ペテロの涙

メッセージ題目;ペテロの涙  コロナウイルスの流行に伴う世の中の混迷は、いよいよ極まってきた感があります。これからどうなるのか、そればかり考えるととても不安になるでしょう。私たちはこの混迷の世界に、キリストに従う最高の生き方を示すことをもって、主の御手に用いられてまいりたいものです。しかしそのためには、私たちはまず何が必要でしょうか? 今日のみことばから、ともに学んでまいりましょう。  本日の箇所は、先週学びましたマタイの福音書の箇所のちょうど続きです。弟子たちはゲツセマネの園において、イエスさまと一緒に祈ることができませんでした。眠りこけてしまったのでした。そのようにして祈れなかった弟子たち、特に、ペテロは、ここから目まぐるしい変化を体験することになりました。  まずペテロは、何をしたのでしょうか? イエスさまを捕らえにやってきた大祭司のしもべ、マルコスに襲いかかり、耳を切り落としました。もちろん、イエスさまはそれを止めさせ、その耳をいやしてくださいましたが、このときペテロが刃傷沙汰に及んだということは紛れもない事実です。  先週、肉体の弱さが燃えている心に打ち勝ってしまうことについて学びましたが、ペテロはこの刃傷沙汰においても、心が燃えていたというべきでしょうか? ある意味、それはほんとうです。心が燃えていたからこそ、イエスさまを守ろうとしたわけでした。しかし、別な側面から見れば、ペテロは「正しく」心が燃えていたわけではありませんでした。言うなれば、聖霊なる神さまの炎により、心が燃やされていたわけではありません。もしそうならば、イエスさまにとがめられるような刃傷沙汰になど及ばなかったはずです。  ペテロはかつて、ご自身の十字架を予告されたイエスさまを諌めるような真似をしました。そんなことがあってはなりません、と。しかし、それは神のことを思わないで、人のことを思う、みこころを理解しない態度です。このときもペテロはそうでした。人の子は罪人たちの手に渡される、とイエスさまが予告されたとおりのことが起こったならば、それに抵抗するようなことなど無意味です。ペテロは自分の行為により、事の成り行きを変えようとしたのでしょうが、それはみこころを曲げようとするに等しいことでした。  イエスさまはこのペテロの行為を諌められ、十字架にかかることがみこころであるとはっきり語られました。すると今度は、ペテロも含めて弟子たちはどうしたのでしょうか? 逃げたのです。ヨハネの福音書の記述を見てみますと、イエスさまは兵士たちや群衆に向かって、弟子たちはこのまま去らせなさい、と語られたとあります。彼らを去らせるのは確かに、イエスさまのみこころでした。しかし、聖書の記述の評価は、彼ら弟子たちは「イエスさまを見捨てて逃げた」のです。  これは、どういうことでしょうか? 彼ら弟子たちは、あれだけイエスさまのためにいのちを捨てる、と大見得を切っておきながら、しょせんいざというときには、イエスさまのことを見捨てるものである、ということです。  イエスさまは山上の垂訓において、一切誓ってはならない、とおっしゃいました。神かけて誓う者は、神の領域を侵す者である、それなら、と、自分を指して誓う者も、その髪の毛を白くも黒くもできない、有限な存在ではないか、というわけです。私は決してつまずきません、裏切りません、あなたのためならいのちも捨てます、そんな誓いをした者たちは、いざとなったらイエスさまを「見捨てた」のです。  これが、3年にわたってイエスさまと愛の交わりを分かち合ってきた弟子たちのまことの姿でした。そこで、私たちの姿を省みたいと思います。私たちはときに、霊的な高揚感を体験するものです。祈っているとき、賛美しているとき、ほかの兄弟姉妹と交わりを持っているとき……そのとき、全能なる神さまの霊、聖霊さまの満たしを体験し、私たちの感情はいやがうえにも高まります。しかし、このようなところに、サタンの誘惑もまた臨むことを、私たちは謙遜に認める必要があります。神さまは全能でも、私たちは全能ではありません。私たちはこのたびのコロナウイルスの流行の中にあって、いかに自分たちが弱い存在、はかない存在であるかを思い知らされているところです。いわんや全能などとんでもないことです。  しかし、こうも言えます。このとき、宗教指導者の前に引き出されて、裁判を受けたのはイエスさまおひとりでした。神さまは、十字架という栄誉を、イエスさまおひとりにのみ負わせられたと見るべきでしょう。この栄誉には、いかに主の弟子であろうともしょせんは罪人である人間を伴わせることを、神さまはお許しにならなかったのです。もし、ペテロでも誰でもいい、だれかがイエスさまとともに十字架につくようなことがあったならば、その者はイエスさまと同等のような扱いを受けることにならないでしょうか。後世の者たちが、そのような弟子を神格化したりはしないでしょうか。ひいては、イエスさまよりも尊く扱ったりはしないでしょうか。そんなことは絶対にあってはならないことです。 そうだとすると神さまは、人の弱ささえも用いて、イエスさまおひとりに十字架を負わせられたといえるのではないでしょうか。まことに、イエスさまだけが救い主、贖い主です。   しかしペテロは、それでもイエスさまのあとをついていきました。なんとか裁判の場に入りこんで、イエスさまの様子を隠れて見つめていました。 このときイエスさまはご自身のことを、あざける者ども、迫害する者どもの手に、あまりに無防備に任せていらっしゃいました。嘘をついてでもイエスさまをローマに引き渡し、十字架にかけようという証人たちがしゃしゃり出てきました。偽りの証言を前にしても、イエスさまはご自身を弁護するおことばを語られることなく、沈黙を守られました。しかし、イエスさまが沈黙を破られる時が来ました。それは、大祭司カヤパが、神の御名により命じるという行動に出たときでした。答えよ、おまえは神の子キリストか!  カヤパのしたことは、霊的に鈍感というにはあまりに罪の重いことでした。人が神をさばく、何ということでしょうか。しかし、イエスさまは、ここにおいて、ご自身がキリストであると宣言され、さらには、ご自身がやがてこの世に来てさばく存在であることを宣言されました。  カヤパがほんとうに神の人ならば、このおことばを聞いた途端、服を引き裂いて、おお主よ! このように神の御子をさばいた私どもを幾重にも罰してくださいますように! と、泣いてくずおれ悔い改めてしかるべきでした。だが、彼はまったく違う理由で服を引き裂きました。この者は自らを神と宣言した。何という冒瀆だ! 許してはおけぬ。十字架だ、十字架につけろ!  こうなっては、イエスさまは罪人どもの呪いとあざけりの対象となるしかありませんでした。罪人どもはイエスさまが神であられることを否定する行為に出ました。目隠しをして見せて、イエスさまの顔を平手で打ち、だれが打ったか当ててみろ、などと。そんなこともできないとは、おまえが神の子などとは嘘つきだ……。  しかし、イエスさまは何とおっしゃったのでしょうか?「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょうか。」今、この瞬間にも、この罪人どもを天から御使いたちを呼び、皆殺しにすることなどイエスさまにはたやすいことでした。しかし、イエスさまはそうなさらず、罪人どもの手に落ちることを選ばれました。それは、十字架にお掛かりになるという、御父のみこころに従順になられるためでした。  ペテロは、イエスさまが殴られたり、つばをかけられたりする光景を、ありのままに見ていました。それは、イエスさまを愛し従ってきた者として、どれほど目をそむけたくなるものだったことでしょうか。このときペテロは、もはやイエスさまとともに迫害されよう、十字架を負おうという思いなど、どこかに消し飛んでしまっていました。   そんなペテロの心の隙に、ひとつのことばがかけられました。「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。」暗闇の中に熾された炭火に照らされるペテロの顔を、取り囲む人々がまじまじと見つめます。ペテロを恐怖が襲いました。この場所に来てしまったことを、どれほど後悔したことでしょうか。  ヨハネの福音書にあるこのできごとの記録を見ると、ペテロをその裁判の場のそばまで導いたのは、大祭司にコネのあったイエスさまの弟子であったとあります。この弟子の名前は記されていませんが、ある意味彼は、皮肉なことですが、大祭司の存在に守られていたといえるのかもしれません。しかしペテロはそうではありませんでした。勇気を出してイエスさまのあとについていっても、実際はとても心細い中にありました。大祭司の存在がペテロを守ってくれたわけではありません。むしろ大祭司は、イエスさまを極限まで迫害する者でした。周りにいる者たちは、ほぼ、大祭司につく者たちです。その現実に気づかされたとき、ペテロは、イエスさまを知らない、あなたは何を言っているのか、必死で取り繕い、ついには、私がもし知らないというのが嘘なら、私は呪われてもよい、と、恐ろしい誓いを立てました。  そのとき、鶏が鳴きました。ルカの福音書を読むと、そのときイエスさまが振り向いて、ペテロを見つめられたとあります。イエスさまがどんな眼差しだったかをみことばは記していませんが、目はどれほど雄弁にお気持ちを語ることでしょうか。イエスさまと目があったペテロに、いわく言い難い感情が押し寄せてきて、彼は外に出て、泣き崩れました。  しかし……イエスさまはペテロがこうなることを、すでに告げていらっしゃいました。あなたは、今はついてくることができないが、のちにはついてくる。  すべての人類を救う十字架を負われるのは、イエスさまおひとりであり、イエスさまはこの十字架を負うことに、だれがついてくることもお許しになりませんでした。それがたとえ、愛する弟子たちであったとしてもです。しかし、イエスさまはまた、まことの弟子としてふさわしい人は、イエスさまのあとを自分の十字架を背負って従う人である、とおっしゃいました。  イエスさまが生きておられたとき、ペテロはことばでも行いでも、多くの失敗をしました。それは、イエスさまの弟子としてふさわしくない姿、十字架というおのれに死ぬ道とはあまりにかけ離れた、目立とう精神で生きる姿であったとも言えましょう。しかしペテロのそのような罪も、イエスさまは十字架にかかってくださり、完全に赦してくださいました。  この、人を救いに導くわざ、そのためには自分のいのちさえ惜しまずに投げ出す生き方、その生き方に踏み出していくことで、ペテロはイエスさまについていくことができるようになりました。しかしその生き方をするためには、まず、十字架の前に自我が完全に砕かれる必要がありました。  それまでペテロは、イエスさまについていくことを人間的な蛮勇を振るうことと勘違いしていたふしがあります。そんなペテロは、たったひとり十字架を負われたイエスさまの御前に引き出される必要がありました。砕かれる必要がありました。 あの裁判は、一見するとイエスさまがさばかれていたようでも、ほんとうは全人類がさばかれる場でした。神の子を十字架につけることによって、全人類がいかに罪にまみれた存在であるかがはっきりしたからです。 そのさばきの場にペテロが引き出されたように、私たちひとりひとりも引き出されています。私たちはしばしば、イエスさまへの従い方を肉の力でしてしまうような過ちを犯します。今年の教会の標語は「信仰によって歩もう」であり、私たちは生活のさまざまな領域に信仰を働かせることを目指すものですが、それが間違った生活の習慣により、ときに、信仰を働かせることを、人間的な頑張りや形ばかりの宗教的な行為で代用してしまう弱さを、私たちはつねに持っています。それをしてしまうと、私たちはどこかで無理がたたり、疲れます。もしかすると、人間関係に齟齬をきたして傷つくかもしれません。涙を流すことだってあるでしょう。 そのときこそ、私たちがイエスさまの御前に出ていくときです。私たちは罪あるままだとさばかれても仕方ないものです。しかし私たちは、すでにイエスさまの十字架によって罪赦されている者として、悔い改めることにより神さまとの絆を結び直す特権が与えられています。神さまとつながれる祝福を、私たちはどれほど日々の生活の中で有難く味わっているでしょうか。 私たちも肉の弱さのゆえに、罪に走ることもあるでしょう。自分の罪深さに落ち込んだり、泣いたりすることもあるでしょう。しかし、それで終わりではありません。ペテロの涙の向こうに、初代教会の使徒として大きく用いられたペテロの姿があったように、私たちも悔い改めの涙の向こうに、大きく用いていただく祝福があります。だから、悔い改めを恐れてはなりません。

祈りに招かれた私たち

メッセージ題目;祈りに招かれた私たち  コロナウイルスの流行で、世界はますます厳しい局面に置かれています。もともと中国の武漢から拡散した伝染病ですが、いまや国境を越えて、ヨーロッパ全土にまで広がっています。その流行のうわさに伴うパニックからも、日本は自由ではありません。  私たちはこのような時こそ、祈る必要があることは、あらためて申し上げるまでもないでしょう。しかし私たちは、「祈ります」とか「祈っています」と言いながらも、果たして実際に、どれほどの時間をかけて、熱心に祈っていることでしょうか? もし私たちが祈れないとしたら、それはいったいなぜなのでしょうか? 今日は、イエスさまの祈りの場に招かれた3人の弟子の姿から、私たちにとって実践すべき祈りのあり方を、ともに考えてみたいと思います。  イエスさまは弟子たちを引き連れて、最後の晩さんの席から立ち上がり、ゲツセマネの園へと向かわれました。ゲツセマネの園。それは、オリーブ油を搾る場所であります。オリーブの実は完全な搾りかすになるまで何度でも搾られます。残った搾りかすもともしびを灯す燃料として使われます。搾られて搾られて、身を尽くすのです。イエスさまもまた、この園でそれこそ、搾りかすのようになるまで、血の汗を流して祈られるのでした。  その場所は、イエスさまが弟子たちとたびたび会合をともにされた場所でした。そこに向かわれたということは、何を意味していたのでしょうか? イスカリオテのユダが、イエスさまはここにいるから逮捕しに行くならここだ、と、宗教指導者たちに知らせていた場所でした。そこに行けばユダの手引きによって、ご自身が逮捕され、十字架という極刑に処せられることを、イエスさまはご存知でした。しかし、それにもかかわらず、イエスさまはゲツセマネの園に向かわれたのでした。  イエスさまはこのとき、どのような思いでいらっしゃったのでしょうか? 喜んで十字架を負います、ではなかったのです。この苦しみを避けることができるならば! その思いでいっぱいでいらっしゃいました。  もちろん、イエスさまが十字架にかかられることは、つまり、ご自分から人のためにいのちを捨てられることは、すでに何度となく語ってこられていたとおりでした。予感していないことが起こるどころか、覚悟をもってそこに向かわれたのは確かです。しかし……イエスさまの十字架は、御父との断絶を意味していました。何の罪もない方が、人という人のあらゆる罪に汚されて、御父から捨てられる。それを避けることができるならば、どんなによかったでしょうか!  私たちはイエスさまのこのみ思いがどうだとかこうだとか、論評する立場にはありません。なぜなら、私たちはしょせん罪にけがれても平気な罪人であり、イエスさまのみ思いなど、罪人である私たちにとっては、想像の域を出ないことだからです。  しかし私たちは、イエスさまがこの祈りの戦いの場に、弟子たちをお招きになった意味を考えたいと思います。弟子たちは、最後の晩さんの場でイエスさまがお語りになったさまざまなおことばを聞いて、心は悲しみでいっぱいになっていました。もちろんイエスさまは、御自身が去って行かれることは、聖霊なる神さまがいらしてくださることにつながり、それはあなたがたにとってよいことであるとおっしゃいました。しかし、弟子たちの現実はと言いますと、目の前でこうして語ってくださっているイエスさまが悪者どもの手に引き渡されて去られるのです。そんなことをいったい、受け入れることなどできるものでしょうか。 現在私たちクリスチャンは、聖霊なる神さまがともにいらっしゃるので、たとえ目に見えなくてもイエスさまがともにおられることを体験していますし、イエスさまの御名によってお祈りするその祈りが聞き届けられていることを体験しています。イエスさまが肉体をとってここにおられなくても、何の問題もありません。 しかしこの弟子たちとなると話は別です。イエスさまは、現実の空間に目に見える形でともにおられることに意味がありました。イエスさまがいなくなったあとのことなど、このときの弟子たちには想像のしようもなかったことでしょう。それに、そんなことになったら、どれほどむなしいか! どれほど悲しいか! お願いです、そんなことはおっしゃらないでください、弟子たちはそんな気持ちになったかもしれません。 その弟子たちが、いまこうしてイエスさまの悲しみ悶える姿を見なければならないということは、拷問にも近いことでしょう。私はこの箇所を読むたびに、できれば読み飛ばしたくなる衝動に何度も駆られたものです。こうしてメッセージを語っているいまだってできれば読みたくないくらいです。私がそんなことを思う箇所は、分厚い聖書全体の中でも、ここくらいです。 それでもイエスさまは、このゲツセマネの祈り、油搾りの祈りに、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを同席させました。彼らはいやでも、イエスさまが血の汗を流して祈られる場面をずっと見つめながら、自分たちも祈らなければならなかったのです。ともに祈ってくれ! これが、イエスさまの招きなのです。 よく、クリスチャンたちを毎日のディボーションの習慣に招くメッセージで語られているとおり、主の働きをなす人がすべからく、日々主との交わりを持つべきなのは、イエスさまが働きの場からも、弟子たちからも離れ、静かな場所にて一対一で御父と交わる、リトリートの時間をしっかり持っておられ、私たちもそのイエスさまのお姿にならうべきだからです。イエスさまは、弟子たちを意識してオープンな祈りをされたときを除いては、基本的にとても個人的に、御父とお交わりを持っておられたことがうかがえます。 しかし、このゲツセマネの園での祈りにおいてはどうでしょうか。恥も外聞もかなぐり捨てたようなこの祈りの戦いを、イエスさまはあますことなく、弟子たちにお見せになりました。 御父のみこころを前に、血を流すほどの抵抗をなさったイエスさまのこのお姿、またおこころを見て、私たちはそれでも、いえ、どうか十字架にかかってください、そうでないと私たちは赦されません、などと言う資格があるでしょうか。口が裂けても言えないことです。イエスさまの十字架はどこまでも恵みです。私たちきたならしい罪人のために、あんなお姿で亡くなってくださる義理などあるわけがないのです。しかし御父はイエスさまに、それにもかかわらず十字架にかかってのろいを受けて死になさい、というみこころを示されるのみでした。 この、祈りの戦いに勝利されたゆえに、私たちのすべての罪が赦され、神さまの怒りから救われ、神さまの子どもにしていただいたことを、私たちはもっとありがたく思っていいはずです。クリスチャンはすべからく、この祈りの戦いに勝利してくださったイエスさまに感謝すべきです。 しかしここで、私たちはこの祈りの場に、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを招かれたイエスさまの意図を、もう少し黙想してみたいと思います。みんな、悲しんでいました。みなさまもご存じのとおり、悲しむということはとても体力のいることです。彼らが泣いたとはみことばは語りませんが、この箇所では弟子たちの様子を、まぶたが重くなっていた、と語っています。また、悲しみのあまり眠り込んでいた、と、並行箇所は表現しています。そこから察するに、彼らはイエスさまのおことばに、ただひたすらに悲しくて、悲しくて、何度となく涙を流し、まぶたが腫れてしまったかもしれません。そして、疲れ切ってしまったことでしょう。こうなってしまうと、きびしいのは肉体の弱さが燃える心よりも先に立ってしまうことです。 弟子たちはついさきほどまで、たとえ全部の者がつまずいても私は決してつまずきません、などと大見得を切ってみせていました。イエスさまのおことばをあまりに額面通りに受け取って、人を傷つけ、あやめる道具である剣を2本も取り出してみせたりもしました。彼らの心は、悲しみに満たされる一方で、イエスさまのためなら死ぬことも覚悟しようという、燃える思いでいっぱいになっていました。彼らは確かに、心が燃えていたのです。 だが、肉体の弱さとは、なんと残酷なものでしょう。心が燃えているときは、その燃える思いは永遠に続くように錯覚します。よもやこの思いがすっかり冷めてしまって、イエスさまを裏切るようなことをすることはもうあるまい、などと思ってしまうものです。しかし、この心の入れ物である肉体は、パウロが喝破したように、しょせん土の器です。弱い肉体がついに燃える心に勝ってしまうことなど、いくらでもあるものです。 私たちは、全能なる神さまの御力をいただいています。神さまの知恵もいただいています。それがクリスチャンの素晴らしさです。しかし、神さまは全能でも、だから私たちが全能なのではありません。私たちが信仰を働かせるのは結構ですが、神さまはそんな私たちに、はっきり、被造物としての限界を定めていらっしゃいます。そうです、私たちがしょせん、土の器にすぎないことを、気づかせてくださるのです。 では、しょせん私たちが土の器ならば、私たちは主にあって、主にお従いするビジョンを思い描くことは不遜なことであり、してはいけないことなのでしょうか? そうではありません。もしそうだとするならば、神さまは私たちに、全能の神さまそのものでいらっしゃる聖霊さまを注がれることなどなかったはずです。私たちは聖霊さまの満たしと導きにより、神さまのみこころにかなうことは、何でもできます。そうです、それこそ、何でもです。 それでも私たちが心に留めるべきことがあります。私たちが有限であることを認めることです。無限なのは、死んでよみがえられたイエスさまおひとりだけです。私たちは、主の恵みがなければ、どんなに心が燃えようとも、肉の弱さに征服されてしまう被造物である、そのことを謙遜に認める必要があります。   では、イエスさまは彼ら弟子たちがそのように、心が燃えていても現実の肉体は弱くて、もはや1時間でも起きて祈ることなどできなかったと、ご存じなかったのでしょうか? もちろん、そうではありません。イエスさまは彼らの肉体が限界になっていたことをご存知の上で、あえてこの、決死の祈りの場に招かれたのでした。  このことから私たちは何を学びますか? お祈りすべきときには、いかなる理由があろうともお祈りすることを主は求めていらっしゃる、ということです。いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことについて感謝しなさい、テサロニケ人への手紙第一5章16節から18節のみことばで、とても有名ですが、絶えず祈りなさい、とみことばで命じられている以上、私たちは何があっても、絶えず祈りつづけなければならないのです。  しかし、実際の私たちはどうでしょうか? イエスさまのじきじきの命令により招かれた祈りの場で、3度にわたって眠り込んでしまった、1時間も目を覚まして祈ることができなかった、それが、十二弟子のリーダーであったペテロ、ヤコブ、ヨハネの現実の姿でありました。いわんや私たちは、もっとお祈りすることもできないものであることを、まず認める必要があります。  それでも祈らなければ! 私たちは、祈りにおいて怠惰な自分に気づかされるとき、悔い改めて、心を新たにして祈りに取り掛かろうとするでしょう。しかし、やはり肉体の弱さに呑み込まれてしまいます。あとに残るのは、自分は目を覚まして祈ることができなかったなんてという、罪責感ばかりです。  何がいけないのでしょうか? それは何よりも、私たちの決心が、肉的な頑張りによってなされるものにすぎない、ということです。決心する、頑張ることは、一見するととても素晴らしいことに見えます。その一定の効果はもちろん認めるべきなのですが、しかし、肉的な決心や頑張りでお祈りが継続するわけではありません。 しかし、ひとたび私たちがお祈りする恵みをいただいたならば、私たちは肉の弱さに打ち勝ち、祈れるようになります。私たちはいま、祈りに燃えることができますでしょうか?「一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか」とイエスさまに問われたならば、果たしてまともにお答えすることができますでしょうか? まっすぐイエスさまの目を見て、「はい、あなたさまの恵みによって、あなたさまの求めていらっしゃるだけのお祈りをさせていただきました」と言えますでしょうか? 私はみなさまとともに、全員そろって、その告白をイエスさまにさせていただきたいのです。  イエスさまがこのとき、お祈りの時間の基準としておっしゃったのは、一時間。みなさん。一日とはいいません、せめて一週間のうち、一時間をささげてお祈りするとしたら、それはいつでしょうか。私たちは、くつろいだり、テレビやインターネットを視聴したり、携帯電話をいじったりと、好きなことをしているうちに、あっという間に一時間を費やしてしまうものです。しかし、神さまの前に祈るには、それなりの戦いの姿勢が必要です。大げさではなく「戦い」です。私たちの肉の弱さを当たり前に動かそうとするサタンの誘惑は、どんなときにも襲いかかってきます。神さまの恵みを求めるのです。  ただ、この戦いは、イエスさまの戦いのような、孤独な戦いではありません。私たち信徒たちが相互に祈りの課題を交換し合い、お互いを覚えて祈るならば、私たちは決してひとりで戦っているのではないことがわかります。まるでイエスさまの祈りの場に、御使いが現れて力づけてくれるようなものです。コロナウイルスの流行により集まりが制限されるというこの非常事態は、逆に考えれば、私たちひとりひとりが主の御前にともに進み出るという、またとないチャンスの時です。ともに祈りましょう。

仕え合う弟子の共同体、教会

聖書箇所;ヨハネの福音書13:1~15 メッセージ題目;仕え合う弟子の共同体、教会 今日お読みいただいたみことばは、このようなことばから始まっています。「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」神は愛なり、とみことばが語り、イエスさまが父なる神さまとひとつなる神さまでいらっしゃる以上、イエスさまのお示しになるものは、愛そのものです。私たちはイエスさまの愛を、どのようにして体験するのでしょうか? それは、特に十二弟子に愛情を注がれた、その愛に、みことばを通して触れることによってです。特に、このヨハネの福音書の13章から17章までは、弟子たちに対して最後のメッセージをなさる箇所であり、イエスさまが究極的にお示しになった愛にふれる上で、特に大事なみことばです。  イエスさまがこの世を去られるにあたってなさったことは、この世のものに愛を残るところなく示されることでした。イエスさまの十二弟子は、そのイエスさまの愛を受け取った、すべての人類、すべての被造物の代表選手といえる存在です。だから、イエスさまが弟子たちをどのように愛されたかを学ぶならば、イエスさまが私たちのことをどんなに愛しておられるかを知ることができます。  キーワードになりますのは、愛です。イエスさまは単に、御国を拡大する働きの担える後継者をビジネスライクに育てていたわけではありません。弟子たちと苦楽をともにし、主にあって愛するとはどういうことかを弟子たちに教えるため、つまり、弟子たちもイエスさまの愛をもって教会のひとりひとりを愛する者となるため、自ら愛することを実践されたのでした。  イエスさまと弟子たちは、これから過越の食事をともにされます。イエスさまがこの過越の食事を弟子たちとともにすることを「どんなに待ち望んでいたことか」と表現なさったように、切に待ち望んでいたということが、ルカの福音書に記されています。これが、ご自身が十字架の上で窮極の過越、最後の過越を成し遂げられるその前ぶれとして、ご自身が執り行われた過越の食事であったわけです。そういうわけで、この場にともに連ならせてもらった十二弟子は、もっとも幸いな存在でした。  しかし、こんにち私たちが主の晩さんにあずかるということは、私たちもまたイエスさまに愛されている主の弟子たちであることを確かめる、だいじな時間をお持ちしているということになります。私たちも弟子たちと同じ立場で、イエスさまの晩さんに招かれていて、その晩さんにあずかることができるのです。  しかし、この晩さんの席上、弟子たちは何をしていたのでしょうか? この期に及んで、自分たちの中でだれがいちばん偉いかということを議論していました。イエスさまが御国につくなら、その次の座にはいったいだれが座るのか、それは自分だ、などとでも言い合っていたのでしょうか。そのような議論したことをかつてイエスさまに戒められたというのにです。しかし、そんな弟子たちの姿をご覧になったイエスさまは、その食事の席から立ち上がり、たらいに水を入れ、弟子たちひとりひとりの足を洗いはじめられました。  足を洗うのはしもべの仕事、奴隷の仕事です。つまりイエスさまは、この弟子たちのしもべとして振る舞われたのです。弟子たちはどれほどうろたえたことでしょうか。イエスさまをしもべにしてしまったなんて、なんと申し訳ない! イエスさまに洗っていただくなんて、なんともったいない! 恥ずかしい! でもありがたい! いろいろな思いが弟子たちの間に錯綜したにちがいありません。 さて、このような中にあって、ひとこと多いのはペテロです。ペテロは、弟子のリーダーとしてのプライドを見せようとしたのでしょうか。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」このようなことを言ってうろたえるペテロに、イエスさまはおっしゃいました。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」  ペテロはのちに、イエスさまの十字架を目の前にして激しい挫折を体験しましたが、のちには立ち上がり、イエスさまのしもべとしての生涯を全うしました。ペテロはイエスさまにならう生き方を歩むことで、イエスさまがなぜあのとき、自分のようなもののしもべになってくださったのか、分かったはずです。ペテロもまた、初代教会の羊たちのしもべとして歩むことを選択したのでした。  だが、このときのペテロに、そのような将来の歩みなどわかりませんでした。決して私の足をお洗いにならないでください。ペテロはかつて、ことばで失敗したことがあります。イエスさまが、宗教指導者たちに迫害されて殺されるであろうと予告されたとき、ペテロは、そんなことがあってはなりませんとイエスさまを諌めました。しかしイエスさまはそんなペテロの姿に、十字架を拒むサタンの動きを認められ、下がれ、サタン、と、主の弟子としてはとても聞くに堪えないようなおことばをもってペテロをお叱りになりました。 そしてペテロはここでも、決して私の足をお洗いにならないでください、と、イエスさまのお働きに異議を唱え、それをやめさせようとしました。しかしイエスさまはおっしゃいました。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」 イエスさまが足を洗わない人はイエスさまとは関係がない。どういうことでしょうか。イエスさまが仕えてくださっている人でなければ、イエスさまとは関係がない、ということです。 それではイエスさまは、どのようにして人に仕えてくださったのでしょうか? 十字架です。まさしく十字架とは、神が人に仕えることでありました。神が人に仕える! そんなことがあっていいものでしょうか? しかし、神の子キリストが十字架につかれたとは、そういうことです。 いったい、天地万物の創造主であり全能者であられる方が、ちっぽけな被造物、それも罪を犯して創造主に反抗した者の罪を赦し、永遠のいのちを与えるために、むごたらしくも十字架の上でいのちをお捨てになる必要があったでしょうか? 仕えることはそういうことです。しかし、イエスさまはあえてそのような人間に仕える者の姿をとられ、実に十字架の死をもって、人の罪を洗いきよめてくださいました。汚れた足を水できれいに洗うように、イエスさまの十字架の血潮は、罪に汚れた人のすべてを洗いきよめます。実に十字架とは、仕えることです。 さてペテロは、イエスさまがペテロを洗わなければイエスさまと自分が何の関係もないとおっしゃったことに心を痛めたのでしょう。ペテロはイエスさまを愛する人であったからです。ペテロは一転して、もし洗ってくださるのなら、足だけではなく、手も、頭も洗ってほしいと、イエスさまに訴えました。 しかしイエスさまは、このようにお答えになりました。10節です。……イエスさまに完全に立ち帰った者は、もはや罪に定められることがありません。しかしそれでも、私たちは日々罪を犯します。罪に汚れてしまうのです。だから私たちは、イエスさまに洗っていただく必要があるのです。それはあたかも、この時代のパレスチナのユダヤ人がそうだったように、サンダル履きで道を歩いて、足がどうしても汚れてしまうから、家に入ったら足を洗う必要があったようなものです。 罪に汚れるのは、いかにもキリスト者としてふさわしくありません。家の中を汚い足で歩き回ってはいけないのと同じです。私たちは日々、主の御前に心を注ぎ出し、悔い改めをなしてゆく必要があります。 しかし私たちは、もともと、どんなに自分の罪を悔い改めたとしても、決して赦されるような者ではありませんでした。ただ、イエスさまが私たちの身代わりに十字架にかかってくださった、その愛を受け入れるとき、私たちは御父への道、永遠へのいのちの道が開かれ、イエスさまとの絶えることのない交わりの中で、日々の歩みの中で犯してしまう罪さえも赦していただける者となるのです。 イエスさまが足を洗ってくださった弟子たちの中には、イスカリオテのユダがいました。ユダは、イエスさまに足を洗っていただいても、心底神さまに立ち帰っていたわけではありませんでした。宗教指導者たちにイエスさまを売り渡したのは、見ようによっては宗教的にとても模範的なことをしたようでも、イエスさまの父なる神さまの御目から見れば、どれほど呪わしいことをしたことでしょうか。そのように、形だけクリスチャンのように振る舞いながら、そのじつ心の中では、イエスさまになど従いたくない、機会があれば教会をこの世の権勢に売り渡そうが知ったことではない、という恐ろしい存在は、残念ながら存在します。 しかし、そういう者の存在を意識させられるとき、「まさか私ではないでしょう?」と心を痛めてイエスさまに立ち帰り、責められる罪があるならば悔い改めることのできる人は幸いです。イエスさまはユダにも、最後まで悔い改めの機会を与えてくださいました。しかし、ひとたびサタンにたましいを売り渡した者に対しては、イエスさまはもはやなすがままにして、十字架への道を歩まれるのみでした。 それでも私たちは、ユダではありません。イエスさまにお従いする弟子たちです。イエスさまは弟子たちに対して、何を求めていらっしゃるのでしょうか。12節から15節をお読みします。……イエスさまがいのちを差し出して私たちに仕えてくださったように、私たちもまた、互いのためにいのちを差し出して仕え合う必要がある、ということです。 ヨハネの手紙第一、3章16節をお読みしましょう。福音書ではなく、手紙のほうです。そう、互いのためにいのちを捨てなさい、と命じられています。続く17節、18節をお読みすれば、16節のみことばの言わんとしていることが明らかになります。 心のこもった行いというものは、自分を差し出す犠牲の伴ったものです。言ってみれば、私たちのいのちをすり減らして愛を実践していることになります。私たちは自分のことしか考えないような自己中心の罪人でした。そのような私たちでしたが、イエスさまの十字架の愛を知りました。イエスさまの十字架の愛を知った今、わが主でいらっしゃるイエスさまの愛の実践にならって、私たちも互いのためにいのちを投げ出す者となれるし、また、いのちを投げ出す者となるべきである……みことばはそう語ります。 まことに、私たちの愛の実践は、イエスさまの十字架を日々どれほど黙想しているかにかかっています。イエスさまの十字架の愛を知れば知るほど、私たちの行いに互いへの愛が実を結んでまいります。イエスさまがどれほど私たちを愛してくださり、仕えてくださったか、その愛にいつでも立ち帰る者となりたいものです。 さて、現在の状況に今日の教えを適用してみますと、どのようになりますでしょうか? 私たちはこのような、互いに会うこともままならないような中にあっては、愛し合うことを実践するのも難しいことのように思えるかもしれません。それならば私たちは、何によって自分たちは結ばれているか、何によって同じキリストのからだなる教会を形づくっているか、あらためて考えてみましょう。 私たちを一つにしているのは、イエスさまへの信仰です。同じイエスさまへの、同じ信仰をいだく者として、私たちはひとつになっています。私たちの好き嫌いでひとつになったりならなかったり、という問題ではありません。私たちを一つにしてくださった、イエスさまのみこころをしっかり考えてまいりたいものです。 イエスさまはどのようにして私たちを愛してくださったか、その愛を深く知るには、イエスさまがひとつからだにしてくださったお互いを愛すること以上のことはありません。愛することとは、仕えることです。 さて、聖徒を愛するには、「愛される」謙遜さも同時に必要になります。仕える人が仕えることを全うするには、「仕えられる」人の存在を必要とします。イエスさまに足を差し出すように、祈ってほしいこと、仕えてほしいことを、ほかの信徒に語ることです。もちろん、その必要を私たちが知るならば、いっしょうけんめい祈り、いっしょうけんめい仕えることです。 今はこのように、礼拝に来ることさえもままならず、そのぶん、とりなしの祈りや、奉仕の機会は多くないことになります。実践の機会そのものがあまりないわけです。しかしここは、ひとつ、へりくだって、私たちの祈ってほしいこと、ほかの兄弟姉妹の奉仕を必要とすることを、この機会に明らかにしてみてはいかがでしょうか。

生きることはキリスト

このご時世……人々は前にもましてますます、新聞やテレビやインターネットから情報を得ようとしたりする一方で、その情報の真偽、良し悪しを、自分の頭で確かめる必要がますます生じています。  私たちは何を信じ従うのでしょうか? 変わらないお方である主とそのみことばを信じお従いします。それでは私たちがみことばに従うことを、このようなご時世にあって、どのように実践することができるでしょうか? 聖書はいろいろなところで、私たちにその生き方をする上での指針を示していますが、今日は特に、ピリピ人への手紙のみことばから学んでまいりたいと思います。  今お読みしたみことばの中で、特に強調したいのは、21節の箇所です。私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。聖書を読みはじめて間もない人がもし、この箇所を読んだとしたら、ちょっと難しさを覚えるかもしれません。しかし、この箇所は、私たちクリスチャンの人生にとって、またとない指針となるみことばです。  まずは、「死ぬことは益です」というみことばの意味を考えてみましょう。パウロはこの手紙を書いたとき、獄中にありました。多くの聖書学者の見解では、ローマの監獄にいたということで、それはそのまま、もはや釈放されることなく、処刑に向かって進むのみということを意味していました。パウロはもちろん、釈放されてピリピ教会の信徒たちに再会することを希望し、またそうなるようにと信徒たちに告白しています。  そのような中でパウロが、死ぬことが益であると語るのは、どのような意味があるでしょうか? 何よりもそれは、23節にあるとおり、世を去ることになるならば、キリストとともにいることになる、ということを意味します。  人がこの世を去るということは、悲しくも寂しいことです。その感情まで否定すべきであると言いたいのではありません。しかし、私たちにとって大事なのは、死ぬということは終わりを意味するのではない、ということです。そればかりではありません。あれほどお目にかかりたいと恋焦がれた、イエスさまにお会いできるということです。  私たちはこの世界を生きながら、実際は天の故郷にいずれ帰ることをたえず意識しながら生きる者です。だから、世の富や欲に執着しているならば、それを捨てることをしていく必要があります。私たちの日常を点検してみましょう。私たちは天国に行く準備ができていますでしょうか? 天国に行く前にやり残していることがあるから気がかりだ、ですとか、天国に行くことよりももっと関心のあることが目の前にある、などとなっていないでしょうか?  ただ、もちろん、このようなことを申しましても、この地上で好きなことを一切すべきではないというわけではありません。私が神学生の頃、私に、趣味を持つべきだとおっしゃった宣教師の先生がいらっしゃいました。もしかすると、教職者が趣味を持つことに対しては、厳しい視線を投げかける方もいらっしゃるかもしれません。しかし私は、教職者が長持ちして働きをするためには、徳を引き下げるものではないかぎり、ふさわしいかたちでの息抜き、休息は必要だと考えます。これは、パウロが教え子のテモテに言ったところの、「少量のぶどう酒」に当たるものだと考えます。 それでも、「少量のぶどう酒」は、どこまでも、主の宮なるからだを立て上げるものであり、そういう意味では、天国と関係あるものであるべきでしょう。私たちにとっての趣味のような快いこと、コーヒーを飲んだりドライブをしたりおいしいお店に行ったりすることも、天の御国を見上げる私たちをこの地上で支えるために必要なことであるのみで、それ以上のものであってはいけません。すなわち、そのような快楽そのものを生きる目的とすることは、私たちクリスチャンにとってふさわしいことではありません。 それでは私たちは、この世に対する執着を一切捨てて、死ぬことを究極の目標とするしかないのでしょうか? いいえ、死ぬこと、すなわち天国に行くことは私たちが積極的に受け入れるべき「結果」でこそあれ、死ぬことそのものを「目的」として、生き急ぐような真似をしてはいけません。なぜでしょうか? それは、24節にあるとおりです。……パウロが「あなたがたのため」と言ったまさにそのこと、それは、キリストのからだなるピリピ教会とその信徒たちが保たれ、成長することです。 初代教会は、質量ともに大きく成長する希望にあふれていた一方で、ユダヤ主義者やローマ帝国といった敵の存在によって、つねに滅亡と隣り合わせという危機に瀕した状態で、宣教と教会形成を続けなければなりませんでした。その中で彼らが保たれるためには、彼らが主とそのみことばにしっかりとどまり、みことばの栄養を得て成長すること、愛においてひとつとなることは必須でした。しかし、何よりも、その群れの霊的責任を担える存在を、どうしても必要としていました。その霊的責任を負う者、それがパウロです。 霊的責任を負う人にその群れの霊的存在の存亡がかかっているということは、旧約聖書でもしばしば見ることができます。サムエル記第二に収録されているエピソードです。イスラエルの統一王国時代、ダビデは息子アブサロムとの戦争に巻き込まれました。そのとき、ダビデ王は自ら戦場に赴こうとしました。しかしダビデ王は兵士たちから、あなたはわたしたちの一万人にあたります、と、必死に引き止められました。いざというときに出て行って責任を取ろうという態度、素晴らしいリーダーシップですが、同時に、そのようなリーダーが守られるように、従うべきことを従い、自分たちも責任を分かち合おうとする態度、これは従う立場の者たちの、いわば「フォロワーシップ」というべきものです。 そのフォロワーシップが充分に育つまで、牧会者は充分に群れに気を配り、その群れの霊的な監督としての責任を果たすために、必要なみことばを語り伝え、とりなして祈る必要があります。もちろん、信徒ひとりひとりが究極的につながるべきはイエスさまであり、それは決して牧会者であってはならないのですが、だからといって、牧会者の責任が免除されるのではありません。むしろ、だからこそ、信徒がイエスさまとしっかりつながり、イエスさまに従うものとなるために、牧会者はますますその責任を全うする必要があることになります。 パウロが、なお生きることを願ったのは、いつか生きてピリピ教会に戻り、再び群れを指導できるようになることを祈ったゆえで、25節、26節を見てみますと、パウロが生きてピリピ教会の信徒に再会することで、ピリピの信徒にとってそれが信仰の前進と喜びとなることが語られています。しかし、結局のところそれはかないませんでした。ならばパウロは、根拠のないことを言って空元気(からげんき)をつけさせようとしたのでしょうか? そうではありません。パウロは、ピリピの信徒たちがパウロに再会するその希望よりさらに高い次元にある、パウロが来ようと来なかろうとピリピ教会の信仰が前進し、喜びが増し加わることを祈っていたと見るべきです。 それでもパウロが、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です、と言ったことは、いろいろな意味を含んでいます。まずそれは、パウロこそが、ピリピ教会に格別の重荷を覚えて祈る人であるゆえ、たとえあなたたちに会えなかろうと、まだまだ死ぬわけにはいかない、ということでもありました。 しかし、それ以上のことがあります。パウロはまだ、のちに新約聖書を完成させる書簡となる、たとえばテモテやテトスへの牧会書簡をまだ書き送っていませんでした。つまり、聖書が完成された形でのちの2000年の教会を霊的に養うためには、パウロはここで死ぬわけにはいかなかったのでした。パウロは、ピリピ教会も含めたすべての教会を霊的に生かすために、いのちが取り去られて天国に行くことを願う一方で、生きつづけることを主に祈り求めたのでした。まことに、パウロがまだ天国に行かないで生きつづけたことは、その後歴史上、世界中に存在した、すべてのキリストのからだなる教会のためでした。パウロの祈りはすべての教会を生かすことにつながりました。 私たちはなぜ生きるのでしょうか? パウロは、はっきりわれわれの生きる理由を語っています。「生きることはキリスト」なのです。キリストが生きるように生きる。私の生きていることは、キリストが生きていることそのものである。みなさん、ここまで言い切れるでしょうか。いや、私は罪人ですから……こんな言い訳は、このことばの前には一切通用しません。 私たちはもちろん、ときには肉の弱さのゆえに罪を犯すものです。しかし私たちは、その罪を犯す自分をほんとうの自分、変わることのない自分だと考えてはなりません。私たちにとってのほんとうの自分自身とは、将来天国にて、キリストに似た者として完全に栄光の姿に変えられる姿であり、その完成された姿に向けて私たちは日々変えられます。ほんとうの自分に、日々近づくのです。間違っても、きよめられていない自分、罪人の自分を、ほんとうの自分だと考えてはなりません。 しかし、私たちがキリストの似姿として日々きよめられるには、条件があります。キリストをわが心のうちに救い主、人生の主として迎え入れ、心の王座に座っていただいてそのご支配をいただくことです。私たちクリスチャンはときに、心の中にキリストを受け入れていることは確実でも、その心の中心にキリストが座ってはおらず、相変わらず心の中心を罪深い自分自身が占めつづける、ということがあるものです。私たちがこうして週に一度礼拝をおささげするのは、そういう自分であることに気づかせていただき、イエスさまのはじめの愛から、どこからどのように離れたか思い出させていただき、悔い改めて初めの行い、すなわち、自分を捨ててイエスさまを信じる信仰に立ち帰らせていただくためです。 悔い改めというと、「悔い」ということばの否定的なイメージに引きずられて、何やらよくないこと、などと誤解したりしてはいないでしょうか? でも悔い改めとは、自分の罪の醜さをまじまじと見つめて、ああ、私ってなんて汚いの、愚か者なの、と、うじうじ落ち込むことでは、ありません。それは「悔い」です。悔い改めはむしろその反対で、そんなうじうじさせる自分の醜さ、汚さから、まことのきよい光そのもののイエスさまへと完全に目を向け、目を離さなくすることです。イエスさまに向けて視線を固定するのです。いざイエスさまに向けて視線を固定してしまえば、もう自分の醜さのようなものを見ることはできなくなります。 まことに、ふさわしい聖徒の生き方とは、悔い改めに次ぐ悔い改めを通して、どんどんキリストの似姿に変えられていくことです。その生き方をともに目指し、キリストが歩まれたように、教会に対して、この世に対して愛と真実の歩みをなす、こうして私たちは、生きることはキリスト、となるのです。 しかしまた、死ぬことも益です。パウロの死は、殉教でした。その死によって、キリストというお方はいのちをかけてまでお従いすべきお方だということが、堂々と証しされたのでした。そして聖徒たちは、自分のためにいのちを捨ててくださったキリストのその十字架を、パウロの殉教を通してどれほど如実に実感したでしょうか。パウロの死は、神の栄光となり、聖徒たちはいよいよ迷わずに教会を立て上げました。そしてその歩みが、こんにちの私たちの歩みへとつながっているのです。 私たちもいつかは天国に行きます。しかしどうか、消極的な理由から天国を希望する者にならないでいただきたいのです。こんな、ウイルスと放射能に冒された世界、愛のない世界に生きていても、何にもならない、生きていても死んだほうがましだ、そんなことを考えて、それで天国行きを望むのでしょうか? しかし、そういう人は、肉体が死ぬことを夢想しようと、益になどなりません。同じ死ぬにしても、肉体が死ぬのではなく、そんな変な価値観を抱えてさまよう自我がキリストとともに十字架につけられて死ぬべきです。そうすれば、復活のキリストがその人のうちに生き、もはやつまらない聖書解釈で生きるのではなく、ほんとうに生き生きと喜びにあふれた、それこそキリストがともに歩まれる信仰生活を送れるようになります。もうそういう人は、けっして、消極的な理由から「死にたい」などと口にすることはなくなるはずです。 私たちが宣べ伝えるキリストは、この世界から人を取り去って天国に入れてくださるお方だといえばそうなのでしょうか、それはキリストというお方のあまりに表面的な領域でしかありません。いま現実に苦しむ人たち、そうです、いま日本はコロナウイルスで苦しんでいますし、震災や台風などの災害からまだ完全に復旧したわけではなく、それで苦しむ人もたくさんいます。経済的に困窮する人もたくさんいます。社会はあちこちがほころんでいます。世界に目を向けたら、さらに悲惨な生活をしている人が大勢います。そのような人々を救い、人々とともに歩み、この世界に神の子なるキリストが愛をもって統べ治めてくださる神の国を立て上げる、キリストはそういうお方ではなかったでしょうか。 そう考えるならば私たちのうちには、自分たちさえ救われればいい、天国に行ければいい、何をしても許される、という考えは生まれてこないはずです。世の光、地の塩として、主がおつくりになった世界に対して、キリストが歩まれた愛の歩みを、いのちあるかぎり力いっぱいなし、いのち果てる日に喜びあふれて天国に凱旋する、そういう歩みに献身したいものです。その歩みにより神の栄光を豊かに現す、そのような私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。

つまずかせない教会形成を目指して

聖書箇所;コリント人への手紙第一10:31~33 メッセージ題目;つまずかせない教会形成を目指して 本日のメッセージは、結論から先に申し上げたいと思います。「人のつまずきになってはいけません」、これだけです。それは未信者に対してもですし、私たち教会内部においてもです。 本日の礼拝は、集まれる方で集まりましょう、主の晩さんも執り行わないことにしましょう、と、昨日、一斉メールでお伝えしました。このようなとき、クリスチャンの意見もいろいろだと思います。礼拝そのものを開催すべきでない、実際に日本ではカトリックも含め、そのような教会がいくつも現れているので、現実的に過ぎる判断とはいえません。一方で、このような時こそ信仰を働かせて、ヘブル人への手紙10章25節のみことばを実践して、ともに集まろう、ですとか。それぞれに聖書的な根拠があるので、どれが正解、どれが間違い、とは言い切れません。おそらく、どんな決断を下したとしても、全員を納得させられるだけのことはできないと覚悟すべきなのかもしれません。 しかし、これだけは言えます。何をするにしても、つまずきを与えてはなりません、ということです。もちろん、つまずきが起こるのは避けられません。イエスさまもおっしゃっているとおりです。しかしイエスさまは続けて、このようにもおっしゃいました。つまずきを与える者はわざわいです。自分は信仰があるから何をやっても許される、とばかりに、厚かましく振る舞う人に対して、イエスさまのまなざしはとてもきびしいです。私の今しているこの振る舞いは、もしかすると自己中心的で、だれかをつまずかせるかもしれない、と、慎重になるくらいでちょうどいいのでしょう。 信仰者の特権を人のつまずきの材料としてはなりません。コリント人への手紙第一10章27節から30節をお読みしたいと思います。……私たちは食べたり飲んだりするもので宗教的にけがれて、神さまから、おまえは汚れた、とみなされ、見捨てられることはありません。しかし、この特権を理解しない人というのは、実際は少なくないものです。そういう人がそういう様子を見て、えっ、クリスチャンなのに飲むの? ありえなーい、そんなことを思ったとしたら、どうでしょうか? 悪いのは、特権を理解しない人でしょうか? そうではありません。つまずかせる方です。人をつまずかせることは、宗教的にけがれるのとは違った理由で、神さまのみこころにとてもかなわないことになります。 しかし、そうだとすると、私たちはたとえば食べ物や飲み物のような、自分に許されている自由というものを、どのように理解すべきか、ということになるでしょう。これは、実際に私が見聞きしたケースをお分かち合いするのがいいと思います。ある、お酒が好きな婦人の信徒がいました。彼女の所属する教会はいわゆる福音派で、お酒のことを話題にするのもはばかられる雰囲気でした。教会では言いにくいので、ある日彼女は、個人的に知り合いになった外国人の宣教師に質問しました。「先生、お酒は、飲んでもいいのですか、飲んではいけないのですか?」その先生はこう答えました。「世の中のお酒飲みの人は、飲まない自由というものを持っていません。飲むしかなく、自由がないのです。私たちクリスチャンは、飲む自由もあれば、飲まない自由もあります。」その婦人は目が開かれたようで、その後、あれだけ好きだったお酒を飲まなくなりました。 私たちはお酒を飲んでもいいのです。牛肉や豚肉を食べたってかまいません。しかし私たちは、お肉はともかく、お酒を飲むことは少なくとも「奨励」しません。なぜかといいますと、それは未信者や信仰の弱い人たちに対して、つまずきを生むからです。人によっては私たちクリスチャンに対し、一般の人がなかなか持たないような潔癖さを求めたりします。そういう人たちの前では、私たちは罪人です、赦されていますが罪人です、という言い訳は通用しません。 お酒というものは成人になるまでは口にしてはいけない取り決めの嗜好品であり、そういうものをクリスチャンともあろう者が、後ろめたくもなく楽しむことを、許せない。私たちはそう考える人たちに対し、いやいや、大目に見てくださいよ、などということは絶対にできません。そのように、私たちに宗教的な潔癖さを求める人たちは、私たちの行動を逸脱させない人たちであり、とてもありがたい存在、愛すべき隣人といえます。 教会内においてはどうでしょうか。そういう、人につまずきを与えるか否かというセンスを発揮できる人は、必要です。そのセンスは、このような事態における私たちの行動において、特に必要になります。教会の集まりもそのような次元で、開催の可否や開催方法の判断を迫られます。ヘブル人への手紙10章25節を前提としても、集まることが励ましにならないばかりか、つまずきを生んでは何にもなりません。 大前提として、私たちは信仰を働かせることが求められています。しかし、信仰を働かせるとは、無批判に何でもしてもいい、ということではありません。韓国教会をご覧ください。大型の教会はその多くが、今月の日曜礼拝の開催を見送り、インターネット中継によって家庭礼拝をするようにと促しています。あれほど、日曜礼拝をともに守ることにいのちを懸けていた韓国教会が、そのような決断をしたことは、戒律を守るがごとき宗教行為から自由なクリスチャンの姿の現れだったわけです。 うちの教会もどうすべきか、信徒のみなさまと連絡を取りつつ、本日の礼拝について、祈りつつ考えを巡らしておりましたが、結局のところ、開催し、参加は各自の判断にゆだねる、という結論になりました。それは、つまずきを及ぼすか否か、ということが、最も大きな判断の基準となりました。 もし、信徒たちすべてに出席を促したら促したで、つまずきのもとになるでしょうし、逆にもし、一切集会しないという方針を打ち出したとしても、それはそれでつまずきのもとになったにちがいありません。疫病という非常事態と、ともに集まり礼拝をささげるというその勧めを両方考えるとなると、それは頭の痛い問題です。なぜそれが頭の痛い問題となるかというと、何を選択するにしても、どこかでつまずきのもとが起こりうる、ということだからです。 コロナウイルスが、たとえばインフルエンザほどには正体がわかっていないことが、人々の不安に拍車をかけています。マスクどころか、トイレットペーパーやティッシュペーパーのような紙製品までが売り切れになる事態が、それを物語っています。こういう人たちに囲まれている私たちは、それでも私たちのことを絶対的に守ってくださる神さまに信頼するその信仰を、このときこそ増し加えていただく必要があるものですが、それは無防備であってもよい、ということではありません。 本日は月のはじめの日曜日ですが、主の晩さんは執り行いません。これは一見すると、「わたしを覚えてこれを行いなさい」というイエスさまのご命令に、不従順であるかのように見えるかもしれません。しかし、月のはじめに必ず執り行うというこの教会の取り決めは、いわばこの教会の「文化」であって、そのとおりに守り行うことこそがふさわしいという「聖書的な絶対の根拠」によるものではありません。キリストのからだなる教会には、それこそ韓国教会の大きな教会のように、日曜日の礼拝そのものに集まらないという選択さえも許されているわけで、その根拠が「神さまによって許されていると信じるか」にかかっているわけです。 韓国の大教会は何を恐れたのか、といいますと、感染源になってはならない、自分たちが感染源となることで、社会から糾弾されて証しにならないことをしてはならない、ということです。信仰によってこの疫病を乗り切れるだとか、まるで軍隊やむかしの体育会系のような精神論と信仰を履き違えたような判断をしなかったわけです。 ただし、日曜礼拝を含め、集まりを持つことそのものの可否ということは、ケース・バイ・ケースでしょう。礼拝に集う人数や密度、教会に行く場合の交通手段、教会の所在地やその地域の取り組みによっても、判断が異なります。茨城県はまだ、感染が確認された患者は現れていませんし、この教会のある茨城町の教育委員会も、学校の授業は今週金曜日まで行うことを発表しています。そういうことからもうちの教会は、本日は礼拝そのものの開催はするという判断となりました。 それでも、主の晩さんは執り行いません。仮にの話です。仮に、だれかが感染したとします。それはもしかすると、主の晩さんではなく、別の理由からだったとしましょう。実際、主の晩さんで感染するリスクは高くない、もしそれで感染者が教会に現れたとすれば別の理由でだろう、とおっしゃる牧師先生もおられます。 しかし、主の晩さんは自分で用意するものではない、口に入るものです。愛さんを用意しないならば、主の晩さんも用意すべきではないということになります。もし、それでも規則だからと、主の晩さんを行うならば、それを教会が提供するとは、このご時世に何事か、とお思いになる方は、もちろんいらっしゃるわけです。すでにいくつもの教会が、礼拝はささげても主の晩さんは当分の間執り行わない、という方針を打ち出しています。 それはおそらく、感染のリスクそのものよりも、信徒たちが不安な中でわざわざ主の晩さんを形式的に執り行うことに意味はない、ということを考えてのことだと思います。ほんの少しでも不安を覚える中で、果たして、主の晩さんの恵みを味わえるものでしょうか。 それでは、なぜ私たちは人をつまずかせてはいけないのか、「なぜ」を問いましょう。神さまのみこころははっきりしている、そのみこころに従えない人の方が悪い、つまずいたなどと、教会や牧師や信徒のせいにされても困る、そんな意見をなぜ言ってはいけないのでしょうか? これは、ローマ人への手紙14章、13節から23節をお読みしましょう。……特に注目すべきは、15節のみことばです。人とは何者でしょう? キリストが身代わりに死んでくださったほど、尊い存在です。それほどに尊い存在なのに、私たちはいとも簡単に、弱いなどといってさばいたり、罪に定めたりするのです。 主の兄弟ヤコブはその手紙、4章12節にて言います。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。私たちもまた、キリストが身代わりに死んでくださらなければならなかったほどの、あまりにひどい罪人でした。その立場を考えもせず、人をさばき、人をつまずかせて平気な、自己中心的な存在です。私たちはその、自分の罪に気づかせていただかなければなりません。 ともかくも、人はキリストが身代わりに死んでくださったほど尊い存在です。しかし、人のためにキリストが身代わりに死んでくださったということを、だれが伝えるのでしょうか? 教会とそこに連なるクリスチャンしか伝えられません。 それなのに、教会ならびにクリスチャンが、その救われているという特権意識にあぐらをかいて、平気で人をつまずかせているならば、しかもそんな自分を正当化するならば、それは世の中から糾弾されるどころではありません、キリストの贖いをむだにすることになります。神さまはそんな私たちのことをどうご覧になるでしょうか? どれほど恐ろしいことでしょうか。 つまずきが起こるのは避けられなくても、つまずきを起こす者はわざわいであるというイエスさまのみことばに、あらためて耳を傾けましょう。私たちは何をしても守られるという信仰を働かせるのはまことに結構なのですが、それがだれかのつまずきとなってはなりません。そうなってしまうならば、一見すると信仰から出ているように思える行動も、信仰から出ているとは言えなくなります。私たちのうちのだれかがこれ以上信仰を働かせられない、つまりはつまずいてしまっていることを放っておくならば、それは信仰によって進むべき教会という共同体のあり方として、とてもふさわしくないということになります。 このときこそ私たちは信仰を働かせる必要がありますが、その信仰は、ふさわしいかたちで働かせるべきものです。最後に、コリント人への手紙第一10章に戻り、31節のみことばをお読みしましょう。……何によって神の栄光が顕れるのでしょうか? 人々をつまずかせる行動が正当化されず、みなが平安の中でキリストに従うことを通してです。人をつまずかせない歩みを心がけ、神の栄光を豊かに現す、そのような教会形成に献身する私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。