信仰による選択

聖書箇所;創世記13章1~18節 メッセージ題目;信仰による選択 私たちは一日のうちでも、数多くの選択をし、また、その数多くの選択の、その結果の数多くの責任を負いながら生きていくことになります。私たちはいま、どのような選択をしているでしょうか。今日の本文のアブラム、アブラハムのモデルから学び、みこころにかなった選択をする者とならせていただこうと思います。  1節、2節を見てみましょう。アブラムは富んでいました。多くの家畜、そして銀も金も、それこそ「非常に豊かに」持っていました。もともと富んでいたところに、エジプトでさらに富が増し加わったわけです。そういう意味ではアブラムは祝福を受けていました。ただしこの祝福をいかに用いるかという問題にも、アブラムは直面していました。 新約聖書・第一テモテ6章10節で、使徒パウロは「金銭を愛することがあらゆる悪の根である」と喝破しています。アブラムは確かに、この世的にはたいへんに富んでいました。しかし、その富は神さまとの関係を深める助けにはなりませんでした。かえってその富に目がくらんだために、サライをエジプトのファラオに売ろうとするなど、不従順にもほどがあるような行為をしてしまったのでした。 しかし、アブラムは悔い改めました。アブラムは、エジプトを追放されてカナンの地に帰ってきたとき、そこにかつて築いた祭壇において、主の御名を呼び求めました。まるでエジプトの地で妻をファラオに売った自分の大きな失敗を悔い改め、神さまとの交わりを改めて求めるかのようです。このカナンはついこのあいだひどい飢饉に襲われたばかりの場所で、普通に考えるならば帰ることをためらう者でしょうが、アブラムはここで、信仰の原点に立ち帰る決断をしました。自分が初めて築いた祭壇の場所で、改めて主の御名を呼び求めることをする、そうです、肥沃な地に家族や群れを導くことよりも、まず、主の召しに立ち帰ることを選びました。困難が待ち受けていると予想されようと、主のもとに行く。言い方によっては、主のもとに逃げ込むことをしたわけです。  もし人が、この世の価値観や基準にどっぷりと漬かっているならば、信仰によって困難な選択をすることは極めてむずかしいことです。しかし、困難な中でも信仰による選択をする人は、揺るがされることはありません。 イエスさまという岩の上に根ざして生きる人は、どんな困難が押し寄せても揺らぐことはありません。しかし、この世という不確かな、いわば砂地のようなものに根ざして生きる人は、困難が押し寄せると崩れてしまいます。 アブラムの場合も、拠り頼むべきが多くの富ではなく、神さまご自身であることに気づかされるようになっていました。しかし神さまはときに、ご自身の愛される人の人生に介在され、拠り頼むべき対象をこの世的なものから神さまご自身へと導かれることがあるものです。 6節を見てみましょう。アブラムは、神さまの祝福と見なすべきこの富を持てあましていました。おそらく、エジプトのような肥沃な地ではこの富は相当役に立ったことでしょうが、カナンのように痩せて貧しい土地では水や牧草にも事欠き、群れの中に葛藤が起こるのは必然でした。 特にその葛藤は、牧者どうしの人間関係の葛藤という形で顕著に現れました。アブラムとロトの関係は決して悪くなかったはずですが、その群れどうしとなると、どうしても人間関係に問題が生じます。それはもちろん、アブラムにしてもロトにしても、彼らどうしが仲良くすることを望んでいたでしょうが、牧草や水が不足しているという現実を前にしては、理想ばかり言っていられなくなっていました。 約束の地は、ただ入ればいいということではありません。その地で増え広がるのがみこころである以上、それが貧しい土地であったとしても、石にかじりついてでもとどまる必要がありました。カナンから一族もろとも去るという選択肢はありませんでした。とどまるしかなかったのですが、アブラムの群れとロトの群れとの深刻な対立は、もう限界に達していて、どうしようもなくなっていました。 しかしアブラムは、ここでロトに一つの提案をします。8節、9節です。……選択の余地をロトに与えたのです。全地はあなたの前にあるではないか。このどこまでも広い土地の、どこに行ってもいい。ただし、私の群れは一緒に行かない。あなたの群れがまずどこに行くか決めたら、私の群れは反対の方に行く。ロトに選択させました。 アブラムは実はこのとき、信仰の父としての危機に瀕していたということにお気づきでしょうか? もし仮に、ロトがカナンの地に残ると言ったら、アブラムはカナンをあとにしなければならなくなりました。主の民となると約束されたのはアブラムから生まれる者であって、ロトからではありません。ロトの民がカナンで増え広がるわけにはいかなかったのです。また、アブラムがカナンをあとにしたら、もうアブラムには、カナンで主の民の父となる道は残されていません。神さまのみこころは成らないことになります。 しかし、神さまの摂理というべきことですが、ロトはここで、ヨルダンの低地、とても肥沃な土地を選びました。神さまはロトの選択に介入されました。このことによってアブラムは、神さまの約束どおり、カナンの地で神の民の父となる道を残されたのでした。ロトの一行が向かったヨルダンの低地はもはやカナンの地には含まれません。ロトはカナンをあとにしたのでした。 ロトがヨルダンの低地を選んだ理由は、11節に記されています。「自分のために」とあります。神さまのためにではなかったのです。自分さえ栄えればアブラムなどどうでもよい、というよこしまな思いがあったわけです。しかし、ヨルダンの低地の町、ソドムとゴモラの地でロトを待ち受けていたのは、主に対してはなはだ邪悪な者たちでした。その地の豊かさ、この世的な栄えを享受するあまり、彼らは凄まじいまでに堕落したのでしょうか。ともかく、そのような者たちが待ち受けているような地であろうとも、ロトは一時(いっとき)の栄えに目がくらみ、アブラムを痩せた土地に残して自分はさっさとヨルダンの低地に行ってしまいました。 もしかするとアブラムは、ロトのこの性格を知った上で、あえてロトに行き先を選択させたのかもしれません。それはロトの自主性を尊重することでもありますが、ともかくもこれでアブラムは、ロトのこの選択により、カナンに残ることができました。 こうしてアブラムは、ロトとその群れ、そして財産を切り離しました。それは、いかにかわいい甥っ子を独り立ちさせる、ほんとうならば喜ばしいことであったといっても、それなりの悲しさ、むなしさはあったはずです。何よりも、この世の富を自分から選択するロトのなすがままにせざるを得なかったことは、アブラムをどんな気持ちにさせたことでしょうか。しかしそのようなとき、神さまご自身がアブラムに現れてくださいました。神さまは何とおっしゃったでしょうか? 14節から17節です。 神さまはアブラムに、どのような約束をくださったのでしょうか? アブラムに、この地、すなわちアブラムが見渡すかぎりの、そして実際に東西南北に歩き回るカナンの地を、永久に、子孫をちりのように増やすことにより、与えるとおっしゃいました。 では、なぜこれが確実にアブラムに与えられるのでしょうか? それはほかならぬ、神さまご自身の約束であるからです。カナンの土地をアブラムとその子孫に与えること、それが神さまの約束でした。アブラムのすることは、神さまのこの約束を、ただ、信仰によって受け取ることだけでした。 人は、よいものを得ようという思いをつねに持っています。そのために、あらゆる努力をします。しかし、神さまのくださるもの以上によいものはありません。アブラムの目の前に広がる土地は、痩せていたかもしれません。けれどもそれが神さまのくださる土地です。アブラムのすることは、その目の前に人がる土地、自分が縦横無尽に踏みしめる土地が、神さまのくださった土地であると受け入れて感謝することでした。それが、アブラムにできる選択、アブラムのなすべき選択でした。 信仰によって歩む者にとっての選択は、その何よりの基準は、「神さま」にあります。神さまが主権によって私の人生に働いてくださる。私はその御手によって、いま生きている生活の現場で神さまの栄光を現すべく用いられる、これが私たちの信仰の歩みです。 この、選択の人生の最大のモデル、それは、イエスさまです。罪なきイエスさまのなさった選択は、すべて神さまのみこころにかなう正しいものでしたが、イエスさまの選択は、すべて、御父に従順であるという、絶対の基準がありました。みことばをお語りになることも、奇蹟を行われることも、すべては御父のみこころに従順に従うという選択をなさった上でのことでした。そして最大の選択、それは十字架でした。ゲツセマネの園での血の汗を流しての祈り、それは、御父のみこころを選択するための最大の闘いで、イエスさまはついにその戦いに勝利され、十字架にかかられたのでした。 アブラムの選択も、御父に従順であるようにと願っての選択でした。時にそれは、アブラムが、エジプトの豊かさを捨てて痩せたカナンに行って神さまを礼拝することを選んだとか、富をロトに分け与えて遠く離し、カナンにとどまることを選んだとか、人間的に見れば厳しいことを選択することも有り得ます。要は、それが神さまのみこころであると受け入れることです。 逆に、ロトの場合はどうでしょうか。彼の選択は神さまのみこころを考えない、それこそ自分のためのもので、また、この世的な祝福を求めるものでした。しかしその結果は、実に悲惨なものになりました。祝福の源であるアブラムと人生をともにしていても、アブラムからいったい何を学んできたというのか、というものです。しかし私たちは、このロトを笑うことはできないでしょう。私たちもまた、この世に生きていると、ときに神さまのみこころを選択することよりも、自分中心の選択、この世的な選択に走ってしまうものです。ロトはそんな私たちにとっての反面教師です。 私たちはいま、どんな選択をしようとしていますでしょうか。アブラムの選択でしょうか? それとも、ロトの選択でしょうか? いえ、究極的に言ってしまえば、イエスさまにならう選択をしようとしていますでしょうか? すなわち、イエスさまが御父に従順であられたように、御父のみこころに従順になる選択です。 人間的に見ればもしかしたら私たちはいま、厳しい選択を迫られているかもしれません。しかしそのときこそ、私たちの信仰を生かすチャンスです。私たちの肉的な頑張りで、難しい選択をして、その選択をやり遂げるのではありません。そんな頑張りは限界があり、やがて破綻します。そうではなく、その選択をすることがみこころだと示されているならば、神さまが必ず最後までやり遂げさせてくださるという信仰をもって、困難な選択へと踏み出すのです。

不信仰は覆われる

聖書箇所;創世記12:5~20 メッセージ題目;不信仰は覆われる  私たちはだれもが、失敗をします。失敗は成功のもと、などと言いますが、私などは、過去を思い出すと、あんな失敗はしなければよかった、と思えるようなことだらけで、思い出すたびに顔が赤くなったり、青くなったりするのを覚えるものです。みなさんはいかがでしょうか?  信仰の父アブラハム物語も今日で2回目になりますが、今日の箇所で彼は、大きな失敗をします。それも、これは致命的ではないかとさえ思える失敗です。本日メインに学びます失敗の記事の前に、アブラムがカナンの地に入った記事が出てまいります。アブラムはその地に至り、シェケムのモレの樫の木のところで、主からの啓示を受けます。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」先週学びました、ハランの地にて神さまがアブラムに与えてくださった啓示の地、約束の地が、このカナンであったことがはっきりしたわけです。アブラムは、そこに祭壇を築いて主を礼拝しました。そこから彼はベテルの東の山の方へと移動して、天幕を張りました。そして、彼はネゲブへと進みました。  しかし、ネゲブには飢饉が襲っていました。とても住むことができません。アブラムはここで、ひとつの選択をします。それは、エジプトに行くということでした。アブラムには守るべきものがありました。さすらいの旅に伴っていたのは家族だけではありません。家畜やその牧者たちも一緒でした。彼らのことも充分に養わなければなりません。このことが、アブラムが約束の地を離れ、エジプトに行くという選択へと導きました。  多くの家畜や牧者たちを所有するなど、アブラムが富んでいたということは、いわば主からの祝福というべきことです。しかし、この群れを養うことがエジプト行きを決意させたことを考えると、主の民の父として、果たしてこれを祝福だとばかり言うことができたでしょうか、という問題があります。  私たちにとっての祝福とはどのようなものでしょうか? 金銭や持ち物が増えることでしょうか? 名誉が増し加わることでしょうか? そのようなものは増し加われば増し加わるほど、私たちを苦しめるものです。詩篇の詩人、アサフの告白に耳を傾けましょう。「しかし、私にとって 神のみそばにいることが 幸せです。」ここには、状況に左右されない平安があります。いついかなるときも主がそばにいてくださるゆえに揺るぐことがない、これぞ、私たちが目指すべき境地です。  しかし、アブラムの信仰の旅路は、これから続く彼の人生を考えると、まだ始まったばかりです。彼は地のすべての民を祝福する権限が与えられた者として、カナンの地に雨を呼び起こす祈りをささげるのではなく、エジプトで生き延びるという決断をしました。彼の信仰には限界があったことを認める必要があります。  私たちも信仰を働かせるべく導かれていますが、それでも、この世と伍して生きていくかぎり、どうしても、この世の価値観に自分を合わせている領域が出てきます。私たちも信仰を働かせるよりも、この世的な選択に走ってしまうことがあるものです。そのような私たちであることを受け入れた上で、私たちのなすべきことを主に祈りつつ、尋ね求めてまいりたいものです。  さて、アブラムはエジプトに近づくにつれ、ひとつの不安に襲われだしました。それは、自分が殺される、ということです。ファラオが妻サライを奪い、自分を殺す、あってはならないことです。そうならないために、サライは自分の妻ではなく、妹だと言ってほしい、と頼みました。  創世記20章を読めばわかりますが、サライがアブラムの妹というのは、たしかにほんとうのことです。父テラの娘であるからです。ただし、母親は同じではありませんでした。腹違いの兄妹、というわけです。この時代神さまは、神の民がそのような間柄で結婚することを、まだ問題にしてはいらっしゃいませんでした。そういうわけで兄妹であったのは確かですが、アブラムとサライはそれ以前に、夫婦という立場にあったことを優先する必要がありました。  夫婦は、もといた家族に優先する関係です。ここから、神の民が生まれるということを神さまは約束しておられたのです。つまり、アブラムがサライのことを、妻ではなく、妹だと言わせたということは、この神さまの秩序に逆らったということであり、また、神の民を生まれさせてくださるという神さまの約束に逆らった、ということになるわけです。アブラムは、二重の意味で不信仰、また不従順の罪を犯したことになります。  アブラムがこうなってしまったのも、もとはと言えばわが身を、この世的な方法で護ろうとしたためでした。エジプトで生き延びようと発想したことは、ついにこのような不信仰、不従順へとつながってしまったのでした。  アブラムは何を期待して、サライにこのようなことをさせたのでしょうか? 13節にあるように、「事がうまく運ぶ」ことを期待してのことでした。事がうまく運ぶ、とは、具体的に言えばどういうことでしょうか?  そう、16節にあるとおりに、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男奴隷と女奴隷、雌ろば、らくだ……たいへんな財産を手にすることができたのでした。こういう贈り物をファラオから手に入れることが「事がうまく運ぶ」ことであったとするならば、アブラムがサライにあのようなことを言わせたのは、サライを離縁し、ファラオの宮廷に召し入れさせることが目的だったということになります。もはやここには、信仰の父として立っていこうとの姿勢は、欠けらも見ることもできません。  しかし私たちは、このアブラムを笑ったり、非難したりすることができるでしょうか? このアブラムの姿は、私たちの姿そのものではないでしょうか? 主からなすべきことが示されていても、それに対する不従順の罪を犯し、なおそのような自分であることを正当化する、それが私たちなのです。その不従順によって、結果的にこの世の祝福を得ることができれば、それで安心してしまう、それが私たちなのです。  しかし、ここで私たちが忘れてはならないことがあります。神さまが干渉してくださる、ということです。17節を見てみましょう。……どんなわざわいだったかは書かれていません。疫病でしょうか? 恐ろしい悪夢でも見たのでしょうか? いずれにせよ、それが創造主なる神さまからのもので、しかもそのわざわいがもたらされたのは、ほかならぬサライを召し入れたせいだったということが、ファラオたちにはわかったのでした。  18節、19節を見てみましょう。……ファラオのこのことばをみてみると、アブラムは最初からサライのことを、自分の妻である、と正直に言うべきだったことがわかります。ファラオがサライを召し入れたことで、ひどい災害によって宮廷を痛めつけられるのが神さまのみわざだったならば、いわんや、アブラムを殺そうとしたならば、どれほどのわざわいをもって神さまはエジプトをおさばきになったことでしょうか!  「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。」アブラムは確かに、ハランを旅立つとき神さまにそう言われましたが、そのみことばが実際に臨むことまでは信じていなかったと言うべきでしょう。ここでアブラムは、ひとつ、エジプトの宮廷のわざわいという犠牲を経て、信仰が成長したのでした。  これは何を意味するでしょうか。アブラムがいかに不従順でも、不信仰でも、神さまの側では依然として、アブラムのことを信仰の父として立ててくださっている、ということです。ほかのだれでもない、あなたのことをわたしが選んだ以上、あなたが信仰の父となるのだよ、ということです。  イエスさまも私たちに言ってくださっています。あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。  私たちも不信仰になるでしょう。その結果、してはならない選択をしてしまい、失敗したということがあるかもしれません。しかし、究極的に言ってしまえば、私たちにとって失敗というものはないのです。あるのはただ、主がみわざを行なってくださり、導いてくださる、これだけです。  ひとたびイエスさまを受け入れたならば、その人は天国に行けます。それは、私たちの状態がどうあれ、イエスさまの側で私たちのことを離れないでいてくださるからです。わたしは決してあなたを見放さず、あなたを捨てない、と言ってくださっている以上、イエスさまが私たちから離れることなど決してありません。 しかし、私たちはイエスさまのこのみことばにも関わらず、なんと不信仰になってしまうものでしょうか。イエスさまの約束よりも、自分の思いを優先してしまう、何ということでしょうか。それでも、そんな私たちでも、イエスさまがお見捨てになるということは決してありません。こんな私たちであるということをすべてご存知の上で、なおも忍耐をもって、導いていてくださるのです。 もし、アブラムのこの不従順、妻サライをエジプトに売り渡すという、あまりのことを神さまが見とがめ、さばきを下されたとしたらどうなったでしょうか。神の民は生まれるまでもなく、私たちも神の民に連なることはありませんでした。それ以前に、アブラムにあのように約束された神さまのみことばは、うそ、ということになってしまいます。しかし神さまは真実なお方です。神さまは、たとえアブラムが偽りの心で偽りの行いをしようとも、ご自身の真実さにかけて、アブラムとサライを救ってくださり、ご自分の約束が真実であることを証しされました。 そうです。私たちは偽ります。私たちはいかに主のものとされていても、依然として罪を犯すものです。しかし、それにもかかわらず神さまは、イエスさまにあってこのような私たちのことを選んでくださり、私たちのことを用いてくださるのです。私たちに真実なものは何一つありません。あるのはただ罪ばかりです。しかし、たったひとつ真実なことがあるとするならば、この私たちのことをその十字架の死によって贖ってくださり、私たちのことを、主に用いられる尊い器としてくださったイエスさまが、私たちのうちにおられ、私たちを今もなお導いてくださっている、ということです。私たちの偽る心は、どこまでも真実なイエスさまによって、かぎりなくきよめられていきます。 アブラムの信仰の旅程には、このような、普通に考えれば致命的とさえ言える失敗がありました。私たちももしかすると、もはや思い出したくもない失敗があって、そのために人生に大きな損害を被ったように思えてならない、そんな悪い経験があるかもしれません。しかし、私たちがどうあろうと、神さまは真実です。私たちがもし、その失敗のために苦しむことがあったとするならば、それは「さばき」と見るべきではありません。 ひとたび神さまのものとされている私たちのことを、神さまがおさばきになるはずがあるでしょうか? 私たちはさばかれることなどありません。では、私たちが現実に苦しんでいるならば、この苦しみは、何だというべきでしょうか? それは「懲らしめ」というべきです。「懲らしめ」と「さばき」は、苦しいという点では共通していますが、その持つ意味は天と地ほどにもちがいます。 私たちは苦しみます。しかしそのとき、私たちは全能なる神さまに拠り頼む信仰が育てられます。神さまはそのとき、私たちの生活の現場に臨み、みわざを行なってくださるのです。主の弟子らしくしっかり立つことを神さまが私たちに望んでいらっしゃる以上、主はときに私たちのことを厳しい目に合わせなさいます。私たちがその状況に対してとことんまで無力であることを認め、神さまに全面的に降伏し、神さまが自分の人生に完全に働いてくださるように、明け渡すためです。 アブラムも、この恥辱的な失敗さえも覆ってくださる神さまの御手を体験し、信仰が成長しました。私たちもまた、生活のただ中で主の御手を体験するように召されています。主が私たちに関心を持ってくださり、私たちのうちでみわざを行いたいと願っていらっしゃるのです。それほど、私たちは特別なのです。 だからこそ私たちは、神さまがわが人生の現場でみわざを行なってくださる、そのことを期待しつつ、日々導いてくださる主に従順にお従いするのみです。そこで私たちのことを考えてみたいと思います。私たちが主にお従いしたいと願いながら、その妨げとなっている重大なものとは何でしょうか? それぞれにとって異なると思います。アブラムにとっては、まずは家族だけにとどまらず、家畜たちやしもべたちを養わなければならなかったこと、そして、ファラオによって殺されるかもしれないと恐れたことです。それでも神さまはアブラムを守り、大きなみわざを行なってくださいました。 みなさんもきっと、信仰によって踏み出すうえでの弱さを抱えていらっしゃることと思います。今日はその弱さを具体的に書きとめてみましょう。そして、その弱さは必ず主が乗り越えさせてくださると、信仰をもって一歩を踏み出す祈りをささげましょう。

信じる者には、どんなことでもできるのです

聖書本文;マルコの福音書9:14~29 メッセージ題目;信じる者には、どんなことでもできるのです  改めましてみなさま、今年もよろしくお願いします。   2020年。今年のみなさんのお祈りの課題は何でしょうか。取り組まなければ。あるいは、これが必要だ。それを手に入れること、そうなることはみこころにかなっている。しかし、努力だけではどうにもならない、そこで、私たちは信仰を働かせるのです。 本日の本文に登場する父親も、まさにその「信仰」という問題を抱えていました。このときイエスさまは、十二弟子のトップ・スリー、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山に登っていらっしゃいました。そのときイエスさまは栄光に御姿が変わり、モーセとエリヤが現れてイエスさまのご最期について会話を交わすという、驚くべき、またおごそかな時間となりました。このできごとは、人の子の復活まで秘めておきなさい、と、イエスさまは弟子たちを戒められました。 一方で、残された弟子たちは、ひとつの問題に直面していました。口をきけなくする霊に取りつかれた息子から悪霊を追い出してほしい、弟子たちは父親からそのように懇願されましたが、できませんでした。そこにイエスさまがやってこられ、子どもから悪霊を追い出されて一件落着、すばらしいことが起こされたわけでした。 しかし私たちは、このできごとの背後にあった、信仰と不信仰についての問題、また祈りの問題について、特にイエスさまのみことばから学ぶ必要があります。 まず、19節、最初のイエスさまのみことばを見てみましょう。イエスさまは何とおっしゃいましたでしょうか。…… イエスさまはついその直前に、もはや歴史上の人物ですらあったモーセとエリヤが現れ、ご自身のご最期について話し合われるということを経験されたばかりでした。イエスさまは、十字架の死に向かって備えをするのみで、また、その備えをなすべく、弟子たちをよりいっそう整えるという段階にあられました。 ところが、弟子たちは何をしていたのでしょうか。イエスさまがご不在ならば、イエスさまのわざを代わりに行うべく霊的な権威が委ねられていたというのに、弟子たちには悪霊を追い出すことができなかったのです。それで、この悪霊追い出しをイエスさまがなさらなければならなくなったわけです。 イエスさまは嘆かれました。まことに不信仰な時代だ! 問題は、不信仰にありました。人の不信仰は、十字架の贖いの死に向かって進むべきイエスさまの歩みをとどめるかのようでした。イエスさまにとっては十字架という、もっと大事なことがあるのに、この程度のこともあなたがたは信仰によって解決できないのか! イエスさまが問題にされたのは、だれの不信仰だったのでしょうか? それは弟子たちであり、また、この少年の父親の不信仰でもありました。そして、この記事を読む私たちひとりひとりの不信仰も、同時に問題にされるのです。問題は、不信仰にあります。 しかし、イエスさまは彼らが不信仰だからと、見捨てるようなことはなさいませんでした。「その子をわたしのところに連れて来なさい」、そのように言ってくださり、子どもにみわざを行うことを宣言されたのでした。 この父親には、イエスさまならばなんとかしてくださる、という、わらにもすがる思いのような、わずかな信仰がありました。イエスさまが戻ってくるや、つかまえました。からし種ほどの信仰があれば、その人の信仰は、空の鳥が巣をかけるほどに大きくなるように、成長させていただける、そのようにイエスさまはおっしゃいましたが、この父親の信仰も、大きいとは言えず、からし種のような大きさ、けし粒にも満たないほどの小ささだったかもしれませんが、イエスさまが大きくしてくださり、その信仰に応えて、イエスさまはみわざを行なってくださったのでした。 その子の状態はひどいものでした。20節に語られているとおりです。子どもがこのようならば、親の気持ちはどれほどつらいことでしょうか。しかしこの父親は、イエスさまの話を聞きました。イエスさまならば、必ず助けてくださる! イエスさまが来られたと聞いた父親は、矢も楯もたまらず、子どもを連れて駆けつけました。 イエスさまは、いつから子どもがそのようなのかと父親に尋ねられました。父親は、それが幼いときからで、子どもに取りついた悪霊は彼のことを殺そうと、何度でも火の中や水の中に彼を投げ込んだ、と語りました。もちろん、イエスさまは全能なるお方ですから、子どもにそういう過去があったことはすべてご存知です。それでもイエスさまが、父親にそのいきさつを尋ねられたのは、それが悪霊の働きであり、したがって神の御手によってのみ解決されるべき問題であることを、父親にあらためて認識させ、受け入れさせるという目的があったからだと言えます。 私たちもやみくもに祈ればいいわけではありません。何を祈っているのかもわからないで、どうやってお祈りを聞いていただけるのでしょうか。私たちの願っていることを具体的に聞いていただくこと、そのことが必要になります。みなさんそれぞれのお祈りの課題を具体的にノートに記録されることをお勧めします。そして、それを毎日読んでお祈りすることをお勧めします。 ともかく、この父親はイエスさまに、子どもの様子を伝えました。しかし、このことをイエスさまに伝えるにあたり、父親の態度がイエスさまに取り扱われることになりました。「しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」父親はこう言いましたが、イエスさまはそのことばと態度を問題にされました。 そうです。これは不信仰だったのです。いったい、子どもが悪霊につかれている状態、精神的に病気の状態であることが、みこころにかなったことでしょうか。それは神の子イエスさまによって、いやされてしかるべき状態でした。イエスさまは、そんな悪い状態を放っておくようなお方では決してありません。父親は、みこころに反する病や悪霊憑きを放っておかれるかもしれないなどと考えて、イエスさまに対して十分な信仰を働かせてはいませんでした。それをイエスさまは問題にされました。 信じる者には、どんなことでもできるのです。イエスさまは父親に、そう語られました。それは、私がこの子に愛を注いで、いやす神であることを、あなたは信じなさい、そうおっしゃっているということです。 私たちがイエスさまに対して信仰を働かせるということ、これが、イエスさまの愛と直結していることを、お分かりになったと思います。あなたのことを愛しているよ! あなたにわたしは、わざを行うよ! それによって、わたしがあなたを愛していることを、はっきり教えてあげるよ! さあ、わたしの愛を体験して! 信じてほしい! 果たして父親は、イエスさまのこの威厳に満ちたことばに、心が動かされ、悔い改めました。信じます。不信仰な私をお助けください! 父親は、自分が不信仰であることを叫びつつ認めました。そして、イエスさまにすがりました。 私たちも、信仰が形ばかりで、ほんとうのところはイエスさまを信じていない、そんな者であることを、ときに認めざるを得なくなるときがあります。そんなとき、私たちのすることは、自分が不信仰であることを認め、悔い改めてイエスさまにすがることです。そうするとき、イエスさまは私たちの生きる現場に、実際に働いてくださいます。それは、私たちを愛してくださり、私たちのことを心配していてくださるからです。イエスさまは、不信仰から信仰に立ち帰る私たちに、必ずみわざを行なってくださいます。 かくして、イエスさまはこの子にみわざを行われました。悪霊を追い出されました。悪霊は最後の悪あがきをしました。暴れるだけ暴れて、この子から出ていくと、この子は死んだようになりました。この子の存在すべてが悪霊に支配されていたことの証拠とも言えましょう。悪霊が出ると、文字どおり彼は空っぽになりました。 しかし、イエスさまがその子の手を取って起こされると、その子は立ち上がりました。イエスさまの御手によって、その子はもはや悪霊とは関係のない、神の人となったのです。そうです、人は悪に支配されていたならば、その悪と縁を切ったとき、まるで死んだようになるでしょう。しかし、その人の生きがいは、悪に戻ることではなく、イエスさまという新しい主人に従うことです。そうするならば、その人は生きるのです。こんにちを生きる私たちは、まさにそのように人々から悪の縁(えにし)を断ち切り、イエスさまというまことの神さまに立ち帰らせ、その人を永遠に生かすことです。 しかし、弟子たちには解決すべき問題がありました。イエスさまにできることが、自分たちにできなかった。それでは、イエスさまの弟子としてふさわしくないことになります。もっとストレートに言ってしまえば、無能、ということになります。この問題を解決しなければなりません。彼らはイエスさまに、自分たちには霊を追い出せなかったのはなぜでしたか、と尋ねました。 すろと、イエスさまはお答えになりました。この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。 イエスさまは弟子たちの、何を問題にされたのでしょうか? 祈らなかったことです。もし、弟子たちがちゃんと祈っていれば、この悪霊は彼らにも追い出せていた、ということを語っておられるわけです。 ここでも、信仰ということが問題にされたわけでした。弟子たちは、自分たちの力で悪霊追い出しをしようとしていました。実際、弟子たちには経験がありました。彼らが命じると、悪霊どもも言うことを聞く、ということを、実際に体験していたので、今度もきっとできるはずだ、と、彼らが過信していた可能性もあります。しかし、主のみわざに用いられるということは、経験があればだれでもどんなことでも可能である、ということではありません。イエスさまは、祈りが必要だ、とおっしゃったのです。 それでは、なぜこの働きをする上で「祈る」必要があったのでしょうか? それは、まず、自分たちの力ではできないことを認識し、しかしそれでも、この悪霊追い出しは神さまのみこころであるから、イエスさまの弟子として必ずできるという信仰に立ち、神さまの力を求める必要があったからです。 ただし、この働きは、何を差し置いても、この子どもに対する愛が必要でした。愛なきミニストリーは、たんなる「人間的な作業」にすぎません。自分も神さまの愛をいただいている者として、その愛をもって熱く子どもを愛する、ここに、信仰を働かせる余地が出てまいります。私たちにとっても、だれかのために祝福を祈ったり、いやしを祈ったりすることにおいても、このように相手を熱く愛する愛が必要で、しかし愛を十分かつ具体的に施しきれない自分であることを認め、神さまに祈る、しかし、みこころにかなうことだから必ずくださると信じて祈る、その祈りが必要となるわけです。私たちの信仰が、愛とともに問われることになります。 ある聖書の写本では、この部分に、「祈りと断食」と書かれています。それを見ると、断食の祈りというものの効果を見ることができます。しかし、注意が必要です。私たちの祈りが聞かれ、主がみわざを行われるのは、どこまでも、私たちの信仰が応えられるゆえです。一生懸命の祈りとか、断食しての祈りとか、そういうことを「行い」として実践することで、祈りを聴いていただけると思ってはなりません。それは、私たちの行いを正当化することです。 私たちには経験があると思いますが、長い時間をかけてお祈りすることは簡単なことではありません。とても体力がいります。大声で祈るとなるとなおさらです。断食ともなりますと、どれほどの体力を消耗するかわかりません。しかし、そうやって一定の時間をかけて努力して祈ったとき、罠となるのは、それだけいっしょうけんめい祈ったということに対し、自分なりに満足を覚えてしまう、ということです。それは信仰による祈りではなく、自分の正しさによる祈りということにならないでしょうか。 しかし、それならば、「祈りによって」、あるいは「祈りと断食によって」とイエスさまがおっしゃったことばは、矛盾しているのでしょうか。そういうことではありません。私たちは信仰を働かせるならば、何を差し置いても祈らなければという思いが生まれます。そして、祈るのです。祈るという行為を積み重ねて神の心を動かす、ではなく、神さまのみこころに動かされて祈るようになる、というわけです。これは、体験した人ならわかります。 時にその祈りは、断食の祈りに促されることがあります。私は断食というものについて、このように考えています。祈らなければ、という御霊の思いに支配されるあまり、食べ物ものどに通らない、祈るしかない、祈ろう、となって、結果として断食の祈りとなると考えます。そういうわけで断食の祈りは、したからといって偉いわけではありません。。 イエスさまは人を救うという目的を掲げて、時には断食もものともせずに、つねに父なる神さまと交わる祈りをささげていらっしゃいました。その祈りの対象が、たとえばこの子どもでありました。そしてイエスさまの祈る対象は、私たちひとりひとりでもあるわけです。イエスさまは今もなお、父なる神さまの右の座で私たちひとりひとりのためにとりなして祈ってくださっています。 このイエスさまと交わりを欠かさぬとき、私たちもまた、イエスさまが祈られたように、祈りに一生懸命になるように導かれます。時にそれは、食べ物ものどを通らないような祈りになるかもしれません。それでも、祈れるならば、私たちはしあわせではないでしょうか? それだけ、私たちが信仰を働かせる領域が拡大することになり、私たちを愛してくださっている主は、私たちの信仰の祈りに応えてくださいます。

信仰の年

聖書箇所;ヘブル人への手紙11章6節 メッセージ題目;信仰の年  みなさん、今年もよろしくお願いいたします。  今年初めのメッセージはどの箇所から語るのがふさわしいか、私は昨年末、先週から祈り求めておりましたが、この2020年、原点に帰ることを目指したらいかがだろうか、と考え、さきほどお読みした箇所から選ばせていただきました。  信仰、これは大事です。義人は信仰によって生きる、ともみことばは語っています。私たちもイエスさまの十字架を信じる信仰によって義人とされた者として、信仰によって生きるのです。それでは、聖書の語る信仰とは何か、ということを、改めまして、この箇所から学んでまいりたいと思います。  今お読みした箇所はヘブル人への手紙の11章6節のみことばですが、ヘブル人への手紙は11章に入ると、特に信仰というものを読者に説き聞かせ、その実例として旧約聖書の人物をたくさん挙げて説き起こす形になっています。  まず1節を見てみますと、信仰というものの定義について語っています。信仰とは何か。それは、望んでいることを保証するものであるということです。  望んでいること、私たちもいろいろなことを希望します。では、私たちは何を希望するのでしょうか。どのような希望が本物なのでしょうか。それは何よりも、神さまのみこころにかなう希望です。  自分の望んでいることは神さまのみこころにかなっている。そのように信じきることのできる人は幸いです。では、その希望がみこころにかなっているということを、私たちはどのようにして受け入れることができるのでしょうか。それは何よりも、聖書のみことばによって吟味することによってです。みことばどおりであると知るならば、私たちの心には平安が生まれます。その平安を抱いて、私たちは揺れ動くことなく希望を持ちつづけるのです。  この1節のみことばはさらに、次のように続きます。信仰とは、目に見えないものを確信させるものである、ということです。 もし、目に見えているならば、つまり、当たり前のようにして起こることならば、私たちは何も、特別な希望を持つ必要はありません。当たり前とはかぎらないこと、とても当たり前ではないことでも、神さまがかなえてくださると確信して、希望を持たせるもの、それがまことの信仰であるというわけです。   2節のみことばを見てみますと、むかしの人々はこの信仰によって賞賛された、とあります。新約聖書も含めてよろしいと思いますが、聖書の人物を測る物差しは、「信仰があるか否か」という点に尽きます。それは、私たちにとっても同じことではないでしょうか。このことにつきましては、のちほど見てみたいと思います。   3節のみことばを見てみましょう。見えるものは見えるものからつくられたものではない、と語ります。現代という時代は、進化論に代表される唯物論がまことの信仰にとって大きな壁となっていますが、その唯物論的な考えは、この初代教会の時代にすでに存在し、まことの神信仰に大きな脅威となっていたことを見ることができます。つまり、この聖書の書かれた時代の問題は、私たちの時代の問題と共通していたわけですが、いつの時代においても、創造主なる神さまの存在をみことばへの信仰から認めることのできる人は幸いであると言えます。この神信仰から、私たちの信仰のすべてが始まるからです。   そこで、6節、本日お読みした本文にまいります。信仰がなければ、神さまに喜ばれることはできない、と語っています。よく、神さまは私たちの存在そのものを喜んでくださる、などということばを、私たちはたやすく口にしてしまいがちのようですが、このみことばを見てみると、信仰のない人のことを神さまは喜ばない、とはっきり語っています。   信仰とは何でしょうか? イエスさまが私たちの身代わりに十字架について、私たちを父なる神の怒りから救い出してくださったことを信じることです。私たちはそのままでは、神の怒りを受けるべき罪人でした。神に喜ばれるなど、とんでもないことでした。そこから救い出してくださったイエスさまに、救いの根拠と信頼を置く、これがまことの信仰です。   しかし、ひとたびその信仰を持つべく導かれたら、神さまの怒りは、神さまの喜びへと変わります。信仰によって神さまと和解した私たちのことを、神さまが喜んでくださるのです。  さて、このみことばは、「神に近づく者は」と展開します。信仰によって神に喜ばれている者が、神に近づくことができるのです。神さまの立場になって考えてみましょう。私たちがもし、神さまの喜びという存在になっているならば、神さまは私たちに対し、ご自身にもっと近くに来てほしいと願っていらっしゃるのではないでしょうか? そのみこころに応答して、私たちは神さまに近づくのです。  しかし、神さまに喜ばれている者として神さまに近づくには、条件があることもこのみことばは語ります。まず、神がおられることを信じなさいと語っています。  神さまはおられます。私たちはもちろんそう信じ、そのように告白するでしょう。しかし、私たち自身の生活を振り返ってみたいと思います。私たちはどれほど、神さまがおられることを普段の生活の中で信じているでしょうか?  神さまは、私たちの遠くにおられるのではありません。私たちとともにおられるのです。私たちが信じるべきは、神さまがこの世のどこかに、私と関係ないけれどもおられる、と信じることではありません。神さまは、いつでも、私とともにおられる、一緒におられる、そう信じることです。  考えてみましょう。天地万物を創造され、すべてを司っていらっしゃる神さまが、ほかならぬ私のことを選ばれ、ともにいてくださるのです。これ以上素晴らしいことがあるでしょうか? このお方がともにおられることを考えないで生きるなんて、人生最大の損失です。しかし、神さまがともにおられるということを信じぬくならば、その人はどれほど人生が祝福されていることでしょうか。このお方が私たちの味方なのです。何者も私たちに敵対することはできません。  そして、6節をさらに見てみましょう。神さまが、ご自分を求める者には報いてくださるお方であることを信じなければならない、と語っています。このことを信じるためには、大前提として、神さまが生きて働いておられるお方であることを信じ受け入れる必要があります。多くの人にとっては、神さまは単なる空想の産物でしかないかもしれません。あると思えばあり、ないと思えばない、という。しかし、まことの神さまは、私たち人間がどう考えようとも、存在され、そして、みわざを行なっておられるお方です。  聖書を見てみましょう。どれほど多くの奇蹟の記事が書かれていることでしょうか。このことをもってしても、神さまは生きて働かれるお方だということがわかります。私たちが神さまを信じるということは、聖書の時代にこれだけのみわざを行われたお方が、同じように、私たちの生きるこの時代にもみわざを行ってくださると信じる、ということです。  私たちは聖書をお読みするとき、むかしはむかし、今は今、と、無意識のうちに分けて考えて、もうそのような奇蹟はこんにち起こることはない、などと考えたりしてはいないでしょうか? それは信仰的な読み方ではありません。同じお方が、同じ全能さをもって、私たちの生きるこの世界においても働いてくださる、私たちはそう信じ受け入れる必要があります。  そして、神さまが全能のみわざをおこなってくださるそのみわざは、ほかならぬ「私のため」、ということを、私たちは信じる必要があります。もし私たちが神さまを求めるならば、その信仰にしたがって、神さまが「ほかならぬ私に」みわざを行なってくださる、このことを信じることです。私たちのことを振り返ってみましょう。私たちはイエスさまを信じ受け入れてから、どれほど多くのみわざを体験させていただいたことでしょうか?  それは、神さまが私たちひとりひとりに特別に目を注がれ、私たちを神の子どもとしてふさわしく取り扱ってくださった、ということです。 全能のみわざを、ほかならぬ私のために用いてくださった、ということです。あなたを特別に選んで、特別に働かれたのです! どれだけすごいことでしょうか? 私たちはその素晴らしさに気づいていますでしょうか?   そこでこの2020年、私たちは信仰をもって神さまに近づいている者として、具体的に求めるべきことがあるのではないでしょうか? いろいろあると思います。私の人生にこのみわざを起こしてください! 私は信じます! そのように願い、具体的に祈るべきことを祈り求めましょう。  繰り返しになりますが、目に見える望みは望みではありません。少し努力すれば必ず達成できることならば、何もこの時間に祈る必要はありません。そうではなく、経済的な必要でもいいですし、努力してもなかなかどうにもならない人格の欠けが整えられることでもいいです。絶望的に思える家族や友人の健康でもいいでしょう。とにかく、祈りましょう。神さまは、その祈りがみこころにかなうものである以上、聞き届けてくださり、かなえてくださいます。  私自身を見るならば、できない、としか思えないでしょう。しかし、イエスさまならば、できないことがあるでしょうか? 何でもできるのです。信仰をもって祈ってみましょう。