救い、この大きなプレゼント

聖書箇所;エペソ2:1~10 メッセージ題目;「救い、この大きなプレゼント」  私たちはこのキリスト教会の中にかぎらず、世の中のあちこちで、「信じる者は救われる」と語られているのを耳にしていると思います。日本人にはなじみの深いフレーズです。しかし、いったい何を信じているというのでしょうか。ほとんどの場合、それは「キリストの十字架」ではありません。  しかし、少なくとも聖書は、そのようなことを語ってはいません。父なる神さまのひとり子イエスさまの、その十字架を信じる者は、救われる、そのように語っているのであって、何でもいいから信じればいいと言っているのではありません。何でもいいから信じればいいというのは、一見それは神がかっているようで、実際はまことの神さまの示された救いの道を歩もうとしないことです。私たちはそういうわけで、まことの神さまが示された唯一の救いの道を、人々に語っていく必要があります。  とは申しましても、私たちは何か自分が素晴らしかったから、そのまことの救いに至ることができたわけではありません。そのことを今日は、ともに学び、救われるということ、あるいは救われ「た」ということが、どのような意味を持っているかということを、さきほどお読みした本文から、ともに学びたいと思います。  第一のポイントです。私たちは救われる前、罪と世と、そしてサタンに支配されていました。  1節のみことばをお読みします。……救われてキリストのからだなる教会のひと枝とされたあなたがたは、以前は背きと罪の中に死んでいた、と語っています。  罪から来る報酬は死、とみことばは語ります。まことのいのちである神さまとの交わりが断たれてしまう、ということを意味しています。「背き」とありますが、これは以前の訳の聖書では「罪過」となっています。罪の行い、という意味です。背きとなりますと、それは神さまとそのみこころに背いていることであり、背くための罪深い行いに手を染めている状態です。行動で犯す罪です。  しかし、このみことばは、さらに畳みかけるように、「背きと『罪』」の中に死んでいた、と語ります。ただ行動するだけではありません。その人の存在そのものが「罪」となっていた、ということです。そう、「罪人」です。よい行いを積み重ねれば、人は罪人であることをやめられるのではありません。どんなによい行いをしたとしても、人は依然として罪人です。また、こうも言うことができます。罪を犯すから人は罪人なのではない、罪人だから人は罪を犯すのである――。  そのような状態にある人間を、みことばは「死んでいる」と語ります。表面的には生きているように見えるでしょう。ご飯も食べますし、仕事もします。それなりによい行いだってするでしょう。しかし聖書の宣言によれば、そういう人も「死んでいる」ことに変わりはありません。いのちなる神さまとの交わりが断たれているからです。  では、いのちの源(みなもと)なる神さまとの交わりを失った人は何をするでしょうか? 2節のみことばです。……神さまと関係なく生きる世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者なる霊、すなわちサタンにしたがって歩むようになります。  ちょうどそれは、私たち人間が、生きるためにものを食べる際、栄養の行き届いた良質なものを食べられない場合、とにかく生き延びるために、栄養もなく、かえって体に悪いものででも食欲を満たそうとし、それでからだを壊すのに似ています。神さまで満足できないならば、神さまに敵対する存在、世であったりサタンであったり、そういうものに満足を見いだそうとするのです。  そして、いったんそのような存在に満足を見いだすようになったなら、ほんとうに神さまが必要なくなり、いよいよ、神さまと関係のない生き方をするようになってしまいます。しかし、それは、神さまの怒りを受けるべきことであると、みことばは語ります。人はどこかで、この神さまの御怒りというものを意識し、どんなに罪におぼれても罪意識、後ろめたさというものを持つものでしょう。しかし、世とサタンに絡めとられてしまっているならば、それは自分の力ではどうにもならないことです。  こうなってしまった人間に、生きるべき道はあるのでしょうか?  そこで第二のポイントです。私たちは、神さまの愛と恵みによって救っていただきました。  4節と5節をお読みします。……神さまは私たちを愛していらっしゃいます。だからこそ、というべきです。これほどまでも愛しているのに、その愛に背を向け、ひたすらに神さまに反抗したり、神さまを無視したりして生きていく人間に、神さまは怒りを注がれるのです。しかし、それでも神さまは、ご自身が愛をもってお造りになった人を諦めることはなさいませんでした。なおも愛してくださいます。  その、神さまが私たちを死から救い出し、いのちに生かしてくださるために、取ってくださった方法とは、キリストとともに生かしてくださることでした。  キリストは十字架に死なれ、そして三日目に復活されました。この復活は、私たちが罪によって死んでいたことからよみがえらされることと、大いに関係があります。私たちもイエスさまの十字架と復活を受け入れるならば、死、すなわち神さまとの交わりの断絶からよみがえらされ、神さまといのちの交わりを持つ者としていただくことができるのです。  しかしこれは、私たちが何かいい人だったからとか、あるいは、何か努力をしたから、そのように認めていただいたということではありません。  5節をご覧ください。あなたがたが救われたのは恵みによるのです、とはっきり書いてあります。恵みとは何でしょうか? プレゼントです。  小学生から中学生の頃にかけて、私は、週刊朝日という週刊誌の、「似顔絵塾」というコーナーにせっせと投稿していました。そのコーナーを担当している山藤章二というイラストレーターの大ファンだったからです。山藤さんのファン熱が昂じて、そのコーナーに投稿するいろいろな読者の絵も好きになり、私も描いてみよう、と思うようになりました。私の描き方は、水性ボールペンで枠線を取り、クレヨンで色を塗り、マイナスのドライバーでクレヨンをはがす、そういう描き方でした。  その結果、私は2回の入選を果たすことができました。私の描いた絵が、カラーで印刷されて、全国の読者の目に触れることになったわけです。そのときはもう、うれしくてたまりませんでした。でも、今の私はその絵を見るのが、とてもつらいです。なぜかというと……あまりにも下手だからです。  そもそも、私はとても絵が下手な人間です。それは、うちの娘たちに聞いていただければお分かりになると思います。「うん、お父さんは絵がとても下手だよ」と、躊躇せず答えてくれますので。娘たちの方がよほど上手です。そんなわけで、今も昔も絵が下手だった私が、たくさんのプロの絵描きさんを輩出した「似顔絵塾」に、絵を載せていただいたのでした。  今なら、私にはわかります。週刊誌というものは、小中学生で熱心な読者になるということは基本的にはありません。似顔絵の投稿をするような子どもなど、とても少ないわけです。そんな中で、わずか12歳ほどの子どもが向こう見ずにも投稿してくるならば、山藤さんも、しょうがないやつだな、と、うれしくなってつい、掲載してしまったと考えた方が自然です。あのように掲載していただいたことは、山藤さんから幼い私への、プレゼントというべきでした。絵が上手だから載ったわけではありません。  私たちにしても、救いというものは資格がないのに与えられるプレゼントです。罪人は、何をしてもきよい神さまに認められるだけの行いをすることなどできません。救われるための方法はただひとつ、神さまの側から私たちを救ってくださること、これしかありません。私たちには救われるだけのよいものなど何ひとつないのに、神さまの側から手を差し伸べてくださるのです。私たちのすることは、このプレゼントが自分に与えられていることを信じて、受け取ることだけです。  6節のみことばをお読みします。……私たちは単に、この地上において救われただけではありません。私たちは復活します。天国に入れていただけます。天国においてキリストとともに、永遠のいのちを受け継がせていただけます。この、天国に入れていただくという希望を持って生きるということは、この世にだけ目を留めて生きるということと比べて、どれほど人生を明るく、肯定的に、また積極的にすることでしょうか。もし、私たちの生きる世がすべてだとするならば、私たちは死ぬことを恐れて生きるほかなくなります。 しかし、天国に入れていただけるという確信を持つならば、すべては希望へと変わり、私たちはいわば、末広がりの生き方をするように変えられます。それはどれほど素晴らしい生き方でしょうか! 7節のみことばをお読みします。……エペソのクリスチャンをはじめ、初代教会のクリスチャンたちが救いの恵みをいただいたのは、かぎりなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すため、とあります。救いは自分たちだけで完結していないのです。この救いを、まだ見ぬ世代、まだ見ぬ人々に伝えるため、そのためにあなたがたは救われたのである、というわけです。 私たちにしても同じことです。私たちは救われたという、人生で最高のこのグッド・ニュースを、自分だけのものにしておいていいのでしょうか? ほんとうにこの救いを喜んでいるならば、だれかに伝えたくはならないでしょうか? ぜひとも、このメッセージを聴いていらっしゃるみなさんに、神さまが、みなさまを通して救いのメッセージを聴くべき人たちを送ってくださいますようにお祈りします。 8節、9節は、私たちがぜひとも暗唱しておくべきみことばです。みことばの暗唱は大事です。なぜならば、私たちの信仰の基準は人の言い伝えや教えではなく、聖書のみことばだからです。聖書のみことばをそのまま暗唱するならば、その人の信仰はぶれることはありません。一字一句、間違わないようにして暗唱してみたいと思います。それではご一緒に! ……はい、何によって救われたとありますか? 恵みのゆえに、信仰によって。何によらないとありますか? 行いによらない、とあります。 信じるということは、行いではありません。私たちは新聞やテレビのニュースなどで、地球の裏側のことを知ることができ、それが実際に起こっていることだと「信じている」わけですが、それを「信じる」ために地球の裏側にわざわざ行って確かめる必要はありません。見て、そのとおりだ、と受け入れさえすればいいわけです。信仰もそれと同じことで、聖書のことばをそのまま「信じれば」いいわけです。 前にもやったことですが、念のためまたやってみます。(「信仰」と書かれたサインボードをかざす。「令和」の額をかざした菅官房長官のように)官房長官のまねではありませんが、「信仰」とは、漢字でこう書きます。信じて仰ぐ、という意味です。しかし私たちキリスト者なら、こういう解釈を施すべきでしょう。(「信」と「仰」の間にマーカーで返り点を打ち)仰せを信じる、つまり、神さまのおっしゃることばである聖書のことばを信じる、これが、私たちにとっての「信仰」というものです。何でもいいから信じれば救われる、という考えとはまったく異なることを、これでご理解いただけると思います。聖書のことばを疑わず、そのまま受け入れる。それで、救われるのです。 そのように「信じる」こと、それは、私たちに与えてくださった、神さまからの恵み、プレゼントです。たくさん勉強しからとか、たくさん人生経験を積んだからと、信じられるのではありません。 ただ、神さまが救いに選んでくださった人だけが、信じ受け入れるように導かれるのです。決めるのは神さまであって、人ではありません。 だから私たちは、あの人はきっと救われない、とか、勝手に早急な判断を下してはならないのです。私たちのすることは、神さまが救いに召しておられる人がだれなのかを明らかにするために、この福音を人々に伝えることです。 もうひとつ、救いが行いによらないのは、だれも誇ることのないためである、と語られているのにも注目しましょう。私たちはクリスチャンになっている、救われていることを、未信者の人と比較してすごい存在になっている、などとは、間違っても考えてはなりません。それでは、宗教的な特権階級を享受して、庶民を苦しめるだけ苦しめた、イエスさまの時代の宗教指導者たちと何の変わりもないことになってしまいます。 いったい、イエスさまが宗教指導者たちと戦われたことがあれほど聖書に記録されているのは、何のためでしょうか? 自分たち救われている者たちはあのような存在ではない、と、ほっとするためでしょうか? そのような律法主義者たちをさばき、自分を正しい側に置くためでしょうか? そうではありません。聖書があれほど律法主義者に対する批判に紙面を割いているのは、私たちへの戒めのためではないでしょうか? 私たちが救われていることを確信することは素晴らしいことなのですが、それが人をさばき、罪に定める根拠となってしまうならば、私たちもイエスさまに口を極めてののしられる存在となっているということです。私たちが救われたのが恵みであると知るならば、私たちは決して、自分自身を誇ってはなりません。誇るべきは、私を救い出してくださった神さまの恵み、イエスさまの十字架のみです。 もし、私たちが何か良いものであるかのように思っていたならば、悔い改めましょう。このような罪人を一方的な恵みとあわれみにより救ってくださった神さまを誇り、感謝をおささげしましょう。私たちの信仰の生活は、そこにはじまり、そこに終わります。 第三のポイントです。私たちは、よい行いをするために召されました。 10節のみことばです。……私たちが神の子どもであるならば、よい行いへと実を結んでしかるべきです。その行いを、神さまは私たちひとりひとりに備えていてくださっています。私たちはそれぞれ、神さまから与えられた個性にしたがって、その各自のよい行いをしていくことによって、神さまのご栄光を現します。うちの教会で何度かお招きしているミッシェル姉妹は、フルートの演奏を通じて神さまのご栄光を現しています。それが、彼女にとってのよい行いというわけです。私たちもそれぞれの持ち場で主に従った働きをするとき、それは神の作品としてふさわしい生き方をしていることになります。 私たちが神の作品であるという聖書の宣言は、なんと私たちに生きる力を与え、本来の生き方に私たちを立たせてくれることでしょうか。 私たちは時に、意識して罪を犯したくなる誘惑にかられはしないでしょうか? そんな時、私たちが神の作品であると思い起こすならば、罪から守られます。それこそ、罪から救い出された者としてふさわしい選択をすることができるようになります。実に、悪い行いから離れ、よい行いへと導き入れられることは、神の作品としてふさわしいことです。 間違ってはなりません。よい行いを積むことは、天国に行くための道ではありません。大学生の頃、私の所属していた教会に、私のことを「先輩」と呼んで慕っていた若者がいました。彼はなかなかバプテスマを受けようとしませんでしたが、それでも教会には喜んで通っていました。 ある日のことです。教会の若者たちで大掃除をしていたとき、彼も一生懸命に奉仕してくれました。まだバプテスマを受けていない彼の身を案じて、ねぎらうつもりで、私は彼に、頑張っているね、と声をかけました。すると彼はこう答えたのでした。「いやー、こうして奉仕することで、俺も天国に近づきますよ。」……それは違うでしょ! しかし、もしかすると多くの日本の人が、同じような感覚で「奉仕」というものを捉えているのではないかと危惧したものでした。 奉仕のわざは、救われている喜びの中から湧き出るべきもので、善行により認められるためなのだとするならば、その相手が神さまであろうと人であろうと、ぜったいにちがいます。 とは申しましても私は、バプテスマを受けていない人、信仰を持っていない人は教会奉仕に加わるべきではない、と言っているのではありません。無償のボランティアで働くということは、普通に生活していてもなかなかできることではないので、そういう場に加わることで喜んでいただけるなら歓迎しますし、教会としてももちろん助かります。でも、間違えないでいただきたいことは、奉仕は天国に入るための手段では、ありません。信仰のみです。 メッセージを締めくくるにあたり、もう一度、8節と9節をお読みしましょう。暗唱できる方は暗唱してみてください。 ……私たちの罪深さを思えば思うほど、神さまの恵みが身に染みます。この恵みのゆえに、どこまでも神さまに感謝してまいりましょう。