いちじくの木の教え

聖書本文;マルコの福音書11章12節~25節 メッセージ題目;いちじくの木の教え 神さまの創造の不思議というものに、私たちはときどき出会います。たとえば、人のように見えるもの。それは、木ではないでしょうか。教会の駐車場に生えているような、植物の木。幹は胴体、太い枝は腕、そして、上のほうで茂る枝葉は全体が人の頭のように見えないでしょうか? ときどき絵本などで見ませんか、人のように顔があって、ことばをしゃべる木を。 逆に、これは以前学んだマルコの福音書のみことばにありましたが、イエスさまに目をいやしていただいた盲人が、最初人を見たとき、人が木のようです、と言っています。人の姿はぼんやり見ていると、木に似ているというわけです。 そういうわけで、神さまは人に似たものとして、木というものを創造されました。そういう木に囲まれて生活している私たちですから、たとえば春になると満開の花を咲かせるさくらの木が、寿命が来てこのままだと倒れて危ないからと、電動のこぎりなどで切り倒す現場に出くわすと、私たちはどこか心が痛みます。そんな私たちが何の予備知識もなく、今日の箇所を読んだらどう思うでしょうか? お尋ねしたいのですが、みなさまが最初この箇所を読んだとき、どんな印象をお持ちになりましたか? イエスさま、おなかがすいているからって、何もそこまでしなくても、などと思いませんでしたか? 正直に申しまして、私は最初そう思ってしまいました。 イエスさまは貧しい人や、からだの不自由な人をお心に留めてくださる、やさしいお方です。そんなイエスさまが時に、暴力的とさえ思えるような行動に出られるのを福音書で目にしたら、私たちは戸惑いませんでしょうか? 今日お読みしたみことばでは、イエスさまは木を枯らされただけではありません。エルサレム神殿の中で暴れ回っておられます。こんなイエスさまのお姿はあまり見られないだけに、目を丸くしてしまわないでしょうか? だからこそ私たちは、このようなイエスさまの行動から学ぶために、聖書を深く知る必要があるわけです。聖書に書かれていることを表面的に受け取り、かわいそう、とか、ひどい、とか、感情的に反応したら、下手をするとつまずき、信仰がそれ以上成長しなくなる危険があります。つまずかないために、主のみことばは愛に満ちた誤りなき神のことばであると受け取りつつ、謙遜に学ぶ姿勢が必要です。 さて、朝になってエルサレム城外のベタニアからエルサレムに入られるイエスさまは、その途上、おなかがすいておられました。折しも、遠くにいちじくの木が見えました。しかしその木は、葉が茂っているばかりで、何の実もついていませんでした。イエスさまはこのいちじくの木を呪われ、今後おまえの実をだれも食べることのないように、とおっしゃいました。 しかし、この13節のみことばを見てみますと、「いちじくのなる季節ではなかった」からいちじくの実はなっていなかったということが書かれています。それなら、実がなっていないのはしかたがないのではないでしょうか? イエスさまはそれをご存じなかったのでしょうか? イエスさまはひどいのでしょうか? 私も長いこと、この謎がわからずにいました。しかし、私がこの教会にやってきて、前任者だった宇佐神実先生にいただいた本、『聖書の世界が見える・植物編』という、もともとが漢方のお医者さんで、現在はイスラエルで宣教師をしておられるリュ・モーセ先生という方がお書きになった本を読んで、長年の疑問が氷解しました。今からお話しする、いちじくに関するお話は、その本を参考にお話しすることです。 多くの人はこのできごとを合理的に説明しようと試みて、大きく分けて2種類のことを言います。ひとつは、イエスさまがあまりにおなかがすいていて、いらだちのあまり呪われた、もうひとつは、十字架の死を前にして、瞬間的に理性を失われた。とくに後者の解釈は、かのシュバイツァー博士も採用しているものです。 しかしもちろん、そういう軽薄な理由でイエスさまがこのような行動をお取りになったわけではありません。そのために理解すべきことは、イスラエルにおいていちじくがどのように実を結ぶかということです。イスラエルは地中海の気候で、4月から10月までの乾季と、その残りの期間の雨季に分かれます。6か月の雨季の冬の間、葉のない枯れ枝のまま冬を過ごしたいちじくの木は、過越が近づくにつれ、わずかな葉とともに最初の実をつけ、その後長い夏の間に、5回にわたって実をつけます。じつは、初なりのいちじくを指すヘブル語と、夏の間に実るいちじくを指すヘブル語は、別のことばなのです。初なりのいちじくは「パーグ」、そのあとのいちじくは「テエナ」です。 つまり、これはヘブル語の原語に忠実に解釈すると、イエスさまが探されたのは「パーグ」、すなわち「初なりのいちじく」であり、しかし「テエナ」の季節ではなかった、ということです。過越の時期に葉ばかりが茂って初なりのいちじく「パーグ」がついていない木は、明らかに問題がありました。こんな木は夏になっても「テエナ」の実を結ばないことは明らかでした。 イスラエルにおいて果物とは基本的に夏のもので、冬には果物は実を結びません。初なりのいちじくとは、まさにイスラエルの民が待ち焦がれている甘いもの、滋味豊かなものであり、神さまがイスラエルの民に注がれるそのおこころは、この待ち望まれているもの、初なりのいちじくに例えられます。 義人が消え去ってしまった南ユダ王国の時代の預言者ミカ、偶像礼拝がはびこったヤロブアム二世の時代の北イスラエル王国の預言者ホセアが、神さまのその御思いを語りましたし、一方で南ユダの預言者イザヤは、その活動していた時代にアッシリアによって滅ぼされた北イスラエルを、はかなく食べられてしまう初なりのいちじくになぞらえました。 このように、いちじくの実は神の民の状態を象徴していましたが、同時にいちじくの木は、季節の訪れを告げました。特に、夏の訪れを告げます。マタイの福音書24章23節と24節のみことばに注目しましょう。イエスさまが終末のしるしについてお語りになっているとき、唐突にいちじくの木の話が出てまいります。これは、イスラエルにおいては秋が一年の四季の始まりであり、秋、冬、春と来て、最後が夏、すなわち、夏という季節は、イスラエルの人たちにとっては終末を意識させるものだからです。 その終末に、滋味豊富で、イスラエル民族にとっては最高の果実ともいえるいちじくの実のような実りがないならば、そのような者は木が枯らされるように、神の国から放り出されてしまいます。このイエスさまのみわざは、マタイの福音書ではひとつづきのように書かれていますが、時系列で理解するならおそらくマルコの福音書の順番どおりです。すなわち、イエスさまがいちじくの木を呪われたらすぐにたちまち木が枯れたというよりも、イエスさまが呪われたあとになってもう一度その木を見ると、枯れていた、ということです。たった一日で枯れたわけですから、マタイの福音書の表現、たちまち枯れた、ということばも、あながち間違っていないことになります。 ともかく、いちじくの木が枯れたことがわかるまでには間があるわけですが、その間何があったのでしょうか? そのできごとから何をお教えになるため、イエスさまはいちじくの木を枯らされたのでしょうか? それは、いわゆる宮きよめでした。イエスさまがエルサレム神殿にお入りになると、そこにはいけにえにする鳩を売ったり、両替をしたりして儲ける者たちがいました。要するに、神殿を世俗的な商売の場としていたわけです。 もし、彼らに言い分があるとすれば、礼拝者の献金は両替してやらなければならないじゃないか、いけにえを用意できない人もいるじゃないか、とでもなるでしょうか。 しかし、イエスさまはお許しになりませんでした。それは、神への礼拝さえも肉的な利得の手段とするほどに堕落した、過ぎ越しにふさわしい初なりの実を結ぶことから程遠い、神の民のなれの果てでした。イエスさまは暴力的とさえ思えるような手段を用いてさえ、彼らに制裁を加えました。 イエスさまは彼らのしていることに対し、本来、御父の家、すなわち祈りの家と呼ばれるべき神殿を、おまえたちは「強盗の巣」にした、となじっておられます。神殿は単なる宗教施設ではなく、神の民が祈りというつながりをもって神を父とする家庭を築く「家」です。神の民は祈りによって父とつながり、お互いが神という父を介してつながる家族です。それが実現する究極の場所が神殿です。そういう生き方をすることによって、やがて世をさばくさばき主としてこの地に来られるイエスさまにまみえることに、神の民たる者はともに備えるべきなのです。 ところが彼らのしていることは、そんな神の民とは似ても似つかない姿です。いえ、およそ人に生まれたならば、その創造主なるイエスさまの再臨に備えて、つねに父なる神さまと祈りをもって交わり、ものの売り買いを介してではないとつながれないようなドライかつ世俗的な関係ではなく、主にあってほかの人たちと愛にあふれた交わりを持つ共同体を形づくるべきです。つまり、彼らは人でさえありません。家ではなく、「巣」に住むようなけだものにも等しい者ども、そして、いけにえにするには鳩しかささげられないような貧しい者たち、巡礼に来ていてなけなしのお金を差し出そうとする人たちさえ利得の手段にするような彼らユダヤ人は、強盗だとおっしゃっているわけです。人のものを奪う、すなわちそうすることで、神のものを奪う彼らは、祈りの家に居座る強盗どもです。 過越とは、神のさばきと贖いの告げ知らされる大事なときです。このときイエスさまは、十字架におかかりになり、過越における究極の子羊のいけにえとなられました。しかし、その子羊によって贖われるべき肝心のユダヤ人は、御父の家、祈りの家を弱者から搾取してむさぼる利得の手段にして恥じることをしない、強盗どもと化していました。そんな彼らはうわべだけを誇る、過越の季節にふさわしくなく、まるで真夏のように葉ばかり青々と茂らせても、イエスさまを満足させる小さな実ひとつ結べない者たちでした。イスラエルの夏に象徴される終末が現に臨んでいようとも、そんなことはお構いなしの傲慢きわまる態度です。 ただ、イエスさまはいちじくの木を枯らされたことに対して驚いている弟子たちに対して、そのような霊的な奥義を説明される代わりに、信じて祈る者の祈りを神さまは聞いてくださる、山に向かって動いて海に入れ、と祈っても、そのとおりになる、と、すごいことをお語りになりました。 イエスさまのこのおことばを表面的に受け取るならば、そうか、そんな不可能と思えるようなことでも、信じて祈れば聞いていただけるのか、という理解で終わってしまいます。これは前に、岡野俊之先生という牧師先生のメッセージでお聴きしたことですが、岡野先生はまだ若者だったとき、この箇所から解き明かされたメッセージを聴いてイエスさまを信じ、家に帰ってノンクリスチャンのお父さまに興奮してお話しになったそうです。「お父さん、イエスさまを信じるってすごいよ! イエスさまを信じて祈るならば、山も動かせるんだよ!」すると、お父さまはこうお答えになったそうです。「馬鹿だなあ。おまえは自分の寝ていた布団ひとつ動かせないじゃないか。」要するにお父さまは、布団の上げ下ろしもできない者が、何が祈りの力だ、とおっしゃりたかったわけです。だから、ここでイエスさまがおっしゃりたかったことを、クリスチャンは祈れば必ず全能の力が与えられる、というレベルで捉えないことが大事になります。 これは、イエスさまがなぜいちじくの木を枯らされたか、そのことで弟子たちに何をお教えになろうとしたか、を考えることで理解すべきことです。海とは何でしょうか。神なき暗黒の世界の象徴です。しかし終わりの日、天国が実現したら、以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはやそこには海がないとみことばは語ります。それでもそうなる前に、エルサレムという山の町がもろとも海に投げ込まれるがごとく、主の時の訪れを無視しつづけて神の領域を強盗のごとく占拠しつづける、名ばかりの神の民のつかさたちは、海に投げ込まれるがごとく、火と硫黄の池に投げ込まれます。 その主の正義のさばき、御怒りの報復の日は必ず起こる、と信じて祈ることが、あらゆる祈りの基礎となります。その中には、人間的に考えたら不可能と思えることさえ含まれるでしょう。その祈りが聞かれることで主のご栄光が広くたたえられ、主の御国が拡大し、主の再臨が確実に近づくからです。 そう、私たちにとっていちばん信じるべきことは、主が必ずこの世界をさばき、天国を実現してくださるということです。しかし、あらゆる宗教や唯物論が常識となる一方で、再臨のイエスさまのご存在を頑として受け入れないこの世界において、このことを事実と信じて祈る求めることには、並大抵ではない信仰が必要とされます。何よりも、いちじくをたちまち枯らされたほどのイエスさまがどれほど全能なお方であり、また主権者であられるかを心の底から認める謙遜さ、敬虔さが必要とされます。イエスさまなど再臨するものかという間違ったこの世の常識に、どんなことがあっても負けない、いえ、むしろ私たちの祈りの力によって、再臨を確実に実現していただく、そのように信仰を働かせてまいりたいものです。 ただし、そのように全能の御手を伸ばしてくださる信仰を私たちが働かせるにあたって、イエスさまが命じておられることがあります。それは、兄弟姉妹を赦す、ということです。私たちは神さまから見ればあまりに罪が多く、神に敵対する歩みを意識するしないにかかわらずしている罪人です。そんな私たちはしかし、イエスさまの十字架によって、完全に罪なきものと見なしていただきました。しかし、そのように罪を赦していただいただけの私たちが、もしほかの兄弟姉妹の罪に目を留めて、怒ったり、さばいたりして、赦さなかったらどうでしょうか? よくもそんなことをしてくれたな、と、呪ったりしたらどうでしょうか? 神さまはそんな私たちのことをお赦しになりません。そんな怒りとのろいをいだくものは、天国にふさわしくないからです。 しかし、私たちはそう簡単に怒りを手放せません。しかしこのままでは、終わりの日に神さまが実現してくださる天国に入れません。ならば私たちは、天国を実現する全能の御業をなしてくださいという祈りを手控えるべきなのでしょうか? そうなってはなりません。むしろ私たちは、天国がわが身にも完全に実現するために、怒りを手放し、兄弟姉妹を赦す決断をする必要があります。それがもし極めて難しいこと、不可能なこととさえ思えるならば、そこにこそ私たちは、全能の御手を求めましょう。主は、不動の山のように居座る私たちの怒りさえも手放せるように、全能の御業をなしてくださいます。 ともに祈りましょう。私たちはひとりの例外なく、さばき主なる主の御前に立つ日が来ます。しかし、私たちはさばかれません。なぜなら、イエスさまの十字架によって罪を赦していただいているからです。この罪の赦しが、私たちの愛する人、まだイエスさまに出会っていないけれども私たちの愛している人に実現すること、それによって神の怒りからその方が免れられるようにと願いましょう。そして私たちは、人間的にはありえないことのように見えるイエスさまの再臨を、心から信じて求めましょう。

主の弟子への招き

聖書箇所;ルカの福音書5章1節~11節 メッセージ題目;「主の弟子への招き」    本日は礼拝においてバプテスマが執り行われます。まことに嬉しい、喜びに満ちたひとときを、私たち教会はともに迎えます。私もお祝いする気持ちで、祈りつつ聖書本文を探しまして、今日の本文に行きつきました。今日はバプテスマも主の晩さんも行われますので、いつもより短い時間でメッセージしたいと思います。  イエスさまを信じるということは、同時に、イエスさまの弟子に招かれる、ということです。イエスさまの弟子になるということは、難しいことではありません。厳しい修行を積まなければイエスさまの弟子になれない、という性質のものではありません。聖書を見てみますと、イエスさまがご自身のメッセージを聴きに集まった群衆に、たとえで神の国について説明された後、そのたとえの意味を尋ねる弟子たちに、その意味を解き明かされた内容が収録されています。この解き明かしが、弟子ではなければお聴きできなかった内容であったことを考えると、それが聖書に収録されている以上、聖書を読む人はみな、イエスさまの弟子に招かれている、ということが言えるわけです。聖書は一般の書店でも簡単に手に入る書物であるわけで、つまり、イエスさまの弟子になる道は、実はとても広く開かれているわけです。  それだけではありません。使徒の働き6章1節を読んでみますと、教会の群れに日に日に増し加わった人々のことを、はっきり「弟子」と呼んでいます。その人々はもちろん、イエスさまを信じ受け入れ、バプテスマを受けることによって教会の一員となっていったわけですから、イエスさまを信じてバプテスマを受けるならば、即、弟子に召されると言えるわけです。  今日の箇所、ペテロがイエスさまの弟子に正式に招かれた箇所も、難解かつ秘密の書物ではなく、聖書の読者である私たちに開かれているみことばです。ペテロは特別だと思いますでしょうか? いえ、みことばをもって弟子に招かれているということにおいて、ペテロも私たちも変わるところはありません。  今日の箇所、ルカの福音書5章のシーンをざっと見てみます。ゲネサレ湖で……ガリラヤ湖のことですが……ゲネサレ湖という湖で夜通し漁をしたけれども、何も獲れなかったシモン・ペテロの舟にイエスさまがお乗りになって、舟の上から湖岸に集まった大勢の群衆に教えを語られました。それからイエスさまはペテロに、深みに漕ぎ出して網を下ろしなさい、そうすれば魚が獲れるから、とおっしゃいました。ペテロがそのおことばのとおりに網を下ろすと、舟も沈みそうになるほどの魚が獲れ、ペテロがイエスさまの御前にひれ伏します。そんなペテロにイエスさまは、あなたは人間を取る漁師になります、とおっしゃいました。そのおことばを受けて、ペテロもアンデレも、その網を引きげるのを手伝ったヤコブもヨハネも、何もかも老いてイエスさまに従っていきました。  そのように、今日の箇所はイエスさまのお招きにペテロたちがお応えしたという内容ですが、主の弟子への招きとそれへの応答というものは、イエスさまが一方的に嫌がるペテロたちを引っ張っていったわけではなく、イエスさまとペテロの共同作業のようにしてなされたものだということがわかります。  福音書を読み比べてみると分かりますが、実を言いますと、シモン・ペテロは今日の本文、ルカの福音書5章のシーンでイエスさまに初めて出会ったわけではありません。その前に、すでに出会っています。その場面はヨハネの福音書1章に描かれていますが、もともとがバプテスマのヨハネの弟子だったアンデレが、自分の兄弟のことをイエスさまのもとに連れていきます。その兄弟がシモン・ペテロです。アンデレは一日、イエスさまと過ごしてから、シモンのもとに行ったわけですが、この時点ですでにアンデレは、イエスさまのことをキリストと認めています。  シモンがイエスさまのもとに行くと、イエスさまはシモンに対し、あなたはケファ、すなわちペテロと呼ばれよう、と、出会ってそうそう、名前をつけられ、シモンとの個人的な関係を築かれました。  そういう背景があったうえで、イエスさまはゲネサレ湖畔にて、シモン・ペテロの舟から群衆に対して教えを宣べられたわけです。いきなり面識もないペテロの舟に乗られたわけではなかったわけです。ともかく、ペテロは夜通しの漁で疲れていたことでしょう。そればかりか何も獲れないで、むなしささえ覚えていたはずです。しかし、なんと、その朝に、目を凝らすとイエスさまがやってきます。後ろにはぞろぞろと群衆がついてきています。そのイエスさまが、群衆を教えるにあたり、ペテロの船着き場、そしてペテロの舟という場所をお選びになったわけです。実に、ペテロは選ばれていました。なんという光栄でしょう。  それだけではありません。ペテロがこぎ出した舟にイエスさまがお乗りになり、そこからお教えになったということは、ペテロはだれよりもイエスさまのそばで、そのメッセージを直接お聴きするという恵みにあずかったことになります。選ばれて、みそばでイエスさまのみことばをお聞きする、すでにイエスさまの弟子としてお従いする準備ができていました。  そのイエスさまが、深みに漕ぎ出して魚を獲りなさい、とおっしゃるわけです。ペテロとしては、夜通し漁をしても何も取れなかった……先週私たちは、落胆、ということをメッセージで扱いましたが、こういう時こそペテロは落胆していたことでしょう。それに、何も獲れなかったなんて、漁師としてのプライドにかかわることでもありました。  しかしペテロは、「でも、おことばどおり、網を下ろしてみましょう」とお答えします。いえいえ、何も獲れないんです! 私は疲れているんです! そんなことは言いませんでした。ペテロは、そばでメッセージをお語りになるイエスさまのそのおことばに、心動かされたわけです。このお方が一緒ならばできる、このお方がおっしゃるならばできる、そう信じ、深みに漕ぎ出して網を下ろしました。すると何ということでしょう。まったく獲れなかった魚が、舟も沈まんばかりに大漁!  このように、主が召され、導かれるとおりに従順にお従いするならば、主はすばらしい祝福を約束してくださると、みことばは語ります。まずは、みことばがまことであると信じることです。主が祝福をもたらしてくださる恵みは、そこから始まります。  ペテロもアンデレも、その仲間のヤコブもヨハネも、イエスさまのこのみわざに、大きな恐れを覚えました。人間的にどんなに努力してもかなわないことを、従順に従うならば主は十二分にかなえてくださる。そんな全能なるお方。  このお方こそ王の王、主の主、もう、ひれふすしかありません。しかしイエスさまは、そのように恐れに震える彼に対し、「今から後、あなたは人間を獲る漁師になります」とおっしゃいました。漁師ひとすじに生きてきたペテロ、そしてアンデレやヤコブやヨハネに、新しい生き方、主ご自身がお導きになる生き方をお授けになりました。主の弟子となって、主のもとに人々をお導きするという、素敵な生き方。こうなったら彼らのすることは、その生き方をするために、イエスさまにお従いすることだけでした。  ペテロたちがそうしたように、私たちも主の弟子としてお従いする祝福を知って、イエスさまについていく存在です。人は言うかもしれません。弟子として生きるなんておよしなさい。しかし、天地万物をおつくりになった神さまご自身の招きです。これを拒否さすることがどんなに人生にとって損失か、わかっているのです。反対に、すべてを捨てて主にお従いすることならば、この世においては捨てた分の何倍も受け、のちの世では永遠のいのちの大きな祝福を受けることを知っているのです。その祝福を、だれかに言われたからと手放すだなんて! だれが何と言おうと、主の弟子としてイエスさまにお従いすることはやめられません。  でも、弟子としてお従いするのは楽しい道です。ペテロはそれから、そのリーダーシップを発揮する一方でおっちょこちょいな性格のゆえに、弟子共同体の生活の中で何度もしくじりましたが、最終的にはすばらしい働き人として整えられました。私たちはイエスさまのそばに置いていただいているから、必要十分のみことばをお読みできるから、お祈りすればイエスさまにいつでも聴いていただけるから、私たちは「弟子」です。  今日、姉妹はイエスさまの弟子としてキリスト教会においても、この世においてもデビューしようと、バプテスマをお受けになるという、素晴らしい決断をなさいました。繰り返し申します。イエスさまの弟子として生きることは楽しいです。なぜならば、その喜びを分かち合える信仰の友、弟子の仲間が、こうしてともにいるからです。ペテロが兄弟のアンデレ、漁師仲間のヤコブやヨハネと一緒に召され、共同体となって孤独じゃなかったのと同じことです。みなさん、姉妹と一緒に励まし合いながら、弟子の歩みをしてまいりましょう。その弟子の歩み、愛の歩みは、人間の力では決してできないけれども、全能なるイエスさまに働いていただくことではじめてできる、人がたくさんイエスさまのもとに送られてくるという、その実を結びます。そのために用いられるべく、日々ともに主の弟子として訓練を喜んで受け、お従いしていく、そのような私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

落胆しないで生きるために

聖書箇所;コリント人への手紙第二4章16節~18節 メッセージ題目;「落胆しないで生きるために」 7月の礼拝で毎週語ってまいりましたメッセージ、「キリストのからだ」シリーズも、今日で最後となります。私たちが、キリストのからだなる教会のひと枝であるとはどういうことか、いろいろな局面から学んでまいりました。今日は特に、キリストのからだとして生きる私たちは、本来、落胆というものをする存在ではないということについて学びます。 落胆……がっかりするということです。期待して物事に取り組んだが、その結果はよくなかった……そんなとき私たちはがっかりします。子どものときなど特にがっかりすることは多いでしょう。その「がっかり」の積み重ねで、私たちはいろいろなことを悟りながら成長し、やがて大人になります。しかし、大人になっても、がっかりすることというのは多いものです。いえ、がっかり、というより、落胆、ということばのほうがしっくりするものではないでしょうか。予期せぬ病気や事故、事業や資産運用の失敗、家族の中の問題、人間関係のトラブル、人間的にはどうしようもない自然災害……。実に落胆させられることばかりです。 しかし、今日の箇所を見てみますと、パウロはコリント教会の信徒たちに向かって、落胆しない、と語っています。パウロがそう語る最大の理由は、普通に考えるならば問題だらけのコリント教会を前にしても、指導者である自分は落胆していない、ということを、コリント教会の信徒たちにわかってもらうためでした。 落胆ということは複雑な教会の人間関係の中にかぎらず、先ほども申しましたとおり、いつ、どこでも、私たちが生活しているかぎり起こることです。だれであれ体験することです。しかし、私たちクリスチャンは少なくとも、「いつも喜んでいなさい。たえず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」と語られている存在です。落胆することが私たちにあまりふさわしくないのは、私たちは主の光によって明るく輝く存在だからです。それは、私たちだけが快適に生きればよいからではありません。私たちの主にあるよい行いをとおして、周りの人たちが天におられる私たちの父なる神さまをほめたたえるためです。落胆しないといっても、周りと無関係に楽天的に振る舞いさえすればいいということではありません。 私たちは、「自分は落胆しません」と語るパウロの姿から、教会としても、個人としても落胆しないために、明るく快活に振る舞って主のご栄光を顕すために、どのような態度で生きるべきか、特に、何に注目して生きるべきか、いまお読みしたみことばを一節ずつに分けて、3つのポイントからお話ししたいと思います。 第一に私たちは、内なる人に注目します。 16節をお読みしましょう。……ここでは、「外なる人」と「内なる人」が対比されています。私たちは「外なる人」につい注目します。それは、私たちの目に見えるのも、私たちが実際に感じ、考え、語り、行動するのも、すべてはこの肉体、すなわち「外なる人」を介して行われるものだからです。その、厳然と存在する「外なる人」という制約の中で生活する現実から一切自由になることなく、私たちは生きています。 しかもこの「外なる人」は、つねに衰えます。いや、成長期にある子どもは衰えていないじゃないか、とおっしゃる向きもありましょうが、やがてその成長は止まり、衰えていく一方になります。かく申します私も、49にもなりますとしわや白髪が増え、若い頃ほどは体力的に無理が利かなくなっています。いえ、それ以前に、私は中高生のときに病気になって大きな手術をして、両胸ともに大きな傷跡があります。すでに十代の頃から衰えは始まっていたのでした。 そういう現実の中に生きる私たちですが、衰えるということは同時に、天国に一歩一歩近づいていくということも意味しています。多くの人にとって衰えるということが悲しいことにしかならないのは、その完全な衰え、究極の衰えである「死」の向こうにある、イエスさまの待つ永遠の御国に行く道を、そもそも知らないからです。私たちはそうではありません。私たちは究極の衰えである「死」のその瞬間、御国に移されます。 そうだと知るならば、私たちはまず、外の人の衰えにことさらに目を留めないで生きることが大事になります。外の人は衰え、病み、傷つくことばかりで、それを食い止めるにはどうすればいいか、ということばかりを考えてしまいます。なにも、そのような努力が「悪い」と言いたいわけではありません。よい食事をすることも、運動をすることも、みんな大切です。しかし、所詮それは「食い止める」、ないしは「遅らせる」努力であるだけで、衰えを「解決する」、「根治する」ことにはなりません。ただし、これらの努力には一定の意味はあります。それについてはのちほどお語りします。 私たちが目を留めるべきは、「内なる人」です。この「内なる人」は、外なる人が衰えてもなお依然として存在する、私たちの存在そのものであるのと同時に、イエスさまを信じる信仰によって主に贖われ、天の御国に入れていただく保障をいただいた存在です。私たちクリスチャンは、この「内なる人」という存在があるゆえに、その存在をもって天の御国に入れられ、永遠に生きるものです。 この「内なる人」が主と交わり、主を知る知識で満たされ、主の栄光を顕すという、主に喜ばれることを行いたいと願うものです。しかし、外なる人という現実ばかりが見えてしまっているならば、内なる人の持つ底知れぬポテンシャル、すなわち、全能なる主のみわざを、主の手足となって執り行う、主の愛をもって隣人を愛する、そのようにして主のご栄光を顕す、その生き方が、著しく制限されてしまいます。こんな傷ついた自分になんて、こんな弱い自分になんて、こんな未熟な自分になんて、そう思って、内なる人の、主のご栄光を顕したい、顕したい、そのために霊的に成長したい、成長したい、という、聖なる欲求をがんじがらめにしてしまうのです。 礼拝でみことばに耳を傾けることがなぜ必要なのでしょうか? 聖徒の交わりにおいてみことばを分かち合うことがなぜ必要なのでしょうか? ディボーションと聖書通読で毎日みことばを読むことがなぜ必要なのでしょうか? それは、衰える外なる人ではなく、日々新たにされる内なる人こそが、私たち個人個人にとっても、教会にとっても本当の現実であると知り、その現実の中でこそ私たちが実際に生きるためです。私たちは主と交わることによってはじめて、内なる人が日々新たにされているという、その現実を実感し、それゆえに落胆することがなくなります。個人個人がそうなれば、教会全体がそうなりますし、教会全体がそうなれば、個人個人がそうなります。 それでは、第二のポイントにまいりましょう。第二に私たちは、重い永遠の栄光に注目します。 17節のみことばをお読みしましょう。……この節は、「一時(いっとき)の軽い苦難」がもたらすものは、それとは比べ物にならないほどの「重い永遠の栄光」であると語ります。 私たちはだれしも、苦難を体験します。ここで礼拝をささげている私たちも、現実に今、苦難のただ中にいてとても苦しい思いをしているかもしれません。ところが、その苦難とは、このみことばによれば「軽い」というのです。 どうすればこの苦難を「軽い」ととらえられるようになるのでしょうか? それは、この苦難のすえに私たちがたどり着く「重い永遠の栄光」があることを心から信じることによってです。そもそも、苦難というものは、それが自分の身に起こるたびに「自分は悪くないのになんで自分ばかりこんなひどい目に」という態度でいるならば、私たちはいつまでたっても被害者のポジションから抜けられず、生産的ではない自己憐憫に陥るしかありません。 私たちが身に帯びる苦難というものは、何であれ、私たちに向けられた主のみこころと無関係に存在するものはありません。主は私たちが苦難にあうことをお許しになることによって、私たちをご自身に拠り頼むようにさせ、私たちをあらゆる面で成長させ、強くしてくださいます。また、ご自身の働き、すなわち、神の愛を隣人に対して実践するものとして、私たちのことをふさわしく整えてくださいます。 その、無数のプロセスの果てに、私たちはキリストの満ち満ちた身丈、キリストの似姿に成長させられ、その人生の終わりに、栄光の天国に至るわけです。そのような私たちは、その日、この地上で何をなしてきたか問われることになります。私たちがいかにして主の御国のために労してきたか、時にそのために苦難にあうことも選択してきたか、問われます。そのとき私たちは、恥ずかしくなく主の御前に立つことができるでしょうか? 私はもし、自分の人生が今日にでも終わり、主の御前に立つことになったならば、天国に入れていただける確信を持っています。天国というところはイエスさまを信じる信仰ひとつで入れていただけるところだからです。しかし、天国に入れていただけることは確かでも、私が恥ずかしくなく人生を走りおおせ、イエスさまの御前に立てるかと問われれば、まだまだです。とお答えするしかありません。それはなによりも、イエスさまが十字架を背負って私のために死んでくださったように、私も十字架を背負ってイエスさまのみあとを日々ついていきましたと、確信をもって断言できるとは思えないからです。 十字架を背負う歩みは、ひとりひとりが周りと関係なくするものではありません。この、キリストのからだなる共同体、教会においては、十字架を背負ってイエスさまにお従いするその歩みはそれぞれがしているようで、実はこの共同体にあって「ともに」していることを、私たちは自覚する必要があります。ゆえに私たちは、ほかの兄弟姉妹が今体験している苦難に無関心であってはなりません。それは「私の」問題であるからです。同時に「私の」体験している苦難は、ほかの兄弟姉妹にとっても同じように体験している苦難でもあります。分かち合えることを分かち合うことによって、私たちは重い永遠の栄光に向かう共同体として、ともにいま体験している苦難が、一時の軽いものであるととらえ、忍べるようになります。 また、重い永遠の栄光というゴールがあることを知るならば、いま体験している苦難が「被害者のように苦しまされていること」ではないことがわかります。もちろん、自分の不始末のせいで苦しい目にあっているならば、その責任は苦しい目にあうことで取らなければならないという側面もあるにはありますが、苦難とは必ずしもそういうものとはかぎりません。むしろ、主の栄光のために積極的に生きた結果、苦難を身に帯びることもあるわけで、そうであるならば、私たちは主の恵みの中で、その患難を「選択」する恵みをいただいた、とさえ言えるわけです。そう捉えますと、病気ですとか、災害ですとか、自分ではどうにもならないような領域にも、それらの苦しいことを通じて私たちに目を注がれる主のみこころを認め、感謝できるようになるのではないでしょうか。 私たちはいま体験している苦難がすべてのように思ってはなりません。苦しいときこそ、その果てに永遠の栄光に導いてくださる主の愛に目を留めましょう。ひとりひとりが、というよりも、ともに、目を留め、私たちひとりひとりを苦難のうちにあっても愛してくださる主の愛のすばらしさを、ともに分かち合ってまいりましょう。そうすることで私たちは、落胆することから守っていただけます。 最後に、第三のポイントです。私たちは、永遠に続く見えないものに目を留めます。 18節のみことばです。ここでは、見えるものが一時的であることと、見えないものが永遠に続くことが対比されています。もちろん、私たちの注目すべきは、永遠に続く見えないものです。 信仰というものは、見えないものを確信することです。私たちの信じている神さまは、目に見えるお方ではありません。 しかし私たちは、神さまを信じています。目の前におられる方として、いまここにおられる方として、信じています。これは、私たちに信仰を与えてくださる聖霊なる神さまのなしてくださるわざです。 私たちは信仰によって、このお方、神さまが、永遠のお方であることを信じ受け入れます。限りある私たち人間は、そもそも永遠というものを理解することが許されていません。ただ、永遠なる神さまを信じることにより、私たちは永遠というものを知り、信じることが許されています。 しかし、私たち人間は永遠がわからないと、目の前にあるもの、目の前にある状況が絶対だと思えてしまう弱さを抱えています。いま体験している患難、苦しみがすべて、それがなくなることはない、そう考えるから落胆してしまうわけです。そしてひとたび落胆すると、そのように落胆して当たり前、明るく生きることもできなくなってしまいます。 ふつうはそう生きるもの、そのように目を留めるものです。しかし、少なくとも私たちは、この世の常識や流れにしたがって、ただの人のように歩んで、落胆するのが当たり前のように思ってはなりません。私たちが目を留めるべきは、永遠なるお方、イエスさまです。永遠なるイエスさまはまた、愛なるお方です。ということは、私たちは、永遠の愛によって、永遠に愛されている存在です。イエスさまの十字架は2000年前のエルサレム城外、カルバリの丘での一日にも満たないできごとでしたが、その十字架によって、神さまはどれほど、私たちに対する永遠の愛を明らかにしてくださったことでしょうか。その、わずかの時間の十字架によって、イエスさまは私たちのことを、永遠に罪と死から贖い出し、永遠の神に永遠につなげてくださいました。 そのことを見るのは、信仰によることです。私たちがこうしてここに集い、礼拝をささげているのは、目に見えるのものがすべてではないこと、そして、目に見えない神さまとその愛にこそ目を留めて生きるべく召されていることを、私たちが知っているから、だから、このお方に礼拝をささげるのは当然のことであると私たちが知っているからではないでしょうか。私たちはもはや、現実そのもののようでいて実は過ぎ去っていくものに目を留める存在ではありません。永遠の神さまとその御国、その愛に目を留めて、その中に入れていただくという希望をつねに持つゆえに、一切の落胆から解放されている存在です。 もちろん、このような私たちも時に落胆することもあるでしょう。厳しいことが取り巻く現実を生身の身をもって生きる以上、私たちは傷つきますし、病むこともあるでしょう。しかし私たちは、落胆したままでいることはありません。落ち込んでしまうときこそ、私たちには見上げるべきお方がおられます。このお方を私たちひとりひとりが見上げ、また、教会という共同体で、ともに見上げるのです。そうするとき、私たちは力を受けます。最後に、イザヤ書40章の終わりのみことばをお読みましょう。 見えるものではなく見えないもの、すなわち、日々新たにされる内なる人に注目するならば、永遠の栄光に注目するならば、私たちは落胆することから守られます。この恵みが私たちとともにありますように、主の御名によってお祈りいたします。

弱さを誇るということ

聖書本文;コリント人への手紙第二11章30節 メッセージ題目;キリストのからだの中の弱さ  今年のプロ野球、私がむかしから応援している阪神タイガースは、いまのところ首位をキープしています。しかし、一時期ほどの勢いがないために、ファンとしてもやきもきさせられるところです。  野球のチームにかぎらず、勝つともてはやされ、負けるとけなされるように、「強い」ということが素晴らしいと、普通なら考えます。強いから誇るのです。ライオンという獣が百獣の王ともてはやされるのも、「強い」からです。  今日お読みしたみことばは、そんな「強い」ということに美徳を覚える私たちに、痛烈な一撃を与えるみことばではないでしょうか。自分は弱い、そんな弱い自分を誇る? そんな莫迦な! 普通ならそう思うでしょう。しかし、私たちクリスチャン、キリストのからだなる教会は、弱い自分を誇ってこそ存在する意義があることをみことばは教えます。  まず、パウロが、私は弱さを誇ります、と、コリント教会の信徒たちに高らかに宣言したその背景を、少し見てまいります。パウロの指導の下にあったコリント教会は、忍び込んできたにせ兄弟によって、かき乱されていました。パウロが宣べ伝えた福音に反する教えが伝えられていたのでした。その教えを伝えた者は、ユダヤ人の伝統に根差した自分自身を誇り、さらに、キリストの働き人であると自称して自分を誇る人でした。コリント教会は、そんなにせものの働き人の教えに、すっかり影響を受けてしまい、パウロが宣べ伝えた教え、十字架の福音が無駄になってしまっていました。  パウロはそのように、にせ兄弟に幻惑されていたコリント教会の信徒たちに、そんなにも「スペック」で働き人を判断することをあなたたちが好むならば、私はどうなるのだ、と、第二コリント11章から12章にかけて長い紙面を割いて語ります。  まず、パウロはもともとがユダヤの厳格な律法学者としての教育を受けた立場にありました。ユダヤ人の教師であるという「スペック」を重要視するならば、この私にいちばん言い分がある、というわけです。そして、彼らにせ兄弟、にせ教師たちがキリストの弟子であるというならば、私は狂ったように言いたいが、私こそがキリストの弟子である、と語ります。  そして、自分がキリストの弟子であるゆえに、これまでどれほどたいへんな目にあってきたかということを語ります。これを予備知識なしに読むと、まるで武勇伝のように見えてきます。パウロはこのように自分のことを語ることを、はっきり、自慢話であると語っています。それも、主によって語るのではない自慢話である、とさえ断っています。  もちろん、パウロがこのように自分自身のことを自慢話のように語るのは、それこそ自慢して認めてもらうためではありません。働き人に自己推薦など必要ないことを逆説的に語るためです。彼らにせ兄弟は自分のことを推薦して、それにあなたがたコリント教会はころっといってしまっているが、それと比較してあなたがたが見下げている私パウロはこういう者である、しかし、そんな自慢はむなしいことである、と語っているわけです。  パウロの体験してきたあらゆることを見てみると、主の働き人の末席に連なる者として、私などは恥ずかしくなります。しかし、パウロは、どうだ、こんな私は偉いだろう、と自慢する目的で、このような自慢話を述べているわけではありません。パウロは、そんな自分は実は強い者ではなく、弱い者である、ということを語っています。  一方でパウロは、誇るべき自分の経験を、続く12章の冒頭の部分で語っています。天上の栄光を見ることができた、これはたいへんなことです。ここで、この体験をした人物を、パウロは自分自身であるという語り方はしていませんが、続くことばを読めば、それがパウロであることがわかります。しかし、そのような誇るべき体験をしている者が私パウロであるとはっきり語っていないのは、それがパウロという人物をラベリングする自慢話ととらえてほしくないからです。  その代わりパウロは、この体験をしたことによって、サタンの使い、とげが自分を苦しめるようになったと語ります。パウロを苦しめるこのとげは、一般に肉体的なものであると解釈されています。一説によれば、言語障害、目の病気であると言われていますし、あるいは偏頭痛、てんかんとも言われています。  たしかに、ガラテヤ人への手紙を見てみると、パウロは目に重い病を負っていたように読み取れます。また、コリント教会の信徒の評価によれば、パウロは弱々しいなりをしていたようで、重大な持病を抱えていたことをうかがわせます。ともかく、具体的にその肉体のとげは何か、ということは聖書に明記されていませんが、パウロが弱さを抱えながらの働きをしていることは確かでした。  しかし、パウロにとって、自分が「弱い」ということの本質は、個人的なことにはありませんでした。本日お読みした箇所の直前、28節と29節のみことばをお読みします。……もともとが弱さを抱えているパウロをほんとうに弱くしていたものは、弱さを抱えている教会とその兄弟姉妹のその弱さ、痛みを担っているゆえであると告白します。しかし、続く節、30節において、誇るべきは自分の弱さであるとも語っています。  22節から12章6節までの、言ってみれば「自慢話」は、単に自慢と受け取るならばむなしいものです。しかし、このようなことを体験して弱くなることが、実はパウロのつながっているキリストのからだなる教会と密接にリンクしているならばどうでしょうか。パウロは、それらの体験を誇るのではなく、それらの体験のすえに謙遜にならされるために弱さを与えられたことを誇るようになります。  弱いことが誇れるのはなぜでしょうか。キリストの力が覆うようになるためです。しかし、ただ弱いだけでは、キリストの力が覆うことはありません。パウロにとっての弱さを伴うさまざまな体験は、キリストのからだなる教会が立て上げられるために、どうしても体験しなければならないことでした。兄弟姉妹が病んだり、心を痛めたりしたら祈りますし、必要なことばを送ります。教会内で人間関係のトラブルが起こったら積極的に介入します。次なる働き人を育て、訓練します。まだ福音が宣べ伝えられていない地を開拓し、そこで危険も顧みずに語ります。  そういったことをパウロが積極的に行うのは、キリストのからだなる教会がなお抱える弱さが覆われるためです。しかし、その弱さが覆われる働きは、自分自身が弱さを抱えていては、極めて困難の伴うものですし、しかもそれに取り組めば取り組むほど、ますます弱さを実感することになります。  そんなパウロですが、そのすべてを行うにあたり、何もしないということがあるでしょうか。それでは弱いままです。そうではなく、彼は祈っています。  そして、聖徒たちに祈ってもらっています。神さまはその、パウロと聖徒たちの祈りに応えて、パウロが弱いときにこそ強くしてくださいます。  ゆえにパウロは、自分の弱さを誇るのです。それは、キリストの力が自分を覆って強くしていただけるからであり、つまりは、自分を強くしてくださるキリストを誇っていることになります。ですから、パウロから学べることは、キリストのからだなる教会の中で弱さを自覚し、なお、その弱さを覆ってくださるキリストを誇るというその姿勢です。  パウロの自慢話を装った証しは、このパウロの弱さというものが、キリストのからだなる教会を形づくる働きに献身するゆえに、積極的にあらゆる形で弱さを体験してきた、そして今も弱さを抱えている、ということを示しています。すなわち、パウロの弱さは、まるで「被害者」のような立ち位置で「弱さ」を味わっているわけではないのです。むしろ、積極的に「弱さ」を身に帯び、なおその弱さがキリストの力により「強さ」へと変えられることを体験し、結果としてキリストを誇り、神に栄光を帰しているという、すばらしい結果を生んでいます。パウロは言ってみれば、「弱い」ことを「選択」しているのであり、主体的に「弱さ」の中に飛び込んでいます。しかし、パウロは決して、「弱いことを選択する自分はすごい」と誇っているのではありません。ただ「弱い」ことを誇っているだけです。  そこで、私たちのことを考えたいと思います。私たちもいろいろな「弱さ」を抱えていることと思います。その弱さはパウロのように、主と教会のために選択して身に帯びた「弱さ」とは言えないかもしれません。しかし、「弱い」ということそのものにおいては私たちはパウロと変わるところはありません。  私たちの抱える弱さとは何でしょうか。それは病気かもしれません。あるいは、お仕事の悩みかもしれません。しかし、私たちはここで、自分たちが今味わっている「弱さ」というものが、けっして、自分が意図もしなかったのに無理やり、不条理のようにして味わわされている「弱さ」だと考えないでいただきたいのです。それは、誇るべき弱さです。なぜならば、その弱さはキリストの力によっておおわれるべきものだからです。  そこで私たちは考えたいと思います。私たちはそれぞれの人生を生きているようですが、私たちがキリストのからだのひと枝ひと枝をなす存在である以上、私たちそれぞれの生活ないし人生というものは、教会のほかの兄弟姉妹の生活また人生と無関係に営まれているものではありません。すべて関係してます。ですから、問題があれば、すなわち、弱さを抱えていれば、その問題、弱さ、痛みは、ほかの兄弟姉妹にそのまま波及するものなのです。それでこそ、私たちが教会、キリストにあってひとつとされている証しとなります。  私たちは弱さを抱えるゆえに祈ります。その弱さがキリストの力によっておおわれるように祈ります。しかし、お祈りとは、個人のわざにとどまるものではありません。お祈りとは、どこまでも共同体としての教会のわざです。自分が自分のために祈ること、それはとても大事なことであり、必要なことですが、それは自分のためだけではありません。同じからだをなす、教会という共同体全体の健康のためです。  健康であれ、経済であれ、人間関係であれ、私たちが弱さを抱えるのは、教会全体が弱さを抱えていることであると、どうかとらえていただきたいのです。イエスさまが私たちをひとつからだとして召してくださった以上、私の弱さはほかの兄弟姉妹の弱さ、ほかの兄弟姉妹の弱さは私の弱さであると、どうか自覚していただきたいのです。  だからこそ、お祈りの課題をオープンに分かち合い、互いに祈り合うことが必要となってくるわけです。祈りの課題を出すことは、まだかなっていない自分の野望を宣言し、そんなビジョンを描いている自分はすごいだろうと自慢するためにすることでは決してありません。自分の弱さがキリストによっておおわれるためにお願いすること、それがとりなしの祈りというものです。  私たちは強い存在ならば、そもそもイエスさまのもとに来る必要のなかった存在です。教会とは何でしょうか? 弱い者たちが選ばれて集められた群れです。したがって、自分が弱いという自覚を持ち、その弱さがキリストの御力によって覆われるように祈ることなしには成り立たない群れです。  いま、私たちは祈りましょう。私たちが弱いことを認められるように。しかし、その弱さは自分だけのものではなく、教会全体で共有しているものであり、したがって一人ひとりの弱さの種類で優劣をつけるべきものではないことを認められるように。むしろ、自分の弱さのゆえに祈りましょう。また、お聞きになっているならば、ほかの兄弟姉妹の弱さのためにも祈りましょう。

「弱さを担い合うキリストのからだ」

ローマ人への手紙15章1節~6節 「弱さを担い合うキリストのからだ」    みなさんにはだれしも、長所がある一方で、弱点があると思います。私は今日の礼拝で、ここ水戸第一聖書バプテスト教会での働きがまる9年になりましたが、9年間もみなさんと一緒に過ごしてくると、みなさんの弱点も結構見えてくるものです。でも、ご安心ください。みなさんはみなさんで、私の弱点を相当いろいろ見てこられたのではないかと思います。それでもここまでの信頼関係が保たれ、教会形成にともに励むことができましたことは、ひとえに主の恵みであり、感謝なことです。  6月には列王記第二5章のみことばから、聖書の語るいやしというものについて学んでまいりましたが、今月7月にはその流れから、私たちの健康と主のからだなる教会の健康というものが、密接な関係を持っていることを学んでまいりました。今日も、健康な共同体のあり方をみことばから学びます。今日の箇所は、ローマ人への手紙15章1節から6節です。  まず、この箇所の始まりのみことばである、1節のみことばをお読みします。このように、弱い人のことが語られているのは、直前の14章を見てみればわかりますが、もともとの過度に生真面目なライフスタイルから、肉を食べることができなくて野菜にしか手が出ない人のことを、信仰のスタイルがふさわしくないといってさばくべきではない、ということを扱っています。そしてこの14章では、そのような信仰のスタイルの人を、「信仰の弱い人」と規定しています。  肉というものは食べてよいものです。それは、主のみことばに、肉を食べることがはっきり規定されているからです。しかし、もともとが肉を食べる習慣のなかった人、特に、主義として肉に手をつけることができない人は、それが宗教的な理由であるなしにかぎらず、教会という共同体の中に入ってくることは充分あり得るわけです。あるいはもっと純粋に、健康上の理由や好き嫌いの理由で食べられない人のいるでしょう。だから、自分たちのように肉を食べないからと、まるで信仰がだめな人のように決めつけてさばくのはいけない、というわけです。そういう人のことを大事にしなさい、というわけです。  その流れから15章のみことばに入るわけですが、1節を読めばわかるとおり、教会という共同体は、弱い人がケアされるべき場所です。14章では食生活に現れる「弱さ」が問題にされましたが、私たちにとって「弱い」ということは、いろいろな人に、いろいろな面で現れるものです。病気や障がいを抱えるなど、からだに関する弱さはその最たるものでしょう。目が悪い、ですとか、耳が遠い、ですとか、歩きにくい、ですとか。もっと大きな病気を抱えると、礼拝をささげることそのものも大変になってきます。しかし、そんな私たちは、いやし主なるイエスさまとの交わりを体験し、実際にいやされて、これまで以上に主の働きに用いられるようになるのです。  精神的な弱さもあります。非常に傷つきやすかったり、ひとたび落ち込んだら何日もやる気が出なかったり、そういう人は教会に逃げ込んできます。しかし、いざ教会にやってきても、すぐにパット表情が明るくなるとはかぎらず、暗い表情でいてしまう。でも、そういう弱さを強い人は担いなさい、というわけです。  またちがった弱さもあるでしょう。これは私がかつて、死に物狂いで取り組んだ経験のある課題です。日本のような密なコミュニケーションが要求されるような社会だと、それについていけないで教会に居場所を求めてくるケースもあるわけで、そういう人は押しなべてコミュニケーションが上手ではありません。そういう、関係づくりや会話のやり取りの弱さも、教会では避けて通れない問題です。  経済的な貧しさを抱えている人も、いわば「弱い」ということになるでしょう。先立つものがなければどうしようもありません。教会はそういう人を優先的に助けることがみことばにおいて命じられています。日本の近現代史を振り返ってみても、福祉の働きを優先的に担ってきたのがキリスト教会やクリスチャンだったのは、いわば必然と言えることでした。  そういうふうに、ある人はある面で弱さを抱えているものです。メッセージの冒頭で、だれしも弱点を抱えていると申しましたのはそういうことですが、とすると反対に、ある面で私たちは「強い者」になることができる、ということでもあります。  私たちは、教会という共同体にあって、自分が実は「強い者」であるという自覚に至ることができるならば、その強くされている恵みをもって、弱い人のその弱さを担ってこそ、教会はキリストのからだとしてのその本来の役割を果たします。この1節のみことばにはさらに、「自分を喜ばせるべきではありません」とつづきます。自分が強いという自覚がないならば、弱い自分を笠に着て愛されたいと振る舞うもので、それが「自分を喜ばせる」ということです。教会とは、自分を喜ばせたい人たちにサービスを提供する場ではありません。しかし人間とは弱いもので、たいていの場合は愛されたい、気持ちよくなりたいと願うものです。その愛されたい心理を新興宗教や異端やカルトは巧みに利用して、集まりなどに新しくやってきた人を思いきり歓迎する「ラブシャワー」という手法を用い、歓迎されて気持ちよくなったその人がだんだん、その組織にはまっていくように仕向けますが、私たちがもし、自分たちはまともな教会であるという自覚があるならば、そんなふうにして人を篭絡すべきではありません。  その代わり、やってくる人にはどこか強いところがあることを認め、その強さをもって兄弟姉妹を愛する行動がとれるように、お客様扱いなどしないでどんどん成長を促していくことです。もちろん、そういう人にも一定の弱さはありますから、その弱さをしっかりフォローしながら、ということは鉄則です。しかし、私たちが原則とすべきことは、「人は愛されたいのではなく、愛したいという欲求がある、なぜなら、愛なる神のかたちとして人間だれもが創造されたからだ」ということであり、私たちが弱い人の弱さを担うのは、あくまでその人が「強い」人に変えられて、「弱い」人の弱さを担えるように成長していただくためであることを、私たちは忘れてはなりません。  それは新来会者にかぎらず、すでに教会に定着している人たちも同じことです。人に愛されたい、サービスされたい、居場所がほしい、それは一概に悪いというべきではないのかもしれませんが、それが「愛したい」、「仕えたい」という内的衝動をはるかにしのぐようなら、クリスチャンとして問題があります。成長しないということです。私も子どもが小さかったとき、果たしてちゃんと大きくなるだろうかと心配になることしきりでしたが、今はこうして大きくなっています。そのように、新しく生まれたら大きくなるのが当たり前なのに、こと教会においては、成長することを拒み、いつまでも乳ばかり飲むようだったらどうでしょうか? いちいちおむつを替えてもらうように、人から世話されて当然とばかりに振る舞うようだったらどうでしょうか?  2節をお読みします。人にとってのほんとうの喜びは、霊的に成長することです。それはただ単に聖書を多く読めたとか、聖書の知識が増えたとか、お祈りが長くできるようになったとか、献金の金額が上がったとか、もちろん、それも大事にはちがいありませんが、それよりももっと大事なこと、聖霊なる神さまのお助けによって、聖書のみことばを実践できるようになること、神の愛により愛する人となること、そういう点で成長することこそ、人にとってほんとうの喜びとなることです。先ほどの繰り返しになりますが、人が神のかたちに創造されている以上、愛の人になること、すなわち、神の愛によって人を愛する人となることほど、人にとっての喜びはありません。  そういうふうに、新来会者も含めて兄弟姉妹が成長できるように働きかけること、それが、強いと自覚する人のすることです。こうして、強い人はより強く、弱い人も強くされ、みんなそろって強くなります。弱い人の弱さを担えるほど、みんなして成長します。  3節をご覧ください。先週のメッセージで、教会のかしらはキリストということを学びましたが、私たち教会をなす兄弟姉妹は生涯かけて、キリストにならう者です。キリストにならうには、キリストがどんなお方だったかを私たちはみことばから学ぶ必要がありますが、ご覧ください。    今日のみことばを見てみますと、キリストはご自身を喜ばせる方ではなかった、むしろ、父なる神さまがお受けになる嘲り、すなわち、罪人の分際で不遜にも神さまを冒瀆する者たちのその嘲りを、イエスさまは身に負われた、とあります。  およそ人にとっての罪というものは、まことのさばき主なる御父なる神さまを過小評価することろからはじまるものです。神さまを畏れていたらとてもできないようなことも、こんなことをしたところで大丈夫だ、とばかりに、大胆不敵に行うわけです。そのように、神を馬鹿にする、神を過小評価する、それは人が何と言い訳しようとも、神を嘲ることです。しかしイエスさまは、その嘲りをご自身の身に受けられ、人の罪をことごとく赦してくださいました。そのために、イエスさまは一切、ご自身を喜ばせる生き方をなさいませんでした。生きる目的は神の栄光、神による人間の救い、それを成し遂げるために、実に十字架の死にまで、御父のみこころに従順に従われました。神のみこころを離れた人間イエスの欲求というものなど、どこにも存在しませんでした。  キリストに似たものとなるということは、ただ人が贖われて神のものとなるためだけに、ただ人が主にあって成長するためだけに生きられた、そして今も、御父の右の座で私たちのためにとりなして祈ってくださっている、そのイエスさまのようになる、私たちの人生の目的、そして関心の一切を、そこに置くということです。そうすれば私たちは、イエスさまが私たちのことを愛してくださっているように、愛し合うことができるようになります。  4節のみことばをお読みしましょう。私たちが持つべき希望とは何でしょうか? それは、私たちが聖書の語るとおりの、愛の人、神の愛、キリストの愛によって、人を愛する人として成長するようになる、ということです。私たちは自分の弱さ、至らなさを見ると、こんな自分がキリストの愛により愛せるだろうか、と思うでしょうか? しかし私たちは、自分の弱さを見つづけるべきではありません。私たちが見るべきは、そんな私たちでもキリストの似姿になれる、キリストが愛されるように愛する人になれるという、聖書の約束、そして励ましです。  私たちはこの約束のことば、励ましのことばをつねに聞く必要があります。というのは、私たちを取り巻く環境は、神さまのみことばの価値観以外のものにあふれているからです。テレビや新聞はいいこと、耳に心地よいことを語るでしょうが、その内容は聖書の福音であることなどほとんどありません。インターネットも、私たちのほうから情報を取りにいくぶん、安全だと思うかもしれませんが、案外福音とは関係のない情報を手にしてしまっているものです。そのほかにも人のうわさ話、街を流れる宣伝広告……そう考えると、私たちは意識してでもみことばに耳を傾ける必要があることがわかります。  特に、ひとりで読むだけではなく、みんなしてみことばを語り合うことです。それはまたとない励ましになります。自分が励まされたみことば、自分に約束されたみことばを分かち合うならば、それはみんなにとっての励まし、みんなにとっての約束となり、全員でともに成長できるという希望はいやがうえにも増し加わります。  5節、6節をお読みします。キリストのからだなる教会の最終的な目標は、主にあって一致することで、主の栄光がほめたたえられるようになることです。いったい、自分は敬虔なクリスチャンだと自負する人たちの集団であったとしても、そこに一致もなく、みなが勝手な方向を向いて勝手なことをしているならば、それは果たして、主がひとつからだにしてくださっている教会の姿としてふさわしいでしょうか? まことに、主にあって一致することこそ、麗しい姿です。もちろん、みんな同じように語ったり、みんな同じように振る舞ったりする必要はありません。むしろ、主がそれぞれに与えてくださった賜物に応じて、主の愛によって愛するということを実践する、そういう点で一致していることが、教会として大事なことです。  いや、あんな人とひとつになんてなりたくない! もしかすると、ほかの兄弟姉妹のよくない言動に触れてしまって、そんな思いになってしまうこともあるかもしれません。しかし、そうなっても、やはり私たちに、主にあって一致しなさいというみことばは依然として語られています。  そんなとき私たちは、ほかの兄弟姉妹を変えてくださいとお祈りするのでしょうか? いいえ、むしろ、「私を変えてください」とお祈りする必要があります。問題の言動をする兄弟姉妹は、いわば「弱い」のです。もし、自分が変わる恵みをお祈りをとおしていただくならば、その人は強くなります。その強さで、問題の兄弟姉妹の「弱さ」を担えるようになり、こうしていつの間にか問題は解決し、みなそろって強くなり、教会にも一致がもたらせるという、まことに素晴らしいことになります。  私たちがもし、弱い兄弟姉妹を、弱いという理由で放っておいているならば、そこには神の愛もありませんし、したがって一致もあり得ません。弱い兄弟姉妹を放っておくのは、かかわると面倒だから、せっかくの日曜日くらい教会で羽を伸ばしたいから、でしょうか? それはクリスチャンとして了見が間違っています。それでは自分を喜ばせていることになり、ふさわしくありません。ほかの兄弟姉妹の弱さを積極的に担ってこそ、教会は神の家族、キリストのからだとしての、本来の役割を果たします。また、そのためにも、どうか自分の弱さを明らかにすることを、恥ずかしがらないでいただきたいのです。もちろん、のべつ幕なしに自分の弱さをべらべらしゃべるのは困ります。私たちはこの共同体において、人を愛する、したがって人に過度の重荷を負わせない、ということを自覚して、節度ある言動を心掛けたいものです。しかし、自分の弱さについて何も言わないで強がるべきではありません。教会の兄弟姉妹を信頼しましょう。祈ってくれるのですから。もちろん、その祈りの課題を聞いた以上、私たちは祈りますし、またその弱さを担って助けます。  祈りましょう。イエスさまが私たちの弱さを担ってくださったように、私たちも自分を喜ばせてばかりいることを卒業し、ほかの兄弟姉妹と弱さを担い合う、その愛を実践することで、神の愛において教会が一致できるように、その神の愛の証しを堂々とする共同体として、教会全体が成長するように、その教会の成長に益する歩みを、私たちひとりひとりがしていくように。

「キリストのからだの充満」

聖書箇所;エペソ人への手紙1章15節~23節 メッセージ題目;「キリストのからだの充満」 昨今はガソリンも随分値上がりしてしまいましたが、それでもお店によってはガソリンが安いところがあります。そういうお店に巡り合い、なお、燃料タンクにあまり油が残っていないならば、できればしておきたいこと、それは、ガソリンを「満タン」にすることです。「満タン」にしておけば、当分の間、ガソリン切れを気にしないで走ることができます。 私たちのからだも、満タンの状態が必要です。栄養をちゃんと取って、栄養満タンになる必要もあります。今の季節は熱中症にも気をつける必要がありますから、必要十分な水分を摂る必要もあります。そして何よりも私たちは、御霊に満たされなさい、とみことばに命じられている以上、御霊の満たしをつねに求める必要があります。韓国の教会ではよく、集会の中での賛美で、「聖霊充満、聖霊充満」と歌いますが、聖霊に満たされることは、私たちの信仰生活において必須のことです。 今日のテーマは、「キリストのからだの充満」です。先週も学びましたとおり、教会とはキリストのからだです。キリストのからだなる教会が健康であるために、そのひと枝ひと枝をなす私たちひとりひとりもまた、健康である必要があります。その私たちはまた、キリストのからだの充満にあずかるものとしていただいています。そのことを前提に、今日のみことばを学んでまいりたいと思います。 まず、15節、16節からお読みします。パウロはエペソ教会の信徒たちのために特に祈っていると告白します。パウロに特別に祈ってもらえるとは素晴らしい信仰の群れですが、それは、主イエスさまへの信仰と、すべてのクリスチャンに対する愛がエペソ教会の信徒たちにあると、パウロが聞いていたからでした。エペソ教会は、パウロが直接、3年かけて心血注いで牧会した群れですが、その牧会の結んだ実として、イエスさまへの信仰と兄弟姉妹に対する愛がふさわしく育っていたわけでした。しかしパウロは、それだけ育っていると知ればもう祈らなくていい、とはなりませんでした。むしろ、この愛する群れのためにますます祈ります、と語っています。そして、そのように信仰と愛において育ったエペソの信徒たちのことを覚えて感謝しています。 教会の兄弟姉妹を愛することは、教会がキリストのからだである以上、キリスト・イエスさまを愛することになります。私たちはその、兄弟姉妹に対する愛を、兄弟姉妹のことを覚えて祈ることによって告白します。 それではパウロは、その愛と感謝をどのように、祈りにおいて告白していますでしょうか? 17節から19節です。……ここでパウロは、2つのことを祈り求めています。まず17節です。……このみことばからわかることは、人が神を知るためには、神の霊である御霊が、神を啓示してくださることが必要だということです。 神を知ることがなぜ必要なのでしょうか? それは、ヨハネの福音書17章3節のみことばでイエスさまがおっしゃっているように、神を知ることそのものが、永遠のいのちだからです。 いや、私は神さまを知っているよ、神さまはこれこれこういうお方でね……そんなことをおっしゃいますでしょうか? しかし、ここで私たちは、聖書の語る「知る」ということを、もう少し考えてみたいと思います。たとえば私たちは、何かのきっかけで、テレビのようなメディアに出てくるスターのファンになります。ファンになったら、そのスターのことを知ろうとします。出演する番組は欠かさずチェックします。CDを買ったり、もっと熱心なファンになったら、写真集を買ったりします。さらに熱心なファンになったら、コンサートに足を運んだり、さらにいい席を取るために、ファンクラブに入会したりします。ファンクラブに入会すると、そのスターの単独インタビューの載った会報が送られてきたりして、ますますそうして、そのスターのことを深く知るようになります。 しかし、それでも、そのファンにとっては決定的に足りないことがあります。それは、そのスターのほうが、自分のことを知らない、ということです。それは、直接一対一で会話する機会など皆無だからです。万が一、そういう機会が巡ってきたとしても、そのファンは、スターのマネージャーや、あるいは家族とは比べ物にならないほど、そのスターのことを知っているわけではありません。 神さまを知る、ということは、「神さまを体験して知っている」ということです。単なる頭だけの知識ではありません。考えてみればわかる話で、日本中の学校が聖書のことやイエスさまのことを教えていますが、ということは、学生にしても先生にしても、神さま、イエスさまのことを、知識として知っているわけです。しかし彼ら、学生や先生はだれもが、神さまを知っているのは永遠のいのちだとイエスさまがおっしゃる以上、永遠のいのちを持っていると言えるでしょうか? そう考えると、「神を知る」ということが、単なる知識のレベルではないことがお分かりいただけると思います。 私たちも信仰の経歴を重ねることによって、それまでわからなかった神さまのことがわかるようになった、そうして、自分に与えられた永遠のいのちがどんなに素晴らしいか、さらにわかるようになった、その経験を繰り返していることと思います。聖書は単なる人生の素養のレベルで読むものではなく、そのみことばを、聖霊の御助けによって実践させていただくことで、私たちは神さまを体験し、私たちの日々のわざが、自分の努力だけによるものではない、あるいは偶然ではないことを認め、神さまをほめたたえるものです。 次に祈り求めていることは18節と19節にあるとおりです。ここでは、神を知ることのより具体的な内容について語られています。神さまは私たちを御国とその働きに召してくださっていますが、それゆえに私たちがいただくことのできる恵みに対する希望をいだきつづけることがなければ、私たちの信仰の歩みは長続きしません。見えないものを見えるようにして持ちつづけるものが希望ですが、神さまが私たちのことを召してくださっているという事実、その召しにしたがって私たちのことを用いてくださるという事実、その歩みのすえに永遠の、栄光の天の御国に迎え入れてくださるという事実は、この世にだけ目を向けていてはわからないことであり、この点で私たちは、神さまとそのみことばの約束に対する望みを持つ必要があります。 また私たちは、聖徒たちが受け継ぐものの大いなる栄光を知る必要があります。ここに私たちは、この世界で終わりではないこと、いや、この世界よりもはるかに偉大な天の御国のその栄光を見ながら生きる必要があることを知るものです。私たちは、自分が生きている世界のあまりの悲惨さに絶望するならば、いえ、それ以上に、私たち自身のあまりの不完全さ、罪深さに絶望するならば、そこから贖われたいという飢え渇きが起こされるでしょう。私たちがみことばを読み、やがて受け取る天の御国の栄光を知りつづけるならば、私たちはその飢え渇きを潤していただくことができます。 さらに19節、私たちのうちに働く神さまの力の偉大さを知ることが必要です。繰り返しになりますが、私たちにとっての聖書のみことばに対する信仰は、頭だけの理解で終わるものではありません。御力の偉大さを聖書のみことばから受け取り、それと同じことを神さまはいまもなお、私たちの祈りに応えて、私たちになしてくださると信じ、祈り、その力を認めて、神さまの御名をほめたたえるのです。モーセが杖を伸ばすと葦の海を真っ二つにされた神さまの御業、エリヤが祈ると天から炎を下していけにえを燃やし尽くされた神さまの御業、そのような偉大な神さまの力は、私たちがみことばをお読みするときに、私たちも体験できるものです。その神さまの御力が、いま、私の人生に臨むようにとお祈りするのです。 20節、21節のみことばをお読みします。その、神さまの御力の究極の現れは、イエス・キリストにおいて実現しました。実際、イエスさまのご生涯は、そのみことばにおいても、その御業においても、神さまの御力がどこにおいても現れていたことは、特に四つの福音書のみことばが証しするとおりですが、この20節、21節のみことばにおいては、イエスさまのご復活、そして、昇天、御国にて神の右の座に着座されたことが、神の御力であることを証ししています。 すべての支配、権威、権力、主権の上に、今の世だけではなく次に来る世においても、すべての名の上におられるお方、それがイエスさまだというわけです。私たちはいろいろな力や権威、権力が想像できるでしょう。テレビや新聞を通じて、このよのあらゆる権力や力のせめぎ合いを私たちは見ます。国家ですとか、大企業ですとか、その他いろいろな権力や権威を見るにつけ、多くの市民は自分の無力さを思うものかもしれません。そんな社会に対して、小さな自分は影響など及ぼせないと。 しかし、私たちはどうでしょうか? 私たちのうちにおられるお方、私たちとともにおられるお方の偉大さを思うならば、私たちは自分がこの社会、この世界に対して無力などと思っている場合ではないことがわかります。私たちのうちにおられるキリストほど偉大な存在、権威ある存在、力ある存在は、この世界のどこにもありません。私たちはこの偉大なるキリストとひとつにされている、この偉大なるキリストに特別に選ばれている、この偉大なるキリストにことのほか愛されている、そのようにみことばから受け取るならば、私たちは決してちっぽけな存在ではないことがわかるのではないでしょうか。 22節、23節は、今までお読みしてきたみことばの締めくくりの部分ですが、すべてのものを足の下に従わせられる存在であるキリストを、神さまは教会に、かしらとしてお与えになったと語っています。教会はキリストのからだであることは先週も学んだとおりですが、そのかしらはキリストです。教会は、あらゆる権威の上に立つ権威を持っておられるキリストが、そのかしらとして神さまから与えられている存在です。 あらゆる権威を従える最高の権威。その最高の権威がかしらである、最高の権威なる存在のからだ。それが教会であるならば、私たちが教会に連なるひと枝ひと枝、教会をなすひと枝ひと枝とされているということは、どれほど偉大なことでしょうか。また、どれほど責任のあることでしょうか。しかし、どれほど喜ばしいことでしょうか。どれほど感謝なことでしょうか。 そんな私たちの存在は、「キリストに満ちる」ということをもって証しされます。世界のすべてのものを、すべてのものによって満たす、それが、イエスさまがすべてを司られ、いのちをお与えになる創造主であられるということですが、このお方に満ちるということ、充満するということ、それでこそ、私たちはキリストのからだとしての、本来の生き方を全うすることができます。 それにはまず、私たちのかしらがキリストであるという事実につねに立ち、キリストの指示を仰ぐところからすべては始まります。具体的には、毎日みことばをお読みし、お祈りすることで、イエスさまが願っていらっしゃることを知り、それにお従いします。 しかし、その生き方を全うするには、キリストに満ちる、それが大事です。そのみからだなる教会に満ち満ちておられるキリストを体験する、そのためには、自分がキリストのからだのひと枝であることをとにかく意識し、キリストが満ち満ちておられるそのみからだとしての生き方に、自分自身をささげていくことです。 キリストに満ちる生き方は、私たち個人個人がします。毎日みことばをお読みし、お祈りすることで主にお従いするディボーションの歩みは、人に言われてですとか、人にいちいち指示されてすべきことではありません。私たちが自発的に主の御前に出て、主との個人的な交わりの中でしていくべきことです。 そして、個人個人が交わるだけでも充分ではありません。いまこのように私たちは、教会、キリストのからだという共同体として、主の御前にともに出ていますが、私たちは共同体全体で、キリストの満たしを体験します。それは、ともに礼拝することによって、つまり、ともにみことばの恵みをいただくことによって体験します。また、ともに御霊に導かれ、ともに祈ることによって体験します。ともに、それをもっとも確実に体験できる場は、日々主との交わりの中で教えられているみことばの恵みを集いの中で分かち合う場です。 その満たしにあずかるとき、私たちは個人個人においても、共同体においても、健康になります。キリストの御姿を見て、キリストと交わり、キリストに似たものになることほど、健康になることはありません。健康の究極のかたちとは、完全なキリストであるからです。この世の人々の、肉体的にも精神的にも健康になろう、健康であろうとする涙ぐましいばかりの努力を、私は決して否定するものではありませんが、ほんとうに健康になるためには、完全なモデル、すなわち、究極の健康のモデルである、キリストのからだの部分にされているものにふさわしく、キリストに満ちた生き方を志すことです。 特に私たちは、すべてのものをすべてのもので満たすキリストの充満を、キリストのからだとして振る舞うことによって実現すべく召されています。この世界をご覧ください。まだ、キリストの栄光が、そして、キリストご自身が満ち満ちるには、余地がたくさんあります。この世界がキリストを知る知識で満たされる、すなわち、キリストを知ることで人々が永遠のいのちを得て、この地に神の国が実現するように、私たちは祈り、みことばを宣べ伝えるのです。ことばだけで伝えるのではありません。私たちの日々主にお従いして変えられていく姿をとおして、周りの人にキリストを証しするのです。 私たちがキリストにより満たすものとなるには、まず、私たちがキリストに満ちる必要があります。ひとりひとりが、そして、ともに、キリストに満ちる、教会とはそのような共同体です。ともに取り組み、キリストの充満を体験してまいりましょう。そうすれば私たちはあらゆる点で健康になります。

「キリストのからだにふさわしい健康」

聖書箇所;コリント人への手紙第一12章11節~27節 メッセージ;「キリストのからだにふさわしい健康」 先月、いやしというものについて、列王記第二の5章全体から学びました。いやし、というものがなぜ人に必要なのでしょうか。それは、私たちが健康ならば、主のお働きを充実してこなせるからです。そういう意味では、病気を抱えていても主の働きを大いにこなしていれば、健康といえます。持病を抱えていてもなお多く働いたパウロなどそのいい例でしょう。現代の日本にもそういう人がいまして、天に召されましたが、病弱なからだをおしてたくさんの本を書いた、三浦綾子さんもそういう、主にあって健康な人といえました。 反対に、五体満足、無病息災でも、主のために働きたくない人というのもいるもので、そういう人は外身が健康でも、実際は不健康といえます。私たちはどちらがいいでしょうか? やはり、クリスチャンとして尊敬できるのは、病身をものともせずに、主の働きに歩んでおられる方でしょう。口では立派なことを言っていても、いざとなると主のために働かない人とどちらがいいかと聞かれれば、答えははっきりしています。 とはいえ、私たちがもし主のためにもっと身を入れて働きたいと願いながらも、健康上の理由でそれがかなわないでいるならば、私たちはやはり、いやし主なるイエスさまに、大胆にいやしを求める必要があります。なんといっても、私たちは健康なからだを使わなければ、主のご栄光を顕すことはできないからです。 さて、からだとはなんでしょうか? 今日の箇所を見ると、キリストのからだなる教会がさまざまな働きを担うに際し、そのそれぞれが特別な働きを持っていることを、からだの部分になぞらえて表現しています。しかし、このことはこう考えられないでしょうか? すべての創造主なるキリストは初めからみからだをお持ちであり、そのからだなる教会の部分部分をなす存在として、創造のはじめから私たちは選ばれていたのだと。そう考えると、歴史上存在したすべての主にある人、世界に存在すrすべての主にある人は、創造のはじめから主のからだとして選ばれ、組み合わされた存在であり、したがってとても大事な存在です。もちろん、ここにいます私たちひとりひとりがそういう貴重な存在とされていることは、言うまでもありません。お互いの顔を見ましょう。主のからだとしてつながっている、とても大事な存在です。心からそう思え、喜びをもってそう告白できるならば幸いです。 そう考えると、私たちがなぜ健康でなければならないのかがわかります。それは、イエスさまのからだが健康であるためには、それを形づくる私たちが健康であるべきだからです。私たちが健康なとき、主のからだは健康になります。 今日は、主のからだの健康ということをともに考えたいと思います。そのことを、私たちのからだの健康ということを考えあわせながら、ともに学びましょう。 第一に、からだは部分部分それぞれがお互いを認めることによって、健康が保たれます。 12節のみことばをお読みします。一つのからだに多くの部分がある。その点で、キリストのからだなる教会も、人間のからだも、同じだというわけです。 ということは、人間のからだを見ればキリストのからだなる教会がわかりますし、その反対に、キリストのからだなる教会を見れば、人間のからだがわかるといえます。 その、からだの部分部分はすべて、ひとつの御霊によってバプテスマを受けているとも、一つの御霊を飲んだとも書かれています。実にキリストのからだなる教会とは、一つの御霊によってバプテスマを受け、すなわち、一つの御霊を飲んだ群れです。ちょうど、人がコップ一杯の水を飲むことによって、そのコップ一杯の水がからだの中に入り、五臓六腑に浸透し、人のいのちが保たれるのと同じことです。 御霊は人を生かします。御霊によって人ははじめてイエス・キリストを主と告白することができ、もはや罪人ではなく、神の子ども、聖徒となっているからです。この地上に生きながらにして、死からいのちに移っている、永遠のいのちを生きています。永遠に生きておられるキリストのみからだである以上、私たちは永遠のいのちにあずかっているのです。 そして12節のみことばを見てみると、ユダヤ人もギリシア人も、とあります。もともとが神の民であった者も、異邦人も、キリストを信じる信仰を与えてくださる御霊によってひとつ、というわけです。私たちもそうです。私たちもいろいろな生い立ち、背景を持っていますが、それぞれのところからおひとりの御霊によってキリストを信じる信仰に導かれ、御霊によってひとつとされ、御霊によってともに生かされています。 そんな私たちに必要なのは、まず私たちひとりひとりにとっては、からだの部分部分を大事にすること、そしてキリストのからだとして一つになった教会としての私たちにとっては、ちがっている互いを認め合うことです。 私たちは脳というからだの部分が快楽を感じさえすればいいとばかりに、テレビやスマホばかり見たら、目が悪くなりますし、肩や首の筋肉や骨格がおかしくなります。あるいは、栄養が偏っても好きなものばかり食べたり飲んだりしたら、臓器や血管がやられます。また、手はいろいろな役割をしますが、その手で肌をかきむしったり、にきびをつぶしたりするのもよくありません。からだの部分部分は、ほかの部分をいたわってこそ、健康が保てます。こんなことは当たり前のことなのですが、結構私たちはできていないものです。 同じように、教会の中でも、キリストのからだの自分とちがったほかの部分である、ほかの兄弟姉妹との調和が必要になります。これは3つの次元から理解する必要のあることで、まず第一に15節、16節を見ると、足や耳は、手や目がからだの一部であることを認めてはいますが、自分たちはそうじゃないからからだの一部ではないと言っている、ということで、そんなばかな、というわけです。 これは適用しますと、自分は牧師や教会役員のようなポジションにいないから、教会のことなど関係ない、と振る舞うのはふさわしくない、というような適用が導き出せます。お客様のポジションに自分を置きつづけ、教会という共同体の中でそのひと枝としての責任を果たそうとしないという態度です。こういう状態を放っておいたら、教会は健全かつ健康なキリストのからだとしてふさわしい状態にはない、つまり、病んでしまうわけです。 どうか、ひとはひと、自分は自分というようなことを思わないで、教会で今ともに礼拝をささげている方々はみな大事な兄弟姉妹、キリストのからだの同じひと枝、と、信仰によって受け取って、互いに愛し合っていただきたいのです。その兄弟愛こそが、私たちがキリストの弟子であることを麗しくこの世に証しする力となります。 また、第二の次元として、17節から19節、みんな同じではありません。金子みすゞの詩ではありませんが、みんなちがって、みんないい、それが私たち教会です。みんな牧師だったら、世の中に伍してキリストを証しする働きは極端に弱くなります。反対に、みんな一般の信徒だったら、みことばと祈りをもって仕える導き手は不在になり、やはり教会は立ち行かなくなります。 ひとと同じようになろうとする必要はない、というわけです。もちろん、ほかの信徒を見本として、より神と人の前に愛の人として生きるためということならばいいのですが、そうではなく、ほかの人のいわば「コピー人間」のようになろうとするならば困ります。 カルトな教会形成をしてしまうと、リーダーに思考パターンや、果てはしゃべり方までもが似ている「コピー人間」が生み出されるものですが、それは主が願われる教会形成ではありません。 そして、第三の次元として、21節、ほかの信徒を、自分とちがうからと、この共同体にいてはいけない、ということのできる資格は、だれも持っていません。例外として、深刻な罪を犯した人を「戒規」という形で教会の共同体から除名するケースがありますが、それにしても「さばき」のためではなく、「懲らしめ」のため、すなわち、その人がそのようなことを経て悔い改め、健全な信仰とライフスタイルを回復して共同体に戻ってくるためです。いわば、病んだ臓器にメスを入れて、痛い思いをしてでも治療し、健康にするようなものです。 いわんや健康な部分ならば、自分との違いに目を留めて、そんなあなたは必要ない、と言うことはできません。私たちは、主にあって保たれるべき共同体の調和を乱さないかぎり、多少の違いは個性として受け入れ合うべきです。 さて、その場合、その人が特に「弱い」ということが個性のようにして際立っている場合はどうなのでしょうか? そういう存在がいる場合、どのようにしたら健康が保たれるのでしょうか? そこで第二のポイントです。第二に、からだは弱い部分が尊ばれることによって、健康が保たれます。22節です。……「なくてはならない」とさえ言っています。多くの場合、弱い存在は、「足手まとい」呼ばわりされて、邪魔な存在として忌み嫌われたり、のけ者にされたりします。 しかし、からだはそうなってはならない、というわけです。たとえば、胃が弱かったら、人は胃をいたわって食べ物に気をつかったり、ストレスをためないようにしなりします。肌が弱くてもそうでしょう。弱い部分が弱いからと切り捨てるわけにはいきません。その部分はからだにとって絶対に必要だからと、大事に、大事にすることで、からだの健康を保てます。 私たち、教会の中の「弱い」人も、それと同じだというのです。弱い人は時に、問題の行動を起こします。元暴力団員から牧師になられた金沢泰裕先生の本にもありましたが、教会に連なったもと暴力団の人が、懲りずに覚せい剤に手を出してしまったのを、金沢先生や教会のひとたちは何度も忍耐しながら、ふさわしい方向に導こうと努力するわけです。覚せい剤ほど極端でなくても、私のかつていた教会では、あたりかまわず奇天烈な言動をする子どもがいましたし、シンナーに手を出した暴走族出身の女の子がいました。認知症が進んでまともにコミュニケーションのとれない人もいました。しかし、そういう人がそうだからと、教会の交わりからいなくなってもらう、ということはしないのです。そういう人の存在こそが必要、それが教会です。 そういう人たちの弱さが覆われ、強くされるためには、どうする必要があるでしょうか? 23節から25節です。重いやけどを負ったら、見えないところの健康なほかの皮膚を移植するようなものです。健康な兄弟姉妹が、弱い兄弟姉妹のその弱さをあえて愛をもって覆うことで、その人はいやされ、力づけられ、強くされます。 そういう人たちの存在をとおして、私たちはイエスさまの愛を学びます。私がたびたび申し上げていることですが、私たちは「愛されたい」のではありません。「愛したい」のです。なぜなら、私たちは愛なる神のかたちに創造されているからです。イエスさまが愛してくださったように、私たちは愛するのです。私たちの共同体に弱い人がいるならば、私たちはその存在を愛することによって、イエスさまの愛により愛することを学び、また実践します。こうして私たちはキリストの似姿に変えられ、また、主に用いられます。そうすることで、私たちはさらに、自分の弱さを知り、こんな弱い自分のことをイエスさまがどんなに愛してくださっているかを知り、主の愛に感謝するようになります。 弱い存在が大事にされる。弱い存在がいつくしまれる。これこそ、教会がこの世界に存在する意義です。これは保守バプテスト同盟の牧会者の勉強会、チームワークミーティングで、同志社大学教授の木原先生という方から学んだことですが、日本では現在、福祉というものは当たり前のように行政が主導していますが、本来福祉というものは、キリスト教会が担ってきたものでした。キリスト教会こそ弱者に注目し、弱者をいたわる役割を果たす存在でした。しかし、こんにちの教会は、なかなかそのような、弱い存在に対する実践が弱いようです。その共同体としての弱さが、教会内部にまで及んでいて、ほんとうに弱い人を顧みることができないとしたら、私たちは反省すべきです。 しかし、私たちにそんな自覚があるならば、ペテロのことばを思い出したいものです。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエスの名によって歩きなさい。」人をほんとうに強くする、すなわち、キリストのからだの部分をほんとうに強くするのは、ナザレのイエスの御名です。それは、全能なる神さまの御力そのものです。その御力に満たされて強くなれば、からだ全体、そう、ひとりひとりのからだも、キリストのからだなる教会も、強くなります。強くされる恵みをともに受け取る、そのような教会となりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。 第三に、からだは一つの部分の喜びや苦しみを全体で共有することによって、健康が保たれます。 26節です。これはほんとうのことです。自分のからだのことを考えれば確かです。あの、足の小指をどこかにぶつけただけで、めちゃくちゃに痛い、それは言ってみれば、からだ全体で痛いと思っているわけです。虫歯の痛みもそうでしょう。それだけで全身がダウンするようなものです。 反対に、たとえばきれいな花を見ただけでどうでしょうか。幸せになります。その香りを鼻でかいだだけでどうでしょうか。幸せになります。目や鼻というからだの一部の反応でも、からだ全身が喜んでいるわけです。 同じことで、ひとりの人の痛みが教会全体の痛みとなってこそ、教会はキリストのからだとして本来の役割をしていて、あるいは、ひとりの人の喜びが全体の喜びとなってこそ、やはり教会はその本来の姿を保っています。だから、私たちはもし自分がどこかからだの不調を覚えていたり、職場や家庭など生活の中で問題を抱えていたりするならば、それを隠すことはありません。話したら悪い、みんなに心配をかける、そんなことはどうか、こと教会という共同体においては、考えないでいただきたいのです。 自分のからだのことを考えてみましょう。もし、どこかの臓器が致命的に傷んでいて、それなのに痛みや違和感のような信号を一切発しなかったならば、放っておくと取り返しのつかないことになるわけで、そういう意味では、からだが痛むことはあながち悪いことではない、と言えるわけです。同じように、私たちがもし問題という痛みを抱えながら、それを教会という共同体の中でシェアしていないならば、その共同体には取り扱われないままに問題がありつづけることになるわけです。それこそ問題です。私たちは兄弟姉妹を信頼して、問題をシェアできるくらいに成熟したいものです。恥ずかしがらないでいただきたいのです。 また反対に、私たちは喜びがあれば、それを分かち合うことで全体が喜べるようにしたいものです。自分ばかり喜んでいることを悪く思われたらどうしよう、なんて考えないでいただきたいです。よいものはよい、喜ばしいことは喜ばしい、ならば私たちは、隠さないで分かち合うことで、キリストのからだを喜びに満たし、健康に保ちたいものです。 最後に、27節を一緒にお読みしましょう。……キリストのからだの健康は、その部分部分である私たちの健康です。逆に、私たちの健康は、その組み合わされたキリストのからだの健康です。切っても切れない関係にあるこの両者、教会と、私たちひとりひとり、その健康をつねに保つために、いつもみことばと祈りをもって御霊に満たされ、御霊の導きによって生きる、そのような私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

「いやしの目的は神の栄光 その4」

聖書;列王記第二5:20~27/メッセージ;「いやしの目的は神の栄光 その4」    はじめに、マタイの福音書10章8節の、イエスさまが弟子たちにお語りになったみことばからお読みします。「病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。」  イエスさまに救っていただき、それにふさわしい、神の国の働き人としての力が、ただで与えられた、それが私たちクリスチャンです。そんな私たちは日々イエスさまとの交わりを持つことによって、底知れぬ力に満たしていただき、また、その力を行使することができます。  その、底知れぬ力、人をいやし、人から悪いものを追い出す力は、何も金銭的なものを受け取らないで用いなさい、これが私たちに与えられた使命です。私たちが奉仕をするのも、悩んでいる人の悩みに乗るのも、みなお金をいただかないのは、そもそも私たちが、永遠の救いとそれに伴うすばらしい力を、ただでいただいているからです。  それをはき違える働き人はいったいどうなってしまうのか、それを今日のみことばから学びたいと思います。また、今日の箇所は、その働き人が悲惨な結末を迎える場面で終わっていますが、それに対して私たちがどのように理解することがふさわしいか、ともに見てまいります。    ナアマンはツァラアトがいやされ、まことの神さまへの信仰をしっかり持ってアラムへと帰っていきました。ところがそれを見て、エリシャの従者であったゲハジはたいへん残念がり、また憤慨しました。ゲハジは何と考えたのでしょうか。20節です。  ゲハジはまず、エリシャがナアマンからなにも受け取らなかったことに怒りました。そして自分は何としてでも、ナアマンからもらってこよう、と思い立ちました。  ここで、一つの注目すべきことばをゲハジはひとりごちています。「主は生きておられる。」これは、誓いのことばですが、単なる慣用句のレベルのことばではなく、生きておられる聖なる主に対する信仰に自分の全存在をかけて誓う、物凄いことばです。実はこのことばは、14節にあるとおり、エリシャがナアマンに対し、贈り物は絶対に受け取らないときっぱり誓った際、口にしたことばでした。神の人エリシャが「主は生きておられます」と口にした以上、ナアマンのその贈り物はどんなことがあっても受け取ることはできなかったのでした。  しかし、ゲハジはまったく反対のこと、すなわちナアマンからはどんなことがあっても贈り物を受け取るべきだという考えをいだくにあたって、やはり「主は生きておられる」と考えたわけです。これいかに? といったところです。  ゲハジは、エリシャの従者として、エリシャをとおして働かれる神さまのみわざを間近で体験するポジションにいました。言い換えれば、神さまご自身とそのみわざをだれよりも体験する立場にあった者でした。それだけに、自分は神さまのことをよく知っていて、神さまはそんな自分の味方であると考えたりしたのでしょう。だが、ゲハジのこの信仰は、神さまがエリシャに働かれたことに対しては完全に無視を決め込んだものであり、とてもまともな信仰とは言えませんでした。  聖書の教え、神さまの教えというものは、長いキリスト教会の歴史の中で形づくられていく中で、ほんとうに健全なもの、ほんとうに聖書的なものが生き残る流れとなって今日に至っています。  クリスチャンそれぞれに聖霊が働かれ、その個性に合わせてみわざを行われる、それは確かにそうなのですが、先人に与えられた知恵とまったく違ったことを語るようになったらどうでしょうか。その人は正統の信仰から外れていることになります。それが突き進むと「異端」だの「カルト」だのになり、そこには救いがなくなります。  ゲハジはすでに、エリシャに働かれた神さまのみこころを認めないで、自分こそが神の人であるかのように大きな勘違いをしていました。ゲハジの転落はここから始まります。欲に目がくらんだゲハジはナアマンの一行のいるところまで、かなりの距離を追いかけていきました。  急いで追いかけてくるゲハジを見て、ナアマンは戦車から降りて彼を迎えました。ナアマンはやはり、まことの神さまへの信仰をもってへりくだる人になっていて、神の人のしもべのに対しても丁重に接しました。  ナアマンは「何か変わったことでも」と尋ねました。「安心して行きなさい」とエリシャに言われて、リンモンの神に対する信仰を持つアラムの主君のもとに帰るうえでの不安を持った身を励ましてもらい、送り出されただけに、この予期せぬゲハジの登場にはかなり不安になったのではないでしょうか。自分は何かしくじったのか?  すると、ゲハジはこう言いました。22節です。……もちろん、こんなことはありません。いま、バプテスト教理問答の学びでは、十戒について学んでいますが、ゲハジの発言は、十戒の第九戒に違反していますし、さらに言えば、第十戒にも違反しています。ついでに言えば、エリシャがナアマンから財物を受け取らなかったのは、それは私のものではなく、あなたのものです、と言ったに等しいことであり、そのナアマンのものを盗ろうとした、と考えると、第八戒にも違反しています。これだけでも相当に、神さまのみこころを犯していて、もはや神の働き人、神のしもべなどと呼べたようなものではありませんでした。  しかし、ゲハジの犯した罪は、そんなレベルではないほどに大きな罪でした。ナアマンは、いえ、エリシャ先生がそうおっしゃったということは、私はそれをお渡しすることはみこころではないと理解していますので、と答えるかもしれませんでした。また、本来のナアマンならば、ゲハジを格下に見て、この無礼者、と一喝し、さっさと追い返しているところでしょう。ところがゲハジには、ナアマンはきっとそういう反応はしないだろうという計算がありました。果たしてナアマンは、ゲハジが要求したよりももっと多くのものを渡しました。こうしてゲハジは、ナアマンから財物をせしめました。  この罪はきわめて大きなものでした。それは、このことによって、神の恵みはただではない、という、まったく間違ったメッセージをナアマンに与える結果となったからでした。イエスさまもおっしゃっているように、神の国の拡大に伴うしるしと不思議は「ただで与えられる」べきものです。ところがこれではただではありません。  ゲハジは、ナアマンの善意につけこんで、十戒の第八戒、第九戒、第十戒を犯しただけではありません。ナアマンが本来しっかり持つべき神さまに対する信仰、そう、それこそ、イエスさまがおっしゃったように、「ただで受けたゆえにただで与える」その麗しいみわざに用いられる恵みが、これで完全に奪われたことになります。ただではないものを、どうしてただで与えることができるでしょうか。  ナアマンがこうして贈り物を差し出したことは、エリシャのことを嘘つきにもしました。嘘つきではないとしたら、前言をやすやすと撤回する信頼のおけない人にしました。そのような軽薄な人物の献身する神に献身することなど、果たしてどこまで本気になれるというのでしょうか。ゲハジのやったことは、かくも罪深いものです。  24節を見ると、ゲハジは用意周到に財物を自分のところに運び込んでいます。そして25節。ゲハジは何食わぬ顔をしてエリシャの前に立っています。しかし、エリシャがかけたことばをご覧ください。  「ゲハジ。お前はどこへ行って来たのか。」連想する聖書のみことばがないでしょうか? そうです。創世記3章9節です。神さまがアダムにおっしゃったことば、「あなたはどこにいるのか」。アダムは神さまのこのおことばに、くどくどと自分の事情を述べて、必死に、自分は悪くない、と取り繕いました。そんなアダムはさばきを受けることになりました。アダムはここで、悔い改めるべきでした。しかし、神さまのことばに悔い改めることをせず、結局はさばかれました。ゲハジもエリシャのこのことばに、申し訳ありません、私は間違っていました、とお答えすべきでした。しかし、ゲハジはここでも噓をつきました。エリシャをだませると思ったわけです。そんな彼は「主は生きておられる」とうそぶき、ナアマンから財物をせしめる行為に手を染めたわけですが、こうなると十戒の第三戒の「主の御名をみだりに唱えてはならない」という戒めにも悖ることになったわけです。  しかし、ゲハジがこうして見くびっていたエリシャの霊性は、ただものではありませんでした。まるで監視カメラがゲハジのあとをついていったように、エリシャはゲハジが何をしていたかすべてお見通し、いや、それ以上に、ゲハジがどんな動機でそんな行動に出たか、すべてお見通しでした。そんなゲハジは自分自身が十戒の十の戒めのうち、実に4つもの戒めを破ったこと、いや、それ以上に、愛なる神さまのその愛に反する行いをナアマンに対して働いたことのゆえに、ナアマンに代わってツァラアトを病むという、恐ろしいお仕置きを受けることになりました。  神さまの働きをする人がツァラアトに冒されたということは、聖書を読むとこのほかにも、モーセの姉のミリアム、ユダ王国のウジヤ王にも起こっていることです。ミリアムの場合は、モーセが神の人であるにもかかわらず落ち度をあげつらって責めたという、身の程知らずの越権行為が神さまの怒りに触れたゆえ、ウジヤの場合は、本来聖別された祭司の役割である、神殿において香を焚くということを、自分がしようとしたゆえ、どちらも越権行為を引き起こす高ぶり、神さまとの関係に起因することでした。  しかし、ゲハジのしたことは本来、どれくらい重大なことだったのでしょうか? それは、マルコの福音書9章42節に書かれているとおりです。どれほどのさばきでしょうか? 本来このように、その罰として苦しんで苦しんで、二度とこの地上に上がってこられない、そんなさばきをうけるにふさわしい、何も知らない異邦人の純粋な信仰心を踏みにじったのだから……。  それでも、列王記第二を読み進めてみますと、ゲハジはそれからあとも、エリシャの従者としての働きをしていることがわかります。しかも、イスラエルの王に会って、エリシャのことを話しています。つまり神さまは、エリシャをとおしてゲハジにもう一度チャンスをお与えになり、その後用いられた、ということを意味します。  私たちは聖書を読んで、ツァラアトというものが絶望的な病、特に神さまから下されたさばきとのろいの象徴であることを受け取っています。それだけに、ゲハジの迎えた結末は絶望的なお仕置きと思えるでしょう。ところが神さまはそのゲハジを、その後もお用いになったのです。列王記第二8章4節をご覧ください。彼はエリシャの従者として王の前に立ち、立派に主に用いられています。  ここに私たちは慰めをいただくことができます。私たちも病みます。病の中にはヨブのように、何の悪いこともしていないのに自分の身に起こったこと、というものもあるので、病はすべて罪の結果というわけではありません。しかし、病というものは時に、罪の結果として現れることがあるものです。神さまとの交わりよりも暴飲暴食ですとか夜更かしなどで心を安定させようとして、結果、心やからだの健康を害することになったならば、厳しい言い方をしますが、それは「罪」の結果です。  かく申します私も、十数年の牧師生活の中で燃えつきを何度も経験してまいりました。しかしそれは、頑張った自分が偉いと、自分をほめることなのではなく、むしろ、自分は土の器にすぎないことを謙遜に認めるべきなのに、自分を過信して頑張る全能感という、言い換えれば高ぶりの罪、傲慢の罪のただ中に自分がいた、その報いをそういう懲らしめとして受けたのであるとも言えるわけです。そういう点ではやはり私は罪を犯していました。  しかし、そういう弱い自分であることを認め、頑張ることだけがみこころではないことをへりくだって受け入れるところから、私のいやしと回復は始まりました。そこにはどうしても、罪の結果の懲らしめを受けて悔い改めるというプロセスが必要でした。  ゲハジはどうでしょうか。たしかにゲハジは、神の前にも人の前にも大きな罪を犯しました。そのお仕置きとして、あまりにも大変な目にあいました。しかし、イエスさまのおことばによれば、ナイーブな異邦人のナアマンに間違った神認識を与え、すなわちつまずかせた、つまり、石臼を首に結わえ付けられて湖の底で死ぬべき罪を犯したというのに、また、それこそ、ヨシュア記のアカン、使徒の働きのアナニアとサッピラのようなケースを見ても、みこころに反するやり方で財物を手に入れることは死に値するというのに、ツァラアトで済んだのです。  私たちもイエスさまを信じたのちも、罪を犯してしまうものです。しかし、その罪を悔い改めるならば、赦され、罪に病む身はいやされ、さらに用いていただけるのです。私たちに必要なのは、罪を犯してしまったとき、それをイエスさまの前に告白し、悔い改め、罪赦された者としてふさわしく、きよく生きることです。人にほめられて悦に入るための品行方正の生き方をするのではありません。赦された身そのままに、人を愛することです。私たちがみことばを学ぶのは、また、お祈りするのは、人を愛するためです。ゲハジはツァラアトに病んだ身ではありましたが、王の前に立って主に用いられる人となり、その意味で彼は心とたましいは充分いやされ、回復をいただいたと言えるでしょう。エリシャが彼を受け入れ、王の前に立てるほどにしたことが、彼が悔い改めた証拠です。  いちばんいけないのは、罪を犯した自分を受け入れないで、いつまでもうじうじ、自分を責めることです。そういうのは悔い改めとは言いません。自分を責める人の最大の問題は、心がイエスさまに一切向かっていないことです。さばき主なる神さまを意識しているかもしれませんが、少なくともすべての罪を赦してくださった、イエスさまの十字架は見えていません。きつい言い方をしますが、そんなのは自分を悪者にすることで、自分に酔っているだけです。そこにはイエスさまとの交わりはありません。  ゲハジがその後悔い改めの実としてツァラアトをいやしていただいたかどうかは、聖書は沈黙しています。しかし、これだけは言えます。彼はたとえツァラアトがいやされていなかったとしても、いやされたのです。それは、彼がイスラエルのため、言い換えれば、神の栄光のために用いられたことからも明らかです。ひょっとするとツァラアトを病んだ身そのままに、王の前に立ったかもしれません。しかしゲハジは悔い改めの実を結びました。だからこそ用いられました。ほんとうのいやしは、病気がきれいさっぱりなくなること以上に、神さまに用いられることです。  パウロをご覧ください。彼は肉体のとげが自分から去るように3度も祈りましたが、それはいやされませんでした。パウロの病はトラコーマともてんかんとも言われていますが、しかし、パウロはその肉体のとげをものともせず、ほかのどの使徒よりも多く働いたと自ら告白するほど、用いられました。主の栄光のために用いられることが最終的な目標であり、肉体のいやしであれ、たましいのいやしであれ、すべてはその最終的な目標のために通り過ぎるべきプロセスです。  振り返りましょう。私たちは神さまのご栄光を顕すうえで、何に病んでいますでしょうか? 病んでいるために神の栄光を顕せないならば、それをいやしていただきましょう。ゲハジが神の栄光を顕すチャンスが与えられたのは、彼の罪に病んだたましいがツァラアトという懲らしめを経ていやされたからです。私たちは何がいやされる必要があるか、聖霊なる神さまに示していただきましょう。

「いやしの目的は神の栄光 その3」

聖書;列王記第二5章15節~19節/メッセージ;「いやしの目的は神の栄光 その3」    私は韓国での生活が長かったこともあり、韓国とはよく飛行機で往復しました。飛行機は格好いいですし、早く旅行できるので便利ですが、いやなこと、それは、気流の悪いところを飛ぶとき、変なふうに揺れる、ということです。理屈では、安全、落ちない、ということを知ってはいても、かなり怖いです。  そういうとき私はつい、お祈りします。神さま、どうか助けてください。ひたすら祈ります。しかしやがて霧生は安定し、飛行機は揺れなくなります。やがて目的地に着き、空港の中を歩き、入国審査、手荷物受取、と続くと、もうお祈りしたことなど忘れて、平然としています。  日本には「困った時の神頼み」ということわざがありますが、それは裏を返せば、困っていなければ別に神に頼む必要はない、ということです。多くの日本人にとって、神という存在はその程度のポジションでしかないのではないでしょうか。  ナアマンの場合はどうでしょうか? 彼はツァラアトに冒されていたために、大変な悩みの中にありました。アラムの将軍という高い地位にあることなど、ツァラアトを病んでいることの前には何ものでもありません。彼はいやしを求めて、自分の家で妻に仕えていたイスラエルの若い娘の捕虜のことばを信じて、藁にもすがる思いでエリシャに会いたいと、アラムの王の親書まで携えてイスラエルに赴きました。  そんなナアマンを待っていた待遇は、エリシャが出ても来ないで、単に、ヨルダン川に7回身を浸せばきよくなる、という伝言を受けただけでした。ナアマンは憤慨しました。せっかく会いに来たのに、この扱いは何だ、というわけです。しかしナアマンの従者のとりなしにより、ナアマンはヨルダン川に身を浸すことに気持ちを切り替え、果たしてそのとおりにすると、ナアマンのからだは、元どおりになって、幼子のからだのようにきよくなりました。  ここまでが前回までの内容です。ここから今日の聖書本文の内容に入りますが、まず。15節をご覧ください。ナアマンは一行をみな引き連れて、神の人エリシャのもとに行きました。お気づきでしょうか? 今度はエリシャに会うことができました。エリシャのことばを信じていやしをもって救われたナアマンは、そのいやしを報告し、感謝を述べたわけですが、それにはエリシャが直接対応したのでした。  エリシャが直接対応したことには、どんな意味があるのでしょうか? それはまず、ナアマンがエリシャに何と言って、それにエリシャがどう対応したかを見れば明らかになってまいります。まずナアマンはこう言っています。「私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました。」  このことばを、異邦人であるナアマンが言ったと考えると、たしかに画期的ではあります。よくぞこれだけの告白ができた! いやし主なる主の栄光が顕れた! と思えるでしょう。しかしそれでは、このことばに続くことばはどうでしょうか?「どうぞ今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」これも、感謝の表現としては至極当たり前と思えるでしょう。また、携えてきた金銀財宝は一国の将軍が深い悩みの種であった持病をいやしてくれた人への感謝の表現としても、充分と言えたでしょう。  しかし、これは、見方を変えるとどうなるでしょうか? イスラエルという国はそもそもが、創造主なるまことの神のほかに神はいないと告白する国と民族であり、ナアマンがこう告白したことは、そのような唯一神に対する信仰を旨とするイスラエルの預言者に対する敬意にとどまりかねなかった、とも言えます。  これは意地悪な見方ではありません。といいますのも、日本では戦前も戦後も、多くの大規模な殿堂集会が開かれ、そこで多くの人が、まことの神さまだけが信じるべきお方であると信じ告白し、イエスさまを信じる祈りへと導かれました。ところが彼らはその後どうなったでしょうか? あれだけ多くの人が信仰告白に導かれたならば、今頃日本の教会は、こんなにクリスチャンがマイノリティにとどまってなどいなかったはずではないでしょうか? こういうことを見てみましても、唯一神に対する信仰告白をしただけでは充分ではないことが分かります。問題はそのあとなのです。  ナアマンが金銀財宝を送ろうとしたことが感謝の表現なのは確かであり、それはすばらしいことなのですが、もしナアマンがエリシャに財物を送り、エリシャがそれを受け取ってナアマンが帰ったならば、それで終わりであり、ナアマンのいやしはエリシャに財宝が送られて片がついた、言い換えれば、ナアマンのいやしには銀10タラント、金6000シェケル、晴れ着10着の値段が支払われて手に入れられた、ということに過ぎなかったことになります。  しかし、それでは、ナアマンがわざわざエリシャに会いに来た意味はありません。もし、いやしで終わりだったら、ナアマンがエリシャのことを、格下の国の人間として利用しただけだったという図式から逃れることができなくなります。エリシャが願ったのは、「ナアマンをしてイスラエルに預言者がいると認めさせること」でした。ナアマンはこのいやしをとおして、神の栄光を見る必要がありました。  私は医療伝道から始まった教会、北本福音キリスト教会で信仰を持った者なので、医療をとおしてイエスさまを伝える情熱に満ちた先生方の努力を、間近で見る機会の多かったものです。しかし残念なのは、患者さんたちの多くは先生方を尊敬はしていますし、それもクリスチャンのドクターとして尊敬しているわけで、先生方の敬虔な信仰のなせるわざで自分がいやされていることを信じているはずなのに、その先生に召命をくださっているイエスさまを信じ受け入れるまでには至りません。これはあるクリスチャンドクターの未信者の患者さんから直接聞いた話ですが、高齢のご婦人でいらっしゃるその方はせっせと遠方からその先生のもとに通い、先生が開かれる伝道目的のセミナーにも顔を出すほど先生のことを尊敬していらしたので、あるとき私は、その方にとって先生がどんな方か尋ねてみました。すると、こうお答えになったのでした。「いやあ、先生はほんとうに、生き神様です!」先生がもしこのおことばを聞かれたら、使徒の働きで神々の扱いを受けそうになったパウロやバルナバのように悲しまれるのではないだろうかと思いますが、事程左様に。単にいやされただけでは、いやしてくれる存在を間違って受け止める可能性があるわけで、ナアマンもそのような罠に陥らないように、エリシャは賢く導く必要がありました。  果たして、エリシャは財物を受け取ることを固辞しました。そのとき、エリシャはこう言っています。「私が仕えている主は生きておられます。」つまり、神のわざはお金でやり取りする性質のものではないことを語っているわけです。エリシャがナアマンをいやしたのは、ナアマンにいやし主なる神さま、すなわち、まことの神さまを信じてもらうためであり、お金をもらうためでは決してありませんでした。  エリシャがここまで強い態度に出たのは、それだけナアマンに対する神さまの選びというものを強く確信していたからでした。何せこのいやしのわざは、イエスさまがナザレでの説教に引用されたほどインパクトのあるもので、神の民イスラエルを差し置いても異邦人であるナアマンをお選びになったことは、イエスさまさえもお認めになるほどのできごとでした。  私たちにとっても、特にいやしのわざをとおして、神さまに出会うという経験はよくあることでしょう。そのとき私たちは何をすべきでしょうか? 単にいやされたことで満足するのではそれでおしまいです。自分をとおしていやし主なる神さまがいやし主としての栄光を顕してくださった、そのために自分のことを選んでくださったと。感謝すること、これが大事なことです。  ナアマンはどうでしょうか? 贈り物を送る代わりに、イスラエルの土を持ち帰らせてほしいと言いました。もう、ほかの神々にいけにえをささげない、と。つまりナアマンは、その持ち帰ったイスラエルの土で、イスラエルの神にいけにえをささげる、すなわち礼拝することを決心したのでした。そのために、アラムの土地にイスラエルの土を盛り、そこをイスラエルの一部とすることさえしようとしたのでした。  このように。異邦のアラムにありながら自分のもとに礼拝の場所を築くナアマンから、学ぶことがあるとすれば、それは、主によっていやされた者がさらに主に近づくために、礼拝の場所を身近なところに備え、つねに主を礼拝できる環境に自分を置く、という姿勢ではないでしょうか。特にナアマンのこの態度は、アラム同様、基本的にはまことの神さまを礼拝しない、偶像、異教ばかりの日本という環境に身を置く私たちには必要なことです。私たちの身近には何があるでしょうか? 私たちは仏壇や神棚を拝む生活こそしていないかもしれませんが、テレビをつけっぱなしにして、だらだらと惰性で眺めているようでは、この世の環境から抜け出せていないことになってしまっているわけです。そこで私たちは、意を決して聖書のみことばに向かう環境を身近に作ることが必要となるわけです。この点でも、あえて異国の地、異教の地で、イスラエルの土を用いて祭壇を築くナアマンの姿勢に見習うところがあります。  さて、そんな日本の霊的風土に生きる私たちにとって、やや気になるみことばと言えるのが、18節と19節ではないでしょうか? リンモンという偶像の神殿で礼拝することをエリシャが認めている、これいかに?  これは、ある日本人の巡回伝道で名の知れた牧師先生のメッセージで聞いたことですが、神さまを信じたナアマンにエリシャがこういうことを言ったわけだから、クリスチャンのみなさんは仏壇に手を合わせてもいい、お葬式でお焼香をしてもいい、とおっしゃっていました。これに、わが意を得たり、となっていたクリスチャンもいましたが。私はどうしても違和感がぬぐえないまま、今に至っています。  まず、大前提として、私たちがすべきことは、「宗教的に戒律を守ること」以前の問題として、「神と人を愛すること」です。だからこの問題は、「エリシャがこう言っているくらいだから、未信者の家族の手前、仏壇や神棚を拝んだりお葬式で宗教行為をしたりすることは、十戒で戒めている『偶像を拝むな』に当たらないから大丈夫だ」というように、宗教的に可か不可かという判断を下すべきことではなく、「私のする行為はほんとうに神を愛し、人を愛するという動機から出ているか?」ということが最優先に問われるべきです。  このことをかなり具体的に説明した聖書箇所として、コリント人への手紙第一8章と10章を挙げることができます。コリント教会には、そもそもが偶像にささげられたものである肉を食べていいのかどうかという議論があった模様ですが、パウロは、食べていい、と言っています。それが偶像にささげられたものであっても、ということです。しかし、その肉が偶像にささげられたものであることを公言する人の前では、食べてはならないとも言っています。それは、信仰の弱い人がつまずくからだ、ということです。なんだ、クリスチャンでも肉を食べるのか、それは偶像礼拝の行為じゃないか、だったら、偶像を拝むくらいいいじゃん、などと曲解し、信仰をなくしでもしたら大変なことです。クリスチャンが仏壇を拝むことやお焼香をすることはこの延長線上で考えるべきことで、たとえ真似事でも偶像を拝むという行為をみなに見せるならば、なんだ、クリスチャンもいざとなれば神仏に膝をかがめるのか、所詮キリスト信仰なんて大したことないもんだな、と受け取られ、彼らはますます、神さまを信じる必要性を感じなくならないでしょうか。  キリスト信仰よりも神仏の信仰のほうがまさるかのような行動をすることは、果たして彼ら未信者を愛する愛が動機と言えるのでしょうか。そういうことが私たち日本のクリスチャンには問われています。  ナアマンの場合は、私たちの置かれた状況とは分けて考えるべきです。ナアマンはそもそもが、偶像礼拝を行う主君に仕える立場にありました。主君の立場は絶対であり、私はもはやあなたさまの偶像礼拝のお手伝いはできません、と宣言するならば、その責任を取って処刑されかねないポジションです。そんな自分が王の偶像礼拝を助ける立場に甘んじることを、どうか主が許してくださるように、とナアマンは恐れながら言いましたが、エリシャは容認しました。これは、ナアマンが基本的にはイスラエル人ではない、異邦人という限界の中にいたこと、その社会において、まことの神さまを愛し、その神さまの愛をもって、主君をはじめとした人々を愛するにはどうすべきか、あるいはもっと大きな視点、イスラエルとアラムの力関係といったことにエリシャが配慮し、その結果、ナアマンの願いを聞き入れたと考えるべきでしょう。これは、イエスさまが昇天されて聖霊がお下りになり、世界宣教の門が開かれて以降の価値観をそのまま当てはめて、ナアマンを難じたり、エリシャが矛盾していると責めたり、果手はこのようなことを書く聖書は矛盾しているというような性質のものではないわけです。  このことを私たちに当てはめるならば、もっとちがう適用をする必要があります。それは、異教の社会に住む私たちが、いかにその社会において仕えるか、知恵を用いるべきである、ということです。たとえば私たちだったら、いかに純粋な信仰を持っているからといって、たまたま就職した職場に大きな神棚が飾ってあるから、もうやめた、となるのでしょうか。それでは仕事をすることもできません。一般の学校では進化論を教えているから、いっさい学校に送ることを拒否するのでしょうか。それでは将来の進路がかなり狭まりますし、特にお医者さんのような仕事には就けなくなります。そういう環境に身をおいても、それに心とたましいを売らないで、忠実に励む道はいくらでもあります。ナアマンも、自分のためにわざわざ親書まで書いてイスラエルまで送り出してくれたほどの主君にさらなる忠誠を果たすことが神の愛の表現であると信じたからこそ、葛藤しながらもエリシャに許しを願い出たわけです。だから、ナアマンに対するエリシャの答えはクリスチャンに偶像礼拝の容認ではなく、異教社会にあって愛をもって堂々と振る舞え、という励ましであったと見るべきです。  あらためて見てみますと、エリシャはナアマンに会う必要があったことがわかります。それはエリシャがナアマンと直接話して、ほんとうの礼拝者としてナアマンを立て上げるためでした。イエスさまが来られるはるかむかしであったこの時代、まだ異邦人に神の国が広く及ぶご計画ではなかった以上、ナアマンに大々的な宣教の働き、弟子づくりの働きが託されていたわけではありませんでしたが、それでも神さまがナアマンを選んでおられたのは確かなことで、ナアマンのいやしは後世になってイエスさまが例としてお語りになるほど、異邦人の救いということにおいて極めて象徴的なことでした。それほど、いやしをもって臨まれる神さまの選びのみわざはナアマンにとって確かなものでした。  私たちもこのような、選びを実感できるだけの体験があったはずです。しばらく祈りのうちに思い起こしましょう。特にそれがいやしの御業であったならば、いやし主なる神さまに感謝し、このいやし主なる神さまのいやしがほかの兄弟姉妹に起こされるように祈りましょう。

「いやしは神の栄光のため その2」

聖書;列王記第二5:9~14/メッセージ;「いやしは神の栄光のため その2」  先週のメッセージで、私たちは、病の癒やしというものが神さまのみこころであることを学びました。マクチェイン式の聖書通読をしていらっしゃる方はご記憶のことと思いますが、先週の火曜日の箇所、イザヤ書38章をお読みしますと、神さまのみことばを受けた預言者イザヤが、ユダの王ヒゼキヤに、主はこう告げられる、あなたの病気は治らない、あなたは死ぬ、と語ります。するとヒゼキヤは大いに悲しみ、顔を壁に向けて真剣に祈ります。すると神さまはヒゼキヤのこの祈りを受け入れてくださり、彼の寿命をもう15年延ばすと約束してくださいました。  この箇所からわかることは、もし死ぬことが定まっているかのように告げられたとしても、希望を失ってはいけない、祈りをもって神さまの御前に進み出て、あわれみを求めよう、ということです。なぜ、ヒゼキヤはこのように祈らざるをえなかったのでしょうか? それは、ヒゼキヤの治めるユダ王国にとってはなおアッシリアが脅威であり、いま自分が死んでしまっては、アッシリアに滅ぼされてしまう、という危機感がヒゼキヤにはあったからです。  私たちがもし、この世においてまだすべきことが多く残されているならば――それは多くの人にとってそうでしょう――私たちはとにかく、生き残ることを選んでいくべきです。それでも神さまは私たちに、病気という名の試練を与えられることがあります。そんなとき、もし私たちが神さまの御前に徹底して生きているならば、ああ、もうこんな大変な世の中と別れられてよかった、とはならないはずです。病気のような大変な状況に置かれるときこそ、私たちは神さまのあわれみを、イエスさまのいやしを求める者となりましょう。そしていやしをいただいたならば、神さまがなお自分のことを用いてくださることに感謝しましょう。  それでは今日のみことばにまいります。アラムからイスラエルの王のもとにやってきたナアマン将軍を、私のもとによこしなさい、と、預言者エリシャは言いました。それは、8節のみことばにあるとおり、「そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう」、つまり、ナアマンが、イスラエルの神でありまことのいやし主である主の栄光を見るため、そうして、主を信じ受け入れるためです。イスラエルの王はナアマンが来たことを、アラムの王が言いがかりをつけてきたのだと震えあがりましたが、エリシャはむしろ、これは主の栄光があらわされる絶好の機会だととらえました。とらえ方がちがうのです。  こうしてエリシャは、ナアマンを迎え入れる準備は整っていることを王に告げました。それを受けて、ナアマンはエリシャのもとに行きました。しかし、そのいでたちといえば、馬と戦車です。馬に曳かせた戦車で馳せ参じてきました。われこそはアラムの将軍である、さあ、治していただきたい、そんな堂々としたナアマンの態度が見えてくるようです。  ところが、エリシャはナアマンに面会しようとしません。使いの者がナアマンに面会し、そして、なんと言ったでしょうか?「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」  これは取りようによっては、門前払いとも言えることです。ナアマンはこうして、格下の国であるイスラエルにわざわざ赴き、威儀を正して面会に来たというのに、これではまるでけんもほろろの態度だ、失礼だ、と思ったのでしょう。  しかしここで私たちは、ナアマンが何を問題にしたのかを見る必要があります。11節のみことばにそれが現れています。まず、ナアマンは、エリシャが自分の前に出てこなかったことに憤慨します。ナアマンはエリシャが出てきたならば、どんなことに期待したのでしょうか?  ナアマンはこんなことをしもべたちに言っています。「彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。」  まずナアマンは、「彼の神」という言い方をしています。まことの神さまはたしかにイスラエルの神でいらっしゃいますが、ナアマンのこのことばを見ると、弱小国家イスラエルにとっての神、という意味にしかなっていません。  その神が、強い国であるアラムの将軍である私に仕えるのだ、という、ナアマンの驕りが透けて見えます。ナアマンがもし、「彼の神」という発想を捨てられなかったならば、そのイスラエルの神、エリシャの神の力によりツァラアトがいやされようとも、そのいやしをもたらしてくださった神さまを信じる、すなわち神さまに献身するには至ったでしょうか。疑わしいことです。  ナアマンはさらに、このようなことを言っています。12節です。単に川に入ってきよくなれというならば、わざわざ遠路イスラエルまで来て、ヨルダン川に入らなくても、アラムを流れるアマナやパルパルに入れば充分ではないか。何が悲しくてこんな遠い国、弱小の国の川に入れというのか?  しかし、もしナアマンがこの態度のままでいたならば、彼のツァラアトは治りませんでした。なぜでしょうか? エリシャの告げたいやしの方法、すなわち、神さまのみこころにかなったいやしの方法に従っていないからです。従えないのは、ナアマンが考えていたいやしの方法こそが正しいと考えたからでした。  たしかに、その国で「神の人」としてみなの尊敬を集めている、いわゆる「霊的な」人物が現れて、何やら唱えながら手を動かすならば、いかにも治りそうに思えないでしょうか。しかしこれは、神さまのお取りになる方法ではありませんでした。神さまはどこまでも、ヨルダン川で七回身を洗いなさい、とおっしゃっただけです。  7回、というのは、神さまがみわざを行われるにあたって人がアクションを起こすべき回数として、神さまがお命じになった回数として、聖書のほかの箇所にも登場します。ヨシュアに率いられたイスラエルがエリコに攻め入るとき、その城壁を七日間、一日に一周して、最後の七日目には七周したとき、神さまはエリコの城壁を崩壊させられました。7、という数字はそもそも、神さまが6日で世界をおつくりになり、七日目にお休みになったという、完全な創造の秩序を象徴する、完全数でもあります。  そして、ヨルダン川は、なんといっても、イエスさまがバプテスマをお受けになった場所です。イエスさまがバプテスマをお受けになったとき、聖霊がお下りになり、父なる神さまが、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」とおっしゃいました。まさに、三位一体の神さまのご栄光に満ちたご臨在がいちどきに現れた場所、それがヨルダン川です。神さまはそのヨルダン川でこそみわざを行われるのであって、アラムの川でもいいわけではなかったのでした。  もちろん、そのようなことをナアマンは理解していたわけではありませんでした。あまりにも自分は馬鹿にされたと思い、国に帰ることにしました。しかし、彼のしもべたちは、このようなことを言いました。13節です。  しもべたちも面白いことを言うと思いませんか? もっと難しいことを命じたら、あなたはお従いになるでしょう? たしかにそうではないでしょうか? ナアマンは治りたい一心で、たくさんの金や銀や晴れ着を携えて、遠路はるばるイスラエルまで来たわけです。それほどの努力を惜しまないならば、どんな荒行苦行を命じられても、喜んでするんじゃないでしょうか? それこそ日本の感覚でいえば、滝に打たれたり、札所巡りをしたり、お百度参りをしたり、といったところでしょうか。それは時間をかけて肉体を苛め抜くことですが、それでも治るならと信じて、取り組むわけです。  ところが、そういう荒行では治らないわけです。治るには、エリシャに告げられた神さまの方法に従うこと、これしかありません。これは、罪が赦され、きよいものとされるために、神さまが私たちに定めておられること、そう、イエスさまを信じ受け入れることと共通します。  私たちはイエスさまを信じています。こんなにも簡単に罪が赦され、神さまの子どもとなり、永遠のいのちが与えられ、神さまに用いられるすばらしい生き方ができるなんて! 私たちは、信仰による救いというものがあまりにも単純なことに驚き、感謝するでしょう。しかし、一般的にはどうでしょうか? こんなにも簡単に救われるというのに、聖書の示す唯一の救い、永遠の救いの道である、イエスさまの十字架を信じるということに、人々は見向きもしません。その代わり、もっと別のものをお金をかけて拝んだり、まことの神さまではないもっと他のものに夢中になったりして、救いを求めます。私たちよりもよほど大変なことをしているのです。  そういう努力をする姿は、一見するととても美しく、また、そういう人はきよい、などと一般的には思われるでしょう。しかし神さまの御目から見れば、救いに到達しているわけではありません。むかしのアメリカの説教家が言ったとおりです。まるでその姿は、お魚が好きなお父さんを喜ばせようと、学校をさぼって釣りに行く子どものようだ、と。お父さんを喜ばせるには、釣りなんかしている場合じゃなくて、学校に行くしかないように、私たちは、ピントの外れた努力ではなく、神さまの望んでおられる方法で救いをいただくしかありません。  ナアマンの場合は、ただ単にいやされればよかったのではありません。イスラエルの神に出会うということは、まことの救いにあずかるということを意味します。しかしその出会いによって救われ、いやされるためには、単純にエリシャのことばを信じ受け入れるしかありませんでした。信じ受け入れたならば、そのしるしとして、ヨルダン川で7回身を洗うことをするだけでした。  果たして、ナアマンはそのとおりにしたら、彼のからだは元どおりになりました。しかし、聖書はそれだけを書いていません。幼子のからだのようになった、と書いています。幼子のような信仰をもってエリシャに与えられた神さまのことばを受け入れ、従順に従ったら、幼子のような新しい人として生まれたということを語っているわけです。  人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはない、イエスさまはそうおっしゃいました。新しく生まれるには、神さまとそのみことばを、小さな子どもが素直に信じ受け入れるように、信じ受け入れることが必要になります。  いやしということにおいても同じことが言えます。神さまはいやしてくださる、いやしてくださるのは神さまのみこころである、そのことを素直に、みことばから受け取っているならば、あと、私たちのすることは、そのみことばを握って祈ることです。それを、あれこれと複雑に考えるならば、信仰を働かせる余地がなくなりはしないでしょうか? ナアマンをご覧ください。ヒゼキヤをご覧ください。イエスさまにいやされた人々をご覧ください。みな、いやされるという信仰があり、その信仰を働かせた人たちです。  私たちは何か、いやしというものに対して、複雑に考えてはいないでしょうか。あるいは、もっと難しく考えてはいないでしょうか。救いもいやしも、神さまの賜物であり、それを受け取るには、私たちがただ、神さまの定めてくださった方法にお従いすることです。それは、お祈りです。少しも疑わずに信じて祈る。その境地に至るまで信仰を働かせるには、一にも二にも、祈ることです。  また、ほかの兄弟姉妹のためにも祈りましょう。ヤコブの手紙5章をお読みすると、病気の人は教会の長老たちを招き、オリーブ油を塗ってもらって、祈ってもらいなさいとありますが、この場合に働かせる信仰は、病んでいる人もさることながら、手を置いて祈る人たちの信仰でもあります。私たちは、神さまが病をいやされるのがみこころであると信じているならば、その信仰のとおりになるように、自分のためにも、家族のためにも、ほかの兄弟姉妹のためにも祈りましょう。