箱舟と救い

聖書箇所;創世記8:1~22 メッセージ題目;箱舟と救い 数週間ぶりに、ノアの箱舟についてお話しします。今日の箇所、創世記8章は、ノアの箱舟生活の後半、そして箱舟から出た後のお話です。今日の箇所を3つのポイントから学んでまいりたいと思います。 第一のポイントです。神さまはノアのために、滅びの水を引き上げられました。 創世記7章を読んでみますと、水は150日間増えつづけたとありましたが、8章に入ると、この水の源が閉ざされ、減りはじめることになります。大雨は降らなくなり、地下水は湧き出さなくなりました。もう水が増えることはなくなりました。あとは、太陽の光に照らされて乾くだけです。箱舟はアララテの山地にとどまりました。そしてさらにしばらくすると、山々の頂が現れはじめました。回復は始まり、順調に進んで行ったのです。 みなさん、ここで少し、私たちは考えたいことがあります。150日間、増えつづける水と豪雨の中、荒波に翻弄されつつ、どこに行くともしれぬ漂流を続けた箱舟の、その中にいたノアたち8人の家族は、どのような気持ちでいたことでしょうか? 150日というと、実に5か月です。今から5か月間波に翻弄されながら、箱舟の中に閉じこめられた生活を送りなさい、と言われたら、私たちにできるでしょうか? しかし、ノアとその家族には、それ以外に滅びを免れる方法はありませんでした。いかにそれが、先が見えないようなことであろうとも、それが神さまのみこころである以上、お従いするばかりでした。 主はときに、御民に対し、生き残るために必要な道をお示しになります。この洪水の場合は、箱舟の中に入ることでした。 また、エジプトに寄留していたイスラエルが救われるためには、過越の食事を食べ、家族ごとに羊をほふり、その血を鴨居と2本の門柱につけるということをする必要がありました。イスラエルはこの主のさだめに従順に従ったゆえに、さばきを過ぎ越され、いのちが守られたのでした。 もっと後の時代になると、シリアのナアマン将軍のケースを挙げることができるでしょう。ナアマン将軍のツァラアトは、ヨルダン川に7回身を浸すという主の方法に従順に従うことによっていやされ、きよめられたのでした。 罪からの救い、けがれからのきよめ、これらのものは、人間的な方法を用いてもかないません。人間は、よい行いをしたり、哲学を極めようとしたり、宗教にのめり込んだりして、なんとか自分がきよめられ、救われることを願い、取り組みます。しかし、人が救われるためには、神さまの側でよしとされる方法で神さまに近づかなければだめなのです。神さまの求めていらっしゃる基準を外れるならば、人間の側でいかに努力しても、決して救いに到達することはできません。 その、神さまの方法に従うということは、自分にとっては納得のいかない方法と思えるかもしれません。ナアマン将軍はヨルダン川に身を浸しなさいというエリシャからの伝言に一度は腹を立てましたし、長い漂流生活の中にいたノアも、どこかで不安な思いに駆られたとしても不思議はありません。聖書の中で、使徒の働きにあるパウロの難船の記事を見てみると、読むだけで船に乗る者たちの不安が伝わってきます。ノアもそういう心境になっていなかったかと思わされます。それでも、人がどう思おうと、神さまの救いの方法ははっきりしています。その道を通して、私たちは救いに至るのです。 ここまで来れば、私が何を申し上げたいかお分かりだと思います。そうです。ほんとうの救いは、イエスさまの十字架を信じる信仰によってのみいただくことができます。これ以外に道はありません。 ただし、イエスさまの十字架を信じる信仰というものは、一生かけて達成していくものです。生涯、その生活を通して、イエスさまと深く交わり、イエスさまのみこころをこの地上に現わしていくべく、徹底して、自分を打ちたたいて、イエスさまのあとにしたがって重い十字架を背負ってついていくのです。それがいやで、信仰を捨てた人のなんと多いことでしょうか。願わくは主が、その人がイエスさまを受け入れた過去を持つという事実を覚えて、救ってくださればと願わずにはいられませんが、その人が現実に今、ともに教会形成、キリストのからだなる教会を立て上げる貴い働きに献身していないということは事実なわけで、その人は確実に、ほんとうの意味での祝福を何にももらえていないことになります。 私たちはどうでしょうか? ノアの箱舟の中のようなあてどもない生活に絶望して、信仰の歩みから落伍する者が現れないようにと願います。また、ノアの箱舟の中にいるかぎり、動物の世話をするような仕事があったように、私たちもこの教会という共同体においては、この労働力をもって、あるいは財物をもって、主と共同体にお仕えする役割をみな持っています。 私たちは、自分の属する教会とはいかなる場所か、ちゃんと理解していますでしょうか? イエスさまの救いもたずさえないでこの教会のメンバーに居座ろうということでは、まるでそれはイエスさまのたとえにあったような、礼服も着ないでずかずかと婚礼の宴に居座る者のようです。私たちは即刻悔い改めなければなりません。 救いを完成する道がいつ終わるかは、主だけがご存知です。私たちのすることは、その中で主の完全な救いを待ち望みつつ、その生活を主におささげし切って、救いを達成すること、これに尽きます。 第二のポイントです。神さまはノアのために、生命力を芽生えさせられました。 水は確実に減りはじめました。水かさが増さなくなり、かえって減り続けていることが、感覚的にもわかりました。山の頂も現れはじめました。そこでノアは、果たして地上波どうなったかと、カラスを放しました。するとカラスは、行ったり来たりしながら戻ってきました。 カラスは、モーセの律法によれば、食べてはいけない汚れた鳥ということになっています。また、私たちの一般常識では、カラスはゴミ捨て場をあさるような害鳥で、また、縁起の良くない鳥という扱いを受けています。カラスはサタンの象徴であるという聖書解釈もありますが、それについては、今日は詳しく扱いません。この場合、はっきりしているのは、カラスはまだ出たり戻ったりしていたので、羽を休める場所はなかった、ということです。 これに続いて放たれたのは、鳩、でした。鳩はカラスとちがい、きよい鳥に属します。神さまにいけにえとしておささげするにふさわしいくらいきよい存在です。ノアは、この鳩に関しては丁寧に扱ったようで、土地が乾かず、休み場がないために行ったり来たりしていた鳩を、ノアは箱舟の中から手を伸ばしてとらえ、また中に入れました。 ノアはその1週間後、もう一度鳩を放します。すると鳩は、オリーブの若葉をくわえて帰って来ました。これは、もう箱舟の中にいるあらゆるいのちが地に降りる準備が万端整いました、ということを知らせる、よき知らせでした。神さまはこの大洪水の中においても、オリーブを守っておられました。 オリーブが、聖書において特別な存在であることはみなさんもご存知でしょう。ダビデが詩篇23篇で吟じた、羊を牧するむちと杖、これはどちらも、オリーブの枝からつくります。そうだとすると、オリーブとは、牧するイエスさまと牧される羊なる主の民との間を結ぶ、絆、交わりの象徴とも言えるでしょう。 また、オリーブの実は、それを搾ってつくる油がとても価値のあるもので、いのちを保つ源とも言えるものです。このオリーブ油は、もう残りが一切出てこない、かすになるまで何度も搾ります。ゲツセマネの園は、まさしくオリーブの油を搾る場であり、そこでイエスさまは血の汗を流してご自身をささげ切るお祈りをされ、十字架へと進んで行かれたのでした。 こうしてみると、オリーブというのはただたまたま鳩が飛んだらそこに生えていた植物ではなく、聖書的に見て、主の深いみこころを知らせる存在であったことがわかります。そう、キリストが、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられたと第一コリントみことばにあるように、洪水に滅ぼされて死に満ち満ちた世界に萌え出でたオリーブは、闇の中に輝き、闇に打ち勝たれたキリストを象徴しています。 そして、鳩です。聖霊が鳩のような姿でバプテスマをお受けになったキリストの上にとどまられ、公生涯が始まったということを考えると、鳩は、キリストを証しする聖霊なる神さまの象徴です。聖霊の象徴である鳩が、キリストの象徴であるオリーブの若葉を船に持ち込んだということは、ノアの箱舟に象徴される神の共同体、救いの共同体……すなわち教会は、キリストを証しする聖霊によってまことの希望を得る、ということを表していると言えましょう。 ノアは鳩のくわえたオリーブを見て、何を思ったでしょうか。終わったんだ! 救われたんだ! その喜びに満ち満ちたのではないでしょうか。私たちもそうなります。ただし、それが実現するのは、私たちがこの地上の歩みを終え、天国に移されたときです。それまで私たちはこの地上で、キリストの救いを完成させる働きにひたすら励むのみです。この地上の働きは、時にとても苦しくて、いつ果てるとも知れぬ苦しみに、音を上げてしまいそうになることもあるでしょう。しかし、あのノアの箱舟生活には、オリーブの若葉という名の、終わりを告げるうれしい知らせが届いたのです。私たちも終わりの日には、必ず天国に入れていただきます。その日を目指し、恥ずかしくなく御前に立てる私たちとなりますように、日々励んでまいりたいものです。 第三のポイントです。神さまはノアのために、礼拝の機会を与えられました。 ノアは、3度目に放った鳩がもう戻ってこないのを見て、もうこの地がいのちを迎え入れる準備が整ったことを知りました。しかし、実際にノアが箱舟の外に出るには、もう少しの時間が必要でした。ノアはしかし、自分で出る時期を判断して外に出たのではありません。神さまのご命令が下されたのを知って、そのみことばに従順に従ったゆえに、この601年目の第二の月の27日に外に出たのでした。箱舟に入り、主がうしろの戸を閉じられてから、実に1年以上の月日が経っていました。 一年ぶりに降り立った地面! もうそこには、すでに草も萌え出でていたことでしょう。そこに、待ってましたとばかりに降り立つ動物たち! 私たちがノアだったらと考えてみましょう。どんな気持ちになるでしょうか? しかしノアは、ここで神さまに礼拝をおささげしました。きよい家畜、きよい鳥からいくらかを取って、それをささげものとしておささげしたのでした。その家畜や鳥は、ノアにとっては、大洪水に揺られる箱舟の中で、一年にわたって寝食をともにした特別な存在です。しかしノアは、まずすることは、この大事な存在の血を流すことで、神さまにいけにえをおささげすることだと信じ、すぐに実行に移したのでした。 神さまは、怒りの波、それこそ怒涛をもって地をことごとく滅ぼされました。ノアは、この罪人に対する神さまの怒りをなだめるため、いのちの血を流し、いけにえとしました。そうです。神さまは私たち罪人に、死をもって滅ぼし地獄に投げ入れるという権威をお持ちで、私たちは罪人である以上、神さまは怒りを注がれ、地獄の火の池で永遠に焼かれて滅ぼされるにふさわしい存在です。 しかし、神さまはノアのいけにえを受け入れられ、人類を一切滅ぼすことをもはやしないことを宣言されました。罪人であることを知ってもなおです。ここに、神さまのご慈愛と忍耐を見ることができます。 この世界は、やがて過ぎ去ります。イエスさまは十字架の死から復活され、天に昇られましたが、再びこの地に来られることを言い残されました。あれからそろそろ2000年になろうとしています。人々はますます混迷する社会に翻弄され、怖じ惑っていますが、この世界の果たしてどれくらいの人が、イエスさまが再び来られ、この世をさばくということを本気で信じ、その日を待ち望みつつ祈っているでしょうか? 私たちはどうでしょうか? イエスさまが天に昇られてからこのかた、世界はつねに終わりの時でした。しかし、2000年間イエスさまがいらっしゃらなかったからと、これからもいらっしゃらないということにはなりません。明日いらっしゃるかもしれませんし、今日いらっしゃるかもしれません。いえ、こうして礼拝中にいらっしゃったとしても、不思議はありません。さあ、その時私たちは、どうしますか? にっこり笑ってお目にかかれる準備はできていますか? ノアのいけにえを受け入れられた神さまがおっしゃったとおり、人は幼いときから悪、罪人です。しかし、神さまがノアに礼拝の機会を与えてくださったように、私たちには今なお、神さまを礼拝する道が開かれています。イエスさまの十字架の血潮によって、私たちは大胆に神さまに近づくのです。 神の怒りから救われ、天国に入れていただく。その救いを完成する一生ものの歩みは、とてもきびしいものです。しかし、それでも主は、私たちをつねにみそばに置いてくださいますゆえに、喜びがあります。聖霊なる神さまがこの教会という共同体に教えてくださる、イエス・キリストの恵みにつねにとどまりつつ、この地上の歩み、イエスさまがやがて来られるまでの歩みを、進めてまいりましょう。 ★お祈りの中で、みなさまにお尋ねしたいと思います。自分は救っていただいた喜び、はじめの愛を忘れていました、礼拝の感激をなくしていました、主よ、私はいまいちど、あなたさまに献身いたします、私がさらに真剣に礼拝をささげる者となるために、自分の時間、財物、持ち物を優先的に、あなたさまを礼拝するために用いてまいります、そのように願われる方は、右の手を挙げてください……。

十二弟子と私たち

聖書箇所;マタイの福音書10:2~4 メッセージ題目;十二弟子と私たち  先週も、みなさまのお祈りによって送り出され、韓国に行ってまいりました。私を霊的にはぐくんでくれた韓国教会から、私はさらにパワーをいただいて、より一層仕えてまいりたいと願う所存でございます。牧師のペ・チャンドン先生がどれほど、信徒が整えられて主の弟子となっていくかということに牧会の生命をかけられ、取り組んでこられた、その生の声をあらためてお聴きすることが、このセミナーのすべてであったと言えるかもしれません。これは、技術や方法論の問題ではなく、教会が教会らしく立て上げられていく生の姿であり、これにあらためて触れることができたのは、弟子訓練のビジョンを思い描く私にとって、またとない力となることでした。  そこで本日は、主のみこころである弟子訓練というものについて、特に、イエスさまが召された十二弟子にスポットを当てながら、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書を照らし合わせつつ、見てまいりたいと思います。  本日は、十二弟子の共同体をイエスさまが結成されたその目的を探り、やはり私たちもイエスさまの弟子として、このイエスさまが弟子たちを召されたそのことから何を学ぶことができるか、見てまいります。  十二弟子の共同体の性格、その1は、イエスさまが選んだ人々、ということです。まずは、マタイの福音書10章1節をご覧ください、「イエスは弟子たちを呼んで」とあります。イエスさまご自身がお呼びになったのです。  では、どのようなシチュエーションでお呼びになったのでしょうか? このときイエスさまにはすでに、たくさんの弟子たちがついてきていました。このイエスというお方はただものではない、ぜひとも学びたい、そういう人がいっぱいいたというわけです。  しかしイエスさまは、その大勢の弟子たちの中から、特別に十二弟子をお選びになりました。それはどういう人たちだったのでしょうか? マルコの福音書、3章13節の表現によれば、それは「ご自分が望む者たち」でした。そうです。イエスさまが、この男はわたしの弟子にふさわしい、と見込んでくださった12人が、選ばれて、十二弟子となったのでした。  そうです。イエスさまのスカウティングです。おそらく、イエスさまにぞろぞろとついて来ていた者たちは、イエスさまのことを尊敬していたでしょうし、また愛してもいたはずです。しかし、イエスさまはだれでも彼でも選ばれたわけではありませんでした。特に12人という小グループを結成され、この者たちを3年かけて訓練することで世界を変えるという、驚くべきことをなさったのでした。  ただ、イエスさまは、この12人を何のお考えもなしにお選びになったのではありません。むしろその逆です。ルカの福音書6章12節を読めばわかるとおり、イエスさまはこの12人を選ぶために、一晩山にこもり、父なる神さまのみこころを徹底的にお尋ねしつつ、慎重にお選びになったのでした。  ここでしかし、私たちは疑問に思わないでしょうか? イスカリオテのユダを、イエスさまはこの祈りの中でお選びになったというのだろうか? お分かりになっていてもなお、イエスさまはなぜお選びになったのだろうか? もちろん、ユダをお選びになることは父なる神さまのみこころでしたし、イエスさまも従順に従われました。ユダがどういう人間で、最後にはどのようなことをしでかすか、すべてを見通される御目によって知っておられた上でのことです。ユダを十二弟子の共同体に迎え入れ、3年も寝食を共にせよだなんて、それはイエスさまにとって、どれほど大変な決断だったことでしょうか。しかし、イエスさまはそれでもあえてユダも選ばれ、十二弟子の共同体に迎え入れられたのでした。 イエスさまの弟子だなんて、私はそんなにしっかりしていないよ、私はそんな柄じゃないよ、そうお考えになりますでしょうか? しかし、大丈夫です。大事なのは、私たちの資質ではありません。イエスさまが召されたかどうかです。ご覧ください。十二弟子は、自分が一番だと喧嘩するような人たちです。あの最後の晩さんのとき、この期に及んでもそんなことを言い合っていたような、どうしようもない者たち、それがイエスさまの弟子です。しかしそれでも、イエスさまが選んで召された以上、イエスさまの弟子であることに変わりはありません。 私たちのことも、イエスさまは弟子に取ってくださいました。群衆にはたとえで難解に語られたみことばの意味を、イエスさまは懇切丁寧に説明してくださいましたが、私たちは聖書を読む気になりさえすれば、その難解なたとえの解き明かし、みことばの奥義をちゃんと知ることができます。また、そのみことばを聴き、守り行うことで、弟子としての歩みを全うすることを目指す、その共同体である教会に、私たちは召されています。そうです。私たちもイエスさまに召されている弟子なのです。十二弟子をモデルにして歩むことに、何ら不都合はないのです。このアイデンティティをしっかり自分のうちに保って、主にお従いする歩みを果たしてまいりたいものです。 十二弟子の共同体の性格、2番目は、イエスさまがそばに置かれることがその目的だった集団です。 マルコの福音書3章14節、ここに、イエスさまが十二弟子を召された理由をはっきり、「彼らをご自分のそばに置くため」と記されています。みことばをよくご覧ください。「彼らがご自分のそばにいるため」ではありません。「彼らをご自分のそばに置くため」とあります。主語はどこまでも、イエスさまなのです。 イエスさまはなぜ、十二弟子をご自分のそばに置かれたのでしょうか? それは、イエスさまが十二弟子に、特別な愛を注がれることそのものに目的があったからでした。ヨハネの福音書、13章1節をご覧ください。彼らとはだれでしょうか? これは、十二弟子との最後の晩さんにつづくみことばであることを考えると、世の人々を愛されることは特に、十二弟子に愛を示されることによって実現していたことがわかります。 イエスさまが十二弟子を愛されたのは、模範を示すためだったとか、働きを移譲するためだったとか、そういう具体的な理由は二の次です。わたしはおまえたちをそばに置いて愛す! これこそが目的です。私たちクリスチャンは、主の弟子として召されている以上、イエスさまがみそばに置いてくださった存在です。わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。そのように語ってくださる主は、私たちを引き寄せ、わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない、と言ってくださいます。 私たちはときに、自分の愛のなさに絶望します。自分を見ていると、神さまへの愛がない、そのように落ち込むこともあるだろうと思います。しかしそれでも覚えておきたいことがあります。それは、私たちがイエスさまを離れるような思いになっても、イエスさまの側では、決して離れることはない、ということです。 さて、イエスさまがそばに置かれる対象ですが、それは私たちクリスチャンひとりひとりももちろんなのですが、「彼ら」と複数形になっていることにも注目したいと思います。そう、イエスさまがみそばに置かれるのは、共同体です。しかし、十二弟子という共同体は、さきほども申しましたとおり、いろいろ問題を抱えていました。完璧とは程遠い状態にありました。それでもイエスさまは、弟子たちというこの共同体と、徹底してともに時間を過ごされたのでした。 彼らは、イエスさまのお姿から、実に多くのことを学びました。彼らは単に本のようなものが与えられて、それを読んで頭で理解することで働きのために整えられたのではありません。生きたお手本であるイエスさまがともにいてくださることによって……それこそ、同じ釜の飯を食べ、同じ空気を吸うことで……数多くのものを吸収していったのでした。 教会という共同体は、その存在そのもので、イエスさまを証しする存在です。教会とはイエスさまがその十字架の血潮により買い取られた、神の宮、キリストの体です。どれほど貴重な存在でしょうか! この教会を、イエスさまはみそばに置いてくださったのです。しかし私たちの側では、その大事な事実を見失って生きてはいないでしょうか! 私たち教会は、いま私たち自身が考えているよりも、はるかに素晴らしい存在です。私たちが何者かを知るには、私たちが一緒になって、ともにおられるイエスさまとお交わりを持つことです。イエスさまとお交わりを持つならば、私たちはこの世から神さまの側に分かたれている者としてふさわしく、ともにキリストの似姿として整えられる恵みをいただきます。私たちはともに、その存在がイエスさまを証しできるようになるのです。 お互いをご覧ください。お互いは、イエスさまがそばに置いてくださった、とても大事な存在です。この仲間たちをイエスさまは、一緒にみそばに置いてくださったのです。そう考えてお互いを見ると、心から愛したい思いがわき上がってこないでしょうか? そうです、それでこそ教会、キリストのからだです。 十二弟子の共同体の性格、第3は、イエスさまが働きをゆだねられた人々です。 マタイの福音書10章1節に、次のようなことばがあります。……これは、すごいことです。この権威を十二弟子は、イエスさまから与えられたのです。しかし、霊どもを追い出す権威は、霊どもの上に君臨して威張るためではありません。人をいやすため、つまり、神さまの最高傑作である神のかたちである人間が、その本来の創造の目的にふさわしくなるため、それに取りついている悪霊を追い出し、いやしてあげるのです。目的は悪霊そのものにはなく、あくまで人のいやし、そして人をおつくりになった神さまのみこころにあります。 悪霊を追い出すということばを聞くと、何やらものすごくおどろおどろしいものを想像するかもしれません。それこそむかしのホラー映画のような世界ですとか。たしかに、そのような目に見える形での悪霊追い出しというものは存在します。私も以前、リバイバル運動に傾倒していた頃は、そういう働きのお証しを結構聞いたものでした。個人的にはそういう世界があることを信じています。 しかし私たちは、なにも特別なことを考える必要はありません。人を悪霊の働きに引きずり込む要素というものは、こんにち私たちが住む社会にはうじゃうじゃしています。インターネットなどはその典型でしょう。インターネットで匿名の掲示板の汚らしい表現や軽薄なゴシップを見て憂さを晴らしたり、ポルノを視たりします。そういうことをしなくても、だらだらといろいろなサイトを視つづけて、貴重な時間をつぶしてしまったりします。 もし人がきよめられていないで、悪霊のなすがままになっているならば、自分の罪の性質にしたがってインターネットにアクセスし、見聞きしてはいけないものにおぼれます。そうしているうちに、ますますその人は、悪霊の支配を受けるようになります。スマートフォンなどは、悪霊の支配に自ら身をゆだねるために持ち歩くものに成り下がってしまうのです。インターネット以外にも、深酒の習慣、薬物、ギャンブル、買春(かいしゅん)、買い物中毒、いかがわしい宗教、おまじないや占いのようなオカルト……あるいは、世の中に不義に対して何とも思わない無関心、自己中心……悪魔と悪霊はいろいろな方法を用いて、人間を支配しようとします。 そうです。人はその罪の性質を肥え太らせる、悪い霊の支配に晒されています。そのなすがままになり、そこから離れるのもとても難しくなっている人もいるでしょう。そういう悪魔と悪霊の支配から人を自由にする、これが私たち教会のすることです。人をこのように、この世に存在するあらゆる媒体を使って支配しようとする悪魔と悪霊の支配から解き放つには、その人に福音を伝え、聖霊の満たしによってそのようなあらゆる悪から自由になるようにする必要があります。御霊の願うことは肉に逆らい、肉の願うことは御霊に逆らいます。御霊に満たされているならば、その人はもはや、肉に属するものにおぼれて悪霊の支配を受けることはありません。悪霊はその人から追い出される、ということになります。 イエスさまが、弟子である私たちに伝授してくださった福音の力は偉大です。私たちが今知っているよりも、はるかに偉大で、また力があります。私たちはこの福音によって、この世をキリストから遠ざけ、ひとりでも多くの人を滅びに引きずり込もうとする悪魔と悪霊の支配から人を救い、自由にするのです。 もちろん、人が悪霊を遠ざけるべく変化し、成長するのは、一瞬で起こることではありません。福音を伝えたらそれで終わり、ということならば、私たちは日曜日ごとにこうして教会に集まる必要などないわけです。毎日聖書を読む必要もなくなります。そうではないのだから、私たちは毎日ディボーションをするのですし、毎週日曜日には教会に集まって神さまを礼拝し、また励まし合うのです。お互いのために祈り合うのです。まずは……私たちは福音宣教によって、人から悪霊を追い出せる、そう信じるところからスタートしましょう。私たちは必ず用いられます。信じていただきたいのです。 私たちは、イエスさまに選ばれています。イエスさまがそばに置いてくださっています。そんな私たちは、イエスさまに遣わされて、福音の力で人を自由にする使命と、またそれにふさわしい力をたえずいただきます。イエスさまが、できる、と見込んでくださったから、私たちにはできると信じていただきたいのです。ハデスの権勢も打ち勝つことのできない教会のひと枝ひと枝とされた私たちは、この事実をしっかり心に刻み、そのイエスさまの召命に忠実に歩めるように、日々みことばをお読みし、お祈りし、またお互いの交わりを欠かさないで、整えられてまいりましょう。

バプテスマと主の晩さんの関係

聖書箇所;ペテロの手紙第一3:18~22 メッセージ題目;バプテスマと主の晩さんの関係  私たちの教会は、「水戸第一聖書バプテスト教会」といいます。私たちバプテストは、入信を表明する際に行うことを「バプテスマ」と表現します。他の教団教派では一般的に「洗礼」と呼び、このことばは一般的にも使われています。  洗礼といいますと、カトリック教会や長老教会などでは、水滴を頭につける「滴礼」という形で行います。また、生まれて間もない子どもにも「幼児洗礼」というかたちで洗礼を授けたりします。しかし、私たちバプテスト教会は全身を水に浸す「浸礼」という形でバプテスマを行い、また、幼児にバプテスマを授けることはしません。  さて、主の晩さんについてですが、ここで一度、バプテスマと主の晩さんについて整理し、なぜ私たちにとってバプテスマが大事なのか、そのバプテスマを受けた私たちが主の晩さんにあずかることにはどのような意味があるのかを、本日、主の晩さんを執り行うにあたりまして、ペテロの手紙第一3章のみことばから、ともに学んでまいりたいと思います。  私たちは本日のみことばを、3つのキーワードから理解してまいりたいと思います。第一は「十字架」です。18節のみことばをお読みします。  キリストが罪のために苦しみを受けられたとあります。いうまでもなく、人間の罪です。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない、とみことばは宣言します。法律で戒められている犯罪、どろぼうですとか、傷害ですとか、殺人ですとか、そういったものももちろん罪ですが、聖書が定義する罪は、それにとどまりません。 しなければならないとわかっているのにしなかった、こういうことも罪です。電車に乗って席に座ったら目の前に腰の曲がったお年寄りが! しかし、気づかないふりをして狸寝入りをする……あと、中島みゆきの「ファイト!」という歌にありますが、駅の階段で女の人が子どもを突き飛ばした! それを見たあたしはこわくなって逃げ出した、そんなあたしの敵はあたしです、なんて、自分を責めていますが、かわいそうでもそれも本人が意識するように「罪」です。 さらにいえば頭の中で犯す罪というものもあります。いらいらして心が乱されることも、聖書の基準では罪です。だれかに対し、「あいつなんかいなくなってしまえ!」と心の中で毒づくのもやはり罪です。配偶者以外の対象に性的な妄想を抱くのも罪です。 これだけの罪を犯す私たち人間について、聖書は「義人はいない。ひとりもいない」と宣言しています。しかしこの罪があるままでは、私たちはだれひとりとして神さまのみもとに行くことはできません。私たちはその罪の罰を、死をもって、それも神さまから永遠に切り離される死の罰をもって受けなければなりませんでした。神さまはしかし、そんな私たちを憐れんで、私たちが受けるべき死の罰を、ひとり子イエスさまを十字架の上に死なせることによって、身代わりに受けさせてくださいました。 しかし、このキリストの霊は、私たちを神さまのみもとに導いてくださいました。信仰によって義と認めてくださる、つまり絶対的に正しいと認めてくださるという、完全な救いの道を開いてくださったのでした。信仰による救いは、神さまからのプレゼントです。私たちは行いによって永遠のいのち、救いをいただくのではありません。救いは信仰によって、ただでいただくのです。 イエスさまを信じる信仰は、イエスさまの統べ治める神の国、キリストのからだなる教会に入る入口です。門、と言い換えてもいいでしょう。イエスさまは、「わたしは羊の門です」とおっしゃいました。イエスさまをまことの羊飼いと戴く羊の群れの中、教会という共同体の中には、イエスさまを信じる信仰という門を通って入っていくのです。 そうです。イエスさまの十字架は、天国の入口、それも私たちの生きている地上にある入口です。私たちはイエスさまの十字架を信じる信仰によって、この地上の生活からすでに、天国を歩む歩みが始まるのです。どれほど十字架は大切なのでしょうか。十字架なくしてはキリスト教にあらず、とさえ言えます。十字架はまさしく、神さまの側で私たちの救いのために成し遂げてくださったみわざです。 次のキーワードにまいります。第二のキーワード、それはバプテスマです。19節から21節をお読みします。 このところ私たちは日曜ごとに「ノアの洪水」の箇所から学んでまいりました。この第一ペテロのみことばによれば、ノアが箱舟をつくっていた間、やがて来たるべき大いなるさばきが来ることを、その時代の人々に対し、ほかでもなくキリストが宣べ伝えていらっしゃったことが暗示されています。結局のところ、その時代の人々はそのさばきのことばにも関わらず、悔い改めることをせず、ことごとく滅ぼされたわけでした。 ある解釈では、この捕らわれの霊とは、死んでハデスに留め置かれた霊のことであり、その霊たちにキリストが宣教されたということで、キリストを信じなくて死んだ人でも、死後にもセカンドチャンス、救われる可能性はある、といいます。しかしこれは、セカンドチャンスの根拠にはなりえません。人が救われる可能性は、どこまでも、この地上においてイエスさまの十字架を信じるという羊の門を通るかどうかにあります。 滅びの宣告がなされたにも関わらず聴き従わないならば、その責任は聴き従わなかった者に帰します。ヨナが宣教したニネベをご覧ください。ヨナはニネベの滅びを宣告しただけなのに、人々は本気で悔い改めました。神さまはそれをご覧になり、滅びの御手を下されることをやめられたのでした。 ノアたちは、箱舟に乗って助かりました。地を滅ぼす水が轟々と波打つその中を、サバイブしたのでした。そしてこのペテロのことばによれば、それがバプテスマを象徴するものであったということでした。神さまのみことばに従順になって箱舟をつくり、そしてその中に入って洪水をサバイブしたノアとその家族は、イエスさまを信じてバプテスマにあずかる神の家族の象徴です。この水を通ることが、神さまが救いに定められた者の証しであるのです。 時代は下り、バプテスマを授ける人が現れました。バプテスマのヨハネです。彼が説いたのは、悔い改めのバプテスマです。人々が罪ある自分自身から罪なき神さまに方向転換する、これが聖書の語る悔い改めです。イエスさまもヨハネからバプテスマを受けられました。イエスさまはもちろん、悔い改めのバプテスマを受けるだけの罪があるようなお方ではありません。むしろヨハネ自身が言ったように、ヨハネこそが罪なきイエスさまからバプテスマを受けるべきでした。しかしイエスさまはあえて、ヨハネからバプテスマをお受けになり、人として正しく歩むべき道、父なる神さまに対する従順を実践されたのでした。 ノアの家族がノアの従順によって一緒に箱舟で暮らしたように、私たち主の民は、イエスさまの従順によってイエスさまと一緒に、神の国、キリストのからだなる教会という共同体をなすのです。バプテスマ、それはイエスさまと一緒に水に浸かることです。神さまの側でしてくださった「救い」に対する人の応答、それが「バプテスマ」です。イエスさまは天に帰られるとき、このバプテスマを世の終わりまで、あらゆる国の人々を対象に守り行うように、弟子たちに遺言を残されました。 21節もご覧ください。イエスさまは死なれただけではありません。復活されました。ノアの一家が箱舟の外に出て、新しいいのちに生かされるようになったように、私たちもイエスさまの十字架を信じる信仰により、イエスさまの復活にあずかるものとされました。私たちは永遠に罪に勝利し、永遠のいのちが与えられたのです。バプテスマにおいて、いったん水に沈み、そして引き上げられるのは、まさにイエスさまの十字架の死と復活にあずかっていることを象徴しています。 そしてバプテスマは「誓約」です。イエスさまが私のために血を流してくださった、その契約を、私も生涯お従いすると約束することで交わさせていただきます、という誓約です。だから、バプテスマを受けるならば、生涯イエスさまにお従いする歩みをしてしかるべきです。 したがって教会は、すべてバプテスマを受けた者が生涯の誓約を果たす従順な歩みをする上で成長していくべく、互いに教え、励ましていく使命が託されている共同体です。バプテスマは、私たちがイエス・キリストの共同体に属しているという証しになるものです。心に信じ、口で信仰を告白しているならば、私たちは時を移さず、バプテスマを受けるように、励まし合ってまいりたいものです。 では、バプテスマが、イエス・キリストの共同体「となる」ための条件ならば、主の晩さんとは何でしょうか? それは、イエス・キリストの共同体「である」ための条件であると言えます。 ルカの福音書22章、17節から20節をお読みください。……神の国が完成するときまで、わたしはあなたがたとはぶどう酒をともに口にする喜びの交わりを持つことはない、わたしは人の罪を赦すために、血を流すのである、肉を裂くのである……あなたたちも、わたしの十字架を信じる信仰によってわたしの群れに属しているならば、このパンを口にし、杯を口にすることで、わたしの十字架を決して忘れないでいてほしい……ほかならぬ、イエスさまが定められたことです。だから、主の晩さんを守り行いつづけるのは、バプテスマをもって信仰告白を公にした者たちにとって、当たり前のことです。 しかし、もしかすると、このパンと杯にあずかる人が、バプテスマを受けた人に限定されていることを、ずるい、差別だ、と思う人がいるかもしれません。しかし、これはイエスさまの十字架を理解し、したがってこの十字架を信じる信仰を、バプテスマを受けるという形で表明する、その従順を実践した人だからこそ、味わってそのほんとうの価値がわかるものです。 すでにバプテスマを受けていらっしゃるみなさん、きょうもまた、救っていただいた喜びを胸いっぱいに、主の晩さんにあずかってください。まだバプテスマを受けていらっしゃらない方は、どうか落ち込まないで、私は必ずイエスさまを信じてバプテスマを受け、主の晩さんに早くあずかれますように、と祈りつつ、見学していただければと思います。 では、三つ目のキーワードです。それは、「天国」です。22節をお読みしましょう。 キリストは復活し、天に昇られました。キリストは天において、一切の権威を服従させて、神の右の座におられます。ここまでのみことばの流れの最後に現れたキリストは、もはや十字架に釘打たれた弱いお姿ではありません。完全な栄光に満ちた、輝きに輝くお姿です。私たちにとって仰ぎ見るべきお方は、この栄光のお方です。私たちにとって大事なのは、十字架の死を打ち破り、天にのぼり、神の右に座しておられる、キリストの栄光のお姿に似た者へと、私たちが終わりの日に変えられる、ということです。 私たちのこの地上の歩みは、天を目指す歩みです。キリストのうしろを、自分の十字架を背負ってついていく、自己否定の道です。しかし、キリストのために自分の肉の欲望、罪深い自我をたえず捨てつづけ、ただ主の栄光だけが現れることを目指して生きる人には、栄光のキリストがおられる天の御国が待っています。 クレネ人のシモンを思い出してください。ゴルゴタの丘につづく道にたまたまいた彼は、イエスさまの釘づけになる十字架をむりやり背負わされて丘に上らざるを得なかったのでした。どれほど苦しく、また恥ずかしかったことでしょうか。もしかすると、何が悲しくてこんな目にあわなければならないのか、と思ったかもしれません。しかしその息子たちは、初代教会にとって重要な人物となりました。シモンが無理やりにでも十字架を背負わされたことは、初代教会を確実に形づくったのでした。 同じことで、私たちもこの地上においては、栄光も何もあったものではないような苦しい目にあうことが多くあるものでしょう。しかし、それを主からの訓練と思って甘んじて受け、その「おのが十字架」の先にある、栄光のイエスさまの待つ天国を仰ぎ見るならば、私たちの流す涙、流す汗、流す血は、必ず報いられます。 十字架を信じる信仰、これは天国の地上の入口です。バプテスマと主の晩さん、これらは天国の地上の進行形です。しかしやがてこの世界は終わり、天国は完成します。目指すべきはこの日です。この地上で労するのは、すべては天国に行くその日のためです。 終わりの日まで天国の福音を宣べ伝え、人々を信仰に導き、バプテスマと主の晩さんを執り行いつつ、主が十字架を背負って進まれたその御跡を従う従順の生き方に献身する、そのような私たちでありますように、主の御名によってお祈りします。

洪水と箱舟に示されたみこころ

聖書箇所;創世記7:1~24 メッセージ題目;洪水と箱舟に示されたみこころ  1966年の映画で、「天地創造」というものがあります。ジョン·ヒューストン監督、天地創造から創世記22章のイサク奉献までの、創世記の記事に従って大スペクタクルが展開するという映画、音楽も日本人の黛敏郎で、あの当時の日本人にとっては誇らしい映画だったと思います。もちろん、ノアの洪水の場面も登場し、いろいろな動物が箱舟につがいで入る場面もあります。創造科学の立場からは、このように、動物が箱舟に入ることについても、解答が与えられています。興味のある方はDVDを視るなりして調べてみてください。本日のメッセージではその領域は扱いません。  このような聖書箇所をそのまま信じ受け入れるか否かということは、みことばに対する私たちの態度が問われることであり、それは大げさではなく、私たちの信仰のあり方、ひいては、人生を左右します。私たちは、自分の常識や感覚といったものと、みことばの語ることと、どちらを優先するのでしょうか? とても問われることです。聖書の解き明かしは、みことばが正しいということ、実際に起こったことの記録であるということを前提に行います。みなさまもその前提でメッセージを聴いていただければと思います。では、まいります。  第一のポイントです。神さまはこの世界の環境に、驚くべきみわざを行われました。  神さまは、洪水によって地を滅ぼすことをノアに告げられました。しかし、その後の生態系が保たれるように、動物を生き残らせるようにされました。  ノアに託された働きは、そのような動物が生き残るために箱舟に導き入れ、なお箱舟の中でそれらの動物を養う、ということも含まれます。これはもちろん、たいへんな重労働です。先週のメッセージでも学びましたが、神さまに対するノアの信仰は、このような重労働を行うという驚くべき従順を可能にしました。  しかし、地のすべての動物をしかもつがいで箱舟に入れる、ということが、いったい可能だったのでしょうか? それが、可能だったのです。9節のみことばをご覧ください。……やって来た! なんと、動物がやって来たのです。ノアには時間が残されていませんでした。しかしここで神さまは干渉してくださいました。動物たちに、ノアのもとにやってくる意志を与えられ、実際に来るようにされたのでした。  ここに来れば助かる、これは動物的な感覚ともいうべきものでしょうか。しかし、このような感覚さえも神さまが用いられ、生態系を保つようにされたのでした。人間の知恵の及ばぬところに神さまがご計画を立て、被造物を導かれる、これを「摂理」といいます。神さまの摂理は実に、この被造物全体にまで行きわたっていたことをここに見ることができます。  しかし、そのいちばん大きな目的は、主のみこころにかなったノアとその一家を救うことにありました。そのために、あらゆる自然の法則を動かしてでも、ノアのことを救ってくださったのでした。  私たちにしても同じような存在ではないでしょうか? この曲がった時代を生きているのは、だれであれ同じことで、私たちとて例外ではありません。しかし、私たちは神さまの特別な選びによって救っていただいたのです。私たちにはよいものは何一つありません。ただ、神さまの御目にかなっていると見なしていただいた、神さまの恵みによることです。  そして、私たちは一見すると、自分の意志で神さまのもとにやってきたように見えます。しかしほんとうのところは、神さまの側ですべてを働かせて益となしてくださり、私たちは主を信じ受け入れる信仰に導いていただいたのでした。私たちの目には不思議なことです。このような者さえも救ってくださった恵みのゆえに、私たちは主をほめたたえましょう。  第二のポイントです。神さまはノアを中心にした選ばれし者たちに、驚くべき守りを施されました。 もちろん、ノアの家族やあらゆる生き物を箱舟の中に導き入れられたことも大きなみわざです。しかし、それだけではありませんでした。16節のみことばです。ご覧ください。「主が」……戸を閉ざされた、とあります。これは霊的なお方が、物質的な世界に干渉された、ということでもあります。 そういうことはあるのだろうか……基本的に物質的な世界しか体験していない私たちからすれば、これはとても不思議なことのように思えます。しかし、同じ創世記の3章を見てみますと、神さまご自身が獣をほふって皮の衣をアダムとエバにつくり、着せてやったという記述が出てきます。目に見えないはずの神さまが、目に見える世界に干渉していらっしゃるのです。 これはしかし、当然のことです。私たちが今体験している、目に見える世界は、神さまが創造され、支配していらっしゃる領域です。この領域にみわざを行われたとしても、何の不思議もありません。実際、私たちの主イエスさまは、この目に見える世界にお生まれになり、生きられたのでした。神さまの側から見れば、不思議なことは何一つありません。 その前提であらためてこの16節のみことばを見てみたいと思いますが、このみことばからわかることは、箱舟建造からあらゆる生き物を導き入れることに至るまでの一連のノアの行動が、最終的に神さまが責任をもって導かれた働きである、ということです。 ノアの完全な従順は、従順という行為そのもので終わったのではありません。ノアのうしろの戸を神さまご自身が閉ざされるという形で、神さまが完成させてくださったのでした。そうです、従順という行為そのものに意味があったというよりは、その従順の最終的な責任を神さまご自身が負ってくださったということに意味があるわけです。 ノアのように神の選びをいただいた者にとって、神さまはどのようなお方でしょうか? イザヤ書52章12節をご覧ください。神さまはノアに行くべき道を与えられ、導かれました。箱舟をつくって生き延びなさい、という道です。しかしそれだけではありません。うしろの戸を閉ざされたということは、しんがりとなられた、つまり、後ろにおいて守ってくださったということです。これで、どこから何がやって来ても大丈夫です。 このイザヤ書52章12節のみことば、あわてたり、逃げたりするイスラエルの姿は、ともすれば、私たちの姿のようではないでしょうか? 神さまが前で導き、後ろで守ってくださっているのに、それが見えなくて、あたふたしてしまう不信仰な姿を表しているようです。しかし私たちは、そのような不信仰から自由になり、神さまの絶対的な守りの中で憩う必要があります。ノアをご覧ください。箱舟の中に入ったら、彼はこの大波に対して何かしましたか? ただ、流れるに任せただけです。 ちょっと脱線しますが、あのノアの箱舟というものは聖書の記述どおりの設計ならば、工学的に見て驚くべき構造をしているそうです。あの大洪水に耐えられるだけの設計だそうです。よく聖書マンガや日曜学校の教材などで、ノアの箱舟がそれこそ一般的な「船」の格好、そう、底のほうに行くにしたがって細くなる、あの形をしているものを見かけますが、あれはまちがいだそうです。それなら「箱舟」とは言いません。箱型だから「箱舟」です。ともかく、あの箱舟の中に入れば、あとは流れに任せるだけ、ノアはこの洪水を何とかしようとか、一切考える必要はなかったわけです。 私たちもまた、とんでもない状況に取り囲まれることの多いものです。私たちの周囲の状況は刻々と変化し、ときに私たちはその状況に翻弄されます。しかし私たちはそんなときも、主が先頭に立たれ、またしんがりとなってくださっていることを、忘れないでいたいものです。 それでも私たちは悩みますでしょうか? 仕方ない、人だから当たり前です。それでも私たちと普通の人とを分ける、確実なことがあります。ペテロの手紙第一、5章7節です。……神さまは何よりも、ノアのことを心配され、ノアがこの洪水に呑み込まれてしまいように、万全の手を打たれました。私たちのことも主は心配してくださっています。私たちのために特別な配慮をくださる主に、私たちはすべてを委ねてまいりましょう。  第三のポイントです。神さまはこの地の者たちに、驚くべきさばきを行われました。21節、22節をお読みします。だれひとり生き残らなかったのでした。地上に住む者はすべて死んだのでした。生き残ったのはノアとその家族だけでした。  そうです。神さまはお語りになったとおりのさばきを執り行われました。選ばれた者以外、すべて滅びるという結果をもたらしました。しかし、彼らはこの世が滅ぼされるという知らせを知らなかったのでしょうか? もちろん知っていたはずです。義人ノアが箱舟をつくりつづけたことから、この世にさばきの警告が下されていることを知っていました。しかし彼らは受け入れませんでした。  このような地の民に、みこころにかなう人はひとりもいなかったのでした。すべてがさばきの対象でした。死をもってさばかれなければなりませんでした。これが、さばきというものの実際です。「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることが」できない、とみことばは語ります。 それならこの「すべての人」は、「神からの栄誉」の代わりに、何を受けるのでしょうか? そうです、「怒りのさばき」です。しかし、私たちはここで、神さまの気持ちになって考えてみたいと思います。神さまが愛もて創造された人間に、怒りを注がれることで正義を全うしなければならない、それはどれほどのことでしょうか。 私はむかし、「イタズ」という題名の映画を観ました。田村高廣演じる主人公の猟師が、子熊のときから可愛がっていた熊が、養鶏場の鶏を襲ったり、果樹園の果物を食べまくったりして、成長して手がつけられなくなり、自然に帰してやるしかなくなった。するとこの熊は、もっとひどい害をもたらすようになった。主人公はついに意を決し、雪山に入り、銃でその熊を仕留める、茫然となった彼が熊のなきがらを隣からじっと見つめていると、やがて折からの雪崩によって彼は熊もろとも呑み込まれる……という、とても悲しい内容です。 あるべき道を乱す者は、それがいかに愛する対象であろうともさばかなければならない、その悲しさをこの映画は教えてくれたようでした。ノアの洪水ですべての人を滅ぼされた神さまのおこころも、それと同じようだったのではないかと思えてきます。あまりにもつらい、しかしさばかなければならない……。   私たちが罪人であるということは、神さまのみこころを罪によってそれだけ損ない、悲しませているということを意味します。私たちもさばかれなければなりませんでした。私たちももし、ノアの時代に生きていたならば、洪水に呑み込まれ、海の藻屑になっていたとしても不思議はありませんでした。  しかし人々は、このようなさばきに関してあまりにも無関心か、さもなくば荒唐無稽ととらえるようです。現代も水害や地震は大きなニュースになりますが、それでも少し経過すれば、のど元過ぎればなんとやら、です。世の終わりというものについて、もしかするとクリスチャンである私たちも無関心であったりするかもしれない、そのことを私たちは警戒する必要があります。みことばは何と語っていますでしょうか? ペテロの手紙第二、3章3節から14節です。これはおひらきください。新約聖書の476ページです。  このペテロのことばから想像力をたくましくしてみますと、おそらくはノアの時代も、洪水を前にした者たちはあざ笑ったことでしょう。しかし主のみことばどおり洪水はやってきて、ことごとくほろぼされました。みことばのとおりです。  そして私たちはいま、「火で焼かれるためにこの地は取っておかれている」というみことばの前に立たされています。私たちはこれを信じますでしょうか、信じませんでしょうか? 聖書の中には火で滅ぼされるという箇所がしばしば登場します。ありえることなのです。  私たちはこのようなさばきから救われている、だから大丈夫、とおっしゃる方もおられるかもしれません。しかし、それならそれで、私たちには求められている生き方があります。11節、12節のみことばです。  ……私たちはいつイエスさまが来られても大丈夫なように、備えていますでしょうか? 敬虔な生き方、それは、救われている者としてふさわしい生き方を、実際の生活の中で目指すことです。全能の主の御手によって救われたならば、それにふさわしいだけの実を生活のただ中で結んでしかるべきです。何をしても許される、とばかりに好き放題に生きるのは、少なくとも、救われた者としてふさわしい生き方ではありません。そのような生き方のどこに、生ける主との交わりが成り立っているというのでしょうか。  その日が来るのを早めるように、もちろん、イエスさまの再臨がいつになるかということは、全能の主がその主権の中で決めていらっしゃることで、私たちのあずかり知らぬことです。しかし、私たちはマラナタ、主よ来てください、と堂々と言える生き方をするならば、主は私たちのその切なる叫びに応えてくださいます。 それが大いなるさばきとともに来ることを思うと、私たちはどれほどこの地に、それこそノアが大建造物をもって証ししたように、キリストの十字架という旗印を掲げて生きなければならないことでしょうか。キリストの十字架によらずしては、だれひとり救われません。終わりの日に臨む炎に焼き尽くされてしまうほかありません。それは私たちの愛する人とて例外ではありません。私たちの主におしたがいするよい生き方をもって、隣人をキリストへと導くことです。 しかし、それでも彼らがキリストを信じようとしないならば、そのたましいは御手にゆだね、私たちの従順の生き方に集中するばかりです。私たちは何も彼らにあわせる必要はありません。ユダヤ人にはユダヤ人のように、ギリシャ人にはギリシャ人のようにというみことばを取り違えてはなりません。ノアは果たして、その時代の人々を救おうとして、あの罪人たちのライフスタイルに合わせて彼らに証ししたりしたでしょうか? とんでもないことです。   今日のみことばを通して、神さまがノアに対して、またこの世界に対して持っておられたみこころから、私たちは学びました。相働きて益となすみこころとみわざにより、私たちは救われました。主は私たちの救いの完成のために、最後まで導いてくださいます。私たちはこの主の愛に対し、従順の生き方をもってお応えしてまいりましょう。その生き方をもって、イエスさまが再び来られるその日に備えてまいりましょう。主は今週も私たちとともにいてくださり、私たちのこの従順の生き方を導いてくださいます。

主の心にかなった人

聖書箇所;創世記6:1~22 メッセージ題目;主の心にかなった人 この本文に入る前に、確認しておこうと思います。私たちは現実に体験する災害と神のさばきをはっきり区別しなければなりません。ノアの洪水の場合、その洪水そのものからの回復をノアが祈ったという記述はありません。さばきである以上当たり前です。しかしこのたびの台風はちがいます。私たちは、この世をとりなす者、この世の破れ口に立つ者として神さまに召されている以上、ノアの洪水の場合とまったくちがい、私たちはこの日本のために、現実に傷ついている人たちのために祈る必要があります。まずはそこから確認したら、本文の学びに入りたいと思います。 本日の本文の主人公、ノアは、8節にあるとおり、ひとことで要約すれば、「主の心にかなっていた」人でした。このノアから学ぶならば、私たちも主の心にかなった者として生きる道が開けてまいります。では、いつものように、3つのポイントからお話しいたします。 第一のポイントです。ノアは正しい人でした。 9節のみことばをお読みします。……彼の世代の中、つまり、この時代の人々の中にあっても、ということです。では、このノアの生きた時代は、どういう者たちがいたのでしょうか? 1節と2節をお読みします。 ……この箇所は解釈が分かれます。ひとつは、セツを先祖に持つ神の祝福の家系が堕落し、カインを先祖に持つような堕落した人の娘たちと雑婚するようになったというものです。それを象徴的に「神の子」、「人の娘」と表現している、というわけです。旧約聖書を通読すればわかることですが、イスラエルはいかに神の民とされていても、ひとたび堕落するとその堕落ぶりは目を覆わんばかりになります。神の民以外の者たちと交じり合い、民族全体の堕落は加速されます。そのような神の民の堕落が、すでにノアの時代には極みに達していたという解釈です。 もうひとつ、これは興味深い解釈ですが、神の子とはずばり「御使い」「天使」という解釈です。つまり、御使いが堕落し、人間の女性の美しいのをめとり、子どもを産ませた、というのです。でも、私たちは普通、御使いを霊的な存在と受け取っているので、そのような霊的存在が結婚したり、子どもを産ませたりさせられるものか、と思うでしょうか。実際イエスさまは、御使いはめとることも嫁ぐこともない、とおっしゃっています。だから私たちには、この解釈は荒唐無稽に思えるでしょうか。 しかし、同じ創世記を見てみると、たとえば18章の8節で、御使いが人間と同じようにものを食べる場面が出てきます。また、19章では、御使いを見た町の男どもがいやらしい感情をいだいたり、御使いがロトたちの手を引っ張ってソドムの外に導き出したりしています。そうだとすると、もしかしたら御使いは、私たちが常識的に考える「霊的」な存在とはちがうのかもしれません。 そして、この解釈を裏づけるのが、4節に登場する「ネフィリム」だといいます。このネフィリムについては、民数記の敵地偵察のできごとで、強そうに見えた敵に震え上がった偵察隊が、敵の巨大さを「ネフィリム」に例えている場面に登場します。もちろん、ノアの洪水でネフィリムはみんな滅びた以上、そのアナク人たちはネフィリムの子孫などではありませんが、そういうところに引き合いに出されることを見ると、ネフィリムは神の民を取って食うような強力な敵対者、というイメージがイスラエルに定着していたのでしょう。創世記6章に登場するこのネフィリムがイスラエル人のイメージのような「巨人」であったのは、御使いと人間の交雑の結果異様な肉体を持つようになったからだ、と大真面目に主張する人もいます。 どちらがほんとうなのかは、今となっては検証のしようもありません。しかしどちらの解釈であれ、はっきりしていることは、地上に「生めよ、増えよ」と広がった人間は、もはや神のかたちを失い、堕落に堕落を重ねて主を大いに怒らせ、また悲しませていたということです。この世界に対する主のみこころは、3節に表れています。 ……人の齢が120年、これは、神さまは人のことを120歳までしか生きさせない、という意味にも取れるでしょう。実際、この創世記を書いたモーセ自身が120歳でこの世を去っていますし、このノアの洪水を境に、何世紀にもわたって生きるような途方もない長寿だった人間は、ぐっと寿命が短くなっています。現代人は寿命が長くなりましたが、それでも、地球上のほぼ全員が120歳の壁を越えていません。こうして見ると、120年というのは、寿命の標準に見えてきます。つまり、人間の寿命を短くされたのは、だらだらと長く生きたぶん罪をたくさん重ねないようにという、罪深い人間に対する神さまのお取り扱いだったということです。 しかしもうひとつ解釈があります。それは、このみことばを主が語られてからあと120年で、人間の寿命はおしまいになる、ということです。もちろん、地球規模の洪水によってです。あと120年です。ご自身に反逆する人間に対するすさまじいまでの御怒りの中、120年のチャンスを与えるから何とか悔い改めてほしい、というみこころが見えてきます。ヨナ書を読むと、神さまは悔い改める民族に対するさばきを撤回されるお方だということがわかります。このさばきも撤回されるチャンスはあったのです。 しかし、実際はどうでしょうか。11節、12節です。……これが現実です。ひとりノアだけが、この世界において主のみこころにかなった、正しい人だったのです。ノアは、そういう世界においても、正しい生き方ができたのです。しかし、ノアにとっての正しさの基準は何でしょうか? それが、ノアを取り囲む人々の倫理になかったことは確かです。なぜならその倫理は、どれひとつとして神さまのみこころにはかなわない、正しくないものだったからです。その倫理が少しでも正しければ、彼らは滅ぼされずに済んだでしょう。でも実際、彼らは滅ぼされました。こうなるとノアは、世界と交じり合いながら生きることを放棄しなければなりませんでした。あるのはただ、神さまとの個人的な交わりだけです。 ノアの生き方を象徴するみことばが新約聖書の中にあります。ローマ人への手紙、12章2節です。……ノアはこの堕落した世界から四方八方迫りくる人間関係の侵略から、つねに心を新しくして神さまに守っていただかなければなりませんでした。そしてそれは、私たちも同じではないでしょうか。私たちもいろいろな人間関係に取り囲まれていますが、時にその人間関係は、この世、すなわち神さまのみこころにかなわない基準に調子を合わせようとさせ、あたかもそれが美徳のように迫ります。 しかし私たちは、すでにこの世から救い出されている者たちであるという自覚が必要です。完全なみこころを知る必要があります。私たち人間はどこまでも不完全ですが、みこころは完全です。だから私たちは、みことばから学ぶのをやめてはならないのです。みなさまがご希望ならば、私はいくらでもみことばを学ぶ機会をもうけたいと思います。それは、私たちの聖書知識を増し加えて、何か自分が偉くなるためではありません。みことばにとどまることでこの世から自分を守り、また教会を守るためです。ノアによって人類が守られたのは、正しい主のみこころを保つためであったように、私たちも守られるように、みことばを変わらない基準として、私たちの中にしっかり保ってまいりたいものです。 第二のポイントです。ノアは従順な人でした。 6章14節から22節には、箱舟をつくる手順、また箱舟の中に入れる生き物について、くわしく書いてあります。これらの記述を現代人が読むと、かなり荒唐無稽に思えるのでしょう、このノアの箱舟の記事は神話であり、したがって一事が万事、聖書全体は神話であるという、とんでもない結論が導き出されるわけです。しかし、この教会で養われてきなみなさんは、この洪水、またそれに耐えた箱舟がいかに科学的に立証できるものだったか、よく学んでこられ、それがみなさんの聖書信仰をしっかり裏づけていると思います。私は創造科学の専門家ではないので科学的に深入りはしませんが、この箱舟建造とあらゆるつがいの生き物を箱舟に導き入れたことについて、ノアはいかなる神さまのみこころに従順になったか、3つの側面から見ることができます。 まずは、いのちを守れ、というみこころです。地を覆う洪水からサバイブせよ、そのためには、わたしの言うとおりに箱舟をつくりなさい、というわけです。かくして、あのすさまじい洪水から、ノアとその家族は守られたのでした。さきほども触れたとおりですが、みことばに従順に従うことは、この世の嵐のようにすさまじい迫害や誘惑から、私たちを守り、きよく保つことになります。 そして、いのちを保て、というみこころです。ノアがこれだけの生き物を、それもつがいで導き入れたのは、洪水で破壊された環境が自然の秩序を取り戻すためです。生き物が新しく出発する地上に放たれると、そこでは食物連鎖がなされ、環境が十全に保たれます。それはもちろん、人間を生かすことになります。人間のいのちを保つために、生き物のいのちは生かされる必要があったのでした。そのために、ノアの家族はもちろん、それらの生き物のいのちを保つためにも、食べ物をふんだんに運び込みなさいとも命じられました。 そして何よりも、「自分のために」箱舟をつくれ、ということです。わたしはこの地を滅ぼすが、あなただけはまず何としてでも生き残りなさい、というみこころが現れています。さて、このみことばをお読みすると、神さまはノアに利己的になるように勧めておられたのだろうか、という疑問がわき上がりますでしょうか。「自分のため」ということが、主にあって人に尽くす生き方と対照的に見えるからです。 この時代の人々とノアがどのようにつき合っていたか、それは想像の域を出ません。しかし、あのような巨大な建造物をつくれば、いやでも人目につきますし、それをなぜつくっているのか尋ねられたら、ノアは正直に答えたでしょう。そして、なんとしてでも入ってくださいと勧めたでしょう。しかし、彼らがどんな反応を示したかは、結局箱舟に入ったのがノアとその家族だけだったという事実を見ても、一目瞭然です。それでもノアは救いの旗印として、この大きな建造物を世に示したのでした。やがて来る破滅から救われる道は、これに乗ることしかありませんでした。大きな箱舟をつくり、それに次々と生き物を入れていくなんて、どれほど人々から馬鹿にされたでしょうか。しかしそれでも、これこそが救いの道であると知る以上、ノアはその歩みをやめるわけにはいかなかったのでした。 私たちも同じように、破滅から免れる道を与えていただきました。それはイエスさまの十字架を信じる信仰です。これ以外、救いの名は人間には与えられていません。そんなことを言うと、やれキリスト教は偏狭だ、独善的だ、などという声が飛んできそうですが、この信仰告白にこだわるのをやめるならば、私たちはクリスチャンであるのをやめなければなりません。ノアが大建造物をもって世に証ししたように、私たちはクリスチャンである以上、イエスさまこそが救いの道であることを証しする必要があります。どんなに馬鹿にされても、どんなに攻撃されても、これこそがまことである以上、私たちは十字架に歩むことをやめてはならないのです。 それでは第三のポイントにまいります。ノアは、神さまと契約を結んだ人でした。 18節のみことばをお読みします。……さて、契約と言いましても、対等の立場で結ぶものではもちろんありません。神さまがご自身の正しさにかけて、ノアという人を選んで契約を結ばれるのです。その契約に伴って、ノアの家族も救われることが約束されました。 私たちも日常生活で、契約というものをします。問題が起こると、契約は破棄され、下手をすると法廷に持ち込まれます。契約というものは、履行されることが前提で結ばれるものです。 神さまの場合はもちろんのこと、神さまの側は契約をかならず履行してくださいます。それが、絶対的な救いというものでした。これは、この曲がりに曲がった時代の人々の中からたったひとり、ノアだけを選び、救ってくださった、神さまの恵みの選びに基づくものでした。 しかし、それが神さまの側から見た契約の履行内容ならば、人の側にも履行すべき条件はあったのでしょうか? ありました。それはノアが、そっくりそのまま、神さまのみことばに示された救いのご計画を、信じたことです。 そしてこの「信仰」は、とてつもないことを可能にしました。それは、箱舟という大建造物をつくり、なおその中にすべての生き物をつがいで入れる、ということでした。もしノアが、神さまがみことばで示された箱舟にまつわる条件をひとつでもたがえたならば、彼も彼の家族も生き残ることができませんでした。ノアが生き残って神さまに用いられるためには、徹底してみことばに従順になる必要がありました。大建造物をつくり、あらゆる生き物を箱舟に運び込むことは、ただごとでないくらいたいへんなことです。それでもノアは、神さまの救いの恵みに甘えることなく、この重労働をやり遂げ、そして救われたのでした。 私たちも、神さまが契約を結んでくださった存在です。神さまは私たちを救うために、ひとり子イエスさまを私たちの身代わりに十字架につけてくださいました。私たちはイエスさまを信じる信仰により、神さまに救っていただきました。信仰、これこそ、神さまと契約を結んだということです。 この信仰によって、私たちはこのみことばに従順に従う力が与えられます。ひとり子イエスさまによって私をあがなってくださったほどの神さまのみこころに、なんとしても従おう! そのみこころを知るために、聖書を読もう! こうなるのです。 これは、神さまの恵みです。私たちがみな、この恵みにとどまりますように、また私たちの周りの方々も、この信仰によって神さまと永遠の契約を結び、永遠のいのちという恵みを手にされますように、祈ってまいりたいと思います。 私たちは神さまによって正しい者とされていますゆえに、この世から自分を守ってまいりたいと思います。それは、教会を主のからだとして守ることでもあります。そして、みことばに従順に従ってまいりましょう。しかしその従順は人間的な頑張りではありません。救いの恵みをいただいたゆえに、救ってくださった神さまを喜ぶその喜びで従順に生きるのです。ノアにならうこの歩みを、私たちでともに歩んでまいりましょう。

墓碑銘転じて祝福の系図に

聖書箇所;創世記5:1~32 メッセージ題目;墓碑銘転じて祝福の系図に 本日の聖書本文は、「こうして彼は死んだ」ということばが、これでもか、これでもか、と登場します。ある牧師先生がおっしゃっていましたが、このように立ち並ぶ名前は、「墓碑銘」のようだということでした。谷中霊園も、立ち並ぶ無数の墓石にはあらゆる人々の名前が刻まれていました。みんな死んだ人です。この、創世記5章の記録も、そのような無機質に立ち並ぶ墓碑銘のように見えてきます。 しかし、この墓碑銘、続けて読むと、希望、そして祝福をもたらす系図にも読めてきます。本日のメッセージでは、この系図に登場する3人の人物にスポットライトを当てて、私たちはいかなる存在であるべきか、ともに学んでみたいと思います。 第一はアダムです。アダムは、神のかたちを伝える存在です。 まず、1節をお読みします。……この系図は、子孫が、アダムの何を受け継いだことを証ししているのでしょうか? そうです、「神の似姿」を受け継いだのです。3節を見て見ますと、「彼の似姿として、彼のかたちに」とあります。人は、遺伝によって親に似た顔になります。このみことばも一見すると、その親から子への遺伝というものを示しているのかな、と思わせます。 しかし、それ以上に、アダムが神さまから与えられた神のかたちを、人は受け継ぐ、ということを示しているわけです。前回、創世記を学んだときにも触れましたが、この直前の4章26節で、人々が主の御名を呼ぶことをはじめたことを、聖書は語っています。これぞ、神のかたちに人がつくられた証拠です。被造物であるという点では人間も動物も同じですが、動物はお祈りをしません。しかるに人間は、まことであれいつわりであれ、神さまという存在を意識しているだけに、みな宗教的ということができるでしょう。そのような、自分の信じる対象に献身するのです。 人がみなアダムの子孫であるかぎり、人はみな、神のかたちを受け継いでいます。しかし、すべての人がまことの神さまに献身できているわけではありません。そのことを象徴するのは、アダムが死んだということです。アダムが生きたのは930年、途方もない長寿です。仮に今年2019年にそのいのちが終わったとしても、生まれたのは西暦1089年、鎌倉時代より100年以上もむかしです。どれだけ長寿なのだろう、と思いますが、それでも彼は死んだのです。そしてアダム以来、アダムの子孫はことごとく死にました。セツ、エノシュ、ケナン、マハラルエル、ヤレデ……みな死にました。 善悪の知識の木の実を取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ……アダムに与えられた預言がそのとおりになったばかりか、その、罪の報酬は死、という現実が、すべての人間に降りかかるようになったのでした。 しかし、このような性質を受け継ぎながらも、人は「神のかたち」としての性質も同時に受け継ぎました。罪と死の性質を受け継ぐようにしたものが人の責任にあるとしたら、神のかたちを受け継ぐようにしたものは、神さまの恵みでした。 私たち自身を見てみたいと思います。私たちは、自分のどんなところに目を留めますでしょうか? 死にゆく自分のさだめ、その罪ゆえのさだめに目を留めてしまいがちですが、そうではなく、その罪さえも贖ってくださり、神のかたちを保ってくださる神さまの恵みにこそ目を留めさせていただきたいものです。 私たちに与えられた神のかたちを活かしていただくべく、主の御前に出てまいりましょう。神さまは罪深いこの身、死ぬべきこの身を、神の似姿にふさわしく造り変えてくださいます。 第二はエノクです。エノクは、神とともに生きる存在です。 24節を読みましょう。……なんと、彼は「死んだ」のではありません。「いなくなった」とあります。その理由を、みことばははっきり記しています。「エノクは神とともに歩んだ」、そうしてもうひとつ、「神が彼を取られた」……。 エノクがこの世を去ったありさまは、現代を生きる私たちにとって難解なものです。ただ私たちは、後代になって書かれた「ヘブル人への手紙」のみことばから、その実際を類推することができるのみです。11章5節と6節をお読みします。……はい、はっきり、「死を見ることがなかった」とあります。「彼はいなくなった」とは、「死んだ」ことを比喩として書いているのではありません。 ……エノクは、信仰の人でした。そしてその信仰のゆえに、神さまに喜ばれていました。神さまがおられることと、神さまを求める人には神さまが報いてくださることを信じる、これが信仰です。 神とともに歩むとは、そのように、信仰の歩みをすることです。この地上では神さまを目に見ることができません。しかし、神さまがおられることと、求める者に報いてくださることとを信じることはできます。そのようなものを神さまは喜んでくださり、みそばに置こうとしてくださるのです。 私たちにとって、この世界はどのようなところでしょうか? こだわるべき場所でしょうか? この世に執着してはいないでしょうか? この世は、私たち神の民にとってふさわしくない場所です。私たちは上にあるもの、神さまがおられる天の御国を求める必要があります。 たしかにエノクは、この地上を去るにあたっては、尋常ではない去り方をしました。しかし、神さまに召されたという点では、主にあって亡くなられた方と同じと言えます。だから私たちにとっては、エノクは特別な存在ではありません。私たちもエノクのように、日々主とともに歩むべく召された存在です。私たちにはみことばが与えられています。私たちにはできるのです。主が私たちにできるように、祈りとみことばという道を備えてくださっているのです。 私たちは、何かの行いで神さまに喜んでもらおうとしてはいけません。私たちはただ、神さまがおられること、そして求める者には報いてくださることを信じるのみです。だからこそ私たちはお祈りをするのですし、みことばをお読みするのです。間違っても、お祈りの時間やみことばを読む分量を積み重ねることで、神さまにそのぶん喜んでもらえるなどと思ってはいけません。 そして第三はノアです。ノアは、神の慰めを実現する存在です。 29節のみことばをお読みします。……それでは、ノアのもたらす慰めとは、どのようなものだったのでしょうか? それを知るために、もう一度エノクにさかのぼって、ひとりひとり見てまいりたいと思います。22節を見てみますと、エノクが神とともに歩んだのが、メトシェラをもうけてから300年、ということでした。つまりこのメトシェラという人物は、エノクが神とともに歩む、その霊的な新境地を開くうえで、重大な役割を果たした人ということができます。 ある解釈によれば、このメトシェラという名前は、「死を送る」という意味があり、すなわち、「神のさばきが下される」ということを意味しているのだといいます。そうだとすると、エノクがこの名前をつけただけの霊的な境地はどのようなものだったか、よく考える必要があります。 メトシェラは息子レメクを生んでから、782年生きたとあります。この箇所だけを読んでいると、メトシェラが969年も生きたことについ優先的に目が行ってしまいますが、その息子、レメクがノアをもうけた年齢に注目すると、驚くべきことに気づかされます。そう、レメクは182歳でノアをもうけているのです。すると……計算すると、メトシェラは、ノアが600歳の時に死んだ、ということになります。 ノアが600歳のとき、それは、大洪水の直前のときでした。それを考え併せて、メトシェラという名前の持つ意味を考えてみると……神さまは実に数百年もの長きにわたり、悪に満ちるこの世界を忍耐され、忍耐され、忍耐された、その末に、人類滅亡規模のさばきを下されたことが浮かび上がってきます。 そのような世界において、レメクはノアにどのような役割をすることを願ったのでしょうか? それは、のろいに満ちたこの世界に、慰めをもたらすことでした。 しかし、レメクがノアに願ったのは、人間的な快楽でこの世に慰めを与えることではありませんでした。まことの慰めは、慰め主である神さまから来ます。ノアは600年もの人生において、この慰めを地上に実践するということにおいて、主のみこころにかなった存在でした。 しかし、その世界は、メトシェラという名前が示すとおり、さばきがすでに宣告された世界でした。しかしレメクは、そのような世界であるゆえに諦めたりなどしませんでした。神の民の置かれている絶望的な状況を、宿命として受け入れることをしなかったのです。かえって、少しでもこの堕落した世界に神の慰めをもたらせるようにと祈って、この世界にノアを送り出したのでした。 果たしてノアは、神さまのみこころにかなう者となりました。ノアは、どんなに堕落した世界にあっても決して染まることはなく、そのような世界から救い出されたのでした。まさし、堕落した世に慰めをもたらすという、神のみこころにかなった生き方をすべく導かれるという、神の恵みのなせるわざでした。 今日私たちは、台風19号という絶望的なニュースを聞く中で集まりました。途方もない災害が世界を覆う、そのような時代に私たちは生きています。まるで、ヨハネの黙示録に書かれているとおりの、2000年間封じられていたこの世界の終わりの絵巻が、ひとつひとつ開かれ、現実になっているかのようです。 それなら、私たちは、もう信仰によってこの世界から救われているとばかりに、自分たちさえよければという態度で、この世に無関心であってもいいのでしょうか? いいえ、決してそうではありません。私たちはこの世界がどうであろうとも、この世界に神の慰めをもたらしつづけることが求められています。 私たちのそのような愛の行いを、世の人たちは評価しないかもしれません。私たちがどんなに愛を説き、愛を行なっても、世の人たちはまるで振り向いてくれないかもしれません。しかし、だからといって私たちは、愛すること、慰めることをやめてはならないのです。 メトシェラという存在がこの世に対する神のさばきを宣告したように、私たちにも、神のみことばである聖書が与えられました。そして、聖書ははっきりと、この世の終わりのさばきを語っています。それはとても耐えがたいものです。しかし、聖書ははっきりと、「すぐにでも起こること」と書いています。私たちは油断していてはならないのです。 むしろ私たちは、これほどまでに悪がはびこるこの世界を、ここまで神さまが忍耐してこられたことを思い、感謝するべきではないでしょうか? メトシェラは969年生きました。私たちはと言えば、聖書が与えられてから実に2000年ちかくも神さまが忍耐してこられた末に、ここにいます。 考えてみましょう。私たちも罪人です。私たちの罪を思うとき、神さまがなお忍耐して、私たちのことを滅ぼさずにいてくださることに、感謝せずにはいられなくならないでしょうか? この神さまの忍耐を思い、この世界に愛と慰めを実践する力をいただき、忍耐をもって神の栄光を現してまいりたいものです。その生き方ができるように、ともに励まし合ってまいりましょう。 アダムのように、神のかたちを受け継いでいる私たちは、エノクのように、信仰によって神とともに歩む生き方をするように召されています。その生き方は、この世に慰めを注ぎ続けることにより、神のご栄光を現す生き方によって実を結びます。 ノアの洪水は、決して古代の夢物語ではありません。あれでも地球は滅びませんでしたが、終わりの日に主がもたらされるさばきは、あんなものではありません。こんどこそほんとうにすべてのものは滅びます。 しかし主は、私たちにイエスさまを信じる信仰を与えてくださって、その御怒りから救い出してくださいました。私たちが恐れるべきは、ただ主おひとりです。主の栄光を現すべく、神のかたちに召された自分自身であることに、つねに目を留めてまいりましょう。神さまがおられること、神さまを求める者には必ず報いてくださることを信じて、信仰の歩みをしてまいりましょう。その歩みが、この世界に愛と慰めをもたらす歩みへと実を結ぶものとなりますように。そのようにして、終わりの日に私たちがイエスさまの御前に立つとき、恥ずかしくなく御前に立つものとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 私たちは、この地上に墓碑銘を刻んで終わりの存在ではありません。私たちは祝福をもたらす存在です。主は、信仰によって生きる私たちを必ず用いてくださいます。

教会を守るために

聖書箇所;ヨハネの手紙第二1節~13節 メッセージ題目;教会を守るために  本日のメッセージは、私たち教会は何を学び、何を守るべきか、みことばから思い巡らしつつ作成したものです。私たちの教会と、私たちの信仰を守ることを前提に、ともに学びたいと思います。  第一のポイントです。私たちの持つものは、表裏一体の真理と愛です。  1節から3節をお読みします。……私はあなたがたを本当に愛しています! まさしく、ヨハネが愛の使徒と呼ばれるゆえんです。この手紙はヨハネの手紙第二ですが、ヨハネの手紙第一は、そのテーマが「愛」です。「神は愛です」という、聖書をひとことで要約するようなことばも、このヨハネの手紙第一に含まれています。それほどまでに愛を強調するヨハネが、「私はあなたがたを本当に愛しています」というのです。とても説得力のあることばです。  しかし、愛しているのはヨハネだけではありません。「私だけでなく、真理を知っている人々はみな、愛しています」ともヨハネは語ります。真理を知っている人とはだれでしょうか? そもそも、真理とは何でしょうか? 真理とは、自分が真理と思えばそれが真理なのではありません。  真理とは、創造主なるイエスさまご自身と、そのみことばによって示されたものです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」イエスさまはそうおっしゃいました。私たちは信仰によって、イエスさまが道であり、真理であり、いのちであることを受け入れています。ですから、イエスさまというこの真理を持つ者は、教会の兄弟姉妹を、ほんとうに愛するように導かれるのです。  私たちはみことばをお読みするとき、自分の愛のなさ、みことばから遠い現実に、時に悲しまされることがあるでしょう。しかし、それで私たちはさばかれることなど決してありません。私たちはどんなに自分の貧しさを痛感しようと、「愛している」のです。なぜでしょうか? それは、愛なるお方、イエスさまを心の中にお迎えしているからです。  「神は愛です」、そうです。神さまは愛そのもののお方でいらっしゃいます。ですから、愛なる神さまであられるイエスさまを受け入れているならば、その人には、イエスさまの愛で人を愛する可能性が、無限に開かれていくのです。  コインの裏表どちらから見てもコインそのものであることは変わらないように、真理と愛は側面がちがうものであっても、実際は同じものです。それは、イエスさまが真理であり、同時に愛であられるゆえです。私たちは変わらない基準、真理として、神さまとそのみことばなる聖書を受け取り、その神さまとの交わりを通して、またそのみことばに啓示されているとおりに、愛を実際に行うのです。  教会とは、真理と愛が旗印として掲げられているところです。もし私たちが、この世に対して真理を指し示すことができなかったらどうなるでしょうか? 私たちの間に愛がなかったならどうなるでしょうか? 単なる宗教者の集まり、聖書同好会の集まりと何ら変わることがなくなります。私たちは人間的なレベルの宗教をやっているのでもなければ、同好会のレベルのことをやっているのでもありません。この地上にイエスさまの統べ治める、御国を実現すべく召された存在、それが私たちです。  愛というものは神の真理なしには成り立ちません。ここに私たちは、真理の骨組みを私たちの中に確かにするために、聖書の教理を体系的に学ぶ必要が出てくるのです。また、毎日の聖書通読を通して、聖書の真理をわがものとする必要があるのです。それでこそ、私たちにとっての愛はみこころにかなった、確かなものとなります。  逆に、私たちが真理を持っているということは、愛という形で実現することで証明されます。いかに正しいとか、聖書的とされる教理を教会で教えていようとも、愛するという点において落第生となるということは、充分にありえることです。パリサイ人などまさにそういう例です。福音書には、なぜあれだけたくさんパリサイ人の記事が登場するのでしょうか?それは、信仰によって救われた私たちはああではない、などと、安心させるためでは決してありません。私たちも真理を知るあまり、パリサイ人のようになることは充分にある、気をつけなさい、と、警鐘を鳴らしているからと受け取るべきでしょう。私たちに求められているのは、真理によって人をさばく生き方ではありません。真理によって人を愛する生き方です。  私たちは、神は愛であることを証しする生き方をするために、愛と表裏一体の真理を身に着けてまいりたいものです。ともに聖書の真理を学ぶことに、一生懸命になってまいりましょう。  第二のポイントです。私たちのすることは、互いに愛し合うことです。  4節、5節をお読みします。……愛し合う! これが私たちに求められていることです。忘れてはなりません。「愛し『合う』」です。だれかが一方的に愛すれば、それで完結するのではありません。愛し愛される関係の中で、愛がお互いに実践されていく、これが私たちに必要です。   最初は教会は、多くの、愛されることを必要とする人たちに満ちていました。しかし彼らは、「愛し合う」ように導かれました。愛されてばかりでは、教会は成長しませんし、ほんとうの意味での交わりが成り立っているとは言えません。充分に愛を受けた人は、最初はへたくそでも、人を愛する歩みへと踏み出していくことが求められます。そうして、その人は愛する人へと成長します。でも、そういう人は愛されることを卒業するのではなく、ますます愛されるようになるのです。だから、愛する人になることを恐れたり、いやがったりするべきではありません。  すると、ここで私たちは考えるべきことがあります。「愛ってなに?」私たち教会は、これをちゃんと抑えていないとなりません。愛ということばの定義は、人それぞれの解釈に陥ってしまう危険があります。  だからこそ6節のみことばが大事になります。「御父の命令にしたがって歩む」、これが聖書の定義する「愛」なのです。ということは、御父の示された、みことばに従うあらゆる行動を「愛」と呼ぶべきなのです。人間的に愛し愛されるという次元とは、根本的に異なるとさえいえます。だから私たちにとっての愛とは、時に人間的な気持ちよさと距離のあるものであるかもしれません。時にとてもきびしいものです。けれども聖書はそれを「愛」と呼びます。  そして私たちにとって、愛は選択ではありません。神の命令は愛に集約され、また、愛は神の命令です。必ず愛するのです。愛することをしない教会など、看板を下ろさなければなりません。そしてこの愛することとは、御父の命令にしたがって歩むことです。  これは信仰の初歩の方にとっては、かなり厳しい命令になるでしょう。といいますのも、その人のうちには神のみことばはほとんど蓄えられていないから、どのように愛すればいいかわからないからです。だからある程度信仰の経歴のある信徒は、そのような方々が愛する人、すなわちみことばを守り行える人に成長できるように、そばにいて助けてあげる必要があります。これももちろん、愛することです。やがてその関係は、愛し愛し合う関係へと成長します。  さて、私たちは御父の命令にしたがって歩むこと、愛することが神の命令そのものであることを学びました。では、このヨハネの手紙第二では、なぜそのことを強調しているのでしょうか?  そこで第三のポイントです。私たちのすることは、真理と、その上に立つ教会を守り抜くことです。  7節をお読みします。……この時代に顕著に現れてきた異端の特徴です。彼らはもっともなことを言っていると、多くの人がだまされていたようです。なにしろ、神さまというお方は霊であり、目に見えないと刷り込まれているからです。となると、目に見えてこの地上を生きたナザレのイエスは神の子キリストではない、という結論になります。  8節をお読みします。……もし、このような異端についていくならば、それは、使徒たちを中心にこの地上に立て上げた教会、そして教会を教会ならしめる健全な教理を壊すことになります。その健全な教会と教理を立て上げるために、時には殉教もものともせずに努力してきた先人の犠牲が、このような異端によってあれよあれよという間に崩壊するのです。使徒ヨハネは、このような者たちに決して加担しないで、むしろ、愛と真理によって教会を建て上げ、終わりの日に主から豊かな報いを受けられるようにしなさい、と勧めています。  9節をお読みしましょう。……「先を行って」キリストの教えにとどまらない者、つまり、聖書の真理につけ加えて、自分たちこそがほんとうの真理を教えているとうそぶく者は、神を持っていない、つまり、神さまとの交わりもなく、救われてもいない人間であり、そういう者をクリスチャンとか、兄弟姉妹と呼んではならないのです。  ここ数十年で顕著になりましたが、キリスト教大国といわれる韓国には、それまでになかったタイプの異端が発生するようになりました。その派手な活動により、韓国では、プロテスタント人口900万人に対し、そのようなものも含めた異端の人口は、200万人にもなるといいます。それほど、既存の教会から多くの信徒が引きはがされたのです。  彼らが異端なのは、「イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない」ことに集約されます。一見すると彼らはイエス·キリストを告白しているようですが、ほんとうのメシアは、その団体をつくった教祖であると教えます。名前はいちいち挙げませんが、それぞれの団体がみな、その最高指導者をあがめる体制になっています。要するに、神の御子イエス·キリストを告白しないという点では同じなのです。それは、イエスさまの十字架によって完全に私たちの罪が赦され、イエスさまの十字架を信じる信仰により私たちが神さまと和解し、神の子どもとなるということを否定することでもあります。  しかし、こんなでたらめを一般信徒が信じるだけのシステムができあがっているのだから、実に恐ろしいことです。これは、教会に入りこんだ工作員のような者が信徒と一定の信頼関係をつくったところから、自分たちの聖書勉強会に誘い、そうしてじっくりマインドコントロールしていく形で実行されていきます。そして気がつくと、信徒は正しい信仰を捨て去り、身も心もカルト宗教的な異端にささげきることになります。  しかし、これははっきり言っておきますが、彼ら異端にはみこころにかなう愛など一切存在しません。いい人に見えたとしたら、それは神の愛を演技でやっているだけです。ほんとうに愛してなどいません。なぜ、彼らのしていることを愛と呼んではならないのでしょうか? それは、今まで見てきたとおり、彼らにはみことばの真理がないからです。しかし、私たちは真理を持っているならば、彼らのそれがまことの愛かどうかを見抜けるだけの霊的感覚を持つことにもなります。恐れないで、みことばを学んでいただきたいのです。  10節、11節には、そのような異端者たちに対する私たち信徒の接し方が書かれています。お読みします。……家に入れてはいけない、あいさつさえしてはいけない、実に厳しいことを書いています。しかし、私たちは普段から、どんな人にも愛を実践するように教えられているはずなのに、と思いますでしょうか?  でも、この場合においては、それはちがうのです。それは、私たちが人々を愛するのは、それがキリストのからだをこの地上に立て上げることだからです。だから、キリストのからだを立て上げるという目的に一切つながらない交わりは、絶対にしてはならないのです。異端者と交わり、彼らの領域を教会内に拡大させるならば、間違いなく、教会は崩壊します。それは交わりと称するものによって、主のみこころを損なうことです。私たちはだれでも彼でも教会に招き入れていいわけではないのは、これではっきりします。彼らはキリストによって愛することなど、絶対にしませんし、またできません。することは自分たちの領域を拡大し、教会を崩壊させることだけです。 私たちはこの教会を愛し、兄弟姉妹を守りたいなら、みことばの真理を学び続けましょう。愛し合いつづけましょう。この日々の歩みを生むことなく続けていくならば、主は終わりの日に、私たちに、「よくやった。よい忠実なしもべたちよ」と言ってくださると信じます。その日を目指して、祈りつつ、励まし合いながら、歩んでまいりましょう。

カインとは私たちである

聖書箇所;創世記4:1~26 メッセージ題目;カインとは私たちである  兄弟の仲はいいに越したことはありません。しかし、聖書を見ると、新約聖書には、同じ弟子の共同体に属したペテロとアンデレ、またヤコブとヨハネのようなケースはありますが、旧約聖書を見ると、だいたいは兄弟仲がうまくいっていないケースが登場します。イサクとイシュマエル、ヤコブとエサウ、ヨセフと10人の兄、ダビデと兄たち……  なんといっても、聖書に最初に登場する兄弟からして、兄弟愛という点で大きな問題を抱えていました。愛し合うべき兄弟の間で起きたのは殺人でした。世界で初めての殺人、それは兄弟の間で起こったのでした。  アベルは羊飼いです。神の民イスラエルの象徴ともいえる人物です。それがゆえなく迫害にあったということも象徴的です。私たちはアベルに肩入れしたくなるでしょう。しかし、今日のメッセージは、アベルではなく、カインのほうにスポットを当ててお語りしたいと思います。と言いますのも、聖書をよく読んでみると、神さまと会話を交わしている記録が聖書にあるのは、アベルではなく、カインのほうです。さらに、カインの記事のほうによほど紙幅が費やされています。私たちはもちろん、アベルから学ぶ者でありますが、罪という問題と闘いながらこの地上を生きていく者として、カインを反面教師として、また、カインに注がれた主のみこころから、学ぶ必要があります。そういうわけで本日のメッセージの中心はカインです。ともに学んでまいりたいと思います。 第一のポイントです。カインは、罪の動機を治められませんでした。 農夫カインと羊飼いアベルの兄弟。彼らはある日、神の御前にささげものをささげることになりました。 これはたいへんなことです。大舞台とさえいえます。普段の彼らのすることは、農夫であり、羊飼いです。しかしこの日ばかりはちがいました。神さまの御前に出て、礼拝をささげるのです。大地であったり、羊たちであったり、そういったものを相手にすることから、神さまへと向かう。どれほど晴れがましい瞬間だったことでしょうか! 礼拝というものは、そのような晴れの舞台です。みなさん、いま私たちのいるこの場所は、晴れの舞台です! 一週間に一度、このように御前に集う時間を大切にしたいものです。 さて、この晴れの舞台に、カインは大地の実りを、アベルは羊の初子の肥えたものを携えてやってきました。そして……神さまが顧みてくださったのは、アベルのささげ物の方でした。カインのには目を留められませんでした。 カインは怒りました。私たちもカインならば、怒るのが当然だと思うでしょうか?しかし、もしそうならば、私たちは少なくとも、3つの心の罪に関わっていることになります。第一に、自分が正しいとする罪、第二に、ほかの人と自分を比較して惨めになる罪、第三に、神さまとアベルに対して腹を立てる罪です。 まず、自分が正しいとする罪から見てみましょう。カインがこの、いけにえを神の御前に持ってきたとき、どのような気分だったでしょうか? 当然これは、神さまに受け入れられるはずだ、どうだ! とばかりの態度だったのではないでしょうか? もしかするとカインは、アベルのことを見下していたかもしれません。聖書、特に旧約聖書を読んでもわかることですが、兄は絶大な権限が与えられています。また、さきほども述べました、イサク、ヤコブ、ヨセフ……いずれも、兄が彼らに対してふさわしくない形で大きな権力をふるおうとしたことを、聖書は問題にしています。ともかく、兄は弟より先に生まれた分、大きな権力をふるいますし、また劣っているからと見下すのは、どうにもならないことです。しかし、アベルのほうが受け入れられた。カインにとって、それはどれほど衝撃的だったことでしょうか。 そこで第二の心の罪、それは、比較して惨めになることです。もし、この礼拝の前に、カインが普段からアベルに対して優越感をいだいていたとしたら、それも比較の問題です。しかし今回の場合は、受け入れられたのはアベルのほうで、カインではありませんでした。そこでカインは、アベルと比較をして怒りに満たされたのです。優越感は変わり、劣等感となりました。この心の罪は、実際の行動で犯す罪へと駆り立てる原因ともなったものです。 カインは、どうすればよかったでしょうか? 礼拝というものを、他者との比較の道具にせず、ただ黙々と自分のささげるべき礼拝をささげていればよかったのです。もし、自分のささげるささげ物が受け入れられないと知ったならば、どこが悪かったのか思い巡らし、悔い改めてふさわしいかたちで礼拝をすればよかったのです。 しかし、カインはそうしませんでした。その結果第三の心の罪、神さまとアベルに対して怒るということをしました。そもそも神さまは、なぜアベルのいけにえを受け入れられたのでしょうか? それは、カインのよりもすぐれていたからです。ヘブル人への手紙11章4節にあるとおりです。 では、どういう点で、アベルのいけにえはすぐれていたのでしょうか? それは、先週学びました、神さまがアダムとエバのはじめからイエスさまのことを予告され、そのしるしとして、獣をほふって皮の衣をつくり、彼らの罪の結果である裸の恥を覆ってくださったことを思い出していただければと思います。生きるものの血が、いのちが流されることにより、罪赦されて神さまと和解すること、アベルはそのことを知っていて、それだからこそ正しいいけにえとして、羊をほふってささげたのでした。ヘブル9章22節もご覧ください。 カインにしてもおそらく、最良のものを持ってきたはずです。しかしこれでは神さまとの和解にふさわしくありません。みこころにかなわないからです。それなのにカインは怒りました。これは、みこころを定めて善悪をさばかれる神さまへの挑戦です。カインがよいと思っても神さまに受け入れられなければ、そこですることは悔い改めることであるはずなのに、あべこべに怒る、これが罪人の性質です。もし、心の中の罪を正しく治めることができないならば、どうなるでしょうか? カインは、どうなりましたでしょうか? 第二のポイントです。カインは、取り返しのつかない罪を犯しました。 彼は、アベルを呼び出して殺しました。大変なことをしてしまいました。しかし、私たちはここで考えないでしょうか? いったい、いけにえが受け入れられなかったくらいで、人殺しなどしてしまうものなのだろうか? しかしそれが、義人に対して罪人の取る態度です。イエスさまはアベルを義人とお呼びになりました。そのような義人に対して迫害を加える者には、容赦ないさばきを加えるとイエスさまは宣言されました。しかし罪人らは、その神さまのみこころを恐れるよりも、自分たちの悪い根性の方を優先させるのでした。 それはまさしく、悪魔に魅入られた者の取る態度です。神さまに祝福されている者、神さまに選ばれている者を見ると、いても立ってもいられなくなり、怒りの刃(やいば)を向けるのです。 もし、私たちが、兄弟姉妹が自分よりも祝福されていると思い込み、あんな人間などいなくなってほしい、などと思うならば、きわめて要注意です。罪は戸口で待ち伏せしています。 私たちはそのような感情になっていることに気づかせていただき、悔い改める必要があります。さもなくば、人にいなくなってほしいというこの悪感情が、とんでもないかたちで現れるかもしれません。 もちろん私たちは、殺人のような大それたことは起こさないかもしれませんが、教会という主のみからだに分裂をもたらしたり、この群れを去っていのちの恵みにあずかるのをやめる人を生み出したりしないともかぎりません。あるいは、分裂しなくても、教会の中に一致できない状態がいつまでも保たれ、主のみからだとしてまことにふさわしくなく、つねにサタンに付け入る隙を与えている無防備な状態になるかもしれません。 そもそも、殺人というものはなぜ問題になるのでしょうか? それは、人間が神のかたちに創造されている以上、殺人とは神のかたちを破壊することだからです。だから、実際に人をあやめ、血を流す行為に及ばなくても、その人の人格を破壊する致命的なことばを投げかけるならば、それは殺人の罪に匹敵することです。イエスさまは何とおっしゃっているでしょうか? マタイ5章22節です。…… 実際に血を流して殺してしまうならば、もうその人はもとに戻りません。取り返しのつかない罪を犯したことになります。だから、先週も少しお話ししたとおり、日本には殺人罪を償わせる制度として、死刑という刑罰があるのです。人の人格を破壊することばをいうことも、これと同じ、さばきを受けることになります。 カインは、まず神さまの問いかけに知らん顔をしました。いざ神さまに呼びかけられたら、知りません、私は弟の番人なのでしょうか、と口答えしました。愛し合うようにと神さまがこの世界に定められた兄弟の関係を、番人などと表現するとはあんまりです。 こんな表現をしたのは、自分は当然兄として弟の上に君臨すべきなのに、神さまがその順番を変えたととらえ、神さまに向かって精いっぱいの皮肉を言い放っているかのようです。さすが、神さまがこの者のいけにえを受け入れなかっただけのことはありました。彼は神さまとの関係が壊れていたのです。その壊れた関係が、兄弟の間にあるべき愛が冷え切り、ついに殺人に至ったことにつながったと言えましょう。 そうです、あらゆる罪は、神さまとの関係が壊れているところから始まります。大それた罪を犯す者は、神さまとの関係がどこかおかしい状態にあるものです。そして、罪から来る報酬は死です。すなわち、まことのいのちなる神さまとの断絶した状態です。これは被造物として、取り返しのつかない状態です。自分ではこの罪を、どうすることもできません。どんなに努力しても、どんなにいい人間になろうとしても、この罪が赦されて永遠のいのちを回復するということなど、絶対にありえないことです。そうです、あらゆる罪は、みな取り返しのつかない状態です。大小にかかわりません。すべては取り返しのつかないものです。その点では、カインも私たちも、大差ない存在です。いえ、もっとはっきり言ってしまえば、カインとは私たちのことです。 こんなカインに、そして私たちに、救いはあるのでしょうか? そこで第三のポイントです。神さまは、取り返しのつかない罪を覆ってくださいました。 神さまは、カインの犯した罪がどんなに大きいか、宣告されました。10節から12節です。……ここではじめて、カインは自分のしたことの重大さに気づかされました。その咎の大きさに圧倒されました。やはり人は、きよい神さまと向き合うことによって、はじめて自分が途方もない罪人であることに気づかされるものです。 しかし、自分の罪の結果におびえるカインに、神さまは守りを与えられました。地上をさすらい歩く者となろうとも、あなたのことはわたしが守る……カインはようやく、神さまとの関係を回復しました。それは、カインが自分の罪を認めたところから、そして神さまが一方的なあわれみによってカインに臨んでくださったから、はじめて可能となったことでした。 カインは結婚して子をもうけ、町をつくりました。そして、そこから生まれていったカインの子孫は、文化を創造する者たちとなりました。遊牧をする者、楽器をつくって演奏する者、青銅器や鉄器をつくる者が生まれました。 ある聖書学者は、神の守りが信じられなくなった者たちがこのような文化をつくった根拠である、と語っていますが、たしかにそういう側面もないとは言えないにせよ、そう言い切れるものでもないでしょう。ここは、そのような堕落した人間たちの間にも創造的な文化が生まれるように主があわれんでくださった、と考えた方がよろしいでしょう。なにしろ、イスラエル、そして今日(こんにち)の教会に至るまで、神の民はみなこの時代に生まれた数々の創造物の恩恵にあずかっているわけです。牧畜もしますし、楽器を奏でて賛美もします。金属の道具も使います。文化は一般恩寵として受け継がれています。 とは言いましても、カインのような負の性質は、5代目の子孫のレメクに受け継がれてしまいました。レメクは殺人をして、妻たちにこんなことを言いました。23節と24節です。 これは、カインを殺す者に七倍の復讐が与えられるならば、俺様に危害を加える者には七十七倍の復讐をしてやるぞ、という、復讐を禁じる神さまのみこころを不遜にもというか、大胆不敵にもというか、完全に真逆に曲解してはばかるところを知らない、傲慢極まる宣言です。カインの蒔いたものは、実に残酷な形で刈り取らなければならなくなったわけです。 私たちもまた、いかに守られているとはいえ、ときに私たちの不従順が生むマイナスの結果に、自分自身も、家族も、教会全体も苦しむことがありえます。神さまは、私たちの言動に対して責任を問われることが時にあるものです。要はそのとき、レメクのようにみこころもなにもあったものではない態度を取らず、素直に悔い改め、神さまの御手を求めることです。 しかし、神さまはこの世界をなおも守ってくださいます。25節、26節をお読みください。……この世界には、義人アベルに代わるセツが生まれ、彼から増え広がった人々から、主の御名によって祈ることが広がりました。 主は、カインの罪によって汚されたこの世界を放っておくことはなさいませんでした。主に属する民を起こし、彼らが主の御名によって祈れば何でもかなえてくださるように、道を備えてくださったのでした。まさしく、神さまのあわれみです。 私たちも、かつてはカインのようであったかもしれません。主を知らなかったゆえに、取り返しのつかない罪を犯したかもしれません。今もなお、罪を犯してしまう自分に落ち込んでしまうかもしれません。しかし神さまは、そのような世界に生きる私たち、罪を犯すことをさも当然のように振る舞う人々に満ちた世界に生きる私たちのことを、なおもあわれんでくださっています。本来カインのようであった私たちを、セツのように、殉教者のたましいを継ぐ者としてつくり変えてくださいました。主の御名によって祈る者へとつくり変えてくださいました。   私たちは、カインのように罪深い自分の性質に目を留めて、自分を呪ってはなりません。私たちの罪はイエスさまの十字架によって完全に贖われました。私たちはイエスさまの御名によって祈り、祈りを聞いていただける者としていただいたのです。私たち自身を振り返る祈りをしたいと思います。聖霊なる神さまに、心を探っていただきましょう。

罪のはじまりは恵みのはじまり

聖書箇所;創世記3:1~24 メッセージ題目;「罪のはじまりは恵みのはじまり」 今日の箇所は、人間の罪のはじまりについて語るのとともに、イエスさまの十字架がなぜ人類に必要だったのか、その根拠となるできごとを記したみことばであり、「原福音」とも呼ばれています。 第一のポイントです。罪は、人の間違った欲望から生まれます。 エバのいるところに、蛇がやってきました。サタンが蛇に身をやつしてやってきたと言えるでしょう。蛇はエバになんと話しかけたでしょうか?……園のどの木からも食べてはならない! 神さまがそう戒められた! でももちろん、嘘に決まっています。神さまは人に、祝福のしるしとして、エデンの園のどんな木からでも思いのままに食べてよい、とおっしゃったのですから、嘘です。 しかし、エバの心は蛇のこのひとことに、激しく動揺しはじめたのでした。エバはたしかに、園の木の実は食べてもよいと語っています。しかしそれに続き、言わずもがなのことを、口を滑らせてしまいます。 このことばをよく見ましょう。「触れてもいけない」などと、神さまが語られなかったことをつけ足しています。「死ぬといけない」などと、あいまいなことを言っています。神さまは「必ず死ぬ」とおっしゃっているのですから、エバのことばはいいかげんです。 エバがこのようにいい加減なことを口走った理由は、いろいろ考えられます。しかし、理由はどうあれ、神さまのみことばにつけ加えたり、みことばを曲げて解釈したり、ということを行なっているわけです。 旧新約聖書の終わりの部分に、神さまはみことばにつけ加える者にみことばどおりの災いをもたらし、みことばから取り除く者にはみことばどおりのいのちの木と聖なる都、すなわち天国の祝福を取り除かれる、と語っていらっしゃいます。このことから私たちは、神さまのみことばにつけ加えたり、取り除いたりしないで、そのまま受け入れることが、まことのいのち、天国に至る道であることを知ることができます。 エバがこのようにみことばを曲げて解釈したということは、いのちなる神さまとの交わりから断ち切られる死の道を自ら備えはじめていた、ということができるでしょう。私たちはどれほど、みことばをそのまま受け入れる必要があるでしょうか! 自分の都合が悪いみことばは受け入れなくてもいい、などと言っている場合ではありません。みことばをそのまま受け入れることは、いのちそのものです。 だから、善悪の知識の木の実を食べるという行為に及ぶのは、神さまのみことばに不従順になることであり、罪以外の何ものでもありません。「死ぬといけない」どころではありません。「死ぬ」のです! 死ぬ。これが人にとって最大のさばきであることは、言うまでもないことです。もちろん、とても大きく議論が分かれるところですが、「死刑」という刑罰が今もなお日本に存在するのは、死によって償うという思想が日本の社会に根を深く下ろしているからでしょう。死をもって償うということの恐ろしさは、ある程度ではありますが、凶悪犯罪を抑止する力になっているはずです。 何が「死ぬ」ということを怖ろしくさせているのでしょうか? それは、被造物である人間ならばどこかで意識している創造主のいのちなる存在を、もはや味わうことができなくなるという、そのことばに表せない恐怖を味わっているからではないでしょうか? だから、イエスさまを信じて永遠のいのちに至る確信を得た人は、もはや死ぬということを恐れなくなるのです。死ぬのが怖いのは、死んで神さまにさばかれ、天国に行けなくなるわが身を思うからでしょう。 しかし、サタンは嘘をつきました。あなたがたは決して死にません。……そもそも人間は、まだ死んだことがないので、死とはどういうものかがわかっていませんでした。しかしそれ以上にエバは、被造物としての限界を超え、神さまのようになれること、すなわち、創造主なる神さまと関係なく善悪の判断の基準を定める存在になることに、大きな憧れをいだきはじめていました。 そんな思いで善悪の知識の木の実を見ると、いかにもそれは「良さそうに」見えました。神さまが「良しとされた」かどうかはもはや関係ありませんでした。もはやこの罪をもたらす存在、死をもたらす存在は、好ましいとしか思えませんでした。それでついに……エバはその木の実を食べてしまいました。 そして、木の実を食べたのはエバだけだったのでしょうか? アダムも食べたのです。テモテへの手紙第一2章14節には、「アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯した」とあります。そうだとすると、アダムはエバなりサタンなりにだまされて木の実を口にしたわけではない、と考えられます。 だからアダムは、だまされてその木の実を食べたのではありません。わかっていて、自分の意志で食べたのです。そうです。アダムは意識して神さまに反抗し、不従順の罪を犯したのでした。なんだ、エバは木の実を食べたけれど、死なないじゃないか、神さまの言っていたことは嘘じゃないか、そんなことも考えたかもしれません。 しかし、彼らはあらぬことに目が開かれました。生めよ、増えよ、という、最大の祝福をもたらす性的な存在を、とても恥ずかしいものととらえるようになりました。いやらしい、という感情が生まれたのです。彼らは、いちじくの葉を綴り合わせて局部を覆うという行動に出ました。そう、罪の結果を自分なりのやり方で覆い隠したのです。みじめにも、根本的な解決に至れないまま罪を抱える。これが、人間の間違った欲望の成れの果てでした。 では、そのような人間の罪はどうなるでしょうか? 第二のポイントにまいります。罪は、神さまによってさばかれます。 こうして罪を抱えたアダムとエバは、ついに神さまと対面せざるを得なくなりました。しかし彼らは、神さまの足音が聞こえるや、園の木の間に身を隠しました。もちろん無駄なことです。神さまは目に見えないお方であり、どこにでもおられます。隠れようと、そこにも神さまはおられます。それなのに人は、逃げたり、隠れたりすればなんとかなる、と思うのです。しかし、どうにもなりません。そのことは自分でよくわかっているはずです。 神さまはすべてご存知です。しかしあえて、神さまは人が自分で何をしたかを悟らせるために、お尋ねになりました。11節です。 ……神さまが何をしたかお尋ねになったならば、人は何をすべきでしょうか? 自分の罪を認め、神さまに悔い改めの告白をするべきでした。ごめんなさい、と言うべきでした。しかしアダムは、何と言ったでしょうか?「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が」くれたから食べた、と言っています。 まるで、罪を犯したのは神さまのせいだと言わんばかりの態度です。なんということでしょうか。そのうえ、エバに罪の責任を着せています。自分の犯した罪の責任を自分の妻に押しつけるとは、アダムはそういう男でした。 それで神さまは、エバにお尋ねになりました。しかしエバの答えはといえば、これも自分の罪を認めることばではありません。「蛇が私を惑わしたのです。」こんどは蛇のせい、サタンのせいにしています。 これが、人が自分の罪の責任を転嫁するパターンです。神さまのせい、人のせい、サタンのせい……しかしこれらはいずれも、自分のせい、と認めて、自分で責任を取る態度ではありません。 しかし、神さまは犯した罪の責任を取らせるお方です。まずは蛇、サタンです。14節と15節です。……サタンは、動物にも劣る存在とされる、というわけです。特に15節は、この女の子孫として生まれるお方、イエス・キリストによってサタンが完全にさばかれることを預言したみことばです。かかとを打つ、これは、サタンがイエスさまを十字架につけるということです。しかし、その死は決定的なものではありません。イエスさまは死から復活されたからです。イエスさまのこの復活により、サタンは、頭が踏み砕かれた蛇のように、完全に息の根を止められました。 そうです、サタンはすでにさばかれました。しかし、頭が砕かれていても、まだからだがうねうね動く蛇のように。完全に死に切ったわけではありません。できれば主の民さえも惑わそうと、いまもなお隙を窺っています。しかし忘れてはなりません。神さまはすでにサタンをさばかれたのです。いたずらに恐れる必要はありません。 神さまは、エバにも宣告を下されました。16節です。子を産むこと、夫婦として生活することが、大きな苦しみになる、というのです。生めよ、増えよ、それは祝福のしるしですが、それが途方もない苦しみを伴うことになってしまったのでした。それは、罪を犯したということの責任を取らされるためです。出産や子育て、また夫婦としての生活には、多くの苦しみが生まれるようになりました。 アダムへの宣告はどうでしょうか。17節から19節です。……それまでは、どこにでもなっている果物を取って食べさえすればよかったのが、雑草も生えてくるような荒れた大地と格闘して、額に汗して土から取れたものを食べる、そうです、労働の苦しみが大いに増し加えられました。 男、という漢字は、田んぼの田に力、と書きます。田んぼの田はもともと水田という意味ではなく、畑、という意味です。畑で力をふるって労する存在、男とはそういう存在であることを、この漢字は言い当てています。今日は労働も多様化しましたが、それでも人にとって、仕事とは苦しいものであるということはむかしも今も同じです。 さらにこの19節の最後、これは何を語っているのでしょうか?「あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。」そうです、死ぬ、ということです。死んで朽ちて、ついには土になる、ということです。 働いて働いて、ついにはむなしくも土に朽ちる最期を迎える。なんというさばきでしょうか。しかし、それもこれも、人が善悪の知識の木の実を口にしたところからすべては始まりました。神さまはそれにふさわしいさばきを下されるのです。神さまは侮られるようなお方ではありません。 しかし、人間はさばかれて、それで終わりではありませんでした。そこで第三のポイント、これがいちばん大事です。罪は、主によって血を流されることで覆われます。 21節をご覧ください。……いったいこの皮の衣は、どうやって作られたのでしょうか? そうです、獣の皮を剥いでです。ということは、獣がアダムとエバの裸を覆うために、ほふられた、殺された、ということを意味します。 その皮の衣は、アダムとエバが作ったのではありません。神さまが手ずからお作りになりました。これは、アダムとエバの裸、つまり罪の結果伴う醜いものを、神さまが直接覆ってくださった、ということです。 アダムとエバは、この醜さを覆うためにいちじくの葉で対処しました。しかしそれは所詮、もはや罪人となってしまった人間の考え出したやり方にすぎません。神さまはそのような人間的な一時しのぎではなく、神さまの方法で罪の醜さを隠されました。それが、生きものの血を流す、という方法でした。 アダムとエバの罪が神さまから隠されるために、生きものが犠牲になる、動物が好きな人は、残酷だ、とおっしゃるかもしれません。でも、ほんとうに残酷なこととは何でしょうか? 人間が永遠に神さまと関係のないまま生きる、そして神さまがそれをお許しになる、そちらの方がよほど残酷です。しかし、それは神さまのみこころではありませんでした。だからこそ神さまは、人が罪を抱えたまま永遠に生きることのないように、人をエデンの園の外に出し、いのちの木の実を取って食べることがないようにされたのでした。 ともかくも、アダムとエバの罪が覆われるために、血が流されたのでした。これは究極的には、イエスさまの十字架の血潮につながることです。私たちはイエスさまが十字架に掛かってくださった、そのことを信じる信仰を聖霊なる神さまによって与えていただいたゆえに、罪が覆われ、永遠のいのちをいただきました。その血潮によって罪を洗いきよめていただきました。神さまはこのすべての人類を救うためのご計画を、すでに最初から備えていてくださったのでした。 罪を犯したなら、そしてその罪が子々孫々遺伝するならば、人間というものは神さまの失敗作なのでしょうか? いいえ、断じてそうではありません。もし人間が失敗作ならば、神さまは愛するひとり子イエスさまを、失敗作のためにその死をもって人間に差し出される、ということがあるでしょうか? 私たち人間は、神さまが実にそのひとり子を与えてくださるほどに、愛してくださる存在です。御子を信じるならばひとりとして滅びません。永遠のいのちが与えられます。どんな罪の中にあったとしても、神さまが赦してくださるのです。私たちは完全な作品です! 私たちは時に、自分が罪人であることを思わざるを得ないことがあるでしょう。理由のわからない苦しみに遭うようなとき、特にそう思うかもしれません。しかし、私たちが苦しみに遭うのは、神のみわざが現れるためです。私たちを赦し、私たちを力づけ、私たちを励ましてくださる神さまは、今なお私たちのそばにいてくださいます。 罪の増し加わるところには、恵みも増し加わりました。このみことばはまことです。まさしく、罪のはじまりは、それを完全に覆ってくださる神さまの恵みのはじまりです。私たちは神さまに立ち帰りましょう。 人は、間違った欲望から罪を犯します。その罪の責任を取ろうとしない人間に、神さまは罪を問われます。しかし、それで終わりではありません。神さまはその罪を、イエスさまの十字架によって赦してくださいます。私たちも信じるならば、赦されます。この恵みを日々味わいましょう。そして、この恵みの喜びがもし内側から湧き上がって来るならば、ためらうことなく、いろいろな方にこの恵みを分かち合ってまいりましょう。もしその方々が信じ受け入れたならば、その方々は永遠のいのちに生きることになります。