つまずかせない教会形成を目指して

聖書箇所;コリント人への手紙第一10:31~33 メッセージ題目;つまずかせない教会形成を目指して 本日のメッセージは、結論から先に申し上げたいと思います。「人のつまずきになってはいけません」、これだけです。それは未信者に対してもですし、私たち教会内部においてもです。 本日の礼拝は、集まれる方で集まりましょう、主の晩さんも執り行わないことにしましょう、と、昨日、一斉メールでお伝えしました。このようなとき、クリスチャンの意見もいろいろだと思います。礼拝そのものを開催すべきでない、実際に日本ではカトリックも含め、そのような教会がいくつも現れているので、現実的に過ぎる判断とはいえません。一方で、このような時こそ信仰を働かせて、ヘブル人への手紙10章25節のみことばを実践して、ともに集まろう、ですとか。それぞれに聖書的な根拠があるので、どれが正解、どれが間違い、とは言い切れません。おそらく、どんな決断を下したとしても、全員を納得させられるだけのことはできないと覚悟すべきなのかもしれません。 しかし、これだけは言えます。何をするにしても、つまずきを与えてはなりません、ということです。もちろん、つまずきが起こるのは避けられません。イエスさまもおっしゃっているとおりです。しかしイエスさまは続けて、このようにもおっしゃいました。つまずきを与える者はわざわいです。自分は信仰があるから何をやっても許される、とばかりに、厚かましく振る舞う人に対して、イエスさまのまなざしはとてもきびしいです。私の今しているこの振る舞いは、もしかすると自己中心的で、だれかをつまずかせるかもしれない、と、慎重になるくらいでちょうどいいのでしょう。 信仰者の特権を人のつまずきの材料としてはなりません。コリント人への手紙第一10章27節から30節をお読みしたいと思います。……私たちは食べたり飲んだりするもので宗教的にけがれて、神さまから、おまえは汚れた、とみなされ、見捨てられることはありません。しかし、この特権を理解しない人というのは、実際は少なくないものです。そういう人がそういう様子を見て、えっ、クリスチャンなのに飲むの? ありえなーい、そんなことを思ったとしたら、どうでしょうか? 悪いのは、特権を理解しない人でしょうか? そうではありません。つまずかせる方です。人をつまずかせることは、宗教的にけがれるのとは違った理由で、神さまのみこころにとてもかなわないことになります。 しかし、そうだとすると、私たちはたとえば食べ物や飲み物のような、自分に許されている自由というものを、どのように理解すべきか、ということになるでしょう。これは、実際に私が見聞きしたケースをお分かち合いするのがいいと思います。ある、お酒が好きな婦人の信徒がいました。彼女の所属する教会はいわゆる福音派で、お酒のことを話題にするのもはばかられる雰囲気でした。教会では言いにくいので、ある日彼女は、個人的に知り合いになった外国人の宣教師に質問しました。「先生、お酒は、飲んでもいいのですか、飲んではいけないのですか?」その先生はこう答えました。「世の中のお酒飲みの人は、飲まない自由というものを持っていません。飲むしかなく、自由がないのです。私たちクリスチャンは、飲む自由もあれば、飲まない自由もあります。」その婦人は目が開かれたようで、その後、あれだけ好きだったお酒を飲まなくなりました。 私たちはお酒を飲んでもいいのです。牛肉や豚肉を食べたってかまいません。しかし私たちは、お肉はともかく、お酒を飲むことは少なくとも「奨励」しません。なぜかといいますと、それは未信者や信仰の弱い人たちに対して、つまずきを生むからです。人によっては私たちクリスチャンに対し、一般の人がなかなか持たないような潔癖さを求めたりします。そういう人たちの前では、私たちは罪人です、赦されていますが罪人です、という言い訳は通用しません。 お酒というものは成人になるまでは口にしてはいけない取り決めの嗜好品であり、そういうものをクリスチャンともあろう者が、後ろめたくもなく楽しむことを、許せない。私たちはそう考える人たちに対し、いやいや、大目に見てくださいよ、などということは絶対にできません。そのように、私たちに宗教的な潔癖さを求める人たちは、私たちの行動を逸脱させない人たちであり、とてもありがたい存在、愛すべき隣人といえます。 教会内においてはどうでしょうか。そういう、人につまずきを与えるか否かというセンスを発揮できる人は、必要です。そのセンスは、このような事態における私たちの行動において、特に必要になります。教会の集まりもそのような次元で、開催の可否や開催方法の判断を迫られます。ヘブル人への手紙10章25節を前提としても、集まることが励ましにならないばかりか、つまずきを生んでは何にもなりません。 大前提として、私たちは信仰を働かせることが求められています。しかし、信仰を働かせるとは、無批判に何でもしてもいい、ということではありません。韓国教会をご覧ください。大型の教会はその多くが、今月の日曜礼拝の開催を見送り、インターネット中継によって家庭礼拝をするようにと促しています。あれほど、日曜礼拝をともに守ることにいのちを懸けていた韓国教会が、そのような決断をしたことは、戒律を守るがごとき宗教行為から自由なクリスチャンの姿の現れだったわけです。 うちの教会もどうすべきか、信徒のみなさまと連絡を取りつつ、本日の礼拝について、祈りつつ考えを巡らしておりましたが、結局のところ、開催し、参加は各自の判断にゆだねる、という結論になりました。それは、つまずきを及ぼすか否か、ということが、最も大きな判断の基準となりました。 もし、信徒たちすべてに出席を促したら促したで、つまずきのもとになるでしょうし、逆にもし、一切集会しないという方針を打ち出したとしても、それはそれでつまずきのもとになったにちがいありません。疫病という非常事態と、ともに集まり礼拝をささげるというその勧めを両方考えるとなると、それは頭の痛い問題です。なぜそれが頭の痛い問題となるかというと、何を選択するにしても、どこかでつまずきのもとが起こりうる、ということだからです。 コロナウイルスが、たとえばインフルエンザほどには正体がわかっていないことが、人々の不安に拍車をかけています。マスクどころか、トイレットペーパーやティッシュペーパーのような紙製品までが売り切れになる事態が、それを物語っています。こういう人たちに囲まれている私たちは、それでも私たちのことを絶対的に守ってくださる神さまに信頼するその信仰を、このときこそ増し加えていただく必要があるものですが、それは無防備であってもよい、ということではありません。 本日は月のはじめの日曜日ですが、主の晩さんは執り行いません。これは一見すると、「わたしを覚えてこれを行いなさい」というイエスさまのご命令に、不従順であるかのように見えるかもしれません。しかし、月のはじめに必ず執り行うというこの教会の取り決めは、いわばこの教会の「文化」であって、そのとおりに守り行うことこそがふさわしいという「聖書的な絶対の根拠」によるものではありません。キリストのからだなる教会には、それこそ韓国教会の大きな教会のように、日曜日の礼拝そのものに集まらないという選択さえも許されているわけで、その根拠が「神さまによって許されていると信じるか」にかかっているわけです。 韓国の大教会は何を恐れたのか、といいますと、感染源になってはならない、自分たちが感染源となることで、社会から糾弾されて証しにならないことをしてはならない、ということです。信仰によってこの疫病を乗り切れるだとか、まるで軍隊やむかしの体育会系のような精神論と信仰を履き違えたような判断をしなかったわけです。 ただし、日曜礼拝を含め、集まりを持つことそのものの可否ということは、ケース・バイ・ケースでしょう。礼拝に集う人数や密度、教会に行く場合の交通手段、教会の所在地やその地域の取り組みによっても、判断が異なります。茨城県はまだ、感染が確認された患者は現れていませんし、この教会のある茨城町の教育委員会も、学校の授業は今週金曜日まで行うことを発表しています。そういうことからもうちの教会は、本日は礼拝そのものの開催はするという判断となりました。 それでも、主の晩さんは執り行いません。仮にの話です。仮に、だれかが感染したとします。それはもしかすると、主の晩さんではなく、別の理由からだったとしましょう。実際、主の晩さんで感染するリスクは高くない、もしそれで感染者が教会に現れたとすれば別の理由でだろう、とおっしゃる牧師先生もおられます。 しかし、主の晩さんは自分で用意するものではない、口に入るものです。愛さんを用意しないならば、主の晩さんも用意すべきではないということになります。もし、それでも規則だからと、主の晩さんを行うならば、それを教会が提供するとは、このご時世に何事か、とお思いになる方は、もちろんいらっしゃるわけです。すでにいくつもの教会が、礼拝はささげても主の晩さんは当分の間執り行わない、という方針を打ち出しています。 それはおそらく、感染のリスクそのものよりも、信徒たちが不安な中でわざわざ主の晩さんを形式的に執り行うことに意味はない、ということを考えてのことだと思います。ほんの少しでも不安を覚える中で、果たして、主の晩さんの恵みを味わえるものでしょうか。 それでは、なぜ私たちは人をつまずかせてはいけないのか、「なぜ」を問いましょう。神さまのみこころははっきりしている、そのみこころに従えない人の方が悪い、つまずいたなどと、教会や牧師や信徒のせいにされても困る、そんな意見をなぜ言ってはいけないのでしょうか? これは、ローマ人への手紙14章、13節から23節をお読みしましょう。……特に注目すべきは、15節のみことばです。人とは何者でしょう? キリストが身代わりに死んでくださったほど、尊い存在です。それほどに尊い存在なのに、私たちはいとも簡単に、弱いなどといってさばいたり、罪に定めたりするのです。 主の兄弟ヤコブはその手紙、4章12節にて言います。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。私たちもまた、キリストが身代わりに死んでくださらなければならなかったほどの、あまりにひどい罪人でした。その立場を考えもせず、人をさばき、人をつまずかせて平気な、自己中心的な存在です。私たちはその、自分の罪に気づかせていただかなければなりません。 ともかくも、人はキリストが身代わりに死んでくださったほど尊い存在です。しかし、人のためにキリストが身代わりに死んでくださったということを、だれが伝えるのでしょうか? 教会とそこに連なるクリスチャンしか伝えられません。 それなのに、教会ならびにクリスチャンが、その救われているという特権意識にあぐらをかいて、平気で人をつまずかせているならば、しかもそんな自分を正当化するならば、それは世の中から糾弾されるどころではありません、キリストの贖いをむだにすることになります。神さまはそんな私たちのことをどうご覧になるでしょうか? どれほど恐ろしいことでしょうか。 つまずきが起こるのは避けられなくても、つまずきを起こす者はわざわいであるというイエスさまのみことばに、あらためて耳を傾けましょう。私たちは何をしても守られるという信仰を働かせるのはまことに結構なのですが、それがだれかのつまずきとなってはなりません。そうなってしまうならば、一見すると信仰から出ているように思える行動も、信仰から出ているとは言えなくなります。私たちのうちのだれかがこれ以上信仰を働かせられない、つまりはつまずいてしまっていることを放っておくならば、それは信仰によって進むべき教会という共同体のあり方として、とてもふさわしくないということになります。 このときこそ私たちは信仰を働かせる必要がありますが、その信仰は、ふさわしいかたちで働かせるべきものです。最後に、コリント人への手紙第一10章に戻り、31節のみことばをお読みしましょう。……何によって神の栄光が顕れるのでしょうか? 人々をつまずかせる行動が正当化されず、みなが平安の中でキリストに従うことを通してです。人をつまずかせない歩みを心がけ、神の栄光を豊かに現す、そのような教会形成に献身する私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。