八つの幸いその六 

聖書箇所;マタイの福音書5章8節 メッセージ題目;八つの幸いその六 心のきよい者  心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。  私たちは、神さまを肉眼で見ることはできません。では私たちは、神さまを見ることができないからと、あきらめる必要があるのでしょうか? そんなことはありません。私たちはこの世に生きながらも、神さまを目の前にしているごとく生きることができます。  そして実際に、神さまを目で見ながら生きていた人たちがいました。それは誰でしょうか? 新約聖書の最初の部分、四つの福音書に登場する、イエスさまの時代に生きた人たちでした。イエスさまは、受肉した創造主なる神さまでいらっしゃいます。イエスさまを見た人は、神さまを見たのです。  しかし、それでも、当時の宗教指導者たちをはじめ、このお方が神さまの御子であることがわからなかった者たちが大部分でした。彼らは神を見たのではなかったでしょうか? しかし、そうではなかったのです。「見る」と「見える」は、似ていますが決して同じものではありません。彼らにはイエスさまが「見えて」はいても、決してイエスさまを見ることで神さまを「見て」はいなかったのです。  ここに、「心がきよいかどうか」ということが問題になってきます。もし、心がきよければ、人はイエスさまの弟子たちや目の開かれた盲人、サマリアの女性のように、イエスさまを見ることで神さまを見ることができます。しかし、心がきよくなければ、そこにイエスさまがともにおられようと、どんなにお近くにおられようと、人は神さまを見ることなど決してできないのです。イエスさまを十字架につけた人たちなど、その典型といえるでしょう。  彼ら宗教指導者たちは宗教生活においては、もしかしたら非の打ちどころのない者たちだったかもしれません。しかしそんな彼らは、イエスさまを見ていても、それが神さまを見ていることだと分かりませんでした。つまりは、心がきよくなかったのです。より正確に言えば、どんなに宗教生活に打ち込もうと、それを心のきよさとして神さまに認めていただけなかったのです。  それはこんにちの私たちにとっても同じでしょう。私たちは父なる神さまはもとより、イエスさまも目で見ることができません。ときどき、イエスさまの絵を壁に飾る人がいますが、あれはイメージであって、あの絵をイエスさまそのものとして拝んでいるわけではありません。父なる神さまもイエスさまも、心の目で見るのみです。しかし私たちは、心の目で主が見えたならば、それで満足するものですし、また、満足すべきです。それ以上のことを望む必要はありません。  そういうわけで、私たちはいまこの世に生きていながらも、「神を見る」ことができます。だが、そのための絶対条件として、私たちは「心がきよい」必要があります。それでは、聖書の語る「心がきよい」とは、どのようなことでしょうか? 私たちはどうすれば、その「心のきよさ」を身に着けることができますでしょうか? ともに見てまいりましょう。  この「きよい」ということばは、清潔、という意味とともに、混じりけのない、という意味です。旧約聖書の士師記に、ギデオンの招集した軍隊が、3万2000人、1万人、そしてわずか300人とえり分けられ、そのわずか300人で主がイスラエルに勝利をもたらしてくださったという、あのできごとのように、まことに主の栄光が顕されるためには、必要とされるものはわずかであり、必要ではないものはふるい落とされるのです。  私たちの生活においてもそうです。私たちはみことばに照らして見てみると、なんと多くの不必要なものに囲まれて生きていることでしょうか。どれだけ多くのよくない習慣、よくない言動のせいで、神さまを見えなくさせてしまっていることでしょうか。  あの、イエスさまが足を踏み入れられたエルサレム神殿は、いけにえの動物を売る者や両替商などの、商売の場と化していました。こんなことでどうやって神さまにお祈りをささげることができるでしょうか。イエスさまは彼ら商売をする者どもを追い出されました。「宮きよめ」と呼ばれるものです。 きよめというものは、あらゆる分野で必要です。きれいではないことをお語りするようで恐縮ですが、このメッセージの準備をしていたまさにそのとき、わが家にはバキュームカーが来ていました。浄化槽の汲み取り作業にいらしていただいていたのでした。この浄化槽にきたないものがたまったままだと、やがてたいへんなことになります。 不純なものを取り除いていただく必要があるのは、私たちも同じです。そのようにして不純物を取り除いていただくことによって、私たちは神さまを見せていただくことができるようになります。本来私たちは、神さまと交わりの持てる存在として創造されました。神さまがいまも私たちを生かしてくださっていることからも、それは明らかです。神さまはいつでも私たちのそばにおられます。しかし私たちは罪の不純物があまりにも多いので、すぐそばにおられる神さまを見ることができなくなっていました。それを、不必要なものをことごとく取り除いていただくことで、実は神さまというお方は私たちから遠く離れた所におられる方ではなく、すぐそばにおられるお方だということを、私たちは知ることができるのです。 それでは、神さまを見る生活というものは、神を見ない生活に比べてちがいが現れるものでしょうか? そのとおりです。ちがいが現れます。というより、ちがいが現れてしかるべきです。ヤコブの手紙1章26節と27節をお読みください。 この箇所は、聖書全体には珍しく「宗教」ということばが用いられています。私たちは、神さまとともに歩む私たちの生活に「宗教」ということばはそぐわないと、日ごろ感じていらっしゃるのではないでしょうか? 私もそうです。「私は、キリスト教という宗教を信じています」などという言い方は、なるべくならばしたくありません。学生時代私は、学科の先輩たちと街を歩いていたとき、占い屋さんが店を出しているのを見て、先輩の一人が冗談半分に言いました。「あ、占い屋さんだ! 武井君も占ってもらいなよ。」私はこう言いました。「いえ、私はクリスチャンですから、占いはやらないんです。」すると、先輩はこう言いました。「えーっ! 武井君、キリスト教を信じているの!?」……私、この先輩のことばに、ちょっと違和感を覚えたものでした。私は、キリストを信じている、より正確に言えば、キリストと交わりを持っているのであって、キリスト教という「いち宗教」を信じているように言われるのは心外でした。みなさんにもそのような経験はありませんでしょうか? しかし、ヤコブの手紙を見てみますと、たしかに「宗教」と書いてあります。これは、キリスト信仰をかなり客観化した表現といえるでしょう。つまり、自分たちではなく、他者から私たちがどうみられるか、ということです。自分たちがなんと考えようと、世の基準から見れば私たちは「宗教」です。 そのように、私たちのキリスト信仰が「宗教」という次元で評価される場合、その評価の基準は、私たちの言動や、生活ということになります。「自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら」とあります。ことばや心がキリスト信仰にふさわしくなく、けがれたままなのに、まるで自分がひとかどの信仰者のごとく振る舞うならば、そのような人は宗教的に見てむなしい、というわけです。 それでは、どのような人が宗教者としてふさわしいのか? 27節にあるように、困窮している人に助けの手を差し伸べる形で実践の実を結び、またその一方で、この世とは一線を引く生き方をすることで自分をきよく守ることであると語ります。 心の問題でいえば、自分の中から不必要なものを取り除いていただくだけではなく、それ以上不必要なものを心の中に入れないことであるというわけです。心の中から不必要なものを取り除いていただいても、また以前のように不必要なものを取り込んでしまうならば、元の木阿弥です。心を守る必要があります。より正確に言えば、聖霊なる神さまに心を守っていただく必要があります。 また、きよい宗教、つまり客観的に見ても証しを立てていると認められるキリスト信仰は、孤児ややもめたちが困っているときに世話をすることであると語ります。このみことばが語られた当時のキリスト者は、とても困窮していた人たちでした。さまざまな試練や迫害に遭っている人たちでした。それでも、さらに困窮している人たちに手を差し伸べることこそまことの証しを立てることであると勧められているのです。 私たちを含め、こんにちの教会は、その当時に比べてはるかに余裕があるはずです。そして、被災地の教会や、迫害に遭っている海外の兄弟姉妹のことを考えてみましょう。私たちは恵まれています。そんな私たちは、困窮している人たちに対し、いったいどれほどの関心をいだいていることでしょうか? いえ、百歩譲って、私たちがどうしてもそういう困窮した人たちのところに行けないとしても、そういう人たちのために日夜骨折っている主にある兄弟姉妹のことを、どれほど覚えて祈り、支えていることでしょうか? このように申し上げている私こそが、まず悔い改めます。そして、愛するみなさんにも、このことを真剣に考えていただきたいのです。 私たちが毎日ディボーションを行うことは、生活の中で具体的にみことばを行うことへと実を結んでしかるべきです。その中でも、先週学んだように、あわれみを施す行いへと実を結んでこそ、私たちにとっての日々の主との交わりは意味のあるものとなります。 同じヤコブの手紙に書かれていることですが、着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているような人がいたとして、そういう人に、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要なものを与えないならば何の役に立つか、そう警告するみことばが出てきます。 こういうことを、クリスチャンはよくやっているのではないでしょうか? 兄弟姉妹に関する悪いニュースに接しても、大丈夫だ、神さまが何とかしてくださる、とは言うものの、自分では何もしない、何もしてあげない。 こういう点でも、私たちの心のきよさが問われます。私たちはそのような人たちを前にしても、心は少しは動くかもしれないが、持てるものを提供しようともしないで、神さまに丸投げするようなことを口にして、自分には信仰があるように振る舞う……しかしそれでは、私たちはほんとうの意味で心がきよいわけではない、したがって、イエスさまのおっしゃっているおことばに従えば、神さまが見えていないことになります。 しかし、このようなみことばをお読みすると、私たちはとても心が刺されないでしょうか? 結局、自分は何もやっていないではないか、あわれみなどことばだけのものでしかないではないか、ああ、ほんとうは、神さまが見えていないのか……! そうお思いになって、がっかりしていらっしゃいませんでしょうか? では、ここで、イエスさまのお語りになったみことばを見てみましょう。ルカの福音書、18章の9節から14節です。 パリサイ人は宗教的に見ると、とてもすごい人でした。神さまのみこころを損なうような悪いことをしないだけではありません。断食という点でも、十分の一を納めるという点でも、怠りなく行なっている、宗教的に見ても完璧です。 しかし、神さまがお聞きになったのは、こういうお祈りではありませんでした。取税人……いわば、存在そのものが罪そのもの、というべき、ユダヤの宗教社会のとんだ鼻つまみ者です。彼は、ただひたすらにあわれみを求めました。神さまが聞いてくださったのは、この取税人の祈りの方だったのです。 ヤコブの手紙がそう言っているから、と、形だけであわれみを示すような行動を取ったところで、神さまはすべてお見通しです。施しをはじめ、あらゆる宗教的な行為を、神さまのあわれみを求める手段とするならば、このパリサイ人のように、自分の行いを義とする罠にはまってしまいます。 そうではないのです。私たちはそもそも、よい行いなど何ひとつできるような存在ではありません。困窮している人に施しをすることなど、なおさらのことです。しかし、私たちがそのような自己中心の罪人であることを認めるとき、そこから神さまのあわれみの御手は私たちに伸ばされていきます。私たちは真の意味で悔い改めに導かれ、私たちの心の中にある不必要なもの、神さまを見させなくしている罪深い性質は取り除かれていきます。 取税人が、存在そのものが罪人と見なされていたように、私たちも存在そのものが罪そのものです。私たちはそのことを認めることができるでしょうか? 私たちはまだ、自分はまだ大丈夫だと思っていないでしょうか? とんでもないことです。私たちはイエスさまがいなければ、生きていけない存在です。私たちは恵みの中で、そのことに気づかせていただいた存在です。そんな私たちのすることは、イエスさまにすがること、これだけです。 イエスさまはそのようにしてすがる私たちのことを、決して遠ざけることをなさらないお方です。私たちの切なるお祈りを聞いてくださいます。私たちをまことの悔い改めに導き、私たちの心を余計なものからきよめてくださいます。 こうして私たちは、神を見るという、最高の祝福にあずかれるようになります。そこから私たちは、混じりけない思いで、主のみこころにかなう行いの実を結んでいけるようになります。 私たちは神さまが見たいと切望するときがあるのではないでしょうか? そのようなとき、私たちがともに神さまを見る祝福をいただくことができますように、ともにお祈りしていただきたいのです。ともに神さまを仰ぎ見る共同体として、私たちの教会がますます成長していきますように、そこから、神さまを見る者としてふさわしい、みこころにかなった行いの実が結ばれて行きますように、主の御名によってお祈りいたします。