「迫害されても使命に生きるには」

祈祷/使徒信条/交読;詩篇142篇/主の祈り/讃美;讃美歌87B「めぐみのひかりは」/聖書本文;マルコの福音書9:9~13/メッセージ/讃美;讃美歌332「主はいのちを」/献金;聖歌570「もゆるみたまよ」/頌栄;讃美歌541「父、み子、みたまの」/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」   先週のメッセージでは、イエスさまの御姿が神々しく変わられた、変貌山のできごとから学びました。それはとてもすごい光景だったわけですが、そのような素晴らしいものを見てしまうと、私たちならどうするでしょうか? 旅行の想い出ですとか、映画の感想ですとか……そういうものはつい、口にしたくならないでしょうか? 私の友達の奥さんにもそういうタイプの方がいました。友達に招かれて遊びに行ったとき、一緒に、その友達がテレビから録画したドラマのビデオを見ていたときですが、奥さんはいろいろしゃべるわけです。登場人物の情報を話すのはまだいいほうで、その後の展開がどうなるか、とか。よほどその内容に感動したり、面白いと思ったりしたわけでしょう。私ははじめてそのドラマを見るわけだから、あんまりネタばらしはしないでほしいと思うわけですが、奥さんは性格も明るく憎めない人なので、まあ許しちゃったりしていました。でもやっぱり、せめてドラマの先の展開くらいは言わないでいてほしいものでした。  つい話したくなる気持ち。しかし、それを話さないように戒められたならば、私たちのすることは、沈黙を守ることです。今日の本文では冒頭において、弟子たちが見た変貌山の光景に関して、イエスさまは秘密を守るように戒めを与えられた、とあります。もっとも、別の福音書を読むと、彼ら弟子たちは恐ろしくて、とてもこのことは口に出せずに沈黙を守っていた、とあります。彼らが沈黙を守ったのは、イエスさまがそう命じられたから、そして、自分自身が恐ろしかったから、そのどちらもであったわけです。  しかし、その沈黙を守るべき時というものは、「人の子が死人の中からよみがえる時まで」という、限定つきのものでした。このとき3人の弟子が見た光景は、やがてイエスさまの受難と復活ののちに、広く語られるべきものとなったわけです。しかし、それでもやはり、このできごとが語られるには条件があるわけで、それは、「イエスさまの受難と復活を経てから」というものです。  およそみことばというものは、イエスさまの十字架と復活という鍵がなければ解けない仕組みになっています。かつて日本で、ウォルター・ワンゲリンの『小説聖書』という本がベストセラーになったことがありますが、その本の腰巻に、小説家の浅田次郎が寄せたコメントは、ちょっと考えてしまいました。いわく、「本書は、難解な聖書を小説として通読せしめる快挙を成し遂げた」。私に言わせれば、聖書は難解でもなんでもありません。しかし、『鉄道員(ぽっぽや)』を書いたほどの小説家である浅田氏をして、聖書が「難解」であると言わせるのは、それは浅田氏が、聖書はイエスさまの十字架と復活という視点で読めばちゃんと理解できる、ということを知らないか、知っていても本の宣伝という仕事のために言わないからです。  ともかく、あらゆるみことばを解く鍵はイエスさまの十字架と復活であり、それが実現していない段階では、変貌山の光景というこの奥義を明らかにすることは、いかにイエスさまのそばにいる弟子たちであってもできませんでした。十字架と復活を抜きにして聖書を読んでは間違った聖書解釈しかできないように、この光景においても、イエスさまの復活を目撃する前にそれを話してしまったら、人々は誤解するでしょう。いや、彼ら自身でさえ、まだ確信を持って語れるほどの理解に達していませんでした。目の見えない人はイエスさまに目を開けてもらったとき、最初は人が木のように見えているだけだった、しかしさらにイエスさまに触れていただいて、今度はちゃんと見えるようにしていただいた、そのように、イエスさまによって目が開かれるためには、何度でも御手に触れていただく必要があるわけです。  この時点で、ペテロ、ヤコブ、ヨハネが、まだ充分にイエスさまの復活に対する理解に達していなかったことは、10節のみことばからも明らかです。その6日前に、彼ら弟子たちは確かに、イエスさまから直接、イエスさまの受難と復活についてお聴きしています。しかし、まだ彼らははっきりそれを見届けているわけではないので、それ以上のことはわからずにいました。  復活というものは見届けてこそ、初めて信じられるものです。こんにちにおいては、私たちはイエスさまがよみがえられたという聖書のみことばをお読みし、そのみことばがまことであると信じ受け入れることによって、イエスさまの復活そのものを見届け、受け入れることになります。かつて、ある小学生に、イエスさまの伝記をプレゼントしようとして、本屋さんで見繕ったことがありますが、その本は、イエスさまの復活は弟子たちの間でそう信じられた、という書き方をしていて、それが事実だとはまったく書いてありませんでした。これはだめだ、と買いませんでしたが、イエスさまの復活を信じ受け入れるには、聖書に書かれた通りをまるまるそのまま信じ受け入れるしかありません。  この時点での弟子たちをたとえるならば、イエスさまとその教えを知ってはいても、まだ聖書に示された復活という事実に出会っていない人、にたとえられるでしょう。イエスさまの復活についてはうんぬんする向きもあるでしょうが、百聞は一見に如かず、実際にその復活を目撃したならば、それ以上説得力のある根拠、みことばを宣べ伝えるうえでの根拠はありません。イエスさまの復活は議論の対象ではありません。信じ受け入れる対象です。  そのように、弟子たちがまだ復活に対して目が開かれていない段階で、彼らにはもうひとつ、聞いておくべきことがありました。11節です。彼らは、宗教指導者たちはまずエリヤが来るはずだと語っているではありませんか、と、イエスさまに問うています。彼らは、正真正銘のエリヤを目撃したわけですが、そのエリヤ当人が先駆けとして地上に現れてからイエスさまが来られたわけではなく、そうだとすると、まずエリヤが来るはずだと律法学者たちが語っていることはどうなるのか、ということです。  さて、ここからが今日のハイライトですが、イエスさまは続く12節と13節で、3人の人物の受難について語ります。それがだれなのかは徐々に明らかにしてまいりますが、まず12節のみことばをお読みしますと、イエスさまは「エリヤがまず来て、すべてを立て直すのです」と語っておられます。すなわち、律法学者たちが語っていることは正しい、とおっしゃっているわけです。それは、旧約聖書のいちばん最後の部分、マラキ書の4章5節、6節のみことばをお読みすれば明らかです。  そのように、エリヤがイスラエルを立て直し、人の子、すなわち、人としてこの世にお生まれになる神の御子キリストの道備えをすることはほんとうだとおっしゃっているわけですが、そのように、キリストを迎える道が備えられているはずの神の民のうちに来られるお方は、多くの苦しみを受け、蔑まれる、それはみことばに書いてあるとおりである、とおっしゃっています。  たしかに、キリストの受難は、イザヤ書の53章に書かれています。あまりにはっきり書いてあるので、現代においてユダヤ教では、このイザヤ53章は語られない、なぜならばこれが語られると、人々がキリスト信仰に目覚めてしまい、ユダヤ教の指導者はそれを警戒しているからだと、先週妻がみなさまに語ったとおりですが、ともかく、イザヤ書の53章のみことばは、キリストの受難を語ります。エリヤによってキリストを迎える道が神の民の間に備えられたはずなのに、民はキリストを苦しめ、蔑み、捨てるというのです。  それならば、神の民が救い主キリストを受け入れられるほどには整えられていなかった以上、備えをなす存在、エリヤは来なかったのでしょうか? そうではありません。13節をご覧ください。イエスさまははっきりおっしゃっています。「エリヤはもう来ています。」それは、ペテロたちが目の当たりにした歴史上の人物のエリヤ、バアルやアシェラと対決して雨を呼び起こした預言者のエリヤではないにしても、キリストの道を備えるエリヤはすでに来た、と、イエスさまご自身が宣言された、ということです。  イエスさまのみことばは続きます。「そして人々は、彼について書かれているとおり、彼に好き勝手なことをしました。」イエスさまのこのみことばは、キリストの備えをなすエリヤは人々に迫害されるであろう、と預言者がみことばに記している、というよりも、むしろ、エリヤに対してイスラエルが好き勝手なことをしたことをみことばは記録しているが、そのように、キリストの道を備える現代の「エリヤ」にも、人々は好き勝手なことをした、ということです。  エリヤは、まことの創造主なる神さまにお仕えすべきイスラエルを神から離れさせ、バアルとアシェラを拝む偶像礼拝の民にしてしまったアハブ王を悔い改めに導き、イスラエルを神に立ち帰らせる器として、神さまに用いられました。なんといっても、エリヤが祈ると、3年6か月にわたってイスラエルにはまったく雨が降らず、エリヤのお仕えする神さまが、天地を司る全能のお方であることが示されました。そして、バアルとアシェラの預言者総勢850人対1人の雨乞合戦に勝利し、並みいるイスラエルの民は、「主こそ神です。主こそ神です」と叫びました。だが、そのようにして神さまの臨在と権威を全イスラエルに示したエリヤは、熱心な偶像礼拝者だったアハブの妻イゼベルや、アハブの息子アハズヤにいのちを狙われるなど、安定した生活とは程遠い厳しさを味わいました。そのように、神の民イスラエルの権力者がエリヤを迫害したように、キリストの備えをなす「エリヤ」は、みことばに書いてあるがごとくに迫害された、とイエスさまはおっしゃったわけです。  みなさまは、このイエスさまの備えをなしたエリヤはだれなのか、もうご存じでしょう。そう、バプテスマのヨハネです。バプテスマのヨハネは来たるべきエリヤである、これは、ほかならぬイエスさまご自身がお語りになったことです。イエスさまがそうおっしゃったとき、ヨハネはヘロデに迫害されて囚われの身となっていました。ヨハネは確かに、イエスさまが特別なお方であることを知ったうえで、イエスさまに人々を導こうと努めていました。そして、イエスさまの名声が高まるにつれ、もともと人気のあった自分は衰えなければならない存在であると、自分の弟子たちに告げました。だが、そのようにしてイエスさまが現れ、神の国は近づいたはずなのに、ヘロデは悪辣な権勢をふるい、世の中はよくなってはいません。ヨハネが思いあまって、イエスさまに、あなたこそがおいでになるお方なのですか、と人を遣わして尋ねさせたのは、そのような背景もあったからでしょう。イエスさまがキリストであることがわからなくなるほどの迫害、それをまさに、ヨハネは体験していたわけです。  実は、おおもとの預言者である旧約のエリヤにしても、あまりにひどい迫害の中で自分を見失う体験をしています。雨乞合戦に勝利したエリヤでしたが、その直後、イゼベル王妃のお尋ね者になった途端、逃げ出し、さらには、もう死にたいと願うことさえしました。そのときエリヤは神さまに対して、「私は先祖たちにまさっていないです」とつぶやいています。3年6か月にわたって雨をとどめたエリヤ、一瞬にして祭壇を跡形もなく焼き尽くす火を呼び起こしたエリヤ、そしてのちには、モーセ、そしてイエスさまと肩を並べて語り合うほどの存在だったエリヤが、自分は先祖たちにまさっていない、だからもうこの地上に生きていたくない、と言ったのです。もはやここには、神さまから与えられた使命に立つ姿勢など、これっぽっちもありませんでした。  迫害がみことばにおいて語られた3人の人物、エリヤ、ヨハネ、イエスさま……それなら、イエスさまは神の御子だから、この迫害に動じないで立ち向かわれたのでしょうか。イエスさまをご覧ください。時にイエスさまは、御父から定められている受難を避けさせていただきたいと願っていらっしゃいます。十字架、それは究極の迫害です。イエスさまは十字架を前にしてどれほど、神への従順とご自身の願いに葛藤されたことでしょうか。  しかし主は、エリヤを直接力づけて次の働きに送り出され、ヨハネにしても、イエスさまはご自身がなさっているみわざが、イエスさまによって神の国が実現していることを雄弁に物語っていることをお教えになり、イエスさまを指し示した彼の働きは間違っていなかったことを確かめられました。そしてイエスさまは……ゲツセマネの園において血の汗を流して祈られたとき、弟子たちさえも祈って助けてくれなかった中、父なる神さまご自身が御使いを遣わしてイエスさまを力づけさせ、十字架を前にした闘いに勝利するようにしてくださいました。究極の迫害に対する、究極の勝利です。  こうしてみると、エリヤも、バプテスマのヨハネも、そしてイエスさまさえも、神の国が実現するために迫害を体験し、その中で神のみこころに完全にお従いする上での葛藤を経験しています。しかし、父なる神さまは、そのような中にあっても、励ましを与えてくださり、葛藤に勝利させてくださり、迫害を超えたいのちの恵み、永遠のいのちの恵みにあずからせてくださいます。  私たちはもちろん、平和であること、平安があることを祈るべきです。しかし、みことばをお読みしてみますと、神の国というものは、必ずしも人間的に感じる気持ちよさの中で実現するものとはかぎりません。むしろ、厳しい生活、時には迫害さえ伴う生活の中で、それでもともにおられる主に拠り頼み、主とお交わりすることによって、はじめて得ることのできる喜び、この世の何者も与えることのできない平安に満ちて、私たちのうちに実現していただけるものです。  私たちはこの日本という社会をキリスト者として生活すると、どこかで、自分はこの日本においては異質な存在だと思うから、どんな迫害を受けるかわからないからおとなしくしていよう、というような、消極的な発想に支配されるようになったりはしないでしょうか。しかし、私たちは、イエスさまとの関係で、自分は何者とされているかをつねに把握し、主が願っていらっしゃる生き方、主が私たちに与えられた使命に立つ生き方をしたいものです。エリヤは、神の人として振る舞ってこそのエリヤです。バプテスマのヨハネは、ほかならぬイエスさまをキリストと指し示してこその存在です。神さま、イエスさまは、彼らが迫害の中にあってもその存在意義を見失わないようにするために、励ましを与えてくださいました。  私たちの生きているこの日本という社会は残念ながら、私たちキリスト者、キリスト教会に対してやさしくありません。時に私たちは迫害を受けます。それで、私たちはキリスト者として生きるその意義を、見失いかけてしまうときもあろうかと思います。しかし、私たちは神さまに信頼しましょう。神さまは試練とともに、脱出の道もまた同時に備えてくださいます。その道は不思議なようにして状況が変えられることで与えられることもあるでしょう。しかし多くの場合、主は私たちにみことばを聞かせてくださることで、私たちを力づけ、私たちが何者であるかに気づかせてくださりながら、試練に立ち向かう力を与えてくださいます。  だから、ともにみことばを読みましょう。みことばを分かち合うことで、お互いの耳にみことばを聞かせ合いましょう。主はそのようにして、私たちを使命に生きる存在としてくださいます。主に信頼して、みことばに励まされつつ、使命を果たす働きに用いられる私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

「輝くイエスさま」

 何度かお話ししたことがありますが、私が本格的に信仰を持つようになったのは高校2年生のときで、折しもその頃のキリスト教会は、リバイバル、ということを旗印に、集会が派手になったり、大型化したりしていたものでした。私が献身に導かれたのはその高校2年生の夏に参加した松原湖バイブルキャンプのことでしたが、その講師だったアーサー・ホーランド、小坂忠、岩渕まことといえば、当時の大型化する集会のメインで活躍する、言ってみれば、スターのような働き人でした。  松原湖バイブルキャンプは、賛美もメッセージもあまりに恵まれるもので、私はその後も夢中になって、大型の集会、派手な集会に好んで出席するようになりました。それは、そのキャンプから5年後に、もっと本格的に教会が社会に根を下ろしている韓国に留学するまで続きました。  今思えば、松原湖で体験した大きな恵みを、その後も引きつづき体験したかった思いが強かったのだと思います。そのような体験が集中的にできた90年代前半という時代は、いい時代だったと言えるのかもしれませんが、振り返ってみると、現実の自分は、どこまで霊的に成熟しようと取り組んでいただろうか。主に従順にお従いしようとしていただろうか、そういうことを思います。  とは申しましても、やはりあのような恵みに満ちた体験をさせていただいたことは、主に感謝すべきでしょう。当時のキリスト教会の指導者の先生方も、そのような集会が必要と信じて企画していらっしゃったわけで、その取り組みは素晴らしかったと思います。問題は、そのような恵みを体験した者たちが、いかにしてその時与えられた恵みにお応えするかではないかということではないでしょうか。  今日の箇所を見てみますと、ペテロとヤコブとヨハネはすごい体験をしています。山の上で、イエスさまがそれこそ「神々しく」変わられるお姿を目撃する、しかもそこに、あのモーセとエリヤまでもが登場する、という、信じられないような光景が目の前に展開したわけです。私もいろいろな素晴らしい集会に出席しましたが、さすがにここまでのことは起こりませんでした。ペテロとヤコブとヨハネは、実に素晴らしい光景を見る恵みにあずかったわけです。  この光景を描いたこのみことばは、何を私たちに語っているのでしょうか? ともに見てまいりたいと思います。  まず、1節のみことばを見てみましょう。……またイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」  わかりにくいことばに思えるかもしれません。特にこのみことばが、9章という区切りのいちばん最初に現れていると、特にそう感じられるかもしれません。しかし、これは先週学びましたみことば、8章の終わりの部分からの続きにあたる箇所です。イエスさまがこのみことばをお語りになった対象は、弟子たち、そして群衆です。イエスさまのみことばに聴き従うことを志して集まってきた人たちです。  そんな彼らに、イエスさまは「自分の十字架を負ってわたしに従いなさい」とおっしゃっています。十字架を負え、と言われて、彼らはぎょっとしたのではないでしょうか。単なる自己否定のレベルではありません。十字架にかからなければならないほどの極悪人、本来ならば神ののろいを受けるべき罪人である、という自覚をもって、イエスさまに従う、ということです。しかし、そのように、このような罪人でもイエスさまにお従いし、イエスさまとイエスさまのことばのために生きるならば、十字架のような悲惨な死を遂げるのではなく、いのちを得るのだと、イエスさまはお語りになりました。  そのように、もしあなたがたのうちに、わたしとわたしのことばのためにいのちを捨てる歩みをする者がいるならば、わたしがこの力をもって神の国を来たらせる以上、あなたがたに死を味わわせることはない、あなたがたは、わたしを信じ従う信仰によって生きるのである、と、イエスさまは約束してくださっているのです。  私たちクリスチャン、主の弟子たちは、十字架を背負ってイエスさまのみあとをお従いすべき存在です。しかし、究極的に十字架を背負ってくださるのはイエスさまです。私たちのためにイエスさまが命を投げ出してくださるからこそ、そして、復活してくださるからこそ、私たちも終わりの日の復活、永遠のいのちの信仰をもって、イエスさまのためにいのちを投げ出すことができるのです。  その前提で2節以下のみことばをお読みしましょう。イエスさまはペテロとヤコブとヨハネの3人を選抜して、高い山に登られました。この山は、ピリポ・カイサリアの北東20キロメートルの地点にあるヘルモン山であると推定されています。もしそうだとすると、現在のシリアとレバノンの国境にある、標高2800メートルを超える、一年中雪をいただく、とても景色のよい山に、イエスさまとその一行は登ったことになります。  そこで何が起こったのでしょうか? イエスさまの御姿が変わられました。御衣が、人間業ではだれにもその白さを出せないほど、白く輝きました。これは、イエスさまの栄光が、人に由来するものではない、神さまゆえのものである、ということを示していました。  折しもペテロは、そのわずか6日前に、イエスさまはキリストであると告白したばかりでした。しかし、彼のキリスト観は、キリストとは死と復活を遂げられることにより人を救うお方であるということが完全に欠落していたため、それをイエスさまによって正していただく必要がありました。彼はなお、キリストとはどのようなお方かということに目が開かれなければならなかったのですが、イエスさまはそのようなペテロたち、十二弟子の中心メンバーに、ご自身が神の子キリストであることを、こんどは目に見える形でお見せになったのでした。  私たちもキリストというお方を正しく知り、永遠のいのちの恵みにあずかるため、栄光に満ちたイエスさまを仰がせていただく必要があります。それでは私たちは、この神の子イエスさまのご栄光をどのようにしたら見ることができるのでしょうか? それは、この礼拝をとおしてです。イエスさまは、今ここに、私たちのただ中におられ、その栄光をもって私たちを照らしてくださっています。以前、ある韓国人宣教師の礼拝メッセージを横に立って通訳したとき、そのメッセージの冒頭で、先生はこうおっしゃいました。「私たちは今、イエスさまが御姿が変わられたその山の上にいます!」通訳していて、とても印象に残りました。そうです。今ここが私たちにとってのヘルモン山、変貌山であると、私たちは信じ受け入れて、主を礼拝するものです。  このお方がキリストであることを弟子たちが悟るうえで、重大な2人の人物が現れました。ひとりはモーセで、ひとりはエリヤでした。イエスさまはしばしば、神さまのみことばのことを「律法と預言者」という呼び方をなさっていますが、モーセは律法を授けた人物であり、エリヤは預言者を代表する人です。そんな彼らははるかむかしの人物ではないか、ここに現れているのは幻ではないか、と見る向きもあるかもしれませんが、あながちそうとばかりも言えません。申命記の締めくくりの部分を見てみると、モーセは死にましたが、モーセのことを葬ったのは全イスラエルではなく「主」であり、しかも、彼の墓を知る者はだれもいない、とあります。モーセは肉体ごと主のみもとに移された可能性があります。また、エリヤはというと、列王記第二によると、生きたまま竜巻に乗せられて天に引き上げられました。死んで墓に葬られたのではありません。すなわち、モーセもエリヤも、どちらも肉体をもって生きたままイエスさまのみもとに現れたとしても、不思議はなかった、と考えられます。  それを目撃するペテロたちは、登山の疲れでしょうか、別の福音書を読むととても眠かったとありますが、眠気が覚め、気がつくと、イエスさまがモーセとエリヤと話し合っておられました。ペテロは取り乱し、こんなことを口走りました。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」  ペテロは、模範解答を言ったかと思ったら、イエスさまに対して人間的な忠告をしてしまうような人で、福音書を読むと、ペテロはその語ることばに特徴があることに気がつくのですが、ここでもペテロはそんなことを言っています。それは6節によれば、「恐怖に打たれていて、何を言ったらよいのかわからなかったから」だと説明されています。  幕屋とは本来、どこにでも遍在される神さまのご臨在の現れる場であり、そのご臨在をとどめておく機能を持ちます。ここでイエスさま、モーセ、エリヤのために幕屋を設けたら、その存在を山の上にとどめることになります。それはいかにも恵みに満ちた光景に見え、たしかに素晴らしいものに思えるかもしれません。  メッセージの冒頭で松原湖バイブルキャンプのことをお話ししましたが、教会から一緒に参加したダウン症のあっこちゃんは、キャンプファイアーが終わって、帰りたくない! と大泣きしました。数日間で終わってしまうキャンプがそうであるように、特別な恵みというものは、いつまでもとどめておけるものではありません。主のみこころはどこにあったのでしょうか? 7節のみことばです。  ペテロたちは、はっきりと御父の御声を聴きました。御父ご自身が、イエスさまのことを、愛する御子であるとおっしゃいました。イエスさまが神の御子キリストであることは、御父ご自身が明らかにしてくださったのでした。  御父の御声は続きます。「彼の言うことを聞け。」イエスさまのおっしゃることを聴くこと、これが神さまのみこころです。ペテロは、感激と恐怖が入り混じり、つい人間的な宗教的感情に任せ、言わずもがなのことを口走りましたが、彼が3つの幕屋を立てないで済んだのは、そうすることはイエスさまのおっしゃることに聴き従うことではないと分かったからでした。  信仰生活のすべての問題は、イエスさまのおっしゃることを聞かないことに始まります。イエスさまのおっしゃることを聞かない人は、イエスさま以外の存在の言うことを聴くことになります。それは人であるかもしれませんし、はたまた、サタンであるかもしれません。実際、またまたこうして失言してしまい、いわば父なる神さまからお叱りを受けた形になってしまったペテロは、そのほんの6日前にも、イエスさまに申しあげるべきではないことを言って、「下がれ、サタン」と一喝されています。イエスさまと寝食をともにした一番弟子のペテロでさえ、そのように、いざというときにイエスさまのおっしゃることよりも、サタンの言うことを聞いてしまったわけでした。いわんや私たちは、どれほど意識してイエスさまのおっしゃることに耳を傾けなければならないことでしょうか。  御父の臨在は雲となってみなを覆いました。雲が晴れると、そこにはモーセもエリヤもなく、イエスさまのお姿しか見えませんでした。偉大なモーセの授けた律法、偉大なエリヤに代表されるあらゆる預言者はイエスさまを証ししましたが、彼らはみことばをとおしてキリストを語る「声」にすぎませんでした。イエスさまという実態が明らかにされている以上、彼らはもう表舞台から去り、あとは、人はイエスさまおひとりを見さえすれば充分です。  今年の教会の年間テーマは、「主を仰ぎ見て輝く」です。私たちは輝きそのものであられるイエスさまのそのご栄光のお姿を仰ぎ見、その栄光を映しながら、この世界を輝かせるのです。その生き方は、イエスさまのおっしゃることをお聴きすることによって可能になります。また、ほかの何ものにも目を留めず、ただイエスさまだけしか見えない、そのような、イエスさまだけを見つめて生きる生き方によって可能になります。  私たちを振り返りましょう。私たちはこの時点のペテロのような、ことばにおいても、行動する動機においても、まだまだ未熟なものであるかもしれません。しかし、そのような者も、イエスさまの御声だけを聴き、イエスさまの御姿だけを見て歩むことが許されています。そのように生きることを主は望んでくださっています。主にお聴き従いするかぎり、主の御姿を仰いで生きるかぎり、そのように私たちが成長させていただけることを信じ、主に信頼しながら、今日も、そしてこれからも歩んでまいりましょう。

「十字架を負うべき私たち」

祈祷/使徒信条/交読;詩篇138:1~8/主の祈り/讃美歌494「わが行くみち」/マルコの福音書8:27~38/メッセージ/聖歌617「したいまつる主の」/献金;聖歌570「もゆるみたまよ」/栄光の讃美;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「十字架を負うべき私たち」 先週学びました聖書箇所は、イエスさまが目の見えなかった人のことをお癒しになったという箇所です。そのとき、イエスさまはその人の目に手を触れられましたが、最初その人は、見えるようにはなったが、歩いている人々は木のように見える、と言いました。たしかに見えるようになっているから、それだけでも奇跡といってもいいのでしょうが、イエスさまはそれでいやしの御業を完了されませんでした。イエスさまはもう一度その人の目に触れられました。すると、はっきり見えるようになりました。そのように、はっきり見えるようになるまで、イエスさまは何度も、お取り扱いの御手を触れてくださるお方だということを、先週私たちは学びました。 私たちクリスチャンにとってはっきり見えるようになるということは、霊の目が開かれ、イエスさまご自身とそのみことばがはっきりわかるようになる、ということです。この目の見えない人は、最初人が木のようにしか見えなかったわけですが、目の前におられるイエスさまが、木にしか見えなかったら困ります。私たちは十字架というシンボルを大切に思います。しかしそれは、イエスさまがかけられた木だから大事なのであって、十字架という木そのものが大事なのではありません。しかし、十字架にかかられたイエスさまを知れば知るほど、私たちは十字架の贖いのあまりのありがたさに感動し、ますますイエスさまについていくようになります。単に十字架を機械的にしか見ていないようでは、この、イエスさまに目を開けていただいた人の最初の段階のように、まだまだ目が開かれていないということであり、イエスさまに心の目、霊の目に触れていただいて、見えるようにしていただく必要があります。 さて、そこで今日の本文です。イエスさまは弟子たちにお尋ねになりました。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」もちろん、何でもご存じのイエスさまは、ご自身の評判をご存じないわけがありません。こうお尋ねになることで、すでに世間で評判になっていたイエスさまのことを世間がどうとらえているかを、弟子たちがちゃんと把握しているか、弟子たち自身に確かめさせられたわけです。私たちの主イエスさまは、私たちがイエスさまを宣べ伝えるべきこの世の人たち、より正確に言えば、私たちの周りの人たちにどのように思われているか、そのことを把握するのは、私たちクリスチャンにとって大事なことです。イエスという人物は単なる人間だろうか、道徳の先生だろうか、あまたいる宗教家のひとりだろうか、はたまた、神の子だろうか……。そういうわけで、弟子たちも、自分たちが信じ従っているイエスさまのことを世間がどうとらえているかを知ることは、世間を知ること、また、自分たちの信仰を客観的に見ることにおいて役立ったわけです。 弟子たちは答えました。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだという人たちや、預言者の一人だと言う人たちもいます。」大人気だったヨハネ、神の人と認められて尊敬を一身に集めていたヨハネ、しかし彼はヘロデの罪を告発して囚われの身となり、ヘロデの妻ヘロディアの陰謀によって首をはねられます。だが、その彼が生き返って、こうして数多くの奇跡を行いながら教えを宣べ伝えていたというのです。民衆の間でヨハネがどれほどの尊敬を集めていたか推し量ることができます。まさに、イエスさまが「女から生まれた者の中でヨハネよりも優れた者はいない」とおっしゃっただけのことはあったわけです。 エリヤは、はるかむかしの偉大な預言者です。そのエリヤは、旧約聖書の列王記第二2章を読めばわかるとおり、生きたまま竜巻によって天に挙げられます。そのエリヤが時を経て降臨したとも考えられたわけです。あるいは、ヨハネやエリヤではなくても、旧約聖書の時代に神の啓示を受けて働いた預言者たちに肩を並べる偉大な人、ともとらえる人もいたわけです。 こうして、弟子たちはイエスさまが世間でどうとらえられているかをイエスさまに申しあげました。そこでイエスさまはお聞きになりました。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」大事なのは、「私たちが」イエスさまのことをどんなお方であるかと告白することです。人がああいうから、とか、世間ではこう思われているから、とか、学校ではこう習ったから、で、私たちにとってイエスさまがどんなお方かが決まるのではありません。「私が」、みことばをお読みしてお祈りし、イエスさまとの個人的な交わりを持つ中で、イエスさまとはどういうお方かを告白するのです。その点、弟子たちは普段からこうしてイエスさまとともにいて、お交わりをしていたので、だれよりもイエスさまが自分にとってどんな存在か、言うことができました。言う資格があった、という言い方もできるでしょう。 ペテロが答えました。「あなたはキリストです。」この告白の重さがわかりますでしょうか。私たちは当たり前のように、イエスさまのことを「イエス・キリスト」とお呼びしているから、イエスさまを「キリスト」と呼ぶのは当然ではないか、と思うかもしれません。しかし、一般的にこのお方を「イエス・キリスト」とお呼びするのは、キリスト教が世間一般に普及しているからにすぎません。この厳格な一神教であるユダヤの、当時の宗教社会において、だれかひとりの人物を「キリスト」、すなわち神と同等の存在と呼ぶことは、それだけで神への冒瀆と見なされることです。おいそれと口にできることではありません。だがペテロは、キリストは、目の前におられるこのイエスさまをおいてほかにない、と確信したゆえ、ためらうことなく「あなたはキリストです」と告白したのでした。 マタイの福音書の並行箇所を読みますと、イエスさまはペテロに向かって、あなたは幸いだ、その告白は天におられる父なる神さまがさせてくださった、その信仰告白をした彼の、ペテロという名前の意味が、岩という意味であることにちなみ、この岩の上にわたしの教会を立てるとおっしゃっています。まことに、イエスさまのことをキリストと告白するその岩のごとく強固な基礎の上に、私たち、主のからだなる教会は立てられているわけです。 だが、このマルコの福音書の記述を見ると、そのようにイエスさまがおっしゃったくだりは、まるまる省かれています。書かれているのは、イエスさまが、自分のことをだれにも言わないように、彼らを戒められた、ということだけです。つまりここでは、その戒めこそが強調すべき大事なことだったわけです。 もちろん、ペテロをはじめ弟子たちは、のちの日には大々的にイエスさまがキリスト、救い主であると宣べ伝えるようになっています。だがこの時点では、イエスさまは、ご自身がキリストであることをだれにも言ってはならないと、むしろ弟子たちのことを戒めています。その理由としてはいろいろ考えることができますが、ここはやはり、聖書本文の流れから、イエスさまがなぜそのようにおっしゃったかを考えたいと思います。 そのように戒められてすぐに、イエスさまは、ご自身の受難についてお話しになりました。多くの苦しみを受ける、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられる、殺される、しかし三日後によみがえる、そうならなければならない……そのことをはっきり、イエスさまは弟子たちにお教えになりました。あなたがたは今、わたしのことをキリストと告白した。しかし、キリストとはこのような歩みをする存在だ。彼らの目を、さらに新しい段階へと開こうとなさったのでした。 だが、これを聞いたペテロは、イエスさまをわきにお連れして、いさめました。マタイの福音書では、ペテロが具体的に何と言ったかが書かれています。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」 ペテロとしては精いっぱいの思いやりのつもりで、こう言ったのかもしれません。しかし、ペテロのことをどうフォローしようとも、イエスさまがおっしゃっている、キリストのあり方を、ペテロが真っ向から否定したという事実には変わりがありません。つまり、ペテロは確かに、ユダヤの宗教社会から抹殺される危険を顧みずにイエスさまのことをキリストと告白する恵みを受けましたが、この時点では「キリスト」というものを根本的に勘違いしていました。多くのユダヤ人が思い描いていたような、わかりやすい王の王としての姿を思い描いていたならば、ユダヤをローマから解放するのだから、むしろ宗教指導者たちからは最終的に尊敬と感謝と歓迎を受けてしかるべき、それが捨てられ、殺されるとはどういうことか……。ペテロの戸惑いが見えるようです。 イエスさまはそんなペテロに向かい、一喝されました。「下がれ、サタン。」このおことばのあと、ペテロに対するおことばが続きますが、イエスさまはペテロのことを「サタン」と呼ばれたわけではありません。イエスさまの第一の弟子であるペテロの信仰さえも惑わすサタンに対して一喝されたわけです。 サタンの惑わしは、イエスさまの十字架ということにおいて特別に現れます。この世には「クリスチャン」を名乗る人がたくさんいますが、その中でも多くの人が、「十字架」抜きの信仰、より正確に言えば「十字架にかかってくださったイエスさま」抜きの信仰になっていないかということを憂えます。サタンは、イエスさまの十字架を無視させるためならば、どんな惑わしをも用意します。教会の中で交わされたささいなことばを気にさせたり、現実に次から次へと問題を引き起こして圧倒させ、イエスさまと交わる時間を与えないようにさせたり……。こうして人が、イエスさまの十字架抜きの、かたちだけの「キリスト教という宗教の信者」になっていくならば、それはとても危険なことです。 ペテロも今こうして、キリストとは「捨てられる」お方であることまで悟っていなかったために、あろうことか、この人類の贖いのご計画を邪魔させようとするサタンの計略に、人間的な思いやりで、まんまと乗ってしまいました。イエスさまはそんなペテロのことを、あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている、と叱責されました。 このように浅い理解でしか「キリスト」という存在をとらえられなかったペテロたち十二弟子は、まだこの段階では、同様に浅いキリスト理解しか持ちえないユダヤ人たちに、イエスさまがキリストであることを宣べ伝えるわけにはいかなかったのでした。最初人が木のようにしか見えなかった人が、さらにイエスさまに目を触れていただいて見えるようになったように、一度百点満点の告白ができたからと、すぐさま今後百点満点の働き人になれるわけではなく、働き人となるために、段階を経てのイエスさまのお取り扱いをペテロは必要としたわけです。私たちも同じです。はっきりイエスさまが見えて、イエスさまが語れるようになるまで、私たちは何度でも、イエスさまに触れていただく必要があります。 こうしてペテロのことを、弟子たちの面前で叱責されるというショッキングなお取り扱いをなさってから、イエスさまはお話しになります。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい。」だれでも、とおっしゃいました。ですから、このみことばは、ここにいる弟子たちはもちろんのこと、こうして今みことばをお読みしている私たちひとりひとりにも語られています。 私たちもイエスさまにお従いしたいと願っていることでしょう。しかしそれには条件があります。まず、自分を捨てることです。どのようにして自分を捨てるのでしょうか? 十字架を背負ってイエスさまに従うことです。 イエスさまは、宗教指導者たちの手によってご自身が文字どおり抹殺されることをお告げになりましたが、具体的に「十字架におかかりになる」とは書いてありません。マタイとルカの並行箇所を見てもそうは書いてないので、イエスさまはご自身が「十字架に」おかかりになると、はっきりお語りにならなかった可能性があります。しかしここでは、彼らにはっきりと、自分の十字架を背負いなさい、とお語りになっているわけです。十字架とは本来、私たちこそが背負うべきものであるわけです。 十字架を背負うことは自分を捨てることです。十字架にかかる人間は、十字架にかかるだけの罪人ゆえに、神に呪われ、神に捨てられます。聖書は語ります。義人はいない。ひとりもいない。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。ならば、すべての人は神さまによって、究極の処刑である十字架の刑罰に処せられる罪人であるわけです。 人々は十字架を背負ってゴルゴタの丘に向かわれたイエスさまを嘲りました。しかし、その嘲りのかぎりを尽くした群衆こそ全員、十字架を負うべき罪人です。十字架を負わなくていいお方はイエスさまだけです。そのお方に十字架を負わせたのは私たちです。私たちは、どれほど十字架を背負うにふさわしい罪人、神を捨てた究極の極悪人でしょうか。もし私たちが、自分はそういう罪人であるという自覚を持つならば、自分にはひとつとして神さまに認めていただけるよいところなどないことを悟ります。そして、神さまに認めていただけないと知った以上、人に認めてもらいたい、自分さえよければいいという、自我を捨てるしかなくなります。 だが、そうして十字架を背負うばかりの絶望的な究極の罪人は、イエスさまについていくことを許されています。イエスさまを通ってその一切の罪が赦され、父なる神さまにまったくのきよい人として喜んで受け入れていただける人になる、そうして、イエスさまの弟子としてこの世を歩む資格を与えていただける……だから、私たちは、イエスさまの十字架を見るたびに、自分こそが十字架につくべき罪人である、その十字架にイエスさまが身代わりについてくださった、イエスさま、ありがとうございます、私もあなたさまのために、一生、生きていきます。一生、ついていきます。そうなるのです。 世の人は、自分こそが十字架を負って神さまの怒りとのろいを受けるべき罪人であることも、その絶望から救ってくださるイエスさまのことも知らないばかりに、イエスさまのために生きるより、自分のために生きようとします。自分を捨てることを知らないのです。テレビや新聞を見ても、健康グッズの広告であふれていて、人々はいかに生きることに執着しているかを見る思いがします。だが、イエスさまが身代わりに死んでくださっていることを信じ受け入れない人は、十字架にかかるべき究極の罪人であるゆえに、それにふさわしい神の怒りのさばきを受けるしかありません。人は罪人であるかぎり、自分のいのちを救おうとする人は、そのいのちを失うさだめなのです。 中には、才覚があって、政治力や経営力を駆使したりして、天下を取る人もいるでしょう。有名になったり、長者番付に名前が載ったりします。しかし、そういう人も、自分が十字架を負うべき罪人であることを自覚し、それゆえに、唯一その十字架にかかるほどの罪を許してくださったお方であるイエスさまを信じ、お従いすることがなければ、いのちを失う、滅びるということを知る必要があります。そんな自分のいのちを地獄から買い戻すには、どんな財産も、どんな人間的なコネクションも通用しません。イエスさまを信じ従うこと以外には、自分のいのちを買い戻していただく道は一切ありません。 38節のみことばを読みましょう。「だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」イエスさまがこの世に生きられた2000年前もとても罪深かった時代でした。現代日本の罪深さたるやどうでしょうか。いま、日本は全国的に梅毒が流行して秘かな社会問題になっていますが、その原因となる放埓な性関係のあり方について議論しようとする人はいません。姦淫が当たり前のことになっています。姦淫という快楽は、当然人間として享受するものという前提ありきです。罪も、世間を震撼させたルフィなる男から、レストランの食べ物にいたずらする若者まで、大小さまざまな罪が報道されていますが、人のことを罪人扱いするニュースの視聴者こそ、たいていは自分の罪に気がついていません。目には丸太のような罪がさえぎっています。 そんな世の中の影響を受けて、世の中に妥協して合わせ、人に気に入ってもらえることが、善良な市民としてのふるまいであり、それがひいてはキリストを証しすることにつながる、などと思っていたら大間違いです。私がこの教会に赴任して素晴らしいと思ったことは、赴任して間もないころ、信徒さんの亡くなったご家族の、キリスト教式ではないご葬儀、神式や仏式のご葬儀に出る機会があったのですが、そのたびに参席された教会員のみなさんが、お焼香をしなかったり、榊をささげなかったりと、宗教行為をなさらなかったことです。宇佐神先生がそのように教育を徹底しておられる教会に来させていただいたことをほんとうに感謝したものです。宇佐神先生もうちの信徒さんたちも、終わりの日には素晴らしい報いを受けられます。 でもご存じでしょうか、この日本にはクリスチャンでありながら、堂々とお焼香をすることで体面を保つ人がいます。こういうことは小さなことのようですが、小さなことに忠実な人が大きなことに忠実なのであると、そういう人に御国が任される、と、イエスさまはおっしゃいました。私たちの従順の積み重ね、この世に合わせるべきでないことはどんなことでも妥協しない、その実践の積み重ねは、やがてイエスさまが再臨されたときに、必ずイエスさまが評価してくださる対象となります。 私たちは十字架を負うべき罪人だと心底自覚しているでしょうか? もしそうならば、その十字架を進んで身代わりに背負ってくださったイエスさまを誇るはずです。イエスさまとそのみことばを恥ずかしいと思うのは、自分の十字架を背負ってもいないし、イエスさまのあとを従ってもいないからです。私たちはどうでしょうか? 自分の十字架を背負うほどに自分を捨てているでしょうか? しかし、その生き方は、イエスさまに一生お従いする、世界で一番幸せな人生です。 私たちは時に、自分の十字架を担いきれないことを知って、つまり、自分のあまりの罪深さに絶望して、落ち込むこともあるでしょう。しかし、イエスさまはそんな私たちのかかるべき十字架に身代わりについてくださるほどに、いのちを捨てて私たちを愛してくださったお方です。イエスさまのこの愛をいただいて、今日も、そしてこれからも、ともに歩んでまいりましょう。

「はっきり見えるようになるまで」

聖書箇所;マルコの福音書8:22~26/メッセージ;「はっきり見えるようになるまで」 子どもを育ててみてつくづく思うことは、一度言って聞かせたからといってわかってくれるわけではない、ということ。それは、イエスさまにとっての私たちも同じなのだろう。私たちは一度神さまのみことば、イエスさまのみことばを聞けば、それで充分悟ってみこころを守り行えるようになるわけではない。目が充分に開かれるまで、主は引きつづき、これでもか、これでもか、と教えてくださる。 先週のみことばを振り返ろう。イエスさまが「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には気をつけなさい」とおっしゃったとき、弟子たちは、自分たちがたった1個しかパンを持ってきていなかったことを、イエスさまが問題にされたのだと思い、議論を始めた。イエスさまはその姿を見て、弟子たちを叱責された。 先週のみことばは、弟子たちに対する叱責のことばで終わっているが、ここに至るまでのプロセスは、霊的に目の見えない弟子たちがイエスさまによって目を開けていただく、ということを示している。イエスさまの弟子として訓練していただくということは、もともとがイエスさまとその真理に目が開かれていない者が、目を開いていただく、ということである。 その前提で今日の箇所を見てみよう。イエスさまの一行がガリラヤ湖からベツサイダの地に上陸すると、人々が、目の見えない人をイエスさまのもとに連れてきた。彼にさわってくださいというのである。彼らは、イエスさまがしるしと奇跡を行われるお方であることを知っていた。イエスさまが触れてくださるならば、この人の目も開けていただけるという信仰があった。 当時の人々は、イエスさまの御業というものを、リアルタイムに見聞きし、また、体験していた。言い換えれば、イエスさまのしるしと奇跡は彼らにとって現実だったのである。時はそれから2000年下ったが、私たちはこの聖書のことばを、誤りなき神のことばと信じ告白している。ということは、この数々のみわざが行われたことは、事実だと信じ受け入れているわけである。この信仰は、私たちにとってすべての基礎である。 イエスさまは、この目の見えない人をお癒しになることを決められた。まずイエスさまがなさったことは、連れてきた人々のところから彼の手を取って離され、村の外に連れていく、ということだった。人前を離れて、秘かなところでみわざを行われたのである。これは、いやしのわざはどこまでもこの本人のため、さらに言えば、この人が創造主なる神さまに個人的に出会うために行うことであり、人々に見せるパフォーマンス、ショーとして行うべきものではないことを示している。 私たちがほんとうの意味でイエスさまに触れていただく場所、みわざを体験する場所は、大々的な場所、衆人環視の場所である必要はない。イエスさまと一対一になれる場所である。私がディボーションや聖書通読をこれでもかと奨励するのは、そうなることでみなさんが「偉くなる」ためではない。 そうではなく、ただでさえこの世において病まされて傷つけられることの多い私たちは、イエスさまでなければいやせないそれらの痛みを主の御前に差し出し、健やかになる必要があるからである。健康になること、それが主のみこころである。 イエスさまはどのようにしてこの人をいやされたのだろうか? まず、彼の両目につばをつけられた。前にも言ったとおり、つばというものを現代日本の考えでとらえてはいけない。これがイエスさまのいやしの方法である。考えてほしい。その「つば」は神の子イエスさまのものである。それだけでもたいへんな薬のように思えてこないだろうか? イエスさまはそれを、目に塗られたとある。 イエスさまはヨハネの黙示録において、霊的に一向に目が開かれようとしないラオディキア教会の信徒たちに、「目に塗る目薬を買いなさい」とおっしゃり、薬の生産地として栄えたラオディキアにふさわしい表現を用いていらっしゃるわけだが、今日お読みしたみことばにおいては、見えるようになるために目に塗るべきは、「つば」、イエスさまのみからだの一部であったものであるわけである。 当たり前のことだが、こんにちにおいてはもちろん、イエスさまの代わりにだれかの唾液を塗るわけにはいかない。しかし、神のみことばであるイエスさまの御口から出たひとつひとつのみことばが、 人を生かし、人をいやし、人の目を開く。そういう意味では私たちも、イエスさまのみことばの薬を目に塗っていただくべき存在である。そうするためには、いつもみことばを読むことが大事になる。 さて、イエスさまはそのようにして、この目の見えない人の目に触れられた。イエスさまはその人に、「何か見えますか」とお尋ねになった。イエスさまは一方的にみわざを行われるだけのお方ではない。対話をとおしてみわざを成し遂げられるお方である。あなたは何が見えますか。あなたは見えていますか。イエスさまと対話をいつも交わす祝福が私たちにあるように。 この人は答えた。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」この人はいやされた。これだけでも奇跡である。まったく見えなかった人が、わずかながらの視力、人と木の区別がつかない程度であっても、見えるようになったからである。 しかし、創造主の視点に立つとどうだろうか。神さまは人を完全に見えるように創造されたわけであって、人と木の区別もつかないような視力は、人の標準ではない。私は幼いときから人並外れて視力が悪く、そのためにたいへんな苦労をしてきた。つねに、普通に目が見える人と自分を比較しながら生きてきた。それゆえ、普通に目が見えることがどれほど祝福されているか、ということを思うのと同時に、視力がよいことが創造の御業の標準であることを喜んで認めるものである。 そういうわけでイエスさまは、もう一度この人の目に触れられた。彼がじっと見ていると、目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようになった。イエスさまは、この人がはっきり見えるようになるために、あらためてみわざを行われたのであった。これは、みことばの真理に目が開かれるプロセスと同じである。弟子たちもみことばをたちどころに悟れなかった。そんな彼らに対しイエスさまは諄々と説かれ、悟れるように導いてくださった。一度で聞いてすぐに悟ったつもりになってはいけない。まだ自分はわかっていないことばかりだということを認め、繰り返し繰り返し、イエスさまに教えていただくことが必要である。 さて、イエスさまはこの人のことを家に帰らせ、もといた場所に戻された。ただしその一方で、村に入っていかないように、すなわち、人々の前でやたらと自分の姿を見せびらかさないようにと戒められた。たしかにこの人は、イエスさまが触れてくださることによってはっきり見えるようにはなったものの、イエスさまが宣べ伝えられる神の国の何たるかまで、この瞬間たちどころにして理解したわけではなかった。ただ単に、目を見えるようにしてくださった、奇跡を行われる人、程度にしか人々に伝えることはできなかった。逆に言えば、かえってそう伝えることによって、それだけでも大変なインパクトを与えることになる。それはパリサイ人を刺激し、イエスさまの本来行われるべき宣教の働きが妨げられることにもつながることだった。 私たちはしかし、最初のうちは、イエスさまの奇跡やしるしのすごさに驚くところから、信仰生活が始まったのではないだろうか? このような奇跡を行うお方が私の神さまとは! しかし私たちの目を主は絶えず開いてくださり、たとえ奇跡をおこなっておられないようなときでも、変わらずにこのお方は主、神さまであると告白し、お従いする恵みが私たちに与えられている。そのようにして私たちは霊的に成長させられてきたのである。 私たちは、もう自分は充分に悟ったと思ったら、もはや成長する余地がなくなってしまう。私はまだ見えません、わかりません、そのように謙遜に認めるところから、私たちはイエスさまによって目を開いていただくことができる。何か見えますか、この御声が聞こえるだろうか? 今見えている真理を告げてみることである。それで充分ではないならば、イエスさまがもっと私たちの霊の目に触れてくださり、はっきり見えるようになるまで、みことばを悟る恵みを与えてくださる。この恵みに感謝しよう。

「パン種の話」

子ども時代、いろいろな童謡を聴いて育ってきたが、こんな歌もあった。「ポケットの中にはビスケットがひとつ ポケットをたたくとビスケットはふたつ もひとつたたくとビスケットはみっつ たたいてみるたびビスケットはふえる そんなふしぎなポケットがほしい そんなふしぎなポケットがほしい」私はビスケットが好きだったので、ほんとうにこういうおとぎの世界にあこがれたものだったが、おとぎばなしではなく、実際にそれをなさったお方がいた。ただし、ビスケットではなく、パンと魚で。そのみわざをなさったのはイエスさま。 今日の箇所を見てみると、マルコの福音書6章に出てくる、五千人給食の繰り返しのように思えるかもしれない。しかし、今日の箇所で特に、異邦人の地にてこの御業が行われたということに注目しよう。イエスさまがパンを分け与えられたのは、豊かな天の御国の宴会をこの地にて行われたということだが、それをイエスさまは、異邦人の地で行われた。これは、異邦人にも救いの道が開かれ、主のみからだに与る恵みが与えられた、ということである。 ヨハネの福音書を見てみると、イエスさまがこのように、奇跡のようにしてパンを分け与えられてから、ご自身こそがいのちのパンであると人々におっしゃった。ほんとうに分け与えられるもの、そして、人々にまことのいのちを与えるものは、イエスさまのみからだであることをお示しになった。しかし、このことばに、十二弟子を除く弟子たちは去って行ってしまった。イエスさまのみことばがわからなかったのである。 それなら、イエスさまはもう、どうせこのような奇跡を行なっても人々がご自身についてこないなら、行なっても無駄だとばかりに、もう行うのをやめてしまわれたのだろうか? そうではない。この箇所を見てみると、イエスさまのみことばを求めて、食べることも忘れて耳を傾けていた何千人もの人々のことを、イエスさまは「かわいそうに」と憐れまれた。そして、この人たちを食べさせよう、と、イエスさまは思われた。 4節を見てみると、弟子たちはまだ、イエスさまがそれ以前にみわざを行なわれ、わずか5つのパンと2匹の魚で5000人もの人々を養われたお方だということが抜け落ちていた。そのような弟子たちの不信仰をよそに、イエスさまはわずか7つのパンと少しの魚で、4000人もの人々を満腹させられた。 ここでも、弟子たちの信仰が問われたのであった。イエスさまがこのようにみわざを行われたのは、もちろん、そこにともにいる群衆のためであったが、同時に、そばにおいて訓練している弟子たちがまず、全能の神さまであるイエスさまに対して信仰を持つようにするためであった。信仰の訓練を、これほどまでにダイナミックな方法で、イエスさまは行われたのであった。 さて、それでは、イエスさまはこのようなしるしと奇跡を行うことが、この世に来られた目的なのだろうか? そうではない。ガリラヤ湖を渡ってダルマヌタ地方に行かれたとき、そこにはパリサイ人が待ち構えていた。彼らは天からのしるしを見せよとイエスさまに迫った。しかし、イエスさまは彼らの誘いには乗らず、「今の時代には、どんなしるしも与えられません」とおっしゃった。 イエスさまがしるしを行われたのは、みことばに飢え渇いたうえに食べ物にも飢え渇いた、群衆のためであった。その動機は「あわれみ」であった。しかし、そもそも満ち足りていて、神の子であるイエスさまのことを一切認めないような傲慢なパリサイ人を前にしては、そもそもしるしをお見せになる必要がなかった。イエスさまは、「今の時代には、どんなしるしも与えられません」とおっしゃったが、これは、イエスさまというお方が、しるしを見せることによって人々を説得し、王の座にお着きになるお方ではないことを示している。 ほんとうのしるしは、イエスさまの十字架と復活である。いみじくもイエスさまは、このように挑発するパリサイ人に対して、「ヨナのしるしのほかは、しるしは与えられない」とおっしゃったが、ヨナは神の怒りに触れて荒海に投げ込まれ、それによって神の怒りはなだめられたが、ほとんど死んだような状態になった。そんなヨナは大魚に吞み込まれ、3日3晩大魚の腹の中で過ごし、ついには陸地に生きて吐き出された。そのように、イエスさまが人々の身代わりに神の怒りを受けて十字架に死なれ、墓に葬られ、3日目によみがえって墓の外にお出になるというしるしこそがほんとうのしるしであるとおっしゃったわけだが、パリサイ人の目にはそのことが隠されていた。 13節にあるとおり、イエスさまはパリサイ人から離れられた。パリサイ人は、自分たちこそみことばをよく理解していると自負していただろうが、そのような者が、神の子なるイエスさまのことがわからなかったとは皮肉である。彼らは傲慢な態度で、目の前におられるこのお方が神の子であることを否定し、もちろん自らも信じようとしなかったが、イエスさまはそのような者からは離れられる。 ある牧師先生のメッセージを聴いて愕然としたことだが、こうおっしゃっていた。「韓国の教会は祈る教会、台湾の教会は賛美する教会、日本の教会は? 議論する教会」。別の先生はこんなこともおっしゃった。「クリスチャンが部屋の中に集まって、みんなで、ああでもない、講でもない、と話し合っています。そんなとき、部屋の外ではイエスさまがドアをノックしていて、『もしもし、わたしはここですよ』とおっしゃっています。」 韓国にいたとき、日本の教会は神学が深いということをよくお聞きしたが、私にはそれがほめことばには聞こえなかった。ほんとうに神学が深まって成熟しているならば、もっと教会が成長してもよさそうなものである。議論ばかりで肝心のイエスさまに向かい、お交わりを持とうとしない教会からは、イエスさまは離れられるのではないだろうか。パリサイ人のことは私たち日本の教会にとって、ひとごとではない。 さて、パリサイ人から離れたイエスさまの一行は、船に乗ったが、パンが1個しかなかった。そのとき、イエスさまは15節のようにおっしゃった。しかし弟子たちは、この「パン種」というものが、食べるパンと関係のあるものだという、浅はかな解釈しかできず、議論を始めてしまった。 イエスさまはそれをご覧になり、お叱りになった。17節から18節。7つもお叱りのおことばを語っておられる。七は完全数。肉的なことしか考えられなかった弟子たちを、完全にお叱りになった、ということである。 イエスさまがその時思い起こさせられたことは、パンを豊かに増やされ、人々を食べさせたのちに、残りを取り集めてもそのかごはたくさん、いっぱいになった、ということだった。12も7も、聖書の世界では完全数である。人々を食べさせた残りの、かごに入った食べ物は、弟子たちのためのものである。弟子たちのことをこれほどまでに、完全に食べさせることができるイエスさまのことを、なぜ信じない、と、イエスさまはお嘆きになり、その7つの完全なお叱りのことばをもって、弟子たちの不信仰を徹底的に取り扱われたのである。 それでは、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種」とは何であろうか? それは、この世に属する俗的な神解釈である。パリサイ人は、人々に宗教的な生活を強いることで、自分たちの既得権にこだわった。それはヘロデも同じことで、ヘロデは宗教社会の統治者として君臨してはいたものの、実際はへロディアを妻とし、バプテスマのヨハネを処刑するような俗物だった。そしてこれはどちらも、イエスさまをまことの神さまと信じてお交わりし、お従いすることとは異なることである。 面白いことに、パリサイ人もヘロデも、イエスさまに何らかの奇跡を行うことを要求した。この箇所を読むとパリサイ人はイエスさまにしるしを要求しているし、ヘロデは十字架にかかられる直前のイエスさまを尋問したとき、イエスさまに何らかのみわざを行うことを要求している。 しかし、このようにまことの神なるイエスさまに要求することは、所詮、イエスさまに対する不信仰の裏返しである。この場合の不信仰は、「イエスさまを信じないこと」というよりも、「イエスさまよりも自分の考えを正しいとすること」と言えよう。自分の考えを最優先で信じて、イエスさまへの信仰は二の次、なのだから、これも不信仰ということができる。 ほんとうにイエスさまを信じているならば、イエスさまのおっしゃることはすべて、アーメン、そのとおりです、と信じ受け入れてしかるべきである。そこに人間的な考えが入り込むからおかしくなり、ややこしくなる。そのような不信仰が悪いパン種である。パン種は本来、パン生地に入ってパンを大きく膨らませて、食べられるようにもする。神の国の福音というものもそのように、人々を限りなく成長させる。イエスさまのみ教えはそれほどの力を持つ。しかし、悪いパン種が入ると、パンが腐るように、教会という共同体の中に悪いパン種のごとき不信仰が入り込むならば、教会はイエスさまとまともにお交わりすることができなくなり、不信仰の共同体になってしまう。 イエスさまがあれほど、口を極めて弟子たちをお叱りになったのは、不信仰という次元においては、パリサイ人やヘロデと五十歩百歩のみっともないさまを、弟子たちが見せてしまったからと言える。つまり、十二弟子の共同体の中にさえも、悪いパン種は入り込む余地があった。そのたびにイエスさまは、お叱りのことばを語って彼らを悔い改めに導かれた。子どもはイエスさまのもとに来てはいけないというのはパリサイ人のごとき律法主義である。イエスさまはそのようなことを言う弟子たちを激しくお叱りになって、子どもたちを受け入れられた。だれがいちばん偉いかと議論する弟子たちの姿は、ヘロデのように宗教社会において世俗的権力をもって君臨しようとする醜い姿であり、イエスさまは、神の国とはそのようなものではないことをお示しになるために、みなに仕える者になりなさいとおっしゃった。 教会はいつでも、パリサイ人のパン種のような律法主義にやられる可能性がある。あるいは、ヘロデのパン種のような世俗的な権力主義にやられる可能性がある。私たちとて例外ではない。教会がそのどちらからも守られるために、私たちは時にイエスさまのお叱りをいただきつつ、イエスさまのみことばにお従いする必要がある。主は、頑なで悟れない私たちのことを諦めることはなさらず、これでもか、これでもか、とみわざを示してくださりながら、なおも私たちのことを導いてくださる。

「イエスさまはいやし主」

祈祷/使徒信条/交読;詩篇132篇/主の祈り/讃美;讃美歌121「まぶねのなかに」/聖書箇所;マルコの福音書7:31~37/メッセージ/讃美;聖歌654「いちど死にしわれをも」/献金;聖歌570「もゆるみたまよ」/頌栄;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「イエスさまはいやし主」 私は医療宣教ととかく縁のある牧師である。私の父からして医師だった(クリスチャンではなかったが)。私が初めて導かれ、バプテスマも受けることになった教会は、医療伝道が母体となって立てられた教会だった。そしてこの教会も医療伝道がもとになって立てられた教会であり、現在も役員にお医者さんがいらっしゃる教会となった。 また一方で、私は病人として入院する機会が人よりも多かった。そのような中で、入院生活をとおして神さまを信じる強い信仰に導かれたこともあった。医療というものはそういうわけで、私にとって特別な存在でありつづけている。医学を専攻して医師になることはなかったが、まことの医者であるイエスさまに日々いやされながら、人をいやされるイエスさまのお働きのお手伝いをさせていただいていることを、つねに思う。 さて、今日の箇所はいやしの箇所である。耳が聞こえない、口で話すことができないというのは、とても不便なことである。一般的に人々の間に成立するコミュニケーション、交わりに大きな支障をきたしている状態である。人は話し合うということをとおして社会の一員として自由に振る舞えることを思うと、聞けない、話せないということは、どれほど大変なことだろうか。 もっとも、現代においては、そのような方々へのバリアフリーの概念が大きく発達した。私は一時期、茨城町役場に赴いて手話を勉強していたが、教えてくださる先生は耳と口が不自由な方だった。しかし、手話を使って教えてくださるその先生の隣には通訳の方がいるので、まったく不便、ということはなかった。そして、手話を用いられる先生の姿を見ていると、手話というものが立派な言語であることがよくわかったものだった。こういう、はつらつとしたお姿を見ていると、ある有名な身体障碍者のことばのとおり、「障がいは不便ですが不幸ではありません」ということばはほんとうなのだろうと思えてくる。 今日の箇所を見てみよう。この、耳が聞こえず、口がきけない人は、少なくとも、イエスさまのもとに連れてきてくれる友達に恵まれていた。それだけでもこの人は不幸ではなかった、といえないだろうか? からだの一部を欠損しても天国に入るほうが、五体満足でゲヘナに入るよりもよい、とイエスさまはおっしゃった。この世の人たちはだいたい、五体満足で便利な生活を享受しているが、彼らは自分が平安な環境に置かれている分、神さま、イエスさまのもとに行こうとしない。それを考えると、この人は周りの憐れみを受けて、イエスさまのもとに連れてこられたわけである。 その意味でこの人は、イエスさまに出会えた分、幸せだった。彼も耳が聞こえず、口がきけなかっただけに、どれほどの苦労を味わってきたことだろうか? しかしその苦労は、イエスさまに出会う道を開いた。まさに詩篇119篇71節の語るとおりである。「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。それにより 私はあなたのおきてを学びました。」神さまにお従いする道、いのちの道は、苦しみにあってこそ見出させていただくもの。私たちもそのことを、これまでの人生において体験してきたのではないだろうか? さて、イエスさまの主要なお働きの中に、なぜ、重い病気や障がいを抱えた人をいやされた、という働きがあるのか、考えてみたい。人間とは神のかたちに造られている。そのような人間に神さまは、ご自身をみことばにおいて啓示されているわけだが、みことばを読むと、神さまには顔があり、目があり、鼻があり、口があり、耳があり、手があり、足があることがわかる。これは、人間が自分たちの姿を見て、神さまのイメージをつくり出したということではない。むしろその逆で、人間に顔や目や鼻や口や耳、手や足があるのは、それらのものをお持ちの神さまのかたちに人間がつくられている、ということである。 ということは、それらのものが病んでいたり、障がいを持っていたり、傷ついていたりするということは、その人において、神のかたちがそれだけ損なわれているということを意味する。お医者さんという働きが尊敬されるべきなのは、医術をとおして、患者さんにおいて神のかたちを回復させる働きをなさるからである。 イエスさまが人々をいやされたのも、まさにその次元で考えるべきことである。イエスさまは、生ける神の似姿へと人を回復された。この罪に満ちた地上において、あまりにも人々が病み、神のかたちとして振る舞うべき肉体が傷つき、障がいを負ってしまっていることに、イエスさまはとても心を痛められたのである。 さて、イエスさまはこのいやしのみわざを、あえて群衆から離れたところで行われた。これは、この障がいを持った人をいやす働きが、人々に対するパフォーマンスとして行われるべきものではないことを示している。しかしイエスさまは、彼のことをお癒しになるために、群衆から離れて二人きりのところに連れ出された。イエスさまのみわざ、とりわけ、神のかたちに人を回復されるいやしのみわざは、イエスさまとの一対一の場で行われる。そこには人の干渉の入り込む余地がない。私たちにとって個人的なディボーションの時間が必要なのは、このように個人的にイエスさまが臨んでくださり、いやしてくださるみわざが臨むためでもある。 イエスさまはどのようにこの人を癒されただろうか? まず、イエスさまはその人の両耳に指を入れられた。いやし主なるイエスさまのタッチである。イエスさまはこのように、病んでいるところに触れてくださるお方である。そして、つばをつけて舌に触られたとある。つばというものはこの時代、ギリシャ人の間でもユダヤ人の間でも、医療のために用いられた。 こんにち、コロナ下の昨今など特に、人々はつばというものにきわめてナーバスになっているが、本来つばとはそういうものではなかった。私たちは先入観を取り除いてみことばに向かう必要がある。イエスさまはいやし主なる神の権威をもって、つばによりその人の舌をいやされた。 そして天を見上げて深く息をされたとある。これは「嘆息して」とも訳される。イエスさまは神さまだからと、瞬間的に癒しのわざを行われたのではない。全能の神、いやし主であられるイエスさまは、人として苦悩し、嘆息された中で、ご自身も肉体の弱さをまとわれたお方として、人に同情し、その人がいやされ、回復されることを切に願われた。その究極の姿は十字架である。あれほどの苦しみをイエスさまが人の身代わりに負われることにより、人ははじめて罪の赦しをいただき、神さまの御前に行くことのできるものとしていただいた。 こうしてこの人は、いやされた。しかしイエスさまは、この人がだれかにこの癒しのわざについて告げることを禁じられた。それは、この世的な王としてのメシアを待ち望んでいた民が、間違った形でイエスさまをあがめることを避ける意味もあった。また、単にいやされさえすればいいというご利益信仰で人々が押し寄せ、肝心の神の国を宣べ伝える働きが妨げられるのを避ける意味もあった。 そうはいっても、イエスさまが彼になさったいやしのわざは否定できないものであり、その喜びに彼が満たされたのは、当然のことではなかっただろうか。37節の群衆の告白に注目したい。これは、イザヤ書35章5節、6節の、主が臨まれたときどのような御業が起こされるかということを預言したみことばが、そっくりそのまま、彼ら群衆の告白となった、ということである。つまり、みことばはイエスさまのこのいやしの御業において成就した、ということである。 以上の箇所から私たちが考えるべきことは何だろうか? イエスさまはいやしのわざを行われるにあたって、耳が聞こえず、口がきけない人をいやされた。それは、御口でみことばを語られ、御耳で私たちの祈りを聞いてくださる、私たち人間と交わりを持ってくださる神さまのかたちが損なわれているのはいけないからである。私たちはこの肉体の口は話せ、耳は聞こえるかもしれない。しかし、互いに話し合うことばが、神さまの恵みとは無関係のことばかりだとしたらどうだろうか? どうでもいい情報ばかりだとしたらどうだろうか? 耳で聞くにしても、この世の情報ばかりで、神さまの御声を聴いていないとしたらどうだろうか? それは私たちも、神のかたちとしての耳が聞こえず、口がきけないことを意味している。 この障がい者は私たちのことである。私たちもまたいやされなければならない。いやされ、神のかたちに回復された耳で、私たちは何を、いつ、どこで、どのように聞くだろうか? 神のかたちに回復された口で、私たちはたとえばすぐにでもこのメッセージのあとにおささげする祈りの時間に、何を、どのように祈るだろうか? そしてもうひとつ考えてみたい。この人はいやされたとき、イエスさまのご命令にそむいて言いふらした。イエスさまというお方は憐れみをもって人をいやされるが、その憐れみに満ちた振る舞いを人々は誤解し、正しく受け取らなかった。イエスさまを主とあがめて、その弟子としてお従いしたものはごくわずかであった。私たちは今もイエスさまの癒しをいただいているが、そのような私たちは、イエスさまをどのように理解し、イエスさまにどのようにお従いしているだろうか? このかぎりある知性をもってしては、大いなる主、イエスさまのことを正しく理解することはできない。しかし、イエスさまがご自身を教えてくださる、その教えにしっかりお従いするならば、イエスさまのことがわかる。 神さま、イエスさまを知ることは、永遠のいのちであるとイエスさまはおっしゃった。もちろん、イエスさまのことが今この時点で100%正しく理解できていないからといって、イエスさまが私たちのことをお蕎麦気になることはない。しかし私たちは、今この瞬間にも、イエスさまの御業をいただいている分、イエスさまを正しく知る歩みをしていこうではないか。

「みことばという光で輝く」

祈祷/使徒信条/交読;詩篇130篇/主の祈り/讃美;讃美歌75「ものみなこぞりて」/聖書朗読;詩篇119:105/メッセージ/讃美;聖歌541「とうだいははるか」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/栄光の讃美;讃美歌541「父、み子、みたまの」/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「みことばという光で輝く」 伝道用の小冊子として世界中で用いられている「四つの法則」。この巻末に、イエスさまを信じ受け入れた人は教会に行くべきであることが書かれている。その理由について、このように説明している。「薪は何本も一緒に燃やすといつまでも燃えるが、1本だけだとすぐに火が消えてしまう。クリスチャン生活もそれと同じである。」 クリスチャン生活はこのように、燃える炎に例えられる。私たちは熱くありたい。輝いていたい。そのためにも、この教会という共同体で、ともに燃やされ、輝くことが私たちに求められている。 そこで今日のみことば。有名な聖句だが、このみことばから、私たちクリスチャンにとって神のみことばとはどのようなものかを学んでみたい。 私の足、とある。私の足、というからには、その足は「自分自身」についている部分である。私の足は娘にはついていない。「私」の足、ということが大事である。「私が」暗闇の中で迷わないように、自分のために照らすものが「あなたのみことば」という「ともしび」である。ディボーション、聖書通読というものは、個人的にみことばに向き合う作業だが、これは、「私が」歩けるように、神さまのみことばによって暗闇を照らしていただくことである。 これに対して「道の光」だが、道というものはひとりで通るものではなく、みなで一緒に通るものである。このように、道が暗闇に閉ざされてみなが一斉に迷ってしまうことのないように、道は光に照らされている必要がある。その道を照らす光もまた「みことば」である。 道というものは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」とおっしゃった、イエスさまという道、十字架を通って父なる神さまのもとに行く道である。クリスチャンはみことばの光に照らされて、この同じ道、唯一の道なるイエスさまという道をともに行く。その意味で、みことばの光に照らされることは、個人的なことであるのとともに、教会という共同体のわざでもある。 そして、このイエスさまという道は人々の目にはふさがれている。それは、自己中心という罪、神を神と認めない罪の中にいて、目がふさがっているからである。それは暗闇の中にいることである。その暗闇を払うものが、神さまのみことばである。そして私たちは、この神さまのみことばに照らされて、自分の足で、一歩一歩前に進むのである。 このように、実は私たちの行く道がみことばという光に照らされていることを人々に知らせるには、言うまでもなく、私たちがまず、みことばという光に照らされている必要がある。その光に照らされて輝く生き方がどんなに素晴らしいか、人々に証しするのである。言ってみれば、光に照らされていないで迷う人、つまずく人を、光に照らすのである。 私たちはみことばの光に照らされる生活を、人に隠すものではないだろう。それは私たちのことを血潮をもってあがなってくださったイエスさまのことを恥じる生き方である。そういう人のことをイエスさまは、終わりの日に恥じるとおっしゃった。そうではなく、このみことばの光を輝かせる生活をすることが、私たちに求められている。 そして、足がみことばのともしびでともされているならば、私の足をともすともしびなるみことばの恵みを、クリスチャンがみなで持ち寄ることによって、みなは同じ道、キリストという道を行くことができる。みことばの恵みの分かち合いはそのために必要なものである。 そして、そのディボーションと分かち合いにとどまらず、この、みことばの光で照らされた道を、人に伝えるのである。すなわち、伝道である。具体的に言えば、毎日みことばから受ける恵みを人々の前であらわす、すなわち、その日に与えられたみことばを生活の中で、具体的に、現実的に、実践可能な範囲で、その日のうちに(あるいは近いうちに実践できるように計画を立てて)実践することで、イエスさまというこの上なく魅力的なお方にお従いする魅力ある生き方を人々の前であらわす生き方をすることで、人々が、私たちの生きる源であるイエスさまとそのみことばに心惹かれるようになるならば素晴らしい。主がそう導いてくださるように祈ろう。 自分はみことばの光に照らされているか? この教会の兄弟姉妹とともにみことばの光に照らされてに歩まないか? この世の迷っている人、みことばの光に照らされる必要のある人はだれか? ともにみことばの光に照らされ、輝こう。

「小犬の信仰」

聖書箇所;マルコの福音書7:24~30/メッセージ/讃美;聖歌631「罪にみてる世界」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/頌栄;讃美歌541「父、御子、みたまの」/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「小犬の信仰」 むかし、私の実家は犬を飼っていた。犬種はパグ、あのブルドッグを小型にしたような犬で、名前は「ゴン太」と名づけた。とにかくよく食べた。ある日、家に戻ってみると、テーブルの上に置いてあった食べ物がみななくなっている。ふと下を見ると、おなかをパンパンにしたゴン太がよたよたと歩いて、ドテ、と横になり、ジョジョジョ、と失禁した。テーブルの上のものをみんなこの子が食べてしまった模様である。そんな犬なものだから、いけないのだが、食事をしているときに、つい食べ物を分けてよこしてやったりしたものだった。すると飛びつき、ゴクッ、と、あまりかまずに飲み込む。 そんな、犬。今日の箇所でイエスさまがお語りになったおことばにも、犬が出てくる。番犬だろうか? ペットだろうか? どうも、マルコの福音書の読者層にとっては、犬が家の中に同居して、飼い主の食卓からパン屑が落ちるのを食べることは、普通に想像できたことのようだった。みなさまの中にも、ペットを飼っていらっしゃる方がおられると思うが、仲間のようでいて同等の地位にはいない、そんなペットの立ち位置を考えながら、今日のみことばを味わってみよう。 24節。イエスさまはここまで、宗教指導者との問答で、彼らの聖書解釈の根本にあるゆがみを指摘された。その聖書信仰のむなしさを取り扱われ、父と母を敬えというみことばへの根本的な従順へと彼らを導かれた。洗わない手で食べることは、神さまへのそういった従順と何の関係もないことを指摘された。しかし、弟子たちにはそのことがまだよくわかっていなかったので、イエスさまは、人を汚すものは外から入るものではなく、中から出てくるものであると語られ、言外に、そのように自分のことを汚すものを生み出す自分自身をきよめていただく必要があることをお語りになった。 こういった議論は、かなり自分自身を消耗するものだったのだろうか? イエスさまが家に入ってだれにも知られたくないと思われたのはなぜか? イエスさまもおひとりになり、お休みになる時間が必要だったようである。私たちも休む時間が必要な時がある。今週の週報に書いたのもそのことに通じるが、私たちは主の御前に休むことによってはじめてほんとうの意味での休息を得て、次の働きに備えることができる。 しかし、周りの群衆は、イエスさまのことを放っておかなかった。イエスさまがそこにおられることを探し当て、われもわれもと迫ってきていたのである。イエスさまはそこを去って、ツロに行かれたが、このみこころについても私たちは考えさせられる。これはのちの日の、使徒たちが、ユダヤ人がイエスさまを受け入れなかったゆえに、異邦人のところに行ったというできごとをほうふつとさせる。この時点で使徒たちは、異邦人のところに行かず、まず優先してイスラエルの失われた羊たちのもとに行きなさいとイエスさまに遣わされている。救いの順序として優先するのは、まずはイスラエル、ユダヤ人であり、それから異邦人である。そういう背景を念頭において、イエスさまがツロに赴かれたということを考えてみよう。 ツロというのは、イエスさまがその時おられたガリラヤからさらに北西の方向、フェニキアという地域の、地中海沿岸の港町である。ガリラヤの人たちはツロの人たちと仲が良くなかった。ガリラヤの人たちはツロの人たちのことを、「悪名高い、私たちの最も苦々しい敵」と呼ぶほどだった。ツロは貿易で莫大な富を得ており、その力で、近接していた農業地域、ガリラヤのことを統制しようとしていた。ウクライナとロシアのことを見ても実感するが、近接する国どうしは支配・被支配の関係をめぐって険悪になることが多い。 イエスさまがわざわざこの地域に赴かれたその背景に、このような論争を繰り広げたとおり、きよめの洗いの儀式を制定することような宗教指導者たちのきよめに関する聖書解釈には問題があることをお示しになるため、ということがあった。「ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは、律法にかなわないこと」と堅く戒められていたペテロが、異邦人のコルネリオを受け入れたのは、「神がきよめたものをきよくないと言ってはならない」というみことばをきいたゆえ。イエスさまが異邦人の町ツロに赴かれたということは、律法によって異邦人への救いが限定されていた時代は、いよいよ終わりを告げようとしていたということである。 エペソ人への手紙2章1節と2節、11節と12節に、神の民から見た異邦人とはいかなる存在かということが書かれている。いま、21世紀の日本に暮らす私たちはほぼ、福音というものをユダヤ人から直接聞いて学んでいるわけではなく、イスラエルを除くすべての異邦人がどれほど悲惨な立場なのかということを実感できないでいるだろう。しかし、聖書のみことばから見ると、異邦人とはこのような悲惨な存在である。私たちもそのひとりとして、このツロに住む人たちに思いを馳せてみたい。 25節。イエスさまはツロの地方に赴かれたが、そこでイエスさまはおひとりでリトリートに集中されるわけにはいかなかった。イエスさまのうわさは、この地方までも伝わっていた。女の人がイエスさまのもとにやってきてひれ伏した。 女の人の幼い娘は汚れた霊に取りつかれていた。女性という存在は社会的に疎外されていた。さらに、このおやこはユダヤ人から見れば異邦人であった。さらに言えば、子どもは当時の社会で最も疎外された存在であった。もうひとつ推測できることだが、この女性は夫を伴わないでイエスさまのもとにやってきている。離別したか死別したか、寡婦だったという推測が成り立つ。母親も娘も何重もの意味で疎外されていた。しかし、そんな彼女も、イエスさまにおすがりした。 26節。この女性はギリシア人、シリア・フェニキアの生まれ。ユダヤの神の民の共同体とは、縁もゆかりもない人である。 そんな彼女は、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようイエスさまに願った。母親は、イエスさまならば悪霊を追い出せるということを信じていた。このみことばに先行するマルコの福音書3章8節で、遠くツロからもイエスさまのみわざのうわさを聞いてやってきていた。この女性もまた、そのようなうわさを聞いていたと推測される。いや、もしかしたら、イエスさまがみわざを行われるのを直接見ていたかもしれない。イエスさまが通られるのを見て、いても立ってもいられなくなった。 27節。イエスさまはそんな女性に対して、このようにお語りになった。「まず子どもたちを満腹させなければなりません。」それに続いてこうもおっしゃっている。「子どもたちのパンを取り上げて小犬に投げてやるのはよくない」もちろん、子どもというのもの小犬というのも比喩である。婦人よ、あなたは子どもたちがパンを食べている食卓の下をうろつく小犬なのですよ、というわけである。 愛玩犬を育てる文化が定着している21世紀の日本では、「小犬」というと、ついマルチーズとか、チワワとか、そんなかわいいイメージになるかもしれない。しかし、小犬の原語のギリシャ語「キュナリオン」は、かわいい愛玩犬というよりも、単に小さいものを指すだけのことばであり、実際、韓国語の聖書では、この「キュナリオン」を、愛玩犬または幼い犬という意味の「カンアジ」ということばではなく、単に「犬」という意味の「ケ」と訳している。だから、イエスさまが「小犬」と言ったからと、かわいいイメージでおっしゃっているわけではないと考えるべきである。「あなたは犬の立場です」、こう、イエスさまはおっしゃったわけである。 このように、女の人を犬扱いするイエスさまのおことばは、あまりにもつれないと言うべきなのか? しかし、私たちはこういう時、神の前にへりくだるべき自分の身分というものを考えるべきである。イエスさまは何も、「あなたには何の分け前もありません」とおっしゃったのではない。「まずは子どもたちにパンをあげなければなりません」と、恵みを施す順序を語っておられるわけである。 では、子どもたちとはだれか? 神の子、神の家族といえば、まずはイスラエルである。ガリラヤはもちろん、その宗教共同体の領域に入っていて、それまでイエスさまが相手をされていたガリラヤの民、そして彼らを統括する宗教指導者は、神の子どもたちである。彼らはまず、神のみことばというパンによって養われる必要があった。 しかし、そのパンとは、イエスさまが「これは天から下ってきたパンです」とおっしゃったように、もちろんみことばではあるが、宗教指導者たちが人間的に解き明かすみことばではない。神のみことばが受肉してこの世界に私たちとともに住まわれるお方、イエスさまご自身である。この、イエスさまといういのちのパンによって、神の民は最優先で養われる必要があった。 28節。この女性は「主よ」とイエスさまに呼びかけた。イエスさまがこの女性にとっての主であるという告白である。しかし、そのあとの告白が振るっていた。彼女は、自分が「食卓の下の小犬」であると、はっきり認めたのである。さらに、子どもたちのパン屑はいただきます……このように彼女は告白したのであった。 パン屑は、子どもたちがこぼさないで食べるならば、それは「パン屑」とは言わない。「パン」である。それが子どもの口に入らないでこぼれるから「屑」になるわけで、「パンくず」はもともと、ちゃんと「パン」なのである。だが、子どもが行儀が悪いと、つまり、「パン」の価値をわかっていないと、せっかくの食べ物を残したり、「こんなものいらないよ」と、ペットに投げたりする。 ユダヤ人は、いのちのパン、まことのパンであるイエスさまのことが必要なかった。まさにイエスさまを「パン屑」扱いして、床にこぼすような真似をしたのである。それでついには、イエスさまのことを十字架送りにした。しかし、この女性はわかっていた。このお方が神の民の国を離れ、ツロにまで来ておられても、やはりこのお方はすべての民を創造された創造主であり、自分も被造物のひとりとして、イエスさまというパンをいただく分け前にあずかることができる……。 イエスさまがもし、ユダヤの宗教指導者たちの信仰を集めていたならば、このように、異邦人の土地まで赴かれる必要はなかっただろう。だがこの異邦人の土地で、どこまでも悲惨な立場に置かれ、もはや神の恵みにすがる以外に方法のなかったこの女性に会われ、彼女のへりくだり、また信仰をご覧になった。 29節。「そこまで言うのでしたら」……イエスさまは私たちの告白する「ことば」をもって、私たちの信仰を認めてくださるお方である。だから、どんなことばで信仰告白をするかがとても大事である。 「家に帰りになさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」イエスさまは女性のこの信仰をよしとされて悪霊を追い出された。しかし、直接行って、娘の上に手を置かれたわけではなかったのである。それがイエスさまの方法だった。この女性は、イエスさまがこのようにおっしゃったみことばを即、信じ受け入れる必要があった。 30節。しかし、この女性はイエスさまのことばを信じ、家に帰った。すると彼女が信じ、行動したとおりの結果になっていた。まさに復活されたイエスさまが疑い深かったトマスに対して「見ないで信じる者は幸いです」とおっしゃったとおりである。 この女性の信仰は、今日私たちが持つ信仰の予表であり、また、私たちが持つべき信仰のモデルである。私たちは神さまの前にいろいろ言い訳をしていないだろうか? なぜ、素直にみことばを受け入れることをしないのだろうか? 私たちが信じたとおりに神さまがみわざをなしてくださるということを信じられないのだろうか? 私たちは信仰の共同体でありたい。私たちが毎日聖書を読むのは、そのとおりに神さまが、イエスさまが、今日この日も私たちを通して働いてくださるということを、私たちが信じ受け入れるためである。私たちはあまりにも常識というものに支配されて頑ななので、みことばのとおりになるということが信じられない。だから私たちは、みことばのとおりになるという信仰をまず与えていただき、その信仰を働かせて祈る必要がある。 私たちはほんらい、恵みを受ける資格などない存在だった。しかし、イエスさまは私たちに恵みの門を開いてくださった。イエスさまはまるでパン屑のように、罪人である私たちの地平にまで下りてきてくださったのである。私たちはワンちゃんのごとく、ありがたくイエスさまをいただき、イエスさまの御名によって、みこころにかなうことを祈っていこうではないか。聖書に書かれているとおりのことで、私たちが祈るのを渋っていることはないだろうか? 今日この時間、大胆にイエスさまに求めよう。イエスさまは聴き届けてくださる。

「外から入るもの、中から出るもの」

聖書朗読;マルコの福音書7:14~23/メッセージ/祈祷/讃美;聖歌273「きょうまでまもられ」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/頌栄;讃美歌541「父、み子、みたまの」/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「外から入るもの、中から出るもの」  14節、15節を見よう。先週も学んだように、宗教指導者たちは、イエスさまの弟子たちがきよめの洗いをしないで食べ物を口にしたことに、相当な目くじらを立てた。しかし、イエスさまはここで、そのような洗わない手で食べ物を口にしようと、それが人を汚すわけではない、とおっしゃった。  それでは、口から出るものが人を汚すとは、どういうことだろうか? 宗教指導者たちが口から発したことばは、一見すると宗教的なきよめへと人を招いているようで、そのじつ、人をけがしているとイエスさまはおっしゃりたいのである。どういうことだろうか? 所詮は人間的な言い伝えにすぎないものを神さまと人の間に介在させ、きよい神さまとの交わりを人に持たせなくし、肉欲にまみれた宗教指導者のことばの奴隷にさせることで、人をけがす、というわけである。  ガラテヤ人への手紙5章1節を見てみよう。真にきよい神との交わりは自由をもたらすものである。何か人間的に縛られているならば、それは主のみこころにかなわない状態であり、そういう状態は、外見には宗教者として立派なように見えても、神さまの御目から見ればけがれていると見なされる。肉の夾雑物が入り込みすぎているからである。そういう、人間的な宗教により身に帯びたけがれを、私たちはイエスさまの十字架の血潮によって洗いきよめていただく必要がある。  しかし、17節、18節を見よう。弟子たちはこのイエスさまのおっしゃったことがわからなかった。それは、弟子たちもそれだけ、宗教界の強い影響からなお自由でなかったということを意味する。やはり、きよめの洗いをしないで食べ物を口にした、ということは、何かいけないことをしたのではないか、という思いから自由ではなかったのである。  宗教的慣習というもの、特に、私たちのからだと心を形づくる、食べ物にまつわる宗教的慣習は、かなり私たちのことを支配するものである。例えば私たちは、食膳のお祈りをして食べる。それはもちろん、食事を与えてくださった神さまとの交わりであり、これが宗教的に人を縛るものとして機能してはいけない。  イエスさまはすべての食べ物をきよいとされた。しかしそれなら、私たちは言わないだろうか? お酒はどうなる? タバコはどうなる? それを禁じている私たちは、宗教的な発想でしているのか? しかしこれは、宗教的なけがれとは別個のものと考えるべきだ。お酒の場合、いくつかの聖書箇所から、それを飲まないのがふさわしいという結論が導き出せる。間違った判断をしたり、放蕩に走ったりするのを防ぐという、案外実利的な理由である。タバコの場合は、私たちキリスト者のからだは神の神殿、聖霊の宮であるという信仰から、その健康を明らかに損なうものを口にしないのがふさわしい、と考えるからであって、宗教的にけがれるから、というのとは異なる。  ほかにも、飲み食いが制限されるケースがある。これはローマ人への手紙14章や、コリント人への手紙第一10章で戒められているケースで、何を飲み食いしても私たちには許されているというのが基本だが、その飲み食いによって人を不快な思いにさせたり、信仰が弱い人たちにとって彼らなりの偶像礼拝の文化を捨てきれない根拠にさせたりするなら、それはいけないことである。これもやはり、神の前にけがれる、からいけないのではなく、人につまずきを与える、すなわち、信仰から離れさせるからいけないのである。  20節から22節を見てみよう。イエスさまは、人から出てくる悪い考えが人をけがすとおっしゃった。それは21節から22節に列挙されたとおりであるが、なんと12種類も挙げられている。  ①淫らな行い、④姦淫、⑧好色……十戒の第七戒「姦淫してはならない」に違反。  ②盗み、⑤貪欲、⑨ねたみ……十戒の第十戒「隣人の家を欲してはならない」に違反。  ③殺人、⑩ののしり……十戒の第六戒「殺してはならない」に違反。  ⑥悪行、⑪高慢、⑫愚かさ……箴言のみことばほかみこころに対する違反。  ⑦欺き……十戒の第九戒「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」が適用できるみこころへの違反。  こういったことが自分をけがす。宗教指導者たちは、⑪高慢で、⑫みこころも悟らないで愚か、⑥民から搾取する悪行に手を染め、②神のものを盗み、⑤民から搾取することに飽くことなく、⑦民を欺いて民から搾取し、⑨まことの神の子なるイエスさまをねたみ、③イエスさまを殺そうとし(実際十字架にかけて殺した)、⑩イエスさまをののしり、①④⑧そんな彼らは霊的に姦淫した状態である。なんと、手を洗わなければけがれている、と主張した宗教指導者たちには、イエスさまがおっしゃったすべてが当てはまる。  しかし、こうして宗教指導者を糾弾するみことばが書かれているのは、それがほかならぬ、私たちへの警告であるからだ。私たちは心の中で姦淫を犯さなかっただろうか? 隣の芝生は青い、とばかりに、人のことをうらやんだりしなかっただろうか?「あんな奴にはいなくなってほしい」と心の中ででも思わなかっただろうか? 高慢ではなかっただろうか? 愚かではなかっただろうか? それなのに、「こんな自分のことも主は愛しておられる」とばかりに開き直り、なにもしないではいなかっただろうか? 嘘をついたりしなかっただろうか? そういったことを口にすることで、私たちはどれほど、自分をけがしてきたことだろうか?  そのけがれから自由になるには、イエスさまの十字架の前にひざまずくことである。私たちにはイエスさまの十字架が見えているだろうか?

「真の不従順とは何か」

聖書箇所;マルコの福音書7:1~13/メッセージ/讃美;聖歌151「たえなるいのちの」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/頌栄;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「真の不従順とは何か」  今の小学生は知らないが、むかしから小学生といえば、例えば教室の花瓶を落として割った子がいたとき、みんなで歌を歌ってはやし立てたものだった。「あーららこららー いーけないんだーいけないんだー せーんせいにいってやろー」でも、花瓶を割った子はショックで青ざめているのである。そんなに、はやし立てて人を責めるのが愉快なのだろうか? まことに幼稚なことだが、イエスさまのあら捜しをするユダヤの宗教指導者たちも、似たような幼稚さを抱えていたと見るべきだろう。今日の箇所も、そういうくだりから始まっている。  1節のみことば。ユダヤの宗教指導者がエルサレムからはるばる、ガリラヤまでやってきた。ガリラヤ領主のヘロデでさえイエスさまのうわさを聞いて、イエスさまに会ってみたいと思っていたほどである。それほどの影響力をこの地域の社会に及ぼしていたイエスさまはどういう人物なのか、ユダヤの宗教界は調査する必要を覚えていた。自分たちの立場が危ないからである。しかし、彼らはどのようにしてイエスさまに問題人物の烙印を押そうとしたのか? もちろん、イエスさまやその弟子たちの言動をチェックするわけだが、問題はそのチェックする基準を、彼らがどこに置いていたかである。彼らは彼らなりの基準で、イエスさまの弟子が神に不従順であるかのように責めるわけだが、果たして弟子たちは不従順だったのだろうか?  2節。イエスさまの弟子たちが食事の前にきよめの洗いをしなかった。しないのを見とがめて、宗教指導者たちはその師であるイエスさまのことを責めている。まさしく彼らなりの「いーけないんだーいけないんだー」である。衛生観念がとても発達した民族である日本人がこの箇所を読むと、つい、弟子たちが悪い、と思ってしまわないだろうか? 私など最初、この箇所をよんだとき、弟子たちは手も洗わないで食べて「ばっちい」と思ったものだった。  しかし、そういうことではない。手を洗うのは「衛生」のためというよりも「宗教的儀式」としてだった。浅草の浅草寺では、一定の儀式にのっとった作法によって水で口をすすいで参拝するのだそうだが、そういったたぐいの宗教的なきよめのしきたりが、ユダヤの宗教社会においても金科玉条のように守られていたわけである。当時は水道から蛇口をひねって水を出していたわけではないから、汲んでためた水からすくって、腕からひじにかけて水を注いだということである。  ところが弟子たちは、そういうことをしなかった。なぜだろうか? それは、する必要がなかったからである。一見すると、聖書をベースにしているユダヤの宗教社会の伝統の中で培われてきた儀式を守っていないことは、神に対する不従順であるように見える。しかし、もしそれが神に対する不従順ならば、イエスさまご自身がそれをお咎めになり、弟子たちに水洗いの儀式を守らせられたはずである。ところが、イエスさまがそうなさった形跡はない。つまり、弟子たちが手を洗わなかったのは、神への不従順でもなんでもなく、守る必要がなかったからである。  しかし、イエスさまの時代の宗教社会においては、儀式を守ることが即、神への従順と見なされた。律法学者たちによる長年の聖書解釈の繰り返し、積み重ねは、やがて3節、4節にあるような、「宗教行為至上主義」ともいうような、神のみことばを守り行うこととは無関係な形へと変質した。そこから、5節にあるような宗教指導者の発言が出てくるわけである。  それでは、果たして彼ら宗教指導者たちの批判は正しかったのか? 6節と7節をご覧いただきたい。イエスさまは、「いいんです」と弁明されているわけではない。しかし、そのような宗教的言い伝えに固執させることこそ、神への不従順の罪を犯させること、すなわちそれ自体が、罪を犯していることそのものだと喝破された。それも、彼ら宗教指導者にとってよりどころであるべき聖書のみことば、絶対の基準である聖書のみことばを用いられたのだから、完璧な反論、批判である。  このイザヤ書のみことばのように、彼ら宗教指導者たちとその指導の下にあった民たちは、神を礼拝するにはしていた。しかし、それはむなしい礼拝だった。礼拝は神のことばをもってささげられるべきである。だが彼らは、神のみことばを人の命令にすり替えた。いったい、食事の前には手を洗わなければ神の御前にけがれている、と、聖書のどこに書いてあるだろうか? 嘘だと思うなら探してみてほしい。ないから。  その、一見すると神のみことばに由来するようでいて、そのじつ「人間」に由来する命令を守り行うならば、人は神に近づいて自由になることなどできないばかりか、宗教指導者という「人間」に縛られてその奴隷となり、霊的、精神的に不自由な存在となるしかなくなる。神さまはもちろん、人間がそうなることなど望んでいらっしゃらない。  イエスさまはこのような宗教指導者たちのことを激しく糾弾していらっしゃる。8節。彼らは宗教的なほどに宗教的だが、神の戒めに固執しているのとはちがう。むしろそうではなく、イエスさまに言わせれば、神の戒めを捨てた、というのである。だれよりももっとも宗教的、神に献身的に見える彼らは、皮肉なことに、神の戒めを捨てた者、すなわち、神を捨てた者であった。  それでは彼らはどのようにして、神の戒めを捨てたのだろうか? 9節。彼ら宗教指導者は、自分たちの言い伝えを保つために神の戒めを捨てた、とイエスさまは喝破された。つまり、彼らにとって大事だったのは、神の戒め、すなわち神のみことばではなく、自分たちなりの聖書解釈だったわけである。その聖書解釈も、あまりに人間的な解釈が入り込み、もはや原形をとどめていないものだった。  では、その聖書の語る「原形」とはどういうもので、それを彼ら宗教指導者たちはどのように、解釈を加えてないがしろにしたのだろうか? その例として、イエスさまは10節から12節のようにお語りになった。  ここで問題にされているのは、父または母、すなわち親に対して果たすべき義務、すなわち扶養する義務が人にあるようなときでも、その人が本来ならば親のために使うべき財産は、神にささげると約束したものゆえに使うことができない、とする場合である。  ささげ物ということばは、ギリシャ語で書かれたこの福音書において、わざわざヘブル語の「コルバン」と表記されている。特に、一般的な宗教でも行われているささげ物と区別して、特にイスラエルの神であるお方におささげするもの、という意味で、コルバンというヘブル語を使っているわけである。だから、「コルバン」をささげるというならば、まことの神さまがお受けになるべきささげ物としてささげるものである以上、ささげる人は、ささげるお相手である神さまのみこころがどこにあるのかを理解している必要がある。  宗教指導者たちは、神のそのみこころとは、親に対する扶養義務をないがしろにしてでもささげるべきものだ、と、民を教え導いている。しかし、神の子なるイエスさまは、それは全く神さまのみこころではない、とお語りになる。その根拠としてイエスさまは、モーセの十戒の第5戒、「あなたの父と母を敬え」を挙げられ、そしてもうひとつ、「父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない」という、出エジプト記21章17節、そしてレビ記20章9節と、律法の書に繰り返し語られた、極めて厳しい戒めを挙げられた。つまり、親をないがしろにすることをまかり通らせる宗教指導者たちが、どんなにみことばから外れているか、ということをイエスさまはおっしゃったわけである。  さて、宗教指導者たちがあまりに人間的な聖書解釈をすることに対して、イエスさまが、父母との関係に関する律法のことばを引用された意味も考えてみたい。モーセの十戒というものがみことば全体の基礎であることに異論を唱える人はいなかろう。十戒は、前半の4つの戒めが神との関係を説き、後半の6つの戒めが人との関係を説く。神と人との垂直な関係、人と人との水平の関係、その戒めが十戒である。この形は十字架ではないか。  そして、ここでイエスさまが挙げられた第5戒、これはある意味特別な戒めである。第5戒以降で扱われる対人関係の戒めのもっとも基礎になるものが、親との関係だからである。聖書は一貫して、親というものを、われら神の民の父であられる神さまの代理として教えている。親は愛なる神の代理として、子どもを愛によって保護し、育て、戒める。そういう意味では、この第5戒は神との関係を示す十戒の前半の4つの戒めにも含まれるともいえる。まさに、対神関係と対人関係を同時に取り扱うみことば、十字架の交わるところのようなみことば、それがこの第5戒である。  だから、親子関係をイエスさまが例に挙げられ、それを十戒の第5戒で取り扱われたということは、もっともらしく神のみこころを説いているつもりの宗教指導者たちは、神さまとの関係においても、人との関係においても、まったくなっていない、と語っておられるわけである。  それに加えて、イエスさまがお語りになった「父や母をののしる者は必ず殺されなければならない」という戒めまでもイエスさまはお語りになったが、これは、神さまとの関係を隠れ蓑にして父母に何もしないことは、父母をののしることと同じ罪、殺されるに値する罪であるというわけである。どういうことだろうか? 父母をののしるということは、父なる神さまとその子なる人々、という秩序の中で、神の権威の代理として親という存在をお立てになった神さまを冒瀆することである。  そのように、神さまの秩序を壊すという点では、親を扶養することが神のみこころなのにそのみこころに不従順になり、神にささげたから親には何もできない、と言ってのけることも同じである。たとえ、大声を出して悪口を親に投げつけなくても、そのように妙な宗教行為に走って親を扶養しないならば、やっていることは同じ、死に値する、というのが、イエスさまのおっしゃりたいことである。  昨年7月の安倍元首相の暗殺以来、連日マスコミをにぎわしている某宗教団体は、家族を顧みないで自分たちの信じる神に献身するように信者たちを導いている。もちろん、私たちキリスト教会も、異端ではなく、正統な信仰を持っていれば安全圏にいると安心していてはならない。親を大切にしないように教える教会はろくなものではない。それは、イエスさまが語っておられるとおりである。私たち水戸第一聖書バプテスト教会は、子どもや若者に対し、親を大切にすることをしっかり教える群れでありたい。  イエスさまのみことばの結論部分に当たる13節。このような、対神関係と対人関係において最も大事なみことばに反することを教えているあなたがた宗教指導者たちは、一事が万事、あらゆる面でみこころにかなわないことを人々に強いている、というわけである。  ここまでみことばを読んできて、私たちは自分の信仰態度において、何を振り返る必要があるだろうか? 私たちが神さまに対して「従順」の実践と固く信じてきたものが、案外そうではなかったり、また逆に、もっとお従いすべきことをないがしろにしてきてはいなかったか……そういうことを考え直す必要がないだろうか? もちろん、そのように私たちを悔い改めに導くみことばはたくさん、聖書に記録されている。しかし、その根底にあるものは、「神の愛」である。神が愛であるゆえに、私たちは神を愛し、神のおつくりになり、そばに置かれた人を愛する。その愛が単に表面的なだけのものになり、規則さえ守っていればそれで充分と考えたり、規則を守れない人をさばいたりしていなかっただろうか?  私たちの教会にも、いろいろなしきたりがあろう。よその教会はもっと自由になやっているからと、それらのしきたりを無条件になくすべきだ、というのは乱暴な話である。そのしきたりをある程度大事にすることで保たれる秩序があることも確かである。  しかし、意味も考えずしきたりを機械的に守ることを大事にして、それを守れない人をさばくというのは、明らかにちがう。礼拝というものは来さえすればいいのではない。献金というものはお金をかごに入れさえすればいいというものではない。毎日の聖書通読やお祈りも、心を込めないお勤めのようにして持ちさえすればいいわけではない。  今日は、私たちの形式的になってしまっている歩みを振り返り、悔い改めるひとときを持とう。形を守るよりもみことばを学ぶことを大事にしよう。行うこと一つ一つが、神との交わりをもって行うものへと変えられるよう、祈ろう。