キリストと教会

聖書箇所;エペソ人への手紙2:15~23 メッセージ題目;「キリストと教会」  私がメッセージを語るたびに、繰り返し用いていることばのひとつに、「共同体」ということばがあります。この概念は、私が神学校の最終学年の時に奉仕した、サラン教会という教会が特に強調していたことです。  サラン教会では、日曜日ごとの礼拝が終わるたびに、会衆全体がスクリーンに映される「共同体宣言」というものを斉唱するのが習わしとなっていました。これは全部読み上げると1分近くかかるものでしたが、これを会衆全体でお読みすることで、私もまた、このサラン教会の会衆の一人にしていただいていることを実感したものでした。以来私は、教会とは集う人がばらばらでいいのではなく、ひとつからだの共同体であるという考えを保ちながら、ここまでまいりました。メッセージのたびに、教会は共同体である、ということを強調するゆえんです。  今日はメッセージを始めるにあたり、だいじな質問をしたいと思います。私たちにとって、教会とはどのようなところでしょうか? 今日そのことを、みことばから学び、私たちなりの結論を出して、礼拝後にともに分かち合っていただければと思います。  今日の箇所をいつものように、3つのポイントからお話ししたいと思います。  第一に、教会は主への信仰と隣人への愛の共同体です。  15節と16節をご覧ください。パウロは獄中にあって、神さまに感謝しています。獄中というのは、直接的な宣教、牧会といった教会形成に携われない場所です。しかしパウロはそのような環境にありながら、人ではなく、神さまに近づいていきました。その、神さまに近づく手段、それが祈りであったわけです。  みなさん、「祈りは労働である」ということばをお聞きになったことがありますでしょうか? 私も、かつて通っていた教会の聖書日課のプリントに、毎月そのように必ず書かれていたことを思い出します。  パウロにとっては、直接宣教することだけが働きではありませんでした。こうして捕らえられようとも、パウロにとってはなお働きが残されていました。それがこうして、聖徒たちのために祈ることであったわけです。  パウロが具体的に何を祈っていたか、それは第二のポイントで詳しく扱うとして、まずは、パウロがこのようにエペソの聖徒たちを覚えて祈っていたその動機を見ておきたいと思います。それは、エペソ教会のクリスチャンたちが、主イエスに対してふさわしい信仰を持っていることと、すべての聖徒に対して愛をいだいていることを知ったからです。  キリスト教会は、主イエスさまに対する信仰からすべては始まります。私たちはこの、目で見たことのないお方に、どのようにして近づくのでしょうか? 聖書をお読みして、聖書がまことであると信じ受け入れる、信仰によって近づくのです。  この地上を生きておられたイエスさまにお会いしたことがないのは、エペソの信徒たちも私たちも同じです。しかし彼らも私たちも同じ聖霊なる神さまによって、同じ信仰を持たせていただきました。同じイエスさまの十字架によって罪赦され、神さまの子どもとされ、永遠のいのちをいただいたと、いう信仰を持たせていただいたという点において同じです。  このことを外すならば、私たちは世代や地域を超えてひとつとならせていただいている教会に属すことはありません。主イエスさま以外のものを主とするならば、そのようなものは異端であり、キリスト教会と呼ぶことはできません。  大変なことですが、いま私たちの住むこの世界には、あらゆる形で異端が入りこんでいます。イエスさま以外のものを、またはイエスさま以外のもの「も」、主と告白するように誘導するのです。私たちはそういう者に決して惑わされてはなりません。いつも、どんなときでも、イエスさまから離れてはならないのです。わたしが道であり、真理であり、いのちである、わたしを通してでなければ決して御父のもとにいけない、このようにおっしゃったのはただひとり、イエスさまだけです。イエスさまだけに、ひたすらに、私たちの信仰の歩みは、これでまいりたいものです。  次に、そのようにしてイエスさまへの信仰を持たせていただいた者は、すべての聖徒に対する愛を持つように導かれます。どのような国や民族であろうとも、どのような立場にあろうとも、同じキリストを信じる信仰に導かれているかぎり、愛し受け入れるのです。  みなさん、キリスト教は愛の宗教、とお聞きになったことがあるでしょう。私たちは、人を愛することによって信仰の実を結ぶべき存在です。逆に言えば、信仰の実は人を愛することによって結ばれます。  イエスさまの十字架をご覧ください。天に向けて縦杭が建てられ、地と水平に横杭が打ちつけられています。縦杭は、神さまに向けての信仰を象徴するといえます。これに対して横杭は、人と人の間を結ぶ愛を象徴していると言えるでしょう。私たちの信仰と愛は、まさしく、イエスさまの十字架よりすべては始まります。  しかしこのようなことを申しますと、私たちの中には、このようなことを考える人が出てはこないでしょうか。「ああ、自分は人を愛することをしていない。このような自分の中に、イエスさまのへの信仰がほんとうにあるのだろうか。神さまの愛がほんとうにあるのだろうか。」  しかし、そのように問われる思いを持っているならば、その人は幸いです。なぜならばそのような人は、愛することに対する飢え渇きを持つようになるからです。 イエスさまが私を愛してくださったように、私も人を愛することができるように、その愛を与えてくださいと、願い求める思いを与えていただき、祈るように導かれます。私たちが人を愛する者となれるようにと祈り求めるならば、それは神さまのみこころにかなう祈りですから、必ずかなえていただけます。ここにも私たちは、信仰を働かせる必要が出てまいります。  教会とは、御父がイエスさまを愛してくださるように、互いに愛し合うべく主に召された者たちの集まりです。ますます信仰を増し加えていただき、愛する行いの実を互いのうちに結んでいきますように、お祈りいたします。  では、第二のポイントにまいります。教会は読んで字のごとく、教えられることで成長する共同体です。 パウロは、このエペソの兄弟姉妹のために祈っていると告白していますが、具体的にどのようなことを祈っているかについてもまた語っています。17節から19節です。 この箇所はひと言で言って、「あなたがたが『知る』ことができますように」と言っているわけです。 しかし、なにをどうやって知るのでしょうか? まず17節から見てみますと、イエス・キリストの父でいらっしゃる栄光の御父、このお方が与えてくださる御霊なる神さまによって、神さまを知ることができるように、ということが語られています。 神さまを知ることがなぜそれほど大事なのでしょうか? それは、イエスさまが私たちのために祈られたことであるからです。ヨハネの福音書、17章3節をご覧ください。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」 イエスさまはやや難解な表現を用いていらっしゃいますが、私たちはみことばをお読みすることで、また、みことばを解き明かしたメッセージに触れたり、本を読んだりすることで、自分に与えられている永遠のいのちがどれほど豊かなものか、また、その永遠のいのちを与えてくださった神さまはどれほど素晴らしいお方か、ますます知るようになります。 そして、その永遠のいのちの恵みを味わおうと、私たちはさらにみことばから学ぼうとするわけです。この、学びたいという飢え渇きを与えてくださり、その飢え渇きに応えて、天の知恵をもって教えてくださるお方、それが御霊なる神さまです。教えてくださるのは御霊さまなのです。私も今こうして高いところから語らせていただいていますが、私が教える、と思ってはならないわけです。教えてくださるのはどこまでも、御霊なる神さまです。私も、謙遜にならせていただくのみです。 では、御霊なる神さまは、なにを知らせてくださる。すなわち、教えてくださるのでしょうか? 18節から19節は、3つのことを語っています。 まず、神さまの召しによって与えられる望みです。私たちは望みを、神さまとそのみことばに置くようになります。それは、私たちがこの世から召し出された者となったからです。 人はこの世にあるものがすべてだと思うかぎり、この世のあらゆるものの中から何かを選び、それに望みを置くものです。しかし、それがどんなものであれ、かぎりあるこの世に存在している以上、所詮はかぎりあるものにしかなりません。それに全幅の信頼を置いていたならば、どこかで裏切られることを覚悟しなければなりません。 しかし私たちは、そのようなかぎりある世界から、唯一変わることのない神さまとそのみことばに望みを置く者へと召し出されました。私たちの希望はもはや、失望に終わることがありません。 しかし私たちは、依然としてかぎりあるこの世を生きているという現実の中にいます。そのような私たちは、この世の価値観や基準と調子を合わせて生きざるを得ないように思わされることが多くあります。そのような私たちだからこそ、望みを神さまとそのみことばにおいて、その豊かさ、恵み深さを具体的に学び、自分の生活にひとつひとつ適用させていくことが必要になってくるわけです。聖霊なる神さまは、そのことを私たちにひとつひとつ教えてくださり、まことの望みを持てるように導いてくださいます。 次に、聖霊なる神さまは、聖徒たちが受け継ぐものの豊かな栄光を教えてくださいます。 このことをイエスさまご自身がどう語っていらっしゃるかを見てみましょう。マルコの福音書、10章29節と30節です。 このみことばが語られたのは、使徒たちはもちろんのこと、初代教会の信徒たちに対しても同じことが語られていました。彼らもイエスさまを信じる信仰を選んだゆえに、多くのものを失いました。 エペソ教会にしても、アルテミスという「女神」を巡っての迫害の中、パウロが去り、たいへんな苦しみを体験していました。まさしく、アルテミスにつく者たちとの離別すら選択しなければならなかった苦しみ、また彼らからの迫害も甘んじて受けなければなりませんでした。 イエスさまが語られた、この世で百倍のものを受けるというみことばは、ほんとうだったのでしょうか? ほんとうです。なぜならば、それから2000年にわたって、この世の多くの人が同じ主を信じ従う兄弟姉妹となり、それだけ、彼らの所有する多くの財産が聖徒たちのものとなり、教会は豊かになったからです。そしてみな、イエスさまを信じる信仰により、永遠のいのちをいただきました。 この世において富を享受している兄弟姉妹もいるでしょう。知恵が増し加わり、地位や名声を享受している兄弟姉妹もいるでしょう。しかし彼らの今手にしているものが、神さまから見れば、私たちも今手にしている共有の財産であるということを、私たちはちゃんと認識していますでしょうか? もしそういう認識に立たなかったならば、私たちはそんな彼らのことをうらやんだり、ねたんだりしたり、あるいは神さまのことを不公平だと思ったりするようになります。しかしそれでは、兄弟姉妹とされていることをそもそも考えていないことになります。 しかし、世界の兄弟姉妹の財産が共有のものと考えるならば、私たちは、迫害や貧困の中で純粋に神さまのみを仰ぎ見る兄弟姉妹の信仰もまた、共有財産と考えられるようになるでしょう。日本や世界の神学校や大学の教授たち研究者の研究成果も、共有財産としてとらえられるようになるでしょう。このように、世界の兄弟姉妹の持つものを、自分もともに共有しているひとつの財産ととらえるならば、私たちは自然と、世界に目を向けることができるようになりますし、迫害のうちにある兄弟姉妹のため