生きよ!

聖歌540「地の塵に等しかり」 聖書箇所;マタイの福音書27章1節~10節 メッセージ題目;生きよ!  今日は「ユダ」のお話です。ユダの特徴は大きく2つ挙げることができます。ひとつは、言うまでもなく「裏切り者」、しかしもうひとつ、「自殺した人間である」ということを挙げることができます。  先にお断りしておきますが、本日のメッセージは、自殺をなさった方々が聖書的ではないとか責めることを目的とはしていません。むしろそのような方々は、水kら命を絶たなければならなかったようなとても苦しい境遇に置かれていたわけで、そのことを考えるならば、責める資格はだれにもありません。しかし、ユダの自殺は、そのような方々の自殺とは根本的に異なる事情があると考えられます。  ご存知でしょうか、聖書の中には、自殺をした人の記述は多くはありません。旧約聖書では3人、戦争で瀕死の状態になって死を選んだサウル王、そのサウルに殉じる形で死んだサウルの道具持ち、そして、ダビデの部下だった軍師アヒトフェルです。このアヒトフェルについてはのちほど詳しく扱いますが、ともかく、長い旧約の歴史の中で自殺者が3人とは、きわめて少ないです。そして新約では、たったひとり、イスカリオテのユダだけが自殺しています。  自殺……なんとも嫌な響きのことばです。このところの新型コロナウイルス流行により、人々の間に不安が広がっていることに伴い、いのちを自ら断つ人がちらほら現れている、というニュースを目にしています。彼らの絶望たるやどれ程のものだったのか、と、考えるだに心が悲しく、また、重くなります。彼らを責めることなど、だれにもできないでしょう。しかし、私たちは自ら死を選ぶことをしてもいいのでしょうか? 亡くなった方の悲劇を繰り返さないために、私たちには何ができるでしょうか? どんなことを学べばいいでしょうか? 今日の箇所に登場する、イスカリオテのユダのことを反面教師にして、ともに学んでまいりたいと思います。 ユダは、宗教指導者たちから金を受け取って、イエスさまを逮捕させる手引きをしました。その額わずか銀貨30枚、これで何ができたというのでしょうか、人のいのちの価にしてはあまりに安すぎます。いわんや、神の御子のいのちの価は、わずか銀貨30枚だったというのです。しかし、安かろうと何だろうと、ユダがイエスさまのことを宗教指導者たちに売り渡したのは間違いないことです。売るとは、裏切ることです。韓国語の聖書を読めば、日本語で「裏切る」となっている箇所が「売る」となっています。 イエスさまがいのちがけで愛してくださった、このことを知りながら、イエスさまよりも大事なものがあるとばかりに、それらのつまらないものとイエスさまのいのちを取り代えてしまう……それは、私たちの姿です。ユダが、やってはならないことをしたとばかりに責め立てるのは簡単です。しかし、人をさばいて罪に定める私たちが、同じことをしてはいないでしょうか? だがユダは、イエスさまを売ったことをあとになって後悔しました。それは、罪のない人の血を売ったという理由からでした。イエスさまに罪がないことは、3年間の十二弟子の共同体の生活をして、充分すぎるほどわかっていました。そんな彼が、イエスさまを売るという暴挙に出たのです。 イエスさまは、このような者の存在を十二弟子にほのめかすようなことを語られました。人の子は聖書に書かれているとおりに去ってゆく。しかし、人の子を裏切る者はわざわいである。その者は生まれてこなかったほうがよかった。イエスさまは最後の最後まで、ユダに悔い改めの機会を与えておられたと見ることもできます。 しかし、ユダはこのような警告のことばを受けていても、裏切りました。心が頑なになってしまった人には、何を言っても通じないことがこれでわかります。むしろ、このような裏切りを通しても、主は十字架という御業を成し遂げられたことを覚えることが大事なのでしょう。 しかし、ユダはイエスさまが捕まって、初めて自分のしたことの重大さに気がつきました。ユダの向かった先は宗教指導者のところでした。この銀貨はそっくり返すから、イエスさまを死刑にすることをどうか思い直してほしい……しかし、もはやこうなっては、宗教指導者たちは聞き入れませんでした。自分で始末をつけろ! ユダは銀貨を神殿に投げ込みました。もうこうなっては、銀貨など持っていても何にもならないことを彼は知っていました。 ユダという男は、とてもさとい人だったと見るべきでしょう。さといあまり、計算が先に立って、イエスさまの喜ばれることを見失うという、主の弟子として決定的な弱さがありました。というより、常習的に犯す罪を悔い改めないゆえに、主のみこころを見失っていたと見るべきでしょう。しかし、ユダがほんとうの意味でさとい人だったならば、彼のすべきことは「後悔する」ことでしょうか? ちがいます。「悔い改める」ことです。「後悔する」と「悔い改める」は、日本語で表現するとことばは似ていますが、まったくちがうものです。聖書の原語からして別々のことばを用いています。日本語の「悔い」ということばが共通しているにすぎません。ユダは、悔いてそれで終わりでした。その悔いた罪を、すべての罪を赦してくださるイエスさまのもとに持っていくことをしなかったのでした。自分でけりをつけてしまいました。 知恵があるのはもちろん素晴らしいことにはちがいありませんが、知恵がありすぎてもいけません。「過ぎたるは及ばざるがごとし」です。旧約聖書のアヒトフェルをその例として挙げることができます。ダビデ王の時代、ダビデは三男のアブサロムにクーデターを起こされ、逃亡し、のちにアブサロムの軍と戦争状態になりました。このとき、アブサロムにとって軍師の役割を担うことになったのが、アヒトフェルです。聖書はこのアヒトフェルがアブサロムに対して助言することを、「人が神のことばを伺って得ることばのようであった」と評価しています。このような軍師を敵に回しては、ダビデも絶体絶命です。しかしダビデは、腹心の軍師フシャイをアブサロムのもとに潜り込ませ、神さまのご介入があってアブサロムは、アヒトフェルではなくフシャイの作戦を採り入れることになり、ダビデは殺されずに済みました。しかしアヒトフェルはさとい男であるので、自分の作戦が受け入れられないということが何を意味するかが分かりすぎるほどわかっていました。それはアブサロムの破滅、ひいては自分の破滅でした。彼はそれを知って、自らいのちを絶つ道を選びました。 アヒトフェルはおそらく、神通力とさえ言える自分の戦略が退けられ、戦略として話にならないフシャイの戦略が受け入れられたことに、ダビデの背後におられる神さまの存在を認めたにちがいありません。しかしそうなら、アヒトフェルのすべきことは、ダビデのもとに投降し、ただひたすらにあわれみを乞うことではなかったでしょうか。そうすればもしかすると、ダビデはその寛容さのゆえに、アヒトフェルのことを許したかもしれません。 ユダはどうでしょうか。もし、自分のしたことが万死に値することであると知り、その罪の重さに耐えられなくなったとしても、彼はイエスさまにすがることをすべきでした。だが、イエスさまのそばにいながらそのみこころがまるで理解できていなかった彼には、きわめて残念なことに、そんなことなど期待できなかったと見るべきでしょう。ユダはそのさばきを神さまにゆだねる前に、自分で自分をさばくことを選びました。それはまるで、さばきの権限さえも神さまから取り上げるかのような行為です。越権行為もここに極まれりというものです。 しかし、ここで私たちは考えるべきことがあります。私たちはどうだろうか、ということです。私たちは知恵が回るあまり、自分のあそこが罪深い、ここが罪深い、と、やたらと自分のことを罪に定め、死にたくなったりしてはいないか、もしそうならば、それは罪を悔い改める生き方では、ありません、まじめな生き方をしているようでも、それは、人を評価する神さまからそのさばきの権限を取り上げる、実はとても罪深く、傲慢な姿勢であることを、私たちは覚えておく必要があります。 私たちが罪深いことは、今に始まったことではありません。要はその罪を、すべて赦してくださるイエスさまの前に持っていくことです。そうすれば、すべて赦してくださいます。すべてです。しかし、ちょっと聖書に詳しい方は、こんなことをおっしゃるかもしれません。いや、聖書には、聖霊をけがす罪は永遠に赦されず、とこしえの罪に定められる、と書いてある、私は何度悔い改めても罪を犯してしまう、これは、聖霊を軽んじているからにちがいない、つまり、聖霊をけがす罪を犯していることになる、ああ、私はもう赦されないのだろうか……。 そんなことはおっしゃらないでいただきたいのです。私たちはイエスさまを意識しているかぎり、悔い改めの機会はいくらでも残されています。私たちの心にイエスさまとその十字架が思い浮かぶのは、私たちの力ではなく、聖霊さまがそのように導いてくださっているからです。罪を犯した自分に気づいたら、必ず悔い改めることです。何度でも悔い改めることです。おまえはもう、こんな罪を犯したから赦されない、というのは、サタンの声です。神さまの声ではありません。 私たちには聖書のみことばが与えられている以上、主の弟子、イエスさまの弟子です。しかし、自分をさばいて破滅する主の弟子は、ユダひとりで充分です。私たちはイエスさまについている以上、自分で自分のことをさばいて、滅びを意識したりしては絶対にいけません。私たちは死んではいけません。生きよ! これが、神さまのみ思いです。 いま、私たちは祈りたいと思います。私がもしかしたら、死にたいと思っていなかったか? 私の周りの人に、死にたいと思っている人はいないか? インターネットでこのメッセージを聴いていらっしゃる方が、もしかしたら、生きるために一縷の望みをいだいて、みことばにかけようとしていないだろうか? どうか、みんな生きますように。神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶという、神さまのみこころを実現する私たちとなりますように。

ペテロの涙

メッセージ題目;ペテロの涙  コロナウイルスの流行に伴う世の中の混迷は、いよいよ極まってきた感があります。これからどうなるのか、そればかり考えるととても不安になるでしょう。私たちはこの混迷の世界に、キリストに従う最高の生き方を示すことをもって、主の御手に用いられてまいりたいものです。しかしそのためには、私たちはまず何が必要でしょうか? 今日のみことばから、ともに学んでまいりましょう。  本日の箇所は、先週学びましたマタイの福音書の箇所のちょうど続きです。弟子たちはゲツセマネの園において、イエスさまと一緒に祈ることができませんでした。眠りこけてしまったのでした。そのようにして祈れなかった弟子たち、特に、ペテロは、ここから目まぐるしい変化を体験することになりました。  まずペテロは、何をしたのでしょうか? イエスさまを捕らえにやってきた大祭司のしもべ、マルコスに襲いかかり、耳を切り落としました。もちろん、イエスさまはそれを止めさせ、その耳をいやしてくださいましたが、このときペテロが刃傷沙汰に及んだということは紛れもない事実です。  先週、肉体の弱さが燃えている心に打ち勝ってしまうことについて学びましたが、ペテロはこの刃傷沙汰においても、心が燃えていたというべきでしょうか? ある意味、それはほんとうです。心が燃えていたからこそ、イエスさまを守ろうとしたわけでした。しかし、別な側面から見れば、ペテロは「正しく」心が燃えていたわけではありませんでした。言うなれば、聖霊なる神さまの炎により、心が燃やされていたわけではありません。もしそうならば、イエスさまにとがめられるような刃傷沙汰になど及ばなかったはずです。  ペテロはかつて、ご自身の十字架を予告されたイエスさまを諌めるような真似をしました。そんなことがあってはなりません、と。しかし、それは神のことを思わないで、人のことを思う、みこころを理解しない態度です。このときもペテロはそうでした。人の子は罪人たちの手に渡される、とイエスさまが予告されたとおりのことが起こったならば、それに抵抗するようなことなど無意味です。ペテロは自分の行為により、事の成り行きを変えようとしたのでしょうが、それはみこころを曲げようとするに等しいことでした。  イエスさまはこのペテロの行為を諌められ、十字架にかかることがみこころであるとはっきり語られました。すると今度は、ペテロも含めて弟子たちはどうしたのでしょうか? 逃げたのです。ヨハネの福音書の記述を見てみますと、イエスさまは兵士たちや群衆に向かって、弟子たちはこのまま去らせなさい、と語られたとあります。彼らを去らせるのは確かに、イエスさまのみこころでした。しかし、聖書の記述の評価は、彼ら弟子たちは「イエスさまを見捨てて逃げた」のです。  これは、どういうことでしょうか? 彼ら弟子たちは、あれだけイエスさまのためにいのちを捨てる、と大見得を切っておきながら、しょせんいざというときには、イエスさまのことを見捨てるものである、ということです。  イエスさまは山上の垂訓において、一切誓ってはならない、とおっしゃいました。神かけて誓う者は、神の領域を侵す者である、それなら、と、自分を指して誓う者も、その髪の毛を白くも黒くもできない、有限な存在ではないか、というわけです。私は決してつまずきません、裏切りません、あなたのためならいのちも捨てます、そんな誓いをした者たちは、いざとなったらイエスさまを「見捨てた」のです。  これが、3年にわたってイエスさまと愛の交わりを分かち合ってきた弟子たちのまことの姿でした。そこで、私たちの姿を省みたいと思います。私たちはときに、霊的な高揚感を体験するものです。祈っているとき、賛美しているとき、ほかの兄弟姉妹と交わりを持っているとき……そのとき、全能なる神さまの霊、聖霊さまの満たしを体験し、私たちの感情はいやがうえにも高まります。しかし、このようなところに、サタンの誘惑もまた臨むことを、私たちは謙遜に認める必要があります。神さまは全能でも、私たちは全能ではありません。私たちはこのたびのコロナウイルスの流行の中にあって、いかに自分たちが弱い存在、はかない存在であるかを思い知らされているところです。いわんや全能などとんでもないことです。  しかし、こうも言えます。このとき、宗教指導者の前に引き出されて、裁判を受けたのはイエスさまおひとりでした。神さまは、十字架という栄誉を、イエスさまおひとりにのみ負わせられたと見るべきでしょう。この栄誉には、いかに主の弟子であろうともしょせんは罪人である人間を伴わせることを、神さまはお許しにならなかったのです。もし、ペテロでも誰でもいい、だれかがイエスさまとともに十字架につくようなことがあったならば、その者はイエスさまと同等のような扱いを受けることにならないでしょうか。後世の者たちが、そのような弟子を神格化したりはしないでしょうか。ひいては、イエスさまよりも尊く扱ったりはしないでしょうか。そんなことは絶対にあってはならないことです。 そうだとすると神さまは、人の弱ささえも用いて、イエスさまおひとりに十字架を負わせられたといえるのではないでしょうか。まことに、イエスさまだけが救い主、贖い主です。   しかしペテロは、それでもイエスさまのあとをついていきました。なんとか裁判の場に入りこんで、イエスさまの様子を隠れて見つめていました。 このときイエスさまはご自身のことを、あざける者ども、迫害する者どもの手に、あまりに無防備に任せていらっしゃいました。嘘をついてでもイエスさまをローマに引き渡し、十字架にかけようという証人たちがしゃしゃり出てきました。偽りの証言を前にしても、イエスさまはご自身を弁護するおことばを語られることなく、沈黙を守られました。しかし、イエスさまが沈黙を破られる時が来ました。それは、大祭司カヤパが、神の御名により命じるという行動に出たときでした。答えよ、おまえは神の子キリストか!  カヤパのしたことは、霊的に鈍感というにはあまりに罪の重いことでした。人が神をさばく、何ということでしょうか。しかし、イエスさまは、ここにおいて、ご自身がキリストであると宣言され、さらには、ご自身がやがてこの世に来てさばく存在であることを宣言されました。  カヤパがほんとうに神の人ならば、このおことばを聞いた途端、服を引き裂いて、おお主よ! このように神の御子をさばいた私どもを幾重にも罰してくださいますように! と、泣いてくずおれ悔い改めてしかるべきでした。だが、彼はまったく違う理由で服を引き裂きました。この者は自らを神と宣言した。何という冒瀆だ! 許してはおけぬ。十字架だ、十字架につけろ!  こうなっては、イエスさまは罪人どもの呪いとあざけりの対象となるしかありませんでした。罪人どもはイエスさまが神であられることを否定する行為に出ました。目隠しをして見せて、イエスさまの顔を平手で打ち、だれが打ったか当ててみろ、などと。そんなこともできないとは、おまえが神の子などとは嘘つきだ……。  しかし、イエスさまは何とおっしゃったのでしょうか?「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょうか。」今、この瞬間にも、この罪人どもを天から御使いたちを呼び、皆殺しにすることなどイエスさまにはたやすいことでした。しかし、イエスさまはそうなさらず、罪人どもの手に落ちることを選ばれました。それは、十字架にお掛かりになるという、御父のみこころに従順になられるためでした。  ペテロは、イエスさまが殴られたり、つばをかけられたりする光景を、ありのままに見ていました。それは、イエスさまを愛し従ってきた者として、どれほど目をそむけたくなるものだったことでしょうか。このときペテロは、もはやイエスさまとともに迫害されよう、十字架を負おうという思いなど、どこかに消し飛んでしまっていました。   そんなペテロの心の隙に、ひとつのことばがかけられました。「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。」暗闇の中に熾された炭火に照らされるペテロの顔を、取り囲む人々がまじまじと見つめます。ペテロを恐怖が襲いました。この場所に来てしまったことを、どれほど後悔したことでしょうか。  ヨハネの福音書にあるこのできごとの記録を見ると、ペテロをその裁判の場のそばまで導いたのは、大祭司にコネのあったイエスさまの弟子であったとあります。この弟子の名前は記されていませんが、ある意味彼は、皮肉なことですが、大祭司の存在に守られていたといえるのかもしれません。しかしペテロはそうではありませんでした。勇気を出してイエスさまのあとについていっても、実際はとても心細い中にありました。大祭司の存在がペテロを守ってくれたわけではありません。むしろ大祭司は、イエスさまを極限まで迫害する者でした。周りにいる者たちは、ほぼ、大祭司につく者たちです。その現実に気づかされたとき、ペテロは、イエスさまを知らない、あなたは何を言っているのか、必死で取り繕い、ついには、私がもし知らないというのが嘘なら、私は呪われてもよい、と、恐ろしい誓いを立てました。  そのとき、鶏が鳴きました。ルカの福音書を読むと、そのときイエスさまが振り向いて、ペテロを見つめられたとあります。イエスさまがどんな眼差しだったかをみことばは記していませんが、目はどれほど雄弁にお気持ちを語ることでしょうか。イエスさまと目があったペテロに、いわく言い難い感情が押し寄せてきて、彼は外に出て、泣き崩れました。  しかし……イエスさまはペテロがこうなることを、すでに告げていらっしゃいました。あなたは、今はついてくることができないが、のちにはついてくる。  すべての人類を救う十字架を負われるのは、イエスさまおひとりであり、イエスさまはこの十字架を負うことに、だれがついてくることもお許しになりませんでした。それがたとえ、愛する弟子たちであったとしてもです。しかし、イエスさまはまた、まことの弟子としてふさわしい人は、イエスさまのあとを自分の十字架を背負って従う人である、とおっしゃいました。  イエスさまが生きておられたとき、ペテロはことばでも行いでも、多くの失敗をしました。それは、イエスさまの弟子としてふさわしくない姿、十字架というおのれに死ぬ道とはあまりにかけ離れた、目立とう精神で生きる姿であったとも言えましょう。しかしペテロのそのような罪も、イエスさまは十字架にかかってくださり、完全に赦してくださいました。  この、人を救いに導くわざ、そのためには自分のいのちさえ惜しまずに投げ出す生き方、その生き方に踏み出していくことで、ペテロはイエスさまについていくことができるようになりました。しかしその生き方をするためには、まず、十字架の前に自我が完全に砕かれる必要がありました。  それまでペテロは、イエスさまについていくことを人間的な蛮勇を振るうことと勘違いしていたふしがあります。そんなペテロは、たったひとり十字架を負われたイエスさまの御前に引き出される必要がありました。砕かれる必要がありました。 あの裁判は、一見するとイエスさまがさばかれていたようでも、ほんとうは全人類がさばかれる場でした。神の子を十字架につけることによって、全人類がいかに罪にまみれた存在であるかがはっきりしたからです。 そのさばきの場にペテロが引き出されたように、私たちひとりひとりも引き出されています。私たちはしばしば、イエスさまへの従い方を肉の力でしてしまうような過ちを犯します。今年の教会の標語は「信仰によって歩もう」であり、私たちは生活のさまざまな領域に信仰を働かせることを目指すものですが、それが間違った生活の習慣により、ときに、信仰を働かせることを、人間的な頑張りや形ばかりの宗教的な行為で代用してしまう弱さを、私たちはつねに持っています。それをしてしまうと、私たちはどこかで無理がたたり、疲れます。もしかすると、人間関係に齟齬をきたして傷つくかもしれません。涙を流すことだってあるでしょう。 そのときこそ、私たちがイエスさまの御前に出ていくときです。私たちは罪あるままだとさばかれても仕方ないものです。しかし私たちは、すでにイエスさまの十字架によって罪赦されている者として、悔い改めることにより神さまとの絆を結び直す特権が与えられています。神さまとつながれる祝福を、私たちはどれほど日々の生活の中で有難く味わっているでしょうか。 私たちも肉の弱さのゆえに、罪に走ることもあるでしょう。自分の罪深さに落ち込んだり、泣いたりすることもあるでしょう。しかし、それで終わりではありません。ペテロの涙の向こうに、初代教会の使徒として大きく用いられたペテロの姿があったように、私たちも悔い改めの涙の向こうに、大きく用いていただく祝福があります。だから、悔い改めを恐れてはなりません。

祈りに招かれた私たち

メッセージ題目;祈りに招かれた私たち  コロナウイルスの流行で、世界はますます厳しい局面に置かれています。もともと中国の武漢から拡散した伝染病ですが、いまや国境を越えて、ヨーロッパ全土にまで広がっています。その流行のうわさに伴うパニックからも、日本は自由ではありません。  私たちはこのような時こそ、祈る必要があることは、あらためて申し上げるまでもないでしょう。しかし私たちは、「祈ります」とか「祈っています」と言いながらも、果たして実際に、どれほどの時間をかけて、熱心に祈っていることでしょうか? もし私たちが祈れないとしたら、それはいったいなぜなのでしょうか? 今日は、イエスさまの祈りの場に招かれた3人の弟子の姿から、私たちにとって実践すべき祈りのあり方を、ともに考えてみたいと思います。  イエスさまは弟子たちを引き連れて、最後の晩さんの席から立ち上がり、ゲツセマネの園へと向かわれました。ゲツセマネの園。それは、オリーブ油を搾る場所であります。オリーブの実は完全な搾りかすになるまで何度でも搾られます。残った搾りかすもともしびを灯す燃料として使われます。搾られて搾られて、身を尽くすのです。イエスさまもまた、この園でそれこそ、搾りかすのようになるまで、血の汗を流して祈られるのでした。  その場所は、イエスさまが弟子たちとたびたび会合をともにされた場所でした。そこに向かわれたということは、何を意味していたのでしょうか? イスカリオテのユダが、イエスさまはここにいるから逮捕しに行くならここだ、と、宗教指導者たちに知らせていた場所でした。そこに行けばユダの手引きによって、ご自身が逮捕され、十字架という極刑に処せられることを、イエスさまはご存知でした。しかし、それにもかかわらず、イエスさまはゲツセマネの園に向かわれたのでした。  イエスさまはこのとき、どのような思いでいらっしゃったのでしょうか? 喜んで十字架を負います、ではなかったのです。この苦しみを避けることができるならば! その思いでいっぱいでいらっしゃいました。  もちろん、イエスさまが十字架にかかられることは、つまり、ご自分から人のためにいのちを捨てられることは、すでに何度となく語ってこられていたとおりでした。予感していないことが起こるどころか、覚悟をもってそこに向かわれたのは確かです。しかし……イエスさまの十字架は、御父との断絶を意味していました。何の罪もない方が、人という人のあらゆる罪に汚されて、御父から捨てられる。それを避けることができるならば、どんなによかったでしょうか!  私たちはイエスさまのこのみ思いがどうだとかこうだとか、論評する立場にはありません。なぜなら、私たちはしょせん罪にけがれても平気な罪人であり、イエスさまのみ思いなど、罪人である私たちにとっては、想像の域を出ないことだからです。  しかし私たちは、イエスさまがこの祈りの戦いの場に、弟子たちをお招きになった意味を考えたいと思います。弟子たちは、最後の晩さんの場でイエスさまがお語りになったさまざまなおことばを聞いて、心は悲しみでいっぱいになっていました。もちろんイエスさまは、御自身が去って行かれることは、聖霊なる神さまがいらしてくださることにつながり、それはあなたがたにとってよいことであるとおっしゃいました。しかし、弟子たちの現実はと言いますと、目の前でこうして語ってくださっているイエスさまが悪者どもの手に引き渡されて去られるのです。そんなことをいったい、受け入れることなどできるものでしょうか。 現在私たちクリスチャンは、聖霊なる神さまがともにいらっしゃるので、たとえ目に見えなくてもイエスさまがともにおられることを体験していますし、イエスさまの御名によってお祈りするその祈りが聞き届けられていることを体験しています。イエスさまが肉体をとってここにおられなくても、何の問題もありません。 しかしこの弟子たちとなると話は別です。イエスさまは、現実の空間に目に見える形でともにおられることに意味がありました。イエスさまがいなくなったあとのことなど、このときの弟子たちには想像のしようもなかったことでしょう。それに、そんなことになったら、どれほどむなしいか! どれほど悲しいか! お願いです、そんなことはおっしゃらないでください、弟子たちはそんな気持ちになったかもしれません。 その弟子たちが、いまこうしてイエスさまの悲しみ悶える姿を見なければならないということは、拷問にも近いことでしょう。私はこの箇所を読むたびに、できれば読み飛ばしたくなる衝動に何度も駆られたものです。こうしてメッセージを語っているいまだってできれば読みたくないくらいです。私がそんなことを思う箇所は、分厚い聖書全体の中でも、ここくらいです。 それでもイエスさまは、このゲツセマネの祈り、油搾りの祈りに、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを同席させました。彼らはいやでも、イエスさまが血の汗を流して祈られる場面をずっと見つめながら、自分たちも祈らなければならなかったのです。ともに祈ってくれ! これが、イエスさまの招きなのです。 よく、クリスチャンたちを毎日のディボーションの習慣に招くメッセージで語られているとおり、主の働きをなす人がすべからく、日々主との交わりを持つべきなのは、イエスさまが働きの場からも、弟子たちからも離れ、静かな場所にて一対一で御父と交わる、リトリートの時間をしっかり持っておられ、私たちもそのイエスさまのお姿にならうべきだからです。イエスさまは、弟子たちを意識してオープンな祈りをされたときを除いては、基本的にとても個人的に、御父とお交わりを持っておられたことがうかがえます。 しかし、このゲツセマネの園での祈りにおいてはどうでしょうか。恥も外聞もかなぐり捨てたようなこの祈りの戦いを、イエスさまはあますことなく、弟子たちにお見せになりました。 御父のみこころを前に、血を流すほどの抵抗をなさったイエスさまのこのお姿、またおこころを見て、私たちはそれでも、いえ、どうか十字架にかかってください、そうでないと私たちは赦されません、などと言う資格があるでしょうか。口が裂けても言えないことです。イエスさまの十字架はどこまでも恵みです。私たちきたならしい罪人のために、あんなお姿で亡くなってくださる義理などあるわけがないのです。しかし御父はイエスさまに、それにもかかわらず十字架にかかってのろいを受けて死になさい、というみこころを示されるのみでした。 この、祈りの戦いに勝利されたゆえに、私たちのすべての罪が赦され、神さまの怒りから救われ、神さまの子どもにしていただいたことを、私たちはもっとありがたく思っていいはずです。クリスチャンはすべからく、この祈りの戦いに勝利してくださったイエスさまに感謝すべきです。 しかしここで、私たちはこの祈りの場に、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを招かれたイエスさまの意図を、もう少し黙想してみたいと思います。みんな、悲しんでいました。みなさまもご存じのとおり、悲しむということはとても体力のいることです。彼らが泣いたとはみことばは語りませんが、この箇所では弟子たちの様子を、まぶたが重くなっていた、と語っています。また、悲しみのあまり眠り込んでいた、と、並行箇所は表現しています。そこから察するに、彼らはイエスさまのおことばに、ただひたすらに悲しくて、悲しくて、何度となく涙を流し、まぶたが腫れてしまったかもしれません。そして、疲れ切ってしまったことでしょう。こうなってしまうと、きびしいのは肉体の弱さが燃える心よりも先に立ってしまうことです。 弟子たちはついさきほどまで、たとえ全部の者がつまずいても私は決してつまずきません、などと大見得を切ってみせていました。イエスさまのおことばをあまりに額面通りに受け取って、人を傷つけ、あやめる道具である剣を2本も取り出してみせたりもしました。彼らの心は、悲しみに満たされる一方で、イエスさまのためなら死ぬことも覚悟しようという、燃える思いでいっぱいになっていました。彼らは確かに、心が燃えていたのです。 だが、肉体の弱さとは、なんと残酷なものでしょう。心が燃えているときは、その燃える思いは永遠に続くように錯覚します。よもやこの思いがすっかり冷めてしまって、イエスさまを裏切るようなことをすることはもうあるまい、などと思ってしまうものです。しかし、この心の入れ物である肉体は、パウロが喝破したように、しょせん土の器です。弱い肉体がついに燃える心に勝ってしまうことなど、いくらでもあるものです。 私たちは、全能なる神さまの御力をいただいています。神さまの知恵もいただいています。それがクリスチャンの素晴らしさです。しかし、神さまは全能でも、だから私たちが全能なのではありません。私たちが信仰を働かせるのは結構ですが、神さまはそんな私たちに、はっきり、被造物としての限界を定めていらっしゃいます。そうです、私たちがしょせん、土の器にすぎないことを、気づかせてくださるのです。 では、しょせん私たちが土の器ならば、私たちは主にあって、主にお従いするビジョンを思い描くことは不遜なことであり、してはいけないことなのでしょうか? そうではありません。もしそうだとするならば、神さまは私たちに、全能の神さまそのものでいらっしゃる聖霊さまを注がれることなどなかったはずです。私たちは聖霊さまの満たしと導きにより、神さまのみこころにかなうことは、何でもできます。そうです、それこそ、何でもです。 それでも私たちが心に留めるべきことがあります。私たちが有限であることを認めることです。無限なのは、死んでよみがえられたイエスさまおひとりだけです。私たちは、主の恵みがなければ、どんなに心が燃えようとも、肉の弱さに征服されてしまう被造物である、そのことを謙遜に認める必要があります。   では、イエスさまは彼ら弟子たちがそのように、心が燃えていても現実の肉体は弱くて、もはや1時間でも起きて祈ることなどできなかったと、ご存じなかったのでしょうか? もちろん、そうではありません。イエスさまは彼らの肉体が限界になっていたことをご存知の上で、あえてこの、決死の祈りの場に招かれたのでした。  このことから私たちは何を学びますか? お祈りすべきときには、いかなる理由があろうともお祈りすることを主は求めていらっしゃる、ということです。いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことについて感謝しなさい、テサロニケ人への手紙第一5章16節から18節のみことばで、とても有名ですが、絶えず祈りなさい、とみことばで命じられている以上、私たちは何があっても、絶えず祈りつづけなければならないのです。  しかし、実際の私たちはどうでしょうか? イエスさまのじきじきの命令により招かれた祈りの場で、3度にわたって眠り込んでしまった、1時間も目を覚まして祈ることができなかった、それが、十二弟子のリーダーであったペテロ、ヤコブ、ヨハネの現実の姿でありました。いわんや私たちは、もっとお祈りすることもできないものであることを、まず認める必要があります。  それでも祈らなければ! 私たちは、祈りにおいて怠惰な自分に気づかされるとき、悔い改めて、心を新たにして祈りに取り掛かろうとするでしょう。しかし、やはり肉体の弱さに呑み込まれてしまいます。あとに残るのは、自分は目を覚まして祈ることができなかったなんてという、罪責感ばかりです。  何がいけないのでしょうか? それは何よりも、私たちの決心が、肉的な頑張りによってなされるものにすぎない、ということです。決心する、頑張ることは、一見するととても素晴らしいことに見えます。その一定の効果はもちろん認めるべきなのですが、しかし、肉的な決心や頑張りでお祈りが継続するわけではありません。 しかし、ひとたび私たちがお祈りする恵みをいただいたならば、私たちは肉の弱さに打ち勝ち、祈れるようになります。私たちはいま、祈りに燃えることができますでしょうか?「一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか」とイエスさまに問われたならば、果たしてまともにお答えすることができますでしょうか? まっすぐイエスさまの目を見て、「はい、あなたさまの恵みによって、あなたさまの求めていらっしゃるだけのお祈りをさせていただきました」と言えますでしょうか? 私はみなさまとともに、全員そろって、その告白をイエスさまにさせていただきたいのです。  イエスさまがこのとき、お祈りの時間の基準としておっしゃったのは、一時間。みなさん。一日とはいいません、せめて一週間のうち、一時間をささげてお祈りするとしたら、それはいつでしょうか。私たちは、くつろいだり、テレビやインターネットを視聴したり、携帯電話をいじったりと、好きなことをしているうちに、あっという間に一時間を費やしてしまうものです。しかし、神さまの前に祈るには、それなりの戦いの姿勢が必要です。大げさではなく「戦い」です。私たちの肉の弱さを当たり前に動かそうとするサタンの誘惑は、どんなときにも襲いかかってきます。神さまの恵みを求めるのです。  ただ、この戦いは、イエスさまの戦いのような、孤独な戦いではありません。私たち信徒たちが相互に祈りの課題を交換し合い、お互いを覚えて祈るならば、私たちは決してひとりで戦っているのではないことがわかります。まるでイエスさまの祈りの場に、御使いが現れて力づけてくれるようなものです。コロナウイルスの流行により集まりが制限されるというこの非常事態は、逆に考えれば、私たちひとりひとりが主の御前にともに進み出るという、またとないチャンスの時です。ともに祈りましょう。

仕え合う弟子の共同体、教会

聖書箇所;ヨハネの福音書13:1~15 メッセージ題目;仕え合う弟子の共同体、教会 今日お読みいただいたみことばは、このようなことばから始まっています。「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」神は愛なり、とみことばが語り、イエスさまが父なる神さまとひとつなる神さまでいらっしゃる以上、イエスさまのお示しになるものは、愛そのものです。私たちはイエスさまの愛を、どのようにして体験するのでしょうか? それは、特に十二弟子に愛情を注がれた、その愛に、みことばを通して触れることによってです。特に、このヨハネの福音書の13章から17章までは、弟子たちに対して最後のメッセージをなさる箇所であり、イエスさまが究極的にお示しになった愛にふれる上で、特に大事なみことばです。  イエスさまがこの世を去られるにあたってなさったことは、この世のものに愛を残るところなく示されることでした。イエスさまの十二弟子は、そのイエスさまの愛を受け取った、すべての人類、すべての被造物の代表選手といえる存在です。だから、イエスさまが弟子たちをどのように愛されたかを学ぶならば、イエスさまが私たちのことをどんなに愛しておられるかを知ることができます。  キーワードになりますのは、愛です。イエスさまは単に、御国を拡大する働きの担える後継者をビジネスライクに育てていたわけではありません。弟子たちと苦楽をともにし、主にあって愛するとはどういうことかを弟子たちに教えるため、つまり、弟子たちもイエスさまの愛をもって教会のひとりひとりを愛する者となるため、自ら愛することを実践されたのでした。  イエスさまと弟子たちは、これから過越の食事をともにされます。イエスさまがこの過越の食事を弟子たちとともにすることを「どんなに待ち望んでいたことか」と表現なさったように、切に待ち望んでいたということが、ルカの福音書に記されています。これが、ご自身が十字架の上で窮極の過越、最後の過越を成し遂げられるその前ぶれとして、ご自身が執り行われた過越の食事であったわけです。そういうわけで、この場にともに連ならせてもらった十二弟子は、もっとも幸いな存在でした。  しかし、こんにち私たちが主の晩さんにあずかるということは、私たちもまたイエスさまに愛されている主の弟子たちであることを確かめる、だいじな時間をお持ちしているということになります。私たちも弟子たちと同じ立場で、イエスさまの晩さんに招かれていて、その晩さんにあずかることができるのです。  しかし、この晩さんの席上、弟子たちは何をしていたのでしょうか? この期に及んで、自分たちの中でだれがいちばん偉いかということを議論していました。イエスさまが御国につくなら、その次の座にはいったいだれが座るのか、それは自分だ、などとでも言い合っていたのでしょうか。そのような議論したことをかつてイエスさまに戒められたというのにです。しかし、そんな弟子たちの姿をご覧になったイエスさまは、その食事の席から立ち上がり、たらいに水を入れ、弟子たちひとりひとりの足を洗いはじめられました。  足を洗うのはしもべの仕事、奴隷の仕事です。つまりイエスさまは、この弟子たちのしもべとして振る舞われたのです。弟子たちはどれほどうろたえたことでしょうか。イエスさまをしもべにしてしまったなんて、なんと申し訳ない! イエスさまに洗っていただくなんて、なんともったいない! 恥ずかしい! でもありがたい! いろいろな思いが弟子たちの間に錯綜したにちがいありません。 さて、このような中にあって、ひとこと多いのはペテロです。ペテロは、弟子のリーダーとしてのプライドを見せようとしたのでしょうか。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」このようなことを言ってうろたえるペテロに、イエスさまはおっしゃいました。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」  ペテロはのちに、イエスさまの十字架を目の前にして激しい挫折を体験しましたが、のちには立ち上がり、イエスさまのしもべとしての生涯を全うしました。ペテロはイエスさまにならう生き方を歩むことで、イエスさまがなぜあのとき、自分のようなもののしもべになってくださったのか、分かったはずです。ペテロもまた、初代教会の羊たちのしもべとして歩むことを選択したのでした。  だが、このときのペテロに、そのような将来の歩みなどわかりませんでした。決して私の足をお洗いにならないでください。ペテロはかつて、ことばで失敗したことがあります。イエスさまが、宗教指導者たちに迫害されて殺されるであろうと予告されたとき、ペテロは、そんなことがあってはなりませんとイエスさまを諌めました。しかしイエスさまはそんなペテロの姿に、十字架を拒むサタンの動きを認められ、下がれ、サタン、と、主の弟子としてはとても聞くに堪えないようなおことばをもってペテロをお叱りになりました。 そしてペテロはここでも、決して私の足をお洗いにならないでください、と、イエスさまのお働きに異議を唱え、それをやめさせようとしました。しかしイエスさまはおっしゃいました。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」 イエスさまが足を洗わない人はイエスさまとは関係がない。どういうことでしょうか。イエスさまが仕えてくださっている人でなければ、イエスさまとは関係がない、ということです。 それではイエスさまは、どのようにして人に仕えてくださったのでしょうか? 十字架です。まさしく十字架とは、神が人に仕えることでありました。神が人に仕える! そんなことがあっていいものでしょうか? しかし、神の子キリストが十字架につかれたとは、そういうことです。 いったい、天地万物の創造主であり全能者であられる方が、ちっぽけな被造物、それも罪を犯して創造主に反抗した者の罪を赦し、永遠のいのちを与えるために、むごたらしくも十字架の上でいのちをお捨てになる必要があったでしょうか? 仕えることはそういうことです。しかし、イエスさまはあえてそのような人間に仕える者の姿をとられ、実に十字架の死をもって、人の罪を洗いきよめてくださいました。汚れた足を水できれいに洗うように、イエスさまの十字架の血潮は、罪に汚れた人のすべてを洗いきよめます。実に十字架とは、仕えることです。 さてペテロは、イエスさまがペテロを洗わなければイエスさまと自分が何の関係もないとおっしゃったことに心を痛めたのでしょう。ペテロはイエスさまを愛する人であったからです。ペテロは一転して、もし洗ってくださるのなら、足だけではなく、手も、頭も洗ってほしいと、イエスさまに訴えました。 しかしイエスさまは、このようにお答えになりました。10節です。……イエスさまに完全に立ち帰った者は、もはや罪に定められることがありません。しかしそれでも、私たちは日々罪を犯します。罪に汚れてしまうのです。だから私たちは、イエスさまに洗っていただく必要があるのです。それはあたかも、この時代のパレスチナのユダヤ人がそうだったように、サンダル履きで道を歩いて、足がどうしても汚れてしまうから、家に入ったら足を洗う必要があったようなものです。 罪に汚れるのは、いかにもキリスト者としてふさわしくありません。家の中を汚い足で歩き回ってはいけないのと同じです。私たちは日々、主の御前に心を注ぎ出し、悔い改めをなしてゆく必要があります。 しかし私たちは、もともと、どんなに自分の罪を悔い改めたとしても、決して赦されるような者ではありませんでした。ただ、イエスさまが私たちの身代わりに十字架にかかってくださった、その愛を受け入れるとき、私たちは御父への道、永遠へのいのちの道が開かれ、イエスさまとの絶えることのない交わりの中で、日々の歩みの中で犯してしまう罪さえも赦していただける者となるのです。 イエスさまが足を洗ってくださった弟子たちの中には、イスカリオテのユダがいました。ユダは、イエスさまに足を洗っていただいても、心底神さまに立ち帰っていたわけではありませんでした。宗教指導者たちにイエスさまを売り渡したのは、見ようによっては宗教的にとても模範的なことをしたようでも、イエスさまの父なる神さまの御目から見れば、どれほど呪わしいことをしたことでしょうか。そのように、形だけクリスチャンのように振る舞いながら、そのじつ心の中では、イエスさまになど従いたくない、機会があれば教会をこの世の権勢に売り渡そうが知ったことではない、という恐ろしい存在は、残念ながら存在します。 しかし、そういう者の存在を意識させられるとき、「まさか私ではないでしょう?」と心を痛めてイエスさまに立ち帰り、責められる罪があるならば悔い改めることのできる人は幸いです。イエスさまはユダにも、最後まで悔い改めの機会を与えてくださいました。しかし、ひとたびサタンにたましいを売り渡した者に対しては、イエスさまはもはやなすがままにして、十字架への道を歩まれるのみでした。 それでも私たちは、ユダではありません。イエスさまにお従いする弟子たちです。イエスさまは弟子たちに対して、何を求めていらっしゃるのでしょうか。12節から15節をお読みします。……イエスさまがいのちを差し出して私たちに仕えてくださったように、私たちもまた、互いのためにいのちを差し出して仕え合う必要がある、ということです。 ヨハネの手紙第一、3章16節をお読みしましょう。福音書ではなく、手紙のほうです。そう、互いのためにいのちを捨てなさい、と命じられています。続く17節、18節をお読みすれば、16節のみことばの言わんとしていることが明らかになります。 心のこもった行いというものは、自分を差し出す犠牲の伴ったものです。言ってみれば、私たちのいのちをすり減らして愛を実践していることになります。私たちは自分のことしか考えないような自己中心の罪人でした。そのような私たちでしたが、イエスさまの十字架の愛を知りました。イエスさまの十字架の愛を知った今、わが主でいらっしゃるイエスさまの愛の実践にならって、私たちも互いのためにいのちを投げ出す者となれるし、また、いのちを投げ出す者となるべきである……みことばはそう語ります。 まことに、私たちの愛の実践は、イエスさまの十字架を日々どれほど黙想しているかにかかっています。イエスさまの十字架の愛を知れば知るほど、私たちの行いに互いへの愛が実を結んでまいります。イエスさまがどれほど私たちを愛してくださり、仕えてくださったか、その愛にいつでも立ち帰る者となりたいものです。 さて、現在の状況に今日の教えを適用してみますと、どのようになりますでしょうか? 私たちはこのような、互いに会うこともままならないような中にあっては、愛し合うことを実践するのも難しいことのように思えるかもしれません。それならば私たちは、何によって自分たちは結ばれているか、何によって同じキリストのからだなる教会を形づくっているか、あらためて考えてみましょう。 私たちを一つにしているのは、イエスさまへの信仰です。同じイエスさまへの、同じ信仰をいだく者として、私たちはひとつになっています。私たちの好き嫌いでひとつになったりならなかったり、という問題ではありません。私たちを一つにしてくださった、イエスさまのみこころをしっかり考えてまいりたいものです。 イエスさまはどのようにして私たちを愛してくださったか、その愛を深く知るには、イエスさまがひとつからだにしてくださったお互いを愛すること以上のことはありません。愛することとは、仕えることです。 さて、聖徒を愛するには、「愛される」謙遜さも同時に必要になります。仕える人が仕えることを全うするには、「仕えられる」人の存在を必要とします。イエスさまに足を差し出すように、祈ってほしいこと、仕えてほしいことを、ほかの信徒に語ることです。もちろん、その必要を私たちが知るならば、いっしょうけんめい祈り、いっしょうけんめい仕えることです。 今はこのように、礼拝に来ることさえもままならず、そのぶん、とりなしの祈りや、奉仕の機会は多くないことになります。実践の機会そのものがあまりないわけです。しかしここは、ひとつ、へりくだって、私たちの祈ってほしいこと、ほかの兄弟姉妹の奉仕を必要とすることを、この機会に明らかにしてみてはいかがでしょうか。

生きることはキリスト

このご時世……人々は前にもましてますます、新聞やテレビやインターネットから情報を得ようとしたりする一方で、その情報の真偽、良し悪しを、自分の頭で確かめる必要がますます生じています。  私たちは何を信じ従うのでしょうか? 変わらないお方である主とそのみことばを信じお従いします。それでは私たちがみことばに従うことを、このようなご時世にあって、どのように実践することができるでしょうか? 聖書はいろいろなところで、私たちにその生き方をする上での指針を示していますが、今日は特に、ピリピ人への手紙のみことばから学んでまいりたいと思います。  今お読みしたみことばの中で、特に強調したいのは、21節の箇所です。私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。聖書を読みはじめて間もない人がもし、この箇所を読んだとしたら、ちょっと難しさを覚えるかもしれません。しかし、この箇所は、私たちクリスチャンの人生にとって、またとない指針となるみことばです。  まずは、「死ぬことは益です」というみことばの意味を考えてみましょう。パウロはこの手紙を書いたとき、獄中にありました。多くの聖書学者の見解では、ローマの監獄にいたということで、それはそのまま、もはや釈放されることなく、処刑に向かって進むのみということを意味していました。パウロはもちろん、釈放されてピリピ教会の信徒たちに再会することを希望し、またそうなるようにと信徒たちに告白しています。  そのような中でパウロが、死ぬことが益であると語るのは、どのような意味があるでしょうか? 何よりもそれは、23節にあるとおり、世を去ることになるならば、キリストとともにいることになる、ということを意味します。  人がこの世を去るということは、悲しくも寂しいことです。その感情まで否定すべきであると言いたいのではありません。しかし、私たちにとって大事なのは、死ぬということは終わりを意味するのではない、ということです。そればかりではありません。あれほどお目にかかりたいと恋焦がれた、イエスさまにお会いできるということです。  私たちはこの世界を生きながら、実際は天の故郷にいずれ帰ることをたえず意識しながら生きる者です。だから、世の富や欲に執着しているならば、それを捨てることをしていく必要があります。私たちの日常を点検してみましょう。私たちは天国に行く準備ができていますでしょうか? 天国に行く前にやり残していることがあるから気がかりだ、ですとか、天国に行くことよりももっと関心のあることが目の前にある、などとなっていないでしょうか?  ただ、もちろん、このようなことを申しましても、この地上で好きなことを一切すべきではないというわけではありません。私が神学生の頃、私に、趣味を持つべきだとおっしゃった宣教師の先生がいらっしゃいました。もしかすると、教職者が趣味を持つことに対しては、厳しい視線を投げかける方もいらっしゃるかもしれません。しかし私は、教職者が長持ちして働きをするためには、徳を引き下げるものではないかぎり、ふさわしいかたちでの息抜き、休息は必要だと考えます。これは、パウロが教え子のテモテに言ったところの、「少量のぶどう酒」に当たるものだと考えます。 それでも、「少量のぶどう酒」は、どこまでも、主の宮なるからだを立て上げるものであり、そういう意味では、天国と関係あるものであるべきでしょう。私たちにとっての趣味のような快いこと、コーヒーを飲んだりドライブをしたりおいしいお店に行ったりすることも、天の御国を見上げる私たちをこの地上で支えるために必要なことであるのみで、それ以上のものであってはいけません。すなわち、そのような快楽そのものを生きる目的とすることは、私たちクリスチャンにとってふさわしいことではありません。 それでは私たちは、この世に対する執着を一切捨てて、死ぬことを究極の目標とするしかないのでしょうか? いいえ、死ぬこと、すなわち天国に行くことは私たちが積極的に受け入れるべき「結果」でこそあれ、死ぬことそのものを「目的」として、生き急ぐような真似をしてはいけません。なぜでしょうか? それは、24節にあるとおりです。……パウロが「あなたがたのため」と言ったまさにそのこと、それは、キリストのからだなるピリピ教会とその信徒たちが保たれ、成長することです。 初代教会は、質量ともに大きく成長する希望にあふれていた一方で、ユダヤ主義者やローマ帝国といった敵の存在によって、つねに滅亡と隣り合わせという危機に瀕した状態で、宣教と教会形成を続けなければなりませんでした。その中で彼らが保たれるためには、彼らが主とそのみことばにしっかりとどまり、みことばの栄養を得て成長すること、愛においてひとつとなることは必須でした。しかし、何よりも、その群れの霊的責任を担える存在を、どうしても必要としていました。その霊的責任を負う者、それがパウロです。 霊的責任を負う人にその群れの霊的存在の存亡がかかっているということは、旧約聖書でもしばしば見ることができます。サムエル記第二に収録されているエピソードです。イスラエルの統一王国時代、ダビデは息子アブサロムとの戦争に巻き込まれました。そのとき、ダビデ王は自ら戦場に赴こうとしました。しかしダビデ王は兵士たちから、あなたはわたしたちの一万人にあたります、と、必死に引き止められました。いざというときに出て行って責任を取ろうという態度、素晴らしいリーダーシップですが、同時に、そのようなリーダーが守られるように、従うべきことを従い、自分たちも責任を分かち合おうとする態度、これは従う立場の者たちの、いわば「フォロワーシップ」というべきものです。 そのフォロワーシップが充分に育つまで、牧会者は充分に群れに気を配り、その群れの霊的な監督としての責任を果たすために、必要なみことばを語り伝え、とりなして祈る必要があります。もちろん、信徒ひとりひとりが究極的につながるべきはイエスさまであり、それは決して牧会者であってはならないのですが、だからといって、牧会者の責任が免除されるのではありません。むしろ、だからこそ、信徒がイエスさまとしっかりつながり、イエスさまに従うものとなるために、牧会者はますますその責任を全うする必要があることになります。 パウロが、なお生きることを願ったのは、いつか生きてピリピ教会に戻り、再び群れを指導できるようになることを祈ったゆえで、25節、26節を見てみますと、パウロが生きてピリピ教会の信徒に再会することで、ピリピの信徒にとってそれが信仰の前進と喜びとなることが語られています。しかし、結局のところそれはかないませんでした。ならばパウロは、根拠のないことを言って空元気(からげんき)をつけさせようとしたのでしょうか? そうではありません。パウロは、ピリピの信徒たちがパウロに再会するその希望よりさらに高い次元にある、パウロが来ようと来なかろうとピリピ教会の信仰が前進し、喜びが増し加わることを祈っていたと見るべきです。 それでもパウロが、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です、と言ったことは、いろいろな意味を含んでいます。まずそれは、パウロこそが、ピリピ教会に格別の重荷を覚えて祈る人であるゆえ、たとえあなたたちに会えなかろうと、まだまだ死ぬわけにはいかない、ということでもありました。 しかし、それ以上のことがあります。パウロはまだ、のちに新約聖書を完成させる書簡となる、たとえばテモテやテトスへの牧会書簡をまだ書き送っていませんでした。つまり、聖書が完成された形でのちの2000年の教会を霊的に養うためには、パウロはここで死ぬわけにはいかなかったのでした。パウロは、ピリピ教会も含めたすべての教会を霊的に生かすために、いのちが取り去られて天国に行くことを願う一方で、生きつづけることを主に祈り求めたのでした。まことに、パウロがまだ天国に行かないで生きつづけたことは、その後歴史上、世界中に存在した、すべてのキリストのからだなる教会のためでした。パウロの祈りはすべての教会を生かすことにつながりました。 私たちはなぜ生きるのでしょうか? パウロは、はっきりわれわれの生きる理由を語っています。「生きることはキリスト」なのです。キリストが生きるように生きる。私の生きていることは、キリストが生きていることそのものである。みなさん、ここまで言い切れるでしょうか。いや、私は罪人ですから……こんな言い訳は、このことばの前には一切通用しません。 私たちはもちろん、ときには肉の弱さのゆえに罪を犯すものです。しかし私たちは、その罪を犯す自分をほんとうの自分、変わることのない自分だと考えてはなりません。私たちにとってのほんとうの自分自身とは、将来天国にて、キリストに似た者として完全に栄光の姿に変えられる姿であり、その完成された姿に向けて私たちは日々変えられます。ほんとうの自分に、日々近づくのです。間違っても、きよめられていない自分、罪人の自分を、ほんとうの自分だと考えてはなりません。 しかし、私たちがキリストの似姿として日々きよめられるには、条件があります。キリストをわが心のうちに救い主、人生の主として迎え入れ、心の王座に座っていただいてそのご支配をいただくことです。私たちクリスチャンはときに、心の中にキリストを受け入れていることは確実でも、その心の中心にキリストが座ってはおらず、相変わらず心の中心を罪深い自分自身が占めつづける、ということがあるものです。私たちがこうして週に一度礼拝をおささげするのは、そういう自分であることに気づかせていただき、イエスさまのはじめの愛から、どこからどのように離れたか思い出させていただき、悔い改めて初めの行い、すなわち、自分を捨ててイエスさまを信じる信仰に立ち帰らせていただくためです。 悔い改めというと、「悔い」ということばの否定的なイメージに引きずられて、何やらよくないこと、などと誤解したりしてはいないでしょうか? でも悔い改めとは、自分の罪の醜さをまじまじと見つめて、ああ、私ってなんて汚いの、愚か者なの、と、うじうじ落ち込むことでは、ありません。それは「悔い」です。悔い改めはむしろその反対で、そんなうじうじさせる自分の醜さ、汚さから、まことのきよい光そのもののイエスさまへと完全に目を向け、目を離さなくすることです。イエスさまに向けて視線を固定するのです。いざイエスさまに向けて視線を固定してしまえば、もう自分の醜さのようなものを見ることはできなくなります。 まことに、ふさわしい聖徒の生き方とは、悔い改めに次ぐ悔い改めを通して、どんどんキリストの似姿に変えられていくことです。その生き方をともに目指し、キリストが歩まれたように、教会に対して、この世に対して愛と真実の歩みをなす、こうして私たちは、生きることはキリスト、となるのです。 しかしまた、死ぬことも益です。パウロの死は、殉教でした。その死によって、キリストというお方はいのちをかけてまでお従いすべきお方だということが、堂々と証しされたのでした。そして聖徒たちは、自分のためにいのちを捨ててくださったキリストのその十字架を、パウロの殉教を通してどれほど如実に実感したでしょうか。パウロの死は、神の栄光となり、聖徒たちはいよいよ迷わずに教会を立て上げました。そしてその歩みが、こんにちの私たちの歩みへとつながっているのです。 私たちもいつかは天国に行きます。しかしどうか、消極的な理由から天国を希望する者にならないでいただきたいのです。こんな、ウイルスと放射能に冒された世界、愛のない世界に生きていても、何にもならない、生きていても死んだほうがましだ、そんなことを考えて、それで天国行きを望むのでしょうか? しかし、そういう人は、肉体が死ぬことを夢想しようと、益になどなりません。同じ死ぬにしても、肉体が死ぬのではなく、そんな変な価値観を抱えてさまよう自我がキリストとともに十字架につけられて死ぬべきです。そうすれば、復活のキリストがその人のうちに生き、もはやつまらない聖書解釈で生きるのではなく、ほんとうに生き生きと喜びにあふれた、それこそキリストがともに歩まれる信仰生活を送れるようになります。もうそういう人は、けっして、消極的な理由から「死にたい」などと口にすることはなくなるはずです。 私たちが宣べ伝えるキリストは、この世界から人を取り去って天国に入れてくださるお方だといえばそうなのでしょうか、それはキリストというお方のあまりに表面的な領域でしかありません。いま現実に苦しむ人たち、そうです、いま日本はコロナウイルスで苦しんでいますし、震災や台風などの災害からまだ完全に復旧したわけではなく、それで苦しむ人もたくさんいます。経済的に困窮する人もたくさんいます。社会はあちこちがほころんでいます。世界に目を向けたら、さらに悲惨な生活をしている人が大勢います。そのような人々を救い、人々とともに歩み、この世界に神の子なるキリストが愛をもって統べ治めてくださる神の国を立て上げる、キリストはそういうお方ではなかったでしょうか。 そう考えるならば私たちのうちには、自分たちさえ救われればいい、天国に行ければいい、何をしても許される、という考えは生まれてこないはずです。世の光、地の塩として、主がおつくりになった世界に対して、キリストが歩まれた愛の歩みを、いのちあるかぎり力いっぱいなし、いのち果てる日に喜びあふれて天国に凱旋する、そういう歩みに献身したいものです。その歩みにより神の栄光を豊かに現す、そのような私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。

つまずかせない教会形成を目指して

聖書箇所;コリント人への手紙第一10:31~33 メッセージ題目;つまずかせない教会形成を目指して 本日のメッセージは、結論から先に申し上げたいと思います。「人のつまずきになってはいけません」、これだけです。それは未信者に対してもですし、私たち教会内部においてもです。 本日の礼拝は、集まれる方で集まりましょう、主の晩さんも執り行わないことにしましょう、と、昨日、一斉メールでお伝えしました。このようなとき、クリスチャンの意見もいろいろだと思います。礼拝そのものを開催すべきでない、実際に日本ではカトリックも含め、そのような教会がいくつも現れているので、現実的に過ぎる判断とはいえません。一方で、このような時こそ信仰を働かせて、ヘブル人への手紙10章25節のみことばを実践して、ともに集まろう、ですとか。それぞれに聖書的な根拠があるので、どれが正解、どれが間違い、とは言い切れません。おそらく、どんな決断を下したとしても、全員を納得させられるだけのことはできないと覚悟すべきなのかもしれません。 しかし、これだけは言えます。何をするにしても、つまずきを与えてはなりません、ということです。もちろん、つまずきが起こるのは避けられません。イエスさまもおっしゃっているとおりです。しかしイエスさまは続けて、このようにもおっしゃいました。つまずきを与える者はわざわいです。自分は信仰があるから何をやっても許される、とばかりに、厚かましく振る舞う人に対して、イエスさまのまなざしはとてもきびしいです。私の今しているこの振る舞いは、もしかすると自己中心的で、だれかをつまずかせるかもしれない、と、慎重になるくらいでちょうどいいのでしょう。 信仰者の特権を人のつまずきの材料としてはなりません。コリント人への手紙第一10章27節から30節をお読みしたいと思います。……私たちは食べたり飲んだりするもので宗教的にけがれて、神さまから、おまえは汚れた、とみなされ、見捨てられることはありません。しかし、この特権を理解しない人というのは、実際は少なくないものです。そういう人がそういう様子を見て、えっ、クリスチャンなのに飲むの? ありえなーい、そんなことを思ったとしたら、どうでしょうか? 悪いのは、特権を理解しない人でしょうか? そうではありません。つまずかせる方です。人をつまずかせることは、宗教的にけがれるのとは違った理由で、神さまのみこころにとてもかなわないことになります。 しかし、そうだとすると、私たちはたとえば食べ物や飲み物のような、自分に許されている自由というものを、どのように理解すべきか、ということになるでしょう。これは、実際に私が見聞きしたケースをお分かち合いするのがいいと思います。ある、お酒が好きな婦人の信徒がいました。彼女の所属する教会はいわゆる福音派で、お酒のことを話題にするのもはばかられる雰囲気でした。教会では言いにくいので、ある日彼女は、個人的に知り合いになった外国人の宣教師に質問しました。「先生、お酒は、飲んでもいいのですか、飲んではいけないのですか?」その先生はこう答えました。「世の中のお酒飲みの人は、飲まない自由というものを持っていません。飲むしかなく、自由がないのです。私たちクリスチャンは、飲む自由もあれば、飲まない自由もあります。」その婦人は目が開かれたようで、その後、あれだけ好きだったお酒を飲まなくなりました。 私たちはお酒を飲んでもいいのです。牛肉や豚肉を食べたってかまいません。しかし私たちは、お肉はともかく、お酒を飲むことは少なくとも「奨励」しません。なぜかといいますと、それは未信者や信仰の弱い人たちに対して、つまずきを生むからです。人によっては私たちクリスチャンに対し、一般の人がなかなか持たないような潔癖さを求めたりします。そういう人たちの前では、私たちは罪人です、赦されていますが罪人です、という言い訳は通用しません。 お酒というものは成人になるまでは口にしてはいけない取り決めの嗜好品であり、そういうものをクリスチャンともあろう者が、後ろめたくもなく楽しむことを、許せない。私たちはそう考える人たちに対し、いやいや、大目に見てくださいよ、などということは絶対にできません。そのように、私たちに宗教的な潔癖さを求める人たちは、私たちの行動を逸脱させない人たちであり、とてもありがたい存在、愛すべき隣人といえます。 教会内においてはどうでしょうか。そういう、人につまずきを与えるか否かというセンスを発揮できる人は、必要です。そのセンスは、このような事態における私たちの行動において、特に必要になります。教会の集まりもそのような次元で、開催の可否や開催方法の判断を迫られます。ヘブル人への手紙10章25節を前提としても、集まることが励ましにならないばかりか、つまずきを生んでは何にもなりません。 大前提として、私たちは信仰を働かせることが求められています。しかし、信仰を働かせるとは、無批判に何でもしてもいい、ということではありません。韓国教会をご覧ください。大型の教会はその多くが、今月の日曜礼拝の開催を見送り、インターネット中継によって家庭礼拝をするようにと促しています。あれほど、日曜礼拝をともに守ることにいのちを懸けていた韓国教会が、そのような決断をしたことは、戒律を守るがごとき宗教行為から自由なクリスチャンの姿の現れだったわけです。 うちの教会もどうすべきか、信徒のみなさまと連絡を取りつつ、本日の礼拝について、祈りつつ考えを巡らしておりましたが、結局のところ、開催し、参加は各自の判断にゆだねる、という結論になりました。それは、つまずきを及ぼすか否か、ということが、最も大きな判断の基準となりました。 もし、信徒たちすべてに出席を促したら促したで、つまずきのもとになるでしょうし、逆にもし、一切集会しないという方針を打ち出したとしても、それはそれでつまずきのもとになったにちがいありません。疫病という非常事態と、ともに集まり礼拝をささげるというその勧めを両方考えるとなると、それは頭の痛い問題です。なぜそれが頭の痛い問題となるかというと、何を選択するにしても、どこかでつまずきのもとが起こりうる、ということだからです。 コロナウイルスが、たとえばインフルエンザほどには正体がわかっていないことが、人々の不安に拍車をかけています。マスクどころか、トイレットペーパーやティッシュペーパーのような紙製品までが売り切れになる事態が、それを物語っています。こういう人たちに囲まれている私たちは、それでも私たちのことを絶対的に守ってくださる神さまに信頼するその信仰を、このときこそ増し加えていただく必要があるものですが、それは無防備であってもよい、ということではありません。 本日は月のはじめの日曜日ですが、主の晩さんは執り行いません。これは一見すると、「わたしを覚えてこれを行いなさい」というイエスさまのご命令に、不従順であるかのように見えるかもしれません。しかし、月のはじめに必ず執り行うというこの教会の取り決めは、いわばこの教会の「文化」であって、そのとおりに守り行うことこそがふさわしいという「聖書的な絶対の根拠」によるものではありません。キリストのからだなる教会には、それこそ韓国教会の大きな教会のように、日曜日の礼拝そのものに集まらないという選択さえも許されているわけで、その根拠が「神さまによって許されていると信じるか」にかかっているわけです。 韓国の大教会は何を恐れたのか、といいますと、感染源になってはならない、自分たちが感染源となることで、社会から糾弾されて証しにならないことをしてはならない、ということです。信仰によってこの疫病を乗り切れるだとか、まるで軍隊やむかしの体育会系のような精神論と信仰を履き違えたような判断をしなかったわけです。 ただし、日曜礼拝を含め、集まりを持つことそのものの可否ということは、ケース・バイ・ケースでしょう。礼拝に集う人数や密度、教会に行く場合の交通手段、教会の所在地やその地域の取り組みによっても、判断が異なります。茨城県はまだ、感染が確認された患者は現れていませんし、この教会のある茨城町の教育委員会も、学校の授業は今週金曜日まで行うことを発表しています。そういうことからもうちの教会は、本日は礼拝そのものの開催はするという判断となりました。 それでも、主の晩さんは執り行いません。仮にの話です。仮に、だれかが感染したとします。それはもしかすると、主の晩さんではなく、別の理由からだったとしましょう。実際、主の晩さんで感染するリスクは高くない、もしそれで感染者が教会に現れたとすれば別の理由でだろう、とおっしゃる牧師先生もおられます。 しかし、主の晩さんは自分で用意するものではない、口に入るものです。愛さんを用意しないならば、主の晩さんも用意すべきではないということになります。もし、それでも規則だからと、主の晩さんを行うならば、それを教会が提供するとは、このご時世に何事か、とお思いになる方は、もちろんいらっしゃるわけです。すでにいくつもの教会が、礼拝はささげても主の晩さんは当分の間執り行わない、という方針を打ち出しています。 それはおそらく、感染のリスクそのものよりも、信徒たちが不安な中でわざわざ主の晩さんを形式的に執り行うことに意味はない、ということを考えてのことだと思います。ほんの少しでも不安を覚える中で、果たして、主の晩さんの恵みを味わえるものでしょうか。 それでは、なぜ私たちは人をつまずかせてはいけないのか、「なぜ」を問いましょう。神さまのみこころははっきりしている、そのみこころに従えない人の方が悪い、つまずいたなどと、教会や牧師や信徒のせいにされても困る、そんな意見をなぜ言ってはいけないのでしょうか? これは、ローマ人への手紙14章、13節から23節をお読みしましょう。……特に注目すべきは、15節のみことばです。人とは何者でしょう? キリストが身代わりに死んでくださったほど、尊い存在です。それほどに尊い存在なのに、私たちはいとも簡単に、弱いなどといってさばいたり、罪に定めたりするのです。 主の兄弟ヤコブはその手紙、4章12節にて言います。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。私たちもまた、キリストが身代わりに死んでくださらなければならなかったほどの、あまりにひどい罪人でした。その立場を考えもせず、人をさばき、人をつまずかせて平気な、自己中心的な存在です。私たちはその、自分の罪に気づかせていただかなければなりません。 ともかくも、人はキリストが身代わりに死んでくださったほど尊い存在です。しかし、人のためにキリストが身代わりに死んでくださったということを、だれが伝えるのでしょうか? 教会とそこに連なるクリスチャンしか伝えられません。 それなのに、教会ならびにクリスチャンが、その救われているという特権意識にあぐらをかいて、平気で人をつまずかせているならば、しかもそんな自分を正当化するならば、それは世の中から糾弾されるどころではありません、キリストの贖いをむだにすることになります。神さまはそんな私たちのことをどうご覧になるでしょうか? どれほど恐ろしいことでしょうか。 つまずきが起こるのは避けられなくても、つまずきを起こす者はわざわいであるというイエスさまのみことばに、あらためて耳を傾けましょう。私たちは何をしても守られるという信仰を働かせるのはまことに結構なのですが、それがだれかのつまずきとなってはなりません。そうなってしまうならば、一見すると信仰から出ているように思える行動も、信仰から出ているとは言えなくなります。私たちのうちのだれかがこれ以上信仰を働かせられない、つまりはつまずいてしまっていることを放っておくならば、それは信仰によって進むべき教会という共同体のあり方として、とてもふさわしくないということになります。 このときこそ私たちは信仰を働かせる必要がありますが、その信仰は、ふさわしいかたちで働かせるべきものです。最後に、コリント人への手紙第一10章に戻り、31節のみことばをお読みしましょう。……何によって神の栄光が顕れるのでしょうか? 人々をつまずかせる行動が正当化されず、みなが平安の中でキリストに従うことを通してです。人をつまずかせない歩みを心がけ、神の栄光を豊かに現す、そのような教会形成に献身する私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

ハガルの回復

聖書箇所;創世記16:1~16 メッセージ題目;ハガルの回復  今日の箇所は、ハガルという人物が主人公の役割をしています。今日は、ハガルという人物を中心に、私たちの持つべき信仰のあり方を学んでまいりたいと思います。  ハガルとはどのような人物だったのでしょうか? エジプト人の女性の奴隷でした。アブラムがエジプトに下ったとき、ファラオにサライを召し入れさせたことがきっかけになって、多くの財産とともに奴隷たちも手にすることができたのですが、ハガルはそのときにアブラム一家の手に渡った人物と推定されます。生まれつき奴隷の家系に生まれたうえ、エジプトを離れて、流浪の生活をするアブラムの一家と生活をともにしました。  ハガルは、サライのもとで身を低くして仕えていました。サライはハガルに対し、絶大な権限を持っていました。そんなサライはある日、このようなことを夫のアブラムに言いました。2節です。  ……サライのこのことばは、いろいろな意味で問題を含んでいました。まずサライは、アブラムに与えられた主のご計画、子どもを星のように生まれさせてくださるという約束を聞いていて、その約束を信じ受け入れてはいたようです。しかし、その約束がいかにしてかなうかということに対し、全能なる神さまがそのみわざにより事を行なってくださるということを信じ、忍耐することができませんでした。サライは、全能なる主のみこころよりも、事実、子どもが産めないでいるという現実のほうを大事に思いました。  そして、自分のしもべをアブラムに与えました。それは、主の約束されたとおりの子孫を残すためという大義名分がありましたが、ハガルはもちろん断ることができません。主人と奴隷という地位を利用して、人に対してふさわしくない行動をしたのでした。  そして何よりも、アブラムにやはりふさわしくない形での性的関係を持たせたことです。 たしかに、自分の女奴隷に主人の子どもを産ませれば、それは主人の子どもとして認知させることになりますし、妻としても生まれた子どもを自分の子どもともすることができます。のちにヤコブもそのようにして子どもをもうけたケースが聖書に記録されており、この時代にはしばしば見られた風習だったようです。しかしそれでも、アブラムに与えたのは、明らかに子どもをもうけられそうな、若くて健康な女性です。サライの心中は穏やかではなかったはずです。  こういうことが起こる背景には、神さまから与えられたビジョンというものを信仰によって受け取る以前に、人間的な意識で受け止め、人間的なプロセスでかなえようという誘惑にさらされる、プレッシャーが存在したであろうことが推測されます。アブラムは神さまの臨在にふれ、いよいよ子孫が生まれることが明らかになった。しかしそうなると、サライがこの年齢になって子どもが産めていないという現実とのせめぎ合いになります。そうなると、神さまのビジョンをかなえるために、人間的な方法に頼るという、あってはならないことが起こるようになります。  ここに、私たち人間に知恵が要求されます。私たちはいかにして、神さまのビジョンがかなうように用いていただくのでしょうか? そのために必要なことは、「神さまの時を待つ」ことです。もし、教会やその指導者に与えられたというビジョンがほんとうに神さまのみこころにかなうものであるならば、神さまは必ず、そのビジョンをかなえてくださいます。しかし、そのビジョンはみこころだから必ずかなわなければいけないとばかりに、教会を人間的に努力させるならば、必ず破綻します。  ともかく、サライはこのように、神さまのビジョンがかなうために現実的な方法を選択してしまいましたが、それはアブラムも同じでした。アブラムがほんとうに信仰を貫徹させたならば、サライの申し出を断ることもできたはずです。しかしアブラムは、サライの言うなりになってしまいました。  ここで、ハガルの気持ちを考えてみましょう。ハガルにとってサライは、どこまでも服従すべき存在でした。それは奴隷という立場にあるからです。しかしハガルはみごもりました。これはどういうことを意味しているでしょうか? ハガルがサライになり代わり、アブラムの跡継ぎを産む、つまりは星のごとく増やされる約束の子どもたちの母となることを意味していました。少なくとも、この時点ではそう思われていました。  しかし、ハガルがそのような立場になれたのは、第一に、本来はその立場になかったのに、アブラムが召し入れてくれたため、そして第二に、そうなるようにサライがアブラムに召し入れさせてくれたためでした。それなのにハガルは、主人サライを軽く見るようになりました。もう、主人として接さなくなったということです。もしかするとハガルはサライに対し、アブラムの跡継ぎをみごもった以上、あなたではなく私こそが正妻であるというような態度さえ示したかもしれません。  耐えられなくなったのはサライです。それはそうでしょう。このようなことになったのは、もとはと言えば自分がけしかけたことに始まるからです。しかし、サライはこのようなことを言いました。5節です。……サライは、自分がこのように悲惨になったことを、アブラムのせいにしました。実際、新改訳聖書の以前の訳では、「あなたのせいです」と訳しています。まるで、アブラムがハガルをみごもらせたことが、本来アブラムの正妻として保障されるべき自分の立場を脅かしたかのように、サライは抗議しています。サライはまた、主が私とあなたの間をおさばきくださいますように、と言っていますが、これは一見すると主のご主権に委ねているようでも、実際には、怒りに駆られて発したことばです。神さまの御目から見ても、私は間違っていない、間違っているのはあなただ、と言っているわけです。  しかしアブラムは、ここでサライのことばに折れました。それは、アブラムにとって正妻なのは、ハガルではなくサライなのだということを、はっきりさせるためでした。それでサライは、ハガルを苦しめたとあります。これは、アブラムの権威の後ろ盾があった上での、サライによるパワー・ハラスメントです。  ハガルはこのとき、あらためて自分の立場が正妻ではなく、しもべの立場であることを思い知ったことでしょう。しかし、サライのパワハラは苛烈を極めました。ハガルはついにアブラムのもとを逃げ出しました。  しかし、ここで私たちは、このような状況の中でもなお逆転のみわざを行なってくださる、神さまのみこころにこそ目を留める必要があります。主の使いがハガルに現れ、声をかけました。「あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」ハガルは、どこから来たと答えましたか。「私の女主人サライのもとから逃げているのです。」サライはここで、自分にとって主人はやはりサライであることを告白しています。本来ならば自分はサライのもとにいるべきだが、訳(わけ)あってサライのもとから逃げ出さなければならなかったということもまた告白しています。  そんなハガルは、どこへ行くかと問われて、何と答えようとしたのでしょうか。その問いに「私の女主人サライのもとから逃げた」と語ったのは、やはり自分の行くべき場所は、サライのもとであることを、心のどこかでわかっていたからではないでしょうか。ハガルのその答えに、主の使いは語りかけました。9節です。……そのように、本来いるべき場所で身を低くして生きることにより、主への従順を実践しなさい、ということでした。  もしかすると、こんにちの人権という観点を一方的に適用すると、主の使いの語ったこのことばは、理不尽に思えるかもしれません。奴隷として身を低くして生きることを、神さまのみこころとして聖書は推奨しているのか! ですとか。しかし、そうではないのです。まず、ハガルは守られる必要がありました。それは同時に、ハガルの胎内にいるアブラムの子どもが守られるということでもありました。荒野に妊婦がひとりいるということは、どれほど大変なことでしょうか。そして、もしその過酷な状況のせいで流産でもしたら、その責任をアブラムも、サライも負うことになります。しかし神さまはそういうことのないように、ハガルをいちばん安全な場所、アブラムのもとに遣わされました。そのことによりアブラムの子どももまた守られることになりました。 そして、ハガルをみごもらせてくださった神さまには、失敗というものはありません。11節、12節をお読みしましょう。……イシュマエル、という名前は、神は聞く、という意味です。神さまは人間の意識や感情と関係なく、一方的にお語りになったり、みわざを行われたり、というお方ではありません。現実に苦しんでいる人、つらい思いをしている人のその嘆き、うめきを聞いてくださり、ふさわしくみわざを行なってくださるお方です。たしかに、ハガルとイシュマエルから生まれた子どもたちは、神の民として選ばれるというその約束を、受け取れない民であったかもしれません。 しかし、神さまはこのイシュマエルの子孫も数えきれないほど増し加えると約束してくださいました。神さまはこのようにして、アブラムの不信仰と不従順ゆえの失敗さえも益にしてくださいました。ハガルは、主の使いのこの語りかけに、力を得ました。13節をご覧ください。ハガルは神さまに向かって、あなたさまはエル・ロイです、ご覧になる神さまでいらっしゃいます、と呼びかけています。イシュマエルという名前をつけることで、主は聞かれると告白し、さらにエル・ロイと呼びかけることで、主はご覧になると告白する、ハガルはなんと、このような逆境の中にあって、祈りを聴かれ、自分の全存在をご覧になってくださる神さまを体験したのでした。それがどれほど彼女の人生に大きな影響を及ぼす体験だったかは、その出会いを体験した井戸に「べエル・ラハイ・ロイ」、生きて私を見てくださる方の井戸、と名づけたことからも明らかです。 これで、ハガルは恐れることはなくなりました。このようにお交わりを持ってくださった神さまのみこころが、サライのもとに戻って仕えることであると受け取ったハガルは、サライとアブラムのもとに戻りました。そして、ハガルは男の子を産み、アブラムはその子に、神さまがハガルに示されたとおりの名前、イシュマエルと名づけました。この時すでにアブラムは86歳、充分に奇蹟といえる出産でした。 ハガルは、主のビジョンを人間的な方法で実現させようとした人たちの中にあって、犠牲の羊のような役割を強いられた女性でした。人間的に見れば少なくともそうです。アブラムにとっては奇蹟のようだった、男の子を宿すという特権を得たにもかかわらず、妻として振る舞うことが一切許されず、挙句の果てに荒野へと逃げだすという……しかしハガルは、神さまが祈りを聞いてくださるお方であることを体験しました。神さまが自分の全存在を見てくださるお方であることを体験しました。何よりも、神さまご自身を体験しました。強い権力に任せて、「主がおさばきになりますように」と口走ったようなサライよりも、よほどよく神さまを体験していたのでした。 私たちは、祈りが聞かれていると信じていますでしょうか? 神さまが自分のことを見てくださっている、顧みてくださっていると信じていますでしょうか? そのような信仰は、もしかすると、生活が安定しているときにはなかなか生まれてこないものかもしれません。あるいは、仮に自分がよくない状況に陥っていたとして、それを神さまや周りのせいにしていたら、なかなか信じられないかもしれません。しかし、そのような私たちのことを、なお神さまは見つめてくださっていますし、私たちの祈りを待っていらっしゃいます。 一方で私たちは、祈りがかなえていただくまで、忍耐して待つことも時には必要になるでしょう。自分にはビジョンが与えられていると思っていても、そのビジョンがかなうことがほんとうに神さまのみこころであることを教会のみなが信仰によって受け止めるまで、時にはそれ相応の時間がかかることも有り得ます。 私たちは失敗もします。その失敗のせいで、私たちこそが、傷を受けた人となることも有り得ます。そのようなとき、私たちは神さまから逃げ出したくなるかもしれません。しかし、そのような私たちの祈りを聴いてくださり、私たちの全存在に目を留めてくださる神さまを、そのときこそ体験し、神さまとの交わりをそのような危機的な状況にあるときこそ結び直す私たちとなるように、祈ってまいりたいと思います。

主が結ばれた契約

聖書箇所;創世記15:1~21 メッセージ題目;主が結ばれた契約  信仰は私たちの目から見れば、からし種のように、あるかないかわからないほど小さなものかもしれません。けれども神さまの御目には、大きく育てようとのみこころが注がれているものです。私たちは自分の小ささではなく、神さまのみこころにこそ目を留めてまいりたいものです。   さて、今年に入ってから私たちは、アブラム、アブラハムをモデルにして、信仰というものについて学んでいます。信仰によって歩むことを志す私たちにとって、アブラハムは素晴らしいモデルです。本日の箇所は特に、神さまがアブラムと契約を結ばれるという、だいじな内容を扱っています。ともに見てまいりたいと思います。 アブラムは、戦争を通してロトを助け出したそのできごとのあと、神さまの御声を聞きます。――アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。―― アブラムは、御声を聞く人でした。それは神さまが特別にアブラムをお選びになり、使命を与えられた証拠でもあります。この地上に普通に生きている人は、創造主の御声を聞かなかろうと、普通に生きています。しかし神の人、信仰の人は、御声によって生きるべく召されています。これが世の人とのちがいです。 しかし、2節をご覧ください。……アブラムはみことばに唯々諾々と従ってはいませんでした。現実がありました。もう、子どもをもうけることもできないほど高齢になった。そればかりか、自分自身がもう死にそうになっている。それでも神さまが跡継ぎを備えていらっしゃるというならば、それは子どもではない以上、家のしもべであるにちがいない。跡継ぎとなるのは、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか、と、神さまに問うています。 しかし神さまはアブラムに、みことばをもって正確な導きをくださいました。4節です。……神さまのみこころはあくまで、アブラムから生まれる者が跡を継ぐ、ということです。より正確に言えば、アブラムがその妻であるサライとの間に男の子をもうけ、その子が跡を継ぐ、ということです。 しかしもう、ここまでになると、人間業ではどこまでも不可能です。アブラムはもう、子どもをもうけるどころか、死にそうな年齢になっていますし、サラももともと不妊の体質だったところに持ってきて、年齢まで行ってしまっています。さらに、もし万が一それで妊娠ができたとして、生まれてくる子どもが子孫をなせる男の子だということは、もはや神さまのご介入なしには決して可能なことではありません。 主はアブラムに、そのようなことをも信じ受け入れよと迫られ、さらにアブラムを天幕の外、いちめん星の埋めつくす夜空の下にアブラムを連れ出されました。5節です。……私は以前神学生のとき、奉仕教会だったサラン教会において、ホン・ジョンギ先生という副牧師の先生のもとで弟子訓練を受けておりました。そのコースの中でホン先生は、アブラハムの歩みについて、一言で総括していらっしゃり、それを折にふれておっしゃっていたものでした。それは、「アブラハムの歩みは、神さまに説得される歩みだった」ということです。 全能の創造主であるわたしがあなたを選んだのだよ。わたしにはできないことは何もないことを、信じてみなさい。この満天の星を創造したわたしに、できないことがあると思うか? このわたしがあなたを選び、あなたから、わたしの民族を生まれさせるのだよ――。 みなさんは、夜空を埋めつくす星をご覧になったことがあると思います。あれを見ていると、被造物である私たちのちっぽけさ、それでもそのようなものに特別に目を留めてくださっている神さまの偉大さを思うものです。星のひとつひとつよりもはるかに値打ちのあるひとりひとりを、この私を通して生まれさせてくださるのか……! 圧倒される思いだったことでしょう。 そしてついに、6節です。アブラムは主を信じました。そしてご覧ください。このように、主のみことばをみこころを信じ受け入れたことを、神さまは義としてくださったのです。すなわち、みこころにかなった正しいことと認めてくださったのです。私たちが神さまによって正しい者、みこころにかなった者と認めていただくのは、ただ信仰によることです。神さまへの献身とか、従順とかいったことは行いの領域であり、これらはすべて「信仰」のあとについてくることです。 アブラムもこのようにして、信仰をもって神さまの自分に対するみこころを受け入れました。けれどものちの日に、その信仰を働かせないで、妻のサライではなくハガルとの間にイシュマエルをもうけるという不従順へと走り、その結果たいへんに苦しむことになりました。しかし、それだからといって、神さまはアブラムのことを不信仰だとさばき、祝福の源としての権限を取り上げられたのでしょうか? 決してそんなことはありません。アブラムの側が不信仰、そして不従順に陥ろうとも、ひとたび神さまを信じたアブラムを、神さまは決してお忘れにならず、またお見捨てにならなかったのでした。 私たちにしてもそうです。不信仰、不従順になるときはあります。自分でもよくないとわかっていながら、そうなってしまうことのなんと多いものでしょう。しかしここは、神さまがそのような私たちの信仰を認めてくださり、それゆえに正しい者と認めてくださる、神さまのその真実さにこそ目を留めるべきではないでしょうか。私たちは不確かでも、神さまの真実は変わることがありません。 神さまはそのようにして、アブラムを義と認めてくださいました。そして神さまはアブラムに、何と語ってくださいましたでしょうか? 7節です。神さまはご自身のことを、なんと紹介していらっしゃいますでしょうか? アブラムを召したお方、アブラムを導かれたお方、そして、アブラムに約束の地を与えてくださるお方として、ご自身のことを紹介していらっしゃいます。神さまとは、そういうお方なのです。 しかしアブラムは、神さまご自身がそのように示してくださっても、なお充分に信じることができませんでした。8節です。アブラムは確かにみことばを信じてはいましたが、盲信するように、無批判に思考停止していたわけではありませんでした。まだこの時点で疑問がありました。しかし、充分に信じられなければ、何度でも神さまにお伺いしました。この姿勢はとても大事です。 さて、アブラムがそのように食い下がると、神さまはまたもアブラムを目に見える形で説得されました。9節です。家畜は真っ二つに切り裂かれました。契約が結ばれるために生けるものの血が流されたのです。神さまと御民の間に、いのちが仲立ちとなりました。また、このようにして真っ二つにいのちあるものが切り裂かれるということは、この契約を守らなかったならば、守らなかった者は真っ二つにされるという意味が込められています。神さまはご自身の真実さにかけて、このようにアブラム、そしてのちの子孫と契約を結ばれたのでした。アブラムにしても、このような形で神さまと契約を交わすことには、相当な覚悟が必要だったことでしょう。 しかし、天からの炎はまだ降りてきません。アブラムはその炎を今か今かと待ち望んでいました。しかし、そのとき降りてきたのは天からの炎ではなく、肉食の猛禽でした。神さまにささげるべきいけにえを狙って降りてくるわけです。アブラムは果敢に体を張って追い払いました。信仰の人のこの姿勢は、私たちも見習うべきでしょう。この世には、神さまに対して私たちがおささげするものを、当然のように狙う勢力が一定数存在します。私たちが献金としてとっておこうとするお金や、礼拝のために用いようとする時間を、当然のように奪い取ろうとする勢力、礼拝よりもこの世のことを優先させようと私たちに迫ってくる勢力……私たちがこのような勢力に勝つのは容易なことではありませんが、少なくともアブラムの、恐ろしい猛禽から必死に契約のいけにえを守る姿を思い、私たちも神さまの救いの恵みに少しでもお応えする者として、できるかぎりのことができるように、祈ってまいりたいものです。 しかし、心は燃えていても肉体は弱いものです。日が沈むにしたがって、とうとうアブラムは眠くなりました。そのとき、彼には大いなる暗闇の恐怖が襲いかかり、主の御声を聞きました。13節から16節です。 ……なんと、はるかあとの時代の預言が臨みました。イスラエルの民がはるかの地にエジプトの地で400年にわたって寄留者となり、奴隷として苦しむ。それはなんと受け入れがたい未来予測でしょうか。「しかし」、このことばが大事です、主がこの国エジプトをさばき、イスラエルに出エジプトを果たせられる、のちの日にはその民がこの地カナンに戻ってくる……このことも同時に語られました。 私たちはここで、神さまは愛する民に苦難を与えられる、そしてあえて沈黙を守られるお方である、ということを学ばせられます。神さまはもちろん、御自身の愛する民に祝福を与えられるお方ですが、その祝福はときに、人間の側で思い描いているような祝福と異なる場合があります。気持ちよさや平安、かっこよさといったものと対極な、できれば避けたいようなことが、神さまのお許しの中で行われることがあると、私たちは心に留める必要があります。 しかし、そのような厳しい思いを私たちにさせられようとも、神さまは変わらず、愛なるお方です。私たちがつらい思いをしていれば、その状況を許しておられる神さまは愛がないなどと、そんなことを考えてはなりません。ただ、そのような状況で神さまの愛を見いだすのは、とても難しいことです。苦しいことです。しかしそのことによって、人は自分の弱さを認め、神さまに拠り頼むようになり、世的な祝福に左右されない強靭な信仰を持つようになるのではないでしょうか。そうだとすると、これこそ祝福というべきです。 それでもその祝福に気づかせていただくまで、多くの苦しみを体験しますし、もしかしたらたくさんの涙を流すかもしれません。そんな私たちであると知るならば、ほかの兄弟姉妹に寄り添ってもらうことも必要になりますし、また、ほかの兄弟姉妹に寄り添えるように成長させてもらえるでしょう。こうして、私たちはキリストの愛をその身に備える者とならせていただくのです。 アブラムは、子孫の受ける苦難を見ました。しかしその末に、子孫が大きな祝福を受けるのを見ました。その苦難の長さが400年ということは、人の一生よりはるかに長いですし、何代にもわたって苦難を体験するということも意味します。私たちももしかすると、この世では信仰のために犠牲にした分の気持ちよさなど、満足のいく形で体験できないかもしれません。しかし、私たちのほんとうの満足は、この世の終わりのあとで用意されている天国にて永遠に味わうものです。この世においてはその永遠に備えて、種蒔きに労するのみであるかもしれませんが、神さまの待っておられる未来を思うならば、その労苦はきっと報われるという信仰が生まれ、日々の歩みに力を得られるのではないでしょうか。 そしてすっかり暗くなったとき、神さまがアブラムと契約を結ばれたしるしとして、煙の立つかまどと、燃えるたいまつが、切り裂かれたいけにえの間に通り過ぎました。神さまの臨在が火をもって現れることは旧新約問わず聖書によく登場しますが、ここでも神さまは火をもって臨在されたのでした。そして神さまはアブラムと、目下10の部族の住む広大な地を子孫に与えられることを約束してくださいました。 信仰というものは、人間的な積極的思考と似ているようで、その内容は大きく異なります。最大のちがいは、信仰によって実現することを願う神さまのみこころは、しばしば人間的な祝福、繁栄であったり、安楽であったり、そういったものがかなうこととはかぎらない、ということです。しかし、私たちはそれでがっかりする必要はありません。アブラムがこの地上で神さまの臨在にふれる、至上の祝福を手にすることができたように、私たちはみことばをお読みすることで、そしてイエスさまの御名によってお祈りすることで、神さまが私たちに与えてくださっているそのみこころを知ることができる、そういう者としていただいた祝福をいただいています。 この世のいかなる祝福や成功も色あせるほどの祝福です。この世の成功者のいったいどれだけの人が、そのまことの創造主である神さまと交わることができているでしょうか? その手にしている富が神さまからの祝福であることを受け止め、神さまに感謝の祈りをささげているでしょうか? しかるに私たちはそれができているということは、これはアブラハムにも匹敵する大いなる祝福です。 私たちは不信仰に陥ることもあるかもしれません。私たちは厳しい体験をするかもしれません。しかしそのようなとき、いけにえを切り裂いて血を流すように、イエスさまを十字架につけてくださり、十字架の上で血潮を流すことによって私たちと永遠の契約を結んでくださった、神さまのみこころ、私たちを神の民としてくださった事実に目を留める者となりたいものです。

「神への従順」対「世への従順

聖書箇所;創世記14:1~24 メッセージ題目;「神への従順」対「世への従順」  私が韓国で神学の勉強を始めるまでの間、献金というものについてそれほどちゃんとした考えを持っていませんでした。そのような中、神学校の寄宿舎で同じ部屋になった関西出身の方と、ある日話題がたまたま献金のことになったとき、その方が「什一献金はささげなあかんもんや。什一献金は、いのちや」とおっしゃったことに、びくっ、としたものでした。それ以来、どの韓国教会においても普通に行なっている「什一献金」というものを、自分も実践することにしたのでした。  みなさんは以前から、月定献金という形で収入の一部を定期的にささげることを実践してこられたわけですから、今日のメッセージは献金の奨励として行うわけではありません。今日のメッセージのタイトルは、「『神への従順』対『世への従順』」とつけさせていただきました。アブラムにとっての神との関係、そしてそれに対照的な世との関係がいかなるものであったかを見ることにより、私たちの働かせるべき信仰のあり方を考えてまいりたいと思います。  先々週も学びましたとおり、ロトは一見すると得をする選択をして、ヨルダンの低地、ソドムへと引っ越しました。しかし聖書の評価に従うと、ソドムの人々は邪悪で、主に対してはなはだしく罪深い者たちであった、ということでした。ソドムは、都市そのものがひとつの王国をなすものであり、その都市全体、国全体が極めてひどい状態にあったというわけです。それゆえ神さまは、このソドムをことごとく、天の火をもって滅ぼされました。  このソドムの王ベラはもともと、エラムという国のケドルラオメル王に仕えていました。ケドルラオメルは勢力があり、ソドムの王のほかにも、やはり天の火によって滅ぼされたゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ベラの王を12年にわたって支配下に置いていました。しかし彼らは翌年、ケドルラオメル王に謀反を起こし、その支配から脱することを企てました。  これに対しケドルラオメル王は、シンアル(シュメール)、エラサル、ゴイムのそれぞれの王と連合軍を組織し、彼ら5人の王の連合軍との戦争を始めました。この連合軍は彼らと戦闘を繰り広げることになる戦場に至るまで、レファイム人、ズジム人、エミム人、フリ人、アマレク人、アモリ人と、片っ端から諸民族を打ち破りながら進んできました。非常に強い軍隊だったことが窺い知れます。  そして、シディムの谷で戦争が繰り広げられたとき、ケドルラオメルの軍のほうが優勢になり、ソドムの王とゴモラの王はアスファルトの穴に落ちて出られなくなりました。その間にケドルラオメルの連合軍は、ソドムとゴモラから財産や食料を略奪しました。それだけではありません。ソドムにはロトが住んでいましたが、ロトは拉致され、その豊かな財産もろとも奪われました。自分のために豊かな土地を選んだ近視眼的な選択が、このような悲惨な結果を生んでしまったのでした。  さて、この知らせはアブラムに届きました。アブラムはかつて、配下の者たちがロトの群れと争いを起こしたことに対し、それはよくないので別々の道を行こうと提案したわけで、もはやロトとともに歩まず、カナンの地を切り開く立場にありました。そんなアブラムは、甥の窮乏を見ても黙っていられたでしょうか? そんなことはなかったのです。あの愚かな選択の責任をロトに取らせて自分は知らん顔とはならず、自分のところで育てた318人の屈強な者たちを伴って、ケドルラオメルの連合軍に戦いを挑んだのでした。  これは、私たちのモデルと言うことができるでしょう。私たちの信仰生活というものは、自分だけが祝福されて終わり、というものであってはならないはずです。兄弟姉妹の窮乏を見て、私たちは心が動かないでいるでしょうか? ヤコブの手紙2章14節から17節には、このようなことばがあります。――私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。  私たちはもちろん、よい行いを積み重ねることで天国行きの切符を手にするわけではありません。そんなことは不可能なことです。しかしそれなら、よい行いは必要ないかというと、決してそんなことはありません。私たちは「救われるために」よい行いをするのではなく、「救われているから」よい行いをするのです。この違いは、ご理解いただけると思います。私たちのことを救ってくださったイエスさまのそのみこころに従おうと、少しでも隣人、兄弟に愛を施そうとなってしかるべきではないでしょうか? もちろん、なかなか難しいことではありますが、ここはひとつ、ロトのために一肌脱いだアブラムを模範としてまいりたいと思います。  結局、アブラムはケドルラオメルの連合軍を打ち破りました。そして拉致されていたロトをはじめ、奪われた人々や財産を取り戻しました。しかし、この戦争は侵略のための戦争ではありません。ロトを救いたい、ただそれが強い動機となって行なったものでした。ロトのたましいが救われるために、多くの血が流されたのでした。  ロトの姿を考えてみましょう。これはもしかすると、私たちの姿ではなかったでしょうか? 私たちは神さまのみこころを知りながら、それに知らんふりをして自分勝手な道を行きます。そのために迷います。わざわいにも遭います。損害も被ります。しかし、そのような私たちであることを主はすべてご存知で、そんな私たちであっても決して見捨てず、助けてくださいます。あの自分勝手なロトが救われるために多くの血が流されたように、私たちが救われるために、なによりも尊い、イエスさまの血潮が流されたのです。このことを私たちはどれほど感謝しているでしょうか? 感謝することにも鈍感なのが私たちです。しかし、それにもかかわらず、主はなおも私たちを愛してくださいます。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりとし、国民をあなたのいのちの代わりとする。……イザヤ書43章4節のみことばにあるとおりです。私たちはどれほど愛されているか? 神の子なるイエスさまのいのちが代わりとなるほどです。この罪人をそれほどまでに愛してくださった神さまの愛を思う者となりたいものです。  さて、今日特にお話ししたい内容は、ここからです。アブラハムが戦争という一大イベントを終えてから、「神との関係」また「世との関係」をいかに持ったか、ともに見ることによって、私たちはどのように信仰を働かせる必要があるかを見てみたいと思います。  戦争を終えたアブラムを、2人の王が出迎えました。ひとりはソドムの王ベラです。彼は戦いの中で戦場に点在するアスファルトの穴に落ち込み、その間に人々や財産が敵に奪われるという踏んだり蹴ったりの状態に陥りましたが、そこから救われ、自分のいのちも助かり、財産も回復しました。そんな彼がアブラハムにどんな態度を取ったかは、のちほど見てみましょう。  もうひとりはサレムの王メルキゼデクです。メルキゼデクはパンとぶどう酒でアブラムを迎え、アブラムはすべてのものの十分の一を彼に与えました。アブラムがこのようにメルキゼデクに祝福され、アブラムがメルキゼデクに十分の一を与えたことは、聖書を貫くメシアなるイエスさまの到来を語るメッセージに鑑みると、きわめて重要な意味を持っています。このメルキゼデクについては聖書は多くを語りませんが、その存在は詩篇110篇、そしてヘブル人への手紙の5章と7章に語られています。 詩篇110篇は、ダビデ王に向けた主のみこころを語る詩です。その中の4節のみことばに、このようにあります。――主は誓われた。思い直されることはない。「あなたは メルキゼデクの例に倣い とこしえに祭司である。」つまり、ダビデが王であるのと同時に祭司であることを、神さまご自身が変わらない誓いをもって定められたということです。 この事実は、ダビデの子孫としてこの地にイエスさまが来られたことによって成就しました。ヘブル人への手紙7章は、この詩篇110篇4節のみことばがイエスさまにおいて成就したことを語っています。おうちに帰ったら、ぜひヘブル人への手紙7章をお読みいただけたらと思いますが、このみことばをお読みすると、律法によって立てられた祭司よりも、朽ちることのないいのちの力によって立てられた祭司が優先することが語られています。 律法において祭司としてレビ族が立てられるはるか以前、そのレビの先祖にあたるアブラム、アブラハムが、信仰をもってメルキゼデクを祭司として認め、その信仰告白として十分の一を与えている以上、レビ族を祭司として立てた律法を守り行うことによって人は義と認められるのではなく、アブラハムの信仰に倣い、人は信仰によって義と認められることが明らかになっているわけです。そのようなことを踏まえると、アブラムがメルキゼデクに十分の一を与えたことは、信仰によって義と認められるという観点からも、きわめて重要なことであると言えます。 そうです。十分の一はそういうわけで、信仰によって義と認められたことと深い関係があります。どことは申しませんが、牧師の権限の強い教会では、十分の一献金をささげなければ地獄に落ちるかのようにおどかす教会もあったようですが、それは非常に問題があります。それでは、天国とは信仰によって入る場所ではなく、お金で買う場所であると言っているのと同じことです。十分の一をささげることは信仰の告白以上のものであってはなりません。多く献金するのは結構なことなのでしょうが、それは絶対に誇りとすべきことではありません。私たちの誇りとすべきはキリストの十字架のみです。 メルキゼデクがキリストの予表であったことはヘブル書7章も証ししているとおりですが、この創世記14章をお読みしても、いろいろわかります。メルキゼデクという名前は「私の王は義である」または「義は私の王である」という意味で、すなわち「義の王」となります。義の王とはまさしくイエスさまのことです。また、彼はサレムの王でしたが、サレムとは平和という意味で、平和の君なるイエスさまの予表です。そしてサレムとは、のちのエルサレムと推測され、イスラエル建国以前のエルサレムにおいてすでに王であった、ダビデに優先する存在であったことがわかります。イエスさまはメルキゼデクに言及された同じ詩篇110篇の1節を解き明かされ、ダビデがキリストを主と呼んでいるならば、どうしてキリストがダビデの子孫なのか、と語られましたが、メルキゼデクとはダビデのすえにして先在する祭司なる王であったことを考えると、これもキリストの予表と言えます。 何よりも、メルキゼデクはアブラムのことを、パンとぶどう酒で迎えました。イエスさまが定められた主の晩さんへとつながる形で祝福しています。まさしく、アブラハムを父とするすべての主の民は、イエスさまのみからだなるパンと、血潮なるぶどう酒で、まことのいのちの祝福をいただきます。私たちはこれこそ祝福であることを、信仰によって受け取らせていただくのです。 こうして見るとアブラムは、メルキゼデクにはるかキリストを仰ぎ見ていたことがわかります。アブラムは信仰の父と唱えられますが、単なる信仰ではありません。イエス・キリストへの信仰を持っていたのです。いわんや私たちは、聖書によってはっきり、信仰の対象がイエス・キリストであることが明らかになっているわけですから、どれほどイエスさまから目を離さずに生きていく必要があることでしょうか。 パンとぶどう酒にあずかること、ささげものをすること、どちらも信仰告白です。やることで神さまに認められようとする宗教行為では決してありません。神さまはもうすでに、救いというかたちで、私たちにしてくださいました。あとはそれに対し、私たちが応答するかどうかにかかっています。パンとぶどう酒を受け取るのも、おささげするのも、私たちの信仰の応答として行うことです。 さて、これに対するソドムのベラ王の態度をご覧ください。ベラはアブラムにこんなことを言っています。21節を見てみましょう。……一見するとベラはもっともなことを言っているようです。まるで戦勝をもたらしてくれたアブラムに感謝するしるしとして、こう言っているように見えないでしょうか? しかしアブラムは、きわめてよこしまなソドムを代表するこの人物の心を見透かしていました。神さまに誓って、このベラからは何ももらうまい。 アブラムはその理由として、こう語っています。――それは、「アブラムを富ませたのは、この私だ」とあなたが言わないようにするためだ。もちろん、戦争に必要な兵士の糧食の分、アブラムの一族ではないが行動をともにしてくれたアネル、エシュコル、マムレの分は、アブラムは正当に要求しました。しかし、自分の財産としては、ソドムからは何一つ要求しない潔癖さを貫きました。 もし、ソドムの王に「アブラムを富ませたのはこの私だ」と言わせたとしたら、どうなるでしょうか。アブラムとアブラムにつく者、すなわち神の民の守護者が、ソドムということになります。神さまではないのです。あの忌まわしいソドムが、神の民の守護者となる。こんなことはあってはならないことです。アブラムはそういう点からも、とても賢明な選択をしました。 私たちのことを考えてみたいと思います。私たちにとっての守護者はだれでしょうか? あるいは、何でしょうか? もし、何者かが、私たちのことを神さまに従わせないことを当然のことと見なし、私たちのことを支配しているならば、私たちはそこから脱し、ただ神さまにだけ従えるように祈っていく必要があります。 私たちがもし、この世と調子を合わせて生きたとして、この世は私たちに感謝するでしょうか? 私たちが譲歩したからと、今度は自分たちが譲歩して、教会に来てくれたり、イエスさまを信じてくれたりするでしょうか? そもそもこの世というものは、私たちが厚かましくないのをいいことに、私たちに対し、当然のようにどんどん支配を強めてきます。神に敵対する自分たちの行いを達成するために、私たちから神への従順を抜き取り、自分たちに従わせる、手足のように用いる、これが私たちの生きている世の中というものです。 しかし、私たちが世の中に屈従して不自由に生きることは、果たして世というものの責任なのでしょうか? ローマ人への手紙12章2節をおひらきください。これはみなさんでお読みしましょう。 ……神さまに変えていただくこと、これは世に調子を合わせずに生きることが要求されている私たちへの「命令」です。私たちはですから、みことばをお読みすることでみこころを学び、お祈りすることで聖霊さまに人生に介入していただくことが必要になります。世に調子を合わせないのは、神さまとの関係にあって、私たちの責任です。 私たちがキリストの似姿として変えていただくこと、そのことで私たちは世に勝利できます。世への従順は神への従順へと変えられていきます。神への従順の歩みをともにする者たちへと、私たちは変えられてまいりましょう。私たちにとってはだれが事実上の主人でしょうか? ソドムが主人になることを拒否し、主にお従いしたアブラムの模範に倣いましょう。

赦しの確信はまことの礼拝へ

聖書箇所;ルカの福音書7:36~50 メッセージ題目;赦しの確信はまことの礼拝へ  世界の歴史には、光があるところに影があるものです。もちろん、あえて言うまでもないことですが、職業に貴賎なしというのは建前で、実際には、手を染めるべきではないと見なされる仕事というものが存在します。それが何であるかということは、具体的に私が申し上げるまでもなく、私たちは共通理解として持っていると思います。いろいろイメージできると思います。  イエスさまの周りにいた人には、そのような、悪い、と周りに認識されていた仕事に就いていた人が結構いたものでした。そもそも、最初にイエスさまを礼拝するために神さまに呼ばれたのは、野の羊飼いでした。天使の歌声を聞いた羊飼いなどというとロマンチックに聞こえますが、実際は、社会からのけ者にされて安息日を守ることもままならない者たちでした。ロマンチックとは程遠い、ならず者の集団、それが羊飼いです。しかしそんな彼らが最初にイエスさまを礼拝する栄誉にあずかったのでした。  今日お読みいただいた箇所でも、イエスさまのそばにやってきた人がどのような人か、はっきり記しています。世の中の人は、そのような人を罪人扱いして、それ相応の接し方をするかもしれません。しかし、イエスさまはどのように接していらっしゃったでしょうか? 今日の箇所からともに学び、私たちに向けられたイエスさまのみこころを、ともに見てまいりたいと思います。  ひとりのパリサイ人が、イエスさまを食事に招きました。このパリサイ人の名前はシモンといいました。パリサイ人といえば、宗教指導者として律法を文字どおり守ること、守らせることにいのちを懸けた人であり、ストレートに神さまのみこころを語るイエスさまに敵対し、排除しようという思いでいっぱいの存在でした。ただ、パリサイ人はみんながみんなそうだったというわけではなかったようで、たとえばパリサイ人のニコデモという人物は、夜中にイエスさまのところを訪問して、教えを乞うています。  このパリサイ人シモンも、聖書で断罪される意味での反キリストの象徴としてのパリサイ人、というのとはややちがったようでした。もしかするとシモンは、パリサイ人にとって宿敵ともいえるイエスさまを食事に招くようなことをして、度量の広さを見せようとしたのかもしれません。ともかくシモンは、イエスさまを食事に招きました。  時にその町には、罪深いことで名の知れた女性が暮らしていました。遊女、つまり売春婦でしょうか? それとも、多くの男をたぶらかす、妖婦、でしょうか? はたまた、男を毒牙にかけて破滅させる、毒婦、でしょうか? ユダヤの社会には存在してはならないことになっている、口寄せや占いをする人でしょうか? 聖書はそこまで、この名もなき女性について詳しくは語りません。 しかし、ただでさえ女性の地位が低かった時代にもってきて、罪深いことで名が知れていたとは、この女性は、社会からどれほど低められていたことでしょうか。  そんな彼女は、この町にイエスさまがやってこられたといううわさを聞きました。イエスさまが入っていかれた先は、宗教指導者シモンの家です。わが身を思うと、とても入っていけない……しかし、そこにイエスさまがおられると知るや、彼女は恥も外聞も捨ててシモンの家に入りました。  それも、彼女は何も持たずに入ったわけではありません。香油を携えました。芳香を放つ油です。この香油は、このような女性でも人並みの結婚を夢見て、嫁入り道具として大事にしまっておいていたものかもしれません。とにかく、とても高価なものです。聖書を読みますと、イエスさまが十字架にかかられる直前に、そのような高価な香油をイエスさまのみからだに注いだ女性の話が出てまいります。この女性は、けっして安いとはいえない香油の壺を携えて、イエスさまのもとにやってきたのでした。  果たして、シモンの家で食卓に着いておられるイエスさまの姿を見るや、彼女は泣き崩れました。とうとうイエスさまにお会いできた! その感激はどれほどのものでしょうか! むかし、宣教団体のスタッフをしていらっしゃる方のメッセージを聴いたとき、その方がこんなことをおっしゃったのがとても印象に残ったものですが、こんなことをおっしゃっていました。「毎日のディボーション……ある日、この毎日お会いするイエスさまというお方は、総理大臣より偉い、天皇陛下より偉いお方だと気づかされました。そこから、私のディボーションは変わりました。」私たちが心にお迎えし、毎日お目にかかるイエスさまというお方は、それほど偉大なお方なのです。礼拝の導入讃美でも歌いました、「主の御前に立ち 驚き仰ぎ見る」……この「驚く」ほどすばらしいお方という気持ちをもって、私たちはいつも主の御前に出ていますでしょうか?  この女性には少なくとも、その感覚がありました。さて、私たちが食卓というと、テーブルについて椅子に座って食事をする、という感じでしょう。あのダ・ヴィンチの「最後の晩餐」も、そのように描かれているので、あたかも当時のユダヤではテーブルに椅子というスタイルだったように思えますが、あれは西洋的な創作です。イエスさまの伝記映画「ジーザス」を見てみますと、最後の晩さんでは、イエスさまと十二弟子が床の上に座って車座になっていますが、実はあれも正確ではないらしいです。当時のユダヤでは、床に横になって食事をしていた、というのが正解だそうです。実際、ヨハネの福音書を見てみますと、著者である使徒ヨハネがイエスさまの胸のところに寄りかかっていたという記述が出てきますが、それも彼らが横になって食事をしていたということを示しています。  この女性は、横になっておられたイエスさまの足もとに、後ろから近づきました。そして、涙を流してさめざめと泣きました。イエスさまの御足が彼女の涙でぬれたとありますが、彼女はイエスさまの御足を抱いて、その御足で涙にぬれた目をぬぐったのでしょうか。それとも、御足に顔がついてしまうほどにひれ伏したのでしょうか。 これほどまでにイエスさまの御足に近づいた彼女は、その御足に口づけしました。とても高価な香油の壺を割って、その香油をイエスさまの御足に塗りました。  彼女は、自分が何者かということを、世間から思い知らされながら生きていました。しかし、そんな彼女は、すべてをささげてもいいお方にはじめて出会うことができました。それはこの世的な男女の愛とはまったく次元の違う、神の愛により結びつく関係です。恥も外聞も捨てて御足を涙で濡らし、御足に口づけし、御足に自分にとって宝物である香油を塗る……私たちも、イエスさまを礼拝してはいるでしょう。しかし、もし目の前にイエスさまが現れたとして、ここまでの礼拝をすることができるでしょうか? できないとしたら、それはなぜなのでしょうか?  聖書を読み進めてまいりたいと思います。面白くないのはパリサイ人のシモンです。招いたのは自分ではないか。ところが、ここにやってきたこの女は何者だ。罪深いことで有名な女ではないか。その女のなすがままにさせているとは、イエスさまは何をお考えなのか。  私たちは、たとえば元暴力団員の宣教活動である「ミッション・バラバ」の話など、むかしいろいろと悪いことをしていたところからイエスさまを信じて救われたという人の証しを聞くのは好きでしょう。なにしろ面白いものです。しかし、そういう人が実際にそばにいて、一緒に礼拝をささげるとなると、私たちは大丈夫でしょうか? どんな過去があろうとも、イエスさまがその人を受け入れてくださっているから大丈夫、となれる方は幸いです。しかし人はときに、シモンのような反応を示してしまわないでしょうか? この人は罪人だ、の一点張りで拒絶するのです。  イエスさまは否定的な反応をするシモンに、必要な処方箋を施されました。イエスさまはたとえ話を語られました。41節と42節です。とても分かりやすい話です。1デナリが1日分の賃金だから、仮に1万円とすると、50万円と500万円のちがいになります。それは、500万円帳消しにしてもらった方が、50万円のほうよりも多く愛するに決まっています。早い話が、10倍愛します。  イエスさまは、当然の答えをしたシモンに対し、語られました。44節から47節です。  イエスさまはここで、何を問題にされたのでしょうか? イエスさまに対するシモンの態度です。特にこの聖書の記述では、シモンがパリサイ人であることをわざわざ断っているので、イエスさま、そして聖書は、パリサイ人という立場にある者全般の姿勢を問題になさっているとも言えます。  まず、シモンはイエスさまを迎えるにあたり、足を洗う水を出しませんでした。足を洗うのは、外から来た人を迎え入れるためにすべきことで、それは本来は奴隷の仕事でしたが、ともかく、シモンはイエスさまを家の中に招き入れた以上、イエスさまの足を洗ってさしあげてしかるべきでした。それをしなかったということは、イエスさまに対してその程度にしか接しなかった、ということです。口づけですが、これは現代日本のようなところにいるとなかなか理解できませんが、イエスさまの時代のユダヤでは親しさを表現する挨拶のしぐさでした。実際、聖書の中には口づけに関する描写があちこちに登場します。 しかし、相手の顔に実際に唇をつけるわけですから、相当親密な仲だからこそできる挨拶です。それだけに、アマサ将軍を暗殺するために口づけしようとしたヨアブや、兵士たちにイエスさまを逮捕させるために口づけを用いたイスカリオテのユダなどは、ほんとうに、してはならないことをした例であるわけです。しかしこれなどは、愛憎、ということばがあるように、憎しみや怒りの裏返しとしての口づけといえましょう。  それに比べるとこのシモンの場合は、口づけさえしなかったのです。彼はイエスさまのことを預言者と認めてはいたようですが、さしたる重要な関係を持つべき相手と思っていなかったと見受けられます。また、頭に油を塗るというのは、ユダヤのもてなしの習慣で、乾燥する気候の中を歩いて痛む髪の毛を潤してあげるという意味がありました。シモンがイエスさまにそれをしてあげなかったというのは、食事は振る舞ったかもしれなくても、ほんとうの意味でイエスさまをもてなそうとしていたのではなかったことを示しています。  つまりこのシモンの姿勢は、一見するとイエスさまに接しているようでも、実のところほんとうの意味で接しているわけではないわけです。この姿勢は、私たちにとっての反面教師とならないでしょうか? 形式的に礼拝すればそれでよしとする、形式的にお祈りすればそれでよしとする、形式的に献金すればそれでよしとする、形式的にディボーションや聖書通読すればそれでよしとする……そのような表面的なことで満足してしまうのが、私たちというものです。神々しいイエスさまを前にしているのだから、宗教的に振る舞えばそれでいいはずだ……私たちにとってのイエスさまとの交わりは、いつの間にかそのようなものになったりしてはいないでしょうか?  しかし、この女はちがいました。本来ならば水で洗いきよめるべきイエスさまの足は、シモンが洗ってくれなかったので、街道のほこりに汚れていました。それにもかかわらずこの女は、そのままのイエスさまの足に近づき、涙で濡らし、髪の毛でぬぐい、口づけして、オリーブ油どころではない、はるかに高価な香油を塗りました。  イエスさまの足……それは神の国をこの世界に宣べ伝えるために、直接この地の上を歩き回られた御足です。神の国を私たちこの地の者たちに実現してくださるために、イエスさまは神であられたのにその栄光を捨て、人として世俗のちりにまみれて歩まれました。そしてこの御足をイエスさまは、十字架に釘づけにされて血潮を流され、人の罪を完全に赦してくださいました。  この女性はたしかに、罪深いわが身を思ってイエスさまの御足のもとにひれふしました。しかしイエスさまは彼女のしたその行為を、それ以上の本質的な意味を持つものとして評価してくださいました。それは、やがてご自身が十字架によって人を完全に罪から救ってくださるという、そのことを彼女がおぼえて心からの礼拝をささげていることであるということです。ゆえにイエスさまは彼女に宣言されたのでした。あなたは多く愛したのですから、多く赦されています。あなたの罪は赦されました。あなたの信仰があなたを救ったのです。  私たちはイエスさまを愛したい思いでいっぱいでしょう。それはクリスチャンであれば、だれしも同じであろうと思います。 しかし、イエスさまの御目から見れば、シモンとこの女性の愛に違いがあったように、人それぞれの愛にも違いがあることを認めるべきです。  その違いはどこから生まれるのでしょうか? まずそれは、自らをどこまで罪人と自覚しているかです。シモンはパリサイ人であり、厳格にみことばを守る自分を正しいとする人でしたから、自分の罪深さなどとても目が留まらない人でした。これに対してこの女性は、人からそう見られる以上に、自らの罪深さをよく悟っていました。彼女はそれでも、イエスさまを愛したい、イエスさまに赦していただきたい、その思いだけで、傍目から見れば過激にすら思える礼拝行為に踏み切ったのでした。そんな礼拝をすることなどは、パリサイ人シモンには及びもつかないことでした。  そしてイエスさまはこの女性に、「あなたの信仰があなたを救ったのです」とおっしゃって送り出されました。ここで問題にされているのは信仰です。過激な行為をしたことそのものでイエスさまが評価なさったのではありません。行為さえよければ、というのでは、律法を厳格に守り行うパリサイ人でもよいということになります。イエスさまが問題にされたのはどこまでも、彼女の信仰でした。  彼女には、イエスさまならこの罪深い私の罪を赦してくださる、という信仰がまずありました。そこからイエスさまへの愛に満ちた礼拝が生まれました。信仰が愛の行いを生んだのです。  愛の行いに直結しない信仰は、ほんとうの意味での信仰ということはできません。愛の行いにつながっていかないならば、厳しい言い方になりますが、「信じているふり」または「信じているつもり」にすぎません。「ふり」や「つもり」にとどまるキリスト信仰に力がないのは当然のことです。  でも、この女性はちがいました。自分の罪のけがれをどこまでも悟るゆえ、その罪を赦してくださる唯一のお方と信じる、イエスさまに一心に駆け寄り、一心にささげる愛の行いができたのでした。私たちは、社会的地位のある立派な人と、下賤な罪人のどちらになりたいかと聞かれたら、百人が百人、社会的地位のある立派な人と答えるでしょう。しかしイエスさまにかかれば、信仰があるかないかをご覧になり、下賤とされている罪人を社会的地位のある人に勝利させてあまりあるのです。その勝利と敗北はどれほど違うのか? 永遠のいのちがあるかないかです。罪の赦しがあるかないかです。天国があるかないかです。  要は私たちが、イエスさまがいなければとても生きていけない最悪の罪人であるという自覚を持ち、イエスさまにすがることです。この女性のような、イエスさまの御足にすがり、泣いてくずおれるがごとき礼拝をささげることです。もちろん、これはたとえであって、実際に泣いてくずおれてみてください、と言っているわけではありません。この女性は泣いてくずおれてイエスさまに礼拝をささげましたが、私たちの愛の応答もそういう形でなければならないということではありません。 御霊の与えてくださる、ほんとうの感激に満ちた礼拝は、人の演技や見せかけで何とかなるものではありません。形だけ感激して満足するのでは律法主義と同じです。盛り上がった感情に満たされようと礼拝に過剰な演出をするのも同じことでしょう。そういうことをする必要はありません。  ただし私たちは、礼拝をささげるにあたりましては、ただ一つ必要なものがあります。それは「小羊なるイエスさまの血」です。神さまがエジプトに下された死の怒りを過ぎ越された条件は、それぞれの家の門に塗られた羊の血でした。私たちも罪人のゆえに受けるべき、神さまの怒りを過ぎ越していただくために、まことの小羊イエスさまがどんなに苦しんで、私のために十字架の上で血潮を流してくださったか、そのことを覚えて礼拝をささげるのです。人間的な宗教心を満足させる、などという次元で礼拝をささげるのではないのです。必要なのは罪の自覚と、そのためにイエスさまが地塩を流してくださったことを信じ受け入れる信仰です。  その信仰は、私たちの間に愛のわざを生みます。イエスさまを愛するゆえに、兄弟姉妹を愛するのです。この愛し合う姿はこの世に証しとなり、人々は私たちのこの姿を見て、主を礼拝することの素晴らしさを知るようになります。  祈りましょう。神を愛し、人を愛する価値すらない私たちのことを、イエスさまが愛し、かぎりなく赦してくださったと信じる信仰をもって、主のみもとにまいりましょう。