八つの幸い その1

聖書箇所:マタイの福音書5章3節 メッセージ題目「八つの幸い その1」 八つの幸い……今日はその一番目、「心の貧しい者は幸いです」からまいります。イエスさまのお語りになった数々のおことばの中でも、有名なことばです。むかしから日本で読み継がれてきた文語訳の聖書では、「幸福(さいわひ)なるかな、心の貧しき者」と表現しています。幸いなるかな! このおことばをお語りになるとき、イエスさまは「口を開かれた」と、わざわざ直前の節、2節に書いてあります。そう、イエスさまは群衆を前にして、「ああ、幸いなるかな!」と、お口を開かれ、感激に満ちてこのみことばを語りはじめられたのでした。  群衆はイエスさまのそばに、ほうぼうから集まってきました。きわめて遠方からでも、イエスさまがおられるところに行って、直接イエスさまの教えをいただこうとしたのです。 この、むかしの人の情熱はすごいものがあります。しかし、彼らを「偉い」とか「素晴らしい信仰者だ」とほめることで済ますのは早とちりかもしれません。  というのは、彼らは当時の宗教指導者たちによって、がんじがらめにその生活が縛られ、自分を罪人扱いしながらとても苦しく生きていた人たちだったからです。しかし、イエスさまはそのような、上から目線で偉そうに語る宗教指導者たちとは違いました。イエスさまは宗教指導者たちがどんなに頑張っても身に着けることのできない、神の権威に満たされて語っていらっしゃいました。イエスさまに出会うことは、父なる神さまに出会うことだった……イエスさまのメッセージを聴きに集まってきた人たちは、そのことを本能的に感じていました。そしてまことの神さまは、負いきれない重荷を人に負わせるお方ではなく、むしろその重荷から人を解放して、自由をお与えてくださるお方であることを、イエスさまによって教えていただき、彼らはまことの解放を得ようとしたのでした。 みなさん、心が貧しい、と聞くと、どういうイメージをお持ちになりますでしょうか? もしかしたら、これは悪口と思うかもしれません。やさしくない人、けちな人、意地悪な人……そういう、心に温かさや豊かさのない人を指して「心の貧しい人」といってそしるかもしれません。しかし、「心の貧しさ」は、そうやって他人によって測られるものではありません。心の貧しさというものは、自分で自覚するものです。  私たちは、ときにみことばをお読みするとき、そのみことばに照らして、自分の至らなさ、醜さ、けがれといったものを自覚させられます。あるいはお祈りをしているときに、そう自覚させられるかもしれません。そうでなくても、人と会話するときに気づかされたりとか、何気ない日常生活を送ったりする中にあって、私たちのそのような欠けを思わされるものです。心が豊かではないのです。貧しいのです。  ああ、私はなんてやさしくないんだ! 私はなんて愛がないんだ! 豊かな愛に満ちあふれた神さまに出会うとき、私たちはいやでも、自分の心がいかに貧しいかを悟らされます。  私たちはよく、あなたは愛されるために生まれた、ということばを好みます。実際、そのように歌う賛美の歌が、日本や韓国の教会で人気です。 しかしほんとうのことを言えば、私たちは「愛されたい」のではなく、「愛したい」のではないでしょうか? なぜでしょうか? なぜかというと、神さまは愛だからです。そして、私たちは神さまのかたちに創造されたからです。愛することをみことばとみわざで示された神さまの似姿に造られた私たちは、愛を語り、愛の行動を実行したいのです。 しかしとても残念なことに、私たちは愛し方がわかりません。何がほんとうの愛なのかが、教えられることのほとんどないまま、ただ流されるように、自己中心の人にあふれたこの世界を生きていかざるを得ない存在です。そのようにして私たちもいつしか自己中心に生きることが当たり前のように思わされ、人を愛するより、人に愛されたいと願い、それがかなわないで見当はずれの飢え渇きを覚え、そのひずみが生活のそこかしこに現れてしまうものです。 それでも私たちは、こうして神さまの御前に招かれている以上、そのような醜い者であるにもかかわらず、神さまに愛されています。神さまに選ばれています。私たちがどうあれ、神さまが愛してくださるのです。神さまがご自身の似姿にふさわしく、私たちをつくり変え、成長させてくださるのです。 その第一の段階として、神さまは私たちに、心の貧しさを教え、悟らせてくださるのです。あなたは確かに、心に貧しさを覚えて悲しんでいるかもしれない。しかし、そんなあなたのことを、わたしは愛しているよ。大好きだよ。……神さまは招いていてくださるのです。 そこで、3節の後半のことばに続きます。「天の御国はその人たちのものだからです。」心の貧しさを自覚するその人が、天の御国を「持つ」のです。 天の御国、といいますと、私たちはすぐに、天国、というものを連想するでしょう。しかし私たちは果たして、天国というものをどのようにイメージしますでしょうか? むかし私は、教会に来ていた小学生に聞いてみましたところ「花がいっぱい咲いている」などという答えが返ってきましたが、私たちはこの地上に生きていると、死んだ後に行く天国というものを具体的にイメージすることが、難しいかもしれません。 しかしイエスさまはおっしゃいました。神の国はあなたがたのただ中にある。天国というものが、神さまがその中心で王座について統べ治める場所であるならば、天国を神の国と言い換えることができます。私たちはこの神の国というものを、死んだ後に行く場所と限定してよいのでしょうか? そうではありません。私たちはこの世に生きながら、神の国、すなわち天国を生きる者とされるのです。 そして、心の貧しい者が、この天の御国を「持つ」と、このみことばは語ります。 みなさんにお尋ねしたいのですが、みなさんは日本人、日本の国民、日本という国の住人です。しかしそんなみなさんは、この日本という国を「持っている」「所有している」と考えていますでしょうか? みなさんは自分のことを、日本という国のオーナーだと思いますか? 日本国憲法は確かに、「主権在民」「国民主権」を謳っています。しかし実際にそう実感している人は、この日本の中でもごくわずかではないかと思います。いかに自分たち国民に主権があると憲法で謳われようと、その主権を心から享受し、楽しんでいる自覚がないからです。 しかし、イエスさまのおっしゃる、「神の国はその人のもの」というみことばは、そのものずばり「オーナー」という意味です。うそっ! 神の国って天国でしょ!? 私が天国のオーナーだって!? まさかー! そうお思いになりますでしょうか? ところが、心の貧しい者が神の国のオーナーということは、合っているのです。どういうことかご説明します。 心の貧しさを神さまによって自覚させられた人には、ふたつの選択肢があります。ひとつは、そう自覚させられても神さまに向かわず、別の道を行くこと、もうひとつは、神さまに向かうことです。神さまに向かうならば、その人は幸いです。しかし聖書の宣言によれば、その人は自分の意志で神さまに向かったわけではありません。 神さまがその人の意志を動かして、神さまに向かうようにしてくださったのです。私たちの側から神さまを愛したのではなく、神さまの側から私たちのことを愛してくださったのです。 神さまが愛してくださった人は、どのような導きを受けるでしょうか? 神さまのひとり子、イエス・キリストをその心に信じ受け入れるように導かれます。私たちはイエス・キリストというお方を通して、父なる神さまに出会うことができます。どのようにしてイエスさまは、私たちが神さまに出会うようにしてくださったのでしょうか? 私たちには罪があります。たとえば、どんな人でも、嘘をついたことがないという人はおそらくいないでしょう。うそが悪いこととわかっていても、うそをつくのです。たとえ法律に違反していなくても、聖書はそのような私たちのことを「罪人」と呼びます。 たとえばここに、コップ一杯の水があります。もちろん、飲むためにここに置いてあります。しかし、だれかがこれに、たった一滴でも、きたないどぶの水を入れたとしたら、それを飲むことができるでしょうか? 神さまにとっては私たちも同じことです。私たちはどんなに自分がきれいでいるつもりでも、私たちは罪人です。神さまの側からすればきたない罪があります。それゆえに、神さまは私たちを受け入れることができないのです。 神さまはしかし、愛なるお方です。私たち人間を愛をもってお造りになりました。しかし、神さまは人間が罪あるままで受け入れることはおできになりません。神さまはきよいお方だからです。罪ある人間は、神さまととともに永遠のいのちを持つことは許されず、死ぬしかありません。 そこで神さまは、人が死んで滅びることのないように、ひとり子イエスさま、罪のない神の御子なるお方を私たち人間の住むこの地上に送られ、十字架にかけてくださり、私たち罪人が受けるべき罪の罰を代わりにイエスさまに負わせてくださいました。 その、イエスさまの赦しを信じ受け入れるならば、人は誰でも罪を赦していただけます。 それだけではありません。父なる神さまはイエスさまを死から復活させてくださいました。復活されたイエスさまは天に上られ、御父の右の座に永遠におられます。イエスさまはよみがえりです。いのちです。イエスさまを信じる人は永遠に生きるのです。 イエスさまを信じ受け入れ、罪赦され、永遠のいのちをいただいた私たちは、神の子としていただきます。聖書はそのような私たちのことを、御国の世継ぎと宣言しています。この世の終わりにおいて父なる神さまは、御子イエス・キリストに御国をお与えになります。そのとき、イエスさまを受け入れて神の子とされた私たちは、イエスさまとともに御国を受け継ぐのです。 そう、私たちもまた、神の国のオーナーなのです! なんともったいない恵みでしょうか! そして、なんと感謝なことでしょうか! 私たちはそのような立場にしていただいた者として、ひたすら神さまを畏れながら生きてまいりたいものです。私たちの生きる目的は、もはや自分を実現するためとか、自分を喜ばせるためとかであってはなりません。 神さまを喜ばせるため、神さまのご栄光を現すために、私たちは生きるのです。神の栄光、これが私たちの生きる目的です。だからこそ私たちはどんなときも、神の御前で徹底して生きるのです。この世に生きながらも、まるで天国に生きているように、私たちは天国の民としての自覚を持って、この世を生きるのです。 しかし、その永遠のいのち、天国の民としての生き方は、すべてが、神さまによって、自分が「心が貧しくて、もはやみこころ豊かな神さまに拠り頼まなければやっていけない」と自覚させられることから始まります。威張ったりとか、自慢したりとか、人に認められたいとか、そのような気持ちに支配されているうちは、なかなか心の貧しさを自覚して悲しむことは難しいものです。心の貧しさを自覚させられることは、神さまの一方的な恵みとあわれみによってはじめて可能になることです。 しかし、心の貧しさを悲しみ、嘆く、そんな私たちに対して、イエスさまのまなざしはどこまでもやさしいです。ああ、幸いなるかな! イエスさまはそんな私たちに向けて、感激に満ちたお声をかけてくださいます。 私たちも時に、自分の心の貧しさに茫然となります。なぜ自分には愛がないんだ! 落ち込みます。しかし、そのようなときこそ、神さまはそんな私たちを愛してくださいます。いつくしみ、あわれんでくださいます。大丈夫だよ、わたしはそんなあなたのことを赦している、受け入れている、あなたに愛をあげよう、心の豊かさをあげよう、恐れないで一歩を踏み出してごらん、わたしがあなたとともにいてあげるから……。 私たちは、これ以上自分自身に目を留めるべきではありません。自分の中から見えてくるものは、心の貧しさでしかありません。それでは落ち込むほかありません。私たちは、私たちを受け入れてくださった、神さまにこそ目を留めましょう。神さまはそのかぎりないみこころの豊かさによって、私たちの心を貧しさから救い、豊かにしてくださいます。私たちを神さまのみこころにかなった、愛にあふれる人に造り上げてくださいます。 私たち自身を省みてみましょう。私たちはいま、自分の愛のなさに落ち込んではいないでしょうか? 自分の足りなさをどうしようもできないで、もがいてはいないでしょうか? 神さまのもとにまいりましょう。神さまはそんな私たちのことを、どこまでもやさしく、受け入れてくださいます。さあ、いま、やさしい神さまのもとに帰りましょう。愛する人に変えられる、かけがえのない恵みを受けましょう。