復活の朝に『おはよう』

復活祭感謝礼拝メッセージ 聖書箇所;マタイ28:1~10 メッセージ題目;「復活の朝に『おはよう』」  形あるものはどんなにすばらしくても、かぎりあるこの地上にあるならば、壊されたり崩されたりするものです。それは、イエス・キリストというお方も体験されたことです。イエス・キリストは、永遠、無限の創造主でいらっしゃいますが、肉体を取ってこの地上に来られたお方です。かぎりない神であるお方が、かぎりある人となられたのです。人は、イエスさまのことを神さまと認めず、十字架の上に死なせました。そして墓に葬りました。 しかし、イエスさまは復活されました。イエスさまは死からよみがえられ、永遠のいのちに生かされるならばもはや滅びることはないことを、身をもって証しされました。そして、人がイエスさまを信じ受け入れるならば、その人はもはや滅びることがなく、よみがえって永遠のいのちを受けます。 イエスさまの復活がどのようであったか、特に、復活のキリストが最初に発せられたことばに注目したいと思います。 イエスさまは、十字架から取り降ろされて、お墓に葬られていました。アリマタヤのヨセフという議員が、勇気を出して自分の入るはずの真新しいお墓を提供してくれたおかげです。しかし、イエスさまの復活の預言を生前聞いていた宗教指導者たちは、もしかしたら弟子たちがイエスさまの遺体を持ち出して、復活したと触れ回ったりはしないだろうか、そんなことになったら、たいへんな混乱が起こる……そう予測し、当時ユダヤを支配していたローマ総督ピラトに番兵を出してもらい、墓の番をさせました。 お墓といっても、日本のように火葬して土に骨壺を埋めるわけではありません。韓国のように土葬して土饅頭を盛り上げるわけでもありません。岩を横に掘り、そこに遺体を布で巻いた状態で安置するのです。そういうわけで、墓の入口の大きな石をどければ、中に入ってイエスさまのご遺体に対面できます。 そういうことをさせまいと、彼らは石をピラトの印により封印しました。これは、ピラトの命(めい)を受けた者でなければ、開けることは許されません。 墓に葬られて3日目になりました。折しもそのとき、女性たちがイエスさまのお墓にやってきました。ご遺体に香料を塗りにきたのです。 しかし、墓には石が転がしかけてあり、しかも封印されています。開けることはできないし、許されません。しかし女性たちは、せめてお墓のそばでもいいから、イエスさまのそばにいたい、その一心で、墓まで訪れたのでした。 こんなとき、男どもは情けないものです。イエスさまのあとに従います、死ぬことさえも覚悟しています、と大見えを切った弟子たちは、いったいどこにいるのでしょうか? ユダヤ人たちが自分のことも逮捕しにきはしないかと、引きこもってぶるぶる震えている有様です。そういうわけで、宗教指導者たちがあれこれ気をもんでいた、弟子たちがイエスさまの遺体を盗むかもしれないとかどうとかいったことは、まったく考える必要もないことだったわけですが、とにかくこのとき、堂々としていたのは女性たちでした。 女性たちはお墓に行きました。するとそのとき、光り輝く天使が現れました。墓の入口の石は転がりました。番兵たちはその姿に卒倒し、気絶しました。 天使は、女性たちに告げました。(5~7)恐ろしかったのは女性たちも同じでしたが、このできごとを弟子たちに伝えようと、さっそく、出発しました。この事実を、話しに行かなければ! 女性たちは恐れながらも喜びに満ちて走り出しました。 しかし、彼女たちが見たものは、天使と空っぽのお墓です。復活のイエスさまを見たわけではありません。それでも、彼女たちは信じました。信じて走り出しました。 そんな彼女たちはしかし、このとき、最高の出会いを体験することになりました。そこに、復活されたイエスさまが現れたのでした。イエスさまはおっしゃいました。「おはよう。」 イエスさまは、この女性たちに向けて「おはよう」とおっしゃったのです。このあいさつのことば、ちょっと味わってみましょう。 みなさん、朝起きたとき、「おはよう」とか「おはようございます」というあいさつを交わすのは、とても気持ちのいいことではないでしょうか? あれはなぜなのでしょうか? 一日を始めるとき、その前にはもちろん眠っています。まぶたを閉じた、暗い世界の中にいます。 しかし、その眠りから覚めると、目の前に広がるのは、私たちがたしかに生きている、すばらしい世界です。そのすばらしい世界に招き合うことば、その世界に生きることを祝福し合うことば、それが「おはよう」であり、「おはようございます」なのではないでしょうか? だから、このあいさつは何にもまして気持ちのいいものなのではないでしょうか? イエスさまが言われたこの「おはよう」ということば、これをギリシャ語の原語の意味を調べたり、いろいろな訳の聖書をつき合わせたりして、ちょっと勉強してみました。するとこのイエスさまのおっしゃった「おはよう」ということばには、相当いろいろな意味が込められていることがわかりました。 まず、「平安があるように」という意味です。これは、ユダヤで朝夕問わず交わすあいさつ、「シャローム」ですが、イスラエル、ユダヤの歴史を見てみると、落ち着ける時というものはなかったように思えます。聖書の記録を見てみると、この世的な平安を享受し、楽しむ記述よりは、外敵にいかに攻められて苦労したか、という記述にあふれています。外から攻撃され、内には不安にさせるものに満ち、まさに内憂外患、しかし、そのような歴史において、イスラエルは、この世の移り変わりのような状況に左右されることのない、まことの平安を体験するに至りました。それは、いかなる状況においても変わらずに民を愛もて導く、神さまだけが与えてくださる平安です。 イエスさまが十字架につけられた、死なれた、葬られた、これは、イエスさまを神の子と信じ、従ってきた者たちにとっては、耐えがたいできごとです。しかしそれでも、神さまはその人の心に、まことの平安を与えてくださいます。なぜならば、イエスさまは死を超えて、よみがえってくださり、永遠のいのちの中に生きておられるお方だからです。 イエスさまの与えてくださる平安は、この世の与えるものとはちがいます。この世はどんなに頑張っても、変わらない平安を与えることはできません。変わらない平安を与えることのできる唯一のお方、それは、変わることのないお方だけです。変わることのないお方、それは、イエスさまです。 わたしがここにいるよ! もう恐れないで! いつまでも一緒だよ! 女性たちはこのイエスさまのおことばに、そしてご存在に、測り知れない平安を体験したことでしょう。そしていま私たちも、復活のイエスさまがともにいてくださることによって、この不確かな世において、測り知れない平安を体験することができるのです。 そしてイエスさまのこの「おはよう」というおことばは、英語に直訳すると、「ヘイル」という詩的な表現になります。これは、やあ! とか、ばんざい! とか、幸(さち)あれ! となります。わたしがよみがえったことは、めでたいことじゃないか! ばんざいと言ってくれ! このことを喜んでくれ! あなたはしあわせだ! そうおっしゃっているようです。 朝のあいさつはどんな顔ですればいいでしょうか? いかにも眠そうに、というよりも憂鬱そうに、「おはよう」と言うべきでしょうか? それともにこにこと笑顔いっぱいに「おはよう」と言うべきでしょうか? うちには娘がいますが、娘に笑顔で朝のあいさつをされると、何とも言えないやる気がわき上がってきます。そうか、僕たちは、この新しい日、祝福の日に招かれているのか! この一日をしっかり頑張ろう! そうなるのだから、あいさつというものはなかなか大事なものです。 あいさつというものは、相手を祝福することです。しかしこの祝福は、自分が祝福を体験していてこそ自然にできることです。イエスさまはどうでしょうか? 死とよみから帰り、それこそ読んで字のごとくよみがえり、愛する人たちの前に生きて姿を現すことができたことは、イエスさまにとって素晴らしい喜びだったのではないでしょうか? わたしは生きてあなたがたに会えた! わたしはうれしい! わたしは天の父の祝福を、一身に受けている! わたしはそれゆえに、この復活の朝、ばんざいと叫びたい! あなたたちも一緒に、この幸いを喜んでほしい! イエスさまのひとこと、おはよう、には、そのような意味も込められているわけです。 私たちはいま、大きな問題を抱えていないでしょうか? あるいは、やる気が出なくて苦しんではいないでしょうか? 一切をリセットして、新しい出発をくれる素晴らしいことば「おはよう」、イエスさまのごあいさつ「おはよう」の声を聞きましょう。 そして私たちも、イエスさまのこの「おはよう」のごあいさつに対し、「イエスさま、おはようございます」と返してみてはいかがでしょうか? これまで味わったこともないような、底知れぬ底力がわいてくるのを感じることができるはずです。 朝、祈りのうちに始めてごらんになっていただきたいのです。目が覚めたら、寝床にひざまずいて、ちょっと祈ってみてください。イエスさま、おはようございます、と言ってみてください。新しい朝をくださるイエスさまは、必ず新しい力、喜んで生きる力に満たしてくださいます。 イエスさまというお方は、変わることのない神さまでいらっしゃいます。それは、イエスさまがつねに新しいお方でいらっしゃる、ということを意味します。新しい朝、ということばがあるように、一日のうちで新しい時間は、朝です。新しい昼とか、新しい夜などとは、ふつう言いません。朝が新しいように、朝に実にしみじみ深い意味を込めた「おはよう」とあいさつされたイエスさまは、どこまでも新しいお方です。私たちはこのイエスさまの御前に、つねに新しい気持ちで立たせられるものです。 私たちは時に、過去の自分に捕らわれます。過去自分が犯してしまった罪にくよくよしてしまいます。しかしそんなとき、十字架の上ですべての罪を赦してくださり、そして復活してくださったイエスさまの前に、新しい気持ちで立つことです。私たちはイエスさまによって、完全に新しくされます。 あるいは、過去の栄光を思い起こし、それにくらべて自分は今、なんでこんなに落ちぶれてしまったのか、と、くよくよする方もいらっしゃるかもしれません。しかし、すべてを新しくしてくださるイエスさまの前では、過去にこだわる必要はありません。新しいいのちに生きておられるイエスさまは、すべてを新しくしてくださいます。私たちはイエスさまがともに歩んでくださることによって、これまで味わったこともないような、喜びに満ちた新しいいのちへと歩み出すことができます。 そのいのちに招くイエスさまのごあいさつ、それが「おはよう」です。イエスさまの「おはよう」のことばに、毎日励ましをいただきましょう。そして私たちも毎日、「イエスさま、おはようございます」と祈りのうちに告白し、イエスさまとともに歩む素晴らしい日々を歩んでまいりましょう。イエスさまは私たちがどのような状況にあったとしても、つねに、新しいいのちのうちに生かしてくださいます。信じて歩み出しましょう。

八つの幸いその八

聖書箇所;マタイの福音書5:10~12 メッセージ題目;八つの幸いその八 義のために迫害されている者  来週になりますと、復活祭です。復活祭は、キリストの復活をお祝いする、喜びに満ちた日です。私たちの教会も特別なお祝いをします。この日のために体調を整えて参加しようと、長らくお休みしていらっしゃった方々も楽しみにしておられます。ほんとうに、めでたい日です。  復活祭、それは私たちのために、キリストがよみがえってくださった日です。キリストは十字架の上に死なれましたが、それで終わりではありません。キリストはよみがえられたのです。私たち、キリストを受け入れた者たちも、キリストの復活にあずかって、永遠に滅びることのない者としていただきます。天国にて、キリストともに永遠のいのちをいただく者としていただけます。ゆえに、キリストの復活は何よりも素晴らしいものです。  しかし、この復活のすばらしさの前に、私たちはキリストの死にあずからなければなりません。キリストが、私たちのために十字架にかかって死んでくださったこと、その事実のゆえに、キリストの復活があることを忘れてはなりません。  本日から一週間は、受難週と申します。キリストの受難をおぼえる週です。その日に、この八つの幸いの最後、迫害について学ぶということも、とても意味のあることではないかと思います。  本日の箇所を、3つのポイントから学びたいと思います。  第一に、義のために迫害された人とは、第一にイエス・キリストです。  イエスさまは、この八つの幸いを説くにあたり、その最後に語られた幸いが「義のために迫害されること」であると語られました。それは、天国がその人のものだからだ、というわけです。  天国とは、神さまのものです。そして、この天国は、永遠にキリスト・イエスが王として受け継がれます。イエスさまが永遠の王なのです。その王であられるイエスさまが、義のために迫害されている人は天国を持つ、と語っていらっしゃるのです。  このようにお語りになるイエスさまは、この地上に生きておられた間、堂々たる王さまとして振る舞っていらっしゃったでしょうか? いいえ、むしろイエスさまのお姿は、みすぼらしいしもべのようでありました。しかも時の権力者たちは、イエスさまにひどい迫害を加えました。  時の権力者は、神のみこころを取り継ぐはずの宗教指導者たちでした。しかし彼らは、民衆を苦しめるだけ苦しめて、自分たちは特権階級を享受していました。人々から尊敬されることを当然のように見なして生きていました。  しかしイエスさまは、口先だけのそんな彼らの前で、神の権威によって教えを宣べられ、その教えがまことに神から来たものであることを示されるように、多くのみわざをおこなわれました。そのみわざは、医者にも見放されたような病気の者、社会から疎外されたような者たちに対して行われたものであり、神さまのいつくしみと愛に満ちたものでした。  しかし、宗教的な権力者たちは、このイエスさまを見て、聖書に預言された神の子がついに来られた、と、イエスさまについていくことをしませんでした。かえって、イエスさまが神の義を宣べ伝えれば宣べ伝えるほど、イエスさまを疎ましく思いました。何度となく殺してやろうと謀議を巡らし、そしてついには弟子のユダの買収に成功し、十字架につけることまでしたのでした。  イエスさまはまさしく、神の義そのものの生き方を貫徹され、その結果、待つものは過酷な迫害の連続でした。その迫害は、十字架という、かぎりなくどす黒くて呪わしい姿にまでなりました。義のために迫害された第一の人、それは、この世界を造られ、人間をお造りになった創造主、イエスさまだったのです。人は、神の義そのものであられるイエスさまの生き方を、殺人というかたちをもって完全に否定し去ったのです。   それなら、全能なる神さまであられるイエスさまが、人間がこのような形でご自身を死に葬ることをご存じなかったのでしょうか? もちろんご存知でした。イエスさまは全知全能なるお方です。ならば、そうなると知っていてなおも御父がイエスさまをこの地上に送られたのは、なぜだったのでしょうか? その御父のみこころを、イエスさまがお受けになったのはなぜだったのでしょうか?  それは、復活、そして天国が、完全な従順を果たしたイエスさまの前に備えられていたからでした。イエスさまは、この地上の十字架だけを見つめておられたのではありません。イエスさまの目の前にあったのは、その迫害の先の天の御国、永遠の世界でした。  人の罪をさばかねばならない、この御父の義を果たすために、イエスさまはあらゆる迫害を甘受されました。イエスさまは十字架に死なれることによって、人がその罪ゆえに支払うべきいのちの代価を、御父にことごとく支払ってくださったのです。イエスさまが十字架の上で最後に語られたおことば「完了した」とは、いのちの代価を支払い終えた、という意味です。  この、御父の義が満足されるためにあらゆる迫害、実に十字架の死に至るまでをお受けになったイエスさまを思いましょう。私たちはこの地上でキリスト者として生きるならば、多くの苦しみを体験するかもしれません。しかしそのようなとき、まず私たちより先に、キリストが神の義を果たすために苦しみを受けられたことに思いを巡らしましょう。そして、イエスさまの十字架に感謝しましょう。  今週は受難週です。イエスさまの御苦しみのゆえに、私たちがどれほどいやされているか、神の恵みと愛をいただいているか、思い巡らし、感謝したいものです。  第二に、義のために迫害された人たちとは、みこころにかなった働きをした人たちです。  11節と12節をあらためてお読みします。……ありもしないことで悪口を浴びせる、みなさんにも経験がありませんでしょうか?  これはまず、イエスさまのもとにやってきたあらゆる群衆に語りかけていることです。彼らはこの機会に、イエスさまを救い主と受け入れて、イエスさまについて行きはじめた人たちです。そんな彼らから初代教会が起こされていくことを見越したうえで、イエスさまはこのみことばを語られたわけです。あなたがたは、わたしのゆえに、あらゆる悪口を浴びせられることになるでしょう。しかし、あなたがたは幸いです。あなたがたはこの地上で苦しい目に遭うかもしれませんが、やがて招き入れられる天国において、あなたがたの報いはとても大きいのですよ……と。  彼らは、聖書、今でいう旧約聖書の物語に接していたので、いにしえの預言者たちのことをよく知っていました。預言者とは、主のみことばを人々に取り継ぐ、神の器です。尊敬すべき、また尊重すべき存在です。  しかし彼らは、そのみことばをストレートに語ったゆえに、どれほどひどい迫害を受けたことでしょうか。「涙の預言者」と呼ばれたエレミヤなど、その最たるものでしょう。中には、みことばを語り通して、殉教した者もいます。  それなら、迫害に遭ったり殉教したりする彼らのことを、そういう苦しい目に遭っているからと、私たちは愚か者扱いするでしょうか? いいえ、彼らの生き方を見て、私たちはむしろ、ますます、私たちの信じ受け入れているみことばは本物だと確かめるでしょうし、そのようにいのちをかけてみことばを伝え通す働き人を送られた神さまを、私たちはよりいっそうほめたたえるでしょう。  マタイの福音書、21章の33節から39節をお読みしましょう。ぶどう園の主人とは、父なる神さまです。収穫を得るために農夫たちのもとに送りつづけたしもべたちとは、父なる神さまの命(めい)を受けたしもべたちでした。それは預言者であり、祭司でありました。しかし、まことの神さまにお従いする道を、単なる人間的な利権と勘違いしているくせして、宗教的な装いをして権力の座に居座るような者たちは、彼ら主のしもべを思いきり迫害しました。そのような者たちは、ぶどう園の跡取り息子になぞらえらえたイエスさまが来られても、イエスさまを受け入れず、十字架の上に死なせました。  そう、この主のしもべたちは、イエスさまの十字架につながる人たちでした。彼らの受難は、イエスさまの受難を予告し、さらには、イエスさまにつながる人たちも迫害を受けることを予告したものでした。  彼ら旧約時代の主の働き人は、イエスさまの訪れを預言していました。そんな彼らは、イエスさまとともに力強く訪れる御国を、見たいと願いながらも見ることができませんでした。しかし、それで彼らの人生は終わったわけではありません。彼らは、その待望した御国に入れられ、いま、主とともに永遠の安息に入れられています。  これらのことは、このイエスさまのメッセージにより神の国にあずかり、主の働き人となる人たちにも当てはまります。彼らは、大いなる迫害を受けるようになります。その理由をイエスさまはこのみことばで「ありもしないことで」と語っていらっしゃいます。  キリスト者に対する迫害、それは「ありもしないことで」ということがその最たる理由ではないでしょうか。世の中の人たちが聖書の教えを批判することも、じっくり聖書を学んでみれば、誤解は必ず解けるものです。しかし、多くの場合、人々は誤解をあえて解こうとはせず、キリストの教えに攻撃のみを加えるものです。  先日私は、映画『パウロ』を鑑賞しました。ネロ皇帝による迫害下にあったローマで、キリスト者がどれほど残酷な扱いを受けたか、そのような中でパウロが、迫害する者たちにどれほどの赦しと愛を実践したか、という内容です。あの映画に描かれていたものは、キリストにお従いする者たちがこの世で体験するかぎりない不条理で、私はそれを見て大いに考えさせられました。この映画を観てしばらくの間は、これは聖徒たちに勧めるべきではないのでは、とさえ考えていました。しかし私は今日のメッセージを準備している間に、少しずつ考えが変わっていきました。勇気のある方は、機会があればぜひご覧いただきたいと思います。  あまりネタバレにならない程度に話しますが、そんな苦しみの極限にある彼らを支えたものは、天国の存在でした。彼らはこの世にてあらゆる苦しみを味わいましたが、やがて天国に迎え入れられる、その信仰により、彼らがこの世の迫害を耐えたと言ってもいいでしょう。  いえ、その初代教会に続く歴史において、なおもイエスさまのあとを追って迫害と殉教に服した人は、古今東西、枚挙にいとまがありません。その中でも、水戸刑務所で太平洋戦争中の1943年に殉教した斎藤保太郎(さいとう やすたろう)先生のことは、茨城の人として覚えておきたいものです。また、私を韓国語ならびに韓国事情専攻へと導いたものは、日本の支配下において国家神道が強要される中でキリストへの信仰を守り通した数多くの牧師先生の存在でした。その中でも、獄中で激しい拷問を加えられて1944年に殉教した朱基徹(チュ・キチョル)先生のことは、ぜひ覚えていただければと思います。朱牧師は、私にとっては神学校の誇るべき先輩です。この不肖の後輩がこの茨城の地で主の働きにあずかれているのも、斎藤先生や朱先生のような素晴らしい先輩方の殉教の血が流されたゆえと確信いたします。その歩みは私だけではなく、ここに集う私たちすべての歩みにつながっていると確信いたします。  しかし私たちは、そのいにしえのしもべたちが素晴らしかった、私たちにこんな真似はできない、などと思う必要はありません。そのような主の素晴らしいしもべを選ばれ、立てられ、用いられるのは、どこまでも神さまのご主権に属することです。人ももちろん素晴らしいですが、私たちはまず、そのように人をご自身のご栄光を現す働きに用いてくださる、神さまの御名をほめたたえてまいりたいものです。  第三のポイントです。義のために迫害されている人たちとは、今この世にもいる、幸いな人たちです。  イエスさまのこのメッセージは、第一にこの時代の

八つの幸いその七 

聖書箇所;マタイの福音書5章9節 メッセージ題目;八つの幸いその七 平和をつくる者  貴い平和……平和を愛する気持ちは、だれであれ同じでしょう。平和がきらいという人はいないはずです。平和の反対は、戦争でしょう。その戦争をする人も、けしかける側も、それは平和のためだと言ってはばからないと思います。  しかし、それが実際に、「平和をつくり出す」働きに結局は実を結んでいないことを見ると、平和をつくり出すことはなんと難しいことかと痛感させられます。 聖書は、神さまの大事なみこころとして、平和を語ります。しかし、聖書の語る「平和」とは、人類一般がいだいている普遍的な平和の概念と重なる部分がある一方、完全に同じものではありません。 それが、私たちキリスト者が生半可な気持ちで平和を語ることの難しさにつながっているのですが、私たちにとって、それでは真の平和とは何でしょうか?  コロサイ人への手紙1章20節をご覧ください。この箇所は平和を語っています。お読みします。……この箇所からわかることは、神さまは、イエスさまの十字架の血によって私たちに平和をもたらしてくださった、ということです。  私たちは本来、神さまに敵対する道を選んでいました。神さまのきよいみこころよりも、罪の道を歩むことを好んでいました。神さまはその罰として、私たちがなすがままにされました。こうして私たちは、自分たちの好むことをすればするほど、けがれと破壊を経験するようになってしまいました。  しかし、あわれみ豊かな神さまは、私たちが滅びるままにしてはおかれませんでした。私たちがこのままでは罪のゆえに滅びてしまう、そんな私たちのことを憐れみ、私たちのすべての罪を、ひとり子イエスさまに負わせてくださいました。イエスさまは私たちのすべての罪を、十字架にて背負ってくださいました。イエスさまが十字架によって私たちのすべての罪を赦してくださったと信じるならば、神さまに敵対していた私たちは、神さまと和解していただけます。この神さまとの永遠の和解、すなわち平和をもたらしてくださったもの、それがイエスさまの十字架の血です。  このことから、神さまが私たちに定めてくださったまことの平和は、御子イエスさまの十字架の血によるものであることがわかります。まず、神さまとの和解、これこそが私たちのうちに、まことの平和を保つための道です。イエスさまの十字架の血によって神さまと和解させられたどうしが、同じ神さまを見上げ、そのことによってひとつにさせられるのです。  しかし、これは頭でわかっているだけでは不十分です。それではただ単に「平和を愛する者」という、平凡なレベルで終わってしまいます。神さまが私たちに望んでいらっしゃるのは、「平和をつくり出す者」となることです。  そういう「平和をつくり出す者」が「神の子と呼ばれる」、これはどういうことでしょうか? まず、「神の子」とは、本来、イエスさまです。私たちは被造物ではありますが、本来の私たちの姿を考えてみますと、「罪人」でこそあれ、イエスさまと同じレベルでの「神の子」と呼ぶのは、無理があります。創造主と被造物ほどのちがいがあります。まさしく、天と地のちがいです。そのような被造物は、イエスさまのような意味での「神の子」ではありえません。  しかし、そのような罪人であった私たちは、イエスさまを受け入れることにより、神さまの子どもにしていただきました。神さまの子どもとして、イエスさまとともに来たるべき御国を受け継ぎ、御国の王とならせていただく約束をいただきました。私たちはそういうわけで、イエスさまを受け入れている以上、「神の子」にしていただいているのです。 そのようにして私たちは「神の子」にしていただいたわけですが、問題はそんな私たちが「神の子」と呼ばれるにふさわしいかどうかです。  もし、イエスさまを受け入れたクリスチャンであることをもって自任していたとしても、その人がとても証しにならない生活をしていたとしたらどうでしょうか? そういう人のことを私たちは、「神の子」と呼びたいと思うでしょうか?   とは申しましても、それならば、と、逆に私たちが証しを立てる生活をすることに集中したとして、そんな私たちのことを「神の子」と呼んでくれる人が、いったいどれくらいいるでしょうか? 私たちはこうして地上でクリスチャンとしての生活をしていて、いろいろな素晴らしいクリスチャンのうわさを見聞きすると思いますが、そういう素晴らしいクリスチャンのことを、私たちは臆面もなく「神の子」と呼んだりするでしょうか?  とすると、「神の子と呼ばれる」ということは、単純な呼称の問題ではないことがわかります。要は、神の子と呼ばれるにふさわしいだけの、行いの実を結んでいるかどうかということが大事なわけです。  そこで、その基準となるものは何か、ということになります。それが「平和をつくり出しているかどうか」ということです。  さきほども申しましたが、神さまの御目から見ての平和とは、イエスさまの十字架の血によることです。そうなると、まずは自分自身がイエスさまの十字架の血による罪の赦しをいただいて、神さまと和解させられる、すなわち神さまとの平和へと導き入れられることが必要となります。  そこから、平和をつくり出すのです。神さまがイエスさまの十字架によってつくり出してくださった平和をもって、今度は自分が人々と平和をつくり出すのです。  こういう前提で私たちのキリスト信仰を見てみると、武力のようなもので異民族や異教の人々を制圧することでキリストを伝えようとする試みは、何ら意味を持たないことになります。もちろん、武力によってキリストを伝えようとする試みの結果、摂理のようにしてキリストが伝わるということもなきにしもあらずではあるのですが、私たちはそれを一般的なものととらえてはなりません。私たちからキリストが伝わるのは、どこまでも、私たちにとっての平和をつくり出す努力から生まれるものであるべきです。  しかしこうなると、異教の人たちですとか、社会主義の人たちですとか、イエスさまをとおして神さまに至る道を認めない人たちとの間に平和を保つにはどうすればいい、という、難しい問題に私たちは出くわします。異教という点でいえば、多くの日本人にとって、私たちのキリスト信仰は異教のように映ることでしょう。私たちの隣人というミクロの関係から、世界の国や民族というマクロの関係に至るまで、少なくとも私たちひとりひとりは、どうすれば平和をつくり出すことができるでしょうか?  私たちは、ことばだけでキリストを伝えようとしてはだめです。おそらく私たちがことばでキリストを伝えようとするならば、多くの人は、私たちに対して、というよりもキリストに対して、反発心をいだくしかないでしょう。それは、自分の信じている神ですとか、自分の持っている主義がいちばんと考えているからです。 私たちはそういう人たちに対し、こちらが正しい、などと、頭ごなしに神さまを伝えることをしても反発を招くだけです。  そこで私たちは、イエスさまのおっしゃっているみことばに耳を傾ける必要があります。マタイの福音書、5章13節から16節です。  この時代の塩というものは、岩塩です。石の中から塩気のある必要な部分を削り取ったら、あとはただの石です。役に立たないから、道端に捨てるしかありません。塩は、腐敗を止める働きをします。また、食べ物に味をつけます。ヨブ記にもありますが、味のない食べ物は食べられない、まるで腐った食べ物のようだ、と語られています。それを食べられるようにするのが塩の役割です。これで食べ物は腐ることがなく、人の栄養になります。  腐る、という点では、罪人たちの生きるこの世も同様です。この腐敗を何とかするには、人が神さまのみことばに従って生きる以外にありません。塩は、大量に使わなくても、ほんのわずかで味付けをすることができ、また、腐敗を食い止めることができます。同じように、私たちクリスチャンはわずかの存在かもしれませんが、私たちがきちんと機能しているならば、この世は腐敗することがないのです。  そのように、世を腐敗させない生き方を、イエスさまはまた「あなたがたは世の光です」とも表現されました。ほんのわずかの光で、暗やみは明るくなります。その光を、私たちは升の下にわざわざ入れて生きることはありません。升の下に隠れて生活することは、謙遜なのでも奥ゆかしいのでもありません。御霊の与えてくださったともしびは、升の下に入れてしまったら消えてしまうのです。御霊を消してはなりません。私たちは、人々に見えるところにともしびを掲げ、煌々と照らすことが求められています。  その、光を輝かせる生き方は、私たちの生き方を通じて、私たちの主でいらっしゃる天の父なる神さまの御名を、私たちの周りの人々がほめたたえるという形で実を結んでしかるべきです。ここに、私たちの信仰が、行いという形で実を結ぶ必要性が出てきます。  間違ってはならないことですが、私たちの救いは、よい行いや宗教的な行為といった、なんらかの行いで手に入れるものではありません。私たちは何一つ、神さまに認められるような行いなどできない存在です。それが、救っていただいたのは、ひとえに神さまの一方的なあわれみによるものです。救いにおいて、私たちの行いの差し挟まれる余地などありません。  しかし、救っていただいたならば、私たちは神さまとの関係に生きる者に変えられました。私たちが生活の中で実を結ぶべき良い行いを、神さまご自身が私たちひとりひとりのために備えてくださいました。私たちは神さまとの関係を深めれば深めるほど、このよい行いの実を生活の中で結びたいと切に願うようになり、そのために祈るようになります。 そうして、神さまはその祈りに応えてくださり、少しずつ、よい行いが生活の中で結ばれていくようになります。これは、救ってくださった神さまを証しする生活となります。  そういう私たちの最もよい行い、それは何でしょうか? それは、普段のよい行いのうちに、人々を神さまと和解させるべく、つまり神さまとの平和に導き入れるべく、イエスさまを伝えることです。これは、牧師ですとか、宣教師といった、特別なフルタイムの働き人でなければできないことではありません。  よい行いをすることに、特に召命があるはずがありません。私たちがよくない生活におぼれているならば、それは私たちを救ってくださった神さまの栄光にならないことであり、人々の前で神さまの光を輝かせていることにはなりません。そういう生き方をあえて止めずにいるようなことは、私たちにはできないでしょう。  だから私たちは、みことばの教えをその生活をもって飾るべく、みこころにかなったよい行いを目指していきます。しかしその生活の究極の目的は何でしょうか? 私たちのように生きたい、と願う人が、周りに現れるように、証しの生活を立てることではないでしょうか?  それなら私たちは、ほんとうの意味で人々の間にキリストの平和をつくり出すべく、取り組んでいく必要があるはずです。みことばをお読みいただければと思います。ペテロの手紙第一、3章の13節から16節です。  ……そうです。よい行いをもって、私たちの救いの確かさを立証することが勧められています。柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって……私たちが信じていることがまことであることは事実ですが、だからといって、むりやり上から目線で、さあ、信じなさい、と迫るのではありません。相手をどこまでも尊重して、へりくだって、仕えるように……私たちクリスチャンは、いつでも敵対する人たちに取り囲まれています。しかし、彼らは、なぜ私たちのことを敵対する存在と見なすべきか、わからないのがほんとうのところです。なぜ私たちがそんなにも嫌うべき存在なのか、説明しようにもできないのです。  そういう人には、私たちの信じているお方がどんなに素晴らしいお方か、へりくだってきちんと説明するならば、必ずわかってもらえるのです。いえ、その場ではすぐにわかってくれないかもしれませんが、みことばの約束は、わかってくれる、というものです。私たちはわからずやの相手を前にして、涙とともにみことばの種を蒔きつづけ、それが無駄なことのように思えてならないかもしれませんが、私たちの思いと、みことばの約束と、どちらが真実でしょうか? 私たちにはできるのです。私たちは、平和の福音を宣べ伝えることによって、私たちの周りに平和をつくり出していくことが、必ずできます。あきらめないでいただきたいのです。  もちろん、この「弁明できる用意」が整うためには、私たちは相当にみことばを学ぶ必要があるでしょう。時には、提示する上で必要なみことばを暗唱することも必須です。 しかし、私たちのうちにイエスさまがおられる以上、私たちは必ずできる、と信じていただきたいのです。賜物はそれぞれでしょう。福音を提示するための賜物も、それぞれの個性に合わせていろいろであるかもしれません。しかし、福音を提示すること、すなわち伝道すること自体は、賜物ではありません。クリスチャンである以上、必ずすべきことです。というより、御霊の働きによって、必ずできることです。  私たちはそのようにして、人々を神さまと和解させる、平和へと導く働きをしていくことによって、神の子なるイエスさまがわがうちに働いていると言えるにふさわしい生き方をしていけるようになります。みなさん、平和をつくり出す者として、用いられたいですか? 反戦活動も素晴らしいでしょう。身の周りの仲が悪かった人と仲直りすることも必要でしょう。しかし何よりも私たちにとって必要なことは、人々を神さまとの平和へと導く、そのようにして平和をつくり出す働きをしていくことです。そのために私たちは、日々みことばを学び、祈りつつ備えてまいりましょう。この積み重ねが、この世界にまことの平和を実現する一歩となります。  もちろん、それは簡単な歩みではありません。表面的にだけイエスさまを信じさせたところで、世界がどうやって平和に満たされるでしょうか? 平和をつくる歩みは、私たちの生活が根本から変えられるところから始まり、そこから、周りの人たちの歩みがもろとも変えられていくことによって成し遂げられます。そこには多くの人の反対があるでしょう。また抵抗にあうでしょう。しかし、私たちはあきらめてはなりません。あきらめずに神との平和を保ち、その平和によって人を神との平和に導く人には、大いなる祝福があります。  私たちは、だれのことを神さまとの和解に導きたいでしょうか? ともに祈りましょう

八つの幸いその六 

聖書箇所;マタイの福音書5章8節 メッセージ題目;八つの幸いその六 心のきよい者  心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。  私たちは、神さまを肉眼で見ることはできません。では私たちは、神さまを見ることができないからと、あきらめる必要があるのでしょうか? そんなことはありません。私たちはこの世に生きながらも、神さまを目の前にしているごとく生きることができます。  そして実際に、神さまを目で見ながら生きていた人たちがいました。それは誰でしょうか? 新約聖書の最初の部分、四つの福音書に登場する、イエスさまの時代に生きた人たちでした。イエスさまは、受肉した創造主なる神さまでいらっしゃいます。イエスさまを見た人は、神さまを見たのです。  しかし、それでも、当時の宗教指導者たちをはじめ、このお方が神さまの御子であることがわからなかった者たちが大部分でした。彼らは神を見たのではなかったでしょうか? しかし、そうではなかったのです。「見る」と「見える」は、似ていますが決して同じものではありません。彼らにはイエスさまが「見えて」はいても、決してイエスさまを見ることで神さまを「見て」はいなかったのです。  ここに、「心がきよいかどうか」ということが問題になってきます。もし、心がきよければ、人はイエスさまの弟子たちや目の開かれた盲人、サマリアの女性のように、イエスさまを見ることで神さまを見ることができます。しかし、心がきよくなければ、そこにイエスさまがともにおられようと、どんなにお近くにおられようと、人は神さまを見ることなど決してできないのです。イエスさまを十字架につけた人たちなど、その典型といえるでしょう。  彼ら宗教指導者たちは宗教生活においては、もしかしたら非の打ちどころのない者たちだったかもしれません。しかしそんな彼らは、イエスさまを見ていても、それが神さまを見ていることだと分かりませんでした。つまりは、心がきよくなかったのです。より正確に言えば、どんなに宗教生活に打ち込もうと、それを心のきよさとして神さまに認めていただけなかったのです。  それはこんにちの私たちにとっても同じでしょう。私たちは父なる神さまはもとより、イエスさまも目で見ることができません。ときどき、イエスさまの絵を壁に飾る人がいますが、あれはイメージであって、あの絵をイエスさまそのものとして拝んでいるわけではありません。父なる神さまもイエスさまも、心の目で見るのみです。しかし私たちは、心の目で主が見えたならば、それで満足するものですし、また、満足すべきです。それ以上のことを望む必要はありません。  そういうわけで、私たちはいまこの世に生きていながらも、「神を見る」ことができます。だが、そのための絶対条件として、私たちは「心がきよい」必要があります。それでは、聖書の語る「心がきよい」とは、どのようなことでしょうか? 私たちはどうすれば、その「心のきよさ」を身に着けることができますでしょうか? ともに見てまいりましょう。  この「きよい」ということばは、清潔、という意味とともに、混じりけのない、という意味です。旧約聖書の士師記に、ギデオンの招集した軍隊が、3万2000人、1万人、そしてわずか300人とえり分けられ、そのわずか300人で主がイスラエルに勝利をもたらしてくださったという、あのできごとのように、まことに主の栄光が顕されるためには、必要とされるものはわずかであり、必要ではないものはふるい落とされるのです。  私たちの生活においてもそうです。私たちはみことばに照らして見てみると、なんと多くの不必要なものに囲まれて生きていることでしょうか。どれだけ多くのよくない習慣、よくない言動のせいで、神さまを見えなくさせてしまっていることでしょうか。  あの、イエスさまが足を踏み入れられたエルサレム神殿は、いけにえの動物を売る者や両替商などの、商売の場と化していました。こんなことでどうやって神さまにお祈りをささげることができるでしょうか。イエスさまは彼ら商売をする者どもを追い出されました。「宮きよめ」と呼ばれるものです。 きよめというものは、あらゆる分野で必要です。きれいではないことをお語りするようで恐縮ですが、このメッセージの準備をしていたまさにそのとき、わが家にはバキュームカーが来ていました。浄化槽の汲み取り作業にいらしていただいていたのでした。この浄化槽にきたないものがたまったままだと、やがてたいへんなことになります。 不純なものを取り除いていただく必要があるのは、私たちも同じです。そのようにして不純物を取り除いていただくことによって、私たちは神さまを見せていただくことができるようになります。本来私たちは、神さまと交わりの持てる存在として創造されました。神さまがいまも私たちを生かしてくださっていることからも、それは明らかです。神さまはいつでも私たちのそばにおられます。しかし私たちは罪の不純物があまりにも多いので、すぐそばにおられる神さまを見ることができなくなっていました。それを、不必要なものをことごとく取り除いていただくことで、実は神さまというお方は私たちから遠く離れた所におられる方ではなく、すぐそばにおられるお方だということを、私たちは知ることができるのです。 それでは、神さまを見る生活というものは、神を見ない生活に比べてちがいが現れるものでしょうか? そのとおりです。ちがいが現れます。というより、ちがいが現れてしかるべきです。ヤコブの手紙1章26節と27節をお読みください。 この箇所は、聖書全体には珍しく「宗教」ということばが用いられています。私たちは、神さまとともに歩む私たちの生活に「宗教」ということばはそぐわないと、日ごろ感じていらっしゃるのではないでしょうか? 私もそうです。「私は、キリスト教という宗教を信じています」などという言い方は、なるべくならばしたくありません。学生時代私は、学科の先輩たちと街を歩いていたとき、占い屋さんが店を出しているのを見て、先輩の一人が冗談半分に言いました。「あ、占い屋さんだ! 武井君も占ってもらいなよ。」私はこう言いました。「いえ、私はクリスチャンですから、占いはやらないんです。」すると、先輩はこう言いました。「えーっ! 武井君、キリスト教を信じているの!?」……私、この先輩のことばに、ちょっと違和感を覚えたものでした。私は、キリストを信じている、より正確に言えば、キリストと交わりを持っているのであって、キリスト教という「いち宗教」を信じているように言われるのは心外でした。みなさんにもそのような経験はありませんでしょうか? しかし、ヤコブの手紙を見てみますと、たしかに「宗教」と書いてあります。これは、キリスト信仰をかなり客観化した表現といえるでしょう。つまり、自分たちではなく、他者から私たちがどうみられるか、ということです。自分たちがなんと考えようと、世の基準から見れば私たちは「宗教」です。 そのように、私たちのキリスト信仰が「宗教」という次元で評価される場合、その評価の基準は、私たちの言動や、生活ということになります。「自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら」とあります。ことばや心がキリスト信仰にふさわしくなく、けがれたままなのに、まるで自分がひとかどの信仰者のごとく振る舞うならば、そのような人は宗教的に見てむなしい、というわけです。 それでは、どのような人が宗教者としてふさわしいのか? 27節にあるように、困窮している人に助けの手を差し伸べる形で実践の実を結び、またその一方で、この世とは一線を引く生き方をすることで自分をきよく守ることであると語ります。 心の問題でいえば、自分の中から不必要なものを取り除いていただくだけではなく、それ以上不必要なものを心の中に入れないことであるというわけです。心の中から不必要なものを取り除いていただいても、また以前のように不必要なものを取り込んでしまうならば、元の木阿弥です。心を守る必要があります。より正確に言えば、聖霊なる神さまに心を守っていただく必要があります。 また、きよい宗教、つまり客観的に見ても証しを立てていると認められるキリスト信仰は、孤児ややもめたちが困っているときに世話をすることであると語ります。このみことばが語られた当時のキリスト者は、とても困窮していた人たちでした。さまざまな試練や迫害に遭っている人たちでした。それでも、さらに困窮している人たちに手を差し伸べることこそまことの証しを立てることであると勧められているのです。 私たちを含め、こんにちの教会は、その当時に比べてはるかに余裕があるはずです。そして、被災地の教会や、迫害に遭っている海外の兄弟姉妹のことを考えてみましょう。私たちは恵まれています。そんな私たちは、困窮している人たちに対し、いったいどれほどの関心をいだいていることでしょうか? いえ、百歩譲って、私たちがどうしてもそういう困窮した人たちのところに行けないとしても、そういう人たちのために日夜骨折っている主にある兄弟姉妹のことを、どれほど覚えて祈り、支えていることでしょうか? このように申し上げている私こそが、まず悔い改めます。そして、愛するみなさんにも、このことを真剣に考えていただきたいのです。 私たちが毎日ディボーションを行うことは、生活の中で具体的にみことばを行うことへと実を結んでしかるべきです。その中でも、先週学んだように、あわれみを施す行いへと実を結んでこそ、私たちにとっての日々の主との交わりは意味のあるものとなります。 同じヤコブの手紙に書かれていることですが、着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているような人がいたとして、そういう人に、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要なものを与えないならば何の役に立つか、そう警告するみことばが出てきます。 こういうことを、クリスチャンはよくやっているのではないでしょうか? 兄弟姉妹に関する悪いニュースに接しても、大丈夫だ、神さまが何とかしてくださる、とは言うものの、自分では何もしない、何もしてあげない。 こういう点でも、私たちの心のきよさが問われます。私たちはそのような人たちを前にしても、心は少しは動くかもしれないが、持てるものを提供しようともしないで、神さまに丸投げするようなことを口にして、自分には信仰があるように振る舞う……しかしそれでは、私たちはほんとうの意味で心がきよいわけではない、したがって、イエスさまのおっしゃっているおことばに従えば、神さまが見えていないことになります。 しかし、このようなみことばをお読みすると、私たちはとても心が刺されないでしょうか? 結局、自分は何もやっていないではないか、あわれみなどことばだけのものでしかないではないか、ああ、ほんとうは、神さまが見えていないのか……! そうお思いになって、がっかりしていらっしゃいませんでしょうか? では、ここで、イエスさまのお語りになったみことばを見てみましょう。ルカの福音書、18章の9節から14節です。 パリサイ人は宗教的に見ると、とてもすごい人でした。神さまのみこころを損なうような悪いことをしないだけではありません。断食という点でも、十分の一を納めるという点でも、怠りなく行なっている、宗教的に見ても完璧です。 しかし、神さまがお聞きになったのは、こういうお祈りではありませんでした。取税人……いわば、存在そのものが罪そのもの、というべき、ユダヤの宗教社会のとんだ鼻つまみ者です。彼は、ただひたすらにあわれみを求めました。神さまが聞いてくださったのは、この取税人の祈りの方だったのです。 ヤコブの手紙がそう言っているから、と、形だけであわれみを示すような行動を取ったところで、神さまはすべてお見通しです。施しをはじめ、あらゆる宗教的な行為を、神さまのあわれみを求める手段とするならば、このパリサイ人のように、自分の行いを義とする罠にはまってしまいます。 そうではないのです。私たちはそもそも、よい行いなど何ひとつできるような存在ではありません。困窮している人に施しをすることなど、なおさらのことです。しかし、私たちがそのような自己中心の罪人であることを認めるとき、そこから神さまのあわれみの御手は私たちに伸ばされていきます。私たちは真の意味で悔い改めに導かれ、私たちの心の中にある不必要なもの、神さまを見させなくしている罪深い性質は取り除かれていきます。 取税人が、存在そのものが罪人と見なされていたように、私たちも存在そのものが罪そのものです。私たちはそのことを認めることができるでしょうか? 私たちはまだ、自分はまだ大丈夫だと思っていないでしょうか? とんでもないことです。私たちはイエスさまがいなければ、生きていけない存在です。私たちは恵みの中で、そのことに気づかせていただいた存在です。そんな私たちのすることは、イエスさまにすがること、これだけです。 イエスさまはそのようにしてすがる私たちのことを、決して遠ざけることをなさらないお方です。私たちの切なるお祈りを聞いてくださいます。私たちをまことの悔い改めに導き、私たちの心を余計なものからきよめてくださいます。 こうして私たちは、神を見るという、最高の祝福にあずかれるようになります。そこから私たちは、混じりけない思いで、主のみこころにかなう行いの実を結んでいけるようになります。 私たちは神さまが見たいと切望するときがあるのではないでしょうか? そのようなとき、私たちがともに神さまを見る祝福をいただくことができますように、ともにお祈りしていただきたいのです。ともに神さまを仰ぎ見る共同体として、私たちの教会がますます成長していきますように、そこから、神さまを見る者としてふさわしい、みこころにかなった行いの実が結ばれて行きますように、主の御名によってお祈りいたします。

八つの幸いその5

聖書本文;マタイの福音書5:7 メッセージ題目;八つの幸いその5 あわれみ深い者 「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」 私たちは「あわれみ」というと、どのようなイメージを持ちますでしょうか? なにかかわいそうな人や動物がいると、それを見てかわいそうに思う……そんなところでしょうか? 生類憐みの令、とか。しかし、人間も動物も一緒くたにしてこの「あわれみ」ということばを使うと、何やら「上から目線」のようないやらしさを感じたりはしないでしょうか? しかし、私たちは聖書をしっかりお読みして、そのような「上から目線」的で偉そうな「あわれみ」のイメージから自由になる必要があります。 何よりも、あわれみとは、神さまに満ち満ちているご性質です。神さまが神さまであるゆえんの、欠かすべからざる神さまのご性質とさえ言えるもの、それが「あわれみ」です。 それゆえに、人に「愛」があることが大事なことであるように、「あわれみ」があることも大事なことになります。 あわれみ深ければ、あわれみを受ける……あわれみを受けるということは、それだけ神の目が注がれるということであり、それは祝福です。ということは、さばくならばどうなるでしょうか? さばかれる、ということにならないでしょうか? そういう、神さまと人、人と人との関係を端的に現したみことばがありますので、ちょっとお開きいただければと思います。マタイの福音書、18章21節から34節です。 あの有名な「七の七十倍」とイエスさまがおっしゃった箇所と、そのたとえ話です。ペテロは、信仰の兄弟が自分に対して罪を犯した場合、何回まで赦すべきでしょうか、7回まででしょうか、とお尋ねしています。これは、教会の中で罪が犯された場合にいかに対処すべきか、ということをイエスさまがおっしゃった、そのおことばを受けてのものです。 教会は決して大きな群れではありません。信者同士が濃密な人間関係を構築します。そのような中で、何度となく同じ人物どうしでトラブルが起こることは、充分に予測できることです。7度まで赦すべきでしょうか、というペテロのことばはけっして大げさではなく、充分にあり得ること、と考えていいと思います。 しかし、それに対してイエスさまがおっしゃったこと、それは、7回までとは言いません。七回を七十倍するまでです、ということでした。 「ペテロは口あんぐり……」、千代崎秀雄先生という牧師先生が、ペテロの反応を想像してそう描写されましたが、イエスさまはすごいことをおっしゃいました。 7を70倍、といっても、それは490回赦せ、それ以上はいけない、ということではありません。聖書の完全数7にさらに完全数7の十倍の70をかけたということで、「かぎりなく赦しなさい、完全に赦しなさい」、という意味です。 でも、私たちはもう、こういうお話を聞くと、絶望的になりませんか? 私たちはだれしも、心のどこかで完全に赦せない人というものがいるはずでしょう。いなかったとしたらその人は天使です。まことに、私たちは罪人の姿で、神の前に立たせられます。 しかし、この点において、私たちはもう少し、イエスさまのおことばに耳を傾けてみたいと思います。 イエスさまは、この「赦し」について解き明かすために、ひとつの例話をお話しになります。23節……天の御国は、王である、と語っていらっしゃいます。イエスさまが王のたとえ話をなさるとき、それは例外なく、天の父なる神さまを指しています。神さまが天の御国! すごいことです。神さまのみこころにかなわないものはすべて「異物」であり、天の御国にはそぐわず、したがって入れないことになります。ただ、天のお父さまとひとつにしていただいた者だけが、天の御国に入れていただけることが、この短い表現からもわかります。 王さまの話に戻りますと、王さまは自分の家来と清算をしたいと思い、家来を呼びつけました。24節です。……一万タラントとは、欄外の脚注にありますが、1タラントが6000デナリです。1デナリは1日分の労賃です。仮に1デナリを10000円とすると、1タラントはその6000倍、10000タラントだからさらにその10000倍……円に直すとその額、6000億円! 気の遠くなるような話です。 王は、返済を命じました。持ち物はもちろん、妻も子も、自分自身も売って、金をつくれ、というわけです。もちろん、そんなことをしたところで到底埋められるような負債ではありません。しかし、主君に対して、せめてもの誠意を見せてみろ、というわけです。 しかし、それを実行に移すには、相当な努力と時間を必要とします。家来は、主君に、努力と時間をかけても必ずお返しすると、ひれ伏して誓いました。 そのとき、王さまの心はあわれみに満ちました。罪の償いをするために最大限の努力をすることをひれ伏して誓う者に対し、王はあわれみでいっぱいになったのでした。 これが、天のお父さまのみこころです。私たちは自分を創造してくださり、生かしてくださっている創造主なる神さまを認めず、自分勝手に生きる道を選びました。その罪は、それこそ慣用句を用いれば、万死に値する罪です。これは誇張や言い過ぎではありません。なぜならば、そうして罪の道を行くことで、人はいのちなる神さまから離れ、永遠に死ぬしかない道を行くようになったからです。 そのいのちの代価、ざっと10000タラント、一日の労賃というたとえを一日の生活と再解釈して計算すれば、10000タラントとは実に6000万日分の生活、それを棒に振って、死に至らしめたわけです。十何万年分の人生です。それがことごとく死に至ったのですから、まさしく「万死に値する」罪であり、決して言い過ぎではありません。 それを何とか努力によって埋め合わせしようとしたって、焼け石に水、なんでものではありません。何をどうしても不可能です。しかし心ある人は、それを何とか埋め合わせしようとします。がんばれるだけがんばります。しかし、だめなのです。 ここに、人が神のあわれみにすがるということが起こってくるのです。いかなる罪人も、その心の中に残るひとかけらの良心によって、神を求め、あわれみを求めます。アコーディオン奏者のcobaが以前「百万人の福音」誌のコラムで言っていたことですが、彼がかつて留学していたイタリアのベネチアでは、札付きの荒くれ者も日曜日になると威儀を正して教会に行くのだそうです。自分の悪さ、弱さをどうしようもできないと自覚する人こそ、神さまを求めるようになるということの証拠といえるのではないでしょうか。 人間はどんなに努力しても、罪が赦されるための埋め合わせはもはやできません。そんな人間を、神さまはあわれんでくださいます。。王の家来が何もかも売り払わなければならなくなるように、救われるためには努力をするだけしろ、などとおっしゃることは、もはやなさらないのです。完全に帳消しにしてくださいます。6000億円にもあたる負債を!  神さまはすごいお方です。私たち人間の背負った罪の代価が、そんな十何万年も生きてもなお返せないほど大きなものであると自覚するならば、私たちは絶望します。それを完全に帳消し、まったくなかったことにしてくださるとは、いやはや、神さまはなんとすごいお方なのでしょうか! 神の御子イエスさまは十字架によって、そのように私たちのあらゆる罪を、ことごとく赦してくださいました。 さて、イエスさまの話には続きがあります。28節です。……100デナリといったら、100万円くらいでしょう。ちょっと高いですが、6000億円に比べればなんということのないお金です。だが家来は、このお金に目がくらんで、仲間の首を絞めて、「借金を返せ」と迫りました。首を絞めるなんて穏やかではありません。返さないといのちはないものと思え、とでもいうような恐ろしい態度です。 仲間は、少し待ってくれれば必ず返します、と懇願しました。しかし家来は承知しませんでした。彼が借金を返すまで、牢獄に放り込んだ、とあります。 しかし、ほんとうのところ、牢獄に放り込まれれば、いったいどうやって働けるでしょうか? 借金を返すことができるでしょうか? ということは、牢獄からは出られないのです。つまりこれは、なにがなんでも絶対に赦さない、ということです。これが、さばきというものの冷酷さです。 そしてこのような、この期に及んでの自己中心も、罪人の姿ということができます。自分は負い目を完全に帳消しにしてもらったのに、人の負い目にはどこまでも不寛容……あわれみがないということは、かくも罪深く、醜いことです。 しかし、家来のこのような行動は、主君の知るところとなりました。主君は言いました。32節から33節です。……わたしがおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。 ほんとうに、神のあわれみというものを体験しているならば、神のご性質であるあわれみというものが身に着いていてしかるべきである、そうなっていない者は、神の国にふさわしくありません。放り出され、暗やみで泣いて歯ぎしりします。10000タラントの借金を返すまで、つまり十何万年分の労働の対価の分、働くことも許されないで牢獄に入れられます。赦されることなどもはや不可能です。 ここまでみことばを読むと、私たちはさらなる絶望に打ちのめされはしないでしょうか? ああ、私は神さまに赦されているはずなのに、まだ心から兄弟姉妹を赦していない! もう自分は赦されないのか! そこで、私たちのその罪の負債をもう一度数えてみましょう。10000タラントの負債のために獄に入れられているのですから、やはり負債を返すしかありません。しかし、人間的な方法では何をどうしてもだめです。すると、できる方法はただ一つしかありません!……神さまのあわれみにすがるのです。 いえ、兄弟を赦さないという罪を犯した者を、神さまはもう赦さないはずではないか! そう思いますか? では、イエスさまはなぜ、7を70倍赦しなさいとおっしゃったのでしょうか? それは神さまが、7を70倍するまで赦してくださるお方だからです。神さまのあわれみは、7を70倍赦すという、その究極の赦しという形で実を結んでいます。 人が赦せないという罪を自覚したならば、神さまのもとに行くことです。いや、どんな罪を犯したとしても、神さまのもとに行くことです。7を70倍赦してくださる神さまは、かぎりなく赦してくださいます。 あわれみ深い人は、あわれみを知る人です。自分の罪がどれだけひどいか、10000タラントの負債も返せないくせに100デナリの人の負債にはやたら目くじらを立てるような、どこまでもひどい自己中心の罪人か……そのように、自分に絶望しきる人です。だからこそ神さまのあわれみにすがり、そのあわれみがどんなに大きなものか、あふれんばかりに感謝に満たされる人です。そういう人は少しずつ、あわれみというものを身につけていくようになります。あわれみ深い人になっていきます。 しかし、そういう人は、自分の罪深さをよく自覚しています。だから神さまのあわれみになおいっそうすがります。神さまはそうして、あわれみ深い人を憐れんでくださるのです。こうして、あわれみ深い人はあわれみを受けるという、イエスさまのおことばのとおりのことが起こります。 私たちに、人を愛せるだけのなにものもない、人にあわれみを施せるだけの何ものもないと気づくとき、それは神さまの力をいただいて、あわれみ深い者へと変えられるというみこころへと一歩踏み出す、幸いな瞬間となります。 私たちはどんなとき、あわれみをいただきたいと願うものでしょうか? そのようなとき、神さまにあわれみを求める人は幸いです。神さまのあわれみに満たしていただき、あわれみ深いという、神さまのご性質に似た者と変えていただきます。この祝福をともにいただく私たちとなることができますように、お互いのため

八つの幸い その4

聖書箇所;マタイの福音書5章6節 メッセージ題目;八つの幸い その4 義に飢え渇く者  本日のみことばは、八つの幸い、八福の、四番目です。「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」ここでイエスさまは、義というものと、飢え渇くということの間に深い関係があることを語っていらっしゃいます。  正義、読んで字のごとく、「正しい義」です。それは、いったいだれがその基準を決めるのでしょうか。もし、人によってその基準が異なるならば、正義とは所詮、絶対的なものではない、相対的で不確かなものになってしまうしかありません。その絶対的な基準言い切ることのできる存在は、絶対的に正しいお方、絶対的に義なるお方でいらっしゃる、創造主なる神さま以外にいらっしゃいません。創造主なる神さまが絶対的な正義、義でいらっしゃるゆえに、正義とは何か、義とは何かということを、唯一お定めになることができるのです。  この義にかなっていることで、私たちははじめて、人の間に存在するとされている義というものがふさわしいかどうかということを判断することができます。もう、リベンジということばが日本に定着して長くなりましたが、もしそのリベンジなるものをする理由が神の義に合致したものではないならば、それは単なる意趣返し、自分の留飲を下げるための仕返しでしかありません。 私たちクリスチャンが第一に求めるべきは、「神の国とその義」であると、イエスさまは語られました。第一といったら第一です。私たちは毎日のお祈りの中で、いろいろなことを祈っているようですが、いったい私たちは、「神の国」、つまり神さまが王として君臨され、統べ治める御国、と、「その義」、つまり王なる神さまのまことの正しさが、私たちがいま現実に生きているこの世界に実現するようにということを、どれくらい祈っていることでしょうか? そう考えると、私たちの祈ることはあまりにも、余計なこと、自分中心なことばかりだということに気づきはしないでしょうか?  もちろん、病気の人がいやされるように祈ること、いま困難を覚えている人たちのために祈ることは、必要なことですし、だいじなことです。そういうお祈りを余計だとか、自己中心だとか言っているのではありません。しかし、ではなぜそういうお祈りが必要なのでしょうか? それは、そのお祈りを神さまが聞いてくださることによって、神さまがその御国とその義を、私たちのうちに現わしてくださるからです。お祈りする動機はどこまでも神さまにあるのであって、私たち人間の事情にはないことに注意しましょう。  私たちはこの、神の国、神の義が実現されることに、飢え渇いているでしょうか? 私たちがもし、この世と調子を合わせ、この世に染まって生きているならば、神さまのみこころがこの世に実現されることに、それほどの飢え渇きを覚えないで生きていくことになるでしょう。しかし、そのような生き方は神さまに喜ばれるものではありません。  飢え渇くということ、特に、渇くということは、イエスさまご自身が幾たびか経験されたことです。その記述はヨハネの福音書に複数回出てきます。どれもだいじなみことばです。見てまいりましょう。お開きにならなくてもいいですが、ヨハネの福音書の4章でサマリアの愛に飢え渇いた女性にイエスさまがお近づきになったとき、まずイエスさまがおっしゃったことは、水を飲ませてください、ということでした。それは、旅の途中で、のどの渇きを覚えていらっしゃったからということですが、それ以上に、この女性を神の愛に満たしたい思いに満ちていらっしゃったからでした。彼女は、イエスさまに出会うことで、もはや人目を避けて生きるような生き方をやめ、人々に救い主イエスさまを伝えて回るように変えられました。  そのように、人を神さまに出会わせ、人を救いに導く、新しい使命に生きるようにさせる……イエスさまはこの神のみこころをおこなうことに、飢え渇いていらっしゃったのでした。  イエスさまはまた、このようなことも言っていらっしゃいます。ヨハネの福音書7章37節と38節です。……人のほんとうの渇きを潤してくださるお方は、イエスさまだけだということです。そして、その渇きを潤すほんとうのあまつ真清水は、聖霊なる神さまである、聖霊なる神さまが信じるその人を、内側からあふれ出て、潤してくださるということです。  イエスさまがこの「八つの幸い」の教えの中で、「義に飢え渇いている人は幸いです」とお語りになったのはなぜでしょうか? それは、このようにイエスさまのもとに集まってきた群衆にとっての飢え渇きの本質、ひいては人間だれしも持っている飢え渇きの本質というものが、神の義に対する飢え渇きであることを喝破していらっしゃるからではないでしょうか?  イエスさまはそのような者たちに、渇く者よ、私のもとに来て飲みなさい、とおっしゃっています。イエスさまは誰よりも、不当な苦しみを受けられたお方です。あらゆる試みに会われたお方です。そのようなイエスさまは、私たちの味方でいてくださいます。私たちはイエスさまによって、この義に飢え渇いてどうにもならない、人として本質的に持っている飢え渇きを潤していただき、いやしていただけます。  そしてさらに、イエスさまが十字架の上で語られたみことばにも注目しましょう。ヨハネの福音書、19章28節です。  イエスさまが「わたしは渇く」とおっしゃったのは、汗と血が全身から流れ、脱水状態になられたからです。そのような極限の苦しみの中におられたイエスさまは、しかし、そのような肉体的な渇きもさることながら、もうひとつの霊的な飢え渇きを覚えていらっしゃいました。それは、父なる神さまのみこころが成し遂げられることに対する飢え渇きです。   しかし果たして、そのように「わたしは渇く」とおっしゃった、イエスさまを待ち受けていたものは、最後の苦しみでした。ぶどう酒です。しかし、これはイエスさまがかつてカナの婚宴で人々に飲んで楽しみなさいと提供されたような、よいぶどう酒ではありません。「酸いぶどう酒」と書かれていますが、どういうぶどう酒でしょうか? 口語訳という、1950年代に出た古い訳の聖書では、このぶどう酒を「酢っぱいぶどう酒」と訳し、その「すっぱい」の「す」は、「お酢」の「酢」の漢字が充ててあります。そう、まさにこれは「酢」だったのです。こんなものを脱水症状にある者が飲んだら、大変なことになります。壮絶な苦しみが待っています。しかしイエスさまは、人を罪から贖うために極限まで苦しむという、その杯を最後まで飲み干すため、十字架の上であえて最後まで苦しみを受けることを選ばれました。  そしてイエスさまがこのように苦しみに導くぶどう酒を受けられたのは、旧約聖書のみことばが成就するためでした。詩篇69篇21節をご覧ください。……敵対する者がどれほど人を痛めつけることか! その苦しみを、これでもか、と歌う詩篇は、実はイエスさまの受難を預言したものでした。イエスさまを苦しめる者たちは、イエスさまが極限の渇きを覚えているところに、さらなる苦しみを与えました。そうです、渇く者をみもとに招いてくださったイエスさまこそが、いちばん渇いていらっしゃったのです。  義に飢え渇く私たちは満ち足ります。なぜでしょうか? そのような者たちのためにだれよりも、イエスさまが渇いてくださり、その者たちの渇きに寄り添ってくださったからです。神さま、いつまでですか! あなたさまはこの地に正義を行わないで、黙っていらっしゃるのですか! 私たちは時に叫びたくなるでしょう。そのような私たちは、義に飢え渇いています。しかし、そのような者たちを、イエスさまは潤してくださるのです。満ち足らせてくださるのです。  渇いているならば私のものに来て飲みなさい。そのようにして、イエスさまのもとに来て飲ませていただく天の真清水とは、御霊であるとみことばは語ります。私たちは御霊をいただいて、この不確かな世界、有限な世界において、無限な天の御国の祝福にあずからせていただくのです。私たちは御霊によって、天のお父さまのみこころ、イエスさまのみこころを知らせていただきます。私たちは御霊によって、導きをいただきます。私たちは御霊によって、慰めをいただきます。  しかし、何よりも御霊なる神さまは、私たちに神の義を示してくださるゆえに、すばらしいお方です。それは、イエスさまご自身がおっしゃったことです。ヨハネの福音書、16章の7節から11節をお読みします。  ちょっと難しさを覚える表現かもしれませんので、若干の解説を加えさせていただきますと、9節、御霊さまが世に対し、罪について誤りを認めさせるということが、世の人がイエスさまを信じないこととなぜ関係があるかというと、世の人は、罪というものを決めるお方が、イエスさまであることを受入れないからです。イエスさまは救い主でいらっしゃいますが、世の終わりにはさばき主としてこの地に再び来られます。そのことを知っていたならば、イエスさまを十字架にかけるなどということは、到底彼らはできなかったはずです。しかしイエスさまが実は罪を定め、さばきをなさるお方だということを、御霊なる神さまは私たちに認めさせ、イエスさまの権威のもとにひれ伏すように導いてくださいます。  10節、そのものずばり、今日のみことばで扱っている「義」についてですが、イエスさまは十字架にかかられ、復活し、天に昇られて、もはや目で見ることができなくなります。今はちょうどその時代です。このことを説き聞かされている弟子たちのように、イエスさまのそばにいる人たちならば、イエスさまを見れば、御父の義というものをストレートに知ることができました。イエスさまご自身がおっしゃったとおり、「わたしと父とは一つです」、また、「わたしを見た者は、父を見たのです」とおっしゃったとおりです。しかし、イエスさまが天に昇られて見えなくなったら、神の義をいったい誰が教えてくれるのでしょうか? でも、心配はいりません。御霊なる神さまが、私たちといつでもともにいてくださり、義なる神さまを指し示してくださいます。  さらに、さばきです。この世を支配する者が「さばかれた」とイエスさまは語ります。この世の終わりにさばかれる以前に、すでにこの世のはじめに「さばかれて」いるのです。このことを示すお方は、聖霊なる神さまです。 聖霊なる神さまは、さばきの基準として、神の義をはっきりと示してくださいます。世の者たちは、その神の義を示すお方としてのイエスさま、聖霊なる神さまを正しく認めません。しかし、神さまに特別な恵みによってえらばれた者たちには、聖霊なる神さまは特別な神の義を啓示してくださるのです。  私たちは何が正義、より正確に言えば、神の義であるかということを、いつでも教えていただけます。私たちはこの神の義がこの地上で行われるように飢え渇くならば、まず自分こそが神の義を行えるように導いていただけます。  私たちはこの世にどんな神の義がなされることを待望していますでしょうか? その義がなされるために、私たちはどんなアクションを具体的に起こす必要があると考えるべきでしょうか? 少し考えていただきたいのです。そして、その考えをともに分かち合い、ともにこの地に神の義を実現するものとして用いられ、私たちが本来抱えている渇きが満たされるように、聖霊なる神さまに導いていただきましょう。私たちの渇きは癒されます。アーメン。

八つの幸い その3

聖書箇所;マタイの福音書5章5節 メッセージ題目;八つの幸い その3 ―柔和な者―  「八つの幸い」シリーズも、3回目となりました。この「八つの幸い」の教えは、専門的な用語では「八福の教え」といいます。福は、祝福の「福」です。「残り物には福がある」なんて言いますが、日本人は「福」というものを擬人化して縁起物にしたりします。あの「お多福」なんてそうです。「お多福」を、縮めて「福」などと呼んだりします。  聖書もまた「福」を語ります。この「八福の教え」も、「幸いです」という箇所は、韓国語の聖書では「福あり」と表現します。しかし、日本人が一般的に考える「福」と、聖書の語る「福」は、必ずしも同じものではありません。普通ならば、いやな思いをするとか、苦しむとか、そういうことを「福」の反対と考えるでしょう。しかし聖書は、人はしばしばそういうマイナスの状態に置かれながらも、それでも誰にも奪えない祝福、喜びを体験するという意味のことを語ります。  先週学んだのは「悲しむ者は幸いです」というみことばです。先週のメッセージに補足しますと、この「悲しむ」ということばは、ギリシャ語の表現においては最大級の悲しみを意味します。聖書の原語であるギリシャ語では、悲しみというものはいくつもの段階に分けて表現します。日本語では同じ「悲しみ」でも、ギリシャ語の原典を見れば、その悲しみがどの程度のものかわかるわけです。この、イエスさまの語られた「悲しむ者は幸いです」の「悲しむ」は、最大級の悲しみというわけです。  私たちは何をとても悲しむのでしょうか? 自分のどうしようもない罪深さです。なぜ、罪を悲しむ必要があるのでしょうか? 罪があるままでは、神のみもとに行くことができないからです。神さまに受け入れていただけないからです。しかし神の御子イエスさまは、そのような私たちのことを受け入れてくださいました。私たちの身代わりに十字架にかかってくださり、罪を赦してくださいました。私たちはもはや、罪人ではありません。イエスさまは、罪に悲しんでいた私たちの、その罪に泣いた涙をぬぐってくださり、慰めてくださいます。それゆえに、悲しむ者は幸いなのです。イエスさまだけが与えてくださる、ほんものの慰めを与えていただけるのです。  さあ、それでは、本日のみことばにまいりましょう。イエスさまの三番目のおことばです。「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」「幸福(さいわひ)なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん。」  素晴らしいおことばです。イエスさまのもとに馳せ参じた群衆は、土地のような財産などこの地上に持っていない人たちばかりだったことでしょう。しかし、そのように生活のただ中で自分の貧しさを思い知るしかなかったような彼らに、もし柔和ならば地を受け継ぎます、とイエスさまは約束してくださったのです。彼ら群衆はどれほど慰められたことでしょうか! そうか! 私たちも柔和ならば、地を受け継ぐのか!  さて、そうなりますと、私たちは2つのことを知る必要があります。聖書の語る柔和とは何か? 柔和な人が受け継ぐ「地」とは何か? この2つです。  その2つのものを知るために、まずその前提として、旧約聖書の詩篇のみことばから学んでおきたいと思います。  イエスさまのこのみことばは、イスラエルのたましいともいうべき、旧約聖書の詩篇のみことばを、そのまま語っておられるみことばです。実際に見てみましょう。詩篇37篇です。詩篇37篇は、主に信頼する者と、悪しき者とを対照的に描写した、40節にもわたるやや長い詩です。長いのですべてを細かくは扱いませんが、悪しき者は祝福されず、やがて滅びることを繰り返し述べています。  では、主に信頼する者、すなわち主の側につく者はどうなのでしょうか? 3節から6節をお読みします。……主に信頼し、お従いするならば、主が必ずその人の心の願いをかなえ、成し遂げてくださる、その義、すなわちその主にある正しさを、主の栄光をもって輝かせてくださることを、約束しています。  しかし、願いが叶うまで、私たちはしばらくの忍耐を必要とします。主につく者たちがこの世の底辺で耐え忍んでいる間、神さまに従わない悪しき者が、まるでこの世の祝福を謳歌しているかのように、することなすこと何もかも成功しているのを、私たちは見るようになります。しかしそれでも、私たちはそのような者たちに憤ったり、腹を立てたりしてはならないと、7節、8節のみことばは戒めます。 なぜ、腹を立てるべきではないのでしょうか? それは、やがてその悪しき者はこの地から断ち切られ、主を待ち望む者たちが地を受け継ぐからだと、続く9節は語ります。そして、彼ら悪しき者はいずれこの地から一掃されると、続く10節は語ります。そして11節。ご注目ください。ここに、イエスさまのお語りになったみことばが書かれています。イエスさまの予表とも言えたダビデがこのように語り、それからおよそ1000年のときを経て、イエスさまはこのみことばをお語りになり、また、実現してくださったのでした。 その前提で、イエスさまのお語りになった「地」というものが何かを考えてみましょう。私たちクリスチャンは、この地上で何も持たないようでも、実はすべてのものを持って生きていることに、気づいていますでしょうか? 全能なるイエスさまがともにいらっしゃる、イエスさまが私たちのお祈りをみな聞いてくださるということは、そういうことです。私たちが特に求めないから、すべてのものを持っていること、あたえられていることを意識していないだけです。 いや、私は求めたよ! でも、与えられませんでした! そんなことをおっしゃる方もおられるかもしれません。しかしそれは、神さまがあなたを愛していらっしゃるから、今それを与えたらあなたが神さまから離れ、永遠のいのちの喜びを味わえなくなってしまってはいけない、と、神さまが親心を働かせてくださったからかもしれません。神さまがもし、私たちにほんとうに必要と願っていらっしゃるものならば、それがたとえどんなものであろうとも、イエスさまの御名によってお祈りするならば、与えてくださるのです。 私たちは究極的には、死んでこの地上でのいのちが終わるか、イエスさまが再びこの地上にいらしてこの世が終わるかして、天国に入れられることで、ほんとうの意味で「地を受け継ぎ」ます。天国こそが、私たちの受け継ぐほんとうの地です。 それでは、私たちが現にいま生きているこの地というものを、私たちはどう理解すべきでしょうか? この地、この世は神さまがお造りになり、愛をもって導いていらっしゃる、かけがえのない存在です。しかし、この地に住む人は大多数が、この創造主を認めず、自分勝手な罪の道を歩んでいます。私たちはそのような人々を憐れみこそすれ、けっして、彼らと同じような歩みをして、神さまのみこころを損なうような道に行ってはいけません。私たちは彼らに対し、むしろよい行いをもってキリストの救いのともしびを掲げ、ひとりでも永遠のいのちに導けるようにお祈りする必要があります。私たちにとって実に、この地は、私たちが天国に入るためのまたとない練習の場所と考えるべきでしょう。 そういうわけで、私たちが受け継ぐ「地」は、この世という目に見える「地」の延長線上にある、永遠の天国です。イエスさまを信じたら天国に入れるからと、この世の生活をおろそかにしてはなりません。実に、キリストの語られる「柔和な人」は、この地上において全能なる神さまのご支配を実際に体験し、いついかなるときでも神さまを表して生きるようになる、すばらしい生き方をしてまいります。 さあ、そこで、いよいよ、そのような「地を受け継ぐ人」の条件である、「柔和な者」とはどういう人かを、以下学んでまいりましょう。 日本語で「柔和」というと、ご年配の方は七福神のえべっさんのようなニコニコ顔を連想されるかもしれません。では、聖書の語る「柔和」は何でしょうか? それを知るにはやはり、聖書原語のギリシャ語の意味も合わせて考えるとよろしいです。 まず、ことばそのものの意味からまいりますと、この「柔和な」ということばのギリシャ語、「プラウス」ということばは、「温和な」とか「温順な」という意味です。英語では「ミーク」とか「ジェントル」と訳しています。  しかし、ある英語の訳の聖書を見ると「ハンブル」とあります。「謙遜な」です。つまり、温和、温順であるのと同時に、謙遜であるわけです。ということは、いくら顔がにこにこしていても、腹の中ではどす黒かったりするならば、それは聖書の語る「柔和」とは違うことになります。  聖書は、イエスさまが柔和な方であると語ります。それはイエスさまがこの地上に来られるはるか以前の預言に、すでに語られていたことです。その預言の成就として、イエスさまが立派な馬ではなく、みすぼらしい子ろばに乗ってエルサレムに入城されたわけですが、そのイエスさまのことをそのみことばは「柔和な方」と表現しています。  イエスさまは、ご自身が人々に何をしてくださると語ってくださいましたか? マタイの福音書11章28節から30節をお読みしましょう。……そう、ここでイエスさまは、ご自身は柔和でへりくだっていると語られました。いかにもわたしは神の子だ! さあ、ひれ伏せ! などという態度をとるお方では決してなかったのです。疲れた人、重荷を負った人のことをよく理解し、その苦しさ、つらさに寄り添ってくださるのです。  そんなあなたがたは、わたしの柔和さ、また謙遜に学べば、たましいに安らぎを得て、その苦しみから解放されますよ、と、イエスさまは約束してくださっています。教会という場所で執り行われる礼拝が、その主要な要素として「聖書のお勉強」をする理由が、ここにあります。聖書を学ぶことで人よりもお利口になったと威張るためではありません。日常生活で人から負わされたあらゆるくびき、世のしがらみから、イエスさまのみことばによって解放していただくために、私たちはみことばから学ぶのです。  そこで私たちは、イエスさまの持っておられた柔和さの実態を、よく知る必要があります。  十二弟子を訓練し、この世に神の国を拡大する跡継ぎを育てておられたイエスさまが柔和だったというとき、私たちはその柔和というものが、いわゆる軟弱だったということとは違うことがわかります。弟子たちにふさわしくない点があるならば容赦なく叱り飛ばされました。時には「下がれ、サタン!」などという、震え上がるようなことさえ弟子に向かっておっしゃいました。それでもイエスさまは柔和だったのでしょうか?  あるいは、パリサイ人や祭司のような宗教指導者たちに対しては、わざわいだ、と、口を極めてののしり、なぜそうののしるのか、彼らの落ち度を具体的にひとつひとつ挙げていかれたこともありました。彼らの発言を取り上げて、それは聖霊をけがすという、永遠に赦されない罪を犯したのだ、と、一刀両断に断罪されたこともありました。それでもイエスさまは柔和だったのでしょうか?  はたまた、エルサレム神殿で動物のいけにえを売ったり献金のための両替をしたりすることで儲けている者たちの、その腰掛や陳列台をひっくり返して彼らを神殿から追い出すなど、大暴れをなさったこともありました。それでもイエスさまは柔和だったのでしょうか?  答えはすべて「イエス」。柔和です。  なぜならば、イエスさまという、神の知恵、神のみこころが受肉してこの世に実現されたお方は、本質的に柔和なお方であると、聖書が語るからです。  ない知恵をしぼる、ということばがありますが、人間はいくら知恵を尽くしても、神の前ではその知恵はないも同然です。イエスさまというお方を通して、神の知恵を教えていただく以外に、私たちはまことの神の知恵を得ることはできないのです。イエスさまというお方から学べば、私たちは神の知恵に到達できます。なぜならば、イエスさまは神の知恵そのものでいらっしゃるからです。  上なる神の御許から下られたイエスさまがどのようなお方かを示しているのが、ヤコブの手紙1章17節のみことばです。……ここに「協調性」ということばが書かれています。ということは、協調性というものが神の知恵であるということになりますが、イエスさまは、人の罪深さに合わせて協調性を発揮なさるお方では決してありません。罪人を理解こそすれ、協調されることなど、決してありえないことです。 それでは、イエスさまの協調された対象は何でしょうか? この「協調性」ということばは、以前の訳の聖書では「温順」と書かれていました。新共同訳では「従順」です。「順」ということばは「従う」という意味があります。そう、イエスさまは、父なる神さまに従順に従われたのです。  御父への従順。イエスさまが語られたときに厳しいおことば、時に荒々しく映る行動は、すべてこれで理解できます。  従順の「従」という字は、「柔らかい」という字を書くこともできます。柔らかく従うのです。御父のおっしゃることは何でもお従いする。御父のみこころだから、イエスさまはいのちをかけて、私たちのことを愛してくださいました。御父のみこころだから、イエスさまはみこころを曲げる者たちには容赦なさいませんでした。御父のみこころだから、イエスさまはどんなにつらくても十字架を背負ってくださいました。  私たちがイエスさまから学ぶべきは、この御父に従順にお従いする上での柔和さです。その御父に対する柔和さを学ぶならば、私たちはたましいに安らぎを得させていただけます。 みことばの語ることに頑なにならず、柔らかく従えるならば、神さまは私たちに、ご自身が王であられる御国を任せてくださいます。どこの王さまが、王様の権威も認めず、命令も聞かないで自分勝手に振る舞う家来のことを信頼して仕事を任せたり、褒美をやったりするでしょうか。 私たちも同じことです。神さまを王様として、おっしゃることには何でも従順にお従いして、みこころの命じるとおりにこの世に愛を示し、よい行いを施していくことで、人々が神さまの御名をほめたたえるようにしていくならば、神さまは私たちに、御国を任せてくださいます。  顔はにこにこしていても腹の中では何を考えているかわからなかったり、軟弱だったりするのを、これからは柔和と呼ばないようにしましょう。柔和ということはどこまでも、神さまとの関係の中で語られるべきものです。 時にその歩みは、神さまに従わない悪い者たちの一時(いっとき)の栄えを眺めさせられて、腹を立てたくなるような、不当な忍耐に満ちたものとなるかもしれません。しかし、そんな私たちのために、御父のみこころに従順に従って十字架を背負ってくださったイエスさまの、その従順を思いましょう。私たちも御父のみこころに従順に従うならば、主は必ず、この世において、そしてのちの世においてはなおさら、だれにも奪えない祝福を与えてくださいます。私たちがみな、この祝福をともに戴くことができますように、主の御名によってお祈りいたします。

八つの幸い その2

聖書箇所:マタイの福音書5章4節 メッセージ題目「八つの幸い その2」   先週から、イエスさまが山上の垂訓において語ってくださった、「八つの幸い」を学びはじめました。山上の垂訓、それは、イエスさまのみ教えのハイライトとも言うべき内容です。四福音書において、これほど長くイエスさまの説教を収録した箇所は、このマタイの福音書5章から7章のほかにありません。この箇所を学ぶと、イエスさまのみ教えの、いわば神髄を学ぶことになります。そういうわけで、とても大事な箇所、それがこの「山上の垂訓」です。  その「山上の垂訓」……その初めの箇所が、この「八つの幸い」をお語りになる箇所です。先週はその第一のことば、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」というみことばから学びました。 神さまによって人が心の貧しさを悟らされるならば、その人は悲しみます。そして、みこころ豊かな神さまに立ち帰り、その神さまの御国に入れていただき、神さまの民として日々祈り、みことばから学ぶことによって、心貧しい者から少しずつ、心豊かな者に変えていただきます。 さあ、それでは今日は、2番目のことば、「悲しむ者は幸いです」というみことばから学びましょう。 先日私は、娘の通う小学校に行く用事がありました。通されたのは、おそらくは何らかの障がいを持った子どもたちが通うカーペット敷きの教室でした。その壁に、何やら面白いポスターが貼ってありました。「今日のきみはどんな気分?」と書いてあり、実に30種類近くの顔の表情を模したマンガタッチの丸が縦横に並んでいます。その丸にはいちいち解説は書いてありませんが、それぞれの丸のいろいろな表情は、たとえば笑っていたり、怒っていたり、泣いていたりします。でも、同じ笑っているのでも、にっこりしているのがあるかと思えば、微笑を浮かべているのもあります。ニカッと笑うのもあれば、豪快に大口あけて笑っているのがあったりします。表情がさまざまです。しかしこの細かく分かれた表情の丸い絵をどれか指し示せれば、自分がどんな気持ちになっているのかが、口でことばにできなくても伝えることができるわけです。よくできたポスターだと思いました。 表情というものは不思議です。眺めているだけで、その気持ちがわかりますし、その表情を浮かべた人に共感したり、反発したりします。気持ちよく笑う人のそばにはいたいでしょう。怒っている人のそばにはいたくないでしょう。では、悲しんでいる人だったら、どうでしょうか? 悲しいということは、人であればできるならばだれも体験したくないことです。自分も悲しみたくないのももちろんです。そしてまた、人が悲しむのも見たくありません。  だれも、悲しみたくないのです。それに、悲しませたくないのです。それなのにこの世界は、悲しませるできごとばかりに満ちています。家族の中にも悲しみを抱えている人もいるでしょう。あるいは学校、あるいは職場かもしれません。日本や世界に目を転じても、子どもの虐待や紛争のニュースが新聞やテレビの画面を賑わし、私たちは悲しい思いをします。悲しみたくないのに、世の中は人を悲しませるできごとにあふれています。  人が悲しむということは、イエスさまの活動された時代においても例外ではありませんでした。イエスさまの教えを聴きにやってきた人たちは、みなが悲しむ人たちでした。その悲しさをどうしようもできなくて、イエスさまのもとにやってきた人たちでした。  イエスさまは、そんな彼らをご覧になり、口を開いて語られました。「ああ! 幸いなるかな! 悲しむ者!」  イエスさまは、今悲しみのただ中にいてどうしようもできないでいる彼らをご覧になり、感動に打ち震えて、ああ、幸いなるかな! とおっしゃったのでした。  なぜ、彼らは幸いなのか? それは、慰められるからだと、イエスさまはおっしゃいます。  なによ、それ、当然じゃない! 悲しんでいる人を慰めてあげるのは当り前よ! そういう反論が返ってきそうです。でも、ほんとうにそうでしょうか?  私たちは悲しんでも、慰められることのとても少ない世界に生きています。さきほど、悲しいニュースに接する私たちの姿を語りましたが、そんなとき、果たして誰が私たちを慰めてくれるのでしょうか? あるいは、普段の生活の中で悲しむことがあるとき、果たして誰が私たちを慰めてくれるのでしょうか? あるいは、このような私たちを慰めてくれる人やことばが、あるいはあるかもしれません。しかしそれらはたいていの場合、気休めでしかなく、根本的な慰めを与えてくれることばなどわずかでしかありません。  それでは、私たちはどうすれば慰められるのでしょうか? その前に、私たちはいったい、なぜ悲しむのかを、聖書のみことばを通して少し学んでみたいと思います。  初代教会の使徒パウロは、悲しみというものを、「神のみこころに沿った悲しみ」と、「世の悲しみ」の二つに分けています。神のみこころに沿った悲しみであるならば、後悔のない、救いに至る悔い改めを生むが、世の悲しみは死をもたらすと語ります。パウロがこのことばを語ったのは、ギリシャの港湾都市コリントの信徒たちに対してでした。使徒パウロはこのコリント教会を、手紙を書き送ることによって指導しました。こんにち聖書には、コリント人への手紙第一と第二の、2つの書簡が収録されていますが、その2つの書簡をよく読むと、パウロが教会の聖徒の間に存在しうる悲しみというものを取り扱っていることがよくわかります。  まず、コリント人への手紙第一、4章18節から5章2節をお読みします。……パウロが心血注いで育てた教会は、パウロがしばらく宣教旅行に集中して留守にしているのをいいことに、みことばに外れ、好き放題のことをしていました。  「現に聞くところによれば……それは、異邦人の間にもないほどの淫らな行いで、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。」などとあります。キリストのからだなる教会にあるまじき、とんでもないことです。いかにも荒くれ者の多い港湾都市コリントの教会らしくはありますが、ことは教会です。どこに位置する教会だろうと、みことばに照らして許されないものは許されません。このような罪が教会の中に横行していることを、悲しみなさい、私は思い上がっているあなたがたのところに行きますよ、と、パウロは一喝しています。  そこでまず、悲しむということは、「罪を悲しむ」ことといえます。ああ、私たちはきよくあるべきだったのに、なんとけがれていることか! 主が願っていらっしゃるふさわしい愛の姿から、なんと離れ去っていることか!  イエスさまのメッセージを聴きに集まってきた人たちは、一様に悲しんでいました。彼らは宗教指導者たちの教える高すぎる基準に合致していない自分たちの姿をいやというほど思い知らされ、打ちひしがれる日々を過ごしていました。自分は神の御前に罪人だ! 悲しい! しかし、どうしようもできない!  そうです。悲しむということは第一に、自分の罪深さ、無力さ、至らなさを悲しむものです。  このままでは自分の力で状況を変えられない、そのことに気づかされて、私たちは茫然となって悲しみます。しかし、自分の罪深さを悲しむことばかりは、なかなか難しいものです。私たちは、本来受けるべき愛を受けられなかったりするならば悲しむ、まあそれは当然でしょう。しかし、自分の罪深さを悲しむ人が、いったいどれくらいいるでしょうか?  その点で、当時のユダヤの宗教社会の底辺に置かれた民衆は、かえって恵まれていたのかもしれません。彼らは宗教社会の構造上、自分のことを罪に定めるメッセージばかり聞かされていました。自分の罪深さを悲しんでばかりいました。そんな彼らがイエスさまに慰めを求めたのは、当然のことと言えましたが、恵みとも言えなかったでしょうか?  話をコリント教会のならず者信者に戻しますと、彼らは自分の罪深さを悲しむ必要がありました。しかし、そのような彼ら自身が悲しむ前に、悲しみの涙を流していた人がいました。それは、彼らを指導していたパウロ自身です。第一の手紙からあとにパウロがコリント教会に書き送った第二の手紙には、こんなくだりがあります。1章23節から2章7節までをお読みします。  パウロは結局、コリント教会の信徒たちの信仰を信頼して、コリント教会を訪問することは控えました。その代わりにしたことは、涙を流しながら彼らの悔い改めを促す手紙を書くことでした。パウロもまた、コリントに向けた自分の愛の至らなさを思って泣いたのです。しかしその結果、その罪を犯した人は悔い改めました。兄弟が悔い改めたならば、教会はその人を罪赦された人として受け入れ、その人を悲しみから救うべきと教えます。  この一連のことを、パウロは以下のように総括しています。同じコリント人への手紙第二の、7章の8節から10節です。  もし人が、罪を悲しみ段階で終わってしまうならば、それこそその人に救いはありません。聖書は私たちに、悔い改めよ、と説いていますが、それは、罪を悔いよ、という段階で終わるのではありません。くよくよ罪を悔いたところで、いったいその「悔い」を、どうしようというのでしょうか。  聖書の説く「悔い改め」は、そういうものではありません。一般社会でも「悔い改める」ということばは使いますが、聖書でいう「悔い改め」は、自分の罪を悲しむところから、その悲しみを完全に拭い去ってくださる方へと、方向転換することです。  その罪をぬぐい去ってくださったお方、それはイエスさまです。イエスさまは十字架の上で死んでくださり、私たちの罪の罰を身代わりになって受けてくださいました。そしてイエスさまは復活してくださいました。イエスさまの十字架の赦しを信じる私たちは、イエスさまの復活にあずからせていただきます。イエスさまが罪と死に勝利してくださったゆえに、私たちも罪に勝利し、死に勝利します。罪が完全に赦されます。過去の罪、現在の罪、未来の罪が赦されます。そしてイエスさまが死に勝利してくださったゆえに、私たちも永遠に滅ぼされることはなく、天の御国に入れられて永遠のいのちをいただきます。  悔い改めとは、これほどまでに素晴らしいものです。とは言いましても私たちは、この悔い改めということばの「悔い」という字に、いくばくかの抵抗感を覚えたりはしないでしょうか? いやだなあ、と思ったりしないでしょうか?  しかしこれはしかたのないことです。私たちはまことの罪の赦し、まことのいのちを得るためには、どうしても、自分の罪に向き合い、その罪を悲しむ必要があるからです。罪を悲しむ者だけが、まことの赦しを得ることができます。  そうです。私たちは罪を悲しみますが、その罪がイエスさまによって赦されることを体験するならば、それはまことのいのち、永遠のいのちにつながることであり、私たちはともに喜びます。それは大きな慰めとなります。イエスさまご自身が、私たちのことを慰めてくださるのです。  しかし、もし、罪を悲しもうとも、ほんとうの意味でイエスさまに立ち帰ることをしないならば、その罪の赦しを私たちは体験することなく、死んだままの状態に留め置かれます。私たちはですから、まことのいのちを得るためにも、罪を赦してくださるお方、イエスさまに立ち帰る必要があります。  また、私たちはしばしば、例えば教会のような、自分の所属する共同体の中に、罪の行いがはびこるのを見て、悲しみます。しかし、みなが悔い改めに導かれ、その罪が取り扱われるのを体験するならば、私たちの悲しみは喜びに変えていただけます。  私たちはいま、悲しんでいますでしょうか? その悲しみを私たちは、だれによって慰めてもらおうとしていますでしょうか? イエスさまだけが、私たちの悲しみをほんとうの意味で取り除いてくださり、まことの慰めをくださいます。  私たちが自分の罪を悲しむことは、むしろ恵みです。もし自分に罪があるならば、思いきり悲しみましょう。悔い改めの涙を与えていただきましょう。そのように悲しむ者は幸いです。イエスさまに、思いきり慰めていただけるからです。 そのようにして私たちのうちに慰めが増し加わり、人々にまことの悔い改めを促していける私たちとなることができますように、主の御名によってお祈りいたします。

八つの幸い その1

聖書箇所:マタイの福音書5章3節 メッセージ題目「八つの幸い その1」 八つの幸い……今日はその一番目、「心の貧しい者は幸いです」からまいります。イエスさまのお語りになった数々のおことばの中でも、有名なことばです。むかしから日本で読み継がれてきた文語訳の聖書では、「幸福(さいわひ)なるかな、心の貧しき者」と表現しています。幸いなるかな! このおことばをお語りになるとき、イエスさまは「口を開かれた」と、わざわざ直前の節、2節に書いてあります。そう、イエスさまは群衆を前にして、「ああ、幸いなるかな!」と、お口を開かれ、感激に満ちてこのみことばを語りはじめられたのでした。  群衆はイエスさまのそばに、ほうぼうから集まってきました。きわめて遠方からでも、イエスさまがおられるところに行って、直接イエスさまの教えをいただこうとしたのです。 この、むかしの人の情熱はすごいものがあります。しかし、彼らを「偉い」とか「素晴らしい信仰者だ」とほめることで済ますのは早とちりかもしれません。  というのは、彼らは当時の宗教指導者たちによって、がんじがらめにその生活が縛られ、自分を罪人扱いしながらとても苦しく生きていた人たちだったからです。しかし、イエスさまはそのような、上から目線で偉そうに語る宗教指導者たちとは違いました。イエスさまは宗教指導者たちがどんなに頑張っても身に着けることのできない、神の権威に満たされて語っていらっしゃいました。イエスさまに出会うことは、父なる神さまに出会うことだった……イエスさまのメッセージを聴きに集まってきた人たちは、そのことを本能的に感じていました。そしてまことの神さまは、負いきれない重荷を人に負わせるお方ではなく、むしろその重荷から人を解放して、自由をお与えてくださるお方であることを、イエスさまによって教えていただき、彼らはまことの解放を得ようとしたのでした。 みなさん、心が貧しい、と聞くと、どういうイメージをお持ちになりますでしょうか? もしかしたら、これは悪口と思うかもしれません。やさしくない人、けちな人、意地悪な人……そういう、心に温かさや豊かさのない人を指して「心の貧しい人」といってそしるかもしれません。しかし、「心の貧しさ」は、そうやって他人によって測られるものではありません。心の貧しさというものは、自分で自覚するものです。  私たちは、ときにみことばをお読みするとき、そのみことばに照らして、自分の至らなさ、醜さ、けがれといったものを自覚させられます。あるいはお祈りをしているときに、そう自覚させられるかもしれません。そうでなくても、人と会話するときに気づかされたりとか、何気ない日常生活を送ったりする中にあって、私たちのそのような欠けを思わされるものです。心が豊かではないのです。貧しいのです。  ああ、私はなんてやさしくないんだ! 私はなんて愛がないんだ! 豊かな愛に満ちあふれた神さまに出会うとき、私たちはいやでも、自分の心がいかに貧しいかを悟らされます。  私たちはよく、あなたは愛されるために生まれた、ということばを好みます。実際、そのように歌う賛美の歌が、日本や韓国の教会で人気です。 しかしほんとうのことを言えば、私たちは「愛されたい」のではなく、「愛したい」のではないでしょうか? なぜでしょうか? なぜかというと、神さまは愛だからです。そして、私たちは神さまのかたちに創造されたからです。愛することをみことばとみわざで示された神さまの似姿に造られた私たちは、愛を語り、愛の行動を実行したいのです。 しかしとても残念なことに、私たちは愛し方がわかりません。何がほんとうの愛なのかが、教えられることのほとんどないまま、ただ流されるように、自己中心の人にあふれたこの世界を生きていかざるを得ない存在です。そのようにして私たちもいつしか自己中心に生きることが当たり前のように思わされ、人を愛するより、人に愛されたいと願い、それがかなわないで見当はずれの飢え渇きを覚え、そのひずみが生活のそこかしこに現れてしまうものです。 それでも私たちは、こうして神さまの御前に招かれている以上、そのような醜い者であるにもかかわらず、神さまに愛されています。神さまに選ばれています。私たちがどうあれ、神さまが愛してくださるのです。神さまがご自身の似姿にふさわしく、私たちをつくり変え、成長させてくださるのです。 その第一の段階として、神さまは私たちに、心の貧しさを教え、悟らせてくださるのです。あなたは確かに、心に貧しさを覚えて悲しんでいるかもしれない。しかし、そんなあなたのことを、わたしは愛しているよ。大好きだよ。……神さまは招いていてくださるのです。 そこで、3節の後半のことばに続きます。「天の御国はその人たちのものだからです。」心の貧しさを自覚するその人が、天の御国を「持つ」のです。 天の御国、といいますと、私たちはすぐに、天国、というものを連想するでしょう。しかし私たちは果たして、天国というものをどのようにイメージしますでしょうか? むかし私は、教会に来ていた小学生に聞いてみましたところ「花がいっぱい咲いている」などという答えが返ってきましたが、私たちはこの地上に生きていると、死んだ後に行く天国というものを具体的にイメージすることが、難しいかもしれません。 しかしイエスさまはおっしゃいました。神の国はあなたがたのただ中にある。天国というものが、神さまがその中心で王座について統べ治める場所であるならば、天国を神の国と言い換えることができます。私たちはこの神の国というものを、死んだ後に行く場所と限定してよいのでしょうか? そうではありません。私たちはこの世に生きながら、神の国、すなわち天国を生きる者とされるのです。 そして、心の貧しい者が、この天の御国を「持つ」と、このみことばは語ります。 みなさんにお尋ねしたいのですが、みなさんは日本人、日本の国民、日本という国の住人です。しかしそんなみなさんは、この日本という国を「持っている」「所有している」と考えていますでしょうか? みなさんは自分のことを、日本という国のオーナーだと思いますか? 日本国憲法は確かに、「主権在民」「国民主権」を謳っています。しかし実際にそう実感している人は、この日本の中でもごくわずかではないかと思います。いかに自分たち国民に主権があると憲法で謳われようと、その主権を心から享受し、楽しんでいる自覚がないからです。 しかし、イエスさまのおっしゃる、「神の国はその人のもの」というみことばは、そのものずばり「オーナー」という意味です。うそっ! 神の国って天国でしょ!? 私が天国のオーナーだって!? まさかー! そうお思いになりますでしょうか? ところが、心の貧しい者が神の国のオーナーということは、合っているのです。どういうことかご説明します。 心の貧しさを神さまによって自覚させられた人には、ふたつの選択肢があります。ひとつは、そう自覚させられても神さまに向かわず、別の道を行くこと、もうひとつは、神さまに向かうことです。神さまに向かうならば、その人は幸いです。しかし聖書の宣言によれば、その人は自分の意志で神さまに向かったわけではありません。 神さまがその人の意志を動かして、神さまに向かうようにしてくださったのです。私たちの側から神さまを愛したのではなく、神さまの側から私たちのことを愛してくださったのです。 神さまが愛してくださった人は、どのような導きを受けるでしょうか? 神さまのひとり子、イエス・キリストをその心に信じ受け入れるように導かれます。私たちはイエス・キリストというお方を通して、父なる神さまに出会うことができます。どのようにしてイエスさまは、私たちが神さまに出会うようにしてくださったのでしょうか? 私たちには罪があります。たとえば、どんな人でも、嘘をついたことがないという人はおそらくいないでしょう。うそが悪いこととわかっていても、うそをつくのです。たとえ法律に違反していなくても、聖書はそのような私たちのことを「罪人」と呼びます。 たとえばここに、コップ一杯の水があります。もちろん、飲むためにここに置いてあります。しかし、だれかがこれに、たった一滴でも、きたないどぶの水を入れたとしたら、それを飲むことができるでしょうか? 神さまにとっては私たちも同じことです。私たちはどんなに自分がきれいでいるつもりでも、私たちは罪人です。神さまの側からすればきたない罪があります。それゆえに、神さまは私たちを受け入れることができないのです。 神さまはしかし、愛なるお方です。私たち人間を愛をもってお造りになりました。しかし、神さまは人間が罪あるままで受け入れることはおできになりません。神さまはきよいお方だからです。罪ある人間は、神さまととともに永遠のいのちを持つことは許されず、死ぬしかありません。 そこで神さまは、人が死んで滅びることのないように、ひとり子イエスさま、罪のない神の御子なるお方を私たち人間の住むこの地上に送られ、十字架にかけてくださり、私たち罪人が受けるべき罪の罰を代わりにイエスさまに負わせてくださいました。 その、イエスさまの赦しを信じ受け入れるならば、人は誰でも罪を赦していただけます。 それだけではありません。父なる神さまはイエスさまを死から復活させてくださいました。復活されたイエスさまは天に上られ、御父の右の座に永遠におられます。イエスさまはよみがえりです。いのちです。イエスさまを信じる人は永遠に生きるのです。 イエスさまを信じ受け入れ、罪赦され、永遠のいのちをいただいた私たちは、神の子としていただきます。聖書はそのような私たちのことを、御国の世継ぎと宣言しています。この世の終わりにおいて父なる神さまは、御子イエス・キリストに御国をお与えになります。そのとき、イエスさまを受け入れて神の子とされた私たちは、イエスさまとともに御国を受け継ぐのです。 そう、私たちもまた、神の国のオーナーなのです! なんともったいない恵みでしょうか! そして、なんと感謝なことでしょうか! 私たちはそのような立場にしていただいた者として、ひたすら神さまを畏れながら生きてまいりたいものです。私たちの生きる目的は、もはや自分を実現するためとか、自分を喜ばせるためとかであってはなりません。 神さまを喜ばせるため、神さまのご栄光を現すために、私たちは生きるのです。神の栄光、これが私たちの生きる目的です。だからこそ私たちはどんなときも、神の御前で徹底して生きるのです。この世に生きながらも、まるで天国に生きているように、私たちは天国の民としての自覚を持って、この世を生きるのです。 しかし、その永遠のいのち、天国の民としての生き方は、すべてが、神さまによって、自分が「心が貧しくて、もはやみこころ豊かな神さまに拠り頼まなければやっていけない」と自覚させられることから始まります。威張ったりとか、自慢したりとか、人に認められたいとか、そのような気持ちに支配されているうちは、なかなか心の貧しさを自覚して悲しむことは難しいものです。心の貧しさを自覚させられることは、神さまの一方的な恵みとあわれみによってはじめて可能になることです。 しかし、心の貧しさを悲しみ、嘆く、そんな私たちに対して、イエスさまのまなざしはどこまでもやさしいです。ああ、幸いなるかな! イエスさまはそんな私たちに向けて、感激に満ちたお声をかけてくださいます。 私たちも時に、自分の心の貧しさに茫然となります。なぜ自分には愛がないんだ! 落ち込みます。しかし、そのようなときこそ、神さまはそんな私たちを愛してくださいます。いつくしみ、あわれんでくださいます。大丈夫だよ、わたしはそんなあなたのことを赦している、受け入れている、あなたに愛をあげよう、心の豊かさをあげよう、恐れないで一歩を踏み出してごらん、わたしがあなたとともにいてあげるから……。 私たちは、これ以上自分自身に目を留めるべきではありません。自分の中から見えてくるものは、心の貧しさでしかありません。それでは落ち込むほかありません。私たちは、私たちを受け入れてくださった、神さまにこそ目を留めましょう。神さまはそのかぎりないみこころの豊かさによって、私たちの心を貧しさから救い、豊かにしてくださいます。私たちを神さまのみこころにかなった、愛にあふれる人に造り上げてくださいます。 私たち自身を省みてみましょう。私たちはいま、自分の愛のなさに落ち込んではいないでしょうか? 自分の足りなさをどうしようもできないで、もがいてはいないでしょうか? 神さまのもとにまいりましょう。神さまはそんな私たちのことを、どこまでもやさしく、受け入れてくださいます。さあ、いま、やさしい神さまのもとに帰りましょう。愛する人に変えられる、かけがえのない恵みを受けましょう。