イエスさまを迎える準備

聖書箇所;マタイの福音書25:14~30/メッセージ題目;イエスさまを迎える準備 一年終わりの日曜礼拝となりました。今年教会は、「イエスさまを迎える準備をしよう」という標語のもと、コロナ下2年目のこの年をともに歩んでまいりました。この年を締めくくるみことばに、マタイの福音書25章14節から30節のみことばを選ばせていただきました。このみことばは、イエスさまの再臨に備える私たちに、極めて大事なことを教えています。 さて、このみことばですが、当然みなさまにも、初めて聖書を読んだときというものはあるわけですが、初めてこの箇所をお読みになったとき、みなさまはどうお思いになったでしょうか? 私の最初の印象は、「理不尽だ!」主人から財産を預かっていたしもべたちは、預かれ、と言われたのであって、それを勝手に増やしたりしていいのか? しかも、そうして増やしたら主人にほめられたりしているし? そして、主人から預かっていただけのこの1タラントのしもべは、怒られるわ、タラントを取り上げられるわ、外の暗やみに放り出されるわで、踏んだり蹴ったり、主人はあまりにもひどい! これが、最初に聖書を読んだときの、私の正直な感想です。 もちろん、これからお話しすることは、そういう意味じゃないですよ、ということですが、ともかく、今日の箇所でイエスさまが旅に出る主人に例えておられることは、イエスさまが十字架にかかって葬られ、復活され、昇天されて天の御国に行かれるということです。旅に出るということは、また帰ってくる、ということです。そのようにイエスさまも、この世界の主人として、再びこの世界に帰ってこられます。その間、私たち主のしもべたちはどのように過ごすべきかということを、イエスさまはこのたとえ話をとおして、私たちに教えてくださいました。 主人は3人のしもべたちに、それぞれの能力に応じて、5タラント、2タラント、1タラントを預けます。1タラントは成人男子20年分の賃金に相当しますから、年収が300万円としてざっと6000万円、といったところです。とんでもない大金です。2タラントや5タラントとなると数億円にもなります。 いったい主人はしもべたちに、何のためにこんな大金を預けたのでしょうか? 預けてはおくが、手をつけるな? だったら、イエスさまはこんなありえないようなたとえをお語りになるはずがありません。 ちょっと脱線しますが、イエスさまがお語りになったたとえというものは、実際にあり得ることをわざわざたとえという形で語っていらっしゃるわけではないことにご注意いただきたいと思います。あり得る話ならば、ストレートに「教え」としてお語りになります。 「たとえ」というものは、あり得ない話を聴き手に投げかけられることによって、そのたとえの語る神の国というものの奥深さを聴き手に深く考えさせ、神の国を自分のものにしてほしい、という、イエスさまのいわば親心のようなものがもとになっています。 ですから、この「タラントのたとえ」も、あり得ないような話で神の国というものを考えさせるためにイエスさまがお語りになっているわけですが、これは、ルカの福音書19章の「ミナのたとえ」と読み比べれば、主人がどういう目的でしもべたちにタラントを預けたか、主人のその動機を知ることができます。そうです、「商売をしなさい」です。 商売をするのは言うまでもなく、お金を儲けるためです。それはことばを換えれば、「お金を増やす」ためです。主人がしもべたちにタラントを託したのは、そのタラントを増やすためです。 さて、5タラント預かったしもべは、5タラントもうけて主人にほめられ、2タラント預かったしもべも2タラントもうけて主人にほめられています。このしもべたちはなせほめられたのでしょうか。それは、主人のことばから読み取ることができます。 まず「よくやった」。主人は努力したことを評価しています。主人から預かったタラントを増やすために、商売という海千山千を相手にする厳しい世界に飛び込み、失敗や損失もものともせず努力したことを評価しています。 私たちの生きているこの世界も、イエスさまを証しするにはあまりにも厳しいです。反抗にあったり、無関心の反応を示されたりします。それでも私たちが、イエスさまによって救われた喜びにあふれて種を蒔きつづけるならば、たとえ人は評価しなくても、私たちの主人である神さま、イエスさまが充分に評価してくださいます。 主人はしもべを評価しますが、その評価はどれほどすばらしいものでしょうか?「良い忠実なしもべだ」。良いしもべです。私たちは、良い人、と評価されたくて努力するでしょう。 しかしその評価が、ほかならぬ主人からもらえるのです。どんな評価がしもべとしてもらえる最高の評価でしょうか? それは、あなたは忠実だ、という、この評価につきるのではないでしょうか? そのように神さま、イエスさまは、私たちが恵みの中で努力したことを、ご自身に対して忠実であったと認めてくださり、良いしもべだ、と、最高の評価を与えてくださいます。 主人はどのような点で、このしもべが忠実であると評価するのでしょうか?「おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう」。私たちにとって大事なのは、イエスさまがここでおっしゃった、わずかな物とは何を指すのか、ということを、きちんと理解しているかどうかということです。それは端的に言って、わずかな物に比べての多くの物、つまり、神の御国を任されるにふさわしいだけの備えを、ふだんから積み重ねているか、ということです。 主人の財産を商売という形で増やしたしもべたちは、その商売を展開するにあたって、だれのしもべであるか、ということを前面に出して営業をします。私のこの商売は、主人の命(めい)を受けていしていることです。そうしてしもべに対して、と同時に、主人に対して、相手の信用を勝ち取り、主人に対する信用と信頼という領域をこの世界に増やしていくわけです。 私たちも同じことで、私たちも自分の名前や顔を売るためにこの世界に生きているのではありません。私たちの主人であるイエスさまをこの世界の人に知ってもらおうと、私たちはこの世界の必要とされている領域に行って愛の奉仕をし、ささげものをします。イエスさまの福音を宣べ伝えます。人々をキリストの弟子にします。そうすることで、私たちの周りから神の国が広がっていきます。 このように、つねに神さまの御国とその義を第一とする生き方をするならば、神さまはわたしたちのその歩みを覚えていてくださり、私たちがのちの世ではるかに素晴らしい天の御国に入ることができるように、私たちを祝福してくださいます。 そしてこの歩みは、「主人の喜びをともに喜ぶ」ことなのです。主人に喜んで忠実に仕えるしもべは、主人が喜びの人だということを知っていて、自分も主人とともに喜びたい一心で、今日の働きに種を蒔くのです。 私もこれまでのクリスチャン生活で、たくさんのクリスチャンに出会ってまいりましたが、いい信仰を持っている人は、喜びを絶やさない人です。 「いつも喜んでいなさい」とみことばが語っている、そのとおりの喜びを、実に自然に表現できています。そういう方は、神さま、イエスさまが、私たちのことを喜んでおられることを知っていて、その喜びを知るから自然と喜びがあふれてくる、という印象を与えてくれます。 さて、ここまでが、主人に喜ばれた働き人がどうであったか、という、イエスさまのみことばであるわけですが、これと対照的な働き人、そう、主人の1タラントを土の中に埋めたしもべについて、今度は反面教師として見てみましょう。 24節、25節を見てみましょう。……このしもべが主人に対して抱いていた感情は「怖れ」でした。「蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方……」 この主人の姿、聖書のどこかで見たことはないでしょうか? そう、出エジプト前夜のファラオの姿です。藁はやらないがれんがを今までどおりつくれ。つくれない者を厳しく打ちたたく。そのように民をいじめ、搾取するひどい権力者。このしもべにとっての主人のイメージは、そういうものだったというのです。 このしもべは何を怖れていたのでしょうか。もし、商売に失敗したら、主人からどんな目にあわされるかわからない。主人は、1タラント以上のことを自分に期待しているはずだから、その期待に応えられなかったら、何をされるかわからない。 とにかく、ほかのしもべたちとちがい、このしもべはタラントを増やすことをしていませんでした。しかたがなく、このしもべは言い訳に終始するしかありませんでした。ところがこのしもべが言い訳に選んだことは、なんと、主人の人となりはこんなだから私は怖くなった、ということだったのでした。 それを聞いた主人はどうしたでしょうか? わかった、私のことが怖かったんだね、許してあげよう、あなたに1タラントも預けた私が悪かった、そう言ったのでしょうか? とんでもありません。主人は激怒しました。 まず、15節を見てみるとわかりますが、主人はしもべの能力に応じてタラントを預けています。1タラント預けられたしもべは、ちゃんと1タラントを運用する能力があったことを、主人は知っていました。その能力があることは、しもべ自身も自覚していたはずです。問題は、その能力を持っていながら、ちゃんと行動しなかったことにあります。 しかし、もっと根本的な問題がありました。それはこのしもべが、主人とは自分にとってどのような存在かということを、はなから勘違いしていた、ということでした。 主人をこわい、と思うのはなぜでしょうか? 自分が、罰を受けるにふさわしいだけの悪を行い、それをやめようとしないからです。どこかで後ろめたい思いにさいなまれているわけです。それが、主人は理不尽に怖い存在、と間違ってとらえることにつながるわけです。 主人とはどういう存在かを間違ってとらえることは、主人が自分に望んでいることをまったく行おうとしない、不真面目な態度につながります。そのことは、このしもべが取った行動からも証明できます。 しもべは、自分に行動する力がないと認めるならば、その財産を銀行に預けてでもして、財産を増やすべきでした。銀行に預けるとはどういうことでしょうか? 銀行はむかしも今も、資産運用のプロです。お金の信用のないところに、人は大事なお金など預けません。主人の大金をあずかる銀行は、それを主人のために大切に運用し、ついには利息をつけて返します。銀行は、そのように運用するのは、自分たちをプロと見込んでお金を任せてくれた主人のためであることを理解しているわけです。 しもべにとっては、1タラントをまるまる銀行に預けることは、自分は主人に期待されるだけの能力がない、ということを公言するに等しいことでもあり、ちょっと恥ずかしいことではあります。しかしその恥は、最後の清算の時に主人からタラントを取り上げられ、出ていけ、となる恥に比べたら、何ほどのこともありません。 私たちはみな、賜物が異なっています。ある人は表に立ってバリバリ働くでしょう。ある人は裏方になってこつこつ働くでしょう。要はその働きを、神さまのためにしているかどうかです。 教会というものは、その賜物の欠けたどうしを補い合う働きをする場所であり、そう考えると、賜物というタラントが行き来しているうちに増やされる、銀行のような場所です。 私たち一人ひとりにも賜物はあります。しかし、この賜物とは神さまからお預かりしているものであり、やがてイエスさまが来られたとき、この賜物をどのように増やしたかということを主はご覧になります。 だから、賜物というものは、自分の財産のように思ってはならないわけです。ところが、もしイエスさまがやがて来られることを意識しないでいるならば、この賜物をあたかも自分のもののように思い、自分勝手に用いるようになってしまいます。逆に言えば、賜物を自分勝手に用いている人は、イエスさまが再び来られることを意識していない、ということです。 今、自分勝手、と申しましたが、それなら自分勝手ではない用い方とは何か、ということになりますが、それは、神の国のために用いる、ということです。 神さまが私たちに求めていらっしゃるとおり、貧しい人や病気の人、疎外されている人、捕らえられている人をケアする働きへと実を結ぶ、そうすることによって隣人を愛し、神の栄光を顕す……神の国はそのようにして私たちのうちから実現するものです。 しかし、このように神の国のために賜物を用いることには、多くの犠牲が伴います。頑張りすぎて肉体的にも精神的にも健康を害することもあるでしょう。周りの無理解や中傷によって傷つくこともあるでしょう。誤解されて人間関係にひびが入ることもよくあるものです。お金も出ていく一方です。自分自身の不勉強や人格の欠けを思い知らされて落ち込むこともあります。自分がよかれ、と思ってした行動がかえって問題を引き起こすこともあるかもしれません。 まことに、主の恵みがなければ、一日も続けることができません。そんな思いをするくらいなら、せめて楽に生きたい……そう思いますでしょうか? しかしそれなら、神さまはなぜ私たちのことを、この世界において、世の光、地の塩として召されたのでしょうか? それは、私たちがそう生きられると見込んでくださったからです。わたしの創造したこの世界は荒れ果てている……あなたなら、この世界にわたしの国を拡大できる……。 しかし、このように主が託されたみこころが重荷に感じられる方が、もしかしたらいらっしゃるかもしれません。主が再び来られることはわかっている、しかし、賜物を活用することは重荷でしかない。 そういう方はそれでも、どうか、賜物を土に埋めるしもべにならないでいただきたいのです。この賜物のあるままに、霊の銀行である教会に、ご自身もろとも委ねていただければと思います。それこそが、私たち一人ひとりに委ねられた賜物を、もっとも効果的に運用し、増やし、ついには再び来られるイエスさまの御前に堂々と立つ道です。 今年もこれで最後の日曜礼拝になります。さらにイエスさまのご再臨に近づきました。私たちにはどんな賜物がありますでしょうか? この賜物を増やすことができましたでしょうか? 終わりの日の清算を前にして、今日このとき、清算してみましょう。充分に励むことができた、と確信できるならばそれで充分、まだ励むことができるならば、何に取り組めるか、考えましょう。 そして、自分は神さまの期待に耐えきれない、と思うならば、せめて、この霊の銀行なる教会の交わりにとどまりましょう。間違っても、自分でその賜物を何とかしようとしないことです。 しばらくお祈りしましょう。

羊飼いのクリスマスを、私たちにも。

聖書箇所;ルカの福音書2:8-20/メッセージ題目;羊飼いのクリスマスを、私たちにも。 みなさん、クリスマスおめでとうございます。 クリスマスといいますと、みなさんはどのようなイメージをお持ちですか? なにやら美しい、なんだかわくわくする、そんなイメージを思い浮かべる方が多いのではないかと思います。 昨年来のコロナ下で、そんなことも言っていられない……私たちは憂鬱な毎日を過ごしてきました。せめてクリスマスくらいは、ぱーっと明るくなりたいものです。でも、クリスマスはなんでうれしいのでしょうか? なんでめでたいのでしょうか? イエス・キリストは、2000年前のユダヤでお生まれになりました。当時ユダヤは、ローマ帝国の属国でした。なにやら世界史の授業みたいで恐縮ですが、ちょっとおつきあいください。イエスさまのお誕生のとき、ローマ帝国では、皇帝アウグストゥスによって、すべての国民は本籍地に行って住民登録をするように命じられていました。ユダヤの人も例外ではありませんでした。 それでマリアとヨセフも、家のあるナザレからはるかかなたのベツレヘムまで、旅をしてきたのでした。彼らの先祖はイスラエルの歴史に名高い王さまダビデ、そのダビデの町がベツレヘムなので、彼らはベツレヘムまで行かなければなりませんでした。 そして、マリアのおなかの中には、赤ちゃんがいました。そう、その赤ちゃんこそイエスさまです。そのような中ではるか荒野を旅しなければならなかったのでした。余計に大変でした。 やっとのことで、彼らはベツレヘムにたどり着きました。でも、どこに行っても、宿屋は満員で、どこにも泊まることはできませんでした。しかたがなくて泊まったのは、馬小屋です。そのとき、マリアは赤ちゃんを産みました。馬小屋の中でイエスさまは生まれました。世界で最初のクリスマス、それは、いま私たちの知っているクリスマスとは程遠い、真っ暗で臭くて汚い馬小屋のできごとでした。 その、世界で最初のクリスマスに立ち会えた人たち、それは、羊飼いたちでした。今日私たちが生きている社会にも差別というものがあります。同じように、当時のユダヤにも差別はありました。羊飼いというものは、社会からのけ者にされている人たちの就く仕事でした。犯罪者、罪人扱いされている人たち。ほかのユダヤ人と一緒に礼拝に行くこともできない、嘘つきというレッテルを貼られている人たち。だから、裁判で証言することもできない。住民登録のことを申しましたが、ほかのユダヤ人とちがって、羊飼いは住民登録もさせてもらえませんでした。要するに羊飼いとは、ユダヤの宗教の世界からは疎外され、ローマ帝国の国民扱いもしてもらえない人たちだったのです。差別されて、疎外されている人たち。 その日もそんな羊飼いたちは、夜通し、羊の番をしていました。羊泥棒や野獣から群れを守るために、眠ることもできません。そんな時……突然、天使が現れ、まばゆい光にあたりが照らされました。羊飼いたちは突然のできごとに、恐ろしくなりました。 しかし、天使は恐がっている羊飼いたちに言いました。恐がってはいけません。私は、うれしいニュースを伝えに来たのです。……きょう、ダビデの町、ベツレヘムで、あなたがたのために、救い主、主キリストがお生まれになりました。その救い主は、布にくるまって飼い葉桶の中に寝かされている赤ちゃんです。 馬小屋の中、飼い葉桶の中に寝かされている赤ちゃんだなんて、なんて貧弱な格好なことでしょうか。でも、このお姿が、救い主の印だというのです。神の御子という天の輝く栄光を捨て、馬小屋のような、社会の最底辺のようなところに赤ちゃんとしてお生まれになったお方、このお方こそ、私たちのことを罪から救ってくださる救い主です。羊飼いたちはそれをその目で見たのです。 この世の最底辺に追いやられていた羊飼いたちにとって、それはどんなに大きな慰めとなったことでしょうか! 私たちはこのように、この世の最底辺まで降りてきてくださったキリストを礼拝するために、本日クリスマス礼拝のひと時をお持ちしているのです。 そして天使のことばに引き続いて、大勢の天使が現れ、神さまをほめたたえる讃美の歌を大合唱します。天においてはすばらしい栄光が神にあるように、地上においては神のみこころにかなう人に、平和があるように! やがて天使たちは天に帰っていきました。あたりは再び真っ暗になりましたが、羊飼いたちは互いに言いました。さあ、ベツレヘムに行こう。主が私たちに知らせてくださったこのできごとを見に行こう。羊飼いたちは急いで行きました。あとは、赤ちゃんがいる馬小屋を探すだけです。ほどなくして、羊飼いたちはマリアとヨセフ、そして生まれたばかりのキリストを捜し当てます。みんな、天使の告げたとおりでした。羊飼いたちは神をほめたたえながら帰っていきました。 この世は、出世すること、お金持ちになること、人に認められることを、人生の目標、また最高の価値のように教えます。しかし、あの時代の羊飼いたちは、どんなに頑張ってもそのような人になることができませんでした。彼らは、絶望を宿命と受け入れて生きるしかありませんでした。しかし、神さまは、そんな羊飼いのことを、救い主のお生まれに立ち会うように選んでくださったのでした。彼らはどれほどうれしかったことでしょうか! そして、羊飼いを選んでくださった神さまは、私たちのことも選んでくださいます。これが、聖書のメッセージです。この教会に普段集う私どもは、神さまに選んでいただいた者であるという自覚をもって日々過ごしております。自分たちは選んでいただいたけれども、それはなにかいっしょうけんめい努力したからとか、なにかいい行いをしたからではありません。ただ、神さまが一方的に私たちを選んでくださり、イエス・キリストの救いを信じる信仰を持たせてくださったと信じています。私たちは、神さまが私たちのすべての罪のために、ひとり子イエス・キリストを十字架につけてくださったことを信じるだけで救われるのです。救われるためには信じるだけ、そこには何の行いもいりません。 そして、この信仰を持てることは、神さまの一方的な恵み、プレゼントです。だから、神さまとその救いを信じているからといって、私たちは何か自分が特別だとか、自分のことを誇ることなどできません。ただ謙遜に、神さまが私たちを愛してくださるこのあふれる愛と恵みにあふれて、神さまと隣人にお仕えするのみです……。救い主の誕生に立ち会わせていただいた羊飼いのように、私たちも、特別に選んでいただいたことに感謝して、神さまをほめたたえる生き方を目指しております。 私どものこの生き方は、世の中の多くの人の目指すような、出世することとか、お金持ちになることとかとは、異なる生き方であるかもしれません。しかし私たちは、この生き方こそが、最高の生き方であると信じています。 羊飼いを最初のクリスマスをお祝いする人に選んでくださった神さまは、今日ここにいらっしゃいました私たちを、ほんとうの意味でクリスマスをお祝いするために、特別に選んでくださいました。みなさん、ぜひとも今日は、この礼拝の場所を、神さまが私たちに備えてくださったお祝いの場所として、喜びをもって受け入れていただければ幸いです。

「不思議な助言者イエスさま」

聖書本文;イザヤ書9:6~7/メッセージ題目;「不思議な助言者イエスさま」  先週私たちは、アドベントの第二主日で、水谷潔先生から「クリスマス前の自己点検」というタイトルでみことばを取り継いでいただきました。私も久しぶりにメッセージをお聴きする立場になりました。  みなさまはどの部分が心に残りましたか? 私は、「クリスチャンはキリストを指し示す矢印である」というメッセージでした。山道で絶対にしてはいけないいたずら、それは矢印の立て札を別の方向に向けること、山登りをする人は矢印のとおりに行けば迷わない。私たちもそれと同じ、私たちはキリストを指し示す矢印でいい、矢印は純金なんかでできている必要などない、段ボールの切れっぱしでもいい、要は、イエスさまを指し示していれば価値がある……。あなたはイエスさまを指し示していてこそ価値がある……ほんとうにそうだと教えられました。  水谷先生のメッセージをお聴きして、私自身のメッセージの語り方を反省させられました。私はあまりにも、イエスさま以外の情報を入れまくって、肝心のイエスさまを指し示していなかったのでは……? これからはメッセージをもっとシンプルにして、イエスさまが伝わるように工夫しよう。  正直に考えていただきたいのですが、メッセージにポイントがいくつもあってあとで忘れるくらいなら、ポイントはひとつでも、あとまでちゃんと覚えていた方がいいと思いませんか? というわけで、今日からメッセージはシンプルにいたします。イエスさまがみなさまに伝わるように努力します。そのかわり、ちゃんと聴いていただけたら幸いです。  今日の箇所はイザヤ書9章6節と7節のみことばです。イザヤ書とは南王国ユダの預言者イザヤによる預言であり、この9章の預言は、アハズという王が治めていた時代に語られたものです。  アハズ王……この王は悪いことをしました。まことの神さまの道を真っ直ぐに歩まず、偶像礼拝におぼれました。どれだけその歩みがひどかったかというと、第二列王記を読むと、自分の子どもを火の中に通すことさえした、とあります。それほど主に忌み嫌われる偶像礼拝の宗教行為に手を染めていたわけです。  このような王が統べ治めるとなると、ユダがいかに創造主なる神の民の国であるといっても、きわめて不安な中にありました。分裂王国の片割れであった北イスラエルは、9章1節に「ゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けた」とあるとおり、国の北方ガリラヤ地域一帯がアッシリアに侵略されて奪い取られ、南王国ユダも、心ある人は、明日はわが身、と意識せざるを得なかったはずです。  イザヤ書9章のみことばは、このような悲惨な目にあったガリラヤから、救い主キリストがデビューされるという驚くべき預言のみことばであり、それはこのみことばがマタイの福音書4章に引用されていることからもたしかなことです。その流れの中で、さきほどお読みしたみことば、6節と7節のみことばが登場してまいります。  この6節、7節のみことばは、特にキリストの誕生を預言しているみことばであり、アドベントの時期になるとあちこちの教会で礼拝メッセージとしてよく取り上げられます。この中の「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」という呼び名、これはまさに、イエス・キリストというお方がどのようなお方かを語っている呼び名です。  この中で今日は、「不思議な助言者」という呼び名について集中的に学びます。その前に、あとの3つの呼び名についてもざっと見ておきますが、「力ある神」、言うまでもなく、創造主なる唯一の神さまですが、このお方がみどりご、赤ちゃんとしてこの世界にお生まれになるという、驚くべき預言です。この人が、力ある神なのです。そしてこの預言どおり、イエスさまはあらゆるしるしと奇蹟をもって、ご自身が「力ある神」であることを人々の前にお示しになりました。  「永遠の父」、この呼び名は、イエスさまが三位一体の神における「御子」であることを知っている私たちにとって、若干の混乱を覚えさせる呼び名になってはいないでしょうか? キリストは「子」であって、「父」ではないのではないだろうか? しかし、この「父」は、三位一体の「父」という解釈ではなく、「私たちの上におられ、私たちを守ってくださる保護者(という意味での父)」と解釈すればよろしいです。  「平和の君」、神に敵対していた人間が神と和解する道を、イエスさまはご自身の十字架によって開いてくださいました。まさしく、神との平和を実現してくださったのでした。そしてキリストは、十字架を信じ受け入れた者どうしを、国や民族を超えて、ひとつにしてくださいました。まさにキリストは、神との平和、人との平和を実現してくださる王の王、すなわち、平和の君です。  さあ、それではこの4つの呼び名の中で、いちばん最初に出てくる「不思議な助言者」ということばをじっくり学んでみたいと思います。  この「不思議な助言者」は、聖書の訳によっては「不思議」であり「助言者」である、と訳しています。そうです。イエスさまというお方は、存在そのものが不思議なお方です。旧約聖書の士師記に、サムソンの父マノアが神の使いを目の当たりにする場面が出てきますが、マノアが神の使いに名前を問うと、神の使いは「わたしの名は不思議と言う」と答えました。神さまという領域を名前で形容すると、そのものずばり「不思議」なのです。  神さまは「聖」である、といいます。聖書の「聖」です。この「聖」は、「きよい」と読みますが、聖書の語る「聖である」ということは、人間的な努力や修行、宗教行為で到達する領域ではありません。罪人である人間にとっては、どんなに努力しても到達できない、言ってみれば「異次元」です。神さまというお方、イエスさまというお方は、その「異次元」のお方であり、神さま、イエスさまが「聖である」ということは、人間の罪に満ちた次元からはまったく異なる「異次元」におられる、ということです。  イエスさまが「不思議」ということは、「聖である」ということと密接な関係があります。聖である、人間とは異次元だから、人間の罪に汚れた霊的感性では到底理解できないお方である、ということです。見てください、イエスさまが大いなるしるしと奇蹟を行われたとき、だれよりもその素晴らしさを理解できず、それどころかイエスさまを殺そうとさえしたのは、ユダヤの宗教家たちではなかったですか。彼らは神さまに仕えているつもりだったことでしょう、しかし、どんなに努力していようとも、彼らの努力はしょせん人間的なものにすぎず、神さまに認められるものではありませんでした。  また、理解できないということは、到達できないということでもあります。あまりにも次元が違いすぎて、人間の努力でどんなに頑張ってみたところで、修行してみたところで、イエスさまの域には到底及ばない、ということです。  そのように、存在そのものが不思議なお方が、助言者、すなわち、不思議な助言者、ということです。それでは、「助言者」ということを見てみましょう。  「助言者」は、いくつかの意味に解釈することができます。まず、この「助言者」というのは、単にアドバイスをくれる人、という意味ではありません。単なるアドバイスという次元ならば、アドバイスをもらう人が主であり、アドバイスをくれる人が従です。しかしキリストは、そういう次元で助言者なのではありません。  まず、英語の聖書を見てみると、「カウンセラー」とあります。現代においては心理学が社会や人々に対して持つ役割がますます重要になり、それにしたがって「カウンセラー」も重要な働きになっています。この「カウンセラー」の中でも、まことの「カウンセラー」はイエスさまである、というわけです。何でも相談できるカウンセラー。素晴らしい導きをくださるカウンセラー。  もちろん、私たちの暮らす社会における役割という面では、カウンセラーは万能ということは期待されず、臨床心理士のような資格を持つ人も、精神の病を治療することはしません。しかしイエスさまはどうでしょうか? 社会のつまはじきにされている取税人や罪人の食事会に招かれたイエスさまは、「医者を必要とするのは健康な人ではなく病人です」とお語りになり、ご自身こそは罪人を招いて悔い改めさせ、罪に病んだ人を癒して健康にする医者であるとお語りになりました。それがおできになるのも、イエスさまは人を創造され、人にいのちを与えられる、まことの神さまであられるからです。  私たちが毎日、お祈りとみことばにおいてイエスさまとの交わりを持つ必要があるのは、私たちが罪によって病む病人、罪人であるからです。だから私たちは何よりも、自分は癒されなければならない罪人である、病人である、という自覚が必要です。私たちが日々イエスさまに近づき、お祈りとみことばによってイエスさまと交わるならば、イエスさまは私たちの罪の病を明らかにしてくださり、私たちをいやしてくださいます。そんなお医者さん、そんなカウンセラー、それがイエスさまです。  さて、このようにイエスさまはカウンセラーであるわけですが、イエスさまは単に私たちの問題を解決してくださるだけの「カウンセラー」ではありません。そこで私たちはこの「助言者」ということばの意味を、もう少し別の角度から考えてみたいと思います。  韓国語の聖書を読みますと、この「助言者」は「モサ」ということばに訳されています。この「モサ」ということばは、「謀(はかりごと)」「謀議」というときの「謀(ぼう)」ということばと、「軍師」というときの「師(し)」ということばを組み合わせて、日本式に発音すれば「謀師(ぼうし)」です。日本語でいちばん近いことばがあるとすれば「参謀」といったところでしょうか。しかし「謀師」となると、「参謀」よりさらに主体的なイメージです。日本人にとって近しいところでは何といっても、三国志の諸葛孔明でしょう。 三国志の軍師である諸葛孔明のアドバイスが、蜀の王である劉備玄徳と蜀の国の行く末を左右したように、聖書においても王のかたわらには、このような王と国の命運を左右する「謀師」が存在しました。ときに、指導者がどの「謀師」を起用したかによって、イスラエルの命運が決まったということさえ起こりました。アブサロム王子がどのような謀師、アドバイザーを起用したかが、ダビデのいのちとイスラエルの行く末を救ったという記述が、サムエル記第二に出てきます。 アブサロムがもし、アヒトフェルのアドバイスを受け入れたならば、ダビデは滅びました。しかし、ダビデの陣営からアブサロムの陣営に放たれたフシャイがアブサロムにアドバイスをすると、その意見が通り、ダビデのいのちは救われたのでした。このように、軍師のアドバイスひとつでダビデ王とイスラエルの行く末が決まった、ということがあったわけで、どの軍師がどんなアドバイスをするか、ということは、国を左右するたいへんな重みを持つことです。 いみじくも聖書協会共同訳という訳の聖書では、この「助言者」は「指導者」と訳されています。つまり、従の立場で主の立場に対して「助言」するのではありません。主の立場で従の立場に対して「指導者」として「指導」を行うのです。 この預言が語られたこの時代、イザヤのような心ある神の人にとって、アハズ王はとても「指導者」と認めることのできるような王ではありませんでした。アハズは本来ならば、ダビデの血を引く者として、神の人にふさわしい指導力を神の民の国であるユダ王国に対して発揮してしかるべきでした。しかしそのような期待はアハズに対してはとてもできませんでした。人間的な王の血統が神の民を治めるにふさわしい指導力を保障してくれたわけではなかったのでした。 しかしイザヤは、まことの指導者であるキリストはダビデの王座にとこしえにつく、すなわち、ダビデの子孫としてお生まれになるのと同時に、ダビデを王としてお立てになった神さまのみこころをもっとも忠実に実現してくださる、ダビデも人であったゆえに弱さをまとっていたが、キリストは神さまがダビデに期待されていたとおりをことごとく実現される、王の王である……。 この王の王、神の民ユダ王国の王の分際で偶像礼拝におぼれるようなアハズなど足元にも及ばない王、ほんとうの意味でダビデに与えられた王権をこの地に実現してくださる王……このイエス・キリストという王さまは、主権をもって導いてくださる王です。 私たちクリスチャンのただ中に存在する「神の国」……それはイエスさまが王として治めてくださる国です。私たちの住むこの世界のどの国家も、この「イエスさまの治める神の国」を実現することはできません。地上の国家は、しょせん人間が治め、人間が導くものでしかないからです。 しかし私たちはどうでしょうか。私たちは自分が罪人であることを認めています。イエスさまという主人に導いていただく、指導していただく必要があることを知っています。自分の人生の主人が自分ではなく、イエスさまであることを知っています。 しかしイエスさまは、単に君臨する王ではありません。悩む私たちに、いつでも耳を傾けてくださいます。迷う私たちを、いつでも捜し出してくださいます。なんということでしょうか、仕えてくださる王さまなのです! 仕えてくださる王さま! そんな王さまがいるでしょうか! でも、イエスさまは仕えてくださる王さまなのです! 私たちのきたない足を洗ってくださる王さまです。私たちに手を置いてくださり、病を癒してくださる王さまです。そして……十字架にかかってくださり、私たちを罪から救い出してくださった王さまです。私たちのためにいのちを捨ててくださった王さまです。私たちのためによみがえってくださった王さまです。私たちのために今この瞬間も、とりなして祈っていてくださる王さまです。 そしてイエスさまは……今度こそほんとうに王の王として、この世界に来られる王さまです。しかし、イエスさまを信じる私たちのことも、永遠に王としてくださるのです。私たちは主とともに統べ治めるのです。 そのように、私たちに御国を任せてくださる日に至るまで、今この地上のどんな小さなことにも忠実になれるように、イエスさまは私たちに、忠実であるとはどういうことか、忠実に振る舞うとはどうすることか、なぜ私たちは忠実であるべきかを、ひとつひとつ、たしかに教えてくださいます。 私たちが忠実になれないで悩むならば、すなわち、隣人に対してほんのわずかでも愛する行いができないで悩むならば、イエスさまは親しく、私たちの悩む祈りに耳を傾けてください、どうすればいいか、みことばによって教えてくださいます。イエスさまはそんなカウンセラーです。その積み重ねはやがて、私たちがイエスさまとともに御国を統べ治める指導力を得ることにつながります。イエスさまはそのように導いてくださる指導者、まことの指導者です。 さあ、イエスさまの前に私たちはいま出ましょう。私たちは神さまの御前で、悩んでいることはないでしょうか? イエスさまの導きを特別に必要としている領域はないでしょうか? 祈って、イエスさまの助けをともに求めましょう。具体的に求めましょう。

「クリスマス前の自己点検」

ルカの福音書1章5~17節 「クリスマス前の自己点検」   物事には、前触れとか、準備というものがあります。偉大な人物が登場する前に、人々がふさわしく受け入れられるように、備えや予告をします。たとえば、大名行列は奴さんたちで、王様のパレードの鼓笛隊で、大相撲で横綱が登場する時も、太刀持ち露払いが先頭となります。   そのことはクリスマスも同様です。多くの神の器が、イエス様が来られる準備に用いられました。乱暴に言えば、旧約の預言者たちは、奴さんであり、鼓笛隊であり、太刀持ち露払いです。そして、最後の仕上げ役が登場します。それがバプテスマのヨハネです。彼こそが、人類がクリスマス、イエスキリストのご降誕を迎えるための最後の仕上げをしたのです。   今、私たちは、クリスマス迎えようとしています。自らが今年のクリスマスを迎える備えとして、この朝はバプテスマのヨハネに学び、倣いたいと願います。この箇所にはバプテスマのヨハネの誕生とその働きが預言されています。17節によれば、その中心は主の前触れをする事、民の心の向きを変えること、すなわち整えられた民を主の前に用意することでした。  そのために、遣わされたバプテスマのヨハネがどのような人物であったかが15節と16節に記されています。今からの時、「クリスマス前の自己点検」と題しまして、その15節と16節の御言葉を中心にみ言葉をお取次ぎします。バプテスマのヨハネのありようを基準に、三つのポイントで、自己点検をしながら、クリスマスに向けて自らを備えてゆきたいと願います。 ~本論A~   では、さっそく一つ目です。「クリスマス前の自己点検」その一つ目は、「主の前に優れた者かどうか」です。人の前ではなく、主の前です。人の評価でなく、主の評価を第一に生きようとしているかどうかです。それは15節最初に一文に書かれています。「その子は、主の御前に大いなるものとなるからです。」 「彼は主の前に大いなる者となる」とあります。ここには、ヨハネが人にどう評価されるかは書かれていません。それほど大切なことではないからです。一方で、はっきりと神様からは、大いなる者と評価されると約束されているのです。イエス様もマタイの11章の中で「女から生まれた者の中でバプテスマのヨハネより優れた人は出ませんでした」とおっしゃっています。 それでは、神様の前に大いなる者とはどういう人でしょう。人ではなく主の評価に生きるとはどのような歩みなのでしょうか。開かなくて結構ですが、同じルカの14章に分かりやすいたとえが登場いたします。   イエス様はおっしゃいまいした「結婚の披露宴に招かれたときには、上座に座ってはいけません。(中略)招かれたなら、末席に行って座りなさい」と。このたとえ話のポイントはただの祝宴でなく、婚礼の席である事です。今の日本でもそうですが、披露宴の席はお客が選んで決めることはできず、招待主の側が一方的に決めます。   ですから、末席に着くとは、招待主の決定に委ねることを意味します。末席で招待主から、もう少し前へと言われたら、その席に着くのです。つまり、自分で地位や立場を選んで得ようせず、主に委ねなさいという事です。このたとえ話の結論は「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする物は高くされ」です。低くするとは、自らを仕える者とするという事です。  まず末席に着いて、それから案内される席に着きなさいという事は、主が召して下さった地位や立場にあって、それにふさわしく仕えなさいという事です。そのような者を主は高くして下さると聖書は教えます。そのような人物こそが主の前に大いなる者なのです。主の召しに従い、召された立場で忠実に仕える、これこそが主に評価される生き方です。   バプテスマのヨハネは、実に召された立場に忠実な器でした。ヨハネの福音書によれば、使徒ヨハネとアンデレは、そもそもバプテスマのヨハネの弟子でした。ある時、バプテスマのヨハネがイエス様を指差して「見よ。神の子羊」と言うと、二人はイエス様の弟子になってしまいました。 普通なら、面白くないでしょう。弟子に去られたのですから。しかし、彼は、それでよしとしたのです。なぜなら、イエス様を指し示し、人々をイエスに導くのが彼の役割、使命であったからです。イエス様が栄えるためなら、自分は衰えてよい、忘れ去られてよい、省みられなくてよいと考えていたからです。あくまで、中継ぎ、橋渡し役に徹していたのです。   最後に彼は、主の正義の故に殉教しました。正しくない結婚をしたヘロデ王の罪を責め、それが原因となり処刑されました。まさにバプテスマのヨハネは自分の立場で忠実に仕えきった器です。神の前に優れた者であったのです。   以前、ラジオで昭和歌謡を代表する作詞家である中西礼さんがこうおっしゃっていました。「僕は職業に貴賎はないと思うのです。むしろ、それぞれの職業の中に貴賎があると考えています。作詞家が他の職業より立派なく、他の職業と同等だと思うのです。ただ、作詞家にもいい作詞家と悪い作詞家がいます。サラリーマンにもよいサラリーマンと悪いサラリーマンがいます。魚屋さんにも良い魚屋さんと悪い魚屋さんがいます。職業それぞれの中に貴賎があると思っています。」   それを聞いて、神の前での評価も同じだなあと思いました。伝道者が一般の職業より優れた職業ではありません。人それぞれ主に召された職業や立場が最高なのです。そこに貴賎も優劣もありません。ただ、それぞれの職業や立場に貴賎があるのでしょう。   職業や役割などの召しにふさわしく、それぞれ置かれた立場で誇りをもって忠実に仕えているかどうか、主はそれをご覧になり、私たちを評価しておられるのです。私たちは、自らの座るべき席の決定を主に委ねるべきです。婚礼の席のように召して下さった方が一方的に決めて下さった席に座るのです。そして、そこで忠実に仕えるのです。それが神の前に優れたもののあり方です。   ヨハネは皮衣、野蜜とイナゴ食ばかり食べていました。ヨハネは当時の宗教家たちからは、「飲まない、食べない」ので気が狂っているという評価を受けていました。つまり変人扱いされていたのです。バプテスマのヨハネに対する宗教界の評価は「奇人、変人。狂人」でしかありませんでした。しかし、主の前に彼は大いなる者だったのです。 世俗化したこの社会では人間の価値は、その所有によって測られます。つまり、何を持っているかで人間の価値が測られるのです。財産、学歴、職歴、家柄、社会的地位、能力、資格、美しい容姿、それらを持っている人間が優れた者とされるのです。   しかし、主の前で優れているかどうかは所有に関係ありません。ヨハネのようにたとえ、所有がゼロであったとしても、与えられた立場で忠実に仕える者を主は優れたものと評価して下さるのです。そして、そのような人物こそがクリスマスの最後の仕上げに用いられたのです。   聖書は言います。「彼は主の前に大いなる者となるからです」。クリスマス前の自己点検、その一つ目は「主の前に大いなる者であるかどうか」です。お互いは、主の前にどうでしょうか。人の前での評価は二の次です。クリスマスを前にして、お互いは、主が召された席で忠実に仕えたいと願います。それぞれの遣わされている家庭、職場、学校、地域、教会において、忠実に仕え、神様の前に優れた者としてクリスマスを迎えられたらと願います。 ~本論B~ 続いて二つ目です。「クリスマス前の自己点検」、その二つ目は、「自らの内側はどうか」ということです。お互いは、クリスマスを迎えるにあたり、バプテスマのヨハネを模範とし、「自らの内側はどうか」を点検したいと願います。それは15節の後半に書かれています。15節の後半の一文をお読みします。「彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ、母の胎にいるときから聖霊に満たされ」   「母の胎内にあるときから聖霊に満たされ」とあります。バプテスマのヨハネは、神様の前に大いなる者でありました。しかし、それは彼の肉の努力や能力によるものではありませんでした。彼の内側は常に聖霊に満たされていたのです。私たちも神様の前に優れた者であるためには、聖霊に満たされている事が大切です。   では、聖霊に満たされるとは、この文脈では、どういうことでしょう?15節にそれをうかがわせる内容があります。「ぶどう酒や強い酒を決して飲まず」とあります。ここでは、聖霊に満たされる事と、お酒を飲む事、飲酒が呼応関係で対称的に書かれています。   聖霊とお酒と言えば、エペソ5章18節です。「また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい」とあります。聖霊に満たされる事とお酒に酔う事とは類似性があることを、ルカの1章もエペソの5章も示唆しています。   お酒と他の飲み物は決定的に違います。お酒の特殊性は、その液体が、飲んだ人の考えや、、判断、行動に影響が及ぼすことです。は酒で取り返しのつかない失敗をすること、人生を棒に振る場合もあります。お酒というものはただの液体、飲み物に過ぎませんが、時と場合によっては私たちに計り知れない大きな影響を与えます。   聖霊も同様です。私たちが救われて聖霊を内に宿すと人格に影響が起こります。考え方、物事の判断、実際の行動や生活、そして人生そのものに大きな変化が与えられます。そして、さらに聖霊に満たされるとその人は聖霊から支配的な影響を受けるのです。 ちょうど、お酒に酔った人が自分の意思が働かない程、お酒に支配されてしまうように、聖霊に満たされると、その影響が人格と生活の全分野に支配的に及ぶのです。 もちろん、聖霊は力の霊です。宣教の力を与える霊です。しかし、聖霊を満たされることを元気が出る栄養ドリンクのように考えては、一面的になってしまいます。 なぜなら、聖霊は御人格をお持ちだからです。三位一体という人格のお一人なのですから、聖霊に満たされる時、私たちは聖霊の力を受けるだけでなく、聖霊から人格的な影響を受けるのです。   普段の人間関係でも、私たちは人と交わるとその人の人柄に感化されます。「朱に交われば赤くなる」と言う通り、人間は交わる相手から人格的影響を受けます。そのように聖霊に満たされるとは聖霊という御人格に支配的影響を受けることを意味します。 主なる神様とお交わり、お従いする歩みの中で、聖霊に満たされ続けていくのです。私たちが御言葉を聴き、それに従い歩むという神様のとの人格関係の中で、祈りという神様との会話の中で私たちは、聖霊というご人格に影響を受けます。さらに、人生の運転席を自分から神様にお譲りして歩み続けるなら、いよいよ聖霊に満たれた歩みがあるのです。  …

私たちは聖霊の宮

聖書箇所;コリント人への手紙第一6:12~20/メッセージ題目;「私たちは聖霊の宮」 水戸市の東の方、常澄(つねずみ)という地区に、すごい像が立っています。「ダイダラボウ」の像です。見るからに威圧感があります。この「ダイダラボウ」の像が、偶然大串貝塚にできた、と言ったら、みんなどう反応するでしょうか?「なに言ってんの?」まあ、当たり前です。こんな威容を誇るダイダラボウも、人の知恵で建てられました。 私たち人間はどうでしょうか? とても精巧です。ものを考えます。ことばを話します。ものをつくります。それなのになぜ私たち人間の学校やマスコミは、人間は偶然できたと教えるのでしょうか? もし、人間が偶然できたというのがほんとうならば、何をしてもいいことになります。人殺しをしてもいい、人のものを盗んでもいい、好きな人どうしでいやらしいことをしてもいい……しかし人間は、それをしてはいけない、と、心のどこかで意識してはいないでしょうか? そう、それは、人間が神さまに造られている証拠です。そして神さまは私たちのことを、「聖霊の宮」としてくださいました。ただ被造物であるだけではない、神の霊を宿す存在。 今日のメッセージはワンポイントでまいります。「私たちは聖霊の宮」。 みなさん、宮というと、何を思いますでしょうか? 私の故郷は「大宮」というところで、その名前の由来は、「氷川神社」という大きな神社です。私の地元では「おひかわさま」なんて言われて、崇敬を集めています。大きな宮だから大宮です。 宮、というのは、宗教的な崇敬の対象となる場所で、コリント人への手紙はギリシャのコリントにあてて書かれた手紙ですが、ギリシャだったらアテネの「パルテノン神殿」が有名です。当然、コリントにも神々の神殿があったわけです。 世界に目を転じると、これは聖書よりあとの時代ですが、インドのタージマハルですとか、カンボジアのアンコールワットですとか、とにかく「宮」というものは大きな存在で、信者の崇敬を集めるとともに、国を代表する観光名所になったりします。 日本ならどうでしょうか? 東京なら何といっても浅草の浅草寺(せんそうじ)です。ほかにも明治神宮、関東なら成田山新勝寺、日光東照宮、西日本なら伊勢神宮、太宰府天満宮、京都や奈良のたくさんの神社仏閣……きりがないのでこれくらいにしますが、とにかく、古今東西、人間のいたところには、崇敬の対象である宮があったといっていいでしょう。 さて、コリント教会は聖書の教えを受けるにあたって、当然、イスラエルの神を礼拝するうえでの「宮」というもの、旧約聖書に登場する、まことの神を礼拝する場所としての「宮」についても教えられていたわけです。出エジプトの荒野生活における「幕屋」、ソロモン以降のエルサレムにおける神殿、こういう話を聞いて、コリントの信徒たちは何を思ったことでしょうか? やはり自分たちのそれまでの宗教生活、ギリシャの神々の神殿に詣でていた過去のイメージと二重写しにしながら、まことの神、イスラエルの神を礼拝する「宮」というものをイメージしていたのではないでしょうか? それは、イスラエルの民を越えて世界宣教に出ていくにあたっては、克服すべき問題です。人は宣教によってイエスさまを知るように導かれたならば、偶像礼拝の「宮」ではなく、神の「宮」というものに対する正しい捉え方をする必要があります。 正しい捉え方と申しましたが、それは、創造主なる神さまを礼拝するには、ユダヤのエルサレムに行かなければならない、ということではありません。ヨハネの福音書4章、サマリアの女とイエスさまの会話に注目します。イエスさまは、愛に飢え渇いていたこの女性のほんとうの問題を言い当てました。サマリア人は、むかしからゲリジム山というところに礼拝場所を築いて、創造主を礼拝していました。しかし、彼女の問題を言い当てたイエスさまがユダヤ人の預言者ということで、この女性は、創造主を礼拝するならばユダヤ人の大事にしているエルサレムの神殿に行くべきなのではないか、と、動揺しはじめました。 しかし、イエスさまはおっしゃいました。(21節)礼拝をささげるべき場所とはサマリアのゲリジム山でもなく、ユダヤのエルサレムでもない、今からはそういう時代になる、というわけです。 礼拝とは、人間の手による宮、礼拝場所でささげられるものとかぎらない……イエスさまは何とおっしゃっていますか?(24節)イエスさまが求めておられるのは、御霊と真理によって礼拝する、ということです。プログラムをこなす「お勤め」、「参詣」、「参拝」、そういうものを求めていらっしゃらないことにご注目ください。御霊によって、つまり聖霊に満たされて、真理によって、つまり真理なる聖書のみことばによって、礼拝する。これを神さまは求めていらっしゃると、イエスさまは語られたのでした。 すると、神さまを礼拝する場所である、宮とは何か、ということになります。そこで、今日の本文の19節に注目します。 あなたがたは、聖霊の宮である、というのです! なぜかというと、あなたがたのうちにおられる神から、その肉体を、また、共同体なる教会を、あなたがたは受けているから、というわけです。教会とはキリストのからだです。したがって、私たち一人ひとりの肉体・たましい・霊が聖霊の宮であり、私たちの属する水戸第一聖書バプテスト教会・また、日本と世界のすべての教会が、聖霊の宮です。 私たちが宮であるということは、私たちにはオーナーがいて、また、設計者がいる、ということです。それは、神さまです。 みなさん、旧約聖書を読むと、あんなにもたくさん、イスラエルの神の幕屋ですとか、宮に関する記述が出てくるのはなぜだろうって、考えたことありますか? 読んでいて退屈になりませんか? あれさえなければ、もっと聖書通読は楽しいのに、なんて考えたりしませんか? しかし、これはちゃんと理由があります。設計や材料や礼拝のしかたをどうするべきかを微に入り細にわたって書いているのは、神さまがそうしなさい、とおっしゃっているそのみこころはひとつだから、ということです。わたしのみこころはこれだよ、と、神さまが人間に対し、わかるように教えてくださるため、そのために、あれだけ細かく、あれだけたくさん、宮についての記述が登場するわけです。それ以外の建て方をしたら神の宮とは言わない。それ以外の礼拝のしかたをしたら神を礼拝したことにはならない。 宇佐神先生は「聖書は創造主が人類に与えられた説明書」とおっしゃっていますが、けだし名言、アーメンです。しかし私たちは、例えばパソコンや携帯電話の分厚い説明書、その細かい字で書いてあるひとつひとつの説明を、読んで使いますか? 全部理解して使おうと思ったら、頭が痛くなるでしょう。基本的な操作さえわかれば、あとは使って、使っているうちに慣れてくればいいわけです。しかし、製造した側はそうはいきません。製造物責任法というものがありますので、それがどのような製品かをきちっと書いてわかるようにしておかなければならないわけです。 聖書もこれと同じで、本来神さまを礼拝するとはこういうことだったと、イエスさまがこの世に来られて律法を成就されてから2000年経っても、いらないといって削ることはしないわけです。 さて、イエスさまが来られて、この「神の宮」に関する教えは「アップデート」されました。世界宣教、神の民イスラエルの子孫であるユダヤやサマリアを越えた異邦人にみことばが伝わるにあたり、ほんとうの礼拝とは聖霊の宮なる人間そのものをもってするものである、という、ほんとうの教えが伝わりました。 神の民は、宗教生活に熱心でした。しかし、イエスさまはそのような神の民が、神さまのみこころをちゃんと守り行なっていないことに、激しくお怒りになり、ほんとうの神の愛というものを、弟子を育ててご自身の働きを分かち合われ、遣わされることによって、お示しになりました。そうです、イエスさまの弟子とは、神の宮としての生き方をまっとうする人たちのことです。 その、ほんとうの聖霊の宮をもって、御霊と真理によって礼拝する、それはどういうことか、このみことばを読みましょう。(20節)代価って何ですか? そう、イエスさまの十字架の血潮です。神の子の血潮が私たちの代わりに流された、これ、すごいことです。イエスさまの十字架の血潮が流された神の宮、聖霊の宮、それが私たちです。イエスさまの血潮によって私たちは神のものとしていただいたのでした。私たちの努力で神さまに認めていただいたのではありません。イエスさまが私たちを愛して、身代わりになって血潮を流してくださったのでした。 私たちの礼拝は、イエスさまがもう、血潮を流してくださった、「だから」ささげる礼拝です。イエスさまなしの礼拝というものは、私たちにはありえません。逆に言えば、私たちはイエスさまの血潮以外のものをもって神さまを礼拝することはできません。私たちが自分のからだをもって神さまを礼拝する、ということは、どうだ! こんなにも私は神さまのみこころを守り行えたぞ! と、自分の努力を誇ることではありません。私たちは神さまのみこころを守り行うことなどできない、それぐらいのひどい罪人なのに、神さまの恵みでみこころを守り行う者にしていただいている、ゆえに恵みの神さまに感謝し、そうさせてくださった神さまにすべてのご栄光をお帰しする、これが礼拝なのです。聖霊の宮として生きるということです。 私たちが聖霊の宮であるということは、もうひとつ、この宮を神さまとひとつとなること以外に使ってはなりません、別の言い方をすれば、神さま以外とひとつとなることに使ってはなりません、ということを意味します。(15節) 姦淫をすることがなぜいけないのか、それは、みこころを損なうから、ということですが、それはなぜみこころを損なうことになるのか、それは、キリストのからだを遊女のからだにしてしまうからだ、ということです。 列王記やダニエル書のみことばを読んでみますと、神殿の中から宝物が奪われて、偶像礼拝に使われるという悲惨な状況が語られています。それは敵が悪いというよりも、神の民が王をはじめとして偶像礼拝におぼれ、その結果主の宮が粗末な扱いを受けた、ということです。そのように、神の民が偶像礼拝という名の姦淫、貪りをすることは、私たちというキリストのからだを取って遊女のからだとする、ということです。 私たちは、そのような生き方をしてはいけません。なぜなら私たちは聖霊の宮だからです。だから私たちは聖霊の宮であるという自覚が必要です。聖霊をお迎えしているにふさわしくなければならないでしょう。汚い宮、というものは、それだけで矛盾です。私たちはきれいに保たれる必要があるでしょう。健康に保たれる必要があるでしょう。汚いものを見たり聞いたりしてはいけません。インターネットの情報とか、テレビの情報とか、注意してください。変なものを見つづけると、確実にけがれます。ジャンクなものばかり食べたり飲んだりしてもいけません。聖霊がけがれるわけではありませんが(ここ注意してください)、聖霊の宮がおかしくなります。し私たちはソロモンの神殿にもし自分がいたとして、勝手に土足で入るでしょうか? ものを食べながら歩き回って、ごみをポイ捨てするでしょうか? 私たちが聖霊の宮であるということは、それ以上のことです。聖霊さまにいていただくにふさわしく、自分を保たないでしょうか? 貪りのような快楽だけではありません。ストレスをそのままにしておいて、自分のことをケアしないのもいけません。聖霊の宮が壊れます。 聖霊の宮を保つ秘訣をお伝えして、今日のメッセージを締めくくります。それは、聖霊に満たされることです。具体的に何をすればいいかというと、毎日の礼拝と日曜日の礼拝です。毎日の礼拝は別名を「ディボーション」といいます。具体的には、毎日少しずつみことばをお読みし、そのみことばを黙想し、教えられたことを生活に適用し、実践することです。そして、この実践したことを、教会において分かち合うことです。そこまでやってディボーションは完成です。 でも、これは「お勤め」ではありません。みことばを聴かないと生きていけない! みことばを聴きたくてたまらない! だからこそするものが、ほんとうのディボーションです。ディボーションをすることで天国行きのステージが高くなるとか、そんな感覚でしてもらっては困ります。天国にはもう入れていただいているのです。そうではなくて、この茨城の地で神の栄光を顕す、その生き方をすることで神さまを礼拝するために、またその生き方をするうえで、肝心の聖霊の宮である私たちの健康が保たれるために、ディボーションをするのです。 それは、日曜日の礼拝も同じことです。私たちは聖霊の宮なるこのからだをもって、週に一日の時間を聖別して、創造主なる神さまを礼拝するのです。ちゃんと安息を神さまの前で取らないと、聖霊の宮は壊れます。私たちは聖霊の宮、神のかたちです。壊れてはいけません。 さあ、今日、ひとつ決断したいと思います。私たちは聖霊の宮として、これからどのように生きていきますか? しばらく祈りましょう。祈って、ひとつ決断しましょう。

罪きよめられた私たち

聖書箇所;コリント人への手紙第一6:1~11/メッセージ題目;「罪きよめられた私たち」 週報のコラムにも書きましたが、私は先日、かつて体験した弟子訓練に関する資料を見返す機会があり、むかしのことを思い出したりしていました。 弟子訓練――それは多くの時間を投資し、また、自分の中の足りなさが信仰の仲間たちとの共同体の中で取り扱われ、それだけに反省も多くさせられる時間でしたが、時間や労力の多くの犠牲を払った以上の喜びに満ちあふれた時間でもありました。 私は弟子コースの中では外国人でしたし、何よりも人生経験が圧倒的に不足していたので、ほかの訓練生たちほど成長できたようにはあの頃は思えなかったものでした。しかし、そんな私も来月48歳を迎え、あの頃のほとんどの訓練生の年齢を追い抜かした今となっては、その訓練の貴重さがあらためてしみじみと感じられるものです。 しかし、このように主の弟子として訓練されることを拒否し、そのくせ教会において権利を主張してはばからない人というのは、いるものです。私たち教会は、そのような歩みをしないためにどのようにみことばを学ぶべきでしょうか。 それでは本文にまいります。第一コリントもこのあたりまで来ると、かなり具体的に教会内の罪を取り扱うことばへと引き移ってまいります。先週は5章を学びましたが、父の妻を妻にする、姦淫の者を教会から除名するべきだったという、コリント教会にとっての相当に大きな問題を取り扱っています。 今日の箇所、6章においても、教会内の人間関係のありかたについての教訓と叱責が述べられています。1節のみことばからまいります。……ここでパウロが問題にしているのは、教会内でいざこざが起こったとき、その解決を自分たち聖徒の間でするのではなく、正しくない人に訴える、ということです。 正しくない人、というのは、神さまから見て正しくない人、という意味です。すなわち、人はイエスさまの十字架を信じる信仰により正しい者とされるのですから、正しくない者とは、イエスさまへの信仰とは関係のない人々、という意味で、つまり、この世の法廷、という意味です。教会内の問題を裁判所に訴える、ということに、パウロは苦言を呈しているわけです。 つまり、倫理的に正しくない者に訴えるな、ということではありません。彼らこの世の裁判官たちは倫理的になら正しい者だから、裁判をすることができるわけです。そうではなくて、クリスチャンたちは、イエスさまの十字架の血潮で罪が洗われていない者たちに訴えるな、ということです。 2節のみことばです。……聖徒は、世の終わりにキリストとともに世界をさばく者となります。私たちは主にあって、自分のことを評価すべきです。それなのに、自分たち聖徒はすべてをさばくことができる者だというアイデンティティを放棄して、この世の法廷で教会のことをさばいてもらおうとするとは、教会に与えられたきよさを否定することになります。それ以上にこのことは、教会をこの世と分けてきよくし、さばきの権威を与えてくださった、神さまのみこころを踏みにじることです。そのさばきの範囲は、どこまで行くのでしょうか。3節です。 ……御使いとは、神さまが人間よりも上位に置かれた存在です。しかし、その御使いを最終的にさばき、悪魔と悪霊という、神と人に罪を犯した霊的存在をさばく権限を、神さまはクリスチャンに与えられました。聖徒に与えられた霊的権威は絶大です。 4節をお読みします。……教会の中で軽んじられている人、とは、教会内の役員ではない末端の信徒、という意味ではありません。そもそも、末端の信徒という概念は、聖書的ではありません。聖徒の存在に上下はありません。だから、「末端の信徒」というものは教会にはいないと考えるべきです。そういうことではなくて、この「教会の中で軽んじられている人」とは、教会の外にいるこの世の人、という意味です。 コリント教会は思い上がっている群れであるとパウロは責めていました。コリント教会には特権意識がありました。普段は自分たち教会のことを、この世から選ばれた特別な存在と見なしていたことでしょう。しかし、それは主にあって謙遜な態度を生むのではなく、彼らを思い上がらせていました。彼らが実際にやっていることといえば、教会の外にあるこの世の権威、神から見て正しくない者の権威を正しいと見なし、その権威に委ねてさばいてもらっていたということです。これは、ダブル・スタンダードもいいところです。 5節のみことばをお読みします。……パウロはここで、何を問題にしているのでしょうか。聖徒は御使いさえもさばく者であるという、聖徒本来のアイデンティティと権威を身に着けて、教会を運営するようなリーダーが存在しないことを、パウロは問題にしています。そのアイデンティティに根ざした実行力があるならば、聖徒の間の問題を解くことはできたはずです。それさえもできていないとは、あなたがたはなんと、神に選ばれた聖徒としてふさわしくないのか、聖徒として恥ずかしいことだ、と叱責しているわけです。 6節です。……このように、この世の法廷に教会内のいざこざが持ち込まれるということは、どういう結果をもたらすでしょうか? この世の者たちが、教会をそのような程度の低い団体としか見なくなるということです。そもそも、法廷というものは、人が日常茶飯事のように利用する場所ではありません。よほど解決しがたい問題が起こったときに用いるものであり、だからこそ訴訟ということは大ごとになるのです。 本来、教会内で解決していれば済んだ話が、教会外の法廷に持ち込まれると、どうなるでしょうか? 所詮教会とはそのようないざこざに満ちたよくない場所、としか未信者に思ってもらえなくなり、証しにならないことこの上ありません。それによって宣教、神の国の拡大は進まなくなります。教会が内部においてさばきの権限を行使しないということは、これほどまでのマイナスの副作用をもたらすことになるのです。 7節のみことばです。……このようなことをパウロが言うのはなぜでしょうか? 泣き寝入りをするのがみこころだ、とでもいうのでしょうか? もちろん、そういうことではありません。クリスチャンにとっては赦しというものが何にもまして優先されるべきである、ということをパウロは言いたいのです。自分は神に選ばれている、それはたしかにそうなのですが、それが、自分という人間は特別である、自分が基準だ、などとなったら、様子はちがってきます。 コリント教会の問題となっていた信徒は、自分の正しさは主張したかもしれません。しかしその正しさは、神の正しさとイコールではありません。もしそれが神の正しさならば、罪を赦すイエスさまの十字架に対する信仰を人間関係の中で働かせてしかるべきだからです。しかしその人はそれをせず、相手をさばくことしかしない、それも、みことばではなくてこの世の法律に訴えて……ということです。そのような神さまの愛が存在しない自己中心の姿勢を、パウロはこのような表現を用いて、激しく糾弾しているわけです。 8節のみことばです。……そのようにして自己中心で兄弟をさばくあなたは何をしているのか。主の愛で愛すべき兄弟に対して不正を行なっているではないか、だまし取っているではないか……パウロは、主にある兄弟に対して罪を犯す者を非難しています。 彼らコリントの問題信徒は、自分が被害を受けたらこの世の法廷に訴える、という、さばきの権威を与えられた神さまのみこころをないがしろにする罪を犯していただけではありません。なんと、兄弟に対して罪を犯していた、という、もっと根本的な悔い改めるべき罪があった、というわけです。まさにイエスさまのおっしゃっていたとおりの、兄弟の目からちりを取り除かせてくださいという、その自分自身の目に、梁がある、という状態だったわけです。 このような、コリント教会の問題信徒たちが行なっていたという不正が実際はどのようなものだったかは、みことばは具体的にくわしく述べてはいませんが、少なくとも、それは一般的な倫理や法律に照らして不正であるということよりも、主のみことばの基準からしたら不正である、みこころにかなわないことである、ということは確かです。 しかし、コリントの信徒たちは、もともとがそのようなみこころに反するさまざまなことを平気で行う者たちの中から、イエスさまの十字架の贖いを信じて救われた者たちです。もともと彼らコリント人、というより、この世の者たちはどのような者だったのでしょうか。9節と10節をお読みしましょう。 ここではまず、9節と10節に分けて読んでまいります。まず9節ですが、これはすべて、このリストの先頭に出てくる「淫らな行い」ということでひとくくりにできる内容です。淫らな行いとはすなわち第一に、偶像を拝むということです。 コリントはほかのギリシャの都市がそうだったように、神々の精神風土、偶像礼拝の都市でした。偶像の神々を礼拝することは常識であり、彼らにとっては美しい文化でさえありました。しかし、まことの神さまの御目から見れば、それがどんなに美しく思えようと、それは神さまを離れ、悪魔悪霊と交わるということです。つまり言い換えれば、神のかたちとして創造された人間が、神ならぬものと霊的姦淫を行うということです。ゆえに、淫らな行いとは何よりも、偶像を礼拝することです。 姦淫する、男娼となる、男色をする、これらはすべて、人間の性的な問題であり、性的な不道徳を指していますが、みなこれはコリントの神々の祭りで行われていたことであり、根本にあるものは、偶像礼拝という名の霊的な姦淫です。偶像礼拝の表現として、彼らは相手が女性であれ男性であれ、いやらしいことをしたわけですが、注意すべきは、偶像礼拝という霊的姦淫は、人間の肉体を用いた姦淫という形で色濃く表れる、ということです。 そもそも性というものは、終わりの日にキリストと教会が結ばれる、その霊的な奥義をこの地上で実現すべく、神さまが人間にお許しになったものです。それゆえに、ひとりの男性とひとりの女性が結婚関係にある中で性というものが用いられる、これが神さまの定められた原則です。結婚というものはそれゆえに美しいものです。 これを外れて性を用いるとすれば、その人の動機はどこにあるでしょうか? 神さまのみこころを離れて、自分の肉の欲望の赴くままに生きたい、ということではないでしょうか? しかしこれは、その性的欲望に働いて神さまのみこころから人を引き離すサタンのことを、神さま以上に大事にしているということです。性は結婚の枠内で用いるもので、それでこそみこころにかなっています。 10節に入りますと、姦淫ということからは取りあえず離れます。この5つのことは、その2番目の「貪欲」に関わってくることです。貪欲が偶像礼拝であることは、さきほども申しましたとおりです。 盗むことは何でしょうか? それは人のものを自分のものにしてしまうということであり、人を大事にせず、自分を大事にするということです。自己中心の貪りであり、しかも、その貪りは、人の望まない犠牲の上に成り立っているものです。 イエスさまの十二弟子の会計係だったユダも、そのような「盗む者」でした。神の国のために用いるべき大事な献金を、自分の欲望、貪りのために少しずつ勝手に使っていたのでした。そのような、平気で罪を犯せる感覚は、イエスさまを裏切る、つまり、サタンにたましいを売るという大きな罪と一直線上にあったものでした。 酒におぼれることは、あらゆる罪深い行動の根源になることです。酒におぼれるならば、人は保つべき正しい判断ができなくなり、みっともない姿をさらします。まさに、ぶどう酒を飲んで裸になったノアのようにです。さらに深酒が過ぎると、体を壊します。そういうことはつまり、人間のことを神のかたちに創造してくださった、神さまのみこころに反逆することです。神のかたちとしてふさわしい行いに反することをし、神のかたちである肉体を破壊する、深酒という快楽は、そのような貪り、神よりもサタンに従う偶像礼拝です。 そしること、これは、人間的な欲望の赴くままに人を引き下げることばを吐くことです。悪口を言ってはいけない、陰口をたたいてはいけない、普通私たちはそのように教えられます。もちろん、そうしてはいけないのは神さまのみこころです。だがこのとき、コリントの信徒たちはそしり合っていました。なんともみこころにふさわしくない態度です。そして現代においては、面と向かって悪口を言ったり、陰口をたたいたりするにとどまらず、SNSやインターネットの匿名掲示板のようなものが、その「そしる」場となっています。この書き込みを目にして心を病んだ人の中には、自殺に追い込まれた人さえいます。実に「そしる」という行動には、ものすごい悪の力、悪魔の力が働いています。そのように人をそしって留飲を下げても、していることは肉を喜ばせる貪りでしかありません。 そして、盗むということについてはすでに述べましたが、奪い取る、ということについても語りますと、それは、力関係に任せて人のものを取る、ということです。マンガのいじめっ子のセリフではありませんが、「おまえのものはおれのもの、おれのものはおれのもの」、奪い取る者とは、人のものを力ずくで自分のものにしておいて、そういう自分の行いを正当化する者のことです。 それが、私たちの本来の姿だったというのです。なんと罪深いことか、と改めて思いませんでしょうか? しかし、11節をお読みしましょう。……今、私たちはこのような者なのです。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者、古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなった……第二コリント5章17節に語るとおり、私たちはもう、霊的また肉体的に姦淫する存在でもなければ、貪る存在でもありません。これが、私たちなのです。 それでも私たちは、まだ古い性質が残っています。貪りという名の偶像礼拝にふけってしまい、神さまよりも別のものを大事にすることで、神さまを悲しませ、サタンを喜ばせる、それは私たちがついしてしまうことです。 しかし、私たちはそれで終わる存在ではありません。肉に逆らう御霊がうちに住んでいる、それが私たちです。御霊に親しみ、御霊に満たされるならば、私たちは神さまのお嫌いになる罪から遠ざけていただく者となります。肉を喜ばせたくなる前に、偶像を拝みたくなる前に、神にかたどられた人をそしりたくなる前に、いやらしい妄想にふけりたくなる前に、そういうことをしてはいけない、と、御霊なる神さまが私たちを引き止めてくださいます。あとは私たちが、御霊なる神さまにお従いするという選択をするばかりですが、その選択も、神さまの恵みの中でできることであり、神さまはその恵みを私たちに与えてくださいます。 こうして、私たちはもはや、肉にしたがって生きる必要のない者となり、きよめ主なる主の栄光を顕しながら生きるものとしていただけるのです。何と感謝なことでしょうか。この、みこころに従順になる生き方が私たちをとおして実現していること、それは大きな恵みのみわざです。神さまはなんと、ここにいる私たち一人ひとりをとおして、現実にみわざを行なってくださるのです! 私たちは少なくとも、罪に対して敏感に働く御霊、私たちが罪に傾きかけると悲しまれる御霊が、心のうちにおられます。そんな私たちこそが、主の弟子として教会を立て上げるのです。御霊の満たしによってつねに罪を避け、つねに悔い改める、そのようにしてイエスさまに近づき、イエスさまとともに歩ませていただく、主イエスさまの弟子として訓練されるこの道を歩むことが、私たちに求められています。 その歩みは、私たちの力でできるものではありません。しかし主は、私たちを必ず、過去の罪からひとつひとつ決別させてくださいます。きよめは一生ものです。そうして私たちは、世を去り、主の御前に出るとき、完成していただける、その信仰をもって、ともに歩んでまいりたいものです。私たちは完成に向かうのです。罪から決別させていただけるのです。信じて歩んでまいりましょう。その約束を喜んで歩んでまいりましょう。では、お祈りします。

罪を犯さない歩みとは

聖書本文;コリント人への手紙第一5:1~13/メッセージ題目;「罪を犯さない歩みとは」 先週学びましたヨハネの福音書8章のみことば、姦淫の女性をイエスさまがお赦しになった箇所ですが、あのときイエスさまは最後に女性になんとおっしゃったでしょうか? そうです。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」 このみことばからはいろいろ考えられるでしょう。イエスさまに罪を赦していただいたならば、もう罪が赦されたのだから何をやってもいい、というわけではない、罪を犯さない生き方をしなければならない……しかしそれなら、どうすれば罪を犯さないようになれるのだろうか……。 今日お読みした箇所、第一コリント5章のみことばは、このように「これからは決して罪を犯さない」生き方をするうえで大事なヒントを私たちクリスチャンに与えてくれています。「決して罪を犯さない歩み」、それは何か、今日ともに学んでまいりたいと思います。 第一コリントは5章に入りまして、急展開します。パウロは思い上がっているコリント教会の罪深さを4章までにおいて指摘していますが、5章はかなり具体的なその罪の内容の指摘から始まっています。1節のみことばです。……これは、かなりショッキングな事実ではないでしょうか? もちろん、この「父の妻」は、「実の母親」のことではないでしょう。そうならそうと書くはずです。母親以外の別の父の妻といったところでしょう。それでも、これは「ありえない」話です。神の民としての律法を持つユダヤから見れば整っていない異邦人、その異邦人の社会にさえないような話であると、パウロは呆れかえっています。 もし、コリント教会が主のからだなる教会であるという自覚があるならば、このような目に見える罪を犯しているような者に対しては、それ相応の措置を講じてしかるべきです。このように、教会が罪ある信徒に対して懲罰の手段を講じることを「戒規」といい、たとえば主の晩さんにあずかることが禁止されたり、もっと重い懲罰の場合は「会員権の停止」、さらには「除名」となったりします。この「戒規」の持つ意味については、あとで詳しく扱います。 コリント教会の場合も、このような度を越した姦淫をやめようとしない者に対し、しかるべき「戒規」を施すべきでした。しかし彼らは何をしていたのでしょうか? 2節のみことばです。 ……彼らはそのような「罪人」の存在を悲しむこともありませんでした。では、何が思い上がっていたことだったか、というと、それは、どんな罪も、ふさわしくないことも許される、と、やりたい放題のことをしていた、ということです。 教会はきよい神の民であると同時に、罪人の集まりです。放っておくとこのようなことにもなりかねません。しかしパウロは、コリント教会を監督する者の立場から、このように罪を悔い改めない者に対して、しかるべき措置を講じました。3節から5節です。……さばいた、ですとか、サタンに引き渡した、とあります。これはどういうことかというと、この罪人を教会から除名した、ということです。 パウロはここでこの「罪人」の名前を具体的に上げてはいませんが、この手紙を受け取ったコリント教会は、ああ、この人はコリント教会からすでに除名されているのか、と、それ相応の手はずを整えることになります。それは、罪人ひとり除名できない程度の自浄作用しか持ち合わせていないコリント教会に対して、パウロがそこまで面倒を見なければおけなかったということですが、この「除名」ということに関しては、もうひとつの側面があります。 それは、パウロのような使徒的な監督のもとに教会をつくっているわけではない、こんにち世界中に存在するすべての教会に言えることですが、罪を犯している人は第一に「神の前に」罪を犯している人です。そのような者は、教会という交わりの中でたとえそのひそかに犯している罪がばれていなくても、神さまの御前にはすべてお見通しです。神さまはそのような罪人に対し、それ相応のお取り扱いをされます。 そのような罪人は、神さまの領域である教会の中にとどまるよりも、サタンの領域であるこの世に出ていくことを選びます。つまり、教会から除名されるということは、除名する側の神の教会が意地悪だったり、冷たかったりするのではなく、その「罪人」の望むままを行なってあげている、ということでもあります。 しかし、そのような世間は、サタンが支配している以上、彼らにとって決して幸せになれる場所ではありません。多くの傷を負いますし、心とからだが病みもします。そうなったとき、その人は、まるで放蕩息子が父の家に帰る決断をするように、御父のもとに、御国に、帰りたいと願わないでしょうか? そのことが、終わりの日に救われるうえで主イエスさまに対する信仰を働かせるうえで原動力とならないでしょうか? 除名という、この冷たいことばの響きを持つこの行為は、そう考えると、罪人をほんとうの悔い改めに導くための、どこまでもその人のために存在する有難い制度であるわけです。 そして、この「除名」ということには、もうひとつの重要な役割があります。6節から8節です。……私たちはイエスさまの十字架の血潮、完全な罪の赦しによって、罪という名の古いパン種が取り除かれた、新しいパン生地です。 古いパン種、ですが、これは、「カビ」ですとか「バイキン」といえばいいでしょうか。パン生地は悪い菌がつくと生地全体がだめになるので、古いパン種、つまり悪い菌を徹底して取り除く必要があるわけです。 そういうわけで「除名」ということには、教会という共同体をきよく保つという機能もあります。教会の中で不品行などの悪い行いを悔い改めない人が大きな顔をしているならば、ああ、自分もそれくらいのことはしてもいいのか、と考える人が、必ず出てきます。そのようにして悪い行いは伝染し、やがて教会は取り返しのつかないほど罪に汚染されることになります。そうならないためにも、罪や悪というものに対して教会は、徹底して厳しい態度で臨む必要があるわけです。 しかし、もっと積極的なことを言えば、罪を取り除くという以前に、自分たちが「誠実と真実の種なしパンで祭りをする者」という自覚をもって礼拝をし、また、教会形成をすることが大切です。私たちはイエスさまの十字架によって、完全に罪が取り除かれている、教会とはまさしく、この信仰告白の上に立つ共同体です。 先週学んだ姦淫の女のことを考えてみましょう。あのとき彼女は、さばき主であるイエスさまの前で、石を投げつけられていのちが果てる瀬戸際にいました。死をもって償うほどの罪を犯したのだから、仕方がなかったのでした。そのさばきの座はまた、人の前に自分がひそかに犯した罪がさらしものになるという、恥にまみれたときとなりました。 それが赦され、死ぬことがなかったのは、イエスさまが赦してくださったからです。その赦しは、神の愛と神の義を同時に実現した、イエスさまの十字架につながるもので、まさしく人は、イエスさまの十字架によってこそ罪が赦され、神の民となることを象徴していました。 この女性に対してイエスさまが「これからは、決して罪を犯してはなりません」とおっしゃったことは、完全に罪赦されて新しいパン生地になった者としてふさわしく生きなさい、ということです。その生き方を目指していくならば、姦淫のような罪にわざわざ身をさらすことなどなくなっていきます。 新しいパン生地、誠実と真実の種なしパンとしての生き方をしていけるならば、罪を嫌われる聖霊なる神さまが私たちのうちに住んでおられるゆえ、罪から自然と身を避け、足が遠のくようになっていきます。こうして私たちは、聖い生き方を全うしていくようになるわけです。 つまり、「決して罪を犯さない」生き方とは、ひとつひとつ生活の細かいところ、重箱の隅をつつくように罪を避ける、そのような律法主義的な生き方から生み出されるわけではなく、私たちをまことに罪から救い出してくださった、イエスさまとの関係によって、聖霊の交わりによってはじめて可能になる生き方であるわけです。私はイエスさまによってきよくされている、赦されている、この自覚が何よりも大事です。 さて、そのように聖くされている私たちは、それではほかの人たちとの付き合いをどのようにすべきか、それもみことばは語っています。まずは9節と10節をお読みしましょう。 ……パウロは確かに、この第一コリント以前の書簡で、淫らな者とつき合うな、とコリント教会に警告しました。しかしそれは、この世の罪人たちとつき合うな、という意味ではないと語ります。 そもそも、コリント教会は、神さまの基準から見ればとんでもない罪人たちがキリストの救いにあずかってできた共同体です。その救われた恵みを忘れ、自分たちで内向きに固まってしまったならば、もはや宣教ということはできなくなります。この世から出ていく、つまり、早く天国に行きたいと思うばかりになったり、この世と別れた修道院のような生活をするようになったりするしかなくなります。しかしそうなったら、コリントにおいてもはやそれ以上の宣教の拡大は見込めなくなります。 私たちもそうです。私たちもこうして世から救い出していただいた者なので、もうこの世の人たちとつき合いたくない、と思うでしょうか? それはわかりますが、自分たちどうしのつきあいに凝り固まっていたら、どうしてこの世の人たちはキリストに出会うことができるでしょうか? 私たちは、たとえ自分たちの目に、彼らがひどいことをしている罪人のように見えても、彼らの中に入っていき、彼らの隣人になろうとすることをやめてはならないのです。 私たちにとっては、たしかに彼ら罪を犯している人たちはつき合いづらい人たちと感じかもしれません。しかし、彼らとつき合ったら、私たちにとっての神さまとの関係は侵されるのでしょうか? それほど、私たちにとっての神さまとの交わりはその程度の薄いものなのでしょうか? 私たちがほんとうに神さまとの交わりを持っているならば、堂々と彼らの中に入っていってしかるべきなのではないでしょうか? あるいは逆に、彼らとの交わりに入るのがみこころと思うならば、それに耐えられるだけの交わりを神さまとの間に保つべきなのではないでしょうか? いずれにしましても、問題は私たちにとっての神さまとの交わりです。そして神さまが私たちのことを、神さまとの交わりに彼ら、今は神さまの基準を外れている人を招くべく用いてくださるように、私たちは祈る必要があるのではないでしょうか? 今はまだ、みことばから見ればふさわしくない行いの中にいる人も、もしかしたらその行いを悔い改め、まったくきよくされて私たちとともに未来の水戸第一聖書バプテスト教会を形づくる人であるかもしれないのです。 しかし、罪というものはイエスさまの十字架の血潮によって消されるべきものです。私たちクリスチャンにとってはなおさらそういうものです。それなのに、罪をイエスさまの十字架の前に差し出さない人はどうなるでしょうか? 11節から13節です。 特にこの11節の罪のリスト、このような罪を犯して恥じることをしない者は、たとえ教会の中で「兄弟」と呼ばれていようとも、クリスチャンとしての扱いを受けるべきではない、ということです。「一緒に食事をしてもいけない」とは、主の晩さんにともにあずからない、ということ以上に、教会で食事をするような親しい交わりをしてはいけない、ということであり、極めて厳しい命令です。 しかしこの、「淫らな者」、「貪欲な者」、「偶像を拝む者」、「人をそしる者」、「酒におぼれる者」、「奪い取る者」……このような、教会から排除すべき罪をひとつひとつ厳密に適用するとどうなるでしょうか? イエスさまは、だれでも情欲をいだいて女性を見る男性は、すでに心の中で姦淫を犯していると喝破されました。このみことばの基準が適用されたら、果たして何人の信徒が生き残れるでしょうか? コロサイ書3章5節によれば、貪欲が偶像礼拝であると語られています。自分は神社仏閣を参拝しないし、神棚や仏壇を拝むこともしない、お葬式で焼香もしない、という人でも、(もちろん、それも大事ですが)スマホやテレビなどの中毒になっていたら、それは「貪っている偶像礼拝」になりはしないでしょうか。お酒とありますが、アルコールの入った飲み物を飲まなくても、体に悪い飲み物をがぶ飲みしていたら五十歩百歩です。「奪い取る者」も、強盗のような腕ずくの暴力ででなくても、こそこそと人のものを取るなら同じことです。そうだとするとみんな、教会から排除されてしまう人間です。 私たちはそのような、教会から排除されてしまう罪人である。私たちには第一に、そのような自覚が必要であり、だからこそ私たちは、そのような自分には、神の民、キリストのからだなる教会に加えていただけるだけのよいものは何もないことを謙遜に認め、キリストの十字架にすがる信仰を増し加えていただくのみです。 人の罪を取り扱えるのは、そのように自分たちが赦された罪人であるという前提から可能なことです。本来私たちは、人の罪などさばく資格のないものです。しかし神さまは私たちの罪を赦してくださったのと同時に、キリストのからだなる教会の中から罪を取り除く権限を与えてくださいました。私たちに与えられたこの権限は、お巡りさんがその身を守るために身に着けているピストルはまず撃ってはならないのが原則であるように、用いる必要がないならば用いないことが原則です。しかし、どうしても私たちがきよくあるために必要とあらば、私たちは罪を犯した人を教会から除名することも時にすべきことになります。 私たちが罪赦されてきよいパン生地とされているということは、そういうことです。私たちの罪深さを思うならば、人をさばくなんてことはできない、と思うでしょうか? しかし、私たちの罪はイエスさまの十字架に釘づけにされています。私たちは罪が取り除かれた者として、これ以上自分たちの中に罪を堂々と存在させるようなことをしないようにしなければならないのです。それが、私たちをきよくしてくださった神さまのために私たちが果たすべき責任です。 それでも私たちは、考えなければならないことがあります。さばく側に立つ私たちもまた、本来ならば罪人ゆえにさばかれて、キリストのからだなる教会のひと枝から切り落とされるべき存在であった、ということです。私たちは今、だれかを除名しなければならないようなきびしい現実に置かれているわけではありません。しかし、自分は本来ならば主のからだなる共同体から切り落とされてもしかたのない罪人である、という自覚は、つねに持っている必要があるのではないでしょうか? それでも、私たちは切り落とされません。なぜでしょうか? イエスさまの十字架の愛のうちにとどまっているからです。「これからは、決して罪を犯してはなりません。」イエスさまは、罪赦された私たちに言ってくださっています。私たちは教会の中にとどまりたいならば、イエスさまの愛のうちにとどまる者、すなわち、イエスさまの赦しのうちにとどまる者として、教会という共同体にとどまる必要があります。 それでも、教会という共同体に背を向けてしまった人はどうなるのだろう? あの愛する兄弟姉妹も背を向けてしまったが? 私たちはそういうことも思いますでしょうか? しかし、除名のほんとうの目的が悔い改めにあることはさきほどもお語りしたとおりです。自らを除名するような行動に出て、もはや地上の教会の交わりに加わることをしない兄弟姉妹も、いずれはこの世の悪の勢力の中で、かつての教会生活の中で受けていた恵みの素晴らしさ、真実さに立ち帰り、悔い改めて帰ってくることを、私たちは祈るべきです。 教会にとどまる私たちにせよ、教会から背を向ける兄弟姉妹にせよ、共通していえる大事なこと、それは「悔い改め」です。私たち、イエスさまの十字架を信じて救われた者には、「悔い改め」によって、神さまとのより強いきずなに結び直される恵みがつねにある、これほど感謝なことがあるでしょうか。 「罪を犯さない歩み」、それは、悔い改めたが最後、もう二度と罪を犯さない、もし罪を犯したらそれでおしまいだ、ということでは絶対にありません。ヨハネの手紙第一、2章1節をご覧ください。……神さまの恵みによりすがって、罪を犯さないように導いていただく、しかしそれでも罪は犯す、でもそれでおしまいではない、すべての罪を赦してくださるイエスさまがいてくださる……。 私たちがもし、罪を犯すな、といわれっぱなしだったら、絶望するしかありません。しかし私たちがもし、いつもイエスさまとともに歩み、たとえ罪を犯しても悔い改めて主との関係を結び直すならば、主は私たちのことを、罪を犯していない人として見てくださるのです。なんという大きな恵みでしょうか。この恵みによりすがって、今日も赦しを与えてくださる主に感謝しつつ生きてまいりましょう。ではお祈りいたします。

イエスさまは愛なり

聖書箇所;ヨハネの福音書8:1-11/メッセージ題目;イエスさまは愛なり 小学生のとき、私はクラスの友達から「聖書物語」という本を借りて、一生懸命に読んでいました。いろいろなエピソードが載っていたもので、出エジプトの十の災害の箇所など、子ども心にとても驚いたものでした。そのときその本を読んだことが、のちに教会に通うようになったときに役に立ったわけですが、その物語の中で、出エジプトの話と並んで印象に残った話が、さきほどお読みいただいたイエスさまの物語です。これを読んで、このイエスさまという方はただのお方ではない、と、子どもながら思ったものでした。 今日の本文にまいりましょう。1節と2節です。……この物語は、イエスさまがオリーブ山にいらっしゃったという記述から始まっています。ルカの福音書の記述を見てみますと、イエスさまが最後にエルサレムで過ごされたとき、夜はオリーブ山で過ごされ、昼は宮で教えられたとあります。オリーブ山で過ごされたのは、御父との交わりに専念されるためでした。 夜という時間は、周囲の景色という景色が暗やみに包まれ、よく見えません。感じるのは、山のひんやりした空気だけです。そのような場所は、御父に向かって祈りをささげるのに最も適した場所でした。 イエスさまは、御父なる神さまの御子として、この御父との交わりの時間をとても大切にされました。この日もそのようにして、御父との時間を過ごされてから、エルサレム神殿にてみことばを民に対し語られる働きに出ていかれました。 そのようにしてイエスさまが神殿に入られると、民が集まってきました。イエスさまは、みもとに集まる民に、喜んでみことばを語ってくださいました。そうです、私たちがイエスさまのみもとに行くとき、イエスさまは喜んで私たちにみことばを語ってくださいます。 ところがここに、みことばを聴くためではない、まったく別の理由でイエスさまのもとにやってきた者たちがいました。3節から5節をお読みします。……われこそは正義の味方なり、とでも言わんばかりの態度です。義なる神さまの義に照らせば、この女はさばかれて当然だ。さあ、あなたなら何と答えますかな? このユダヤ人の女性が姦淫の罪を犯した、というのは、ほんとうのことでしょう。だから彼女は、ユダヤの宗教指導者であるパリサイ人や律法学者たちのさばきにも服さざるを得なくなっていました。しかし彼ら宗教指導者がこの女性の罪を裁くことは、イスラエルから悪を除き、共同体を保つため、ということを第一に考えていなかった模様です。もしそういう目的があったならば、彼ら宗教指導者は、彼らなりに裁判を開いて決着をつけるべきでした。それなのに彼らは、イエスさまのもとにこの女性を引いていったのでした。なぜでしょうか? 6節の前半をお読みします。 そう、彼らの目的は、窮極的には、イエスさまを罪に定めてもはや何の活動もできないようにさせることにありました。たしかに申命記を読んでみますと、姦淫を犯した者は死刑に処せられるとあります。しかしその律法によると、死刑に処せられるのは男も女もでありますから、この場に女性だけが連れて来られたのはおかしな話です。男は、逃げるか何かしたのでしょうか。哀れにもこの女性は、たったひとりで神殿に連れ込まれ、群衆の見せしめになったのでした。 それはともかく、もしこのように姦淫を犯した者を、律法の告げるとおり死刑にせよと語るならば、普段イエスさまの説いておられる愛と赦しの教えは嘘だったことになります。その一方で、もしイエスさまが死刑にしてはならないと言われたならば、それはモーセの律法に反したことを教えたことになり、主のみことばに対する冒瀆を働いたことになります。 そしてもうひとつ。イエスさまを告発するのが彼らの目的だった、とあります。律法どおりに死刑にすべし、とイエスさまがおっしゃったならば、それは、唯一臣民を死刑にする権限を持ったローマ帝国に対する越権行為的な発言をしたことになり、宗教指導者たちはローマ総督に訴え、イエスさまは抹殺されてしまうことになります。そして、赦しなさい、とおっしゃったならば、宗教指導者は大祭司に訴え、これまたイエスさまは抹殺されてしまうことになります。政治的にローマが支配し、宗教的にユダヤ教の大祭司が支配するユダヤならではの政治形態を利用して、彼ら宗教指導者は、少なくとも彼らにとっては完璧に、イエスさまを抹殺する方法を編み出し、それをついに実行に移す時が来たのでした。 だがイエスさまは、そのような訴えを意に介されません。地面に指で何か書いておられました。いったい何を書いていたのかは、聖書は語っていないため、これは諸説ありますが、ひとつはっきりしていることは、イエスさまはあえて即答されず、彼らに語るに任せられた、ということです。 なぜ、イエスさまはその場で即答されなかったのでしょうか? その理由を考えてみたいと思います。7節と8節のみことばです。……イエスさまを責めたてる彼ら宗教指導者たちは、とにかく律法を守り行なうことに熱心でした。そのことによって、彼らはいかにも自分が罪のない人であるかのように振る舞っていました。 イエスさまはしかし、そんなふうに振る舞う彼らは、かえって、つねに罪人であるという自覚を抱えながら生きているということを見抜いておられました。自分も含めて人間はことごとく罪人であることが感じられてならないからこそ、モーセの律法の正しさを研究し、その正しさを自分のものとすべく努力し、また、人に教えているわけです。そんな彼らに、イエスさまのこのみことばは強烈な一撃を与えました。あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。 イエスさまは、石を投げてはいけないとおっしゃったのではありません。石を投げなさい、と、はっきりおっしゃっています。モーセの律法のとおりです。ただし、それができるのは、罪がない人だけである、とも語られました。 モーセの律法を完全に守り行える人は、罪のない人だけです。パリサイ人や律法学者は人間的にはストイックで偉い人であったかもしれません。しかし、彼らが罪人であることに変わりはありません。モーセの律法を完璧に守り行えてなどいないのです。 これさえおっしゃればもう充分でした。宗教指導者たちがそれでも石を投げつけるかどうか、もうはっきりしていました。イエスさまは彼らのことは意に介さず、顔を上げずにまた地面に何か書かれました。 9節のみことばです。……イエスさまのこのことばを聞いた宗教指導者たちは、年上の者から、ひとり、またひとり、その場を去っていきました。自分はこの女性に石を投げつける資格のある義人ではない、人をさばく資格のない罪人であることを深く悟らされたからでした。年長者から去った、とありますが、人生を重ねれば重ねるほど、人は自分が罪人であることを悟らされるものです。 人は信仰により正しい者とされること、年とともに人は完成に向かって進むことを説いたパウロも、晩年近くなって弟子のテモテに送った手紙の中で「私は罪人のかしらです」と語ったとおりです。そして年長者が去るならば、若い者が頑張ってその場にいる理由はありません。かくして、彼女を引き出した者たちは全員がその場を去りました。残ったのは彼女ひとりだけです。 10節のみことばです。……ここでイエスさまは、身を起こして彼女に語りかけました。なんと呼びかけているか? 「女の人よ」です。日本語だとこのことばにあたる適切なことばがないのですが、これは原語の意味では、高貴な婦人に対する呼びかけのことばです。彼女を見せしめにした宗教指導者たちとちがって、イエスさまは彼女に対し、ちゃんと人として、女性として、それもれっきとした人格を備えた女性として接したのでした。ここには、姦淫のような罪を犯した罪深い女、という見方など、まったく存在しません。 「彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」そう、死刑に値する罪を犯したと、彼女を責める者たちは、もはやどこにもいませんでした。イエスさまのたった一言で、彼らは蜘蛛の子を散らすように逃げていったからでした。 ローマ人への手紙、8章31節から34節までをお読みします。……イエスさまは、この女性の味方になってくださいました。味方になって、そのみことばひとつで責め立てる者たちを散らされました。 しかし、彼女にはまだ、もう一人のまなざしが向けられていました。イエスさまです。罪ある者はみことばによって罪を悟らされ、人をさばけない罪人であることを自覚しつつ去るのみでした。しかしイエスさまはちがいました。イエスさまは人をさばくことのおできになる方です。なぜなら、イエスさまは罪のないお方だからです。罪のないお方であるゆえに、いえ、それ以上に、律法をお定めになったお方であるゆえに、律法にしたがって彼女を石打ちにする資格をお持ちでした。イエスさまは彼女に何とおっしゃるでしょうか? 11節です。……なんと、罪のないお方、さばく資格のあるはずのお方であるイエスさまが、罪に定めることをなさらなかったのです。彼女を無罪放免なさいました。もはや彼女は、姦淫の罪を犯したことを、神さまの御前で責められることは、永遠になくなったのでした。 イエスさまはなぜ、律法どおりに彼女を石打ちにすることをお許しにならなかったのでしょうか? それは、人を死刑にする律法は、あくまで主の民の共同体の中から悪を取り除く目的で執行されるために必要なものであって、悪そのものが取り除かれるならば、もはや律法どおりに人をさばく必要などなくなるからです。悪が存在しない以上、彼女を石打ちの刑にすることは、罪のない人を殺すという罪を犯すことになります。彼女の罪を取り去られたイエスさまは、それゆえに彼女を石打ちにしてさばくことはなさらなかったのでした。 しかし、イエスさまが罪を見逃されたのは、果たして彼女だけだったのでしょうか? そうではありません。神の御子を葬り去ろうとした宗教指導者たちも、立派に罪人です。彼女を罪人としてさばくならば、神の御子を冒瀆する彼らも、死をもってさばかれてしかるべきでした。だが、イエスさまは彼らの頭上に天からの火を降らせず、彼らを去るに任せられました。 しかし、そうして罪を赦していただいたはずの宗教指導者たちのイエスさまに対する冒瀆の罪は次第にエスカレートし、ついにはイエスさまを十字架につけるまでになりました。だが、イエスさまは十字架の上で、御父に何と祈られましたでしょうか?「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分でわからないのです。」イエスさまは、十字架につけて御子を呪い殺すことをもって最大級の冒瀆をする民に向けられた御父の激しい怒りを、両手を広げて受け止められたのでした。お父さま、どうかわたしに免じて、彼らを赦してあげてください! イエスさまは、罪人をさばくべきそのさばきを、ことごとく、ご自身の身に受けられ、そして死なれたのでした。 イエスさまは、律法を曲解されたのではありません。むしろその反対で、神の愛をもって神の民を悔い改めに導き、きよさにあずからせることで、この姦淫の罪を犯した人をさばくための律法を、完璧に成就させられたのでした。 だからこそイエスさまはおっしゃるのです。「今からは決して罪を犯してはなりません。」この女性は、本来ならば殺されてもおかしくなかったような罪を犯したわけです。それを赦してくださったのは、神の子であるイエスさまです。ならばこの女性は、神と無関係に生きてはならないはずです。神の子イエスさまのみこころに一生従うことを目指しつつ歩んでいく必要があります。 彼女がその後どうなったかは、聖書は沈黙しています。しかし、私たちはここで、彼女のその後の人生をあれこれ詮索するのではなく、このとき罪を赦してくださったイエスさまの罪の赦しが、実はいまこうして聖書をお読みしている自分のためのものだったことを受け止める必要があります。 イエスさまはどのようにして罪を赦してくださったのでしょうか? 十字架にかかってくださることによってです。十字架とは、女の人を石打ちにすべしという神の義と、女の人を赦すべしという神の愛が、同時に実現したものでした。私たちもさばかれるべき罪人です。しかし、私たちは愛されているゆえに、そのさばきを免れさせていただきました。ただ、イエスさまの十字架を信じる信仰においてのみ、私たちは罪が赦されるのです。 もちろん私たちは、生きているかぎり、罪を犯すことを免れることはできません。私たちは赦された罪人です。罪人にちがいないのです。しかし、だからといって、自分が罪人であることを言い訳に、罪の生活をやめようとしないならば、話はちがってきます。それは、ご自身がきよいゆえに私たち主の民にもきよくあるようにと求められる、主の御心を無視することです。 私たちは律法を守り行うことによって義と認められるものでは決してなく、イエスさまの十字架を信じる信仰によって義と認めていただくものですが、そうして義と認められたならば、私たちのすることは、私たちを義と認めてくださった私たちの主人、主のみこころに従って、みことばに書いてある基準を守り行うべく、聖霊の助けをいただきながらできるかぎりの努力をすることです。その生き方を繰り返し、続けていくならば、私たちは主のきよさにあずかることになり、キリストの似姿として日々整えられることになります。 最後に、この女性のことを考えてみたいと思います。人生が終わる危機に瀕した日、そして人生最大の恥にまみれたその日は、イエスさまとの出会いによって、永遠に罪が赦され、救っていただいて主の民に加えられた日となりました。私たちの最悪のとき、それは、イエスさまに出会い、最良のときと変えられるのです。 もしあのときイエスさまに出会っていなかったら、自分はどうなっていただろうか……そんなふうに考えてみたことはおありでしょうか? しかし、そんなことは考える必要はありません。なぜなら、私たちは今、現実に、最も素晴らしい人生、永遠のいのちを生きているからです! このような出会いをすべく選ばれる可能性を秘めているのが、今私たちの周りにいる人たちです。中には、この女性のように、人々から責められるような罪を犯した人もいるかもしれません。そういう人を見たならば、私たちはみんなと一緒になって彼らを責めるでしょうか? みことばに反しているぞ、などと言って? それとも、イエスさまがその人をご覧になったそのまなざしを思いつつ、その人のことを見るでしょうか? ぜひとも私たちは、イエスさまのまなざしを身につけたいものです。それは、私たちもまた、本来ならばさばかれてしかるべきだった罪人だったのに、イエスさまがあわれんでくださり、私たちのことを一方的な恵みによって救ってくださったからです。 私たちの周りにいる人たちも、今の私たちのように、救われて主の民となる可能性を秘めている人たちです。主がそんな彼らをご自身の民として召されるために、主はだれを用いてくださるでしょうか? 私たちでなければ、いったいだれがその人たちに、永遠の罪のさばきから救うためにキリストを伝えることができるでしょうか? 人をさばくのは実に簡単です。しかし、私たちはどうか、もっと難しい道を率先して選ぶ者となりたいものです。人をさばくのではなく、愛する人になるのです。私たちがみことばを読むのは、今日の箇所から学んだような、イエスさまのような人になるためです。この世に対して悪は悪であるとはっきり言える確かな基準を持つ一方で、罪を悔いる人をまことの悔い改めと救いへと導く人になる……私たち教会、キリストのからだなる共同体には、そのことが求められています。 人を愛し、赦す者となる、難しいですが、キリストの愛を受けているならば、私たちは必ず、そのような人に変えられます。私たちの愛を主が本物にしてくださいますように、十字架の愛を実現する愛へと成長させてくださいますように、主の御名によってお祈りいたします。

放送伝道の意義

聖書本文;テモテへの手紙第二4:1~5/メッセージ題目;放送伝道の意義  本日午後、「世の光のつどい水戸大会」が、オンラインで開催されます。「世の光」というものは、いまから70年前に日本宣教の組織としてスタートした「太平洋放送協会」の番組で、ここ茨城県では「世の光いきいきタイム」という番組名で、毎週日曜日の午前7時10分から25分まで、15分間放送されています。かつてうちの教会の姉妹も出演されたことがあるのをご記憶の方も多いと思います。 「世の光のつどい」とは、この「世の光いきいきタイム」の聴取者、リスナーのつどいであり、そのもっともメインになる対象は、ラジオ番組を聴いていらっしゃる求道者の方です。ラジオをとおして聖書のメッセージに触れている求道者の方が、このつどいをとおしてメッセンジャーの牧師先生のメッセージを聴き、イエスさまを救い主と信じて主とともに歩む祝福を味わわれるため、教会につながるため、地域の教会が連合して集会を持ちます。  茨城県内では、日立市を中心とした県北地区、筑西市を中心とした県西地区、石岡市や小美玉市を中心とした県央地区、牛久市を中心とした県南地区、鹿島地区、そして水戸地区と「世の光のつどい」を開催する地域が分かれています。このうち私たち水戸地区は、かなり精力的に、毎年のように大会を開いてきました。しかし、去年はコロナ下ということもあり、集まって集会を持つことを断念せざるを得ませんでした。   今年に入り、茨城各地のつどいの準備会は、次々に大会開催を昨年に引き続いて断念しました。残るわれらが水戸地区も、断念しなければならないかも……私たちはそんな気持ちになりかかっていました。会場を手配できたとしても、いざ開催となったときにコロナがまたもや蔓延したとなったら目も当てられません。   しかし、準備会に新たなアイディアが与えられました。オンライン開催……折からのコロナ下ということで、昨年からオンラインでいろいろなセミナーやイベントが行われることは花盛りとなっていましたが、自分たちもやろう、ということになりました。 そもそも、この準備会自体がコロナ伝染を考慮してオンラインで行なっていたものであり、その話し合いのたびに太平洋放送協会の谷川(たにがわ)ディレクターも東京のオフィスから参加してくださっていたことが、大きな励ましとなりました。   世の光つどいのオンライン開催は、全国的にもあまり例がなかったものでもあり、谷川ディレクターはかなり頑張ってこの水戸大会のためにバックアップしてくださいました。 私たちは何度も準備会を持ち、今月頭には数時間かけてリハーサルを行いました。この、今までの水戸大会の歴史の中で、前例のない取り組みが成功するように、ぜひ祈っていただきたいと願います。   本日は普段のメッセージの箸休め的に、世の光のような放送伝道の意義を、テモテへの手紙第二4章1節から5節のみことばをもとにお話ししたいと思います。   以前も、詩篇150篇を読み解くときに用いた方法ですが、「5W1H」というものがあります。だれが、何を、いつ、どこで、なぜ、どのように……。この本文はパウロが主にあってテモテに命じたことば「みことばを宣べ伝えなさい」が核となっています。この箇所を「5W1H」で読み解きますと、このようになります。 「テモテが、みことばを、時が良くても悪くても、2節と5節のように、1節、3節、4節の理由から、宣べ伝える。」「どこで」ということは書かれてはいませんが、これは「時が良くても悪くても」というみことばを応用すれば、「テモテの置かれているところどこででも」と解釈することができるでしょう。   放送伝道というものは、単なるエンターテインメントではありません。放送、ラジオ、という媒体を使う分、「どのように」ということが具体的になっていますが、その根本にある「どのように」ということは、みことばにあるとおりです。2節と5節がその「どのように」であると申しましたが、ひとつずつ見てまいります。   忍耐のかぎりをつくし……みことばを宣べ伝えることは忍耐のいることです。私たちはラジオをつければ福音放送が聴けることを、当たり前のように思ってはいないでしょうか? しかし、その背後には、放送局の会計を支えるために、日本全国の教会から祈りをもってささげられた献金の存在があります。 それでも放送局の会計は潤沢とはいえません。極めて厳しい中で質の高い番組づくりをするということは、たいへんな忍耐を要することです。 いえ、番組づくりだけではありません。日本全国の地域との連携も含めた働きをするために、スタッフは大変苦労しています。メッセンジャーとしてメッセージをする牧師先生たちは普段牧会する教会の働きの合間にそのお仕事をしていらっしゃるわけで、ここにも大きな忍耐を必要としていらっしゃいます。   絶えず教えながら……ラジオというものは放送されたらそれで終わりというものではありません。放送局のホームページにアクセスしたり、電話をかけたりしたら、メッセージを聴くことができます。このように、記録に残っていつまでも繰り返し聴かれるに耐えられるだけの聖書の教えを、メッセンジャーの先生方は絶えず語っていらっしゃいます。もちろん、そのために背後でどれほど学んでいらっしゃることか、その膨大な学びの積み重ねが、わずか数分のメッセージに凝縮されているのです。   絶えず、ということを考えますと、放送伝道とは「絶えず」語る働きです。時が良くても悪くても語ります。リスナーがラジオを携帯する先、あるいはインターネットなどに残る、その番組の録音物を聴く先、どこででもメッセンジャーは語ります。いつ、どこで、ということでしたら、まさに、いつでも、どこででも、これが放送伝道の特徴です。   責め、戒め、また勧めなさい……放送伝道はだれもが耳にするというその性格上、火のように厳しい表現を用いてメッセージを語っているわけではありません。しかし、私たちも注意深く番組を聴いてみればわかりますが、罪ははっきり悪いことと指摘し、戒めることばを聖書のみことばをもとに語っています。 もしかすると人によっては、番組を聞いただけで自分のことが責められたと感じるかもしれませんが、それは番組を制作する人には承知のことです。たんなる甘ったるいだけのメッセージなら、何もキリスト教の人でなくても語れます。 しかし私たちは、人がキリストの十字架を信じて罪から神に立ち帰るためには、罪を指摘し、戒めることは避けて通れません。メッセンジャーはとてもソフトな語り口ですが、避けるべき罪をしっかり語り、神の子どもとして歩むべき生き方を勧めています。   5節も「どのように」ということを述べていると言えますが、これはこの箇所の結論にもあたる部分でもあるので、これについてはメッセージの最後にあらためて扱おうと思います。   それでは、次は「なぜ」について見てみます。   1節のみことばは、テモテをはじめ、聖徒がすべからくみことばを伝えるべき理由を述べています。   まず、伝道とは、神の御前に私たちが生きているゆえにすることです。神さはいつ、どんなときにも、私たちの前におられるお方です。 しかし私たちは、なんと罪深く、すぐ目の前におられる神さまを無視して生きることの多いものでしょうか。   そのような私たちが、しかし、神さまがそばにおられる、目の前におられることを絶えず意識して生きていくことができるならば、それはとても素晴らしいことです。神さまの恵みです。 そのように、私たちのそばにおられる神さまは、そのご存在とみこころ、みことばを、主のしもべたちが人々に宣べ伝えることを願っていらっしゃいます。神の御前につねに立つ、と思えば、私たちはみことばを伝えずにはいられなくなります。   さばき主なるキリスト・イエスの現れとその御国のゆえに……これも、みことばを宣べ伝える理由です。万物を神と和解させてくださり、人を天の御国に入れてくださるご存在は、イエス・キリスト、ただおひとりです。 このキリストを信じ受け入れるならば救われます。しかし、キリストを信じない者はさばきにあい、神の怒りがその上にとどまります。私たちはそのさばきを信じるゆえに、人々が少しでもさばきから免れることを願って、キリストを宣べ伝えるのです。   私たちにとっての伝道とは、それが神さまのみこころにかなうことだから、また、キリストによって神の怒りとさばきから人々を救うことだから行うこと……放送伝道というものも、そういう理由があって行うものです。決してこれは、いち宗教としてのキリスト教をベースにしたエンターテインメントを行なっているのではありません。   それが伝道ということの大前提ですが、みことばを宣べ伝えることをしなければならないのは、今後どういう時代になるからかということを、パウロはテモテに説いています。それが3節と4節のみことばですが、あらためて読みます。   まず、人々は健全な教えに耐えられなくなるのです。聖書のみことばをまっすぐに解き明かした、そのメッセージを聴くことをいやがります。聖書は愛について語りますが、この愛は甘ったるいものではなく、罪の悔い改めと表裏一体をなす、きわめて厳しいことに裏打ちされたものです。 人が神の愛を体験するには、どうしても罪がみことばと聖霊によって指摘される必要があります。その厳しいメッセージを聴きたがらないのです。   厳しいメッセージの代わりに人が聴きたがるものは、ただやさしいだけのメッセージです。あなたは愛されています。あなたは特別な存在です。それはたしかにそうですし、そのメッセージは聴く必要のあるものです。しかし、それしか聴かないで、罪を指摘するメッセージに一切耳を傾けないようでは、霊的に成長しているように思えても、実際は霊的な栄養失調に陥ります。耳に心地よいメッセージを聴くとはそういうことです。…

「癒やしは愛を生む」

聖書箇所;マルコの福音書1:29〜31 メッセージ題目;「癒やしは愛を生む」  私は現在牧師として、フルタイムの働きをしています。そのフルタイムの働きをすることを、直接献身と言いますが、私が直接献身への召しをいただいたのは、1990年8月16日、高校2年生、16歳の夏のことでした。しかし、実際に直接献身に踏み切り、神学校に行くには、さらに7年の時間が必要でした。 直接献身を恐いと思った理由……いろいろ考えられると思いますが、その中でも大きかったもの、それは、「家族も含めて、自分の生活がどうなってしまうのか?」という、言いようもない恐れだったと思います。最も現実的には、果たして経済的に大丈夫なのだろうか? という不安なのですが、そのほかにも不安がつきまとってくるような気分になったものです。  私の場合、母親がすでにクリスチャンだったにもかかわらず、そのようなことを考えてしまっていたのです。自分には家族の中で味方になってくれる人が母親しかいない、いえ、これは見方を変えれば、母親だけでも味方になってくれる人がいたということでしたが、それでも不安だったことは否定できません。いわんや家族の中でクリスチャンは自分一人という人の場合、もし献身に導かれたならば、その人はどれほど不安だろうかと思います。  いえ、直接献身だけではありません。特にこの日本では、イエスさまを信じてバプテスマを受け、教会のひと枝に加わるということは、たいへんな決断をするようなものです。私たちはいかにしてその決断をして、永遠のいのちに加えられたのでしょうか? もちろん、それは主の恵みによることですが、その決断をするだけの、みことばに対する信仰も、私たちに与えられたからこそ、私たちはこうして、日本の社会のしがらみにとらわれずに、神の民として生きているわけです。素晴らしいことです。  今日の箇所には、ヤコブとヨハネが登場します。ペテロとアンデレもいたはずです。そのような、イエスさまに従った弟子たち……彼らはまさに、イエスさまのために何もかも「捨てた」人たちでした。同じマルコの福音書1章を読むと、ヤコブやヨハネは、「舟もろとも父も残して」イエスさまに従ったとあります。大事な家族を、生活のために必要な財産もろとも残して、イエスさまについていったのでした。  この聖書箇所をいきなり読むと、私たちはぎょっとしないでしょうか? 漁師の生活を支える舟、そればかりかお父さんさえも置いていかないとだめなのだろうか……。 そのように何もかも、家族さえも捨てないと、クリスチャンになれないのだろうか……そんなことを思ったりはしないでしょうか? しかし、私たちは決して、家族を見捨てて信仰生活を送るわけではありません。むしろそのような生き方は推奨できません。もしそのように、親を捨てるようなことをして、あとは知らん顔、という態度でいるならば、その人は、イエスさまのみこころをあまりにも表面的に受け取っていることになります。 イエスさまは決して、親不孝を勧めるようなお方ではいらっしゃいません。イエスさまはむしろ、家族という存在をとても気にかけておられた方でした。もちろん、家族という血の絆が優先するあまり、イエスさま本来の働きがおろそかになるようなことは、断固として退けられました。今月初めに礼拝メッセージで学んだとおりです。 しかしそれでも、イエスさまは家族をまったく見捨てられたわけではありません。イエスさまは十字架にお掛かりになったとき、その場にいた弟子のヨハネに、ご自身の母マリアの面倒を見ることを命じられました。ちゃんとケアしていらっしゃったのです。イエスさまにしてそうなのですから、いわんや私たちはどれほど、家族を大切にする必要があることでしょうか。 それでは、今日の箇所へとまいりたいと思います。イエスさまは、ご自身の家族だけではなく、イエスさまに従う者の家族のことを気にかけてくださるお方です。そのことを私たちは、今日の箇所から学ぶことができます。ともに見てまいりましょう。  30節をご覧ください。……熱、ということは、ここしばらくの間、多くの人が体験しています。私の友達や知り合いはワクチンを打って、とても高い熱が出てつらいと、フェイスブックのようなSNSで訴えていました。結構多くの人が書いています。みんな、普段病気になるようなことなどないから、そのように訴えたくてたまらなくなるのでしょう。 言うまでもないことですが、熱というのはつらいものです。私も15年ほどむかし、目の手術をしましたが、高い熱が出て、たいへんな思いをしました。看病してくれている人には悪いのですが、早く帰ってほしくてたまらなくなったものでした。話すのも、いえ、そばにだれかいること自体がたいへんなのです。 さて、この熱を出したのは、ペテロのしゅうとめ、とあります。このことから、ペテロは結婚していたことがわかります。 このところ学んでいるコリント人への手紙第一9章5節を見てみますと、ペテロには、イエスさまを信じて信者になっていた妻がいて、その妻を連れてペテロが宣教活動をしていたことがわかります。その妻の母親にあたるのが、この、熱病で床に着いているしゅうとめです。 しゅうとめは、ペテロの家でふせっていた、とあります。ということは、彼女は娘について、ペテロの家に引っ越してきていた、ということになります。ペテロはそういうことからも、しゅうとめに対する責任を果たす必要がありました。 31節をお読みします。イエスさまはみことばによってみわざを行なってくださるお方です。ゆえに病も、おことばひとつでいやすことのできるお方でした。病よ、去れ! そうおっしゃったならば、病は去る、イエスさまはそういうお方です。 しかしここでは、直接ペテロの家に訪ねて来られ、伏せっているしゅうとめの手を取って起こされました。イエスさまに直接手を握ってもらって、起こしていただいたのです。イエスさまは、ご自身の弟子であるペテロの家族がこのように苦しんでいるのを、イエスさまは放っておかれませんでした。深くあわれんで、いやしの業を行なってくださったのでした。 こうして熱病のいやされたしゅうとめは、何をしたでしょうか? そうです、イエスさまをもてなした、とあります。別の訳では、「イエスさまに仕えた」となります。いやされてそれで終わりだったのではありませんでした。イエスさまに、奉仕をもってお応えしたのでした。 ここに、私たちにとってのいやしの最終的な目標が示されています。イエスさまにお仕えすること。私たちは、イエスさまにいやしていただくことによって、喜んでイエスさまにお仕えするのです。 さて、人が「病む」ということはたとえばどういう場合か、いろいろ考えられます。肉体的な病気のために生きる気力を失った場合、あるいは、引きこもりのように、肉体には問題がなくても気力を失った場合……いずれにせよ「病んで」いるのです。 あるいは、人間関係でトラブルを起こしてしまうタイプの方がいます。やたら自己中心に振る舞ったり、やたらお節介を焼いたり、みんなの注目を浴びようとしたり、注目されなかったら不機嫌になったり……。 こういう人は、さびしいのです。愛されたいのです。しかし、その人の欲しがる愛を人が満たすには、限界がありすぎます。周りもそんな人を愛そうとして、疲れて、集団が病んでしまう結果になります。家族にせよ、職場にせよ、あるいは教会もそうなのですが、トラブルメーカーの引き起こす問題のために、集団まで病むという結果になります。 そういう人が「いやされる」ということは、どうなることを意味しているのでしょうか? そうです、「愛されたい」という思いに執着したり、「自分のことしか考えない」という段階にとどまったりするところから脱出するのです。「人を愛する」という行いが実践できるようになる、それが、ほんとうの意味での癒やしです。 人は、神のかたちに創造されています。そして、神さまは愛です。ということは、人は神のかたちである以上、人を愛したいという欲求、それに根ざした行動が本来先に立つべき存在です。人の本能は「愛されたい」ではないのです。「愛する」なのです。 それが、なぜだか人は、「愛されたい」となっているのです。なぜでしょうか? それは、「愛する」という、人が本来創造された神さまの目的から外れた生き方をしたがるようになったからです。神さまに背を向ける、罪のゆえに、「愛する」が「愛されたい」になってしまったのです。 創世記3章を思い出してください。罪を犯したアダムとエバは、責任転嫁して恥じるところを知りませんでした。彼らは神さまに「ごめんなさい」と言うべきでした。 アダムはエバのことを「私が善悪の知識の木の実を食べないように、しっかり言い渡さなかった私がいけませんでした」と、神さまに対して責任を取るべきでした。エバはエバで神さまに対し、アダムのことを「私が善悪の知識の木の実を食べるように渡したのがいけませんでした」と責任を取るべきでした。 それが、彼らのしたことは責任転嫁です。善悪の知識の木の実を食べるという罪を犯したことを、アダムは神さまとエバのせいにし、エバは蛇のせいにしました。要するに、彼らは神の怒りから相手をかくまうという、人を愛することを放棄し、自分可愛さに、人を罪に定めても自己弁護したのです。このように世界に罪が入った初めから、人は「愛する」存在が「悪い人に思われたくない」、早い話が「愛されたい」存在へと堕落してしまったのでした。 しかし、人はやり直せます。それは、「愛されたい」を「愛する」に変えてくださる、イエスさまが出会ってくださることによってです。 ご覧ください。聖書のどの箇所を読んでも、イエスさまが「愛されたい」という振る舞いをなさった箇所はありません。すべては「愛する」行動です。そのように、どんなときにも「愛する」という行動をもって、私たち人間に愛というものをお示しになったイエスさまは、私たちを「愛する」人に変えてくださいます。ペテロのしゅうとめの癒やしのわざは、単に熱が下がったことではありません。もちろん、それそのものもとても素晴らしい主のみわざですが、それ以上に素晴らしいことは、その癒やされた身をもって、ペテロを含むイエスさまの弟子の一行を、心を込めてもてなしたことです。 彼女は本来、ガリラヤ湖の漁師に娘を嫁がせ、それによって安定した老後を送れることが保障されていました。ところがその婿はといえば、大工のせがれに弟子入りし、あちこちへ旅をして回っている。娘はどうなるのだ? 婿は大丈夫か? 心配は尽きなかったはずです。 そんな自分はというと、高い熱を出して寝こんだ。死にそう。苦しい。そこへやってきたのがイエスさま。なんと、私の熱をすっかり癒やしてくださった! この、論より証拠のみわざは、彼女を愛する人へと成長させました。このお方になら、婿を託せる! 心からそう信じ、さあ、イエスさまもお弟子さんたちも、召し上がってください! 元気をつけて、次の旅に行ってください! そうして、愛するという行動を「もてなす」という形で、具体的に取れたのでした。  しかし、イエスさまとその一行は、いつまでもペテロの家にとどまっているわけにはいきませんでした。人々がイエスさまを必要としていました。悪霊につかれた人、病気の人が身内にいて、本人だけでなく、家族も友人もみな苦しんでおりました。しかし、イエスさまならば悪霊を追い出してくださる、病気をいやしてくださる……そのように信じて、人々はイエスさまのもとに押し寄せたのでした。  イエスさまとその一行は、もてなしてもらうことに終わりません。次なる愛する働きへと出ていくのです。イエスさまは、自己中心で愛されたいとばかり思っているような私たちに愛することを教えてくださり、愛する人へと変えてくださいます。それが、まことのいやしです。愛する人に変えていただける幸いに今日も感謝しつつ、いやしの御手に触れていただきながら歩んでまいりましょう。