不信仰は覆われる

聖書箇所;創世記12:5~20 メッセージ題目;不信仰は覆われる  私たちはだれもが、失敗をします。失敗は成功のもと、などと言いますが、私などは、過去を思い出すと、あんな失敗はしなければよかった、と思えるようなことだらけで、思い出すたびに顔が赤くなったり、青くなったりするのを覚えるものです。みなさんはいかがでしょうか?  信仰の父アブラハム物語も今日で2回目になりますが、今日の箇所で彼は、大きな失敗をします。それも、これは致命的ではないかとさえ思える失敗です。本日メインに学びます失敗の記事の前に、アブラムがカナンの地に入った記事が出てまいります。アブラムはその地に至り、シェケムのモレの樫の木のところで、主からの啓示を受けます。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」先週学びました、ハランの地にて神さまがアブラムに与えてくださった啓示の地、約束の地が、このカナンであったことがはっきりしたわけです。アブラムは、そこに祭壇を築いて主を礼拝しました。そこから彼はベテルの東の山の方へと移動して、天幕を張りました。そして、彼はネゲブへと進みました。  しかし、ネゲブには飢饉が襲っていました。とても住むことができません。アブラムはここで、ひとつの選択をします。それは、エジプトに行くということでした。アブラムには守るべきものがありました。さすらいの旅に伴っていたのは家族だけではありません。家畜やその牧者たちも一緒でした。彼らのことも充分に養わなければなりません。このことが、アブラムが約束の地を離れ、エジプトに行くという選択へと導きました。  多くの家畜や牧者たちを所有するなど、アブラムが富んでいたということは、いわば主からの祝福というべきことです。しかし、この群れを養うことがエジプト行きを決意させたことを考えると、主の民の父として、果たしてこれを祝福だとばかり言うことができたでしょうか、という問題があります。  私たちにとっての祝福とはどのようなものでしょうか? 金銭や持ち物が増えることでしょうか? 名誉が増し加わることでしょうか? そのようなものは増し加われば増し加わるほど、私たちを苦しめるものです。詩篇の詩人、アサフの告白に耳を傾けましょう。「しかし、私にとって 神のみそばにいることが 幸せです。」ここには、状況に左右されない平安があります。いついかなるときも主がそばにいてくださるゆえに揺るぐことがない、これぞ、私たちが目指すべき境地です。  しかし、アブラムの信仰の旅路は、これから続く彼の人生を考えると、まだ始まったばかりです。彼は地のすべての民を祝福する権限が与えられた者として、カナンの地に雨を呼び起こす祈りをささげるのではなく、エジプトで生き延びるという決断をしました。彼の信仰には限界があったことを認める必要があります。  私たちも信仰を働かせるべく導かれていますが、それでも、この世と伍して生きていくかぎり、どうしても、この世の価値観に自分を合わせている領域が出てきます。私たちも信仰を働かせるよりも、この世的な選択に走ってしまうことがあるものです。そのような私たちであることを受け入れた上で、私たちのなすべきことを主に祈りつつ、尋ね求めてまいりたいものです。  さて、アブラムはエジプトに近づくにつれ、ひとつの不安に襲われだしました。それは、自分が殺される、ということです。ファラオが妻サライを奪い、自分を殺す、あってはならないことです。そうならないために、サライは自分の妻ではなく、妹だと言ってほしい、と頼みました。  創世記20章を読めばわかりますが、サライがアブラムの妹というのは、たしかにほんとうのことです。父テラの娘であるからです。ただし、母親は同じではありませんでした。腹違いの兄妹、というわけです。この時代神さまは、神の民がそのような間柄で結婚することを、まだ問題にしてはいらっしゃいませんでした。そういうわけで兄妹であったのは確かですが、アブラムとサライはそれ以前に、夫婦という立場にあったことを優先する必要がありました。  夫婦は、もといた家族に優先する関係です。ここから、神の民が生まれるということを神さまは約束しておられたのです。つまり、アブラムがサライのことを、妻ではなく、妹だと言わせたということは、この神さまの秩序に逆らったということであり、また、神の民を生まれさせてくださるという神さまの約束に逆らった、ということになるわけです。アブラムは、二重の意味で不信仰、また不従順の罪を犯したことになります。  アブラムがこうなってしまったのも、もとはと言えばわが身を、この世的な方法で護ろうとしたためでした。エジプトで生き延びようと発想したことは、ついにこのような不信仰、不従順へとつながってしまったのでした。  アブラムは何を期待して、サライにこのようなことをさせたのでしょうか? 13節にあるように、「事がうまく運ぶ」ことを期待してのことでした。事がうまく運ぶ、とは、具体的に言えばどういうことでしょうか?  そう、16節にあるとおりに、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男奴隷と女奴隷、雌ろば、らくだ……たいへんな財産を手にすることができたのでした。こういう贈り物をファラオから手に入れることが「事がうまく運ぶ」ことであったとするならば、アブラムがサライにあのようなことを言わせたのは、サライを離縁し、ファラオの宮廷に召し入れさせることが目的だったということになります。もはやここには、信仰の父として立っていこうとの姿勢は、欠けらも見ることもできません。  しかし私たちは、このアブラムを笑ったり、非難したりすることができるでしょうか? このアブラムの姿は、私たちの姿そのものではないでしょうか? 主からなすべきことが示されていても、それに対する不従順の罪を犯し、なおそのような自分であることを正当化する、それが私たちなのです。その不従順によって、結果的にこの世の祝福を得ることができれば、それで安心してしまう、それが私たちなのです。  しかし、ここで私たちが忘れてはならないことがあります。神さまが干渉してくださる、ということです。17節を見てみましょう。……どんなわざわいだったかは書かれていません。疫病でしょうか? 恐ろしい悪夢でも見たのでしょうか? いずれにせよ、それが創造主なる神さまからのもので、しかもそのわざわいがもたらされたのは、ほかならぬサライを召し入れたせいだったということが、ファラオたちにはわかったのでした。  18節、19節を見てみましょう。……ファラオのこのことばをみてみると、アブラムは最初からサライのことを、自分の妻である、と正直に言うべきだったことがわかります。ファラオがサライを召し入れたことで、ひどい災害によって宮廷を痛めつけられるのが神さまのみわざだったならば、いわんや、アブラムを殺そうとしたならば、どれほどのわざわいをもって神さまはエジプトをおさばきになったことでしょうか!  「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。」アブラムは確かに、ハランを旅立つとき神さまにそう言われましたが、そのみことばが実際に臨むことまでは信じていなかったと言うべきでしょう。ここでアブラムは、ひとつ、エジプトの宮廷のわざわいという犠牲を経て、信仰が成長したのでした。  これは何を意味するでしょうか。アブラムがいかに不従順でも、不信仰でも、神さまの側では依然として、アブラムのことを信仰の父として立ててくださっている、ということです。ほかのだれでもない、あなたのことをわたしが選んだ以上、あなたが信仰の父となるのだよ、ということです。  イエスさまも私たちに言ってくださっています。あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。  私たちも不信仰になるでしょう。その結果、してはならない選択をしてしまい、失敗したということがあるかもしれません。しかし、究極的に言ってしまえば、私たちにとって失敗というものはないのです。あるのはただ、主がみわざを行なってくださり、導いてくださる、これだけです。  ひとたびイエスさまを受け入れたならば、その人は天国に行けます。それは、私たちの状態がどうあれ、イエスさまの側で私たちのことを離れないでいてくださるからです。わたしは決してあなたを見放さず、あなたを捨てない、と言ってくださっている以上、イエスさまが私たちから離れることなど決してありません。 しかし、私たちはイエスさまのこのみことばにも関わらず、なんと不信仰になってしまうものでしょうか。イエスさまの約束よりも、自分の思いを優先してしまう、何ということでしょうか。それでも、そんな私たちでも、イエスさまがお見捨てになるということは決してありません。こんな私たちであるということをすべてご存知の上で、なおも忍耐をもって、導いていてくださるのです。 もし、アブラムのこの不従順、妻サライをエジプトに売り渡すという、あまりのことを神さまが見とがめ、さばきを下されたとしたらどうなったでしょうか。神の民は生まれるまでもなく、私たちも神の民に連なることはありませんでした。それ以前に、アブラムにあのように約束された神さまのみことばは、うそ、ということになってしまいます。しかし神さまは真実なお方です。神さまは、たとえアブラムが偽りの心で偽りの行いをしようとも、ご自身の真実さにかけて、アブラムとサライを救ってくださり、ご自分の約束が真実であることを証しされました。 そうです。私たちは偽ります。私たちはいかに主のものとされていても、依然として罪を犯すものです。しかし、それにもかかわらず神さまは、イエスさまにあってこのような私たちのことを選んでくださり、私たちのことを用いてくださるのです。私たちに真実なものは何一つありません。あるのはただ罪ばかりです。しかし、たったひとつ真実なことがあるとするならば、この私たちのことをその十字架の死によって贖ってくださり、私たちのことを、主に用いられる尊い器としてくださったイエスさまが、私たちのうちにおられ、私たちを今もなお導いてくださっている、ということです。私たちの偽る心は、どこまでも真実なイエスさまによって、かぎりなくきよめられていきます。 アブラムの信仰の旅程には、このような、普通に考えれば致命的とさえ言える失敗がありました。私たちももしかすると、もはや思い出したくもない失敗があって、そのために人生に大きな損害を被ったように思えてならない、そんな悪い経験があるかもしれません。しかし、私たちがどうあろうと、神さまは真実です。私たちがもし、その失敗のために苦しむことがあったとするならば、それは「さばき」と見るべきではありません。 ひとたび神さまのものとされている私たちのことを、神さまがおさばきになるはずがあるでしょうか? 私たちはさばかれることなどありません。では、私たちが現実に苦しんでいるならば、この苦しみは、何だというべきでしょうか? それは「懲らしめ」というべきです。「懲らしめ」と「さばき」は、苦しいという点では共通していますが、その持つ意味は天と地ほどにもちがいます。 私たちは苦しみます。しかしそのとき、私たちは全能なる神さまに拠り頼む信仰が育てられます。神さまはそのとき、私たちの生活の現場に臨み、みわざを行なってくださるのです。主の弟子らしくしっかり立つことを神さまが私たちに望んでいらっしゃる以上、主はときに私たちのことを厳しい目に合わせなさいます。私たちがその状況に対してとことんまで無力であることを認め、神さまに全面的に降伏し、神さまが自分の人生に完全に働いてくださるように、明け渡すためです。 アブラムも、この恥辱的な失敗さえも覆ってくださる神さまの御手を体験し、信仰が成長しました。私たちもまた、生活のただ中で主の御手を体験するように召されています。主が私たちに関心を持ってくださり、私たちのうちでみわざを行いたいと願っていらっしゃるのです。それほど、私たちは特別なのです。 だからこそ私たちは、神さまがわが人生の現場でみわざを行なってくださる、そのことを期待しつつ、日々導いてくださる主に従順にお従いするのみです。そこで私たちのことを考えてみたいと思います。私たちが主にお従いしたいと願いながら、その妨げとなっている重大なものとは何でしょうか? それぞれにとって異なると思います。アブラムにとっては、まずは家族だけにとどまらず、家畜たちやしもべたちを養わなければならなかったこと、そして、ファラオによって殺されるかもしれないと恐れたことです。それでも神さまはアブラムを守り、大きなみわざを行なってくださいました。 みなさんもきっと、信仰によって踏み出すうえでの弱さを抱えていらっしゃることと思います。今日はその弱さを具体的に書きとめてみましょう。そして、その弱さは必ず主が乗り越えさせてくださると、信仰をもって一歩を踏み出す祈りをささげましょう。