みことばで武装して養われよう

聖書箇所;マタイの福音書4章1節~11節 メッセージ題目;みことばで武装して養われよう    聖書は古今東西読み継がれてきた書物なので、そのぶん、イエスさまのことばも一般に有名なものが多い。「右のほほを打たれたら左のほほも向けなさい」など、とても有名である。しかし、有名ではあっても、本来の意味とかけ離れて解釈されてしまっているものもある。「人はパンのみにて生きるにあらず」など、とくに有名だが、みんなこのみことばのほんとうに言いたいことがわかっているのだろうか?「人はパンのみにて生きるにあらず」なんて、もったいぶって文語で言うのもどうかと思うが、ともかく、そのことばのあとには、もっと精神的なものも人は必要としている、くらいにしか考えないで、「神の口から出るひとつひとつのことばで生きる」という、イエスさまがもっともおっしゃりたかったことがはしょられているのは、クリスチャンとしてとても残念に思えることである。    そこで今日の箇所。イエスさまが「人はパンのみにて生きるにあらず」と喝破されたのは、ご自身を誘惑しにかかった悪魔に対してであった。この箇所を、特に「人は……神の口から出るひとつひとつのことばで生きる」という、イエスさまのおっしゃったみことばから解き明かし、私たちにとって肉の糧のみならずみことばという糧がなぜ必要なのか、学んでまいりたい。    私たちにみことばという糧が必要な理由。第一に、私たちの生きる世界は、悪魔の試みに絶えずさらされる荒野のようであるからである。    1節以下、イエスさまは悪魔の試みを受けるように、御霊によって荒野に導かれた。イエスさまは公の生涯に入られ、神の国を大々的に宣べ伝える前に、悪魔の試みをお受けになる、というプロセスをお通りになった。    イエスさまがそこで体験された試みは、マタイの福音書、また、並行して同じことが書かれれているルカの福音書に記録されているものにかぎっても、3つ。しかし、どれもたいへんな試みではなかろうか? 空腹が襲いかかったイエスさまに、石がパンになるように命じなさい、という試み。みことばを示してまでして、神殿の頂から飛び降りてごらんなさい、という試み。サタンをひれ伏して拝むなら、世界のすべての栄華を与えよう、という試み。    イエスさまはこれらの誘惑をすべて退けられたわけだが、聖書が淡々とこのできごとを記述しているのを読むと、イエスさまが悪魔とのこの闘いをどれだけ熾烈に展開されたか、つい読み落としてしまわないだろうか? 私たちに置き換えればわかるだろう。私たちは一日でも断食することをためらってしまうだろう。おなかがすいたらからだがどうなってしまうかわからない、とか。また、自分を示して人から賞賛されたいという自分の思いに勝てるだろうか? そして、いろいろな富が与えられると思うならばそれを欲しがらずにいられようか?    もっとも、最後の誘惑に関しては、別の解釈も成り立つ。世界の栄華の背後にあるあらゆる虐待、搾取、不正……こういう世界にならないようにと、古今東西さまざまな王や政治家が志を持って社会の改革に挑んだ。しかし、私たちが知っているとおり、ひとつとして成功したものはなかった。社会を掌握する者がいかに崇高な意志を持っていようとも、所詮罪人であり、どこかで悪魔に魂を売って腐敗に手を染め、結果として社会は依然として悪魔の支配下に置かれるのである。だからイエスさまは悪魔の誘惑に屈せず、主を礼拝し、主にのみ仕えることがすべての答えだ、と悪魔に突きつけられた。    私たち人間は、このような悪魔の試みがうようよする社会に生きている。しかし、驚くことに、これだけサタンが私たちをつけ狙って、神さまのみことばに従わず、罪を犯すように誘惑しているというのに、そのようなサタンの誘惑や攻撃に対して、私たちはあまりにも丸腰ではないだろうか? それゆえ私たちは、サタンの攻撃や誘惑につねに勝てるように、身を備える必要がある。    そのモデルはやはりイエスさまである、イエスさまは、これらすべての試みに打ち勝たれた。すべて、みことばをお示しになることによってである。これらのみことばがたちどころに出てきたのは、それだけ、イエスさまがみことばに通じておられた証拠。    今から80年ほどむかし、だからそれほど前ではない時代にも、まったく同じと言っていい実例がある。アン・イスクという女性で、クリスチャンとして神社参拝に反対した音楽教師の人だが、彼女は逮捕されて刑務所で過ごす間、当然聖書を手にして読める状況でなかった中、彼女を支えたのはこれまで暗唱してきた数々の聖書のみことばだった。詳しくは教会図書にある『たといそうでなくても』を読んでいただきたいが、みことばがいかにクリスチャンをして悪魔の攻撃と誘惑に大いに勝たしめるかがこの本を読むとよくわかる。アン先生はまさに、悪魔をみことばによって退けられたイエスさまの御姿に倣っておられたわけである。    私たちがみことばを毎日読む必要があるのは、私たちを取り巻くこの社会は敵だらけだからである。橋田寿賀子のドラマは「渡る世間に鬼はない」のことわざをもじって「渡る世間は鬼ばかり」だったが、その言い方のほうが聖書的に見て正しくこの世というものを捉えている。 私たちを取って食おうとする鬼、サタンと悪霊どもがうようよするこの世間を渡るには、それなりに武装している必要がある。    イエスさまが試みを受けられたのは、ヘブル人への手紙4章15節にあるとおり。私たちの弱さに同情できるだけの立場をお持ちになるためであった。試みを受けられたイエスさまは、試みにあって苦しむ私たちに寄り添ってくださる、私たちの味方。神であられるイエスさま、試みにあわれてもなお罪を犯すことがなかったきよいお方なるイエスさまが私たちの味方である以上、だれも私たちに敵対することはできない。サタンがどんなに強くても、私たちに敵対することはできない。    それでも執拗にサタンは襲ってくる。そんなとき、私たちは自分がキリストのものであることを忘れてはならない。だから私たちはみことばを毎日読んで、この社会に遣わされていくのである。一日の働きを始める前にみことばを読んで黙想すること。それで私たちは武装できる。エペソ6章13節から17節、神のすべての武具はまず5つの防具を身につけてから、それから最後に攻撃のためのみことば。しかし、5つの防具もよく読むとみなみことばであることに気づく。みことばで充分な武装をして、つまり、神に近づいて、それからサタンにみことばで斬りかかるのである。この順番を間違えると痛い目にあう。私はかつて、リバイバルを叫んで宣教活動に精を出していた若者たちがつまずき、信仰から離れていったケースをほんとうにたくさん見てきた。それを防ぐには、戦う前に「5倍」神さまと交わることではないだろうか。    サタンは強いから侮れない。しかし、私たちはサタンに勝てる。なぜならば、イエスさまが十字架の上で勝利を取ってくださったからである。そのイエスさまのみことば、神さまのみことばを日々いただくことで、私たちは武装し、サタンとの闘いに出ていける。まさに日々の営みはサタンとの闘いの連続。その闘いに、みことばをもって大いに勝利するように祈る。    私たちにみことばという糧が必要な理由。第二に、人の霊的な空腹は神さまがみことばを語ることによって満たしてくださるからである。    礼拝の冒頭でもお話しした、サタンとイエスさまの問答。3節と4節。40日40夜何も口にしないなど、想像を絶する話である。いま、韓国のプンダンという町に「プンダン・ウリ教会」という教会を開拓し、韓国教会で素晴らしく用いられているイ・チャンス先生という方は、お父さまも牧師だったが、そのお父さまは40日断食祈祷をするように導かれ、祈祷院で祈っていたところ、それが果たせないで召されてしまったという。私の友達にも豊村くんという、リバイバルを渇望する好青年がいたが、彼も断食祈祷院で祈っていて帰らぬ人となった。断食祈祷はとてもすばらしいもので、それにまつわるすばらしい証しもたくさん聞いているが、断食して祈り通せるのは特別な恵みであって、もし40日断食祈祷ができたからといっても、それを誇ることなどできないはずである。    なぜこのようなことを言うかというと、40日の断食のあとにイエスさまに襲いかかった空腹の苦しみは、並大抵のものではなかったと想像できるからである。目の前の荒野に転がる石ころがパンに見えてきてしまう、そんな幻覚に襲われるような空腹……情けない話だが、私は少しでも食べなかったらくらくらしてしまうので、イエスさまのこの空腹の苦しみは想像を絶する。    そこをサタンにつけこまれたとき、イエスさまは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」という、申命記のみことばをもって返された。イエスさまはその全能のみわざをもって石をパンに変え、それを召しあがる、ということを決してなさらなかったのである。この箇所をお読みすると、イエスさまはなんとこのみことばを口にされることによって、40日の断食の果ての壮絶な肉体の空腹にさえ打ち勝たれたようでさえある。ということは、ほんとうに人にとって問題となる空腹は、実は肉体の空腹、食べ物を口にしないゆえの空腹ではなく、霊の空腹、みことばをいただかないことによる空腹であった、ということになる。    人はパンのような肉の糧を食べて生きる。神さまがそのように人間をおつくりになった以上、人間は食べることでいのちを保つ。しかし食べていのちを保つだけでは、人間は凡百の動物と同じことになってしまう。神さまが動物と人間を別個の存在としておつくりになった、そのしるしは、人間には神さまのいのちの息が吹き込まれている、ということである。いのちの息、これは霊であるが、人間は霊を持つゆえに霊なる神さまと交われる。動物には霊はない。お祈りをしたり、みことばを読んだりする動物はいない。人間が動物とちがって神さまと交われるのは、霊が与えられているからである。    私たちの肉体は水や穀物や野菜、果物や肉のような、物質的な糧を口にしないと空腹で衰える。しかし、ほんとうに警戒しなければならないのは、「霊的な空腹」である。「人はパンのみにて生きるにあらず」ということばが多くの人に好まれたのは、肉の糧だけで人は生きられないことにみな気づいているからだろう。その点では正解だが、ほんとうの正解は、「神の口から出る一つ一つのことば」を得ることによって、はじめて人は霊の空腹を満たし、霊の衰えから免れる、ということである。    神さまは、ご自身の霊を吹き込んでくださったほど大事な存在である私たち人間を養いたいと願っておられる。私たちの霊を、ご自身がひとことひとことお語りになることによって満たし、養いたいと願っておられる。わたしはあなたを養いたいんだ! あなたが養われるために、わたしは神のことばをあなたに語りたいんだ! この神さまのみこころがお分かりだろうか?    私たちはこの社会で活動するために、当然のように食事をとる。食事も家族で食べたり、職場の同僚と食べたりもするだろう。それだけ食事の時間は大事だと認識しているわけである。では、みことばをお読みする時間は、そこまで大事にしているだろうか?    ディボーションと聖書通読は、毎日養われて、霊が満たされ、育つ時間だから必須である。ところが私たちが神から遠ざかっていると、実は私たちが霊がとても空腹だったことにさえ気づかなくなってしまっていることになる。私たちはだから意識してでもみことばをお読みする必要がある。忙しい日々が続いても、毎日三度三度のご飯を抜いてまでして働くことはさすがにしないだろう。それと同じことで、私たちはどこかでみことばを補給しないと、ガタが来る。    ディボーションと聖書通読が個人的な「食事」なら、教会における礼拝、またみことばの学びは「会食」。コロナ下はそういうことも堂々とできなかっただけに日本の教会はずいぶん弱体化したが、とても感謝なことに、うちの教会はコロナ下でも礼拝を休むべきではないという複数の信徒の方のご意見があって、礼拝はしっかり守られて今日まで来た。私たちはやはり衰えたと思うだろうか? いまこそディボーションと聖書通読という原点に立ち帰り、毎日みことばによって武装し、養われてこの世で雄々しく戦ってまいりたい。そして、そのいただいたみことばの恵みを分かち合い、ともに強くなっていこう。 https://www.youtube.com/watch?v=srHZmlqKPR4

「主のおしえに潤される幸い」

聖書箇所;詩篇1:1~6 メッセージ題目;「主のおしえに潤される幸い」      私は9年前に当教会に赴任して以来、一貫して聖書通読とディボーションを強調してきた。しかし、みなさまはディボーションについてどれほどご存じだろうか? しっかり実践しておられるだろうか? それ以前に、やり方を知っておられるだろうか? テキストを毎月購読しておられる方も、その日の箇所の解説や関連するエッセイはさすがにお読みになっていると思うが、ご自身ではどれくらい、ディボーションに取り組めているだろうか? 今日からしばらく、ディボーション・ライフの実際について分かち合ってまいりたい。    そこで今日の箇所、詩篇1篇から学びたい。詩篇1篇の特徴は、神のみこころにかなう「幸いな人」と、みこころにかなわない「悪しき者」を対比させているという点である。このところ箴言を通読していて、お気づきのことがあるだろう。「神のみこころにかなう人」と、「みこころにかなわない人」を徹底して対比しているという点である。今朝お読みになった箇所にも例えばこのようにある。32節、「訓戒を無視する者は自分自身をないがしろにする。叱責を聞き入れる者は良識を得る。」このように両者を対比させることで、私たちは「悪しき者」にならないで「幸いな人」になろうとするわけだが、それはこの詩篇1篇に顕著である。    さっそく1節から見てみよう。幸いなことよ、ということばから始まっている。これは、イエスさまの山上の垂訓、そのはじまりの部分の、「心の貧しい者は幸いです』に始まる8つの幸いをほうふつとさせる。あれはもともと、イエスさまが大きく口を開かれ、「ああ、幸いなるかな!」と語っておられるみことばである。この詩篇もそう。「幸いなことよ」! この詩を聴く人は、これこそ幸いなことか! と、心を掴まれることになる。    では、何が幸いなのか? それは1節から3節、この詩篇の前半で語られているが、その中でもまず1節では、幸いな人のことを「○○ではない人」という定義の仕方をしている。……3つのことが述べられている。「悪しき者のはかりごとに歩まない」、「罪人の道に立たない」、「嘲る者の座に着かない」。この中でも「悪しき者」、「罪人」が、主のみこころにかなわない悪い存在であることはおわかりだろう。残る一つの「嘲る者」も、聖書の中ではしばしば、罪人、悪人の代名詞として用いられていることばである。きよい神さま、そして神さまの側に立つ人を嘲るのは、罪人、悪人に決まっている。    悪しき者のはかりごとに歩まない、つまり、悪人が考える悪い考えに染まり、その悪い考えのとおりに悪い行動をしない、罪人の道に立たない、つまり、罪人らしく振る舞うようなことをしない、嘲る者の座に着かない、つまり、神さまや神さまにつく人を嘲る立場に立って、嘲ることば、そしることばを口にするようなことをしない……生き方の姿勢においても、ことばにおいても、行いにおいても、罪人として罪を犯すことのないことは幸いである、ということである。    私たちは堕落した世に生きている。普段交わすことば、テレビやインターネットから流れ込んでくる情景、子どもや大人の触れているマンガやゲームのようなメディア、あらゆる場面で教えられる価値観……それらのものはきたない表現を使うこともいとわず、聖書的なきよい価値観、きよい生き方を容赦なくあざ笑い、反対のことをするように私たちを誘惑する。しかし、私たち人間も罪人であり、私たちが罪を犯すのは、周りの環境が悪いからではなく、罪を犯したくてたまらない性質が私たちの中にあるからである。私たちはいつでも、悪しき者のはかりごとに歩み、罪人の道に立ち、嘲る者の座に着く人間になりかねない。    主はそのような人間、そのような私たちのことを憐れんでくださった。私たちがどのように生きればよいかを教えてくださった。それが2節に書かれている。……主のおしえ、これは聖書全体。第二テモテ3章16節は聖書全体とは何かを定義しているが、それはまず神の霊感によって書かれたものであり、次に、教えと戒め、矯正と義の訓練のために有益であると述べられている。そのおしえを「喜ぶ」、これが大事。    聖書は薄い紙で字が細かい、しかも分厚い本である。外見が似ている本があるとすれば、それは英和辞典や国語辞典のような「辞書」であろう。しかし、聖書を辞書のように用いてはいけない。聖書はちゃんと通読しながら読み進めるべきもの。何度もこの講壇で言っているとおり、聖書は神さまが私たちにくださった「ラブレター」である。私も妻に出会い、結婚するまでの1年8か月の間、ずいぶん手紙をもらったが、なにしろこちらは日本、あちらは韓国と、1000キロ以上も離れて暮らしていたので、ラブレターを宝物のようにしてためつすがめつして読んだものだった。みなさまにもそんな経験はないだろうか? それほどまでして読んだのは、読むことが「喜び」だったからにほかならない。    では、どうすることが主のおしえを喜んでいることのしるしとなるだろうか? それは、「昼も夜もその教えを口ずさむ」こと。昼は、起きて活動している時間だが、そのときにもみことばを心に留める。夜は、眠る前の安らぎの時間だが、その時間にもみことばを読んで一日の恵みに感謝し、次の日に備える。また、昼も夜も、ということばには、一日中どんな時も、という意味もある。    こうしておしえをつねに口ずさむほどに喜ぶならば、そのおしえは今の自分にとってどんな意味があるのか、考えるようになる。また、今の自分だったらそのおしえを受けて、どんなふうに考え、どんな態度を取り、どんなことばを語り、どんな行動に出ることが神さまのみこころにかないますかと、祈ってお伺いするようになる。ディボーションとは、このことの繰り返しである。聖書解説や関連エッセイを読むのももちろんいいけれども、このように「おしえ」を受けることを欠いては、せっかくのディボーションの恵みがもったいないことになる。    さて、主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人は、どのように「幸い」なのだろうか? 3節。この詩が口ずさまれた地域、イスラエルは雨季と乾季がはっきりしていて、つねに潤っている日本からは想像がつきにくいが、水に潤されることは大いなる祝福である。しかし、潤されて栄える祝福を享受するのは、その栄えを独占し、自分だけが祝福を受けるためでは断じてない。流れのほとりに植えられた木は、見るからに爽やかな緑の葉を茂らせ、流れのほとりにからだを休ませに来た人々に木陰を提供して憩わせる。イスラエルは乾季になると木々は葉をつけない荒涼たる景色となるが、この木は枯れずに青々とした葉をつけつづける。人々をよい気持ちにする麗しさが途切れることなく続く。    そして、実を結ぶ。ただし、時が来ると、とある。木に水をやったらすぐに実を結ぶわけではないのと同じように、つねにみことばのおしえに潤されつづけることによって、神さまの時にしたがって実を結ぶようになる。同じように、ディボーションは一日やって恵まれたから、と、間を空けてさぼったりしていてはいけない。それでは潤されていないことになる。ディボーションは毎日続けることで、ようやく時が来て実を結ぶもの。だから、すぐに実が結ばれないからと、あきらめたりしてはいけない。時が来れば必ず実を結ぶと信じて、あきらめずに主の教えを受けつづけよう。    さて、実というものは、たわわに実らせて自慢するためにあるのではない。その実を食べさせ、人々を心地よくし、また、栄養を供給するために、木が実を結ぶように、私たちが実を結ぶのは、自分のためではない。ほかの兄弟姉妹に祝福をもたらす働きに、用いていただくためである。私たちクリスチャンの結ぶ実といえば、ガラテヤ人への手紙5章22節と23節にはっきり書かれているが、これらのことは、そういう実を結んでいるあなたは立派ですね、とほめられてうぬぼれるために身につけるものではない。その性質を身に着けて、人を愛し、人に仕えることで、神の栄光を顕すためである。キリストのからだなる教会のため、また、周りのまだイエスさまを知らない人たちのため、そういう人たちに隣人愛を実践するために、これらの実を結ぶのである。    聖書を単なる素養のためとか、知識を増し加えていい気分になるために読むようでは、実を結ぶことも、いわんやその結んだ実で人々を愛する実践をして神の栄光を顕すこともおぼつかない。だからといって、むりやり何かの行動をする前提でみことばを読み、そのみことばとその日に取るべき行動をこじつけるようなディボーションをしてもいいということではない。みことばに教えられ、そこから行動の慣れるまではある程度の練習が必要だが、御霊の導きがあるかぎり、必ずできるようになるから、あきらめないで毎日取り組んでいただきたい。    さて、4節から6節はおもに、この「幸いな人」と対照的な、「悪しき者」の特徴を述べている。もちろん、あなたがた神の人はこういう者になってはいけませんよ、ということを教えているわけである。まず4節、悪しき者はそうではない。つまり、流れのほとりに植えられた木のように、繁らせる青葉によって人を憩わせる祝福、結ぶ実によって人を養う祝福などない、ということ。あたかもその姿は、風に吹き飛ばされる籾殻のようだというのである。    このあいだ韓国に行ったとき、コンベンションの会場となった平澤大光教会の教会員の経営するお蕎麦屋さんに行く機会があった。平澤大光教会の裵先生のお気に入りのお店である。このお店はおいしく、からだによいものだけを使ってつくるので評判がよい。最大の特徴であるそば粉も自家製で、韓国に2台しかないという特殊な碾き臼もお店の一角にあり、店長さんは粉づくりを実演してくれた。そばの実を機械に入れ、ゆっくり臼で碾くうちに良質のそば粉が出てくる。臼で碾く前段階で、そば殻を取り除くのだが、取り除かれたそば殻がたっぷり入った入れ物のところに書いてある説明書きに目が行った。「そば殻は食べられません。」    そういえばそうだ。そば殻は枕に入れて使うのが関の山で、食べるものではない。籾殻は穀物の一部のようでいて、実際は人に栄養を供給することができないから取り除かれて、捨てられるしかない部分。色といい形といい大きさといい、中身の粉よりも立派に見えるが、所詮外見だけ。だれのことも養えない。しかも、吹けば飛ぶように軽いし、むなしい、中身がない。神のみことばの教えに潤されていないと、そのように中身がなく、何かあったら吹き飛ばされてしまう、いわんやだれのことも養えない悪い人間になってしまいますよ、ということが警告されているわけである。    そのようにむなしい存在はどうなってしまうというのだろうか? 5節。悪しき者はさばきの前に立てない。ひとつとして義が認められず、神のさばきに服するしかない。それなら、正しくあるようにしなければならないのだが、正しい者の集いに足を向けようともしない。彼らは神のさばきを嘲笑い、神が正しいとしてくださった者たち、すなわち、神が救ってくださった者たちの群れである教会に足を向けることをしない。馬鹿らしいと思うわけだが、実際はその集いの中で自分の罪が明らかになり、さばかれることを恐れているだけである。    6節。正しい者の道を主が知っておられるということは、主のみこころにかなう正しい人がどんなにふさわしい道を歩んでいるかを、主がご存じで、認めてくださっている、ということである。そして、私たちが心に留めるべきは、主はこの正しい者の行くべき道を、私たちにみことばのおしえをもって示してくださっている、ということである。    これに対して、悪しき者の道は滅び去る。あってある方なる主のみこころにかなわない者が行く道は、滅んで当然である。しかし、私たちはこの世界で悪の勢力が栄えるリアルな現実を前にして、果たしてこのみことばはほんとうだろうか、と、疑わしくなったり、むなしくなったりしないだろうか? だからこそ私たちはみことばの教えにつねに潤され、みことばこそが現実であり、目に見えている世界はやがて過ぎ去る虚構であることをつねに心に留めながら生きる必要がある。それが神の民に必要なことである。    詩篇1篇のみことばは、私たちがどんなにみことばの教えに潤される必要があるか、潤されて、人々を憩わせ、人々を養うことに用いられる祝福をいただく必要があるかを教えている。私たちはどうだろうか? 日々みことばに潤されよう。その日々いただくみことばの恵みによって、互いを潤し合おう。LINEの分かち合いコミュニティをぜひ活用していただきたい。 https://www.youtube.com/watch?v=srHZmlqKPR4

「輝く安息日」

聖書箇所;イザヤ書58章1節~14節 メッセージ題目;「輝く安息日」    今年の教会のテーマは『主を仰ぎ見て輝こう」であるが、私たちは果たして、この年間テーマほど輝くことができただろうか? 輝くためには何が必要だろうか? どのようにすればみこころにかなって輝けるかのヒントは聖書のあちこちから見出せるが、今日の箇所は特に、こうすれば輝ける、ということが述べられている。特に強調されていることは、見せかけの宗教的な断食ではなく、みこころにかなった断食をすること、そして、安息日をしっかり守ること。私たちはどうだろうか?    今日お話ししたいことは、このみことばに集約されているとおり、「主のみこころを実践しましょう」、「安息日を守りましょう」、これに尽きるが、それはどういう論理で語られていることなのか、せっかくの主日礼拝なので居眠りしないで聞いていただきたい。    1節。ヤコブの家とは神の民イスラエルのこと。イザヤの預言を聴くべき民は、大声で警告されなければならない状況にあった。    国と民族にとってもっとも警戒すべきことは、神のご命令に国と民族を挙げて背くことである。それは、大声をあげてでも阻止しなければならないこと。神の民は、神に背くこと以上に警戒しなければならないことはない。ヤコブ以来、民族全体がいのちの契約を結んでいる以上はそうなのである。    大声をあげて警告すべき状況に置かれている場合、その声に聴き従うか否かの選択は、国と民族に任されている。この警告を真剣に受け止め、真剣に悔い改める者は幸いである。神の民は神に聴き従っていないと、いとも簡単に全体が神のみこころから外れてしまう。そんなとき、みこころはこれだと指し示してくれる人がいることは、どんなにありがたいか。    韓国のキリスト教会の歴史において起こった最初のリバイバルは、1907年のことだった。この年、韓国は日本との間に保護条約を結ばせられ、国が日本に吸収合併させられるまさに瀬戸際にあった。そのとき主は、クリスチャンたちを立ち上がらせられた。全国的、全民族的な悔い改め運動、早天祈祷運動、聖書研究運動が展開され、多くの人が主に立ち帰った。国難ともいえる危機を前にして、主は民を目覚めさせてくださったのである。    もちろん、日本にもそういう、まるで預言者のような働き人がいなかったわけではない。しかし多くの者は耳を傾けたわけではなかった。それがいまに至るまで、日本のキリスト教会が、福祉面や文化面や教育面はさておき、少なくとも霊的面において、日本にさしたる影響を与えられていない現実につながってはいないだろうか?    聖書の本文に戻ろう。では、神の民は何を警告されているのか? それは信仰生活の態度だ。2節を見よう。立派だ。はたから見れば百点満点だ。しかし神さまの御目にはそうではない。3節のかぎかっこを見よう。このように、人は宗教行為によって神さまに充分に認めていただけたと、自分で思いたがる。特に、断食という宗教行為は、食べるべきものを口にしない分、苦しい。なんだか、霊的になった気分である。しかし、神さまはそういう自己満足に浸ることを霊的と見なしてはくださらない。イスラエルは言うだろう。「なんでですか! あなたさまのためにこんなに頑張っているんですよ! なぜ認めてくださらないんですか!」しかし神さまは、肉体の苦行という自己満足に浸ることは断食の意味をはき違えている、とお叱りになる。    彼ら神の民は、断食をしながら好き勝手なことをする。弱い人をこき使う。喧嘩をする。こんなことをしながら断食という宗教行為をしようとも、神さまはそれをお認めにならない。5節の民の姿は、いかにもしおらしく、また宗教的で、こうまでしているのだから神さまは認めてくださる、許してくださる、と思っているだろうが、神さまはお許しにならない。    神さまは、悟らない民に、正しい断食とは、ということを教えてくださる。6節。人を束縛し、こき使い、搾取することが当たり前の社会において、神さまは画期的なことをおっしゃった。人を自由にしなさい。解放しなさい。痛めつけるのをやめなさい。貧しい人に食べさせなさい、雨露しのげる場所を提供しなさい。着せてあげなさい、そして肉親を顧みなさい。    そのように、顧みるということを実践する者に、神さまはどんな祝福を与えられるか? 8節。今年のテーマは「主を仰ぎ見て輝く」だが、主を仰ぎ見て輝くのは宗教行為に手を染めさえすれば、ということではない。主が特別に目を留めておられる、貧しい人、虐げられている人を顧みることによって、はじめて輝くことができる、いやしと回復をいただくことができるのである。    9節、10節、ここで語られている祝福は、主と一対一の交わり、豊かな交わりを持てるということ。それは、主の願っておられることを具体的に実践することで体験できる喜びである。    11節を見てみよう。潤された園は人を憩わせるためにあり、枯れない水源は人を潤すためにある。人を祝福し、その必要を満たすことこそ、私たちにとっての祝福である。また、12節を見よう。荒れた社会をよくする、破れ口ができてしまった社会のほころびを繕うがごとく、この社会をよくするために仕える、その働きに用いられることも、私たちにとって祝福である。決して、自分さえ祝福されればそれで充分、というのは、ほんとうの祝福ではないのである。    少し前になるが、吉永小百合と大泉洋が主演した映画『こんにちは、母さん』を観た。進駐軍のかまぼこ兵舎を利用した礼拝堂をいまに遺す教会が東京の墨田区にあり、その礼拝堂が登場するというので観に行ったのだが、特にスポットが当てられていたのは、寺尾聡演じる牧師とその教会の活動である、隅田川沿いに暮らすホームレスへの給食伝道である。その活動にいそしむ牧師に、吉永小百合演じる主人公の老婦人は恋をするのだが、この映画は、一般の日本人はキリスト教会というものに対してこのようなイメージ、福祉のボランティア活動に力を入れる善良な人々、というイメージを持っていることを教えてくれる。    いや、物語の話だけではない。現実の教会も、最近では子ども食堂の活動をしている教会も多くなっているように、ちゃんとやるべきことをやっている。神さまから受けた祝福を、必要なところに「流す」ことをしているわけである。私たちはどうだろうか? まだまだ少ない群れだが、そのような群れでも何か主に喜ばれることができないか、具体的に話し合い、できることから実践しはじめてみてはいかがだろうか。    もっとも、私は、教会はすべけらくボランティア活動に精を出すべき、と申し上げたいわけではない。ボランティア活動そのものが教会活動の目的となっても困る。例の映画は、私が牧師の立場でつい見てしまうからそう思うことは百も承知だが、牧師に惚れたその老婦人の、イエスさまに対する信仰が伝わってこなかった。    まあ、この映画は、ノンクリスチャンの山田洋次監督の作品だから仕方がないのだが、それにしても、と思った。せっかく仲良くなれた牧師が北海道に赴任することになり、遠く離れることになったら、老婦人は、新しく来る牧師は外国人だからいやだ、もう礼拝なんか行くものか、とかなんとか駄々をこねて、お酒を飲んで寝てしまう。これは、神さまとの関係の中で歩んでいたのではなく、ボランティア活動に精を出させることで生きがいを与えてくれた人に惚れていたに過ぎなかった、ということである。それにしても牧師が転任したくらいでお酒をあおって、もう教会に行かないなんて言おうとは……。私は山田監督に、日本のクリスチャンはそんなやわじゃありませんよ! と抗議をしたくなったが、しばらく考えているうちに、案外こういう弱さは、日本の「真面目な」クリスチャンが抱えているものなのかもしれないと思い直した。    このように、奉仕のほうを神さまへの礼拝よりも優先させることで宗教的満足を得ようとするクリスチャンの傾向を、私は「マルタ・シンドローム」とお呼びしたい。これは、特に真面目な傾向の強い日本人クリスチャンの陥りやすい罠ではないかと考える。そうなっても私たちクリスチャンはほかの人々を助ける働きをすべきなのではないことは、当然である。    では、私たちが不満だらけの「マルタ」にならないためには、どうすればいいだろうか? 具体的にどうすることが、イエスさまにその姿勢を認められた「マリア」のようになることだろうか?    13節と14節。これがもっとも今日お話ししたかったことである。私たちがこの日に最も集中してとどまるべきところは、主の宮なる教会である。    ほかのところに出歩くのは、主の御名のおかれた宮に気持ちが集中していない、すなわち、主に意識が集中していないからである。自分の好むこととは何だろうか? 神さまのみこころと関係のないこと、より具体的には、教会の徳を立て、教会を形づくることとはまるで関係のないことばかりすることである。    また、「無駄口」とある。安息日は、自分の言いたい放題をしゃべる日ではない。ことばを慎むうちに主の語りかけに耳を傾けられるようになり、たましいが養われ、枯れない泉のようになる。そうしてこそ私たちは人を潤す備えができ、結果として祝福を受けられるようになる。地の高いところとは、天におられる主に近づく祝福の場ということであり、そのように俗世を離れ、主のみそばで養われるという、大いなる祝福をいただく。    人を養うことそのものも祝福だが、その祝福はまず、私たちが安息日を大切にするという形で、主のみことばに従順にお従いし、時間を主にささげる祝福を毎週体験しつづけることから始まる。私たちはこの日に光を受けることなくして、いかにしてこの世で輝くことができるだろうか? 世の光とされた者にふさわしく振る舞うことができるだろうか? 光を受けずして私たちは光として振る舞えない。私たちが世の光なのは、主の光を受けていることが大前提で、私たちにとっての安息日なる主の日は、復活のイエスさまの栄光を受けるすばらしい日なのである。    私はこれまで、みなさまに何らかの事情があったら仕方がない、とばかりに、主日礼拝を欠席することを黙認してきた。ご病気だったらさすがに仕方がないが、何かのイベントを優先させなければならない、という方の選択を認めることもしてきた。しかしそれは間違いだった。    病院に入院した患者は、どんなことがあっても栄養を取らなければならない。ちゃんと食べようと思えば食べられるのに、あれこれ理由をつけて病院食を食べなければ看護師さんに怒られてしまう。それは患者の身を案じてのことである。    私も同じように取り組むべきだった。あれこれ理由をつけて主日礼拝を休むことが癖になってしまうと、私たちは著しい栄養失調に陥り、それを取り返すには並の努力ではどうしようもない。ほんとうに私たちの生活を支えるのはこの世ではない。主の御前である。  …

「無理解の罪」

聖書箇所;マルコの福音書12章35節~44節 メッセージ;「無理解の罪」 私の小学生のときの担任の先生がよくおっしゃっていたことですが、「無知は罪悪である」。いろいろなことを教えてくださる、尊敬すべき先生だっただけに、そのおことばには説得力がありました。もともとは「無知は罪なり」というソクラテスのことば、知らなかった、わからなかった、習っていないと開き直ることや、知ろうとしない、学ぼうとしないことは無知であり、それ自体が罪であるということです。 聖書ではこのことを何と語っていますでしょうか? ヨハネの福音書の1章5節、有名な「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」というみことばの、「闇は光に打ち勝たなかった」は、聖書の訳によっては「暗闇は光を理解しなかった」とあります。この訳を比べてみると、なるほど、と思います。相手が強すぎて、高尚すぎて、とても理解できない、ゆえに負けるしかない。サタンの率いる暗闇の勢力は、イエスさまという光が理解できないゆえに、負けるのです。 ソクラテスのことばを援用すれば、イエスさまに対する無知がサタンを罪に定めるといえましょう。もしイエスさまがほんとうにお従いすべき神の御子であると知っていたら、サタンはただちに自分の王権を取り下げ、イエスさまに従うことを選ぶはずです。しかしサタンはそのようにイエスさまのことを理解しないので、相変わらず王様のようにふるまい、結局は滅んでしまいます。 そういう、無知。イエスさまというお方、そしてイエスさまの教えを知ろうとしないことが、どれほどの罪の弊害をもたらすかということが、さきほどお読みしたみことばに如実に表れています。一見関係のない3つのできごと、しかし、これらすべては、律法学者の無知の罪、無理解の罪という共通点を持っています。それでは見てまいりましょう。 まず、35節から37節、律法学者は、キリストに対して無理解でした。 35節、イエスさまはひとつの問題を提起されます。それは、律法学者が、キリストはダビデの子であると主張している、ということです。 しかし、私たちは思いませんでしょうか? 福音書のほかの箇所を読んでみると、目の見えない人が「ダビデの子よ」とイエスさまに呼ばわり、イエスさまはそれをよしとしてその人を見えるようにしてくださいました。キリストはダビデの子孫としてこの世にお生まれになることは、旧約に預言されているとおりですし、新約においても、マタイの福音書のはじめから、キリストがダビデの子孫としてこの世界にお生まれになったことがはっきり書かれています。それならキリストのことを「ダビデの子」、つまり「ダビデの子孫」とお呼びすることは何が問題なのでしょうか? イエスさまがお語りになっている36節のみことばは、旧約聖書の詩篇110篇1節のみことばです。これはダビデ自身が語ったことばであり、最初の「主」は父なる神さま、次の「私の主」は子なるキリストです。ダビデはこのように、唯一なるお方にもこのように「位格」があったことを認めています。そしてダビデのこの詩が、立派にみことばとして聖書に採録され、これは律法学者たちにとっても聖典として信じ受け入れるべきみことばとなっているわけです。したがって律法学者たちは、ダビデにとってキリストは、実はダビデがこの世に生まれるはるか以前、永遠のむかしからおられる主であることを認める必要がありました。 それにつづく37節のみことば……これは一見すると、私たちが中学生・高校生のときに国語の「古文」の授業で習った、「反語」ではないだろうか、と思いませんでしょうか?「どうしてキリストがダビデの子なのでしょう、いや、そうではない」などと。しかし、これは日本語の反語ではありません。イエスさまのおことばは、キリストはダビデの子では「ない」と言っているのではありません。ダビデの子ではあるのだが、それだけの理解では充分ではない、ということです。ダビデにとって主であるように、キリストは主である、すなわち神の子である、神である、という理解が必要でした。 イエスさまがこのようにおっしゃるのも、当時律法学者たちが民に説いていた教えは、キリストはダビデの子としてここユダヤに来て、ユダヤをローマの圧政から救い出す王として統べ治める、という、政治的、この世的なメシアとして理解せよというものであったからです。そこには律法学者の鼻持ちならない選民思想が透けて見えてこないでしょうか。それ以上に、このように教えては、イエスさまに出会う道が閉ざされてしまいます。キリストについて民に正しく教えない、そのために、キリストに出会う道を閉ざしてしまう、ということは、律法学者のもたらす弊害といえました。 もっともイエスさまは、ご自身がダビデの子であることを堂々と公言されて民衆を率いるようなことはなさいませんでした。人からはしがない大工の子と思われていたお方です。出身地も旧約の預言にあるとおり、また私たちが福音書を読んで知っているとおり、ベツレヘムだと知られていたわけではありません。ガリラヤのナザレ、何のよいものが出るだろうと人から軽蔑されていた地域のご出身と思われていて、そのようなお方が家系においてもダビデの子孫だったことはほんとうなのにもかかわらず、人々の目には隠されていました。 いわんやイエスさまが、神の子キリストであることは、どれほど隠されていたことでしょうか。律法学者たちはその時代において、もっともよく聖書を調べ、研究していた人たちではなかったでしょうか。ところが彼らは目の前に、その預言の成就も成就、キリストご本人がいても、わからなかったのです。いや、彼らは少しへりくだれば、わかったはずなのに、一切認めようとしない、無知な自分のしがみついたために、キリストに出会う、キリストに献身する大きな機会を逃しました。それどころか、このお方を十字架送りにしました。無知の罪はここに極まったのでした。 しかし、キリストがこのように、人間的な家系においても、それ以上に神であるということにおいても、みことばにおいて証しされているお方であり、このキリストはイエスさまであるということを知ることができたのは、神さまの一方的な恵みとあわれみによることでした。立派なことを教える律法学者ではなく、このような異教社会の異邦人の中からイエスさまへの信仰を持ち、イエスさまに献身するようになれたのは、私たちが何かすぐれていたからではありません。神さまが一方的に私たちのことを選び、救いに定めてくださったからでした。 したがって、私たちのことを誇ることなどできません。もし私たちが自分のことを誇ったりするならば、それでは律法学者たちと同じです。人よりも自分が優れている、神に認められている、霊的ステージが高い、こんなことを考えるようでは、神さまを誇っている、賛美していることになってはいません。 私たちは日々、ふさわしいキリスト理解に導かれることで、キリストをとおして与えられた永遠のいのちを生きる者となっていきます。永遠のいのちのすばらしさは、私たちはまだまだ分からないところだらけで、しかしそれを知れば知るほど、私たちは神さまに献身する恵みの中に入っていこうと祈りつつ努めるでしょう。ご覧ください。彼ら群衆はイエスさまの教えを聞いて、どんなに喜んでいたことでしょうか。それはこのお方をとおして永遠のいのちに入れられる恵みがあることを、彼らは知ったからでした。イエスさまを知る恵み、その恵みがいつも私たちとともにありますようにお祈りします。 次に39節、40節です。律法学者は、律法の精神である愛に対して無理解でした。 よい衣を着て歩き回りたがる、広場であいさつされたがる、会堂の上席に座りたがる、宴会の上座に座りたがる……これが当時の律法学者が当たり前に取っていた態度でした。 人にほめられたがる、ひとからちやほやされたがる、それは、いやしくも主のしもべであるならば、もっとも取ってはならない態度でした。イエスさまはちやほやされたい動機で振る舞われるお方ではありませんでした。それなのに人は、いざ宗教的な指導職に立ったら、なんと人からかしずかれたいと思ってしまうことでしょうか。 それだけではありません。彼ら律法学者は「やもめの家を食いつぶす」とあります。当時、寡婦はきわめて厳しい立場に置かれていました。こんにちにおいてたいへんな思いをされているシングルマザーの方々のようです。具体的には、こういうことだったそうです。①資格もなしに寡婦に法的な助けや助言をして、過剰にお金をとる、②寡婦たちの不動産の後見人のようにふるまって詐欺を働く、③厚かましく寡婦のもてなしを受ける、④寡婦の不動産を正しく管理しないで経済的な損失を与える、⑤彼らのために長々と祈ってお金を取る、⑥返せない借金のために苦労している寡婦の家を抵当に入れて財産を食いつぶす、そういうことを、律法学者たちは宗教指導者であることをいいことに、堂々と行なっていたというわけです。 宗教指導者がである律法学者がこうも振る舞えたのは、ユダヤの信仰共同体における自分の立ち位置を勘違いしていたからです。間違っても彼らは、上に立つにふさわしい待遇を主張できるような立場にはありませんでした。 ボタンの掛け違い、ということばがあります。最初のボタンを掛け違うと、あとはすべて掛け違うことになります。彼らがこうも振る舞っていたのは、まず、キリストを認める信仰に至っていなかったところにあります。キリストを正しく認めていれば、目の前におられるこのお方、イエスさまこそキリストであるとわかったはずです。そうなったら彼らは、偉そうに振る舞うのをやめ、自分もキリストにお仕えするしもべとして振る舞うことができるようになったはずです。その信仰がなかったから、彼らは恥知らずにも人に仕えるどころか、人からむしり取るような生き方をやめなかったのでした。 先週も学びましたとおり、律法の精神は愛です。神を愛し、人を愛する、これこそ律法の精神です。しかしイエスさまは、律法学者は口では偉そうなことを言っていても、行いでは律法を否定してはばかるところを知らない、それは、愛していないからだ、ということを見抜いておられました。神の愛がある人が、寡婦を食い物にできるでしょうか? さあ、尊敬しなさい、とばかりに、人々の前で偉そうに振る舞えるでしょうか? 私たちは少なくとも、キリストのしもべであると自分のことを思うならば、律法学者のようであってはならないと思うでしょう。では、そうならないために、どうすればよろしいでしょうか。それには、王の王なるイエスさまがどう振る舞われたかを知ることです。ピリピ人への手紙2章、3節から8節をお読みしましょう。 まさに、へりくだることこそ天にます王なる証しです。へりくだることを知らない者、威張るような者は、高い地位がもっともふさわしくありません。しかし、人は神さまの基準から極めて遠い罪人です。ほめられたいし、大事にされたいし、愛されたい。しかし、へりくだる道は、人からけなされようと、粗末にされようと、嫌われようと、なおキリストに従うゆえに人をほめ、人を大事にし、人を愛する歩みです。それは、真にへりくだられたイエスさまの姿から学ぶことができます。 それでこそ私たちは、律法学者をしのぐ働き人にしていただけます。イエスさまは少なくとも、律法学者に対して、その教えていることをあなたがたは守り行うべきだ、と、一定の評価を与えていらっしゃいます。それなら私たちは何をもってイエスさまの評価をいただくことができるでしょうか? 律法学者にないものがあるとしたら、それは何でしょうか? 律法学者は偉ぶった態度を取って弱い者によって自分を支えるという、間違った姿勢で神の民の共同体の中で生きていました。 神の民の共同体において働き人は、高いところにいてはいけないのです。いるべき場所はいちばん下のしもべの場です。しかし、しもべの場にてしもべとして振る舞う人を、たとえ人は評価しなくても、神さまは「よくやった。よい忠実なしもべだ」と評価してくださいます。 私たちは人の評価が聞きたいでしょうか、それとも神さまの評価をお聞きしたいでしょうか? 神さまに認められるしもべとして振る舞う私たちとなりますようにお祈りします。 最後に41節から44節、まずお読みします。 これは、律法学者と関係があるのでしょうか? 関係あります。というのも、まさにこの寡婦に苦しい思いをさせていたのは、律法学者であったからです。 律法学者は何に対して無理解だったのでしょうか? 律法学者は、礼拝の実践に対して無理解でした。この寡婦がささげた献金は、金額的に見ればほんとうにわずかでした。ほかの礼拝者たちと比較するなら、みじめになるような献金額でしょう。みんなが見て、見ろ、この女はこれっぽっちしか献金してないぞ、と笑いものにしたかもしれません。そこまであからさまでなくても、少なくとも心の中でさばくぐらいのことはしたでしょう。 しかし、イエスさまは彼女の恥をそそがれました。金持ちよ、聞くがいい。この女性はだれよりも多く献金したのである。生活の手立てをすべてささげたのだから。 イエスさまのこのおことばは、同時に、彼女たちを苦しめて恥じるところのない律法学者たちに対する、痛烈な批判にもなっていました。おまえたちはこれほどまでに彼女のことを貧乏な立場に留め置き、何のケアもしていない。そんな彼女が実に素晴らしい信仰で神の前に出ている。おまえたちはこれを見て恥ずかしくならないのか。いったい、おまえたちのしていることは何だ。 この寡婦は、神の国を受け入れることにおいて、まるで幼子のようです。幼子は大金など持っていません。ただ純粋に、まっすぐに神さまのもとに行くだけです。そこには計算などありません。それに引き換え、妙に大人じみた信仰者の、なんといやらしいことでしょうか。手元に自分の取り分を取っておき、表面的に敬虔な信仰者のふりをして生きる。アナニアとサッピラはそんな献金をしたばかりに夫婦して神のさばきを受けて死にましたが、私たちもアナニアとサッピラの夫婦と五十歩百歩ではないでしょうか。 彼女はまた、宗教指導者に苦しめられていることを、献金をささげないことの言い訳にはしませんでした。どんな宗教指導者のもとにいようとも、ちゃんとおささげしていました。それだけに、寡婦のこの純粋な信仰を利用して好き放題をしている宗教指導者たちには、神の怒りが下るのです。その怒りは、イエスさまを十字架送りにするほどにイエスさまが見えなくなっていた、という形で実現したのでした。 さて、誤解してはならないのですが、神さまは「金額」ではなく「収入に対する率」を見ておられるのではありません。以前、この箇所から、そういうメッセージを堂々と牧師が述べる場面に出くわしたことがありますが、その教会はパワハラ、セクハラのオンパレードで、信徒は多額の献金をささげることを強要されていた群れでした。この牧師の言っていることは理屈としては通っているように見えるかもしれませんが、理屈は理屈でも律法学者の理屈です。 もし、収入に対する率が高い献金をしたとしても、それは自己満足の宗教行為に過ぎない、ということは充分あり得ます。しかし、それは献金としてふさわしくありません。反対に、私たちの献金にささげものとしての心が込められているならば、主はその心を評価してくださいます。聖歌にあるとおり「すべてをささげ/むなしきわれに/御名のためいま/満ちさせたまえ」とあるとおりの、御霊の満たしを不思議なことに私たちは体験します。 献金はだれか人の目を意識してすることではありません。どこまでも神さまとの関係の中で行うことです。人を意識したら、献金が少なかった恥ずかしくなり、多かったら傲慢になります。 しかしそれはどちらも間違っています。第二コリント9章6節をもし、献金を人を意識するものという前提で受け取ったら悲惨きわまることになります。重要なのはそのあとの7節です。主との関係でおささげすることによって私たちには平安が与えられます。 主にある愛がないことも、礼拝をもって神さまと正しく関係が築けないことも、すべてはイエスさまのことを救い主と理解できるだけの信仰がないことによります。私たちにその信仰が与えられていることに感謝しましょう。この信仰は神さまの選びの中で与えられているものですから、神さまにすべてのご栄光をお帰しします。

あなたは神の国から遠くない

聖書箇所;マルコの福音書12章28節~34節 メッセージ題目;あなたは神の国から遠くない 映画のような娯楽で好んで取り上げられる題材に「道場破り」というものがあります。腕に覚えのある者がいきなり他の流派の道場に乗り込んでいって、そこの師範代など主だった門弟をはじめ、すべて倒し、道場の看板を持ち去ったりする、というものです。もちろん、失敗することもあるわけですが、道場破りが現れたら血が騒ぐ、というような道場主や門弟もいたのだろうか、と、想像力をたくましくします。私がむかし好んで投稿していた週刊朝日の「山藤章二の似顔絵塾」というコーナーでも、単純な似顔絵ではなく、信じられないような描き方をする投稿者が老若男女、日本のあちこちから投稿してきて、塾長の山藤画伯はそういう人のことを「道場破り」と呼んでいました。そのような「道場破り」は、やがてプロの絵描きさんになった人も多く、山藤画伯はそういう人たちのことを、頼もしく、また誇らしく思っていたのではないかと思います。 しかし、「わたしが道である」とおっしゃったイエスさまに、あたかも道場破りのように立ち向かうならばどうでしょうか。今日の箇所に登場する律法学者は、一種の「道場破り」のたぐいと言えるかもしれません。パリサイ人やヘロデ党、サドカイ人の「刺客」にも似た者たちを次々と論破するのを見て、それなら、と立ち上がったのが彼でした。イエスさまは彼との対話を通じて、イスラエルの人たちにとって、というより、私たち人間にとって何がいちばん大事なことか、教えてくださいました。 28節のみことばです。……この律法学者はどのような動機があって、イエスさまにお尋ねしようと思ったのでしょうか。ほぼ同じことが書いてあるマタイの福音書22章によれば、この人はイエスさまを試みよう、試そうとしてやってきた、とあります。イエスさまがサドカイ人たちのことを黙らせたと聞いたパリサイ人たちが話し合って、そのひとりを送った、ということです。もし、このパリサイ人と、今日の箇所に登場する律法学者が同じ人物ならば、彼の目的はイエスさまを試みることにありました。 しかし、今日の箇所の全体のトーンを見てみると、彼はイエスさまをやり込める態度満々ではなかったようです。そのことはあとでお話ししますが、ともかく、イエスさまはほぼ、律法学者たちに対して厳しかった中で、例外的に、この律法学者に関しては認め、受け入れることさえなさっています。 話の流れからすると、マタイの福音書のパリサイ人とこの箇所の律法学者は同じ人物と判断できますので、その前提でお話してまいりますが、パリサイ人の集団は、イエスさまを試みて、あわよくば当局に引き渡してやろうという、どす黒い野望を持っていました。しかし、この律法学者の代表選手に関しては、たしかにイエスさまを試みよという命(めい)を受け、それに従って行動しようとしてはいたものの、イエスさまのみことばを受け入れる下地はあった模様です。 この律法学者は、すべての戒めの中で最も大事な戒めは何ですか、と、お尋ねしました。イエスさまは、律法学者たちからしてみれば、きよめの洗いについてですとか、安息日を守ることについてですとか、あまりに急進的な律法の解釈をしているように見えました。何とかしてイエスさまのラディカルな聖書解釈をあげて罠にかけよう、という、パリサイ人たちの謀略があったのかもしれないことが、この質問から透けて見えます。 もっとも、この律法学者がこの質問をした意図は、パリサイ人たちの考えとはまったくちがうところにあった可能性もあります。彼はこの質問を投げかけることで、イエスさまが何を大切にすべきかということが結果的に教えていただける、そこまで考えて質問したとも言えます。 人はときに、私たちクリスチャンに意地悪な質問をしてくるように思える時があります。しかし、そういう質問をする人は、案外、真理とは何かを知りたくて、そのように一見意地悪に思える問いを投げかけることもあると考えるべきです。意地悪な質問を恐れてはなりません。聖霊なる神さまは。いざというそのとき、私たちに最も素晴らしい知恵を授けてくださり、神の真理をその人の前で解き明かさせてくださいます。恐れないで信じて行動していただきたいのです。 律法学者たちは、聖書から導き出して、合わせて613にもなる戒めを集大成していました。これは、248の「しなさい」という戒めと、365の「してはならない」という戒めから成り立っています。「しなさい」の248は、成人の人間の関節の数、365はもちろん、一年365日を意味します。これは、毎日、神さまがしてはならないとおっしゃった戒めを覚え、神さまが命じられたことを全身で守り行う、という意味があります。しかし、これだけたくさん戒めがあると、律法の軽さ、重さに優劣をつけるようになります。そういうことからも、すべての戒めの中でどれがいちばん大切か、という問いは、律法学者たちにとっても、とても大事なものでした。 しかし一方で、あれだけ普段からラディカルな教えを語っておられるイエスさまのことです。パリサイ人たちは、イエスさまがお答えになるその内容次第で、イエスさまをしょっぴいていける、と計算したとも言えます。その点で、なかなか難しいところを攻めた、と、彼らはこの問いを考え出して、得意になっていたことでしょう。 しかし、さすがはイエスさまです。このような彼らの意図に関係なく、私たちのお従いすべき真理を堂々と教えてくださいました。29節、30節です。……「聞け、イスラエルよ。」に始まるこのみことばは、申命記6章4節と5節のみことばです。聞け、は、ヘブライ語では「シェマー」であり、この申命記6章4節、5節に始まる「シェマーの祈り」というものを、敬虔なユダヤ人は朝と晩の一日に2回唱和します。今もそうです。それほど、このみことばはユダヤ人にとって大切なみことばです。 だから、このみことばこそ第一の大切な戒めだということは、さすがのパリサイ人も反論できません。まず、主は唯一のお方です。唯一の神さまだから、このお方のほかに神があってはなりません。それ以外のものを神とするならば、それは「偶像」です。 それなら、人はこのまことの神さまをどうしなければならないのでしょうか?「愛する」のです。それも、「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして」愛するのです。あらゆる意志と行動を動員して、主なる神さまを愛するのです。したがって、頭の中や感情の次元で神さまを愛するのでは充分ではなく、ひたすらに行動して、神さまを愛するのです。 それでは具体的に、どのようにして神さまを愛するのでしょうか? それは「神さまの戒めを守る」、つまり「神さまのみことばを守り行う、実践する」ことによって、神さまを愛するのです。神さまをほんとうに愛しているならば、神さまが私たちに「せよ」と命じられたことを守り行い、「してはならない」とおっしゃったことはしない、そうなれるはずです。 それでは、みことばを守り行うことは、具体的に何をすることによって実践するのでしょうか? イエスさまは続けて、第一の戒めだけではなく、第二の戒めについても語っていらっしゃいます。31節です。……神さまが「せよ」と命じられたこと、また「してはならない」と命じられたことは、人との関係において実践されるものです。人に対して「せよ」、人に対して「してはならない」、これがすべて、神を愛することと同じだというわけです。 それゆえ、何を人に対してしてもよく、何をしてはいけないのか、私たちはみことばから学び、身につける必要があります。しかし、そういうことは、訓練によらなければ身につけることはできません。学校でも家庭でも、子どもは人を大切にするための教育を受けて大きくなります。しかし、私たちが神を愛することを、人を愛することによって身につけることは、一生ものです。ある牧師先生がうまいことをおっしゃっていました。教会は学校です、それも、一生卒業のない学校です。まことにそのとおりです。 なお付け加えれば、私たちはこの「学校」から帰り、また集まるまでの一週間、「学校」から出される課題としての「宿題」をこなします。聖書を読み、お祈りし、そうして教えていただいたことを、人を愛することにおいて、普段の生活の中で実践するのです。 さて、それでは私たちは、どのように人を愛するのでしょうか?「自分を愛するように」、そのようにイエスさまはおっしゃっています。よほど病んでいる人でもないかぎり、人は自分のことを大切にします。自分のことを大切にするのは当たり前のことです。悪口を言われるとか、貸したものを返してもらわないとか、されたら嫌なことというものが、人にはあります。そういうことを他人にはしない、これも立派に「愛する」ことです。また逆に、私たちはおいしいものを食べたいですし、もてなしを受けたり、プレゼントをもらったりすればうれしいものです。だから人にごちそうし、人をもてなし、贈り物をする、そうして、私たちは人を愛するのです。 自分を愛するように、ということは、自分のことしか考えない、ということではありません。というより、正反対のことです。自分を大切にできる人は人のことも大切にできますし、逆に、人のことを大切にできる人は自分のことを大切にしている人です。一方で、自分のことしか考えない人は、人のことなど大切にできませんし、結局は自分のことも大切にできていないのです。 わかりやすいたとえを使いましょう。おいしいからとジャンクフードやコーラやジュースばかりを食べたり飲んだりして、怠けてばかりいたら、からだをおかしくします。その結果、人にも迷惑をかけることになります。これは、このみことばが言う「自分を愛する」こととはちがいます。しかし、自分を大切にする人は、みことばをお読みし、お祈りし、賛美することで、つねに御霊の満たしをいただき、霊的な健康を保ちます。肉体においても、きちんと栄養のあるものを食べ、睡眠も適切にとり、運動もきちんとします。趣味を持ってリラックスすることでストレスをためません。そうして霊肉ともに健康を維持することで、人の役に立つ行動ができるようになります。これがほんとうの意味で自分を愛することで、結果として人を愛することです。 さて、そうなると「だれが隣人か」ということになります。実は、この律法学者と同じような問答をイエスさまと交わした律法学者のことが、ルカの福音書の10章に出てきます。そのときイエスさまは、あなたがたにとっての隣人とは、ひとつの例話をお用いになり、半殺しの目にあって倒れているユダヤ人を親身になって助けたサマリア人のことだ、とおっしゃいました。ユダヤ人にとっては受け入れがたい存在、軽蔑の対象、そんなサマリア人が隣人だなんて! しかし、このサマリア人と同じように振る舞うこと、少なくとも宗教的けがれを気にして瀕死のユダヤ人に一切手を差し伸べなかった宗教指導者のようにならないことがまことのいのちの道であると、イエスさまはおっしゃいました。 イエスさまはまた、山上の垂訓において、あなたの敵を愛しなさい、とおっしゃいました。これはただごとではない命令です、言ってみれば、いま、イスラエルの人に向かってハマスを愛しなさいと言うようなものではないでしょうか。ウクライナの人に対して、ロシアを愛しなさいと言うようなものではないでしょうか。身近なケースを見ても、インターネットには中国や北朝鮮、そして韓国を憎悪することばにあふれています。しかし、憎っくき隣人でも、愛しなさい、というのが、神さまのみこころ、この律法のことばのほんとうに語ることであるというのです。 私たちにとっても、顔も見たくない人がひとりやふたりは必ずいると思います。いない、とおっしゃるなら、その人はきっと天使です。私にも正直、会いたくない人はいます。それでも、愛しなさい、と言われたら、私たちは苦しくなるでしょう。あるいは反発を覚えるでしょうか。しかし、覚えておいていただきたいのですが、「愛する」ということは「好きになる」ということでは、ありません。おわかりでしょうか? 「好きになる」というのは感情の問題です。しかし、「愛する」ということは、「神さまが敵を愛するように命じられた」という「事実」に対し、信仰によってお従いするという「意志」と「選択」の伴うことであり、「好き」という感情とはまったく別の次元のことです。 さらに言えば、たとえその人に対してどうしても「好き」という感情がわかなくても「愛する」ことはできるのです。私たちはその人のことを「好き」になる必要はありません。好きでもない人を好きになろうとすると苦しくなりますし、好きでもないのにその人のことを好きだということは、嘘をついていることになります。しかし、「愛する」ことはできます。なぜならば「愛する」ことは主の命令だからであり、ということは、主は私たちに「愛する」力をくださるということだからです。できもしないことを主はお命じなりません。 もっとも、私たちは愛せないことの限界を突きつけられ、自分の自己中心を思い知らされます。そんなとき私たちは落ち込むか、抵抗したりするでしょう。しかし、そんな私たちのすることは、それほどまでの自己中心の罪人である私のことを、イエスさまは十字架にかかってくださるほどに愛してくださった、その愛を思うことです。そうすればイエスさまは、私たちに「愛する」力をくださいます。 「愛する」選択をした結果、その人のことが「好き」になるかどうかは置いておいて、私たちはまず「愛する」ことから始めたいものです。うまくいけば今までの「嫌い」「苦手」という感情が「好き」という感情に代わるかもしれませんが、そうでなかったとしても、私たちに求められていることは「愛する」という意志です。そこから、良きサマリア人のように行動が実を結ぶ祝福がありますようにお祈りします。 さて、この律法学者はイエスさまにお答えします。32節です。……彼は、主が唯一の方であることが、主こそ愛するお方であるということの、大前提であることを理解していました。また33節、隣人愛こそが究極のいけにえ、ささげ物であることを、彼は旧約聖書のいくつものみことばから理解していました。サムエル記第一、箴言、ホセア書に、まことのすぐれたいけにえとは何か、それは形式的な宗教行為ではないことがほのめかされていますが、この律法学者は、それをわかっていたのでした。あるいは、イエスさまのみことばによって、それこそがふさわしいみことばの解釈であるという導きをいただき、そのとおりに告白した、と言えます。まさにイエスさまをとおして、彼は正しいみことばの理解、そして信仰告白に導かれたのでした。 イエスさまはそんな彼に対し、なんとおっしゃったのでしょうか? 34節です。……「あなたは神の国から遠くない。」この律法学者は、イエスさまを亡き者にしようとするパリサイ人の群れの者でした。しかしイエスさまは、彼はそんな反キリストのパリサイ人だから、などと、彼のことをラベリングすることはなさいませんでした。イエスさまはひとりひとりのことを見ていらっしゃいます。 この私たちからしてもそうだったのではないでしょうか? 宣教師の墓場と言われている日本、家という家に仏壇や神棚があり、お寺や神社に霊的に縛られて生きるのが当たり前の日本人は、はた目から見れば、福音が伝わることが絶望的に見えます。私は日本の外に合わせて6年住んだから実感しますが、外から日本を見ると、ほんとうにそのように見えるのです。 しかし神さまは、日本という異教の国の民として私たちのことをご覧にならず、永遠のご計画の中で私たちを救ってくださいました。イエスさまはこの律法学者に「あなたは神の国から遠くない」とおっしゃいましたが、私たちもまた、神の国から遠くなかったのです。しかし、これこそが神の国の福音であるという理解もまた、神さまの恵みによって与えていただいたものです。ゆえに私たちは、誇れるものは何もない、ただイエスさまの十字架を誇るのみで、神さまにすべてのご栄光をお帰しするものです。 最後に、ローマ人への手紙の12章1節のみことばをお読みしましょう。みことばの実践こそ最高のいけにえ、それも霊的ないけにえです。それは私たちが、人を愛することによって、それも、到底愛せない人のことを愛しますと決断することによって、意味を持つようになります。 しばらく祈りましょう。私たちは愛する人になれますように。今はまだ、愛する行動がとれなくても、愛することを選び取るという、その第一歩の行動に踏み出せますように。そうして、神の国の民としてふさわしく歩みますように。

神は生きている者の神

聖書箇所;マルコの福音書12章18節~27節 メッセージ題目;「神は生きている者の神」 私たちがクリスチャンであると公にして生きると、いろいろ煩わしいことに巻き込もうとする人がいます。なかでも、私たちがちゃんと説明したところで神さまを信じるつもりもないのに、私たちにとって答えにくい質問を吹っかけて悦に入るタイプの人など、その典型でしょう。私も学生時代から、自分がクリスチャンであることを周りに明らかにして生きてきましたので、興味本位の質問や議論を吹っかけられることがたまにありました。みなさまにもそんな経験はありませんでしょうか? ただ、そういう議論をクリスチャンではない人がしてくるなら、それでも福音を宣べ伝える機会にはなるので、意味がないとは言えないでしょう。問題は、聖書に啓示されている神さまを信じていると言いながら、私たちのことを意味のない議論に持ち込もうとする人たちです。いったい、彼らは何を思ってそんなことを言ってくるのでしょうか? 私たちのことを論破したつもりになって、そんなに楽しいのでしょうか? 今日の本文を見ますと、そのようなタイプの議論家がイエスさまに議論を吹っかける場面となっています。出てくるのは、おなじみのパリサイ人ではなく、サドカイ人です。サドカイ人、サドカイ派は、エルサレム神殿を中心とした祭司の家系に属する裕福な上流階級で、民衆の宗教的指導者として、パリサイ派の宗教指導者、パリサイ人と、政治や宗教をめぐる主導権争いをしました。 彼らの特徴として、モーセ五書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記に最終的権威を置いていました。彼らは復活や死後のいのちというものを認めませんでしたが、それは、彼らにとっての聖典というべきモーセ五書に、それらのことが明記されていなかったからと推測されます。また、彼らは政治指導者としての側面も持っていましたが、だからというべきか、彼らは現実主義者で、世俗には関心を持っても、真の霊的な関心というものを彼らは持っていませんでした。 その前提で今日の箇所を読んでいただければ、サドカイ人がなぜこのような議論を吹っかけ、それに対してイエスさまがこのようなお答えをなさったかがわかります。のちほど順を追って説明しますので、まずは本文を見てみましょう。 18節、サドカイ人が来ました。ここで「復活はないと言っている」と、但し書きがついています。イエスさまはおっしゃいました。「わたしはよみがえりです。いのちです。」まことのいのち、よみがえりそのものでいらっしゃるイエスさまに議論を吹っかけるのですから、彼らのたくらみは無謀と言えるものです。 イエスさまを指し示した働き人であるバプテスマのヨハネは、パリサイ人とサドカイ人をまとめて、「まむしのすえども」と糾弾しています。おまえたちは宗教家のなりをした悪魔の子だ、というわけです。聖書を読んでも、彼らがバプテスマのヨハネの糾弾のことばを聞いて、悔い改めた形跡はありません。すなわち、パリサイ人がイエスさまに敵対していたように、サドカイ人もまた、神の子であるイエスさまを受け入れることろには到底達していませんでした。だから彼らは真理を求めてイエスさまに質問したのではありません。言いがかりをつけてイエスさまを罠にかけ、あわよくば失脚させようとたくらんだわけです。この点、対立する相手のパリサイ人と同じことをしていたことになります。 彼らがそういうことを念頭に置いていたという前提で、あらためて19節から23節を読みましょう。 まず、19節のみことば、これは申命記25章5節に書かれているみことばがもとになっていて、「レビラート婚」という、律法に定められた結婚形態の根拠となっています。これそのものはもちろん、みこころにかなっていることであり、亡くなったイスラエルの民の名を記憶させる、また、その財産を一族で守るという意義があります。ルツ記に登場する、ルツをめとったボアズは、この「レビラート婚」の原則にしたがって行動し、ルツとの結婚を果たしました。あとでおうちに帰られたら、ぜひ「ルツ記」をお読みください。短い1章ずつの全部で4章の、とても短くて美しいみことばです。 その「レビラート婚」の原則はモーセ五書である申命記にあるわけで、サドカイ人の信仰の根拠、というより宗教的判断の根拠となっているのももっともですが、問題はその次です。長男夫婦に子どもがないまま、長男が死んだ。その長男には弟が6人いて、次男が長男を継いでその妻と結婚、しかし次男が死んだ、そこで三男が継いで結婚、でも死んだ、そこで四男が継いで結婚、でも死んだ、そこで五男が継いで結婚、でも死んだ、そこで六男が継いで結婚、でも死んだ、そこで七男が継いで結婚、でも死んだ、そして妻も死んだ。 このように言うと、サドカイ人がどれほどめちゃくちゃ、ナンセンスなことを言っているかわかると思います。これは、レビラート婚はそれほど大事なものだからしっかり守るべきである、という前提で話しているというよりも、何が何でもイエスさまの粗探しをしてやる気満々で、こんなことを言っていると見るべきでしょう。 しかし、そうは言いましても、可能性としては限りなくゼロに近いですが、完全なゼロとは言い切れません。そういう可能性もありますよ、さあ、あなたならどうお答えになるのですか、これはほかならぬ、みことばの語っていることなのですよ、と迫っているわけです。 しかし、彼らサドカイ人がこのような例話を用いた意図が、23節ではっきりします。彼らは復活を信じない前提でこのようなことを言っているわけですが、彼らはこう言いたいわけです。もし復活というものがあったら、婚姻関係はめちゃめちゃになるでしょうが……。したがって、復活というものはありません。先生、あなたは嘘つきです。そういうふうに、彼らはイエスさまに喧嘩を売っているわけです。 私たちにとっても、しばしば答えにくい問いというものがあります。特に、聖書の一か所を取り上げて、聖書のほかの箇所と照らし合わせると矛盾ではないですか、さあ、どう考えますか、というたぐいのものです。これは、聖書を誤りなき神のみことばと信じ告白する私たちからすると、一生ついて回る課題です。逃げたくなるでしょうか。そんな問いをする人に対して逆切れでもして、うるさい! と一喝するでしょうか。 しかし、イエスさまはそのどちらでもありませんでした。このような者たちに対しても、懇切丁寧にお話しになりました。まず、イエスさまは、あなたがたサドカイ人は聖書という神のみことばも神の力も知らない、とおっしゃいました。ゆえに、あなたがたは思い違いをしている、ということです。 およそ神に属する者にとっては、聖書という神のみことばに根差し、聖霊なる神の御力を祈りのうちにつねに体験することは必須のことであり、生命線です。いわんや彼らは祭司の一門に属する立場にあります。みことばを知ることもせず、神の力を体験することもしないで、ユダヤの宗教指導者として君臨するなど、あってはならないことでした。まさにヨハネが「まむしのすえども」と糾弾した時から、彼らは変わっていなかったのでした。宗教家のなりをした俗物でした。 しかし、人の振り見て我が振り直せ、です。私たちはみことばと祈りにおいて神と交わり、人々の前に神を証しし、聖徒の交わりをする者として、広い意味で祭司です。まさに、第一ペテロ2章9節に「あなたがたは王である祭司」と書いてあるとおり、また、宗教改革者ルターが私たちすべての聖徒を指して「万人祭司」と主張したとおりです。私たちがその祭司としての役割を果たすには、毎日みことばをお聞きし、毎日祈ることで神さまと交わることは必須です。こうしないと、私たちは思い違いをすることになります。 思い違い。それは、みことばと御霊の啓示から外れることで、私たちが「信じたい」方向に動かされてしまうことから生じることです。私たちの教会が毎週「バプテスト教理問答書」から学んでいるのは、それは先人たちが緻密に聖書を研究した結果のエッセンスであり、そこから外れては教会があらゆる点で不健全になるからです。信仰告白、教義、神学、ほんとうに必要です。それを外れるならば、それはもはやキリスト教と呼ぶことはできません。 イエスさまはなんとお語りになっているのでしょうか? 25節です。そうです。婚姻というものは、第一に「産めよ、増えよ、地を満たせ」というご命令を人間が遂行するために、男性と女性で結び合わさって成り立つ制度です。しかし、御国においては、もはや出産ということはありえず、したがって出産の大前提になる「結婚」ということもありえません。この神さまのみこころは、永遠のいのちというものをこの世的な発想でしか理解できないサドカイ人には、到底理解できないものでした。 そして、イエスさまはさらに、彼らが後生大事にしているモーセ五書から、実は神さまが復活ということをお語りになっていることを明らかにされます。26節です。これは、出エジプト記で、荒野で羊を飼っていたモーセの目の前に、火で燃えているのに燃え尽きない不思議な柴の中から、神さまがモーセにお語りになった、という箇所であり、モーセ五書をなによりも大切にしているサドカイ人にとっては、原点そのものというべきみことばです。イエスさまは彼らサドカイ人に「読んだことがないのですか」とおっしゃっていますが、当然彼らは読んでいます。しかし、その意味するところを、彼らは悟っていませんでした。彼らはイエスさまのおっしゃるとおり、たいへんな思い違いをしていたわけです。 しかし、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と主がおっしゃったことが、なぜイエスさまのおっしゃるように、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」ということになるのでしょうか? 不思議に思いませんか? まともな答えになっているのでしょうか? それが、これこそ正解中の正解なのです。それは、こういうことです。神さまがアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、ということは、神さまがアブラハム、イサク、ヤコブの三代と契約を結ばれたということであり、その契約はその子孫であるイスラエルに不変である、ということです。 彼らは確かに、地上での生涯は終えていました。墓もあります。しかし、そのはるかのちの時代にモーセが神の御声をお聴きした、それも「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という神さまご自身の自己紹介をこめて、これは、アブラハムもイサクもヤコブもなお生きていることが前提です。というのは、契約は当事者が死んでしまったら無効になるからです。しかし、この契約はいまなお生きていて、サドカイ人も含むイスラエル人、ユダヤ人も、契約の民としてみことばに生きる特権にあずかっています。だからこそ彼らサドカイ人はみことばを根拠に、レビラート婚の原則を受け入れて生活していたわけです。 となりますと、この契約がサドカイ人を含めて今なお有効ということは、2つのことを示しています。すなわち、契約を結ばれた当事者である神さまは変わることのないお方であること、そしてもうひとつ、もう一方の契約を結んだ当事者であるアブラハム、イサク、ヤコブはこの地上にはいなくても、それは彼らの肉体が朽ちたというだけのことで、彼らは霊においてなお生きている、そして、やがて復活して、主と結ばれた契約は最終的に成就する、ということです。 というわけで、サドカイ人がユダヤ人としてモーセ五書を大事にしているのならば、いかに律法のみことばに書かれていなかろうとも、彼らは復活、永遠のいのちということを受け入れていてしかるべきでした。それを受け入れられない彼らは聖書もわからず、神の力も体験できないので、不幸としか言いようのない存在でした。 しかし、この永遠の復活ということは、実際に見たことのない人には理解を絶するものでした。見えるものがすべての俗物だったサドカイ人などまさにそうです。しかし、見ずに信じる者になり切れない点で、私たちもまたサドカイ人と五十歩百歩の存在ではないでしょうか。イエスさまはそんな罪人である私たち、神を見ず、神を認めない罪人の私たちのために、十字架におかかりになり、その死をもって私たちを罪から贖い、救ってくださいました。 そして、イエスさまは復活してくださいました。当時のユダヤ人たちはこの論より証拠の復活を見て、イエスさまを信じました。 まことに、復活は神の力です。また、モーセ五書に始まるみことば全体の成就です。イエスさまの復活にあずかって、私たちも復活します。アブラハム、イサク、ヤコブも復活するのは、イエスさまによって成就した神の契約のゆえです。マタイの福音書8章11節をご覧ください。時が来て私たちは、異邦人の身分であったのにイエスさまを信じる信仰のゆえに神の民に接ぎ木された身分で、アブラハム、イサク、ヤコブととともに、天の御国の交わりに加えられます。イエスさまを信じなかった者は、たとえ血筋では彼らを先祖としているようでも、イエスさまの復活を受け入れているゆえに彼らの復活を受け入れているわけではないので、復活のいのちから除外されます。12節にあるとおりです。このときのサドカイ人は悔い改めないかぎり、マタイ8章12節のさばきが臨む立場にありました。 私たちがイエスさまを信じるということは、復活と永遠のいのちにあずかっているということです。地上の幕屋なる肉体が朽ちても、永遠のいのちが与えられ、やがて朽ちない永遠の、御霊に属する栄光のからだによみがえらされます。 私たちはこの地上に目を留めると、がっかりさせられることばかりかもしれません。しかし、そんなときこそ、わたしはよみがえりです、いのちです、わたしを信じる者は死んでも生きるのです、と言ってくださった、イエスさまの御顔を仰ぎ、力をいただく必要があります。 先週も学びました。主を仰ぎ見る者は輝くのです。私たちはこの世の過ぎ去るものに捕らえられていては輝けません。ただ、主との交わりの中で、永遠のいのち、栄光のいのちがあたえられていることを信じ受け入れつづけることによって、私たちは変わることなく輝くことができるのです。 私たちを輝かせてくださるお方は、昨日も今日も、いつまでも変わることがありません。アブラハム、イサク、ヤコブと結んでくださった契約は、信仰をもって神さまを受け入れた私たちには変わることなく有効で、私たちは信仰ゆえに神の子としていただきました。それゆえ、私たちはこの世においても神さまの助けをいただいて、雄々しく、勝利の人生を歩んでまいりましょう。復活のイエスさまはともにいてくださいます。

聖書の語る「輝く」ということ

聖書本文;マタイの福音書5章16節 メッセージ題目;聖書の語る「輝く」ということ 毎週、礼拝が始まるにあたり、私たちは「導入賛美」というものを歌います。いろいろな歌を歌いますが、多くは「ワーシップ」と呼ばれるたぐいの、現代的な音楽です。歌詞も多岐にわたっていますが、その中にはときに、「輝く」ことを訴えている賛美があります。「輝け主の栄光地の上に」ですとか「さあ輝け闇を照らせ夜が明けるまで」ですとか「輝かせよあなたがたの光を」ですとか。そういうわけで、私たちにとって「輝く」ことは大事です。 今年の年間テーマは「主を仰ぎ見て輝く」です。輝くことは主のみこころと、みことばからお受け取りしてそのようにつけさせていただきました。しかし、「輝く」ということは、なぜ主のみこころなのだろうか? 今週のメッセージは、そのふと生まれた疑問から備えさせていただきました。 私たちの使っている、新改訳聖書2017では、「輝く」の「輝」という漢字が出てくる節は、なんと135節にもなります。その135節における「輝く」ということはいくつかに分類することができますが、大きく分けてそれは「神に属する輝き」と「人に属する輝き」です。 まず「神に属する輝き」から見てまいりましょう。神さまは栄光そのもののお方でいらっしゃいます。私たちの世界は太陽という天体ひとつで明るく照らされ、暗い夜も朝や昼になってしまいますが、神さまというお方は太陽とは比べ物にならないほど輝いておられるお方です。まことに輝きとは、神さまの本質そのものです。まさに、ヨハネの黙示録21章23節が語っているとおりです。 神さまがそのような輝かしいお方なので、神さまに属する存在もそれ相応に輝きます。神さまを礼拝するために用いる道具が輝いている必要があるのは、神さまが栄光に輝くお方だからです。また、「冠」が輝く、というみことばも聖書のところどころに登場しますが、これは、冠が人に栄光を授けて輝かせる存在である、ということです。 また、輝くといえば太陽や月や星のような天体の輝きを外せませんが、もちろん聖書にも天体の輝きが出てまいります。これは、神の栄光を顕す被造物の輝き、と言えるでしょう。そればかりかヨブ記を見てみると、レビヤタンという、こんにちでは恐竜のことではないかとも言われている獣が歩いたあとが「輝く」ともありますが、これはそのような、第一の獣として神さまが創造された存在が、生きていること、存在することそのもので、神のご存在の栄光を現している、ということもできるわけです。 それでは、「人に属する輝き」を見てみましょう。サムエル記第一を見てみますと、野蜜を口にしたヨナタンの目が輝いた、とあります。ヨナタンの目が輝いたことは、食べ物を口にするものは殺されなければならないと神かけて誓ったサウルの誓いがみこころにかなわないことをほのめかしています。また、神さまと顔と顔を合わせて語り合ったモーセは、民の前に出たとき、顔の肌が光を放っていました。まさに、神の栄光に照らされた、ということです。 一方で、神さまのとその民イスラエルに敵対する、アッシリア、モアブ、ツロ、またペルシアの宰相(さいしょう)ハマン、ダニエル書に登場するバビロンの王にも、「輝く」の字が用いられています。これは、その権勢をほしいままにしたその栄光の輝きが取り去られる、という文脈で用いられていて、つまりこの輝きとは、有限な人の輝きです。 しかし、人の輝きは偶然なくなるわけではなく、これらのものに対する「輝き」は神さまがお与えになるものであり、神さまの摂理の中で消されていくことが、これらのみことばにほのめかされています。 なお、このほかに、人を堕落へと誘惑する「ぶどう酒が輝く」という表現が箴言に登場します。これは神さまの栄光とは直接の関係がないばかりか、その輝きをもって人を神から遠ざけるわけです。 これは、この世の権力が「輝く」、しかしその「輝き」がやがて取り去られるという意味の「輝く」に分類できるでしょう。 要するに、どんな輝きも実際のところは、神の栄光のうちに輝くことが許されている、ということです。ゆえに私たちは、もし自分が輝きの中にあるならば、そのことを誇ってはなりません。また、だれかわが世の春を謳歌しているような人がいたとしても、その人を見てうらやむ必要もありません。すべては主の許しのうちに行われていることであり、私たちはへりくだる必要があります。 実際、いくつかのみことばを見てみますと、神が人の輝きとなられる、という箇所もありますし、神が人に輝きを与えられる、という箇所もあります。つまり、人の輝きは、神さまと無関係に存在する者ではない、ということです。 ゆえに私たち人間にとって、自分が輝くことを神さまに求めることは、たいへん、みこころにかなっていることであり、何にもましてすべきことである、というわけです。なにも、演技みたいにしてわざとらしく明るくしなさい、ということではありません。神の民、クリスチャンは、すべからく明るくするべきです。ヤコブの手紙には「嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい」と、輝かないことを奨励するような表現が出てきますが、それはこの世の偽りの輝きで輝くのをやめなさい、つまり、その輝きを捨て去って、主の輝きでほんとうに輝きなさい、という意味です。私たちは主にあって輝くのです。 しかし、私たちが明るくするには、どうすればいいのでしょうか。そのためには、私たちが何者かということを、いつも心に留める必要があります。 ここまで「神に属する輝き」、そして「人に属する輝き」について見てまいりました。すると、「神が人となられたイエスさまの輝き」はどうなのだろう、と思いませんでしょうか? 実は、それがとても重要なのです。 まず、イエスさまと輝き、の関連でいえば、イザヤ書53章2節のみことばを外すことはできません。イエスさまは人として、苦難のしもべとしてこの地に来られるとき、「輝き」がないお方であられる、とすでに預言されていました。 しかし、それは輝きをあえて「消して」おられた歩みというべきです。イエスさまのご本質はどこまでも、「輝く」お方でした。それはパウロの書簡やヘブル人への手紙でも解き明かされているところですが、イエスさまの公生涯においても、変貌山において御顔や御衣が大いに輝くお姿で現れました。ヨハネの黙示録に登場するイエスさまのお姿も、「輝く」という表現が用いられています。本来イエスさまは輝きそのものでいらっしゃいます。 このお方を心に宿しているゆえに、私たちは輝くのです。人間的な方法で輝こう、明るくなろうとしても限界がありますし、またそれは、必ずしも神の栄光を顕していることとイコールではありません。私たちのすることは、心のうちにある光を升の下に隠すのではなく、燭台の上に掲げて輝かせることです。 イエスさまは、「あなたがたは世の光です」とおっしゃっています。「あなたがたは世の光に『なります』」ではありません。「世の光に『なるでしょう』」でもありません、「世の光『です』」なのです。なぜ私たちは「世の光『です』」と言っていただけるのでしょうか。それは、まことの光なるイエスさまを宿しているからです。それゆえ、私たちはすでに光だからです。 しかし、光は「輝いて」こそその価値があります。私たちがもし「輝いて」いないならば、せっかく「世の光」にしている意味がありません。私たちが世の光として輝くために必要なのは、まず、イエスさまとの交わりの中にとどまり、自分自身が「世の光」であるという自覚を確かに持つことです。イエスさまを見ることができていれば、私たちは必ず輝きます。 もし、それでも自分が光であるということがわからないでいるならば、私たちがどこを見ているかを考える必要があります。まことの光がイエスさまである以上、イエスさま以外のものを見ていたならば、私たちが輝くことができないのは当然のことです。 いまこそ、イエスさまとの交わりを取り戻すときです。私たちはみことばによってイエスさまに出会い、祈りのうちにイエスさまの御顔を仰ぐ必要があります。そのようにして、イエスさまとの交わりにとどまれば、私たちは必ず明るく輝きます。 私たちは、心落ち込んでいていいことは何一つありません。イエスさまを仰ぎ、光り輝きましょう。ほかの兄弟姉妹も暗さの中にいると知ったならば、ともに御顔を仰ぎ、光を得て、輝きましょう。 さあ、私たちは何を見ているために輝けないでいるのでしょうか? 自分の過去の忌まわしい記憶でしょうか? いま私たちを煩わせている人間関係でしょうか? お金の心配でしょうか? 老後のことでしょうか? もし、そのようなものばかり見えてしまっているならば、それはイエスさまが見えていない、ということです。いまこそ、すべてのすべてであられる主イエスさまを見ましょう。ではお祈りします。

神のものを神に返す

聖書箇所;マルコの福音書12章13節~17節 メッセージ題目;「神のものを神に返す」  私が神学生時代に奉仕した韓国ソウルのサラン教会では、主日ごとの礼拝の締めくくりに、教会全体の信仰告白として「共同体告白」というものをしていました。礼拝のたびに、会衆はそろってこんな告白を毎週していました。「私たちは世から呼び出された神の民です。そして、世に遣わされたキリストの弟子です。」  まことにそのとおりです。私たちは教会という共同体で、神の民として礼拝し、みことばを学び、ともに祈り、ともに賛美し、交わりを持ち、奉仕します。しかし、私たちの信仰生活はそれで終わりません。この世界に出て行って、神の民、キリストの弟子として、具体的な生活をとおして神の栄光を顕すように召されています。  私たちがみことばを学ぶことには、神の栄光を現実の生活において具体的に顕すため、という意味もあります。しかし、私たちはときに、みことばをどのように具体的に自分の生活に適用したものか、迷ったりすることがないでしょうか?  今日の箇所は言うまでもなく、イエスさまを罠にかけようとした悪だくみに満ちた質問が打ち破られるという内容です。私たちクリスチャンはイエスさまのこの痛快なおことばに、快哉を叫びたくなりますが、このみことばでイエスさまが語っておられることは、私たちがこの世において神のみことばにお従いするうえで、きわめて大事な基準となっています。  それでは本文を見てみましょう。13節、「彼ら」というのは、祭司長、律法学者、長老の群れです。ユダヤを牛耳る者たち。しかし彼らは、イエスさまに議論を仕掛けたら論破され、そればかりか、聖書の語る主に敵対する者はあなたたちだ、という意味のことをイエスさまに指摘され、それも群衆が見守る前で指摘され、怒り心頭、イエスさまを殺そうとしました。そこで彼らはさらに卑怯な手段を使います。  彼らは、パリサイ人、すなわち宗教指導者の群れ、そしてヘロデ党、すなわちローマの任を受けてガリラヤを治める指導者に就く、政治的勢力をけしかけます。彼らは本来ならば、けっして仲がいいとはいえない、普段からお互いうまくやっているとはいえない関係でした。しかし、イエスさまをなきものにするためならば、彼らは手を組むこともいといませんでした。  なぜ、イエスさまをなきものとするために、このように仲のよくないどうしが手を組むことがありえるのでしょうか? それは、彼らはどちらも、神のみこころに反する、頑なな存在だからです。  彼らが自分たちの宗教的信念、政治的信念にしたがって行動すればするほど、皮肉なことに、彼らはますます、神さまがみことばにおいて啓示され、そしていまや時至ってこの世にお送りになったキリストに敵対する道を行くようになりました。  これは、この世を生きる私たちにとっても同じことです。私たちを取り囲む社会は、神々を拝む偶像礼拝であったり、あるいは無神論の唯物論であったりします。しかし、そのどちらもが、キリストを認めず、ゆえにキリストに敵対することもいといません。日本という国に住むということは、そのような反キリストの勢力が束になって襲いかかってくる生活をしているということです。いみじくもイエスさまがおっしゃったとおりです。「いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すように、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」  私たちは羊であるとイエスさまはおっしゃいます。周りはそんな弱い羊を隙あらば食い尽くそうという、獰猛な者たちで満ちています。それが私たちの生きている現実だから、素直であるのとともに、蛇のような賢さを備えなさい、とイエスさまはおっしゃるわけです。その道は、みことばを神のことばとして素直に受け入れることです。そうすれば神さまは私たちに、冷徹にこの世を見分ける知恵を授けてくださいます。  さて、イエスさまもいま、蛇に身をやつしたサタンに対抗すべく、アロンの杖の蛇がエジプトの魔術師の杖の蛇を呑み込んだがごとき知恵を動員すべきときが来ていました。ユダヤの指導者たちは何と言ってきたでしょうか? まず14節の彼らのことばの前半を見てみましょう。  これはもちろん、彼らが心底そのようにイエスさまのことを高く評価していたわけではなく、お世辞にすぎません。しかもこのお世辞は、きわめて底意地の悪いいことばです。なぜならば、このことばには、ある意味が隠されているからです。「あなたはあなたなりに真実な人として、だれにも遠慮しないで物事を語っていますね? あなたが教えておられる神の道は、あなたなりの真理にもとづいていて、それゆえ人の顔色を見ませんね? しかし、果たして、それは神の道ですかな? 真理ですかな? 私たちこそ神の道の専門家、真理の専門家ですが、長年のイスラエルの伝統のお墨付きをいただいてる私たちの宗教的権威にかなうほど、あなたの語る神の道とやらは真理なのですかな? そんなに人の顔色を見ないならば、宗教的権威が神さまら与えられている私たちに歯向かうことなどできますかな?」  そうです。彼らがそういう意識でイエスさまに質問を仕掛けてきたことは、そのあとの彼らのことばではっきりします。……カエサルというのは、ローマ帝国において神のごとく君臨する存在であり、ローマに税金を納めるとはカエサルに税金を納めることである以上、カエサルに税金を納めることは見ようによっては、カエサルに「献金」することに等しいとも言えるわけです。  だから、ユダヤの人は、カエサルに税金を納めることには耐えがたい屈辱を覚えることでもありました。現に、これは使徒の働きにも記録されている歴史的なできごとですが、ユダという者が紀元前6年に暴動を起こしたのは、ローマに税金を納めることに反対してのものでした。  つまり、イエスさまがユダヤの霊的な指導をする立場にある者として、カエサルに税金を納めることは律法にかなっていない、という回答を引き出そうという意図が彼らにあったわけです。しかし、それなら、「律法にかなっていない」というべきだったのでしょうか? そうなると今度は、その発言はローマの統治を否定するものと捉えられ、ローマへの反逆者として当局に引き出されるしかありませんでした。つまり、律法にかなっている、と答えたら失脚、かなっていない、と答えても失脚、実にうまくできた質問をこしらえたもので、敵ながらあっぱれ、といったところでしょうか。  しかし、ほんとうにあっぱれなのはイエスさまです。彼らがイエスさまから律法を勉強して生活を改めるためではなく、イエスさまを罠にかけるためにそのような質問をしたことを、イエスさまは見抜いておられました。イエスさまは彼らの普段の生活がどういうものか、彼らに認めさせながら、神の真理を説くという離れ業を演じられました。  イエスさまは彼らに、デナリ銀貨を用意させました。このデナリ銀貨はカエサルの肖像が刻まれていて、しかも、「神であり祭司」ということばも同様に刻まれていました。したがって、神を神とし、ローマを毛嫌いするユダヤ人たちからしたら、到底容認できることではなく、このような硬貨を使うことは屈辱的なことでした。それで、普段の生活では、ユダヤで通用する銅貨を用いて物の売り買いなどをしていました。  貨幣はあらゆる物に価値を与える存在であるため、とにかく大事、だから、その貨幣に肖像画を刻んだり、刷り込んだりすることは、特別な意味を持ちます。北朝鮮はキム・イルソンの肖像画を紙幣に印刷していますが、この肖像画の部分を折りたたんで財布に入れると厳罰が待っています。国家が権力者の顔を貨幣に刷り込むことは特別な意味を持つゆえんです。  ユダヤでも、経済活動から出た税はカエサルのものになるように、経済を含む国のすべてはカエサルが掌握しています。カエサルの許しのもとに宗教を含むあらゆる活動は成り立っています。これは、罪人にすぎない人間がそんな権限を持っているなんて、と言ったところで、仕方のないことです。神さまは社会をそういう構造にされることで、ご自身の民が地上でご自身にお仕えすることをよしとされているわけです。  地上のお金は国家が管理しています。それを象徴するのがカエサルの肖像です。それをカエサルに返すことが法律で定められている以上、それに従いなさい、とイエスさまはお教えになりました。  しかし、それで終わりません。「神のものは神に返しなさい。」私たちが生きている世界は、確かに国家のような世俗の権力に支配されていて、それを支えることは、神さまによってこの世界に送り出されている者として果たすべき責任です。  しかし、その国家に統治権という、究極の責任を与えられたお方はどなたでしょうか? 神さまです。だから私たちは、この世の統治者に税金を納めるなどして忠誠を誓うことで責任を果たしきるのではなく、究極のお仕えすべきお方、おささげすべきお方である、神さまを認め、神さまにおささげし、神さまにお仕えするのです。  私たちにとって「カエサル」にあたるものは、日本国や茨城県、それぞれお住まいの市町村にかぎりません。私たちの上にあって私たちのことを従わせる存在はみなそうでしょう。ご家庭のお父さん、お母さんもそうですし、職場の上司もそうでしょう。町内会の会長さんや所属するサークルの代表かもしれません。私たちはときに、そういう存在の理不尽な言動に反発を覚えることもあるかもしれませんが、その場にいることが主のみこころにかなうと信じていらっしゃるならば、私たちのすることは、その「権威」を認め、従うことで、しもべとしてのアイデンティティを果たすことです。それは主に喜ばれます。  しかし、私たちは同時に「神のものを神に返す」生き方をしなければなりません。イエスさまがそうおっしゃられたとき、彼らははっとしました。カエサルに返すことと神にお返しすることを対立するもの、相容れないものと捉えていた自分たちは愚かだった、そう気づかされたのでした。もちろん、彼らユダヤ人は実の民として、神にお返しすべきものをお返しすることは、いうまでもないことでした。  さて、私たちは、神のものを神に返すとはどういうことか、よく考える必要があります。神のものを神に返す、というと、私たちが真っ先に思い浮かべるものは、献金ではないでしょうか。もちろん、それはそうです。しかし、献金ももちろんそれはそうなのですが、それだけではなく、それぞれ置かれた場において、キリストの弟子としての振る舞いを確かにすることが大事です。献金はもちろん大事ですが、献金さえささげればいいというものではありません。  たとえば、職場に神棚が飾ってあり、職員がみんなそれを拝むのが習わしでも、「いや、これはカエサルに返すことだから……」などと、拝むことに妥協するならば、返すべき「神のもの」とはいったい何でしょうか。町内会などでも、おまつりに経済面でも、労働面でも、いろいろ奉仕を求めてくる場合、それに対して「神のものを神に返す」態度をはっきりさせることに、どうか取り組んでいただきたいのです。コロナが明けてお葬式に行く機会も増えてきたと思いますが、そのような場での振る舞いも神の御前に問われるところです。  私たちは考えてみましょう。私たちはカエサルのごときこの世の権力に対して主にあって振る舞う、仕えることをもって普段彼らから受けている恵みをお返しするために、どんなことを具体的にしますでしょうか? しかし、そんな彼らの間にあって、彼らの存在を超え、いつも変わることなくともにおられるイエスさまにお従いするために、どんな行動を取りますでしょうか? しばらく祈りつつ考えましょう。

悔い改めが迫られたとき

聖書箇所;マルコの福音書12章1節~12節 メッセージ題目;「悔い改めが迫られたとき」    このところ、日本の芸能界に長年絶大な影響を及ぼしてきた芸能事務所があっという間に崩壊させられるという、以前の芸能界を知る者には信じられないようなことが起きています。しかし、その芸能事務所のボスがしてきたことはいわば公然の秘密とも言えることで、それまでにもそのボスの悪行を告発した人はいなくはなかったのですが、その事務所から多大な利益を得ていたマスコミをはじめ世間はこぞって黙殺し、その人は泣き寝入りを強いられる羽目になりました。  権力者、そしてその権力者を支える絶大な存在、その陰で泣かされる弱者というものは、いつ、どこの時代にもいるものでしょう。イエスさまの時代のユダヤがまさにそうでした。ユダヤという宗教社会は、宗教指導者が実際の権力はもちろんのこと、民衆の精神面、霊的な面に至るまで大いに支配していました。その時代に彼らによって泣かされる弱者がどれほどいたことでしょうか。イエスさまはそのような、宗教を笠に人間的な権力をほしいままにする者たちをおさばきになるお方として、この世界に来られたお方です。  今日の箇所は、前回学びました11章の終わりからそのまま続いていますが、イエスさまのご質問にぐうの音も出なかったユダヤの指導者たちに対し、今度はイエスさまがその問題を指摘されます。ただし、イエスさまはストレートに彼らの問題を指摘されるというよりも、たとえで婉曲的に彼らの問題に気づかされます。  具体的に、イエスさまはどんなことをお語りになったのでしょうか。それがぶどう園のたとえです。ぶどう園は旧約聖書の預言書にも表れているとおり、神の民イスラエルを象徴しています。イエスさまのこのお話は宗教指導者だけではなく、エルサレム神殿に集まっていた群衆も耳を傾けていたので、群衆の中にも、イエスさまのお語りになっていることにピンと来た者もいたことでしょう。  ということは、このぶどう園の主人、オーナーは、父なる神さまです。そのぶどう園が自前の酒ぶねや見張りやぐらを用意できるほど大規模だったことも、イスラエルという国と民族を丸ごと持っておられる神さまを象徴するのに充分でしょう。  収穫の時が来ます。神の民はぶどうの実を結ぶように、神の栄光を顕すという実を結ぶものです。御父はその生き方をとおして、ご自身ご栄光をお受けになります。ぶどう園は労働者が働き、主人の命を受けたしもべがその収穫の分け前を取りに行くように、御父の命を受けた預言者たちはイスラエルへと遣わされていきます。  しかし、旧約聖書を読んでみますと、主のみこころを語った預言者たちはとても不遇な生き方をさせられていました。彼らの言うことをイスラエルの指導者たちは聞きませんでした。そればかりか、たいへんに侮辱的な扱いを受けたりしました。中には殺されるものもありました。  今日の本文の、3節から5節をお読みください。読み進めるほどに、ぶどう園の労働者たちの振る舞いがエスカレートしているのがわかります。殴ったり袋叩きにしたりというのが、殺すことさえしているわけです。それはまさに、イスラエルがそれまで神さまのみこころを伝える働き人に対してなしてきた振る舞いそのものでした。  御父を象徴するぶどう園の主人は、この労働者たちに対して圧倒的な権原を持っていました。そうだとすると、自分の大事なしもべがこんな目にあい、さらには殺されることにまでなろうとも、なおあきらめなかったのは、どれほど忍耐したということでしょうか?  「これでもか、これでもか」ということばがありますが、ぶどう園の主人が労働者たちを思う思いは、まさしく「これでもか、これでもか」の愛といえるでしょう。その「これでもか」は、ついに頂点を迎えます。それは、自分の息子を送るということです。しもべなら敬わないからそんな真似ができようが、よもや息子にはそんな真似などできまい。しかし、労働者たちは何を考えたのでしょうか。7節です。  しかし、これはよく考えるとおかしくはないでしょうか。ぶどう園は依然として主人のものであり、そんな真似をすればどんな制裁が自分たちを待っているか、分かっていないはずはなかったからです。だが、彼らは陰謀をめぐらしたとおり、跡取り息子を殺し、ぶどう園の外に投げ捨てました。こんなことをする労働者はどんな目にあうでしょうか? 9節にあるとおりです。みな容赦なく滅ぼされ、ぶどう園はほかの者たちの手に渡ります。  ぶどう園の主人がイスラエルの神である御父ならば、その跡取り息子はイエス・キリストです。イエスさまはご自身がその跡取り息子であることを語っておられるわけです。してみるとこの労働者は、宗教指導者のことであり、宗教指導者は御子イエスさまを殺し、その報いとして滅ぼされ、イスラエルの牧者としての権限を取り去られる、ということをイエスさまはお語りになったわけです。  そしてイエスさまはだめを押すように、詩篇118篇のみことばを引用されます。建物は礎の石があってこそ建つわけで、何よりも大事です。しかしその石を粗末にし、捨てるような家つくりは、家つくりという職業にありながら、家というものも、それにふさわしい材料というものも、まったく理解していないことになります。それと同様、宗教指導者たちは、イエスさまというお方に「いらない」とノーを突きつけて捨てることをする以上、宗教指導者にふさわしい態度で、神の御子イエスさまに接していない、そればかりか「捨てる」ことさえしているというわけです。  イエスさまがここまでおっしゃったら、さすがの宗教指導者たちも気づかざるを得ません。というよりも、イエスさまをまことの救い主と認める勘のいい群衆たちの前で、自分たちの正体をばらされたも同然でした。彼らは大恥をかかされました。そこで彼らは何をしようとしたのでしょうか。イエスさまを捕らえようとしました。捕えて、殺すためです。そうしなかったのは、群衆を恐れたからでした。  そうです。彼ら宗教指導者たちは、まさにイエスさまがたったいまお語りになったとおりのことをしようとしたのでした。イエスさまが彼らの罪をお示しになったのは当然のことです。彼らはそうすることで、自分たちこそ神にお仕えする者であると誇ろうとするわけです。だが、彼らはここまで自分たちの罪が明らかにされても、イエスさまのみことばそのものを信じて、悔い改めることをしませんでした。もし信じていたならば、イエスさまがおっしゃるおことばを聞いたならば、そのさばきの対象に自分が入っていることを認め、どうか助けてください、いのちだけは取らないでください、と、必死に悔い改め、命乞いをしたはずです。しかし彼らのしたことは、かえってイエスさまを殺そうとすることでした。そして彼らの思いは、イエスさまを十字架につけることによって遂げられました。彼らは最後まで悔い改めることをしなかったのです。その結果、彼らの支配するユダヤはどうなったでしょうか? ローマ軍に攻め入られ、散り散りになってしまいました。そして、御父を神とする民は血筋のイスラエルを越えて、全世界に広がり、もはやイエスさまを神とも王とも認めない宗教指導者たちの手を完全に離れました。  いま私たちは、本来彼ら神の民が受けるべき、神の子としての特権を受けています。それはまさに恵みによることで、私たちの誇るべきことでは決してありません。そんな私たちが、この宗教指導者たちを反面教師として学ぶべきことは何でしょうか。  私たちはパリサイ人に代表される宗教指導者の姿を聖書をとおして眺めて、いろいろ思うところがあるかもしれません。しかし、もしかしたらこんなことを思ってはいないでしょうか。  「彼らは律法を守り行うことによって救われようとする律法主義者だ。しかし自分たちは恵みによって救われている。パリサイ人のようにならなくてよかった。」もし、そんなことを考えているならば、危ないです。それはすでに、恵みというものを私たち人間のの側に属する資格のように勘違いしはじめている証拠かもしれません。  福音書にはなぜ、これほどまでにパリサイ人たち宗教指導者の、イエスさまに対する敵対的な言動が、これでもか、と登場するのでしょうか? 私たちがそれを読んで、ああよかった、自分たちはそんな人間じゃなくて、と安心するためでしょうか? 決してそうではありません。それは、私たちに対する警告が、それほどの紙面を割くほどに必要だからではないでしょうか? ありていに言ってしまえば、パリサイ人とは、私たちなのです。  そんな、ひどい! と思いますか? うそだ! と思いますか? しかし、今日のみことばに現れた、宗教指導者たちの態度をどうかよく考えていただきたいのです。聖書はときに私たちに、耳の痛いことを語ります。中には主にある兄弟姉妹が、みことばにしたがってそのような耳の痛い忠告をすることもあるでしょう。いえ、兄弟姉妹ではなくても、家族や一般の職場で、もし私たちに耳の痛い忠告をする人がいて、その忠告がみこころと一致していたとすれば、それはその未信者を通じて主が語ってくださったと言えなくもないわけです。そんなことばを聞いたとき、私たちはどのように反応しますでしょうか?  耳が痛い、と申しましたが、耳が痛ければとっさに手で押さえるでしょう。しかし、耳を手で押さえては、せっかくの忠告も聞くことができません。それほどまでの私たちは自己防御的、保身に走る、自己中心の存在です。それでも、私たちにもし、主のみこころにかなった柔和な心が与えられているならば、そのような耳の痛い忠告も、そうです、そのとおりです、と耳を傾け、悔い改めに至ることができるはずです。耳が痛くても手でふさがず、あえて耳を傾ける、柔和ならばそれができます。  旧約聖書にもそのモデルが出てきます。まさに今日のマクチェイン式聖書通読の箇所、サムエル記第二の13章、預言者ナタンに罪を指摘され、即、悔い改めたダビデの姿、これぞまさに柔和な者、主のみこころにかなう者の姿勢です。ダビデのしたことは人妻を寝取り、その夫を戦死を装って殺し、それからその人妻を自分のものにしてしまうという、とんでもないものでした。普通に考えるならば、そんなことをした者は死刑だ! とだれだって言いそうなことをしたわけです。そういうダビデはそれゆえ、その罪の責任を残る生涯でたっぷり取らされることになりましたが、しかし罪そのものはダビデが神さまに立ち返ることにより、赦していただきました。こうしてダビデはいのち救われたのでした。  警告されても悔い改めないケースも聖書には登場します。代表的なのは、ささげものを受け入れられたアベルに嫉妬したカインのケースでしょう。神さまは、戸口で待ち伏せしているように間近にある罪を治めよ、とカインに忠告されたというのに、カインは罪を治めきれず、アベルを殺しました。新約聖書にも、アナニアとサッピラのケースが登場します。彼らが献金をごまかしたときも、ペテロは彼らに質問を投げかけ、彼らがしでかしたことを認め、悔い改める余地を与えましたが、彼らは最後まで悔い改めることをせず、うそをつきました。しかし、それは人ではなく神を欺いたことであり、それゆえに彼らは立てつづけに神のさばきを受け、いのちを落としました。  この宗教指導者たちも、イエスさまに迫られていました。イエスさまが語るぶどう園の労働者が自分たちのことだということにも気づいていました。しかし、彼らはそれが単なる当てこすりとしかとらえられず、イエスさまに怒りを燃やすことしかできませんでした。これが、かたくなということです。  ヘブル人への手紙4章7節のかぎかっこの中のみことばを読みましょう。もともとがダビデをとおして語られたみことばと考えると、ダビデがこのみことばによって立っていたとおり、御声を聞くなら心を頑なにしない者の幸いに生きていたことは確かなことで、このみことばの語るとおり、私たちもその幸いに生きるべく召されています。  自分たちはパリサイ人のようではないから大丈夫だ、と思ったならば、すでに私たちは頑なになりはじめています。福音書に登場する、イエスさまがパリサイ人をお責めになったあまたのみことばは、まさしく私たちを悔い改めに導くべく語られているみことばです。今日の箇所などどうでしょうか。私たちが悪いことをついしてしまうとき、そこにイエスさまにいてほしくない、と思うならば、私たちは宗教指導者を象徴するぶどう園の労働者のように、御子をいらないものとしていることにならないでしょうか? それは、御子を十字架につけることです。  しかし、こうも言えます。私たちが罪を犯すことは、御子を十字架につけること、しかし、そのように御子イエスさまが十字架についてくださることによらなければ、私たちの罪はほかのどんなことによっても赦されません。私たちは罪を犯してしまいますが、そんな私たちを完全に赦してくださるイエスさまの十字架のほうが絶対です。だから私たちが罪を犯してしまうとき、もっといい人になるように努力しようとするのではなく、イエスさまの十字架にすがる、これがもっとも必要なことです。  いちばんいけないのは、罪が示されたとき、頑なになってイエスさまとそのみことばを無視することです。それでは宗教指導者と同じです。そんなとき私たちは、悔い改めることができるかどうかが問われるところです。私たちがそんなとき、悔い改めて主の赦しと回復のみわざを体験することができますように、主の御名によって祝福してお祈りします。

子どもを受け入れる

聖書箇所;マタイの福音書18章1節~10節 メッセージ題目;「子どもを受け入れる」 人をほめることばにもいろいろあります。かわいい、ですとか、かっこいい、ですとか。いろいろなことばがありますが、「偉い」というのも、立派なほめことばでしょう。人は、偉いと言われたい、そのためにも偉くなりたい、出世するのも、そのために勉強するのも、その理由として「偉くなりたいから」、「偉い人として振る舞いたいから」という動機は外せません。ほめられるということは、人に尊敬されるということですが、それだけではありません。偉くなればお金も入ってきて、楽な暮らしができるようになります。だからとにかく、偉くなりたい。 そんな思いは、イエスさまの弟子たちも持っていたようです。イエスさまがまことのイスラエルの王、天の御国の王になられることを、弟子たちは信じて従っていました。そうなると弟子たちは何を気にしたでしょうか? 自分たちもイエスさまとともに偉くなることでした。イエスさまが王になったら、われこそは右大臣、とか、左大臣、とか、いやいや太政大臣、ですとか。 そんな偉い人になりたい。それで彼らは、イエスさまに尋ねました。天の御国では、だれがいちばん偉いのでしょうか。このような問いを発する弟子たちのことを、私たちはどう思いますでしょうか。何を言っているのか、天の御国ではみな平等だ、人より偉い人などいるものか、そう思いますでしょうか。 イエスさまは、彼らの思いを否定されることはありませんでした。というのは、天の御国においては、確実に偉い人、それも、いちばん偉い人というのはいるからです。それは、子どもです。それもイエスさまは、子どもを彼ら弟子たちの真ん中に立たせて、注目までさせて、子どもがいちばん偉いのであると強調されたのでした。 普通なら、よほど変わった人でもないかぎり、子どもがいちばん偉いなどとは言いません。しかし、すべての創造主であり、私たちの主であるイエスさまは、子どもがいちばん偉いとはっきりおっしゃいました。弟子たちはおそらく、意表を突かれたのではないでしょうか。私たちならば、イエスさまのこのおことばを、どのように受け止めるべきでしょうか? イエスさまが、子どもがいちばん偉いとおっしゃったのには、2つの理由があります。まず3節と4節にあるとおり。あなたがたは子どものように、神の国を受け入れなさい、と、弟子たちにお教えになるためでした。ほんとうに偉いのは、子どものように神の国を受け入れた人だよ、と。 私たちの信仰生活を、一般的に「キリスト教」といいます。しかし、私たちがだれかにイエスさまを伝えようとするとき、人は「キリスト教の話は結構」という反応を示さないでしょうか? 理由はいろいろ考えられるでしょうが、無視できない理由として考えられることに、「難しい話は聞きたくない」というものがあるのではないでしょうか。 「キリスト教」を難しくするのは、子どものようにイエスさまを信じ、イエスさまを王とする天の御国を信じ受け入れればいいのに、それにいろいろ付け加えて、小難しい理屈をいろいろ言うせいではないでしょうか。そうするところから、いつの間にか子どものような単純な信仰は、「キリスト教」という「宗教」、すれた大人のものになってしまうのです。 子どもは、いろいろ考えることはしません。いいと思ったら受け入れ、悪いと思ったら離れます。そして、神さま、イエスさまは絶対的に「よい」お方なのですから、イエスさまが大好きになるしかありません。子どものようになるのに理屈などいりません。ただ、愛すればいいのです。ただ、好きになればいいのです。難しいことなどありません。 子どもはまた、疑いません。学問としての「キリスト教」の発達は、いろいろなことを疑うことで発展してきた模様ですが、少なくとも、イエスさまが主でいらっしゃること、聖書は誤りなき神のことばであることは、疑うべきではなく、また、疑う必要のないことです。疑わずに素直に受け入れるのが、子どもらしい信仰です。 イエスさまが子どもを彼らの真ん中に立たせられ、注目させられたことには、もう一つ理由がありました。それは、このような小さな子どもを受け入れることは、イエスさまを受け入れることであるからです。 これも理屈はいりません。イエスさまがそうおっしゃる以上、私たちはあれこれ考えないで、子どもを受け入れることをするしかありません。 子どもを受け入れてみると、それがイエスさまを受け入れることであることを実体験できます。パウロが、自分の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができようか、と語っていますが、パウロがそれだけのことを語る大きな理由として、主にあって子育てをしているならば、イエスさまを受け入れるとはどういうことか、実際に体験している分、イエスさまを主と受け入れている共同体、神の教会を世話する素質を備えている、ということが挙げられるでしょう。 6節のみことばを見てみましょう。「受け入れる」の反対は「つまずかせる」です。大人たちの姿を見て、「イエスさまなんて信じるもんか!」と思ったならば、その子はどうなるでしょうか? 永遠の救いに至るはずが、永遠の滅びに至ります。私たち大人がよかれと思ってしていることが、子どもたちを排除し、子どもたちを神の恵みから除外しているならば、それは「つまずかせて」いることです。 そんな者は石臼を首に結わえつけられ、湖に沈められ、そこで溺れ死ぬほうがましだと、イエスさまはすごいことをおっしゃっています。しかも、よく見てみましょう。イエスさまは、そういう悲惨な死に方でも、そんな死に方をするほうが「まし」だとおっしゃるのです。それほど、子どもをつまずかせることは呪わしいことだとおっしゃるわけです。では、そういう者にふさわしい制裁は何でしょうか? それはすこしあとのみことばにほのめかされていますが、まず7節から見てみましょう。 イエスさまは、つまずきを与える存在が「この世」であるとおっしゃいます。私たちはこの世における教育、報道、それ以前に人々を支配する常識……それらのものによってどれほど、つまずかせられていることでしょうか。家々には仏壇や神棚があって神仏を拝むのは当たり前の美徳とされ、それを拒否するという選択肢は考えつかないようになっています。そうかと思えば、進化論を中心とした唯物論ですべては説明され、そこに創造主なる神さまのご存在とみわざを語る余地を与えようとしません。それなのに、占いやお守り、おまじないのようなオカルトはきわめて身近に存在します。悪魔や魔法にスポットのあたった音楽や文学、映画が人気です。どこもかしこも、つまずかせるもので満ちている、それがこの世というもので、イエスさまはそんなこの世を、わざわいだ、とおっしゃっています。 しかし、イエスさまは一方で、つまずきが起こるのは避けられないともお語りになっています。それは、人間は不完全な存在であり、考えや態度、ことばや行いにおいて、罪を犯してしまうものだからです。よかれと思ってしたことで、人がつまずいてしまう、ということは往々にして起こることです。 それでも、イエスさまは、つまずきを起こす者を容赦されません。特に、子どもという、疑うことを知らない純粋無垢な存在をつまずかせ、信仰を持てなくさせてしまうならば、それはどんなに大きな罪でしょうか。私たちの中に、子どもを排除してしまう思いがないか、よくよく点検してまいりたいものです。逆に、子どもをつまずかせないで受け入れるにはどうしなければならないか、ともに考えていただきたいのです。そのためにも、礼拝に子どもが来られる環境づくりに、一緒に取り組んでいただきたいのです。今日の午後の礼拝はその取り組みの一環です。時間的に協力してくださるのが難しいならば、せめて覚えてお祈りしていただけたらと思います。 8節、9節のみことばも過激なほどに厳しいおことばです。ここでは、もし人がつまずいたならば、地獄に落とされて永遠にさばかれる、という、恐ろしい警告がなされています。手も、足も、目も、みんなからだの一部であり、失ってはならないものです。それを切って捨てよ、えぐり出して捨てよ、とは、それだけ、自分のからだの一部のように自分にとって絶対なものでも、捨てなければつまずくよ、つまずいたら地獄行きだよ、というわけです。 私たちにしても、悪い習慣、悪い人間関係、悪い趣味、悪い番組やインターネットサイトの視聴……そういったものに貴重な時間を費やすことで、神さまとの交わりに弊害が出ているならば、それをやめさせてくださいと祈るべきです。祈ろうとしない、祈れないならば、それはそれだけ自分のからだの一部のように固着してしまい、大事なもの、捨てられないものと思っているからで、かなり深刻です。そんなときこそより真剣に祈る必要があります。まさに、切って捨てれば永遠のいのちに行けます。 子どもとの関係においてはどうでしょうか? 私は幼い頃、よく周りの大人たちから、大人は大人の世界で線引きをされて、そこから先に行けないような疎外感を味わっていました。むかしはそれをしかたがないものとあきらめていましたが、今、当時の大人たちの年齢をはるかに追い越したから言えることですが、彼ら大人たちは子どもを排除することで、自分たちだけで楽しんでいたのでした。そんなことを私たちクリスチャンがもししているならば、それで子供をつまずかせることになっていないか、よくよく省みる必要があります。いや、大人たちだけで時間を持つことは必要だ、と堅く信じているその考えも、もしかしたら、切って捨てるべきからだの一部のようなものかもしれません。 さて、8節、9節、繰り返し登場するゲヘナの火、これが、子どもをつまずかせる者が、石臼を結わえつけられて湖の深みに沈められるよりもよりふさわしい刑罰だ、ということです。すなわち、子どもをつまずかせるならば地獄のさばきがふさわしい、とさえいえます。 しかし、こんなことを言うと、ある方はおっしゃるかもしれません。いえ、イエスさまの十字架を信じているならば、私は地獄に落ちることはありません、何がゲヘナですか、脅かすのもたいがいにしてください。まあ、そりゃそうです。しかし考えていただきたいのです。私たちが救われるために、十字架にかかって身代わりにいのちを投げ出してくださったイエスさまのその切なる願い、子どもを受け入れなさい、つまずかせてはいけません、その願いを、私たちがイエスさまによって救われているならば、真っ先に考えるべきではないでしょうか? どうすれば子どもたちをつまずかせず、主にあって受け入れられるか、真剣に考えるようになりはしないでしょうか? その点で私たちは、子どもに関心を寄せることにおいて、まだまだな存在です。それでもどうか、恵みの主に拠り頼んで、少しでも子どもをつまずかせないように成長させていただきたいと祈れるならば幸いです。 私たちのことばの一言一言、一挙手一投足、浮かべる表情や雰囲気、見られていないようで、子どもはみんな見ています。それでつまずかせているとしたらと考えると恐ろしくなります。大人は、仕方ないよね、何か事情があるんでしょう、と忖度してくれます。しかし子どもはそうはいきません。さらに言えば、そのような言動の背後にある私たちの心の中まで見透かします。まさに神さまのようです。子どもが忖度しないように、神さまも罪に関して忖度される方ではいらっしゃいません。しかし、子どもを前にして持つべき態度が、神さまを前にした時の態度のようだと意識することがどれほどあるでしょうか。私たちは自分の態度を悔い改めるべきです。 最後に10節のみことばを見ますと、イエスさまは、子どもたち、とおっしゃらず、子どものひとり、とおっしゃっています。子どものひとりひとりに目を留める必要があります。子どもは群れになっていると、ついひとりひとりに目を留めることがおろそかになってしまわないでしょうか。しかし、イエスさまは、子どもの一人に目を留めなさい、とおっしゃっています。それは、彼ら子どもの御使いは、御父の御顔をいつも見ているからだというわけです。御父の御顔をしっかり見ることのできる、みこころにかなった御使いが、子どもをいつも守り、御父の御顔を仰げるように子どもの霊に仕えます。 大人はどうでしょうか? いつしかこのような御使いではなく、サタンの顔を見る悪霊を引き連れるような嫌味な存在に成り下がっています。そんな自覚を持つならば、私たちはまず主に近づき、そして、悪魔よ、悪霊よ、ナザレのイエスの名によって離れよ、と、しっかり命じ、離れさせる必要があります。それでこそ私たちは、子どものたましいに仕えることができます。 子どものたましいに仕えることは、神に近づく恵みの味わえることです。子どもに聖書を教えてやろう、という、偉ぶった態度ですべきことではありません。イエスさまのみことばに従えば、偉いのは教える側の大人ではなく、むしろ子どもではないですか。もちろん、偉いからと子どもを甘やかしたり、つけあがらせたりすることが主のみこころだと言いたいのではありません。子どもがしっかり主の御顔を仰ぎ、主のみことばに従えるようにすること、それが子どものたましいに仕えるということなのです。 うちの教会にも、少しずつですが子どもが送られてきています。子どもとともにみことばをの恵みをいただき、神を礼拝する、そのようにして子どものたましいに仕える働きに教会全体が用いられるならば、どんなにかすばらしいことでしょうか。今日から始まる午後の礼拝、そしてそのほかのあらゆる子どもの働きを、主が祝福してくださいますようにお祈りいたします。