ピラトとは私たちである

聖書箇所;ヨハネの福音書19:1~22/メッセージ題目;ピラトとは私たちである 「茨城世の光伝道協力会」、今週金曜日に総会がうちの教会の礼拝堂を会場に開かれますが、この協力会の機関紙の名前は「茨の城を花園に」といいます。茨城県がまだまだ福音宣教が大いになされるべき荒野のような場所、というイメージをかきたてられます。まさに茨城は「茨の城」、茨の地です。 茨、というものは、アダムの罪以来、土地がのろわれたゆえに地が生えさせたのろいの象徴です。そう考えますと、茨城とは、なんと重い名前だろうか、と思わざるを得ません。うちの教会の所在地なんてどうでしょうか? 茨城県東茨城郡茨城町、「茨」がこれでもかと出てきます。それだけに、冗談ではなく、茨の冠をかぶられたイエスさまをより深く思い、茨の地、茨城を覚えてとりなして祈る私たちとなりたいと、切に思います。 さきほどお読みしたみことばの中に、茨の冠をかぶせられたイエスさまのお姿が登場します。この冠をかぶせたのは、総督ピラトです。 私たちが礼拝ごとに告白する「信徒信条」の中に、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」というくだりがあります。この告白には、ローマ総督として実在したポンテオ・ピラトの下でイエスさまは確実な苦しみを受けられた、ということ、また、ポンテオ・ピラトとはイエスさまを苦しめた張本人であった、ということが明らかにされています。 しかし、私たちがいつも礼拝のたびに、ポンテオ・ピラトの名前を口にして、ああ、彼は悪い人だ、という理解にとどまっているだけならば、私たちの信仰はまだ幼い段階にあります。私たちにもし、自分こそがイエスさまを十字架につけた罪人だ、という意識があるならば、この「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という告白には、心が痛むのではないでしょうか? ああ、ポンテオ・ピラトとは私のことだ。 今日はポンテオ・ピラトの姿から学びましょう。もちろん、反面教師としてのピラトですが、この姿は私たちの姿でもあります。私たちがイエスさまとの正しい関係を保つため、悔い改めるべき罪を悔い改めるため、ピラトの姿から学びたいと思います。 第一にピラトは、残忍な者でした。 ピラトは、イエスさまには十字架刑に当たる罪がないことを知っていました。ユダヤの宗教指導者たちは、自分たちの権威が失われるから、イエスさまをなき者にしよう……十字架につけて神にのろわれた者としてしまい、イエスさまの権威を一切葬り去ろう ……このようなユダヤの宗教指導者の言い分をそのまま認めるということは、ローマの権威を託された政治家の沽券にかかわることでした。 しかし、ピラトはここで自分に与えられた権威を、あらぬ方向に用いました。イエスさまを痛めつけたのでした。 みなさま、むちで打つといいますと、どんなイメージを受けますでしょうか? むかしの欧米などでの子どもの躾でしょうか? しかし、イエスさまに当てられたむちは、あんな細いものではありません。もっと太くて堅牢なものです。 東京の寄席に、落語の合間に手品を披露する、伊藤夢葉(いとうむよう)という手品師がいます。この人は舞台に登場すると、自己紹介のあいさつ代わりに、ブル・ホイップという、かなり長くて太いむちを取り出して、それを一振りします。バン! という、凄まじい音が客席に響きます。新宿末廣亭(しんじゅくすえひろてい)のような建物がめちゃくちゃ古い寄席でそれをやると、舞台が壊れるんじゃないかとひやひやしますが、夢葉さんによると、この大きな音は空気を切る音で、床には一切当たっていないとのことです。 ……でも、それだけの芸で、手品でもなんでもない、観客は拍子抜けして笑いだす仕掛けなのですが、私などはそれを見て、なんか勉強になったような気がしたものでした。ブル・ホイップ……イエスさまやパウロもあのようなむちでたたかれたのかな……あんなのでたたかれたらひとたまりもありません。 しかも、イエスさまの当時のむち打ち刑といえば、そのようなブル・ホイップのようなむちに、あちこち、石や鉄の破片を埋め込んでおき、それでたたくわけです。からだがずたずたに……すみません、前の席にはそういう話が大嫌いなお嬢さんが座っているので、詳しくは話しませんが、これで何度も叩かれたら、血まみれ、こぶだらけ、骨折、脱臼……。 それに飽き足らず兵士たちは、茨の冠をかぶせました。私たちがよく見かけるバラのとげのようなものではありません。もっとずっと太く、鋭いものです。これで頭を締めつけるなら、顔も血まみれになりますし、痛いでは済まないことです。 そして、「ユダヤ人の王さま、万歳」と嘲りながら、顔をたたきました。畏れ多くも神の子に対して、なんという侮辱でしょうか。ピラトたちはイエスさまのことを、肉体的に痛めつけるに飽き足らず、精神的に痛めつけることに快楽を見出していた、ということです。 注解書を読むと、このようにイエスさまを痛めつけた上でユダヤ人の前に引き出したのは、この哀れな姿を見るがいい、この姿に免じて、おまえたちの言うところの「罪」を許してやれ、と、ピラトがユダヤ人たちにあわれみを乞うたからだ、と説明するものもあります。 たしかに、そのような要素はあったでしょう。しかし、そうまでしてユダヤ人のあわれみに訴えようとしたのならば、なぜこのむち打ちをユダヤ人の面前でではなく、総督官邸の中という、ユダヤ人の見ていないところで行なったのでしょうか。百歩譲って、激しいむちうちのあとが残る形でイエスさまをユダヤ人の前に出したとしても、そのような形が残るわけでもないあざけり、ユダヤ人の王さまがどうたらこうたら、とか、証拠も残らないことを兵士たちがすることを、なぜピラトは許したのでしょうか。 それは、それだけ残忍だったからとしか説明のしようがありません。さすがはピラト、ガリラヤ人を虐殺し、彼らが神さまにささげるいけにえに彼らの血を混ぜるようなことをしただけのことはあります。 しかし、ピラトだけが特別な罪人なのでしょうか? 私たちはどうなのでしょうか? 詩篇1篇1節にはこのようにあります。幸いなことよ、悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人……このことばから詩篇が始まっているのは象徴的です。それは私たち人間がみな罪人であり、悪しき者にふさわしいはかりごとをする者であり、人を嘲る者だからである、ということではないでしょうか? それなら私たちは、みなピラトのようであり、詩篇1篇1節の語る「幸いな人」の反対に当たる人ということではないでしょうか? そう考えると、私たちは残忍なのです。いや、私はそんな残忍ではありません、それが証拠に、イエスさまのことを迫害していません、私はピラトとちがいます、と言いますでしょうか? しかしほんとうのところ、私たちは人をのろい、神をのろうような罪人です。行動に移さないだけで、私たちは残忍なのです。 ヤコブの手紙によれば、人をのろうということは、神にかたどって造られた存在をのろうということです。それはとどのつまり、神をのろうということ、神の子イエスさまを迫害することにならないでしょうか? 私たちは正義の味方になったつもりで人をさばきますが、問題なのは人を憎むこと、人を見下げることそのものです。 それは実のところ畏れ多いこと、神をも恐れぬことをしていることを、私たちはもっと意識する必要があります。繰り返します。私たちは残忍なのです。 私たちがだれかのことをあざけったり、こきおろしたりすることなら、それはイエスさまに対し、むちをふるうことです。神さまがご自身のかたちに創造された存在をのろうことを私たちがしているかぎり、私たちはその責めを負うことになります。私たちがこの責めからのがしていただくためには、まず私たちはそのような罪人、神の子にむちを振るう罪人であることを認める必要があります。このことを認めることはとてもつらく、直視に耐えないことですが、するしかありません。そこから私たちは、血まみれの罪からのがしていただく道が開けます。 第二にポイントにまいります。ピラトは、保身の者でした。 ピラトは、血まみれになり、さらにはあわれな王の格好をさせられたイエスさまを宗教指導者たちの前に連れてきました。どうだ、見たか、これで気が済んだだろう……しかし、ピラトの目論見は失敗に終わりました。彼らはこんなになったイエスさまを見てもなお、十字架につけろ、十字架につけろ、と叫びつづけました。 この叫びに対し、ピラトは言います。おまえたちがこの人を引き取り、十字架につけるがよい。私はこの人に罪を見出せない。 要するにピラトは、イエスさまを十字架につける責任者という立場から逃げようとしたのです。責任者はおまえたちだ。私は知らない。ピラトの保身が読み取れます。 しかし、ユダヤ人たちは容赦しませんでした。私たちには律法があります。その律法によれば、この人は死に当たります。自分を神の子としたのですから。 律法は何と言っていますでしょうか? 彼ら宗教指導者たちは、レビ記24章16節を適用した模様です。神の御名を汚した者は死刑に処せられる。ご自身を神の子であると告白したイエスさまは、宗教指導者たちにしてみれば、神の御名を汚した者ということになります。 だが、彼らにとって律法がそれほど大事なものの割に、彼らはきわめて重要なことを、意図して捻じ曲げています。まず、ご自身が神の子であるとイエスさまが告白されたことを神への冒瀆と判断したことは、ユダヤの宗教指導者という人間しての判断でこそあれ、神さまご自身によるご判断ではありませんでした。彼ら宗教指導者たちがねたみゆえにそのような判断を下したとわかる余地があり、ピラトもそのことに気づいていました。 また、よしんばそれが神への冒瀆だったとしても、彼らにとってそれほど神さまとそのみことばが大事な割には、処刑の方法が間違っていました。 神への冒瀆をした者は石打ちで処刑されるべきでした。ステパノの殉教もそのようにして石打ちで殺されたものでした。それが十字架だというのです。石打ちで死ねば英雄の殉教と見なされるでしょうが、十字架で死んでは何をどうしても、のろわれた極悪人にしかなりません。ユダヤ人がイエスさまに手を下すには、十字架以外に方法がなかったのでした。 しかし彼らユダヤ人は、勝手に人を十字架で処刑することなど許されていませんでした。もしそれをしてしまったら、それは宗主国ローマに対する越権行為であり、十字架刑を施したほうが重罪に問われます。したがってユダヤ人がイエスさまを十字架につけるには、ローマの権威を用いるしかなく、ローマの全権を帯びた総督ピラトを動かすしかなかったのでした。 しかし、当のピラトにしてみれば、せいぜいそれはユダヤ民族の内輪のもめごとに過ぎません。いかにピラトが残忍でも、無実の者をよりにもよって十字架刑に処するわけにはいきません。 だがここで宗教指導者たちは、イエスはわれらの律法によれば死刑だ、とピラトに迫りました。その一方ですでにユダヤ人たちは、私たちはだれも死刑にすることが許されていません、とも言っています。つまり、私たちユダヤ人が死刑と決めた者は、ピラトよ、あなたが死刑にしなければならないのです、ということです。 ピラトは震え上がりました。今度はピラトは、あらためてイエスさまに尋問することにしました。あなたはどこから来たのか、と問いますが、その問いに黙秘を貫かれるイエスさまに対し、ピラトは、私に話さないのか、私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威もあることを、知らないのか、と迫りました。 だが、ピラトはここで重大な勘違いをしていました。ピラトには実際のところ、イエスさまを釈放する権威も十字架につける権威もありませんでした。 ピラトのその権威は、ローマ帝国という後ろ盾があってはじめて存在するものでした。いえ、もっと言えば、そのローマ帝国の権威すら、全地の王であられる神さまの権威があって初めて成り立っているものでした。 イエスさまはそんなピラトの尊大な勘違いを指摘され、おっしゃいました。上から与えられていなければ、あなたはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。 ピラトとちがって、イエスさまをローマの権威に引き渡したカヤパたち宗教指導者は、そもそも権威とは何かということをよくわかっていましたし、またわかっていなければならない立場にありました。彼らにとっての権威は、神さましかないはずです。だが彼らは、神さまよりもピラトの権威を上だと見なし、畏れ多くもそのこの世の権威にイエスさまを引き渡すということをしたのでした。 ピラトも残忍、また尊大、それでいて卑怯という点において大いなる罪人でしたが、イエスさまはそれ以上にカヤパたちの罪が大きいとおっしゃいました。その姿は、ついには「カエサルのほかに、私たちに王はありません」と告白した姿に明白に現れました。かつて彼ら宗教指導者たちは、カエサルに税金を納めることは律法にかなっていますか、かなっていませんか、とイエスさまに迫りました。あのことばとなんとも矛盾していますが、イエスさまをなき者にしようという点で、宗教指導者たちのことばは一致していたと言えます。 だからといって、ピラトの罪が減じられるかというと、そんなことはありません。やはり使徒信条が告白するとおり、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」なのです。いかなる理由であれ、ピラトが判断を下したからこそ、イエスさまは十字架につけられたのです。 暴動が起こったらその責任を問われ、ローマ総督の座を追われるかもしれない……マタイの福音書によれば、ピラトは水を持ってこさせてそれで手を洗ってみせ、自分の責任を逃れるパフォーマンスをしました。 だがやはり、ピラトは残忍な男でした。ヨハネの福音書には書いてありませんが、ほかの福音書を読むと、ピラトは判決を下してイエスさまのことを十字架につけるにあたり、ただでさえむち打ちで血まみれ、傷だらけになっていた主のみからだを、まるでだめ押しのようにむち打ちにしました。自分には責任がないなんて大嘘です。責任は大ありなのです。 エデンの園で、善悪の知識の木の実を食べたことを神さまにとがめられたとき、アダムは言いました。「あなたが私のそばに置いた女が食べろと言ったので、私は食べたのです。」エバは言いました。「蛇が私をだましたのです。」人の罪とは、自分が罪を犯したことを、神さまのせい、他人のせい、悪魔のせいにして、けっして自分で責任を取らないことです。しかしはっきりしていることは、何をどうあがこうとも、その罪の責任は必ず自分が取らなければならないことです。 保身に走って罪の責任から逃れようとするピラトの姿は、私たちの姿です。自分が罪を犯したことを神と人の前に認めることは、とても難しいことです。 しかし、しなければならないことです。だからこそ私たちは、神さまのあわれみにすがる必要があります。イエスさまは、罪を認めて悔い改めることも簡単にはしないような、そんな私たちであることをご存じで、そんな私たちの身代わりに十字架にかかってくださいました。私たちは、自分の中には罪を認めて悔い改める力はありません。日々十字架の前に自分を引き出し、ひざまずくのみです。 第三のポイントにまいります。ピラトは、はからずも主のみこころを成し遂げた者でした。 ピラトは言ってみれば、負けたのでした。それも、自分が支配しているはずのユダヤの宗教指導者たちに負けたとは、たいへんな屈辱というべきことでした。ピラトはイエスさまの十字架に掲げる罪状書きに「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書きました。それも、ヘブル語、ラテン語、ギリシア語なので、エルサレムに過越の巡礼に来ていた人は、みんなそれを読んで理解できる仕掛けになっていました。 もちろん、宗教指導者たちはピラトのこの措置に不満をいだきました。われわれが十字架につけたのはユダヤ人の王ではない、ユダヤ人の王を自称した者だ。 しかし、ピラトはここで最後の抵抗をしました。「私が書いたものは、書いたままにしておけ。」これはもともとのことばを直訳すると、「私が書いたものは、私が書いたのだ」となります。これは要するにこういうことです。ユダヤ人どもよ、おまえたちがイエスを十字架につけたのは、私ピラトの権威によってではないか、ならば、イエスを十字架につけるだけの罪状を定める権威は私ピラトにあると認めよ、おまえたちユダヤ人は、この件について一切発言することを許さぬ……。 もし罪状書きに、ユダヤ人の王を自称したと書いたならば、それこそピラトはユダヤ人の言い分に屈服したという証拠になり、ピラトの面目は丸つぶれです。ではなぜ、ピラトは罪状書きを「ユダヤ人の王」にしたのでしょうか? それは、ピラトがイエスさまを尋問してきた中で、「ユダヤ人の王」ほどふさわしい「罪状書き」はなかったと確信したからではないでしょうか? とは言いましても、なぜ、ピラトがその確信に至ったかは、ピラトの心理分析のようなことを行なっても、恐らく正解は出てきません。確実に言えることは、ピラトはイエスさまのみことばを聞いて、イエスさまのおっしゃっている「ユダヤ」とは、自分が支配している「ユダヤ」のこと、という意味以上に、イエスさまのみことばをお聴きしてお従いするすべての人のこと、という、それまで考えてもみなかった真理を教えられたことです。…

「十字架を巡る反面教師」

聖書箇所;ヨハネの福音書18:28~40/メッセージ題目;「十字架を巡る反面教師」  東京の永田町には、国立国会図書館という施設があります。日本で唯一の国立図書館で、国会と名乗りますが、一般人も未成年でなければ利用できます。私も何度となく利用してきました。これまで日本で出版されて一般に出回った本ならたいてい閲覧できて、とても便利です。難しい本から、マンガも雑誌もなんでも読めます。コロナが収まったら、何かの機会にぜひ行ってみられることをお勧めします。  その貸出・返却カウンターの上のコンクリートの壁に、聖書のみことばがギリシャ語で刻まれているのをご存じでしょうか? その左側には日本語も書いてあります。「真理がわれらを自由にする」、はい、そうです、イエスさまがおっしゃったみことばで、ヨハネの福音書8章32節、「真理はあなたがたを自由にします」、このみことばの一節です。  この「真理がわれらを自由にする」ということばは、1948年に起案された国立国会図書館法という法律の前文に明記されています。「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和に寄与することを使命として、ここに設立される。」このように書かれたのは、当時の参議院図書館運営委員長であった歴史家の羽仁五郎が、留学先のドイツのフライブルク大学図書館で目にしたこの銘文を盛り込んだからだそうです。  イエスさまはおっしゃいました。わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。人はイエスさまという真理によって自由を与えられるから意味があります。 図書館は知の結晶ともいうべき場所で、それはそれで素晴らしいにはちがいありませんが、本の数だけある真理など、果たして真理と呼ぶにふさわしいでしょうか。そのようなあいまいな真理が人を自由になどしてくれるでしょうか。だから「何が真理か」「だれが真理か」ということが、とても大事な問題になってくるわけです。 きょうの箇所でも、イエスさまを尋問するポンテオ・ピラトが、イエスさまに向かって「真理とは何なのか」という場面が出てきます。真理とは何かを問う。それは、意識ある人間ならだれでも取り組むべきことでしょう。だからこそ、ほんとうの真理に出会う必要があります。 本日のみことばにおいて、ポンテオ・ピラトの前で真実な告白をなさったイエスさまは、ご自身が宣べ伝えてこられた神の国について語りつつ、真理を明かされました。私たちはこのみことばから、何を学ぶことができるでしょうか? ともに見てまいりたいと思います。 この箇所には、真理なるイエスさまを巡って、三者三様の立場が登場します。イエスさまをローマの権威に引き渡した宗教指導者、それをあおってイエスさまを極刑に付そうとしたユダヤ人の群衆、そして、イエスさまをさばく立場にあったピラトです。それぞれの言動はイエスさまの御前に、その実態があぶり出されました。この三者三様の姿は、私たちにとって反面教師となります。以下、見てまいります。 まずは、宗教指導者たちです。彼ら宗教指導者たちは、イエスさまを死刑にする判決を、自分たちの最高議会、サンヘドリンで下しました。 彼らは、イエスさまを死刑にしようと躍起になっていました。彼らはこれまでも、イエスさまに石を投げつけて処刑しようとしてきましたが、果たせずにいました。しかし彼らはここで、もっと残忍な方法でイエスさまをなき者にしようと企み、ついにその企ては実行に移されたのでした。それが、十字架でした。 十字架という処刑の方法が、イスラエル、ユダヤという神の民の間で執り行われるとしたら、それはよほどのことでした。律法書を見ると人を木にかけて死刑にするという記述は申命記21章22節、23節に出てきて、木にかけられる者はのろわれた者であるとわざわざ語られていますが、実際にイスラエル、ユダヤの社会において、人を木にかけて処刑したという記録は、旧約の中にもいくつか見られます。 ヨシュア記を見てみますと、主がアイを聖絶せよと命じられたとき、イスラエルはアイの王を木にかけて処刑しました。聖絶の手段としての処刑です。 時代は下り、サウル王朝が終焉を迎えようとしていた頃のことですが、イシュ・ボシェテ王が殺されました。レカブとバアナによることです。レカブとバアナは手柄を認めよとダビデ王のもとにまいりましたが、主に油注がれた無実の人を殺すなど、よくもこんな大それた罪を犯したものだとダビデになじられ、木にかけて処刑されました。 さらに時代は下り、エステル記の時代となりましたが、ペルシャのスサにおいてユダヤ人は皆殺しにされようとしました。ところが事態は逆転し、この皆殺しをたくらんだハマンは、息子たちともども、木の柱にかけられて処刑されました。いずれも、木にかけられて殺されるとは、ただの処刑とはわけが異なり、よほどのケースです。 宗教指導者たちは、明らかにこの聖書的な背景をわかっていました。わかった上で、イエスさまをのろわれた者にしようという演出をしたわけです。彼らにとって幸いというべきか、ローマの残酷な処刑の方法である十字架刑は、ここユダヤでも実行されており、これまた彼らにとって具合のよいことに、この日の午前9時より実行されることになっていました。この十字架刑によってイエスも処刑してしまえ……のろわれた者としてしまえ……彼らのどす黒い野望が見えてくるようです。 しかし、このようなことをたくらむ彼ら宗教指導者たちは、この期に及んで宗教的であろうとしました。過越の時、宗教的なけがれを受けまいと、異邦人であるピラトの官邸に入らず、彼を外に出させました。何のことはない、宗教指導者たちは、自分たちにとってけがれていると見なす存在を実は有り難がり、彼らに手を下させてイエスさまを葬り去ろうとしたのでした。それも、のろわれた者に仕立て上げてです。どこまでも彼らは卑怯でした。 そんな彼らの宗教的な一貫性とは、いったい何でしょうか。神の前に誠実であることでしょうか? もしそうならば、彼らはイエスさまを信じたはずです。イエスさまを王としなかったことに、深い悔い改めを表明したはずです。しかし彼らのしたことは、高い地位の保障されているわが身を守ることでしかありませんでした。 みなさまにわかっていただきたいことですが、牧師のような献身者になると、自動的に神さまとの交わりを持つようになり、したがって普通の人よりも何倍もきよくなるわけではありません。むしろ神さまは、そのような者たちに対し何倍も重い責任を負わせられます。ヤコブの手紙3章1節に書かれているとおりです。 考えてみてください。イエスさまは宗教指導者たちを指して、人々に、「彼らの言うことは聞きなさい。しかし、彼らの行いをまねてはなりません」とおっしゃいました。いったい、言うことが正しくても行いが正しくない人など、果たして神の御前に正しい人と言えるでしょうか? イエスさまは、そのように「モーセの座を占め、天国の鍵を持っていながら」、人々を間違った方向に導く者たちのことを、それでも愛しておられました。 彼らが神の国に不必要ならば、イエスさまはたちどころに彼らをさばかれ、地獄に落とされたことでしょう。しかし彼らはイエスさまを前にして、いのちを長らえました。イエスさまを十字架につける大それたことをしても、なお生きていました。それは、生かされたということです。 しかし、このような立場にある人は、私のような教職者にかぎりません。イエスさまの愛をもって人々に関わっている人ならば、私たちだれしも、この宗教指導者たちと同じ立場にあると言えます。私たちはみな、さばきの前に立っています。 しかし、私たちがみなこのように、神さまのさばきの前に立っているということは、何を意味するのでしょうか。それは、神さまが私たちのことを嫌っておられ、いつでもさばきの前にさらしておられるということではありません。 わたしの愛する羊たちを、責任をもって飼いなさい、わたしはペテロを愛したように、あなたのことを愛しているよ、と、イエスさまに言っていただいているということです。私も愛されている者として、イエスさまの愛でみなさまを愛します。みなさまもその愛で、互いに愛し合う人となっていただきたいのです。宗教指導者たちのように、イエスさまなど関係ない、形だけの宗教人になっていただきたくないのです。それはとても不幸な生き方です。ともにイエスさまの愛の中にとどまれるように、私たちにとっての教会形成がふさわしい方向に行きつづけるように、お祈りいただければ感謝でございます。 二番目に、ユダヤの民衆を見てみましょう。彼らはつい何日も前ではなく、イエスさまを歓喜に満ちてエルサレムにお迎えした人々でした。彼らはイエスさまに何を期待したのでしょうか? イエスさまこそ、ローマの支配からわれら神の民を解放してくれる王さまだと期待して、イエスさまを迎えたのでした。しかし、イエスさまのなさったことといえば、エルサレム神殿に巣食う商売人たちを追い出したり、姿をくらましたり、人々の前に王として堂々と君臨する姿とは、かなり異なっていました。 その間に宗教指導者たちは、イエスさまは王ではない、大胆不敵にも自分を神とする不逞の輩だと、民を抱き込みました。民は宗教指導者たちに扇動され、ピラトの総督官邸に押し寄せました。イエスを十字架につけろと迫りました。 ユダヤの民衆は、もちろん、自分たちが創造主なる神さまの民であるという自覚を持っていました。そんな彼らはどれほど、自分たちに圧力を加えてくるローマを憎悪したことでしょうか。しかしここでは、イエスさまを葬り去るためなら、ローマの国家権力におもねることさえしたのでした。 そんな彼らは、イエスさまを決して許そうとしませんでした。暴動のかどで処刑されることになっていたバラバを釈放せよとさえ迫りました。 バラバのしたことは、それこそ十字架につけられるにふさわしい重罪です。それを釈放したら、自分たちの安全はどうなるというのでしょうか。自分たちの安全や社会の秩序と引き換えにしても、イエスさまのことを十字架につけようというのでしょうか。 怖ろしいのは群集心理です。イエスさまが自分たちにとっていちばん大事なお方、王さまだったのは、ついこのあいだのことだったというのに、同じ民が同じお方を極悪人に仕立て上げました。信仰を捨てるだけではありません。自分からイエスさまを積極的に十字架につける迫害者になるわけです。宗教指導者たちに扇動されたとか、自分たちの勝手な期待が裏切られたように感じたとか、理由はいろいろあるでしょうが、いかなる理由であれ、彼らがイエスさまを見捨て、裏切ったという事実に変わりはありません。 しかし、そんな彼らも、のちにはペテロの説教で悔い改めに導かれ、イエスさまを受け入れました。彼らのひどい罪は赦されたのでした。 かつて日本のキリスト教会は、国家権力による宗教政策に懐柔され、イエスさま以上に天皇を神として優先させる生き方をしました。信徒たちは、それが当たり前のことと教えられながら生きました。あたかもイエスさまの時代のユダヤ人が、イエスさまを十字架につけることこそ神に奉仕することだと思わされていたようにです。 日本の教会がその歴史を背負っていることを、私たちは今に至る同じ歴史を共有する者として、決して忘れてはなりません。私たちは日本に大いなる信仰の復興が起こることを願っていると思いますが、そのためには、自分もまた先祖たちと同じようにイエスさまを裏切り、十字架につけた罪人であるという自覚を持ち、悔い改める必要があります。 彼らのことを安全な場所から見下ろしてさばいてみても何も始まりません。私たちがすることは、彼らをさばくことではなく、彼らの罪を自分の罪として悔い改めることです。 私たち教会もいわば「集団」ですが、私たちひとりひとりの悔い改めが充分ではないならば、教会というその「集団」を支配する論理は、罪人の論理、すなわち、イエスさまを十字架につけるほどの罪の論理となってしまいます。少なくとも主のからだなる教会においては、そのようなことがあってはなりません。ともに自分たちの罪を認め、徹底した悔い改めを行いつづける私たちとなりますようにお祈りいたします。 第三の立場、それはピラトです。ピラトは、イエスさまを十字架につける権威も、釈放する権威もありました。ということは、ピラトは畏れ多くも、神の子をさばくということをしていたのでした。 ただしピラトは、神の民に属する者ではありませんでした。神の民に属さない者が、神の子をさばく構図です。言ってみれば、クリスチャンではない人がイエス・キリストというお方をうんぬんするのに似ています。 イエスさまは本来、このような立場の者にご自身をお委ねになる筋合いはないはずです。しかしイエスさまはこのようにして、この世の法廷に引き出され、ご自身を委ねられました。この世のさばき主としてイエスさまの前に立つピラトは、イエスさまに問います。「あなたはユダヤ人の王なのか。」これに対してイエスさまは問われます。「あなたは、そのことを自分で言っているのですか。それともわたしのことを、ほかの人々があなたに話したのですか。」 イエスさまが問われたこの問いはきわめて重要です。それはピラトにとっての「ユダヤ」が、単に自分がローマの権威によって治めている一地方か、それとも神の国かという、天と地ほどのちがいをもたらすからです。 私たちは新聞やニュース番組などで「イスラエル」ですとか「ユダヤ」などといった固有名詞を見聞きしますが、それそのものが聖書の語る「イスラエル」や「ユダヤ」を指しているわけではありません。つまりそれそのものが「神の国」を意味しているわけではありません。でも私たちは聖書を読むときに「イスラエル」ですとか「ユダヤ」という固有名詞が出てくるなら、それを「神の国」という意味に読み替えます。もちろん、すべてがすべて読み替えられるわけではなく、文脈にしたがって読み替えるわけです。 私たちはこのように、この固有名詞の持つ二重性を理解して用いていますが、一般的にはそうではありません。ピラトもユダヤの宗教共同体に属していない以上、この世の一般人です。イエスさまのご質問は、あなたはわたしのことを神の国の王と認めているのですか、それとも、あなたの治める地域の指導者たちが言うからあなたはそう言っているだけですか、と、ピラトの心の中を探るおことばでした。 しかしピラトは、私はユダヤ人なのか、そうではない、と答えます。ユダヤ人としてあなたのことが王かどうか知りたいわけではない、ということです。ピラトはユダヤの総督でしたが、ユダヤの、わけても信仰共同体とは、はっきり一線を引きました。 これにつづいてピラトは、あなたの同胞と祭司長たちがあなたを私に引き渡した、と答えました。あなたがほんとうにユダヤ人の王ならば同胞や宗教指導者たちがあなたを私に引き渡すなど、おかしいじゃないか、というわけです。 しかし、イエスさまは、わたしの国はこの世のものではありません、もしこの世のものであったならば、わたしのことをユダヤ人たちに引き渡さないようにわたしのしもべたちが戦ったはずだ、とお答えになりました。 イエスさまのこのおことばからは、2つのことが見えてきます。第一に、イエスさまはこの宗教国家としてのユダヤの王ではない、ということです。ユダヤ人たちや宗教指導者たちがイエスさまを自分に委ねるとはどういうことだ、と、ピラトが首をひねりましたが、イエスさまの国がイエスさまを迫害するユダヤと同じではないという前提に立てば、それで納得できます。 しかしそれ以上に大事なのは、イエスさまの国はこの世の国ではない、ということです。この世の国は安寧秩序を保つために、軍隊という暴力装置を備えるものです。しかし、平和の王であるイエスさまが治める神の国は、そのような暴力は存在させないことが大前提です。だからペテロが剣を取って兵士に襲いかかったとき、イエスさまがそれを戒められ、ペテロの暴力で兵士が負った傷をその場でいやされたのでした。 このお答えに、ピラトはもう一度尋ねます。「それでは、あなたは王なのか。」ピラトはどのような思いでそう訊ねたのでしょうか。興味本位ででしょうか。怖れに駆られてでしょうか。自分もこのお方を王と認めようという思いが生まれたからでしょうか。それとも、王を名乗るこのお方を傲然と見下ろす態度ででしょうか。それは、聖書が語っていない以上、わかりません。 わかっているのは、ピラトが「あなたは王なのか」と問うたことだけです。しかし、これに対し、イエスさまのお答えになったおことばははっきりしています。「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」 このおことばからわかることは、イエスさまは真理を証しする王さまであること、イエスさまを王としてお従いするとは、イエスさまのみことばに聴き従うことであり、その人が真理に属する人である、ということです。 ここで、イエスさまが弟子たちにおっしゃった、わたしが道であり、真理であり、いのちなのです、というみことばが真実であることがはっきりしました。イエスさまはこのように、畏れ多くも神の子をさばく異邦人の総督ピラトに、真理に属せよといういのちの道をお示しになりました。 ピラトはそれに対してひとこと言いました。「真理とは何なのか。」これまた聖書は、ピラトがどのような感情を込めてこう言ったのかについて沈黙しています。イエスさまのおことばに心を刺され、動揺してそう言ったのでしょうか。あまりにも自分には理解を絶することをおっしゃるイエスさまに対して、そんなことわかるものかと、吐き捨てるように言ったのでしょうか。わかりません。 しかし、はっきりしていることがあります。ピラトはこのおことばを聞いてすぐ、イエスさまを死刑にしない、過越の祭りの恩赦で釈放してやろう、と心を決め、群衆の前に出ていったということです。 しかし、ピラトのこの決心は水泡に帰しました。群衆は、イエスを十字架につけるためならあの札付きのバラバを釈放してくれていい、とすら言い放ったのでした。ローマ総督という権威を帯びた人間、かつてはガリラヤ人を虐殺したような暴力的な政治家としての実績、そんなことも吹き飛んでしまうほど、いまピラトはとても弱い立場にいました。 ピラトは、真理とは何かを知るべきでした。真理とは何なのか、その問いを口から出したならば、まことの真理であるイエスさまに食い下がり、いのちを得るべきでした。真理とは何か。国立国会図書館のカウンターの文字を見た人は、その膨大な蔵書を秘めた図書館に来ている安心感から、いかにも真理がそこにあるかのように思うかもしれませんが、真理は十人十色の人間の中になどありません。…

神の弱さは人よりも強いから

聖書箇所;ヨハネの福音書18:1~27/メッセージ題目;神の弱さは人よりも強いから  今月1か月間は、イエスさまの受難について、ヨハネの福音書18章、19章から学びます。この箇所、イエスさまの受難にまつわる学びは、もうみなさまの長いクリスチャン生活で、何度となく学んでこられたことと思います。そこで本日は、主題を決めてのメッセージとまいりたいと思います。題して「神の弱さは人よりも強いから」。  言うまでもないことですが、神さまはこの世のどんな存在よりも強いお方です。世界のすべてを創造され、世界のすべてを司っておられ、最後にはこの世界をすべておさばきになります。およそ神さまほど、「弱い」という形容詞が似合わない方はおられません。  また、神さまはすべての知恵の根源でいらっしゃいます。神さまは知恵と英知をもってこの世界を造られ、この世界を動かしていらっしゃいます。およそ神さまほど「愚か」という形容詞が似合わない方はおられません。  そのように神さまのことを理解している私たちですから、コリント人への手紙第一1章25節のみことばを読むと、なんというか、違和感を覚えないでしょうか?「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」。神さまが愚かとはどういうことでしょうか? また、神さまが弱いとはどういうことでしょうか?  この第一コリント1章の語ることは、十字架とは人の目には愚かに見える神の知恵である、ということです。また、神の弱さ、ということに関しては、第二コリント13章4節をお読みすると出てまいります。ここには、キリストは弱さのゆえに十字架につけられた、とあります。この地上を生きられた主は、人と同じ姿になられ、弱さを身にまとわれました。しかしそれは、まさしく、十字架という最高の強さ、力を、信じる人々に与えてくださるためでした。 このように、十字架を神の最高の知恵、最高の力と受け入れた者だけが、神さまのもとに行き、永遠のいのちをいただくことができるのです。私たちは、自分の暮らし向きを誇るべきではありません。誇るべきはイエスさまの十字架です。また私たちが知っているべきことは、イエスさま、すなわち、十字架につけられたお方のことだけです。十字架が神の力、神の知恵であるということは、十字架が私たちの力、私たちの知恵であるということです。 この前提で本日の箇所を読み解いていこうと思います。イエスさまは、十字架という神の力、神の知恵を成就されるにあたって、お祈りをされました。並行箇所を読んでみますと、それはただのお祈りではりません。 それは苦しみの果ての、汗が血のしずくのように流れ落ちた祈りです。イエスさまはできることならば、この杯が自分から過ぎ去るように、と祈られました。それは、責めと恥を受けることだからでしょうか? 極限の苦しみにさらされることだからでしょうか? それもあったでしょう。しかし、最大の理由は、御父から捨てられることだったのでした。 本来ならば私たちこそが捨てられるべきでした。捨てられるにふさわしい罪人だからです。しかし、そのすべての罪をイエスさまに背負わせられ、きよい御前からお捨てになることが、神の知恵でした。神の力でした。その力を前にして、イエスさまは無力だったと見るべきでしょうか? いいえ、十字架を背負うというまことの力を得られるように、祈りにおいて勝利するように、御使いが現れてイエスさまを力づけました。 さて、この祈りの場に伴われたペテロは、イエスさまのお別れのことばを聞いたとき、いいえ、私はあなたさまにお従いします、死ぬことも覚悟しています、と言いました。それははずみで言ったのではなく、本心にちがいありません。しかしイエスさまは、鶏が鳴く前にあなたは三度わたしのことを知らないと言います、と予告されました。三度言う、完全に知らない、と、人々の前で宣言するということです。 そんなペテロはどんな思いでイエスさまの祈る姿を見ていたことでしょうか。これまで見たこともなかった弱い姿、慟哭する姿、みこころにお従いしようと激しく葛藤する姿……ペテロはあまりに悲しくなりました。涙さえ流れてならなかったことでしょう。しかし、涙が流れつづけるなら、それはまぶたが重くなることを意味していました。心はイエスさまのために燃えようとも、肉体は弱かったのです。人の弱さが現れました。しかしイエスさまの十字架は、そのような弱さから人を贖い出す、神の力であったのでした。 しかしペテロは、いざイエスさまが逮捕されそうになったとき、蛮勇を振るって、その兵士の耳を切り落としにかかりました。言わば人の強さです。しかしイエスさまはペテロを戒められ、十字架を負われることを堂々と宣言されました。 人の強さはイエスさまに十字架を負わせなくさせるかのようでした。しかし、そうなったら、人が救われる道は永遠に閉ざされます。イエスさまは十字架を負わなければならなかったのでした。 かつてペテロは、イエスさまが十字架におかかりになると予告されたとき、そんなことがあってはなりませんとイエスさまを諌めました。しかしイエスさまは、ペテロに向かって、なんと、下がれ、サタン、と一喝されたのでした。 サタンは、人の強さを利用します。屈強な漁師だったペテロは、自分は強いと思っていたことでしょう。そんな強いペテロから見れば、自分の師匠であるイエスさまが人々から捨てられるなど、耐えられないことだったことでしょう。ペテロは、自分の強さでイエスさまを守ろうとでも考えたのでしょうか。しかしそれは、神さまのみこころを成り立たなくさせようという、悪魔の導きというもので、イエスさまはそれに対して、断固として「ノー」を突きつけられました。 イエスさまはこのようにペテロを一喝されてから、おっしゃいました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」そうです、イエスさまがペテロをはじめ、弟子たちにお求めになった姿勢は、強くなることではありません。キリストのあとを従うために、弱くなることでした。 そんなペテロは、結局は鶏の声を聞くことになったのですが、その声を聞くに至るまで、3つの弱さを突きつけられました。 まず、ペテロは、嘘も方便とはいえ、嘘をつくことでしかイエスさまに近づけなかったという弱さを突きつけられました。 ペテロは、イエスさまについていきました。しかし、大祭司の中庭の門の外に立っていました。それを見かねた弟子が門番の女性に頼み、ペテロを中に入れさせました。しかし、門番の女性はペテロに尋ねました。「あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね。」そのときペテロは、ちがう、と言って、中に入りました。 ここで注目すべきことは、ペテロがイエスさまに近づこうとして、嘘をついた、ということです。いったい、イエスさまにお近づきするとはどうすることなのでしょうか。イエスさまのことを知らないという者のことを、イエスさまも知らないとおっしゃると、厳重に警告されていました。ペテロは一見すると、イエスさまのそばに近づいているようでしたが、イエスさまのことを知らないなどと嘘をついて近づいている時点で、もう、イエスさまが遠ざかるような行いをしていたのでした。 これがペテロの弱さであり、人の弱さです。いざというときに人は、妥協します。イエスさまにお従いします、裏切りません、と誓ったペテロのことばは本心からものでしょう。しかしペテロはいざとなると、イエスさまを知らないと言い、単なる興味本位を装って近づくという行動に出たのでした。 私たちもまた、いざというとき、いや、私は単なる教養のため、お勉強のためにキリスト教を学んでいるのだ、などとしらを切り、イエスさまにお従いしていることを否定したりはしないでしょうか? いや、自分はそうはならない、とおっしゃいますか?  しかし、イエスさまにならって多くのわざを行なったペテロが、イエスさまを見つめて水の上を歩くことさえしたペテロが、いえ、「あなたは生ける神の御子キリストです」という、百点満点の信仰告白をしたペテロが、嘘をついてイエスさまを否定したことの意味を、私たちはもっと自分のこととして考える必要があります。 いえ、私はキリストについていっていました、私は礼拝をきっちり守っていました、こんなことばをイエスさまの前で言おうとも、いざというときの言動で否定してしまう弱さ、それが私たちの中にあることを、私たちは素直に認めたいと思います。 ペテロの第二の弱さ、それは、わが師、わが主が、目の前で法廷に引き出され、なぶりものにされているという事実です。 ペテロの見ている前で、イエスさまは大祭司の尋問を受けていました。イエスさまのお答えに、嘘偽りがあろうはずがありません。しかし、大祭司の下役は、何の権限があってそんなことをするのか、答え方が悪い、と、縛られたままのイエスさまのお顔をぶちました。 そのような光景を見ていたペテロは、いのちを懸けてついて行っていたわが主、わが師匠が、ほかならぬ宗教指導者たちによって完膚なきまでに否定されるという、その有様を見つめつづけるしかありませんでした。 ペテロはもしかすると、ここでイエスさまが神の子としての権威を大いなる御業によって示され、このような目にあわせる宗教指導者どもをたちどころに滅ぼされることを夢見たかもしれません。しかし、何も起こりませんでした。イエスさまはただ、ほふられる羊がほふり場に連れて行かれるかのように、この者たちの暴力やあざけりに身をお委ねになるばかりの御姿を見るのみでした。 これは、神の弱さです。あたかもそれは、宗教指導者という人の強さ、というよりも、罪人という人の強さが、神の弱さを凌駕しているかのようです。ペテロはその姿を見て、その弱いお方を主と告白し、師としてお従いしていたという事実に、あらためて愕然としたのでした。 ペテロは少し前に、イエスさまをこのような目に合わせる者の耳を切り落とす刃傷沙汰に及ぶほど、イエスさまを守ろうという思いでいっぱいでした。まるでそれは、神の弱さを人の強さで守ろうとするようなものでした。 しかし、その剣をイエスさまに取り上げられ、なすすべもなくなったペテロは、今や、神の弱さの前に人の弱さをさらけ出している、きわめて無防備な状態にありました。不遜にも神の弱さに襲いかかる宗教指導者という罪人の強さは、いまや自分という罪人の弱さを呑み込もうとしていることを思い、ペテロは言いようもない恐怖に取りつかれていました。 しかしこの神の弱さは、罪人をさばきます。神に勝ったと豪語するような罪人は、最終的にイエスさまの十字架によって完膚なきまでに滅ぼされます。この宗教指導者どもも、イエスさまをさばいて有頂天になっていたかもしれませんが、彼らこそが究極のさばきにふさわしいものとされていたことに、彼らは気づいていませんでした。 ペテロも、いまここで目の前に繰り広げられるイエスさまの凄惨なお姿、すなわち神の弱さに、実は自分が弱くされるのではなく、この上なく強くされていることに気づくべきでした。しかしこのとき、ペテロはそれを知るにはあまりにも弱すぎました。イエスさまの弱さを受け入れられないほど、ペテロは弱かったのでした。イエスさまのみあとを従って自分の十字架を背負ってついていくなど、今のペテロにはとんでもないことでした。 私たちも、イエスさまが十字架を背負われるこの場面を見て、目をそむけたくなるかもしれません。自分もそうなってしまったらどうしよう、そう思いませんか? でも、その一方で、そんなことを思う弱い自分は救われないかもしれない、そんなことも思いませんか?  しかし、神さまは、十字架を背負う備えにまだ至っていないクリスチャンが、そのように十字架を背負う自己犠牲の生き方ができなかったとして、そのことでその人をおさばきになるようなお方ではありません。イエスさまは、人がそのように弱いことをご存じです。なぜならイエスさまご自身が、弱い人間としてこの世界を生きられたからです。弱い私たちに同情することがおできになる方です。 いま私たちは、イエスさまのみあとをお従いするなどとてもとても、と思うかもしれません。でも、そんな自分を正当化しないで、それでもイエスさまのみあとを従っていける人になれますように、と、ともにお祈りするなら、それでいいのです。 イエスさまが十字架を背負われるために人のさばきを受けられたように、私たちも人のさばきを受けるがごとき迫害に引き出されることを恐れているでしょうか?  いえ、恐れていいですし、恐れるのが当然です。しかし、その恐れる私たちのその罪を十字架で引き受けるために、あえてイエスさまが人々の前で弱い姿を取られたことを、私たちは忘れないでまいりたいものです。 まさしく、神の弱さゆえに、私たちは神さまにお従いする強さをいただくのです。私たちのために弱くなられたイエスさまは、復活してこの上なく強いお姿で、いま私たちとともに歩んでくださっています。イエスさまから力をいただきましょう。 ペテロの第三の弱さ、それは、鶏が鳴くことを知っていたのに、それに備えられなかったことです。 イエスさまははっきり、鶏が鳴く前に3度あなたはわたしを知らないと言います、と予告されました。ペテロはこの警告に、相当なショックを受けたのではないでしょうか。しかしその一方で、鶏が鳴くとはどういう意味だろうか、と思ったかもしれません。 果たしてペテロは、3度にわたってイエスさまを知らないと言いました。3度目のことばに至っては、ほかの福音書の並行箇所を読むと、嘘ならのろわれてもよいと誓って「知らない」と言った、とあります。 ペテロは、これまでのイエスさまとの3年間の生活を、すべて「嘘」と片づけんばかりの勢いだったのでした。このイエスさまとの生活が嘘ではなかったならば、私は呪われたってかまわない。このときペテロは、まさかその直後に鶏が鳴くなどと、考えてもいなかったのでした。ということは、イエスさまの警告を信じてはいなかったということです。 実は、鶏が鳴くとイエスさまが警告されたことには、意味がありました。マルコの福音書13章35節と36節をお読みしましょう。 ここに、何と書いてあるでしょうか。鶏が鳴く、と、はっきり書いてあります。これは、世の終わりにイエスさまが再臨されるという文脈で、イエスさまがお語りになったことです。だから、目を覚ましていなさい。あなたがただけではなく、すべての人が。 こうして見ると、イエスさまが「鶏が鳴く」とおっしゃったことばのとおりになったのは、もちろん、単なる偶然という問題ではありません。でも、だからといって超自然的な預言をされたということにとどまる問題でもありません。 イエスさまのお語りになったことばのとおりになる世の終わりに際して、ペテロが霊的に眠っていたように、主の弟子として歩んできたつもりの者たちも、霊的に眠ってしまい、眠っているところを再臨のイエスさまに見られてしまうという、厳しい警告の込められたできごとでした。 霊的に眠るとは、みことばがよもやそのとおりになるまいと多寡を括る不信仰を意味します。イエスさまが再臨されると語られる以上、私たちのすることは、イエスさまが再臨されると信じることです。イエスさまが再び来られることに備えての準備を、日々怠らずに行うことです。それがみことばを信じるということです。 しかし私たちは、心が燃えていても肉体が弱い者です。イエスさまの再臨に備えなければ! と心が燃えても、その燃える心はなんと一時的なものでしょうか。たいてい私たちは眠ってしまっているものです。 そのように霊的に眠る不信仰に、私たちは絶えず置かれていることを素直に、謙遜に認める必要があります。みことばをそのとおりに信じる信仰は、神さまの恵みによってはじめて与えられるものです。 いえ、私は創世記1章1節から黙示録22章21節まで、聖書全体を信じています、とおっしゃいますでしょうか? それは結構なことですが、みことばを信じているということは、行いがそのとおりになっているということで証明されるものです。残念ながら私たちは多くの場合、信じていると口で言うほどには行いが伴っていないものです。 私たちが、すぐにでもキリストが来られるというみことばを読んでいながら、そのみことばを意識することのあまりに少ない生活を見ると、やはり本心では信じていないという事実を突きつけられます。 私たちは、このような不信仰の者であることをまず認める必要があります。私たちは自分が思っているほど、信仰のある者ではありません。いざというときに眠ってしまう弱さを身にまとっています。だからこそ、いつも目を覚ましていさせてくださいと、主に祈りつづける必要があります。私たちにその信仰がいつも保たれ、いつも祈りつづける者となりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。 ペテロの弱さは、私たちの弱さです。人前でイエスさまを知らないと言いながらイエスさまについて行こうとしてしまう弱さ、イエスさまのあとをついて迫害を受けることを避けてしまう弱さ、再臨に結実するみことばを信じきれない弱さ……。…

慰められる者も、叱られる者も、愛されている

聖書箇所;ヨハネの黙示録3:7~22/メッセージ題目;慰められる者も、叱られる者も、愛されている  3月11日が近づいてきました。そうです、あの東日本大震災から10年です。つい先日、またもや大きな地震が福島県と宮城県を襲い、その影響は私たちの町にまで及びました。私たちが今なお地震というものを意識し、コロナに備えて防疫を意識するのと同様、防災を意識する必要がある、気が抜けない、ということを思わされています。  現在私たちは、エペソの7つの地域にある教会から学んでいます。実はこの地域小アジアは、西暦17年に大地震に見舞われ、町が壊滅しました。そのことの持つ意味はのちほどあらためて語りますが、地震という現実の中、いやでも終末ということを意識させられていた彼ら小アジアのクリスチャンたちにとって、ヨハネの黙示録は終末のまことの希望を説くみことばとして、どれほど慰めを与えることばとなったことかと思います。  今日は7つの教会のうち最後の2つの教会を、まとめて扱います。読み比べると、きわめて対照的なおことばがかけられています。フィラデルフィア教会には慰めのことば、ラオディキア教会には叱責のことばです。 しかしそれなら、フィラデルフィアはみこころにかなって合格で、ラオディキア教会は失格なのでしょうか? そうと断言することはできません。大事なのは、どちらの教会にも愛なる神さまがお語りになり、あなたがたを愛している、と、親しく語りかけてくださっていることです。   愛しているということを伝える表現は、時と場合によって違います。ある人にはやさしいことばをかけつづける必要があるでしょうし、またある人には、厳しいことばをかけることで、その人を愛していることを示す必要があるでしょう。要は、どんな態度、どんな心で、その人に接しているかです。   神は愛です。だから、神さまが愛している存在、私たちクリスチャンに対しての神さまのお取り扱いは、いつ、どんなときにも、愛です。厳しくされているようでも愛です。冷たくされているようでも愛です。 神さまはこの2つの教会に、それぞれ、どのように愛を施してくださったのでしょうか? そして私たちはそこから、何を学ぶことができるでしょうか? 私たちがどうすることが、神さまのその愛にお応えすることでしょうか? ともに学んでまいりたいと思います。   まずは、フィラデルフィア教会にイエスさまがどのような愛をお示しになったか、見てみましょう。7節、8節をお読みします。   イエスさまはここで、ダビデの鍵を持っておられるとあります。そのダビデの鍵を持つお方が、イエスさまの名を否まなかったあなたの前に、だれにも閉じることのできない門を開いておいたとお語りになりました。   門とは、天国の門、新しいエルサレムの門です。フィラデルフィアもそうでしたし、この時代の都市は、周囲に壁がめぐらされている「城塞都市」でした。よそ者はおいそれと入れないようになっていました。入るには門を通らなければなりません。   フィラデルフィアは大きくて有力な都市でしたが、そのような町もさきほど申しました地震という自然災害の前には無力でした。たびたび起こる余震のたびに、人々は建物が崩壊する危険のある都市部を避けて、門から出て、治まって危険がないようならまた門から入るを繰り返しました。 そんなとき、門が閉まっていたら大変です。門が開いているかどうかは、まさしく、彼らの生活に直結した問題でした。そんな彼らにとって、門というものはとても近しいものでした。門と聞くと、天国、新しいエルサレムに入るためのまことの羊の門、イエスさまをすぐに連想したはずです。   天のエルサレムの門はしかし、そこにふさわしくない者には開かれません。ふさわしくない者が天国に入ったら、もうそこを天国と呼ぶことはできなくなります。そこでサタンは、人が天国にふさわしくない者になり、サタンと永遠の滅びをともにするように、あらゆる誘惑を仕掛け、自分の欲望にひかれて罪を犯し、もはや神の前に出ていかせないようにします。要するに、天国の門を閉じさせようとしたり、天国の門がどこにあるかわからないようにくらましたりするのです。  しかし、イエスさまは、その御名を否まないだけの信仰を、ご自身のみこころにかなう人に残してくださいます。フィラデルフィアの聖徒たちにもその信仰を残してくださったのでした。そういう人の前には、さあ入りなさい、あなたのすることは入ることだけです、と、天国の門を開いてくださいます。 この門はイエスさまが開いてくださった以上、人にも、サタンにも、閉じることはできません。入りなさい、とおっしゃっている以上、私たちは入るのみです。  ただ、イエスさまは、ご自身の名を否まなかったという行いそのものを評価して、人を御国に招いてくださるのでしょうか? たしかに、人前でイエスさまのことを知らないという人のことを、さばきの日にはイエスさまも知らないとおっしゃいました。そのおことばが私たちを従順に駆り立てるという要素も、たしかにあるだろうと思います。 しかし、ここでイエスさまがおっしゃっている「少しばかりの力」とは、ほんとうに文字どおり、「少しばかり」の力なのです。目に見えないほど小さな力です。さて、目に見えないほど小さい、といえば、何か思い出さないでしょうか? そうです、イエスさまがおっしゃった、からし種ほどの信仰です。 ほこりの粒のように小さいその種が蒔かれると、空の鳥が巣をかけるほどの木へと生長するように、イエスさまが大きくしてくださるものは信仰です。信仰とは、行いを生むものです。イエスさまを信じた、その信仰は最初小さくても、やがてその信仰は、いのちを懸けてイエスさまにお従いするほどにまで大きく、たくましくしていただけます。そういう信仰を持つ者として、イエスさまは天国に迎え入れてくださるのです。この信仰を大きく成長させてくださるのは、神さまです。 このみことばは、イエスさまの名を否ませる勢力が世に存在することを暗示しています。9節をご覧ください、にせユダヤ人、すなわち、サタンの会衆に属している者が、神の教会、キリストのからだなる教会を攻撃してくるというわけです。しかし、たとえからし種ほどのように小さく、また人には見えなくても、確実に信仰を与えられている者に、神さまは勝利を与えてくださいます。 にせユダヤ人とありますが、これは平たく言えば、「神さまを信じていると主張しても、神のひとり子キリストを信じない」人たちのことです。より正確に言えば、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、復活され、天に昇られ、のちにこの世をさばくために来られ、ご自身を信じる人たちを天国に入れてくださるお方であることを、信じない人たちです。 イエス・キリストを信じて初めて、人は神さまを信じたことになるのであって、神さまを信じているというだけでは、ほんとうの意味で信じていることにはなりません。このような世界は、イエスさまを憎み、イエスさまにつく私たちのことを憎みます。 しかしイエスさまは、9節にあるとおり、このような私たちのことを愛してくださいます。私たちはこの地上では人々から憎まれ、苦しめられますが、終わりの日にはイエスさまを信じる信仰のゆえに、永遠のいのち、天国という名の勝利を与えていただきます。 10節をご覧ください。全世界とはどこでしょうか? このみことばが語られた時代、地上に存在するどのキリスト教会においても、患難が存在していました。そういう意味では、全世界の教会は患難のもとにあったのでした。そうだとするとこのみことばははるか遠い未来のことを指していたわけではなく、まさにさらなる患難の中に投げ込まれようとしていたフィラデルフィア教会に語られたことばであることが分かります。 しかし、患難はこれで終わったわけではありません。それ以来2000年間、すべてのキリスト教会は患難の中にありました。キリスト教会の存在してきたこの世界が新しいエルサレムの中にあるのではなく、依然として罪の支配する世界、キリストに敵対する世界に生きている以上、患難は続いているのです。 それは、いわゆるキリスト教国と呼ばれた欧米にある教会とて例外ではありません。ほんとうの意味でキリストに従う人はいつも少数であり、そのような人や教会は苦しい思いをさせられてきました。いわんやこの日本においては、私たちクリスチャンはどれほど苦しみの中にあることでしょうか。 11節、「わたしはすぐに来る」。これが、2000年間語られてきたイエスさまのメッセージです。クリスチャンは、罪人の支配するこの世界で苦しむゆえに、イエスさまが来られて、私たちを天国に導き入れてくださることを待ち望むのです。そんな私たちにとって、イエスさまのこのみことばは慰めでありつづけています。 イエスさまはまだまだ来ない、もう来ない、などと思って、好き勝手なふるまいをするクリスチャンには、希望がありません。ただ、神さまではなく、人にどう見られるかを気にして、形ばかりの信仰生活を送っているだけです。 イエスさまは私たちを永遠の王として天国に迎え入れてくださるにあたり、王の冠を備えてくださいました。この、世の終わりの最高の栄光を見つめ、その日その日に主の栄光をあらわしつつ生きることなしには、私たちの人生に意味はありません。 サタンは神さまに嫉妬して、神さまに愛されている私たちに壮絶な誘惑を仕掛けます。私たちの罪がきよめられることを日々願い、悔い改めの生活を続けていないならば、私たちはいとも簡単に罪を犯し、救いにふさわしくない生き方に陥ってしまいます。 そうなると、私たちに用意された冠を見失ってしまいます。それが果たして、神の子どもとしてふさわしい生き方でしょうか? 地上の生涯とは、終わりの日にイエスさまから冠をいただき、イエスさまとともに永遠に統べ治める者とならせていただく備えをする時間です。忘れないでまいりたいものです。 そして私たちは、終わりの日に勝利を得て、神殿の柱とされるとあります。私たちは、いやだ、なりたくない、と思いますか? しかし、そうではありません。この地上で私たちの知っている、神殿と呼ばれる壮麗な建物が、むしろ、天国で永遠の礼拝をささげる私たちにかたどって造られているのです。 地上の神殿はどこまでも人間の手による建物であり、また、壊れます。しかし、天の神殿は、永遠に神さまのみそばで神さまを礼拝する私たちの麗しい姿です。私たちは永遠に神さまのみそばを離れません。何と感謝なことでしょうか! このように、神さまはフィラデルフィア教会の兄弟姉妹を愛されるゆえ、この天国のビジョンを示してくださり、この上もなく慰めてくださっています。 さて、それでは、ラオディキア教会のほうにまいります。ラオディキアは豊かな都市でした。純金が取引される金融の町、衣類の生産される町、また、目薬の生産で名高い町でした。これらの町の特徴が、イエスさまの語られた警告のみことばと深い関連がありますが、それはのちほど見てまいります。 西暦17年の地震のことをさきほど申しましたが、ラオディキアはその大震災で町が壊滅した後、ローマ政府による援助を拒否し、自力で再建しました。それほど経済的に豊かであり、都市として活力がありました。また、大都市としてのプライドがあったわけです。 そういうことを前提に17節のみことばを読んでみると、「あなたがたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っている」というイエスさまの見立ては、むべなるかな、といったところですが、イエスさまはそれにつづき、「実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない」と、きわめて辛辣な評価を下していらっしゃいます。 どういう点で彼らは叱責される教会だったのでしょうか? 15節、16節です。……ラオディキアは水資源が不足していて、北に9キロ離れたヒエラポリスとコロサイから水道を引いていたといいます。 ヒエラポリスは温泉で名高く、熱いお湯を引き、冷たい水で定評のあったコロサイからは飲み水を引きました。しかし、それだけの距離を流すと、お湯は冷め、水はぬるくなります。硬度の高い硬水はミネラル分が多すぎて、おいしくありません。 教会の応接室には、本田弘慈先生が揮毫された「霊に燃え、主に仕えよ」の色紙が額に入れて飾ってあります。牧師を引き継ぐにあたって宇佐神先生にプレゼントしていただいたものですが、いかにも、戦後の日本のキリスト教会で大いに用いられた本田先生らしいおことばで、これはローマ人への手紙12章11節のみことばです。「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」熱く燃えることは素晴らしいことであり、必要なことです。 しかし、冷たいことも必要です。「人の気持ちがわからないなんて、冷たいヤツ」という意味ではありません。箴言25章13節には「忠実な使者は、これを遣わす者にとって、刈り入れ時の冷たい雪のよう」とありますし、同じく25節には「遠い国からの良い消息は、疲れたたましいへの冷たい水」とあります。 イエスさまは、ご自分の弟子だからと一杯の水を飲ませる者は報いから漏れない、ということをおっしゃいましたが、まさにのどがからからに渇いたときの冷たい水です。その水を差し出すことは、キリストの弟子を愛することを実践することであり、それがすなわちキリストを愛することです。こうして見ると、熱いことは神さまに対して、冷たいことは人に対して、それぞれ愛を実践することの象徴と言えそうです。 ラオディキア教会は、神さまに対して熱心でもなく、人に対して親切でもなかったようです。そういうものはぬるくてご自身のからだの中に取り込めたものではない、吐き出すぞ、というわけです。イエスさまが吐き出す、ということは、キリストのからだの中から吐き出す、ということであり、それはつまり、キリストのからだなる教会の中から吐き出すぞ、という警告です。 あなたがたはみじめだ、哀れだ、貧しい、盲目だ、裸だ……、それなのにうぬぼれているとは何事か……。しかし、イエスさまは、そんな彼らのみっともない状況を目の当たりにされたからと、彼らをそのみっともなさにしたがっておさばきになることはしませんでした。 18節です。ここで、ラオディキアを特徴づける3つのものが登場します。神さまがほんとうに願っていらっしゃることを、反面教師的な皮肉を込めて語られたわけです。 火で精錬された金。精錬といえば何でしょうか? 箴言30章5節を見ると、「神のことばは、すべて精錬されている」とあります。そうです。ラオディキアの金融社会は純度の高い金に価値を見いだしていましたが、ラオディキアの教会は、金よりも貴いみことばを、混じり気のない乳のようにしっかり摂って成長する必要があったのでした。そうすれば、貧しくなくなります。 白い衣。これはこれまでも出てまいりました。天の御国に入るにふさわしい人が着せていただくものです。裸とは、アダムとエバ以来、恥として刈り取ることになった人間の罪の結果であり、これをほんとうの意味で覆うには、神さまに覆っていただかなくてはなりません。 目薬。盲目ではなくなるためです。イエスさまは盲人の目に泥を塗り、それを「遣わされた者」を意味するシロアムの池で洗うことで目が見えるようになる、というみわざを行われました。御父によってこの地に遣わされたイエスさまが、そして御父とイエスさまに遣わされた聖霊なる神さまが、私たちの閉ざされた目を開き、見えるようにしてくださるのです。そのためにはまず、自分は見えていないことを認める必要があります。…

「御前に完了する行い、愛」

a 聖書本文;ヨハネの黙示録3:1~6/メッセージ題目;「御前に完了する行い、愛」  前にもお話しした学生時代のことを、もういちどお話しします。ある日私は、学科の先輩と街を歩いていると、道端に占いをしている人がいました。先輩はそれを目ざとく見つけ、私に言いました。「武井くんも占ってもらいなよ。」しかし、占いなどとんでもないことです。私は言いました。「いえ、私はクリスチャンなので、占いはしないんです。」すると先輩は言いました。「えー、武井くん、『キリスト教』を信じてんのー?」  先輩の言っていることもわかりますが、私はそのことばに、少し違和感を覚えました。私はイエスさまを信じています。でも、「キリスト教」という「いち宗教」を信じているかのように言われたように思えて、心外でした。  のちに私はいろいろ見聞を深め、私たちの聖書信仰とその実践を「キリスト教」という客観的な呼び方をすることにやぶさかではなくなりました。が、それでも、私たちクリスチャンが「キリスト教」という宗教をやっているわけではない、という私の立場に変わりはありません。  問題なのは、クリスチャンがあたかもほかの宗教を信じるのと同じような流儀で「キリスト教」という宗教をやるということです。こういう人たちも自分のことをクリスチャンだと思うでしょうし、世間もクリスチャンと呼んでくれるでしょう。でも、神さまの側からしたらどうでしょうか。人間的に見たら確かに立派かもしれませんが、実際には、神さまとの交わりもない、神さまの愛を守り行いもしない、そういう人をクリスチャンと呼んでいいのか、ということにならないでしょうか。  本日学びますみことばに登場しますサルディス教会も、そのような、名ばかりクリスチャンという問題を抱えていました。私たちが、名ばかりクリスチャンにならないようにするためにはどうすればよいか、サルディス教会を反面教師として、以下、ともに学んでまいりたいと思います。    サルディスは、7つの教会の中で地理的に中央にあり、交通の要衝でした。エペソからは東に80キロメートルの地点に位置する交通の要衝で、エペソの女神アルテミスのような、死者を生かす力があると崇拝されていたキベレの神像がありました。  キベレに死者を生かす力があったと信じられていたことを考えると、サルディスにおいては、死者の復活を説くキリスト教会に対して、一般人からも一定の評価が与えられていた可能性が考えられます。実際、サルディス教会は生きている教会という、人からの評価があった模様です。 生きている教会、という代名詞。私たちもそう言われたいでしょうか。でも、教会が生きているって、どういうことでしょうか。生きているというからには、いかにも荘厳な礼拝がささげられていたのでしょうか。教会員たちが活発に奉仕していたのでしょうか。立派な建物を有していたのでしょうか。  しかし、人が何と考えようと、神さまの御目から見れば、生きているとは名ばかりで、実際は死んでいました。生きているとは名ばかりで実際は死んでいる。それは、ヤコブの手紙にもあるとおりの、ある種のクリスチャンの生きようであり、彼らは、自分には信仰があると自負していても、実際にはそれに見合うだけの行いがないという生き方をして、ヤコブに責められていました。  神さまに認められる行いは何でしょうか。それは、神の国をこの地に立てよという主イエスさまのご計画を成し遂げることです。それは、みことばを機械的に守り行うという行いではなく、イエスさまを心から信じているゆえに、そのあふれるばかりの心で自発的に神を愛し、人を愛そうという、具体的に身を結ぶ行いです。そのような行いの実を結ぶ信仰生活をしないならば、クリスチャンはその信仰生活は形ばかりの宗教生活になり、実際は世を愛するようになり、道徳的に堕落するようになります。  サルディス教会のその行いを主がご覧になり、「生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」と評価なさったにあたって、主は、サルディス教会に対する外部からの迫害ですとか、ユダヤ人による挑戦、教会内部の葛藤といったことを語っておられません。それは、それだけ、サルディス教会が世に妥協し、同化するようになっていたことが考えられます。  このような教会に対し、主はおっしゃいます。「目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい」。死んでいる、というのが主の評価ですが、それでも、信仰の炎がわずかに灯っていて、まだ死んでいない、そんな信仰の友を力づけなさい、と、命令されています。  このように語られると、ああ、死にかかっているのはほかの人で、自分はまだ大丈夫だ、などと思ったりしないでしょうか? しかし、英語や韓国語の聖書ですとか、リビングバイブルや柳生(やぎゅう)訳のような翻訳を読むと、これは、「あなたの」死にかかっている信仰の力を振りしぼれ、となります。責任はほかの人にあるのではありません。ほかならぬ、私たちひとりひとりにあるのです。  力を振りしぼって何をするのでしょうか? 主はおっしゃいます。「わたしは、あなたの行いが神の御前に完了したとは見ていない。」そうです、することは、行いを「完了させる」ことです。  でも、私たちはどうやって行いを「完了する」のでしょうか? 果たして行いで神さまに認められることなどできるのでしょうか? そこで私たちは、完了する、ということばを、掘り下げて考えましょう。私たちは「完了する」というと、何か連想しないでしょうか? そう、イエスさまが十字架のうえでおっしゃったことば、これが「完了した」でした。  主がサルディス教会を評価されるにあたっておっしゃった、「行いが完了した」は「プレロオー」という原語ですが、これはイエスさまが十字架でおっしゃった「完了した」というおことば「テテレスタイ」の基本形「テレオー」と、ほぼ意味が同じです。聖書によって「完了した」というイエスさまのおことばを「成し遂げられた」という別の表現で訳し分けるようなものです。つまり、サルディス教会に求められていた行いの完了は、イエスさまの十字架による行いの完了ということを抜きにしては語れないのです。  形だけみことばを守り行っていればいいという律法主義、どうせ許されているから何をやってもいいという無律法、どちらも間違いです。イエスさまは人に守れなかった、つまり完成できなかった律法を、十字架におかかりになることによって完成されました。 人は、イエスさまが完成してくださった律法を、守り行って救いを得るための手段ではなく、イエスさまが完成してくださったゆえに積極的に守り行うように変えられたのです。行いの完了は一生ものです。イエスさまを信じ受け入れることがまずは大前提となりますが、そのように信じてからは、イエスさまとともに歩む生活を欠かしてはなりません。私たちは行いを完了できません。主が完了してくださった、この信仰に歩み、その主のご栄光を積極的に現わそうと、愛の行いを主の御目から見た完了、完成に向けて日々こつこつと積み上げていくのです。  その歩みをしていくために必要なのはどんなことでしょうか? 3節をご覧ください。みことばを思い起こし、守り行い、悔い改めることです。まことの悔い改めも回復も、みことばをお聴きして、そのみことばに従順にお従いすることに始まります。その歩みをするために、私たちは日々みことばをお読みするのですし、お祈りをするのです。  しかし、ほとんどの場合、みことばをお聴きすることは個人的なことです。つまり、人の目に見えないところで自分から行うべきことです。教会によっては、聖徒たちが日々ともに主の御前に出るための取り組みとして、毎日の早天祈祷会を持っているところもあります。私はかつて、そういう教会で長らく副教職者として働いたものでしたが、一日でも早天祈祷会を休むと、主任牧師から烈火のごとく叱られたものでした。 事程左様に、主の御前につねに出てみことばを聴き、お祈りすることは大切なことなのですが、それならと、人の目に見えている早天祈祷に出てさえいればあとは大丈夫、というものではありません。大事なのは、人の見ていないところでも、きちんと主とお交わりを持つことです。私が教会のみなさまのために祈っていることは、みなさまが教会に集うときはもちろんのこと、教会に集っていないときにも、欠かさずに主とのお交わりを持つことです。 私たちがその敬虔な歩みをする上での最大のモチベーション、それは、主は近い、ということです。いつ主が来られるかわからない、それは、聖書が一貫して語っているメッセージです。 私たちは人に見えるところは敬虔でも、実際は肉にしたがう生活をしているならば、そこに再臨のイエスさまが来られたとき、果たして恥ずかしくなく御前に立てる自信、というより確信があるでしょうか? 大丈夫と言い切れますでしょうか? だからこそ私たちは再臨のイエスさまを意識して、たえず目を覚まし、悔い改めている必要があるのです。 ただ、私たちは夜になると必ず眠らなければならないように、私たちはその肉の弱さゆえに、戸口で待ち伏せする罪に対処できなくなることがあるものです。魔が差した、ということばがありますが、悪魔はそのように、時に罪を犯す私たちを罪に定め、おまえにはもはや神の赦しなどない、などというような攻撃を加えます。 そういう、今なお肉が生きていて、誘惑に惹かれる私たちであることを思うならば、目を覚ましつづけることに自信が持てなくなりもするでしょう。しかし、そのような私たちは、4節以下の神さまの御約束に目を留める必要があります。神さまが「その衣を汚(けが)していない」と評価してくださる、その評価をお受け取りできるのは、いったいどのような人でしょうか。  ヨハネの黙示録19章8節を見てみますと、聖徒の正しい行いは、花嫁なる教会が花婿なるキリストに嫁ぐにあたって身に着ける亜麻布のきよいウェディング・ドレスである、とあります。正しい行いとは機械的に正しくみことばを守り行うことではなく、イエスさまとの生きた交わりの中から生まれる自発的な従順、愛の具体的な実を結ぶことです。  きよい衣とは、純潔な花嫁としてキリストに嫁ぐ者にふさわしい、純潔な信仰を意味します。このイメージは、勝利を得る者に着ることが許される、白い衣のイメージとよく合致しています。実に、純潔な信仰とは勝利なのです。先週礼拝で歌いましたとおり、信仰は勝利なのです。 あとでおうちにお帰りになったら、旧約聖書のゼカリヤ書3章のみことばをお読みいただきたいのですが、このみことばをお読みすると、時の大祭司ヨシュアが神の法廷に引き出され、サタンに告訴されている場面が出てきます。神の民を代表して神の前に出るべき大祭司がサタンに告訴されたとは、ただごとではありません。 このときヨシュアは神の法廷において、汚れた服を着て神の御前に立ち、いかにも聖い神さまのしもべにふさわしくない姿でいました。しかし神さまは、ヨシュアを受け入れ、御使いはヨシュアの汚れた服を脱がせ、主の御前に立つにふさわしい礼服を着せました。 イエスさまが信仰により勝利を得る者に白い衣を着せ、その名を父の御前と御使いたちの前で言い表すとは、そういうことです。神の法廷において無罪を宣告し、それでも時に罪を犯してサタンに告訴されるような、その罪を十字架の血潮によって洗いきよめてくださり、かえって罪を告訴するサタンをとがめ、さばかれるのです。身に着けているものはきたない服ではありません。天国、新しいエルサレムに入る礼服である、白い衣です。 この者の名を、神さまはいのちの書から消すことは決してなさらないとあります。これは、いのちの書から消される人もいることは有り得る、という意味ではありません。決して消しはしない。つまり、必ずあなたを天の御国に入れる、と、強く約束してくださっているのです。 私たちは、自分はもしかしたら天国に行けないかもしれない、神さまはもしかしたら、自分の罪を赦してくださらないかもしれない、などとは、絶対に考えてはなりません。サタンは大胆不敵にも、大祭司ヨシュアを罪に定めて神さまに告訴しましたが、神さまにとがめられたのはヨシュアではなく、むしろとがめたサタンでした。 ヨシュアを罪に定めたサタンは私たちのことも告訴しますが、私たちもヨシュアと同じように、勝利する者にふさわしくきよい衣を着せていただけます。私たちも時に罪を犯します。あたかもそれは、着ている服が汚れるようなものです。 しかし、私たちには悔い改めの機会が残されています。その機会があるうちに御前に出て悔い改めるならば、神さまは私たちの罪をことごとく赦してくださいます。悔い改めは恥ずかしいことでも、みっともないことでもありません。私たちのことを天国に入れてくださっている神さまとの絆を確かめる、またとない恵みの時間です。 サルディス教会は宗教的にはすぐれた評価をもらっていたようでも、このような白い衣にふさわしい信仰の人がとても不足していました。私たちはどうでしょうか? サルディス教会のような、生きているとは名ばかりで実は死んでいる、という評価をいただかないようになりたいものです。 使徒パウロは第二コリント6章9節で、サルディス教会に対するこの神さまの評価と正反対の告白をして、「死にかけているようでも、見よ、生きており」と、キリストが内に生きる者の充実した人生を喜んでいます。パウロの告白は私たちの告白でしょうか? パウロはキリストのあとを追って十字架を背負う生き方をしましたが、それが真実に生きる道でした。 私たちは世と妥協して生きる道を選ぶならば、死にます。しかし、キリストのあとにしたがって日々自分を十字架につけるならば、生きます。私たちは生きたいでしょうか、死にたいでしょうか? 言うまでもないことです。しかし、私たちが真に生きるためには、キリストのゆえに自分を差し出し、神と人に仕える愛の実践が必要になります。 愛の実践、それが、神さまの御目から見て、行いが完了することです。私たちはそのようにして、神さまの律法、愛の律法を完成させてくださったキリストが内に生きる生き方をみことばへの従順によって実践してまいりたいものです。そして、その生き方がともに実践できたならば、兄弟姉妹でともにキリストの御名をほめたたえたいものです。 その生き方を日々していくならば、私たちはキリストがいつ来られても、恥ずかしくなく御前に立つことができます。私たちはイエスさまを待ち望んでいますでしょうか? 再臨を待望するなら、ますます、愛の行い、神の栄光の行いをこつこつと、ともに積み重ね、神の栄光を日々現わしましょう。イエスさまの再臨に向けて用いられる私たちとなりますように、用いられることを日々目指し、みことばの実践に日々取り組む私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

「イゼベルが毒そうとも」

聖書箇所;ヨハネの黙示録2:18~29/メッセージ題目;「イゼベルが毒そうとも」 今日の箇所には「あの女、イゼベル」という表現が出てまいります。前回のメッセージの箇所で問題にされたのはバラムでしたが、今回はイゼベルです。今回も旧約聖書の箇所を参照しながら、黙示録のみことばを学んでまいりたいと思います。 今回のみことばの舞台は、ティアティラです。ティアティラは、主がヨハネにメッセージを送るように命じられた7つの教会のあるアジアの都市の中で、最も小さい都市です。前回学んだペルガモンからは60キロメートルほど南東の方角にあり、街道が交わる交通の要衝でした。ティアティラは商工業都市として発達し、銅細工や亜麻布、皮革加工、染め物、羊毛の紡績などがその主な産業で、そのようないろいろな職業の同業組合、ギルドが形成されていました。このギルドについては、のちほどあらためて触れたいと思います。 ティアティラはけっして大きな町ではありません。しかし、この教会に宛てられたメッセージは12節分にもなり、7つの教会の中ではいちばん長いメッセージになっています。このティアティラ教会に対するイエスさまのお姿は、18節にあるとおりです。「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝く真鍮のような神の子」……。 このお姿は、前に黙示録1章でも学びましたが、ダニエル書10章6節でダニエルが見た幻のとおりの、預言されていたさばき主なる神の子です。イエスさまは十字架におかかりになっただけのお方、しもべとして弟子たちの足を洗われただけのお方ではありません。最後にはこのような恐るべき栄光に満ちたお姿で現れるお方です。 イエスさまは燃える炎のような目で、万物を見通されるお方です。人というものは、できれば暗闇の中に閉じこもり、罪の習慣をやめないでいたい存在です。イエスさまは燃える炎のような御目をもって、そんな私たちのことを照らされ、その罪を明るみに出され、悔い改めへと促されるお方です。 そして真鍮のような足、真鍮は銅の合金であり、銅細工で栄えたティアティラにとっては近しい存在ですが、イエスさまはこの栄光に輝く御足で、敵であるサタンとそれにつく勢力を踏みつけられます。まことに真鍮のような御足は、イエスさまの絶対的な勝利を象徴しています。 このようなお姿で現れたイエスさまは、まずティアティラ教会をほめていらっしゃいます。19節です。 ……ティアティラ教会のした行い、そしてティアティラ教会の愛、信仰、奉仕、忍耐が、主の御目から見て素晴しいものであったというのです。 『リビングバイブル』というバージョンの聖書は、この「行い」と訳された箇所を、具体的にこのように解釈しながら訳しています。「わたしは、あなたが貧しい人々に親切にし、物資を援助し、めんどうを見てやったことを知っています。」こうして見ますと、ティアティラ教会はけっして内向きではなく、外に向けて主の御目をもって関心を払い、それ相応の活動をしたという点で、模範的だったことが見えてきます。 そして、「初めの行いにまさる、近ごろの行い」ということばにも注目しましょう。「初めの行い」とは何でしょうか、神の愛です。そのことを、以前エペソ教会に宛てられた黙示録のメッセージから学びました。神の愛なくしては、どんな行いにも意味がありません。神の愛のない行いなど、すべては悔い改めるべき、神さまから見ればピントの外れた行いです。 しかし、人が神の愛にほんとうにとどまるなら、そこからさらに素晴らしい行いの実が具体的に結ばれていきます。神さまを愛しています、と、口だけ言っているようでは成長がありません。神さまが愛してくださっているのに、自分の愛はなんと貧しいことか、と悩み、その愛のなさを恥じて悔い改め、神さまに拠り頼んでいくならば、神さまは愛するための具体的な実践を与えてくださいます。 このような成長は、当たり前にできることではありません。少しでも神さまに認めていただけるだけの成長を遂げさせていただいたならば、それは大きな恵みというものです。愛する実践ができるようになったならば、自分を誇ることなどできません。神さまにすべてのご栄光をお帰しするのみです。 そういう点で、ティアティラ教会は実践の伴う成長の恵みを体験していた、素晴らしい教会でした。異邦の社会、異教の社会の中にあって、これだけの成長を遂げることは、なかなか簡単なことではありません。この成長という課題は私たちも取り組んでいることで、対外献金、対外奉仕においてまだまだ貧しいことを思いますが、私たちもティアティラ教会にならって、ささげるという成長、奉仕するという成長を遂げさせていただきたいものです。 そんなティアティラ教会でしたが、大きな問題を抱えていました。イエスさまが「イゼベル」と呼んでおられる女性が、教会の信徒たちを毒し、悪い方向に導いていたのでした。 イゼベルは何者でしょうか? 彼女のことは、列王記第一16章から列王記第二9章のあいだに出てきます。その間に、イスラエルの霊的指導者はエリヤからエリシャへと交替していますが、実際のイスラエルは、アハブ王によってバアル崇拝が採り入れられ、霊的に大変暗い状態にありました。聖書はこのようにしたアハブ王に、「彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行(おこな)った」と、最悪の評価をしていますが、その背後にいたのはイゼベル王妃でした。 列王記のアハブの箇所を読んでみますと、アハブはたしかに悪い王さまでしたが、異邦からバアル神礼拝を持ちこみ、イスラエルに定着させたイゼベルのほうが、はるかに邪悪な印象を与えないでしょうか? 雨乞合戦に勝利したエリヤを脅迫して失脚させたことしかり、ナボテのぶどう畑を奪うために偽りの証言を用いてナボテを殺させたことしかり、実に恐ろしい女性です。 神の国を統べ治めるべき王をこのように籠絡し、国全体を堕落させる存在……これがイゼベルであるわけですが、ティアティラ教会にはこのような、イゼベルのごとき堕落をもたらす教えを宣べる女性がいた模様です。 この、「イゼベル」が教会に対し、どのようなことを行なっていたかということは、20節に書かれているとおりです。……これらのことは、先週学びました「バラムの教え」と共通します。民数記を見てみますと、イスラエルの堕落はモアブの女と淫らなことをし、偶像に備えたいけにえを食べることで宗教的におかしくなったことによるものですが、この背後にはバラムがいました。 バラムの教えがペルガモン教会を毒したことは、その教えに惹かれたクリスチャンたちの責任であることは先週学んだとおりですが、同じように、ティアティラ教会のクリスチャンたちも、この罪に惹かれる性質が取り扱われる必要があったのでした。 この問題の取り扱われ方は、エペソ教会のケースと対照的です。エペソ教会はおかしな教えを排除するだけの純潔さを持ち合わせていましたが、イエスさまの愛を失っていました。反対にティアティラ教会は、イエスさまの愛の実践に満ちていましたが、純潔さを失っていました。どちらに傾いてもならないのです。純潔であるのと同時に、愛に満ちあふれる……実に難しいことです。それだからこそ、難しいということ、つまり、人にはできないことを認めて、少しでも神さまに拠り頼む姿勢が必要になってきます。 しかし神さまは、イゼベルのような教会に腐敗をもたらす者を、すぐに一刀両断におさばきになるわけではありません。悔い改めの機会をくださいます。 問題は、悔い改めの機会がふんだんに与えられているにもかかわらず、悔い改めない、その行いを改めずに、相変わらず教会をむしばむことをやめないことです。 悔い改めない者の教えに従う者は同罪、同じように悔い改めないで神さまに反抗し、敵対している者と見なされます。そのような者たちに神さまは何をなさいますでしょうか? 22節、23節です。 これはもはや、悔い改めに導く「懲らしめ」ではありません。悔い改めないことに対する「さばき」です。このような「さばき」に関するみことばを、脅しですとか、冗談のように取ってはなりません。神さまはイエスさまの十字架によってすべての罪を赦されたのだから、何をしても大丈夫だ、というように振る舞ってはなりません。それは十字架というものを根本から誤解していることです。 主の晩さんのたびに毎回お読みしている第一コリント11章のみことばは、29節までにしていますが、29節の「みからだをわきまえないで食べ、また飲む」とは、イエスさまの十字架がどのようなものかわきまえない、ということです。 そういう人がどうなるかを、続く30節が語ります。「あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。」これは象徴、シンボルではありません。現実に病んでいるではないか、死んでいるではないか、それが恐ろしいならば、さばきを受ける前に、キリストのみからだをわきまえよ、ということです。 十字架によって罪赦されたことを知るなら、十字架にかかられたイエスさまをつねに見上げてしかるべきです。ああ、私はイエスさまを十字架につけてしまったとは、なんという罪人だろう。しかし、そのような罪を完全に赦してくださったとは、何と感謝なことだろう! 私たちが主の晩さんにあずかるのは、このように、十字架にかかって私たちの罪を完全に赦してくださったイエスさまのみからだにあずかることであり、このようなもったいない恵みをいただいている私たちは、ことさらに罪を犯すことから守られるべく、主のあわれみにすがっていく必要があります。 ヘブル人への手紙10章26節と27節には、このようにあります。「もし私たちが、真理の知識を受けた後、進んで罪にとどまり続けるなら、もはや罪のきよめのためにはいけにえは残されておらず、ただ、さばきと、逆らう者たちを焼き尽くす激しい火を、恐れながら待つしかありません。」 神さまのあわれみを軽んじ、平気で罪を犯しつづけるような者は、滅びる以外ないのです。ティアティラ教会に現れた「イゼベル」は、まさにこのさばきに該当する者であり、主の正しい教えよりもこのような異端的な教えを選ぶような者たちも、やはりこの死のさばきを受ける者となります。 私たちの教会に異端的な教えを持ち込んではならないのは、そうしないと私たちは「死ぬ」からです。「死ぬ」といっても「即死」とはかぎりません。この「死ぬ」ということに関しては、アダムに宣告された「あなたは必ず死ぬ」という警告を思い出しましょう。死ぬとは、もはや神さまとのいのちの交わりを持つことができなくなることです。 教会につながるとは、神さまの与えてくださるまことのいのちの中にとどまることであるはずなのに、それは形だけで、いのちもなにもない、生きていても死んでいる者になる……実に恐ろしいことです。私たちが「即死」していないとか、「どうせいつかは死ぬのだから」という問題ではないのです。神さまとのいのちの交わりが持てない恐ろしさを、私たちはもっと考える必要があります。 私たちが神さまを恐れているならば、このようなことを単なるシンボルと受け止めるにとどまるのではなく、心底みことばを恐れ、悔い改める機会が残されているうちに悔い改めることです。 しかしイエスさまは、このような教えに毒されていない聖徒たちに対しては、最大級の慰めのことばをかけてくださっています。24節のみことばです。…… 「イゼベル」の邪悪な教えを受け入れないということは、「サタンの深み」を知らないという、よいことであるというメッセージです。この「サタンの深み」ということばは、第一コリント2章10節に出てくる「御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られる」というみことばに対応しています。御霊なる神さまは神の深みを私たちに示してくださいます。 これに対して「イゼベル」は、あたかも自分が神さまや聖書について何でも知っているかのように振る舞い、教えますが、所詮彼女の知っていること、教えていることは「神の深み」ではなく「サタンの深み」であるということです。 このように、「サタンの深み」を知らないということは、素晴らしいことではありますが、たいへんなことでもあります。「イゼベル」の教えに一線引けるならばよいことですが、この町にはもともと、太陽の神であるテュリムノスを祭る神殿があり、ユダヤ教と異教の混合した迷信的、魔術的宗教が支配していました。 先にも述べましたが、ティアティラにはいろいろな産業のギルド、同業組合が発達していました。この同業組合はもちろん会合を持つわけですが、その会合は神殿における異教的な儀式と関連を持っていて、この異教的なギルドに関わる以上、不道徳な慣習に従わなければならなかったといいます。 これは、つい4分の3世紀前までの日本のキリスト教会の姿でもあります。礼拝にあたっては、父なる神さまを礼拝する前に、宮城遥拝、天皇のいる方角に向かって拝礼することを先にしなければなりません。歌う讃美歌はイエスさまをたたえるというよりも、皇国日本をたたえる歌です。聖書の解き明かしはあたりさわりのないことしか言えず、多くは「詩篇」から語られるしかなかったそうです。「日本は天皇中心の神の国だ」という、国家神道原理主義がすみずみまで支配していた日本に、何の信教の自由があったというのでしょうか。 偶像神に支配されたギルドにがんじがらめにされたティアティラ教会の労苦は、のちの日の日本の教会の労苦であり、その延長線上にいまの日本の教会が味わう自由があることを、私たちは決して忘れてはなりません。 しかし、ティアティラ教会の純潔な信徒たちには、ほかの重荷を負わせないとも、イエスさまは言ってくださっています。ほかの重荷とは何でしょうか? それは、信徒たちお互いが愛し合うことです。ローマ人への手紙13章8節には、このようにあります。「だれに対しても、何の借りもあってはなりません。ただし、互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。」 ティアティラ教会はイエスさまの御目には、愛するということにおいては合格していました。このような苦しい中でよくやっている、と、慰めてくださっています。それ以上の重荷は負わせません、と、主は言ってくださいます。 25節の「持っているものを保つ」ということは、純粋に神さまを愛し、兄弟姉妹を愛するということです。イゼベルのごとき者は論より証拠のようなことをして、教会を毒しにかかります。 しかし、神さまに対する私たちの愛が本物なら、聖書の教えに反する教えは徹底して排除しにかかれるはずですし、兄弟姉妹に対する私たちの愛が本物なら、兄弟姉妹が間違った教えに毒されてしまわないように努めるはずです。 こうして、神と人に対する愛に裏打ちされた私たちの信仰告白は保たれ、イエスさまが再び来られるときに、恥ずかしくなく御前に立つことができます。そして来たる世で主とともに統べ治め、明けの明星のような御子の栄光を永遠に仰いで、主をほめたたえる者とならせていただきます。 私たちの生きる世界は、多くの制約があり、神さまに純粋にお従いすることもままならない中に生きています。しかし神さまは、そのような中で苦しむ私たちのことを決してお忘れになりません。ただでさえ苦しむ私たちを毒そうとする勢力は、神さまがおさばきになります。 終わりの日に花婿として私たち教会を迎えてくださるイエスさまの御前に、しみも傷もない姿でお立ちすることは、イエスさまの十字架の血潮に日々拠り頼むことなくしては不可能です。私たちの労苦をご存じの主に心からの感謝をささげ、なお、神さま以外のものに影響を受けたい、罪深い性質がきれいに洗われ、終わりの日に、イエスさまの御前に恥ずかしくなく立つ私たちとなれますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

「悔い改めるのは私たち」

聖書本文;ヨハネの黙示録2:12~17/メッセージ題目;「悔い改めるのは私たち」 笑い話などというべきではないエピソードを、まずご紹介します。それは戦時中、クリスチャンが天皇にまつろわぬということで迫害された時代のことです。牧師のような多くのクリスチャンが警察に連行され、厳しい取り調べを受けました。 そのような中で、このように迫る刑事がいたそうです。「天皇陛下とキリストとどちらが偉いか!」そのように問われた牧師先生は、知恵を用いてこのように答えたそうです。「畏れ多くて、お答えできません!」 すっかり平和になった現代では、このような話も笑い話で済みますが、恐怖の支配していたその時代においては、信仰の先輩たちはどれほど大変な目にあっていたことだろうかと思わざるを得ません。 しかし、日本がそのようだったのは、まだ4分の3世紀にもならない、ごく最近のことです。その時代を生きた人で、まだご健在の方は多くいらっしゃいます。はるかむかしの話ではないのです。 私は何も、現代にも殉教がいつ起こるとも知れないから備えなさい、などと脅かしているわけではありません。しかし私たちは少なくとも、この平和の許されている時代において、聖書に学び、歴史に学ぶことはしてもいいのではないでしょうか? そうすることで私たちの従順の歩み、主の栄光をあらわす歩みは、一本芯の通ったものとなるはずです。 それでは早速、今日のみことばの解き明かしに入りたいと思います。今日は7つの教会の3番目、ペルガモンの教会への使信です。ペルガモンにメッセージを伝えるイエスさまは、どんなお方でしょうか?「鋭い両刃(もろは)の剣を持つ方」とあります。 黙示録1章16節にあるとおり、ヨハネが見たイエスさまは、両刃の剣が御口から出ていました。両刃の剣とは何でしょうか? お開きにならないでいいですが、ヘブル人への手紙4章12節には、このようにあります。……神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。 両刃の剣とは、イエスさまの御口から出るひとつひとつのみことばです。みことばはいのちのパンとして私たちを養いますが、それは私たちの快楽のためではありません。私たちの不要な部分、罪深い部分が取り除かれるためです。私たちはそのような部分が自分たちから取り除かれることにおいて、妥協してはなりません。 ペルガモン教会は、偶像礼拝の風土の中で大変な迫害の中にありました。しかし、そのような教会ではあっても、手放しに礼賛(らいさん)されていたわけではなく、正されるべき部分はあったのでした。主のみことばは容赦なく臨みます。このあたりのことは、のちほど詳しく見てまいります。 13節のみことばです。主は、ペルガモンという年がどういうところかを知っていると、慰めのおことばをかけてくださっています。どういう都市か、というと、サタンの王座がある、そういう都市である、ということです。 ペルガモンは、前回学びましたスミルナから北に60キロメートル、海抜300メートルの谷間の町で、ライバル関係にあったアレクサンドリアやアンテオケに代わる第一の都市になろうとしていました。 ペルガモンは海に近く、下から仰ぎ見るとまさに巨大な王座のように見えたといいます。そのペルガモンは、ローマの初代皇帝アウグストゥスを祭る神殿を山の頂に建て、紀元29年、つまり、イエスさまの公生涯がまさに始まろうとしていたときにはすでに、皇帝崇拝の中心地になっていました。初代教会のクリスチャンたちが、イエスさまを礼拝するのではなくローマ皇帝を崇拝するように強要されていたことを考えると、この都市にあるものはサタンの王座であると主がおっしゃったのはもっともなことです。 もともとこの地は、紀元前2世紀にすでに、いやしの神であるアスクレピオスを礼拝する宗教を国家宗教として取り入れていました。アスクレピオスは蛇使いでもあるので、サタンの象徴である蛇を司る者としての礼拝を人々から受けていたことになります。そういう点でも神さまの御目から見れば、この都市はサタン的でした。そのほかにもゼウス礼拝など、あらゆる偶像礼拝の巣窟でもあり、この地のキリスト教会は大変な思いを味わわされていました。 このような中で、イエスさまご自身が「わたしの確かな証人」とまで、最大級の賞賛をくださっているアンティパスが殺されたのでした。アンティパスは、ペルガモン教会の監督だったと伝えられています。一説によるとアンティパスは、雄牛のかたちをした青銅の桶の中で焼き殺されたそうです。それが事実であるにせよそうでないにせよ、ペルガモン教会は指導者をむごたらしいかたちで失ったことは事実であり、そのショックはどれほどのものだったことかと思います。しかし、ペルガモン教会はそのようなおびやかしにも負けずに、イエスさまに対する信仰を捨てませんでした。 サタンはときに、キリスト教会の指導者を打ちます。殉教という形で教会に恐怖を与えるかもしれません。あるいは、金銭、異性、権力といったことを用いて指導者を堕落させ、教会に動揺を与えるかもしれません。また、今回のコロナのようなこと、あるいは少し前でしたら震災のようなことを通して、指導者に過度のストレスを与え、教会に重圧を与えるかもしれません。 このようなとき、指導者が普段からどのような牧会をしてきたかが試されます。指導者である自分ではなく、キリストに結びつかせる牧会をしていたならば、指導者に何かあっても、かしらであるキリストに教会は堅く結びつくことができます。しかし、もし指導者が、自分がいなければ教会は成り立たない、とばかりに振る舞うならば、羊飼いが打たれたら、教会という羊の群れは散り散りになるのです。 ペルガモン教会は、アンティパスではなく、イエスさまに結びついていたと言えたぶん、褒められるべき教会でした。しかしです。ペルガモン教会には取り扱われるべき問題がありました。14節です。……ペルガモン教会には、バラムの教えをかたくなに守る者たちがいた、ということでした。 バラムとは何者でしょうか? おひらきにならないでいいですが、旧約聖書の民数記を見てみますと、バラムとは、民数記22章以下に登場しますが、イスラエルを恐れたモアブの王バラクは占い師バラムをお金で買収し、イスラエルをのろわせようとします。絶対者なる主の霊的な祝福を呪いに変えることで、イスラエルを没落させようとしたのでした。 バラムがもし、主のみこころにほんとうに通じていたのならば、バラクの要請をぴしゃりとはねのけるべきでした。しかしバラムは、もしかしたら、と態度を保留しつづけ、神さまがとどめておられるにもかかわらず、イスラエルをのろう祈りを強行しようとしました。だが、それに反して、神さまはバラムの口に、イスラエルを祝福する祈りを授けられました。バラムはイスラエルを4度にわたり祝福したのでした。 このとき、バラムは、「主のことばに背くことは、良いことでも悪いことでも、私の心のままにすることはできません。主が告げられること、それを私は告げなければなりません。」と、怒り狂うバラクに語っています。これだけを見ると、バラムは素晴らしい主のしもべのように見えます。 だが、バラムはのちにイスラエルによって処刑されたのでした。民数記のその記述だけを読むと、主のしもべがなぜそのような目に!? と思わないでしょうか? しかし、このバラムの一連の祈りのできごとのあと、モアブにいたイスラエルの民は、モアブの娘たちに招かれて偶像のいけにえの飲み食いをし、神々を拝み、モアブの娘たちと淫らなことをしたのでした。これによって主の怒りがイスラエルに臨みました。 なぜ、イスラエルにこんなことが……と思いますが、民数記31章16節を読むと、「この女たちが、バラムの事件の折に、ペオルの事件に関連してイスラエルの子らをそそのかし、主を冒瀆させたのだ。」とあるように、その黒幕にバラムがいたことがほのめかされています。これがヨハネの黙示録、聖書の終わりの終わりに、それは間違いなく、バラムのしたことだと、ついに明らかにされます。ゆえに、バラムはイスラエルの手によって処刑されたのでした。 エペソ教会が排除していたニコライ派は、このみことばによれば、まさにバラムがイスラエルをまどわし、霊的にも肉体的にも姦淫を犯させ、純潔を失わせることを、キリスト教会に教えるような邪悪な存在でした。エペソ教会は正しい教理、健全な教えに堅く立って、このニコライ派が教会の中に入ってくるのを許しませんでしたが、ペルガモン教会の信徒の中には、ニコライ派の教えを受け入れてしまった信徒がいたのでした。 それは悔い改めるべきことでした。もし、悔い改めないで、ニコライ派のような間違った教えがのさばるままにするならば、イエスさまは何をなさるというのでしょうか? そうです、御口の剣をもって彼ら、ニコライ派に毒されたペルガモン教会の信徒たちと戦う、とおっしゃいました。 戦う、と言いましても、イエスさまが負けるような戦いなどありえません。イエスさまが勝利する戦いです。彼らはみことばの真理に対してありったけの力で抵抗するでしょうが、ついには負けます。そして、さばかれます。 主を信じる信徒たちにあるのは「懲らしめ」であって「さばき」ではないものですが、イエスさま以外のものを主とし、イエスさまの以外の存在に従順になれとの教えをもって教会を毒する存在にあるものは、「懲らしめ」ではなく「さばき」です。私たちはさばき主なるイエスさまを恐れ、教会の純潔を保つためにしっかり努力する必要があります。 その努力には、エペソ教会のように毅然とした態度を示すべく、教理の学びをきちんと行うことも含むでしょう。私たちが日々主のみことばに従順に従うように、みことばを黙想して適用して実践に移す、ディボーションの時間をしっかり確保することも必要でしょう。しかし何よりも必要なことは、私たちが「悔い改める」ことです。 悔い改めということは、神さまとの一対一の関係の中で成り立つことです。イスラエルの民は、呪いの祈りが祝福の祈りに変えられるほど、神さまの絶対的な霊的祝福、霊的守りを受けていました。そんな彼らが罪を犯し、神さまの怒りを受けたのは、バラムのせいということもさることながら、彼ら自身の中に、罪を犯したい欲望があったからということです。 バラムはわかっていました。イスラエルをのろいたいというバラクの野望を達成するためには、神さまに直接呪ってくださいと求めることは無理である一方で、イスラエル人の罪を犯したい欲望を刺激すれば、神さまは怒りを下され、結果的にそれがのろいとなるということをです。 問題なのは、私たちの罪を犯したい欲望です。それが日々、神さまの御前に取り扱われることがなくては、私たちは聖徒として正しくあることはできません。それゆえに私たちは、悔い改めることが必要なのです。悔い改めることなく、形だけ取りつくろったクリスチャン生活をしていても、欲望に惹かれたらどうにもなりません。私たちは欲望と背徳にまみれたニコライ派に毒されたい肉の性質があることを恥じながら認め、つねに悔い改める必要があります。 さて、このペルガモン教会への教えは、17節のみことばで閉じられています。ここには、勝利を得る聖徒に、2つのものが与えられると書かれています。 まずは、隠されたマナです。ヘブル人への手紙9章を読みますと、幕屋の至聖所には契約の箱が置かれ、その中には「マナの入った金の壺」があったとあります。隠されたマナ、とありますと、この契約の箱の中のマナを連想しますが、マナはもともと、出エジプトの民に奇蹟のようにして与えられた食べ物です。それは、神の民にいのちを与えて養う食べ物ということであり、わたしがいのちのパンです、とおっしゃった、イエスさまを象徴しています。 イエスさまは、わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠のいのちを持っている、とおっしゃいました。しかしこの奥義は、イエスさまについてきたほとんどの人には隠されていました。隠されていなかったのは、十二弟子だけでした。 まことのマナなるイエスさまという奥義が隠されていることは、こんにち多くの人がイエスさまのことを知っていても、イエスさまをいのちのパンと認め、イエスさまのみことばによっていのちをつなぐことをしていないことからも明らかです。まことのマナは隠されているのです。しかし私たちは、イエスさまを信じる信仰によって、この隠されたマナを食べる権限が与えられている、つまり、イエスさまをいただいてイエスさまとひとつになる特権が与えられているのです。何と感謝なことでしょうか。 今日は主の晩さんのひとときを持ちますが、それは、イエスさまというお方を私たちが口にし、味わい、ひとつとなっていることを覚えるときです。私たちはけがれていて、とうてい、イエスさまをいただく資格などない者です。しかし、そんな私たちにイエスさまは、「取りて食らえ」とおっしゃるのです。それを拒むのは不従順です。私たちはもったいない恵みに感謝して、まことの隠されたマナにあずかっていることを覚え、パンとぶどう汁にあずかりたいと思います。 白い石は何でしょうか? 解釈はさまざまです。第一に、古代では白い石は無罪を、黒い石は有罪を表しました。聖徒たちはこの世においては罪人のように扱われますが、のちの世では罪なき者として勝利に入れられます。反対に、わが世の春を謳歌する迫害者は、のちの世では永遠のさばきを受けます。第二に、古代では祝祭に入る入場券の代わりとして、石が用いられました。この解釈に従えば、主は、天国の祝宴に私たちを招いてくださる、ということです。いずれにせよ、白い石は聖徒たちが新しいエルサレムに入城することを象徴していると言えます。この白い石に名前が書かれている天のエルサレムに入る人の名は神さましか知りません。私たちは信仰を保ち、神さまに認められるにふさわしい者となりたいものです。 しかし、まことのマナなるイエスさまとの交わり、白い石に象徴される天国行きの恵みは、やはりそれをいただいている以上、大切にすべきものですし、この恵みを粗末にして落伍する人が私たちの群れから出ることのないように、私たちはさばき主なるイエスさまを恐れ、日々、そのみことばの剣によって自分の霊とたましいを切っていただき、神さまにお従いする上で必要のない部分、罪深い部分を明らかにしていただき、ことごとく悔い改める必要があります。 偶像に満ちた環境に生きる私たちの歩みは、大きな迫害にあっても、かえって信仰を強くしていただく恵みをいただけるかもしれません。しかし、私たちの中から罪を犯したい性質が取り除かれていないとしたらどうでしょうか。あっという間に堕落してしまいます。それこそ、主の敵の思うつぼになってしまいます。 だからこそ私たちには悔い改めが必要なのです。悔い改めるならば、私たちは後ろめたさのない主イエスさまとの交わりの中に保たれますし、天の御国に正々堂々と凱旋できるという確信の中に保たれます。 バラムの教えを好むのは、教会の一部の人ではありません。私自身なのです。この自覚をもって悔い改めつつ、この偶像に満ちた世界、罪に満ちた世界の中、迷うことなく主にお従いする恵みの中に保たれますように、主の御名によってお祈りいたします。

「献身する聖徒の祝福」

聖書箇所;テモテへの手紙第一3:8~13/メッセージ題目;「献身する聖徒の祝福」  今日は、コロナ下の教会総会の開催される日ということもあり、特別ヴァージョンのメッセージをいたします。長くいたしません!  本日の箇所、テモテへの手紙第一3章8節から13節は、それまでの7節の監督の条件、すなわち、教会を監督として治める立場にある人の条件に続いて、執事の条件を語っています。監督の条件については、去年くわしく学びました。ほんらい監督とは、教会を指導する教職者に当たるもので、私たちもみな、教会において仕えるリーダーシップを発揮する立場として、監督という立場を自分たちに当てはめて学んだわけでした。 しかし執事となりますと、これは明らかに、教会員として教会に仕える一般信徒の立場にある人です。しかし、つまり、このみことばは、そのような人はどうあるべきかaを説いているみことばであるわけです。  執事についてですが、基本的に、私たちバプテスト教会においては、役員クラスの信徒を執事という肩書を与えるケースが多くあります。当教会は執事という制度を今のところ敷いていませんが、バプテストの教会には執事を制度化している教会がわりとあるわけです。  ただ、私が長年身を置いた韓国の長老派の教会は、バプテスト教会とは執事に対する考えが少し異なっています。一般的に長老派の教会は、主任牧師と、選挙で選ばれた信徒代表役員の長老たちによる合議によって教会に関するほとんどのことが決められます。  このような長老教会の中で、特に韓国の長老教会にも「執事」という制度があります。これは、「長老」とは別個に存在する職制で、バプテスト教会における執事のような、教会役員クラスの重責を負う立場にはありません。だいたい、満30歳以上の既婚者、あるいは社会的立場のある信徒は、「執事」という肩書が与えられます。  もちろん、執事は、単なる名誉職のような肩書のように思ってはなりません。執事というからには、教会のお世話、信徒のお世話をしてしかるべきです。私がその例の韓国教会にいたとき、伝道師として日曜学校を担当していたのですが、その日曜学校の生徒の小学生の男の子に、執事って何ですか? という質問を受けたことがありました。 私は言いました。「教会や信徒のお世話をする人のことだよ。」すると彼は目を丸くして言いました。「えー! うちの父ちゃん、そうなの!?」  やれやれ、おうちではいったいどんなお父さんなんだろう、と思ったものでしたが、教会で見せる姿とおうちや職場で見せる姿に裏表があったら困ります。 この8節以下のみことばは、教会役員クラスの信徒に語っているとも言えますが、一方で韓国教会の成人の信徒のような、ある程度の年齢になった社会人の信徒はすべからく守るべきみことばとも言えるわけです。このみことばが「執事」を対象に語られていると考えると、教会に仕える人はどうかこのようであってください、と語っているわけですが、信徒はやはり、教会とほかの信徒に仕えてこその存在であり、そういう者として、普段の生活から備えることが求められています。   今日、ここにいらしている信徒の方々は、ほとんどの方が、ここが韓国の長老教会と仮定すると、「執事さん」と呼ばれるべき方々で、中には「長老さん」と呼ばれるべき方もいらっしゃいます。こちらのお姉さんも、いずれ大きくなったら「執事さん」と呼ばれるにふさわしい成長を遂げてほしいと切に願います。   さて、執事になるべき人はこうあっていただきたい、と、いろいろな条件が並んでいます。みな、ごもっとも、とお思いだと思うので、今日はくわしくひとつひとつを扱うことはいたしません。 ただ、ひとつだけ。執事にするにはまず審査をうけさせなさいと書かれています。どういう審査でしょうか? 教会役員としての狭い意味での執事の場合でしたら、たとえば教会総会などの場で、信徒の選挙というような形で審査を受け、ふさわしければ当選します。   しかし、私たちひとりひとりを執事と考えた場合、すなわち、韓国教会の制度のような広い意味での「執事」と解釈した場合、「審査」とは何でしょうか? あの教会学校の男の子が言ったことばのように、ちゃんと見ている人、間近で見ている人に何か言われたら、ひとたまりもないのが私たちではないでしょうか? そんな私たちにとっての「審査」とは何でしょうか?    聖書の知識を増し加えたとか、毎日聖書を読んでお祈りすることが習慣となったとか、そういうチェックをするのでしょうか? ちがいます。そういったことも、それはそれで大事なことには違いありませんが、それは広い意味での「執事」であるうえで、重要な「審査」の基準ではありません。 ほんとうに大事なのは、自分の歩みがつねに神と人の前に審査されているという緊張感をもって、キリストの似姿にふさわしい、愛の実、愛のわざを生活の中に結んでいるかどうかです。   韓国教会が成人信徒に「執事」という肩書をつけ、教会生活により一層の責任を持ってもらおうと導くことは、一種の知恵ではないかと思います。実際、若者だった信徒たちは「執事」と呼ばれることにより、それ相応の責任感が育てられています。いいことです。 ただ、それは韓国のような、一般的にも、名前プラス肩書という呼び方が敬称として用いられる国だから可能なことで、日本のような、肩書で呼ぶとよそよそしくなるような国だと、それは少し難しいと思います。どう呼んでもらえるかというよりも、自分はこの聖書箇所で語られている「執事」と呼ばれるにふさわしくあろう、という自覚が、つねに必要です。   責任の伴う生き方は、それなりにしんどいものではあります。しかし、このみことばは「執事」として生きる人に対し、豊かな祝福を説いています。13節です。   良い地歩を占める。この社会においても、キリスト者としてふさわしい証しを、良い行いを通して残し、その生活があらゆる点で祝福される、というわけです。ただし、その祝福は、世の中の人々が祝福と思っていることと、同じことも多いかもしれませんが、必ずしも百パーセント、同じとはかぎりません。特に、偶像礼拝やお酒の席、この世的な不正に対して、難しい判断を迫られて苦労する、ということも、主にお従いする生活を続けていくうちにどんどん起きてくるかもしれません。   それでも、私たちがぶれずに主にお従いする生き方をするならば、主は私たちに大きな祝福を与えてくださいます。その祝福は特に、イエスさまを信じる信仰について強い確信を持つという形で現れます。私たちはもちろん、信仰を増し加えていただきたいから、その祝福をいただきたいから、コロナをものともせずにこうして日曜日に教会に集まっているわけでしょう。私たちの信仰は増し加えていただけるのです。私たちは祝福されるのです。信じていただきたいのです。   本日は短い時間ですが、教会総会のひと時を持ちます。みなが教会と聖徒にお仕えする当事者として、今日このときにともに、一丸となって取り組みます。教会は牧師ですとか役員ですとか、一部の人だけがその責任を担うのではありません。全員が責任を持つものです。総会にしっかり取り組みましょう。   そして、おうちにお帰りになったら、今日の箇所を改めてお読みください。私たちはこのように生きる責任が与えられていること、そして、大いなる祝福が与えられていることを心に留め、この2021年度、ますます主と教会に献身するものとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

苦難にあっても忠実であれ

聖書箇所;ヨハネの黙示録2:8~11/メッセージ題目;苦難にあっても忠実であれ  聖書は、聖徒が苦難にあうことを語っています。もちろん、そういう苦難は、私が先週立てつづけに体験したようなものとはまったくちがうものです。教会図書にある『たといそうでなくても』ですとか『サビーナ』といった本をぜひお読みいただきたいのですが、イエスさまを信じる信仰を貫いたゆえに、国家神道原理主義の日本の支配下にあった朝鮮ですとか、共産主義のルーマニアですとか、そういった国々で、聖徒たちは塗炭の苦しみを味わわされました。そんな方々のことを考えると、ごみ捨てに行けるだけのごみを出せる家に住めることも、きちんとした礼拝堂で礼拝できることも、格別の恵みというほかありません。  ヨハネの黙示録、7つの教会についての学びは今日が2回目、スミルナ教会についてです。  まず、このメッセージは、語ってくださるお方、イエスさまがどのようなお方かを告げるみことばから始まっています。スミルナ教会に語られるイエスさまは、「初めであり終わりである方、死んでよみがえられた方」であるということです。  イエスさまは7つの教会にそれぞれメッセージを語られるわけですが、そのメッセージを始められるにあたって、語ってくださるお方であるイエスさまとはどのようなお方か、修飾することばは、7つすべて異なっています。その修飾することばは特に、その教会ごとに対し意味があります。  先週私たちは、エペソ教会に対して語られたイエスさまのみことばを学びました。その修飾のことばは、「右手に七つの星を握る方、七つの金の燭台を歩く方」です。七つの星、七つの燭台が、教会という意味を持っている以上、エペソ教会にこのメッセージを語られたのは、あなたがたエペソ教会が、教会、キリストのからだと呼ばれるにふさわしくあろうとするなら、初めの愛に立ち帰れ、という意味がありました。   今日の箇所、スミルナ教会に向かわれるイエスさまの御姿は、8節に書かれているとおりです。「初めであり終わりである方、死んでよみがえられた方」……。   イエスさまがこういうお方であることは、私たちにとってどのような意味があるでしょうか? 私たち人間はいつかはこの地の生涯を終える存在であり、それはありていに言えば「死ぬ」存在である、ということです。   その「死ぬ」ということは、多くの場合、永遠の別れを意味します。だから死にたくはありません。ましてや、苦しんで死ぬなどなおさら避けたいことです。   それなのに、教会を迫害する者たちは、イエスさまを信じつづければおまえは死ぬよ、とちらつかせ、その死に対する恐怖をかきたてることで、人を信仰から引き離そうとします。   私たちは弱いです。ある牧師のお嬢さんが、『たといそうでなくても』を読んだとき、こんなことを言ったそうです。「こんな目にあったら、あたしなら信仰捨てちゃいそうだよ!」私は彼女のことを責めることなどできないと思いました。そうです、肉体的、精神的に極限まで追い詰められたら、私たちはどうすればいいというのでしょうか。   イエスさまが初めであり終わりである、死んでよみがえられた方であることを知ることは、そのように死と隣り合わせで迫害を受けかねない私たちにとって、この上なく必要なことです。十字架に死なれても三日目によみがえられたイエスさまは、私たち、有限であり、死ぬべき私たちに、よみがえりのいのち、永遠のいのちを与えてくださいます。この、永遠のいのちの信仰が、私たちを生かします。   9節を読みましょう。スミルナ教会を神さまはどう評価していらっしゃいますでしょうか? スミルナ教会は、苦難の中にあり、また窮乏していました。しかし、主はその苦難と貧しさを知っておられ、わたしはあなたがたがどんなに苦しいかよく知っているよ、と言ってくださいます。   苦しいということ、貧しいということは、できれば避けたいことです。 教会が成長するということには、経済的に豊かになって苦しさ、貧しさから抜け出すということも含まれてしかるべきです。しかし、教会は思うように成長しない、人が増えるわけでもなければ、経済的に豊かになるわけでもない、目下このコロナ下においては、礼拝に人が来なくなるという事態にもなるわけです。神さま、なぜですか! と叫び出したくなるようなそのとき……神さまは、私たちがなぜ苦しんでいるかすべてご存じで、そんな苦しみの中にある私たちのことを慰めてくださいます。   なんというみことばで慰めてくださるのでしょうか?「だが、あなたは富んでいるのだ。」そうです、経済的に、物質的に貧しいかどうか、あるいは、目に見える状況が苦しいかどうかということを、つい私たちは気にしてしまいます。しかし、神さまが私たちクリスチャン、教会をご覧になる基準は、そこにはありません。神さまがいったん、「あなたは富んでいる」とおっしゃるなら、状況はどうあれ、私たちは富んでいるのです。   教会が富んでいるかどうかは、教会の年間予算の額や、登録教会員なり礼拝出席者なりの数や、礼拝堂の大きさ、立派さで決まるのではありません。まことの富なる神さまが教会とともにおられるように、教会が神さまをお迎えしているかどうかです。もし、立派な礼拝堂を持ち、たくさんの会衆を集め、インターネットの礼拝中継はたくさんの視聴者を集め、そうとうな年間予算を誇る教会であったとしても、神さまの御声にその教会が無関心であるならば、その教会は「富んでいる」とはとても言えません。   もし、私たちがおのが貧しさを痛感し、神さまに涙をもって訴えるがごとく進み出るなら、それで私たちは「富んでいる」者となるのです。私たちは何を見て自分自身や、教会を評価するのでしょうか? お金のような目に見えるものではなく、目に見えない神さまのやさしい御目で自分たちのことを見ることができるならば、幸いなことです。   しかし、神さまがともにおられるゆえの霊的な富は、ある面では目に見える富をもたらします。「ユダヤ人だと自称しているが実はそうでない者たち、サタンの会衆である者たちから、ののしられている」……実は、これは富なのです。   うそではありません。これは、イエスさまがおっしゃっているとおりです。マタイの福音書5章、11節と12節に書かれているとおりです。   預言者とは、イエスさまのご到来を、その生き方をもって証しした人々です。しかし、イスラエル、ユダヤの既得権を握った者たちは、まことに神に従順であったそんな彼らを忌み嫌い、苦しめました。そのように、スミルナ教会はユダヤ人といいながら、まことの救い主であるイエスさまを信じない者たちから、塗炭の苦しみを味わわされていました。   だが、マタイ伝のイエスさまのみことばによれば、そんな聖徒たちは、天で大きな報いを受けるということです。天の御国においては、地上でイエスさまの御名のゆえに苦しんだ者、特に、イエスさまを信じ従っているというその理由で迫害を加えてくる者たちの、その迫害を耐え忍んだ聖徒たちに、主は大きな報いを与えてくださいます。   私たちがもし、この地上の生涯で終わりならば、そのような苦しみには意味がないことになるでしょう。しかし主は、「初めであり終わりである方、死んでよみがえられた方」です。この永遠のいのちなるお方が私たちのことを、永遠の御国へと迎えてくださるゆえ、私たちはこの地上の苦しみを耐え忍ぶことに、大きな意義をいだくことができるのです。それは、イエスさまのあとについて自分の十字架を背負う生き方ですが、最高の祝福です。   10節にまいりましょう。「あなたが受けようとしている苦しみを、何も恐れることはない。」このようにイエスさまがおっしゃるのは、苦しい思いをすることは、普通に考えるならば恐れることである、ということが前提となっています。いやー、自分はどんな目にあっても全く平気だよー、こわくないよー、なんて言うのは、ほんとうに苦しいとはどういうことかわかっていないからそう言っているだけに過ぎません。私も若い頃は、そのようなことを言ったものでしたが、それは、向こう見ず、というか、無謀、というか、いえ、そんなかっこいいものではなく、無知、だったということです。   苦しみを恐れないのは、無謀だからでも、無知だからでもありません。イエスさまがその苦しみを、完全に受けてくださったからです。考えてみましょう。神の御子があらゆるあざけりを受け、十字架でなぶり殺しにされ、ついには御父とのいのちの交わりが絶ち切られたと考えてください。そのイエスさまの苦しみはいかばかりか! それに比べたら、私たちの体験する苦しみなど、何ほどのこともありません。かつて、信仰の先達は、たいへんな迫害を受けましたが、彼らは何と言って耐えたのでしょうか。イエスさまの十字架に比べれば、こんなことは苦しみのうちに入らない……。 私は、このようにして迫害に耐えた先達のことばを、声を大にしてお伝えしたいのです。主は私たちにも、このように十字架を負う恵みを与えてくださるのだと。もちろん、このように語る私自身が失格者になってはなりません。自分を打ちたたいてでも、この永遠のいのちをくださったイエスさまにお従いしていく必要があります。 みことばは続きます。「見よ。悪魔は試すために、あなたがたのうちのだれかを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあう。」これは、脅かして言っているのではなく、実際にあなたがたはそうなる、とおっしゃっていることばです。これは警告、つまり、そうならないように避けなさい、というおことばではありません。あなたはサタンによって迫害を受け、試されます。でも、死に至るまで忠実でありなさい。 「あなたは十日の間、苦難にあう」。この「十日」ということばは、文字どおりの十日、240時間という意味と取るべきでしょうか? それよりも、これは「象徴」としての時間と考えるといいでしょう。 私たちは苦しみに遭います。しかし、その苦しみに終わりがあると知っているなら、私たちは耐えられるのではないでしょうか?「十日」という時間は、案外長くない時間と考えられるでしょう。二週間にも満たない期間です。そのように、主はサタンに対し、私たち主の民を苦しめるのにも長すぎる時間を許してはおられない、ということです。私たちは苦しみますが、耐えることができるのです。 私たち聖徒は、地上では苦しみに次ぐ苦しみを体験します。しかしいのちが天国に移され、主とともに永遠に生きるようになったならば、その地上の長かった苦しみなど、あたかも十日かそこらの監獄生活のようではないでしょうか? さきほども申しました『たといそうでなくても』や『サビーナ』での監獄の生活は、もちろん、数字のうえでの十日ではすみません。その登場人物の中には朱基徹(チュ・キチョル)牧師のように、長い長い獄中生活のはて、苦しんで苦しんだ末にいのちを落とした人もいたわけでした。しかし、その後に控えていたものは永遠の天国、いのちの冠であったことは、もはや疑いようがありません。 私たちが避けるべきものは何でしょうか? この地において、キリストのゆえに受ける苦難ではありません。私たちが避けるべきは、苦しまなくていいという、安逸な心、安逸な生活です。脅かして言うのでもなんでもなく、私たちはサタンの試みにあい、苦しむ定めです。 それが避けられない以上、私たちのすることは、そうなっても信仰から離れてしまうことのないように、コロナ下とはいえそれでもまだ平常時といえる今から、普段からの主との交わりに努め、この愛するイエスさまを絶対に裏切ることがないように、ますますイエスさまを愛し、兄弟姉妹のために、教会のためにお祈りすることが必要ではないでしょうか? そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える、とあります。あなた、つまり教会がいのちの冠を受けるのです。信徒個人が、だれかほかの信徒を出し抜いて信仰深くなって、ほかの信徒が受けられないいのちの冠を私が受ける、ということではありません。そういうことはありえません。教会全体が一緒にいのちの冠を受けるのです。 聖書を読むとほとんどの場合、登場人物を介して主のみわざが語られています。この新約時代も、パウロやペテロ、そしてその周辺の人々によって教会が形づくられた様子が、使徒の働きや手紙類から垣間見えます。しかし、ヨハネの黙示録をご覧ください。この黙示録を記したヨハネ以外、どんな特定の登場人物もいません。あえているとすれば、7つの教会の7人の御使いです。擬人化された教会です。教会があたかもひとりの人のように、考え、語り、みことばに従う振る舞いをするのです。 それは今の時代も同じです。著名なクリスチャンや牧師が教会をつくるのではありません。私たち全員がひとつの教会、ひとつのからだなのです。教会の歴史とは、私たち全員がみことばに従順に従うことで紡ぐものです。…

初めの愛

聖書箇所;ヨハネの黙示録2:1~7/メッセージ題目;初めの愛 むかし、日本独自のキャラメルの製法を編み出した森永太一郎という人物は、クリスチャンでした。そんな彼の信仰を反映して、彼の創業したお菓子の会社は、天使のマークなのだということです。 そういうこともあるからでしょうか、私の印象では、一般的に日本では、人々はキリスト教の象徴として天使にとても馴染んでいるように思えます。しかし、実際に聖書を読んでみますと、天使――新改訳聖書では「御使い」と表現していますが――は、案外登場しません。同じ霊的な存在でも、御父、御子、御霊なる神さまのほうがよほど大事な存在だからということもあろうかと思います。 しかし、やはり御使いは大事な存在であることに変わりはありません。御使いとはどのような存在でしょうか? ヘブル人への手紙1章14節は、御使いをこのように定義しています。「御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか。」というわけで御使いは霊的な存在であり、救いを受け継ぐ聖徒に仕える存在です。 さて、今日から始まる7つの教会への使信ですが、人の子、主イエスさまは、ヨハネに対し「〇〇にある教会の御使いに書き送れ」と語っておられます。7つの教会の御使いを御手の中に握っておられるお方が、ヨハネに対し、御使いに書き送れと語っておられる、これいかに? といったところでしょう。 これは、「御使い」とはどのような存在かを改めて考えることで、謎が解けていきます。今回私はこの箇所の背景を勉強し、「御使い」とは、「神の使信を教会に語り伝えるメッセンジャー」という意味もあることを知りました。してみると、この「御使い」は、目に見えない霊的な存在であるところの「天使」を意味しているとはかぎらない、ということにもなるわけです。 しかし、そうなると、またほかの疑問が生じます。なぜここでわざわざ「御使い」という表現をしているのだろうか? 人間なら、ほかの言い方をしてもよさそうなものではないだろうか? 教会は単なる人の集まりではありません。霊的な存在です。単に人の群れとしての教会に書き送っているのとは次元が異なります。 教会にこの使信を書き送るとは、教会がこの使信を共有することで御使いに象徴される教会の霊的状況が左右されるということであり、きわめておごそかなことです。 その前提で、この7つの教会への指針、まず今日はエペソ教会への使信を読んでみたいと思います。エペソ教会に宛てたこの使信は3部構成になっています。見てまいりましょう。 第一は、神さまからの賞賛です。主は、エペソ教会の行い、労苦と忍耐を覚えていらっしゃいました。 教会を運営するということは大変な労苦と忍耐を必要とします。先週の金曜日、茨城県は緊急事態宣言を発令しました。コロナウイルス流行の第三波は、これまでにない勢いで日本を、世界を呑み込んでいます。 このようなとき、教会は難しい決断を迫られるばかりで、信徒は疲弊させられます。去年の5月、水谷潔先生がたいへんショッキングなことをおっしゃっていました。日本の教会の牧師たちは、経済的理由や精神的疲弊により、今年の3月までには、1割がもう牧師を続けられなくなっているだろう……。 これを読んだとき私は大きなショックを受けたものでしたが、その3月が間近になった今、感謝なことに、日本の教会と牧会者たちはおおかた、まだやれているようです。 エペソ教会はというと、パウロが開拓し、テモテが牧会し、そして今はヨハネの手にゆだねられましたが、女神アルテミスの門前町という偶像の精神風土の中にあり、たいへんな思いをして教会が保たれてきたことが、聖書のあちこちから垣間見えます。私たちも今たいへんな思いをしていますが、エペソ教会の体験していた苦難に比べたら、ものの数でもないでしょう。 教会は苦難に遭います。しかし、そのような中でも灯を消さずにいつづけるならば、それはすばらしいことです。教会とは、天国を地上に実現する場所であり、教会がなければだれひとりとして、神さまに出会うことができず、したがってだれひとりとして、この世界においてまことの希望を持つことができません。それゆえ、教会を何としてでも存続させなければ! と、この世の勢力と戦ってでも努力することは素晴らしいことです。 その戦いはときに、自称「使徒」を試すことで成り立ちます。「使徒」を自称する者たちはいつでも教会に入りこみます。 ひとことで言えば、彼ら自称「使徒」は、「論より証拠」で迫ってきます。ほらご覧なさい、あなたがた教会は古臭い教えにこだわっていますが、私たちはこんなにも霊的ですよ、天国を知っていますよ、それが証拠に、こんな霊的なことができるのですから……ことさらに異言を唱えたり、預言なるものをしたり、いやしの働きをことさらに行なったり……。 よくわかっていない人は、このようなカギカッコつきの「霊的」な彼らの姿にだまされ、キリストの花嫁なる教会の純潔を失うのです。イエスさまではない、人をあがめ、人についていくのです。「異端」というものの存在をなぜ許してはいけないか、それは、人をキリストから離れさせるから、つまり、永遠のいのちを失わせ、二度と救われる機会を与えさせないからです。 エペソ教会は、教会の純潔のために戦いました。それまでもエペソ教会には、パウロ、テモテによってしっかりした神学がたたき込まれていたわけで、その神学に堅く立って、その神学の物差しにあわない者は、たとえ論より証拠の説得力があっても排除しました。 このたび当教会は、礼拝後の短い時間に教理問答の勉強を始めることになりました。これは教会を強くするために必要なことです。正当な教理は、消毒液がコロナウイルスを死滅させるように、異端に引き込む教えをやっつけ、教会を守ります。学びを大切にしていただきたいのです。 しかし、このような内憂外患の連続では、教会やその指導者たちは燃え尽きてしまわないものでしょうか。けれども、神さまの御目には、彼らエペソ教会は「疲れ果てなかった」のでした。これは相当な賞賛ではないでしょうか。それほど彼らは教会を大切に思い、教会に力を注ぐことを第一としてきたのでした。 私たちも、今置かれている状況はとても厳しいものがあります。「初代教会のような迫害を受けていないのなら、もっと耐え忍べ!」などという問題ではありません。その時代、その時代の厳しさがあります。私たちもつらいのです。 こんなとき私たちは、慰めを与えてくださる神さまの御声に耳を傾けたいものです。よくやった、よい忠実なしもべだ。神さまは、その御声をかけてくださるお方です。頑張って燃え尽きてしまいそうな私たちにも、疲れ果ててはいない、と、最大限の賞賛をくださるお方です。 いま、疲れてはいないでしょうか? 神さまの御声に耳を傾けましょう。 そして、元気づけてくださるみわざを体験されますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。 第二は、神さまからの叱責です。 これだけほめられたエペソ教会は、しかし、神さまのお叱りを受けなければなりませんでした。4節をお読みしましょう。……エペソ教会は、初めの愛から離れてしまったのでした。 神は愛なり。神さまの愛から離れた教会は、大いにみこころを損なった存在です。 エペソ教会は神さまのためによく忍耐した教会です。正当な教理で異端を排除することもしっかり取り組みました。すばらしいことをしました。それでも……神さまの御目から見れば、初めの愛から離れたのです。 イエスさまはおっしゃいました。わたしがあなたがたを愛し、あなたがたを任命した。この、先に愛してくださったイエスさまの愛こそ、初めの愛です。世界のはじめからすでに私たちのことを選んで愛してくださっていたこの愛こそ、初めの愛です。まさに聖徒とは、イエスさまの弟子とは、イエスさまに愛されてこそ存在する、かけがえのないものです。 そんな、イエスさまに初めの愛で愛されている聖徒と、その群れである教会のすることは何でしょうか? 初めの愛にとどまることです。このときエペソ教会は、初めの愛にとどまっていませんでした。それで叱責されたのでした。 そこで、初めの愛にとどまるとはどういうことかを考えましょう。5節のみことばです。まず、「どこから落ちたのか思い起こし」、そうです、教会がイエスさまの愛から離れるには、必ず何らかのきっかけというものがあるはずです。 エペソ教会にもそのようなきっかけがあったわけですが、それと同じようなきっかけは、私たちにもたえずついて回ります。自分たちはもっと礼拝堂をきらびやかに飾ろうとしていなかっただろうか、献金額を多くしようとして無理なキャンペーンをしていなかっただろうか、地域に教会の存在を知らせようと大予算で手の込んだ宣伝をしていなかっただろうか……。きっかけはいろいろです。 そのきっかけがわかったならば、次にすることは「悔い改め」です。 悔い改め、まずすることは「悔い」、自分たちが神さまの御目から見てどんなに自己中心で、間違ったことをしていたか、その罪を認めるのです。それから「改め」、自分の罪に向いていた視線を、聖い神さまへと方向転換するのです。 その「悔い改め」の結果することが何かというと「初めの行い」であるとあります。「初めの愛」にとどまるとは、「初めの行い」をすることである、というのです。 愛は行いが伴うものです。「互いに愛し合いなさい」というイエスさまのみことばは、単なる掛け声ではありません。心の中でだれかを「愛している」と思いさえすれば、それで愛していることになるのではありません。困っているなら助けの手をさしのべる、自分の都合を差し置いてでも。そういうことができてようやく、「初めの愛」で愛している、「初めの行い」をしている、ということができるのです。 教会は、兄弟姉妹を神さまの愛で愛することが、その旗印です。エペソ教会は察するに、兄弟姉妹のあいだにあるべき愛が冷えつつあったのではないでしょうか。その、兄弟姉妹のあいだにあるべき神の愛の行いは、同じ行いでも、教会を維持するためにとても努力しただとか、神学的に正統だとか、異端をやっつけただとか、そういう「行い」が取って代われるものではありません。 その、愛の行いがないことをそのままにしていたらどうなるか、ということに対しても、主は警告のみことばを発しておられます。あなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。 これまでも学んできたとおり、燭台とは教会です。つまり、燭台を取り除くとは、もはやそこを教会ではないものにしてしまう、という、怖ろしい警告です。たしかにそこは人が集まってはいます。キリスト教という「宗教」を行う場所ではあります。 しかし、それは「宗教」とは呼べても「キリストのからだなる教会」と呼ぶわけにはいかないのです。なぜなら、そこに集う人々が、具体的に行動する兄弟愛をもって証しされる神の愛を、その集まりから排除してしまっているからです。神の愛、互いの間の愛がないなら、教会とは名ばかりで、神さまはそれを教会として扱ってはくださいません。 この警告は、私たちを含め、世界中のすべての教会に突きつけられています。私たちは自己中心の罪人です。初めの愛の行いから落ちてしまうことなど、いつだって起こりうることです。そんな自分たちであることを、こうして気づかせていただいている私たちは幸いな存在です。 つねに悔い改め、神さまとの関係を結び直せることに感謝してまいりたいと思います。 そして第三、ふたたび神さまからの賞賛です。彼らエペソ教会がニコライ派の人々の行いを憎んでいることです。 ニコライ派が何者かということは、詳しくはわかっていません。しかし、聖書、特に黙示録2章のほかの箇所から、ある程度の類推をすることはできます。まず、14節と15節です。……詳しくは来週お話ししますが、民数記を読むと、イスラエルは不品行のゆえに堕落したことがありました。 この黙示録の箇所を読むと、その背後には占い師バラムがいたことがわかります。このバラムの教えによって、神の民は偶像礼拝をし、不品行を行いました。神の民にあるまじく汚されたのです。 それと同じように、ニコライ派の教えを奉じている、とあります。それと同じように、というのが手掛かりです。神の民が自発的に偶像礼拝や不品行を行うように導いて、共同体を内側から崩壊させる教えがバラムの教えであったわけですが、ニコライ派の教えもそのような、教会に内部崩壊をもたらす教えであったことがほのめかされています。その教えに裏打ちされた行いとは、もちろん、教会分裂、教会弱体化です。 プロテスタント教会は諸教会を一元的に統括する、ローマ・カトリックで言えば「教皇庁」のような組織が存在しないだけに、「一人一派」のようなところがあります。『百万人の福音』のような雑誌は、そのようにさまざまな立場の牧師やクリスチャンがいろいろな意見を述べています。 それがその雑誌の魅力であるわけですが、彼らが意見を述べるのは、その意見を述べることで読者の霊的成長を促し、よりいっそう所属教会に献身するように導くわけです。言ってみれば、雑誌に寄稿するすべての人は、読者それぞれの教会生活のために、読者に「仕えて」いるわけです。 しかし、クリスチャン相手に意見を述べる人は、そんな善良な人たちとはかぎりません。彼らを自分の考えに染めてやりたい。彼らを自分に仕えさせたい。口に出さなくても、そのような腹黒い考えでクリスチャンに接近する者は、いつでも、どこにでも存在するものです。彼らはうまいことを言いますが、それは私たちをより一層教会に仕えさせるためではありません。 それは教会に疑問を抱かせ、教会から引き離し、自分の側につけるためです。それ以上のものではありません。 そんなとき私たちは、そうですねえ、うちの教会には愛がありませんから! と、彼らの口車に乗るのでしょうか? しかし、はっきり申しますが、愛がないのはむしろ彼らのほうです。私たちのことを利用するだけして、最後は自分だけが得をします。 私たちは、こういうことをする者たちの行いは、思いっきり憎んでいいのです。なぜなら第一に、神さまご自身が憎んでおられるからです。憎んでいいのです。彼らのしていることは、私たちの大好きなイエスさまのみからだを切り刻み、引き裂くことです。教会がイエスさまのみからだである以上、彼らはそういうことをしているのです。 ただし、私たちが憎しみに捕らえられている「だけ」ならば、エペソ教会が叱責されたように、初めの愛から離れたままになってしまうこともありえます。まず、私たちが取り戻すべきは「初めの愛」です。イエスさまが私たちを愛されるゆえに、私たちもイエスさまを愛するのです。その愛を、兄弟姉妹を具体的に愛するということで守り行うのです。…