「無理解の罪」

聖書箇所;マルコの福音書12章35節~44節 メッセージ;「無理解の罪」 私の小学生のときの担任の先生がよくおっしゃっていたことですが、「無知は罪悪である」。いろいろなことを教えてくださる、尊敬すべき先生だっただけに、そのおことばには説得力がありました。もともとは「無知は罪なり」というソクラテスのことば、知らなかった、わからなかった、習っていないと開き直ることや、知ろうとしない、学ぼうとしないことは無知であり、それ自体が罪であるということです。 聖書ではこのことを何と語っていますでしょうか? ヨハネの福音書の1章5節、有名な「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」というみことばの、「闇は光に打ち勝たなかった」は、聖書の訳によっては「暗闇は光を理解しなかった」とあります。この訳を比べてみると、なるほど、と思います。相手が強すぎて、高尚すぎて、とても理解できない、ゆえに負けるしかない。サタンの率いる暗闇の勢力は、イエスさまという光が理解できないゆえに、負けるのです。 ソクラテスのことばを援用すれば、イエスさまに対する無知がサタンを罪に定めるといえましょう。もしイエスさまがほんとうにお従いすべき神の御子であると知っていたら、サタンはただちに自分の王権を取り下げ、イエスさまに従うことを選ぶはずです。しかしサタンはそのようにイエスさまのことを理解しないので、相変わらず王様のようにふるまい、結局は滅んでしまいます。 そういう、無知。イエスさまというお方、そしてイエスさまの教えを知ろうとしないことが、どれほどの罪の弊害をもたらすかということが、さきほどお読みしたみことばに如実に表れています。一見関係のない3つのできごと、しかし、これらすべては、律法学者の無知の罪、無理解の罪という共通点を持っています。それでは見てまいりましょう。 まず、35節から37節、律法学者は、キリストに対して無理解でした。 35節、イエスさまはひとつの問題を提起されます。それは、律法学者が、キリストはダビデの子であると主張している、ということです。 しかし、私たちは思いませんでしょうか? 福音書のほかの箇所を読んでみると、目の見えない人が「ダビデの子よ」とイエスさまに呼ばわり、イエスさまはそれをよしとしてその人を見えるようにしてくださいました。キリストはダビデの子孫としてこの世にお生まれになることは、旧約に預言されているとおりですし、新約においても、マタイの福音書のはじめから、キリストがダビデの子孫としてこの世界にお生まれになったことがはっきり書かれています。それならキリストのことを「ダビデの子」、つまり「ダビデの子孫」とお呼びすることは何が問題なのでしょうか? イエスさまがお語りになっている36節のみことばは、旧約聖書の詩篇110篇1節のみことばです。これはダビデ自身が語ったことばであり、最初の「主」は父なる神さま、次の「私の主」は子なるキリストです。ダビデはこのように、唯一なるお方にもこのように「位格」があったことを認めています。そしてダビデのこの詩が、立派にみことばとして聖書に採録され、これは律法学者たちにとっても聖典として信じ受け入れるべきみことばとなっているわけです。したがって律法学者たちは、ダビデにとってキリストは、実はダビデがこの世に生まれるはるか以前、永遠のむかしからおられる主であることを認める必要がありました。 それにつづく37節のみことば……これは一見すると、私たちが中学生・高校生のときに国語の「古文」の授業で習った、「反語」ではないだろうか、と思いませんでしょうか?「どうしてキリストがダビデの子なのでしょう、いや、そうではない」などと。しかし、これは日本語の反語ではありません。イエスさまのおことばは、キリストはダビデの子では「ない」と言っているのではありません。ダビデの子ではあるのだが、それだけの理解では充分ではない、ということです。ダビデにとって主であるように、キリストは主である、すなわち神の子である、神である、という理解が必要でした。 イエスさまがこのようにおっしゃるのも、当時律法学者たちが民に説いていた教えは、キリストはダビデの子としてここユダヤに来て、ユダヤをローマの圧政から救い出す王として統べ治める、という、政治的、この世的なメシアとして理解せよというものであったからです。そこには律法学者の鼻持ちならない選民思想が透けて見えてこないでしょうか。それ以上に、このように教えては、イエスさまに出会う道が閉ざされてしまいます。キリストについて民に正しく教えない、そのために、キリストに出会う道を閉ざしてしまう、ということは、律法学者のもたらす弊害といえました。 もっともイエスさまは、ご自身がダビデの子であることを堂々と公言されて民衆を率いるようなことはなさいませんでした。人からはしがない大工の子と思われていたお方です。出身地も旧約の預言にあるとおり、また私たちが福音書を読んで知っているとおり、ベツレヘムだと知られていたわけではありません。ガリラヤのナザレ、何のよいものが出るだろうと人から軽蔑されていた地域のご出身と思われていて、そのようなお方が家系においてもダビデの子孫だったことはほんとうなのにもかかわらず、人々の目には隠されていました。 いわんやイエスさまが、神の子キリストであることは、どれほど隠されていたことでしょうか。律法学者たちはその時代において、もっともよく聖書を調べ、研究していた人たちではなかったでしょうか。ところが彼らは目の前に、その預言の成就も成就、キリストご本人がいても、わからなかったのです。いや、彼らは少しへりくだれば、わかったはずなのに、一切認めようとしない、無知な自分のしがみついたために、キリストに出会う、キリストに献身する大きな機会を逃しました。それどころか、このお方を十字架送りにしました。無知の罪はここに極まったのでした。 しかし、キリストがこのように、人間的な家系においても、それ以上に神であるということにおいても、みことばにおいて証しされているお方であり、このキリストはイエスさまであるということを知ることができたのは、神さまの一方的な恵みとあわれみによることでした。立派なことを教える律法学者ではなく、このような異教社会の異邦人の中からイエスさまへの信仰を持ち、イエスさまに献身するようになれたのは、私たちが何かすぐれていたからではありません。神さまが一方的に私たちのことを選び、救いに定めてくださったからでした。 したがって、私たちのことを誇ることなどできません。もし私たちが自分のことを誇ったりするならば、それでは律法学者たちと同じです。人よりも自分が優れている、神に認められている、霊的ステージが高い、こんなことを考えるようでは、神さまを誇っている、賛美していることになってはいません。 私たちは日々、ふさわしいキリスト理解に導かれることで、キリストをとおして与えられた永遠のいのちを生きる者となっていきます。永遠のいのちのすばらしさは、私たちはまだまだ分からないところだらけで、しかしそれを知れば知るほど、私たちは神さまに献身する恵みの中に入っていこうと祈りつつ努めるでしょう。ご覧ください。彼ら群衆はイエスさまの教えを聞いて、どんなに喜んでいたことでしょうか。それはこのお方をとおして永遠のいのちに入れられる恵みがあることを、彼らは知ったからでした。イエスさまを知る恵み、その恵みがいつも私たちとともにありますようにお祈りします。 次に39節、40節です。律法学者は、律法の精神である愛に対して無理解でした。 よい衣を着て歩き回りたがる、広場であいさつされたがる、会堂の上席に座りたがる、宴会の上座に座りたがる……これが当時の律法学者が当たり前に取っていた態度でした。 人にほめられたがる、ひとからちやほやされたがる、それは、いやしくも主のしもべであるならば、もっとも取ってはならない態度でした。イエスさまはちやほやされたい動機で振る舞われるお方ではありませんでした。それなのに人は、いざ宗教的な指導職に立ったら、なんと人からかしずかれたいと思ってしまうことでしょうか。 それだけではありません。彼ら律法学者は「やもめの家を食いつぶす」とあります。当時、寡婦はきわめて厳しい立場に置かれていました。こんにちにおいてたいへんな思いをされているシングルマザーの方々のようです。具体的には、こういうことだったそうです。①資格もなしに寡婦に法的な助けや助言をして、過剰にお金をとる、②寡婦たちの不動産の後見人のようにふるまって詐欺を働く、③厚かましく寡婦のもてなしを受ける、④寡婦の不動産を正しく管理しないで経済的な損失を与える、⑤彼らのために長々と祈ってお金を取る、⑥返せない借金のために苦労している寡婦の家を抵当に入れて財産を食いつぶす、そういうことを、律法学者たちは宗教指導者であることをいいことに、堂々と行なっていたというわけです。 宗教指導者がである律法学者がこうも振る舞えたのは、ユダヤの信仰共同体における自分の立ち位置を勘違いしていたからです。間違っても彼らは、上に立つにふさわしい待遇を主張できるような立場にはありませんでした。 ボタンの掛け違い、ということばがあります。最初のボタンを掛け違うと、あとはすべて掛け違うことになります。彼らがこうも振る舞っていたのは、まず、キリストを認める信仰に至っていなかったところにあります。キリストを正しく認めていれば、目の前におられるこのお方、イエスさまこそキリストであるとわかったはずです。そうなったら彼らは、偉そうに振る舞うのをやめ、自分もキリストにお仕えするしもべとして振る舞うことができるようになったはずです。その信仰がなかったから、彼らは恥知らずにも人に仕えるどころか、人からむしり取るような生き方をやめなかったのでした。 先週も学びましたとおり、律法の精神は愛です。神を愛し、人を愛する、これこそ律法の精神です。しかしイエスさまは、律法学者は口では偉そうなことを言っていても、行いでは律法を否定してはばかるところを知らない、それは、愛していないからだ、ということを見抜いておられました。神の愛がある人が、寡婦を食い物にできるでしょうか? さあ、尊敬しなさい、とばかりに、人々の前で偉そうに振る舞えるでしょうか? 私たちは少なくとも、キリストのしもべであると自分のことを思うならば、律法学者のようであってはならないと思うでしょう。では、そうならないために、どうすればよろしいでしょうか。それには、王の王なるイエスさまがどう振る舞われたかを知ることです。ピリピ人への手紙2章、3節から8節をお読みしましょう。 まさに、へりくだることこそ天にます王なる証しです。へりくだることを知らない者、威張るような者は、高い地位がもっともふさわしくありません。しかし、人は神さまの基準から極めて遠い罪人です。ほめられたいし、大事にされたいし、愛されたい。しかし、へりくだる道は、人からけなされようと、粗末にされようと、嫌われようと、なおキリストに従うゆえに人をほめ、人を大事にし、人を愛する歩みです。それは、真にへりくだられたイエスさまの姿から学ぶことができます。 それでこそ私たちは、律法学者をしのぐ働き人にしていただけます。イエスさまは少なくとも、律法学者に対して、その教えていることをあなたがたは守り行うべきだ、と、一定の評価を与えていらっしゃいます。それなら私たちは何をもってイエスさまの評価をいただくことができるでしょうか? 律法学者にないものがあるとしたら、それは何でしょうか? 律法学者は偉ぶった態度を取って弱い者によって自分を支えるという、間違った姿勢で神の民の共同体の中で生きていました。 神の民の共同体において働き人は、高いところにいてはいけないのです。いるべき場所はいちばん下のしもべの場です。しかし、しもべの場にてしもべとして振る舞う人を、たとえ人は評価しなくても、神さまは「よくやった。よい忠実なしもべだ」と評価してくださいます。 私たちは人の評価が聞きたいでしょうか、それとも神さまの評価をお聞きしたいでしょうか? 神さまに認められるしもべとして振る舞う私たちとなりますようにお祈りします。 最後に41節から44節、まずお読みします。 これは、律法学者と関係があるのでしょうか? 関係あります。というのも、まさにこの寡婦に苦しい思いをさせていたのは、律法学者であったからです。 律法学者は何に対して無理解だったのでしょうか? 律法学者は、礼拝の実践に対して無理解でした。この寡婦がささげた献金は、金額的に見ればほんとうにわずかでした。ほかの礼拝者たちと比較するなら、みじめになるような献金額でしょう。みんなが見て、見ろ、この女はこれっぽっちしか献金してないぞ、と笑いものにしたかもしれません。そこまであからさまでなくても、少なくとも心の中でさばくぐらいのことはしたでしょう。 しかし、イエスさまは彼女の恥をそそがれました。金持ちよ、聞くがいい。この女性はだれよりも多く献金したのである。生活の手立てをすべてささげたのだから。 イエスさまのこのおことばは、同時に、彼女たちを苦しめて恥じるところのない律法学者たちに対する、痛烈な批判にもなっていました。おまえたちはこれほどまでに彼女のことを貧乏な立場に留め置き、何のケアもしていない。そんな彼女が実に素晴らしい信仰で神の前に出ている。おまえたちはこれを見て恥ずかしくならないのか。いったい、おまえたちのしていることは何だ。 この寡婦は、神の国を受け入れることにおいて、まるで幼子のようです。幼子は大金など持っていません。ただ純粋に、まっすぐに神さまのもとに行くだけです。そこには計算などありません。それに引き換え、妙に大人じみた信仰者の、なんといやらしいことでしょうか。手元に自分の取り分を取っておき、表面的に敬虔な信仰者のふりをして生きる。アナニアとサッピラはそんな献金をしたばかりに夫婦して神のさばきを受けて死にましたが、私たちもアナニアとサッピラの夫婦と五十歩百歩ではないでしょうか。 彼女はまた、宗教指導者に苦しめられていることを、献金をささげないことの言い訳にはしませんでした。どんな宗教指導者のもとにいようとも、ちゃんとおささげしていました。それだけに、寡婦のこの純粋な信仰を利用して好き放題をしている宗教指導者たちには、神の怒りが下るのです。その怒りは、イエスさまを十字架送りにするほどにイエスさまが見えなくなっていた、という形で実現したのでした。 さて、誤解してはならないのですが、神さまは「金額」ではなく「収入に対する率」を見ておられるのではありません。以前、この箇所から、そういうメッセージを堂々と牧師が述べる場面に出くわしたことがありますが、その教会はパワハラ、セクハラのオンパレードで、信徒は多額の献金をささげることを強要されていた群れでした。この牧師の言っていることは理屈としては通っているように見えるかもしれませんが、理屈は理屈でも律法学者の理屈です。 もし、収入に対する率が高い献金をしたとしても、それは自己満足の宗教行為に過ぎない、ということは充分あり得ます。しかし、それは献金としてふさわしくありません。反対に、私たちの献金にささげものとしての心が込められているならば、主はその心を評価してくださいます。聖歌にあるとおり「すべてをささげ/むなしきわれに/御名のためいま/満ちさせたまえ」とあるとおりの、御霊の満たしを不思議なことに私たちは体験します。 献金はだれか人の目を意識してすることではありません。どこまでも神さまとの関係の中で行うことです。人を意識したら、献金が少なかった恥ずかしくなり、多かったら傲慢になります。 しかしそれはどちらも間違っています。第二コリント9章6節をもし、献金を人を意識するものという前提で受け取ったら悲惨きわまることになります。重要なのはそのあとの7節です。主との関係でおささげすることによって私たちには平安が与えられます。 主にある愛がないことも、礼拝をもって神さまと正しく関係が築けないことも、すべてはイエスさまのことを救い主と理解できるだけの信仰がないことによります。私たちにその信仰が与えられていることに感謝しましょう。この信仰は神さまの選びの中で与えられているものですから、神さまにすべてのご栄光をお帰しします。