初めであり、終わりであり、生きているキリスト

聖書箇所;ヨハネの黙示録1:9~20/メッセージ題目;初めであり、終わりであり、生きているキリスト 創造主なる神さまが私たち人間に書かれた聖書のみことばは、この世界には終わりがあることを語っています。私たちは今自分たちが生きている世界に対して、いつまでも続くものだとか、そもそも終わりがどうなるかわからないから考えたくもない、などと思ってはいないでしょうか? しかし聖書ははっきりと、この世界はいずれ終わることを語っています。 だから私たちは、この世界の終わりに向けて、自分にとって備えるべきことを備える必要があるわけです。ノアは神さまの警告を聞いて、大洪水に備えて箱舟をつくりました。同じように、私たちも備える必要があります。その備えをするために、私たちはみことばを聞くわけです。特にいま私たちは、世の終わりを語るヨハネの黙示録から学びつつあります。このみことばに、私たちはともにしっかり耳を傾けてまいりたいと思います。 それでは本日の箇所にまいります。本日もまた、3つのポイントでお話しいたします。 第一のポイントです。主は、復活のお方です。9節と10節のみことばをお読みします。 先週もお話ししましたが、ヨハネがパトモスという島にいたのは、神のことばとイエスの証しのゆえであると、この9節のみことばは語ります。ヨハネは迫害を受けて、流刑、島流しとなったのです。 これはイエスさまが予告されたことです。かつてヨハネとその兄弟ヤコブは、イエスさまが天に昇られたら、その左右の座に着きたいとイエスさまに直訴したことがありました。要するにほかの十人の弟子を出し抜こうとしたわけですが、そのときイエスさまはこの兄弟に、あなたがたは、わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか、と迫られました。兄弟は、できます、と答えました。そのときイエスさまは、ご自身の右と左に座れるかどうかはイエスさま次第ではなく、御父のみこころ次第であることをお断りになった上で、ヤコブとヨハネはイエスさまの杯を飲むことになると予告されました。 実際そのとおりに、ヤコブはヘロデ王により殺害されました。十二使徒の中の最初の殉教者です。そしてヨハネも今このようにして、島流しに遭っています。まさしく、イエスさまの受けられた十字架の苦難の杯を飲んだのです。 しかし、島流しが苦難なのは、少なくとも使徒たちにとっては、一般の人たちとはちがう理由であるはずです。島流しに遭ったならば、人々との交わりが絶たれます。それはつまり、教会を開拓することも、聖徒たちと顔と顔とを合わせて教会を牧会することもできないことを意味します。それは主のしもべとして、どれほどつらかったことでしょうか。 みこころに従順になるなら、私たちは時として理不尽な苦難、受け入れがたい苦難を身に帯びることがあります。従順ゆえの苦難、それはイエスさまが体験されたことでした。十字架とは、御父のみこころに従順になられた証しでしたが、そのために罪のないお方は、人間のあらゆる罪という罪を背負われ、父なる神さまに捨てられました。 ヨハネの苦難、聖徒たちのもとに直接行って教会を形成することのできない苦難は、まさに、イエスさまが御父に従順であられたように、神のことばとイエスの証しがほんとうであると、身をもって宣べ伝えるという、神のみこころに従順であったゆえの苦難でした。 しかし神さまは、ヨハネのことを見捨ててはいらっしゃいませんでした。主は御声をもって、この孤独の中にいたヨハネに語りかけてくださったのでした。 この声を聞いた日は、主の日であったとあります。ヨハネは孤独な島流しの生活にあって、主の日、つまり日曜日、クリスチャンとして神さまを礼拝する日を忘れずにいました。その日に主がこの励ましのことば、戦いに備えよとのことばを語られたことは、注目に値します。 主の日、日曜日、それは、イエスさまが復活された日です。主が日曜日にヨハネにお語りになったのは、ご自身が復活の主としてお語りになったということではないでしょうか。 復活の主は、どんな声でヨハネに語りかけてくださったのでしょうか?「ラッパのような大きな声」でです。 新約聖書を読むと、世に終わりが来て、死ぬべき者が死なない者に変えられる、つまり天国に導き入れられるときに下される合図は、ラッパの音であるということがいくつかの箇所に書かれています。神のラッパの音は、死んでいた人をよみがえらせるというみこころの顕れです。 ヨハネもこのとき、島流しに遭って宣教も教会形成もできず、もはや使徒としては死んだも同然でありましたが、聖書66巻を締めくくるみことばを書き記すという偉大な使命が与えられ、生き返らせていただきました。 復活の主はこのように、死んでいた者に復活のいのちをくださるお方だということが、このみことばからもはっきりわかります。 また、この御声がラッパのような大きな音だったということには、どんな意味がありますでしょうか? 第一コリント14章を読むと、ラッパがはっきりした音を出すのは戦闘の準備をするためだ、と語っています。 ヨハネの黙示録は終わりの日の戦いを細かく描写していますが、血肉に対してではない、サタンともろもろの悪霊どもと私たち聖徒との戦いにおいて、このみことばは神さまの吹き鳴らされる「起床ラッパ」であり「進軍ラッパ」なのです。このラッパの鳴る音を聞いたならば、私たちは霊的な眠りからさめ、神のすべての武具を身に着けて戦いに赴きます。 まことに、主のみことばは、私たち人間、罪に死んでいた人間を生き返らせる、神のラッパにもなぞらえられる、大きな御声です。主は私たちひとりひとりに御声をかけてくださり、元気を出しなさい、立ち上がって歩き出しなさい、戦いなさい、と、励ましてくださいます。 このところ、私たちはニュース番組や新聞やインターネットで、ますます新型コロナウイルス感染者が増えているとかいう、憂鬱な話を目にし、耳にしています。そのほかにもいろいろな、いやになるニュースが流れています。しかし考えてみましょう。私たちを救い、天国に入れてくださっている主は、この世の憂いなどでどうにかなるようなお方ではない、偉大なお方ではないでしょうか? イエスさまは十字架にかかられただけではありません。復活されたのです。すべての罪と死に打ち勝たれました。私たちもイエスさまを信じる信仰により、圧倒的な勝利者にしていただいているのです。 落ち込むこともあるでしょう。暗い気持ちが続くこともあるでしょう。しかし私たちはここで、復活のイエスさまに目を留め、明るく輝く者とならせていただきたいものです。主は大きな音色で響くラッパの音のようなはっきりした御声をかけて、私たちのことを励ましてくださっています。立ち上がり、歩き出す力をともにいただく私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 第二のポイントです。主は、恐るべきお方です。 11節のみことばです。……そのラッパのような声が命じたことは、アジアの7つの教会にみことばを書き送りなさい、ということでした。 ヨハネを励まし、立ち上がらせた進軍ラッパのみことばは、7つの教会……7が完全数であるということを考えると、あらゆる教会、かつ完全な教会にみことばを語りなさい、ということでした。まことに、教会の聖徒たちにみことばを伝えることこそ、まことの励ましをいただく道です。 その声はヨハネの背後から語りかけていました。これは何を意味するのでしょうか? もし、ヨハネの目の前に主が現れて、いきなり語りかけられたのならば、ヨハネの意思に関係なく、主が現れ、語られた、しかもラッパのような大きな声で語られたということになります。 しかし主は、ヨハネの背後から語られました。するとヨハネのすることは2つに1つです。振り返るか、無視するかです。しかしヨハネは声のする方(かた)へと振り返りました。これは、ヨハネが意志をもって御声を聞く選択をしたということです。 御声を聞く、ということは、神さまが一方的に語られることがひとりでに聞こえてくる、ということではなく、神さまが語られることを意志をもって聞く選択をする、という、神さまと人との共同作業です。神と人との交わりです。神さまはここで、ヨハネに背後から語られることで、ヨハネが振り向くという行動により、意志をもって御前に進み出るという選択をさせ、自発的な交わりへと招かれたわけです。 12節をよく見てください。「自分に語りかける声を見ようとして」、とあります。これは意訳ではありません。聖書の原文が「声を見る」と表現しているのです。創造主訳聖書では「声の主を見ようとして」、リビングバイブルでは「いったいだれだろう、と振り向くと」と意訳しています。もちろん、それも間違いではありませんが、ここはひとつ、「声を見ようとして」という表現に注目したいと思います。 神さまのしもべである私たちにとっては、神の御声は「聴く」ものであるのと同時に「見る」ものです。それは、こうして印刷され、製本された聖書を目で見て読むことを、「御声を聞く」と表現することからもたしかです。そのような表現をするのも、神のことばを「聞く」ことは、同時に神のことばなるイエスさまを「見る」ことでもあるわけです。 イエスさまの弟子のトマスは、肉眼でイエスさまを見たときようやく、イエスさまの復活を信じました。そんなトマスにイエスさまは、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです」とおっしゃいました。 その幸いな人とはどういう人かを、使徒ペテロはこのように表現しています。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。」 この喜びは、私たちならだれでもわかるでしょう。目に見えないイエスさまを「見る」とは、みことばを「聞く」、すなわち「見る」ということです。その喜びを、私たちはこの年もますますみことばをお読みし、みことばに耳を傾けることで体験してまいります。 さて、こうして、ヨハネはみことば、すなわち人の子、イエスさまを「見ました」。するとそこには7つの金の燭台がありました。この7つの金の燭台は7つの教会であると、20節のみことばは解き明かしています。 燭台は金、金は何よりも尊い存在です。教会は尊いものなのです。教会は燭台ですから灯をともします。灯をともすのは暗闇の世界を明るく照らすため、そして、やがて来られる花婿なるイエスさまのおいでを待つゆえです。イエスさまがいつ来られてもいいように、花嫁にふさわしく灯を絶やさないでおくのです。 この7つの燭台の真ん中に、人の子のような方がおられた、とあります。人の子とは、イエスさまがご自身のことを指して用いられた表現であり、救い主、さばき主としてのお方を意味します。しかしここでは、「人の子の『ような』方」とあります。ヨハネは、イエスさまの十二弟子のひとりとして、イエスさまのお顔、お姿を忘れようはずがありません。 しかしここに現れたお方は、明らかに、弟子としてずっと見つづけてきたお顔、お姿とちがっていました。でもこのお方は人の子、イエス・キリスト以外のどなたでもないことが、ヨハネにはたちどころに分かったのでした。 足まで垂れた長服、まことの祭司としての服装です。そこに金の帯を身に着けておられるということは、神のきよさ、神の威厳そのものの姿として現れたということです。頭と髪は羊毛のように、雪のように白いということは、このお方は、毛を刈られる羊のような従順な姿をもって十字架にかかられ、血潮を流されたことにより、その血潮で私たちの罪を雪のように白くしてくださるお方である、ということです。 また、その目は燃える炎です。この姿はダニエル書10章6節にすでに預言されていたとおりですが、ダニエル書では「燃えるたいまつ」と表現されています。たいまつは暗闇を明るく照らすものです。 つまり主は、暗闇を煌々と照らす炎のように、どんなに隠しておきたい私たちの罪、闇のわざをも、明らかにされ、その御目の炎をもって焼き尽くされるお方であるということです。 その足は光輝く真鍮とありますが、これもダニエル書10章6節のとおりです。新改訳でダニエル書を見ると「磨かれた青銅」と書かれていますが、ヨハネが見たお方はダニエルが見たお方と異なるのではありません。新約聖書においてしばしば引用される旧約聖書は『七十人訳(しちじゅうにんやく)』というギリシア語の聖書です。この七十人訳によると、ダニエル書は「青銅」ではなく「真鍮」と表現しています。また、「青銅」も「真鍮」も、どちらも銅の合金であること、また、主の御足はそもそも金属ではなく、これは象徴であることを考えると、黙示録の「真鍮」という表現はダニエル書と一致していることになります。まさに、ダニエルが見たとおりの方が現れた、ということです。 そして、御声は大水のとどろきのようです。主の御声はラッパのようであるとともに、大水のとどろきのようでもあります。大水のとどろきのような御声、これはイザヤ書43章2節に書かれた、イザヤが見た主の御姿です。やはり預言されたとおりのお方でした。大水に関しては、同じイザヤ書の59章19節を見ると、主は激しい流れのように来られると預言されています。そのように、激しい流れのように主が来られるゆえに、東でも西でも、世界のどこにおいても主の御名、主の栄光が恐れられるとあります。まさに、激しい主の来臨のゆえに全地は激しく恐れるのです。 右手には七つの星を持っておられます。この七つの星は、7つの教会の御使いたちであると20節のみことばは解き明かします。主は御使いを遣わして、すべての教会を助けられます。イエスさまは、すべての教会を、その義の右の手で握られ、あらゆる悪しき者の攻撃から守り、御恵みをもって導いてくださるお方です。 そして、口からは両刃の剣が出ています。もうお分かりだと思います。ヘブル人への手紙4章12節にあるとおり、みことばです。私たち、全身に罪が染みこんだ罪人をばらばらに切り刻み、罪を明らかにし、取り除く剣は、主の御口から出るひとつひとつのみことばです。しかしこの「殺すことば」は、同時に私たちにとっては「いのちのパン」であり、「生かすことば」でもあります。 そして、御顔は強く照り輝く太陽です。太陽を肉眼で見つめたら失明します。御顔はそれほどの栄光に輝いています。旧約にはしばしば、主の御顔を見た者は死んでしまう、と恐れる場面が出てきます。このときもヨハネは、御顔を見極めようとして、ついにその栄光の前に死んだ者のようになり、倒れ伏しました。 イエスさまのこのようなお姿は、無抵抗に十字架にかかられたお姿とは対極にあるお姿です。人々があざけり、見捨て、葬り去ったナザレのイエスは、実は聖書に預言されていたとおりの王の王、主の主であった……なんということでしょうか。 私たちはイエスさまが目に見えないのをいいことに、ともにおられるイエスさまとの関係、イエスさまとの交わりを粗末にして、平気でいてはいないでしょうか? そんな私たちは、実はイエスさまはこのようなお方だということをしっかり見つめ、恐れをいだき、それでもこのようなイエスさまが私たちのことを友としてくださっていることに、もったいない、と、感謝するしかないのではないでしょうか? ぜひ、今日おうちに帰られたら、もういちど、この黙示録1章12節から16節までをお読みになり、イエスさまのこの御姿を黙想していただきたいのです。このお方が私たちの主なのです。そして、私たちはこのお方の友にしていただいているのです。 では、第三のポイントにまいります。主は、永遠のお方です。 17節をご覧ください。イエスさまのあまりの威厳の前に、ヨハネは倒れて死んだ者のようになりました。かつてヨハネは、イエスさまと食事をともにするとき、その胸元に寄りかかるほど、イエスさまを慕っていた人でした。そんなヨハネは大胆にも、自分のことを、イエスさまが愛しておられた弟子、と表現していました。 だが、目の前に現れたイエスさまは、もはや近くに寄ってお慕いするようなお方ではありません。このご威光、威厳の前には、死んだも同然の人になるしかありませんでした。そんな人間が生きるには、イエスさまに助け起こしていただくしかありません。 イエスさまはヨハネに、右手を置かれました。つい今しがた、7つの星、すなわち7つの教会の御使いたちを握っておられた右手です。わたしのからだである教会が大事なように、わたしにとってあなたは大事だよ、わたしの目にはあなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している……。 このお方は、初めであり、終わりであり、生きているお方です。人間には見極めることもできない世のはじめから世の終わりまで、永遠に生きておられるお方です。十字架に死なれましたが、生きておられるお方です。この方は人に殺されたようでも、あらゆるいのちを司っておられるお方です。人を永遠にさばく、死とよみの鍵、すなわち、罪人を死にてさばかれ、よみにつなぐ権限を持っておられるお方です。…

再臨に向けて

聖書箇所;ヨハネの黙示録1:1~8/メッセージ題目;再臨に向けて  今年2021年の年間テーマは「イエスさまを迎える準備をしよう」とさせていただきました。  昨年は新型コロナウイルス流行に世界は揺れに揺れ、いやでも人々は終末というものを意識しました。しかし私たちクリスチャンは、この終末、世界の終末というものは、神さまがもたらされるものということを信じ受け入れています。  私たちがもし、イエスさまの再臨を待ち望んでいるならば、すなわち、イエスさまが再びこの地に来られて世界を終わらせられ、私たちが永遠の天国に迎えていただくことを待ち望んでいるならば、私たちはやはり、この世界の終わりについてみことばはなんと語っているかを、みことばから学ぶ必要があるはずです。  このことを最もよく語るみことばは、ヨハネの黙示録です。というわけで本日から、ヨハネの黙示録を学びます。難解な聖書箇所なので、慎重な解き明かしを必要とする一方で、読み進めていくうちに非現実的な描写に終始するようになりますので、メッセージをお聴きになるみなさまも、ぜひ祈っていただければと思います。その祈りをもって、お聴きになる心備えをしていただければとも思います。  それでは、早速、ヨハネの黙示録の学びを始めます。 では、本日の箇所を、3つのキーワードから解き明かしてまいりたいと思います。  最初のキーワードからまいります。1番目のキーワードは「証し」です。  まず、1節からまいります。この黙示、啓示は、イエス・キリストの啓示です。これは、すぐに起こるべきことであると語ります。これが、難解かつ怖ろしい描写に満ちているヨハネの黙示録を読み解くうえでの大前提です。 ヨハネの黙示録が啓示するお方はイエスさまです。ある大衆伝道者の先生は、人々の前でお祈りをされるとき、「やさしいイエスさま」ということばでよく始められます。先生のキャラクターも反映されていて、ほんわかしてきます。たしかにイエスさまは、この先生がおっしゃるとおりにやさしいお方でいらっしゃいます。 しかし、ヨハネの黙示録で啓示されるイエスさまは、やさしい、というイメージと大いに異なっているのではないでしょうか。凄まじい戦いの末に究極の勝利を得られる、雄々しくも恐ろしいお方です。私たちは、再臨のイエスさま、終末に臨まれるイエスさまが、このようなお姿で現れてくださることを見落としてはなりません。 そして、ヨハネの黙示録の語る内容は、「すぐに起こるべきこと」です。そう、この書に書かれていることは「必ず起こること」であり、「必ず起こらなければならないこと」です。起こることが神さまのみこころである、ゆえに神さまは必ず、みこころをもってこれらのできごとを起こされる、という前提で読むべき書です。 それも、すぐに起こるべきことという前提で読みなさい、というわけです。というわけで、このヨハネの黙示録が記録された紀元90年からずっと、クリスチャンは今に至るまで、終末を意識させられてきました。 終末は必ず来ます。おとといの元日礼拝で、ペテロの手紙第二の3章のみことばをお読みしましたが、まだ終末がこの世界にやってこないのは、この世界に住む人々のことを神さまが忍耐していらっしゃるからであって、終末は「ない」からではありません。その忍耐が2000年にもなろうとは、どれほど神さまは忍耐してこられたことか、と思いませんでしょうか? 2000年という歳月を計ってみたら、イエスさまからさかのぼると、ダビデやモーセを通り越して、なんと創世記11章のアブラハムにまで至ります。それほどの歳月を神さまはなお忍耐していらっしゃるのです。しかし、2000年でも、すぐ、です。一日は千年、千年は一日、この神さまの「時」を考えれば、2000年は決して長すぎる時間ではありません。 この、すぐに起こるべきことを父なる神さまは、ご自身のしもべたちである教会の兄弟姉妹にお示しになるため、この啓示をキリストに与えられ、イエスさまは御使いをとおしてヨハネに与えられました。 ヨハネとは、イエスさまの十二弟子、十二使徒で、ヨハネの福音書、ヨハネの手紙を書いた使徒ヨハネです。ある解説書は、黙示録のヨハネは使徒ヨハネではないと語りますが、そのように主張する根拠も妥当性もありません。黙示録のヨハネは、あのヨハネです。 ともかく、イエスさまが黙示をヨハネに届けられたのは、最終的に神のしもべたち、教会に伝えるためです。そのためにヨハネがしたこと、それは2節にあるとおり、「証し」です。 神さまは、ご自身のみこころを、人々を用いて「証し」をさせるという形で伝えてくださいます。このときもヨハネを用いてくださいました。ヨハネは、この黙示録を諸教会に「証し」したのです。そして神さまが諸教会に求められたことは、この黙示録のみことばを「朗読する」こと、つまり、印刷技術がなく、会衆がともにみことばに耳を傾ける唯一の方法が「朗読」であった当時、そうすることで会衆全体がみことばを共有すること、そして、このヨハネの黙示録のみことばを「守り行う」ことです。 みことばは耳を傾けるものです。ヨハネの黙示録はとかく難解で、敬遠されがちなみことばでしょう。しかし神さまは、このみことばに「耳を傾けなさい」とおっしゃっています。それだけではありません。このみことばを「守り行う」のです。 こんな難しいみことばをどのように守り行うのか! そもそも、このみことばは何を語っているのか! 途方にくれたりはしないでしょうか? しかし、みことばがわかるように祈りつつ、励まし合って、しっかり取り組みましょう。私たちは必ず、このみことばの意味を悟り、具体的に実践できるように知恵が与えられると信じていただきたいのです。 具体的なみことばの実践。証しとは、その具体的なみことばの実践が教会全体でできるようになるために、耳を傾け、目にするべきものです。みことばは素晴らしいですが、実践されていなければ、絵に描いた餅です。 逆に言えば、みことばの素晴らしさは、私たちがそのみことばのとおりに生きる、証しの生活をすることを通して現されるものです。 次週学ぶみことばに書かれていますが、ヨハネはこのとき、パトモスという島にいました。それは、「神のことばとイエスの証しのゆえ」であると語られています。イエスさまを証しするみことばを語ったゆえにパトモス島にいたわけです。これは、流刑、島流しの刑です。まさに、生き方そのものが教えに殉じた人の生き方、いよいよこの生き方により、イエスさまが本物であることが証しされたわけです。その証しの集大成が、そのパトモス島でものされた「ヨハネの黙示録」であるわけです。 今年私たちは、イエスさまの再臨を待ち望む思いでみことばから学びます。この学びは、私たちの普段の生き方を変えるものとなるようにと、祈りつつ取り組んでいただきたいのです。自分の生き方を変え、人々の心を再臨のイエスさまへと向けるように……まさしく、証しになる生き方です。私たちを十字架によって罪から救ってくださったイエスさまと、再びこの世界に来てくださるイエスさまと、日々祈りとみことばによって交わっていくならば、私たちの生き方が変わります。証しの生き方へと変えられます。 そのようにして、私たちをとおして、イエスさまが周りに証しされて、この年、主を信じる人がひとりでも多く起こされて生きますように、主の御名によってお祈りいたします。  次のキーワードにまいります。2番目のキーワードは「神との交わり」です。 4節をご覧ください。このヨハネの黙示録は、アジアの7つの教会にあてて書かれた書簡であることがわかります。アジアと言っても、日本や韓国、中国の極東まで含むアジアではなく、今でいうトルコの地域を指し、小さいアジア、「小アジア」と言います。  教会の数は7つです。聖書で7という数字は「完全」を意味します。この7つの教会がいかなる教会で、主がそれらの教会ひとつひとつにどのようなみこころを持っておられたかについては、黙示録の2章と3章に詳しく出てきますが、この7つの教会は、「7つ」という数からもわかるとおり、これは完全な教会の姿、あるいは、現代に至るまで約2000年間存在しつづけたすべての教会のあらゆる様相を示しているとも言えます。  この7つの教会、完全な教会に向かわれるお三方が登場します。今おられ、昔おられ、やがて来られる方、つまり、永遠なる神さまです。このお方はヨハネの黙示録が記録されたそのときにも、そして2021年1月3日のこのときにも、おられるお方です。世界が創造された昔から存在してこられたお方です。 そしていずれの日、神さまが定められた日に、さばき主として、しかし神の民にとっては永遠の天国に召してくださるお方として、私たち人間の前に来てくださるお方です。 そして、御座の前におられる7つの御霊、これは、御霊の数を数えると7人おられた、ではありません。御霊はおひとりのお方です。しかしここでは、7つの御霊と表現しています。これは、完全な御霊という意味であり、全地に満ち満ちておられるほど完全なお方という意味です。 しかしこの全地に満ちておられる御霊なる神さまは、7つの教会それぞれを、つまりすべてのキリストのからだなる神の教会を、完全な存在としてくださるお方である、という意味に解釈すると妥当です。この7つの御霊と表現された御霊なる神さまが、7つの教会と表現されたあらゆる教会に向かわれ、語られるのです。 そして、イエスさまです。イエスさまは確かな証人、神さまを解き明かされた、父なる神さまのふところにおられるひとり子の神なるお方です。そして、死者の中から最初に生まれたお方、十字架の死からの復活をもって、ご自身神であることを証しされ、イエスさまを信じるすべての人を罪と死に打ち勝たせてくださったお方です。さらに、地の王たちの支配者、終わりの日にあらゆる権威、権力の上にまし、永遠の王となられるお方です。 この、三位一体なる神さまから、7つの教会、つまり、地にあるすべての、神さまの御目から見れば完全な教会に対し、何が臨むことを使徒ヨハネは祈っていますでしょうか?「恵みと平安」です。 「恵みと平安がありますように」という祈りは、新約聖書に収録されている使徒パウロが書いた13の手紙すべてで、パウロが手紙の読み手のために祈ったことばです。このことばはペテロの手紙第一と第二、ヨハネの手紙第二にも登場します。平安を祈る祈りも含めたら、もっと多くの書簡に登場します。それほど大事なことばです。 初代教会は、形成されて間もなく、たいへん迫害に晒されることになりました。恵みと平安、神さまご自身が御手を伸ばして守ってくださり、導いてくださるその恵みと、その守りの結果与えられる、世の何ものをもってしても奪い去ることのできない平安を、教会は必要としていました。ヨハネという指導者を失ったアジアの7教会もまた例外ではありませんでした。その諸教会に神さまの恵みのみ手が臨み、神さまが与えてくださる平安の中にいられるように……。 ヨハネのこの切なる祈りは、こんにち、すべての教会が必要としているものです。共産圏やイスラム圏のようなキリスト教会に対してむき出しの敵意を示す地域において、主にある私たちの兄弟姉妹が守られるように、私たちは祈る必要があります。これに対して私たち、彼らに比べるとあまりに危険のない地域にいるクリスチャンたちはどうでしょうか? やはり、恵みと平安を求める祈りを必要としています。 私たちがこれほど安全なのは、神さまが守ってくださっているから、それゆえに平安をいただいている……このことに私たちは無感覚になってはなりません。当たり前だと思ってはなりません。そうです。恵みと平安があるように、とは、「自分たちが無事であることは神さまの恵みと平安があるゆえであることを、信じ、神さまに感謝できるように」という意味でもあるのです。 では、三位一体の神さまが

「『その日』が近づく私たち」

聖書箇所;ヘブル人への手紙10章25節/メッセージ題目;「『その日』が近づく私たち」  昨年来の新型コロナウイルス流行は、戦後最大の危機を日本のキリスト教会にもたらしたと言えましょう。なにしろ、集まって礼拝をささげなくなっただけではありません。礼拝のために集まらないことが当たり前になり、さらには、集まらないことが、これほど正当化されたことがあったでしょうか。  新しい生活様式、などとよく言われましたが、新しい生活様式というものは、私たちキリスト教会にも否応なく押し寄せてきました。ただ、教会の場合、そのそれぞれの歴史、置かれた地域の特性によって、判断はさまざまであり、新しい生活様式なるものも教会によってちがいます。東京のような都会の教会は、集まらずにオンラインの礼拝中継に切り替える判断をした教会も少なからず存在したようです。 私たちの場合は感謝なことに、まだ大々的な感染拡大に至らず、1回も欠かさずに礼拝をささげつづけることができています。これは私たちが偉いのでもなんでもなく、恵みです。神さまにご栄光をお帰ししましょう。ハレルヤです。  ともに集まるかどうかという判断を下す場合もそうですが、私たちは何を基準に判断すべきでしょうか。やはりみことばです。もちろん、みことばどおりに行うことができなくて、苦しいところを通らされることも、教会としては充分にあることです。それでも、いざというときの判断の基準があるのとないのとでは、大きな違いがあります。  新聞やテレビの報道もたしかに大事でしょう。しかし私たちにとってそれらの報道は、絶対視するべきものでしょうか? 聖書とニュースと、どちらが大事でしょうか? 世相はいかようにも変わります。それらの揺れ動く報道を絶対視するならば、私たちも揺れ動くのであり、そうなったら、教会は果たして何のために存在するのか、教会を教会ならしめる聖書のみことばは何のために存在するのか、ということになりはしないでしょうか。  ただし私は、聖書とニュースは対立するものであると言いたいのではありません。言うまでもなく私たちの生きている現実は、ニュースという形で反映されていて、それを無視することはできません。要は、聖書のみことばから悟った真理を、いかにして、ニュースという形で映し出される現実の世界に反映させ、適用するか、ということです。  その原則から、今日のみことばをあらためてお読みしたいと思います。  まず、「ある人たちの習慣は、一緒に集まることをやめることであった」ということがわかります。  どうもこの時代のヘブル人クリスチャンの中には、一緒に集まって礼拝や交わりを持つことをやめて、単独で信仰生活を送ろうとしていた人が存在し、そういう存在が教会に少なからぬ影響を与えていた、ということが読み取れます。  一緒に集まることをやめる。理由はいろいろでしょう。この時代のクリスチャンは苛酷な迫害に晒されていたので、教会に集まるのは危険だと考えた、ですとか、あるいはもっと単純な理由、教会の中の人間関係につまずいて、もう教会には行きたくなくなった、ですとか。  そういう人たちの存在は、一緒に集まることをためらわせる大きな理由となったと思います。集まらない人はそれなりに正当な理由を持っている。右へならえ。いっそのこと、もうみんなで一緒に集まるのをやめてしまおう。  しかし、このみことばに示された原則は、一緒に集まることをやめてはならない、ということです。  一緒に集まることをやめてはならない。昨年の新型コロナウイルス流行で多くの教会は集会を中止しましたが、恐らくそれらの諸教会の聖徒たちの中にはこのみことばがあり、相当な苦渋の決断を強いられたことと思います。そんな諸教会のことを、うちのような集まりが持てた教会は決してさばくべきではありません。私たちはむしろ、このみことばを守り行う恵みを与えてくださった神さまに、心からの感謝と賛美をおささげするべきです。  しかし、もし集まることが許されているならば、私たちは決して、一緒に集まることをやめてはならないのです。それが、聖書のみことばが私たち聖徒たちに命じていることです。  では、なぜ私たち聖徒は、一緒に集まることをやめてはならないのでしょうか。それは「励まし合う」ためです。  信仰生活というものは、ひとりでするものではありません。ひとりで信仰生活ができるならば、教会というものはそもそもいりません。教会は共同体です。それは、神さまというお方が、おひとりであられるのと同時に、御父、御子、御霊の三位一体の共同体でいらっしゃるようにです。  お互いがもっと神さまにつながっていられるように。お互いがもっと神さまのみことばを守り行い、神さまのご栄光を顕せるように。そのために、お互いを覚えて祈る。この共同体の営みがあってこそ、私たちはともに信仰が増し加わっていくのです。教会という場で聖徒たちが励まし合うことで、私たちはそれぞれの信仰が成長するのです。  したがって、励まし合うためにともに集まるのでないならば、その集まりには意味がありません。励まし合いが集まりの目的となっていないならば、どうだ、よその教会とちがってうちは集まれたぞ! などという、的はずれな誇り、パリサイ人のような誇りにつながってしまいかねません。  そのように、聖徒たちが励まし合う理由……それは、その日が近づいている、ということです。その日とは何でしょうか? イエスさまが再び来られる日です。  このみことばからわかることは、イエスさまの再臨は、教会が始まったばかりのこの時代から、すでに切に待望されていたものであった、ということです。すぐにでもイエスさまは来られますよ、私たちキリストの花嫁なる教会はいっしょに、灯を掲げて、花婿なるキリストを待ち望みましょう……。  花婿なるキリストを待ち望むことは、ひとりですべきことではありません。いっしょになって、ともにみことばをお読みして、お祈りして、みことばを守り行いながら、教会全体で待ち望むものです。この水戸第一聖書バプテスト教会が待ち望みます。日本のすべての教会が待ち望みます。世界のすべての教会が待ち望みます。  この1年で、世界の教会はオンライン礼拝、リモート礼拝が花盛りとなりました。それは時代の趨勢、時代の要請と言えることでしょう。しかし、ここで憂慮されることがあります。それは、リモートで礼拝することによって、キリストのからだなる教会のひと枝とされている意識が希薄になってしまう信徒が多く現れてしまうのではないか、ということです。  ともに礼拝堂に集う場合と比較してみましょう。礼拝堂に集うならば、ちゃんと早起きして朝ご飯を食べ、女性の方ならばしっかりお化粧するでしょう。そして、威儀を正し、車に乗って数十分の時間をかけて礼拝堂に行きます。もうその時から祈り心をもって整えられているわけです。そして礼拝堂に到着し、礼拝室の中に入ったらお祈りします。これだけでも相当な心構えです。 しかし、リモート礼拝の場合、そこまでの準備をなさいますでしょうか。それができているならば素晴らしいことですが、何しろ家でパソコンに電源を入れ、インターネットに接続したら、すぐ礼拝です。ともに集うために祈り心を持って準備するという意識を持つか持たないかは、事程左様(ことほどさよう)に違ってしまうわけです。 だから、もしどうしてもリモートでなければ礼拝できない、という方は、それだけ充分な祈り心をもって礼拝に備えていただきたい、と、切に願います。特にその祈りを、神さまに向けてくださるのと同時に、所属していらっしゃる教会という共同体の兄弟姉妹を覚えての祈りとしていただきたいと思います。  要は、イエスさまの再臨にともに備えて、励まし合うために、共同体に召されたどうしを大切にすることです。いまこうして集っていられることは、集うこともままならないでいる教会から見ればとても贅沢なことです。この恵みをむだにしないでいただきたいのです。  今日、ここに集う兄弟姉妹のことを、再臨をともに備えるために励まし合う、大事な兄弟姉妹と考えていただきたいのです。そして……ここにともに集っていなくても……クリスチャンであるならば、同じイエスさまの十字架の血潮によって贖われ、神さまの子ども、天国の民にしていただいたどうし、ともに再臨を待ち望みつつ励まし合う、大事な存在です。  今年、うちの教会は、世の終わりがいかに訪れるかを語るみことば、ヨハネの黙示録から学びます。それは、単に聖書知識を増し加えるためではありません。みことばにともに耳を傾けることで、水戸第一聖書バプテスト教会というこの群れに主が持っておられるみこころをともに知り、励まし合うためです。  最後に、私たちはいかにして励まし合うものとなるべきか……やはりそれはみことばによってです。一箇所みことばを開(ひら)きたいと思います。ペテロの手紙第二、3章3節から9節です。  ある人は、私たちが終末ということを本気で信じていることを嘲るでしょう。もしかしたら私たちクリスチャンまで、そのような世の風潮に毒され、終末を語る主のみことばをまともに取り合わなくなってしまわないとも限りません。しかし、神さまは終末ということをはっきり語っています。  しかし、この終末のさばきは水のさばきではなく、火のさばきです。水のさばきも火のさばきも、どちらも恐ろしいですが、この最後の火のさばきは、不敬虔な者たち、すなわち、まことの神さまを神としない生き方を悔い改めない者たちに対して行われるものです。 私たちはこのさばきを免れ、救っていただく存在であることを覚え、感謝しましょう。でも、それだけではなく、さばき主なる主のさばきを覚え、ひとりでも多くの人がこの終わりの日のさばきから免れるように祈り、救い主イエスさまを今年も伝えてまいりたいものです。  そして主がこの世界に対し、忍耐しておられることも考えましょう。私たちの生きるこの世界は、イエスさまが天に昇られてからずっと、罪人の歴史、罪の歴史と言えるものでした。2000年間再臨がなかったからこれからもない、ではありません。2000年間、よくぞ忍耐してくださり、私のことを生かしてくださいました、感謝いたします、私たち教会はあなたさまを待ち望みます、こうでなければならないはずです。  私たちは去る2020年、再臨を待ち望んでいましたでしょうか? 再臨はないかもしれない、という、不信仰になってはいなかったでしょうか? あるいは、再臨のことなど考えもしないで、自分勝手に振る舞うことも多くはなかったでしょうか? はたまた、再臨なんてどうでもいい、と、無関心になってはいなかったでしょうか? もしそうだったならば悔い改め、今年こそ、必ず来られるとみことばにおいて約束しておられるイエスさまのその約束を心から信じ、イエスさまにのみ希望をおいて、ともに歩んでまいりましょう。  では、お互いのことを覚えて祈りましょう。

「元始、教会は家であったその7~救い、回復、宣教の家」

聖書箇所;ルカの福音書19:1~10/メッセージ題目;「元始、教会は家であったその7~救い、回復、宣教の家」  今年のはじめは、この年に新型コロナウイルスが拡散しようとは想像もしていませんでした。3月に爆発的に流行しはじめたとき、都会を中心に多くの教会が、集まりを取りやめ、日曜日の礼拝さえも集まらないという、苦渋の決断をしました。  私もそのような決断をしなければならないのではないか……しかし、やはり集まるべきだ、そのようにおっしゃってくださる信徒のみなさまに背中を押され、いえ、何よりも、主ご自身が最初から最後までお守りくださり、感謝なことに、今年はついに最後まで、この礼拝堂での礼拝を一度も欠かすことなくおささげすることができました。ほんとうにハレルヤです。 もちろん、コロナの流行は依然として予断を許しません。私たちは充分に気をつけていく必要がありましょう。それでも私たちが優先すべきは信仰です。つねに信仰の決断、信仰の選択をしていく私たちとなることができますように、主の御名によってお祈りいたします。  今年最後の礼拝の聖書箇所は、「元始、教会は家であった」というテーマのもとに、ルカの福音書19章1節から10節を選ばせていただきました。よく知られている取税人ザアカイのお話です。  今日のみことばを見てみますと、イエスさま見たさに木に登ったザアカイのことを、イエスさまは見つけ、「わたしは今日、あなたの家に泊まることにしています」とおっしゃいました。  ここでイエスさまが「あなたの家」とおっしゃったことに注目しましょう。イエスさまは、みこころに留められた者の家に泊まってくださるお方です。  しかし、このおことばを聞いた人々は、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言いました。そう、彼らは文句を言いました。イエスさまがあんな奴の家に行って、しかも泊まるだなんて、不満だったのです。  それでも、この人々の不満のことばは、イエスさまがどういうお方かを言い当てている分、あながち的外れなことばでもありません。いえ、まさしくイエスさまはそのようなお方です。罪人の家に入って客となるお方、それがイエスさまです。  このような不満を口にした者たちがどういう人だったか、聖書は特に語っていません。しかし、確かなことがあります。自分はあんな取税人のような人間に比べればましだ、ちゃんとしている、あんな奴はとんだ罪人だ、大嫌いだと思っている、ということです。  それはどういうことかというと、彼らには罪人の自覚がない、ということです。人と比較して罪がないのだから、自分はきよい、とでも思うわけです。  しかし、そのような者は、イエスさまのことなどいらないと自分で言っているのと同じです。もし、自分は取税人のような罪人だという罪の自覚があったならば、イエスさまにすがります。イエスさまはそのような人を喜んで受け入れてくださいます。  ザアカイはイエスさまのことばを聞いたら、すぐにイエスさまを迎えました。私たちはどうでしょうか? イエスさまをお迎えする準備はできていますでしょうか? 自分の罪深さ、醜さ、きたなさを自覚し、認めることができている人は、イエスさまがお客になって来てくださる方です。あとは、迎え入れる準備をするだけです。  さて、イエスさまが来てくださった場所が、単純にザアカイのもと、だったのではなく、「ザアカイの『家』」だったことに注目しましょう。私たちはついこのお話を、ザアカイという「個人」にスポットを当てて読んでしまってはいないでしょうか。しかし、イエスさまがとどまられたのは、「家」なのです。イエスさまは、「家」において、「今日、救いがこの『家』に来ました」とおっしゃったのでした。  ザアカイの家とはどんな家だったのでしょうか? 2つの可能性が考えられます。ひとつは、ザアカイが独身として暮らしていた家、もうひとつは、ザアカイが家族で暮らしていた家です。  もし、ザアカイが独身だったならば、ザアカイを独り身にさせたのは、彼のその忌み嫌われた職業のゆえであるのは、間違いのないところです。そんな彼のひとりで住む家が、救われ、まことの回復をいただいたゆえ、もうだれかお嫁さんを迎えても大丈夫な家になる、幸せが訪れた、ということになるでしょう。  一方でもし、ザアカイにはすでに家族がいたとすれば、家族はザアカイの立場ゆえに、とても肩身が狭い思いをしていたか、ザアカイのように厚かましくふるまって、ザアカイと一緒に嫌われ者になっていたかしたことでしょう。いずれにせよ、家族はザアカイの職業の悪影響を受けていたわけです。 しかしこのようにイエスさまがザアカイを救ってくださったならば、ザアカイの家族はともに救われ、「取税人の家族」という汚名がそそがれたことになります。 どちらにしても、家族に至るまで救いにあずかったことになるわけです。ゆえに、救いはザアカイひとりに及ぶのではなく、ザアカイの「家」に及ぶ、ということになるわけです。  さて、このザアカイの家の救いは、救いいう形で実現しただけでしょうか? それだけではありません。「回復」、ひいては「宣教」という形ででも実現した、ということも無視できません。  ザアカイはイエスさまを家に迎えたとたん、まったく変わりました。8節のとおり、財産の半分を貧しい人に施し、人から脅し取ったものを4倍にもして返す、と宣言しました。これは、イエスさまを迎えた嬉しさに、できもしないことを口にしたのではありません。それならば、聖書に記録されているわけがありません。彼はほんとうに実行したのです。  ルカの福音書が、このようにザアカイという実名まで挙げて、イエスさまに出会っての回心を告げているということは、その当時のユダヤで、ザアカイという取税人がこんなにも素晴らしく変えられた、という話題で持ちきりだったのではないか、そんなことも想像させます。それは、ザアカイが素晴らしい人であったということではなく、ザアカイを素晴らしくしてくださったイエスさまが素晴らしい、と、イエスさまがほめたたえられ、イエスさまが宣べ伝えられる家となった、ということです。  これは、ザアカイの家が回復したのみならず、宣教に用いられたということを意味します。  これはザアカイ個人の働きではなく、家の働きです。といいますのも、財産というものはザアカイひとりの持ち物ではないからです。 ザアカイが独身だったら、将来のお嫁さんのために取っておく必要があるでしょうし、家族がいたならば、その家族の財産を手離すことになるからです。脅し取った財産を返すのみならず、そのさらに3倍分の財物をつけたり、所有する財産の半分を手離したりするということは、相当な財産を犠牲にすることです。  しかしザアカイがこのようにすることは、ザアカイはいい人だとほめてもらうためではありません。ザアカイをこのように救い、回復してくださった、イエスさまを宣べ伝えるためです。宝よりも大切なイエスさまを宣べ伝えるためならば、いくらでも家の財産をささげる……これが、イエスさまを迎えた家において行われたことでした。  イエスさまを迎えた家……これは、教会へと発展していきました。肉の家族から、同じイエスさまを主と告白するどうしが召されて集められた、霊の家族へと発展します。この家族は、ただ単に自分たちさえ救われて、集まっていればいいという段階にとどまっているだけでは、健康な共同体ではありません。経済的な犠牲を伴ってでも伝道、宣教に出ていく、イエスさまを証しする共同体として成長していくことが求められています。  この働きは個人で行うのではありません。ザアカイは「個人」の財産ではなく、「家」の財産で施しをし、自分を救ってくださったイエスさまを証ししました。同じように私たちは、イエスさまを宣べ伝える働きを、「個人」でするのではなく、「教会」という神の家、神の家族で取り組んでこそしかるべきです。  教会全体が宣教のために祈り、宣教のために財産を分かち、教会のひと枝ひと枝であるお一人お一人が実際に、人々の前にキリストを現すのです。  私は学生時代、キャンパスクルセードの学生メンバーとして「四つの法則」による伝道の訓練を受けたり、昨年は「爆発伝道」の訓練を受けたりしました。しかし、伝道というものは、上手な伝道の方法を身につけさえすればそれで充分なのではありません。 ザアカイは十二弟子のような訓練を受けていたわけではありませんが、イエスさまに出会ったら、あっという間に犠牲を払って宣教する家へと変えられました。要は、どんな訓練を受けたか以上に大切なのは、イエスさまによって罪から救っていただいた感動にあふれているかどうかです。この感動が教会全体で分かち合われることによって、伝道、宣教のわざは前進します。 そういうことからも、イエスさまがザアカイの家で語られたこの10節のみことばに、私たちは注目する必要があります。救いがこの家に来た、私たち教会は、イエスさまによって、この宣言をしていただいている存在です。  イエスさまはそれに続いて、なんとおっしゃっていますでしょうか? 「この人もアブラハムの子なのです」。アブラハムの子というのは、一義的には、アブラハムの子孫として生まれたユダヤ人として、正当な神の子、神の民としての立場を回復した、という意味になります。これでザアカイは、もはやユダヤの裏切り者という扱いを受けることはなくなったわけです。  しかし、それだけならば、ユダヤ人ではない私たちとザアカイに臨まれたイエスさまの救いの御業は、関係ないことになってしまいます。アブラハムの子とはだれでしょうか? それを知るためには当然、アブラハムとはだれかがわかっている必要があります。アブラハムは、肉なるイスラエル人の先祖以上の人です。今年集中してアブラハムのことを学びましたが、アブラハムは、信仰の父です。神さまを信じることそのもので神さまに義と認めていただくという、その道を神さまによって開いていただいた人です。  一見するとザアカイは、そのあまりに大胆な施しの行いが目立つあまり、私たちはこの箇所を斜め読みすると、ザアカイのように多額の施しをすることが救いの条件のように誤解してしまうかもしれません。しかしそれはまったくちがいます。ザアカイは、イエスさまに救われたことが、結果としてそのような行いに実を結んだのであって、行いで神の国に入る権利を買ったのではありません。  ザアカイは、イエスさまを信じて救われたということで、アブラハムにならう人になった、つまり、信仰によって救われ、神の国に入ったということです。ザアカイのこの姿は、私たちにとってのモデルです。  しかし、ここでも注目すべきは、救いはザアカイひとりに及んだのではなく、ザアカイの「家」に及んだ、ということです。アブラハムの子、つまり信仰によって義と認められ、天の御国に入れていただいた家長の治めるこの家庭が、やはり信仰をもって救いに入れられる、というわけです。  元始、教会は家であったという主題で毎週お話ししてまいりましたが、私たちはこの礼拝が終わりましたら、それぞれの家に帰ります。そのご家庭での立場はさまざまでしょう。家長の立場におられる方もいれば、奥様、お子さん……さまざまです。 しかし、忘れないでいただきたいのは、私たちは救われている、つまり、アブラハムの子という立場をいただいている以上、そのそれぞれが属している家に対し、救いへと導く権威が与えられている、ということです。  現実を見てみますと、ご家庭での立場は弱いから救いに導くなんてとてもとても……と思われるかもしれません。しかし、ザアカイのことを考えてみてください。ザアカイがもし家庭を持っているならば、ザアカイはその立場のゆえに、家族からも忌み嫌われ、家族の中で発言する権限もなかった、などという可能性も考えられはしないでしょうか? しかし、その家庭はア

主イエスを礼拝する家

聖書箇所;マタイの福音書2:1-12  説教題目;主イエスを礼拝する家 あらためまして、クリスマスおめでとうございます。 クリスマス礼拝ともなりますと、クリスマスの物語を語るのが常です。クリスマスの物語を語るとき、だいたい、2組の礼拝者の群れについて語ります。一方は羊飼いたち、もう一方は東方の博士たちです。今日のクリスマス礼拝では、東方の博士たちについて、「元始、教会は家であった」というテーマでお話ししたいと思います。それではさっそくまいります。 まずは1節と2節のみことばを見てみましょう。いわゆる「東方の博士たち」です。何者でしょうか? 新共同訳聖書という聖書を読みますと、かれらのことをかなりはっきりと書いています。「占星術の学者」。 そう、彼らは星占いをする人です。おやおや、と思いませんか? 言うまでもないことですが、聖書のみことばは星占いの類の占いを固く禁じています。それはまことの神さまに敵対する、極めて霊的なものと理解されています。しかし、主は、そのような人たちの中から、まことに主を信じ礼拝する人たちをお選びになったのでした。 私たちクリスチャンは聖書の民として、星占いのようなことをする人にきびしい目を向けるかもしれません。しかし、彼ら東方の博士たちはどうだったのでしょうか? ただの偶像礼拝者ではなかったことは、この2節のみことばから明らかです。彼らは、はるばる東方から旅をしてきてきました。それは、ユダヤ人の王として生まれる方を礼拝するためであったということでした。そのために彼らは、王さまであるヘロデにまで謁見したのでした。 なんと彼らは、星占いの人たちでありながら、ほんとうに礼拝すべきお方はユダヤ人の王として生まれるメシアであって、その礼拝のためにはどんな犠牲も惜しむべきではないということを、彼らなりの研究の中でちゃんと学んでいたのでした。学ぶだけではなく、実際に礼拝しに旅をするという形で、みごとに実践にまで移していたのでした。 これは驚くべきことではないでしょうか? イエスさまを礼拝することとは全く関係のなかったような人、それどころか、ほかの宗教を窮めるような人の中から、神さまは未来の礼拝者を起こされるのです。 今日の箇所の博士たちを見ると、神さまはそんなおひとりおひとりのことを、実はご自身を礼拝する存在として選んでいらっしゃると考えることはできないでしょうか? 今年は残念ながら、あまり大々的にクリスマスをお祝いできないで今日を迎えました。しかし、私たちの周りから、そのような礼拝者が起こされると考えてみてはいかがでしょうか? 私たちがそうしたように、まだイエスさまに出会っていない方々も、こころ素直に、神さまの選びを受け入れていただきたい、そう願って、謙遜におひとりおひとりに仕える私たちとなりますように、主イエスさまの御名によってお祈りいたします。 さて、その東方からのお客のことばを聞いたユダヤの反応はどうだったでしょうか? 3節です。……どういうことでしょうか? 本来ならば主の民であるはずのユダヤ人ならば、王から庶民に至るまで、この知らせを聞いたとたん、ついにみことばのとおりに救い主がお生まれになることを、大喜びしたはずです。 しかし実際は、王も民も不安を抱いたのでした。それはなぜでしょうか? それは、本物のユダヤ人の王が現れることで、いまとりあえず平和を保っているヘロデの治世が転覆することを、王も民も恐れたからでしょう。 しかしそれでは、ほんとうの意味でメシアを待ち望んでいることにはなりません。どんな時代であろうとも、メシアを待望すべき民、それがユダヤ人だったはずではないでしょうか。この恐れ惑う姿を見ても、いかにその当時のユダヤがみこころから遠く離れていたか、わかろうというものです。 不安になったヘロデは、ひとつのアクションを起こします。4節から8節です。……ここで祭司長や律法学者たちは、メシアはユダヤのベツレヘムで生まれることを、旧約聖書ミカ書のことばから告げています。 彼らにもわかっていたのです。しかし彼ら宗教指導者たちは、自分たちの仕えている主が送ってくださったはずのメシアに会いに行かなかったのでした。会いに行ったのはあくまで、東方の博士たちであって、彼らではありませんでした。彼らは聖書を教える指導者でありながら、信じていなかったのでしょうか? もっとも、彼ら祭司長や律法学者たちは、会いに行こうにもできない事情がありました。折しも、ユダヤを含む全ローマ帝国には、住民登録が布告されていました。そのため彼ら宗教指導者たちは、エルサレムを離れることができなかったのでした。 そもそもイエスさまがベツレヘムでお生まれになったのだって、ヨセフとマリアが住民登録のために先祖の町に行ったからでした。ユダヤ人は、どんなにイエスさまのお誕生をお祝いしたいと思っても、住民登録のせいで、ベツレヘムに先祖がいる人を除いてイエスさまに会うことは許されません。 エルサレム神殿にて神さまに仕える宗教指導者はなおのこと、エルサレムを離れるわけにはいきませんでした。イエスさまに会うために自由に旅ができるのは、彼ら東方の博士たちたちのような、ローマ帝国の支配下にない人だけです。 ともかく、メシアがベツレヘムに生まれることを知った一方でヘロデは、今度はメシアの年齢を知ろうとします。星がいつ出現したのか、占星術の学者たちに尋ねたのでした。そのことによってヘロデは、その子が生まれたばかりの赤ちゃんだということを知りました。 そしてヘロデは、その子のことを詳しく調べて報告するように占星術師たちに言いました。ヘロデはその理由を、自分も行って拝むためだと言っています。 しかし、それをヘロデが知りたがったのも、もちろんイエスさまのことを葬り去るためです。ベツレヘムにいるそれくらいの年齢の子どものことを詳しく知ったら、あとはその子どもを殺してしまえばいいわけです。 実際ヘロデはあとになって、ベツレヘムの2歳以下の男の子を皆殺しにしました。ひとりくらいメシアがまぎれていれば、結果的にメシアは死に、ヘロデの王権が保たれると思ったからでしょう。まったく、とんでもない話です。 結局、主がご介在されて、イエスさまは守られたわけですが、その陰で多くの子どもたちが犠牲になりました。救い主を葬り去ろうとするサタンの勢力が、暴君ヘロデを用いて暴れ回ったわけです。 ともかく、異邦人である博士たちにも、旧約聖書のミカ書のみことばが開かれました。彼らの目指すべき地はベツレヘムであることを知り、彼らはベツレヘムに向けて再び出発します。しかし彼らには問題がありました。具体的に、ベツレヘムのどこに行けばいいかがわからなかったからです。しかし、そのような学者たちに、主はどのような導きをくださいましたか? 9節と10節です。 実に不思議な現象が起こりました。それでも、彼らは星については専門家の中の専門家です。これこそ主の導きと確信しました。それだけの説得力を持って、主は彼らを導かれたのでした。 主は、人を召されるとき、しばしばその相手に最も近しい存在をお用いになります。彼らにとって最も通じている存在は、「星」です。人の考えではけっして動くはずがないものです。しかし主は、天の星を不思議に動かして、星のことならば何でも知っている星のプロたち、博士たちのことを礼拝者としてお導きになりました。 さて、ついに東方の博士たちは、イエスさまのおられる場所にまでたどり着きました。そこはどこかというと、ベツレヘムの「家」だったとあります。 これは具体的に言えばどこでしょうか? 私たちはクリスマスの物語から、ついここのことを「馬小屋」と考えてしまうかもしれません。私もかつてその前提で、馬小屋の汚い地面にひれ伏した博士たち、なんてメッセージを語ったことがありましたが、「家」と書いてあると、そこは馬小屋とはかぎらないことが分かります。 これが馬小屋ではなく、「家」という建物だとすると、こう考えられないでしょうか? マリアは、産後の養生のためにまだしばらくベツレヘムにとどまる必要があった。その間に、住民登録を終えたユダヤ人たちはみな自分の住所へと帰り、宿屋に空きができて、もうマリアたちは馬小屋にいる必要がなくなって、それこそ「家」に入ることができた……。 いずれにせよ、このイエスさまを産んだ聖家族がとどまっている場所を「家」と表現している聖書のことばに、私たちは注目する必要があります。そこを単なる空間と考えたら、「宿屋」と言うべきでしょう。しかしここは「家」なのです。なぜかというと、イエスさまを産んだ「家族」がいるからです。 つまり、東方の博士たちは、宿屋に来たというよりも、イエスさまの家族に招かれたということです。建物よりも重要なものは、家族というつながりであり、そこに人を招くことが、教会の原型、そして、教会の実体です。 私たちにも同じことが言えます。私たちが現にいるこの場所は、「礼拝堂」というよりも、「教会」と呼ぶのが普通です。「礼拝堂」というとそれは「建物」を指しますが、「教会」は、建物ではなく「家族」、「共同体」です。イエスさまを信じる信仰によって、同じ天の父なる神さまをお父さまとお呼びしてお従いする、霊の兄弟姉妹の群れです。切っても切れない関係にある有機体です。 例年、クリスマスともなりますと、うちの教会は祝会を開き、フルートのコンサートを開催しました。これは、礼拝堂で行うイベントにボランティアで人々を招いたということではありません。そうではなくて、私たち主にある家族が、この家族に交じっていただくように、お客さまをお呼びした、ということです。 お客さまはもともと、クリスチャンではない方もいっぱいいらっしゃいます。しかし、最高の時間を過ごし、その貴重な時間を神さまにささげていらっしゃいました。そのお姿はまるで、東方の博士たちのようでした。 それでは、東方の博士たちはどのようにしてイエスさまを礼拝したのでしょうか? 11節です。彼らはイエスさまに、黄金、乳香、没薬を贈りました。この贈り物は、イエスさまがどのようなお方かということを象徴的に言い当てていました。 黄金は何でしょうか? イエスさまが王であることを示しています。列王記第一10章によりますと、ソロモン王は主から栄誉を与えられたしるしとして、金をぜいたくに用いたとあります。人々の上に燦然と君臨する象徴、それが黄金というわけです。黄金は、イエスさまこそがまことの王であるということを象徴しています。 乳香は何でしょうか? それは主にささげる香りであり、すなわち、人と主との間に交わりを成り立たせるものです。その働きをするのは、祭司です。乳香は、イエスさまこそがまことの祭司であるということを象徴しています。 圧巻は、没薬です。これは少しご説明します。没薬もまた、高価な貴重品です。しかしこれは、死体に防腐処理を施すためのものであり、これを贈ったということは、貴重な物を贈ったということ以上に、生まれたばかりのイエスさまの、葬りの準備をしているということになるのです。イエスさまは死なれるお方だということを、学者たちは知っていたことになります。この没薬は、イエスさまがまことの預言者であることを示しています。 これがなぜ預言者のことを指しているか、少しご説明します。預言者の預言とは、いわゆる一般的か「あらかじめ起こっていないことを言い当てる」予言とはちがいます。「ことばを預かる」と書きます。神さまのことばを預かり、世に対してそのみことばを曲げないで伝える働きをする、それが預言者のすることです。預言者たちは、曲げないで主のことばを語ったことにより、相当な苦しい目に遭わされました。中には殺された者もおります。 イエスさまは、神のことばが肉体を取ってこの世に来られたお方であるのだと、聖書は語っています。イエスさまはまことの預言者であられるのと同時に、生きて働く預言そのものでいらっしゃったのです。そしてイエスさまが十字架にかけられた理由は、大祭司がイエスさまの語られたおことばを、神への冒涜だとさばいたからでした。 イエスさまは、みことばを語られたから、いえ、みことばそのものであったゆえに、みことばを正しく理解しなかった宗教指導者たちによって殺されたのでした。イエスさまは、みことばに生まれ、みことばに生き、みことばに死なれました。没薬は、イエスさまこそがみことばを大々的に宣言され、かなえられた、まことの預言者であることを象徴しています。 まことの王、まことの祭司、まことの預言者、これぞ来たるべきメシアです。イエスさまがそのようなメシアであったことを異邦の学者たちに見抜かせた主のお導きは、驚くばかりです。そして主は不思議な方法、ローマ帝国の人口調査というわざを通して、ユダヤの宗教指導者たちではなく、異邦人の占星術の博士たちを礼拝者としてお選びになりました。 私たちが今日こうしてクリスマス礼拝をささげているのも、主が私たちのことを礼拝者として選んでいらっしゃるからです。私たちは選ばれているのです。 私たちは今日この日、クリスマスにお生まれになったイエスさまを礼拝する礼拝者として選ばれた「選手」です。私たちを創造され、導いてくださっている神さまのために、神さまが私たちのことを一つにしてくださった教会のために、教会がキリストの平和というよき知らせを携えて大々的に出ていくべきこの世のために、私たちは今日、クリスマスの礼拝をおささげしているのです。私たちは、その礼拝をささげるために選ばれた「選手」です。 博士たちは、はるばるベツレヘムまで旅をしてまで礼拝場所を求めました。家に入って赤ちゃんのイエスさまの御前にひれ伏しました。貴重なだけではなく、それぞれに深い聖書的な意味のある黄金、乳香、没薬をささげることにより、救い主なるイエスさまをほめたたえました。私たちはそれくらい真剣でしょうか? それほどの態度で、それほどのささげものをおささげすべき素晴らしいお方、それがイエスさまです。 私たち自身を振り返りましょう。私たちは長い間、イエスさまに会うまでの間、はるかの旅を続けていた存在でした。しかし今、イエスさまを中心とする神の家族、教会の家族の中に入れられて、私の罪のために十字架にかかってくださるためにこの世に生まれてくださった、まことの王なるイエスさまの御前に、礼拝をささげています。私たちは、来るべき場所に来たのです。 私たちが過ごしたこの2020年、それは、新型コロナに翻弄された激動の年でしたが、それでも変わらずに私たちとともにいてくださるお方、私たちを導いてくださるお方、イエスさまに目を留めましょう。私たちのただ中におられるイエスさまをともに礼拝しましょう。 その、ともにおささげする礼拝によって、私たちが一つとされていますことを、心から感謝し、来たる2021年、ますますイエスさまへの献身を新たにする私たちとなりますように、その献身によって私たちが一つとなり、ともに主のご栄光を顕すものとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

元始、教会は家であった~その5 教会は帰るべき家、いるべき家~

聖書箇所;ルカの福音書15:11~32/メッセージ題目;元始、教会は家であった~その5 教会は帰るべき家、いるべき家~ 本日の箇所はとても有名なみことばです。私たちはこの箇所をお読みして、いろいろなことを思うでしょう。私もこの弟息子のようだった、とか、お兄さんはひどい、とか、いや、お兄さんは正しいことを言っている、とか。 「元始、教会は家であった」シリーズも、本日で5回目となりました。本日は、イエスさまのたとえ話に現れた「家」というものから、「家」なる教会をめぐる人間関係に主はどのようなみこころを持っていらっしゃるか、ともに探ってみたいと思います。 イエスさまのたとえ話は、「ある人に二人の息子がいた」ということばから始まっています。このお話の中でもっとも大事な登場人物は、「ある人」、つまり「お父さん」です。この人が神さまのことであるのは、説明するまでもありません。神さまから見て2種類の人間、それが弟息子と兄息子であるわけですが、まずは弟息子のほうから見てみましょう。 弟息子はどんな人のことでしょうか? 父親の財産をせしめ、父親から遠く離れて別の国に行き、そこで湯水のごとく財産を使い、放蕩のかぎりを尽くした人間です。 これを、神さまと人間との関係に当てはめてみましょう。私たちの持つすべての財産は、ことごとく神さまのものです。しかし人間は、あたかもその所有権が自分にあるかのように振舞うのです。神さまなど関係ないように生きるのです。好き勝手に生きるのです。人間みんな放蕩息子です。 しかし、罪からの報酬は死です。人間は神さまから離れ、好き放題に生きるならば、必ずどこかでその罪の刈り取りをします。そのことをこのたとえ話でイエスさまは、折からの大飢饉に食い詰めて人のところに身を寄せたら、豚の世話をさせられたということにたとえておられます。 ユダヤでは、豚はけがれた動物ということになっていました。そういう戒律です。今私たちクリスチャンはすべての食べ物の戒律から自由になっていて、おいしい豚肉を食べられてありがたいかぎりですが、このたとえ話を聞いていたのは、パリサイ人や律法学者を含めたユダヤ人です。 とかく形から入ることで自分たちはきよいと思いたがるパリサイ人にとって、豚の世話をするなどというたとえ話は、かなりショッキングに響いたはずです。 悪臭ふんぷんたる場所で働かされたこの放蕩息子は、きわめてひもじい思いさえしていました。16節です。「彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。」 火も通っていない家畜のエサなどだれが食べるというのでしょうか。しかし、それさえも彼は食べることを許されませんでした。豚のほうが大事なのです。お前が飢え死にしようと知ったことじゃない、勝手に死ね、この家の主人は、そんなことさえ言っているかのようです。 放蕩のすえに食い詰めて彼が身を寄せたこの家の主人は、サタンを象徴していると言えましょう。この世の君は、人を快楽で操り、手先としてこきつかって、ついにはぼろぼろにして、死んでいくに任せます。この世にはサタンの軍門に下った放蕩息子が、なんとたくさんいることでしょうか。 しかし、彼はそれで終わりではありませんでした。17節をご覧ください。「しかし、彼は我に返って言った。」我に返って。この部分、赤い字で印刷して、はっきり読めるようにしたいくらいです。自分の居場所はここではない。帰ろう。恥も外聞も捨てて。 いまさら合わせる顔がないと思ったことでしょう。弟息子は、父親に財産を分けてくださいと申し出たときには、それを元手に一旗揚げて立派な人物になる、そんな青雲の志さえ父親に語ったかもしれません。ところがふたを開けてみれば、一文無し、すってんてんのすっからかんで、何一つ誇れるもののない、ただの罪人です。彼は思いました。もう息子と呼んでいただく資格はない。雇い人の一人にしていただこう。 しかし、なんということでしょう。父親はいつも、家からずっと離れたところに立って、彼のことを待ちわびていたのでした。そして、ついに、遠くに彼のことを見つけました。駆け寄って抱きしめ、口づけしました。罪の汚れにまみれたこの子のことを、父はその威厳もかなぐり捨てるがごときに、受け止めてくれたのでした。 これが、御父の姿なのです。だいじな子どもは背を向けて去っていく、好き放題する、そんな子どもがその罪の刈り取りをすることになっても、御父はただじっと待っておられるのです。どんな思いで待っておられることでしょうか。 しかし、このお方のもとに戻る恵みはわれわれに臨むのです。我に返る恵みをなお、神さまは与えてくださいます。戻ることができるのです。 父は、弟息子が戻るのを、ずっと待っていました。そして、戻ってきた彼のことを、その姿のまま抱きしめてくれたのでした。彼は言いました。「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。」 彼はこのことばに続いて、あなたの家の雇い人のひとりにしてください、と言うつもりでした。しかし父親は、みなまで言うな、とばかりに、息子のことばを聞かなかったかのように、しもべたちに言いました。「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履物を履かせなさい。」罪人のきたない恰好のままでいさせません。きれいな格好に飾ってくれました。中でも注目すべきは「指輪」です。これは、父親が自分のすべてを譲り渡す証拠です。雇い人どころではありません。立派な「跡継ぎ」です。 23節もお読みください。「そして肥えた子牛を引いてきて屠りなさい。食べて祝おう。」父を離れ、悪の世界に身を置くかぎり、豚の餌さえ食べられなくなった者が、なんと肥えた子牛のパーティです。しかもこのパーティの主人公です。救われるということは、こういうことなのです。 救われるとはどういうことか、いみじくも父親が24節で語っているとおりです。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」。私たち人間は、創造主なる神さまのもとに帰るまでは、みな死んだ者、いなくなっていた者です。行きつくところは滅びです。しかし、そのような者でも救っていただきました。 元始、教会とは、神さまを父とする家であります。救われる人が起こされるたびに、このような喜びが繰り広げられる場所、それが教会なのです。だれかにこの喜びを味わってほしい、私もこの喜びを味わいたい、そこから、伝道ということに対してやる気が出てくるのではないでしょうか。 教会、父の家とは、人の帰るべきただひとつの場所です。ここに帰ってくるまでは、人はさまよっており、どこに行くべきかわからず、たえず不安に支配されます。しかし、父の家に帰るならば、安全であり、安心です。あとは、もう離れないだけです。 私たちは、救われた時の感動を思い起こしましょう。帰るべき家に来た! みんなでともに神の国を継ぐ者とされた! 私たちは救われたゆえに、教会という神の家から離れてはいけません。 さて、ここに、兄息子が登場します。彼は畑で働いていました。そこに、家からパーティの歌舞音曲が聞こえてきて、何事か、と思いました。それが、弟が帰ってきたからだと知ると、怒って、家に入ろうともしませんでした。 父はそんな兄息子を見るに見かねて、家の外に出てきて彼をなだめました。しかし、彼は訴えます。「ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。」 さあ、みなさんなら、この兄息子のことばを聞いて、どのように思われるでしょうか。およそ宗教というものは善行ということを説きますが、そのような見方からすれば、この兄の言っていることは筋が通っているように思えないでしょうか? しかし、繰り返しますが、イエスさまのこのたとえ話は、パリサイ人や律法学者を含むユダヤ人たちを相手に語られたお話です。彼ら宗教指導者たちは、イエスさまが取税人や罪人のような者たちのことを受け入れて、食事さえ一緒にしていることを快く思わず、ケチをつけたわけでした。そんな彼らに対して、イエスさまがこのたとえ話を語られたということを前提に、考えてまいりたいものです。 パリサイ人のような人ならおそらく、この兄息子のようなことを言いかねなかったことでしょう。自分の行い、正しさを主張し、罪人を決して許さない、受け入れない。彼らからすれば、神さまがそんな罪人さえ受け入れるだなんて、到底、理解できなかったはずです。 しかしイエスさまは、そんなパリサイ人に対しても、やさしい心を持っていらっしゃいました。私たちは読みかじりの程度に聖書を読むだけだと、イエスさまはパリサイ人に対して、ただひたすらに厳しい、こわい、という印象を持つかもしれません。マタイの福音書の23章など読むと、イエスさまは口を極めて、パリサイ人のことを罵っておられるくらいですので、余計そう思われるかもしれません。 しかしイエスさまは、パリサイ人の言動を問題にされてはいても、パリサイ人の人格まで呪っておられるわけではありません。むしろ、兄息子に例えられたパリサイ人に対する御父の御思いをこの父親のことばから読み取るなら、とてもやさしいお方、ということがわかると思います。 まず、父はなんと言っていますでしょうか? 31節です。「父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。」 兄息子はそれまで、いろいろな問題にとらわれていました。まず、父の戒めを守り行なってきたことが、結局は父に認められていないように思えてしまったこと、それは、その愛の表現として子やぎ一匹もらえなかったからたしかにそうだと思ったこと、それなのに、戒めを破り放題で財産を使い果たした奴に対し、父はとても寛大であることに怒りを燃やしていたこと……。 それは何が問題だったか。まず彼は、正しい行いで自分の正しさを父に認められようとしていました。しかしこれでは、きりがありません。99パーセント正しくても、1パーセントが正しくなければ、すべてが正しくない、人間に対するきよい神さまのありかたは、そういうものです。結局人間は、神さまのほんとうのみこころがわからなければ、的の外れた努力を繰り返すしかないものなのです。 そして彼は、自分が充分に父に愛されていることも考えないで、わかりやすい形で父の愛を受けた弟に嫉妬しました。そう、これは嫉妬なのです。正しくふるまう努力を怠らない自分は認めてもらえないのに、放蕩のかぎりを尽くしたこいつはとっても愛されている……。 私たちが信仰生活をするうえでしてはならないことがあります。それは、「ほかの兄弟姉妹と比較をする」ということです。これほどみじめになるか、傲慢になるかして、自分にさんさんと注がれている神さまの愛を見失わせるものはありません。それもそのはずです、神さまに向けるはずの目を、人に向けているからです。完全な神さまを見上げて、自分も完全なものにされている喜びを味わう代わりに、不完全な他人か、不完全な自分を見て、不完全な信仰を持つしかなくなります。 そんな不完全な人、みじめな人の代表選手が、この兄息子です。そんな兄息子に、父はとてもやさしいです。まず、呼びかけてくださいます。「子よ。」そうです、父の気持ちも知らないで文句を言うような彼のことを、もう子ども扱いしない、そんな父親ではありません。おまえも子どもだ。愛するわが子だ。 どんな子どもなのでしょうか。おまえはいつも私と一緒にいる。そうです。遠い国、サタンの国に行くことがなく、父の家にとどまりつづけていることは、なんという祝福なのでしょうか。 そして、私たちはただ神さまとともにいさせていただいているだけではありません。もちろん、それだけでも充分に祝福と言えますが、それだけではないのです。「私のものは全部おまえのものだ。」父なる神さまのもの、天の御国を、イエスさまを信じる信仰のゆえに受け継がせていただけるのです。子やぎどころではありません。天国そのものです。それをまるごと受け継がせていただいているとは、どれほど大きな祝福でしょうか。 だから私たちは、神さまからいただく祝福というものを取り違えてはいけないのです。神さまの祝福をいただいている私たちはこの世においても繁栄する、などと教える牧師や教会は人気があるものですが、ほんとうの神さまの祝福というものは、必ずしも目に見えるものとはかぎりません。 しかしただひとつ確実なことは、私たちはすでにその祝福、天の祝福を、この地上において受けており、のちの世で永遠のいのちとともにこの祝福を完全にいただく、ということです。だから、この天の祝福につねに目を留める、霊的な目をいつも備えさせていただくように、私たちはどんなときにも神さまと交わりを欠かさないでまいりたいものです。 しかし、そのような天の祝福をいただいているということは、同じイエスさまの十字架により罪赦され、贖われて神のものとされた、兄弟姉妹を愛するという形で実を結んでしかるべきなのです。32節で、お父さんは何と言っているでしょうか?「だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」 父の戒めを落ち度なく守っていることを誇りにしていた兄息子は、パリサイ人や律法学者のような宗教指導者を暗に指していましたが、このような人は、この神の家、教会の中にもいるものです。私こそ兄息子かもしれない、そう思っていただけるなら、それはすばらしいことです。 なぜなら、このままでは兄弟姉妹をさばく、つまり、同じ神さまから生まれた愛すべき存在を遠ざけることを、当然のことのように思う、自分さえよければそれでいい、心の冷たいクリスチャンになってしまうからで、そんな自分のことを悔い改めるならば、御父のみこころどおり、愛にあふれた素晴らしいクリスチャンになれるからです。 私がメッセージの中で何度も申し上げていることですが、福音書があれだけ、パリサイ人を責めることばに満ちているのは、パリサイ人とちがって私は恵みによって神さまのものとされている、などと、悦に入るためでは決してありません。そうではなくて、これを読むあなたの中にもパリサイ人の要素があります、恵みにとどまりたければ悔い改めなさい、と戒められているからです。パリサイ人とは、私たちのことです。兄息子とは、私たちのことです。 兄息子は、家の中に入ろうとしませんでした。これは象徴的です。兄弟を受け入れず、さばくということは、教会という神の家の中に、父とともにいようとしないということを意味します。これは不幸なことです。 兄息子は家で何が起きているかに関心も払わず、いえ、もしかすると、毎日のように出ていって弟を待ちつづける父の心も知ろうともしないで、その日も畑にいて仕事をしていました。しかし、それを父は喜んだでしょうか? 父とともにいて、喜びを分かち合わないならば、畑仕事に精を出すがごとく、行いで認められようとしたところで、何にもなりません。 私たちも同じです。私たちは父の心を知って、父とともにいることを選ばなければなりません。そうすれば、父の願いどおり、兄弟姉妹を受け入れ、愛する思いが生まれてきます。神の家、教会は、中に入ってとどまるべきところです。 私たちは弟息子のように、戻るべき場所に戻りました。しかし今からは、兄息子のような自己中心、律法主義を、たえずみことばと祈りをとおして悔い改めながら、父に似た者としてともに成長していく群れとなりたいものです。そのために今日、私たちはどんなことを決心しますでしょうか? 初めの愛に帰りましょう。ありのままを受け入れてくださった御父の愛を思えば、私たちもまた、兄弟姉妹を受け入れることはできるはずです。それを阻む自己中心が、主の御手によって取り去られますように、私たちは真剣に祈りたいと思います。

元始、教会は家であった その4~主の晩さん考察~

聖書箇所;使徒の働き2:41~47/メッセージ題目;元始、教会は家であった その4~主の晩さん考察~ 今日は、恥ずかしい話からお分かち合いしたいと思います。 私は中学生のとき、母に連れられて初めて教会にまいりました。兄がすぐにイエスさまを信じてバプテスマを受け、ほどなくして母も、祖母もバプテスマを受けたのですが、私はバプテスマを受けるまでに少し時間がかかりました。 そんなときにどうしても気にしてしまうのが、主の晩さんの時間です。バプテスマを受けている人はみな受けられても、バプテスマを受けていない私はいただくことができません。みんな、いいなあ、と思いながら、手持無沙汰な時間を過ごしたものです。 そんな私もやがてバプテスマを受けました。主の晩さんにあずかれるようになったわけです。しかし、そうなるとどうなったか、といいますと、今度は、主の晩さんの時間を、とても退屈なものと思うようになってしまったのでした。 要するに、主の晩さんというものをちゃんとわかっていなかったわけです。それにしても今思い返しても、恥ずかしいことです。 本日学びますのは、主の晩さんに関してです。さきほどお読みいただいたみことば、使徒の働きは、イエスさまが天に昇られた後、聖霊なる神さまのお働きによって、エルサレムにはじまり各地に教会が形づくられたという記録に満ちています。 その中でも今日の箇所、2章は、エルサレムに集った聖徒たちに聖霊なる神さまがお降りになり、その聖徒を代表したペテロのメッセージをとおして、実に3000人もの人がイエスさまを主と信じ受け入れ、バプテスマを受けた、という、ダイナミックな箇所です。 マタイの福音書を締めくくるみことば、28章の18節から20節のみことばには、このようにあります。……イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。 この「バプテスマを授け」ということばは、ただ単に宗教的儀式としてバプテスマを授けるということではありません。このことばは「弟子としなさい」ということばと密接な関係があり、「バプテスマを授けて弟子とする」という意味でもありますし、「弟子とするためにバプテスマを授ける」ということでもあります。 つまり、バプテスマはゴールではないのです。むしろスタートというべきです。一説によると、日本のクリスチャンの平均信仰年数は、2年8か月ということです。短いと思いでしょうか? しかしこれは、10年、20年、30年以上、信仰生活をしている人と平均した数字です。となると、バプテスマを受けてたった数か月以内に教会に行くことをやめてしまう人というのが、とても多い、ということになりはしないでしょうか? このような問題を引き起こす背景には、2つのことが考えられます。ひとつは、バプテスマ準備クラスさえ終えればそれでよしとしてしまう、教会教育の不在、もうひとつは、主の晩さんが単なる儀式としかとらえられず、軽んじられている、ということです。 今日はその中でも、教会の存在の根本に主の晩さんが存在するというテーマでお話しします。本日お読みいただいたこの短い箇所の中に「パンを裂き」ということばが、2回も登場します。それは、すべての教会の基礎の基礎である初代教会にとって、パンを裂くこと、すなわち、主の晩さんを口にすることは、それだけ大事だった、ということではないでしょうか? 「主の晩さん」は、ほかならぬイエスさまが「守り行いなさい」と定めてくださったものであり、つまりそれは必ず守り行うべきものであり、それだけ、厳粛な思いで参加させていただくものです。 この「主の晩さん」を守り行う人は、バプテスマを受けている聖徒です。それはなぜなのでしょうか? それを知るには何よりも、聖書がバプテスマというものをどのように定義しているかを知る必要があります。ペテロの手紙第一、3章18節から21節です。 ……キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。 8人の家族が箱舟の中に入って救われたのは、彼らが、その時代に生きたほかの人よりもよい生き方をしたからでしょうか? そうとは言えません。ただひとつ確実なのは、箱舟の中に入るという、神さまの方法に従えば救われるという、信仰を保っていたからでした。その信仰の実践として、箱舟の中に入ったのでした。 われわれが受けるバプテスマというものも、これと同じだというわけです。バプテスマはその形が形なので、つい私たちは、「みそぎ」のように、それを宗教儀式として体験すれば、きよくなる、きれいになる、と考えてしまいがちかもしれません。実際、バプテスマを連想する記述が旧約聖書にありますが、ヨルダン川に浸かるとナアマン将軍の皮膚病、それも、宗教的けがれの象徴とさえ言えるツァラアトが治ったなどという箇所をうのみにしていると、余計そう思えてきそうです。 しかし、このペテロの手紙第一によれば、そうではない、「健全な良心が神に対して行う誓約」だというのです。 しかし、私たちは罪人である以上、心がけがれていない人などいません。しかし、イエスさまの十字架の血潮は、そのような私たちの心をきよめてくださり、それこそ、健全な良心と見なしていただけるにふさわしく変えていただきました。そのように私たちの心を変えてくださった神さまに対し、これからは自分のために生きるのではなく、神さまのために生きるようにしてください、私はこの人生を神さまにおささげします、と、誓約させていただくのです。 誓約、誓いということは、神さまの恵みの中で初めてできることです。結婚式のとき私たちは、病めるときも健やかなるときも配偶者を愛することを誓うわけですが、そのような誓いを立てても別れるときは別れます。ここ数年私は、そのようにして別れていったカップルの話をよく聞くようになって、つくづく、誓いというものは人間の意志でできることではなく、神さまの恵みがあって初めてできるものであることを思わされます。 神さまの恵みによって献身したい、そう願ってするものがバプテスマです。その願いも、これも神さまの恵みが臨んで初めてできることなわけです。バプテスマはどこまでも、神さまの恵みの中でなされるものです。 人はバプテスマによって、古い自分が水に葬られ、その水から引き上げられて、キリストにあって新しい人として生きる誓いをしたことを、人々の前に公(おおやけ)にします。もはや自分が生きているのではなく、キリストが自分のうちに生きていることを公にするのです。 その生き方を公にした人こそ、キリストのみからだと血潮にあずかる、すなわち、主の晩さんにおいてパンとぶどう汁の杯にあずかるのです。よく、日曜学校の子どもなど、そのパンとぶどう汁を見て、欲しがるのを私はよく見てきましたが、神さまへの献身をバプテスマという形で表せるほど、神さまと教会において従順の態度を示していないかぎり、やはりこれを口にすることはふさわしくないわけです。 ただ、このようなことを私たちクリスチャンが主張すると、差別だ、と言い出す人が現れないとも限りません。そのような意見を考えてでしょうか、教会の中には、バプテスマを受けていない人にも広く主の晩さんをオープンにする教会もあります。だれでもパンと杯を取れるわけです。しかし私は、どうしてもそのような立場を取ることができません。 それを口にすることは、礼拝に参加したということ以上の意味があります。私はキリストのからだを食べ、キリストの血を飲み、キリストとひとつにしていただいている、つまり、キリストとともに十字架につけられている、自分に死に、キリストに生きる、その誓いをさせていただいている、私はキリストに一生ついていきます、という覚悟がなければ、それを口にすることなど到底できないはずです。主の晩さんとは、そういうものです。 そうだとすると、主の晩さんがクリスチャンにだけ開かれていることは、差別ではないことをご理解いただけると思います。 こんな話もあります。先週お話しした私の友人のことですが、はじめてソウル日本人教会に連れていった日が、なんと、たまたま主の晩さん、聖餐式の日でした。あっちゃー、こういうことで心を閉ざさないかな、私はちょっと心配になり、隣の席に座った友達に、ごめん、洗礼を受けていないと食べられないんだよね、と言いました。すると友達はこう言ったのでした。「あ、食べなくていいのね。」 私はこのことばに、とてもほっとしました。また一方で、友達が主の晩さんの本質をよく理解していたとも思いました。これを食べるということは、神さまに献身していることを表明することである、と。 そう考えると、毎回主の晩さんのたびにお読みしている第一コリント11章27節から29節のみことばの意味がわかってくるのではないかと思います。 ……したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。 みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。 ここでいう「ふさわしくない仕方で」とは何か、ということを考える必要があります。 キリストに従うことも誓えないのに、いかにもクリスチャンとして、何か立派な人であるかのように周りに認められようと振る舞う。それは、いけないことであり、それこそ「ふさわしくない仕方」ということです。いつもの主の晩さんにおいては、この29節につづく30節のみことばはお読みしていませんが、30節には、ふさわしくない仕方でパンと杯にあずかる者がいるせいで、コリント教会には、弱い者や病人、死んだ者が数多く現れたのだ、という、かなりぞっとすることばが続きます。 もしかすると実際コリント教会には、そのような目に見える怖ろしいことが起こっていたのかもしれません。しかし、このみことばをこんにちの教会に当てはめてみると、主への従順を誓えない一方で、教会の中で勝手気ままに振る舞う、宗教儀式を行なってさえいれば何をしてもいいなどと考える……そういう教会、クリスチャンは、病みますし、霊的に死にます。私たちが主の晩さんというものを、単なる宗教儀式のように守りさえすればそれでいいのではないことが、このことからもわかります。 しかしその一方で、ある人はこうおっしゃるかもしれません。自分はバプテスマを受けたとき、実は信仰のことがよくわかっていなかった、ということが、あとになってわかった。いま自分には確信がないことがわかった。そんな自分は主の晩さんを受けて信仰生活を送るにふさわしくないのではないか。 そういうことはよくあるものではないかと思います。私のよく知っているクリスチャンの中にも、バプテスマを受けたときに教会から発行してもらった「証書」を、教会に返しにいこうとした人がいるくらいです。要するに、クリスチャンをやめようとしたわけです。 そこまで極端でなくても、主の晩さんのパンと杯が回ってくるときに、何やら後ろめたい思いに駆られるということもあるわけです。自分はこれをいただいていいのか? 自分はこれをいただけるほど、立派なクリスチャンではないよ? しかし、問われるということは、実は私たちがそれだけ、神さまに拠り頼む道が開けているということで、むしろ歓迎すべきことです。むしろ、なにも考えないでパンと杯を取り、平気な顔をして口にする方がよほど問題です。 私たちは、この目の前にあるパンと杯が、主イエスさまのみからだであり、血潮であると考えたら、平気で口になどできるものでしょうか? むしろ、やめてください、私はふさわしくありません! と、叫び出したくなりはしないでしょうか? しかし、そんな私に、取りて食らえ、とおっしゃるのは、イエスさまご自身です。イエスさまは私たちのことを、十字架の血潮で洗いきよめてくださいました。神がきよめたものをきよくないなどと言う権利はだれにもありません。自分自身にさえありません。自分はけがれているから救われないよ、こんなことを言うべきではありません。自分はけがれているから神さまに救っていただくしかないよ、こう言うべきです。 わたしが十字架の血潮で洗ってあげたあなたこそ、わたしのからだと血潮を口にするにふさわしい、イエスさまご自身がそう言ってくださるのです。私たちはこの恵みに拠り頼んで、今日も主の晩さんにあずかりたいものです。 最後に、今日の箇所で、会堂という大きな集まりを持つ一方の、家という小さな集まりの中でパンを裂いた、すなわち、主の晩さんを持った、ということに注目して、メッセージを締めくくりたいと思います。 イエスさまはかつて、男だけで5000人のような大規模な集会で、彼らを満腹させられるほどのパンと魚を用意されたものでした。しかし、イエスさまが記念せよとおっしゃったのは、そのような大規模な食事会ではありませんでした。あるいは、復活のあとでイエスさまが湖の岸辺でペテロたち、漁から帰ってきた弟子たちをパンと魚の朝ごはんでお迎えになったという、感動的な食事の場面も福音書には記録されていますが、これもイエスさまが記念しなさいとおっしゃったわけではありません。 つまり、イエスさまが記念しなさいとおっしゃったのは、大集会の食事でもなければ、屋外のいわば仕事場の食事でもなかったのです。イエスさまが記念しなさいとおっしゃった食事は、人の家の2階の大広間での食事でした。 そう、家です。家で記念して行いなさい、という意味にならないでしょうか? のちに、主の晩さん、聖餐式は、教会の礼拝堂で行うのがつねになりましたが、本来は、家で行うものであったわけです。 そして、その記念の食事は、初代教会においては、毎日会堂で集まるのとは別の、家々での集まりでなされたわけでした。初代教会における主の晩さんはまさに、教会が家である、家が教会であるという精神の中で行われたわけです。 本来、主の晩さんとは家で行われたものだということを、ここで私たちは考える必要があります。いま私たちは、集まる人数もとても少なく、また、ソーシャル・ディスタンスを意識するので、離ればなれになっているとお思いでしょうか? でも、ここはひとつ、この』とんがり屋根の礼拝堂を、ひとつの大きな家と考えていただきたいのです。 この大きな家において、私たちはキリストのみからだと血潮にあずかっていることを記念して、バプテスマをもって神と人との前に誓約した、イエスさまへの献身の思いを新たにするのです。 私たちの献身の歩みは、一人ひとりでするものではありません。この、水戸第一聖書バプテスト教会の家族にならせていただいているどうし、ともに歩むものです。その誓約にともに連ならせていただいている証しとして、本日の主の晩さんを大切に守りたいものです。

元始、教会は家であったその3~主イエスが奇蹟を起こされる家~

聖書箇所;マルコの福音書2:1~12/メッセージ;元始、教会は家であったその3~主イエスが奇蹟を起こされる家~ 「元始、教会は家であった」シリーズも、本日で3回目となりました。 私は先週、久しぶりに出張して、松戸で行われたセミナーに参加してまいりました。題して「主の弟子訓練指導者セミナー」。弟子訓練の指導者養成のセミナーは、通算で6回目の参加となりましたが、今回はこれまでのセミナーとまったくちがった立ち位置で、しかもまったく違った雰囲気の中で学ぶこととなり、きわめて新鮮な体験をしたものでした。セミナーと銘打たれていましたが、私はお勉強をしたというよりも、むしろ癒やしをいただいたという思いでいっぱいです。 今回のセミナーは、昨今のコロナウイルス流行という情勢により、韓国から先生を招くことができない中、それでも日本人の先生方によって開催しよう、という意思のもと、開かれたものでした。しかし今回は、方法論や技術のような「骨組み」を学んだわけではなく、どこまでも、長年弟子訓練牧会に取り組んでこられた教会、そしてその先生方を通して結ばれた「実」に注目するものでした。私もそのような中で、スタッフでもなく、韓国の先生からでもなく、とてもリラックスして受講でき、それだけでも画期的なものでした。 講義は、先生方が一方的に教えを注入するものではなく、その先生方の牧会のもとにある教会員の証しをふんだんに盛り込んだもので、それだけに説得力がありました。つけ加えれば、その証しをしてくださった兄弟姉妹の中には、むかし私が仙台で暮らしていたとき、共同生活をしていた中学生のお父さん、お母さんがおられ、その頃の彼の生活ぶりをお知らせする貴重な時間も持ちました。 そればかりか、実に18年前までの数年間、一緒に暮らして同じ牧師の牧会訓練のもとにあった、いわば「ムショ仲間」のような兄弟が来てくれて、ほんとうにうれしかったものでした。その「ムショ仲間」の証しを聞いた後、一緒に食事をしながら、あの頃の苦労や、それからの苦労を乗り越えてきたお互いのことをたたえ合ったものでした。 このセミナーの会場となった教会、聖書キリスト教会グレイスホームのことを少しだけお話ししたいと思います。この教会は、岡野俊之先生・めぐみ先生と2人の息子さんのご一家によって、松戸の奥の方の細い坂道だらけの住宅街の端っこ、市街化調整区域に隣接した一戸建ての家、首都圏にしては実にひなびた場所でスタートし、こたつにあたりながら礼拝をするという、とても家庭的な形でスタートを切りました。 今回、この教会に行ってみると、今もなお家庭的な雰囲気は保たれていて、ほんとうに、教会とは家の大きくなったものだということを実感したものでした。 この「家」から、特に、傷ついていた家庭の回復、というわざが多く起こされたことを、あらためて聞かせていただきました。離婚、家庭の不和、家庭内暴力、未信者の親との葛藤……そういったことが、「ただ愛すればいい」、「みことばはこう言っている」という、基礎の基礎に忠実な信仰生活にみなで着実に取り組むことにより、力が与えられ、解決に導かれる……言ってみれば、主イエスなる「まれびと」を迎えた家から奇跡が起こるのです。 本日の聖書箇所は、主イエスなる「まれびと」を迎えることで家、すなわち教会をなす基礎は、いかなる奇蹟を体験するか、そして、家という教会、教会という家は、イエスさまがおられるゆえに、奇蹟を体験する場所であることを、ともにみことばから味わってまいりたいと思います。 1節をご覧ください。イエスさまがおられた場所は、「家」です。イエスさまは、荒野ででも、湖畔ででも、ユダヤ教の会堂ででも、実にいろいろなところにとどまり、教えを宣べられましたが、忘れてはならないのは、「家」で教え、病気のいやしのようなみわざを行われた、ということです。 イエスさまの教えというものは、礼拝堂に来ないと聞けない、教われない、というものではありません。あるいは、礼拝堂で教わる教えが「上」で、家でディボーションや聖書通読などの形で受け取る教えは「下」ということもありません。それぞれのご家庭は、イエスさまがとどまられ、教えを語られる場所です。 だまされたと思ってやってみていただきたいのですが、まだの方でクリスチャンホームの方は、ご家庭で聖書を開き、ご家族の方と一緒に家庭礼拝を持ってみてください。そこでイエスさまに教えられる体験は、礼拝堂で一方的にみことばを聞く体験とは、一味も二味も違ったものとなり、その教えに心から嬉しくなるとともに、家族がみことばによって結び合わされる恵みの喜びを体験すること請け合いです。 しかし、イエスさまの恵みをいただく家庭は、その恵みを家族だけで独占しないで、外に向けても公開したいと思うようになります。今日の箇所の家庭も、イエスさまの教えをどうか聴いてください、と、家を公開しました。すると、押すな押すなの大騒ぎ、イエスさまを一目見たい、イエスさまの御声を聞きたい、さわっていただいていやされたい、そんな人が押しかけました。 家を開放する人は、なにも難しい聖書勉強が導けないといけないわけではありません。イエスさまがここにおられるから、楽しいから、うれしいから、ここに来てみてください、そんな思いさえ持てていれば、だれでも家をオープンにできます。そして、そこが教会になるのです。 今はもちろん、いろいろな理由で、人をお招きすることにためらいを覚えていらっしゃるかもしれません。しかし、それならそれで、いずれの日にかお招きできる日を主が来たらせてくださるように、お祈りすることです。その前提で、今日のメッセージを聴いていただければと思います。 この教会の礼拝堂は東茨城郡茨城町にありますが、それは「教会」が茨城町にある、ということとイコールではありません。おわかりでしょうか? 水戸第一聖書バプテスト教会は、みなさまのお住まいの家もその一部です。ということは、水戸市にもあります、鉾田市にもあります、石岡市にもあります、那珂市にもあります……県庁所在地を中心に、茨城県央の極めて広範囲に「水戸第一聖書バプテスト教会」は存在するわけです。お友達やご親戚を教会に招く、ということを、茨城町長岡の礼拝堂に招くことに限定しないで考えていただきたいのです。それぞれのおうちはイエスさまのおられる教会であり、そこに、コロナを気にしないでやってくるような、親しいお友達やご親戚をお招きするのです。 聖書の話に戻りますと、この家の教会が押すな押すなの大盛況となっている中、イエスさま目指してまっしぐらの人たちがいました。中風の人1人と、その人を寝床に乗せたまま担いで運ぶ4人の人でした。 4人というのがポイントです。ひとりの人をイエスさまのもとに運ぶには、4人の人が必要だったということです。これは、ひとりの人を救いに導くには、最低でもそれだけの人が必要であるという示唆を、私たちに与えてくれてはいないでしょうか? 私は高校生のとき、友達に伝道したい一心で、日本武道館で行われた本田弘慈先生の伝道集会に、仲のよかった同級生を2人連れていきました。しかし、1人に対して2人です。だめでした。結局、集会後はその2人のペースで話が進み、個人伝道どころではありませんでした。 これに懲りた私は、考えを変えました。のちに私は大学生になって、韓国に留学しました。そのとき、やはり同じ時期に、同じ大学の学科の友達が韓国に留学しました。伝道しなくては! 私はその友達をソウル日本人教会という教会に誘い、「四つの法則」という伝道ブックレットを読み聞かせました。 しかしその友達のことを、ほんとうにイエスさまを信じる信仰に導いた、つまりイエスさまを救い主と受け入れる祈りを導いたのは、私ではなく、私がその友達に紹介した、宣教団体のスタッフでした。 それだけではなく、その友達は好きなクリスチャンの若者ができて、その若者が聖歌隊員をしている教会に通いはじめてもいました。午前はその教会で聖歌隊席のそばに座って礼拝し、午後はソウル日本人教会で礼拝し、といった具合です。 さらに、その友達は韓国舞踊も習っていましたが、その舞踊教室の先生も熱心なクリスチャンで、とてもよく祈る人でした。これだけでも、私を含めて4人です。 というわけで、ひとりの人をしっかり救いに導くには、少なくとも4人の人が霊的に一致する、すなわちその人の救いを祈るということで一致することが必要だと、私は経験をもって教えていただきました。 一致。それはひとりの人を救いたいという思いで一致することです。中風の人を担いだ4人の人も、急いでいました。しかし、急ぐのと同時に、この人を寝床から落としてはならないから、バランスを崩さず、息を合わせて運ぶ必要もありました。その一致……それは、イエスさまのもとに連れていこう、ということで一致することでした。 家を開放してだれかを伝道したいと思うのはとても結構なことですが、そのような場合でも、伝道は特定の人の頑張り、個人プレーではないことに留意したいものです。家の交わりにおいて、最低4人の主を信じる人がたましいの救いを祈り、人をイエスさまのもとに迎える姿勢が必要であろうということが、この箇所からもヒントとして受け取れます。そういえば松戸の岡野先生による開拓教会も、岡野先生、奥様、そして2人の息子さんの、合わせて4人からスタートして、こんにちの素晴らしい教会につながっています。 聖書に戻ります。やってきたのはいいですが、人がいっぱいで、入れません。そこで彼らが考えたこと……屋根に上って瓦をはがし、そこから吊り降ろす、ということです。 大胆不敵というか、なんというか……ひとんちの屋根を壊すなんて、なんともすごいことをしたものです。しかし、彼らは必死であり、本気でした。イエスさまによってこの人が救われるためなら、家を壊そうが構うものか! そしてその本気の取り組みを、イエスさまはお叱りになるどころか、受け入れてくださったのでした。 たましいの救いは、すべてに優先します。家が壊れようがどうなろうが、それでもその人を愛して受け入れるなら、やがてはその人の救いにつながります。もし私たちが、イエスさまに会っていただきたい一心で、家にお客さんを迎えるとき、もしそのお客さんの連れてきた子どもさんが、クレヨンで壁に落書きしたり、障子やふすまに穴を開けたりしたら、どうしますか? 怒りますか? それとも、そんなことはいやだからと、はなから家に招きませんか? ある、子どもの働きで全国的に有名な教会の牧師先生は、もしあなたが子ども伝道に献身したいなら、礼拝堂の壁が汚れることを恐れてはいけない、という意味のことを語りました。子どもが礼拝堂にやってきて、自由にしたいのに、あれをやっちゃダメ、これをしてはいけない、などと、いちいちがみがみやられたら、もうその子には教会の中に居場所はありません。そんなことでどうやって、子どもに伝道するのでしょうか? ただ、大人の言うことに従順に従い、手がかかりさえしなければいいのでしょうか? そんな子どもがどれほどいるというのでしょうか? そんなことでは、果たしてほんとうの意味でイエスさまに出会ってもらうことなどできるのでしょうか? ただ、やはり多くの教会の場合、礼拝堂というものをそこまで自由に使わせる勇気はありません。それは理解しなければならないでしょう。それでも、家ならばどうでしょうか? 家は、礼拝堂以上にくつろげる場所であるべきでしょう。礼拝堂は不特定多数が集まりますが、家は、家の主人が許可して初めて入れる場所である一方で、入れてもらえるだけのリラックスした環境を提供してもらえる場所です。 イエスさまが教えを語られたその家にも主人はいました。しかし、その主人にとっての主人は、そこにおられるイエスさまでした。この中風の人を吊り降ろすためにひとんちの屋根をはがした行為は、イエスさまが受け入れてくださっている以上、してはならないことではなく、許されていることです。 同じように、家をとおしてのたましいの救いに関しては、たとえば連れてきた子どもが暴れたとか、ものを壊したとか、ちょっとしたアクシデントはつきものです。それをしつけるのはいいとして、力で押さえつけることはありません。とにかく、ありのままを受け入れ、愛することです。 さあ、イエスさまはこの吊り降ろされた患者に対して、「子よ、あなたの罪は赦された」と宣言されました。イエスさまは実に、人の罪を赦し、ご自身のみもとに引き寄せ、永遠のいのちを与えてくださるお方です。かくして、この4人の人の努力は、このたましいが救われるという形で報われたのでした。 これが、イエスさまのお働きの究極の形です。「ジーザス」のような映画を観たりして、イエスさまとはどういうお方を未信者の人が知ろうとすると、どうしても、病人をいやしたとか、悪霊を追い出したとか、わかりやすい奇蹟にばかり目が行きがちですが、ほんとうにイエスさまがなさったことは、たましいを救い、神の子どもとし、天国の民にしてくださるということです。 しかしこの家の教会、パリサイ人がまぎれていました。なぜ彼らはそこにいたのか、イエスさまの教えを素直に聞いて教わろうとするためか、それとも、ことばじりを捉えて訴えるためか、そこまでは聖書に書いてありませんが、パリサイ人ならいかにも考えそうなことを考えました。罪を赦すのは神おひとりではないか、このイエスは何者だ、神を冒瀆しているではないか。 イエスさまがどんなお方かわからないから、イエスさまのことを誤解したり、はなはだしくは批判したりする人というのは、クリスチャンがその交わりを未信者に対して開放しているかぎり、入ってくるものです。そういう、イエスさまのことがよくわからないような人は、イエスさまが「神々しい」人だとか「神がかった」人とは思うかもしれませんが、「神さま」とまでは思わないわけで、イエスさまが神さまであるという前提の話し合いがなされると、つまずくわけです。 しかし、そういう人たちも、家の教会を通してイエスさまとはどんなお方かを知るようになるのです。イエスさまは、ご自身がこのことばを言う資格があるお方だということを、はっきり示されました。9節です。 ……このことばを聞いて、恐らくそこにいた人たちは、ぎょっとしたのではないでしょうか。なるほど、罪を赦すお方は神おひとりですが、このような手の施しようのない病人をいやすことがおできになるのも、神おひとりです。中風の人も、その人を運んできた4人の人も、イエスさまはそれができる神さまであると信じたからこそ、運んできたのではないでしょうか。 いや、よしんば、人気者のイエスさまのことばを単にこの病人に聞いてもらいたいから、という理由であったとしても、イエスさまに出会えるだけでこの絶望的な病人は生き生きする、と信じていたからこそ、大変な思いをして運んできたのではないでしょうか。みんな、イエスさまを信じていたのです。しかし、それをほんとうになさる現場に居合わせようとは……彼らは恐れに打たれるのと同時に、期待に胸を膨らませたにちがいありません。 パリサイ人はそれとはちがいました。自分は神さまのことをよく知っていた気になっていました。だが、聖書の啓示する神の子イエス・キリストのことは、何にもわかっていませんでした。そして、そんな宗教指導者たちに、ユダヤの社会共同体は毒されていました。イエスさまはそんな彼らに対し、ご自身が、人の罪を赦す救い主であり、人の罪をいやす癒やし主である、すなわち神であることを、はっきりお示しになったのでした。 家の教会とは、目に見える奇蹟の起こされる場所です。その最大の奇蹟は、罪人がイエスさまを主と信じ、その罪が赦され、神の子とされ、永遠のいのちが与えられる、ということです。みこころにかなえば、病気だって癒やしていただく奇蹟が与えられます。経済的な行き詰まり、家族関係や職場生活をはじめとした人間関係のトラブルも解決に導かれる奇蹟を体験します。 ただしこれは、家の中のような小さな単位で、秘密が絶対的に守られる中で、オープンに語り合うことを通して実現することです。こういう神さまのお取り扱いを受けることは、礼拝堂での日曜礼拝のような大きな単位での集会、双方向ではなく一方的な集会を通しては、とても難しいことです。しかし、それぞれのご家庭が開かれるならば、とてもやりやすくなります。私はここに、それぞれのご家庭を舞台に、イエスさまに向けたたましいの救いへの協力がなされ、救霊という大いなる奇蹟を体験する「家の教会」というものを、提唱したいと思います。 みなさま、コロナの流行は、多くの教会で、ともに集まることをためらわせました。しかしそれでも、変わらずに人が集まる場所があります。それは、家庭です。家庭を、イエスさまを中心に迎えた場所として、大事にしていただきたいのです。そしてこの家庭が魅力的ならば、人は集まってきます。今はコロナ流行で、家を開放するには主の時ではないとお考えかもしれません。そのお考えは尊重されるべきです。しかしそれでも、今から祈って主の時を待ち望みつつ、備えていただきたいのです。そのときが、たましいの救いに向かって前進するときです。 この働きに用いられることは、私たちにとっては癒しです。私たちもまた、みんなと一緒にイエスさまに会って、触れていただくからです。時には横たわった患者のよう、時にはその患者をイエスさまのもとに運ぶ人のよう、しかし私たちは家において、イエスさまだけが与えてくださる罪の赦し、いやしをいただきます。感謝したいと思います。

元始、教会は家であった その2~主イエスを家庭に招き入れる~

メッセージ;元始、教会は家であった その2~主イエスを家庭に招き入れる~  私ども夫婦は韓国に住んでいた頃、外国人に料理を教えながら宣教する、山内さんという名前の若い女性の友達がいました。彼女は国籍は日本でしたが、韓国の名前を持っていて、ハングルで印刷された名刺もいただきました。「イェ・マルタ」という名前でした。苗字の「イェ」は、イエスさまという意味だそうで、マルタ、は、彼女のお師匠さんにあたる韓国料理研究家の女性が名づけました。私どもはこの名刺を眺めながら、へえ、マルタって名乗る人もいるもんだな、面白いな、と思ったものでした。  こんなことを思うのも、彼女はとても可愛らしい印象を与える人で、マルタという名前との取り合わせが妙だったからです。なんだか聖書を読むと、マルタは妹のマリアに比べるとちょっと可愛くない印象を受けると思いませんか? アメリカやイギリスには、メアリーさんはいっぱいいても、マーサさんはそこまではいません。有名人でも、カリスマ主婦のマーサ・スチュアートくらいしか知りません。彼女はカリスマ主婦ですから、マーサというお名前がよく似合いだと思いますが、みなさんはいかがでしょうか?  まあ、それはともかく、本日お読みしました本文、これは、マルタとマリアの姉妹の物語です。少し前に、彼女たちの兄弟のラザロのよみがえりから私たちは学びましたが、この姉妹は察するに、親がいません。男手のラザロに稼ぎを頼っていたと推測できます。  この姉妹は、イエスさまにとってどんな立場だったのでしょうか? イエスさまと人々の関係は大きく分けて、「群衆」と「弟子」に分けられます。イエスさまのあとをぞろぞろとついていくけれども、結局はイエスさまから離れてしまうような人たちは「群衆」です。まるでそれは、あまり賢いとは言えない羊の群れのようです。 言ってみればユダヤ人の群衆の間で「イエスさまブーム」が起こるわけです。ブームだから乗り遅れないように、と、ぞろぞろとイエスさまについていくのです。しかしこれでは、何かあったらイエスさまへの信仰をなくしてしまいます。そういうことは何度もあったことが、福音書を読めばわかります。残念なことですが、こういう方は古今東西存在しつづけて、現代の日本の教会にもいるものです。 これに対して「弟子」は、イエスさまについていくと決めたら、一生イエスさまについていく人です。こういう人は、他人がどうあれ、イエスさまについていくということにおいてはぶれません。厳しい訓練にも飛び込んでいきます。そして、率先して神さまのご栄光を顕していくようになります。 聖書というものは、「群れ」ではなく「弟子」という存在を念頭に置いて書かれています。神さまのみこころは、私たち人間が「群れ」で終わるのではなく、「弟子」として、一生イエスさまについていくことです。 しかしこの、マルタとマリア、ラザロの三きょうだいを見てみますと、この3人は「群れ」や「弟子」というカテゴリーに入りきらない存在のようです。牧師や神学者の先輩方は、この三きょうだいのことを、イエスさまの「友」または「友だち」と呼んでいます。 イエスさまに友にしていただけることは、とてもすてきなことです。ヨハネの福音書15章、13節から15節をお読みしましょう。 イエスさまは私たちの友だから、大事な友である私たちのためにいのちを捨ててくださったのです。イエスさまご自身が私たちのことを、もうわたしのしもべではない、わたしの友だ、と言ってくださったのです。あなたはわたしの友だから、わたしの父である神さまのみこころを、全部あなたに知らせよう……。 そのように、イエスさまが友として選び、そのみこころを余すところなく知らせた存在、それがマルタであり、マリアであり、ラザロであったわけです。 私たちはイエスさまの弟子として召されていると信じていますでしょうか? その召しのとおり、私たちは主の弟子でありたいものですが、それ以前に、イエスさまの「友」です。でも、言うまでもないことですが、私たちがイエスさまのことを「友」にしたわけではありません。そんなのは畏れ多いことです。私たちはイエスさまに、「友」としていただいた存在です。 私たちなどイエスさまの足もとにひれ伏すしかない者たちです。近づくこともできない者たちです。それを友として選んでいただいたとは、そのもったいない恵みに、ただ感謝するしかありません。 そんな私たちにとって、マルタ、マリア、ラザロの三きょうだいは、モデルです。イエスさまに愛された、友にしていただいた、という点で、モデルです。私はメッセージでよく、愛する上でのモデル、ということを語ってまいりましたが、「愛されるモデル」というのがあってもいいと思います。 愛されるということがなぜモデルとなるのでしょうか? それは、私たちは、愛されていることが実感できて初めて、愛することが実行できるようになるからです。愛なる神をもっとよく体験することが、私たちにとって必要ではないでしょうか。 それでは、イエスさまはこのきょうだいに対し、どのように愛を行われたか、その愛にきょうだいは、どのようにお応えしたか、実際に見てみましょう。 第一にイエスさまは、きょうだいの家を訪問してくださいました。 とはいいましても、イエスさまとその一行はマルタの招きを受けて家に入っていらっしゃいます。このきょうだいは、ぜひともおうちにイエスさまをお招きしたい! その思いであふれていました。 私たちがイエスさまを迎え入れたいという思いにあふれるならば、それは素敵なことです。私たちはときに、隠しておきたい事情があったりするならば、それがほかの人にはもちろんのこと、教会の交わりにも、家族に対してさえも、堂々とは話せないものです。 しかし、家族であれ、教会であれ、交わりの中心にイエスさまをお迎えしているという意識にあふれているならば、私たちの交わりはとてもオープンなものとなりますし、その交わりを通して、私たちは、いやし主なるイエスさまの癒やしを体験します。 想像力をたくましくしますと、このきょうだいの家族は、父親も母親もなく、三人で肩寄せ合って暮らしているところからして、愛に飢えていた、と言えるでしょう。また、この2人の姉妹は未婚でもあり、社会からは好奇の目にさらされたり、疎外されたりといったことも有り得たでしょう。それなのに、結婚するような機会は巡ってこない……どれほどつらかったことでしょうか。そんなきょうだいが肩寄せ合って暮らしていたのです。 そんな彼らでしたが、イエスさまをお迎えすることで、もう寂しくない、私たちは神さまの愛で愛されている、この思いに満たされることができたのでした。イエスさまもそんな彼らの家に、喜んで入っていってくださったのです。 また、この家を訪問したのは、イエスさまだけではありません。弟子たちもいっしょでした。これで、マルタとマリアの家は、あっという間に教会になりました。はい、まさしく、家が教会なのです。 私たちはここで、恵まれるうえでの2段階を見ることができます。第一に、家にイエスさまを迎え入れる、そして第二に、家にイエスさまの弟子たちを迎え入れる、ということです。 まず、マルタとマリアは、ペテロやヤコブやヨハネに会いたかったというよりも、言うまでもなく、イエスさまに会いたかったのでした。もちろん、ペテロたちに会えてもうれしくはあったでしょう。しかし、ペテロたちに会えてうれしかったのは、彼らがイエスさまの弟子だからであり、イエスさま抜きで彼らに会っても、そこまでうれしかったでしょうか。 私たちはですから、家庭での交わりに、イエスさまをお迎えしているという大前提が必要です。今、ご家族でクリスチャンはおひとりとか、やむを得ない事情でその家族での交わりにイエスさまを迎えられないという方は、ぜひとも、ご家族がイエスさまを迎える家族になれるように、お祈りしていただきたいのです。家族の救いというものは、もちろん、愛する家族にイエスさまを知ってほしいから、祈るものではあります。しかしそれ以上に、イエスさまが私たちの家に訪ねてきたいという、その御思いにお応えするためです。 ヨハネの黙示録、3章20節をお読みしましょう。……イエスさまがともに食卓に着き、私たちのつくった食べ物を食べてくださると想像してください! それはどれほどうれしい食卓でしょうか? 私たちが食事のとき、イエスさまの御名によってお祈りするということは、イエスさまに一緒に食卓に着いていただき、食事を取っていただくということです。私たちの食卓は果たして、イエスさまをお迎えするにふさわしい交わりとなっていますでしょうか? 砂を噛むような味気ない食卓になっていないでしょうか? この世的な話題、あるいは教会の人間関係のゴシップも含めた噺でなら盛り上がれても、主の恵みは分かち合えないではいないでしょうか? イエスさまが席についてくださる。語ってくださる。私たちは家庭であれ、教会であれ、交わりの中にイエスさまをお迎えしている。そんな家庭の交わり、教会の交わりとなるように、祈ってまいりましょう。私たちの語ることばが導かれますように、祈ってまいりたいと思います。 もうひとつ、イエスさまはどのようにこの家族に臨んでくださったのでしょうか? それは、マルタのことを、主の子どもらしく整えてくださる、という形でです。 マルタは、手伝ってくれないマリアにいらいらしていました。しかし、マルタは直接、マリアに「手伝ってよ!」ということはしませんでした。イエスさまに言いつけたのでした。 しかしイエスさまはそんなマルタを、優しく叱ってくださいました。理由は3つあります。まず、マルタはいろいろなことに心が乱れていたから、次に、ほんとうに必要なことはひとつだけだということをマルタは見失っていたから、そして、マリアからそのよいものを取り去ってはいけないから、です。 マルタがいろいろなことに心が乱れていた、とは、どういうことでしょうか? マルタが奉仕をして、イエスさまとその一行をもてなすことはとても素晴らしいことです。しかしいつの間にか、マルタには、奉仕することそのものしか見えなくなってしまっていました。 本来ならば、イエスさまを迎える際には、もっと落ち着いていてしかるべきだったのではないでしょうか? 先に食事をあらかじめ用意して、いざイエスさまをお迎えしたらすべきことを極力最小限にするなどしてです。しかしマルタは、とにかく最上のもてなしをしなくては、その思いにとらわれて、忙しくしすぎて、イエスさまの喜ばれることを見失っていたのでした。 そこで、ほんとうに必要なものとは何か、ということを考えましょう。それは、イエスさまのお気持ちです。ここでイエスさまは、マルタがつくってさしあげた料理を召し上がるわけです。しかし、イエスさまにとってのほんとうの食べ物とは何かが、ヨハネの福音書4章34節に語られています。それは、「わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです」ということです。 イエスさまは、ご自身がお休みになり、おいしい食べ物に舌鼓を打たれるならば、それで満足されるわけではありません。愛する友だちが、不満を抱えたまま忙しく立ち働くのを見ていては、ひとことおっしゃらなくてはならなかったのでした。 感謝なことに、マルタはこのとき、イエスさまのお声に耳を傾けて、忙しくてたまらなかった手をしばし休めることができました。そして、自分がどんなに、休ませてあげよう、というみこころを人に対して持っていらっしゃるイエスさまのお心がわからなくなっていたか、悔い改めに導かれたにちがいありません。 お掃除にしても、ごはんづくりにしてもそうですが、からだを使って行う奉仕というものは、疲れます。疲れてくると、疲れもせずに休んでいるように見える人が目に入ってきます。それは、人を批判し、さばく誘惑にさらされている、ということになりはしないでしょうか? しかしそのときから、私たちは「休ませてあげよう」というイエスさまの御声が聞こえなくなりかかっている、ということになるのです。これは家庭生活、教会生活の黄信号です。疲れてきたら、人を気にしないで、休む勇気も必要です。それでこそ、主の御前に憩いを得ることができるのです。 もうひとつ、奉仕はとても素晴らしいものですが、その奉仕そのものが目的となって、せっかくイエスさまがその場にいてくださっているという、その恵みを見失ってしまうようでは困ります。せっかくイエスさまが語られ、マリアがその足元でじっと耳を傾けているというのに、やれお水だ、ぶどう酒だ、ごちそうだ……などと、ばたばたお給仕するようでは、果たしてイエスさまはお喜びになったでしょうか? そうです、マルタのこの心乱れた奉仕は、みことばが語られる、この礼拝の雰囲気に大いに水を差すものになっていたのでした。この点でも、マリアが選んだよいもの、たったひとつの必要なものであった、礼拝が、無残にもマルタの手によって取り上げられようとしていて、それをイエスさまがストップされたというわけでした。 では、マリアの方はどうなのでしょうか? マリアは、マルタの性格をよく知っていたはずです。お手伝いしなければ叱られるかもしれない。しかし、イエスさまが来てくださったことによって、思いはイエスさまに集中しきりました。イエスさまが私に対してお喜びになることは奉仕ではない、みことばに耳を傾けることだ……。 奉仕は素晴らしいです。家事は素晴らしいです。料理が作られて人は肉体と情緒が養われ、掃除や片づけがなされてそこにいる人の気持ちがすっきりします。しかしそれも、イエスさまへの礼拝、みことばに耳を傾けることがあってこそです。それをしないでする奉仕は、心を乱すことにしかなりません。自分の心を乱すだけではありません。そこにいて、主のみことばに耳を傾けている人の心もです。 ここまでお話ししましたが、奉仕をするマルタと、みことばを聞くマリアは、どちらがすぐれているか、という問題ではないことをご理解いただけますでしょうか? どちらも素晴らしいことです。しかし、奉仕が礼拝の妨げとなるなら、これはいけません。自分の不満になっても問題ですし、人に対するおせっかいになっても問題です。 しかし何よりも、私たちはこのような、家庭生活にせよ教会生活にせよ、その生活においていちばんに意識すべきは、イエスさまが私たちに対して、どのようなみこころを持っていらっしゃるかです。 いったい、私たちが奉仕のし過ぎで苦しくなることを、イエスさまは願っていらっしゃるだろうか? その前に、「休ませてあげよう」という御声に私たちが素直に聞き従うならば、どんなにかよいことでしょうか? 家庭にせよ教会にせよ、私たちは集団で生活するわけです。しかし、私たちが集団なのは、お互いを見て比較するためではありません。一緒に、イエスさまの御前に行くためです。そのための奉仕です。これを間違えてはなりません。 そこで私たちは、主の御前に静まって、自分自身を省みたいと思います。私たちはイエスさまよりも、人が見えてしまっていなかったか? そのために、疲れていなかったか? イエスさまの御声を聞きましょう。イエスさまはそんな私たちを、慰めてくださいます。休ませてくださいます。 しばらく静まって祈りましょう。私たちはあまりにも忙しくしていなかったでしょうか? この礼拝に臨むときにも、家でやり残してきた家事や、ふだんのお仕事のことなど、気になって仕方がないことがあったりしなかったでしょうか? しかし、私たちが今ここにいるのは、習慣、ルーティン・ワークとしてではありません。このような私たちの弱さをすべてご存じの上で、なお私たちを愛し、守ってくださる、主に心からの礼拝をささげるためです。それは自分だけの礼拝ではありません。ともにささげる礼拝のためにです。 イエスさまが、このような私たちの教会に、家庭に入ってきてくださり、私たちを治めてくださることを感謝いたしましょう。私たちも、イエスさまをお迎えする喜びに満たされてまいりましょう。

「元始、教会は家であった その1~監督の徳目」

聖書箇所;テモテへの手紙第一3:1~7/メッセージ題目;「元始、教会は家であった その1~監督の徳目」  信仰の父アブラハムについての学びは、先週でひとまず区切りといたします。24章からは、アブラハムからイサクへと主人公が移っていきますが、イサク、またその息子ヤコブについては、時を改めて学びたいと思います。  街にはクリスマスソングが流れ、年賀状の広告があちこちで見られています。いよいよ今年も押し詰まっているこのとき、あらためて、教会を構成する要素である「家」というものの持つ意味を、聖書のいろいろな箇所から学んでみたいと思います。  先週私ども夫婦は、「家の教会コンベンション」というものに参加させていただきました。オンラインでの参加でしたが、自宅でパソコンをつけて講義を聴くのは、なかなか楽しいものでした。それはともかく、私どもはあらためて、家の教会による教会形成におけるたくさんの示唆をいただき、恵まれると同時に多くのチャレンジをいただくひとときとなったのでした。  「家の教会」は、教会を構成するそれぞれの家庭の発展形と言えます。みなさん、今年初めの総会でお配りした「年報」の、牧会指針のページに書いたことをご記憶でしょうか? 「家庭礼拝の充実」ということを挙げさせていただきました。クリスチャンホームの方は、週に1回でも家庭礼拝の時間を持ちましょう、と奨励させていただいたのでした。  ところがあの総会から間もなく、たいへんな事態が起こりました。言うまでもありません、コロナ流行。しかしこのことにより、私たちはステイホームの生活の中、家庭において教会を形成するということ、それ以上に、家庭とは教会の一部である、ということを、いやでも意識したのではないでしょうか。  そこで、コロナに揺れに揺れたこの年を締めくくるにあたり、家とは教会である、というお話を、シリーズでメッセージさせていただこうと思います。  題して、「元始、教会は家であった」。婦人運動家、平塚らいてうのことば、「元始、女性は実に太陽であった」という、有名なことばのパロディです。  「元始、教会は実に家であった」。私たちは教会といいますと、礼拝堂という建物を連想し、礼拝とは、礼拝堂に集まることだと真っ先に思わないでしょうか。もちろん、そのとおりです。 ところが本来、教会とはそういうのもではありませんでした。教会とは、はじめのはじめ、礼拝堂のような大きなスペースにだけ集まる集合体ではありませんでした。 私たちは、新約聖書の教える教会とは何か、ということを確かめることで、イエスさまが願っていらっしゃる本来の教会の姿、原点に立ち戻ることをしてまいりたいと思います。 ひとことで言います。新約聖書の教会は「家」です。新約聖書の中で「ローマ人への手紙」から「ユダの手紙」までの、合計21の「手紙類」は、現在進行形の教会形成に必須の内容でしたが、ここでいう「教会」は、現代に存在する大きな礼拝堂の「教会」ではありません。手紙類を読む大前提として、これらの手紙類が「家」に宛てられたものであることを、私たちは理解する必要があります。  コリント人への手紙第一、16章19節をご覧ください。「アキラとプリスカ、また彼らの家にある教会が、主にあって心から、あなたがたによろしくと言っています。」アキラとプリスカが自宅を提供して、そこに人々が集まっていたわけです。 コロサイ人への手紙4章15節も、ニンパと彼女の家にある教会によろしく、とあります。ピレモンへの手紙は、ずばり、その宛先が、2節にあるとおり、ピレモンの家にある教会、つまり、ピレモンが家を解放して持っている教会であることがわかります。 手紙類をはじめ、新約聖書は、そのように家々に集まったクリスチャンたちを対象に書かれたものであるわけで、その前提で読むべきものです。そこで本日私たちが考えたいこと、それは、クリスチャンの共同体なる教会の、そのコアにあたる、家庭、その発展形としての家の教会についてです。 さきほども申しましたが、教会というものは、家庭の大きくなったものです。あるいは、家庭の延長線上にあるものです。言うなれば、個人の集まりが家庭、家庭の集まりが家の教会、家の教会の集まりが公的な礼拝、となろうかと思います。 私はうちの教会を牧会して7年目になりましたが、うちの教会の大きな特色は、礼拝において、家族ごとに座る傾向がとても強い、ということです。これはとてもすばらしいことではないかと思います。これはうちの教会が、それぞれの家族、クリスチャンホームの集合体としての教会を形成している、ということであり、聖書的に見ても理想的な教会のあり方ではないかと考えます。 本日の箇所、テモテへの手紙第一3章1節から7節は、監督、つまり家の教会の信徒たちをケアする役割の人は、いかにあるべきか、それを語る中で、彼らの品性や、彼らの家庭のあり方が問われています。 聖書でいう監督というと、こんにちにおいては一般的に「牧師」、「牧会者」という意味に解釈されています。もちろん、それも間違いではありません。しかし、監督の条件であるこの箇所のみことばに当てはまる人は、フルタイムで有給の牧会者にかぎらないのではないでしょうか? この条件が当てはまる人でも、牧師という肩書を持っていないならば、せっかく書かれたこのみことばも、その人には関係がないということになるのでしょうか? 私は、そうではないと解釈します。信徒とは、フルタイムの教会献身者ではない形で教会を構成する人ですが、本来、教会の主体は信徒です。信徒は教会の主体ですから、牧会の働きが担えるのです。伝道と弟子づくりに取り組むことができるのです。 取り組むことができる、どころではありません。伝道にしても弟子づくりにしても、本来、信徒が担ってしかるべきものです。ほんとうの問題は、それで信徒が忙しくなることではありません。問題は、信徒が取り組んで得られるその喜びを、牧師が奪い、独占してしまっていたことです。私も含め、牧師はそのことを、もっと悔い改める必要があります。 そこで今日の箇所の「監督」というものは、少なくとも家庭という形で教会を構成している私たち一人ひとりに当てはめて考えていただきたい課題です。 この、監督の備えるべき徳目として列挙された品性は、クリスチャンであるなしに関わらず、すばらしいもの、備えるべきものであるということに、異論のある人はいないでしょう。しかし、それだけならば、キリスト教は倫理を教えるものでしかなくなります。 ここでこれだけ徳目が列挙されているのは、家を中心として教会が形成されることと、深い関係があります。したがって、家を中心とした教会形成と関連づけて、これらの徳目はひとつひとつ理解される必要があります。それでは、見てまいりたいと思います。 まず、監督の働きは、1節にあるとおり「立派な働き」です。それは異存ないところでしょう。しかし、「立派」というのは、世の中の人たちが求める「立派」というものと、必ずしも一致しません。人々の上に立って支配し、横柄に振る舞ってはばからないことを「立派」と、世の人たちは思うかもしれません。しかしそうではなく、「仕える」ことでその人は「立派」なのです。 イエスさまというお方が「立派」なのはもちろんです。しかしイエスさまは、なぜ「立派」なのでしょうか? イエスさまは、人々を横柄な態度で支配するようなお方でしょうか? まったくちがいます。弟子たちの足を、それこそしもべのようになって洗ってくださるお方です。低くなってへりくだる。しかし、神の国に属する私たちは、そんなイエスさまのことを「立派」と思うでしょう。 そうです。へりくだるリーダーだから、監督は「立派」なのです。イエスさまがそうなさったように、へりくだることが、リーダーのいちばんの条件です。 では、家族の中で監督の役割を果たすリーダーはだれでしょうか? お父さんであり、夫です。夫たる男は、キリストの栄光の現れであることを、理解する必要があります。だから、キリストがへりくだられたように、へりくだることです。それでこそ立派な男性なのです。 とは言いましても、ご家庭によっては、家長でいらっしゃる男性がまだイエスさまを信じておられないケースもおありでしょう。それでも、ここにいらしている方は、それぞれのご家庭において主のご栄光を顕し、とりなして祈ることにおいて、主から霊的主導権が託されていることを記憶していただきたいのです。 その前提で、第一テモテ3章を読み進めてまいりますが、2節に入りまして、そういう人は、非難されるところがないことも条件になります。 もちろん、法律を犯したとか、倫理的にとても許されないことに手を染めたとかは論外です。しかしそうでないとしても、私たちはいつ、どんなときにも清廉潔白ということはありえるでしょうか? どこかでほころびがあるものです。それを指摘されたならば、非難された、ということになりはしないでしょうか? もしそうならば、非難されるところがない、という条件に当てはまる人などいるのでしょうか? そこで、家長にせよ、教会のリーダーにせよ、すべきことがあります。非難はされるでしょう。でも、非難されたままにしないことです。非難されるようなことがあったならば、神と人の前に悔い改めることです。いけないのは、開き直って、家庭であれ、教会であれ、共同体の中にいつまでも、非難の根を残したままにすることです。 一人の妻の夫……これは、テモテが任されていたエペソのような異邦人の社会においては、特に問われるところでしょうが、これは、性的に潔白であるということです。これはクリスチャンとして、つまり、共同体を預かるリーダーとして、必須の条件です。ひとりの配偶者以外の人に性的に惹かれるようなことがない、それが条件です。自分を制し……感情の赴くままのクリスチャンというのがたまにいて、そういう人は、何をやってもイエスさまに許されている、とうそぶき、勝手なことをします。とんでもないことです。罪が十字架につけられたなら、もはや罪に対して死んだ者であり、肉的な感情の赴くままに生きるということは矛盾します。御霊に満たされている人なら、自制、という、御霊の実を結んでしかるべきです。この自制が、家庭にはじまり、教会にまで影響を及ぼすのです。 慎み深く……つまり、神さまがおのおのに与えてくださった限度を超えず、それぞれの信仰の量りに応じて謙遜な態度を保つ、要するに、思い上がらないことです。これは、教会はもちろんのこと、家庭でも必要な態度です。この、慎み深いということにつきましては、後日、日を改めましてお話しさせていただこうと思います。 礼儀正しく……愛は礼儀に反することをしないと、第一コリント13章の「愛の章」にあります。愛は、相手を尊重し、尊敬すること、礼儀という形で実を結ぶものです。この「礼儀」は、親しき中にも礼儀あり、と言いますが、家族の中にもあってしかるべきです。子どもが礼儀をわきまえた人になるには、親が、礼儀正しい姿を忍耐強く示すことです。 よくもてなし……信仰が成熟して愛の人になるということは、人を実際にもてなすという形で実を結びます。愛というものは、自分の中で完結するものではなく、相手あってのものです。今、コロナウイルス流行でおいそれと人を招けなくなっていると思うかもしれませんが、それでも私たちには最低限、顔と顔を合わせて交わりを持つ人はいるはずです。 ひとつ屋根の下に暮らす家族は、その最たる存在でしょう。あるいは、よほど親しい人なら、コロナということを気にしないで訪ねてきてくれるかもしれません。もちろん、三密ですとか、防疫に努めることは大事なことですが、その上で、その大事な存在に、自己中心のコミュニケーションを仕掛けるのではなく、尊重し、相手に仕える行動をするのです。 教える能力……これは、自分には備わっていない、と思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、親になれば、だれでも子どもに教えるではありませんか。そう意識すれば、教えることができてしまうものです。 教会における私たちも同じことで、私たちがもし、ふだんからみことばによって教えられているならば、私たちは単に、そのままを人に語ればいいだけのことです。難しいことはありません。家庭の発展形である家の教会は、信徒たちが互いに語り合うことによって、結果的に「教える能力」が身に着いていくものです。 酒飲みでなく……お酒というものに関しては、キリストの教会の中でも教団教派によって見解の違いがあります。しかし、私たちもその一員である福音派は、押しなべて、お酒というものは避けるものという考えを持っています。だから、主の晩さんにおいてもそれを徹底して、ぶどう酒ではなく、ぶどうジュースを用いています。 つまり、酒飲みではないというのは、お酒を飲むけれどもお酒に呑まれない、という意味ではありません。アルコールは一滴も口にしない、ととらえるべきでしょう。私たちは主から、御霊に満たされることが命じられていますが、それと対照的に戒められていることは、お酒に酔うことです。酔うつもりもないならば、私たちはお酒など飲まなければいいわけで、お酒を口にするならば、たとえわずかにせよ、必然的に酔うことにつながり、そこには御霊の交わりが妨げられることになります。 聖書的にふさわしい家族の交わりは、お酒のないところに成立し、そこに御霊の交わりが成り立ち、それが発展して、お酒なくして人を招ける、楽しくもてなせる、という形になります。 乱暴でなく……当たり前だとお思いでしょう。でもみなさん、ご存じでしょうか? これを言うと大変ショックかもしれませんが、クリスチャンホームにも家庭内暴力のケースがあるという話をときどき聞きます。嘘ではありません。 男性は特に、粗暴な部分が暴力という形で出てしまう弱さを抱えています。まさかそれを外で出すこともできないので、ドメスティック・バイオレンスという形で、家庭を混乱と悲惨に陥れます。これは、それでもイエスさまはゆるしておられるという問題ではありません。いち早くやめるべきです。肉体的な暴力だけでなく、ことばや態度での暴力もいけません。でも、そこから立ち直り、愛し合う家族になったならば、それは素晴らしい証しになります。その証しをオープンにして、主のご栄光をともにほめたたえたいものです。 柔和で……マタイの福音書5章の、8つの幸いのひとつの徳目です。これは、「謙遜な人」という意味にもなります。人から過ちや足りないところを指摘されたら、意固地にならず、素直に認める。人から過分にほめられてもおごらない。そういう主人に育てられるならば、子どもたちも、イエスさまご自身がなぜ柔和な人のことを「幸いである」とおっしゃったのか、肌で実感するようになるでしょう。そしてその雰囲気は、彼とともにいる信徒たちにも伝わるようになるはずです。   争わず……私たちが受け入れているイエスさまは真理そのものであり、この真理を脅かす、たとえば異端のような存在、あるいは、人を人とも思わないでめちゃくちゃに扱うようなブラックな存在に、カルトのような存在に対しては、私たちは断固としてノーを突きつけ、それ相応の戦いをする必要があります。 しかし、そういうことではなく、ただ単にリーダーである自分が大事にされないとか、自分の思うとおりに家やグループが進んでいかない、とか、そういうことでいちいち腹を立てて、争いを起こすようでは困ります。私たちは、そのような自己中心が取り扱われる必要があります。 金銭に無欲で……金銭を愛することは、あらゆる悪の根であるとみことばは語ります。人は神さまの恵みのような目に見えないものよりも、お金のような目に見えるものにひかれてしまう弱さがあります。しかし、お金は偶像であり、サタンは、この偶像を用いて、教会の中に争いを起こしたり、ふさわしくない力関係を立て上げようとしたりします。お金を稼ぐよりも主の栄光を顕す、それが社会に参加することである、と、しっかり知っている人が、クリスチャンホーム、そして教会を立て上げるにふさわしい人です。 そして、4節と5節です。……これは私にとって、とても耳が痛いことばと思います。私が第一に大事にすべきは、自分の家庭です。しかし、家庭を大事にするとは、子どもたちを甘やかすことで時間と労力を浪費することではありません。子どもたちがしっかり立っていくように導くことです。 これが教会形成と深い関係があるのは、わけがあります。いったい私たちは、子どもを自分の所有物と思っていますでしょうか? それとも、神さまの栄光を顕す存在に育つため、しばらくの間お預かりしている存在と思っていますでしょうか? 子どもを自分の所有物と思うなら、その愛はエゴ、自己愛にすぎないものです。自分が好きな時にしか関心を向けなかったり、自分の思いどおりにならないと激怒したりします。しかし私たちは、そうであってはなりません。子どもたちは自分たちの子どもである以上に、神の子どもとして育つべき存在です。いずれ、この世において神さまの栄光を顕せる存在に育たなければなりません。 だから私たちは、子どもの所有権は神さまにあることを認めるのです。そうすれば、私たちは恐れをもって子育てに取り組み、のちの日に子どもを一本立ちさせることを学ぶでしょう。 教会形成も同じことです。私たちは、エゴによって派閥をつくるようなことをしてはいけません。派閥とは、信徒をリーダーの所有物にすることです。どの信徒も人に言われたり、強制されたりではなくて、たましいの救いと弟子づくりに献身しつつ仕え合うように育て合う、それがほんとうの牧会であり、教会形成です。 信徒は牧師の所有物ではありません。牧師にとって信徒とは、イエスさまを愛するその愛をライセンスに、しばらくの間、牧させていただいているだけの存在です。教会においては牧師ひとりが神の栄光を顕すのではありません。教会の信徒全体が、たましいの救いと弟子づくりに献身して、神の栄光を顕すのです。 たましいの救いと弟子づくりに取り組む信徒は、必然的に、あとにつづく人たちにとって、リーダーの立場になります。したがって私たちはみな、家庭を治めることにより、キリストのからだなる教会に仕えるとはどういうことかを、実際的に身に着けていくことが求められているわけです。こうして、あとにつづく人たちも、たましいの救いと弟子づくりに取り組む教会の主体として立っていくことになります。 最後に挙げてある2つの条件も見てみましょう。信者になったばかりの人は、いきなり、たましいの救いと弟子づくりを任せてはいけません。そういう人は、まだ自分は訓練が必要だということを、まず知る必要があります。聖書知識を学ぶ以上に必要なのはキリストに似た者となることであり、そのためには、ある程度の期間、主のみことばを体験する証しに満ちた共同体の中で学ぶ必要があります。 具体的には、家の教会のような、お互いがお互いを教え、仕え合う小さな単位の共同体の中で学ぶのが最も理想的です。そのようなプロセスもなしにリーダーに立てるのは、自己中心の間違った教えを伝えさせかねないことであり、極端な言い方をしますが、悪魔の所業を許すことです。絶対に避けなければなりません。 そして、教会の外に評判の良い人。つまり、証しになる生き方をしている人です。教会生活は真面目に取り組んでいても、職場や地域社会で評判の良くないような人は、リーダーになるべきではない、というわけです。こんな人がクリスチャンなの! と、後ろ指を指されるような人がいれば、教会にとって、ひいては神の栄光において、マイナスにしかなりません。 これはしかし、小グループのリーダーにかぎりません。私たちはともにキリストのからだなる教会を立て上げる信徒たちであるなら、すべからく、ここでパウロがテモテに伝授したような、監督としての徳目を備えるように取り組むべきです。以上の徳目はしかし、教会が大礼拝にしか集わないような大きな単位でのみ動くならば、目に見える形では表れてこないものです。問題になる部分は、大礼拝に参加するだけのクリスチャン生活では、隠れていたり、そもそもだれの目にもつかなかったりするものです。しかし、それはふさわしい教会形成のあり方ではありません。…