悔い改めが迫られたとき

聖書箇所;マルコの福音書12章1節~12節 メッセージ題目;「悔い改めが迫られたとき」    このところ、日本の芸能界に長年絶大な影響を及ぼしてきた芸能事務所があっという間に崩壊させられるという、以前の芸能界を知る者には信じられないようなことが起きています。しかし、その芸能事務所のボスがしてきたことはいわば公然の秘密とも言えることで、それまでにもそのボスの悪行を告発した人はいなくはなかったのですが、その事務所から多大な利益を得ていたマスコミをはじめ世間はこぞって黙殺し、その人は泣き寝入りを強いられる羽目になりました。  権力者、そしてその権力者を支える絶大な存在、その陰で泣かされる弱者というものは、いつ、どこの時代にもいるものでしょう。イエスさまの時代のユダヤがまさにそうでした。ユダヤという宗教社会は、宗教指導者が実際の権力はもちろんのこと、民衆の精神面、霊的な面に至るまで大いに支配していました。その時代に彼らによって泣かされる弱者がどれほどいたことでしょうか。イエスさまはそのような、宗教を笠に人間的な権力をほしいままにする者たちをおさばきになるお方として、この世界に来られたお方です。  今日の箇所は、前回学びました11章の終わりからそのまま続いていますが、イエスさまのご質問にぐうの音も出なかったユダヤの指導者たちに対し、今度はイエスさまがその問題を指摘されます。ただし、イエスさまはストレートに彼らの問題を指摘されるというよりも、たとえで婉曲的に彼らの問題に気づかされます。  具体的に、イエスさまはどんなことをお語りになったのでしょうか。それがぶどう園のたとえです。ぶどう園は旧約聖書の預言書にも表れているとおり、神の民イスラエルを象徴しています。イエスさまのこのお話は宗教指導者だけではなく、エルサレム神殿に集まっていた群衆も耳を傾けていたので、群衆の中にも、イエスさまのお語りになっていることにピンと来た者もいたことでしょう。  ということは、このぶどう園の主人、オーナーは、父なる神さまです。そのぶどう園が自前の酒ぶねや見張りやぐらを用意できるほど大規模だったことも、イスラエルという国と民族を丸ごと持っておられる神さまを象徴するのに充分でしょう。  収穫の時が来ます。神の民はぶどうの実を結ぶように、神の栄光を顕すという実を結ぶものです。御父はその生き方をとおして、ご自身ご栄光をお受けになります。ぶどう園は労働者が働き、主人の命を受けたしもべがその収穫の分け前を取りに行くように、御父の命を受けた預言者たちはイスラエルへと遣わされていきます。  しかし、旧約聖書を読んでみますと、主のみこころを語った預言者たちはとても不遇な生き方をさせられていました。彼らの言うことをイスラエルの指導者たちは聞きませんでした。そればかりか、たいへんに侮辱的な扱いを受けたりしました。中には殺されるものもありました。  今日の本文の、3節から5節をお読みください。読み進めるほどに、ぶどう園の労働者たちの振る舞いがエスカレートしているのがわかります。殴ったり袋叩きにしたりというのが、殺すことさえしているわけです。それはまさに、イスラエルがそれまで神さまのみこころを伝える働き人に対してなしてきた振る舞いそのものでした。  御父を象徴するぶどう園の主人は、この労働者たちに対して圧倒的な権原を持っていました。そうだとすると、自分の大事なしもべがこんな目にあい、さらには殺されることにまでなろうとも、なおあきらめなかったのは、どれほど忍耐したということでしょうか?  「これでもか、これでもか」ということばがありますが、ぶどう園の主人が労働者たちを思う思いは、まさしく「これでもか、これでもか」の愛といえるでしょう。その「これでもか」は、ついに頂点を迎えます。それは、自分の息子を送るということです。しもべなら敬わないからそんな真似ができようが、よもや息子にはそんな真似などできまい。しかし、労働者たちは何を考えたのでしょうか。7節です。  しかし、これはよく考えるとおかしくはないでしょうか。ぶどう園は依然として主人のものであり、そんな真似をすればどんな制裁が自分たちを待っているか、分かっていないはずはなかったからです。だが、彼らは陰謀をめぐらしたとおり、跡取り息子を殺し、ぶどう園の外に投げ捨てました。こんなことをする労働者はどんな目にあうでしょうか? 9節にあるとおりです。みな容赦なく滅ぼされ、ぶどう園はほかの者たちの手に渡ります。  ぶどう園の主人がイスラエルの神である御父ならば、その跡取り息子はイエス・キリストです。イエスさまはご自身がその跡取り息子であることを語っておられるわけです。してみるとこの労働者は、宗教指導者のことであり、宗教指導者は御子イエスさまを殺し、その報いとして滅ぼされ、イスラエルの牧者としての権限を取り去られる、ということをイエスさまはお語りになったわけです。  そしてイエスさまはだめを押すように、詩篇118篇のみことばを引用されます。建物は礎の石があってこそ建つわけで、何よりも大事です。しかしその石を粗末にし、捨てるような家つくりは、家つくりという職業にありながら、家というものも、それにふさわしい材料というものも、まったく理解していないことになります。それと同様、宗教指導者たちは、イエスさまというお方に「いらない」とノーを突きつけて捨てることをする以上、宗教指導者にふさわしい態度で、神の御子イエスさまに接していない、そればかりか「捨てる」ことさえしているというわけです。  イエスさまがここまでおっしゃったら、さすがの宗教指導者たちも気づかざるを得ません。というよりも、イエスさまをまことの救い主と認める勘のいい群衆たちの前で、自分たちの正体をばらされたも同然でした。彼らは大恥をかかされました。そこで彼らは何をしようとしたのでしょうか。イエスさまを捕らえようとしました。捕えて、殺すためです。そうしなかったのは、群衆を恐れたからでした。  そうです。彼ら宗教指導者たちは、まさにイエスさまがたったいまお語りになったとおりのことをしようとしたのでした。イエスさまが彼らの罪をお示しになったのは当然のことです。彼らはそうすることで、自分たちこそ神にお仕えする者であると誇ろうとするわけです。だが、彼らはここまで自分たちの罪が明らかにされても、イエスさまのみことばそのものを信じて、悔い改めることをしませんでした。もし信じていたならば、イエスさまがおっしゃるおことばを聞いたならば、そのさばきの対象に自分が入っていることを認め、どうか助けてください、いのちだけは取らないでください、と、必死に悔い改め、命乞いをしたはずです。しかし彼らのしたことは、かえってイエスさまを殺そうとすることでした。そして彼らの思いは、イエスさまを十字架につけることによって遂げられました。彼らは最後まで悔い改めることをしなかったのです。その結果、彼らの支配するユダヤはどうなったでしょうか? ローマ軍に攻め入られ、散り散りになってしまいました。そして、御父を神とする民は血筋のイスラエルを越えて、全世界に広がり、もはやイエスさまを神とも王とも認めない宗教指導者たちの手を完全に離れました。  いま私たちは、本来彼ら神の民が受けるべき、神の子としての特権を受けています。それはまさに恵みによることで、私たちの誇るべきことでは決してありません。そんな私たちが、この宗教指導者たちを反面教師として学ぶべきことは何でしょうか。  私たちはパリサイ人に代表される宗教指導者の姿を聖書をとおして眺めて、いろいろ思うところがあるかもしれません。しかし、もしかしたらこんなことを思ってはいないでしょうか。  「彼らは律法を守り行うことによって救われようとする律法主義者だ。しかし自分たちは恵みによって救われている。パリサイ人のようにならなくてよかった。」もし、そんなことを考えているならば、危ないです。それはすでに、恵みというものを私たち人間のの側に属する資格のように勘違いしはじめている証拠かもしれません。  福音書にはなぜ、これほどまでにパリサイ人たち宗教指導者の、イエスさまに対する敵対的な言動が、これでもか、と登場するのでしょうか? 私たちがそれを読んで、ああよかった、自分たちはそんな人間じゃなくて、と安心するためでしょうか? 決してそうではありません。それは、私たちに対する警告が、それほどの紙面を割くほどに必要だからではないでしょうか? ありていに言ってしまえば、パリサイ人とは、私たちなのです。  そんな、ひどい! と思いますか? うそだ! と思いますか? しかし、今日のみことばに現れた、宗教指導者たちの態度をどうかよく考えていただきたいのです。聖書はときに私たちに、耳の痛いことを語ります。中には主にある兄弟姉妹が、みことばにしたがってそのような耳の痛い忠告をすることもあるでしょう。いえ、兄弟姉妹ではなくても、家族や一般の職場で、もし私たちに耳の痛い忠告をする人がいて、その忠告がみこころと一致していたとすれば、それはその未信者を通じて主が語ってくださったと言えなくもないわけです。そんなことばを聞いたとき、私たちはどのように反応しますでしょうか?  耳が痛い、と申しましたが、耳が痛ければとっさに手で押さえるでしょう。しかし、耳を手で押さえては、せっかくの忠告も聞くことができません。それほどまでの私たちは自己防御的、保身に走る、自己中心の存在です。それでも、私たちにもし、主のみこころにかなった柔和な心が与えられているならば、そのような耳の痛い忠告も、そうです、そのとおりです、と耳を傾け、悔い改めに至ることができるはずです。耳が痛くても手でふさがず、あえて耳を傾ける、柔和ならばそれができます。  旧約聖書にもそのモデルが出てきます。まさに今日のマクチェイン式聖書通読の箇所、サムエル記第二の13章、預言者ナタンに罪を指摘され、即、悔い改めたダビデの姿、これぞまさに柔和な者、主のみこころにかなう者の姿勢です。ダビデのしたことは人妻を寝取り、その夫を戦死を装って殺し、それからその人妻を自分のものにしてしまうという、とんでもないものでした。普通に考えるならば、そんなことをした者は死刑だ! とだれだって言いそうなことをしたわけです。そういうダビデはそれゆえ、その罪の責任を残る生涯でたっぷり取らされることになりましたが、しかし罪そのものはダビデが神さまに立ち返ることにより、赦していただきました。こうしてダビデはいのち救われたのでした。  警告されても悔い改めないケースも聖書には登場します。代表的なのは、ささげものを受け入れられたアベルに嫉妬したカインのケースでしょう。神さまは、戸口で待ち伏せしているように間近にある罪を治めよ、とカインに忠告されたというのに、カインは罪を治めきれず、アベルを殺しました。新約聖書にも、アナニアとサッピラのケースが登場します。彼らが献金をごまかしたときも、ペテロは彼らに質問を投げかけ、彼らがしでかしたことを認め、悔い改める余地を与えましたが、彼らは最後まで悔い改めることをせず、うそをつきました。しかし、それは人ではなく神を欺いたことであり、それゆえに彼らは立てつづけに神のさばきを受け、いのちを落としました。  この宗教指導者たちも、イエスさまに迫られていました。イエスさまが語るぶどう園の労働者が自分たちのことだということにも気づいていました。しかし、彼らはそれが単なる当てこすりとしかとらえられず、イエスさまに怒りを燃やすことしかできませんでした。これが、かたくなということです。  ヘブル人への手紙4章7節のかぎかっこの中のみことばを読みましょう。もともとがダビデをとおして語られたみことばと考えると、ダビデがこのみことばによって立っていたとおり、御声を聞くなら心を頑なにしない者の幸いに生きていたことは確かなことで、このみことばの語るとおり、私たちもその幸いに生きるべく召されています。  自分たちはパリサイ人のようではないから大丈夫だ、と思ったならば、すでに私たちは頑なになりはじめています。福音書に登場する、イエスさまがパリサイ人をお責めになったあまたのみことばは、まさしく私たちを悔い改めに導くべく語られているみことばです。今日の箇所などどうでしょうか。私たちが悪いことをついしてしまうとき、そこにイエスさまにいてほしくない、と思うならば、私たちは宗教指導者を象徴するぶどう園の労働者のように、御子をいらないものとしていることにならないでしょうか? それは、御子を十字架につけることです。  しかし、こうも言えます。私たちが罪を犯すことは、御子を十字架につけること、しかし、そのように御子イエスさまが十字架についてくださることによらなければ、私たちの罪はほかのどんなことによっても赦されません。私たちは罪を犯してしまいますが、そんな私たちを完全に赦してくださるイエスさまの十字架のほうが絶対です。だから私たちが罪を犯してしまうとき、もっといい人になるように努力しようとするのではなく、イエスさまの十字架にすがる、これがもっとも必要なことです。  いちばんいけないのは、罪が示されたとき、頑なになってイエスさまとそのみことばを無視することです。それでは宗教指導者と同じです。そんなとき私たちは、悔い改めることができるかどうかが問われるところです。私たちがそんなとき、悔い改めて主の赦しと回復のみわざを体験することができますように、主の御名によって祝福してお祈りします。