罪人の企てと神のご介入

聖書箇所;創世記11章1節~9節 メッセージ題目;罪人の企てと神のご介入 なぜ世界にはさまざまな言語があり、それを身に着けるのはとても難しいのでしょうか? 聖書はちゃんとその理由、というより、そのいきさつを語っています。それが今日のみことば、バベルの塔にまつわるできごとです。 さあ、それでは本日の本文を、いつものように3つのポイントから学んでまいりたいと思います。 第一のポイントです。罪人の企ての動機は、「名をあげる」ことです。2節を見てみますと、彼らはシンアルの地に土地を見つけて住んだとあります。このシンアルの地というのは、10章に登場する「ニムロデ」という人物によりつくられた王国を含む場所です。つまり、この創世記11章のお話は、ニムロデが王国を立てたことに端を発します。 ニムロデという人物は、「主の前に力ある猟師ニムロデのように」という慣用句を生むような人物だったと創世記10章は語ります。以前の翻訳では「主のおかげで」と訳されています。しかしこの「主の前に」とか「主のおかげで」ということばは、ニムロデが謙遜に主にお従いする者であったという意味ではありません。むしろその逆で、ニムロデは神への反逆者でした。ニムロデという名前が「反逆する者」という意味を持ちます。 どのように反逆したのでしょうか? ニムロデは地上で最初の勇士であったとありますが、勇士ということは、戦争を行う人間です。ニムロデは地上で最初の勇士、というわけですから、つまりニムロデは、ノアの子孫として主にあって平和を保つべき人類の世界に戦争をはじめて持ち込んだ人間、ということになります。それほど、神のみこころに不従順で、反逆した人物、というわけです。 その、ニムロデの治めた地が、のちにイスラエル王国を滅ぼしたアッシリア、ユダ王国を滅ぼしたバビロンにつながっていることが、すでに創世記10章に示されているのを見ると、ニムロデとはまさしく、神さまに反逆する者の根源、権化ともいうべき存在です。しかし、かの慣用句は、そのような主への反逆により権力を得た者も、所詮は全能なる主の御力によってその力が許されているにすぎない、ということです。地上の権力者、恐れるべからずです。 さて、ニムロデの建てた町に集まった者たちは、何を話し合ったのでしょうか? 3節と4節です。 彼らは町を建てたのみならず、塔を建てました。ジッグラトという、宗教的な施設のことであろうということが、聖書学者たちの間で一致しています。これは巨大な建築物ですが、創世記におけるもうひとつの巨大建築物というと、なんといってもノアの箱舟です。しかし、ノアの箱舟とこの塔には、決定的な違いがありました。それは「神さまが命じられて建てたものか否か」ということです。神さまが建てろとおっしゃらなかったのに、人は建てたのです。その理由は、「自分たちのため、名をあげるため」であり、「全地に散らされないため」でした。 その目的は完全に、神さまへの不従順です。人は、神さまの栄光を現すために生きる存在なのに、自分たちのため、自分たちの名をあげるために取り組んでいます。それも、地に満ちよ、という、神さまのみこころに反抗して、全地に散らされず、ひとつにくっついていようとするためです。 その結果彼らがしたことは、天地万物をおつくりになり、治めておられる神さまではない宗教的な存在に届けと、偶像の神殿をつくることでした。そして、どういうわけだかそのような偶像の神殿は、壮麗、壮大になるものです。実際、煉瓦とアスファルトという新技術で立てられたその塔は、相当な威容を誇ったことでしょう。 しかし、それがどんなに素晴らしくても、目的が神への反逆であり、神ならぬ自分の栄光のためであるならば、それをみことばは、罪、と呼びます。このときシンアルの人々は、自分たちは素晴らしいことをしているつもりになっていたかもしれませんが、していたことは罪の行いそのものでした。 私たちはどうでしょうか? 何の目的で生きていますでしょうか? 私たちは何に優先順位を置いて生活していますでしょうか? 神さまは私たちの生きる目的、生き方そのものをご覧になります。私たちの働きがほんとうに主のみこころにかなうものとなっているか、どこかで立ち止まって祈りつつ、主に問いかける時間が必要です。私たちは主に愛されているかぎり、主はもし、私たちの生き方ならびに生きる目的が間違っているならば、必ず気づかせてくださり、主の栄光を現すという正しい生き方に立ち帰らせてくださいます。 第二のポイントです。神のご介入される方法は、人を罪により一致させないことです。6節と7節のみことばをお読みします。……人とは、その企てることでできないことはない存在である、と神さまは語っていらっしゃいます。人とは、かくもすごい存在です。 しかし、ここで神さまが語っておられるおことばをもう少し詳しく見てみますと、「このようなことをし始めたならば」とあります。そうです、「このようなこと」ということばがだいじになります。つまり、「天に届くような巨大なジッグラトを建てて、創造主なる神さまに反抗する」企てを人が始めたら、それをとどめることはできない、ということです。そういう目的で人が知恵と技術を結集したら、何でもできてしまう、ということです。 人間の知恵と技術というものは偉大なものに思えてきます。いみじくも神さまが、できないことは何もない、とおっしゃったとおりにすべてが進んでいることを、私たちはこの21世紀という時代に生きていて、いよいよ実感させられています。しかし、人はいったい、その知恵と技術をどこに、何のために用いようとしているのでしょうか。 この塔を建てた人々の時代から、その知恵と技術を先鋭化させて一致する試みは、すでに始まっていました。しかし神さまはそこにご介入されました。それは「ことばを混乱される」ということを通してでした。 この、シンアルの地に塔を建てていた者たちにとって、ことばとは、神さまへの反逆をともに成し遂げていくために互いをつないでいた、コミュニケーションの手段、絆ともいうべきものでした。ことばを介して塔の建て方を話し合い、ことばを介して塔を建てる目的を確認し合っていたわけです。神さまはことばなるお方です。ことばとは実に、神さまと交わりを持つための手段であり、人々が神さまにあって交わりを持つための手段です。それが、人が神さまに反逆し、そのために互いを一致させるための手段として用いられたということならば、神さまのなさることは、いまや罪の絆として用いられてしまったことばというものに、混乱という名のくさびを打ち込むことでした。 それは、神さまのさばきというよりも、神さまの愛のゆえでした。人が罪によって一致するならば、またもやノアの洪水前夜のような罪に満ちあふれた世界が展開することになることは充分予想されます。しかしもはや、神さまはそんな世界を破滅的なさばきで打つことをしないと、ノアと契約を結ばれた以上、滅ぼすわけにはいきませんでした。するとますます、人は罪にまみれ、神さまと愛の関係を結ぶことなど決してできないまま増え広がることになります。神さまが人のことばを混乱させられたのは、人が罪によって一致し、神さまに反逆したまま生きつづけることのないようにされるためでした。 罪というものは、人を一致させるすさまじい力があります。あの、振り込め詐欺を行う者たちの悪知恵とチームワークの巧妙さをご覧ください。凄まじすぎて見ているだけでうすら寒いものを感じます。それは半グレのレベルにとどまらず、私たちの生活するあらゆる領域で、そのような不正による一致、罪による一致というものを見ることができるのではないでしょうか? それでは私たちは、何をもって一致するのでしょうか? 私たちがもし、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢という罪の性質で一致して教会形成をするならば、主のみからだとしてとてもふさわしくない共同体をつくってしまうことになります。それは、とても人間的に過ぎる共同体であったり、いわゆるカルトのような強迫観念に満ちた不健康な共同体であったりします。私たちが一致するのは、日々お読みするみことばによって、そして、日々私たちを祈りへと導く聖霊なる神さまによって……それによって私たちは一致する必要があります。神さまはそのように一致する私たちに、かぎりない祝福を与えてくださると信じていただきたいのです。罪による一致を捨てて、みことばと御霊による一致へと日々導かれる私たちとなることができますように、主の御名によってお祈りいたします。 では、第三のポイントです。罪人の企ては、神のご介入に最終的に負けます。8節、9節をお読みしましょう。……そうです。人は、罪により一致し、その場で創造主なる神さまに反逆しつづける罪の生活をすることを希望しましたが、神さまはそんな彼らのことを散らされました。 これにより神さまのみこころである、生めよ、増えよ、地に満ちよ、というご命令は達成されることとなりました。このご介入によって、人は全地に散るものとなり、そこで子どもを産んで増えるからです。しかし、神さまのご介入は、それ以上の効果をもたらしました。それは、罪によって一致しようとする人の企てが壊されたことです。 神さまはこのお取り扱いをなさるために、人のことばを混乱させられました。では、ことばとは何でしょうか。人と人とをつなぐコミュニケーションの道具です。ことばが通じなければ、人はどんなに一致してことを行おうとしても、できません。それ以前に、ことばの通じない者と何か一緒に事を行おうと思うものでしょうか。こうして人は、もはやバベルの塔を一緒に建てようと考えるのをやめ、ことばの通じる者どうしで集まり、全地に散って行ったのでした。 このことからわかるのは、神さまに反抗しようとして一致する人の企ては、最終的には神さまのご介入によって壊される、ということです。 この世界には、聖書に啓示された神さまのみこころを壊そうとする試みが、たくさん存在します。技術革新は日々なされていて、それはとても素晴らしいことのように思えますが、それが神さまのご栄光を現すという目的でなくてなされているとしたらどうでしょうか。 私たちはそういう世界に生きている現実を認める必要がありますが、とはいいましても、私たちはそのような環境に生きていることを、過度におっかながる必要はありません。なぜならば、大多数の人を一致させているそれらの反キリスト的な企ても、まことの神さまの御手にかかればあっけなく崩れ去るものであるからです。 終わりの日になると、私たちはキリストの名のゆえに苦しむことも、今まで以上に多くなるでしょう。しかし彼ら反キリストは、からだを殺せても、たましいを殺すことのできない存在にすぎません。 私たちキリストにつく者は、彼らを恐れてはなりませんし、また恐れる必要もありません。主は、からだもたましいもゲヘナで滅ぼすことのできるお方です。彼ら反キリストが、この世界に対して悪のかぎりを尽くし、好き勝手なことをしようとも、最終的には神さまが彼らのからだもたましいもゲヘナで滅ぼしてしまわれます。恐れるべきは、そしてお従いするべきは、この絶対的な権威を持っていらっしゃるお方、神さまです。 新聞やニュースでは、世界や日本の残酷な現実、また、何が起こるかよくわからない現実を毎日見せつけられます。それは私たちをとても不安にさせるでしょう。しかし、私たちは不安なままでいなくてよいのです。大波の上を歩かせてくださるイエスさまを見つめて近づくならば、私たちは安全です。人の企ても、この世のありとあらゆる環境も、永遠なる神さまの前にはすべて有限、限りあるものです。 私たちがそれでも何か、言いようもない恐れに取りつかれているならば、イエスさまを見つめましょう。イエスさまはこの罪の世界から私たちを救い出し、神さまのものとしてくださいました。それゆえにイエスさまは私たちひとりひとりに、「恐れるな」と言ってくださいました。イエスさまの御声を聞きましょう。この世のあらゆる企て、罪人の企ては、永遠なる神さまのご計画の前には完全に負けます。今私たちはディボーションで、ヨハネの黙示録を毎日読んでいますが、これは人の終末意識をあおって恐怖に陥れる書物ではなく、神さまの完全な勝利を高らかに宣言した書物です。神さまの勝利、キリストの勝利は、私たちのものです。確信を持って歩み出し、日々の歩みにおいて、絶対的な勝利を体験しましょう。