教会とキリスト、妻と夫

メッセージ題目;「相愛の相似形――教会とキリスト、妻と夫」 今日も雨です。6月にふさわしい天候です。 6月と言えば、「ジューン・ブライド」なんていいます。6月の結婚は縁起がいい、なんて。元はと言えばこれは西洋のしきたりで、調べてみましたところ、ヨーロッパでは昔、農作業に従事する3月から5月の結婚が禁じられていて、晴れて6月になって、結婚を大いに祝福してもらえる、ということだったそうです。 日本だと、梅雨時です。こんな時期に式を挙げたら、雨でたいへんにならないか、と思います。それでよく、新郎の上司とかが、スピーチでこんなフレーズを口にするのが習わしになっています。「雨降って、地、固まる、などと申しまして……」まったく、こんなめでたい場でもお説教をするわけです。でも、ある落語家は、こういう時には言い方がおまんねん、と言っていましたからご参考に。「降るは千年、雨は万年、幸せが二人に降りこんだ。おまけに花嫁さんはビジョビジョ。」すみません、朝からくだらないことを申しました。 このエペソ人への手紙の講解シリーズも、ついにこの箇所まで来ました。私はこの箇所が大好きです。といいますのも、私は若いころから、この箇所を心にいだいて、結婚というものに対するビジョンを持ちつづけてきたからでした。 そんな私は結婚して、今年の夏で12年目を迎えます。この11年を振り返ってみますと、結婚してからのほうがむしろ、私の未熟さを痛感させられたことが多かったように思います。まことに、結婚というものの中で私は育てられ、家族ともにキリストの似姿として成長させられたことを実感します。 そんな私は、自分自身が結婚というものにそれなりの意見を持っていると自負しますが、人生経験が豊富なみなさんを前にしては、やはりへりくだるしかありません。もちろん、みなさんなりのご意見がおありだと思います。私が今日お伝えすることは、ひとりの男性とひとりの女性の結婚というものは、キリストと教会との相愛関係をあらわす、まことに不思議に満ちたものである、ということです。 今日の聖書箇所は、先週学んだ「光の子どもらしく歩むには、どうすればいいか」ということを指し示す箇所の最後の部分、「キリストを恐れ尊んで互いに従いなさい」というみことばを受けています。そうです、キリストを恐れるということを前提に、互いに従うこと、これが、光の子どもとしてふさわしい歩みのひとつであることを学びました。 その相互の従順の関係を具体的にあらわすものとして、まずパウロが挙げたもの、それは結婚という関係です。しかしこの結婚という関係は、親子、また雇い主と奴隷という関係にもまさって、だいじに扱われる必要のある概念です。 なぜかというと、この妻と夫という関係は、キリストと教会という関係をそのまま象徴するものだからです。 教会が花嫁、ということは、よく教会でも語られていることです。私も講壇の上ですとか、いろいろなところで口にします。それはなによりも、聖書が語っていることですし、ゆえに牧師であるからには、語る必要のあることです。しかし……花嫁というものを優先的に考えると、妙なことになってしまいます。私はかつて、ある牧師先生が、教会が花嫁、ということを説明なさったとき、そこまではよかったのですが、「男も花嫁」とおっしゃったのを聞きました。会衆は笑っていましたが、ちょっとこれには違和感を覚えました。まるでこれでは、男が純白のウェディングドレスを着ているようです。そぐいません。 これは、こう考えるといいでしょう。花婿なるキリストに嫁ぐ花嫁、教会。これが先に存在し、そのキリストの象徴として主は男を創造され、教会の象徴として女を創造された。さあ、これならどうでしょう? そういえば、自分がバプテスマを受けた教会のことを、クリスチャンは、はは・きょうかい、と書いて、「母教会」と呼びます。私にとって母教会は、埼玉にある「北本福音キリスト教会」です、といった具合です。そう、母教会とは、クリスチャンである自分を生んだ教会です。でもこれは「父教会(ふきょうかい)」とはいいません。父は神さまです。神さまによってクリスチャンとして私たちのことを生んだ存在、それが教会、母教会です。そういうわけで教会は、女性名詞として呼ばれるのがふさわしい存在です。 それを前提に、22節から見てまいりたいと思います。 まず22節、これは妻たちに命じられていることです。……韓国で長年、地球村教会という大きな教会を牧会してこられたイ・ドンウォン先生という方は、かつて若者たちを前にして、この箇所から結婚を主題にしたメッセージを語られましたが、妻たちへの命令が先に来ていることを、「聖書はレディー・ファーストです」なんて、うまいことをおっしゃっていましたが、とにかく、命令は妻たちの方が先に来ています。 主に従うように、自分の夫に従いなさい……? 冗談じゃないわよ! 奥様方の心の叫びが聞こえてきそうで、ちょっとどきどきします、なんて、半分冗談ですが、これも、教会とキリスト、という前提から読み解けば、すっきりしていただけると信じたいです。 私たちはみな、キリストに従順でありたいという思いを持っているでしょう。しかし実際のところどうでしょうか? 私たちの自己中心、罪に傾きたがる肉の性質、そういったもののために、心はキリストに向いていても、なかなか従順になれないものです。それは女性であれ、男性であれ、みな一様に感じていらっしゃることだと思います。かく申します私も、心がキリストに向けて燃えていてもどうしようもなく肉が弱い、ということを、これまでにも何度も経験してまいりました。 そのような私たちでありますが、キリストに従えないことを、罪や肉の弱さを言い訳にしてはならないはずです。 私たちはいかなる場合もキリストに従えるように、主の恵みを求めていく必要があるはずです。 妻が夫に従うということは、そういう次元のことであるということを、このみことばは語っています。教会がキリストに従う、分かってはいるけれども従えない、しかし、それには一抹の後ろめたさがあるはずです。それは、キリストに従順になることがみこころであると知っているからです。 その、キリストに従うということは、具体的には生活のただ中でみことばを具体的に行うことによって実践するものです。単に修道僧のような生活をしていればいいわけではありません。神さまに礼拝さえささげていれば、それでクリスチャンとしての責任を果たしたことになるわけではありません。神さまが私たち主のからだなる教会に、具体的に与えられたご命令を守り行うこと、それが従順というものです。 このみことばにおいては、妻とされている女性が自分の夫とされている男性に、すべてのことにおいて従う、それが、神さまにお従いすることである、ということになるわけです。 23節を見てみますと、その従順の根拠が、神さまのお立てになった秩序ということで説明されています。教会のかしらがキリストであるように、妻のかしらが夫である、というわけです。 これと同じ考えは、第一コリントや第一ペテロのような書簡にも見ることができます。中でも、第一コリント14章は、教会の中で女性が教える者として振る舞うことについて、厳しく戒めていて、妻に対する夫の権威を具体的に立てています。私たち保守バプテスト同盟は伝統的に、女性の教職者を単独で教会トップの教職に立てないことを原則としてきた歴史があり、それはこの聖書の考えに基づいていると言えます。私が牧師按手を受けた韓国の長老教会の教団はさらにそれが徹底していて、今でも女性の教職者を牧師には立てません。もちろん、議論がある領域ではありますが、聖書的な根拠は充分に挙げられることです。 中でも、妻である女性のかしらがその夫の男性である、ということは、揺るがされてはならない聖書のメッセージです。まずこれは、聖書が宣言していることです。すなわち、みこころです。ご婦人方が、なによ、うちの宿六亭主を見ていると、そんなの嘘よ、とおっしゃりたくても、聖書がそう宣言しているかぎり、それがみこころなのです。 そうだとすると、自分の夫にもし従えないでいるならば、そこには後ろめたさが存在してしかるべきです。それがみことばの基準であるからです。24節と25節をお読みします。……みことばがこのように語っている以上、妻が夫に従わないことは、みこころに対して不従順であるということになるわけです。 とはもうしましても、この問題は慎重に取り扱う必要があります。それなら、みことばがこう言っているということを盾に、夫は妻に、無条件の従順を強いることができるのでしょうか? 答えははっきりしています。ノー、です。妻がそれこそ、すべてのことにおいて、夫に従うには、夫の側にもそれなりの条件があります。 25節のみことばです。……キリストはどのように教会を愛したのでしょうか? どのようにご自身をささげてくださったのでしょうか? そうです。私たちの身代わりに、十字架にかかってくださることによってです。 この十字架を信じる信仰を与えられた者は、イエスさまと結婚する教会のひと枝となった、という、契約の関係に入れられます。11年前の8月16日、私と妻はソウルの禿山という町の教会で結婚式を挙げましたが、そのとき、司式をしてくださったウォン牧師先生が、いろいろ粋な仕掛けをしてくださったもので、その中のひとつに、契約書にサインし、取り交わす、というものがありました。この人を生涯愛します、なんてことばが印刷してあって、いちばん下に、われわれのサインと日付を書き込むわけです。そしてこれを壇上のウォン先生に「提出」します。私はこれを書いたとき、いよいよこの人との結婚の契約がはじまるのか、と、感慨無量になったものでしたが、とにかく、結婚とは「契約」です。 イエスさまは、血潮を流してくださることによって、私たち主を信じる民と契約を結んでくださり、私たちを、花嫁なる教会のひと枝ひと枝としてくださいました。 やがてキリストはこの世に再び来られ、この世は終わり、天国がほんとうに始まります。そのとき天国に入れられるのは、キリストの血潮によりあがなわれた私たちであって、ほかの者たちでは断じてありません。なぜなら、血潮の契約を結んでいないからです。私が妻以外のどんな女性も、恋愛の対象として見ることが金輪際ないのと同じです。キリストが愛する対象としてご覧になるのは、私たち教会という花嫁だけです。 キリストは、ご自身を信じないような者、ご自身に最後まで敵対する悪魔の化身のような者をも、十字架であがなわれたわけではありません。たしかに、そのような者たちの罪も十字架の上で赦してくださるのですが、彼らが最後までキリストとその十字架を拒むならば、彼らの最後はそれにふさわしいものとなります。キリストはそれでも、そんな者たちさえも、無条件に天国に入れてくださるわけではありません。それなら、十字架にかかられるということ、そして信じさえすれば救われるというみこころが、何もかも無意味になってしまいます。 そういうわけでお伺いしたいことですが、夫たる男性は、キリストが愛されたような十字架の犠牲の愛を、妻に「だけ」注いでいますでしょうか? その前提がないならば、妻に従順を強いることをみことばを振りかざして正当化することなど、決してしてはいけません。 さらにみことばは、夫たちがキリストのどのようなみわざに目を留めるべきであると語っていますでしょうか? 26節、27節です。 ……キリストは、たんに私たち教会を贖い出してくださっただけではありません。キリストの花嫁にふさわしくなれるように、終わりの日、再臨の日に向けて、日々整えてくださいます。 みなさんの前ですが、11年前の結婚式、妻は純白のウェディングドレスに身を包み、とてもきれいでした。こんなきれいな花嫁さんをお迎えしてもいいのだろうか! 私はすっかり舞い上がってしまい、新郎入場の時に、やれ歩きながら手と足が一緒に出るわ、やれ牧師先生に向かってお辞儀をするタイミングを間違えるわでさんざん、礼拝堂を埋めたみなさんに大笑いされてしまいました。 きれいな花嫁の身を包むきれいなウェディングドレス……しかしそれがしみだらけだったり、しわくちゃだったりしたら、私はそこまで舞い上がることはなかったでしょう。式もめちゃくちゃです。ウェディングドレスはきれいだから意味があるのです。 白くてきれいなウェディングドレスに身を包む花嫁、それは、キリストの前に完成される私たち教会の象徴です。終わりの日に恥ずかしくなく御前に立つこと、それが私たち花嫁の目標です。私たちはその日に向けて、ともに、いわば「花嫁修業」に励む身です。 夫に立てられた人は、そのように妻を養う立場に置かれています。「食べさせる」ということばがありますが、日々の糧を提供する立場であるのと同時に、霊的にも養う立場に置かれています。 むかし、神学生のとき、所属していた青年会の小グループで話題が「結婚」になったとき、ある兄弟が「いやあ、俺は奥さんに霊的にリードしてもらえばいいよ」なんて言っていましたが、それははっきり申しまして、まちがいです。信仰者の家庭で霊的リードを取る立場にあるのは、夫のほうです。夫が日々教えられるみことばの恵みを、妻に流すのです。 31節、32節をお読みしましょう。……創世記の最初のほうで提示されたみことば、アダムとエバの結婚、すなわちすべての男と女の結婚というもののほんとうの意味が、キリストと教会の結婚に収れんするということが、これではっきりします。 いろいろ議論はあるとは思いますが、牧師先生のお働きの一環として、未信者同士でも結婚式の司式を引き受けるということ、私は個人的に、それは、ありだと思っています。私自身は信者未信者問わず、これまでの10年にわたる牧師生活で、どなたの司式も引き受けたことはありませんが、もし今後どなたかが私に司式を依頼してこられ、それが未信者の方であったとしても、聖書の語る結婚とはどういうものであるかを充分に理解していただくことを条件に、お引き受けしてもよいと考えています。 と申しますのは、日本の方々はどこかで、キリスト教式の結婚式というものにあこがれをいだいていて、それは根本には、自分の創造主なるキリストと教会の結婚というものをどこかで霊的に察しているゆえではないかと考えるからです。そうだとすると、結婚式というものは、未信者の方にキリストを証しするまたとない機会となるはずです。 夫に愛されたい、それは妻として、当然の欲求です。それはキリストが無条件に教会を愛しておられる、その愛がかつても、そして今もなお、存在しているゆえです。私たちは、キリストと教会との相愛関係を、この世における結婚というものをもって実現できるように、さまざまな形で働きかけを行なっていくものです、婚姻関係にある方はそれを実現し、また実現できるように祈りつつ努めてまいりたいものです。 最後に、独身の場合はどうなるかということを補足させていただきたいと思います。私が韓国の信徒たちに囲まれて教会生活をしていた頃、周囲には独身の、おもに女性の方が存在していらっしゃいました。しかしみなさんは、とても充実した生き方をしていらっしゃいました。この中のある先生は、特に韓国のキリスト教会において有名な方でしたが、その先生があるセミナーで講壇に立たれたとき、司会者の方が先生をこう紹介されました。「みなさんご存知、この先生は、イエスさまと結婚された方です!」そうか、そう考えればいいのか! 私は合点がいきました。 第一コリントを見てみますと、パウロはみなが自分のようであったらいいと語っています。独身を推奨しているわけです。それは多くの場合に言えることでしょう。私の周りでも、結婚したことで信仰をなくしてしまったという、とても残念なケースを見聞きしているので、それは実感としてよくわかります。もし結婚するなら、そのことでかえって信仰が強められるという確信が必要になります。もちろん、結婚したからといって罪を犯すわけではないのですが、その結果信仰から遠ざかるならば、それはとてもたいへんなことになります。こういうことを考えると、結婚というものが即、最高の祝福、最高の幸せと考えることから、私たちは自由にならなければなりません。要はその結婚が、キリストと教会との相愛関係をあらわせるかどうか、ということです。 すでに結婚されていて、お相手が未信者の方というケース……これは、千差万別で、一概には言えないことですが、ひとつだけ言えることは、どうか、夫は信者である妻によって既にきよめられている、というみことばを握って、そのみことばが目に見える形で実現するように、主の恵みを求め、お祈りしていただきたい、ということです。 結婚というものは、私たちの周りにありふれているものです。しかしそれらすべては、キリストと教会との相愛関係につながります。私たちにとっての結婚というものが、そのような至上の存在となりますように、また、私たちが結婚というものの中にいだく不完全さの中に、私たちがともにキリストとの関係を省みる機会となりますように、お祈りいたします

光の子どもとして歩みなさい

聖書箇所;エペソ5:1~21 メッセージ題目;「光の子どもとして歩みなさい」 私は日曜日の朝、いちばん最初に礼拝堂につきます。いろいろとやっておく仕事があるからです。そうこうしているうちに、日曜学校が始まるので、鬼沢さんやうちの家族が教会に到着します。 そのとき、私がよく、うちの妻から言われていたことがあります。礼拝堂の玄関やロビーに明かりがついていないというのです。私は仕事に没頭していて、気づかなかったわけです。 朝、みなさんを迎える礼拝堂が、明かりがついているのがふさわしいのはなぜでしょうか? 逆を考えてみると、せっかく神さまを礼拝するつもりで来てみたのに、明かりもついていなかったら、知らず知らずのうちに気分が沈みます。そうなったら、礼拝する喜びも半減してしまいます。そのことに気づいた今、私は必ず、礼拝堂についたら明かりをつけるのを習慣にすることにしました。 聖書を読んでみますと、神さまというお方が光になぞらえられる場面がしばしば登場します。ヨハネの黙示録21章23節は、天国の様子を描写したみことばですが、こうあります。――都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。――光なる主のお姿が私たち主の民とどのような関係があるか、如実に描いています。神さまご自身という光によって私たちが照らされるのです。 さて、今日のみことばの8節には、「光の子どもとして歩みなさい」とあります。光なる神さまの子どもとして歩む、それが私たち主の民に求められていることです。人の子どもが人であるように、光の子どもは光です。イエスさまが、あなたがたは世界の光です、とおっしゃっているとおりです。では、どのように生きることが、光の子どもの生き方なのでしょうか? まずは大前提として、1節、2節のみことばをお読みします。……そう、愛なる神さまの愛を一身に受けている者として、その愛なる神さまにならい、キリストが十字架の上で現してくださった愛のうちを歩みなさい、ということです。大前提は、神さまの愛です。 しかし、この聖書という、実に分厚い神さまのラブ・レターは、神さまの愛というものを、実にいろいろな側面から解き明かしていて、そのすべてをこのかぎられた時間に詳しく扱うことはできません。 神さまの愛にならう光の子どもとして歩むとはどういうことか、21節分に当たる今日の本文から、ひとつひとつ見てまいりたいと思います。例によって、3つのポイントに分けて見てまいります。 第一のポイントです。光の子どもは、闇を避ける歩みをすることが求められます。 8節のみことばです。……このみことばは、闇というものが、神の子どもたち、光の子どもたちにとっては、すでに過ぎ去った過去の性質であることを語っています。 最近はそんなことはなくなりましたが、うちの子どもたちは夜寝るとき、暗やみをとても怖がり、妻や私に、一緒に寝て、とせがんだものでした。純粋な子どもは、本能的に闇というものを怖がるものです。そうです、人は本来、この闇というものを、怖れるべきもの、避けるべきものと受け止めて生きる者でした。しかしいつの間にか、人は闇というものを、何とも思わなくなります。それは単に光がともっていない、物理的な闇だけではありません。神さまの光が届いていない、聖書的な倫理に照らしてみてもとてもおかしい、悪魔のわざを何とも思わないように、霊的に鈍感にさせられていくのです。まるで大人になるとはそういうことであるかのように人々は語ります。しかし、ほんとうにそうでしょうか? このエペソ5章のみことばは、きわめて具体的にその「闇」というものを扱っています。3節のみことばです。……淫らな行い、これはこの世の中を見回してみると、とてもありふれています。私は東京に住んでいた頃から落語鑑賞が好きでしたが、落語など、廓もの、といって、身も蓋もない言い方をすれば売春産業を扱ったジャンルが存在します。新聞を読んでいても、婚外交渉を当たり前のように扱い、時には美化する記事が普通に登場します。しかしこれらのことは、いかに普通にありふれていても、みな「淫らな行い」、また「汚れ」という闇であり、そういうものを嬉々として口にすることは、光の子どもとしてしてはならないことです。 4節もそれに類するみことばです。……猥談も、いやらしい冗談も、セクハラな発言も、全部アウトです。 しかし、中にはこんな冗談を堂々と口にしておいて、自らを愛のあるクリスチャンである、こういう冗談に顔をしかめているクリスチャンは愛がない、などとうそぶく人もいます。こういう人はえてして人気があるものですが、私たちはだまされてはいけません。聖書が、そういう冗談や猥談を禁じている以上、アウトなものはアウトです。 そのかわりに奨められていることは、「むしろ、感謝しなさい」ということです。いやらしい妄想や行動がなぜいけないのでしょうか? それは、神さまがそれぞれに与えてくださった領域に感謝せず、よけいなものをむさぼっているゆえです。それは、神さまへの感謝と正反対のことです。もし、神さまにつねに感謝する生活ができているならば、このような汚れたむさぼりのことばも行動も出てこないはずです。私たちはよくよく自分自身を点検する必要があります。 5節のみことばは、この罪から足を洗おうとしない者に対する凄まじいまでの警告のことばです。……大前提として、イエスさまの十字架を信じる信仰により、私たちの罪は未来の罪に至るまでも赦されています。しかし、このみことばを見てみますと、性的なむさぼりは偶像礼拝という罪と直結していることが語られています。 エペソのクリスチャンたちは、魔術であったり、女神アルテミスへの信仰であったり、そういったものを捨てるなどして、イエス・キリストに立ち帰っています。その分、偶像礼拝者という言い方は、最も心が刺される表現だったのではなかったかと思われます。その過去を引きずるような性的な罪を悔い改めていないかぎり、自分はイエスさまではない、偶像に従う者なのか、というわけです。 6節も続けてお読みします。……空しいことば、とは何でしょうか。大丈夫だよ、イエスさまの十字架によりすべては赦されているから、何をやっても大丈夫、とばかりに、罪を許容することばではないでしょうか。イエスさまが十字架の上ですべての罪を赦してくださったのは事実です。しかし、その恵みを受け取り、まだなお絡みついてくる罪から足を洗おうと恵みを求めるのと、罪赦されたのをいいことに相変わらず好き勝手な生き方をやめないのとでは、どちらの生き方を神さまは求めていらっしゃるでしょうか。 いのちを懸けて十字架の上で私たちを赦し、救い、贖ってくださったイエスさまのみわざを軽んじるようなことは、口にしてもいけませんし、思ってもいけません。それこそ、むなしいことばというもので、そんな教えはだれのことも救いはしません。しかし、そのようなむさぼりについ身を委ねたくなるのが、私たちに染みついた肉の特性です。あってはならないことですが、教会に属する若者たちも、そのような過ちに陥るということが多く存在します。いえ、時には若者にかぎらず、そのような不適切な性的行動に走るものが、教会の中に現れることもありえます。 私たちはそのような、聖徒にふさわしくない性質から教会がきよめられるように、ともにお祈りする必要があります。私たちは、イエスさまのこの十字架のみわざにふさわしくなれるように、日々聖霊なる神さまの深い交わりによってきよめていただくものとなりますように、まず私たち自身を主の御前に差し出し、とりなして祈ってまいりましょう。 第二のポイントです。光の子どもは、闇のわざを明るみに出すことが求められます。 11節のみことばをお読みします。……まず、前提として、暗闇のわざに加わらないことです。 世の中の人たちは、私たちを悪いわざに染めようと、あらゆる方法で誘ってきます。しかし私たちは、そのわざに対し、断固として「ノー」を突きつける必要があります。深酒、たばこ、薬物、性的逸脱、ギャンブル……これらのものは、私たちクリスチャンにとっては、呑み込まれるべきものではありません。むしろ、それがどんなに恐ろしいものか、声を大にして叫ぶべきです。よくよく考えましょう。このような放蕩に走ることが、果たしてイエスさまを喜ばせることができるでしょうか? 私たちのすべきことは、この世にはびこるあまり、私たちクリスチャンのことさえも蝕む悪を、私たちに与えられたみことばの光によってあばき出すことではないでしょうか。 とはいえ、私たちは何も、この世の中や私たちの周りに存在するあらゆる悪を、根掘り葉掘りぐたいてきにひとつひとつ。明らかにすることが求められているわけではありません。それをしていてはきりがありません。それよりも、みことばに従う私たちの生き方が、光となって、この世のあらゆる汚れ、ゆがみ、恥を明らかにするのです。 そして、そういうものが明らかにされるならば、人の取る行動はふたつにひとつです。悔い改めてその行動を捨てるか、その行動が悪いと知りながらもやめないかのどちらかです。 そうして、キリストに従うという善を行う人はますます善に進み、悪を行う人はますます悪に陥り、かくして、麦と毒麦は充分に生えそろって、さばきを待つばかりとなるのです。 私たちがもし光の子どもであるならば、人々に生き方の決断を迫るモデルとなる生き方を人々の前にしてしかるべきです。イエスさまの存在が、イエスさまに従う一部の人と、イエスさまを十字架につけた大群衆とに分かれたように、私たちの存在によってこの世の悪が照らしだされ、神さまにお従いするごくわずかの人が明らかになっていくのです。その、わずかの人たちとともに、私たちは何よりも強い、キリストのからだなる教会を形づくるのです。 私たちがいつも主に従順でありますように、その従順を実践する生き方によって、この世にキリストの光、みことばの光を照らし、まことの弟子の生き方のモデルをこの世に示す、そのような私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 第三のポイントです。光の子どもは、主に喜ばれることを吟味します。 10節のみことばにあるとおりです。 その、主に喜ばれることは、聖書のあらゆる箇所に書かれているとおりです。それが、消極的な形では、暗闇のわざに仲間入りしないこと、積極的な形では、暗闇のわざを明るみに出すことですが、具体的な形ではどうなのか、この箇所に限定しても、じつにいろいろな側面が見えてまいります。 まず17節です。……このために必要なのは、日々みことばから学ぶことです。私たちが日々みことばお読みすることは、光の子どもとして聖霊なる主が私たちのことを整えてくださるプロセスです。そのようにして私たちは知的にも、霊的にも、武装していただくことができます。賢くしていただけます。しかし、サタンはこのような時間にも、私たちに対し、間違った聖書解釈、間違った受け取り方をさせるように誘惑してきます。私たちはですから、みことばをお読みするときに、自分の思いで読んでしまわないためにも、聖霊なる神さまのお導きをいただく必要があります。 18節、お酒に酔うことはみことばでこうして戒められています。お酒に酔うことと対比して語っていることは、御霊に満たされることです。それに続くのが19節で、御霊に満たされた結果人がどうなるか、そうなるように命じておられるみことばです。みことばを分かち合い、みことばを歌いなさい、というわけです。 何度かお話ししましたが、私が高校生のとき参加した松原湖バイブルキャンプは、小坂忠さん・岩渕まことさんをゲストに迎え、賛美を歌って盛り上がっていました。しかしその中で、私の部屋に、とても盛り上がれなくて悩んでいた男の子がいました。彼は、聖書のお勉強が少なくて、賛美ばかり歌うキャンプについて行けなくて、帰ろうとしていました。しかし、機転を利かせた担当カウンセラーが彼を忠さんに会わせ、相談相手になってもらいました。忠さんいわく、みことばを学ぶことは取り入れることだ、しかし、賛美を歌うことは吐き出すことだ、取り入れてばかりいたらからだはおかしくなるだろう、ぜひ歌ってみよう、そのことばに勇気をもらった彼は、その忠さんのアドバイスを部屋で分かち合ってくれて、最後までキャンプをやり遂げました。その姿に私も励まされたものでした。 みことばによっていただいた御霊の満たしは、賛美の歌として表現してこそです。みなさん、どんどん歌っていきましょう。 そして20節、すべてのことについて、キリストの名によって感謝しなさい、これは、今月初めに水谷潔先生もテサロニケ人への手紙第一の5章からおっしゃっていたことですが、私たちクリスチャンのあるべき姿は、キリストの御名があがめられることゆえに感謝をささげることです。感謝にあふれる生き方こそ、光の子どもとしてふさわしい生き方です。私たちが感謝すべきことも、キリストの御名にふさわしいかどうか、つねに吟味する必要があるでしょう。 そして、キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。従うべき姿勢も、吟味される必要があります。このみことばから後、夫婦、親子、奴隷と主人といった人間関係が具体的に取り扱われますが、強制された従順、うわべだけの従順は、みこころにかなった従順ではありません。この点でも、私たちは御霊によって、まことに従いあうことが実行されているか、日々自分自身を吟味する必要があるでしょう。 私たちは光の子どもです。光の子どもとして歩むのは、難しいことではありません。御霊に満たされるならば、暗闇を避けられるようになります。暗闇を照らす生き方ができるようになります。そして、みこころに従う生き方を吟味し、真にお従いする生き方ができるようになります。そのようにして、光の子どもとしてともに整えられ、主のご栄光をこの世に輝かせる、祝福された歩みに用いられる私たちとなることができますように、主の御名によってお祈りいたします。

古い人を脱ぎ捨てる

聖書箇所;エペソ人への手紙4:17~32 メッセージ題目;古い人を脱ぎ捨てる    暑いんだか寒いんだか、よくわからない日々が続いています。みなさん、おからだの具合はいかがでしょうか? このような天候で、体調を崩していらっしゃらなければと思います。  暑くなれば、意識するのは「衣替え」です。娘たちの学校は制服なので、季節の変わり目には、成長著しい小学生のこと、どうしても、新しい服のことを考えなければなりません。新しい服を手に入れたら、ちょっともったいないですが、古いのは処分します。そうでないと場所取りです。  私たちにとってこのような「衣替え」が必要なように、聖書は、「衣替え」というものを、私たちが根本的に行なう必要があるということを語っています。本日の箇所には、22節と24節に、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着るという、象徴的なことばが登場します。なんとなく、言っていることはお分かりだと思います。人間、新しくなれるならば、どんなにいいことでしょうか。いつまでも自分の古い性質を引きずっていてはならないわけです。そんな自分を脱ぎ捨てて、新しくなる、それは素敵なことです。いいえ、私は古いままでいい、新しくなんかなりたくない、そんなことをおっしゃる方は、まあ、いないと思います。  問題は、どうすることが古い人を脱ぎ捨てることであり、どうなることが新しい人を着ることか、ということです。聖書は何と語っていますでしょうか? 今日の本文から、3つのポイントにわけて、ともに見てまいりたいと思います。    第一のポイントです。脱ぎ捨てるべき古い人とは、神の民ではないアイデンティティです。  17節のみことばをご覧ください。……ここで戒められている歩みは、異邦人のような歩みです。  異邦人とは何でしょうか? まことの神さまに属さない民です。旧約聖書にはこの異邦人がいろいろな形で出てきますが、それはたいていの場合、まことの神さまに敵対する存在、神さまの忌み嫌われる存在であったりするわけです。  それは、神さまを認めず、したがって神さまにお従いしないゆえ、また、それゆえに、神さまとその民に敵対するゆえです。彼らは幼いときから、偶像の神に従うことを教えられます。また、それにしたがって、まことの神さまに敵対するあらゆる非聖書的な教えを行うように導かれます。何をどうしても、行きつくところは偶像の神々だったのでした。   しかし、神さまはそのような者たちの罪に気づかせてくださり、その罪とそのさばきから救い出すべく、イエスさまの十字架を信じる信仰へと導いてくださいました。 これは、彼らの努力によることではありません。神さまの一方的なあわれみによることです。この福音のことばを聞いているエペソの人たちにしても、そのままでは女神アルテミスを神とした生活をするしかありませんでした。しかし神さまは時至って、パウロを通して彼らに福音を伝えてくださり、イエスさまを信じる信仰を与えてくださったのでした。これこそ恵みのわざです。 こうしてエペソの人たちは、異邦人という古い人を脱ぎ捨てることができました。ただしこれは、自分の努力によって脱ぎ捨てたのではありません。神さまが脱ぎ捨てさせてくださったのです。そして、神の民という、新しい衣を着せてくださったのです。 むかし、「グリーン・マイル」という、アメリカの刑務所を舞台にした映画を観ていて、暴れる囚人をおとなしくさせるために身動きを取れなくさせる「拘束衣」というものの存在を知りました。看守たちに押さえつけられてこれを着せられると、両手両足は縛られたも同然となり、もう何もできなくなります。 神の民ではない異邦人という状況も、これと同じです。異邦人という拘束衣にがんじがらめにさせられている以上、神のみこころに従うことなど金輪際ないわけです。神さまに従うには、神さまによってこの拘束を解いていただく以外にありません。 私たちもまず、神さまによってこの「異邦人」という縛りから解いていただく必要があります。ここにいらっしゃる多くの方々が、この「異邦人」という縛りから、信仰によって解いていただいた方々であろうと思います。しかし、からだというものは、癖を持っています。たとえば、このメッセージの準備をしていた際、私はパソコンに向かって原稿を書いていました。いつもの作業ではありますが、その作業が終わった後、私は必ずと言っていいほど、妻に注意されます。「ほら、背中が曲がっているよ!」そうなると私は、妻がYouTubeで見つけてくれた体操をして、少しでも曲がった背中を何とかします。 そういう、からだの癖というものが、習慣によってからだにしみついてしまうように、私たちにも罪の性質が、まだきよめられていない習慣によって自分の中に残り、増え広がってしまうことを、私たちは自覚する必要があります。私たちはたしかに、もう異邦人のような神さまを認めない人々ではありません。しかし、かつての神さまを認めないゆえに習慣になっていた罪の性質というものは、そう簡単に私たちの中から去ってはくれません。 それゆえ私たちはこの領域で、古い人を脱ぎ捨てさせていただくという、神さまのお取り扱いを必要としているわけです。私が「背中が曲がっているよ」という妻の声を聞くことで、そういう自分に気づき、曲がった背中を何とかするように、聖霊なる神さまの御声を聞いて、古い人を脱ぎ捨てさせていただくのです。私たちは日々のお祈りをとおして、この古い人を脱ぎ捨てさせていただきます。 はたして神さまは、私たちが、ご自身の民にふさわしくない古い性質を引きずったまま生きることを、喜んでいらっしゃるでしょうか? もし私たちが相変わらずであったとするならば、イエスさまは何のために十字架にかかってくださり、私たちを罪からきよめてくださったのでしょうか? 私たちは日々、古い人を脱がせていただく必要があります。御霊によって、きよめていただく必要があります。 日々、主の御前に祈りのうちに進み出て、きよめをいただいて神の人としてふさわしくされる、その祝福をいただく私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。    第二のポイントにまいります。脱ぎ捨てるべき古い人とは、みことばに禁じられているあらゆる罪の性質です。  第一のポイントでは、異邦人というアイデンティティを脱ぎ捨てるようにと申しましたが、ここでは、その脱ぎ捨てるべき古い人の、具体的な中身について見てまいります。まずは18節です。……この「古い人」の特徴は、暗い知性とかたくなな心です。暗い知性は、このみことばでは「無知」とも言い換えられています。  この「暗い知性」ないしは「無知」と、「頑なな心」は、コインの裏表のように表裏一体です。どういうことかというと、人は無知である自分を自覚して賢くなろうとすればいいのですが、無知な自分を受け入れられなくて、かえって頑なに無知な自分の状態にとどまる……その頑なさのゆえに、ますます無知であることをやめられない……。 私が小5の時に担任の先生だった「山岸先生」という方がよくおっしゃっていたのは、「無知これ罪悪」ということばで、そのことばに叱咤激励されて生徒たちは勉強させられたものでした。 しかしこの「無知これ罪悪」は、聖書のメッセージでもあります。神さまのみことばを知る機会がありながらも知ろうとしない、自分の考えがすべてである、そういう頑なさの中にとどまりつづけるので、無知であることをやめられない……かくして、その人はますますみことばの真理に到達できない……その状態をみことばは、罪に定めています。そういう無知とかたくなさの中にあるかぎり、まことのいのちを与える神のみことばによってほんとうの賢さを得ようというところには、とても到達することができません。 そういう、無知とかたくなさの中にとどまりつづける者たちは、どうなるとみことばは語っていますでしょうか? まず19節、22節を見てみますと、好色、性的な不潔、情欲という形で現れることが語られています。 情欲というものはいつの時代も、人を、特に若い男性をとりこにします。現代においても、インターネットから学校の雑談に至るまで、どれほどそのようなものにあふれているでしょうか。 しかし、これが罪であることを指し示せる基準は、日本の一般社会からはほぼ消滅しています。 罪を犯したとき、後ろめたさぐらいは覚えていると信じたいですが、その後ろめたさがこの罪を抑止する力になってくれるわけではありません。ただ、それが罪であることを定めていらっしゃる神さまによって、その古い人を脱ぎ捨てていただくことによってのみ、罪を抑止することができます。 古い人の罪の形態に、まっさきに「情欲」ということが書かれているのは、理由のないことではありません。いずれエペソ書の5章を学ぶときに詳しく学びますが、教会は、キリストの花嫁です。貞潔をキリストにのみささげるべき存在、それが私たちキリストの花嫁、教会です。そのようなものが情欲に染まるということ、それは、キリストを離れ、姦淫、不倫の罪を犯すことに等しいことです。私たちは何としても、この「情欲」から身をきよめる必要があります。 それに続く箇所も見てみましょう。25節以下は、古い人のいろいろな形態が列挙されています。25節では偽り、26節では怒りをやめないこと、27節では悪魔に、われわれの信仰生活に干渉する機会を与えること、28節では盗み、29節では悪いことば、30節では聖霊を悲しませること、31節では無慈悲や、怒りから発するさまざまな否定的な行動、そして悪意を挙げています。 これらひとつひとつを詳しく見るならば、1回のメッセージでは足りません。大きく2つに分けて整理したいと思います。これらの罪は、霊的な次元と、人間的な次元の2つに分けることができます。 まず、霊的な次元から見てみますと、27節の悪魔に機会を与えることと、30節の神の聖霊を悲しませることは、表裏一体と言えます。 私たちは恵みによって、神の民とされている者たちですが、そのような私たちであっても、悪魔に働く隙を与えうる存在です。初代教会においても、アナニアとサッピラの例を挙げることができるように、うかうかしていると教会においても、サタンの付け入る隙というものは生まれます。 しかし、こういう悪魔の働く機会というものは、私たちの信仰生活の持ち方のせいで、自分から招いてしまうということが往々にして起こります。みことばを読む代わりに、インターネットやテレビや雑誌や本や、その他いろいろの理由で、みことば以外のものに意識を向けたりする。祈る代わりに、自分でぐるぐる考えたり、余計な妄想をしたりする。教会に行く代わりに、よく考えれば行く必要のないところに足を運んでしまう。こういうことが度重なることで、悪魔はどんどん、私たちの心の中の陣取り合戦で、陣地を広げていって、気がつけば心の中の相当な部分を占拠してしまうのです。 こうなってしまうと、聖霊なる神さまに働いていただく余地を、私たちの力で締め出してしまっていることになりはしないでしょうか? それは聖霊なる神さまの悲しまれることです。ゆえに、このことも私たちにとっては神さまのみこころに反する、罪となります。 では、人間的な次元の罪を見てみましょう。 偽りや怒り、盗み、悪いことば、無慈悲、悪意……こういったものは、悪魔に機会を与え、神の聖霊を悲しませるしるしとして、人に現れる罪です。では、これらのさまざまな現象は、どこから来るのでしょうか? それは要約すれば、人を人とも思わない自己中心から出たものと言えます。早い話が、愛の反対です。自分を守るために、うそをつきます。自分の気持ちの赴くままに、怒ったり、悪いことばを発したりします。自分のものにしたくて盗みます。自分さえよければと考えてあわれみの心をいだきません。 自分の基準で人をさばいて、人に悪意をいだきます。すべては、愛の反対である自己中心から出ることです。 私たちはこのような性質を、脱ぎ捨てさせていただくのです。このような性質を脱ぎ捨てるためには、ある程度の人間的な努力は必要です。しかし究極的には、人間的な努力がきよめを達成するのではありません。神さまにこの古い人を脱ぎ捨てさせていただくこと、そのことによって、ここに列挙されたあらゆる、みこころにかなわない性質から自由にならせていただくことができるのです。そうです、これもまた恵みによることです。 私たちはこのように、礼拝に集うくらいですから、キリストに似た者になりたいという聖なる願いを、ともに持っていらっしゃることと思います。しかし、なかなか変えられなくて、落ち込んだり、自分を責めたくなったりするような方も、もしかしたらいらっしゃるかもしれません。しかし、落ち込んだり、焦ったりすることはありません。私たちの主権は、みな神さまにあります。神さまがみこころのうちに、私たちにふさわしくない古い人を脱がせてくださるのです。聖霊なる神さまが私たちをきよめ、私たちの古い性質を取り去ってくださるのです。聖霊なる神さまに期待してまいりましょう。    それでは最後に、第三のポイントです。古い人を脱ぎ捨てて着るべき新しい人とは、神さまのご性質です。  古い人を脱ぎ捨てるべきことは、ここまで何度も強調してきたとおりです。しかし、脱ぎ捨てたままだと、裸です。裸だと恥ずかしかったり、寒かったりで、とにかく不都合な状態です。何かを着なければなりません。そんなとき、古い人を着てはいけないのです。  教会に来るような人でときどきいるのが、最初はこの赦しの福音を聞いて感激するのに、しばらくするとすっきりしたのか、教会を離れてまた元どおりの生活をするようになってしまう、そういう人です。イエスさまもそういう人のことを語って注意していらっしゃいましたが、福音を聞くような人は、元どおりの人になることを避けなければなりませんし、教会も、新しくやってきた人がそのようになってしまわないように、しっかりとフォローアップする必要があります。  そこで必要なことは、新しい人を着ることです。23節と24節をお読みします。 ……このみことばからわかることは、新しい人を着ることとは、まず、人が霊と心において新しくされ続けることです。  たしかに人は、イエスさまを信じ受け入れることによって、すべては新しく変えられます。しかし、その変化は一回だけで終わるものではありません。一生続くものです。一生、変えられ続けるのです。さもなくば私たちは、肉の身にしみついた習慣により、古い人を着て元どおりになってしまうわけです。その変化は、私たちひとりひとりの神さまとの霊的な交わりから始まります。  そして、「真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着る」とあります。新しい人を形づくる神のかたちには、それにふさわしい基準があるわけです。その基準となるものは、義と聖を規定する真理です。そう、真理のみことばなる聖書です。聖書のみことばは変わることなく、私たちの目の前に置かれています。この変わることのない聖書のみことばをお読みすることによって、私たちは神さまのみこころにふさわしく変えていただくことができます。神にかたどられた形に造り変えていただけるのです。これが、新しい人を着せていただくことです。 その、新しい人の特徴も、25節以下でいくつかでてきます。25節では、隣人に対して真実を語ること、28節では、施しのために正しい労苦を伴った働きをすること、29節では、人の成長に役立つ恵みのことばを語ること、32節では、優しい心で赦し合うことが、それぞれ語られています。…

ひとつの教会の成長を目指して

聖書箇所;エペソ人への手紙4:1~16 メッセージ題目;ひとつの教会の成長を目指して 以前のことになりますが、私は長いこと、日本の教会成長におけるモデルとなる教会を探していました。そのような中で出会ったのが、たとえば韓国のサラン教会であったわけですが、私はやがて気がつくことになりました。それは、モデル教会はどこまでもモデルであって、自分の牧会する群れはそのモデルに似せてではなく、どこまでも自分に与えられた健全な牧会哲学にしたがって形成しなければならない、ということです。 教会に集う信徒ひとりひとりが、ほんとうの意味で主からいただいたいのちを生き生きと、喜びをもって生きる、そのような牧会を目指していきたい、そのように切に思います。そのためにも、どうかみなさんには、みなさんおひとりおひとりがそのいのちを生きる、教会の主体であることを、いつも心に留めながら生きていっていただきたいと、切に願います。 そのような私たちにとって、今日学びます箇所は、とても示唆に富むみことばです。ともに学んでまいりましょう。 第一のポイントです。私たちはひとりなる主の中で一致する存在です。 1節から6節の中で、漢数字の「一」という数字、何回登場するでしょうか? 6回も登場します。そして、神さまがひとりなるお方、という、この「ひとり」まで含めると、実に8回にもなります。それほど、ひとつ、ひとり、ということは、だいじなことなのです。 神さまというお方は、交わりの中に永遠に生きておられるお方です。父、御子、御霊の、三位一体の交わりです。この三位一体の神さまを、旧約聖書では「エローヒーム」と言いますが、これは複数形です。「神々」という複数形を充てるべき、まことの神さまではない存在も「エローヒーム」で、やはり複数形なわけですが、「エローヒーム」がまことの神さまか、そうではない神々かということは、文脈で判断します。 そういうわけで、創造主なる唯一のお方はいわゆる八百万の神々ではないのだから「神」と呼ぶべきではないという御意見は、一理あるとは思いますが、この「エローヒーム」という原語のことを考えますと、「神」とか「神さま」とお呼びして不都合なことはないというのが、私なりの意見です。 ともかく、このまことの神さまは、複数形であるということは、つねに交わりの中に生きておられ、完全な一致を保っておられるお方ということです。これこそ、三位一体ということです。そのように、三位なる神さまが一体であるように、私たち、主のからだなる教会も、ひとつの中に交わりを保つ存在である、というわけです。 そのような存在であることを私たちが自覚するために必要なこと、それはまず、1節にあるとおり、主の召しにふさわしく歩みなさい、ということです。 このお奨めをしたパウロは、自分のことを何者だと言っていますか? そう、主にある囚人、です。主にお従いするあまり、囚人という、この上なく不自由な存在になった、しかしそれでもなお、みことばを伝え続ける者である、そのように告白しています。そんなパウロは、たとえ自分が囚人であろうとも、主の中で大いなる喜びにあふれていました。そんな私から確信をもってあなたがたに言います、召しにふさわしく歩みなさい。 パウロにとって召しにふさわしいことが、たとえ囚人となろうとも主に従順に歩むことであったならば、エペソの人、そしてこの手紙の読者である私たちにとっては、どのように歩むことでしょうか? それが2節と3節に書かれていることです。お読みします。 なぜ謙遜でなければならないのでしょうか? なぜ柔和でなければならないのでしょうか? 寛容であることも、愛することも、忍耐し合うことも、平和を保つことも、なぜ必要なのでしょうか? それが、三位一体なる神さまが交わりのうちに一致を保っておられるように、御霊による一致を保つことであるからです。そしてそのように一致を保つことを、神さまが私たち主の教会に願っていらっしゃるからです。 神さまは、人や群れによって別の存在となるお方ではありません。神さまは唯一であり、神さまへの信仰を持たせてくださった聖霊なるお方も唯一です。この唯一のお方によって、私たちは同じ信仰を持ち、同じバプテスマを受け、同じ主のからだなる教会に連ならせていただくのです。 先週、水谷先生もおっしゃっていた表現を借りれば、教会というものは個人競技ではなく、団体競技です。ひとりの力で信仰生活や教会形成など、できるものではありません。では、どのようにすれば、私たちは一致を保てるのでしょうか? それは、私たちがともに、主を見上げることによって可能となります。では、私たちは具体的に、どのようにすることで一致できるのでしょうか? 第二のポイントです。私たちはひとりなる主が、多様な働きを与えてくださっていることを互いに認め合うことで一致する存在です。 7節のみことばをお読みします。……ひとりひとりが、キリストの賜物の量りにしたがって、とあります。私たちはそれぞれが、さまざまな個性という形で、キリストより賜物をいただいています。それぞれに合った賜物を、イエスさまは私たち各自にくださっているというわけです。 8節から10節のみことばをお読みします。……イエスさまは天の御国から地上に下られて、人々とともに生活されました。 この、地上の人々は、この世とサタンの捕虜として、罪の縄目にしばられて生活していた者でした。しかし、そのような世とサタンの捕虜だった者を、キリストは解放し、天の御国のいのちを与えてくださいました。 イエスさまの十字架と復活を信じる信仰によって罪とサタンから解放された者たちは、もはやこの世の捕虜のように生きる必要はありません。この世において、天の御国に属する賜物をいただきつつ、そしてその賜物を用いつつ、生きる者と変えていただいたのです。 11節をご覧ください。……ここには、4つ、ないしは5つの働き、または立場が列挙されています。これを見てみますと、キリストのからだなる教会に仕える存在は、さまざまである、ということがわかります。 使徒、これはキリストに直接遣わされた人です。イスカリオテのユダを除くイエスさまの十二弟子、それを充当する形で加わったマッティア、そして、復活のイエスさまに実際に会って遣わされたパウロがこの使徒にあたります。この使徒が、それから2000年にわたって聖書のみことばを残すことを考えると、パウロがこの働きを一番目に持ってきたのも当然と言えます。 次に預言者です。これは、主からの啓示を直接受けて伝える人です。旧約時代にこの預言者は存在し、活動してきました。新約時代に入っても、新約聖書が整備されるまではたびたびこの預言者が起こされ、人々に神さまからの啓示を伝えました。神さまのみことばを受けて伝えるという点で、この預言者はとても大事な仕事です。 そして伝道者です。みことばをたずさえて、まだ福音を聞いたことのない人にみことばを語り伝えます。 最後に、牧師または教師とあります。人々をみことばによって教え、みことばによって養う働きです。この「牧師」という用語は聖書においてはここだけに登場しますが、使徒の働き20章28節など、ほかの聖書箇所と照らし合わせると、パウロがテモテへの手紙などにおいて「監督」と呼んでいる職分と共通することがわかります。 こんにちにおいて使徒と預言者という職分は復活しつつある、と説く立場は、たしかにキリストの教会の中に存在しますが、私はその立場には賛成しかねます。私たちは、使徒と預言者が書き残した旧新約聖書の啓示で、充分と考えるべきです。聖書はすでに完成しています。 それにもかかわらず、それにつけ加えていろいろなことを言う者は、「異端」と見なすべきであり、そのような存在に対してはヨハネの黙示録の最後の箇所で、ぞっとするようなさばきのことばが宣告されています。 ここでいう「使徒」と「預言者」は、聖書の完成をもってその立場は停止しました。では、私たちはわざわざこのように職分が書かれたみことばの意味を、どのように解釈すべきなのでしょうか? それは、教会形成にはさまざまな立場の人が用いられる、というにとどめたいと思います。 こんにちはたしかに、使徒や預言者は存在しません。しかし、伝道者や牧師、教師ならばどうでしょうか? 福音というものは、伝道者の存在によって宣べ伝えられます。私たちの教会の支援している宣教師の先生方や、KGKやキャンパス・クルセードといった宣教団体のスタッフといった方、もっと広範囲に活動する方では、むかしならばビリー・グラハムや本田弘慈先生、現在ならば岸義紘先生や福澤満雄先生のような方が挙げられるでしょう。こういう方々の存在によって、福音は広く増え広がり、伝えられます。 牧師はもちろん、教会を牧会する働きをする人です。教師はそのような中で、みことばを伝える働きであり、教団教派によっては、牧師を教師とも呼んでいます。この牧師と教師をあえて分けるとするならば、担任する教会がある場合は牧師、神学校のような神学教育機関で教鞭をとるのが専門の場合は教師と言えるかもしれません。 いずれにせよ、「みことばを教える」専門職をひとつ取ってみても、これだけ多岐にわたるわけです。使徒と預言者がみことばを受ける人であるならば、伝道者や牧師や教師は、それぞれの立場でその受けたみことばを伝える人です。 時に、人によっては、この3つの賜物を兼ね備えている人もいるかも知れません。しかし、その働きをバランスよく一人で担うには、限界があると言うべきです。 どうすればいいのでしょうか? この、「教える」ということを、専門職に独占させず、信徒で分かち合うのです。ここに、私たちの賜物を見分け、その賜物にしたがって活用する余地が出てまいります。 ある人は、人間関係を形成するのが上手で、福音を伝えるのもその分上手でしょう。そういう人は、「伝道者」の賜物があるのではないでしょうか? 祈りつつ、その賜物を磨くべきです。現在私が取り組んでいる「爆発伝道」は、私自身の伝道のスキルを開発するために取り組んでいることというより、信徒のみなさんが効果的に伝道できるように、まず私が取り組んでいることであるわけです。ぜひとも、自分は伝道に召されていると考える方は、この爆発伝道のメソッドを身に着けることにトライしていただきたいと思います。 またある人は、信徒をお世話するのが好きでしょう。そういう人には、「牧師」の賜物があるかもしれません。なにも、牧師按手を受けて、わざわざ牧師と名乗らなくてもいいのです。 そういう人でもそれなりの訓練を受ければ、牧師のような働きができるのです。世の中には、経済的な理由もありますが、お仕事にかなり集中しておられる牧師先生もいらっしゃいます。そればかりか、れっきとした本業があって、日曜日に牧師を名乗られる先生もいます。そういう方々のことを考えると、私たちにやれないということはないはずです。按手を受けているかどうかのちがいだけではないですか! 私のむかしいたサラン教会は、だいたい1200個ぐらいの小グループによって成り立っていた教会です。そのそれぞれの、だいたい6人から8人くらいの小グループのリーダーは、すべてが信徒です。主婦であったり、社会人であったり、とにかく、専門の牧師がするのではありません。そのリーダーになるためには1年の基礎訓練、さらに1年の応用訓練を受けますが、それでも専門職の牧師になるというわけではありません。しかし、彼らは立派に「牧会」をしていました。自分のグループの信徒のために祈り、励ましの言葉をかけ、みことばを教えていました。専門職ではない信徒であろうとも、牧会はできるのです。 あるいは、人づきあいはそんなに得意でなくても、聖書研究やキリスト教会の研究が好きという人は「教師」の賜物がありそうです。あるいは、教えることに秀でている人も「教師」の賜物はあると考えていいでしょう。そういう方にはどんどん本を読んでいただきたいですし、日曜学校の教師のような働きにもチャレンジしていただきたいところです。 以上見て来て分かりますことは、このようにキリストが天上の賜物を分け与えておられることは、この箇所においてはもっぱら、「みことばを教える」ことに特化されているということです。 しかし、このみことばを語られたお方はおひとりであり、したがってみことばもひとつです。それぞれが同じみことばを学び、また語ること、そのことが、一致して主を見上げるということであるわけです。 では、3つの目のポイントでは、みことばを学ぶことで一致して主を見上げる、その目的について学びます。 第三のポイントです。私たちはひとりなる主に向かって、ひとりなる主によって成長し、一致する存在です。 12節のみことばをご覧ください。……これは、教会がさまざまな教える賜物を持った人たちによって教えられることの益を語っています。 まずそれは、整えられるためです。この「整える」という漢字は、幼いころから私にとって、とても近しい漢字です。と言いますのも、私の父が、「整形外科」の医者だったからです。整形外科なので、実家の入口にはどーんと、この「整」という字が看板になって書かれていました。 整形外科には、けがをした人、筋肉を傷めた人、骨の具合の悪い人がやってきます。彼らが患者さんとしてかかりに来るのは、筋肉や骨が本来あるべき位置にないため、激痛を伴ったり、からだ全体にいちじるしい不具合を生じさせたりしているからです。しかしそのような患部を治すことで、患者さんの骨や筋肉はあるべき位置に戻り、痛みは取れ、からだの不具合は取れます。これが整形外科の役割、整えるということです。 教会というキリストのからだにおいても、それは同じことです。教会を形づくる信徒たちは、そのままでは罪の性質、肉の性質そのままに生きてしまうため、教会が主のからだとは名ばかりで、あちこちが肉の働きによって歪んでしまいます。そうなると教会には、実にいろいろな不具合が生じ、痛んだり病んだりすることになります。だから私たちは、正しくみことばを教えられる必要があるわけです。これが「整えられる」ということです。 そのようにみことばによって整えられることによって、はじめて私たちはふさわしく奉仕をすることができるようになります。世の中には、ボランティア活動が好きな人というものがいるものです。しかし、教会の奉仕と一般のボランティア活動は、似ているようで根本から異なるものです。 一般的なボランティア活動の奉仕は、いわば人に対するものであり、人に対して誠心誠意尽くすことで、すばらしいことです。これに対して私たちキリスト教会における奉仕は、唯一の神さまに向けて、一致してささげる奉仕です。出発点も、到着点も、一般的な奉仕と根本から異なるのです。 その奉仕の目的は、私たちが一致すること、私たちがともに成長し、キリストの満ち満ちた身たけにまで達すること、ここに究極の目標、目的があります。見るべきところは自分たちであるというよりは、キリストなのです。 では、私たち教会が成長することは、なぜ必要なのでしょうか? 14節をお読みします。成長していない者は、子どもです。子どもらしいといって褒められるのではなく、子どもっぽいということでけなされる、そういう意味での「子ども」です。 このみことばによれば、教会が子どもであることのしるしは、悪巧みや悪賢い策略、妙な教義にやられてしまうほど純真で分別力がない、ということです。しかしそれは、みことばをよく学んでいないからにほかなりません。みことばをよく学ぶならば、鳩のように素直になる一方で、蛇のようにさとくもなります。…

クリスチャンとはどんな人か

聖書箇所;エペソ3:1~21 メッセージ題目;クリスチャンとはどんな人か 新約聖書の27巻のうち、その半数近くになる13巻は、使徒パウロによって書かれました。それはすべて「手紙」と書かれており、教会向けであったり、個人向けであったりします。この「手紙」を、「書簡」ともいいます。 この、パウロによる「書簡」を読んでみると、ほかの指導者たちによる書簡、ヤコブやペテロやヨハネやユダによる書簡と比べて、大きな特徴があります。それは、パウロという人物の個性が、時にかなり際立って現れている、という点です。からだの弱さであったり、個人的な体験であったり、そういう、時にかなりプライベートなことではないかと思えるようなことも、細かく書いてある箇所が珍しくない、それがパウロの書簡の特徴です。 しかし、そういうきわめて個人的な色彩を帯びた書簡も、聖書のみことばとして提示されていることを、私たちは受け入れる必要があります。このことは何を意味しているのでしょうか? それは、一見するとプライベートなパウロ個人の事情に思えることも、私たちクリスチャンひとりひとりと、実は密接な関係がある、ということです。 私たちは、初代教会において意味されているところの使徒ではありません。しかし、この世に遣わされているキリストの使者であることに変わりはありません。私たちは、決してパウロと同じような弱さを持っているとは限りません。しかし、パウロと同様に、何らかの弱さをもってこの世を生きていることに変わりはありません。実にパウロの際立って個人的な描写は、ことごとく、私たちクリスチャンの生活と関係があります。いかに個人的な事情であろうとも、聖書に収録されているだけの、それなりの正当な理由があるわけです。 本日の箇所は、パウロがいくつかの点で自己紹介をしている箇所です。これらの自己紹介はすなわち、私たちクリスチャンひとりひとりの自己紹介でもあります。では、ひとつひとつ見てまいりたいと思います。 第一のポイントです。クリスチャンは、囚人、とらわれ人です。 そう申し上げると、むっとされる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、1節を読んでみましょう。パウロはたしかに、自分のことを囚人と表現しています。 とは申しましても、ただの囚人ではありません。「キリスト・イエスの囚人」と書いてあります。 この、エペソ人への手紙という書簡は、獄中書簡と呼ばれるものです。パウロが、ローマの獄中、牢獄の中でものしたものです。まさしく、イエスさまを宣べ伝える働きに献身するゆえに迫害を受け、ローマの監獄にまで至ったわけで、罪を犯したからではありません。 福音を宣べ伝える、これ以上正しいことがあるでしょうか? それなのに世は、そのような正しい人を迫害し、なにも行えないように追い詰めます。 しかし、このエペソ人への手紙もそうですが、パウロが獄中で書いたいくつかの書簡はやがて、教会を養い、今こうして聖書という形で私たちは手にしています。 2節から4節をお読みしましょう。……神さまはなぜ、獄中にいるパウロに啓示を与えられたのでしょうか? それは、それぞれの教会、そしてゆくゆくは、今に至るまで2000年間、世界中に存在してきた教会が、福音の奥義を正しく悟るためです。 5節をお読みください。……パウロはこのわざのために用いられる「使徒」であるというアイデンティティを、神と人の前に明らかにしています。預言者、すなわち旧約聖書を解き明かす、新約聖書の書き手としてのアイデンティティです。私たちはこのようにして書かれら旧新両約の聖書によって、目に見えない神さまのみこころを正しく受け取ることができます。 そのみこころとは、具体的に言えばどのようなみこころでしょうか? 6節のみことばです。……信仰の父アブラハムに与えられた約束、その子孫を神の民としてくださるという約束が、異邦人にまで及ぶ、という約束です。この奥義を解き明かし、エペソ人をはじめとした異邦人たちに伝えるということが、神さまがパウロに与えてくださった使命であったということです。 そのようなパウロは、囚人ではありましたが、同時にこのような告白をしています。7節です。……そうです、福音に仕える「奉仕者」である、というわけです。 パウロは、囚人という立場にありました。自分の指導していた教会をケアしたり、信徒をフォローアップしたりということを、実際に教会を訪問し、信徒と顔と顔を合わせてという形で行うことは、もはやかないません。それが囚人というものです。しかし、それだからと、パウロがわが身に絶望して、福音宣教の働きをやめてしまうということはなかったのでした。パウロにはまだ、手紙を書き送るという手段が残されていました。 手紙を書き送ることができるかぎり、手紙に福音の奥義を込めて届けさせることができれば、それを読む人たちに牧会をすることができる、ということになります。それはたしかに、普通われわれが牧会と呼ぶような、相互通行的なコミュニケーションではないかもしれません。しかし、この手紙を読むならば確実に救われた者としてのアイデンティティを確立し、キリストのからだなる教会を建て上げる自覚が育つ……パウロはそう確信し、渾身の力を込めて手紙を書き送ったのでした。 ここに、私たちの生きるモデルが示されています。 私たちも福音に生きる者となりたい、福音を宣べ伝えたい、そう願いながらも、さまざまな理由でその生き方を制限せざるを得ないような、いわば「囚人」のような生き方を強いられているかもしれません。その制限は、家族や地域社会のしきたりというしがらみかもしれませんし、からだの弱さかもしれません。 あるいはもしかすると、過去犯してしまった大きな失敗を、周りの人たちがいまだに許してくれていないことかもしれません。いずれにせよ、私たちを囚われの身にするものはさまざまです。 しかしそれでも、私たちはパウロの生き方を見るとき、その制限というものを、いっさい行動を起こせていないことへの言い訳にしてもいいということではないことがわかります。囚人でありながらも福音に仕える者として諸教会を養ったパウロの姿は、私たちにとってのモデルです。 私たちは、何に目を留めているかを考える必要があります。私たちは、私たちを救ってくださったイエスさまに目を留めていますでしょうか? それとも、自分を取り巻く状況がすべてのように思わされていないでしょうか? すべての状況を動かし、そのような状況の中においてもみわざを行なってくださる、イエスさまにこそ、私たちは目を留めたいものです。果たして神さまは、何のために私たちを救ってくださったのでしょうか? この救いのみことばを人々に証しするために、このみことばをもって人々に奉仕するために、私たちを救ってくださったのではないでしょうか? もしそうならば、私たちがこの世に負けたままでいることを、神さまがお喜びになることはないはずです。お祈りして、いま自分を捉えているあらゆるしがらみに勝利する者となれるよう、力をいただきましょう。 では、第二の自己紹介です。クリスチャンは、福音を宣べ伝える人です。 8節のみことばをお読みします。……パウロはたしかに、キリストの教会を迫害したほどの自分が救われたという、その恵みを喜び、主に感謝しています。しかしパウロにとって、その救いの恵みは個人的なものにとどまってはいません。実にこの救いの恵みが、パウロのことを異邦人への宣教という使命に遣わしているということを、パウロ自身がよく理解し、そのことを書簡の読み手に伝えています。 いえ、パウロが福音を伝える相手は異邦人にかぎられているのでしょうか? 9節のみことばをお読みします。……パウロは、創造主なる神さまを語っています。しかし、創造主を伝えることにとどまらず、その創造主が、御子キリストを信じる信仰によって人々を救ってくださるという、時至って実現した奥義を、すべての人に明らかにし、伝えるために、自分が召されていることを語っています。そうです、すべての人です。 なぜ人々は、その奥義を知る必要があるのでしょうか? 10節、11節のみことばです。……あらゆる権威、支配を超えて、神さまの知恵が知らされるため、その知恵が伝えられるというご計画を成し遂げてくださるキリストのみわざが実現するためです。教会というものを過小評価してはなりません。すべての権威を超えるみ教えが伝えられる場所、実現する場所、それが教会なのです。私たちはこのことを、恐れと感謝をもって受け入れる必要があります。 この福音が伝えられる結果、人はどのようになるでしょうか? 12節です。 本来、きよい神さまというお方は、近づくことが許されないお方です。旧約聖書を見てみても、神さまに近づくことがどれほど恐るべきことかが、これでもかと記されています。しかし、キリストは神と人との仲立ちとなられました。私たちもキリストによって、大胆に父なる神さまの御前に近づくことができるようになったのでした。 人は、いろいろな形で救いに至ろうとします。善行を積んだり、哲学を極めたり、宗教活動にのめり込んだりと、そのとる行動はさまざまです。しかしそれらのものはいずれも、罪ある人間の側からの行動にすぎず、どんなに努力しても、いかなる努力をしても、きよい神さまに近づくことはできません。ただ、神さまの側で行なってくださったみわざ、ひとり子イエスさまを私たち罪人の身代わりに十字架につけてくださったこと、それによって私たちが罪赦され、神さまの子どもとされ、永遠のいのちが与えられ、天国に入れていただけることを信じ受け入れた人だけが、神さまの救いをいただくことができます。 これこそが、パウロが人々に伝えようとしていた奥義です。この奥義を伝えるためにパウロは生きていたとさえ言えるくらいです。別の箇所でパウロは、自らを指して、もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいだ、とさえ告白しています。 このように神さまからの使命に生きるパウロの姿を見て、私たちは何を感じるでしょうか? 自分はそのようになれない、と落ち込むでしょうか? いいえ、その必要はありません。 私たちは生きているかぎり、必ずだれかとの触れ合いを経験しています。その人たちをご覧ください。イエスさまは弟子たちに向かって、「あなたがたは……地の果てにまで、わたしの証人となります」とおっしゃいました。その、イエスさまの弟子たちから見れば、まさに「地の果て」に住む人たち、それが、私たちの目の前にいる人たち、私たちの隣にいる人たちではないでしょうか? このような人たちがイエスさまに出会い、大胆に神さまの御前に出る人になるという、そのビジョンを、私たちは持っていますでしょうか? 神さまはなぜ、この茨城県央にその人たちを生かしていらっしゃるのでしょうか? 私たちのすぐそばに生かしていらっしゃるのでしょうか? それは、キリストにお従いし、生活を通して福音を伝えようとする私たちの生き方を、その人たちも見て、キリストにお従いする道が開かれるためではないでしょうか? その意味では、私たちもパウロと同じです。私たちにはできるのです。パウロのようになれない、と考える必要はありません。私たちの手には、パウロをはじめ、使徒たちが神の霊感によって書き残した聖書があります。この聖書のみことばを語るならば、私たちが人間的なことばを尽くして説得しようとしなくても、聖霊なる神さまが働いてくださり、その人を救いに近づけてくださいます。そのわざに私たちも用いていただけるのです。 私たちも、福音を宣べ伝える伝道者です。伝道はだれにでもできることです。 そして神さまは私たちに、人々に伝道するように召しておられます。私たちの人格の欠けや、経験不足などを考える必要はありません。石ころからでもアブラハムの子孫を起こしてくださるのが神さまです。私たちのことも、必ず用いてくださいます。信仰をもって一歩を踏み出していただきたいのです。 では、三つ目のポイントにまいります。私たちクリスチャンは、祈る人です。 14節、15節をお読みします。パウロは、神の家族である教会を代表して祈っています。 そうです。クリスチャンとは祈る人です。まさしく私たちクリスチャンには、神さまの御前に祈るという特権が与えられています。 しかしこの箇所を見てみますと、パウロは異邦人がするような、単なる欲望や願望を羅列することをもって、祈っているのではありません。パウロは、何を祈っているのでしょうか? 16節から19節をお読みします。 パウロはひたすらに、御父が御霊によって教会に力を与えてくださるように祈っています。 その力はどのようにして働くのでしょうか? 聖徒一人ひとりの心のうちに、キリストが住まってくださり、働いてくださることによってです。そして、神の愛をすべての聖徒ともに知り、また理解することによってです。そのようにして、教会と聖徒たちが神さまの満ちあふれる豊かさにまで成長することを、パウロは切に祈っています。 そしてパウロのこの祈りは、たんに教会が強くなることだけに目的があるのではありません。20節、21節をお読みします。……全能なるお方のみわざ、御力が教会に働くことによって、教会をとおして、また、教会のかしらなるキリストをとおして、主が栄光を永遠にお受けになるようにと、祈っています。 この祈りは、私たちクリスチャンひとりひとりにとっても、究極の祈りの目標というべきです。私たちは祈りというものを、どのような目的で用いていますでしょうか? 自分が祝福されるためでしょうか? 自分や家族が栄え、いやされるために祈るのでしょうか? それももちろん必要なことでしょう。しかし、私たちクリスチャンにとっての究極の祈りの目標は、私たちを救い、贖ってくださった、主にすべてのご栄光がお帰しされるように、これです。 私たちクリスチャンはよく、証し、などといいます。体験談をもって神さまのすばらしさを伝えることが、証しの目的です。ところがときに、この証しというものが、一見すると神さまを誇っているようでも、手柄話だったり、自慢話だったりということが往々にしてあるものです。きつい言い方をすれば、単なる自慢話を、たまたまクリスチャンを名乗る人が語っているだけ、ということがあるものだ、ということです。 私たちの目指す証しの生き方は、そういうものではないはずです。私たちクリスチャンは、この世的なちっぽけな自己実現を目標として生きているのではありません。 だれよりも偉大なお方、神さまが、私たちクリスチャンの生き方によって、人々をとおしてたたえられる、それが私たちクリスチャンの生きる目的であるはずです。それは、私たちの属する教会が、御霊の力をいただき、愛において成長することによってこそ実現します。私たちは、その働きに用いていただけるのです。だから、その働きに加えていただくように、そして、すべての聖徒がその働きを担えるように、究極的には、自分も含むすべての聖徒を通して主の栄光が素晴らしく輝くように、私たちは祈るのです。 メッセージを締めくくりたいと思います。私たちは多くの制限を抱えています。それはまるで囚人の姿です。しかし私たちは、そのような弱さを抱えながらも、主のみことばを伝える働きに用いていただくものです。その働きはしかし、私たちのすばらしさを現すためのものではありません。私たちの働きをとおして、教会が愛において大いに成長し、キリストの満ち満ちた身たけにまで成長すること、そのことによって主の栄光がこの地に素晴らしく輝くこと、それが私たちの目的です。そのために私たちは祈ります。それこそが私たちの祈りの究極の目的です。 忘れてはなりません。私たちは決して弱くありません。私たちは主によってどこまでも強い存在です。主により頼み、この世に主を現す働きに大いに用いられる私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。

私たちも同じ家族

聖書箇所;エペソ人への手紙2:11~22 メッセージ題目;私たちも同じ家族  何度かこのメッセージの時間にお話ししていますが、私は高校生の頃、アーサー・ホーランドという宣教師から多大な影響を受けました。 アーサーは、その時代の日本のキリスト教会に、大きな流れをつくる役割を確実に担っていました。90年代前半、日本のキリスト教会は、全国規模で「リバイバル」ということばを合言葉に、燃えに燃えつつありました。私は、その流れの中で、新宿駅前で信号機によじ登るようなスタイルで路傍伝道をしたり、高さ3メートルの十字架を担いで8人の男たちとともに日本列島を縦断したりと、とにかく過激、そして体育会系のノリで宣教を展開するアーサーを心底カッコいいと思い、そんな自分になれればと、アーサーの所属団体であるキャンパス・クルセードに入って、伝道活動をしたり、クリスチャンとしての訓練を受けたりしていました。 そうしているうちに、私はアーサーをアイドルとするよりも、むしろ自分が燃えてイエスさまを伝えることに、はるかに確信を持つようになりました。キャンパス・クルセードの公式伝道ブックレットの「四つの法則」を使って伝道できる人はだれか、鵜の目鷹の目になっていました。また私は、「ジェリコジャパン」ですとか、「リバイバル甲子園ミッション」ですとか、「ビリー・グラハム東京大会」ですとか、そういう何千人、何万人の規模の大会にも、せっせと足を運びました。友達を連れていくこともしました。  今思えば、そのように「燃える」ムーブメントに身を投じていたのは、100年以上宣教活動が続いていても一向に成長しない日本の教会に対して、一種の危機意識をいだいていたからではないかと思います。そして私は、感情的に高揚させようとしたり、一定の伝道プログラムを身に着けようとしたりすることで、日本の教会成長の公式といいますか、定理のようなものを見いだし、それに乗っかっていこうとしていたのだと思います。しかし、リバイバルと呼べるようなものは、なかなか訪れることはありませんでした。もちろん、私の経験したことは無意味ではなかったばかりか、その後の信仰の姿勢を形づくるうえで大きな要素となってはくれましたが、そうして熱心になることは、リバイバルに対する私の飢え渇きをほんとうの意味で満たしてはくれませんでした。 本日学びますみことばは、そのような葛藤の中にあり、日本ではなく、韓国の神学校で学ぶことを決意し、その入学試験のために韓国に行ったとき、ひとり聖書を読んでいて、示されたみことばです。やはり飢え渇きというものは、みことばによってのみ満たすことができるものでした。そういうわけで私にとって、とても思い出深い箇所でありますが、まずはみことばの解き明かしから語らせていただきたいと思います。 この箇所は、過去、現在、未来の、三つの時制で語ることができます。まずは「過去」からです。過去、彼らエペソのクリスチャンたちは、とても悲惨な状態にありました。 11節、12節をお読みします。……福音が伝えられ、それを信じ受け入れる前のエペソの人たちの状態を、パウロは語ります。 それは、どのような状態だったのでしょうか? まず彼らは、割礼を施されていない者でした。割礼は、創造主なる神さまとの契約のうちにあるというしるしに、男子が性器の包皮を切り取る儀式で、そのように肉体に痕跡を残しているということは、まさしくイスラエル、ユダヤという、神の民であることの証しでした。尾籠なことを申しますが、男性は立って用を足すわけで、そのたびに包皮の切り取られた性器を見るわけで、否が応でも、そのユダヤ人の男性が、自分は神の民であるということを思い起こす仕掛けであると言えます。きわめてユニークな風習であります。 そういうイスラエル、ユダヤにしてみれば、割礼を受けていないということは、イコール、神の民でない、はなはだしくは神に敵対する、憎むべき存在、ということになります。少年ダビデが巨人ゴリアテと闘ったとき、ダビデはゴリアテのことを、無割礼のペリシテ人と呼んで闘いに赴いたわけですが、割礼か無割礼かということは、神の民にとってそれほど重要なことであるわけです。そしてもともとの神の民イスラエル、ユダヤからしてみれば、エペソの人たちは、無割礼の異邦人の群れです。 また、エペソの人たちは、「キリストから離れ」とあります。道であり、真理であり、いのちであるお方、御父に至る唯一の道なるお方、このお方に出会うことなしに、どのようにしてまことの神さまを信じることができる世でしょうか? 約束の契約については他国人、つまり、神の民として、神さまが契約を結んでくださった民族ではない、というわけです。家であれ車であれ、売主と買主の契約というものをとおしてはじめて買主の手に入るように、契約によって神さまは人に、神の民としての市民権を与えられます。イエスさまに出会っていないということは、アブラハムと交わされた契約のまことの成就である、イエスさまの十字架の血潮という契約などそもそも関係ないわけで、そういう者であるならば、いったいどうやって創造主なる神さまに出会うことができるでしょうか。まことの望みを与えてくださる神さまに出会うことができるでしょうか。 ただ、彼らは、偶像にすぎないアルテミスを崇拝することで、宗教心を満足させるのが精いっぱいで、それではとてもまことの神さまに出会うことなど叶いませんでした。 異邦人とは、そのようなかぎりなく悲惨な状況にある存在です。このような存在に、救いはあるのでしょうか? そこで「現在」を見てみましょう。彼らエペソの人たちは、キリスト・イエスによって神の民とされました。 ひとつ前のみことばの中で、「キリストから遠く離れ」ということばはかぎになります。キリストとは、道であり、真理であり、いのちであるお方です。このキリストを通してでなければ、父なる神さまに出会うことはありません。 しかし、ほんとうのことを言うと、キリストから遠く離れていたのは、ユダヤ人も同じでした。我らこそはメシア待望の民、という自負心をいだいていた彼らでしたが、そんな彼らはイエスさまをキリストと認めず、十字架につけました。彼らもほんとうの意味でキリストに出会っていなかったのでした。 しかし、キリスト・イエスの十字架を信じることにより神さまとの和解に導かれる、その信仰は、ユダヤ人から始まりました。ペテロの説教で悔い改め、ほんとうの意味で神の民になった人たちは大いに増やされ、エルサレムに教会が形成されました。この、キリストにつくユダヤ人と同じように、異邦人ゆえにまことの神に対する望みのなかったエペソの人たちも、キリスト・イエスの十字架を信じる信仰へと導かれました。 13節をご覧ください。「近い者となりました」とあります。だれと近い者となったのでしょうか? それは、外見上の割礼によらず、イエスさまへの信仰によってまことの神の民とされたユダヤ人であり、そしてそれ以上に、そのように救いに導いてくださった、神さまに近い者とされた、ということです。もはや以前のような、神さまからも神の民からも無関係な、悲惨な存在ではなくなったのでした。 14節から16節をお読みします。この箇所の主語はどなたでしょうか? そうです、キリストです。言うまでもなく、ユダヤ人たちが思い描いていたようなキリストではなく、イエス・キリストです。イエスさまは十字架にお掛かりになることで、イエスさまを信じる者を神さまと和解させてくださり、そのようにして、ご自身をとおして神さまに近づく者どうしを、和解に導いてくださいました。お互いの間に存在していた敵意も、滅ぼしてくださったのでした。 平和をつくる者は幸いです、とイエスさまはおっしゃいました。それはやはり、平和のきみなるイエスさまをともに信じる信仰によってこそ、初めて可能となることです。私たち人間は平和を求めながらも、多くの場合、国家や民族、部族の間に不和や対立が存在するものだということは、残念ながら認めざるを得ません。 世界のさまざまな人たちは、そのような世界において、平和をつくる働きに献身しています。それはとても素晴らしいことです。では、平和をつくる者は幸いです、とイエスさまに言われている私たちは、どのようにして平和をつくる働きに参与するのでしょうか? それは、イエスさまを信じる者どうしで、手に手を携えるところから始まるのではないでしょうか? そのようにして和解に導かれ、敵意が滅ぼされるだけではありません。17節をご覧ください。 ……ユダヤはたしかにまことの神さまに近い存在ですが、ほんとうの意味でイエスさまの福音を伝えられていたわけではありません。まことの神さまから遠い存在の異邦人の場合はなおさらです。どの国も、クリスチャンの多い少ないにかかわらず、宣教は必要です。その宣教のわざを通して、神さまから近い民族にも、神さまから遠い民族にも、ほんとうの意味での平和の福音は伝えられ、一つとなって御父に近づくのです。それがいずれ、民族どうしの和解へと導かれると、私たちは信じてまいりたいものです。 私たち日本のクリスチャンは、たしかにこの国に暮らしていると、マイノリティとしての弱さを痛感させられることしきりかもしれません。しかし、どうか元気を出していただきたいのです。私たちはけっして、彼らに見劣りする存在ではありません。 私は神学生のとき、神学校のある授業で、教授に突然指されて質問されたことがありました。「日本にはどれくらいクリスチャンがいますか?」私は正確な数字を知っていたわけではありませんでしたが、よく言われる日本のクリスチャンの割合からざっと計算してみて、そうですね、27万人くらいでしょうか、とお答えしました。クリスチャンばかりの国に生まれ育った韓国人の神学生たちを前にして、恥ずかしいな、という思いもあったのですが、教授はすぐにこうおっしゃいました。「それなら、決して少なくありませんね!」私はこのおことばに、どれほど励まされたかわかりませんでした。 私たちが日本のクリスチャンであることは、誇りとすべきことです。この国の中から、この民族の中から、イエスさまを信じる信仰へと導かれた、それによって世界の兄弟姉妹とともに神さまに近づく存在とされた、なんとすばらしいことでしょうか。 19節をお読みします。……創造主なるイエス・キリストを中心に、すべての民族はひとつの家族とされます。ことばや肌の色がちがおうとも、同じ家族です。このことをどうか、信仰によって受け取っていただきたいのです。 最後に、未来の姿です。クリスチャンたちは、教会を形づくります。 20節から22節をお読みします。……民族は、単に和解させられるだけではありません。創造主なるキリスト、王の王なるキリストのからだである教会を、ともに形づくるのです。 20節を見てみますと、使徒たちや預言者たちという土台、とあります。使徒の著した者は新約聖書であり、預言者たちの著したものは旧約聖書です。旧約と新約、この聖書全体を土台として、教会は建てられます。 そして、その聖書の啓示するお方、キリスト・イエスを基として、教会が建てられます。いかに聖書を学び、また伝えていても、キリスト・イエスが伝わっていないならば、それは「異端」というものです。それをキリスト信仰と呼んではなりません。しかし私たちは、聖書において啓示されたお方、イエスさまを中心に、この教会、共同体を建てるべく召されています。 教会という場所は、神さまに礼拝をささげ、祈り、交わりを行い、みことばに学び、奉仕し、みことばを宣べ伝えるべく、この地上に存在する共同体です。しかしそれは、特定の民族や言語にかぎって形成する共同体ではありません。 民族や言語の枠を超えて、神さまに創造され、イエスさまの十字架を信じる信仰によって贖われたどうしが、ともに形づくるもの、それがまことの教会です。 このたび私は、保守バプテスト同盟の総会に出席してまいりました。この保守バプテストは、もともとが、アメリカの宣教師による東北地方の宣教から始まった団体であり、現在に至るまでも多くの宣教師が、日本人の先生方とともに働いています。また、宣教師ではなく、牧師として教会に奉仕していらっしゃる先生方にも、外国人の先生が複数いらっしゃいます。 私はこの姿をあらためて見てまいりまして、ことばや民族を超えた教会形成というものを、保守バプテスト同盟はとても理想的な形で実践していることを思わされました。そして、自分もその一員に加えていただいていることに、心から感謝したものでした。 うちの妻も宣教師なので、手前味噌のように聞こえるならばご容赦いただきたいのですが、日本は宣教がほかの国のように進まない分、他国からの宣教師をまだまだ必要としています。しかしその分、教会には外国人の信徒が集まりやすい傾向があると言えるかもしれません。そういう点では日本の教会は一見すると弱いようでも、民族を超えた教会形成をしているという分、聖書的にかなった教会形成に励みつつあるという評価をしてもいいのだと言えます。それならばこれは誇るべきことで、ますますその方向で教会形成をする必要があるのではないでしょうか。 とはいいましても、この茨城町のような場所では、外国人の信徒が集まるには限界があることを認めなければならないでしょう。それならば私たちは、この教会に対して視線を注ぐのと同時に、もうひとつのビジョン、究極のビジョンに目を留める必要があります。それは、世の終わりのビジョンです。 聖書をお読みします。ヨハネの黙示録、5章6節から14節です。……みなさん、この大礼拝が、想像できますでしょうか? あらゆる民族から、あらゆる部族から、あらゆることばを話す民から、救われて主を礼拝するのです。 最後に、この天国の前味とも言える体験から学んだことを分かち合って、メッセージを締めくくりたいと思います。 今から24年前、1995年のことです。私は韓国に、1度目の留学で渡っていました。当時、会話はあまり上手ではなく、周りを韓国人にばかり囲まれていた生活が続き、だんだん五月病のようになってしまっていました。 そんなとき、ソウルにある大きな教会を会場に、国際的な宣教大会が開催されました。私は、その大会でスタッフとして奉仕していた日本人の先生に会う目的で赴いたのですが、私の目の前に広がっていたのは、想像を絶する世界でした。 それはちょうど、お昼ご飯をビュッフェ式で食べる時間だったのですが、たくさんの人が立って食事をしていました。圧倒されたのは、そこには様々な肌の色をした人がいて、いったい何語なのだろうか、いろいろなことばで話していました。スーツを着た人は案外少なく、実にさまざまな民族衣装に身をまとった人々であふれかえっていたことでした。そういうどうしがとても楽しそうに話し合っていました。私はこれを見て、天国とはきっとこのようなところにちがいない、と思ったものでした。 このような宣教大会を堂々と開催できる韓国教会の底力を、私はまざまざと見せつけられ、いつか日本もこうなれるだろうか、と、私はその日以来、さらにいろいろと考えるようになりました。しかし、そんな私に、今日学びましたみことばが与えられたのでした。私たち日本のクリスチャンも祝福を受けた国々とその民に近い者とされている、ともに神さまのもとに行くように召されている、そのことを改めて教えていただき、私はどんなに慰められたかわかりません。そして、その日本の人たちにみことばを宣べ伝えることを、私はあらためて召命として受け取らせていただいたのでした。 この世の終わりに、私たち日本のクリスチャンも、多くの民族、部族、ことばを話す民に交じって、主の御前に召し出されます。私たちはその日まで、和解の福音を語りつづけ、人々を神さまと和解させ、敵対するどうし、反目するどうしを、福音によって和解に導く働きに用いていただくのみです。この民に、私たちは福音を語ってまいりましょう。そして、ともに教会形成に励み、キリストのからだなる共同体をこの地にうち立てる働きに用いられてまいりましょう。 私たちの過去を思うと、どれほど悲惨だったことでしょうか。神さまから離れていた、それが私たちの現実でした。しかし、イエスさまを信じ受け入れる信仰に導いていただき、神さまに近づき、神の民に加えていただきました。そのような私たちは今後、神さまによって召された者どうし、キリストのからだなる教会という共同体をこの地にうち立てていくように求められています。この、喜びあふれるわざに用いられる私たちとなることができますように、主の御名によってお祈りいたします。

救い、この大きなプレゼント

聖書箇所;エペソ2:1~10 メッセージ題目;「救い、この大きなプレゼント」  私たちはこのキリスト教会の中にかぎらず、世の中のあちこちで、「信じる者は救われる」と語られているのを耳にしていると思います。日本人にはなじみの深いフレーズです。しかし、いったい何を信じているというのでしょうか。ほとんどの場合、それは「キリストの十字架」ではありません。  しかし、少なくとも聖書は、そのようなことを語ってはいません。父なる神さまのひとり子イエスさまの、その十字架を信じる者は、救われる、そのように語っているのであって、何でもいいから信じればいいと言っているのではありません。何でもいいから信じればいいというのは、一見それは神がかっているようで、実際はまことの神さまの示された救いの道を歩もうとしないことです。私たちはそういうわけで、まことの神さまが示された唯一の救いの道を、人々に語っていく必要があります。  とは申しましても、私たちは何か自分が素晴らしかったから、そのまことの救いに至ることができたわけではありません。そのことを今日は、ともに学び、救われるということ、あるいは救われ「た」ということが、どのような意味を持っているかということを、さきほどお読みした本文から、ともに学びたいと思います。  第一のポイントです。私たちは救われる前、罪と世と、そしてサタンに支配されていました。  1節のみことばをお読みします。……救われてキリストのからだなる教会のひと枝とされたあなたがたは、以前は背きと罪の中に死んでいた、と語っています。  罪から来る報酬は死、とみことばは語ります。まことのいのちである神さまとの交わりが断たれてしまう、ということを意味しています。「背き」とありますが、これは以前の訳の聖書では「罪過」となっています。罪の行い、という意味です。背きとなりますと、それは神さまとそのみこころに背いていることであり、背くための罪深い行いに手を染めている状態です。行動で犯す罪です。  しかし、このみことばは、さらに畳みかけるように、「背きと『罪』」の中に死んでいた、と語ります。ただ行動するだけではありません。その人の存在そのものが「罪」となっていた、ということです。そう、「罪人」です。よい行いを積み重ねれば、人は罪人であることをやめられるのではありません。どんなによい行いをしたとしても、人は依然として罪人です。また、こうも言うことができます。罪を犯すから人は罪人なのではない、罪人だから人は罪を犯すのである――。  そのような状態にある人間を、みことばは「死んでいる」と語ります。表面的には生きているように見えるでしょう。ご飯も食べますし、仕事もします。それなりによい行いだってするでしょう。しかし聖書の宣言によれば、そういう人も「死んでいる」ことに変わりはありません。いのちなる神さまとの交わりが断たれているからです。  では、いのちの源(みなもと)なる神さまとの交わりを失った人は何をするでしょうか? 2節のみことばです。……神さまと関係なく生きる世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者なる霊、すなわちサタンにしたがって歩むようになります。  ちょうどそれは、私たち人間が、生きるためにものを食べる際、栄養の行き届いた良質なものを食べられない場合、とにかく生き延びるために、栄養もなく、かえって体に悪いものででも食欲を満たそうとし、それでからだを壊すのに似ています。神さまで満足できないならば、神さまに敵対する存在、世であったりサタンであったり、そういうものに満足を見いだそうとするのです。  そして、いったんそのような存在に満足を見いだすようになったなら、ほんとうに神さまが必要なくなり、いよいよ、神さまと関係のない生き方をするようになってしまいます。しかし、それは、神さまの怒りを受けるべきことであると、みことばは語ります。人はどこかで、この神さまの御怒りというものを意識し、どんなに罪におぼれても罪意識、後ろめたさというものを持つものでしょう。しかし、世とサタンに絡めとられてしまっているならば、それは自分の力ではどうにもならないことです。  こうなってしまった人間に、生きるべき道はあるのでしょうか?  そこで第二のポイントです。私たちは、神さまの愛と恵みによって救っていただきました。  4節と5節をお読みします。……神さまは私たちを愛していらっしゃいます。だからこそ、というべきです。これほどまでも愛しているのに、その愛に背を向け、ひたすらに神さまに反抗したり、神さまを無視したりして生きていく人間に、神さまは怒りを注がれるのです。しかし、それでも神さまは、ご自身が愛をもってお造りになった人を諦めることはなさいませんでした。なおも愛してくださいます。  その、神さまが私たちを死から救い出し、いのちに生かしてくださるために、取ってくださった方法とは、キリストとともに生かしてくださることでした。  キリストは十字架に死なれ、そして三日目に復活されました。この復活は、私たちが罪によって死んでいたことからよみがえらされることと、大いに関係があります。私たちもイエスさまの十字架と復活を受け入れるならば、死、すなわち神さまとの交わりの断絶からよみがえらされ、神さまといのちの交わりを持つ者としていただくことができるのです。  しかしこれは、私たちが何かいい人だったからとか、あるいは、何か努力をしたから、そのように認めていただいたということではありません。  5節をご覧ください。あなたがたが救われたのは恵みによるのです、とはっきり書いてあります。恵みとは何でしょうか? プレゼントです。  小学生から中学生の頃にかけて、私は、週刊朝日という週刊誌の、「似顔絵塾」というコーナーにせっせと投稿していました。そのコーナーを担当している山藤章二というイラストレーターの大ファンだったからです。山藤さんのファン熱が昂じて、そのコーナーに投稿するいろいろな読者の絵も好きになり、私も描いてみよう、と思うようになりました。私の描き方は、水性ボールペンで枠線を取り、クレヨンで色を塗り、マイナスのドライバーでクレヨンをはがす、そういう描き方でした。  その結果、私は2回の入選を果たすことができました。私の描いた絵が、カラーで印刷されて、全国の読者の目に触れることになったわけです。そのときはもう、うれしくてたまりませんでした。でも、今の私はその絵を見るのが、とてもつらいです。なぜかというと……あまりにも下手だからです。  そもそも、私はとても絵が下手な人間です。それは、うちの娘たちに聞いていただければお分かりになると思います。「うん、お父さんは絵がとても下手だよ」と、躊躇せず答えてくれますので。娘たちの方がよほど上手です。そんなわけで、今も昔も絵が下手だった私が、たくさんのプロの絵描きさんを輩出した「似顔絵塾」に、絵を載せていただいたのでした。  今なら、私にはわかります。週刊誌というものは、小中学生で熱心な読者になるということは基本的にはありません。似顔絵の投稿をするような子どもなど、とても少ないわけです。そんな中で、わずか12歳ほどの子どもが向こう見ずにも投稿してくるならば、山藤さんも、しょうがないやつだな、と、うれしくなってつい、掲載してしまったと考えた方が自然です。あのように掲載していただいたことは、山藤さんから幼い私への、プレゼントというべきでした。絵が上手だから載ったわけではありません。  私たちにしても、救いというものは資格がないのに与えられるプレゼントです。罪人は、何をしてもきよい神さまに認められるだけの行いをすることなどできません。救われるための方法はただひとつ、神さまの側から私たちを救ってくださること、これしかありません。私たちには救われるだけのよいものなど何ひとつないのに、神さまの側から手を差し伸べてくださるのです。私たちのすることは、このプレゼントが自分に与えられていることを信じて、受け取ることだけです。  6節のみことばをお読みします。……私たちは単に、この地上において救われただけではありません。私たちは復活します。天国に入れていただけます。天国においてキリストとともに、永遠のいのちを受け継がせていただけます。この、天国に入れていただくという希望を持って生きるということは、この世にだけ目を留めて生きるということと比べて、どれほど人生を明るく、肯定的に、また積極的にすることでしょうか。もし、私たちの生きる世がすべてだとするならば、私たちは死ぬことを恐れて生きるほかなくなります。 しかし、天国に入れていただけるという確信を持つならば、すべては希望へと変わり、私たちはいわば、末広がりの生き方をするように変えられます。それはどれほど素晴らしい生き方でしょうか! 7節のみことばをお読みします。……エペソのクリスチャンをはじめ、初代教会のクリスチャンたちが救いの恵みをいただいたのは、かぎりなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すため、とあります。救いは自分たちだけで完結していないのです。この救いを、まだ見ぬ世代、まだ見ぬ人々に伝えるため、そのためにあなたがたは救われたのである、というわけです。 私たちにしても同じことです。私たちは救われたという、人生で最高のこのグッド・ニュースを、自分だけのものにしておいていいのでしょうか? ほんとうにこの救いを喜んでいるならば、だれかに伝えたくはならないでしょうか? ぜひとも、このメッセージを聴いていらっしゃるみなさんに、神さまが、みなさまを通して救いのメッセージを聴くべき人たちを送ってくださいますようにお祈りします。 8節、9節は、私たちがぜひとも暗唱しておくべきみことばです。みことばの暗唱は大事です。なぜならば、私たちの信仰の基準は人の言い伝えや教えではなく、聖書のみことばだからです。聖書のみことばをそのまま暗唱するならば、その人の信仰はぶれることはありません。一字一句、間違わないようにして暗唱してみたいと思います。それではご一緒に! ……はい、何によって救われたとありますか? 恵みのゆえに、信仰によって。何によらないとありますか? 行いによらない、とあります。 信じるということは、行いではありません。私たちは新聞やテレビのニュースなどで、地球の裏側のことを知ることができ、それが実際に起こっていることだと「信じている」わけですが、それを「信じる」ために地球の裏側にわざわざ行って確かめる必要はありません。見て、そのとおりだ、と受け入れさえすればいいわけです。信仰もそれと同じことで、聖書のことばをそのまま「信じれば」いいわけです。 前にもやったことですが、念のためまたやってみます。(「信仰」と書かれたサインボードをかざす。「令和」の額をかざした菅官房長官のように)官房長官のまねではありませんが、「信仰」とは、漢字でこう書きます。信じて仰ぐ、という意味です。しかし私たちキリスト者なら、こういう解釈を施すべきでしょう。(「信」と「仰」の間にマーカーで返り点を打ち)仰せを信じる、つまり、神さまのおっしゃることばである聖書のことばを信じる、これが、私たちにとっての「信仰」というものです。何でもいいから信じれば救われる、という考えとはまったく異なることを、これでご理解いただけると思います。聖書のことばを疑わず、そのまま受け入れる。それで、救われるのです。 そのように「信じる」こと、それは、私たちに与えてくださった、神さまからの恵み、プレゼントです。たくさん勉強しからとか、たくさん人生経験を積んだからと、信じられるのではありません。 ただ、神さまが救いに選んでくださった人だけが、信じ受け入れるように導かれるのです。決めるのは神さまであって、人ではありません。 だから私たちは、あの人はきっと救われない、とか、勝手に早急な判断を下してはならないのです。私たちのすることは、神さまが救いに召しておられる人がだれなのかを明らかにするために、この福音を人々に伝えることです。 もうひとつ、救いが行いによらないのは、だれも誇ることのないためである、と語られているのにも注目しましょう。私たちはクリスチャンになっている、救われていることを、未信者の人と比較してすごい存在になっている、などとは、間違っても考えてはなりません。それでは、宗教的な特権階級を享受して、庶民を苦しめるだけ苦しめた、イエスさまの時代の宗教指導者たちと何の変わりもないことになってしまいます。 いったい、イエスさまが宗教指導者たちと戦われたことがあれほど聖書に記録されているのは、何のためでしょうか? 自分たち救われている者たちはあのような存在ではない、と、ほっとするためでしょうか? そのような律法主義者たちをさばき、自分を正しい側に置くためでしょうか? そうではありません。聖書があれほど律法主義者に対する批判に紙面を割いているのは、私たちへの戒めのためではないでしょうか? 私たちが救われていることを確信することは素晴らしいことなのですが、それが人をさばき、罪に定める根拠となってしまうならば、私たちもイエスさまに口を極めてののしられる存在となっているということです。私たちが救われたのが恵みであると知るならば、私たちは決して、自分自身を誇ってはなりません。誇るべきは、私を救い出してくださった神さまの恵み、イエスさまの十字架のみです。 もし、私たちが何か良いものであるかのように思っていたならば、悔い改めましょう。このような罪人を一方的な恵みとあわれみにより救ってくださった神さまを誇り、感謝をおささげしましょう。私たちの信仰の生活は、そこにはじまり、そこに終わります。 第三のポイントです。私たちは、よい行いをするために召されました。 10節のみことばです。……私たちが神の子どもであるならば、よい行いへと実を結んでしかるべきです。その行いを、神さまは私たちひとりひとりに備えていてくださっています。私たちはそれぞれ、神さまから与えられた個性にしたがって、その各自のよい行いをしていくことによって、神さまのご栄光を現します。うちの教会で何度かお招きしているミッシェル姉妹は、フルートの演奏を通じて神さまのご栄光を現しています。それが、彼女にとってのよい行いというわけです。私たちもそれぞれの持ち場で主に従った働きをするとき、それは神の作品としてふさわしい生き方をしていることになります。 私たちが神の作品であるという聖書の宣言は、なんと私たちに生きる力を与え、本来の生き方に私たちを立たせてくれることでしょうか。 私たちは時に、意識して罪を犯したくなる誘惑にかられはしないでしょうか? そんな時、私たちが神の作品であると思い起こすならば、罪から守られます。それこそ、罪から救い出された者としてふさわしい選択をすることができるようになります。実に、悪い行いから離れ、よい行いへと導き入れられることは、神の作品としてふさわしいことです。 間違ってはなりません。よい行いを積むことは、天国に行くための道ではありません。大学生の頃、私の所属していた教会に、私のことを「先輩」と呼んで慕っていた若者がいました。彼はなかなかバプテスマを受けようとしませんでしたが、それでも教会には喜んで通っていました。 ある日のことです。教会の若者たちで大掃除をしていたとき、彼も一生懸命に奉仕してくれました。まだバプテスマを受けていない彼の身を案じて、ねぎらうつもりで、私は彼に、頑張っているね、と声をかけました。すると彼はこう答えたのでした。「いやー、こうして奉仕することで、俺も天国に近づきますよ。」……それは違うでしょ! しかし、もしかすると多くの日本の人が、同じような感覚で「奉仕」というものを捉えているのではないかと危惧したものでした。 奉仕のわざは、救われている喜びの中から湧き出るべきもので、善行により認められるためなのだとするならば、その相手が神さまであろうと人であろうと、ぜったいにちがいます。 とは申しましても私は、バプテスマを受けていない人、信仰を持っていない人は教会奉仕に加わるべきではない、と言っているのではありません。無償のボランティアで働くということは、普通に生活していてもなかなかできることではないので、そういう場に加わることで喜んでいただけるなら歓迎しますし、教会としてももちろん助かります。でも、間違えないでいただきたいことは、奉仕は天国に入るための手段では、ありません。信仰のみです。 メッセージを締めくくるにあたり、もう一度、8節と9節をお読みしましょう。暗唱できる方は暗唱してみてください。 ……私たちの罪深さを思えば思うほど、神さまの恵みが身に染みます。この恵みのゆえに、どこまでも神さまに感謝してまいりましょう。

キリストと教会

聖書箇所;エペソ人への手紙2:15~23 メッセージ題目;「キリストと教会」  私がメッセージを語るたびに、繰り返し用いていることばのひとつに、「共同体」ということばがあります。この概念は、私が神学校の最終学年の時に奉仕した、サラン教会という教会が特に強調していたことです。  サラン教会では、日曜日ごとの礼拝が終わるたびに、会衆全体がスクリーンに映される「共同体宣言」というものを斉唱するのが習わしとなっていました。これは全部読み上げると1分近くかかるものでしたが、これを会衆全体でお読みすることで、私もまた、このサラン教会の会衆の一人にしていただいていることを実感したものでした。以来私は、教会とは集う人がばらばらでいいのではなく、ひとつからだの共同体であるという考えを保ちながら、ここまでまいりました。メッセージのたびに、教会は共同体である、ということを強調するゆえんです。  今日はメッセージを始めるにあたり、だいじな質問をしたいと思います。私たちにとって、教会とはどのようなところでしょうか? 今日そのことを、みことばから学び、私たちなりの結論を出して、礼拝後にともに分かち合っていただければと思います。  今日の箇所をいつものように、3つのポイントからお話ししたいと思います。  第一に、教会は主への信仰と隣人への愛の共同体です。  15節と16節をご覧ください。パウロは獄中にあって、神さまに感謝しています。獄中というのは、直接的な宣教、牧会といった教会形成に携われない場所です。しかしパウロはそのような環境にありながら、人ではなく、神さまに近づいていきました。その、神さまに近づく手段、それが祈りであったわけです。  みなさん、「祈りは労働である」ということばをお聞きになったことがありますでしょうか? 私も、かつて通っていた教会の聖書日課のプリントに、毎月そのように必ず書かれていたことを思い出します。  パウロにとっては、直接宣教することだけが働きではありませんでした。こうして捕らえられようとも、パウロにとってはなお働きが残されていました。それがこうして、聖徒たちのために祈ることであったわけです。  パウロが具体的に何を祈っていたか、それは第二のポイントで詳しく扱うとして、まずは、パウロがこのようにエペソの聖徒たちを覚えて祈っていたその動機を見ておきたいと思います。それは、エペソ教会のクリスチャンたちが、主イエスに対してふさわしい信仰を持っていることと、すべての聖徒に対して愛をいだいていることを知ったからです。  キリスト教会は、主イエスさまに対する信仰からすべては始まります。私たちはこの、目で見たことのないお方に、どのようにして近づくのでしょうか? 聖書をお読みして、聖書がまことであると信じ受け入れる、信仰によって近づくのです。  この地上を生きておられたイエスさまにお会いしたことがないのは、エペソの信徒たちも私たちも同じです。しかし彼らも私たちも同じ聖霊なる神さまによって、同じ信仰を持たせていただきました。同じイエスさまの十字架によって罪赦され、神さまの子どもとされ、永遠のいのちをいただいたと、いう信仰を持たせていただいたという点において同じです。  このことを外すならば、私たちは世代や地域を超えてひとつとならせていただいている教会に属すことはありません。主イエスさま以外のものを主とするならば、そのようなものは異端であり、キリスト教会と呼ぶことはできません。  大変なことですが、いま私たちの住むこの世界には、あらゆる形で異端が入りこんでいます。イエスさま以外のものを、またはイエスさま以外のもの「も」、主と告白するように誘導するのです。私たちはそういう者に決して惑わされてはなりません。いつも、どんなときでも、イエスさまから離れてはならないのです。わたしが道であり、真理であり、いのちである、わたしを通してでなければ決して御父のもとにいけない、このようにおっしゃったのはただひとり、イエスさまだけです。イエスさまだけに、ひたすらに、私たちの信仰の歩みは、これでまいりたいものです。  次に、そのようにしてイエスさまへの信仰を持たせていただいた者は、すべての聖徒に対する愛を持つように導かれます。どのような国や民族であろうとも、どのような立場にあろうとも、同じキリストを信じる信仰に導かれているかぎり、愛し受け入れるのです。  みなさん、キリスト教は愛の宗教、とお聞きになったことがあるでしょう。私たちは、人を愛することによって信仰の実を結ぶべき存在です。逆に言えば、信仰の実は人を愛することによって結ばれます。  イエスさまの十字架をご覧ください。天に向けて縦杭が建てられ、地と水平に横杭が打ちつけられています。縦杭は、神さまに向けての信仰を象徴するといえます。これに対して横杭は、人と人の間を結ぶ愛を象徴していると言えるでしょう。私たちの信仰と愛は、まさしく、イエスさまの十字架よりすべては始まります。  しかしこのようなことを申しますと、私たちの中には、このようなことを考える人が出てはこないでしょうか。「ああ、自分は人を愛することをしていない。このような自分の中に、イエスさまのへの信仰がほんとうにあるのだろうか。神さまの愛がほんとうにあるのだろうか。」  しかし、そのように問われる思いを持っているならば、その人は幸いです。なぜならばそのような人は、愛することに対する飢え渇きを持つようになるからです。 イエスさまが私を愛してくださったように、私も人を愛することができるように、その愛を与えてくださいと、願い求める思いを与えていただき、祈るように導かれます。私たちが人を愛する者となれるようにと祈り求めるならば、それは神さまのみこころにかなう祈りですから、必ずかなえていただけます。ここにも私たちは、信仰を働かせる必要が出てまいります。  教会とは、御父がイエスさまを愛してくださるように、互いに愛し合うべく主に召された者たちの集まりです。ますます信仰を増し加えていただき、愛する行いの実を互いのうちに結んでいきますように、お祈りいたします。  では、第二のポイントにまいります。教会は読んで字のごとく、教えられることで成長する共同体です。 パウロは、このエペソの兄弟姉妹のために祈っていると告白していますが、具体的にどのようなことを祈っているかについてもまた語っています。17節から19節です。 この箇所はひと言で言って、「あなたがたが『知る』ことができますように」と言っているわけです。 しかし、なにをどうやって知るのでしょうか? まず17節から見てみますと、イエス・キリストの父でいらっしゃる栄光の御父、このお方が与えてくださる御霊なる神さまによって、神さまを知ることができるように、ということが語られています。 神さまを知ることがなぜそれほど大事なのでしょうか? それは、イエスさまが私たちのために祈られたことであるからです。ヨハネの福音書、17章3節をご覧ください。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」 イエスさまはやや難解な表現を用いていらっしゃいますが、私たちはみことばをお読みすることで、また、みことばを解き明かしたメッセージに触れたり、本を読んだりすることで、自分に与えられている永遠のいのちがどれほど豊かなものか、また、その永遠のいのちを与えてくださった神さまはどれほど素晴らしいお方か、ますます知るようになります。 そして、その永遠のいのちの恵みを味わおうと、私たちはさらにみことばから学ぼうとするわけです。この、学びたいという飢え渇きを与えてくださり、その飢え渇きに応えて、天の知恵をもって教えてくださるお方、それが御霊なる神さまです。教えてくださるのは御霊さまなのです。私も今こうして高いところから語らせていただいていますが、私が教える、と思ってはならないわけです。教えてくださるのはどこまでも、御霊なる神さまです。私も、謙遜にならせていただくのみです。 では、御霊なる神さまは、なにを知らせてくださる。すなわち、教えてくださるのでしょうか? 18節から19節は、3つのことを語っています。 まず、神さまの召しによって与えられる望みです。私たちは望みを、神さまとそのみことばに置くようになります。それは、私たちがこの世から召し出された者となったからです。 人はこの世にあるものがすべてだと思うかぎり、この世のあらゆるものの中から何かを選び、それに望みを置くものです。しかし、それがどんなものであれ、かぎりあるこの世に存在している以上、所詮はかぎりあるものにしかなりません。それに全幅の信頼を置いていたならば、どこかで裏切られることを覚悟しなければなりません。 しかし私たちは、そのようなかぎりある世界から、唯一変わることのない神さまとそのみことばに望みを置く者へと召し出されました。私たちの希望はもはや、失望に終わることがありません。 しかし私たちは、依然としてかぎりあるこの世を生きているという現実の中にいます。そのような私たちは、この世の価値観や基準と調子を合わせて生きざるを得ないように思わされることが多くあります。そのような私たちだからこそ、望みを神さまとそのみことばにおいて、その豊かさ、恵み深さを具体的に学び、自分の生活にひとつひとつ適用させていくことが必要になってくるわけです。聖霊なる神さまは、そのことを私たちにひとつひとつ教えてくださり、まことの望みを持てるように導いてくださいます。 次に、聖霊なる神さまは、聖徒たちが受け継ぐものの豊かな栄光を教えてくださいます。 このことをイエスさまご自身がどう語っていらっしゃるかを見てみましょう。マルコの福音書、10章29節と30節です。 このみことばが語られたのは、使徒たちはもちろんのこと、初代教会の信徒たちに対しても同じことが語られていました。彼らもイエスさまを信じる信仰を選んだゆえに、多くのものを失いました。 エペソ教会にしても、アルテミスという「女神」を巡っての迫害の中、パウロが去り、たいへんな苦しみを体験していました。まさしく、アルテミスにつく者たちとの離別すら選択しなければならなかった苦しみ、また彼らからの迫害も甘んじて受けなければなりませんでした。 イエスさまが語られた、この世で百倍のものを受けるというみことばは、ほんとうだったのでしょうか? ほんとうです。なぜならば、それから2000年にわたって、この世の多くの人が同じ主を信じ従う兄弟姉妹となり、それだけ、彼らの所有する多くの財産が聖徒たちのものとなり、教会は豊かになったからです。そしてみな、イエスさまを信じる信仰により、永遠のいのちをいただきました。 この世において富を享受している兄弟姉妹もいるでしょう。知恵が増し加わり、地位や名声を享受している兄弟姉妹もいるでしょう。しかし彼らの今手にしているものが、神さまから見れば、私たちも今手にしている共有の財産であるということを、私たちはちゃんと認識していますでしょうか? もしそういう認識に立たなかったならば、私たちはそんな彼らのことをうらやんだり、ねたんだりしたり、あるいは神さまのことを不公平だと思ったりするようになります。しかしそれでは、兄弟姉妹とされていることをそもそも考えていないことになります。 しかし、世界の兄弟姉妹の財産が共有のものと考えるならば、私たちは、迫害や貧困の中で純粋に神さまのみを仰ぎ見る兄弟姉妹の信仰もまた、共有財産と考えられるようになるでしょう。日本や世界の神学校や大学の教授たち研究者の研究成果も、共有財産としてとらえられるようになるでしょう。このように、世界の兄弟姉妹の持つものを、自分もともに共有しているひとつの財産ととらえるならば、私たちは自然と、世界に目を向けることができるようになりますし、迫害のうちにある兄弟姉妹のため

三位一体の恵み

聖書箇所;エペソ人への手紙1:1~14 メッセージ題目;三位一体の恵み 本日から「エペソ人への手紙」の学びに入ります。このエペソ人への手紙、若い頃の私に大きなチャレンジを与えてくれた書簡です。2章のみことばをお読みして、私は日本と韓国の架け橋になりたいと願いました。5章のみことばをお読みして、結婚への召命を与えられました。その結果、今はどちらもかないました。わが家はまさに、このどちらのみことばも実現しています。だから私は個人的に、エペソ人への手紙というタイトルを見るたびに、生活に即した近しさのようなものを覚えます。みなさんはどうでしょうか? すばらしいみことばですので、一緒に学んでまいりたいと思います。 今日の箇所は、エペソ書の始まりの部分です。さてこの箇所で著者のパウロが強調していること、それは、私たちを救ってくださった神さまの「恵み」です。 今日の箇所を、3つの時制に分けて、それぞれの時制において神さまが私たちに何をしてくださったのか、ともに見てまいりたいと思います。 第一に、永遠の昔に神さまがしてくださったことです。父なる神さまが、私たちを選んでくださいました。 まず、この手紙を受け取ったエペソ人のことを考えてみましょう。パウロはこの書簡の冒頭で、キリスト・イエスの使徒の名において、キリスト・イエスにある忠実な聖徒たちと、エペソのクリスチャンたちのことを評価しています。 しかし彼らエペソのクリスチャンたちがもともと、どんな人たちだったかというと、月の女神アルテミスの都市に生まれ育った人たちです。その市民はどういう神観をふつう持っていたかということは、使徒の働き19章が証言しています。パウロの何年にもわたる働きにより、エペソにキリスト教会が定着しつつあったとき、市民たちがクリスチャンたちを排斥しようと騒乱を起こし、たいへんな騒ぎとなりました。そのとき、町の書記官が、こんなことを言って、彼らエペソの人たちをなだめました。「エペソのみなさん。エペソの町が、偉大な女神アルテミスと、天から下ったご神体との守護者であることを知らない人が、だれかいるでしょうか。」書記官一流の知恵を用いて騒ぎを鎮めたといえますが、しかしこれは同時に、アルテミスを礼拝する者にあらずばエペソ市民にあらず、とさえ言っているようです。 このような異教社会の中で、それでもまことの創造主、救い主なるキリストを信じ受け入れ、キリストに忠実な者となったと、パウロはキリストの名において評価しているのです。これは、たいへんなことです。 私たち、日本に生まれ育った者たちにとってもそうではないでしょうか。私たちも本来は、当たり前のようにして先祖代々日本の人たちが受け継いできた宗教的な習俗を受け入れていたはずです。やおよろずの神、といいますが、これは外国から見ると、やおよろずは八百万と書くので、日本には八百万も神がいる、ととらえられます。 私たち日本人は別に、八百万(はっぴゃくまん)の神々と特に意識しているわけではないでしょうが、それでも神々がとても多いことは何かにつけて気づかされるでしょう。むかし、日本の当時の総理大臣が、日本は神の国と発言して物議をかもしましたが、そういう発言がまかり通るような霊的風土ということは、みなさんも何かと感じていらっしゃるのではないかと思います。 そういう中から信仰を持つ者とされた。そういう点では、アルテミスの守護者にさえされているエペソの、その市民であったエペソ教会のクリスチャンは、われわれ日本のクリスチャンにとって誇るべき先輩と言えるでしょう。 3節をご覧ください。私たちは祝福されている、とパウロは語ります。どれくらい祝福されているのか? 天にあるすべての霊的祝福を神さまがくださっているほど、私たちは祝福されている、というのです。 その霊的祝福とは、どういうものでしょうか? 4節をご覧ください。……世界の基の置かれる前から、すなわち創造のみわざの前、永遠の定めによって、ということです。私たちが救われているということは、永遠の前からすでに神さまがお決めになっていた、ということです。 これは、たいへんなことです。私たちはこの地上を生きるものでありながら、天の祝福をいただきつつ、この地上を生きる者とされる、そうなるように、神さまが私たちをあらかじめ定めてくださっていた、ということです。神さまは目に見えないお方です。だから多くの人は、神さまがほんとうにおられるかどうか、不確かな思いしかいだけません。しかし私たちは、天におられる神さまがともに歩んでくださるという、その祝福を、日々いただきつつ生きています。私たちにとって神さまとは、なによりもリアルな存在であるのです。天にあるすべての霊的祝福は、いま現実に私たちがいただいているのです。その祝福を受けるように、神さまは永遠のむかしから定めてくださっていたのです。 いえ、それだけでしょうか? 天にあるすべての霊的祝福をいただいている、ということは、永遠の天国は私たちのもの、ということにもなります。私たちはこの地上を生きていますと、苦しいことやつらいことのある一方で、喜びを体験します。その喜びは、この地上を生きていく原動力になったりもするのです。しかし、私たちが体験するその素晴らしい喜びさえ、天国を受け継ぐ祝福に比べれば、なにほどのこともありません。想像すらできないほどの祝福、それが天国を受け継ぐ祝福です。その天国に入れるように、神さまが永遠のむかしからすでに私たちを選んでくださっていた、ということです。 さて、ここでパウロが、「私たち」がその祝福をいただくと言っていることにも注目です。私たち。アルテミスの民であったエペソの人、生粋のユダヤ人でエリートの律法学者であったパウロ、立場はまったく異なりますが、どちらもキリストに出会っていなかったということでは同じです。しかし今や、そのどちらの立場からも、キリストに出会い、まことの霊的祝福を受けるものとされた、というわけです。 この、まったくちがうところから永遠のむかしに選ばれ、みもとに集められ、「ともに」祝福を受ける喜び、御業をほめたたえる喜びが、この「私たち」ということばから伝わってくるようです。 私たちも立場はさまざまだったでしょう。イエスさまを信じ受け入れたプロセスもいろいろでした。しかし、そういうどうしがこの水戸第一聖書バプテスト教会という、ひとつところに集うべく、永遠のむかしに選ばれ、ひとつところに集められ、ともに天の霊的祝福にあずかるということ、それはどんなにすばらしいことでしょうか。ここでともに礼拝する私たちは、立場や性格の違いを超えて、ともに霊的祝福にあずかる者として選ばれている、だいじな兄弟姉妹です。 とは申しましても、いま現実にこの教会に集っていない人は、選ばれていないのではないか、などと、どうか思わないでいただきたいのです。神さまの永遠の選びというものは、人間の目によって判断できるものではありません。それこそ、私たちの周りの人たちのことも。神さまは永遠のむかしから選んでいらっしゃるかもしれないのです。だから私たちは、選ばれている人を見いだす働きに用いられるべく、伝道するのです。 神の選びというものは、かぎりある人間の立場から推し量るのはとても難しいものです。しかし、こう考えてみてはいかがでしょうか? 私がこうして信仰をもてるように、神さまが永遠のむかしから、私のことを選んでくださっていたなんて! 神さま、感謝します! 人のことはどうあれ、まず自分が選んでいただいていることに、感謝したいものです。その感謝の積み重ねが、みこころにかなったよい行いを生み、私たちを特別に選んでくださった神さまのすばらしさを、その行いをもって現すことができるようになると信じます。 第二に、2000年前に子なる神さまがしてくださったことです。イエスさまは私たちを、十字架の血によって神の子にしてくださいました。 4節のみことばをもう少し学んでまいります。神さまの選びは、「彼にあって」とあります。彼とは、キリストのことです。それは5節のみことばで解き明かしているとおり、御父がキリストによってご自分の子にしようと、私たちを選んでくださったということです。 6節を見てみますと、キリストは御父が私たちに与えてくださった恵みであると語っています。恵みとは何でしょうか? ただでもらえるものです。 私は小学生のとき、親友の石川くんという友達に、誕生パーティを開いてもらったことがあります。仲のよかった友だちが集まりました。当時私が片想いをしていた女の子も来てくれました。プレゼントもいろいろもらいました。ほんとうに楽しかったですし、またうれしかったです。一生の想い出になりました。 でももし、私が石川くんやほかの友達に、こんなことを言ったらどうなるでしょうか? 「今日は来てくれてありがとう。プレゼントもありがとう。でも、お金がかかったよね? パーティを盛り上げるのも大変だったよね? じゃあ、お金をこれだけ払うよ」そんなことを言って、お金なんか渡したら、みんなどう思うでしょうか? プレゼントにお金などいりません。それと同じものが、神さまの恵みです。イエスさまは、父なる神さまのプレゼントです。神さまがイエスさまを私たちのために送ってくださったならば、私たちのすることは、ただひとつです。ありがたく受け取ることだけです。 では、イエス・キリストは何をしてくださったのでしょうか? 7節のみことばを説き起こしますと、イエスさまは十字架の上で血潮を流して死んでくださったことによって、私たちのことを天国に入れなくしていた原因である、私たちの罪の代価を完全に支払ってくださり、天国に私たちのいるべき場所を買い取ってくださったのでした。 その、2000年前の十字架のできごと、それを私たちは、自分のこととして信じ受け入れる信仰を与えていただいたのでした。それは自分の意志で信じたように思えても、ほんとうのことを言うと、神さまの遠大なご計画の中で、その信仰が与えられたというべきです。 私たちがまことに神さまの子どもとなるため、神さまがこの世界から買い取ってくださるために、イエスさまがしてくださったこと、それが十字架です。しかしそのために、イエスさまはどれほど苦しまなければならなかったことでしょうか。十字架の苦しみがどれほどのものであったか、それは肉体的な苦しみはもちろんのこと、最大の苦しみは、父なる神さまと引き離されなければならなかったことでした。イエスさまは十字架の上で叫ばれました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか!」あのように叫んで捨てられなければならなかったのは、罪を捨てることをしない、神さまに従わないでいて平気でいる私たちだったはずです。しかし父なる神さまはそんな私たち人間を憐れんで、その罪の罰を、十字架というこの上なくむごたらしいかたちでイエスさまに負わせられました。 これが、恵みなのです。そして、その恵みをただで信じて受け入れるようにいていただいたこと、これもまた恵みです。恵みの上にさらに恵みをいただいた存在、それが私たちです。 8節から11節をお読みします。……神さまはキリストによって、罪から贖ってくださっただけではありません。みことばに啓示されたご計画を教えてくださり、キリストを救い主、主として告白するどうしを、民族や国や時代の枠を超えてあらゆるところから集めてくださり、ひとつの御国を受け継ぐ者としてくださいました。 それは、神さまの永遠のご計画によって定められていることでした。 キリストは死なれただけではありません。今も生きておられ、私たちの主でいらっしゃいます。私たちがみことばをお読みして神さまのみこころを知ることができるのは、その中心に啓示されているキリストによって、みことばを解き明かすことができるように、私たちが導かれているからです。 私たちの信仰生活を、人は「キリスト教」と呼びます。キリストのないキリスト教など、ほかの宗教と変わりのないものになってしまいます。わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません、とおっしゃったキリストによって神と交わる、その生き方を許されているのが、私たちクリスチャンです。 ですから私たちは、キリストによって神との交わりにつねに招かれている者として、神との交わりにどんなときにも入っていきたいものです。いろいろなことで忙しくしているときでも、飲み物くらいは飲むでしょう。トイレくらいには行くでしょう。それならば、わずかでもいいです。すこし、祈ってみてはいかがでしょうか。みことばを思い出してみてはいかがでしょうか。長くなくていいのです。有名人がツイッターというインターネットのツールを用いて自分の意見を短く発信するとき、たまにその内容がニュースになったりしますが、短い意見でも世の中にインパクトをもたらすものです。同じように私たちの祈りは、長々としていればいいものではありません。仕事中でも構いませんから、気がついたら短くお祈りすることをお勧めします。私はこれを、「ツイッターの祈り」と呼びます。 もちろん、それだけではなく、みことばをしっかりと読み、じっくりと祈る時間を一日のうちに必ず1回は確保していただきたいと願います。みことばを黙想するならば、朝がいいでしょう。黙想するみことばの箇所は、週報に書いてありますので参照していただければと思いますが、その短い箇所を毎日、熟読玩味してみこころを受け取っていただければと思います。しかしそれは、お勤めのような宗教的な日課ではなく、キリストとの交わりとして毎日行なっていただきたいと願います。 そのようにしてイエスさまは、私たちに十字架の赦しの恵みをくださり、みことばを教えてくださる恵みをくださり、天国に入れてくださる恵みを与えてくださいます。ともに感謝いたしましょう。 第三に、今このとき、聖霊なる神さまがしてくださることです。聖霊なる神さまは、私たちに御国を受け継ぐ保証を与えてくださいます。 この保証を、13節のみことばでは「証印」と語っています。創世記やエステル記など、聖書の中にはしばしば、印、というものが出てきます。その印が押された文書には、印の持ち主である王の権威によって効力が発せられる、というわけです。 それは今日の日本でも同じことで、印の押された文書には、その人ないしは法人、団体の名により、効力が発せられます。 契約というものを結ぶならば、なおさらこの「印」というものの効力が重要になってきます。神さまと人との間にも契約が結ばれ、神さまは人をご自身の民にしてくださったわけですが、この契約の保証となってくださるお方が、聖霊なる神さまです。 神さまはもともと、イスラエルという民を特別に選び、ご自身の民としての契約を結ばれました。しかし、人がその契約を履行する際の条件であった、神さまの定めた掟を守り行うこと、それをすることのできる人は、だれひとりいませんでした。ただ、神の御子なるイエスさまだけが、御父への完全な従順をもってこの律法を完全に履行され、その従順は、十字架に死にまで至りました。この十字架は、御父が人を神の子どもにするために新しく結んでくださった契約であり、完全な契約、永遠の契約です。 聖霊なる神さまは、神さまと私たちの間にこの契約を結ぶべく働いてくださいました。私たちの力では、神さまのこの恵み、プレゼントを受け取ることなどできません。しかし聖霊なる神さまは、私たちの心にイエスさまの十字架に対する信仰を持たせてくださり、信仰による救いへと至るように、私たちを導いてくださいました。 聖霊さまのこの導きは、一生続きます。私たちがこの、十字架による罪の赦し、贖いという、永遠の契約に入れられている者にふさわしくなれるよう、私たちを日々整え、きよめてくださいます。そのために聖霊さまは、私たちが教会というキリストのからだのひと枝ひと枝となれるようにしてくださったのです。 礼拝の最後に祝祷をいたしますが、これは第二コリント13章の最後のことばをもとにしています。お祈りすることが、主イエス・キリストの恵み、父なる神さまの愛が私たちとともにあることに加え、聖霊の交わりがあるようにと祈っています。聖霊「と」の交わりとは表現しません。もちろん、たしかに「聖霊の交わり」とは「聖霊『と』の交わりではあるのですが、しかし、それは同時に、私たち信じる者どうし、教会という共同体のうちに聖霊さまが働かれることで成り立つ互いの交わり、ということを意味します。 私たちはまちがってはいけませんが、たとえクリスチャン同士でも、どうでもいいよもやま話で盛り上がることを「交わり」と呼ぶべきではありません。まあ、そういう話題になることももちろんありですが、それで終わるならば、何のために私たちはわざわざ、イエスさまを信じる者どうしで集まっているのでしょうか? しかし、もし私たちが、その会話の中で、神さまの素晴らしさ、みことばの恵みを分かち合うならば、あるいは互いの取り組んでいる課題、抱えている問題のために祈るならば、それはまさしく、交わりと呼ぶにふさわしいフェローシップが成り立っていることになります。私たちはせっかく、信じているどうしで教会に集まっているのですから、せめてそのような交わりをともに目指してまいりたいものです。そのような交わりを通して、私たちを救いに導いてくださった神さまの恵みが、私たちのうちにともにほめたたえられるようになります。 以上見てきて、お気づきになったことはありませんか? そう、私たちの救いは、御父の計画、御子の実践、御霊の適用、三位一体なる神さまがともに働かれて、成り立っている、ということです。救いに至るために、私たちが誇るような努力などなにひとつできません。すべては、三位一体なる神さまの恵みです。恵みのうちに私たちを選び、恵みのうちに私たちを贖い、恵みのうちに私たちを導く、父、御子、御霊の、三位一体の神さまの御名を、心からほめたたえてまいりましょう。