「神の国に至る悔い改めと信仰」

聖書朗読;マルコの福音書1:14~15/メッセージ題目;「神の国に至る悔い改めと信仰」 先週水曜日の夜は驚きました。すわ、11年前の再来か! と思われた方も多いと思います。このようなときに私たちは、自分たちの暮らしているこの地上が有限な存在であることを思いませんでしょうか? 身の回りと世界に目を転じれば、コロナの流行、ウクライナの事態、恐ろしいことばかりです。テレビを視るのも憂鬱になります。しかし、私たちは、おっかない話に翻弄されてはなりません。私たちとともにいてくださるお方はどなたですか? イエスさまはどんなお方ですか? はい、それだけでも、私たちに恐れる理由はありません。聖歌総合版493番「やすけさは川のごとく」の4番に歌うとおりです。「よし天地(あめつち)崩れ去り ラッパの音(ね)とともに 御子イエス現るるとも などて恐るべしや すべて安し 御神ともにませば」これです。これが私たちの信仰です。 世の終わりは間違いなく、ただでさえ恐ろしいことが起きている現在よりも、はるかに恐ろしい事態が繰り広げられるでしょう。そのような中、さばき主として神の子イエスさまがこの世界に来られます。それは聖書の語るとおりです。しかし、私たちは恐れることはありません。神さまがともにおられるからです。私たちは平安なのです。 「バプテスト教理問答書」の問21を見てみましょう。 問21 神は全人類を罪と悲惨のうちに滅びるままに放置したか。 答 神は全くの好意によって、永遠よりある人々を永遠のいのちに選び、罪と悲惨の状態より救い出し、贖い主により救いの状態に入れるために恵みの契約を結んだ。 戦争は人類の罪の産物で、疫病や自然災害はそのような人間の罪によって自然全体に悲惨がもたらされた結果の産物です。これほどまでに世界が悲惨なのは、人間が罪を悔い改めないためです。しかし、そもそもだれに対して悔い改めればいいのか、その対象を知らないために、悔い改めようがありません。人間の側から、立ち帰るべきお方に出会うすべがないのです。それほど神さまは、私たち人間が罪を犯したその責任を、罪と悲惨の中に放置されるという形で取るようになさっています。 それなら、人間には一切、希望はないのでしょうか? いいえ、希望はあります。この問21の答えにあるとおりです。神さまは全くの恵みによって、救われるべき人を選び、その人と恵みの契約、「あなたを滅ぼさない」という契約を結ばれました。だれをとおしてその契約が結ばれたのでしょうか? 贖い主をとおしてです。贖い主とはだれでしょうか? そう、イエスさまです。 今日の箇所は短いですが、この短い箇所の中に、イエスさまのお働きは要約されています。そして、イエスさまと私たちとの関係もまた要約されています。今日の箇所をもう一度お読みしましょう。――ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。/「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」 まず、バプテスマのヨハネが捕らえられるというできごとが起こっています。ヘロデ王の不倫を告発したことで王の逆鱗に触れ、逮捕されたのでした。こうしてヨハネは、表舞台から姿を消しました。しかしそれは、イエスさまに人々を導く働きを全うした、ということでもありました。まさにヨハネが語ったとおり、イエスさまは盛んになって自分は衰えなければならないという、その告白のとおりとなったのでした。 イエスさまはガリラヤに赴かれました。マルコの福音書は、イエスさまの公の生涯をガリラヤでのお働きから描きはじめています。宗教社会の中心であったユダヤから見れば北の果ての辺境の地、疎外された地であるガリラヤ……しかし、イエスさまはまさしくその地において、お働きを展開されたのでした。 私たちがもし、自分は見捨てられている、疎外されていると感じるならば、忘れてはならないことがあります。イエスさまはそのような私たちの味方です。私たちのそばにいてくださいます。私たちに語りかけてくださいます。あとは私たちがイエスさまに近づき、イエスさまのみことばに耳を傾けることです。 今日のみことばは、イエスさまがこの地ガリラヤにてお働きを始められた、宣言ともいうべきおことばです。今日の箇所には3つのキーワードが登場します。神の国、悔い改め、福音です。順に見てみましょう。 まず、神の国です。イエスさまが来られて、神の国は近づいた、とお語りになりました。あなたがたガリラヤに住む神の民のところに、神の国は近づいたのだよ、ということです。 それまでもガリラヤの人たちにとっては、創造主なる神さまの律法に生きることは生活の一部となっていました。たしかに彼らは血筋でいえば、神の民の末裔でした。しかし彼らは、神の国を生きていたわけではありませんでした。 神の国は、神の御子イエスさまがもたらしてくださったものです。御子イエスさまが王として君臨され、王としてお治めになるのが神の国です。当時この地に住む人々は、ローマの圧政のもとにあり、ローマから解放してくれる神の民の王を待ち望んでいました。 しかし、イエスさまという神の国の王は、そのように目に見えるかたちでの国の君主ではありません。神の民ひとりひとりの心の中においてそれぞれを導く、そういう意味での王さまです。 その神の国が近づいた、とありますが、近づいた、ということばは、すでに実現している、という意味を含みます。神の国を来たらせるとき、イエスさまが神の国を実現してくださるときは、父なる神さまがすでに人間に実現してくださった。 近づいた、ならば、必ず来るのです。これはちょうど、駅のホームで電車を待つ気持ちに似ています。時刻どおりに電車が来ることがわかっていても、実際に電車が来るよりも早くホームに着き、待つならば、その待つ時間というものはとても長く感じるものです。私は中学から大学まで、電車に乗って通学しましたが、あのわずか数分の時間はとても長く、退屈に感じられたものでした。しかし、やがてホームにアナウンスが流れます。「間もなく、1番線に電車がまいります。危ないですから、白線の内側まで、下がってお待ちください。」……このアナウンスが流れると、それまで電車を待っていた数分間の苦痛をまったく忘れます。まだ電車に乗っていないにもかかわらずです。 ガリラヤの民は、数分間どころではありません。もう何百年も神の国の到来を待ち望んでいました。それが、イエスさまがおいでになったことで、まだイエスさまが何のみわざも行われる前から、そうです、究極的には、十字架による贖いを成し遂げられる前から、神の国はもうここに来ているというイエスさまの宣言を聞いたのでした。それだけでもどれほどの喜びを彼らは覚えたことでしょうか。 ただし、神さまは力ずく、腕ずくで私たち人間を支配されるお方ではありません。私たち人間の側が、イエスさまが王として支配されることを心から喜んで受け入れることが必要になります。羊飼いに従順に従う羊のように、師匠に従順に従う弟子のように、親に従順に従う子どものように、そのように、王であるイエスさまに従順に従う神の国の民として、私たちはお従いするのです。 そのときイエスさまは、私たちの心の中において私たちを統べ治め、また、私たち神の民の交わりのただ中において、私たちを統べ治めてくださいます。私たちはこの、神の民の国民であることを誇りとするものです。その誇りのゆえに、私たちはいついかなる時も、神の民として振る舞うことを喜びとします。その喜びを知るゆえに、私たちの側から喜んで、神の国の国民にしていただくよう、神さまにお近づきするのです。 しかし、このように近づいている神の国に入るには、条件があります。そこで第二のキーワードにまいります。「悔い改め」です。 「悔い改め」に関しては、先々週のバプテスマのヨハネについて学んだメッセージでも取り上げましたが、悔い改めとは、自分から神さまに方向転換することです。自分をご覧ください。罪だらけです。自分は神さまの似姿に創造されている、と教えられていても、この自分の姿には恥じ入りたくなります。 私たちは罪を犯します。陰口をたたきます。人を馬鹿にします。むさぼります。感情的になります。しなければならないこと、すなわち神と人とを愛することをしません。罪を犯すから罪人なのではありません。罪人だから罪を犯すのです。この罪人である自分の姿に目を留めるならば、きよい神さまの基準からはあまりにも遠く、自分は到底救われない、神さまの御前に達することなどできないと思うものです。 悔い改めとは、そのような罪にけがれた自分から、きよい神さまへと方向転換することです。私たちの見るべきはきたない自分ではありません。きよい神さまです。 とは言いましても、きよい神さまに自分の目を転じるには、まず自分自身の罪を認めることがどうしても必要となります。罪は醜いものです。できれば見たくないものです。そんな罪を犯している自分であることなど、認めたくはないでしょう。しかし、自分がそれほどの罪を犯す罪人であることを、どんなにいやでも認めることがなければ、その罪を犯すことを、そして、その罪を犯すほどの罪人であることを、「悔いる」ことなどできません。「悔い改め」において最初に必要なのは「悔いる」ことです。 しかし、自分の罪にいつまでもこだわってばかりいるようではどうでしょうか? 自分が過去犯してしまったことにいつまでもこだわり、くよくよする……それは「悔い改め」ではありません。「悔い」です。「改め」になっていないのです。「悔い改め」は、自分の罪を悔いることと、きよい神さまに向けて自分の視線を「改める」ことと一(ひと)セットです。 さて、悔い改めた結果、私たちの視線は自分から神さまへと向かうわけですが、そのとき私たちは、神さまがどのようにして私たちを受け入れてくださるか、そのことも理解している必要があります。 そこで3つ目のキーワード、それは「福音」です。イエスさまはおっしゃいました。「悔い改めて福音を信じなさい。」悔い改めてきよい神さまへと目を転じるうえで必要になることは、「福音を信じる」ことです。 福音とは何でしょうか? よき知らせです。それも、ただのラッキーなことではありません。 新しい時代が来たというよき知らせ、皇帝が即位したというよき知らせ、国が戦いに勝利したというよき知らせ、それが福音ということばの原語のギリシャ語「ユーアンゲリオン」ということばの持つ意味であると、先々週のメッセージで私たちは学びました。 新しい時代が来たというよき知らせ、イエスさまがこの地に来られ、罪の縄目に捕らえられていた人々を解放してくださる時代が来ました。皇帝が即位したというよき知らせ、イエスさまが王として永遠に君臨される時代が来ました。戦いに勝利したというよき知らせ、イエスさまが罪と死とサタンに勝利し、永遠のいのちを与えてくださるという時代が来ました。まことに、イエスさまという王さま、神の国の王さまが来られたということは、人間の世界を、人間の歴史を、根本から変えました。 そのような新しい時代に生きる民、イエスさまを王とする民にしていただくために必要なこと、それは消極的には悔い改めですが、積極的には福音を信じることです。私たちの宗教的な努力ではどんなに頑張っても、神さまに認めていただくことはできません。しかし父なる神さまは、そのような私たちがみもとに来ることができるように、道を備えてくださいました。それが「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」とおっしゃったお方、神の御子イエスさまという道です。 イエスさまを信じるだけ、それだけで人は救っていただけます。そこには何の努力もいりません。これほどのよき知らせはほかにありません。しかし、信じ方というものがあります。イエスさまが私の罪のために、十字架にかかってくださり死んでくださったお方、よみがえって罪と死に勝利してくださったお方と信じること、それが必要です。 さあ、悔い改めて福音を信じなさい、とおっしゃったイエスさまのみことば、それはどんな意味があるか、6つの問いから考えてみましょう。 まず、何をすることをイエスさまはお命じになったか、ですが、それは悔い改めることと福音を信じることです。それがどのようなことであるかは、すでに学んだとおりです。 そして、どのように、ですが、これもすでにお話ししましたとおり、イエスさまの十字架を信じることだけをする、です。しかしこれは、2つの意味があります。まず、まだイエスさまを信じ受け入れていない方の場合は、イエスさまの十字架を信じ受け入れることによって、心の中にイエスさまを招き入れることになります。そのように救い主としてイエスさまを心に招き入れることは、一度だけで大丈夫です。なぜならば、わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない、と、イエスさまご自身が語られていると、ヘブル人への手紙13章5節が語っているからです。 決して離れないならば、一度受け入れれば充分です。イエスさまを受け入れる祈りを何度もする必要はありません。人はそうして、神の国の民になります。 しかし、イエスさまの十字架を信じることは、クリスチャンの人生にとって一生もののことです。私たちはいかに神の子どもとされているとはいえ、まだ肉が生きていて罪を犯すものです。しかし私たちはその罪のゆえにさばかれてはなりません。私たちはどんな小さな罪でも、イエスさまの十字架の前に持っていく必要があります。日々のイエスさまとの交わりにおいて、私たちは罪を告白するのです。恥ずかしくはありません。イエスさまは私たちの犯した罪を、すべて知っておられます。 しかし、イエスさまは私たちが悔い改め、十字架によって罪が赦されていると信じるならば、その悔い改めのいけにえを喜んで受け入れてくださいます。十字架を信じることは求道者がクリスチャンになるためだけではなく、私たち主の子どもたちにとっても、いつでも必要なことです。それが神の国の民として生きる道です。 なぜ、信じなければならないのでしょうか? それは、これが神のみこころだからです。少し長いですが、ペテロの手紙第二3章3節から14節をお読みしましょう。 私は何も、この2022年はこのみことばにあるような時代になっているから信じるべきだ、と脅かしているわけではありません。このみことばは語られてすでに2000年が経とうとしていますが、2000年間有効でありつづけたみことばです。そういう意味では現代にかぎらず、イエスさまがこの地に来られ、十字架に死なれ、復活され、昇天されて以来、2000年にわたってずっと、この世界は世の終わりだったということができます。 ともかく、この世の有様が過ぎ去ろうとも、神さまは人間に対して新しい天と新しい地を用意してくださっている、そのことに希望を持っていただきたい、そして、そこに入るうえでの神さまのみこころは、この福音のみことばを信じるゆえに、悔い改めに進むことである、とおっしゃっているわけです。 では、だれが信じるのでしょうか? ここにいる私たちひとりひとりです。私たちひとりひとりが、神の国を受け継ぐために、悔い改めて福音を信じるのです。 いつ信じるのでしょうか? 今この瞬間からです。今までは充分な信仰をもつことができなかったかもしれません。しかし、神さまはそんな私たちに、チャンスを与えてくださっています。今からでも遅くありません。福音を信じるとは、福音を生きることです。神さまとひとつ、イエスさまとひとつの人生を生きることです。今から始められます。 どこで信じるのでしょうか? 今この場所からです。 そこでみなさまには、今この場で決心していただきたいのです。さきほどの第二ペテロ3章のみことばの、11節から14節をもう一度お読みします。 イエスさまの到来を待ち望んでいるならば、イエスさま、すぐにでも来てください、と、罪を避け、神さまに近づく生き方ができるはずです。それでもときに、とても神さまに見せられないような後ろめたい生き方をしてしまう、罪を犯してしまう、それが私たちです。しかし私たちは、イエスさまの十字架によって赦されています。私たちにあるものは、悔い改め、そして、かぎりない赦しと天の御国の福音を信じる信仰です。悔い改めて福音を信じる、神の民としての生き方を、今週も、そしてこれからも一生かけて全うする、その恵みを主が与えてくださいますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。 しばらく祈りましょう。だれが信じるのでしょうか? いつ信じるのでしょうか? どこで信じるのでしょうか?

「神の霊により荒野へ」

聖書箇所;マルコの福音書1:12~13(新約65ページ) メッセージ題目;「神の霊により荒野へ」 初めに、本日の礼拝から、「バプテスト教理問答書」の学びを、メッセージの導入の部分において行い、その学びをメッセージの導入としたいと思います。本日は20番目の問答です。このようにあります。/問20 人が堕落した状態の悲惨とは何か。/答 全人類は堕落によって神との交わりを失い、神の怒りと呪いのもとにあり、この世におけるすべての悲惨と死そのもの、さらに永遠の地獄の刑罰を受けるべきものとされている。 人が堕落したのは、自分の意志によることです。自分から望んで神さまから離れる道を選びました。そのようになった人間とは、もはやきよい神さまは交わりをお持ちになることはできませんでした。神さまはそのようにして、けがれて神と敵対するようになった罪ある人間に対しては、怒りと呪いを抱かれ、その神さまの怒りと呪いのもとにおかれているゆえに、あらゆる悲惨、そして死そのもの、永遠の地獄の刑罰に至るまで、人間は受けるようになってしまったのでした。 よく人は言います。神がおられるならば、なぜこのようにこの世界は不幸なのか? 戦争や飢餓や貧困があるのか? しかし、聖書がはっきり語っていることは、世界がこのようになってしまったのは、人間が神さまに背を向けたためである、ということです。人間は神さまに背を向けた責任を、このようにあらゆる不幸と悲惨を身に負うという形で取らなければなりません。私たち人間の不幸は、負うべくして負っているものなのです。 では、私たちの世界にはもはや、救いはないのでしょうか? いいえ。神の御子イエスさまは、そのような死の悲惨、地獄の不幸から私たち人間を救うため、この世界に来られ、私たち人間が受けるべき罪の罰を身代わりに、十字架の上で受けてくださいました。私たち人間はただ、イエスさまの十字架による罪の赦しを信じるだけで罪赦され、救っていただき、神の子どもとしていただけます。 そのように、人を救うためにこの世界に来られたイエスさま。時が来て、イエスさまが公の生涯を始められるにあたり、ヨハネという人物からバプテスマをお受けになったことについては、先週学んだとおりです。しかし、イエスさまの公生涯、世に対するデビューの前に、イエスさまには通られなければならない場所がありました。どこを通られたのでしょうか? 12節のみことばです。 ――それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。――そうです。イエスさまが行かれた場所は荒野でした。しかし、このみことばによれば、イエスさまはおひとりのご意思で荒野に行かれたわけではありませんでした。 そうです。「御霊は……追いやられた」とあります。御霊、神の霊によって、イエスさまは荒野に追いやられるようにして赴かれたのでした。その荒野にて、イエスさまはどのように過ごされたのでしょうか? 13節です。――イエスは四十日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた。―― まず、荒野とはどのような場所でしょうか? 先週、バプテスマのヨハネについて学びましたが、ヨハネもまた荒野にいました。荒野は都会とちがって何もなく、シンプルにならざるをえない場所でした。しかしそれでも、ヨハネはいなごと野蜜を口にしていのちをつないでいました。イエスさまはといえば、マルコの福音書にはありませんが、まる40日40夜、断食をして過ごされました。荒野のような過酷な場所でそのように過ごされたのでした。こうなると、御父なる神さまに拠り頼む以外に生きるすべはありません。 40日、というのは、旧約聖書を読むと大事な数字であることがわかります。出エジプト記24章によれば、モーセが神の民のために神の教えを受けるべくシナイ山にとどまったのも40日でした。荒野の中の、さらに山の中、モーセはそこで主にまみえたのでした。また、列王記第一の19章、エリヤは主にまみえ、主ご自身から食べ物を授かって元気を回復してから、40日40夜荒野を歩き、神の山ホレブに着き、そこでまた主にまみえました。荒野における40日、それは主なる神さまにまみえるために、主が神の人に備えられた時であり、イエスさまもまたその時を荒野にて体験されたことを覚えておきたいと思います。 モーセとエリヤといえば、変貌の山にてイエスさまと、イエスさまのご最期について話し合っていた人物でもあったわけですが、彼らがそのような姿でイエスさまの御前に時を超えて現れたのは特別であり、そのことにおいても彼らは神の人でした。 しかし彼らは、単に神さまと親しい交わりを持つことができたゆえに特別だったのではありません。モーセはイスラエルの民をもろとも、神さまのみこころにしたがって出エジプトさせ、約束の地を目指して導いた神の人でした。エリヤも、偶像礼拝に腐敗したイスラエル全体にカルメル山の雨乞合戦をとおして神さまのご存在と御業を示し、彼らイスラエルをして「主こそ神です。主こそ神です」と言わせたほどの神の人でした。モーセにしてもエリヤにしても、神の民を神さまのご存在とみこころに導いた人でした。 イエスさまもまた、ご自身の民を神さまのご存在とみこころに導かれるお働きを、これからなさろうとしていらっしゃいました。それに先立って神の霊によって荒野に導かれ、そこで悪魔の試みをお受けになったのは、やはり、私たち神の民のためでした。イエスさまは神の民の初穂として、神の民を代表して荒野に導かれ、荒野にて悪魔の試みをお受けになったのでした。この「荒野」という場所において、神さまのみこころは少なくとも2つの形で現れています。 ひとつは、厳しいところを通らされる神さまのみこころ。神の霊はイエスさまを、荒野という厳しいところへと導きました。もうひとつは、厳しいところをお通りになる神の子イエスさまのみこころ。イエスさまは、荒野に行って40日40夜とどまれ、という、父なる神さまの厳しいみこころに従順になられました。 そうです。御父はイエスさまを厳しい環境に追いやられ、イエスさまはその厳しい環境の中に、御父への従順のゆえにとどまられました。その体験をイエスさまが人類の初穂、神の民の初穂としてされたということは、まずご自身が御父のきびしいみこころに従順になられることにより、神の民に対し、従順になることの意味、また、その厳しさの向こうにある祝福を、イエスさまがお示しになったということです。 先週も「荒野」という厳しい環境がむしろ祝福であることをお話しし、その繰り返しのようになりますが、人は荒野のような厳しい環境の中で神さまだけに拠り頼むようになる訓練をいただき、この世の過ぎ去るものから目を離し、神さまだけを見るようになる祝福をいただきます。この世はあらゆる情報にあふれています。悲しいニュース、人を快楽に走らせる情報、どうでもいいけれどもなぜか心惹かれてしまう情報……しかし、大事なもの、ほんとうに必要なものはひとつだけで、それは神さまとの交わりです。 神さまがほんとうに愛してくださっている人は、神さまが親密な交わりを持ってくださるために、あえて荒野のような環境に置かれることがあるものです。病気ですとか、事故ですとか、家族の問題ですとか、仕事の問題ですとか、経済的な問題ですとか……そういうことを私たちはつい、不幸のひとことで片づけてしまってはいないでしょうか? しかし、あえて申しますが、そのような、一般的には「不幸」と言えるできごとの中で神さまを尋ね求めるように導かれ、そこで神さまの深い慰め、また癒やしを体験できるならば、それはかえって祝福といえます。そうです、いわば「荒野の祝福」を私たちは体験します。この祝福については、のちほど詳しくお話しします。 イエスさまがいらっしゃった荒野には、3種類の存在がありました。悪魔、野の獣、御使いでした。まず、悪魔とはどのような存在でしょうか? イエスさまを試みる存在でした。悪魔は大胆不敵にも、神の子を試み、誘惑して、父なる神さまへの不従順に導き、人類を救ってくださる神さまのみこころを打ち壊そうとしたのでした。 今日の箇所にはありませんが、マタイの福音書とルカの福音書によれば、悪魔はイエスさまに対し、3つの試みを仕掛けています。まず、40日40夜の断食で空腹を覚えられたイエスさまに、「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」と語りかけました。イエスさまはこの誘惑を退けました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」というみことばをお示しになりました。 イエスさまが悪魔の誘惑を退けられたのは、もし、悪魔の言うことを聞いたならば、それは神さまに対する不従順であり、悪魔に対する従順であるからです。それは絶対にしてはならないことです。たとえ肉体が空腹を覚えて、食べ物を必要としていたとしても、悪魔の言うことを聞いてはなりませんでした。 実際、イエスさまにとってのほんとうの食べ物は、「神のみことばをお聞きし、お従いする」ということでした。みことばをお聞きし、お従いすることをしなければ、飢え死にしてしまう、というほどのものです。イエスさまは、ほんのわずかな安逸のために悪魔のことばを聞くのではなく、厳しさの中でいのちを保つために神のみことばを聞くことが人に必要なことを示してくださいました。 また、悪魔はイエスさまを神殿の頂に立たせ、そこから飛び降りてみなさい、と、詩篇91篇のみことばを引用し、御使いたちがあなたを守るであろう、と誘惑しました。今度はみことばを用いての誘惑です。サタンに従っているようでも、みことばのとおりに振る舞っているではないか、正しいことをしている……しかしイエスさまは、「あなたの神である主を試みてはならない」というみことばを引用して退けられました。 いかにみことばが語っているとはいえ、イエスさまは肉体を持った人であり、人がそのような高いところから飛び降りたら死んでしまいます。そのようにして死んでしまったら、イエスさまが十字架で死なれるというみこころは永遠に成し遂げられず、サタンは勝利します。しかし、サタンはあくまでそれはみこころであるかのように偽装して、大胆不敵にもみことばさえ用いました。どうだ、神の口から出るひとつひとつのことばによって人が生きるというなら、このみことばに従うことでもあなたは生きるはずだ! みことばへの従順がいのちそのものであるイエスさまは、しかし負けてはおられませんでした。問題はみことばを文字どおりに行うことではなく、どのような精神で守り行うかにあることを、イエスさまはお示しになりました。サタンよ、おまえのみことばの用い方は、神を試みるという恐ろしい罪を犯していることだ。それをほかならぬ神のみことばがとがめている。ただちにやめよ。このようにイエスさまがお用いになったみことばは、神に示された、などと言って、教会の中には何の平安もないのに無茶な行動に出てしまうようなクリスチャンに対する戒めのことばともなっています。 そして悪魔は、世界中の国々とその栄華とをイエスさまに見せて、自分に対してひれ伏すならばこれらすべてを上げよう、と迫ってきました。これはどれほどの誘惑だったことでしょうか? イエスさまがその国々の王としてあがめられたいと思われたからではありません。 そのような栄華とは、サタンの支配下にあるかぎり、すべてはむなしく、また罪深いものです。世界中の人々はその派手さの中でサタンの奴隷として搾取され、傷つけられ、そして永遠に滅びていきます。サタンは、そのような地獄が必ず背後にあるこの世の栄華をあなたに渡す条件はただ一つ、俺さまを拝むことだ、と、イエスさまを誘惑しました。 しかし、これもイエスさまは退けられました。みことばは語っている、「あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい」。間違ってもサタンを礼拝してはならなかったのでした。そして、イエスさまにとって主を礼拝し、主に仕えることを実践することとは、十字架におかかりになり、ご自身のいのちをもって人をサタンの束縛から贖い出すことでした。十字架こそが人々をサタンの支配から救い出すことであって、間違っても、サタンにひれ伏して救ってもらうことではなかったのでした。 私たち人間も、この世の中をよくするためにあれこれ考え、行動します。その働きをする人の中にはクリスチャンも多く含まれます。もちろん、そのようにして世の中を良くしていこうとする人々の存在をとおして、神さまはこの世界に平和と秩序を保っておられ、それは素晴らしいことにはちがいないのですが、私たちクリスチャンは少なくとも、十字架にかかられたイエス・キリストのほかに救いはないことをどこまでも信じ、イエスさまによって平和を実現することをしていかなければなりません。 この世はあまりにも、イエスさま以外の道をとおして平和を実現しようとしていて、クリスチャンさえもその流れに迎合しようとしています。イエスさま以外にも救いがあると主張して他の宗教と妥協するような宗教統一の運動など、その最たるものでしょう。私たちは人から何と言われようと、イエスさま以外に救いはないことを声高らかに叫ばなければなりません。 このように、悪魔の試みを受けられ、その試みをことごとくみことばによって退けられ、サタンではなく父なる神さまに従順であられたイエスさまのお姿は、私たちもそのように生きるように模範を示されたお姿であり、私たちもそのように生きることができるという希望を示されたお姿です。 神さまはあえて荒野のような環境に人を導かれ、悪魔の試みにさらされることもありますが、私たちは最後には勝つ道もまた同時に与えられています。私たちがみことばを普段からお読みし、サタンの攻撃が臨むようないざというときにみことばをもって対処するならば、私たちはサタンに勝ちます。また、私たちがサタンではなく、神さまに最後まで従順であるとき、神さまは私たちに勝利を与えてくださいます。 このように荒野とは、サタンの待ち受けている環境ではありますが、それだけではありません。荒野とは野の獣のいる場所でもあります。 野の獣、それはおとなしい獣に襲いかかり、噛み砕くような猛獣も含まれていて、そのような猛獣がたむろするような場所ならば、だれが行きたいと思うでしょうか? しかし、神の霊はイエスさまをそのような、猛獣のたむろする場へと導かれたのでした。 しかし、創造主なるイエスさまに襲いかかる猛獣はいませんでした。イエスさまはかえって、このような野の獣とともにおられながら、そのような獣が襲いかからず、平和に過ごすことを実現されました。それは、イザヤ書11章に書かれた、メシアの来臨によって世界にはどんなことが起こるかという預言の成就と言えました。イザヤ書11章の6節から10節をお読みします。 ――狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。/雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。/乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。/わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。【主】を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。/その日になると、エッサイの根はもろもろの民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のとどまるところは栄光に輝く。 草食動物と肉食動物の関係をひとことでまとめると、それは「弱肉強食」です。草食動物が肉食動物に襲われて食われ、血を流して死にます。それは平和の失われた状態であり、私たちはいかにそれを当然のこととして受け止めようとしても、やはりそれは残酷なさまであり、いざ目にしたら目を背けたくなるでしょう。そのような、動物の世界に展開する「弱肉強食」、その姿はそっくりそのまま、人間に当てはまります。強い者が偉い、弱い者は死ね……それが、アダムの堕落以来、人間の世界で繰り返されてきたことでした。人間はその意味で獣のようです。 しかし、イエスさまがともにおられることを認めるならば、人は弱肉強食の獣ではなく、平和をつくり出す「人」となります。人はお互いを見るならばお互いの立場のちがいや粗が見えてならず、受け入れられなくなったり争ったりするでしょう。しかし、そのような罪を同じイエスさまが十字架によって赦してくださったと信じるならばどうでしょうか? 私たちはだれが強いとか、だれが偉いと争ったりするのをやめて、ただ、イエスさまにだけともに栄光をお帰しするようになり、ひとつになれるのではないでしょうか? こうして、イエスさまによって平和が実現するのです。 私たちの生きる世界は荒野のように、弱肉強食の人間関係にさらされる場であり、神の霊はあえて私たちをそのような厳しさの中に送っていらっしゃいます。 しかし、私たちはあきらめてはなりません。この世界は獣ばかりではありません。ちゃんと、イエスさまと和解させられて平和を保っている「人間」がいる場所です。私たちはそのような「人間」とともにイエスさまのもとにいることによって、荒野の中でも平安を体験します。この「教会」こそは、まさに荒野の中でイエスさまを体験する場所です。お互いの顔を見ましょう。もう私たちはイエスさまによって、獣ではないのです。私たちの交わりをとおして、私たちを贖い、平和を与えてくださったイエスさまをあがめましょう。 そして、荒野のイエスさまとともに、だれがいたのでしょうか? 御使いがいました。御使いとはどのような存在でしょうか? ヘブル人への手紙1章14節の定義に従うと次のとおりです。――御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか。―― 御使いはまず、救いそのものでいらっしゃるイエスさまに仕えました。どのように仕えたかは具体的に書いていないので、聖書のほかの箇所から類推するのみですが、イエスさまが十字架を前にして血の汗を流してお祈りされたゲツセマネの園において、御使いが来てイエスさまを力づけたとありますので、ここでも、40日の断食の祈りを完遂して御父への従順を成し遂げられるように力づけた、という形でお仕えしたと見ることができるでしょう。 私たちもまた、救いを受け継ぐことになる者として、その救いが人生において完成するように、主が万軍の御使いを送ってくださっている存在です。私たちはときに、主にお従いすることにおいて孤独な戦いを強いられていると思うことはないでしょうか? しかし、そうではないのです。 私たちが厳しい戦い、荒野のような環境に置かれているとき、御使いは神さまの命(めい)を受けて、私たちを励ましてくれています。私たちが致命的な不従順を犯すことがないように、御使いはあらゆる道で私たちが石に打ち当たらないように守ってくれています。神さまはそのように御使いに命じて、私たちを守ってくださっています。なぜでしょうか? 私たちが神さまの大事な子どもだからです。 私たちは強くありません。神さまが送り出されるこの環境が、ほんとうに耐えがたいと思えることもあるものです。しかし、私たちが打ち倒されないでいるのは、このような荒野の生活の中においても、神さまご自身が私たちのことを心配してくださり、御使いに命じて私たちのことを守っていてくださるからです。 私たちは決して孤独ではありません。このような守りをつねに与えてくださる神さまに感謝し、神さまの御名をほめたたえましょう。 私たちが生きているこの人生は、決して楽ではないと感じていらっしゃることと思います。それは、私たちの人生が荒野だからです。 荒野にはサタンが待ち構えていますし、野の獣のような怖ろしい人間もたむろしています。しかし、忘れてはならないのは、神さまが主権をもってあえてそのような環境に私たちのことを送り込まれた、ということです。イエスさまがまず、そのような荒野でサタンにみことばをもって勝利されたように、私たちもみことばによってサタンに勝利します。 そして、イエスさまの周りには、野の獣も襲いかからないような平和がありました。イエス・キリストこそ平和です。私たちもイエスさまによって、弱肉強食を当然と思うような獣から、平和をつくり出す幸いな存在、人間、神のかたちにふさわしいものにしていただきます。イエスさまにあって平和を保ちましょう。そして、イエスさまによって平和をつくりましょう。私たちはだれと平和をつくりますか? さらに、この荒野のような人生においても、神さまは御使いを送って、私たちが救いを受ける者としてふさわしい人生を送れるよう、私たちのことを守ってくださいます。私たちのことを力づけ、励ましてくださいます。私たちは人生に絶望していないでしょうか? 逃げ出したい、と思ってはいないでしょうか? 今このときこそ、荒野の中でも瞳のように私たちを守ってくださる神さまに感謝し、ますます、神さまの守りを求めてまいりましょう。私たちは特に、どの領域に神さまの守りを必要としていますでしょうか? しばらくお祈りしましょう。 私たちはサタンに負けている、と思っていますか? サタンに勝利したイエスさまを思いましょう。イエスさまの勝利、十字架と復活の勝利によって、私たちもサタンに勝利していることを覚え、神さまとイエスさまに感謝しましょう。 私たちの荒野の生活において、なお苦しめるような存在、それが、獣のような人間です。しかし、私たち教会の兄弟姉妹が、獣の状態からイエスさまによって平和を与えていただき、神と和解させていただいたゆえに人どうしが和解させられていて、こうしてお互いに平和が保たれていることに感謝しましょう。そして、その平和を必要としている人の顔と名前がもしも心に浮かぶならば、その人にキリストの平和が与えられ、その人とイエスさまによって和解できるように祈りましょう。 最後に、神さまご自身が荒野のような私たちの人生において、たえず守ってくださり、ご自身にのみ拠り頼むように私たちのことを導いてくださっていることを覚え、感謝しましょう。私たちは特に、どんな領域で神さまの守りをいただいているか、具体的に挙げて、感謝の祈りをおささげしましょう。

「イエスさまへの導き手」

聖書本文;マルコの福音書1:1~11/メッセージ題目;「イエスさまへの導き手」/ 今日から私たちは、マルコの福音書の学びを始めます。著者のマルコは「使徒の働き」によれば、一度パウロとバルナバの率いる伝道チームから離れて故郷のエルサレムに帰ってしまったというしくじりをした人でした。そのマルコを次の伝道旅行に連れて行くかどうかをめぐって、彼は連れて行くべきではないと主張したパウロと、彼にチャンスを与えようとしたバルナバの間に激しい対立が起こり、結局、パウロのチームとバルナバのチームに分かれてしまいました。いわば分裂をもたらした原因をつくった人でもあったのでした。 しかし彼は、バルナバのもとでしっかり育てられ、のちにはパウロと和解し、パウロの役に立つ働き人となりました。そしてこのようにして、四福音書の中でも最初に書かれた福音書と言われている、マルコの福音書をものしたのでした。マルコの福音書は異邦人に読まれることに主眼が置かれていて、苦難を受けるしもべとしての神の子なるイエス・キリストを強調しています。 以上のことを踏まえたうえで、それでは本文へと入っていきましょう。1節のみことばです。――神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。――このみことばは大事です。この「はじめ」ということばは、七十人訳という、イエスさまの時代のギリシャ語聖書、その創世記1章1節の「はじめに神が天と地を創造された」の「はじめに」と同じことばです。天地万物の存在を神さまが始めさせられたのと同じ次元で、イエスさまの福音というものが語られています。 マルコがこれから伝えようとしているのは、単なる人間イエスではありません。「神の子、イエス・キリスト」、「神は救い」という意味の「イエス」と名づけられたこのお方が、「キリスト」すなわち「油注がれた者」、このお方が「神の子」であるということです。イエスさまは神さま、王さま、救い主……この「イエス・キリスト」という名はあまりに偉大で、十戒のみことばのように「みだりに口にすべき御名ではない」ことがわかります。しかし、このお方の御名によってこそ、人は救われる、私たちも救われるのです。この名のほかに、天下に救いはありません。 このイエス・キリストの「福音」……福音とは何でしょうか? ギリシャ語で「ユーアンゲリオン」これは、新しい時代が登場した、皇帝が即位した、戦争に勝利した……そういった「よき知らせ」が本来の意味です。ウクライナとロシアの戦争が終結したとしたら、福音でしょう。コロナが終息し、人類がコロナとの戦争に勝利したとしたら、福音でしょう。そのような「よき知らせ」、イエス・キリストというお方が来られたことは、そのような「よき知らせ」に匹敵することであるというのです。 まことに、福音、よき知らせは、イエス・キリストから始まっています。イエス・キリストというお方は、その「よき知らせ」、福音そのものでいらっしゃり、その「はじめ」はこのようであった、という、天地創造のみわざに匹敵する救いのみわざの記述が、今から始まります。これは大事です。私たちはしっかり見届けましょう。 2節、3節のみことばにまいります。――預言者イザヤの書にこのように書かれている。「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。/荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」――預言者イザヤの書、とありますが、厳密に言えばこの箇所はいくつかの聖書箇所から引用されています。 「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす」、これは、出エジプト記23章20節のみことば、「彼はあなたの道を備える」、これは、マラキ書3章1節のみことばです。それ以降の3節のみことばがイザヤ書のみことば、イザヤ書40章3節ですが、あえて「預言者イザヤの書」と要約されているのは、この人物の出現は預言者イザヤの預言が成就したことであるのと同時に、旧約聖書そのものの預言のみことばが成就したことであることを示しています。 わたし、すなわち神さまが、あなた、すなわち神の子キリストの前に、道を備える使いを遣わされる、この使いは、荒野で叫ぶ者の声である、何と叫んでいるのかというと、「主の道を用意せよ、主の通られる道をまっすぐにせよ」……。 神の子なる救い主を迎えることにおいて、人は整った道にお迎えする必要がありました。あなたがたの人格は救い主を迎えるにふさわしく充分に整っていなさい、これが、神さまが人に対して発せられたメッセージです。この神の使いの人物は、まさにこのような備えを人々にさせるために、神さまがお送りになった人であったわけです。この人物、ヨハネは「さきがけ」とも言うべき人物です。 3節の終わりの部分から5節までをお読みします。――そのとおりに、/バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。/ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。――この旧約聖書のみことばどおりに神さまが送ってくださった人、救い主が来られるための道を人々に整えさせる人は、バプテスマのヨハネだったというのです。彼のしたことは、バプテスマを授けることでした。 当教会はバプテスト教会であり、水に沈んでいただくことで神に救われたことを公に告白します。私は教会に初めて出席した日、それは1987年の12月のことだったと記憶しますが、その日教会ではバプテスマが執り行われました。バプテスト教会を標榜していたわけではないのですが、浸礼によるバプテスマで執り行われました。 私はそれまで、滴礼による洗礼というものは知っていても、浸礼によるバプテスマというものは知らず、したがって初めて見たわけでしたが、人がガッと水に沈められ、そして引き上げられる様子に、なかば感動のようなものを覚えました。しかしその意味を知ったのはそれからだいぶ経ってからで、これはきたない身を清める儀式ではなく、悔い改めて古い人が死に、新しい人に生まれ変わらせていただいたことを公にすることであると知ったのでした。 そうです。ヨハネが説き、実践したバプテスマは、「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」でした。人々はそのとき、律法の細かい規則によって、自分の罪をいやでも認めざるを得ない状態にありました。 しかし、ヨハネはそんな彼らに、その罪を悔い改めるなら赦されることを説き、そのしるしとして彼らにバプテスマを授けました。悔い改めとは、自分から神さまに方向転換することです。自分は死に、神さまのいのちに生きる、それを象徴するのが悔い改めのバプテスマです。 律法を守り行うという神の基準に達しないこの罪人は水に葬られ、水から引き上げられて神さまによって新しいいのちに生かされる、この、わかりやすくも奥が深い「バプテスマ」というものを荒野を流れるヨルダン川にて行い、たちまちヨハネのもとに人々が押し寄せました。神さまはヨハネにバプテスマを執り行わせることによって、人々に必要なものは悔い改めと、新しく生まれることであることを教えられ、このようにして人々を救い主の到来に備えさせられたのでした。 そんなヨハネのライフスタイルもみことばは語っています。6節です。――ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。――ヨハネのこの格好は、第二列王記1章8節の預言者エリヤの服装そのものです。もはや王に何の期待も持てなかった時代のイスラエルに燦然と輝く預言者エリヤ……エリヤはどこまでも、人々を神さまのもとに導く導き手でした。この格好で過ごしたヨハネは、まさしくエリヤの再来でした。 ヨハネは騒がしい都会を避けて、荒野に住みました。便利な生活をしていると、なんでわざわざ荒野に住むのか、と私たちは思いませんでしょうか? たしかに荒野は厳しい環境です。しかし同時に、荒野は、出エジプトを果たしたイスラエルの民が、約束の地に入るという希望をいだいて神からの訓練を受けた場所でもあります。ヨハネは荒野において、悔い改めの先にある救い主との出会い、それゆえに神さまが与えてくださる天国の恵みへと、人々を導いていたのでした。 しかし、荒野はやはり厳しい場所であることに変わりはありません。ヨハネが口にしたものはいなごと野蜜、最低限の栄養が取れれば充分というような、きわめてシンプルな食生活です。これは、イスラエルの食べたものがマナだったことをほうふつとさせます。 しかし、マナは神さまの恵みであり、マナがなければ飢えるか、栄養失調になるかして死んでしまいます。同じように、いなごと野蜜も神さまが特別に荒野に備えてくださった食べ物です。ヨハネは少なくとも、この何の変哲もない食べ物を感謝していただき、荒野での主の働きの糧としていたのでした。 私たちはときに、生きることに厳しさを覚えるでしょうが、それでも実際の生活を見てみるならば、暖衣飽食、ヨハネのことを思うと、あまりにもぜいたくな生活をしています。せめて私たちは、感謝することを欠かしてはならないのではないでしょうか。ヨハネが最低限の食べ物で養われたことを思うならば、私たちはあまりにも、感謝することでいっぱいでしょう。 また、ヨハネのことを思えば、いらないものも結構ありはしないでしょうか? 私たちはテレビや携帯電話にどれほど向かっているでしょうか? いや、まったく不必要とはいいませんが、そこに映し出される情報は、果たして私たちの生活にとって「どうしてもなければならない」ほど大事なものでしょうか? ヨハネのシンプルさを、私たちはどこかで見習えはしないでしょうか? しかし、ヨハネがこのようにシンプルな生活をしながら荒野にいたのには、理由がありました。見てみましょう。7節と8節です。――ヨハネはこう宣べ伝えた。「私よりも力のある方が私の後に来られます。私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。/私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」 ヨハネがしていたバプテスマを授けるという働きは、たしかに大事なものでしたが、それは水によるという形式的なものにすぎないことをヨハネは自覚し、また、そのように人々に教えました。ほんとうのバプテスマは、人を新しいいのち、永遠のいのちに新生させてくださる聖霊によるものであり、このまことのバプテスマをあなたがたに授けてくださるお方が、私のあとからおいでになる。人々は私のことをすぐれた預言者のように思っているかもしれないが、その方は王なるお方であり、私はその方の足もとにひざまずいて、靴の紐を解いてさしあげる値打ちさえない、それほどすばらしいお方が、私のあとに来られるのである。さあ、この方を見なさい。 ヨハネが荒野にいたのはまさに、あとから来られる偉大なお方を人々に示すためでした。私たちの生きる目的も、このように、王の王なる救い主、神の子キリストを人々に指し示すためです。 私たちは自分のことをどう思いますでしょうか? ヨハネに比べればはるかに小物と思うかもしれませんが、何とイエスさまご自身が、天で最も小さなものでもバプテスマのヨハネより偉大です、と語っていらっしゃいます。私たちがもし、イエスさまを信じて永遠のいのちにあずかっているならば、このバプテスマのヨハネよりも偉大な存在としていただいているのです。しかし、そんな私たちの偉大さは、どのようにして現れるのでしょうか? まさに、神さまのご栄光、イエスさまのご栄光を、人々の前に現すことによってです。私たちの行いが、キリストを指し示すようにすることが必要です。 私たちの生きるこの地は、決して楽な場所ではないでしょう。なぜならば、神さまがあえてこのような厳しい場所、荒野のような場所に、私たちを送られたからです。私たちは茨城県央のこの荒野のような場所で、キリストを指し示す生き方をするように召されています。その生き方をするためにも、私たちはいなごと野蜜のようなシンプルなもので養われたヨハネの生き方にならう必要があります。 私たちがキリストを指し示す生き方をする上では、多くの物は必要ありません。イエスさまの弟子が宣教に出ていくとき、多くの物はいらないとイエスさまが送り出されたように、私たちもイエスさまを伝えるにあたっては、多くの物は必要としません。金銀はなくていいのです。私たちには全能にして偉大なるお方、ナザレのイエスの御名があります。この御名によって祈るとき、神さまはこの祈りを聴いてくださり、人々を癒し、立ち上がらせ、私たちをとおして神の国を拡大してくださるのです。 しかし、私たちはこのお方、イエスさまの御前に、まことの王であるゆえに日々ひれ伏しているでしょうか? イエスさまは私たちのことを友と呼んでくださいましたが、私たちの側からイエスさまを友とお呼びするなど、とんでもないことです。イエスさまはやはり、王さまなのです。私はイエスさまにお近づきする権限もない。そんな私たちだけど、イエスさまのほうから私たちを呼んでくださったわけです。これは恵みです。この恵みにただうち震えるようにして、イエスさまの御前に日々進み出ることが、私たちに必要です。この偉大なるお方を、その御力を、私たちは普段の生活において、力を尽くして宣べ伝えるのです。 さて、そのようにヨハネがイエスさまを宣べ伝えていたとき、イエスさまがヨハネのもとに来られました。そして、どうなったでしょうか? 9節から11節のみことばです。――そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。/イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。/すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」―― マルコの福音書はこのように、イエスさまがバプテスマをヨハネからお受けになったという事実を淡々と記しているだけですが、マタイの福音書では、最初ヨハネはイエスさまにバプテスマをお授けすることを拒みました。自分こそがイエスさまからバプテスマを受けるべきなのに、イエスさまにバプテスマをお授けするとは畏れ多い、とんでもない、というわけです。しかしイエスさまは、「正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしい」とおっしゃって、ヨハネからバプテスマをお受けになりました。 私たちはイエスさまが神の子であると知っています。そんな私たちからしても、イエスさまがヨハネからバプテスマをお受けになったことは、不思議だと思えないでしょうか? しかし、これには意味がありました。 まず、「正しいこと」とは、父なる神さまに対する従順を意味し、ヨハネがイエスさまの到来に備えたことを受けて、イエスさまが救い主としての使命を果たされることを意味します。その「正しいこと」には、ヨハネからイエスさまがバプテスマをお受けになることも含まれていました。 イエスさまがバプテスマをお受けになることはなぜ必要だったのでしょうか? それは、イエスさまがご自分の民をその罪からお救いになるためには、イエスさまご自身がその民の代表となられる必要があり、ヨハネからバプテスマをお受けになることによって、そのことが実現したのでした。イエスさまはヨハネからバプテスマをお受けになることによって、神の民イスラエルの代表としての立場が公になられました。 そのバプテスマにおいてイエスさまが水の中から上がられると、天が裂けて御霊が鳩のようにイエスさまの上に下られました。そして天から声が響きました。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」このように、イエスさまが救い主、神の民の王としての公の生涯に踏み出されるにあたっては、御父と御霊のお働きも同時にありました。イエスさまは人間イエスの単独の働きでメシア、救い主として歩まれたのではなく、父、御子、御霊の三位一体の存在としてこの地上で救い主として歩まれたことが、この箇所からもわかります。 さて、このように公生涯にイエスさまが出ていかれるにあたっても、神さまはバプテスマのヨハネをお用いになりました。このことにおいてヨハネは、イエスさまが救い主として公になられるうえでの、神の器でした。神さまはこのように、イエスさまのみわざのために人をお選びになり、お用いになります。 私たちもこのように、イエスさまが救い主、きよめ主、いやし主、王の王、神の御子としてこの地上で歩まれることにおいても、用いていただく存在です。私たちはこのように、神さまに用いていただき、イエスさまを顕すことにおいてこそ意味があります。ヨハネがこのように、徹底して神さまに用いていただいたように、そう、神さまがイエスさまを救い主としてこの世に送り出されるにあたってヨハネをお用いになったように、私たちも、救い主なるキリストをこの世に現すうえで、神さまがお選びになり、お用いになっている存在です。 私たちは、どこまでもイエスさまを指し示したヨハネの姿から何を思いますでしょうか? そして、イエスさまをこの世に指し示すために、私たちは何をすることがみこころであると思いますでしょうか? ヨハネは人々を悔い改めに導くために、荒野でバプテスマを人々に授けました。これは唯一無比の働きでした。 そのように私たちにも、救い主イエスさまを人々に示すために、自分にしかできない働きを神さまは備えてくださっています。それはどんな働きか、お分かりになっていますでしょうか? こればかりは牧師ですとか、ほかの兄弟姉妹にお尋ねになっても、ヒントぐらいしかお話しすることはできません。ご自身で神さまの御前に出ていき、しっかり祈り求める必要があります。 あなたにとってイエスさまはどんなお方でしょうか? イエスさまはあなたに、どんな生き方を願っていらっしゃいますでしょうか? しばらく祈って黙想しましょう。

「いのちのパンなるイエスさま」

聖書箇所;ヨハネの福音書6:41~59/メッセージ題目;「いのちのパンなるイエスさま」 聖書の中の有名なことばとされているものに、「人はパンのみにて生くるにあらず」ということばがあります。人は生きていくために食べる肉の糧を得るために汲々とするものですが、イエスさまは、それだけで生きるのではない、神の口から出るひとつひとつのことばによって生きるのである、とおっしゃいました。 今日の箇所においては、そのいのちのみことばとは、イエスさまのことである、と、イエスさまご自身がおっしゃっています。イエスさまは、5つのパンと2匹の魚で大勢の群衆を養われました。そんな群衆はなおもぞろぞろと、イエスさまについて行きました。そんな群衆に、イエスさまははっきりとおっしゃいました。「わたしがいのちのパンです。」   パンは、何のために存在するのでしょうか? それを口にすることで、人のいのちを保つために存在します。それと同じようにイエスさまといういのちのパンも、私たちのいのち、御父にある永遠のいのちを保つために存在します。  イエスさまといういのちのパンも、食べるものです。では、イエスさまといういのちのパンを「食べる」とは、どのようなことでしょうか? どうすることが、イエスさまといういのちのパンを「食べる」ことでしょうか? 以下、見てまいりたいと思います。  第一に、イエスさまといういのちのパンは、御父に選ばれた人が食べることができるものです。 まず、ユダヤ人たちは、イエスさまが、ご自身のことを「わたしは天から下って来たパンである」とおっしゃったことで、互いに小声で文句を言いました。あれは大工のヨセフのせがれじゃないか。あいつの家族のことはみんな知っているぞ。聖書には書かれていませんが、あんなことを言うなんて、何を思いあがっているのか、とか、おかしなことを言っているなあ、頭がおかしいんじゃないか、とか、そういうこともうわさし合ったかもしれません。  しかし、イエスさまはそのようにうわさし合うユダヤ人たちに向かい、「互いに文句を言い合うのはやめなさい」と一喝します。そのおことばに続き、イエスさまは44節のように語られます。……そう、イエスさまのもとに来る人というのは、御父が引き寄せてくださった人です。  イエスさまは弟子たちに向かって、あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです、と語られました。イエスさまのもとに来る人というのは、弟子たちだけではなく、私たちも含めて、イエスさまに選んでいただいた人たちです。 しかしイエスさまは、御父のご意向を無視して人をお選びになったのではありません。御父が引き寄せていらっしゃる、その御父のみこころにしたがって、人をお選びになるのです。したがって、十二弟子にしても私たちにしても、イエスさまに選んでいただいたのと同時に、御父に選んでいただいた存在です。   私たちはこの「選ばれている」ということを、どれほど大切にしているでしょうか? 私たちが選ばれたのは何のためでしょうか? 主のご栄光をこの地上において現すためです。私たちは主の御前で、徹底的に生きるべく召されています。  さて、北京オリンピックが始まりましたが、オリンピックに出場するスポーツ選手は、ベストのパフォーマンスをする上で、その体力と技術を維持するために、ふだんから徹底して節制します。トレーニングを欠かしませんし、食べるものや飲むものにも神経を使います。変なものを口にしてはいけないわけです。同時に、栄養のバランスの行き届いた食事をしっかり食べます。では、私たち主の「選手」にとっては、食べて霊的いのちを維持するものは何でしょうか? イエスさまという、いのちのパンです。  御父が私たちのことを引き寄せられたということは、私たちはもはや、自分の主人は私たち自身でもなく、この世の君であるサタンでもないということです。主人は、御父です。その御父の命(めい)を受けられたイエスさまが、ご自身のからだを私たちに差し出され、「取って食べなさい」とおっしゃるわけです。私たちはどうしますか?  もちろん、私たちは罪人です。御子のみからだを取って食べるなど、恐れ多くてできることではありません。しかし、それにもかかわらず、主は「食べなさい」と私たちを招いていらっしゃるのです。主がきよめられたものを、きよくないと言ってはならないのです。私たちはみからだをいただいてもよいほど、イエスさまの十字架の血潮によってきよめていただいたのです。ならば私たちは、いのちのパンなるイエスさまのみからだと血潮をいただくしかありません。いただかないことは主の招きを拒むことであり、それは謙遜でもなんでもなく、むしろ傲慢であり、無礼というものです。  今日私たちは、主の晩さんにあずかります。これは大変なことです。本来、主のみからだと血潮をいただく資格のない私たちに、イエスさまご自身がそのみからだを裂かれ、その血潮を流され、「取りて食らえ」とおっしゃっているわけです。私たちは畏れ多くもそのお招きにあずかっている者として、ただへりくだってこの糧を「いただく」ばかりです。  さて、このいのちの糧を「いただく」ことを、45節ではより具体的に表現しています。お読みします。……そうです。いのちの糧をいただくにあたって大事なプロセスは、「御父から学ぶ」ということです。私たちが日々みことばをお読みするのは、やはり「学ぶ」ことであることを忘れてはなりません。 ある牧師先生からお聞きしたことですが、教会という場所は、学校、一生卒業のない学校です。私たちはどんな仕事をするにしても、必ずなんらかのことを「学ぶ」ものです。勉強するのが仕事の学生は言うに及びませんが、仕事を引退された方でも毎日、新聞記事を読み、ニュース番組を視て、社会情勢を「学びます」。会社員も仕事の仕方を日々おぼえ、スキルアップのためにセミナーに参加したりしていろいろ取り組みます。主婦の方も得意料理の品目を増やすためにお料理の本を読んだりして学びます。みな、生きるために学ぶわけです。 しかし、何よりも大事な学びは、永遠のいのちを保つ学び、御父から学ぶ学びです。私たちは毎日みことばをお読みしていますが、ただ読み流すような読み方ではいけません。それでは、分量をこなした分いかにも素晴らしい人になれたなどと思いこむ、自己満足にすぎません。その日のみことばの糧(それこそ糧です)から、しっかり学んでいただきたいのです。そのとき私たちは、自分のいのちが養われることを実感し、よりいっそう、主に献身した歩みに踏み出す祝福にあずかります。  私たちは御父に選ばれた者としての生き方を全うするために、いのちのパンなるイエスさまをいただいて生きてまいりましょう。そのために、みことばを学んでまいりましょう。そのようにして、神さまの御前で徹底して生きる「選手」として用いられますようにお祈りいたします。    第二に、イエスさまといういのちのパンは、食べるならば死ぬことがないものです。  46節から51節までをお読みします。……イエスさまといういのちのパン、御父のもとから下って来たパンを食べるならば、その人は死ぬことはないとおっしゃいます。では、いのちのパンを食べるとはどういうことか? 47節でそれは、信じることであるとおっしゃっています。  そうです。まさに、信じる者は救われる、なのです。しかし、この「信じる」という日本語は、けっこう曲者です。信じる者は救われる、といいますが、このことばの前には、イエスさまを、ということばが必要です。神の御子イエスさまを信じるのでなければ、人はまことのいのちを得ることはできません。それも、鰯の頭のような信じ方ではいけません。これしかない、一生信じてついていきます、という「信じ」方です。  イエスさまの御前で文句を言ったユダヤ人たちは、先祖がモーセとともに荒野を旅したイスラエルであったことを誇りにしていました。彼らユダヤ人は、先祖が荒野にてマナという不思議な糧をもって養われたことに、特別な意味を見出していました。御父がマナをもって特別に養われたイスラエルの子孫にあたる自分たちユダヤ人も、特別な民だ、と思っていたわけです。しかし、イエスさまは、そのマナを食べたイスラエルの民も結局は滅んだことを指摘されます。そして、まことの天の糧は、ご自身であることをお示しになりました。  しかし、このようなことをイエスさまがおっしゃったならば、ユダヤ人たちは考えを変えたのでしょうか? 決して考えを変えなかったのです。目の前におられる神の御子を、大工のヨセフのせがれとしか考えられなかったのです。見たこともない、はるか昔のできごとである、マナでイスラエルの民が養われたできごとはありありと信じても、目の前のイエスさまのことは決して信じようとしない、何とかたくななことでしょうか、何と目がふさがれていることでしょうか!   しかし、私たちは本来どうだったでしょうか? この日本に生きているならば、イエスさまというまことの道を通って御父に出会うことなど、もはや絶望的としか思えないことです。プロテスタントにかぎっても、初めて日本に教会が設立された1872年から数えて今年でちょうど150年になります。それなのに、茨城町にはいまだに2か所、つまりうちの教会と、おとなりの創恵聖書教会茨城チャペルしか教会が存在していません。これは何を意味するのでしょうか? それだけ、日本宣教というものは難しいものであり、その分、日本人がイエスさまに出会う確率はとても低い、ということを意味します。  そのような中で私たちは、イエスさまを信じる信仰を与えていただいた、言い換えれば、イエスさまといういのちのパンを食べさせていただいて、永遠のいのちを与えていただいたのです。  何という選びでしょうか。何という恵みでしょうか。私たちがもし、ごくごく一般的な日本人として生きて、イエスさまに出会うこともなかったならば、私たちのいのちはどこに行ってしまうのでしょうか。しかし、私たちは今、たしかなことを知っています。いのちの糧であるイエスさまをいただいた以上、私たちのいのちは天の御国にすでに入れられています。  みことばには、ただの人のように歩むことを厳しく戒めることばがあります。それは、私たちがもはや肉という滅びるべき自我にしたがって歩むべき存在ではないからです。世に流される、ということばがありますが、私たちはこの世と調子を合わせてはいけません。何が正しいことで、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を、聖霊によって変えていただく必要があります。そのために主に、切にお祈りするのです。  心を一新していただいたならば、何が主の御目によいことで、何が完全であるのかをわきまえ知ることができるようになります。そのように、神さまの御目という基準にしたがって生きることができるようになれば、私たちはこの世と調子を合わせて生きることをしなくなります。肉にしたがって、滅ぶべきただの人のように生きることがなくなっていきます。イエスさまといういのちのパンをいただいて永遠のいのちを得ている人は、そのようにして生きるとき、最高の祝福を受け取ることができるのです。  私たちはどうでしょうか? 今、イエスさまをいただいて、永遠のいのちを生きている喜びを体験していらっしゃいますでしょうか? この喜びに満たされて生きてまいりましょう。そして、お互いの間に、このイエスさまにある永遠のいのちの喜びが満ちあふれるように、祈ってまいりましょう。  第三に、イエスさまといういのちのパンを食べるならば、人はイエスさまに永遠にとどまり、イエスさまもその人に永遠にとどまられます。 52節から58節をお読みします。……血とか肉とか、相当に強い表現です。「露骨」といってもいいでしょう。この表現に、イエスさまにぞろぞろとついてきた人たちはつまずきました。今風のいい方をすれば、イエスさまのことばに「引いた」わけです。「ドン引き」といってもいいくらいです。  しかし、イエスさまは時に、あえてこのような難解な表現を用いられることがあります。イエスさまはそのようなたとえを語られたあとで、「聞く耳のある者は聞きなさい」とも付け加えられました。群衆はイエスさまの教えを「ありがたい」と思ったか知れませんが、その程度で、それ以上お聞きして明確なみこころを知ることをしませんでした。しかし弟子たちは、イエスさまにたとえの意味を説明していただこうとしました。イエスさまは「どうして悟れないのか」とお叱りになりながらも、懇切丁寧にたとえの意味を解き明かしてくださいました。  イエスさまのみことばの意味がわからないのは、私たちがイエスさまの弟子になり切れないからです。もちろん、ヨハネの黙示録のように、まだ成就していない預言のような箇所は、慎重に学ぶ必要はあります。しかし、みことばはしっかりと学ぶならば、わかるようにできているものです。 もちろん、聖書はところどころ難しい箇所がありますが、ちゃんと学べば、神さまについて、この世界について、人間について、実に多くのことを深く教えてくれます。要は、学ぶことです。イエスさまに弟子入りした者として、授けていただいた「虎の巻」を熟読することです。そうすれば、免許皆伝の弟子、つまり、主に大いに用いていただける弟子となれるのです。  しかし、その弟子の歩みは、決して一人で行くような孤独な歩みではありません。イエスさまがいつでも、ともにいてくださる歩みです。56節のみことばをもう一度お読みしましょう。……もちろん私たちは、この「肉を食べ、血を飲む」とはどういう意味か、ちゃんとわかっています。イエスさまを信じて一生お従いすることです。キリストがわがうちにいてくださり、われがキリストのうちにいる、そうなることです。そういう人はイエスさまのうちにとどまり、また、イエスさまもその人のうちにとどまってくださいます。  このことを、ことばを変えて説明したみことばがあります。ヨハネの黙示録3章20節です。……だれも招けないような秘密の場所にイエスさまをお招きできるなんて、ステキなことではないでしょうか? そこでイエスさまは一緒にご飯を食べて交わってくださるというのです。みなさんならばイエスさまと、何を食べながら話しますか?  どんな秘密でも分かち合える関係。イエスさまといういのちのパンを「食べる」ように生涯イエスさまを信じてお従いすることは、主従関係、縦のではない、私たちのことを「友」と呼んでくださる、親しい関係です。イエスさまが一生、そして永遠に友でいてくださるこの永遠のいのちの恵みを、心から感謝しつつ味わいましょう。  イエスさまといういのちのパンをいただくべく私たちを召され、選んでくださった御父は、なんと素晴らしいお方でしょうか? ほめたたえましょう。この永遠のいのちの喜びに、私たちはともに満たされてまいりましょう。そのような私たちといつまでも友でいてくださるイエスさまをほめたたえつつ生きてまいりましょう。  今日のメッセージを振り返りましょう。イエスさまといういのちのパンは、御父に選ばれた人だけが食べることができます。私たちは御父に選ばれています。この選びのゆえに、神さまに、イエスさまに感謝しましょう。  そして、イエスさまといういのちのパンは、食べるならば決して死ぬことがありません。私たちがこのいのちのパンなるイエスさまをいただく恵みにあずかっていますことに感謝しましょう。  そして、イエスさまといういのちのパンを口にするなら、人はイエスさまにとどまり、また、イエスさまもその人のうちにとどまられます。イエスさまのうちに生きる恵みが与えられていることに感謝しましょう。  今日の主の晩さん、とてももったいない恵みですが、感謝して受け取りましょう。感謝して受け取るとき、主のあふれる恵みを私たちは体験するようになります。ではお祈りいたします。

礼拝は生活、生活は礼拝

聖書箇所;ローマ人への手紙12章1節/メッセージ題目;礼拝は生活、生活は礼拝 今年度、2022年度の標語は、「礼拝は生活、生活は礼拝」に決めさせていただきました。みなさま、今こうしておささげしている礼拝は、生活なんです。そして私たちの日々の生活は、礼拝なんです。この前提で私たちは、礼拝し、生活してまいりたいものです。 今お読みしましたみことばは「ですから」ということばで始まります。何が「ですから」なのでしょうか? そう、それは、ここまでの11章分の、ローマ人への手紙の内容を受け取っての、「ですから」ということです。 みなさま、ローマ人への手紙は毎日の通読とは別個にでも、何度でも繰り返しお読みいただきたいのですが、ローマ人の手紙が語っていることは、人間は全面的に堕落してしまっているということ、自分の力では一切、救われる道はないということ、しかし、私たち人間がまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神さまは私たち人間に愛を示してくださった、ということです。 私たちは行いによって救われるのではない、信仰によって救われた。そのように、救っていただいた者としてふさわしくあれ、ということで、「ですから」と語っているわけです。私たちはそれまで、罪と死と悪魔を主人としてそれらのおぞましい存在に奴隷として仕える存在でした。希望などありません。しかし私たちは今や、自由にしていただきました。今からはこのように自由を与えてくださったお方、神さま、イエスさまのしもべとして生きることが、私たちのすることです。 ということは、神さま、イエスさまが主人なわけですから、主人でいらっしゃる神さまが、私たちに何を求めていらっしゃるかを知ることが、私たちにとって何よりも大事になります。こうすれば神さまを喜ばせることができる! 私たちもいろいろ考えるでしょう。しかし私たちが、何かの行いをしたとしても、そのピントが外れていては、何にもなりません。 19世紀のアメリカの大衆伝道者、D・L・ムーディが、面白いたとえ話を語りました。ある男の子が、お父さんを喜ばせたいと思った。どうしたら喜んでもらえるかな? そうだ! お父さんは魚のマスが大好きだ! そこで男の子は、マスを釣りに行きました。……学校を休んで。……私たちクリスチャンもしばしば、こういう間違いを神さまに対して犯してしまう、というわけです。そこで私たちは、神さまが何を願っていらっしゃるかを、聖書から正確に知ることが必要になってきます。 このローマ12章1節によれば、そのみこころとは、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げる」ことです。旧約聖書を読んでみますと、祭司が神さまにささげものをいかにささげるべきか、という規定が繰り返し出てきます。しかし何よりも、そのささげ物は「傷がないもの」でなければならない、ということです。 しかし現実の私たちを見てみましょう。傷だらけではないでしょうか。きたないではないでしょうか。こんなものが果たして、神さまに受け入れられるのでしょうか? 答えは「イエス!」。ただし、条件があります。そのままではいけません。よく「そのままでいいんだよ」ということが語られますが、私たちにはそれでも条件があります。それは「イエスさまの血潮によって洗いきよめられる」ということです。 そのために私たちは、信仰を用いるのです。「私のすべてはイエスさまの十字架の血潮によって洗いきよめられた!」こう宣言するのです。そうなるともはや私たちは、傷のある者ではありません。きたない者ではありません。 しかし、そうなったら、私たちのすることはなんでしょうか? イエスさまの血潮によって洗いきよめられた者として振る舞うことです。もう、罪の性質を発動させないことです。「そのままでいい」といっても、捨てるべき罪の性質、悪意、むさぼり、姦淫、深酒、そういったものを捨てないままの「そのままでいい」ということではありません。 私たちがもし、主との交わりをしっかり持っているならば、そのような罪の性質から私たちは遠ざかることになります。もし、そのような生活の変化が現れないで、ただの人のように生きているならば、その人は神さまとの交わりを充分に持っているとは言えません。 私たちは日曜日ごとの礼拝をとおして、神さまの御前に出ます。このとき、私たちは聖霊の交わりをいただいて、みことばと祈りと賛美によって、神さまの御前にきよめをいただきます。また、毎日のディボーションと聖書通読をとおして、私たちはきよめをいただきます。それが大前提となりますが、しかし、それ「だけ」では私たちは「聖なる生きたささげ物」になりきることは極めて難しいです。私たちは、礼拝のたびに、また、ディボーションのたびに、みことばが何を語っているか、すなわち、自分に対して神さまはどのようなみこころを持っていらっしゃるかを知ることが必要になります。 つまり、みことばを聞くことだけで満足してはならない、ということです。単にみことばを聞くだけで満足して、それで生活が何も変わらないようでは、「宗教」をやっているにすぎません。私たちは、生活が変わっていく必要があります。 しかし、生活が主のみこころに従うように変わることは、私たちの力で何とかなることではありません。なぜならば、私たちは主のみこころにかなう歩みをすることなど、愚かなこと、面倒くさいことと思うような、肉の性質が意地悪く自分の中に存在するからです。 聖霊なる神さまに働いていただく必要があります。瞬間瞬間、聖霊さまのお導きに明け渡すのです。それゆえ私たちは、普段どんな働きをしているとしても、お祈りが欠かせませんし、聖霊さまのお導きに敏感になる必要があります。 そのようにして聖霊に導かれた生活をするとどのようになるか、と申しますと、神さまの栄光を顕す生き方が実践できるようになります。そのように、神さまのご栄光を顕す生き方こそ、礼拝の生き方、自分自身を神さまにおささげしつつ生きる生き方です。その生き方によって神さまに喜んでいただけるならば、これほど素晴らしいことがあるでしょうか? いや、神さまは私たちの存在そのものを喜んでおられるのだ、そのようにおっしゃいますでしょうか? それは確かにそのとおりです。しかしそれは、こういうことではないでしょうか? だれも、自分の子どもの存在を喜ばない親はいません。子どもはいてくれるだけで、親はうれしいものです。しかし、その子どもが親の心をしっかり受け取り、親に従って生きるのと、親に無関心で、親のことなどどうでもいいという態度で生きるのとでは、どちらがよりうれしいでしょうか? 神さまとの関係にも同じことが言えます。神さまは、神さまに背を向けていた私たち人間を愛して、ひとり子イエスさまを十字架につけてくださいました。私たちはこれほどの愛を受けているのですから、その神さまのみこころである、神さまを礼拝すること、日曜日の礼拝においても礼拝し、毎日時間を割いてでも礼拝し、そして、普段の生活のさまざまな取り組みをとおして、神さまのご栄光を顕すということをもって、神さまを礼拝する、そのような生き方をしてしかるべきではないでしょうか? この、礼拝の生活を、私たち水戸第一聖書バプテスト教会の兄弟姉妹で、ともにしてまいりたいのです。この生活は一人の取り組みでできるものではありません。その取り組みができるように、励まし合い、祈り合う共同体を築いてまいりたいと思います。 毎週日曜日の礼拝をともに充実させましょう。そして、毎日の礼拝の生活をともに充実させましょう。そのようにして、神さまに喜ばれる歩みをする私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 お祈りしましょう。今年私たちは、「礼拝が生活、生活が礼拝」とますますなるために、ひとつ決心したいと思います。 毎日ディボーションします、と決心したならば、「毎日何時何分から何時何分まで」という目標をつくりましょう。毎日お祈りします、と決心したならば、「何時から何時まで」という目標をつくりましょう。また、週に1回は礼拝堂にお見えになり、お祈りされることを心からお勧めします。あるいは、礼拝にいらっしゃるのもコロナ下という状況で難しい、という方も、せめて、オンラインによる礼拝の同時中継に協力していただければと思います。パソコンを置くスペースは、きちんと片づけましょう。そこを祈りと礼拝の場として整えましょう。

「ダビデの武器 その4」

聖書;サムエル記第一18:17~30/メッセージ題目;「ダビデの武器 その4」  旧約聖書の創世記を読みますと、ヤコブがラケルに恋して、ラケルと結婚するために7年もの間、ラケルの父親であるラバンのもとで重労働に明け暮れるという場面が出てきます。なんとも、愛の力の偉大さを見る気がします。 今日のみことばの学びも今年のシリーズの続きで、「ダビデの武器」という内容でお話しますが、この箇所における「ダビデの武器」、それは「愛の力」です。 ダビデにとって愛の力は、ペリシテ軍との戦闘におけるやる気を高めるうえでまたとない力となりました。その愛の力は何であったかは、あとで詳しく見ることにしますが、サウルは、愛の力というものを利用して、ダビデを戦わせようとしました。 まず、サウルはダビデの前に娘のメラブを連れてきて、もし、主の戦いを勇敢に戦うなら、おまえとメラブを結婚させよう、と、ダビデに持ちかけます。一見すると、神の民であるイスラエルの王さまらしい発言、その戦いで功績をあげる者には自分の大事な姫もあげよう、という、サウルの献身的な態度のように見えます。しかしサウルの腹の中はといえば、この戦いによってダビデを滅ぼしてしまおう、という魂胆でした。 このようなサウルの命令、また、契約の持ちかけに対し、ダビデはこのように答えています。「私は何者なのでしょう。私の家族、私の父の氏族もイスラエルでは何者なのでしょう。私が王の婿になるとは。」 しがない羊飼いの一族など、王家の一族になるのに最もふさわしくない、ここにダビデのへりくだりを見ますが、だからといってダビデは戦わなかったわけではありません。ダビデはそのようにへりくだってはいても、やはり戦いました。それは主君サウルのためであり、何よりも、神の民であるイスラエルという国と民族のためでした。すなわち、王を立てられたお方、この地にご自身の国と民族を置かれたお方、神さまのために戦いました。 そうです。ダビデの動機にはもちろん、メラブと結婚したいという愛の力も働いていたでしょう。また、戦いで勝利さえすれば、しがない羊飼いの地位から一族を王族に引き上げてもらえるという、一族の栄誉もかかっていました。神の栄光のために戦って勝利することには、このような恵みもついて回りました。 それが、イスラエルに勝利をもたらしていざ結婚となったら、サウルはメラブのことを、アデリエルという男に嫁にやってしまったのでした。メッセージの冒頭でも申しましたヤコブのこと、ヤコブはラケルと結婚する際にレアまで押しつけられましたが、そんなことをするラバンは実に食えない男でした。しかし、サウルはそれ以上にひどいことをしたと言えないでしょうか。何しろ、イスラエルが負ければダビデは死ぬか人望を失うか、イスラエルが勝てば勝ったでその手柄をダビデから奪い、よそ者にくれてやったわけです。 しかし、このような屈辱を体験したダビデのことを、神さまはお見捨てになりませんでした。やはりサウルの娘だったミカルが、ダビデを愛していたのでした。ダビデが歴戦の勇士、英雄であったからというのもありますが、王族であるミカル王女はそれ以上にダビデのことを知りうる立場にありました。 ダビデはかつてサウルの護衛でもありましたし、ミカルの兄であるヨナタン王子の一の親友でもありました。その分、ミカルはダビデの人柄をよく知っていました。ミカルはまた、ダビデのメラブへの愛を利用した父親のひどい仕打ちを、間近で見てもいたわけです。私こそがダビデと結婚してあげたい……そんな思いにもなったことでしょう。父サウルは、ミカルがダビデと結婚したい思いがあることを知りました。しかしこの事実は、サウルをますます恐れさせたのではないでしょうか。愛娘のほうからダビデを恋い慕っているとは! このわしの敵(かたき)を恋い慕うとは何事か! だが、ここでもサウルは一計を案じます。ミカルと結婚させてやろうと考えたのです。これで愛娘の思いは遂げられますし、ダビデのほうも、一族もろとも王族になるという恩恵を受けられます。しかし、このことにより、ペリシテ軍の攻撃を受けてダビデは今度こそ滅びる、しめしめ……。 サウルが食えない男なのは、こんなことを家来に命じてダビデに伝言させたことからも明らかです。「ご覧ください。王はあなたが気に入り、家来たちもみな、あなたを愛しています。今、王の婿になってください。」家来たちはダビデのことを愛していたかもしれませんが、少なくともサウルは、ダビデのことを気に入ってなどいません。気に入っているとすれば、忠実なダビデは王に栄誉をもたらす鉄砲玉だから、ということ以上のものではないでしょう。 しかし、王の婿になることはどれほど難しいことでしょうか。家柄ももちろん問題です。王族と羊飼いなど、釣り合わないことこの上ありません。さらに大変なのは、花嫁料というものを用意して貢がなければならない、ということです。王家のお姫さまと結婚するには、たいへんな金額の花嫁料を用意しなければなりません。そんなものをしがない羊飼いが、どうやって用意するというのでしょう。 それ以上に、ダビデはすでに、メラブを別の男に嫁がせられてしまったという屈辱を経験していました。どんなに功績をあげても、王の差配を前にしてはどうしようもありません。ダビデはいやでも、自分の出自の貧しさ、卑小さを身に染みて悟らなければなりませんでした。どんなにいのちを懸けても、王の婿になるなど、夢のまた夢だ……。 私は王さまの婿になどなれません。ダビデはそう言うしかありませんでした。それで、この返事をもらったサウルは、また考えました。これでは結婚を餌にダビデを葬り去ることは難しい、ならばこうしよう。ペリシテに勝利した証しとして、ペリシテ人の「陽の皮」を百枚持ち帰れ。 陽の皮とは、男子が割礼をした際に余る、性器の包皮の皮です。ダビデはゴリヤテとの闘いにおいて、彼のことを、イスラエルの生ける神の陣をそしる無割礼のペリシテ人と言いました。神の民にとっては、割礼を受けていない異邦人の軍勢に敗北することは、すなわち神の栄光が汚されることであり、それゆえ、神の栄光のために必ず勝利しなければならなかったわけです。神の陣に敵対するペリシテの兵士の陽の皮を切り取ってイスラエルの王のもとに持ち帰るとは、神に敵対した勢力がさばかれた、ということを示す、何よりもの証しでした。 ダビデにとって、この申し出はよいことに思えました。それはまず、サウルがそう言ったことによって、ダビデはこの戦いが、神の栄光のための戦いであることを意識するようになったからでした。 そしてそれ以上に、この戦いは、自分のことを愛してくれるミカルのその愛にいのちを懸けて応える、愛の戦いとなりました。この戦いに勝利するならば、いよいよミカルの愛を自分のものにします。まさにメッセージの冒頭に申し上げました、愛の力、それがダビデにとっての武器となりました。 もちろん、戦いは大変な危険が伴います。剣を振るって倒すことまではできたとしても、それで倒れた兵士の「陽の皮」をいちいち切っているうちに、次の兵士が襲いかかってこないともかぎりません。弓矢を打ち込まれて命中したらおしまいです。単に「100人倒せ」ではなく、「100枚の陽の皮を持ち帰れ」は、ただごとでなく困難なミッションです。 だが、ダビデは100枚どころではなく、200枚持ち帰りました。なんと2倍です。それだけ、この結婚を何としてでも成し遂げたい、という思いがダビデにはあふれていました。このように、愛の力を用いて、神さまは人を用いてくださるということを私たちは見ることができます。ダビデにとっての武器であった愛……それは多方面に張り巡らされた愛でした。 もちろん、ミカルに対する愛のなせるわざでしたが、それだけではありませんでした。ダビデを愛しているサウルの家来たちに対する愛、しがない羊飼いの暮らしから王族に引き上げようという実家の家族に対する愛、ともに勝利を味わうことで喜びを分かち合おうというイスラエル軍の兵士に対する愛、勝利をもたらして喜ばせようというイスラエルの国民に対する愛、そして、サウルに対する愛、そしてすべては、神さまに対する愛でした。 私たちも日々、生活の中で戦いを展開します。それは言ってみれば、私たちが神さまの子どもとして、神さまのしもべとして生きるゆえに、神さまにあって展開する戦いです。 バプテスト教理問答書の第一問答、これはとても大事なので何度でも取り上げますが、こう語っています。「問1 人のおもな目的は何か。/答 人のおもな目的は、神の栄光をあらわすことと、永遠に神を喜ぶことである。」私たちは仕事をとおして、家庭生活をとおして、神の栄光をあらわし、神を喜ぶように召されています。 しかし、サタンと悪霊どもの軍勢は、人がそのように神の栄光をあらわし、神を喜ぶことをさせないように、さまざまな妨害をしかけてきます。仕事にはしくじりがつきものですが、そのしくじりをいつまでも思い出させ、くよくよさせて、神さまを見させなくする。人から言われたことを真に受けさせ、感情的にならせたりする。怒りで支配したり、落ち込みで支配したりする。要するに、神さまのご栄光をあらわすことも、神さまを喜ぶこともさせなくするのです。 人には感情というものがあります。また、多かれ少なかれ、人は周りの状況に左右されるものです。それはクリスチャンであっても例外ではありません。しかし、私たちは落ち込んだままでいることはありません。怒りに支配されたままでいることはありません。 それはなぜなのでしょうか。神さまを愛する愛が私たちの中にあるからです。神さまを愛する愛の力は、神さまが私たちの周りに備えてくださったひとりひとりに対する愛へと実を結びます。むかし、「愛は勝つ」というタイトルのヒット曲がありましたが、私たちクリスチャンにとっては、「神の愛は勝つ」なのです。 しかし、神さまに対する愛というものは、私たちがまず神さまを愛することによって生まれるものではありません。ヨハネの手紙第一、4章の7節から12節をお読みすると、私たちが互いに愛し合うべきということが書かれていますが、その愛は「神のみこころだから愛さなければならない、愛し合わなければならない」という、律法的なものではないことがわかります。読んでみましょう。 どのようにして私たちは愛し合うのでしょうか? そう、神さまが私たちのことをまず愛してくださったゆえに、御子イエスさまを私たちの受けるべき罪の罰の身代わりに十字架につけてくださったということ、その神の愛を受けて、私たちは神を愛し、その愛する神さまのご命令だから、神さまへのあふれる愛を、人どうし互いに愛し合うという形で実践するのです。 ダビデは、イエスさまがこの地上にお生まれになる、1000年もむかしの人でした。しかしダビデは、御子キリストの存在をはっきり認め、キリストをほめたたえていました。 詩篇110篇でダビデが歌ったのは、まさにその御子キリストへの賛美であり、それはキリストへの賛美なのだと、イエスさまご本人が明らかにしていらっしゃいます。ゆえにダビデの神さまに対する愛は、主キリストへの愛であり、このお方の御力をもって敵サタンとその軍勢は滅ぼされることを知って、キリストをほめたたえました。もちろん、このお方キリストの存在をダビデが知っていたのは、ダビデには神さまからの霊感があって、神さまから教えていただいていたからでした。 ダビデは、神の民に敵対するペリシテとの戦いをもって、このお方キリストへの愛を実践しました。それはキリストというお方が、神に敵対するサタンの軍勢を滅ぼされるお方だということを理解していたゆえです。 しかし、私たちにとっての戦いは、人を相手に勝ち負けを競うものではありません。人はただ、愛する対象です。しかし、そのように愛する対象であるにもかかわらず、あたかもその人に勝つことが主の戦いに勝利することであるかのように、サタンは私たちをミスリードし、愛し合うべき愛の絆を断ち切り、敵対させます。 しかし、このような仲間割れ、同士討ちは、なんと非生産的なものでしょうか。このようにクリスチャンが同士討ちをするならば、サタンの軍勢は戦わずして勝ちます。そもそも同士討ちというものは、神さまが、ご自身の民が敵に勝つために用いられた手段です。それをサタンは真似をし、私たちがサタンの計略に引っ掛かって同士討ちをするようになるのです。どれほど愚かなことでしょうか。私たちはこのような愚かなふるまいをするのではなく、愛し合うものにしていただく必要があります。 そのためにも、まず神を愛する愛を増し加えていただく必要があります。讃美歌にあるとおりです。「わが主イエスよ ひたすら 祈り求む 愛をば 増させたまえ 主を愛する 愛をば 愛をば」しかし、神さまへの愛が増し加わるということは、神さまが変わらずに愛してくださっている、その愛をなお受け取ることによって可能になります。 間違えてはいけません。神さまはひとり子イエスさまをくださるほどの最高の愛を、すでに私たちに注いでくださっています。あとはその愛を私たちがどれだけたくさん受け取るかです。私たちにかかっています。そのように神の愛をより多く受け取った人が、人をより多く愛する人になることができます。 神さまの愛はどのようにしたら多く受け取ることができるのでしょうか? それには、私たちは本来、神さまの愛を受け取る資格のない罪人であることを、日々悟り、それにもかかわらず変わらずに私たちのことを愛してくださっている神さまの愛に感謝することです。 しかし、時に私たちは、聖書を読んでも、お祈りしても、ディボーションに打ち込んでも、神さまのそのような愛を実感できない、ということがないでしょうか。そんなときは、こうすればいいのです。これはむかしある牧師先生からお聞きしたことばですが、こうおっしゃっていました。「聖書は読みたくないときに読み、お祈りはしたくないときにする。」論より証拠、ぜひやってみてください。それまでわからなかった神さまの愛が、わかるように変えていただけます。 ダビデにしても、戦いでいつ自分のいのちが取られるかという大変な中に置かれ、それでもミカルへの愛、ひいては神さまへの愛をかなえるために、どれほど祈らされたことでしょうか。文字どおり、戦いの現場では、祈るしかありません。しかし祈るならば、聖霊の交わりによりダビデは御声を聴くことができました。その御声、みことばを握りしめて、ダビデは愛という武器を手にした愛の戦いに出ていき、そのようなダビデに神さまは勝利を得させてくださったのでした。 私たちもそうです。私たちもいま戦いを体験していて、たいへんな思いをしているかもしれません。コロナ下に置かれての経済的な戦い、仕事の責任を果たすための戦い、精神的、体力的に追い込まれての、自分の限界との闘い……しかしその戦いはとどのつまり、その戦いに負けさせて主のご栄光を損なおうとする、サタンと悪霊どもの軍勢との戦いです。その戦いをとおしてもしも私たちが人を愛することをやめたり、人をさばくようになったりしたとするなら、そのときこそ私たちは「負けた」ことになります。 私たちがその戦いに勝つには、神さまを愛する愛を増し加えていただくのみです。神さまを愛する者に、神さまは味方してくださいます。神さまを愛する表現をしましょう。神さまとの時間を取りましょう。テレビを視る時間、インターネットを見る時間を、少しでも神さまとの交わりに向けてはいかがでしょうか? そのぶん、みことばを読むのです。そのぶん、お祈りをするのです。神さまはそのような私たちに、ご自身の愛を注いでくださいます。その愛にあふれて、いよいよ隣人を愛する、そのような私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

「ダビデの武器 その3」

聖書箇所;サムエル記第一18:6~16/メッセージ題目;「ダビデの武器 その3」 高校野球であれ、軍隊であれ、血気盛んな男たちの戦いに、若い女性が声援を送るならば、底知れぬやる気が出てくる……それは古今東西変わらないはずです。しかし、もし戦いに臨む者が、俺よりもあいつのことをみんな応援しているぞ、くやしい、なんて思いになったならば、盛り上がるべき士気もなにもあったものではありません。しかし、そんないじけた考えをするのが、一兵卒ではなくて、王さまだったらどうでしょうか? 今日の箇所に登場するサウルは、まさにそんな自己憐憫に陥っていじけていました。だれと比較したのでしょうか? 女の人たちは楽器を手に手に、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と喜び歌い、それにサウルは激怒しました。 でも、もし、サウルにもっと度量があったならば、サウルはこう言ってもよかったのではないでしょうか。「ほっほっほっ、わしは、わしの十倍仕事をするダビデを従える、強い王だ。神さまはこれほどまでの祝福を、わしに与えてくださった。神さま、万歳!」 しかし、サウルにはそんな器の大きさなどあるわけがなかったのでした。なぜならば、王に霊的権威を与えるお方、大いなるお方である聖霊が去られ、サウルはまるで王にふさわしくない、ちっちゃな男に成り下がってしまったからでした。 サウルから聖霊が去られたのは、サウル自身の責任でした。祭司がささげるべきいけにえを勝手にささげた、勝手な誓いを立ててあやうく息子ヨナタンを殺すところだった、聖別すべきいけにえを取っておく罪を犯した、その程度の霊的状態にしかない者からは、聖霊は去られるべくして去られたのでした。 ダビデは、ペリシテと戦う戦士でしたが、今度は、こんな愚かな王までが戦いを挑んできました。ダビデは、このようなサウルが相手になって挑んでくる闘いにおいて、やはり武器を用いました。ただしこの「武器」は、サウルを傷つけたり、屈服させたりするために振るう「武器」ではありません。むしろ、サウルの背後にうごめく悪魔と悪霊どもの策略に戦いを挑むための「武器」です。以下、今日の本文をもとに、その「武器」とは何か、3つ見てまいります。 第一にその「武器」は、「賛美」です。 サウルには悪霊が下っていました。10節をご覧ください。「その翌日」とあります。女たちが「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と喜び歌ったことに大いに怒ったその次の日です。怒りの感情をそのままにしていると悪霊にやられる、という、格好の例であるわけで、こんなことからも、私たちは怒りの感情を治める必要があることを学ぶわけですが、ともかく、その日サウルには凄まじいまでに悪霊が臨みました。 サウルにこのような「霊の障り」があったことは、前からサウルにとって問題となっていましたが、それは何よりも、聖霊がサウルから去られたことが最大の理由でした。その「霊の障り」は、サウルに代わって油注がれたダビデが竪琴を弾くことにより消えたわけで、そういうことからも、悪霊を治めるほどの霊的権威はサウルではなく、ダビデにあったことが証明されるわけです。 しかしこの日は様子がちがいました。サウルはダビデの竪琴に落ち着きません。むしろダビデを槍によって壁に串刺しにし、殺そうとしました。ダビデは身をかわしましたが、サウルはなんと、2度もダビデに槍を手に襲いかかりました。 ダビデが手にしていた竪琴という楽器は、単なる音楽セラピーの次元で奏でていたものではありません。一国の王、神の民イスラエルの王であるサウルを発狂させるほどの怖ろしい力を持った悪霊と戦いを交えるための武器です。 ダビデが竪琴で奏でたものは、賛美の歌です。新約聖書・エペソ人への手紙5章19節は、賛美とはなんであるか、ということを語っています。このみことばは前の節、18節の、「御霊に満たされなさい」というみことばを受けて語られています。すなわち、御霊に満たされるために賛美するのであり、賛美すると御霊に満たされるのです。 ダビデが竪琴をもって賛美の歌を奏でたとき、そこには聖霊と悪霊どもとの戦いが交えられました。サウルを操るサタンの軍勢は、聖霊を呼び起こすダビデを殺すことで、自分たちが勝利しようとしました。しかし、聖霊さまはダビデのことを守ってくださいました。 ダビデがゴリヤテと一戦を交えるまでは、サウルの前で竪琴さえ弾けば悪霊は去りました。しかし今度は、悪霊どもは去らなかったばかりか、サウルをより一層猛り狂わせ、この賛美を奏でる者、聖霊の人を殺そうとさえしました。 それでもダビデが死ななかったのはなぜでしょうか? それは、聖霊の油注ぎがあったからでした。神さまはサウルに悪い霊が下ることをお許しになりましたが、王として神の民を治めるべき人を殺すことまでは、お許しになりませんでした。 ここからわかることは、賛美のうちに戦いが起ころうとも、私たちは決して負けない、ということです。賛美というものは、聖霊の働きがなければ絶対にできないことです。賛美と一般の歌の間には、越えがたい断絶があります。極端な話、一般の歌はだれにでも歌えますが、賛美は御霊に満たされようというへりくだった心のある人でなければ、決して喜んで歌うことができない歌です。 私たちはときに、怖ろしい霊の戦いを体験します。悪霊は存在して働きます。しかし、こういうことを言うと、それはないと否定したがったり、触れようとしなかったり、はなはだしくは、こういうことを口にする者はおかしいなどとのたまったりする人がいます。でも、たしかにこういう霊的な世界は存在します。否定してみても始まりません。 しかし、一方で、そういう存在をいたずらに恐ろしがったりするのも正しくはありません。私たちには聖霊がおられるのです。聖霊が戦ってくださり、私たちに勝利をくださるのです。私たちがすることは、エペソ書6章に書かれているとおりの、神のすべての武具を取ることですが、その6つの武具のうち、攻撃に使うものは「みことばという剣」だけです。基本的に武具は、身を守るためにいただくものです。 武装は聖霊なる神さまとの交わりの中でしていただくものだということを、私たちは忘れないこと、これに尽きます。真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備え(という履物)、信仰の盾、救いのかぶと、以上の装備は、聖霊さまとの交わりの中でいただくものです。ダビデの友となってくれたヨナタンが武具をくれたように、私たちの友となられた主は、私たちに武具をくださり、守ってくださいます。 忘れないでください。私たちはもちろん戦うのですが、私たちが戦う前に、聖霊さまが戦い、勝利を与えてくださっているという事実……私たちはすでに勝利しています。イエスさまが十字架の上で死とサタンに勝利してくださったゆえに、イエスさまを主と信じ受け入れた私たちは、勝利しました。勝利は主にあってわがもの、この主をほめたたえる賛美をもって、それでも私たちを勝利者の座から引きずり降ろそうとするサタンの軍勢、私たちを敗北者のように錯覚させて落ち込ませようとするサタンの軍勢に、御霊の満たし、喜びをもって、圧倒的な勝利をするのです。 この2022年、私たちはますます、主を賛美しましょう。賛美をもって満ちあふれる喜びは、大いなる勝利をもたらします。ハレルヤ! 第二のその「武器」は、「主の臨在」です。 12節、14節で繰り返されていること、それは、「主がダビデとともにおられた」ということです。主がダビデとともにおられたゆえに、もはや神の人とは言えなくなったサウルはダビデを恐れました。 主がダビデとともにおられたゆえに、ダビデは行く先々で勝利を得ました。 サウルはダビデを遠ざけました。王の護衛をしていたダビデを、千人隊長に任命しました。サウルには思惑がありました。ペリシテの攻撃によって、ダビデを葬り去ろうという思惑です。そうでなかったとしても、もしダビデがペリシテに負けたら、その責任は敗軍の将のダビデにあるわけで、ダビデはイスラエルの信頼を大いに失うことになるわけです。 しかし、ダビデは死にもしなければ、失脚もしませんでした。かえって、サウルの思惑がどうであろうとも、ダビデは勝利に次ぐ勝利をイスラエルにもたらしました。それは、神さまがダビデとともにおられたからです。 神さまがともにおられる者に敵対できるものは何もありません。神さまご自身が味方なのです。そのような者には何者も敵対できません。打ち倒すことはできません。これに対していろいろ解説するのは野暮というものでしょう。みことばをごらんください。ローマ人への手紙8章31節から39節、これは、聖書全体の最高峰にも等しいみことばです。お読みしましょう。 私たちも時に、負けた! と思えてならないことはないでしょうか? 仕事や人間関係でしくじった、ですとか、健康を害した、ですとか……しかし、ほんとうのところ、私たちは負けてはいないのです。勝っているのです。私たちの主、イエスさまが勝っておられるからです。ヨハネの福音書、16章33節をご覧ください。 十字架の上で死と悪魔に勝利してくださったイエスさまが、私たちのためにすでに勝利してくださったのです。この、イエスさまの勝利こそが絶対であり、真実であるわけで、私たちが「負けた!」と思うことは、正しくありません。嘘です。サタンの嘘にだまされて、落ち込むようなことがないようにしてください。 ご覧ください。ダビデはサウルがどんなふうにダビデを操ろうと、神さまご自身がダビデに勝利を与えられました。私たちのことをだれが何と操ろうとも、神さまが私たちとともにおられる以上、私たちは勝利する以外にあり得ないのです。勝利は我がものです。勝利の主をほめたたえましょう。ハレルヤ! ダビデの武器、第三にその「武器」は、「神の民の愛」です。 ダビデは神の民イスラエルに愛されました。それはダビデが神の人であったからでした。ダビデは神の人として、サウル王のもとで身を低くし、千人隊長という自分に割り当てられた仕事に最善を尽くしました。イスラエルとユダ、神の民は、そのようなダビデを認め、愛しました。 民はダビデを愛しました。サウルのようなひどい王が治める中にあっても、それでもイスラエルがまとまることができたのは、民がダビデを愛することで、ダビデを中心にイスラエルの民の間に、愛という名の絆ができていたからだったと言えます。 私たち神の民をひとつにするものは、神さまが私たちを愛してくださっているゆえに、私たちが互いに愛し合う、その愛です。ヨハネの福音書13章34節と35節をご覧ください。 ……神の民が互いに愛し合うことこそ、世に対して主を証しする何よりもの証しです。愛の力によって結び合わされたイスラエルとその軍隊は、ペリシテに対して大勝利を得ました。同じように、私たちも神さまの愛をともに受け取り、そのそれぞれが受け取った愛によって互いに愛し合うとき、この世のいかなる勢力も対抗することのできない力を私たちはいただいて、サタンとその軍勢に勝利することができるのです。 私たちはもちろん、各自が家庭であれ、職場であれ、それぞれの持ち場で主のご栄光を顕す戦いを繰り広げます。仕事に取り組む力を神さまからいただきます。どうしようもない人間関係に苦しむとき、私たちとともにおられる神さまに祈りながら難しい局面を乗り越えます。 そういう戦いをそれぞれがするわけですが、私たちが覚えておくべきことは、その戦いはすべて、この「水戸第一聖書バプテスト教会」の共同体の一員として繰り広げるものである、ということです。つまり、戦いは各自のものを越えて、水戸第一聖書バプテスト教会のものです。水戸第一聖書バプテスト教会の戦いを、茨城県の各地において展開するわけです。茨城県の各地で、水戸第一聖書バプテスト教会が戦うのです。 その戦いに勝利することで主の素晴らしさが現れるわけで、もし私たちがヨハネの福音書13章のみことばのとおり、互いに愛し合おうという召命に生きるならば、私たちはその、各自が繰り広げている戦いをおぼえて、祈るようになってしかるべきです。私たちは、こうして同じ共同体で時間と空間をともにする兄弟姉妹のそれぞれの戦いに、無関心であってはなりません。何で戦っているか、何で苦しんでいるか、つねに心に留めて祈ることで、私たちもその戦いに参戦するのです。まさしく、愛の絆でダビデと結びついたイスラエルが、国のために戦ったようにです。 今日のみことばを振り返りましょう。私たちの武器である、賛美、神の臨在、愛の絆……どれも私たちが神の戦いを繰り広げ、勝利するために必要なものです。特に、今の自分に必要なものを覚えて、求める祈りをささげましょう。主よ、その武器を自分のものにしてくださり、その武器を用いて、サタンに勝利する者とならせてください! 祈りましょう。 ①神さまの御力で、賛美という武器を用いさせていただくように。 ②神さまの臨在により、どんなおびやかしにも勝利できるように、主がともにいてください。 ③私の戦いが教会全体の戦いであるという事実を受け止め、ともに戦って勝利すべく、教会の兄弟姉妹を愛の絆で結び、互いのために祈る者とならせてください。 聖歌284/献金/讃美歌541(頌栄)/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」

天地万物の主権者、所有者を礼拝せよ

聖書箇所;創世記1:1/メッセージ題目;「天地万物の主権者、所有者を礼拝せよ」 みなさま、今年もよろしくお願いします。 「一年の計は元旦にあり」と申しますが、今年私たちは、去年までの人生とひと味違った生き方をするために、どのような決断をしますでしょうか? 私も、この教会を牧会して、今年で丸8年を迎えることになります。やはりこれだけ長くなりますと、私も、これまで続けていたことを引きつづき行うことと、今年から新しく始めることとのバランスを考えるようになります。 しかし、やはり、この教会という共同体で何かできないだろうか……神と人を愛するために何をしよう? と、ともに考え、行動する群れになっていければ……そういうことをいつも考えています。 さて、今日の本文、創世記1章1節は、言うまでもなく、聖書の最初のみことばです。短いみことばです。しかしこのみことばを解き明かすと、神さまはどのようなお方か、そして、神さまは私たちに何を求めていらっしゃるかが見えてまいります。ともに見てまいりましょう。 今日の本文を、3つのポイントから学びます。第一のポイントです。神さまは、天地万物の主権者です。 神さまが主権者でいらっしゃるということは、被造物であり、そのご主権によって支配を受けているだけの私たち人間には、いくら想像をたくましくしても理解することがとても難しいことです。私たちは、私たちの生活をとおして、神さまが主権者であるということの、その一部をわずかながらでも知ることができる程度です。 私は趣味で、小説を書きます。いま私は、東京に住む男子中学生が主人公の話を書いていますが、小説を書いてみると、世界に対して主権を持つとはどういうことか、ほんとうに、ほんのちょっぴりですが、知ることができます。彼の通う学校の様子、彼の出席する教会の人間模様、彼が友達や先生と交わす会話、町の様子や食べに行くレストランの様子……そういったことを、人や学校といった固有名詞をいちいち考えて命名しながら書き綴っていく作業は、とても楽しいものです。 このように、人間もその気になれば、自分なりのワールドというものをつくることができますが、作者という存在はそのワールドに対する、言ってみれば主権者です。なんとでもその世界を変えることができますし、展開することができます。できるかぎり美しく、面白くしようとします。そしてそのように世界をつくってみると、何と申しますか、その世界や登場人物に対する「愛情」のようなものがわき上がってくるのが自分でもわかります。 しかし、人間が小説のような創作物に対して「主権者」であることと、神さまがこの天地万物において「主権者」でいらっしゃることとは、決定的な違いがあります。それは、人間はどんなに頑張っても、その小説の世界を「存在」させることはできません。一方で、神さまがお造りになった天地万物は、「存在」そのものです。 その「存在するもの」そのものに対して、神さまは主権を持っていらっしゃるのです。神さまは、この「存在」すべてを、そのみこころのままに動かされる。この事実を知るとき、私たちは謙遜にならざるをえません。 人間は権威の前にひざをかがめてこその存在です。子どもであるときは親に従い、学生であるときには先生に従い、新入社員であるときには管理職に従います。そのように、神さまは自分に対して権威あるお方だから、その権威の前にひざをかがめ、お従いするのです。 そのように神さまが、権威あるお方ということは、また、どのようなことを意味しているのでしょうか? 第二のポイントです。神さまは、天地万物の所有者です。 唯一の神さま、全能なる神さまがこの天地万物をお造りになったということは、また、神さまがこの天地万物の持ち主であるということも意味します。創造主がその壮大なみこころを実現する場、それが、私たちの置かれているこの大宇宙であり、地球であるわけです。 創世記第1章の記述を見てみますと、天体から地上のあらゆる環境、動植物が創造され、存在させられていく様子が描かれています。それらのものはみな、神さまのものである、ということです。 みなさまもご存じのお話かもしれませんが、木村清松(きむらせいまつ)という、むかしの牧師先生のお話をしましょう。 今から100年以上むかしの1908年、木村清松はアメリカで、現地の人にナイアガラの滝に案内され、「どうです、アメリカにはこんなすごいものがあるんですよ」と自慢されました。それに対して清松は、「このナイアガラの滝は、私のお父さんのものだ」と答えました。 案内したアメリカ人はびっくりしました! なに! 彼のお父さんは「アメリカ先住民の大首長」かなにかか! このことばは話題になり、清松がその地域を巡って行なった伝道集会には、こんなキャッチフレーズが掲げられました。「ナイアガラの滝の持ち主の息子、来たる!」 木村清松のお父さんは、私たちのお父さんです。私たちのお父さんは、ナイアガラの滝の持ち主です。筑波山や霞ケ浦の持ち主です。天地万物のあらゆるものの持ち主です。そして、私たちのこともこのお方、天地万物を創造されたお父さんが持ち主です。 ただの持ち主ではありません。私たちのことを、宝物にしてくださっています。私たちは宝物のようなものを手に入れたら、大事にするでしょう。 私には大学時代に親友になったクリスチャンがいます。彼はのちに音楽家になり、CDアルバムを出しました。それを知ったとき、私は彼に「ちょうだい」とか「安く譲って」とねだることはしませんでした。キリスト教書店でちゃんと定価でお金を出して買いました。そして、そのCDは大切にし、今も牧師室の本棚に置いてあります。 私たちは神さまにとって宝です。だから、たとえ自分に何かよくないことが起こったとしても、「神さまは私のことを見捨てている!」などとおっしゃってはいけません。神さまは私たちのことを見捨てたりなどしません。私たちは宝物だからです。 ただし、宝物だから、あえて厳しいところを通らされる、ということは、ありえるかもしれません。そのようにきびしい思いをさせられるのは、それだけ、神さまが私たちを愛しておられ、もっとご自身に拠り頼むようにされるためです。 小説家の石川達三がうまいことを言っていましたが、「磨くということは同時に無数の傷をつけることである」。私たちが宝石のような宝物なら、もっと輝きを増すために、神さまはあえて無数の傷をつけることをお許しになることもあると考えるべきです。 今年、私たちを待ち受けるできごとは、もしかすると私たちを傷つけるかもしれません。しかし、信じてください。その傷は、私たちがもっと多く実を結ぶために、神さまご自身が私たちのことを刈り込んでくださるゆえにできるものです。 だから、私たちは傷つくのではありません。実を結ぶのです。だから、ときに私たちが体験する厳しいできごとに、私たちが神さまの愛を見出すことができるならば、私たちは幸いです。私たちは神さまのものとして刈り込まれます。そのようにして私たちはもっと多くの愛の実、御霊の実を結ばせていただきます。感謝しましょう。 第三のポイントです。神さまは、天地万物の礼拝を受けるべきお方です。 神が天と地を創造された、ということは、神さまと被造物である天と地の間にどのような関係が成り立っている、ということを意味するのでしょうか? これは、天地創造に関するみことばとして、ネヘミヤ記9章6節のみことばをお開きいただきたいと思います。 ……そうです、天の万象は神さまを伏し拝んでいる、すなわち、天地万物のあらゆる被造物は、神さまの御手によって創造されたことにより、創造主なる神さまに大いにひれ伏し、礼拝している、ということです。 しかし、これは少し説明が必要です。人間を除く被造物は霊が吹き入れられているわけではなく、したがって神さまを礼拝することはありません。類人猿、なんていいますが、チンパンジーやゴリラはイエスさまの御名によってお祈りすることはしません。動物だからです。 そうはいいましても、被造物はその雄大さ、その美しさをもって、創造主なる神さまの雄大さや美しさ、秩序、奥深さを現しています。それは、自然の中に人間が出ていくとき、その自然の背後におられる創造主を認めざるを得なくなることからも明らかです。 そうです。天地万物が伏し拝む、というのは、その天地万物を目にし、体験する人間が伏し拝む、ということです。天地万物の長として創造された存在として、天地万物を代表して礼拝するのです。 当教会が支援している組織に「シオン錦秋湖」というキャンプ場があります。4年前には英語教室を中心にはるばる水戸から岩手の山奥まで行きました。コロナ下になる前には同盟総会を毎年そこで開催し、年に1回は必ず足を運びました。今年はコロナさえ収まってくれていれば、久しぶりに総会をシオン錦秋湖で開きます。 あの、シオン錦秋湖には、荒木さん一家、伊藤さん一家という、スタッフ家族が常駐していて、一年中キャンプ場を守ってくださっています。豪雪地帯なので、冬になるとしょっちゅう除雪作業を頑張ってくれたりします。 あそこに行くたびに楽しみにしているものは、山の幸です。木の芽ですとか、山菜ですとか、キノコですとか。それももちろんですが、あのシオン錦秋湖の発信するニュースレターなどを読むと、季節ごとの山の様子、四季折々のスポーツにいかに取り組んでいるか、まことに、スタッフのみなさんはあらゆる自然の姿にふれているのがわかります。スタッフのみなさんは、さぞかし、創造主なる神さまのご臨在に「生で」触れていらっしゃるんだろうなあ、うらやましいなあ、と思います。 シオン錦秋湖には負けるかもしれませんが、でも、茨城の自然もなかなかのものです。長年、首都圏やソウルのような都会に身を置いた者からすれば、茨城のこの自然はとても素晴らしいものに思えます。 私たちはこの自然の中で、創造主なる神さまに出会う機会を少しでもつくれればと思います。ほんの少しでも空を見上げて、木々や草花に目を留めて、神さまを礼拝できれば……神さまを賛美できれば……私たちがそうなれれば、と、心から思います。それは、この自然豊かな土地に暮らす私たちにとっての特権ではないでしょうか。 今年私は、この自然を心から堪能し、意識して創造主なる神さまを礼拝することに努めたいと願っています。いや、努める、なんていうと、義務みたいで大げさですが、要するに、堪能しよう、喜ぼう、というわけです。みなさまとともに喜びたい、私はそう願っています。 思えば、聖書の書かれた昔は、今の世の中みたいに、こんなに都市化が進んでいたわけではありませんし、もっときれいな空気の中、夜になれば真っ暗で、満天の星空、そんな中で暮らしていました。そんな中でイエスさまが、空の鳥を見なさい、野の草に目を留めなさい、とおっしゃったのです。 イエスさまのこのおことばを、単なる象徴とらえてはいけません。ほんとうに空飛ぶ鳥をこの目で見ましょう。ほんとうに道端の花をこの目で見ましょう。山を見ましょう。星を見ましょう。そうすることではじめて、私たちひとりひとりに御目を留めてくださり、私たちを礼拝者として成長させてくださる主のみこころがわかるようになるはずです。 私たちは礼拝者として創造されましたが、礼拝を堅苦しいもの、形式的なものと捉えないようにしたいものです。 もちろん、いまこうしてささげている礼拝のように、形式的であることが美しい、と言える側面もあるわけですが、それだけが礼拝ではありません。野に出て、自然の中に出て、その創造主である神さまを思い、神さまをほめたたえるならば、それこそ礼拝、私たちはこの2022年、そのようにさりげない礼拝、しかし心のこもった礼拝をささげてまいりたいと思います。 今年2022年、私たちは、私たちに対する主権者なる神さまのご存在とみこころ、みことばとみわざをますます認め、その御手のうちに整えられることを喜んでまいりましょう。そして、美しい被造物の中にあって、ますます麗しい礼拝をささげてまいりましょう。2022年、主が私たちにますます大いなる祝福を与えてくださいますよう、主の御名によってお祈り申し上げます。