信仰による選択

聖書箇所;創世記13章1~18節 メッセージ題目;信仰による選択 私たちは一日のうちでも、数多くの選択をし、また、その数多くの選択の、その結果の数多くの責任を負いながら生きていくことになります。私たちはいま、どのような選択をしているでしょうか。今日の本文のアブラム、アブラハムのモデルから学び、みこころにかなった選択をする者とならせていただこうと思います。  1節、2節を見てみましょう。アブラムは富んでいました。多くの家畜、そして銀も金も、それこそ「非常に豊かに」持っていました。もともと富んでいたところに、エジプトでさらに富が増し加わったわけです。そういう意味ではアブラムは祝福を受けていました。ただしこの祝福をいかに用いるかという問題にも、アブラムは直面していました。 新約聖書・第一テモテ6章10節で、使徒パウロは「金銭を愛することがあらゆる悪の根である」と喝破しています。アブラムは確かに、この世的にはたいへんに富んでいました。しかし、その富は神さまとの関係を深める助けにはなりませんでした。かえってその富に目がくらんだために、サライをエジプトのファラオに売ろうとするなど、不従順にもほどがあるような行為をしてしまったのでした。 しかし、アブラムは悔い改めました。アブラムは、エジプトを追放されてカナンの地に帰ってきたとき、そこにかつて築いた祭壇において、主の御名を呼び求めました。まるでエジプトの地で妻をファラオに売った自分の大きな失敗を悔い改め、神さまとの交わりを改めて求めるかのようです。このカナンはついこのあいだひどい飢饉に襲われたばかりの場所で、普通に考えるならば帰ることをためらう者でしょうが、アブラムはここで、信仰の原点に立ち帰る決断をしました。自分が初めて築いた祭壇の場所で、改めて主の御名を呼び求めることをする、そうです、肥沃な地に家族や群れを導くことよりも、まず、主の召しに立ち帰ることを選びました。困難が待ち受けていると予想されようと、主のもとに行く。言い方によっては、主のもとに逃げ込むことをしたわけです。  もし人が、この世の価値観や基準にどっぷりと漬かっているならば、信仰によって困難な選択をすることは極めてむずかしいことです。しかし、困難な中でも信仰による選択をする人は、揺るがされることはありません。 イエスさまという岩の上に根ざして生きる人は、どんな困難が押し寄せても揺らぐことはありません。しかし、この世という不確かな、いわば砂地のようなものに根ざして生きる人は、困難が押し寄せると崩れてしまいます。 アブラムの場合も、拠り頼むべきが多くの富ではなく、神さまご自身であることに気づかされるようになっていました。しかし神さまはときに、ご自身の愛される人の人生に介在され、拠り頼むべき対象をこの世的なものから神さまご自身へと導かれることがあるものです。 6節を見てみましょう。アブラムは、神さまの祝福と見なすべきこの富を持てあましていました。おそらく、エジプトのような肥沃な地ではこの富は相当役に立ったことでしょうが、カナンのように痩せて貧しい土地では水や牧草にも事欠き、群れの中に葛藤が起こるのは必然でした。 特にその葛藤は、牧者どうしの人間関係の葛藤という形で顕著に現れました。アブラムとロトの関係は決して悪くなかったはずですが、その群れどうしとなると、どうしても人間関係に問題が生じます。それはもちろん、アブラムにしてもロトにしても、彼らどうしが仲良くすることを望んでいたでしょうが、牧草や水が不足しているという現実を前にしては、理想ばかり言っていられなくなっていました。 約束の地は、ただ入ればいいということではありません。その地で増え広がるのがみこころである以上、それが貧しい土地であったとしても、石にかじりついてでもとどまる必要がありました。カナンから一族もろとも去るという選択肢はありませんでした。とどまるしかなかったのですが、アブラムの群れとロトの群れとの深刻な対立は、もう限界に達していて、どうしようもなくなっていました。 しかしアブラムは、ここでロトに一つの提案をします。8節、9節です。……選択の余地をロトに与えたのです。全地はあなたの前にあるではないか。このどこまでも広い土地の、どこに行ってもいい。ただし、私の群れは一緒に行かない。あなたの群れがまずどこに行くか決めたら、私の群れは反対の方に行く。ロトに選択させました。 アブラムは実はこのとき、信仰の父としての危機に瀕していたということにお気づきでしょうか? もし仮に、ロトがカナンの地に残ると言ったら、アブラムはカナンをあとにしなければならなくなりました。主の民となると約束されたのはアブラムから生まれる者であって、ロトからではありません。ロトの民がカナンで増え広がるわけにはいかなかったのです。また、アブラムがカナンをあとにしたら、もうアブラムには、カナンで主の民の父となる道は残されていません。神さまのみこころは成らないことになります。 しかし、神さまの摂理というべきことですが、ロトはここで、ヨルダンの低地、とても肥沃な土地を選びました。神さまはロトの選択に介入されました。このことによってアブラムは、神さまの約束どおり、カナンの地で神の民の父となる道を残されたのでした。ロトの一行が向かったヨルダンの低地はもはやカナンの地には含まれません。ロトはカナンをあとにしたのでした。 ロトがヨルダンの低地を選んだ理由は、11節に記されています。「自分のために」とあります。神さまのためにではなかったのです。自分さえ栄えればアブラムなどどうでもよい、というよこしまな思いがあったわけです。しかし、ヨルダンの低地の町、ソドムとゴモラの地でロトを待ち受けていたのは、主に対してはなはだ邪悪な者たちでした。その地の豊かさ、この世的な栄えを享受するあまり、彼らは凄まじいまでに堕落したのでしょうか。ともかく、そのような者たちが待ち受けているような地であろうとも、ロトは一時(いっとき)の栄えに目がくらみ、アブラムを痩せた土地に残して自分はさっさとヨルダンの低地に行ってしまいました。 もしかするとアブラムは、ロトのこの性格を知った上で、あえてロトに行き先を選択させたのかもしれません。それはロトの自主性を尊重することでもありますが、ともかくもこれでアブラムは、ロトのこの選択により、カナンに残ることができました。 こうしてアブラムは、ロトとその群れ、そして財産を切り離しました。それは、いかにかわいい甥っ子を独り立ちさせる、ほんとうならば喜ばしいことであったといっても、それなりの悲しさ、むなしさはあったはずです。何よりも、この世の富を自分から選択するロトのなすがままにせざるを得なかったことは、アブラムをどんな気持ちにさせたことでしょうか。しかしそのようなとき、神さまご自身がアブラムに現れてくださいました。神さまは何とおっしゃったでしょうか? 14節から17節です。 神さまはアブラムに、どのような約束をくださったのでしょうか? アブラムに、この地、すなわちアブラムが見渡すかぎりの、そして実際に東西南北に歩き回るカナンの地を、永久に、子孫をちりのように増やすことにより、与えるとおっしゃいました。 では、なぜこれが確実にアブラムに与えられるのでしょうか? それはほかならぬ、神さまご自身の約束であるからです。カナンの土地をアブラムとその子孫に与えること、それが神さまの約束でした。アブラムのすることは、神さまのこの約束を、ただ、信仰によって受け取ることだけでした。 人は、よいものを得ようという思いをつねに持っています。そのために、あらゆる努力をします。しかし、神さまのくださるもの以上によいものはありません。アブラムの目の前に広がる土地は、痩せていたかもしれません。けれどもそれが神さまのくださる土地です。アブラムのすることは、その目の前に人がる土地、自分が縦横無尽に踏みしめる土地が、神さまのくださった土地であると受け入れて感謝することでした。それが、アブラムにできる選択、アブラムのなすべき選択でした。 信仰によって歩む者にとっての選択は、その何よりの基準は、「神さま」にあります。神さまが主権によって私の人生に働いてくださる。私はその御手によって、いま生きている生活の現場で神さまの栄光を現すべく用いられる、これが私たちの信仰の歩みです。 この、選択の人生の最大のモデル、それは、イエスさまです。罪なきイエスさまのなさった選択は、すべて神さまのみこころにかなう正しいものでしたが、イエスさまの選択は、すべて、御父に従順であるという、絶対の基準がありました。みことばをお語りになることも、奇蹟を行われることも、すべては御父のみこころに従順に従うという選択をなさった上でのことでした。そして最大の選択、それは十字架でした。ゲツセマネの園での血の汗を流しての祈り、それは、御父のみこころを選択するための最大の闘いで、イエスさまはついにその戦いに勝利され、十字架にかかられたのでした。 アブラムの選択も、御父に従順であるようにと願っての選択でした。時にそれは、アブラムが、エジプトの豊かさを捨てて痩せたカナンに行って神さまを礼拝することを選んだとか、富をロトに分け与えて遠く離し、カナンにとどまることを選んだとか、人間的に見れば厳しいことを選択することも有り得ます。要は、それが神さまのみこころであると受け入れることです。 逆に、ロトの場合はどうでしょうか。彼の選択は神さまのみこころを考えない、それこそ自分のためのもので、また、この世的な祝福を求めるものでした。しかしその結果は、実に悲惨なものになりました。祝福の源であるアブラムと人生をともにしていても、アブラムからいったい何を学んできたというのか、というものです。しかし私たちは、このロトを笑うことはできないでしょう。私たちもまた、この世に生きていると、ときに神さまのみこころを選択することよりも、自分中心の選択、この世的な選択に走ってしまうものです。ロトはそんな私たちにとっての反面教師です。 私たちはいま、どんな選択をしようとしていますでしょうか。アブラムの選択でしょうか? それとも、ロトの選択でしょうか? いえ、究極的に言ってしまえば、イエスさまにならう選択をしようとしていますでしょうか? すなわち、イエスさまが御父に従順であられたように、御父のみこころに従順になる選択です。 人間的に見ればもしかしたら私たちはいま、厳しい選択を迫られているかもしれません。しかしそのときこそ、私たちの信仰を生かすチャンスです。私たちの肉的な頑張りで、難しい選択をして、その選択をやり遂げるのではありません。そんな頑張りは限界があり、やがて破綻します。そうではなく、その選択をすることがみこころだと示されているならば、神さまが必ず最後までやり遂げさせてくださるという信仰をもって、困難な選択へと踏み出すのです。

不信仰は覆われる

聖書箇所;創世記12:5~20 メッセージ題目;不信仰は覆われる  私たちはだれもが、失敗をします。失敗は成功のもと、などと言いますが、私などは、過去を思い出すと、あんな失敗はしなければよかった、と思えるようなことだらけで、思い出すたびに顔が赤くなったり、青くなったりするのを覚えるものです。みなさんはいかがでしょうか?  信仰の父アブラハム物語も今日で2回目になりますが、今日の箇所で彼は、大きな失敗をします。それも、これは致命的ではないかとさえ思える失敗です。本日メインに学びます失敗の記事の前に、アブラムがカナンの地に入った記事が出てまいります。アブラムはその地に至り、シェケムのモレの樫の木のところで、主からの啓示を受けます。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」先週学びました、ハランの地にて神さまがアブラムに与えてくださった啓示の地、約束の地が、このカナンであったことがはっきりしたわけです。アブラムは、そこに祭壇を築いて主を礼拝しました。そこから彼はベテルの東の山の方へと移動して、天幕を張りました。そして、彼はネゲブへと進みました。  しかし、ネゲブには飢饉が襲っていました。とても住むことができません。アブラムはここで、ひとつの選択をします。それは、エジプトに行くということでした。アブラムには守るべきものがありました。さすらいの旅に伴っていたのは家族だけではありません。家畜やその牧者たちも一緒でした。彼らのことも充分に養わなければなりません。このことが、アブラムが約束の地を離れ、エジプトに行くという選択へと導きました。  多くの家畜や牧者たちを所有するなど、アブラムが富んでいたということは、いわば主からの祝福というべきことです。しかし、この群れを養うことがエジプト行きを決意させたことを考えると、主の民の父として、果たしてこれを祝福だとばかり言うことができたでしょうか、という問題があります。  私たちにとっての祝福とはどのようなものでしょうか? 金銭や持ち物が増えることでしょうか? 名誉が増し加わることでしょうか? そのようなものは増し加われば増し加わるほど、私たちを苦しめるものです。詩篇の詩人、アサフの告白に耳を傾けましょう。「しかし、私にとって 神のみそばにいることが 幸せです。」ここには、状況に左右されない平安があります。いついかなるときも主がそばにいてくださるゆえに揺るぐことがない、これぞ、私たちが目指すべき境地です。  しかし、アブラムの信仰の旅路は、これから続く彼の人生を考えると、まだ始まったばかりです。彼は地のすべての民を祝福する権限が与えられた者として、カナンの地に雨を呼び起こす祈りをささげるのではなく、エジプトで生き延びるという決断をしました。彼の信仰には限界があったことを認める必要があります。  私たちも信仰を働かせるべく導かれていますが、それでも、この世と伍して生きていくかぎり、どうしても、この世の価値観に自分を合わせている領域が出てきます。私たちも信仰を働かせるよりも、この世的な選択に走ってしまうことがあるものです。そのような私たちであることを受け入れた上で、私たちのなすべきことを主に祈りつつ、尋ね求めてまいりたいものです。  さて、アブラムはエジプトに近づくにつれ、ひとつの不安に襲われだしました。それは、自分が殺される、ということです。ファラオが妻サライを奪い、自分を殺す、あってはならないことです。そうならないために、サライは自分の妻ではなく、妹だと言ってほしい、と頼みました。  創世記20章を読めばわかりますが、サライがアブラムの妹というのは、たしかにほんとうのことです。父テラの娘であるからです。ただし、母親は同じではありませんでした。腹違いの兄妹、というわけです。この時代神さまは、神の民がそのような間柄で結婚することを、まだ問題にしてはいらっしゃいませんでした。そういうわけで兄妹であったのは確かですが、アブラムとサライはそれ以前に、夫婦という立場にあったことを優先する必要がありました。  夫婦は、もといた家族に優先する関係です。ここから、神の民が生まれるということを神さまは約束しておられたのです。つまり、アブラムがサライのことを、妻ではなく、妹だと言わせたということは、この神さまの秩序に逆らったということであり、また、神の民を生まれさせてくださるという神さまの約束に逆らった、ということになるわけです。アブラムは、二重の意味で不信仰、また不従順の罪を犯したことになります。  アブラムがこうなってしまったのも、もとはと言えばわが身を、この世的な方法で護ろうとしたためでした。エジプトで生き延びようと発想したことは、ついにこのような不信仰、不従順へとつながってしまったのでした。  アブラムは何を期待して、サライにこのようなことをさせたのでしょうか? 13節にあるように、「事がうまく運ぶ」ことを期待してのことでした。事がうまく運ぶ、とは、具体的に言えばどういうことでしょうか?  そう、16節にあるとおりに、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男奴隷と女奴隷、雌ろば、らくだ……たいへんな財産を手にすることができたのでした。こういう贈り物をファラオから手に入れることが「事がうまく運ぶ」ことであったとするならば、アブラムがサライにあのようなことを言わせたのは、サライを離縁し、ファラオの宮廷に召し入れさせることが目的だったということになります。もはやここには、信仰の父として立っていこうとの姿勢は、欠けらも見ることもできません。  しかし私たちは、このアブラムを笑ったり、非難したりすることができるでしょうか? このアブラムの姿は、私たちの姿そのものではないでしょうか? 主からなすべきことが示されていても、それに対する不従順の罪を犯し、なおそのような自分であることを正当化する、それが私たちなのです。その不従順によって、結果的にこの世の祝福を得ることができれば、それで安心してしまう、それが私たちなのです。  しかし、ここで私たちが忘れてはならないことがあります。神さまが干渉してくださる、ということです。17節を見てみましょう。……どんなわざわいだったかは書かれていません。疫病でしょうか? 恐ろしい悪夢でも見たのでしょうか? いずれにせよ、それが創造主なる神さまからのもので、しかもそのわざわいがもたらされたのは、ほかならぬサライを召し入れたせいだったということが、ファラオたちにはわかったのでした。  18節、19節を見てみましょう。……ファラオのこのことばをみてみると、アブラムは最初からサライのことを、自分の妻である、と正直に言うべきだったことがわかります。ファラオがサライを召し入れたことで、ひどい災害によって宮廷を痛めつけられるのが神さまのみわざだったならば、いわんや、アブラムを殺そうとしたならば、どれほどのわざわいをもって神さまはエジプトをおさばきになったことでしょうか!  「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。」アブラムは確かに、ハランを旅立つとき神さまにそう言われましたが、そのみことばが実際に臨むことまでは信じていなかったと言うべきでしょう。ここでアブラムは、ひとつ、エジプトの宮廷のわざわいという犠牲を経て、信仰が成長したのでした。  これは何を意味するでしょうか。アブラムがいかに不従順でも、不信仰でも、神さまの側では依然として、アブラムのことを信仰の父として立ててくださっている、ということです。ほかのだれでもない、あなたのことをわたしが選んだ以上、あなたが信仰の父となるのだよ、ということです。  イエスさまも私たちに言ってくださっています。あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。  私たちも不信仰になるでしょう。その結果、してはならない選択をしてしまい、失敗したということがあるかもしれません。しかし、究極的に言ってしまえば、私たちにとって失敗というものはないのです。あるのはただ、主がみわざを行なってくださり、導いてくださる、これだけです。  ひとたびイエスさまを受け入れたならば、その人は天国に行けます。それは、私たちの状態がどうあれ、イエスさまの側で私たちのことを離れないでいてくださるからです。わたしは決してあなたを見放さず、あなたを捨てない、と言ってくださっている以上、イエスさまが私たちから離れることなど決してありません。 しかし、私たちはイエスさまのこのみことばにも関わらず、なんと不信仰になってしまうものでしょうか。イエスさまの約束よりも、自分の思いを優先してしまう、何ということでしょうか。それでも、そんな私たちでも、イエスさまがお見捨てになるということは決してありません。こんな私たちであるということをすべてご存知の上で、なおも忍耐をもって、導いていてくださるのです。 もし、アブラムのこの不従順、妻サライをエジプトに売り渡すという、あまりのことを神さまが見とがめ、さばきを下されたとしたらどうなったでしょうか。神の民は生まれるまでもなく、私たちも神の民に連なることはありませんでした。それ以前に、アブラムにあのように約束された神さまのみことばは、うそ、ということになってしまいます。しかし神さまは真実なお方です。神さまは、たとえアブラムが偽りの心で偽りの行いをしようとも、ご自身の真実さにかけて、アブラムとサライを救ってくださり、ご自分の約束が真実であることを証しされました。 そうです。私たちは偽ります。私たちはいかに主のものとされていても、依然として罪を犯すものです。しかし、それにもかかわらず神さまは、イエスさまにあってこのような私たちのことを選んでくださり、私たちのことを用いてくださるのです。私たちに真実なものは何一つありません。あるのはただ罪ばかりです。しかし、たったひとつ真実なことがあるとするならば、この私たちのことをその十字架の死によって贖ってくださり、私たちのことを、主に用いられる尊い器としてくださったイエスさまが、私たちのうちにおられ、私たちを今もなお導いてくださっている、ということです。私たちの偽る心は、どこまでも真実なイエスさまによって、かぎりなくきよめられていきます。 アブラムの信仰の旅程には、このような、普通に考えれば致命的とさえ言える失敗がありました。私たちももしかすると、もはや思い出したくもない失敗があって、そのために人生に大きな損害を被ったように思えてならない、そんな悪い経験があるかもしれません。しかし、私たちがどうあろうと、神さまは真実です。私たちがもし、その失敗のために苦しむことがあったとするならば、それは「さばき」と見るべきではありません。 ひとたび神さまのものとされている私たちのことを、神さまがおさばきになるはずがあるでしょうか? 私たちはさばかれることなどありません。では、私たちが現実に苦しんでいるならば、この苦しみは、何だというべきでしょうか? それは「懲らしめ」というべきです。「懲らしめ」と「さばき」は、苦しいという点では共通していますが、その持つ意味は天と地ほどにもちがいます。 私たちは苦しみます。しかしそのとき、私たちは全能なる神さまに拠り頼む信仰が育てられます。神さまはそのとき、私たちの生活の現場に臨み、みわざを行なってくださるのです。主の弟子らしくしっかり立つことを神さまが私たちに望んでいらっしゃる以上、主はときに私たちのことを厳しい目に合わせなさいます。私たちがその状況に対してとことんまで無力であることを認め、神さまに全面的に降伏し、神さまが自分の人生に完全に働いてくださるように、明け渡すためです。 アブラムも、この恥辱的な失敗さえも覆ってくださる神さまの御手を体験し、信仰が成長しました。私たちもまた、生活のただ中で主の御手を体験するように召されています。主が私たちに関心を持ってくださり、私たちのうちでみわざを行いたいと願っていらっしゃるのです。それほど、私たちは特別なのです。 だからこそ私たちは、神さまがわが人生の現場でみわざを行なってくださる、そのことを期待しつつ、日々導いてくださる主に従順にお従いするのみです。そこで私たちのことを考えてみたいと思います。私たちが主にお従いしたいと願いながら、その妨げとなっている重大なものとは何でしょうか? それぞれにとって異なると思います。アブラムにとっては、まずは家族だけにとどまらず、家畜たちやしもべたちを養わなければならなかったこと、そして、ファラオによって殺されるかもしれないと恐れたことです。それでも神さまはアブラムを守り、大きなみわざを行なってくださいました。 みなさんもきっと、信仰によって踏み出すうえでの弱さを抱えていらっしゃることと思います。今日はその弱さを具体的に書きとめてみましょう。そして、その弱さは必ず主が乗り越えさせてくださると、信仰をもって一歩を踏み出す祈りをささげましょう。

信じる者には、どんなことでもできるのです

聖書本文;マルコの福音書9:14~29 メッセージ題目;信じる者には、どんなことでもできるのです  改めましてみなさま、今年もよろしくお願いします。   2020年。今年のみなさんのお祈りの課題は何でしょうか。取り組まなければ。あるいは、これが必要だ。それを手に入れること、そうなることはみこころにかなっている。しかし、努力だけではどうにもならない、そこで、私たちは信仰を働かせるのです。 本日の本文に登場する父親も、まさにその「信仰」という問題を抱えていました。このときイエスさまは、十二弟子のトップ・スリー、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山に登っていらっしゃいました。そのときイエスさまは栄光に御姿が変わり、モーセとエリヤが現れてイエスさまのご最期について会話を交わすという、驚くべき、またおごそかな時間となりました。このできごとは、人の子の復活まで秘めておきなさい、と、イエスさまは弟子たちを戒められました。 一方で、残された弟子たちは、ひとつの問題に直面していました。口をきけなくする霊に取りつかれた息子から悪霊を追い出してほしい、弟子たちは父親からそのように懇願されましたが、できませんでした。そこにイエスさまがやってこられ、子どもから悪霊を追い出されて一件落着、すばらしいことが起こされたわけでした。 しかし私たちは、このできごとの背後にあった、信仰と不信仰についての問題、また祈りの問題について、特にイエスさまのみことばから学ぶ必要があります。 まず、19節、最初のイエスさまのみことばを見てみましょう。イエスさまは何とおっしゃいましたでしょうか。…… イエスさまはついその直前に、もはや歴史上の人物ですらあったモーセとエリヤが現れ、ご自身のご最期について話し合われるということを経験されたばかりでした。イエスさまは、十字架の死に向かって備えをするのみで、また、その備えをなすべく、弟子たちをよりいっそう整えるという段階にあられました。 ところが、弟子たちは何をしていたのでしょうか。イエスさまがご不在ならば、イエスさまのわざを代わりに行うべく霊的な権威が委ねられていたというのに、弟子たちには悪霊を追い出すことができなかったのです。それで、この悪霊追い出しをイエスさまがなさらなければならなくなったわけです。 イエスさまは嘆かれました。まことに不信仰な時代だ! 問題は、不信仰にありました。人の不信仰は、十字架の贖いの死に向かって進むべきイエスさまの歩みをとどめるかのようでした。イエスさまにとっては十字架という、もっと大事なことがあるのに、この程度のこともあなたがたは信仰によって解決できないのか! イエスさまが問題にされたのは、だれの不信仰だったのでしょうか? それは弟子たちであり、また、この少年の父親の不信仰でもありました。そして、この記事を読む私たちひとりひとりの不信仰も、同時に問題にされるのです。問題は、不信仰にあります。 しかし、イエスさまは彼らが不信仰だからと、見捨てるようなことはなさいませんでした。「その子をわたしのところに連れて来なさい」、そのように言ってくださり、子どもにみわざを行うことを宣言されたのでした。 この父親には、イエスさまならばなんとかしてくださる、という、わらにもすがる思いのような、わずかな信仰がありました。イエスさまが戻ってくるや、つかまえました。からし種ほどの信仰があれば、その人の信仰は、空の鳥が巣をかけるほどに大きくなるように、成長させていただける、そのようにイエスさまはおっしゃいましたが、この父親の信仰も、大きいとは言えず、からし種のような大きさ、けし粒にも満たないほどの小ささだったかもしれませんが、イエスさまが大きくしてくださり、その信仰に応えて、イエスさまはみわざを行なってくださったのでした。 その子の状態はひどいものでした。20節に語られているとおりです。子どもがこのようならば、親の気持ちはどれほどつらいことでしょうか。しかしこの父親は、イエスさまの話を聞きました。イエスさまならば、必ず助けてくださる! イエスさまが来られたと聞いた父親は、矢も楯もたまらず、子どもを連れて駆けつけました。 イエスさまは、いつから子どもがそのようなのかと父親に尋ねられました。父親は、それが幼いときからで、子どもに取りついた悪霊は彼のことを殺そうと、何度でも火の中や水の中に彼を投げ込んだ、と語りました。もちろん、イエスさまは全能なるお方ですから、子どもにそういう過去があったことはすべてご存知です。それでもイエスさまが、父親にそのいきさつを尋ねられたのは、それが悪霊の働きであり、したがって神の御手によってのみ解決されるべき問題であることを、父親にあらためて認識させ、受け入れさせるという目的があったからだと言えます。 私たちもやみくもに祈ればいいわけではありません。何を祈っているのかもわからないで、どうやってお祈りを聞いていただけるのでしょうか。私たちの願っていることを具体的に聞いていただくこと、そのことが必要になります。みなさんそれぞれのお祈りの課題を具体的にノートに記録されることをお勧めします。そして、それを毎日読んでお祈りすることをお勧めします。 ともかく、この父親はイエスさまに、子どもの様子を伝えました。しかし、このことをイエスさまに伝えるにあたり、父親の態度がイエスさまに取り扱われることになりました。「しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」父親はこう言いましたが、イエスさまはそのことばと態度を問題にされました。 そうです。これは不信仰だったのです。いったい、子どもが悪霊につかれている状態、精神的に病気の状態であることが、みこころにかなったことでしょうか。それは神の子イエスさまによって、いやされてしかるべき状態でした。イエスさまは、そんな悪い状態を放っておくようなお方では決してありません。父親は、みこころに反する病や悪霊憑きを放っておかれるかもしれないなどと考えて、イエスさまに対して十分な信仰を働かせてはいませんでした。それをイエスさまは問題にされました。 信じる者には、どんなことでもできるのです。イエスさまは父親に、そう語られました。それは、私がこの子に愛を注いで、いやす神であることを、あなたは信じなさい、そうおっしゃっているということです。 私たちがイエスさまに対して信仰を働かせるということ、これが、イエスさまの愛と直結していることを、お分かりになったと思います。あなたのことを愛しているよ! あなたにわたしは、わざを行うよ! それによって、わたしがあなたを愛していることを、はっきり教えてあげるよ! さあ、わたしの愛を体験して! 信じてほしい! 果たして父親は、イエスさまのこの威厳に満ちたことばに、心が動かされ、悔い改めました。信じます。不信仰な私をお助けください! 父親は、自分が不信仰であることを叫びつつ認めました。そして、イエスさまにすがりました。 私たちも、信仰が形ばかりで、ほんとうのところはイエスさまを信じていない、そんな者であることを、ときに認めざるを得なくなるときがあります。そんなとき、私たちのすることは、自分が不信仰であることを認め、悔い改めてイエスさまにすがることです。そうするとき、イエスさまは私たちの生きる現場に、実際に働いてくださいます。それは、私たちを愛してくださり、私たちのことを心配していてくださるからです。イエスさまは、不信仰から信仰に立ち帰る私たちに、必ずみわざを行なってくださいます。 かくして、イエスさまはこの子にみわざを行われました。悪霊を追い出されました。悪霊は最後の悪あがきをしました。暴れるだけ暴れて、この子から出ていくと、この子は死んだようになりました。この子の存在すべてが悪霊に支配されていたことの証拠とも言えましょう。悪霊が出ると、文字どおり彼は空っぽになりました。 しかし、イエスさまがその子の手を取って起こされると、その子は立ち上がりました。イエスさまの御手によって、その子はもはや悪霊とは関係のない、神の人となったのです。そうです、人は悪に支配されていたならば、その悪と縁を切ったとき、まるで死んだようになるでしょう。しかし、その人の生きがいは、悪に戻ることではなく、イエスさまという新しい主人に従うことです。そうするならば、その人は生きるのです。こんにちを生きる私たちは、まさにそのように人々から悪の縁(えにし)を断ち切り、イエスさまというまことの神さまに立ち帰らせ、その人を永遠に生かすことです。 しかし、弟子たちには解決すべき問題がありました。イエスさまにできることが、自分たちにできなかった。それでは、イエスさまの弟子としてふさわしくないことになります。もっとストレートに言ってしまえば、無能、ということになります。この問題を解決しなければなりません。彼らはイエスさまに、自分たちには霊を追い出せなかったのはなぜでしたか、と尋ねました。 すろと、イエスさまはお答えになりました。この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。 イエスさまは弟子たちの、何を問題にされたのでしょうか? 祈らなかったことです。もし、弟子たちがちゃんと祈っていれば、この悪霊は彼らにも追い出せていた、ということを語っておられるわけです。 ここでも、信仰ということが問題にされたわけでした。弟子たちは、自分たちの力で悪霊追い出しをしようとしていました。実際、弟子たちには経験がありました。彼らが命じると、悪霊どもも言うことを聞く、ということを、実際に体験していたので、今度もきっとできるはずだ、と、彼らが過信していた可能性もあります。しかし、主のみわざに用いられるということは、経験があればだれでもどんなことでも可能である、ということではありません。イエスさまは、祈りが必要だ、とおっしゃったのです。 それでは、なぜこの働きをする上で「祈る」必要があったのでしょうか? それは、まず、自分たちの力ではできないことを認識し、しかしそれでも、この悪霊追い出しは神さまのみこころであるから、イエスさまの弟子として必ずできるという信仰に立ち、神さまの力を求める必要があったからです。 ただし、この働きは、何を差し置いても、この子どもに対する愛が必要でした。愛なきミニストリーは、たんなる「人間的な作業」にすぎません。自分も神さまの愛をいただいている者として、その愛をもって熱く子どもを愛する、ここに、信仰を働かせる余地が出てまいります。私たちにとっても、だれかのために祝福を祈ったり、いやしを祈ったりすることにおいても、このように相手を熱く愛する愛が必要で、しかし愛を十分かつ具体的に施しきれない自分であることを認め、神さまに祈る、しかし、みこころにかなうことだから必ずくださると信じて祈る、その祈りが必要となるわけです。私たちの信仰が、愛とともに問われることになります。 ある聖書の写本では、この部分に、「祈りと断食」と書かれています。それを見ると、断食の祈りというものの効果を見ることができます。しかし、注意が必要です。私たちの祈りが聞かれ、主がみわざを行われるのは、どこまでも、私たちの信仰が応えられるゆえです。一生懸命の祈りとか、断食しての祈りとか、そういうことを「行い」として実践することで、祈りを聴いていただけると思ってはなりません。それは、私たちの行いを正当化することです。 私たちには経験があると思いますが、長い時間をかけてお祈りすることは簡単なことではありません。とても体力がいります。大声で祈るとなるとなおさらです。断食ともなりますと、どれほどの体力を消耗するかわかりません。しかし、そうやって一定の時間をかけて努力して祈ったとき、罠となるのは、それだけいっしょうけんめい祈ったということに対し、自分なりに満足を覚えてしまう、ということです。それは信仰による祈りではなく、自分の正しさによる祈りということにならないでしょうか。 しかし、それならば、「祈りによって」、あるいは「祈りと断食によって」とイエスさまがおっしゃったことばは、矛盾しているのでしょうか。そういうことではありません。私たちは信仰を働かせるならば、何を差し置いても祈らなければという思いが生まれます。そして、祈るのです。祈るという行為を積み重ねて神の心を動かす、ではなく、神さまのみこころに動かされて祈るようになる、というわけです。これは、体験した人ならわかります。 時にその祈りは、断食の祈りに促されることがあります。私は断食というものについて、このように考えています。祈らなければ、という御霊の思いに支配されるあまり、食べ物ものどに通らない、祈るしかない、祈ろう、となって、結果として断食の祈りとなると考えます。そういうわけで断食の祈りは、したからといって偉いわけではありません。。 イエスさまは人を救うという目的を掲げて、時には断食もものともせずに、つねに父なる神さまと交わる祈りをささげていらっしゃいました。その祈りの対象が、たとえばこの子どもでありました。そしてイエスさまの祈る対象は、私たちひとりひとりでもあるわけです。イエスさまは今もなお、父なる神さまの右の座で私たちひとりひとりのためにとりなして祈ってくださっています。 このイエスさまと交わりを欠かさぬとき、私たちもまた、イエスさまが祈られたように、祈りに一生懸命になるように導かれます。時にそれは、食べ物ものどを通らないような祈りになるかもしれません。それでも、祈れるならば、私たちはしあわせではないでしょうか? それだけ、私たちが信仰を働かせる領域が拡大することになり、私たちを愛してくださっている主は、私たちの信仰の祈りに応えてくださいます。

信仰の年

聖書箇所;ヘブル人への手紙11章6節 メッセージ題目;信仰の年  みなさん、今年もよろしくお願いいたします。  今年初めのメッセージはどの箇所から語るのがふさわしいか、私は昨年末、先週から祈り求めておりましたが、この2020年、原点に帰ることを目指したらいかがだろうか、と考え、さきほどお読みした箇所から選ばせていただきました。  信仰、これは大事です。義人は信仰によって生きる、ともみことばは語っています。私たちもイエスさまの十字架を信じる信仰によって義人とされた者として、信仰によって生きるのです。それでは、聖書の語る信仰とは何か、ということを、改めまして、この箇所から学んでまいりたいと思います。  今お読みした箇所はヘブル人への手紙の11章6節のみことばですが、ヘブル人への手紙は11章に入ると、特に信仰というものを読者に説き聞かせ、その実例として旧約聖書の人物をたくさん挙げて説き起こす形になっています。  まず1節を見てみますと、信仰というものの定義について語っています。信仰とは何か。それは、望んでいることを保証するものであるということです。  望んでいること、私たちもいろいろなことを希望します。では、私たちは何を希望するのでしょうか。どのような希望が本物なのでしょうか。それは何よりも、神さまのみこころにかなう希望です。  自分の望んでいることは神さまのみこころにかなっている。そのように信じきることのできる人は幸いです。では、その希望がみこころにかなっているということを、私たちはどのようにして受け入れることができるのでしょうか。それは何よりも、聖書のみことばによって吟味することによってです。みことばどおりであると知るならば、私たちの心には平安が生まれます。その平安を抱いて、私たちは揺れ動くことなく希望を持ちつづけるのです。  この1節のみことばはさらに、次のように続きます。信仰とは、目に見えないものを確信させるものである、ということです。 もし、目に見えているならば、つまり、当たり前のようにして起こることならば、私たちは何も、特別な希望を持つ必要はありません。当たり前とはかぎらないこと、とても当たり前ではないことでも、神さまがかなえてくださると確信して、希望を持たせるもの、それがまことの信仰であるというわけです。   2節のみことばを見てみますと、むかしの人々はこの信仰によって賞賛された、とあります。新約聖書も含めてよろしいと思いますが、聖書の人物を測る物差しは、「信仰があるか否か」という点に尽きます。それは、私たちにとっても同じことではないでしょうか。このことにつきましては、のちほど見てみたいと思います。   3節のみことばを見てみましょう。見えるものは見えるものからつくられたものではない、と語ります。現代という時代は、進化論に代表される唯物論がまことの信仰にとって大きな壁となっていますが、その唯物論的な考えは、この初代教会の時代にすでに存在し、まことの神信仰に大きな脅威となっていたことを見ることができます。つまり、この聖書の書かれた時代の問題は、私たちの時代の問題と共通していたわけですが、いつの時代においても、創造主なる神さまの存在をみことばへの信仰から認めることのできる人は幸いであると言えます。この神信仰から、私たちの信仰のすべてが始まるからです。   そこで、6節、本日お読みした本文にまいります。信仰がなければ、神さまに喜ばれることはできない、と語っています。よく、神さまは私たちの存在そのものを喜んでくださる、などということばを、私たちはたやすく口にしてしまいがちのようですが、このみことばを見てみると、信仰のない人のことを神さまは喜ばない、とはっきり語っています。   信仰とは何でしょうか? イエスさまが私たちの身代わりに十字架について、私たちを父なる神の怒りから救い出してくださったことを信じることです。私たちはそのままでは、神の怒りを受けるべき罪人でした。神に喜ばれるなど、とんでもないことでした。そこから救い出してくださったイエスさまに、救いの根拠と信頼を置く、これがまことの信仰です。   しかし、ひとたびその信仰を持つべく導かれたら、神さまの怒りは、神さまの喜びへと変わります。信仰によって神さまと和解した私たちのことを、神さまが喜んでくださるのです。  さて、このみことばは、「神に近づく者は」と展開します。信仰によって神に喜ばれている者が、神に近づくことができるのです。神さまの立場になって考えてみましょう。私たちがもし、神さまの喜びという存在になっているならば、神さまは私たちに対し、ご自身にもっと近くに来てほしいと願っていらっしゃるのではないでしょうか? そのみこころに応答して、私たちは神さまに近づくのです。  しかし、神さまに喜ばれている者として神さまに近づくには、条件があることもこのみことばは語ります。まず、神がおられることを信じなさいと語っています。  神さまはおられます。私たちはもちろんそう信じ、そのように告白するでしょう。しかし、私たち自身の生活を振り返ってみたいと思います。私たちはどれほど、神さまがおられることを普段の生活の中で信じているでしょうか?  神さまは、私たちの遠くにおられるのではありません。私たちとともにおられるのです。私たちが信じるべきは、神さまがこの世のどこかに、私と関係ないけれどもおられる、と信じることではありません。神さまは、いつでも、私とともにおられる、一緒におられる、そう信じることです。  考えてみましょう。天地万物を創造され、すべてを司っていらっしゃる神さまが、ほかならぬ私のことを選ばれ、ともにいてくださるのです。これ以上素晴らしいことがあるでしょうか? このお方がともにおられることを考えないで生きるなんて、人生最大の損失です。しかし、神さまがともにおられるということを信じぬくならば、その人はどれほど人生が祝福されていることでしょうか。このお方が私たちの味方なのです。何者も私たちに敵対することはできません。  そして、6節をさらに見てみましょう。神さまが、ご自分を求める者には報いてくださるお方であることを信じなければならない、と語っています。このことを信じるためには、大前提として、神さまが生きて働いておられるお方であることを信じ受け入れる必要があります。多くの人にとっては、神さまは単なる空想の産物でしかないかもしれません。あると思えばあり、ないと思えばない、という。しかし、まことの神さまは、私たち人間がどう考えようとも、存在され、そして、みわざを行なっておられるお方です。  聖書を見てみましょう。どれほど多くの奇蹟の記事が書かれていることでしょうか。このことをもってしても、神さまは生きて働かれるお方だということがわかります。私たちが神さまを信じるということは、聖書の時代にこれだけのみわざを行われたお方が、同じように、私たちの生きるこの時代にもみわざを行ってくださると信じる、ということです。  私たちは聖書をお読みするとき、むかしはむかし、今は今、と、無意識のうちに分けて考えて、もうそのような奇蹟はこんにち起こることはない、などと考えたりしてはいないでしょうか? それは信仰的な読み方ではありません。同じお方が、同じ全能さをもって、私たちの生きるこの世界においても働いてくださる、私たちはそう信じ受け入れる必要があります。  そして、神さまが全能のみわざをおこなってくださるそのみわざは、ほかならぬ「私のため」、ということを、私たちは信じる必要があります。もし私たちが神さまを求めるならば、その信仰にしたがって、神さまが「ほかならぬ私に」みわざを行なってくださる、このことを信じることです。私たちのことを振り返ってみましょう。私たちはイエスさまを信じ受け入れてから、どれほど多くのみわざを体験させていただいたことでしょうか?  それは、神さまが私たちひとりひとりに特別に目を注がれ、私たちを神の子どもとしてふさわしく取り扱ってくださった、ということです。 全能のみわざを、ほかならぬ私のために用いてくださった、ということです。あなたを特別に選んで、特別に働かれたのです! どれだけすごいことでしょうか? 私たちはその素晴らしさに気づいていますでしょうか?   そこでこの2020年、私たちは信仰をもって神さまに近づいている者として、具体的に求めるべきことがあるのではないでしょうか? いろいろあると思います。私の人生にこのみわざを起こしてください! 私は信じます! そのように願い、具体的に祈るべきことを祈り求めましょう。  繰り返しになりますが、目に見える望みは望みではありません。少し努力すれば必ず達成できることならば、何もこの時間に祈る必要はありません。そうではなく、経済的な必要でもいいですし、努力してもなかなかどうにもならない人格の欠けが整えられることでもいいです。絶望的に思える家族や友人の健康でもいいでしょう。とにかく、祈りましょう。神さまは、その祈りがみこころにかなうものである以上、聞き届けてくださり、かなえてくださいます。  私自身を見るならば、できない、としか思えないでしょう。しかし、イエスさまならば、できないことがあるでしょうか? 何でもできるのです。信仰をもって祈ってみましょう。

みことばを宣べ伝えよう~大宣教命令に学ぶ

聖書箇所;マタイの福音書28:18~20 メッセージ題目;みことばを宣べ伝えよう~大宣教命令に学ぶ 今年の年間テーマは「みことばを宣べ伝えよう」でした。みなさんはどれくらい、みことばを宣べ伝えることができたでしょうか? 私たちクリスチャンにとって、みことばを宣べ伝えること、伝道とは、使命であり、取り組むべきことです。その召命に、この年の終わりに立ち帰り、次なる年こそみことばを宣べ伝えるものとして整えていただくべく、今日みことばをともに学んでまいりたいと思います。  さきほどお読みしたみことばは「大宣教命令」と呼ばれるもので、イエスさまがこの地上を去られるにあたって、弟子たち、ひいては私たちを含むすべてのクリスチャンに遺されたみことばです。伝道に召された私たちは、特に今日のみことばから学ぶことで、主が私たちのことをどのような立ち位置に置いてくださっているか、確かめてまいりたいと思います。   まず、大前提といたしまして、このみことばの原語どおりの構造からしますと、第一に「行って」、第二に「バプテスマを授け」、そして第三に「教えなさい」はすべて分詞であり、これらすべてが主たる動詞である「弟子としなさい」を修飾している形になります。つまり、イエスさまの大宣教命令は、「弟子づくり」が最もメインになる命令であり、「行くこと」、「バプテスマを授けること」、「教えること」はすべて、「弟子づくり」の側面を示したものと言えるわけです。   第一に、私たちは「行って」弟子とすることが求められています。   このとき、弟子たちはまず、聖霊を受けるまで待機することが求められました。しかし、ひとたび聖霊を受けたならば、エルサレムにはじまり、ユダヤとサマリアの全土、そして地の果てにまで証人となるべく遣わされました。この働きはもちろん、十二使徒で完結するものではなく、その後を引き継いだ世界中のすべてのキリスト教界が、2000年にわたって実践しつづけたもので、その歴史の果てに私たちの教会があることになります。  さて、それでは、私たちはこの地に遣わされて、それで終わりなのでしょうか? 決してそうではありません。聖霊なる神さまは、なおも私たちを遣わそうとしてくださっています。  しかし、私たちはもしかして、聖霊の導きによって「行く」ということを、何か特別なことのように捉えたりしてはいないでしょうか? ある日突然聖霊さまが霊感に示して、遠いアフリカの国に行くように導かれるとか? そういうことも、ない、とはいいませんが、しかし、私たちが普段の生活の中で体験する聖霊さまの導きは、もっとさりげないものです。考えてみましょう。私たちに生活できる環境があるということは、私たちのことを未信者とのふれあいの現場という「宣教地」に、聖霊さまが送り出してくださっているということです。みなさんはそういう意味で、聖霊の強い力に促されて世界宣教に出ていった初代教会の働き人たちと、何ら変わるところがないのです。  要は私たちが、聖霊なる神さまによって遣わされているという自覚を持ち、聖霊の満たしをいただいてこの世界に出ていくことです。私たちの教会がディボーションと聖書通読を奨励しているのはなぜでしょうか? 聖書を学ぶことで自分の霊的ステージを上げて、ほかの人と差をつけるためでは、決してありません。みことばに耳を傾けることで聖霊なる神さまの御声と導きに敏感になり、今日はだれに遣わされているのか、今日はどこに遣わされているのか、その自覚をもって一日の働きに取り組むためです。聖霊に遣わされる体験を毎日できるなんて、これ以上素晴らしい生き方があるでしょうか!  私たちは聖霊の宮です。聖霊の器です。自分を低く見積もってはなりません。私たちは神さまの働きに用いていただけるのです。そういう者にしてくださるために、今日も神さまは私たちに、みことばによって強い動機づけを与えてくださいます。従順にお従いし、用いられる祝福をいただいてまいりましょう。  第二のポイントです。私たちは「バプテスマを授けて」弟子とすることが求められています。  私たちはなぜ、それぞれの生活の現場に「行く」必要があるのでしょうか? それは「バプテスマを授ける」ためです。  バプテスマを授けるために必須なのは、信仰告白に導くことです。自分が罪人であるゆえに、このままでは神の怒りに触れる存在であることを自覚させること、その罪の罰をイエスさまが十字架の上で身代わりに受けてくださり、私たちを神の怒りから救い出してくださったこと、イエスさまを受け入れるなら私たちは神の子どもとなり、永遠のいのちが与えられ、天国に入れられること、このことを私たちは、大好きな隣人に宣べ伝えるのです。このことを宣べ伝えてこそ、その人は信仰告白に至ることができます。  問題なのは、私たちがなかなか、そのようにみことばを宣べ伝えることができない、ということではないでしょうか。気になる人がいれば、辛うじて教会に連れてくることならできる、しかし、実際にみことばを宣べ伝えるのは私ではなく、牧師のすることではないか……そのように考えてはいないでしょうか?  しかし、牧師がいちいちみことばを伝えるのは不可能です。みなさんひとりひとりがみことばを伝えなければ間に合いません。そういう点で、私たちは「何を伝えるか」を明確にしておく必要があります。クリスチャンという存在は、日本の社会にはあまりいませんので、珍しがられる存在だということはみなさんも体験していらっしゃるでしょう。それを利用して、私たちの信仰について分かち合うのです。 もちろん何よりも、私たちの生活がすべてにおいて主にお従いするものとなり、主に対してするように人に対してすることを普段から実践することで、人々の前でよい証しを立てておくことが必要になります。そうでなければ、私たちがいかにみことばを宣べ伝えたくても、そのことばを聞いてくれる人などいない、ということになってしまいます。  さて、このみことばは「バプテスマを授け」とあります。これについてもしっかり見ておきましょう。人にバプテスマを授けるには、信仰告白に導くことが必要になることはこれまで見てきたとおりです。しかし、信仰告白に導いてそれで終わりではありません。「バプテスマを授ける」ところまで導くのです。  バプテスマを授けたならば、その人は単に信仰告白したにとどまらず、キリストのからだなる教会のひと枝に加わります。つまり、伝道そのものが宣教における完成形なのではなく、伝道して人を教会に主体的に参加させることが宣教の完成であるわけです。  しかし、この「バプテスマを授ける」という働きは、教会員一人ひとりがそれぞれの場所で担うものではありません。さりとて、バプテスマを授けるのは牧師だから、牧師の働きなのか、というと、それも正確ではありません。「バプテスマを授ける」働きは、教会全体が担う働きです。  そういう意味でいえば、さきほど取り上げた「行って」というのも、教会に属する働きの一環であると言えます。一見すると、私たちは個人個人がそれぞれの持ち場に行っているように見えますが、私たちはキリストのからだなる教会のひと枝ひと枝としてそれぞれの持ち場に行っているわけです。そう考えますと、私たちの家庭も、職場も、学校も、地域社会も、みな教会の「出張所」ともいうべき存在ということになります。  「バプテスマ」に話を戻しますと、人を信仰告白に導き、教会のひと枝に加えることは、教会全体が取り組むべきことです。私たちそれぞれにだれか伝道の対象となっている未信者がいるとしたら、それはその人だけが霊的責任を負うべきではありません。教会全体が責任を負うのです。その伝道対象者の救いのために、教会全体が祈るのです。いざその人が教会にやってきたら、みんなして迎え入れるのです。食事をしてもてなすのです。とにかく、この関係づくりの働き、関係を深める働きは、教会の一部の人が担えばそれで終わりなのではありません。教会全体がひとつとなって、バプテスマに至るまでひとりの人のたましいの責任を担うのです。  そのようにして群れに加わった新しい人が、今度は次の人を迎え入れるべく教会全体でチームをなしていきます。こうして、教会は量的にも質的にも成長することになるのです。  私たち自身を振り返ってみましょう。私たちも教会の働きによって、バプテスマを受けて教会のひと枝に連なる恵みに導かれたのでした。今度は私たちの番です。私たちが次の人にバプテスマを授け、主の弟子とすべく出ていくのです。  第三のポイントにまいります。私たちは「教えて」弟子とすることが求められています。  「エクレシア」の訳語として日本語では「教会」が充てられていますが、改めて見てみましても、よく訳したものだと思います。文字通り「教える会」または「教わる会」です。何を教わるのか、といえば、私たちは聖書のみことばを教わるのです。  それでは私たちは、なぜ聖書のみことばを教わるのでしょうか? 人よりも霊的な知識を増し加えて、いけ好かない人になるためであっては決していけません。私たちが、愛する人になるため、仕える人になるため、そのためにみことばを教わるのです。これが、弟子の歩みです。私たちはイエスさまを信じてバプテスマを受ければ、あとは惰性で教会に通うのではありません。日々みことばを学ぶことで、主のみこころをこの地上に、隣人に対する愛という形で実践するのです。  ここに、私たちが弟子として訓練されるべき理由が生じます。私たちは訓練されずに、どうやって愛することを具体的に実践するのでしょうか? 私たちは訓練されずに、どうやって主のみこころとそうではないものを区別することができるでしょうか?   みなさんが、こんなにも忙しい中で教会にいらしていることの意味をもっと考えなければと思います。私たちは、みことばから教わりたいのです。訓練を受けて、キリストの弟子になりたいのです。そこを履き違えてはなりません。  今年の日曜礼拝はこれで終わりです。しかし、数日経てば元日礼拝をお迎えします。新たな気持ちで、ともに主にお仕えしてまいりましょう。この年末年始が守られ、新年、みこころにかなう歩みを私たちがしていくことによって、イエスさまの再び来られるその日に備えるものとなりますようにお祈りします。

これぞ福音

聖書箇所;イザヤ書53章6節 メッセージ題目;これぞ福音  みなさん、あいさつしましょう、メリー・クリスマス! クリスマスおめでとう、という意味ですが、それでは私たちにとって、クリスマスとはなぜ、めでたいものなのでしょうか? 今日はそのお話をしたいと思います。 みなさんにお伺いしたいと思います。もし自分が今日この世を去ることになったとしても、自分は間違いなく天国に入ることができる、そのような確信に至ったことはありますでしょうか? みなさまならどうお答えになりますでしょうか? もし、その話をぜひ聞いてみたい、という方は、続けて耳を傾けていただければと思います。正しい答えをもう知っています、という方は、ぜひ初めての方にもその答えがわかるように、メッセージを聴きながらお祈りしていただければと思います。 では、もうひとつ質問させていただいてよろしいでしょうか? 「それでは、もし仮に、仮にですよ、今日あなたがこの世を去ることになったと想像してみてください。天国の入口には神さまが立っています。そして神さまがあなたにこう問いかけられたとします。『もし、あなたがこの天国に入れるとするならば、それはいったいなぜだと思いますか?』」今のみなさまなら、どのようにお答えになるでしょうか? よい行いをすること、でしょうか? いい人になること、でしょうか?  しかし、聖書はほんとうのところ、そのことについてどう語っているのだろうか? それが知りたい、という方は、ぜひ、この話を終わりまでお聞きいただければと思います。  まず、天国というものについてお話しいたします。聖書の語る天国とは、無償のプレゼントです。プレゼント、それはただだから、プレゼントです。努力の報いとか、それを受ける資格があるから受けるものではありません。 プレゼントなのですから、私たちはそのために何か特別に努力したりする必要はありません。することはただ、受け取ることだけです。このことについては、聖書が人間について何と語っているかを理解すると、よりはっきり理解できます。  人間とはどんな存在であると、聖書は語っていますでしょうか? 聖書は人間を、罪人、と呼んでいます。罪人、という表現をお聞きになった方もいらっしゃると思います。みなさんは罪というと、どのようなことを連想しますでしょうか? 人のものを盗んだり、人を傷つけたり、そのようなこともたしかに「罪」です。しかし聖書が語る罪はそれだけではありません。しなければならないとわかっているのにしない、これも罪です。人に親切にしなければならないときにしなかった、学生だったら、勉強しなければならないのにしない、とか。そういうことも聖書は、罪と語っています。  それだけではありません。心の中で犯す罪というものもあります。あいつなんていなくなってほしい、と、心の中でのろうことも。男の人の場合は、いやらしい思いを持って女の人を見たり、とか。そういうことも聖書ははっきり、罪、と語っています。 そういうことまで罪に含めるとしたら、どんな聖人君子のような人であっても、まことに罪人というしかないのではないでしょうか。  それでは、この罪は、なんとか努力してよい行いをすれば帳消しにできるのでしょうか? しかし人間は、よい行いをしたからといって天国に行けるわけではありません。この問題については、次に聖書が神さまというお方について何と語っているかを理解していただくと、より明確に理解していただけます。 まず、神さまは愛なるお方です。神は愛です、と聖書は語っています。神さまは愛ですから、私たちをさばきたくないのです。 しかし、神さまは正義なる方でもあります。だから私たちの罪をさばかなければなりません。しかし、そうだとすると、いったい私たちのうちで、さばかれずに済む人などいるのでしょうか? 義人はいない、ひとりもいない、これが聖書の宣言です。だれもさばかれなくて済む人はいません。しかし、神さまは愛なるお方です。私たちをさばきたくありません。 方法はあるのでしょうか? あるのです。この問題を解決するため、神さまはイエス・キリストを送ってくださいました。 キリストとはどのようなお方でしょうか。無限なる神さまであり、また、人です。人となってこの世界に来られた神のひとり子、それがイエスさまです。 イエスさまは何をしてくださったのでしょうか? イエスさまは、十字架の上に死なれ、そして死からよみがえることによって、私たちの罪の代価を支払い、天国に私たちの場所を買い取ってくださったのでした。 しかしイエスさまは、十字架で罪を背負って死なれて、それで終わりではなかったのです。イエスさまは十字架にかかって3日目に復活されました。そして、天に昇られて、今は父なる神さまの右の座で私たちのためにとりなして祈ってくださっています。 イエスさまがこのようにしてくださったことで、神さまと私たちの間に隔ての壁となっていた罪が取り除かれました。そして、私たちは神さまと和解し、つながる道が開かれました。 では、このプレゼントを、私たちはどのように受け取るのでしょうか? 聖書は、信仰によってそれを受け取ると語ります。私たちを救いに至らせるまことの信仰とは、救いの根拠と信頼をイエス・キリストに移すことです。 では、天国というプレゼントを受け取るのにふさわしい信仰は何を含むのか、明確に4つのポイントにまとめると、次のとおりになります。 一番目は、救いの根拠と信頼をキリストに移すことです。これは、すでに椅子のたとえでみなさんにお伝えしたとおりです。 二番目は、復活し、今も生きておられるキリストを、救い主として受け入れることです。イエスさまは単なる歴史上の人物ではありません。十字架に死なれましたが、復活され、今も生きていらっしゃいます。このお方が自分のことを罪から救ってくださる救い主であると受け入れるのです。 三番目は、キリストを人生の主として受け入れることです。救われたらそれで終わりではありません。心の中心にキリストをお招きし、キリストに人生を導いていただくのです。 そして四番目は、悔い改めることです。悔い改めるといっても、「ああ、自分はなんて愚かなことをしたんだ、バカバカバカ!」などと自分を責めることとはまったくちがいます。それは「悔い」であって「悔い改め」ではありません。「悔い改め」とは、罪深い自分を悔いて、罪のない神さまに向きを改め。方向転換することです。 いかがでしょうか? クリスマスとは、このようなみわざを成し遂げてくださったキリストが来られたことをお祝いする日です。私たちも心からキリストをお迎えするとき、人生には大きな祝福が訪れます。

インマヌエルを祝う

聖書箇所;サムエル記第二6:12~23 メッセージ題目;インマヌエルを祝う クリスマス、私たちの救い主、イエスさまの誕生をお祝いする日です。来週日曜日はいよいよ、クリスマス礼拝の日です。その日私たちは、どんなに喜ばしく礼拝をおささげすることでしょうか! イエスさまのお誕生を預言したみことば、イザヤ書7章14節は、このように語ります。 「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女がみごもって いる。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」インマヌエルとは、神はわれらとともにおられる、という意味です。神の子イエスさまは肉体を取って人となられ、人々の間に住まわれました。まさに、ともにおられる神であり、このお方がお生まれになることが、イエスさまがお生まれになる700年以上も前に預言されていたのでした。 この、ともにおられるイエスさまのお誕生をお祝いするのがクリスマスですが、私たちはともにおられるイエスさまの、その臨在の御前に、どのような姿勢で進み出るべきでしょうか? さきほどお読みいただいたみことばは、一見するとこの「インマヌエル」なるイエスさまと関係がないように見えますが、実は大いに関係があります。そのことを以下説明したいと思います。 ダビデが運び入れたのは、神の箱というものでした。神の箱は、神の臨在の象徴です。モーセの時代に、神の律法にしたがって、すでにつくられていました。これは礼拝の対象となる偶像のようなものではありませんでしたが、イスラエルはこの神の箱をとても大事にしておりました。 神の箱とは神さまの臨在そのものとも言うべき存在でした。単なる象徴を超えた存在です。そういう点で神の箱とは、インマヌエル、神はわれらとともにおられる、と唱えられるイエスさまの予表、さきがけとも言える存在です。 このたび迎えるクリスマス、それがインマヌエルなるイエスさまのお誕生をお祝いすることであるならば、私たちもそのお祝いに馳せ参じる礼拝者として、このダビデの祝宴から学ぶことができます。この祝祭を巡る3つの立場から、私たちはいかなるお祝いをするのがふさわしいか学びたいと思います。 第一にダビデの立場、それは「礼拝に導く人」です。 この祝祭を主導しているのは、祭司のような宗教指導者ではありませんでした。ダビデでした。ダビデが王としてのリーダーシップを発揮しつつ、この祝祭を導いていたのでした。 しかし、ダビデは王としての権威をまとった形で、この祝祭を導いていたのではありませんでした。亜麻布のエポデを身に着けていた、とあります。王服ではありません。祭司としての服装です。祭司、つまり礼拝者として、神さまの臨在の前に出ていっていた、ということです。 しかし、このエポデは祭司が身に着けるようなきらびやかなものではなく、亜麻布でできていました。亜麻布のエポデといえば、まだ幼い日のサムエルが祭司の見習いとして身にまとっていたものでもあります。つまり、王さまとはいえ、子どものような礼拝者、主に仕える者としての姿勢を、その服装からして存分に示したのでした。 あなたがたは、王である祭司、というみことばが、ペテロの手紙第一にあります。王である祭司、これが私たちなのです。まさに、王であり祭司である姿で神さまの御前に出たダビデの姿は、この私たちの象徴とも言えます。 さて、では、主の民を祝祭に導くダビデの立場は、教会に当てはめればだれになるでしょうか? 私はここで、祝祭に導くダビデとは、私たちひとりひとりであると申し上げさせていただきたいのです。今申し上げましたとおり、あなたがたは王である祭司、と語られている以上、私たちは王の役割を果たし、祭司の役割を果たす存在です。そんな私たちは、このダビデを模範とするのです。そのダビデが民を導いて、率先していけにえをささげ、力のかぎり喜びおどるならば、私たちひとりひとりこそが人々を祝祭に導く存在と言えるはずです。 イエスさまのお誕生、インマヌエル、主が私たちとともにいてくださる、ということは、私たちにとって、人々を喜びに巻き込みたくなるほどの大きなできごとです。あの、民に率先して跳ね回るダビデは、私たちの目指す姿なのです。このクリスマス、すでにイエスさまによって救われている者たちとして、人々を喜びに導き、喜びに巻き込む礼拝を率先してささげる私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 第二の立場です。それは民の立場、ともに礼拝をささげる人々です。 ダビデはこの、主の箱を運び入れることを、ひとりで行なったのではありません。イスラエルの全家とともに、群衆とともに行いました。つまりこれは、王家の祝福にとどまることではなく、イスラエル全体の祝福ということであったのです。イスラエルはこの祝福をいただいているものとして、ダビデの町に集まり、ともにこの祝祭に参加したのでした。 ともに礼拝をささげる人たちも、いろいろな人たちがいました。神の箱を担ぐ祭司たち、角笛のような楽器で賛美を盛り上げる人たち、祭壇をつくる人たち……しかしなんといっても、だいじなのは、ともに礼拝をささげ、盛り上げる群衆たちでした。ここでわかることは、礼拝において奉仕者とともに大事なのが、そのものずばり、「礼拝者」の存在、ということです。 私たちは普段の生活において、自分が礼拝者であるという意識を持っていますでしょうか? 当教会は何年にもわたって、聖書通読を奨めてまいりましたが、それは、普段の生活においても、私たちがみことばの前に整えられ、きよい、生きた供え物として人生を送ることを願っていらっしゃる神さまのみこころにお応えすることを目指すからです。私たちの生き方そのもの、それが礼拝というわけです。 その礼拝の究極のかたち、それが、今こうしてともにおささげしている礼拝です。安息日として、この日曜日、主の日を聖別し、しっかり礼拝をおささげすることで、私たち主の民がともに礼拝者の群れとして整えられるのです。 さて、このように神の箱の前で歓声を上げた民のことをもう少し考えてみましょう。彼らはひとりでは、このような礼拝をささげることはできませんでした。ともに! これが大事なのです。礼拝は、ひとりでつくるものではありません。もちろんそれは、礼拝というものが信徒のみなさんのいろいろな奉仕を必要としているということでもあります。しかしそれ以前に、礼拝開始の時間からともに礼拝をささげる、このことがとても大事であると、あらためて申し上げさせていただきたいのです。あえて多くのことを要求することはいたしません。ともにその場に座り、礼拝をささげるだけで充分です。インマヌエルなるイエスさまがともにいてくださっているという喜び、それを礼拝という場でみなさんが体験してくださるならば、こんなにうれしいことはありません。 第三の立場、それは、ミカルです。礼拝をささげず、冷笑的になる人です。 ミカルは、このパレードが入ってきたとき、どこにいたのでしょうか? 窓から見下ろしていた、とあります。高い所にいて、そこで心の中でダビデのことをさげすんでいたわけです。まさに、上から目線です。そしてミカルは、ダビデを心の中でさげすむにとどまりませんでした。戻ってきたダビデに、言い放ちました。20節です。…… ミカルとはもともと何者だったのでしょうか。先王サウルの王女です。サウル王の王女として、蝶よ花よと愛でられてきた人です。それだけプライドもありました。かつては勇士として名を馳せるダビデに惚れて結婚した者でしたが、その愛情はサウル王家の王女としてのプライドに勝つことはありませんでした。裸踊りする王さま? くだらないわ! ダビデは、そんなミカルの心を見抜いていました。それで、このように言いました。21節です。……ダビデは、ミカルの父親であるサウル王、そしてミカルの属する家系を精いっぱい尊重しつつ、それでも私を王として選んでくださった神さまの御名をほめたたえ、喜び踊るのであると語ります。 それに続きダビデは、ミカルのさげすむことばを引き取るようにして、逆説的なことを語ります。22節です。……私は神さまの前に、もっと、もっと、子どものようになるだろう。あなたはますます、そんな私のことをさげすみ、卑しめるだろう。しかし、あなたの言うところの女奴隷たちは、そんな私のことをますます敬うのである。 女奴隷たちは、自分が低くされていることをよくわかっています。そんな彼女たちは、神さまが素晴らしいあまり、自分のところにまで、いや、自分より低いところにまで下りてきてくれるダビデのことを、なんてすばらしい王さま! と、敬わずにはいられないのである、ということです。その尊敬の念は、王女であり、王妃であることを鼻にかけて、夫である王のことも見下すようなプライドの塊ミカルには、決して湧き上がってこないでしょう。 23節、6章を締めくくるみことばによれば、ミカルには死ぬまで子どもがなかった、とあります。当時のイスラエルの常識からすれば、子どもがないということは恥でした。神さまの祝福が臨んでいない、ということを象徴するようなことです。このことは、2つの可能性を考えさせます。ひとつは、このミカルの発言がきっかけで、神さまはミカルから子をなすという祝福を取り去られた、ということ、もうひとつは、このできごとをきっかけにダビデとの間の愛情がすっかり冷め、もはや夫婦関係を持つどころではなくなってしまった、ということです。 しかしいずれにせよ、このようなことを考えるミカルから、ダビデとサウルの血を同時に引く子どもが生まれなかったことは事実であり、それは考えようによっては祝福でした。このようなミカルに育てられた王子は、いったいどのような子どもに育つでしょうか。それが長じてイスラエルを治める王になったら、イスラエルはいったいどうなったことでしょうか。 さて、ミカルにおける、神の臨在インマヌエルに対する冷笑的な態度、これはなんと、約1000年後に、そっくり同じ場所、ダビデの町で繰り返されることになりました。ダビデの町、そう、それはベツレヘムです。この時もダビデの町は、人々であふれていました。しかしそれはイエスさまのお誕生をお祝いするためではなく、ローマ帝国の住民登録という、至って人間的な用件を人々が済ますためでした。この人々はみな、その本籍地がベツレヘムにあったということは、先祖はこのダビデの町の人だったということであり、この神の箱が運び込まれたとき、その盛り上がる群衆の中に、彼らの先祖はいたということになります。しかし時が下り、ほんとうのインマヌエルなるイエスさまがベツレヘムに来られたとき、人々は宿屋の部屋を譲ってあげることさえしませんでした。暗くて汚い馬小屋に、救い主を追いやったのです。 これが、人というものの姿です。救い主が生まれようと、神さまがインマヌエルの恵みをくださろうと、人はとても冷笑的なのです。ダビデの町ベツレヘムで、インマヌエルなる神の臨在を前にしても冷笑的な態度を取ったミカルは、1000年後の、イエスさまを受け入れなかったベツレヘムの人の姿であり、さらにそれから2000年後の私たちの姿ではなかったでしょうか。ほんとうならインマヌエルの恵みの前に喜びおどるべきなのに、喜ぶこともせず、心が覚めてしまっている。関係ないよ、勝手にやれば? という態度になってしまっている。私たちはいつの間にか、そんな中で、ただ年中行事だからという理由で、惰性のようにクリスマスをお祝いすることで済ませてはいなかったでしょうか? イエスさまは、そんな私たちなのをすべてご存知の上で、それでもそんな私たちを赦すため、十字架にかかってくださるために、この世界に生まれてくださいました。何と大きな愛でしょうか! そして、なんともったいないことでしょうか! これほどまでに私たちは神さまに愛されています。こんな私たちと、イエスさまは一緒にいてくださいます。インマヌエルの恵みです! このクリスマス、ともに喜びましょう!

罪人の企てと神のご介入

聖書箇所;創世記11章1節~9節 メッセージ題目;罪人の企てと神のご介入 なぜ世界にはさまざまな言語があり、それを身に着けるのはとても難しいのでしょうか? 聖書はちゃんとその理由、というより、そのいきさつを語っています。それが今日のみことば、バベルの塔にまつわるできごとです。 さあ、それでは本日の本文を、いつものように3つのポイントから学んでまいりたいと思います。 第一のポイントです。罪人の企ての動機は、「名をあげる」ことです。2節を見てみますと、彼らはシンアルの地に土地を見つけて住んだとあります。このシンアルの地というのは、10章に登場する「ニムロデ」という人物によりつくられた王国を含む場所です。つまり、この創世記11章のお話は、ニムロデが王国を立てたことに端を発します。 ニムロデという人物は、「主の前に力ある猟師ニムロデのように」という慣用句を生むような人物だったと創世記10章は語ります。以前の翻訳では「主のおかげで」と訳されています。しかしこの「主の前に」とか「主のおかげで」ということばは、ニムロデが謙遜に主にお従いする者であったという意味ではありません。むしろその逆で、ニムロデは神への反逆者でした。ニムロデという名前が「反逆する者」という意味を持ちます。 どのように反逆したのでしょうか? ニムロデは地上で最初の勇士であったとありますが、勇士ということは、戦争を行う人間です。ニムロデは地上で最初の勇士、というわけですから、つまりニムロデは、ノアの子孫として主にあって平和を保つべき人類の世界に戦争をはじめて持ち込んだ人間、ということになります。それほど、神のみこころに不従順で、反逆した人物、というわけです。 その、ニムロデの治めた地が、のちにイスラエル王国を滅ぼしたアッシリア、ユダ王国を滅ぼしたバビロンにつながっていることが、すでに創世記10章に示されているのを見ると、ニムロデとはまさしく、神さまに反逆する者の根源、権化ともいうべき存在です。しかし、かの慣用句は、そのような主への反逆により権力を得た者も、所詮は全能なる主の御力によってその力が許されているにすぎない、ということです。地上の権力者、恐れるべからずです。 さて、ニムロデの建てた町に集まった者たちは、何を話し合ったのでしょうか? 3節と4節です。 彼らは町を建てたのみならず、塔を建てました。ジッグラトという、宗教的な施設のことであろうということが、聖書学者たちの間で一致しています。これは巨大な建築物ですが、創世記におけるもうひとつの巨大建築物というと、なんといってもノアの箱舟です。しかし、ノアの箱舟とこの塔には、決定的な違いがありました。それは「神さまが命じられて建てたものか否か」ということです。神さまが建てろとおっしゃらなかったのに、人は建てたのです。その理由は、「自分たちのため、名をあげるため」であり、「全地に散らされないため」でした。 その目的は完全に、神さまへの不従順です。人は、神さまの栄光を現すために生きる存在なのに、自分たちのため、自分たちの名をあげるために取り組んでいます。それも、地に満ちよ、という、神さまのみこころに反抗して、全地に散らされず、ひとつにくっついていようとするためです。 その結果彼らがしたことは、天地万物をおつくりになり、治めておられる神さまではない宗教的な存在に届けと、偶像の神殿をつくることでした。そして、どういうわけだかそのような偶像の神殿は、壮麗、壮大になるものです。実際、煉瓦とアスファルトという新技術で立てられたその塔は、相当な威容を誇ったことでしょう。 しかし、それがどんなに素晴らしくても、目的が神への反逆であり、神ならぬ自分の栄光のためであるならば、それをみことばは、罪、と呼びます。このときシンアルの人々は、自分たちは素晴らしいことをしているつもりになっていたかもしれませんが、していたことは罪の行いそのものでした。 私たちはどうでしょうか? 何の目的で生きていますでしょうか? 私たちは何に優先順位を置いて生活していますでしょうか? 神さまは私たちの生きる目的、生き方そのものをご覧になります。私たちの働きがほんとうに主のみこころにかなうものとなっているか、どこかで立ち止まって祈りつつ、主に問いかける時間が必要です。私たちは主に愛されているかぎり、主はもし、私たちの生き方ならびに生きる目的が間違っているならば、必ず気づかせてくださり、主の栄光を現すという正しい生き方に立ち帰らせてくださいます。 第二のポイントです。神のご介入される方法は、人を罪により一致させないことです。6節と7節のみことばをお読みします。……人とは、その企てることでできないことはない存在である、と神さまは語っていらっしゃいます。人とは、かくもすごい存在です。 しかし、ここで神さまが語っておられるおことばをもう少し詳しく見てみますと、「このようなことをし始めたならば」とあります。そうです、「このようなこと」ということばがだいじになります。つまり、「天に届くような巨大なジッグラトを建てて、創造主なる神さまに反抗する」企てを人が始めたら、それをとどめることはできない、ということです。そういう目的で人が知恵と技術を結集したら、何でもできてしまう、ということです。 人間の知恵と技術というものは偉大なものに思えてきます。いみじくも神さまが、できないことは何もない、とおっしゃったとおりにすべてが進んでいることを、私たちはこの21世紀という時代に生きていて、いよいよ実感させられています。しかし、人はいったい、その知恵と技術をどこに、何のために用いようとしているのでしょうか。 この塔を建てた人々の時代から、その知恵と技術を先鋭化させて一致する試みは、すでに始まっていました。しかし神さまはそこにご介入されました。それは「ことばを混乱される」ということを通してでした。 この、シンアルの地に塔を建てていた者たちにとって、ことばとは、神さまへの反逆をともに成し遂げていくために互いをつないでいた、コミュニケーションの手段、絆ともいうべきものでした。ことばを介して塔の建て方を話し合い、ことばを介して塔を建てる目的を確認し合っていたわけです。神さまはことばなるお方です。ことばとは実に、神さまと交わりを持つための手段であり、人々が神さまにあって交わりを持つための手段です。それが、人が神さまに反逆し、そのために互いを一致させるための手段として用いられたということならば、神さまのなさることは、いまや罪の絆として用いられてしまったことばというものに、混乱という名のくさびを打ち込むことでした。 それは、神さまのさばきというよりも、神さまの愛のゆえでした。人が罪によって一致するならば、またもやノアの洪水前夜のような罪に満ちあふれた世界が展開することになることは充分予想されます。しかしもはや、神さまはそんな世界を破滅的なさばきで打つことをしないと、ノアと契約を結ばれた以上、滅ぼすわけにはいきませんでした。するとますます、人は罪にまみれ、神さまと愛の関係を結ぶことなど決してできないまま増え広がることになります。神さまが人のことばを混乱させられたのは、人が罪によって一致し、神さまに反逆したまま生きつづけることのないようにされるためでした。 罪というものは、人を一致させるすさまじい力があります。あの、振り込め詐欺を行う者たちの悪知恵とチームワークの巧妙さをご覧ください。凄まじすぎて見ているだけでうすら寒いものを感じます。それは半グレのレベルにとどまらず、私たちの生活するあらゆる領域で、そのような不正による一致、罪による一致というものを見ることができるのではないでしょうか? それでは私たちは、何をもって一致するのでしょうか? 私たちがもし、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢という罪の性質で一致して教会形成をするならば、主のみからだとしてとてもふさわしくない共同体をつくってしまうことになります。それは、とても人間的に過ぎる共同体であったり、いわゆるカルトのような強迫観念に満ちた不健康な共同体であったりします。私たちが一致するのは、日々お読みするみことばによって、そして、日々私たちを祈りへと導く聖霊なる神さまによって……それによって私たちは一致する必要があります。神さまはそのように一致する私たちに、かぎりない祝福を与えてくださると信じていただきたいのです。罪による一致を捨てて、みことばと御霊による一致へと日々導かれる私たちとなることができますように、主の御名によってお祈りいたします。 では、第三のポイントです。罪人の企ては、神のご介入に最終的に負けます。8節、9節をお読みしましょう。……そうです。人は、罪により一致し、その場で創造主なる神さまに反逆しつづける罪の生活をすることを希望しましたが、神さまはそんな彼らのことを散らされました。 これにより神さまのみこころである、生めよ、増えよ、地に満ちよ、というご命令は達成されることとなりました。このご介入によって、人は全地に散るものとなり、そこで子どもを産んで増えるからです。しかし、神さまのご介入は、それ以上の効果をもたらしました。それは、罪によって一致しようとする人の企てが壊されたことです。 神さまはこのお取り扱いをなさるために、人のことばを混乱させられました。では、ことばとは何でしょうか。人と人とをつなぐコミュニケーションの道具です。ことばが通じなければ、人はどんなに一致してことを行おうとしても、できません。それ以前に、ことばの通じない者と何か一緒に事を行おうと思うものでしょうか。こうして人は、もはやバベルの塔を一緒に建てようと考えるのをやめ、ことばの通じる者どうしで集まり、全地に散って行ったのでした。 このことからわかるのは、神さまに反抗しようとして一致する人の企ては、最終的には神さまのご介入によって壊される、ということです。 この世界には、聖書に啓示された神さまのみこころを壊そうとする試みが、たくさん存在します。技術革新は日々なされていて、それはとても素晴らしいことのように思えますが、それが神さまのご栄光を現すという目的でなくてなされているとしたらどうでしょうか。 私たちはそういう世界に生きている現実を認める必要がありますが、とはいいましても、私たちはそのような環境に生きていることを、過度におっかながる必要はありません。なぜならば、大多数の人を一致させているそれらの反キリスト的な企ても、まことの神さまの御手にかかればあっけなく崩れ去るものであるからです。 終わりの日になると、私たちはキリストの名のゆえに苦しむことも、今まで以上に多くなるでしょう。しかし彼ら反キリストは、からだを殺せても、たましいを殺すことのできない存在にすぎません。 私たちキリストにつく者は、彼らを恐れてはなりませんし、また恐れる必要もありません。主は、からだもたましいもゲヘナで滅ぼすことのできるお方です。彼ら反キリストが、この世界に対して悪のかぎりを尽くし、好き勝手なことをしようとも、最終的には神さまが彼らのからだもたましいもゲヘナで滅ぼしてしまわれます。恐れるべきは、そしてお従いするべきは、この絶対的な権威を持っていらっしゃるお方、神さまです。 新聞やニュースでは、世界や日本の残酷な現実、また、何が起こるかよくわからない現実を毎日見せつけられます。それは私たちをとても不安にさせるでしょう。しかし、私たちは不安なままでいなくてよいのです。大波の上を歩かせてくださるイエスさまを見つめて近づくならば、私たちは安全です。人の企ても、この世のありとあらゆる環境も、永遠なる神さまの前にはすべて有限、限りあるものです。 私たちがそれでも何か、言いようもない恐れに取りつかれているならば、イエスさまを見つめましょう。イエスさまはこの罪の世界から私たちを救い出し、神さまのものとしてくださいました。それゆえにイエスさまは私たちひとりひとりに、「恐れるな」と言ってくださいました。イエスさまの御声を聞きましょう。この世のあらゆる企て、罪人の企ては、永遠なる神さまのご計画の前には完全に負けます。今私たちはディボーションで、ヨハネの黙示録を毎日読んでいますが、これは人の終末意識をあおって恐怖に陥れる書物ではなく、神さまの完全な勝利を高らかに宣言した書物です。神さまの勝利、キリストの勝利は、私たちのものです。確信を持って歩み出し、日々の歩みにおいて、絶対的な勝利を体験しましょう。

神の子となる特権

聖書箇所;ヨハネの福音書1章9~13節 メッセージ題目;神の子となる特権 聖書では、光とはイエスさまのことを指し、また、イエスさまという光をこの闇の世に照り輝かせる私たちのことを指しています。この「光」をめぐって、三者三様の立場がこのみことばに登場します。順を追って見てみましょう。   一番目に、光を照らすお方、イエスさまです。9節のみことばをお読みします。……世を照らすことは、主のみこころでした。この世はいつも、人の思い図ることは悪に傾きます。それは、人が罪人だからです。罪を犯すから罪人なのではありません。罪人だから罪を犯すのです。  このような世界は、それこそノアの時代の洪水のような全地球規模の災害により、何度滅ぼされたとしても当然でした。しかし神さまは、ノアと結ばれた契約ゆえに、この地をそのような破滅にあわせることをなさらないと約束されました。その代わりにしてくださったこと、それは、ひとり子イエスさまという光によってこの地を照らしてくださることでした。   イエスさまは、すべての人を照らすまことの光であると聖書は語ります。イエスさまという光によって、この世界の暗やみに閉ざされていた人々は照らされ、まことのいのちの道を歩みます。  そのように、神さまが人々をイエスさまという光で照らされるのは、この世界が暗やみのままであってはいけない、というみこころゆえでした。考えてみましょう。私たちの子どもたちが、光を避け、暗やみの中に生きることを、果たして私たちは望むでしょうか? 神さまのみこころも同じことです。光をつくられた主は、ご自身が愛をもってつくられた人間たちが、イエスさまという光のうちを歩むことを願っていらっしゃいます。 人は神のかたちにつくられているので、神さまのみこころどおり、この世をよくしていきたい本能が与えられている。その現れとして、医学においても産業においても哲学においても、優秀な指導者が現れ、この世が決定的に悪くなるのを防いできた、とも。それでも人の努力で世の中をよくしていくには限界があります。 といいますのも、やはり人の心の思うことは、はじめから悪であるとおり、人の力ではこの世をよくしていくには限界があるからです。神さまはそのような世を憐れんで、まことの光であられるイエスさまを送ってくださり、この世を明るく照らすというみこころを示されたのでした。 しかし、このように世界をイエスさまという光によって照らしてくださった神さまのみこころを、人はどのように受け取ったのでしょうか? 二番目に、光を拒んだ存在、世について見てみましょう。まず、10節を見てみましょう。……そうです。この世は、イエスさまという光を知らなかったとあります。   知らなかったのはなぜでしょうか? イエスさまではないものを、光と見なして生きていたからです。といいますよりも、そういうイエスさま以外のものを光と見なして生きる方が、彼らには都合がよかったからです。イエスさまの時代の宗教指導者たちをご覧ください。あれだけ聖書に通じていたはずの人々が、いざ神の御子イエスさまを前にしても、そのお方がまことの光であることがわからなかったのです。彼らは頑なになり、民衆がイエスさまのことを救い主と言おうとも、このお方が神の子であることを、頑として認めませんでした。   彼らにとって光とは、自分たちの教え、言い伝えであって、それらの物は一見するととても神がかっていて、有難い教えのように思えます。しかし実際のところは、人を立て上げるどころか、人を罪に閉じ込め、落ち込ませる教えです。それでも、その教えの中に民衆を閉じ込めておくかぎり、宗教指導者たちは安全です。イエスさまはそんな彼らのことを偽善者と呼ばれ、天国の鍵を持ち去ったと激しく非難されました。   そのようにしてイエスさまがわからなかったということは、どのような結果を生んだのでしょうか? 11節です。イエスさまはユダヤに来られました。神さまを王とすることに誇りを持った国、神の民であることに誇りを持った民のところです。しかし彼らはそのアイデンティティに反して、結局のところ、神の子なるイエスさまを受け入れなかったのでした。彼らは、一時(いっとき)はイエスさまを救い主と受け入れたように見えましたが、彼らのしたことは、声を合わせてイエスさまを十字架につけるようにと訴えたことでした。彼ら群衆こそがイエスさまを十字架につけたようなものです。 民がイエスさまという光を受け入れない、それはまさに、イエスさまを十字架につけて亡き者にしたほど拒絶したということです。しかし、このようにイエスさまを拒絶するということは、その時代にかぎったことではありません。イエスさまの時代以来2000年にわたって行われてきた宣教のわざにおいて、いったいどれほどの人が、イエスさまを拒絶してきたことでしょうか? しかし、世の勢力が支配しているかぎり、イエスさまという光に照らされることを人々が嫌がるのは当然のことなのです。  いえ、過去や現代だけのことでしょうか? 未来においてもそうなのです。今私たちは、毎日のディボーションのみことばで、ヨハネの黙示録を通読しています。ヨハネの黙示録は、第一義的には迫りくるローマ帝国の滅亡を預言した書物ですが、巨視的に見れば、これが私たちの生きるこの世界の終わりを預言した書物であることを疑うクリスチャンはいないでしょう。このヨハネの黙示録を見ると、どれほどの災害に合おうとも人々が決して悔い改めない、その頑なな様子がこれでもかと描写されています。全知全能なる神さまが未来を見通されたレベルにしてそうなのです。私たちはそれでも世の終わりのリバイバルを願いつつ宣教に励むものですが、世界は最後までイエスさまを拒絶する者たちで満ちることもまた、私たちは受け入れる必要があります。   しかし、それなら私たちは絶望したままでいなければならないのでしょうか? 決してそうではありません。三番目、光を受け入れた存在、私たちについても、聖書は語っています。12節をお読みしましょう。……ご覧ください!「神の子どもとなる特権」です! 全知全能なる神さまを「お父さん」と呼べること、それはどれほどの特権でしょうか!  そして、天のお父さんのものは、みな私のもの、ということにもなります。すごいことです。私たちは、天の御国の王子、王女であり、やがてイエスさまとともに御国を継ぐ者です。   しかし、この御国の世継ぎはだれでもなれるものではありません。この方、つまりイエスさまを受け入れた人、すなわちその名を信じた人、その人が神の子どもにしていただけるのです。   イエスさまを受け入れるということは、イエスさまが神の子であるとか、人の罪のために十字架にかかったとか、そういうことを単なる情報、インフォメーションとして知っていればいいのではありません。「私」が罪人であることを認め、「私の罪」のためにイエスさまが十字架にかかって死んでくださったことを信じ受け入れるのでなければ、ほんとうの意味でイエスさまを受け入れたことにはならないのです。  しかし、人がひとたびイエスさまを受け入れるならば、その人は神の子どもになります。罪が完全に赦されます。過去の罪、現在の罪、未来の罪が赦されるのです。永遠のいのちが与えられ、天国に入れられます。それだけではなく、この地上の生涯を、神の栄光を現して生きようという、何よりも素晴らしい目的が与えられます。  信じるということは、何か難しいことをすることではありません。それこそ、ただ信じることです。しかし、このただ信じることはなんと難しいことでしょうか。私たちはこうして信じることができましたが、それが素晴らしいからと人々に伝道しようとすると、私たちはどんなに、この特権を得られることがやさしいことをいっしょうけんめい伝えたとしても、聞いてもらえないことなどしょっちゅうです。  その秘密は、13節で語られています。……信仰を持たせてくださる、すなわち救いに導いてくださるということは、完全に神さまのご主権の領域です。もし、救いというものが血筋によって得られる者だとするならば、その血筋に生まれた人と生まれなかった人との間に、人間的な差別をもうけてよいということになってしまいます。また、単なる欲望や意志によっても信仰を持つことはできないことをこのみことばは語ります。ただ、神によって、神さまの恵みによって人は信仰を持ち、神の子どもとしていただくのです。  そういうところから、私たちは個人的な回心の体験というものがどうしても必要になります。私たちはみな、聖霊なる神さまによって、イエスさまの十字架を信じる信仰に導いていただいた存在です。私たちはほんとうの意味で家族です。私たちはこの地上においても、天国においても、永遠に変わることのない家族です。 私たちはこの地上を生きるかぎり、神さまを父とする家族としての役割を果たしてまいりたいものです。また、その家族の一員としての生き方を、隣人を愛するという生き方をもって全うしてまいりたいものです。学校でも、職場でも、近所づきあいにおいても、私たちが神の家族、神さまの子どもらしく振る舞うならば、いつしかその愛は隣人に伝わっていきます。その中から、主に召された人は特別な恵みを受けて、イエスさまを信じ受け入れて神の家族に加えられます。  私たちは祈ってまいりましょう。私たちが隣人を愛する人になれますように、また、その隣人とともに、同じキリストのからだなる教会を形づくるビジョンを思い描けますように。主がこのお祈りを聞いてくださると、信じて祈ってまいりたいものです。  イエスさまは、この世を照らす光として来られました。しかし、人はその光を拒みました。罪人ゆえに、その行いが悪く、イエスさまに照らされたくなかったのです。私たちもそのうちのひとりではなかったでしょうか? しかし、私たちはあわれみをいただいて、イエスさまを信じ受け入れる信仰を聖霊なる神さまに与えていただき、天の神さまを父と呼ばせていただく立場、神の子どもとならせていただきました。ほんとうにもったいないことですが、この貴い立場にしていただいたことにただひたすらに感謝し、この一週間も、そして生涯、神の子どもらしく、光の子どもらしく、ともに歩んでまいりましょう。

契約を告げる虹

聖書箇所;創世記9章1~17節 メッセージ題目;契約を告げる虹 今日は虹のお話です。本日お読みいただいたみことばには、そのものずばり、虹が登場します。虹は雨上がりのときにかかります。今日お読みいただいたみことばでも、まさに雨上がり、洪水の過ぎ去ったあとに神さまがかけてくださると約束されたのが、この虹だったというわけです。本日のメッセージでは、「神さまが虹というものをどのように見なされたか」、これを取り上げたいと思います。 第一に、虹とは神さまと人との間の契約のしるしです。 8節から11節をご覧ください。……神さまはノアとの間に契約を立てられました。それは、人はもはや大洪水、それも全地を覆うような激しい大洪水によって滅ぼされることはない、というものです。神さまはノアのゆえに、ノアにつく家族、子孫、そしてすべての生き物との間に結んでくださいました。 私たちが現在、大きな洪水によってことごとく滅ぼされることもなく、こうして生きているのは、神さまがノアとの間に立ててくださった契約によることです。私たちの住む世界の罪深さを思うならば、私たち人間は何度でも大洪水によって滅ぼされなければならなかったのではないでしょうか。しかし、神さまはそうはなさらず、今もなお、私たちのことを忍耐してくださっているのです。 人間は、特にノアのように罪深い世に対して良心を痛めるような善良な人は、この世界の終わりを思っておびえることもあるでしょう。しかし、神さまはそんな人間のために、ひとつのしるしを見せてくださると約束してくださいました。それが、空にかかる虹であったということです。 創世期以来、神さまが人との間に契約を結ぶ場面は数多く登場します。しかしそれは基本的にはすべて同じもので、神さまが一方的なあわれみによって人をご自身の民にしてくださり、まことのいのちを保障してくださる、というものです。 その契約の根底にあるものは、何かをした、という、人の行いによって満たすものではありません。ただ、神さまの側から示してくださる恵みを受け入れ、神さまを信じる、それが人としてすることでした。 それでは、現代を生きる私たちにとっては、この「虹」にあたる象徴は何でしょうか? それはほかでもありません、「十字架」です。私たちは、イエスさまの十字架による罪の完全な赦しを信じる信仰によって救っていただきました。十字架とは、神さまの側で人間に示してくださった契約の条件です。あなたのすることは、ただ信じること、信じることさえすれば、神さまといのちの契約を結んだことになります。あとは私たちのすることとして、神さまのみこころに従順にお従いすることです。 虹の話に戻ります。私たちはここで、「神さまは」虹というものをどのようなみこころでおつくりになったかを考える必要があります。神さまが十字架を信じる信仰によって救いに定められた、そのような者たち、まさに私たちのような者たちが虹を見るとき、私たちが、この大洪水の滅びを免れさせていただいた、救いに定められた者たちであることを思い起こすことを、主は願っておられるということです。人は虹を見て、不思議だと思ったり、美しいと思ったりするだろう、またその虹にいろいろな意味づけをするかもしれない、しかし、あなたたち神の民は、ここでどうか、十字架を信じる信仰によってわたしとの間に結んだ契約を思い起こしてほしい、その神さまのみこころを受け取りたいものです。 ともすると私たちは、神さまとの間に結ばれている契約の絆を忘れてしまいがちなものです。しかしそんな私たちが契約を思い起こせるように、神さまが虹をかけてくださるわけです。 虹がかかるのは、晴れのあとに雨、そして晴れとなるときです。順風満帆のように行っていた人生に思いもかけない土砂降りのような事態が起こると、私たちは神さまの恵みを見失い、わが身を呪いたくはならないでしょうか。しかしその後で、神さまが虹をかけてくださるように、苦難の中から救い出してくださる神さまは、愛しているよ、あなたのことを覚えているよ、と、私たちに虹のしるしを見せてくださいます。創造主なる神さまは、なんと粋なお方でしょうか! 神さまをほめたたえます。 第二に、虹とは神さまが起こしてくださるものです。13節、14節をお読みします。……このことばの主語は、「神」です。虹を起こしてくださる主体は、神さまです。 聖書を見てみますと、天候というものは偶然に巡っているものではなく、神さまが主体的に動かしていらっしゃるものだということがわかります。イエスさまのことばを見ると、神さまはよい人にも悪い人にも太陽を昇らされる、雨を降らせられる、とありますが、これは、あなたの敵を愛し、あなたを迫害する者のために祈りなさい、という教えの根拠となる象徴的な意味ももちろんあります。しかし、それ以前に、神さまは晴れや雨のような、普遍的な天候さえも司って、善人も悪人も養われる、ということを語っているわけです。 そのような中で、虹。もちろん、科学的に虹の成り立ちを説明することもできるでしょう。しかし、その虹を見て、創造主のご存在に行きつける人は、果たしてどれくらいいるでしょうか? 私たちは聖書のみことばが、天地万物を司っておられる創造主のご存在とみこころとみわざを啓示する書物であると信じ受け入れ告白する以上、虹というものもまた、神さまご自身が人間を滅ぼすまいとお定めになった、そのみこころを示すためにおつくりになったものだということを、はっきり認め、告白する必要があります。 そういうことからすると、世の人たちがこの森羅万象を見る視点から、私たちはなんと自由になる必要があることでしょうか! うちの教会は、聖書の記述が真理であることを前提に、創立以来長年にわたり、唯物論的な世界観に戦いを挑みつつ教会形成をしてきました。唯一の神さまがすべてに主権を持っていらっしゃることを前提にした、聖書の世界観に立った教会形成の伝統は、この教会においてしっかり受け継いでいきたいと願わされています。 あらゆるものは神さまが創造された。それも、特別なみこころをもって創造された。虹は特に、滅ぼさないというみこころを如実に示すシンボルである。そのことを私たちはしっかり、記憶しておきたいと思います。 第三に、虹とは人が見るものであるのと同時に、神さまがご覧になるものです。15節をお読みします。……見てください! 虹とはまず、神さまがご覧になるものなのです。虹がかけられる究極の目的は、人間の側にあるのではありません。神さまの側にあります。このことからわかるのは、神さまが人間との間に結ぶ契約は、究極的には神さまの主権によって結ばれるものである、ということです。 天国に招き入れられるには、神さまの基準に達した義人でなければいけないのです。しかし、そんな人などいるのでしょうか? あのノアも、この9章の終わりの部分を見ると、泥酔して裸で寝入るなど、とても義人とは言えないような醜態をさらしています。それが人間というものです。義人はいない、一人もいない、まことに、人間はみな罪人です。 それなら、だれが天国に行けるのでしょうか? 神さまのあわれみをいただいて、正しくないのに正しくしていただいた人だけです。どうすれば正しくなれるのでしょうか? 私たち罪人の身代わりに十字架で罪の罰を受けてくださった、イエスさまの十字架を信じること、これだけです。しかし、このような単純なことさえも、人はしようとはしません。ただ、神さまのあわれみによって選ばれた人だけが、イエスさまの十字架を信じるように導かれるのです。 そうです。神さまと契約を結ぶ人は、神さまによって特別に選ばれた人だけです。人間の側でももちろん、永遠のいのちを得るために、天国に行くために頑張るでしょう。しかしだからといって、それで神さまに選んでいただけるかどうかということは別問題です。人の救いはどこまでも、神さまの主権にかかっています。 ヨハネの福音書1章12節と13節には、このようにあります。……そうです。イエスさまの御名を信じるということは、それぞれの人が神さまご自身によって信仰告白に導かれることによって、初めて可能となることで、神さまはその信仰をご覧になって、私たちをもはや罪人としてではなく、わが子として受け入れてくださるのです。 人はときに、自分がほんとうに救われているかどうかわからなくなるときがあるでしょう。神さまの愛を見失ってしまうとき、どうしても悪い習慣から抜け出せないとき、兄弟姉妹を愛していない、自己中心の自分に気づかされるとき……しかし、そのような私たちでも、神さまによって、イエスさまを信じる信仰に導かれたことは事実です。私たちが神さまから遠ざかってしまったように思えることがあったとしても、神さまが私たちのそばから遠ざかってしまわれることは、決してありません。わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない、と、神さまご自身が言ってくださったとおりです。 私たちがこうして礼拝の場に導かれたのは、日常生活に追われていては見逃してしまうような「虹」を見せていただくことに等しいです。礼拝とは、神さまの側で私たちのために用意してくださった、神さまにまみえる場です。神さまご自身が救われた民と契約を結んでくださっていることを、神さまご自身が思い起こしてくださる、私たちの思い以上に、神さまが私たちに思いを注いでくださっている、それが「虹」をかけてくださった理由であり、いまこうして礼拝の場を備えてくださった理由です。 私たちはどうでしょうか? 振り返ってみて、神さまの側で私たちを決して忘れていらっしゃらない、お見捨てにならないということを、つい忘れ、がっかりしてしまっているようなことはないでしょうか? 今日この礼拝の場は、神さまの側でそんな私たちのことを決してお忘れになっていない、お見捨てになっていない、変わらずに目を留めて愛してくださっていることを思い起こさせていただく場です。