いました。神さまが守ってくださったのです。 そんなダビデの恥を覆ったものは何でしょうか? 神さまへの賛美です。では、ダビデはその賛美を、どのようなときにささげると言っていますか?「あらゆるときに」「いつも」……そうです、ダビデは今、いのちの危機から脱したということへの感謝の祈り、また逆に言えば、いのちの危機から脱したものの、人前でとんでもなく恥ずかしい行動に出たという事実、しかし、それをもってしても消すことのできない賛美と感謝をささげています。 このような最悪なときにも賛美と感謝が絶えないのはなぜでしょうか? それはダビデが、普段から賛美と感謝を主におささげすることが身についていたからです。詩篇をお読みになるとわかりますが、多くはダビデによるもので、ダビデがいかにして、神さまの御前に祈りをささげていたかを知ることができます。時には激烈な表現さえも用いて、敵がどんなに悪い存在なのかを表現したり、敵がさばかれることを祈ったりしています。そこには、いかにも達観したような取り澄ました態度は見られません。この、詩篇に現れたダビデの祈りを目にすると、これぞ「祈りの達人」という印象を受けます。取り澄ました表現ややたらと文学的な表現を多用するのが達人なのではありません。 4節から7節をお読みしましょう。……主はどのようなお方でしょうか? すべての恐怖から救い出してくださるお方、すべての苦難から救い出してくださるお方、主の使いによって助け出してくださるお方です。ダビデもそうであったように、主の子どもたちも恐怖に陥ります。しかし主は、どんな恐怖からも救い出してくださるのです。 敵の前、異邦人の前で醜態を見せる、ダビデは最悪の状態にありました。しかし、5節のみことばをご覧ください。彼は「辱められていない」のです。なぜなら、主を仰ぎ見て輝いているからです。主の光は、恥と屈辱に歪む顔を、恐怖に歪む顔を、その表情もわからないほどに照らし、主のご栄光に変えてしまうのです。 私たちも今、コロナウイルス流行という恐怖に置かれています。しかし、ダビデをあらゆる恐怖から助け出してくださった主は、私たちのことを助け出してくださいます。恐怖に歪む顔は、主の光に照らされるのです。いえ、それだけではありません。私たちは主を呼び求めると、助け出していただけるのです。信じますか。 この信仰を養うことが、いま私たちに必要とされていることです。私たちはいろいろな情報に囲まれていて、その数々の情報に耳を傾けてばかりいると、翻弄され、何が正しいかわからなくなります。そればかり見ていると、私たちはどんなに怖ろしくなるでしょうか。また、不安になるでしょうか。しかし、幸いなことに、私たちは主を呼び求めるならば平安が与えられます。それは、主ご自身が助け出してくださるということです。 私たちがもし、普段からあらゆる場合に、そしていつも賛美の祈りをささげることを忘れないでいるならば、「いざというときに」私たちは、祈りをもって主の御前に出ていくことができます。今はまだ、コロナウイルスは私たちの身の周りにまで及んでいないかもしれません。しかし、もしかすると、私たちは予期せぬような危機に瀕することもあるかもしれません。それこそ、いざというとき、が私たちに臨むのです。そうなる前に、私たちは備えておく必要があります。 私たちは、祈らなければ、と思っていても、なかなか祈れない自分の現実に気づき、落ち込んだりするかもしれません。しかし、お祈りをしているかどうかということは、クリスチャンとして優秀かそうでないかのバロメーターのようなものではありません。お祈りできていないからと、自分はだめなクリスチャンなどと、自分をさばかないでいただきたいのです。そんなことをしたら、それこそサタンの思うつぼです。私たちがすることは、自分をさばいて落ち込むことではありません。「だからこそ」主の御前に出ていくことです。祈れない姿そのままに、主の御前に出ていくのです。そんなことができるのでしょうか? できるのです! むかし読んだ信仰書籍の中に、絶えず祈るためのヒントが書かれていました。それは祈る際に、短いことばで祈るのです。一息で繰り返せる短い文章や短い句を選びます。短いみことばを引用してもいいです。それを、できるだけ頻繁に祈るのです。そうすることによって、心に祈りとみことばが深く根づくようになります。私はこれを「ツイッターの祈り」と呼んでいます。この「ツイッターの祈り」の積み重ねは、やがて祈りを介した神さまとのたえざる交わりへと発展していきます。 私たちの心の中には、祈らなければという切なる思いがあります。ローマ人への手紙8章26節にありますとおり、御霊なる神さまが私たちのために言いようもない深いうめきをもってとりなしていてくださるので、私たちの霊もその御霊のとりなしに共鳴して、祈らなければ、という思いになるのです。問題はその祈りが、ことばにならないことです。 それは言ってみれば、ふたをされている状態です。世の常識ですとか、私たちのみこころにかなわない習慣ですとか、そういったことが、ふたをしているわけです。私たちはですから、何によって祈れていないかを聖霊なる神さまの導きの中で見極めて、正直に告白する必要があります。そこから、祈りの生活は始まるのです。 例に挙げたいのが、水道管と蛇口です。しばらくひねっていない蛇口からは、赤さびで汚くなった水がしばらく出ます。しかし、その水が汚いからと、また蛇口を閉めてしまうならば、水道管の中の水は汚いままです。どうすればいいのでしょうか? 蛇口を開ければいいのです。蛇口を開け放って、汚い水を全部出してやれば、きれいな水が出てきます。その水は飲めますし、料理にも使えます。 同じように、私たちは自分の中の祈りたい思いを、少しでもことばにして開放する必要があります。とにかく、どんなことばでもいいです、祈ってみることです。個人でささげる祈りのことばはだれも聞いていません。だれに聞いてもらう必要もありません。何でもいいですから、祈るのです。もし、ことばや表現が神さまに聞いていただくにふさわしくないものならば、聖霊なる神さまがふさわしいものへと整えてくださいます。そうすることで私たちは、自分の中に満ちている思いをことごとく、主に知っていただくことができます。 さきほど申しましたツイッターの祈りは、少しずつでも祈りを表現することにより、うちに秘めている祈りたい思いを開放する行動です。もし、祈れていない自分を嘆くならば、少しずつでいいですから、短いことばにして祈りを表現してみることを強くお勧めいたします。そこからだんだんと、長いお祈りへと発展していきます。 だから、長く祈れないからと落ち込むことはありません。このような状況の中で、祈らなければならないと思わないクリスチャンなどいないはずです。ただ、ことばにならないだけです。でも、そろそろ、祈りの水道管を開放してみてはいかがでしょうか? 最初は自分でも何を祈っているんだろうと思えても、やがて、ふさわしいことばに変えられていき、主のみこころと一致した祈りをささげている確信を持てるようになります。 さて、そうなると、逆に「長い祈りをささげる」ことはどうなのか、という問題が出てきます。みなさんの中には、短くよりもむしろ長く祈る方が平安がある、という方もいらっしゃると思います。すばらしいことです。それだけ、みこころを握っていらっしゃるということでしょう。 ただしそれでも、気をつけることがあります。その連ねている祈りのことばは、神さまとの生きた交流になっているだろうか、ということです。マタイの福音書6章の5節から8節をお読みしましょう。……このみことばからわかることは、お祈りとは、人に見せるためのパフォーマンスではないということ、また、長ければいいというものではない、ということです。異邦人のように、というのは、答えてくれるかどうかもわからない偶像に向かってお勤めのようにことばを連ねることで、宗教的な満足を満たしてはならない、ということです。それは、普段から祈っているということではありません。 私たちがもし、長く祈れるようになったならば、さやかな御声を聴くためにいちど静まって、黙想する習慣も身に着けたいと思います。私たちの祈りは、神さまの御声であるみことばによって導かれるべきです。 お勧めしたいのは、短いみことばを暗唱することです。そうすると、聖書のみことばを字引を引くようにいちいちめくらなくても、私たちはスムーズにお祈りをつづけることができるようになります。 さあ、今日はまず、決心したいと思います。いざというときはいつやって来るかわからない状況にあります。そのときに備え、少しずつでいいです、祈る者となりましょう。今日から始めましょう。 「賛美します。」「感謝します。」「御手にゆだねます。」このような短いフレーズでいいのです。そこから始めましょう。そして、お祈りの達人を目指すならば、みことばを暗唱しましょう。暗唱したみことばを口に出して、また祈りましょう。神さまは私たちのことを、ご自身とよい交わりを持つにふさわしい人へと整えてくださいます。 讃美 聖歌524/献金 讃美歌391/栄光の讃美 讃美歌541/祝祷