クリスチャンとはどんな人か

聖書箇所;エペソ3:1~21 メッセージ題目;クリスチャンとはどんな人か 新約聖書の27巻のうち、その半数近くになる13巻は、使徒パウロによって書かれました。それはすべて「手紙」と書かれており、教会向けであったり、個人向けであったりします。この「手紙」を、「書簡」ともいいます。 この、パウロによる「書簡」を読んでみると、ほかの指導者たちによる書簡、ヤコブやペテロやヨハネやユダによる書簡と比べて、大きな特徴があります。それは、パウロという人物の個性が、時にかなり際立って現れている、という点です。からだの弱さであったり、個人的な体験であったり、そういう、時にかなりプライベートなことではないかと思えるようなことも、細かく書いてある箇所が珍しくない、それがパウロの書簡の特徴です。 しかし、そういうきわめて個人的な色彩を帯びた書簡も、聖書のみことばとして提示されていることを、私たちは受け入れる必要があります。このことは何を意味しているのでしょうか? それは、一見するとプライベートなパウロ個人の事情に思えることも、私たちクリスチャンひとりひとりと、実は密接な関係がある、ということです。 私たちは、初代教会において意味されているところの使徒ではありません。しかし、この世に遣わされているキリストの使者であることに変わりはありません。私たちは、決してパウロと同じような弱さを持っているとは限りません。しかし、パウロと同様に、何らかの弱さをもってこの世を生きていることに変わりはありません。実にパウロの際立って個人的な描写は、ことごとく、私たちクリスチャンの生活と関係があります。いかに個人的な事情であろうとも、聖書に収録されているだけの、それなりの正当な理由があるわけです。 本日の箇所は、パウロがいくつかの点で自己紹介をしている箇所です。これらの自己紹介はすなわち、私たちクリスチャンひとりひとりの自己紹介でもあります。では、ひとつひとつ見てまいりたいと思います。 第一のポイントです。クリスチャンは、囚人、とらわれ人です。 そう申し上げると、むっとされる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、1節を読んでみましょう。パウロはたしかに、自分のことを囚人と表現しています。 とは申しましても、ただの囚人ではありません。「キリスト・イエスの囚人」と書いてあります。 この、エペソ人への手紙という書簡は、獄中書簡と呼ばれるものです。パウロが、ローマの獄中、牢獄の中でものしたものです。まさしく、イエスさまを宣べ伝える働きに献身するゆえに迫害を受け、ローマの監獄にまで至ったわけで、罪を犯したからではありません。 福音を宣べ伝える、これ以上正しいことがあるでしょうか? それなのに世は、そのような正しい人を迫害し、なにも行えないように追い詰めます。 しかし、このエペソ人への手紙もそうですが、パウロが獄中で書いたいくつかの書簡はやがて、教会を養い、今こうして聖書という形で私たちは手にしています。 2節から4節をお読みしましょう。……神さまはなぜ、獄中にいるパウロに啓示を与えられたのでしょうか? それは、それぞれの教会、そしてゆくゆくは、今に至るまで2000年間、世界中に存在してきた教会が、福音の奥義を正しく悟るためです。 5節をお読みください。……パウロはこのわざのために用いられる「使徒」であるというアイデンティティを、神と人の前に明らかにしています。預言者、すなわち旧約聖書を解き明かす、新約聖書の書き手としてのアイデンティティです。私たちはこのようにして書かれら旧新両約の聖書によって、目に見えない神さまのみこころを正しく受け取ることができます。 そのみこころとは、具体的に言えばどのようなみこころでしょうか? 6節のみことばです。……信仰の父アブラハムに与えられた約束、その子孫を神の民としてくださるという約束が、異邦人にまで及ぶ、という約束です。この奥義を解き明かし、エペソ人をはじめとした異邦人たちに伝えるということが、神さまがパウロに与えてくださった使命であったということです。 そのようなパウロは、囚人ではありましたが、同時にこのような告白をしています。7節です。……そうです、福音に仕える「奉仕者」である、というわけです。 パウロは、囚人という立場にありました。自分の指導していた教会をケアしたり、信徒をフォローアップしたりということを、実際に教会を訪問し、信徒と顔と顔を合わせてという形で行うことは、もはやかないません。それが囚人というものです。しかし、それだからと、パウロがわが身に絶望して、福音宣教の働きをやめてしまうということはなかったのでした。パウロにはまだ、手紙を書き送るという手段が残されていました。 手紙を書き送ることができるかぎり、手紙に福音の奥義を込めて届けさせることができれば、それを読む人たちに牧会をすることができる、ということになります。それはたしかに、普通われわれが牧会と呼ぶような、相互通行的なコミュニケーションではないかもしれません。しかし、この手紙を読むならば確実に救われた者としてのアイデンティティを確立し、キリストのからだなる教会を建て上げる自覚が育つ……パウロはそう確信し、渾身の力を込めて手紙を書き送ったのでした。 ここに、私たちの生きるモデルが示されています。 私たちも福音に生きる者となりたい、福音を宣べ伝えたい、そう願いながらも、さまざまな理由でその生き方を制限せざるを得ないような、いわば「囚人」のような生き方を強いられているかもしれません。その制限は、家族や地域社会のしきたりというしがらみかもしれませんし、からだの弱さかもしれません。 あるいはもしかすると、過去犯してしまった大きな失敗を、周りの人たちがいまだに許してくれていないことかもしれません。いずれにせよ、私たちを囚われの身にするものはさまざまです。 しかしそれでも、私たちはパウロの生き方を見るとき、その制限というものを、いっさい行動を起こせていないことへの言い訳にしてもいいということではないことがわかります。囚人でありながらも福音に仕える者として諸教会を養ったパウロの姿は、私たちにとってのモデルです。 私たちは、何に目を留めているかを考える必要があります。私たちは、私たちを救ってくださったイエスさまに目を留めていますでしょうか? それとも、自分を取り巻く状況がすべてのように思わされていないでしょうか? すべての状況を動かし、そのような状況の中においてもみわざを行なってくださる、イエスさまにこそ、私たちは目を留めたいものです。果たして神さまは、何のために私たちを救ってくださったのでしょうか? この救いのみことばを人々に証しするために、このみことばをもって人々に奉仕するために、私たちを救ってくださったのではないでしょうか? もしそうならば、私たちがこの世に負けたままでいることを、神さまがお喜びになることはないはずです。お祈りして、いま自分を捉えているあらゆるしがらみに勝利する者となれるよう、力をいただきましょう。 では、第二の自己紹介です。クリスチャンは、福音を宣べ伝える人です。 8節のみことばをお読みします。……パウロはたしかに、キリストの教会を迫害したほどの自分が救われたという、その恵みを喜び、主に感謝しています。しかしパウロにとって、その救いの恵みは個人的なものにとどまってはいません。実にこの救いの恵みが、パウロのことを異邦人への宣教という使命に遣わしているということを、パウロ自身がよく理解し、そのことを書簡の読み手に伝えています。 いえ、パウロが福音を伝える相手は異邦人にかぎられているのでしょうか? 9節のみことばをお読みします。……パウロは、創造主なる神さまを語っています。しかし、創造主を伝えることにとどまらず、その創造主が、御子キリストを信じる信仰によって人々を救ってくださるという、時至って実現した奥義を、すべての人に明らかにし、伝えるために、自分が召されていることを語っています。そうです、すべての人です。 なぜ人々は、その奥義を知る必要があるのでしょうか? 10節、11節のみことばです。……あらゆる権威、支配を超えて、神さまの知恵が知らされるため、その知恵が伝えられるというご計画を成し遂げてくださるキリストのみわざが実現するためです。教会というものを過小評価してはなりません。すべての権威を超えるみ教えが伝えられる場所、実現する場所、それが教会なのです。私たちはこのことを、恐れと感謝をもって受け入れる必要があります。 この福音が伝えられる結果、人はどのようになるでしょうか? 12節です。 本来、きよい神さまというお方は、近づくことが許されないお方です。旧約聖書を見てみても、神さまに近づくことがどれほど恐るべきことかが、これでもかと記されています。しかし、キリストは神と人との仲立ちとなられました。私たちもキリストによって、大胆に父なる神さまの御前に近づくことができるようになったのでした。 人は、いろいろな形で救いに至ろうとします。善行を積んだり、哲学を極めたり、宗教活動にのめり込んだりと、そのとる行動はさまざまです。しかしそれらのものはいずれも、罪ある人間の側からの行動にすぎず、どんなに努力しても、いかなる努力をしても、きよい神さまに近づくことはできません。ただ、神さまの側で行なってくださったみわざ、ひとり子イエスさまを私たち罪人の身代わりに十字架につけてくださったこと、それによって私たちが罪赦され、神さまの子どもとされ、永遠のいのちが与えられ、天国に入れていただけることを信じ受け入れた人だけが、神さまの救いをいただくことができます。 これこそが、パウロが人々に伝えようとしていた奥義です。この奥義を伝えるためにパウロは生きていたとさえ言えるくらいです。別の箇所でパウロは、自らを指して、もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいだ、とさえ告白しています。 このように神さまからの使命に生きるパウロの姿を見て、私たちは何を感じるでしょうか? 自分はそのようになれない、と落ち込むでしょうか? いいえ、その必要はありません。 私たちは生きているかぎり、必ずだれかとの触れ合いを経験しています。その人たちをご覧ください。イエスさまは弟子たちに向かって、「あなたがたは……地の果てにまで、わたしの証人となります」とおっしゃいました。その、イエスさまの弟子たちから見れば、まさに「地の果て」に住む人たち、それが、私たちの目の前にいる人たち、私たちの隣にいる人たちではないでしょうか? このような人たちがイエスさまに出会い、大胆に神さまの御前に出る人になるという、そのビジョンを、私たちは持っていますでしょうか? 神さまはなぜ、この茨城県央にその人たちを生かしていらっしゃるのでしょうか? 私たちのすぐそばに生かしていらっしゃるのでしょうか? それは、キリストにお従いし、生活を通して福音を伝えようとする私たちの生き方を、その人たちも見て、キリストにお従いする道が開かれるためではないでしょうか? その意味では、私たちもパウロと同じです。私たちにはできるのです。パウロのようになれない、と考える必要はありません。私たちの手には、パウロをはじめ、使徒たちが神の霊感によって書き残した聖書があります。この聖書のみことばを語るならば、私たちが人間的なことばを尽くして説得しようとしなくても、聖霊なる神さまが働いてくださり、その人を救いに近づけてくださいます。そのわざに私たちも用いていただけるのです。 私たちも、福音を宣べ伝える伝道者です。伝道はだれにでもできることです。 そして神さまは私たちに、人々に伝道するように召しておられます。私たちの人格の欠けや、経験不足などを考える必要はありません。石ころからでもアブラハムの子孫を起こしてくださるのが神さまです。私たちのことも、必ず用いてくださいます。信仰をもって一歩を踏み出していただきたいのです。 では、三つ目のポイントにまいります。私たちクリスチャンは、祈る人です。 14節、15節をお読みします。パウロは、神の家族である教会を代表して祈っています。 そうです。クリスチャンとは祈る人です。まさしく私たちクリスチャンには、神さまの御前に祈るという特権が与えられています。 しかしこの箇所を見てみますと、パウロは異邦人がするような、単なる欲望や願望を羅列することをもって、祈っているのではありません。パウロは、何を祈っているのでしょうか? 16節から19節をお読みします。 パウロはひたすらに、御父が御霊によって教会に力を与えてくださるように祈っています。 その力はどのようにして働くのでしょうか? 聖徒一人ひとりの心のうちに、キリストが住まってくださり、働いてくださることによってです。そして、神の愛をすべての聖徒ともに知り、また理解することによってです。そのようにして、教会と聖徒たちが神さまの満ちあふれる豊かさにまで成長することを、パウロは切に祈っています。 そしてパウロのこの祈りは、たんに教会が強くなることだけに目的があるのではありません。20節、21節をお読みします。……全能なるお方のみわざ、御力が教会に働くことによって、教会をとおして、また、教会のかしらなるキリストをとおして、主が栄光を永遠にお受けになるようにと、祈っています。 この祈りは、私たちクリスチャンひとりひとりにとっても、究極の祈りの目標というべきです。私たちは祈りというものを、どのような目的で用いていますでしょうか? 自分が祝福されるためでしょうか? 自分や家族が栄え、いやされるために祈るのでしょうか? それももちろん必要なことでしょう。しかし、私たちクリスチャンにとっての究極の祈りの目標は、私たちを救い、贖ってくださった、主にすべてのご栄光がお帰しされるように、これです。 私たちクリスチャンはよく、証し、などといいます。体験談をもって神さまのすばらしさを伝えることが、証しの目的です。ところがときに、この証しというものが、一見すると神さまを誇っているようでも、手柄話だったり、自慢話だったりということが往々にしてあるものです。きつい言い方をすれば、単なる自慢話を、たまたまクリスチャンを名乗る人が語っているだけ、ということがあるものだ、ということです。 私たちの目指す証しの生き方は、そういうものではないはずです。私たちクリスチャンは、この世的なちっぽけな自己実現を目標として生きているのではありません。 だれよりも偉大なお方、神さまが、私たちクリスチャンの生き方によって、人々をとおしてたたえられる、それが私たちクリスチャンの生きる目的であるはずです。それは、私たちの属する教会が、御霊の力をいただき、愛において成長することによってこそ実現します。私たちは、その働きに用いていただけるのです。だから、その働きに加えていただくように、そして、すべての聖徒がその働きを担えるように、究極的には、自分も含むすべての聖徒を通して主の栄光が素晴らしく輝くように、私たちは祈るのです。 メッセージを締めくくりたいと思います。私たちは多くの制限を抱えています。それはまるで囚人の姿です。しかし私たちは、そのような弱さを抱えながらも、主のみことばを伝える働きに用いていただくものです。その働きはしかし、私たちのすばらしさを現すためのものではありません。私たちの働きをとおして、教会が愛において大いに成長し、キリストの満ち満ちた身たけにまで成長すること、そのことによって主の栄光がこの地に素晴らしく輝くこと、それが私たちの目的です。そのために私たちは祈ります。それこそが私たちの祈りの究極の目的です。 忘れてはなりません。私たちは決して弱くありません。私たちは主によってどこまでも強い存在です。主により頼み、この世に主を現す働きに大いに用いられる私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。

私たちも同じ家族

聖書箇所;エペソ人への手紙2:11~22 メッセージ題目;私たちも同じ家族  何度かこのメッセージの時間にお話ししていますが、私は高校生の頃、アーサー・ホーランドという宣教師から多大な影響を受けました。 アーサーは、その時代の日本のキリスト教会に、大きな流れをつくる役割を確実に担っていました。90年代前半、日本のキリスト教会は、全国規模で「リバイバル」ということばを合言葉に、燃えに燃えつつありました。私は、その流れの中で、新宿駅前で信号機によじ登るようなスタイルで路傍伝道をしたり、高さ3メートルの十字架を担いで8人の男たちとともに日本列島を縦断したりと、とにかく過激、そして体育会系のノリで宣教を展開するアーサーを心底カッコいいと思い、そんな自分になれればと、アーサーの所属団体であるキャンパス・クルセードに入って、伝道活動をしたり、クリスチャンとしての訓練を受けたりしていました。 そうしているうちに、私はアーサーをアイドルとするよりも、むしろ自分が燃えてイエスさまを伝えることに、はるかに確信を持つようになりました。キャンパス・クルセードの公式伝道ブックレットの「四つの法則」を使って伝道できる人はだれか、鵜の目鷹の目になっていました。また私は、「ジェリコジャパン」ですとか、「リバイバル甲子園ミッション」ですとか、「ビリー・グラハム東京大会」ですとか、そういう何千人、何万人の規模の大会にも、せっせと足を運びました。友達を連れていくこともしました。  今思えば、そのように「燃える」ムーブメントに身を投じていたのは、100年以上宣教活動が続いていても一向に成長しない日本の教会に対して、一種の危機意識をいだいていたからではないかと思います。そして私は、感情的に高揚させようとしたり、一定の伝道プログラムを身に着けようとしたりすることで、日本の教会成長の公式といいますか、定理のようなものを見いだし、それに乗っかっていこうとしていたのだと思います。しかし、リバイバルと呼べるようなものは、なかなか訪れることはありませんでした。もちろん、私の経験したことは無意味ではなかったばかりか、その後の信仰の姿勢を形づくるうえで大きな要素となってはくれましたが、そうして熱心になることは、リバイバルに対する私の飢え渇きをほんとうの意味で満たしてはくれませんでした。 本日学びますみことばは、そのような葛藤の中にあり、日本ではなく、韓国の神学校で学ぶことを決意し、その入学試験のために韓国に行ったとき、ひとり聖書を読んでいて、示されたみことばです。やはり飢え渇きというものは、みことばによってのみ満たすことができるものでした。そういうわけで私にとって、とても思い出深い箇所でありますが、まずはみことばの解き明かしから語らせていただきたいと思います。 この箇所は、過去、現在、未来の、三つの時制で語ることができます。まずは「過去」からです。過去、彼らエペソのクリスチャンたちは、とても悲惨な状態にありました。 11節、12節をお読みします。……福音が伝えられ、それを信じ受け入れる前のエペソの人たちの状態を、パウロは語ります。 それは、どのような状態だったのでしょうか? まず彼らは、割礼を施されていない者でした。割礼は、創造主なる神さまとの契約のうちにあるというしるしに、男子が性器の包皮を切り取る儀式で、そのように肉体に痕跡を残しているということは、まさしくイスラエル、ユダヤという、神の民であることの証しでした。尾籠なことを申しますが、男性は立って用を足すわけで、そのたびに包皮の切り取られた性器を見るわけで、否が応でも、そのユダヤ人の男性が、自分は神の民であるということを思い起こす仕掛けであると言えます。きわめてユニークな風習であります。 そういうイスラエル、ユダヤにしてみれば、割礼を受けていないということは、イコール、神の民でない、はなはだしくは神に敵対する、憎むべき存在、ということになります。少年ダビデが巨人ゴリアテと闘ったとき、ダビデはゴリアテのことを、無割礼のペリシテ人と呼んで闘いに赴いたわけですが、割礼か無割礼かということは、神の民にとってそれほど重要なことであるわけです。そしてもともとの神の民イスラエル、ユダヤからしてみれば、エペソの人たちは、無割礼の異邦人の群れです。 また、エペソの人たちは、「キリストから離れ」とあります。道であり、真理であり、いのちであるお方、御父に至る唯一の道なるお方、このお方に出会うことなしに、どのようにしてまことの神さまを信じることができる世でしょうか? 約束の契約については他国人、つまり、神の民として、神さまが契約を結んでくださった民族ではない、というわけです。家であれ車であれ、売主と買主の契約というものをとおしてはじめて買主の手に入るように、契約によって神さまは人に、神の民としての市民権を与えられます。イエスさまに出会っていないということは、アブラハムと交わされた契約のまことの成就である、イエスさまの十字架の血潮という契約などそもそも関係ないわけで、そういう者であるならば、いったいどうやって創造主なる神さまに出会うことができるでしょうか。まことの望みを与えてくださる神さまに出会うことができるでしょうか。 ただ、彼らは、偶像にすぎないアルテミスを崇拝することで、宗教心を満足させるのが精いっぱいで、それではとてもまことの神さまに出会うことなど叶いませんでした。 異邦人とは、そのようなかぎりなく悲惨な状況にある存在です。このような存在に、救いはあるのでしょうか? そこで「現在」を見てみましょう。彼らエペソの人たちは、キリスト・イエスによって神の民とされました。 ひとつ前のみことばの中で、「キリストから遠く離れ」ということばはかぎになります。キリストとは、道であり、真理であり、いのちであるお方です。このキリストを通してでなければ、父なる神さまに出会うことはありません。 しかし、ほんとうのことを言うと、キリストから遠く離れていたのは、ユダヤ人も同じでした。我らこそはメシア待望の民、という自負心をいだいていた彼らでしたが、そんな彼らはイエスさまをキリストと認めず、十字架につけました。彼らもほんとうの意味でキリストに出会っていなかったのでした。 しかし、キリスト・イエスの十字架を信じることにより神さまとの和解に導かれる、その信仰は、ユダヤ人から始まりました。ペテロの説教で悔い改め、ほんとうの意味で神の民になった人たちは大いに増やされ、エルサレムに教会が形成されました。この、キリストにつくユダヤ人と同じように、異邦人ゆえにまことの神に対する望みのなかったエペソの人たちも、キリスト・イエスの十字架を信じる信仰へと導かれました。 13節をご覧ください。「近い者となりました」とあります。だれと近い者となったのでしょうか? それは、外見上の割礼によらず、イエスさまへの信仰によってまことの神の民とされたユダヤ人であり、そしてそれ以上に、そのように救いに導いてくださった、神さまに近い者とされた、ということです。もはや以前のような、神さまからも神の民からも無関係な、悲惨な存在ではなくなったのでした。 14節から16節をお読みします。この箇所の主語はどなたでしょうか? そうです、キリストです。言うまでもなく、ユダヤ人たちが思い描いていたようなキリストではなく、イエス・キリストです。イエスさまは十字架にお掛かりになることで、イエスさまを信じる者を神さまと和解させてくださり、そのようにして、ご自身をとおして神さまに近づく者どうしを、和解に導いてくださいました。お互いの間に存在していた敵意も、滅ぼしてくださったのでした。 平和をつくる者は幸いです、とイエスさまはおっしゃいました。それはやはり、平和のきみなるイエスさまをともに信じる信仰によってこそ、初めて可能となることです。私たち人間は平和を求めながらも、多くの場合、国家や民族、部族の間に不和や対立が存在するものだということは、残念ながら認めざるを得ません。 世界のさまざまな人たちは、そのような世界において、平和をつくる働きに献身しています。それはとても素晴らしいことです。では、平和をつくる者は幸いです、とイエスさまに言われている私たちは、どのようにして平和をつくる働きに参与するのでしょうか? それは、イエスさまを信じる者どうしで、手に手を携えるところから始まるのではないでしょうか? そのようにして和解に導かれ、敵意が滅ぼされるだけではありません。17節をご覧ください。 ……ユダヤはたしかにまことの神さまに近い存在ですが、ほんとうの意味でイエスさまの福音を伝えられていたわけではありません。まことの神さまから遠い存在の異邦人の場合はなおさらです。どの国も、クリスチャンの多い少ないにかかわらず、宣教は必要です。その宣教のわざを通して、神さまから近い民族にも、神さまから遠い民族にも、ほんとうの意味での平和の福音は伝えられ、一つとなって御父に近づくのです。それがいずれ、民族どうしの和解へと導かれると、私たちは信じてまいりたいものです。 私たち日本のクリスチャンは、たしかにこの国に暮らしていると、マイノリティとしての弱さを痛感させられることしきりかもしれません。しかし、どうか元気を出していただきたいのです。私たちはけっして、彼らに見劣りする存在ではありません。 私は神学生のとき、神学校のある授業で、教授に突然指されて質問されたことがありました。「日本にはどれくらいクリスチャンがいますか?」私は正確な数字を知っていたわけではありませんでしたが、よく言われる日本のクリスチャンの割合からざっと計算してみて、そうですね、27万人くらいでしょうか、とお答えしました。クリスチャンばかりの国に生まれ育った韓国人の神学生たちを前にして、恥ずかしいな、という思いもあったのですが、教授はすぐにこうおっしゃいました。「それなら、決して少なくありませんね!」私はこのおことばに、どれほど励まされたかわかりませんでした。 私たちが日本のクリスチャンであることは、誇りとすべきことです。この国の中から、この民族の中から、イエスさまを信じる信仰へと導かれた、それによって世界の兄弟姉妹とともに神さまに近づく存在とされた、なんとすばらしいことでしょうか。 19節をお読みします。……創造主なるイエス・キリストを中心に、すべての民族はひとつの家族とされます。ことばや肌の色がちがおうとも、同じ家族です。このことをどうか、信仰によって受け取っていただきたいのです。 最後に、未来の姿です。クリスチャンたちは、教会を形づくります。 20節から22節をお読みします。……民族は、単に和解させられるだけではありません。創造主なるキリスト、王の王なるキリストのからだである教会を、ともに形づくるのです。 20節を見てみますと、使徒たちや預言者たちという土台、とあります。使徒の著した者は新約聖書であり、預言者たちの著したものは旧約聖書です。旧約と新約、この聖書全体を土台として、教会は建てられます。 そして、その聖書の啓示するお方、キリスト・イエスを基として、教会が建てられます。いかに聖書を学び、また伝えていても、キリスト・イエスが伝わっていないならば、それは「異端」というものです。それをキリスト信仰と呼んではなりません。しかし私たちは、聖書において啓示されたお方、イエスさまを中心に、この教会、共同体を建てるべく召されています。 教会という場所は、神さまに礼拝をささげ、祈り、交わりを行い、みことばに学び、奉仕し、みことばを宣べ伝えるべく、この地上に存在する共同体です。しかしそれは、特定の民族や言語にかぎって形成する共同体ではありません。 民族や言語の枠を超えて、神さまに創造され、イエスさまの十字架を信じる信仰によって贖われたどうしが、ともに形づくるもの、それがまことの教会です。 このたび私は、保守バプテスト同盟の総会に出席してまいりました。この保守バプテストは、もともとが、アメリカの宣教師による東北地方の宣教から始まった団体であり、現在に至るまでも多くの宣教師が、日本人の先生方とともに働いています。また、宣教師ではなく、牧師として教会に奉仕していらっしゃる先生方にも、外国人の先生が複数いらっしゃいます。 私はこの姿をあらためて見てまいりまして、ことばや民族を超えた教会形成というものを、保守バプテスト同盟はとても理想的な形で実践していることを思わされました。そして、自分もその一員に加えていただいていることに、心から感謝したものでした。 うちの妻も宣教師なので、手前味噌のように聞こえるならばご容赦いただきたいのですが、日本は宣教がほかの国のように進まない分、他国からの宣教師をまだまだ必要としています。しかしその分、教会には外国人の信徒が集まりやすい傾向があると言えるかもしれません。そういう点では日本の教会は一見すると弱いようでも、民族を超えた教会形成をしているという分、聖書的にかなった教会形成に励みつつあるという評価をしてもいいのだと言えます。それならばこれは誇るべきことで、ますますその方向で教会形成をする必要があるのではないでしょうか。 とはいいましても、この茨城町のような場所では、外国人の信徒が集まるには限界があることを認めなければならないでしょう。それならば私たちは、この教会に対して視線を注ぐのと同時に、もうひとつのビジョン、究極のビジョンに目を留める必要があります。それは、世の終わりのビジョンです。 聖書をお読みします。ヨハネの黙示録、5章6節から14節です。……みなさん、この大礼拝が、想像できますでしょうか? あらゆる民族から、あらゆる部族から、あらゆることばを話す民から、救われて主を礼拝するのです。 最後に、この天国の前味とも言える体験から学んだことを分かち合って、メッセージを締めくくりたいと思います。 今から24年前、1995年のことです。私は韓国に、1度目の留学で渡っていました。当時、会話はあまり上手ではなく、周りを韓国人にばかり囲まれていた生活が続き、だんだん五月病のようになってしまっていました。 そんなとき、ソウルにある大きな教会を会場に、国際的な宣教大会が開催されました。私は、その大会でスタッフとして奉仕していた日本人の先生に会う目的で赴いたのですが、私の目の前に広がっていたのは、想像を絶する世界でした。 それはちょうど、お昼ご飯をビュッフェ式で食べる時間だったのですが、たくさんの人が立って食事をしていました。圧倒されたのは、そこには様々な肌の色をした人がいて、いったい何語なのだろうか、いろいろなことばで話していました。スーツを着た人は案外少なく、実にさまざまな民族衣装に身をまとった人々であふれかえっていたことでした。そういうどうしがとても楽しそうに話し合っていました。私はこれを見て、天国とはきっとこのようなところにちがいない、と思ったものでした。 このような宣教大会を堂々と開催できる韓国教会の底力を、私はまざまざと見せつけられ、いつか日本もこうなれるだろうか、と、私はその日以来、さらにいろいろと考えるようになりました。しかし、そんな私に、今日学びましたみことばが与えられたのでした。私たち日本のクリスチャンも祝福を受けた国々とその民に近い者とされている、ともに神さまのもとに行くように召されている、そのことを改めて教えていただき、私はどんなに慰められたかわかりません。そして、その日本の人たちにみことばを宣べ伝えることを、私はあらためて召命として受け取らせていただいたのでした。 この世の終わりに、私たち日本のクリスチャンも、多くの民族、部族、ことばを話す民に交じって、主の御前に召し出されます。私たちはその日まで、和解の福音を語りつづけ、人々を神さまと和解させ、敵対するどうし、反目するどうしを、福音によって和解に導く働きに用いていただくのみです。この民に、私たちは福音を語ってまいりましょう。そして、ともに教会形成に励み、キリストのからだなる共同体をこの地にうち立てる働きに用いられてまいりましょう。 私たちの過去を思うと、どれほど悲惨だったことでしょうか。神さまから離れていた、それが私たちの現実でした。しかし、イエスさまを信じ受け入れる信仰に導いていただき、神さまに近づき、神の民に加えていただきました。そのような私たちは今後、神さまによって召された者どうし、キリストのからだなる教会という共同体をこの地にうち立てていくように求められています。この、喜びあふれるわざに用いられる私たちとなることができますように、主の御名によってお祈りいたします。

救い、この大きなプレゼント

聖書箇所;エペソ2:1~10 メッセージ題目;「救い、この大きなプレゼント」  私たちはこのキリスト教会の中にかぎらず、世の中のあちこちで、「信じる者は救われる」と語られているのを耳にしていると思います。日本人にはなじみの深いフレーズです。しかし、いったい何を信じているというのでしょうか。ほとんどの場合、それは「キリストの十字架」ではありません。  しかし、少なくとも聖書は、そのようなことを語ってはいません。父なる神さまのひとり子イエスさまの、その十字架を信じる者は、救われる、そのように語っているのであって、何でもいいから信じればいいと言っているのではありません。何でもいいから信じればいいというのは、一見それは神がかっているようで、実際はまことの神さまの示された救いの道を歩もうとしないことです。私たちはそういうわけで、まことの神さまが示された唯一の救いの道を、人々に語っていく必要があります。  とは申しましても、私たちは何か自分が素晴らしかったから、そのまことの救いに至ることができたわけではありません。そのことを今日は、ともに学び、救われるということ、あるいは救われ「た」ということが、どのような意味を持っているかということを、さきほどお読みした本文から、ともに学びたいと思います。  第一のポイントです。私たちは救われる前、罪と世と、そしてサタンに支配されていました。  1節のみことばをお読みします。……救われてキリストのからだなる教会のひと枝とされたあなたがたは、以前は背きと罪の中に死んでいた、と語っています。  罪から来る報酬は死、とみことばは語ります。まことのいのちである神さまとの交わりが断たれてしまう、ということを意味しています。「背き」とありますが、これは以前の訳の聖書では「罪過」となっています。罪の行い、という意味です。背きとなりますと、それは神さまとそのみこころに背いていることであり、背くための罪深い行いに手を染めている状態です。行動で犯す罪です。  しかし、このみことばは、さらに畳みかけるように、「背きと『罪』」の中に死んでいた、と語ります。ただ行動するだけではありません。その人の存在そのものが「罪」となっていた、ということです。そう、「罪人」です。よい行いを積み重ねれば、人は罪人であることをやめられるのではありません。どんなによい行いをしたとしても、人は依然として罪人です。また、こうも言うことができます。罪を犯すから人は罪人なのではない、罪人だから人は罪を犯すのである――。  そのような状態にある人間を、みことばは「死んでいる」と語ります。表面的には生きているように見えるでしょう。ご飯も食べますし、仕事もします。それなりによい行いだってするでしょう。しかし聖書の宣言によれば、そういう人も「死んでいる」ことに変わりはありません。いのちなる神さまとの交わりが断たれているからです。  では、いのちの源(みなもと)なる神さまとの交わりを失った人は何をするでしょうか? 2節のみことばです。……神さまと関係なく生きる世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者なる霊、すなわちサタンにしたがって歩むようになります。  ちょうどそれは、私たち人間が、生きるためにものを食べる際、栄養の行き届いた良質なものを食べられない場合、とにかく生き延びるために、栄養もなく、かえって体に悪いものででも食欲を満たそうとし、それでからだを壊すのに似ています。神さまで満足できないならば、神さまに敵対する存在、世であったりサタンであったり、そういうものに満足を見いだそうとするのです。  そして、いったんそのような存在に満足を見いだすようになったなら、ほんとうに神さまが必要なくなり、いよいよ、神さまと関係のない生き方をするようになってしまいます。しかし、それは、神さまの怒りを受けるべきことであると、みことばは語ります。人はどこかで、この神さまの御怒りというものを意識し、どんなに罪におぼれても罪意識、後ろめたさというものを持つものでしょう。しかし、世とサタンに絡めとられてしまっているならば、それは自分の力ではどうにもならないことです。  こうなってしまった人間に、生きるべき道はあるのでしょうか?  そこで第二のポイントです。私たちは、神さまの愛と恵みによって救っていただきました。  4節と5節をお読みします。……神さまは私たちを愛していらっしゃいます。だからこそ、というべきです。これほどまでも愛しているのに、その愛に背を向け、ひたすらに神さまに反抗したり、神さまを無視したりして生きていく人間に、神さまは怒りを注がれるのです。しかし、それでも神さまは、ご自身が愛をもってお造りになった人を諦めることはなさいませんでした。なおも愛してくださいます。  その、神さまが私たちを死から救い出し、いのちに生かしてくださるために、取ってくださった方法とは、キリストとともに生かしてくださることでした。  キリストは十字架に死なれ、そして三日目に復活されました。この復活は、私たちが罪によって死んでいたことからよみがえらされることと、大いに関係があります。私たちもイエスさまの十字架と復活を受け入れるならば、死、すなわち神さまとの交わりの断絶からよみがえらされ、神さまといのちの交わりを持つ者としていただくことができるのです。  しかしこれは、私たちが何かいい人だったからとか、あるいは、何か努力をしたから、そのように認めていただいたということではありません。  5節をご覧ください。あなたがたが救われたのは恵みによるのです、とはっきり書いてあります。恵みとは何でしょうか? プレゼントです。  小学生から中学生の頃にかけて、私は、週刊朝日という週刊誌の、「似顔絵塾」というコーナーにせっせと投稿していました。そのコーナーを担当している山藤章二というイラストレーターの大ファンだったからです。山藤さんのファン熱が昂じて、そのコーナーに投稿するいろいろな読者の絵も好きになり、私も描いてみよう、と思うようになりました。私の描き方は、水性ボールペンで枠線を取り、クレヨンで色を塗り、マイナスのドライバーでクレヨンをはがす、そういう描き方でした。  その結果、私は2回の入選を果たすことができました。私の描いた絵が、カラーで印刷されて、全国の読者の目に触れることになったわけです。そのときはもう、うれしくてたまりませんでした。でも、今の私はその絵を見るのが、とてもつらいです。なぜかというと……あまりにも下手だからです。  そもそも、私はとても絵が下手な人間です。それは、うちの娘たちに聞いていただければお分かりになると思います。「うん、お父さんは絵がとても下手だよ」と、躊躇せず答えてくれますので。娘たちの方がよほど上手です。そんなわけで、今も昔も絵が下手だった私が、たくさんのプロの絵描きさんを輩出した「似顔絵塾」に、絵を載せていただいたのでした。  今なら、私にはわかります。週刊誌というものは、小中学生で熱心な読者になるということは基本的にはありません。似顔絵の投稿をするような子どもなど、とても少ないわけです。そんな中で、わずか12歳ほどの子どもが向こう見ずにも投稿してくるならば、山藤さんも、しょうがないやつだな、と、うれしくなってつい、掲載してしまったと考えた方が自然です。あのように掲載していただいたことは、山藤さんから幼い私への、プレゼントというべきでした。絵が上手だから載ったわけではありません。  私たちにしても、救いというものは資格がないのに与えられるプレゼントです。罪人は、何をしてもきよい神さまに認められるだけの行いをすることなどできません。救われるための方法はただひとつ、神さまの側から私たちを救ってくださること、これしかありません。私たちには救われるだけのよいものなど何ひとつないのに、神さまの側から手を差し伸べてくださるのです。私たちのすることは、このプレゼントが自分に与えられていることを信じて、受け取ることだけです。  6節のみことばをお読みします。……私たちは単に、この地上において救われただけではありません。私たちは復活します。天国に入れていただけます。天国においてキリストとともに、永遠のいのちを受け継がせていただけます。この、天国に入れていただくという希望を持って生きるということは、この世にだけ目を留めて生きるということと比べて、どれほど人生を明るく、肯定的に、また積極的にすることでしょうか。もし、私たちの生きる世がすべてだとするならば、私たちは死ぬことを恐れて生きるほかなくなります。 しかし、天国に入れていただけるという確信を持つならば、すべては希望へと変わり、私たちはいわば、末広がりの生き方をするように変えられます。それはどれほど素晴らしい生き方でしょうか! 7節のみことばをお読みします。……エペソのクリスチャンをはじめ、初代教会のクリスチャンたちが救いの恵みをいただいたのは、かぎりなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すため、とあります。救いは自分たちだけで完結していないのです。この救いを、まだ見ぬ世代、まだ見ぬ人々に伝えるため、そのためにあなたがたは救われたのである、というわけです。 私たちにしても同じことです。私たちは救われたという、人生で最高のこのグッド・ニュースを、自分だけのものにしておいていいのでしょうか? ほんとうにこの救いを喜んでいるならば、だれかに伝えたくはならないでしょうか? ぜひとも、このメッセージを聴いていらっしゃるみなさんに、神さまが、みなさまを通して救いのメッセージを聴くべき人たちを送ってくださいますようにお祈りします。 8節、9節は、私たちがぜひとも暗唱しておくべきみことばです。みことばの暗唱は大事です。なぜならば、私たちの信仰の基準は人の言い伝えや教えではなく、聖書のみことばだからです。聖書のみことばをそのまま暗唱するならば、その人の信仰はぶれることはありません。一字一句、間違わないようにして暗唱してみたいと思います。それではご一緒に! ……はい、何によって救われたとありますか? 恵みのゆえに、信仰によって。何によらないとありますか? 行いによらない、とあります。 信じるということは、行いではありません。私たちは新聞やテレビのニュースなどで、地球の裏側のことを知ることができ、それが実際に起こっていることだと「信じている」わけですが、それを「信じる」ために地球の裏側にわざわざ行って確かめる必要はありません。見て、そのとおりだ、と受け入れさえすればいいわけです。信仰もそれと同じことで、聖書のことばをそのまま「信じれば」いいわけです。 前にもやったことですが、念のためまたやってみます。(「信仰」と書かれたサインボードをかざす。「令和」の額をかざした菅官房長官のように)官房長官のまねではありませんが、「信仰」とは、漢字でこう書きます。信じて仰ぐ、という意味です。しかし私たちキリスト者なら、こういう解釈を施すべきでしょう。(「信」と「仰」の間にマーカーで返り点を打ち)仰せを信じる、つまり、神さまのおっしゃることばである聖書のことばを信じる、これが、私たちにとっての「信仰」というものです。何でもいいから信じれば救われる、という考えとはまったく異なることを、これでご理解いただけると思います。聖書のことばを疑わず、そのまま受け入れる。それで、救われるのです。 そのように「信じる」こと、それは、私たちに与えてくださった、神さまからの恵み、プレゼントです。たくさん勉強しからとか、たくさん人生経験を積んだからと、信じられるのではありません。 ただ、神さまが救いに選んでくださった人だけが、信じ受け入れるように導かれるのです。決めるのは神さまであって、人ではありません。 だから私たちは、あの人はきっと救われない、とか、勝手に早急な判断を下してはならないのです。私たちのすることは、神さまが救いに召しておられる人がだれなのかを明らかにするために、この福音を人々に伝えることです。 もうひとつ、救いが行いによらないのは、だれも誇ることのないためである、と語られているのにも注目しましょう。私たちはクリスチャンになっている、救われていることを、未信者の人と比較してすごい存在になっている、などとは、間違っても考えてはなりません。それでは、宗教的な特権階級を享受して、庶民を苦しめるだけ苦しめた、イエスさまの時代の宗教指導者たちと何の変わりもないことになってしまいます。 いったい、イエスさまが宗教指導者たちと戦われたことがあれほど聖書に記録されているのは、何のためでしょうか? 自分たち救われている者たちはあのような存在ではない、と、ほっとするためでしょうか? そのような律法主義者たちをさばき、自分を正しい側に置くためでしょうか? そうではありません。聖書があれほど律法主義者に対する批判に紙面を割いているのは、私たちへの戒めのためではないでしょうか? 私たちが救われていることを確信することは素晴らしいことなのですが、それが人をさばき、罪に定める根拠となってしまうならば、私たちもイエスさまに口を極めてののしられる存在となっているということです。私たちが救われたのが恵みであると知るならば、私たちは決して、自分自身を誇ってはなりません。誇るべきは、私を救い出してくださった神さまの恵み、イエスさまの十字架のみです。 もし、私たちが何か良いものであるかのように思っていたならば、悔い改めましょう。このような罪人を一方的な恵みとあわれみにより救ってくださった神さまを誇り、感謝をおささげしましょう。私たちの信仰の生活は、そこにはじまり、そこに終わります。 第三のポイントです。私たちは、よい行いをするために召されました。 10節のみことばです。……私たちが神の子どもであるならば、よい行いへと実を結んでしかるべきです。その行いを、神さまは私たちひとりひとりに備えていてくださっています。私たちはそれぞれ、神さまから与えられた個性にしたがって、その各自のよい行いをしていくことによって、神さまのご栄光を現します。うちの教会で何度かお招きしているミッシェル姉妹は、フルートの演奏を通じて神さまのご栄光を現しています。それが、彼女にとってのよい行いというわけです。私たちもそれぞれの持ち場で主に従った働きをするとき、それは神の作品としてふさわしい生き方をしていることになります。 私たちが神の作品であるという聖書の宣言は、なんと私たちに生きる力を与え、本来の生き方に私たちを立たせてくれることでしょうか。 私たちは時に、意識して罪を犯したくなる誘惑にかられはしないでしょうか? そんな時、私たちが神の作品であると思い起こすならば、罪から守られます。それこそ、罪から救い出された者としてふさわしい選択をすることができるようになります。実に、悪い行いから離れ、よい行いへと導き入れられることは、神の作品としてふさわしいことです。 間違ってはなりません。よい行いを積むことは、天国に行くための道ではありません。大学生の頃、私の所属していた教会に、私のことを「先輩」と呼んで慕っていた若者がいました。彼はなかなかバプテスマを受けようとしませんでしたが、それでも教会には喜んで通っていました。 ある日のことです。教会の若者たちで大掃除をしていたとき、彼も一生懸命に奉仕してくれました。まだバプテスマを受けていない彼の身を案じて、ねぎらうつもりで、私は彼に、頑張っているね、と声をかけました。すると彼はこう答えたのでした。「いやー、こうして奉仕することで、俺も天国に近づきますよ。」……それは違うでしょ! しかし、もしかすると多くの日本の人が、同じような感覚で「奉仕」というものを捉えているのではないかと危惧したものでした。 奉仕のわざは、救われている喜びの中から湧き出るべきもので、善行により認められるためなのだとするならば、その相手が神さまであろうと人であろうと、ぜったいにちがいます。 とは申しましても私は、バプテスマを受けていない人、信仰を持っていない人は教会奉仕に加わるべきではない、と言っているのではありません。無償のボランティアで働くということは、普通に生活していてもなかなかできることではないので、そういう場に加わることで喜んでいただけるなら歓迎しますし、教会としてももちろん助かります。でも、間違えないでいただきたいことは、奉仕は天国に入るための手段では、ありません。信仰のみです。 メッセージを締めくくるにあたり、もう一度、8節と9節をお読みしましょう。暗唱できる方は暗唱してみてください。 ……私たちの罪深さを思えば思うほど、神さまの恵みが身に染みます。この恵みのゆえに、どこまでも神さまに感謝してまいりましょう。

キリストと教会

聖書箇所;エペソ人への手紙2:15~23 メッセージ題目;「キリストと教会」  私がメッセージを語るたびに、繰り返し用いていることばのひとつに、「共同体」ということばがあります。この概念は、私が神学校の最終学年の時に奉仕した、サラン教会という教会が特に強調していたことです。  サラン教会では、日曜日ごとの礼拝が終わるたびに、会衆全体がスクリーンに映される「共同体宣言」というものを斉唱するのが習わしとなっていました。これは全部読み上げると1分近くかかるものでしたが、これを会衆全体でお読みすることで、私もまた、このサラン教会の会衆の一人にしていただいていることを実感したものでした。以来私は、教会とは集う人がばらばらでいいのではなく、ひとつからだの共同体であるという考えを保ちながら、ここまでまいりました。メッセージのたびに、教会は共同体である、ということを強調するゆえんです。  今日はメッセージを始めるにあたり、だいじな質問をしたいと思います。私たちにとって、教会とはどのようなところでしょうか? 今日そのことを、みことばから学び、私たちなりの結論を出して、礼拝後にともに分かち合っていただければと思います。  今日の箇所をいつものように、3つのポイントからお話ししたいと思います。  第一に、教会は主への信仰と隣人への愛の共同体です。  15節と16節をご覧ください。パウロは獄中にあって、神さまに感謝しています。獄中というのは、直接的な宣教、牧会といった教会形成に携われない場所です。しかしパウロはそのような環境にありながら、人ではなく、神さまに近づいていきました。その、神さまに近づく手段、それが祈りであったわけです。  みなさん、「祈りは労働である」ということばをお聞きになったことがありますでしょうか? 私も、かつて通っていた教会の聖書日課のプリントに、毎月そのように必ず書かれていたことを思い出します。  パウロにとっては、直接宣教することだけが働きではありませんでした。こうして捕らえられようとも、パウロにとってはなお働きが残されていました。それがこうして、聖徒たちのために祈ることであったわけです。  パウロが具体的に何を祈っていたか、それは第二のポイントで詳しく扱うとして、まずは、パウロがこのようにエペソの聖徒たちを覚えて祈っていたその動機を見ておきたいと思います。それは、エペソ教会のクリスチャンたちが、主イエスに対してふさわしい信仰を持っていることと、すべての聖徒に対して愛をいだいていることを知ったからです。  キリスト教会は、主イエスさまに対する信仰からすべては始まります。私たちはこの、目で見たことのないお方に、どのようにして近づくのでしょうか? 聖書をお読みして、聖書がまことであると信じ受け入れる、信仰によって近づくのです。  この地上を生きておられたイエスさまにお会いしたことがないのは、エペソの信徒たちも私たちも同じです。しかし彼らも私たちも同じ聖霊なる神さまによって、同じ信仰を持たせていただきました。同じイエスさまの十字架によって罪赦され、神さまの子どもとされ、永遠のいのちをいただいたと、いう信仰を持たせていただいたという点において同じです。  このことを外すならば、私たちは世代や地域を超えてひとつとならせていただいている教会に属すことはありません。主イエスさま以外のものを主とするならば、そのようなものは異端であり、キリスト教会と呼ぶことはできません。  大変なことですが、いま私たちの住むこの世界には、あらゆる形で異端が入りこんでいます。イエスさま以外のものを、またはイエスさま以外のもの「も」、主と告白するように誘導するのです。私たちはそういう者に決して惑わされてはなりません。いつも、どんなときでも、イエスさまから離れてはならないのです。わたしが道であり、真理であり、いのちである、わたしを通してでなければ決して御父のもとにいけない、このようにおっしゃったのはただひとり、イエスさまだけです。イエスさまだけに、ひたすらに、私たちの信仰の歩みは、これでまいりたいものです。  次に、そのようにしてイエスさまへの信仰を持たせていただいた者は、すべての聖徒に対する愛を持つように導かれます。どのような国や民族であろうとも、どのような立場にあろうとも、同じキリストを信じる信仰に導かれているかぎり、愛し受け入れるのです。  みなさん、キリスト教は愛の宗教、とお聞きになったことがあるでしょう。私たちは、人を愛することによって信仰の実を結ぶべき存在です。逆に言えば、信仰の実は人を愛することによって結ばれます。  イエスさまの十字架をご覧ください。天に向けて縦杭が建てられ、地と水平に横杭が打ちつけられています。縦杭は、神さまに向けての信仰を象徴するといえます。これに対して横杭は、人と人の間を結ぶ愛を象徴していると言えるでしょう。私たちの信仰と愛は、まさしく、イエスさまの十字架よりすべては始まります。  しかしこのようなことを申しますと、私たちの中には、このようなことを考える人が出てはこないでしょうか。「ああ、自分は人を愛することをしていない。このような自分の中に、イエスさまのへの信仰がほんとうにあるのだろうか。神さまの愛がほんとうにあるのだろうか。」  しかし、そのように問われる思いを持っているならば、その人は幸いです。なぜならばそのような人は、愛することに対する飢え渇きを持つようになるからです。 イエスさまが私を愛してくださったように、私も人を愛することができるように、その愛を与えてくださいと、願い求める思いを与えていただき、祈るように導かれます。私たちが人を愛する者となれるようにと祈り求めるならば、それは神さまのみこころにかなう祈りですから、必ずかなえていただけます。ここにも私たちは、信仰を働かせる必要が出てまいります。  教会とは、御父がイエスさまを愛してくださるように、互いに愛し合うべく主に召された者たちの集まりです。ますます信仰を増し加えていただき、愛する行いの実を互いのうちに結んでいきますように、お祈りいたします。  では、第二のポイントにまいります。教会は読んで字のごとく、教えられることで成長する共同体です。 パウロは、このエペソの兄弟姉妹のために祈っていると告白していますが、具体的にどのようなことを祈っているかについてもまた語っています。17節から19節です。 この箇所はひと言で言って、「あなたがたが『知る』ことができますように」と言っているわけです。 しかし、なにをどうやって知るのでしょうか? まず17節から見てみますと、イエス・キリストの父でいらっしゃる栄光の御父、このお方が与えてくださる御霊なる神さまによって、神さまを知ることができるように、ということが語られています。 神さまを知ることがなぜそれほど大事なのでしょうか? それは、イエスさまが私たちのために祈られたことであるからです。ヨハネの福音書、17章3節をご覧ください。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」 イエスさまはやや難解な表現を用いていらっしゃいますが、私たちはみことばをお読みすることで、また、みことばを解き明かしたメッセージに触れたり、本を読んだりすることで、自分に与えられている永遠のいのちがどれほど豊かなものか、また、その永遠のいのちを与えてくださった神さまはどれほど素晴らしいお方か、ますます知るようになります。 そして、その永遠のいのちの恵みを味わおうと、私たちはさらにみことばから学ぼうとするわけです。この、学びたいという飢え渇きを与えてくださり、その飢え渇きに応えて、天の知恵をもって教えてくださるお方、それが御霊なる神さまです。教えてくださるのは御霊さまなのです。私も今こうして高いところから語らせていただいていますが、私が教える、と思ってはならないわけです。教えてくださるのはどこまでも、御霊なる神さまです。私も、謙遜にならせていただくのみです。 では、御霊なる神さまは、なにを知らせてくださる。すなわち、教えてくださるのでしょうか? 18節から19節は、3つのことを語っています。 まず、神さまの召しによって与えられる望みです。私たちは望みを、神さまとそのみことばに置くようになります。それは、私たちがこの世から召し出された者となったからです。 人はこの世にあるものがすべてだと思うかぎり、この世のあらゆるものの中から何かを選び、それに望みを置くものです。しかし、それがどんなものであれ、かぎりあるこの世に存在している以上、所詮はかぎりあるものにしかなりません。それに全幅の信頼を置いていたならば、どこかで裏切られることを覚悟しなければなりません。 しかし私たちは、そのようなかぎりある世界から、唯一変わることのない神さまとそのみことばに望みを置く者へと召し出されました。私たちの希望はもはや、失望に終わることがありません。 しかし私たちは、依然としてかぎりあるこの世を生きているという現実の中にいます。そのような私たちは、この世の価値観や基準と調子を合わせて生きざるを得ないように思わされることが多くあります。そのような私たちだからこそ、望みを神さまとそのみことばにおいて、その豊かさ、恵み深さを具体的に学び、自分の生活にひとつひとつ適用させていくことが必要になってくるわけです。聖霊なる神さまは、そのことを私たちにひとつひとつ教えてくださり、まことの望みを持てるように導いてくださいます。 次に、聖霊なる神さまは、聖徒たちが受け継ぐものの豊かな栄光を教えてくださいます。 このことをイエスさまご自身がどう語っていらっしゃるかを見てみましょう。マルコの福音書、10章29節と30節です。 このみことばが語られたのは、使徒たちはもちろんのこと、初代教会の信徒たちに対しても同じことが語られていました。彼らもイエスさまを信じる信仰を選んだゆえに、多くのものを失いました。 エペソ教会にしても、アルテミスという「女神」を巡っての迫害の中、パウロが去り、たいへんな苦しみを体験していました。まさしく、アルテミスにつく者たちとの離別すら選択しなければならなかった苦しみ、また彼らからの迫害も甘んじて受けなければなりませんでした。 イエスさまが語られた、この世で百倍のものを受けるというみことばは、ほんとうだったのでしょうか? ほんとうです。なぜならば、それから2000年にわたって、この世の多くの人が同じ主を信じ従う兄弟姉妹となり、それだけ、彼らの所有する多くの財産が聖徒たちのものとなり、教会は豊かになったからです。そしてみな、イエスさまを信じる信仰により、永遠のいのちをいただきました。 この世において富を享受している兄弟姉妹もいるでしょう。知恵が増し加わり、地位や名声を享受している兄弟姉妹もいるでしょう。しかし彼らの今手にしているものが、神さまから見れば、私たちも今手にしている共有の財産であるということを、私たちはちゃんと認識していますでしょうか? もしそういう認識に立たなかったならば、私たちはそんな彼らのことをうらやんだり、ねたんだりしたり、あるいは神さまのことを不公平だと思ったりするようになります。しかしそれでは、兄弟姉妹とされていることをそもそも考えていないことになります。 しかし、世界の兄弟姉妹の財産が共有のものと考えるならば、私たちは、迫害や貧困の中で純粋に神さまのみを仰ぎ見る兄弟姉妹の信仰もまた、共有財産と考えられるようになるでしょう。日本や世界の神学校や大学の教授たち研究者の研究成果も、共有財産としてとらえられるようになるでしょう。このように、世界の兄弟姉妹の持つものを、自分もともに共有しているひとつの財産ととらえるならば、私たちは自然と、世界に目を向けることができるようになりますし、迫害のうちにある兄弟姉妹のため