「神の国、異邦人の地に臨む」

聖書箇所;マルコの福音書5:1~20/メッセージ題目;「神の国、異邦人の地に臨む」 妻とまだ結婚する前、交際中の頃のこと。妻は当時、関西地方で宣教師になるための訓練を受けていたが、ときどき私の携帯電話に電話をよこしてくれた。ある日、働いていた教会から駅に帰る道で、妻から電話がかかってきた。うれしいことだが、気持ちは複雑。なぜならば、そのとき通っていた駅への近道が、谷中霊園という墓地の中だったからである。15代将軍徳川慶喜のお墓、ステテコを流行らせた三遊亭圓遊のお墓、高橋お伝のお墓、その他もろもろの数えきれないお墓に囲まれて、電話でデートをする羽目になったわけである。それも、すっかり暗くなった夜。何とも言えない気分になった。 お墓という場所は、死者のお骨がたくさん埋まっている場所。好んで近寄りたいとは思えない場所である。しかし、このお墓を棲み処(すみか)とし、真っ裸で凶暴ななりをしているような男がいるとしたらどうだろうか? 怖いなんてものではない。さきほどお読みしたみことばは、そのような男がイエスさまによって変えられる場面である。 1節のみことば。イエスさまは群衆をあとにして、嵐吹くガリラヤ湖を渡って、向こう岸のデカポリス、異邦人の地に赴かれた。そのとき、ひとりの男の人をめぐって起きた一連のできごとは、神の国が異邦人の地にいかにして臨んだかを、雄弁に物語っている。特にこの男の人にスポットを当てながら、男の人に起きた変化を観察しつつ、神の国の臨む前(過去)、神の国の臨むとき(現在)、神の国の臨んだのち(未来)の、3つのポイントから語ってまいりたい。 まずは、神の国の臨む前。2節のみことば。……神の国の臨む前は、人は悪しき霊に支配された状態である。墓場とは死んだ者のいる場所である。墓場にいるということは、生きてはいてもほとんど死んだ者として振る舞っている、ということである。神の国の臨む前の人は、永遠のいのち、神さまにあるまことのいのちがとどまっていないかぎり、どんなに生きているように見えても、神さまの目には死んだ人である。 3節から5節。悪霊に取りつかれた人のこの恐ろしさを見よ。あまりに狂暴なので、人々は彼に足かせをはめ、鎖につないだ。しかし、いったいどんな力が働いているのか、彼はその鎖を引きちぎり、足かせを壊して暴れる。夜となく昼となく墓場で大声を上げて叫びつづける。 注目すべきは、彼が自分のからだを傷つけていた、ということである。自ら進んでからだに傷をつけることは、精神がむしばまれている証拠である。なんという苦しみの中に彼はおかれていたことであろう。 人間はこんなにも悲惨になるのである。デカポリスの人々は、彼のことをこうして隔離し、のけ者にし、鎖と足かせで縛りつけて、なんとかことを収めようとした。しかし、それも甲斐なく、どうしたってこの恐ろしさそのものの彼のことを見ないわけにはいかなかった。彼の存在は、デカポリスの大いなる悩みの種だった。 悪魔と悪霊どもは、まことの神さまを知らない者たちのことを翻弄する。偶像礼拝をもって共同体を霊的に混迷させたりもするが、この場合は、悪魔に魅入られたような者を用いて共同体に不幸をもたらしている。日本もそうだったが、明らかに悪霊の支配を受けている人間の存在によって共同体が混乱させられるということは、古今東西存在してきたことである。いずれにせよ、そこには主が統べ治める「神の国」は臨んでいるとは到底言えない、悲惨な状態になっている。 しかしここに、悪霊を追い出すことのおできになるお方が登場された。イエスさまである。それでは、神の国の臨んでいる状態、「現在」を見てみよう。 6節。悪霊に取りつかれたこの男の人はイエスさまを礼拝した。これは、悪霊がイエスさまのことを礼拝しているということである。駆け寄ってきて礼拝したということは、イエスさまこそが礼拝すべきお方だということを、悪霊どもは知りすぎるほど知っていたということである。 イエスさまは、ユダヤ人の地域でだけの神さまではない。ユダヤの外に出ても、異邦人の地域においても、神さまである。悪霊がユダヤでだけ悪霊ではないのと同じことである。ガリラヤをあとにされ、異邦人の地域においても、神さまとして存在された。 それを念頭に置いて7節、8節を見ていただきたい。何の関係がありますか、というのは、マタイの福音書8章29節の、ほぼ同じような内容の箇所から、なぜ悪霊がそのように言ったのかが類推できる(地名や悪霊につかれた人の人数など、若干のちがいはあるが、ほぼ同じ話である)。「まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか」と言っているが、「その時」とは、イエスさまが十字架と復活を経て、天に昇られ、聖霊が注がれ、使徒たちが神の国の福音を携えて、ユダヤを越えて異邦人の地、世界にまで出ていくそのとき、ということを指している。 悪霊は、そのような神さまのご計画を知っていた。だから、まだまだ大丈夫だ、とばかりに、デカポリスを霊的に支配し、特にこの男の人のことを苦しめるだけ苦しめていた。ところがそこに、イエスさまがやってきたからさあ大変、である。 嘘だ! まだ使徒たちが異邦人の地に派遣されていないばかりか、イエスさまは十字架にすらかかっておられないではないか。やめてくれ! 話がちがうぞ! お願いだから滅ぼさないでくれ! 面白いのは、悪霊が「神によってお願いします」とイエスさまに懇願していることである。私たちが神さまのことをよく知らないで済ませているうちにも、悪霊はよっぽど神さまのことがわかっているし、神さまの権威を認めている。 ヤコブの手紙に、行いによって信仰のあることを示すことをしないようなクリスチャンに対して苦言を呈すメッセージの中に、こんなことばが挿入されています。「あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。」(2章19節)神さまのこと、イエスさまのことを知識で知っている程度ならば、悪霊だって同じである。神さまに従順であるかどうかが問われている。 9節。イエスさまは悪霊に名前を問われた。レギオン、とは、ローマの6000人からなる部隊であり、それだけたくさんの悪霊がその人に取りついていた、ということである。名前をつかむ、ということは、とても大事なことである。聖書にはとても多くの人物が登場するが、名前が登場する場合と、名前が登場しない場合とでは、イメージを具体的に思い浮かべるうえで差が出てくる、ということは経験しているだろう。 だれかのために祈るとき、やはりせめて名前は知っておいた方がいい。その人がどんな人か、ということをまた聞きするとき、結構、その情報を提供してくれた人のバイアスがかかるものである。しかし、名前はバイアスのかかりようがない。名前を挙げて祈ろう。 10節。この地方から追い出さないように、という彼ら悪霊どもの祈りは、この地方はまだ俺たちの天下だ、余計なことをするな、という驕りが透けて見える。否が応でもイエスさまに支配させない姿勢である。イエスさまの神の国が宣べ伝えられるところには、その共同体における悪霊の支配が終焉を迎えるという、素晴らしいみわざが起こされてしかるべきである。 11節。ちょうどそこにはおびただしい豚が飼われていた。神の民ユダヤに与えられた律法では忌み嫌うべき動物であり、イエスさまご自身も、せっかく宣べ伝えられたみことばに対してきわめて否定的な態度を取り、せっかく伝えてくれた人を恩知らずにも攻撃するような剣呑な人間のことを、豚に例えていらっしゃる。 12節。そういう意味では、この男でだめだったら豚に取りつかせてほしい、という、彼ら悪霊どものことばも、一応は筋が通っていると言えた。13節。すると悪霊に取りつかれた2000匹の豚は、ガリラヤ湖目がけて突進し、そのまま溺れて死んだ。悪霊どもは生き永らえたのではない。滅ぼされたのである。こうして、この男の人は、無事に悪霊の支配から脱した。 14節。豚を飼っていた人たちは逃げ出した。そして、いったい何が起こったのか言い広めた。うわさを聞きつけた人々は、イエスさまのいるところまでやってきた。15節。これがあの男か! そして、このイエスという人は、この男をこのようにしたのか! 彼らは震え上がった。 16節と17節。彼らはイエスさまに、この地方から出ていってほしいと頼んだ。それは、この男の人から悪霊を追い出された霊的権威を前に震えおののいたということもあっただろうが、やはり、この地域の産業であった養豚業が少なからぬ打撃を受けたことも大きかったのではないだろうか。 私は最初、この箇所を読んだとき、イエスさまはもっとほかの方法で悪霊を追い出されることはなさらなかったのかな、と思ったものだった。彼らこの地方の人々がイエスさまに出ていってほしいと頼むのはある意味当然じゃないかな、と。しかしここで私たちが考えるべきは、「悪霊に取りつかれた人」のことであろう。 いったい彼は、ここまで悲惨な生き方をしたくてしていたのだろうか? 自分ではどうにもならない、ただ悪霊に支配されるしかなかった彼は、あまりに醜く、そしてこの地上で苦しむだけ苦しんだ末に、行きつく先は永遠の地獄である。この世に生まれたばかりに、地上で地獄を味わい、のちの世で地獄を味わう、そんな彼を救って、何が悪いのだろうか? 私が神学生のとき、「弟子訓練」を一緒に受けていた信徒さんの中に、シムさんという方がいた。お仕事は3000頭の豚を飼う養豚場のオーナーで、彼は教会の子どもたちから「テジアッパ(ブタさんのパパ)」と呼ばれていた。 彼はほかの訓練生同様、1年間の弟子訓練のコースを通じて、めきめき信仰が成長していかれたが、ひとりの人を大切にするというサラン教会の牧会哲学を身に着けられたこの方だったら、どうしただろうか? イエスさまがもし、この男の人を救うためにあなたの豚3000頭のうち2000頭を差し出しなさい、とおっしゃったならば、どうなさっただろうか? ひとりの人を救うために、自分の大切な財産である豚を差し出しかねなかったのではないか、そんなことを思う。 もっとも、彼らデカポリスの人々は、神の国の福音を受け入れられるだけの下地を持ち合わせてはいなかった。やはり異邦人としての限界の中に生きていたのである。イエスさまもそんな彼らの限界をよくご存じで、彼らが「出ていっていただきたい」と言えば、イエスさまも争わず、彼らのもとを去っていかれた。 しかし、これだけならば、イエスさまはなぜ、わざわざガリラヤをあとにして、嵐吹くガリラヤ湖を渡ってまで、デカポリスまで赴かれたのだろうか、そこで宣べ伝えられるべき神の国の宣教は失敗に終わったのか、ということになるだろう。この話は終わっていない。 そこで、「神の国が臨んで以降の『未来』」のお話である。18節。彼はイエスさまについていこうとした。彼はもちろん、これほどまでのことをしてくださったイエスさまに一生ついて行きたいと思ったことだろう。あるいはもしかしたら、自分のことを邪険に扱いつづけたデカポリスの人たちに見切りをつけたかったのかもしれない。 19節。イエスさまは彼を弟子に取らなかった。その代わり、彼を直ちにデカポリスの働き人として派遣された。なんと、使徒が立てられるはるか以前に、イエスさまは「異邦人宣教」の道をすでに開いておられたのである。そして20節。彼はイエスさまがなさった大いなるわざを宣べ伝えた。 彼らはイエスさまを拒絶したかもしれない。しかし、この男の人は曲がりなりにも同じ共同体の最大の問題人物であった人であり、それがこれほどまでに変わったという事実を見せられては、イエスさまを信じるしかない。やはり、レギオンの悪霊が追い出されたなりの霊的効果が現れていたのである。 彼の未来は、イエスさまの弟子として添い遂げることではなかったかもしれない。しかし、イエスさまの働き人としてイエスさまを宣べ伝える人となった。神の国はこうして、この男の人にも、デカポリスにも臨んだのだった。 ここは、やはりこの男の人に、そしてこの人に注がれたイエスさまの愛に注目しよう。 生きて地獄、死んで地獄のこの人を、天国の人にしてくださったイエスさまの愛。墓場の狂人、共同体に問題しか与えなかった人を、神の国の働き人としてくださったイエスさまの愛。その男の人を救い、素晴らしい使命を与えるためだけに、はるかガリラヤ湖を越えてデカポリスまでやってこられたイエスさまの愛。 私たちも考えよう。私はとても悲惨だった。そんな私ひとりを救ってくださるためにイエスさまはこられ、十字架によって救ってくださった。そして私はこれから、イエスさまによって神の国の働き人として用いられる。イエスさまは私に、どんな働きを望んでいらっしゃるだろうか? この男の人は最初の願いを聞いていただけなかったが、イエスさまのおっしゃったとおりの使命を帯びて、用いられた。私たちもイエスさまの望みどおりの人となり、用いられるように。

「どうして怖がるのですか」

聖書箇所;マルコの福音書4:35~41/メッセージ題目;「どうして怖がるのですか」  船乗りという仕事は、なんというか、ロマンを感じさせる。漁師、海上自衛官、クルーズ船の乗組員……今はあまり行かなくなったが、時間があるとき私はたまに大洗に行き、苫小牧行きのフェリーを眺め、ああ、北海道にこれで行ったら楽しいだろうなあ、フェリーの乗組員なんて、いつも旅行をしているようなもの、うらやましいなあ、などと思ったりした。  しかし、「板子(いたご)一枚下は地獄」という船乗りのことわざがあるとおり、海というものはただ船を悠々と浮かべてくれるやさしいものとはかぎらない。荒れたときにはその凶暴さをむき出しにする。下手したら波に呑まれて死んでしまう。その冒険心をくすぐるヒリヒリした感覚がいいのだと、もしかしたら船乗りの人たちは思うのかもしれないが、死んでしまってはおしまいである。  私たちの人生は、しばしば船が海を行くこと、「航路」に例えられる。多くは波のない海を行くがごとく、平穏無事に過ぎゆくものだが、時に私たちの人生には、荒波のような試練が襲いかかるときがある。  今日の箇所は、イエスさまの弟子たちが文字どおりの荒波に襲われる、という、ハラハラするような場面。しかし、イエスさまはこれを治められた。この湖の旅をとおして、イエスさまは弟子たちに何をお教えになったのだろうか?  特にイエスさまのおっしゃったみことば、「どうして怖がるのですか」に注目しよう。もちろんイエスさまは、そうか、キミたちは怖かったんだね、おお、よしよし、とおっしゃりたいわけではない。わたしの弟子ともあろうあなたたちは怖がってはいけないでしょう? それが怖がるとは、どうしたことですか、と、叱咤激励しておられるのである。  今日の箇所は短いので、ポイントに分けず、最初から見てまいりたい。35節。イエスさまは畑の種蒔きのたとえほか、いくつかのたとえを弟子たちに解き明かされたその日、夕方になってから、ガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうと弟子たちを促された。弟子たちはもちろん、お従いした。  私たちクリスチャンの歩みとは、イエスさまが「行け」と命じられたら行き、「とどまれ」と命じられたらとどまる、その歩みの繰り返しである。私たちはクリスチャンとしてふさわしく歩むために、イエスさまの御声につねに耳を傾ける必要がある。イエスさま以外のもの、テレビとかインターネットとか、はたまたご近所や職場のうわさ話などを聞いて、それで心の中がいっぱいになっていては、イエスさまの御声を聞き分けることができず、したがってイエスさまに聴き従うことはできない。  弟子たちがお従いしたのは、絶対的な師であるイエスさまが目の前におられ、御声をもって促されたからである。私たちも弟子たちのように、イエスさまを目の前にするように生きているならば、御声は必ず聴けて、お従いできる。 しかし、形式的に礼拝をささげて、形式的にディボーションをささげさえしていれば大丈夫というものではない。こうして弟子たちに交じって御顔を見、御声を聴いていたイスカリオテのユダが、土壇場でどんな選択をしたか。イエスさまを十字架に引き渡すような、究極の罪を犯したではないか。私たちは形だけでみことばの語られる場に同席するのではなく、生ける交わりを体験することである。私たち自身をイエスさまの御前に、日々赤裸々に差し出そう。  36節。イエスさまのみことばとみわざを求める群衆はまだそこにいた。しかし、イエスさまはそこから新たなところに行かれるとおっしゃるので、弟子たちはついて行った。群衆に関わっていると、イエスさまは本来のお働きができない。もっと大事な、みこころにかなうお働きに赴かれ、それに弟子たちはお従いする必要があるのである。  イエスさまは群衆に対して意地悪だったのではない。よりご自身の存在とみわざが必要なところに赴かれたのである(それについて詳しくは来週学ぶ)。そこで、弟子たちはイエスさまを舟にお乗せして出発した。ほかの舟も一緒だった、とあるが、弟子たち以外にもついていく者がいた模様である。このような人は、群衆の段階から弟子の段階へと成長を遂げつつある人である。私たちもそうなりたい。  しかし、弟子として成長することはひとりでにできることではない。成長させられるために、ときに厳しいところを通らされる。折しも夕方、あたりは暗くなっていた。真っ暗な中、広くて深いガリラヤ湖を舟で渡るのが危険極まりないことは、少なくともその中の4人がガリラヤ湖の漁師出身だった十二弟子にはわかっていたはずである。しかし、これはイエスさまの促しである。「でも、おことばどおり」の信仰をもって、彼らは一歩を踏み出した。 37節。果たして、ヘルモン山から標高からの落差1200メートルのガリラヤ湖の湖面に、激しいおろし風が吹きつけて、湖は荒れだした。水は舟の中に入り込み、なお波に激しく揺られ、いまにも湖に呑み込まれ、沈みそうになっている。  激しく揺れている。風に吹かれている。波が呑み込もうとしている。湖に投げ出されそう。その恐怖はいかばかりか。それは動物的な本能のような恐怖と言えたろう。しかし、その舟の中にあって、イエスさまだけはちがっていた。38節。まるで死んだように、ぐっすり眠っておられたのである。もちろん疲れておられたわけだが、同時にこれは弟子たちへのテストともなった。  弟子たちはどうしたか? イエスさまを起こした。しかし、彼らは何と言ったか?「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか!」……。こんな深夜の荒れた湖に連れ出したのは、イエスさま、あなたじゃないですか、それが、私たちをよそに、われ関せずとばかりに眠っておられるなんて、何なんですか! どうしてくれるんですか! その悲鳴にはまるで非難がこもっているようだった。  しかし、もちろんイエスさまは弟子たちを放っておかれる方ではなかった。39節。イエスさまは風を叱りつけ、湖に「黙れ。静まれ」と命令された。すると風はやみ、すっかり凪になった。イエスさまは弟子たちを守られたのと同時に、ご自身がみことばひとつですべてを動かされる、全能なる神さまであることを示されたのであった。  しかし、イエスさまはただ単に風と波を鎮められたのではなかった。40節。イエスさまは弟子たちをお叱りになった。「どうして怖がるのですか。」そしてイエスさまは、彼らが怖がって取り乱したことは、彼らにまだ信仰がなかったからだと喝破された。イエスさまは単に全能なる神さまであることを示されただけではない。弟子たちの不信仰を取り扱われたのだった。  イエスさまがともにおられるならば、彼らは湖におぼれて死ぬことなどあり得なかった。それは、イエスさまが死なれるのは、十字架にかかられてであり、弟子たちもイエスさまの十字架と復活を経て、永遠のいのちをいただき、彼らはこのような場面でむざむざ死ぬのではなく、イエスさまのあとにしたがって自らの十字架を背負い、イエスさまについて死ぬように定まっているからであった。仕方がなかったとはいえ、弟子たちはそのことを悟ることができないでいた。  しかし、弟子たちにそこまでの信仰が育つまでには、なお一層のお取り扱いが必要だった。この、荒れ狂う湖の体験は、その意味で弟子たちにとって必要なものであった。 私たちにせよ、弟子たちのような恐ろしい体験をして、正気でいられるだろうか? だがイエスさまは、そのような中でも揺るがない信仰を与えてくださるお方である。弟子たちはその後もさまざまな体験をさせられて、信仰を育てていただき、主の働き人とならせていただくに至った。  私たちを取り巻く状況も、ときに厳しい。とても解決しないように思えて、恐れをいだいたり、むなしくなったりもするだろう。しかしイエスさまは、そのような状況のただ中でもともにいてくださるお方である。私たちの信仰が問われる。私たちはそのようなとき、眠っておられるようでも、変わらずに、眠らずに働いてくださっている、イエスさまに対する信仰を確かに持って祈るべきである(詩篇121:4)。  41節。弟子たちはイエスさまのご存在に、「恐れた」とある。この「恐れ」は、イエスさまが弟子たちを叱責された際に用いられたことば「怖がる」と、同じといえば同じ。実際、英語の聖書ではどちらも「アフレイド」と訳している。しかしギリシャ語では同じではない。40節で、イエスさまは弟子たちが「怖がった」ことを叱責されたが、この「怖がる」は、ギリシャ語では「臆病な」と同じことばである。  キリストの弟子は臆病だとなぜいけないのだろうか? それは、臆病な者は地獄に堕ちるとみことばに警告されているからである。嘘ではない。ヨハネの黙示録21章8節には、地獄に落とされる人の第一の条件として「臆病な者」と挙げられている。 臆病な者とは、神さまはどうせ自分のことを怠け者扱いして罰を与えるだろうからと、賜物を活かすこともせず、ただのんべんだらりと生きる者のことをいう。まさしく、1タラントを包みにしまって土に埋めておくような者である。そういう者は終わりの日にさばかれ、外の暗闇に放り出され、泣いて歯ぎしりしても中に入れてもらえない。  しかし、その地獄の警告をやたらと怖がり、主の働きをすることに尻込みするならば、それこそ臆病な態度である。こわがってはいけない。神さまは自分のことを地獄に落とすかもしれないと怖がるあまり、何もしないのではなく、神さまを「正しく」恐れることである。 天地万物を統べ治めるお方、それなのに私のことを瞳のように守り、愛してくださるお方……まさしく、風と荒波が鎮められたのを目の当たりにした弟子たち、死の危険から守っていただいた弟子たちのように、イエスさまを恐れるならば、その恐れは正しいものであり、その正しい恐れから、イエスさまに対するまことの従順は生まれてくる。要は、イエスさまとの正しい関係、愛の交わりを持つことに尽きる。  「どうして怖がるのですか。」怖がること、臆病なことは、信仰が確かでない証拠である。私たちは風や荒波のようなできごとを見て、それに翻弄され、「怖がって」いるうちは、まだ臆病な段階ではないだろうか。私たちはだからこそ、たとえ眠っているように見えても、実は生きて私のために働いてくださっている、ともにおられるイエスさまに対する信仰を日々増し加えてくださいと、祈る必要がある。「それでも」怖がる自分に気づかされるならば、なおのこと、その祈りに集中する必要がある。  私たちの「怖れ」「臆病」を、主の御手に取り扱っていただこう。間違った怖れを主に対する正しい恐れに変えていただくために、私たちから取り除いていただくべき「怖れ」は、何だろうか? 具体的に祈って示していただき、それを取り除いていただくべくお祈りしよう。「どうして怖がるのですか」と叱責されるような怖れではなく、主を正しく恐れる恐れに満たされ、そこから主の働きに用いられていこう。

「みことばの解き明かしはなぜ必要なのか」

聖書;マルコの福音書4:21~34/メッセージ題目;「みことばの解き明かしはなぜ必要なのか」 イエスさまがたとえで語られたのは、それが庶民の理解力に合っていたからである。しかし、それが庶民に理解できなかったのは、イエスさまに責任があることではない。わからなければお尋ねすればいいのである。それをお尋ねし、そのほんとうの意味するところを悟らせていただくならば、その人は「群れ」から「弟子」へと脱皮する。 ことはたとえだけではない。聖書というものは、その気になればだれにでも理解できるのだが、へりくだって聖霊さまの知恵を求めないかぎり、わからない仕掛けになっている。わからないのは、わかろうとしないからである。この点、私たちは「群れ」でいいと思ってはならない。みことばの意味を悟らせていただき、従わせていただく「弟子」になって、イエスさまにどこまでもついていく、祝福された人生を歩んでいただきたい。 いまこうして私はメッセージを語らせていただいているが、これは別名「みことばの解き明かし」という。私たちは、みことばの解き明かしをいただいて、ふさわしくみことばを理解し、その理解したことを生活のただ中で実践する。あるいはそのみことばをやさしいことばで人々に宣べ伝える。いずれにせよ、みことばを証しする生活をする。 その証しの生活、人々の前で神の栄光を顕す生活のために、みことばは理解されていなければならない。みことばはわからないままでいてはならない。 十二世紀の真言宗の僧侶、西行(さいぎょう)が伊勢神宮にて詠んだ歌、「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」この歌は、日本人の宗教観をよく表しているだろう。仏教者が神道のカミにそういう感情を抱く、いかにも日本的である。いや、日本人に限らず、もしかすると結構多くの人が、この歌の語るように、ありがたければそれでけっこう、と、信仰の対象を深く見極めないで終わらせてはいないだろうか? しかし、私たちを愛し、私たちと深い交わりを持つことを願っていらっしゃるイエスさまの前では、それはいけない。「ああ、このたとえは何やら面白いね、深いね、すばらしいね」と思っても、その意味をちゃんと悟ることがなかったならば、そのたとえを語ってくださったイエスさまに感謝したことにはならない。たとえにかぎらず、一見するとわかりにくいみことばをただ読んだだけで、わかったつもりになって、何やら霊的ステージが上がった、などと思うのは、自己満足にすぎない。だから私たちは、みことばの解き明かしをいただいて、ちゃんと理解する必要がある。 今日は、今日の箇所で語られた4つのたとえを3つのポイントにまとめて、たとえのような「難解な」みことばは、なぜ解き明かされなければならないのか、もっといえば全般的に、みことばの解き明かしはなぜ必要なのか、学んでまいりたい。 ①みことばの解き明かしはなぜ必要なのか、それは、神の国の奥義が人々に伝えられるため みことばは秘密から始まっている。イエスさまが地上で生活しておられた公生涯において、やむをえず弟子たちの見ている前で神の子としてのみわざを行われたり、御姿をお見せになったりされたときも、それを言いふらしてはならないと厳しく戒められた。しかし、やがてイエスさまは十字架におかかりになり、復活され、天に昇られ、聖霊が降られて、人々はイエスさまが神の子であるとを証しする者と変えられた。 もはや秘密ではない。その光を人々の前に照らすべきである。しかし、その光を升の下に置いたら、その光はまるごと消えてしまう。寝台の下に置いたら、肝心の照らす人間は寝台の上で眠っているし、自分の部屋さえ照らせていない。だれのことをも照らす明るいところに掲げるから、光なのである。 とはいえ、その光が光としての役割をするためには、光の扱い方をよく知っておく必要がある。光とはろうそくにともす火であるが、火はまかり間違うと、大火事を起こす。いま世間を騒がせている韓国発祥の異端は、本来人々を照らして神さまへと向かわせるはずだった火の取り扱いを最大限に間違えた群れであり、その被害は大変なものである。 私たち人間は、子どものうちは火を扱わせない。火を扱うことができるのは、火についても、たとえば引火しやすいものや引火しにくいもの、風向きといった、その他あらゆる事象についてもよく理解を深めた、大人である。私たちもクリスチャンはみことばの光を掲げるために、光の性質をよく理解し、どうすれば最も効率的に光を掲げて明るくできるか、どうすれば火事にならないか、どうすれば人や自分をやけどさせないか、火の取り扱い方をよく知る必要がある。私たちが、光なるみことばをよく学ぶ必要があるのは、そのためである。 しかし私たちは、学ぶことで終わらせてはならない。学んで自己満足ではマニア、オタクである。パリサイ人はみことばをよく学んでいても、それを愛なく人をさばく道具としてしか用いなかった。悪い意味でのみことばオタクである。学んだら人を励ます、慰める、力づける、新たな働きに送り出す……みことばとはそのように用いるべきものである。私たちがみことばを学んで恵まれたら、その恵みを新たな人へと「流そう」。それが、明かりをふさわしく照らすことである。 ②みことばの解き明かしはなぜ必要なのか、それは、解き明かされてその価値がわかれば、私たちはますます、みことばを求めるようになるため 24節。これも一見すると難解なことをおっしゃっているが、宣教という文脈で読み解くと、イエスさまから聞くこと、すなわち私たちにとっては、みことばを読んで学ぶことをするならば、それを受け取る信仰の大きさに比例して、学んだだけ自分に与えられ、さらに学んだ以上のものが与えられる、ということである。 それは私たちも体験していることではないだろうか? 私たちはみことばを学ぶことで、その背後にある神の愛、神の慈しみを知り、神さまによりいっそう感謝するようになる。何が神さまの嫌っておられることかを知って、その価値観を持つことや行いをすることを避けるようになる。神さまの願っていらっしゃることを具体的に知り、生活のただ中で実践するようになる。こうしてますます、神さまとの強い結びつきを体験し、愛し愛される関係に入れられる。 しかし、そのような神さまとの愛の交わりに、そもそも関心を持たない人、そういう人は、学ばない人である。学ぶことに関心などない人である。学ばない人にとって福音は「猫に小判」である。小判の価値も使い方も知らない猫には、小判をやっても何の意味もないので、猫から取り上げて自分で使うしかない。 この「猫に小判」の西洋版のことわざは「豚に真珠」であると一般に言われているが、何を隠そう、このことわざはイエスさまがおっしゃったみことばである。ただ、「豚に真珠」は正確には「猫に小判」と意味が同じではない。価値ある福音を真珠の飾りを豚がひづめで引き裂くように粗末にし、福音を伝えた者に豚が突進するように攻撃を加え、傷つける。そういうことをする人は日本にも、世界にもごまんといる。そういう人への福音宣教のわざは今日も怠りなくなされているが、彼らが謙遜に主の御前にひざをかがめ、恭しくみことばを受け取らないかぎり、神の国が拡大しないのは主の摂理である。 私たちはみことばの恵みを取り上げられない者となるために、学ぶ者となりたい。みことばを語る人を愚かにもさばく者とならないために、学ぶ者となりたい。私たちは学ぶ者となることで、そのみことばの素晴らしさ、豊かさを具現する人となる。そうしてみことばを宣べ伝える人として用いられ、豊かに受けただけのみことばの恵みを、人々に分かち合うようになる。私たちは人々に証しする喜びのゆえに、もっとみことばを求める者となるだろう。 わからないみことばは人に伝えることなどできない。わからないみことばなど、どうやって実践できるだろうか? もっと学ばせてください! もっとわからせてください! 用いていただくために! それが私たちの祈りとなるようにしよう。 そして26節から29節、私たちはみことばを学んで成長するわけだが、成長そのものは、私たちの努力という要素だけで説明できるものではない。私たちはもちろん、人々が成長するためにみことばの種を蒔く必要がある。しかし、成長させてくださるのは神さまであり、伝道や宣教の種蒔きをした者、牧会のような霊的成長の手助けをして水やりをした者、どちらかがより偉いのでは決してない。もちろん、成長する者そのものが偉いわけでもない。 終わりの日は収穫の日である。その収穫に向けて、神さまは最後まで教会を成長させてくださる。私たちは神の畑であるが、神の同労者としての自覚も持ち、謙遜に成長するとともに、謙遜に奉仕させていただこう。神の民として成長するために、神の同労者として成長するために、日々みことばを学ぼう。 ③みことばの解き明かしはなぜ必要なのか。それは、そのみことばが国家単位、民族単位に至る、多くの人に共有されるため。 31節。からし種は野菜であるが、聖書箇所によってはこれを「木」とも表現する。鳥が巣をかけるような丈夫な枝を張り、3メートルにも5メートルにも大きくなる。この「からし種」の種の実物をご覧になったことのある方もおられるだろう。まるでほこりの粒のように小さい。これが大きく大きく成長するのである。 ここでイエスさまは、「空の鳥が巣をつくる」と語っていらっしゃる。このたとえは、単なる漠然とした象徴ではない。エゼキエル書31章6節をご覧いただきたい。ここでは「木」とは、当時の大国であるアッシリアのことを指し、アッシリアの庇護のもとに国々が集まることを「鳥が巣をつくる」という比喩で表現している。 始まりがガリラヤの片田舎だった福音宣教、神の国が、やがて世界中に広がり、世界の国々とその民がその神の国の陰に宿ることになるわけである。時代は下り、世界の様々な国々が、キリスト教国として建国された。それは、その国々が、大いなる神の国の陰にあることを高らかに宣言した、という意味である。 からし種は小さいがとても大きくなる。このたとえを聞いた者も十二弟子プラスアルファの少人数であった。しかしそこから始まった神の国の福音は、世界をおおった。国々が神の国のもとに身を寄せた。そして、いまわずかな群れである私たちからも、神の国が世界に広がるビジョンを思い描かないか? 神の国の旗印である「神の愛」は世界を変えた。人々を奴隷状態から解放し、疎外された人を神のかたちとしての人に回復させた。神の愛に動かされて人々はまことの安らぎを得られるように世界を変える努力をしている。その歩みはなお途上にあり、この「巣」を壊す企てはやまないが、それでも福音の宣べ伝えられるところ、国や民族の単位の変革がもたらされる。 そのように変革するには、みことばが人々にわからないままでいてはならなかった。医療を行うでもいい、福祉を行うでもいい、学校を建てるでもいい、人々を愛するためにキリストの犠牲に倣っていること、すなわち、その生き方において解き明かされているみことばが、人々に具体的に伝わっている必要があった。 私たちの信じる福音、宣べ伝える福音は、国と民族に及ぶもの。この点で私は韓国のクリスチャンから多くのことを学んだ。彼らは国と民族に世俗化が進もうとも、決してあきらめずに祈りつづけている。今度は私たちが日本のために祈る番である。私たちのすることは大それていなくてもよい。ともしびを掲げることが大事である。日本が神の国に身を寄せる国家と民になることを信じて、祈り、福音を宣べ伝えよう。 ●みことばの解き明かしはなぜ必要なのか。それは、私たちが解き明かされたみことばにしたがって生き、人々にイエスさまを証しする働きに用いていただくためである。 私たちは学んだみことばを、どのように実践することによって、この世界に変革をもたらす器として用いていただけるか、祈ってみてはいかがだろうか? 私たちの周りに、飛んでくる鳥が巣をかけるように憩いを得て、みことばによって力づけられ、みことばを携えて飛び立つ人が興されるように、祈ってみてはいかがだろうか? そのように、みことばの恵みを「流す」ために、みことばから何をどのように学ぶのか、今ここで具体的に決心をしよう。

「みことばは正しく蒔かれていますか」

聖書箇所;マルコの福音書4:1~20/メッセージ題目;「みことばは正しく蒔かれていますか」 本日の箇所は大きく分けて、イエスさまが群衆に、たとえで説教をされた場面と、そのたとえを弟子たちの前で解き明かされた場面からなる。私たちはこの箇所を読めばもう、たとえが何を意味するか分かっているが、ひとつひとつ見ていくと、次のとおりになる。 種を蒔く人、これはみことばを蒔く人である。つまり、みことばを宣べ伝える人である。このみことばの種はまず、道端に落ちた。すると、鳥が来て種を食べてしまった。そのたとえの意味は、ある人はみことばが蒔かれて、すなわち、みことばが伝えられてみことばを聴くと、そこにサタンがやって来てその蒔かれたみことばを取り去ってしまうということである。 聖書がはっきり語るとおり、サタンはいる。聖書を読むと、イエスさまの時代において、ところどころで、悪霊に取りつかれた者の存在がクロースアップされているが、この時代の群衆は、悪霊の親玉であるサタンのことを、かなりリアルに感じていたはずである。しかし、サタンや悪霊はその時代だけに存在していたわけではなく、いまもなお、しぶとく存在している。 彼ら悪の勢力のすることは、せっかく人に伝えられたみことばを持ち去ることである。たとえば、みことばが伝えられている現場、礼拝でも伝道集会でもいいだろう、メッセンジャーはいっしょうけんめい語っているのに、居眠りしたり、別のことを考えたりしている。これは、サタンにみことばを持ち去られている状態である。 だから私たちは、せっかく蒔かれたみことばをサタンに持ち去られないための対策を講じる必要がある。みなさまの中に、メッセージのメモを取っている方がおられるが、これはみことばをサタンに持ち去られないための、とてもいい方法である。全身を耳にして「聴く」(耳と十四の心で{聴く})その内容を、手を使い、目で見ながら落とし込む作業である。こうすることで私たちは主の宮なる自分のからだと心に、がっちりとみことばを抱え込み、サタンに取られないようにできる。 また、礼拝の前日は質のよい睡眠をとる。夜食を取ったり、遅くまでテレビを見たりしないで、早く寝る。起きたら静かに祈って礼拝に期待する。こういうことも大事。最近はコロナ下ということで、空調をつけていても換気をするようになっているが、これは新鮮な空気を吸うことで脳を活性化させ、みことばに集中する上でよいことである。コロナが収まっても続けていいことではないだろうか。 サタンはなぜ、私たちにみことばが根づいたら「やばい」と思っているのか? それは、私たちがみことばに従順になったら、いよいよ自分たちが世界を支配できなくなる、この世にいよいよサタンの居場所がなくなることを知っているからである。私たちがそれほど、神さまに大いに用いられるポテンシャルを持っていることを、サタンは私たち自身以上によく知っている。私たちはだから、サタンの計略にだまされないで、みことばにとどまり、みことばを守り行う喜びに満たされてまいりたい。 ともかく、サタンは私たちにみことばが根づかないように虎視眈々と狙っているので、私たちの側でも真剣に対応する必要がある。これは戦いである。いま、私たちにとって、こぞってみことばをお聴きする時間は日曜日のこの時間をおいてほかにないのだから、一週間の計画を立てるにあたり、ぜひ日曜日の礼拝に勝利するようにすべてを調節していただきたい。私もみなさんのために祈る。 次のたとえは、土の薄い岩地に種が落ちたら、土が深くなかったのですぐに芽を出したが、日が昇るとしおれ、根づかずに枯れてしまった。その意味は、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れるが、自分の中に根がなく、しばらく続くだけ。その後でみことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人のこと。 みなさんも普段からみことばを読んで感じていらっしゃることと思うが、みことばはこの世のいかなる文学や教えともちがう、独特の雰囲気と説得力、それに美しさを持っている。それはもちろん、神さまに由来するからそうなのだが、その雰囲気や美しさに惹かれる人というのは、一定数この世には存在する。だからこそ、こんなにクリスチャンがいないような日本の国においても、ホテルに聖書を置いてもらう働きがここまで保たれてきたわけである。聖書は読まれているのである。 イエスさまは、待ち受ける迫害に怖気づいて、もはや蒔かれたみことばが根づくことがない人のことを説かれた。これは日本だと充分にあり得ることである。特に、バプテスマを受けることにそれが表れている。バプテスマを受けてこそ私たちは名実ともにクリスチャンと名乗れるわけだが、日本においては、それは仏壇や神棚、神社仏閣、仏式や神式の葬儀にくみしない態度で、公に表明することが要求される。そこまでみことばに従順になることはしない、というわけである。しかしこれは、弟子の態度ではない。 これを解決するには、一にも二にも、教会の教会姉妹の助けと励ましが必要である。まず、私のところに来て、祈りを要請していただきたい。そのために真剣に祈ることを約束する。そして、この祈りの課題を教会で共有し、ともに祈ることに取り組んでいただきたい。 この祈りはすでに信仰生活がある程度の年数に達している、私たちにとっても取り組むべきことである。私たちもみことばを守るべきときに、守れない、いや、守らないという選択をしてしまいかねない。その葛藤は大変なものである。神さまに問われる思いで押しつぶされそうにもなるだろう。互いのために祈る必要がある。もちろん、私も、毎日みことばをお読みしているが、そのみことばをたがえずに実践できるように、迫害を怖れて尻込みして、実践することを控えることのないように、お祈りしていただきたい。 三番目のたとえは、茨の中に種が落ちた場合。茨が伸びでふさいでしまい、実を結ばなかった。これは、みことばを聞いたのに、この世の思い煩いや富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぎ、実を結ばない、ということ。 これは覚えがないだろうか? みことばは確かにそう言っている。それはわかる。「でも」、現実はこうだ、常識はこうだ、私はそれどころじゃない、もっと大事なことがある……なんだかんだで、みことばに従うことをしない。 それらはすべて、神さまとそのみことばよりも、自分のことを大事にする姿勢から生まれる。自分ファースト。状況が悪い、あの人が悪い、だからみことばを守れない、というだろうか? いや、それは、みことばを守れないことを状況や人のせいにして、自分の責任を回避する姿勢である。 要するに、神さまよりも自分のほうが大事、と言っていることになる。これは非常によくない。私たちはつねに、心の動機を聖霊なる神さまに点検していただく必要がある。みことばに従えないのは、自分のことしか見えなくなっているからではないだろうか? そういう人はみことばを守り行なって実を結ぶことが、とても難しい。神の栄光を顕すため、人を救うために、すべてを捨てて十字架におかかりになったイエスさまの御姿を、しっかり思うことだ。わが恩師、オク・ハンフム先生は、一日5分、イエスさまの十字架を黙想せよとおっしゃった。5分ならトイレに行く時間とどっこいどっこいではないか。ぜひ実践しよう。 以上のことをイエスさまはお語りになった上で、よい地にみことばの種が落ちれば、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶことを約束してくださった。 私たちがよい地になるためには、サタンがやってくるようなことのないようにしなければならない。茨城の農地にはかかしや、飛んでいる鷹のような凧が設置してあって、鳥が飛んでこないようになっているが、鳥は賢ければそんなものなどものともしない。鳥が寄ってこないためには、猟銃を構えた漁師が待ち構えるしかない。 イエスさまこそ、そのようにサタンを追い払ってくださるお方である。イエスさまとの交わりを持つことで、サタンの寄ってこないよい地になる。そのために自分には何ができるか考えよう。 私たちがよい地になるためには、薄い岩地を肥沃な大地にしなければならない。みことばを雰囲気でいいものと思うことにとどまるような初歩の段階を抜け、どんなに苦しくてもみことばに従順に従うことを選べるように、そんな信徒を養えるだけの愛と祈りの共同体を、この教会の中に育てていくことである。そのために自分には何ができるか考えよう。 私たちがよい地になるためには、茨を取り去らなければならない。茨が伸びるに任せていては、私たちはいつまでたっても、自分たちが用いていただけないことを、現実のせい、環境のせい、人のせいにすることから抜けられない。この茨を、私たちは取り除いていくために、イエスさまに、何が取り除くべき茨なのかを祈っていく必要がある。そのために自分には何ができるかを考えよう。

「二重の慰め」

聖書箇所;ヨナ書4:1~11/メッセージ題目;「二重の慰め」 本日はヨナ書の最後の学び。ヨナ書を読むたびに私は、韓国教会に深くかかわってきた過去を持ち、韓国人宣教師と一緒に暮らしている者として、韓国の方が日本に福音を宣べ伝える姿と、ヨナの姿を二重写しにしてしまう。多くの場合、韓国人にとっての愛国心は、日本に対する複雑な感情と表裏一体のものである。それはクリスチャンであっても同じ。もちろん教会では、赦しなさい、ということが聖書から語られているから、みなさん、歴史的にひどいことをしてきた日本を赦そうと努力しておられる。しかし現実はとても難しい。 先週はヨナ書3章を学んだ。再び宣教の使命を与えられたヨナが、主のみことばをアッシリアの大都市ニネベに伝えて回ると、身分の高い者から低い者に至るまで悔い改め、その姿をご覧になった神さまが、わざわいをニネベに下すことを思い直された、という内容。 ヨナは宣教のわざに用いられた。主のご栄光を豊かに顕した。では、それでよかった、めでたし、めでたし、となったのだろうか? 4章は冒頭から、実に衝撃的なことが書かれている。まずは1節。ヨナは怒った。自分の語った預言のとおりにならなかったからである。なんと、大魚の腹の中で心底悔い改め、再び用いていただくべく整えられたヨナが、ここにきて、自分が宣教に用いられたゆえにニネベが悔い改め、神さまがわざわいを下されないことに、激しい怒りを燃やしたのである。 ヨナは主に何と申し上げたか? 2節。タルシシュへのがれようとしたのは、神さまのみこころに自分は絶対に従いたくなかったからだ。しかし神さまの強い導きで、結局は従った。その結果が、この惨めな思いだった。ヨナはまるで、タルシシュ行きの船が難破から守られたこと、荒海に投げ込まれても溺れ死ななかったこと、そこから救われて、大魚の腹の中で神さまとの愛の交わりを回復したことなど、すっかり忘れてしまっているようである。 それにしても、ヨナはいったい何を言っているのか。「あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直される方であることを知っていたからです。」これは、詩篇86篇15節など、聖書のいたるところに登場する神への賛美だが、ヨナもまた、神の働き人として、主の情け深さ、あわれみ深さ、怒るのに遅いこと、豊かな恵みをつねに主から受けていたし、大魚の腹の中では特に、その主の素晴らしさを味わっていた。 こんな反逆する自分に何という情けをかけてくださり、あわれみを与えてくださるのだろうか! このような自分のことをその御怒りによっておさばきにならないで生かしてくださり、豊かに恵んでくださっているのか! 神さまのこのご性質を心底味わっていた。この詩篇の告白はすなわち、ヨナの告白になっていた。それがいまや、同じことばのはずなのに、賛美は一転して、「そういうお方だからこそ」大嫌いだと言わんばかりに、主を貶めることばになってしまっている。なんだか妙なことになってしまっている。 主との愛の交わりができているならば、主の備えておられるあらゆるご性質、たとえば創造主であられるとか、愛なるお方とか、義なるお方とか、全知、全能、唯一、きよいお方……こういったことはことごとく、そのまま賛美のことばになりうる。だが、神さまとの愛の交わりがなかったら、そのご性質はそのまま、その人にとっては、主を貶めることばになってしまう。きよい、というご性質だったら、そんなきよいお方にはこんなけがれた自分のことなど理解できまい、となる。唯一、というご性質だったら、ほかの神々を認めない一神教は怖い、独善的だ、などと誹謗する。全能、というご性質は、人間には限界を設けておいてずるい、となる。 神さまのご性質は人間にとっては、そっくりそのまま、賛美にもなれば、貶めることばにもなる。ヨナは、神さまのご性質を、神さまを責めることばとして用いた。愛なるお方だから素晴らしい、ではない。愛なるお方だから憎らしい、である。今やヨナにとって神さまとの愛の交わりは、危機的な水準にあった。 その危機的な状況は、3節のみことばに表れている。ニネベの市民にいのちをもたらしたばかりのヨナが、今度は自分が死ぬことを願っている。しかし、死にたいと願うなどとは、ヨナのたましいが極めて病んでいたことがわかる。ニネベの人たちを滅ぼさないのがあなたさまのみこころなら、いっそ私を滅ぼしてほしい、とさえ言っているようである。 しかし、主はこのヨナの嘆きを聞き逃すことはなさらなかった。4節。人は怒っているとき、自分はまったく間違っておらず、間違っているのは周りのほうだと思うものである。ここでヨナはなんと、神さまを相手に、正しいのは自分で、間違っているのは神さまのほうだと、怒りを発しているわけである。しかし、神さまを相手にしたこの怒りは、果たして正当なものだろうか? 神さまはすぐには答えを与えず、ヨナのなすがままにさせた。5節。ヨナは、みことばを宣べ伝える預言者である。このニネベに遣わされたならば、その悔い改めが徹底したものとなるべく、ニネベの市民に神さまのみことばを徹底して教えることをすべきだった。少なくとも、神さまが別の町に行ってみことばを語れとおっしゃらない限り、彼はニネベにとどまるべきであった。しかし、ヨナはそれをせず、町の外に出ていった。またもやヨナは使命を放棄したのである。 その代わりにしたことは、わざわざ仮小屋まで作ってその中にすわり、このニネベの町がどうなるかを見物することであった。神さまはニネベにわざわいを下すことを思い直されたということだが、それでもその前にはたしかに自分に、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」というみことばを託されたのだから、神さまはそのみことばをたがえずに成し遂げられるかもしれない、つまり、ニネベを滅ぼしてくださるかもしれない、と、一縷の望みをかけたのだろう。 一見するとこの態度は、神さまのご主権、また正義に拠り頼んでいる態度といえなくもない。しかし、そこには神さまの愛という視点が決定的に欠けていた。また、このヨナの態度は、宣教の働きに召された神さまのみこころに対する不従順だけではなく、ニネベを滅ぼされないという神さまのみこころに対する不信仰でもあった。 そんなヨナだったが、神さまはヨナに介入された。6節。ヨナは、灼けるような暑さの中、依怙地になってニネベを見つめていた。そんなヨナに、神さまはその頭をおおって陰を作ってくれる、とうごまのつる草を生えさせてくださいました。すると、ヨナはこの唐胡麻を非常に喜んだ、とあります。灼けつく暑さから守って涼しくしてくれるこの草があっという間に生えてきた。 ヨナはこれを体験して、自然を支配される神さまは自分のためにみわざを行なっておられる、やっぱり神さまは自分の味方だ、と思ったことだろう。もしかすると、こうして唐胡麻を生やして暑さから守ってくださっている以上、ニネベの滅亡を期待して自分が町を見守っているこの行為は間違っていないと、神さまが教えてくださったのだ、とか、ヨナは勘違いして喜んだのかもしれない。 しかし、神さまはこの唐胡麻からもヨナに大事なことを教えられた。7節。唐胡麻が不思議なようにしてたちまち生えたのは、それが神さまによるものであるとヨナが知るためだった。しかし、同じようにして、たった1匹の虫によって、唐胡麻は枯れた。神さまはこのことをとおしても、それがご自身のみわざであることを知らされた。 朝になってどうなったか? 8節。神さまは唐胡麻、1匹の虫に続き、照りつける太陽と灼けつくような東風を備えられた。その結果ヨナはどうなったか? 暑さにやられて身も心も衰え果て、死にたくなったのだった。なんだ、唐胡麻を備えて涼しくしてくださった神さまは、結局は自分のことを見放しておられるじゃないか……。 しかしヨナは、暑くて死にそうになっているのに、主の御名を呼び求めて「主よ! 助けてください!」と叫ぶことをしてはいない。かえって、自分のいのちがなくなることを望んでいる。いのちなる神の愛を、これっぽっちも実感していない模様であった。 しかし、主はそのようなヨナに話しかけられた。9節。神さまは、4節でおっしゃったみことばをそのまま再びヨナに語られた。4節では、神さまがニネベを滅ぼされなかったことを怒るのか、と、ヨナを責められるが、この9節では、神さまが唐胡麻を枯らされたことを怒るのか、と、ヨナを責められる。ヨナは、唐胡麻を枯らされたことに死ぬほど怒っているのは当然です、と、神さまにお応えした。 ヨナは、たかが草1本が枯れたことに、なぜそんなに怒っているのだろうか? ヨナは神の民であり、神のみことばを託された働き人であることに、強いプライドを持っていた。神の愛は自分のような者にこそ注がれるべき、と考えていたとしても不思議はない。 その意識は、タルシシュ行きの船が難船して、海に放り込まれ、大魚に呑みこまれたとき、その腹の中で神さまに立ち帰ることにおいてはとても益になった。しかしその一方で、憎っくきニネベ市民が滅ぼされなかったことに、強い怒りを感じたのであった。また、神の働き人である自分のことを、唐胡麻は守ってくれるかと思いきや、結局は守ってくれなかったことにも怒った。ニネベのおびただしい数の市民よりも、自分のことのほうがよほど大事、それが今のヨナだった。 そんなヨナのことを神さまは諭された。10節と11節。自分で種蒔きも育てもせず、たった一夜で生え、たった一夜で滅びる唐胡麻さえ、あなたは惜しんでいるではないか。だがわたしはこのニネベのおびただしい民を創造し、今に至るまで愛をもって育ててきた。だが彼らは、わたしの愛をわきまえ知らなかったばかりに、滅びようとしていた。それを悔い改めに導き、滅ぼさないことの何が悪いのか? ヨナよ、すべての創られしものに向けられた、わたしの愛を知ってほしい。あのはかない草をさえ惜しんだヨナよ、あなたにならそれがわかるはずだ……。 思えば、神さまの怒りに触れるべきニネベは、滅ぼされて当然の存在であった。その民は悔い改め、神さまからのいのちを得るに至った。このことに本来ヨナは慰めを得るべきであったが、それでもその慰めに気づかないヨナに、神さまはこれでもか、これでもか、と、あらゆる環境をとおして慰めを与えられた。 私たちも普段の生活で疲れよう。ほんとうは私たちが生きていることで、どれほど多くの人が主にある私たちの生き方を見て、触れることで、主に出会っていることだろうか。しかし、私たちはそのような主のお導きを、時に見失ってしまう。そんな私たちは、主に用いられていること、そしてそんな私のことを主が顧みてくださっていることに、二重の慰めを見出すべきではないだろうか? 私たちは今、神さまに恨み言を言いたくなっていないか? それでいい。取り澄ました態度で神さまの前に出ても始まらない。ここで私たちは、傷ついた心のままで、神さまの御前に出ていこう。いやしをいただこう。そして、それでも用いてくださる神さまの御声を聴くことを、御手に触れていただくことを、いま体験しよう。

「愛されているゆえに愛を伝える」

聖書箇所;ヨナ書3:1~10/メッセージ題目;「愛されているゆえに愛を伝える」 今日の箇所は、悔い改めの末に再び宣教の使命に立ち帰らされたヨナが、実際にニネベに行って宣教する場面である。ヨナの宣教を通して、ニネベの町は老若男女が悔い改めに導かれ、それをご覧になった神さまが、わざわいを下すことを思い直されたというのだから、ヨナの宣教の結んだ実は相当なものだった。 1節と2節。ヨナは、主のみことばに反した行動を取って、大きな懲らしめを受け、ようやくのところでいのちが助かった。主は、このようにみことばに反する行動を取る者であっても、一度主が召された人であるならば、主はそのみこころをその人を通して成就されるまで、何度もその人を立たせられる。 主がニネベに宣教のわざを成され、その町を悔い改めさせる――この働きにふさわしいと主が見込まれ、用いられる働き人は、ヨナをおいてほかにいなかった。たとえヨナが、イスラエルという国家と民族を大切に思うあまり、イスラエルに敵対するアッシリアに対して激しい憎悪を抱いているような人物であったとしてもである。みこころに反する行動を取って、嵐に巻き込ませてタルシシュ行きの客船の乗客や船乗りに大きな迷惑をかけ、挙句の果てには海に放り込まれた、そんな人物であったとしてもである。 いま、自分は大した状態ではないから、主はきっと自分のことを用いてくださらないだろう……そんなことを思ってはいけない。主に救われている……主を愛している……それこそが、主に用いていただける条件である。復活のイエスさまがペテロを再び宣教と牧会の働きに召されたとき、イエスさまは多くのことはおっしゃらなかった。ただ、「あなたはわたしを愛するか」と、三度にわたって問いかけられたのみであった。三度にわたってイエスさまのことを知らないと言ってしまったペテロは、「私はあなたを愛します」とはさすがに言えなかったが、「私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えた。イエスさまを愛しているという事実を、イエスさまのみこころという変わらない基準にゆだねたのであった。 私たちもそうではないだろうか?「私はイエスさまを愛します」と正面切って言えないような、主に対するうしろめたさを私たちはもしかしたら抱えているかもしれない。しかし、私たちが主を愛しているかどうかを決めるのは、私たちの移ろいやすい感情ではない。主ご自身が、私たちは主を愛していると決めていてくださる。 だから私たちは、自分の不確かな心の声に惑わされてはならない。私たちは堂々と、主を証ししていい。主に用いていただいていい。たとえ自分が不完全に思えてならなくてもである。なぜならば、私たちは主を愛しているからであり、私たちが主を愛していることを、ほかならぬ、主が認めてくださっているからである。 3節。ヨナは大魚の腹の中で、自分に向けられた主の愛に立ち帰った。そしてその主の愛に、愛をもってお応えしようと決意した。ヨナが地中海のどの海岸に打ち上げられたかは、聖書は記していないが、そこから内陸の町のニネベに向かうだけでも長旅である。しかもその先にあるニネベの町は、行き巡るのに3日かかるとても大きな町である。このような町に向かい、実際にその町で宣教するには、どれほど主への愛と宣教に対する情熱に燃やされていなければならなかったことだろうか。 ヨナはどのようにして宣教を開始しただろうか。4節。このときのヨナの状況を、少し想像力をたくましくして考えてみよう。折しもアッシリアは、当時の中東で最大の勢力を誇る国家だった。それに比べるとイスラエルは、アラムから領土の一部を取り返したとはいえ、アッシリアとは比べるべくもない弱小国家だった。そのような国からやってきた預言者が、なにやら叫んでいる。「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。」普通に考えるならば、強大国を代表する都市の市民に向かってこんなことを言う弱小国の預言者などは、その場で殺されて当然である。ヨナも、そのようなリスクの中、伝えて回った。 ヨナにはなぜそれができたのだろうか? 信仰のゆえである。天地万物をお造りになり、お治めになる神さま、荒海から救い出してくださった神さまが、ここに遣わしてくださり、用いてくださるのならば、自分のすることは従順に従うことだけだ……ヨナはあれこれ考えず、ただひたすらに、ニネベの町に宣告を下すことに専念したのだった。 するとどうなったか? 5節。なんと、唯一の神さまなど信じないはずのニネベ市民がこぞって、神さまを信じたのである。そして、悔い改めを表明し、主がさばきを思い直してくださることを切に求め、神さまに懇願するしるしとして、荒布をまとった。 そればかりではない。6節。悔い改めは、ニネベを統べ治める王さまにまで及んだ。彼は王座から立ち上がり、王服を脱いだ。つまり、王として君臨することをやめたのである。そして、荒布をまとい、灰の中にすわった。王でもなんでもない、神さまの御前にあるひとりの罪人として、神さまの御前に出て行った。ただし、王はそれをあくまで王の立場として行なったのであるから、王のこの悔い改めの行動は、アッシリアという国を代表してのものであった。 そればかりではない。王は悔い改めを、ニネベの町に徹底させた。7節から9節です。二十世紀以来、今もなお存続している共産主義国家がそうであるように、神さまを無視する者たちは、血で血を洗うような悪に陥る。このニネベも、神さまを認めない者たちが、きわめて残虐なことを行なっていたため、その悪が主の御前に立ちのぼり、ついには神さまがニネベを滅ぼさなければならないほどになっていた。まるで、ノアの時代に大洪水で滅ぼされた人々、アブラハムの時代に天からの火と硫黄で滅ぼされたソドムとゴモラの人々のようである。 しかしここに来て、ニネベの人たちは、神さまがあわれんでくださり、この町を滅ぼさないように思い直してくださるよう、一生懸命に努力した。徹底した断食を呼びかけ、荒布をまとって悔い改めることを呼びかけた。 注目したいのは、獣や、牛や羊などの家畜までが食べたり飲んだりすることを許されないばかりか、荒布をまとわされた、ということである。悔い改めの表現として、断食したり、荒布をまとったりということはもちろんすべきことであるが、獣や家畜、つまり動物までに悔い改めをさせようということは、イスラエルの民ならば、おそらくやらない悔い改めの方法である。なぜならば、動物は人間とちがってそのうちに霊がなく、神のかたちに創造されてはいないものであり、したがって神に対し悔い改めの祈りをささげることなど、そもそもできないからである。それでもニネベの人々がこのような行動を神さまの御前で取ったのは、ちょうど、嵐に巻き込まれた客船に乗った人たちがそれぞれの神々に祈り、ついにまことの神さまに行き着いたようなものである。 神さまは、このような祈りをささげるニネベの民をどうしただろうか? 10節。ついに神さまは、ヨナに託された宣教のわざをかなえてくださった。神さまは、ニネベの人たちが悪の道から立ち返ろうとする、その「努力」をご覧になって、わざわいを下すことを思い直されたのだった。神さまは、ご自身に立ち帰ろうとする者たちのことを、決してお見捨てにならないお方である。 ただ、この記述を表面的にしか読まないと、まるでニネベの人々は努力したことによって救いを勝ち得たように思えてしまうことだろう。果たしてそうなのだろうか? まず、この悔い改めのわざは、ヨナという預言者がニネベに行かなければ、そもそも始まらないことだった。だがヨナは、イスラエルを思うあまり敵国アッシリアになど宣教に行きたくなくて、わざわざまったく違う方向の地の果てにまで行こうとした人である。そういう人を召され、用いられたのは主である。 そして、ヨナは当然のように敵国の大都市ニネベで宣教したわけではない。そこには殺されるかもしれないというリスクがついて回っていた。だが、ヨナは殺されなかった。そればかりか、この町の人々は神さまを認め、神さまからのさばきの宣告をほんとうのことと受け止めて心から恐れ、徹底した悔い改めを実践した。 このプロセスは、主がご介入されたのでなければ、絶対に起こりうることではなかった。主がニネベを滅びから救われたのは、究極的に言えば、ヨナがニネベの市民に神さまを信じさせたからでも、ニネベの市民が悔い改めの努力をしたからでもない。主がそのように定められ、そのように導かれたからである。ヨナは、そのみわざのために用いられた器でしかなかった。 このことからわかるのは、たとえ悪に満ちていた人々であったとしても、主は限りなく、彼らのことを愛しておられる、ということである。そして、その愛を伝えるご自身の器のことも、特別に愛しておられる、ということである。ヨナの伝道が成功したのは、このニネベのことを愛によって救おうとされる主のご主権に、ヨナがどこまでも従順に従ったことにあった。 あとでご自宅でヨナ書2章のみことばを読み返していただきたい。そのときヨナは、真っ暗な大魚の腹の中にいたが、ニネベを悔い改めに導くべく用いられたヨナは、まず、自分が徹底して悔い改める恵みにあずかった。そこで彼は、タルシシュ行きの船の船底で眠り込んでいたときには決して見ることのできなかった、主の御顔を仰ぎ見ていた。真っ暗な中で神さまを見失っていた彼は、真っ暗な中で神さまの光に照らされる恵みにあずかった。この神さまの光を、彼は罪により暗く閉ざされていたニネベの町に照らしたのであった。 しかし、ヨナの伝道が成功したのは、ニネベが悔い改めに導かれたこと以上に、あのかたくなだったヨナが従順に主に従ったことにあった。神の民だという理由で持っていた変なプライドのゆえに不従順の罪を犯しつづけることなく、ニネベ宣教という主のご命令に従順に従ったということ、これがヨナの宣教における最大の成功である。 学生時代、私はキャンパス・クルセードという宣教団体にいたが、そこでつねに教えられていたことばがある。「伝道における成功とは、ただ単に聖霊の力によってキリストを伝え、結果は神にお委ねすることである。」私たちはつい、救われること、つまり、伝道の対象者が信仰告白に導かれることが「伝道における成功」と考えてはいないだろうか? それはある便槽かもしれないが、救う、救わないということ、言い換えれば、人が信仰告白をする、しないということは、神さまのご主権の領域である。だから、そういう意味では、私はだれだれさんを救いに導いた、という表現は、よく考えればおかしい、ということになる。その人が救われようと救われまいと、私たちのすることは、聖霊の力によってキリストを伝え、その結果を神さまにお委ねすることである。 ヨナは、神の霊、聖霊に導かれるままに神のことばを語った。その結果、聖霊はニネベの人に、救われようという強い思いをくださった。そして神さまは本来のみこころどおり、ニネベの民を死のさばきから救われた。 このような、神さまのみことばを伝える働きを担う者たちのことを、神さまは特別に愛してくださる。そして愛されるゆえ、愛しておられる民のもとに遣わしてくださる。私たちもまた、主が愛しておられる茨城県の人たちのもとに遣わされた、神さまの特別な愛を受けた者たちである。 最後に、ローマ人への手紙10章8節から15節までを読もう。これは私たちのことである。私たちはよい知らせを宣べ伝える麗しい足である。私たちがどんなに愛されているか、いま確かめよう。そして、この愛を私たちはだれに伝えたいか、今週、その人に対して、私たちはどんなアクションを起こすように導かれているか、祈ってお尋ねしてみよう。 <祈ってみよう> ・主よ、私の身代わりにひとり子イエスさまを十字架につけてくださったほどの大きな愛によって愛されている、その愛を心から思い、感謝するものとならせてください。 ・主よ、これほどまでに私のことを愛してくださっているその愛を、私はだれに語るべきでしょうか、教えてください。 ・主よ、その人のために、私は今週何をすべきでしょうか、教えてください。

「ヨナの悔い改め」

聖書箇所;ヨナ書2:1~10/メッセージ題目;「ヨナの悔い改め」  先週はヨナ書1章を学んだ。海を荒れさせた神の怒りを鎮めるため、ヨナは海に投げ込まれた。そのヨナのために神が大きな魚を備え、その魚にヨナを呑みこませた、というところで、ヨナ書1章は終わっている。本日お読みしたヨナ書2章のみことばは、そのほとんどが、大魚の腹の中でヨナが神におささげした告白に費やされている。1節ずつ見ていこう。  1節。ヨナは大魚の腹の中に導かれた。ひとすじの光も届かなくて真っ暗、消化中の大量の魚介類に埋もれてぬめぬめして生臭い場所、胃壁から分泌される胃酸に触れたら肌もただれる。不快極まる場所だが、それまで大海原のただ中にいて溺れ死にしかかっていたことを思えば、比べ物にならないほど安全な場所なのはたしかである。   少なくともここなら、いのちが脅かされることはない。なによりも、じっくりお祈りすることができる。ヨナは、環境がどうであろうと、神に祈りをささげることのできる恵みをしっかり噛みしめたのではないだろうか。  2節のみことば。私のことを海に投げ込んでください、と船乗りたちに言ったヨナだったが、実際にそういうことになってみて、いのちが脅かされるとはどういうことか、初めて思い知ったのだった。  しかし、私たちは祈りに応えていただける。人は時に、とんでもなくいのちが脅かされるような瞬間に出会うものだが、もともと全能なる神さまとの関係を持つ者はその危機をきっかけに神に立ち帰るという、大きな恵みを体験する。これは神さまが私たちに対して下される、わたしに立ち帰れ、という懲らしめ、俗っぽい言い方をすれば、愛のむちである。ヨナは苦しみの果てに、祈りが聞かれたことを知った。祈りが聞かれている確信。これは、私たち神の子どもたちに与えられている特別な恵みである。  3節。この告白によれば、あなた、つまり、神ご自身が私ヨナを海に投げ込まれたのだと告白している。そうだとすると、ヨナが船乗りたちに向かって、自分のことを荒海に投げ込んでほしいと言ったのは、やけを起こしてではなかったのである。ヨナは、神のみことばをゆだねられた預言者であったが、その彼が、神のみこころは自分を海に投げ込まれることだと受け取り、神に対してせいいっぱいの従順を実践したのであった。ヨナを海に投げ込まれたのは、人ではなく、神ご自身だった。これは神によるヨナに対する愛のお取り扱いだった。 ただ、そのお取り扱いは、とてもきびしいものだった。潮の流れにもまれ、大波小波が頭の上を越えたということは、息もすることもできないような海水の中にいたということであり、苦しいなんていうものではなかった。しかしここでヨナは「あなたの波、あなたの大波」と告白している。このきびしい波、波に次ぐ波は、ほかならぬ神から与えられた愛のお取り扱いであったことを、ヨナは心から認めて告白している。  4節。ヨナは、私は御目の前から追われました、と告白している。神さまがヨナを目の前から追い出された、ということである。 しかし、もともと主から逃げたのはヨナのほうである。主はヨナをお用いになろうと、ニネベに行って宣教せよとのご命令をくださった。それから逃げてまったく違うほうに行ったのはヨナのほうである。それを、主がその目の前から追われた、と告白するのはどういうことだろうか? それは、ヨナ、逃げようと思うならばやってみなさい、と、主があえてヨナを逃がされた、ということである。 その結果、ヨナはどんどん主の使命から遠ざかり、挙句の果てはいのちさえ危機に瀕した。だが、ここでヨナは気づかされた。自分の求めていたことは主の御顔を避けることではない、むしろその反対に、主の聖なる宮を仰ぎ見ること、つまり、主の臨在の前に進み出て、主を仰ぎ見ることだということを、自分は求めていたのだと。  ヨナは、人から教えられて主に立ち帰るべく促されたのではない。主ご自身からの悟りを与えられて、その顔を主に向けて方向転換したのだった。「悔い改め」ということばは、「悔い」ということばが入っているので、なにやらくよくよ後悔するようなイメージがついて回りそうだが、ほんとうの悔い改めとはそのようにくよくよすることではなく、もう完全に主に向かって、過去の罪深い自分とすっぱり手を切ることを意味する。 ヨナは悟りを与えられて、不信仰と反抗に満ちた過去の自分を捨て、主に向かおうとする強い意志と欲求が与えられたのだった。この悟りを与えてくださるお方は神ご自身である。悟りが与えられることは主の大きなあわれみ、また恵みである。主の御名をほめたたえよう。  だが、この悟りを与えてくださるために、主は時に激しい形でのお取り扱いを及ぼされる。5節、6節前半。ヨナは、地中海の海底のさらに奥深くまで、そしてその最も低い水底に生えた海藻に髪の毛が取られるほど、奥底に沈んだと告白している。そこでヨナの見たものは、山々の根元というべき海底の岩々であり、ヨナはその底に落ち込み、地のかんぬきが自分の後ろで下ろされた、もう、ヨナはここで人生が終わったのだった。だが、ヨナは生きた。  こんなことがあるだろうか? 人は、ほんの少し海に沈んだだけで、窒息して死んでしまう。それがヨナの場合、水責め、土責めの息苦しさがいつまでも続き、どこまでも深く深く、海の底に沈んでいく一方だった。ヨナは「いつまでも」死の苦しみが続く状態を体験したのだった。これをヨナは「よみの腹の中」と表現したのだろう。よみの闇の中では、人のたましいは消滅して苦しみも何もなくなるわけではない。よみに下ったたましいは、やがて来るさばきによって永遠に火の池に投げ込まれ、永遠に焼かれつづけて苦しむのである。  しかし、主はこのようなヨナをどのように導かれたか? 6節後半。  聖書にはしばしば「穴」というものが登場する。創世記には、ヨセフが兄たちに謀られて穴に落とされる場面が出てくる。ヨセフを待つものは、兄たちに殺されるという運命だった。だが、兄のひとりのユダの発案によって、ヨセフは殺されることなく、穴から引き上げられ、いのちが助かった。のちにこうしていのちの助けられたヨセフは数奇な運命をたどり、イスラエルを救う器として大きく用いられることになった。 また、ヨナよりもはるかあとの時代の預言者エレミヤも、穴に沈められて、そこから引き上げられるという体験をしている。そして、墓という「穴」からの生還を果たされたお方は、イエスさまだった。 ヨナがこのように告白するのは、ヨセフのように、もはや死ぬまでだった運命から救われて、いのちを救う働きに用いていただくようになったという、感謝に満ちた告白ではなかろうか。  7節。ヨナは悟りに至るまでに、主の御顔を避けつづけたばかりに、たましいが衰え果てていた。そうなったら、そのたましいが主に向かうことは、とても困難になる。しかし、そのような状態で主の御前に出ることができたとしたら、それはもはや、恵みとしか言いようのないことである。主は、たとえたましいが主に向かえないほど衰え果ててしまった者であったとしても、その人を愛しておられるかぎり、必ず立ち帰らせてくださる。 もし、私たちの周りにたましいが衰えてしまっている人がいて、そのために心を痛めていらっしゃるならば、どうか失望しないでお祈りしていただきたい。いや、もしかするとその衰えた人とは、自分自身のことかもしれない。失望しないでいただきたい。主は必ずお祈りを聴いてくださって、引き上げてくださり、主に心が向かうようにしてくださる。  8節。ヨナは、主の素晴らしいみことばをゆだねられた預言者である。それは光栄に満ちていることであり、とても恵まれている。一見するとこの告白は、偶像礼拝の国アッシリアにあらためて宣教に行くぞという決意表明のようにも見える。だが、偶像礼拝という問題は、まずヨナの中にあった。 ヨナは、アッシリアへの敵対心に裏打ちされた歪んだ愛国心、選民思想を自己中心とはき違えた歪んだ民族主義という、神さまご自身に取り替わる偶像を心に抱えていた。もちろん、ヨナは何も、時の為政者ヤロブアム王のように、金の子牛のような目に見える偶像を拝んでいたわけではない。しかし、心の中に神さまご自身以上に大切にする思想を抱え、その思想に殉じて神の御顔を避け、神のみこころを無視したという点で、ヨナはやはり、偶像礼拝者と変わるところはなかった。だがヨナはここに来て、それがどんなにむなしいことかということに気づかされ、今度こそ、主に立ち帰る決心をしたのだった。  9節はそんなヨナの祈りを締めくくることばである。偶像を捨てた者のすることは、いけにえをささげること、すなわち、主を礼拝することである。しかし、礼拝するといっても、形式的に礼拝をささげさえすれば、主はそれで良しとしてくださるわけではない。  いかに威儀を正して礼拝をささげようと、そこに主に対する従順がなければ、主はそれをご自身に対する礼拝と見なされないどころか、偶像礼拝であるとさえ見なされる。 私たちの礼拝をおささげする姿勢も激しく問われている。  しかし、私たちは、例えば今のこの時間のように、プログラムとして礼拝をおささげすることだけを礼拝を見なすべきなのか? 私たちの礼拝は、もっと広い範囲にわたるものであるべきである。ローマ人への手紙12章1節。  私たちのあらゆる行動は、からだを使ってすることである。ということは、からだが主にささげられた聖い供え物になっているならば、私たちの取るあらゆる行動は、礼拝になっていなければ、私たちのからだを正しく用いていないことになる。そう意識するならば、私たちは罪から身を引き、神のみこころにしたがった聖い行いを目指すようになるのではないだろうか? そしてその聖い行いこそ、霊的な礼拝であるというわけである。 だとすると、私たちの持つ信仰とは、頭だけのものとか、形だけのものとかではなく、きわめて実践的なものになる。自分自身を神にささげた者としてふさわしく、いつ、どこで、どんなときも、みこころにかなう行動とは何かということを祈り求め、それを具体的に実践する、この繰り返しこそ、私たちの本来歩むべき歩みである。  こうして、救いはほかならぬ神にあることを悟らされ、それを自分の口で告白したヨナは、10節にあるとおり、3日3晩にわたる真っ暗な大魚の腹の中から解放され、明るくて安全な陸地に戻ってきた。悔い改めによって再出発するチャンスが、ヨナに与えられたのであった。 私たちもヨナのように、悔い改めに導かれる悟りがつねに与えられ、キリストの似姿らしく変えられ、主のお働きをこの地上に現すことで主に大いに用いられるように、主の御名によってお祈りする。私たちは自分に与えられたどんな主のみこころに対して不従順だろうか? いま悔い改めることは何だろうか? 主の御前に出ていく力さえ出てこなくても、いま主の御前に置かれているこの恵みを覚え、主に祈ろう。

「それでもみこころに導かれる」

聖書箇所;ヨナ書1:1~17/メッセージ題目;「それでもみこころに導かれる」 先月でマルコの福音書の連続講解が切りのいいところで終わったので、今月は夏のスペシャルというわけではないが、別の箇所から学ぶ。今月はヨナ書から学びたい。 ヨナは、ニネベという都市に行って宣教せよと神から命令が下ったにもかかわらず、その命令から逃げ、まったく方向のちがうタルシシュという町に行く船に乗った。すると、その船が荒波に遭い、ついにはヨナが荒波を鎮めるために海に投げ込まれるという、短いながらも波乱万丈の物語、ヨナ書はこんなドラマティックなシーンから始まっている。 ヨナは、ニネベに行けという神さまのご命令に従いたくなかった。それはなぜか、そのことを正確に理解するために、まず、ヨナが行くように召されたニネベという都市と、聖書のほかの箇所に書かれたヨナの活動について、まず学ぼう。 ニネベという都市は、ヨナの活動した紀元前8世紀当時の中東社会で最強の国家だったアッシリア最大の都市で、のちにヒゼキヤ王時代のユダを攻撃したセナケリブ王の時代に、アッシリアの首都になった。 アッシリアは周辺国家に圧力を加え、アッシリアに比べればはるかに弱小国のイスラエル王国も抑圧された。ただ、その当時のイスラエルはみこころにかなったよい国とは言えなかった。歴代の王たちは揃いもそろって偶像礼拝者だった。ソロモン王の死後に南北に分裂したイスラエルは、南王国のユダはまだよい王がいたが、北王国イスラエルは、聖書の評価から見れば落第生の王ばかりだった。 ヨナについては聖書にこのような記述がある。列王記第二14章23節から27節。……北イスラエル王国にはヤロブアムという王が2人いたが、こちらのヤロブアムは2世のほう。ヤロブアムもまたほかのイスラエルの王同様、偶像礼拝をするような悪い王だったが、それでも、イスラエルの領土を回復するために主に用いられた人物だった。 もともと、イスラエルの領土が減らされたのは、列王記第二10章の32節から33節までをお読みすると、ハザエル王の統治するアラムの攻撃によるものだったが、それは32節にあるとおり、主のご主権によることだった。 なぜ、このような懲らしめを、主は愛するご自分の民であるはずのイスラエルに対して加えられたのか? それは、直前の10章31節のみことばにほのめかされている。 この箇所の「ヤロブアム」とは、分裂王国となったイスラエルの初代の王であったヤロブアム1世のこと。ヤロブアムは、イスラエルを統合するために、金の子牛の偶像をつくって礼拝させるという、イスラエルの王にあるまじき罪を犯した。一方エフーは、ヤロブアム一世、ナダブ、バシャ、エラ、ジムリ、オムリ、アハブ、アハズヤに続き、10番目に北イスラエルの王になった人物で、アハブ王とその妻イゼベルによるバアル神信仰をイスラエルから追放したということで、その子孫が四代目までイスラエルの王座に着くことを主から約束されるという祝福をいただいた。 しかしエフーは、ヤロブアムの罪、すなわち金の子牛礼拝をやめさせなかった。依然として偶像礼拝者であり、イスラエルを偶像礼拝の道に引き込んでいた。イスラエルの領土が削られたのは、そのような王の主に対するいいかげんな態度、偶像を愛する態度に対する懲らしめであった。 そのようにしてアラムを通して領土が削られたイスラエルの王たちは、たしかにエフーの子孫、アハズ、ヨアシュ、そしてこのヤロブアム二世が代々に王座に着いて、主の祝福の預言は成就していた。しかし、やはり主の与えられた預言は四代目まで王座が続く(四代目までしか王座が続かない)というものだったように、エフーの王朝を終焉させてしまうほど、ヤロブアム2世の偶像礼拝はひどかった。 しかし、希望もあった。このとき、ヤロブアム2世に、アラムに対し戦いを仕掛けよ、そうすれば領土を回復すると預言したのが、このヨナだった。イスラエルの存亡にかかわるような危機的な状態の中で、神の民イスラエルの預言者としての矜持にかけて、王に預言を伝え、果たしてその預言どおり、イスラエルに回復をもたらした主の器、それがヨナだった。 そういうわけで預言者ヨナは、イスラエルを盛り上げるうえで大きく用いられた人物だった。イスラエルという国に対する愛国心ももちろんあったゆえに預言者でありつづけた。その愛国者らしい一面を念頭に置いて考えるべきことだが、今度はそんな彼が、まったくちがうことに用いられようとしていた。 それは、イスラエルを呑みこむような強大国アッシリア最大の都市、ニネベに行って、主のみことばを宣教せよというものだった。理由は2節にあるとおり、「彼らの悪が神の前に上ってきたから」ということだった。 もはやどうにもならないほど主に対する悪に満たされたニネベ……そこに、神のことばを伝えに行け……いや、あんな敵国、神の敵の民族に、救いのことばを伝えるなんて、そんなことができるものか! ヨナは神に反抗し、3節の行動に出た。 ニネベは、イスラエルの首都サマリヤから北東に1000キロほど行った内陸の都市である。しかし、タルシシュは、地中海を経て西の果てに行った場所であり、今日のスペイン南部と推測されている。ヨナの取った行動はまるで、北海道に行けと言われたのに、フィリピンとか、まったくちがう国に向かったようなものである。 ヨナがそのようにまったく違った方向に向かった動機が、「主の御顔を避けたから」であると、みことばには2度も繰り返して語られている。主のみこころは何であるか、ヨナははっきりわかっていたが、従いたくなかった。主の民を苦しめるアッシリアのニネベの者たちに、貴重な福音など伝えるものか! しかし、ヨナの乗った船は大きな嵐に遭い、難破しそうになった。4節のみことばにあるとおり、神さまが大風を海に吹きつけられたからである。この嵐は、神さまがご自身に反抗するヨナひとりを取り扱うために備えられたものでした。ひとりの人を悔い改めに立ち帰らせる神の大きなみこころは、時にものすごい形をとって現される。主はあらゆる環境を用いても、ひとりの人を本来の道に引き戻される。私たちも例外ではない。私たちを取り巻くあらゆる環境を用いて、主はご自身のみこころを私たちに現してくださる。 しかし、船に乗っている人は、それを知る由もない。乗組員たちは、それぞれの信じている神に祈ったり、船の積み荷を海に捨てて被害を小さくしようとしたりした。ところが、肝腎のヨナはと言えば……船底に降りていって、そこで横になって寝入っていた。まるで、これで死ねるなら死んでもいい、とでも思っているようである。 主の御顔が見えなくなった人は、自分のいのちも、人のいのちも、何とも思うことができなくなる。しかし、主はヨナと、船に乗る人たちを捨て置かれなかった。主は船長を用いられた。彼は船底に降りていき、そこで横になっているヨナを見つけ、何を寝ているのか、起きて、われわれが滅びなくて済むように、あなたの信じる神に祈れ、と命じた。 7節に入り、場面は急展開する。舟に乗る者たちは、このわざわいは船にいるだれかのせいで起こったものだと、霊的な感覚から感づいていたようである。そこで、みなでくじを引き、だれのせいでこうなったのかを知ろうと発案する。 くじを引くと、そのくじはヨナに当たった。そこで彼らは、ヨナの正体をあれこれ尋ねた。ヨナはその問いに、自分はヘブル人、つまりイスラエル人であり、海と陸をつくられた天の神、主を恐れる者であると明かした。 この答えに一同は恐れた。天地万物をお造りになった神を礼拝し、そのみこころを知る者が、なぜこのような海をも揺り動かす神のわざわいを引き起こしたのか! しかし、そうこうしているうちに、海はますます荒れてきた。このままではだれも助からない。一同はヨナに、あなたのことをどのようにすれば海が鎮まるか、と問いかけた。ヨナは、この嵐は自分のせいで起こったのだから、私を捕らえて、海に投げ込んでください、と答えた。 しかし、そんな人のいのちを粗末にするようなことは、いかに嵐に遭っていのちの危機に瀕している彼らにも、簡単にできることではなかった。彼らは努力して、船を陸に戻そうと、一生懸命船をこいだ。しかし、海はますます荒れる一方だった。 ついに彼らは、自分たちがこれまで信じてきた神々ではなく、天地万物の創造主に祈りをささげた。14節。 ヨナは、自分のことを海に投げ込んでほしいと言ったが、自分から海に飛び込んで人身御供のようになろうとしたわけではなかった。船乗りたちに自分のいのちをゆだねたのであった。しかし船乗りたちはここにきて、天地万物を統べ治められると同時に、人のいのちを主管しておられる神への、限りない恐れを抱いた。どうか、あなたを恐れるこの男を海に投げ込んだからと、その血の責任を私たちに問わないでください! そして彼らは、ついにヨナを海に投げ込んだ。すると……聖書の表現をそのまま用いると、「激しい怒りがやんで、海は凪になった」。 この荒海は、神の激しい怒りを具現するものであった。しかし、神の怒りは、ヨナのみならず、「それぞれの神」を礼拝する者たちに対しても向けられていたのではなかったか? だが神は、ヨナというひとりのしもべの犠牲を通して、この偶像礼拝者たちを、まことにご自身を恐れ、礼拝する者たちへと変えられた。16節。彼らは主を恐れ、主にいけにえをささげて礼拝している。 さて、マタイの福音書12章38節以下に、イエスさまがご自身をヨナになぞらえるエピソードが出てくる。パリサイ人や律法学者はイエスさまに、しるしを見せてほしいと迫ったが、イエスさまは、ヨナのしるしのほかにはしるしは与えられないと語られ、それに続き、ご自身のことを、ヨナよりもまさったものである、すなわち窮極のヨナはイエスさまである、とお語りになった。 ヨナ書第1章を見てみると、ヨナがイエスさまの象徴であることが表れている。ヨナは、ご自身に反逆する人を滅ぼそうとする御父の怒りをなだめるために、荒海に投げ込まれた。 しかし、それで神の怒りは和らぎ、海は静かになった。イエスさまの十字架というなだめの供え物によって、御父の怒りが和らぎ、人が御父と和解する道が開かれたことと同じである。実際、ヨナを海に投げ込んだ彼らは、それぞれが信じていた神々に礼拝することをやめ、まことの神を礼拝する者たちへと変えられた。 しかし、ヨナはあくまでイエスさまのモデルにすぎない。イスラエルから罪深いニネベに遣わされ、彼らを悔い改めさせる使命を帯びたヨナは、たしかに、天の御国から罪深いこの世に遣わされ、彼らを悔い改めさせる使命を帯びたイエスさまの象徴であったが、イエスさまが御父に従順に歩まれたのに対し、ヨナの心は反抗心でいっぱいだった。 それでも、神さまはヨナのことを見捨てず、また、ヨナによって宣教され、悔い改めていのちを得るべきニネベのことを見捨てず、ヨナに取り扱いの御手を伸ばされることをやめられなかった。神の取り扱いは時に、とても厳しいものになるかもしれない。時にはこの時のヨナのように、周りの人に相当な迷惑をかけてしまうこともあるかもしれない。 しかし、信じていただきたい。神はこのような大いなる取り扱いを通してでも、ご自身の愛を私たちに知らせ、ご自身の使命に立ち帰らせてくださる。私たちは従順になる上で葛藤するでしょう。イエスさまでさえ、十字架を前にして血の汗を流して葛藤されました。いわんや私たちが、主のみこころに従順に従う上で葛藤せずにはいられようか? しかしそれでも、神は私たちのことを、みこころに従う祝福が得られるように、絶えず愛のうちに導いてくださる。 私たちには今、どのようなみこころが与えられているだろうか? 従順になれなくて葛藤していないだろうか? しかし信じよう。ヨナが信じ、私たちの信じているお方は、天地万物を創造された創造主であり、それとともに愛のお方であり、私たちが今考えているよりも、はるかに偉大なお方である。 私たちの偉大な信仰が私たちをりっぱな人にするのではない。私たちは相変わらずみっともなくても、神が私たちのことを限りなく愛して、私たちを通して働いてくださる。私たちは葛藤しながらでも、主のよきみこころを信じて、従っていこう。主が私たちを通して働いてくださるという、この信仰を持ち、今日も、そして明日からも、終わりの日までも、この国の救いのために、ともに用いられていこう。主はヨナを愛されたように、私たち働き人を愛してくださる。

「イエスさまの家族になるために」

聖書箇所;マルコの福音書3:20~35/メッセージ題目;「イエスさまの家族になるために」 落語の演目に「宗論」というものがある。家の宗旨が浄土真宗の商家の若旦那が、キリスト教にかぶれて言動がおかしくなり、そこから宗教をめぐって親子の間で言い争いが起こるという内容。まるで西洋人の宣教師のようにしゃべる若旦那の言動で笑いを取る噺だが、これはクリスチャンが寄席に行って聴かされると、拷問に近い。しかし同時に、世間一般のキリスト信仰に対するイメージを、その観衆の笑いから知ることができるのも事実である。 キリストを信じるのは頭のおかしい人? しかし、これは実は格好いい。松原湖バイブルキャンプのシーズンだが、今から32年前、松原湖で私にメッセージを語ってくださったアーサー・ホーランド宣教師は、「私はキリストの頭のおかしな人になる!」と高らかに宣言し、みな喝采し、自分もまたそのように、イエスさまのために狂った人になりたいと願ったものだったが、アーサーがそのように言った根本の理由は、「イエスさまも周りから頭のおかしな人扱いされたから」ということだった。まさに今日のみことばの語るとおりである。 私の親しくさせていただいている西村希望先生という方が牧会されている、東京の町田にある「みどり野キリスト教会」は、またの名を「ジーザスファミリー」という。実にいいネーミングだが、私たちキリストのからだなる教会は、すべからく「ジーザスファミリー」、イエスさまの家族であるべきである。 しかし、イエスさまの家族になるには、この「気がおかしい」イエスさまと一緒の家族扱いされることを覚悟するばかりか、むしろ喜ぶくらいでなければならなかろう。私たちは、イエスさまのゆえに周りからどう見られても大丈夫だろうか? 使徒の働き5章41節をご覧いただきたい。私たちは御名のゆえに辱められるならば、それは使徒と同じ扱いを受けたということであり、イエスさまの受けられた辱めを身に受けること、名誉なこと、喜ぶべきことである。 今日の本文を見てみると、イエスさまの家族、つまり、母マリアとイエスさまの肉の弟たちが、イエスさまのお働きのうわさを聞いて、イエスさまのことを連れ戻しにやってきたとのことであった。そのようにイエスさまのことが心配だったのは、イエスさまがおかしくなったと聞いたからであった。ここに書かれているとおり、律法学者たちがイエスさまのことを、悪霊につかれていると評価したように、彼らもそう思わされていたことだろう。 イエスさまの育たれた家の家族たちは、イエスさまがお弟子たちを連れて、これほどまでに人気を博しておられるのを知って、戸惑ったことだろう。父ヨセフなき今、大工の家の稼ぎ頭の長男として働いてこられたイエスさまが、今やなさっていることといえば、大工ではなく、人々に神の国を説いて回るお働きである。しかもその教えていることは群衆を惹きつけている一方で、宗教社会を牛耳っている律法学者たちからは目をつけられるようなことであり、これはおかしい、と思ったわけである。 実際、イエスさまがみことばを語られた場に居合わせた律法学者たちは、宗教界の中心地であるエルサレムからはるばるガリラヤまでやってきて、この新しい教えを聞いてみたわけだったが、彼らは、このようにお語りになるイエスさまのことを、悪霊に取りつかれていると判断を下した。イエスさまはそんな彼らの問題点をはっきり指摘された。 そのとき、この家族はイエスさまのおられる場所までやってきて、イエスさまを連れ戻そうとしたのだが、イエスさまは、だれでも神のみこころを行う人がご自身の家族であるとお語りになり、彼ら肉の家族は神のみこころを行っていないゆえに、ご自身の家族と呼ぶわけにはいかないことを言外にお示しになった。 本日の箇所は以上の流れであるが、少しずつ見ていこう。20節。イエスさまも弟子たちも、押し寄せる群衆を霊的に養うために、食事をする暇もなかった。しかし、イエスさまの一行は、あえて食事をしないで彼らやせ衰えた群衆を養うことを選ばれたと見るべきである。この働きに献身するには「狂う」しかない。 私の恩師である、亡くなった玉漢欽牧師は、ご自身が提唱され、実践された牧会のありかたである「弟子訓練」というものは、それこそがまことであると信じきって「狂わなければ」やれるものではないとおっしゃった。しかし、弟子訓練とは単なる牧会の一方策ではない。やはりその頃の私の恩師、神学校の卒業論文の指導をしてくださった鄭聖久教授によれば、弟子訓練とは、信徒がキリストの足跡に従い、生活の中で具体的にキリストに似ていくようにすること、それだけではなく、みことばを分かち合ってほかの信徒に勇気と希望を与え、みことばを黙想してキリストの生き方に似ていくようにすることであるから、一般に「牧会」と呼ばれているものはことごとく「弟子訓練」なのであって、玉先生の牧会されるサラン教会のように、信徒リーダーが小グループでの信徒集団を牧会する、そのリーダーを2年かけて特定のコースで育成する、というものだけが弟子訓練ではないことになる。それでも、玉先生が「弟子訓練は狂ってこそできるもの」とおっしゃったことは、牧会全般が「狂ってこそ」できるものだということである。 イエスさまのご一行も、そういう意味では「狂っていた」。彼ら群衆を放っておけなかったからである。マタイの福音書9章36節をご覧いただきたい。彼らはときの宗教指導者たちからまともに教えを受けていなかったために、間違った律法主義の軛の重さにあえぎ、倒れ果てていた。イエスさまは彼らのことをご覧になって、はらわたもよじれんばかりに深くあわれまれた。そんな彼らが押し寄せてくるならば、食べるために休憩を取ることも忘れるくらい、狂ったように神の国を伝えること、彼らのわずらいをいやすことに専念せざるを得なかった。 21節。だが、イエスさまのそのような姿は、群衆の信仰心をいやが上にも増し加える一方で、イエスさまのことを昔から知っている人や、イエスさまの教えに脅威を感じていたパリサイ人の間に、イエスさまはおかしい、おかしくなったといううわさが広がる原因となった。このことに、イエスさまの育たれた家の家族の者たちは恐れを感じた。こんなことをしていないで、早く家に帰ってきてほしい。大工の仕事をしてほしい。 マリアは、どのようにしてイエスさまをみごもり、この世に送り出したか、忘れたのだろうか。そう考えるとこのことは、われわれにとっても相当な警告のメッセージとなる。神さまのみことばの恵みを受け、献身した、また、献身する家族を生み出した、ところが、世間の噂とか、経済的な厳しさとか、人間関係の葛藤とか、献身者について回る問題を見聞きしたり、あるいは自分自身が体験したりして、最初に神さまが与えてくださった召命のインパクトを忘れてしまう、こういうことはあるものである。 本日の箇所でいえば、イエスさまにはどのような評判があったのだろうか? 22節。エルサレムの律法学者は、どの律法学者よりも権威があると見なされていた。東京大学の教授たちが田舎までやってきて、そこで繰り広げられていることに判断を下すようなものである。群衆よ、おまえたちが熱狂しているイエスという者の正体は、悪霊に取りつかれた者だ、さあ、目を覚ませ……そんなことを言うかのようである。 だが、イエスさまのこのお働きが悪霊に由来すると判断することには、実はただごとではない問題があった。23節から26節。ごもっとも、である。悪霊が追い出されているとすれば、それは悪霊によるものではないことが、このみことばによってわかる。 その次が27節のみことばだが、イエスさまがいきなりこのようにお語りになることに、私たちは唐突な印象を受けないだろうか? しかし、このみことばにはちゃんと意味がある。このみことばは、パリサイ人たちもよく知っていたはずの、イザヤ書49章のみことばがその背景にあるおことばである。 イザヤ書49章の24節から26節。もはや手の施しようもないほどに強力に、神の敵サタンとその軍勢に捕らえられていた神の民を、イエスさまが神の側へと奪い返してくださった。このことによって、イエスさまが彼らの救い主、贖い主であることをお示しになった、ということである。聖書の専門家を自任するパリサイ人よ、あなたがたはこのみことばを知っているはずだ。それを知っていて、わたしのしているこの働きを見ても、わたしが救い主、贖い主であることがわからないか? 悪霊の働きだと言い切るか? その流れで28節、29節を見るべきである。人はどんな罪も赦していただける。たとえそれが、神さまを冒瀆する罪であったとしてもである。では、聖霊を冒瀆する罪とは何だろうか? 聖霊さまとは第一コリント12章3節に書かれているとおり、イエスさまを主と告白させてくださる、神さまの霊である。このお方を、絶対に受け入れてはならない悪霊だと言うならばどうなるだろうか? その人は絶対に救われない。自分が救われないばかりか、これからイエスさまを信じようとする人を大いに惑わし、下手をするとその人はもう、イエスさまを信じなくなるかもしれない。 いかにイエスさまの人気が妬ましかろうと、イエスさまのみわざにおいて働かれる聖霊さまを悪霊だと呼び、自分も救われず、救われようとする人の門戸も閉ざすような振る舞いをするならば、寅さんじゃないが「それを言っちゃあおしめえよ」。どんなに人を救いたいと願っていらっしゃる神さまも、そういう者を救うことはできない。そして、そういう者は神の働きをしているつもりでも、実は百害あって一利なしの宗教者にすぎない。 イエスさまの肉の家族は、イエスさまに対する世間の評判に揺れ動いていた。しかし、33節から35節を見ると、イエスさまはそのような、神のみこころよりも世間様の方に目が向く者よりも、ご自身のもとに神のみこころを求め、ご自身とともに神のみこころを行う者こそ、ご自身のまことの家族であるとおっしゃった。イエスさまの肉の家族は、イエスさまのこの一貫した姿勢に、のちに教えられることになる。イエスさまが十字架にかかられたとき、マリアはそのお姿をしっかり見届け、のちに初代教会の中心メンバーになった。弟のヤコブもユダも初代教会の指導者として、聖書の「ヤコブの手紙」「ユダの手紙」を書いた。 私たちもイエスさまの家族になりたいだろうか? いや、すでに家族なのだが、イエスさまの家族だと周りから見られることを、恥じず、誇りとしたいだろうか? それには、パリサイ人のような、主のお働きに対する上から目線の評論家になってはならない。十二使徒のような大きな働きをしようとしなくていいから、むしろ、イエスさまから離れないで、イエスさまの教えをつねに受け、イエスさまと交わる者となろう。イエスさまはそのような群衆を、神のみこころを行う者と言ってくださり、ご自身の家族と呼んでくださった。私たちもまず、イエスさまから離れないでいよう。

「主の弟子に召される意味」

聖書箇所;マルコの福音書3:13~19/メッセージ題目;「主の弟子に召される意味」 私が初めて出会ったクリスチャンの方、それは、母が英会話を習いに通っていた、埼玉の浦和の宣教師館に住んでいた、若い方々だった。世界のいろいろなところから集まっていた彼らのことを見て、私は中学生なりに、神さまにお従いするということは、このように、海を越えてでも引っ越すことさえする、という強烈な印象を持った。 主の弟子になるということは、そのように、主が命じられるところどこへでも行くことである。私もそのみこころにお従いして、ここまで来て、この7月で茨城に来て9年目になった。しかし、主の弟子になるということは、牧師や宣教師のような特定の献身者にかぎったことではない。だれにでも開かれている道である。私たちが手にしている聖書、これは、群衆のレベルでは理解できなかったイエスさまのたとえ話の解き明かしが、そのまま収録されていて、読めばちゃんとみこころを理解できるようになっていて、それはすなわち、みことばを読む者を神さまが主の弟子としてくださっているということである。 今日のメッセージは、特に14節と15節のみことばに集中したい。これは、イエスさまが弟子を、使徒として召された3つの理由を語るみことばである。順に見ていって、私たちが主の弟子として召されたことにはどのような意味があるか、学ぼう。 イエスさまが弟子を召されたのは、彼らをご自身のそばに置かれるためだった。イエスさまの弟子とはひとことで言って、イエスさまのそばに置いていただいている存在である。さて、この箇所は「彼らをご自分のそばに置くため」とあり、メジャーな日本語訳聖書はだいたい、このように、イエスさまが彼ら弟子たちをみそばに置かれた、と訳している。韓国語聖書もそうである。ところが英語の聖書になると、「they might be with Him」、「they should be with Him」と、主語が彼ら弟子たちになっている。「弟子たちがイエスさまとともにいるため」とも、「弟子たちがイエスさまのそばに置かれるため」とも読める。いずれにせよ、主語は弟子たちである。 これは何を意味するだろうか? これは、イエスさまが強制的に12人をご自身の弟子としてみそばに置かれたということではない。彼らが自主的にイエスさまのそばにいるように導かれた、ということである。自由な決断をもってついて行く人たち、それが十二弟子、十二使徒だったということである。それはヨハネの福音書6章の最後の部分を見てもわかることで、多くの弟子たちがイエスさまのみことばの難解さについていけず、もはやイエスさまにお従いすることをやめた一方で、十二弟子はイエスさまのそばにいるという選択をしたことからも明らかである。 ただし、もっと大きく考えると、一見すると彼らの判断と選択と決断でイエスさまについていったようであっても、彼らをお選びになったのはイエスさまである(ヨハネ15:16)。彼らの選択と決断さえも、全能なる神さま、イエスさま、聖霊さまのお導きの中にあった。だから、彼らはイエスさまについていったことを自分の責任で下した判断として自信を持っていいのと同時に、神さまが選んでくださったのだからその従順に確信を持っていい、ということである。 イエスさまのそばにいるということは、イエスさまから何もかも学ぶ、ということである。イエスさまの振る舞い、語られるおことば、それに四六時中触れているならば、弥が上にもイエスさまに似てきてしまう。イエスさまがみそばに彼らを置かれるということは、わたしを見なさい、わたしに似なさい、わたしの真似をしなさい、そうすればあなたがたは、キリストの似姿として御父に用いていただける、という、親心にも似たみこころが込められているゆえのお導きである。 イエスさまのそばにいる群れが12人、というのは、十二使徒に始まる新約の教会は旧約のイスラエルの十二部族に象徴される神の民である、という意味があり、また、12人という小さな共同体は、イエスさまが行き届いた訓練を行う上で理想的な人数である、ということであるともいえる。私がサラン教会で1999年に体験した弟子訓練の班は、牧師1人、社会人10人、神学生だった私1人と、合計12人だったが、彼らが主の弟子として大いに成長していく姿を、私は今も覚えている。12人が理想の人数と確信したものだった。 弟子たちはイエスさまからともに学び、ともに似ていくのと同時に、弟子どうしお互いから学ぶ。それは模範になったり、反面教師になったりの繰り返しだろう。ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネはそれぞれ兄弟だが、共同体に入ってともに訓練されることによって、それまでに分からなかった彼らのよさ、また、弱点を知ることになり、よりいっそう、お互いのために祈るようになったことだろう。さらにこの4人はガリラヤ湖の仕事仲間でもあり、もともとあった絆がイエスさまとの関係をとおしてより強固になったり、人間的な怒りがからんで弱くなったり、といったことを繰り返したことだろう。 もっと極端なのが取税人出身のマタイと熱心党のシモン。熱心党とは実際に存在したユダヤの民族運動の一派であり、彼らはユダヤ教の中でも特に排他的で国粋主義的な性格を持っていた。彼らは神の力によるユダヤの政治的独立の名目で戦い、歴史家のヨセフォスによれば、紀元6年にローマによるユダヤの人口調査に反対して起こされた、ガリラヤ人ユダによる闘争がその運動の歴史的始まりであるが、人口調査はユダヤ人たちが宗主国ローマのカエサルに納税するために行われたものであることを考えると、熱心党の人間からしたら、取税人ほど受け入れられない存在はなかろう。 あまり政治の話を主日礼拝の場でしたくはないが、保守派と社会派、右派と左派の対立は、たいへんなものである。このような政治的見解の違い、というより対立が、教会の中に持ち込まれたら、キリストにあってひとつになるべき教会は瓦解してしまう。私たちが大事にすべきは、政治的信条や自らの神学的な立場以上に、イエスさまにあって一つとしていただいているどうしが、ともにイエスさまに導いていただくことである。熱心党にせよ取税人にせよ、一方は排他的、一方は裏切り者と、みこころにかなっていないが、イエスさまはそのような彼らの罪を取り扱われる。一方で、熱心党員の持つ熱心さや取税人の持つ抜け目のなさを、主は御国の拡大のために用いられる。立場のちがいではなく、イエスさまの弟子という同じ立場にしていただいていることこそ、弟子たちにとって大事なことである。 彼らはイエスさまのそばに置かれ、整えられたら何をするのだろうか? 宣教をする。イエスさまに遣わされてみことばを宣べ伝える。イエスさまの弟子たち、イエスさまによってこの世に遣わされた者たちがすべきことは、みことばを宣べ伝えることである。 みことばを宣べ伝えることは、イエスさまの弟子に召されている人ならば、だれもがするように召されている。牧師や宣教師だけではない。ただ、極めて宗教アレルギーの強い日本において、ことばをもちいてみことばを人々に伝えることは、簡単なことではない。それなら私たちは、みことばを宣べ伝えることをあきらめるのだろうか? 時が良くても悪くても、と語られていることが、福音宣教である。ただし、人や場所にこだわりつづけることも、ときにはやめる決断も必要になることがある。イエスさまは十二弟子におっしゃっている。「一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。」「だれかがあなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい。」 どこかに必ず、私たちの語ることばに耳を傾けてくれる人がいると信じて、私たちは行くべき人のところに行き、その人にみことばが語れるように祈ることである。わが家は今月で茨城町に住んで9年目になったが、ここまで続けてこられたのは、みことばに耳を傾けてくださる人が今もなおおられるからである。 もちろん、みことばを語るということは、みことばを生きるということが大前提になる。人々が私たちの良い行いを見るならば、天におられる私たちの父なる神さまをほめたたえるようになる。神の栄光を顕す生き方、罪から自由にされている生き方、世の光地の塩として生きる生き方、その素晴らしい証しの生き方を可能にするものは、聖書が神のみことばであると告白する信仰である。イエスさまを主と証しするみことばに対する信仰、それは行いを生む。 行いのない信仰は宣べ伝えられない。だからこそ私たちこそ、まず自分自身がみことばに教えられる必要がある(ローマ2:21)。その生き方はわずかずつでも世の中を主のみこころにかなうようにつくり変え、人々はその中で、主イエスさまを信じるように導かれる。 では、具体的に、みことばを宣べ伝えると、どのようなことが起こるだろうか? 悪霊が追い出される。なぜかといえば、みことばを宣べ伝えるべくイエスさまが召された主の弟子は、悪霊を追い出す権威が授けられたからである。実際弟子たちは、悪霊を追い出した。そのことによって神の国はイエスさまによってこの地に来たらされたことが明らかになった。それほどの御国の権威が与えられている者、それがイエスさまの弟子である。 悪霊というものは迷信でも、空想の産物でもない。このところ東京の新宿に「トー横」と呼ばれるエリアがあり、そこで10代の若者がたむろして非行に走る者も跡を絶たない、しかもそのような子どもたちを食い物にする悪い大人もいることが報道されているが、ああいう闇の世界を見て、その背後に悪霊が存在することが私たちにはわかるのではないだろうか? そういう闇の世界、サタンと悪霊の支配する世界は、都会の繁華街にかぎらない。テレビやレンタルDVD、スマートフォンをとおしてでも容赦なく、われわれのお茶の間に侵入してくる。 みことばが宣べ伝えられると悪霊が追い出されるのは、第一に、みことばを聴いた人は悪霊の支配する領域よりも主の支配される神の国に関心が行くため(聖化)、第二に、みことばを聴いた人は霊的に武装することで悪魔と悪霊が逃げ去るため(霊的武装)、みことばを聴いた人はほかの人のことを悪霊の支配する領域から主の支配される神の国に移そうと努めるため(伝道)である。だからまず私たちがその宣教者なる弟子としてのアイデンティティを確かに持ち、悪霊に親しむことをやめ、みことばに親しみ、みことばをいかにしたら自分のことばとして語れるか、よく学ぶことである。