八つの幸いその八

聖書箇所;マタイの福音書5:10~12 メッセージ題目;八つの幸いその八 義のために迫害されている者  来週になりますと、復活祭です。復活祭は、キリストの復活をお祝いする、喜びに満ちた日です。私たちの教会も特別なお祝いをします。この日のために体調を整えて参加しようと、長らくお休みしていらっしゃった方々も楽しみにしておられます。ほんとうに、めでたい日です。  復活祭、それは私たちのために、キリストがよみがえってくださった日です。キリストは十字架の上に死なれましたが、それで終わりではありません。キリストはよみがえられたのです。私たち、キリストを受け入れた者たちも、キリストの復活にあずかって、永遠に滅びることのない者としていただきます。天国にて、キリストともに永遠のいのちをいただく者としていただけます。ゆえに、キリストの復活は何よりも素晴らしいものです。  しかし、この復活のすばらしさの前に、私たちはキリストの死にあずからなければなりません。キリストが、私たちのために十字架にかかって死んでくださったこと、その事実のゆえに、キリストの復活があることを忘れてはなりません。  本日から一週間は、受難週と申します。キリストの受難をおぼえる週です。その日に、この八つの幸いの最後、迫害について学ぶということも、とても意味のあることではないかと思います。  本日の箇所を、3つのポイントから学びたいと思います。  第一に、義のために迫害された人とは、第一にイエス・キリストです。  イエスさまは、この八つの幸いを説くにあたり、その最後に語られた幸いが「義のために迫害されること」であると語られました。それは、天国がその人のものだからだ、というわけです。  天国とは、神さまのものです。そして、この天国は、永遠にキリスト・イエスが王として受け継がれます。イエスさまが永遠の王なのです。その王であられるイエスさまが、義のために迫害されている人は天国を持つ、と語っていらっしゃるのです。  このようにお語りになるイエスさまは、この地上に生きておられた間、堂々たる王さまとして振る舞っていらっしゃったでしょうか? いいえ、むしろイエスさまのお姿は、みすぼらしいしもべのようでありました。しかも時の権力者たちは、イエスさまにひどい迫害を加えました。  時の権力者は、神のみこころを取り継ぐはずの宗教指導者たちでした。しかし彼らは、民衆を苦しめるだけ苦しめて、自分たちは特権階級を享受していました。人々から尊敬されることを当然のように見なして生きていました。  しかしイエスさまは、口先だけのそんな彼らの前で、神の権威によって教えを宣べられ、その教えがまことに神から来たものであることを示されるように、多くのみわざをおこなわれました。そのみわざは、医者にも見放されたような病気の者、社会から疎外されたような者たちに対して行われたものであり、神さまのいつくしみと愛に満ちたものでした。  しかし、宗教的な権力者たちは、このイエスさまを見て、聖書に預言された神の子がついに来られた、と、イエスさまについていくことをしませんでした。かえって、イエスさまが神の義を宣べ伝えれば宣べ伝えるほど、イエスさまを疎ましく思いました。何度となく殺してやろうと謀議を巡らし、そしてついには弟子のユダの買収に成功し、十字架につけることまでしたのでした。  イエスさまはまさしく、神の義そのものの生き方を貫徹され、その結果、待つものは過酷な迫害の連続でした。その迫害は、十字架という、かぎりなくどす黒くて呪わしい姿にまでなりました。義のために迫害された第一の人、それは、この世界を造られ、人間をお造りになった創造主、イエスさまだったのです。人は、神の義そのものであられるイエスさまの生き方を、殺人というかたちをもって完全に否定し去ったのです。   それなら、全能なる神さまであられるイエスさまが、人間がこのような形でご自身を死に葬ることをご存じなかったのでしょうか? もちろんご存知でした。イエスさまは全知全能なるお方です。ならば、そうなると知っていてなおも御父がイエスさまをこの地上に送られたのは、なぜだったのでしょうか? その御父のみこころを、イエスさまがお受けになったのはなぜだったのでしょうか?  それは、復活、そして天国が、完全な従順を果たしたイエスさまの前に備えられていたからでした。イエスさまは、この地上の十字架だけを見つめておられたのではありません。イエスさまの目の前にあったのは、その迫害の先の天の御国、永遠の世界でした。  人の罪をさばかねばならない、この御父の義を果たすために、イエスさまはあらゆる迫害を甘受されました。イエスさまは十字架に死なれることによって、人がその罪ゆえに支払うべきいのちの代価を、御父にことごとく支払ってくださったのです。イエスさまが十字架の上で最後に語られたおことば「完了した」とは、いのちの代価を支払い終えた、という意味です。  この、御父の義が満足されるためにあらゆる迫害、実に十字架の死に至るまでをお受けになったイエスさまを思いましょう。私たちはこの地上でキリスト者として生きるならば、多くの苦しみを体験するかもしれません。しかしそのようなとき、まず私たちより先に、キリストが神の義を果たすために苦しみを受けられたことに思いを巡らしましょう。そして、イエスさまの十字架に感謝しましょう。  今週は受難週です。イエスさまの御苦しみのゆえに、私たちがどれほどいやされているか、神の恵みと愛をいただいているか、思い巡らし、感謝したいものです。  第二に、義のために迫害された人たちとは、みこころにかなった働きをした人たちです。  11節と12節をあらためてお読みします。……ありもしないことで悪口を浴びせる、みなさんにも経験がありませんでしょうか?  これはまず、イエスさまのもとにやってきたあらゆる群衆に語りかけていることです。彼らはこの機会に、イエスさまを救い主と受け入れて、イエスさまについて行きはじめた人たちです。そんな彼らから初代教会が起こされていくことを見越したうえで、イエスさまはこのみことばを語られたわけです。あなたがたは、わたしのゆえに、あらゆる悪口を浴びせられることになるでしょう。しかし、あなたがたは幸いです。あなたがたはこの地上で苦しい目に遭うかもしれませんが、やがて招き入れられる天国において、あなたがたの報いはとても大きいのですよ……と。  彼らは、聖書、今でいう旧約聖書の物語に接していたので、いにしえの預言者たちのことをよく知っていました。預言者とは、主のみことばを人々に取り継ぐ、神の器です。尊敬すべき、また尊重すべき存在です。  しかし彼らは、そのみことばをストレートに語ったゆえに、どれほどひどい迫害を受けたことでしょうか。「涙の預言者」と呼ばれたエレミヤなど、その最たるものでしょう。中には、みことばを語り通して、殉教した者もいます。  それなら、迫害に遭ったり殉教したりする彼らのことを、そういう苦しい目に遭っているからと、私たちは愚か者扱いするでしょうか? いいえ、彼らの生き方を見て、私たちはむしろ、ますます、私たちの信じ受け入れているみことばは本物だと確かめるでしょうし、そのようにいのちをかけてみことばを伝え通す働き人を送られた神さまを、私たちはよりいっそうほめたたえるでしょう。  マタイの福音書、21章の33節から39節をお読みしましょう。ぶどう園の主人とは、父なる神さまです。収穫を得るために農夫たちのもとに送りつづけたしもべたちとは、父なる神さまの命(めい)を受けたしもべたちでした。それは預言者であり、祭司でありました。しかし、まことの神さまにお従いする道を、単なる人間的な利権と勘違いしているくせして、宗教的な装いをして権力の座に居座るような者たちは、彼ら主のしもべを思いきり迫害しました。そのような者たちは、ぶどう園の跡取り息子になぞらえらえたイエスさまが来られても、イエスさまを受け入れず、十字架の上に死なせました。  そう、この主のしもべたちは、イエスさまの十字架につながる人たちでした。彼らの受難は、イエスさまの受難を予告し、さらには、イエスさまにつながる人たちも迫害を受けることを予告したものでした。  彼ら旧約時代の主の働き人は、イエスさまの訪れを預言していました。そんな彼らは、イエスさまとともに力強く訪れる御国を、見たいと願いながらも見ることができませんでした。しかし、それで彼らの人生は終わったわけではありません。彼らは、その待望した御国に入れられ、いま、主とともに永遠の安息に入れられています。  これらのことは、このイエスさまのメッセージにより神の国にあずかり、主の働き人となる人たちにも当てはまります。彼らは、大いなる迫害を受けるようになります。その理由をイエスさまはこのみことばで「ありもしないことで」と語っていらっしゃいます。  キリスト者に対する迫害、それは「ありもしないことで」ということがその最たる理由ではないでしょうか。世の中の人たちが聖書の教えを批判することも、じっくり聖書を学んでみれば、誤解は必ず解けるものです。しかし、多くの場合、人々は誤解をあえて解こうとはせず、キリストの教えに攻撃のみを加えるものです。  先日私は、映画『パウロ』を鑑賞しました。ネロ皇帝による迫害下にあったローマで、キリスト者がどれほど残酷な扱いを受けたか、そのような中でパウロが、迫害する者たちにどれほどの赦しと愛を実践したか、という内容です。あの映画に描かれていたものは、キリストにお従いする者たちがこの世で体験するかぎりない不条理で、私はそれを見て大いに考えさせられました。この映画を観てしばらくの間は、これは聖徒たちに勧めるべきではないのでは、とさえ考えていました。しかし私は今日のメッセージを準備している間に、少しずつ考えが変わっていきました。勇気のある方は、機会があればぜひご覧いただきたいと思います。  あまりネタバレにならない程度に話しますが、そんな苦しみの極限にある彼らを支えたものは、天国の存在でした。彼らはこの世にてあらゆる苦しみを味わいましたが、やがて天国に迎え入れられる、その信仰により、彼らがこの世の迫害を耐えたと言ってもいいでしょう。  いえ、その初代教会に続く歴史において、なおもイエスさまのあとを追って迫害と殉教に服した人は、古今東西、枚挙にいとまがありません。その中でも、水戸刑務所で太平洋戦争中の1943年に殉教した斎藤保太郎(さいとう やすたろう)先生のことは、茨城の人として覚えておきたいものです。また、私を韓国語ならびに韓国事情専攻へと導いたものは、日本の支配下において国家神道が強要される中でキリストへの信仰を守り通した数多くの牧師先生の存在でした。その中でも、獄中で激しい拷問を加えられて1944年に殉教した朱基徹(チュ・キチョル)先生のことは、ぜひ覚えていただければと思います。朱牧師は、私にとっては神学校の誇るべき先輩です。この不肖の後輩がこの茨城の地で主の働きにあずかれているのも、斎藤先生や朱先生のような素晴らしい先輩方の殉教の血が流されたゆえと確信いたします。その歩みは私だけではなく、ここに集う私たちすべての歩みにつながっていると確信いたします。  しかし私たちは、そのいにしえのしもべたちが素晴らしかった、私たちにこんな真似はできない、などと思う必要はありません。そのような主の素晴らしいしもべを選ばれ、立てられ、用いられるのは、どこまでも神さまのご主権に属することです。人ももちろん素晴らしいですが、私たちはまず、そのように人をご自身のご栄光を現す働きに用いてくださる、神さまの御名をほめたたえてまいりたいものです。  第三のポイントです。義のために迫害されている人たちとは、今この世にもいる、幸いな人たちです。  イエスさまのこのメッセージは、第一にこの時代の