祈りに招かれた私たち

メッセージ題目;祈りに招かれた私たち  コロナウイルスの流行で、世界はますます厳しい局面に置かれています。もともと中国の武漢から拡散した伝染病ですが、いまや国境を越えて、ヨーロッパ全土にまで広がっています。その流行のうわさに伴うパニックからも、日本は自由ではありません。  私たちはこのような時こそ、祈る必要があることは、あらためて申し上げるまでもないでしょう。しかし私たちは、「祈ります」とか「祈っています」と言いながらも、果たして実際に、どれほどの時間をかけて、熱心に祈っていることでしょうか? もし私たちが祈れないとしたら、それはいったいなぜなのでしょうか? 今日は、イエスさまの祈りの場に招かれた3人の弟子の姿から、私たちにとって実践すべき祈りのあり方を、ともに考えてみたいと思います。  イエスさまは弟子たちを引き連れて、最後の晩さんの席から立ち上がり、ゲツセマネの園へと向かわれました。ゲツセマネの園。それは、オリーブ油を搾る場所であります。オリーブの実は完全な搾りかすになるまで何度でも搾られます。残った搾りかすもともしびを灯す燃料として使われます。搾られて搾られて、身を尽くすのです。イエスさまもまた、この園でそれこそ、搾りかすのようになるまで、血の汗を流して祈られるのでした。  その場所は、イエスさまが弟子たちとたびたび会合をともにされた場所でした。そこに向かわれたということは、何を意味していたのでしょうか? イスカリオテのユダが、イエスさまはここにいるから逮捕しに行くならここだ、と、宗教指導者たちに知らせていた場所でした。そこに行けばユダの手引きによって、ご自身が逮捕され、十字架という極刑に処せられることを、イエスさまはご存知でした。しかし、それにもかかわらず、イエスさまはゲツセマネの園に向かわれたのでした。  イエスさまはこのとき、どのような思いでいらっしゃったのでしょうか? 喜んで十字架を負います、ではなかったのです。この苦しみを避けることができるならば! その思いでいっぱいでいらっしゃいました。  もちろん、イエスさまが十字架にかかられることは、つまり、ご自分から人のためにいのちを捨てられることは、すでに何度となく語ってこられていたとおりでした。予感していないことが起こるどころか、覚悟をもってそこに向かわれたのは確かです。しかし……イエスさまの十字架は、御父との断絶を意味していました。何の罪もない方が、人という人のあらゆる罪に汚されて、御父から捨てられる。それを避けることができるならば、どんなによかったでしょうか!  私たちはイエスさまのこのみ思いがどうだとかこうだとか、論評する立場にはありません。なぜなら、私たちはしょせん罪にけがれても平気な罪人であり、イエスさまのみ思いなど、罪人である私たちにとっては、想像の域を出ないことだからです。  しかし私たちは、イエスさまがこの祈りの戦いの場に、弟子たちをお招きになった意味を考えたいと思います。弟子たちは、最後の晩さんの場でイエスさまがお語りになったさまざまなおことばを聞いて、心は悲しみでいっぱいになっていました。もちろんイエスさまは、御自身が去って行かれることは、聖霊なる神さまがいらしてくださることにつながり、それはあなたがたにとってよいことであるとおっしゃいました。しかし、弟子たちの現実はと言いますと、目の前でこうして語ってくださっているイエスさまが悪者どもの手に引き渡されて去られるのです。そんなことをいったい、受け入れることなどできるものでしょうか。 現在私たちクリスチャンは、聖霊なる神さまがともにいらっしゃるので、たとえ目に見えなくてもイエスさまがともにおられることを体験していますし、イエスさまの御名によってお祈りするその祈りが聞き届けられていることを体験しています。イエスさまが肉体をとってここにおられなくても、何の問題もありません。 しかしこの弟子たちとなると話は別です。イエスさまは、現実の空間に目に見える形でともにおられることに意味がありました。イエスさまがいなくなったあとのことなど、このときの弟子たちには想像のしようもなかったことでしょう。それに、そんなことになったら、どれほどむなしいか! どれほど悲しいか! お願いです、そんなことはおっしゃらないでください、弟子たちはそんな気持ちになったかもしれません。 その弟子たちが、いまこうしてイエスさまの悲しみ悶える姿を見なければならないということは、拷問にも近いことでしょう。私はこの箇所を読むたびに、できれば読み飛ばしたくなる衝動に何度も駆られたものです。こうしてメッセージを語っているいまだってできれば読みたくないくらいです。私がそんなことを思う箇所は、分厚い聖書全体の中でも、ここくらいです。 それでもイエスさまは、このゲツセマネの祈り、油搾りの祈りに、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを同席させました。彼らはいやでも、イエスさまが血の汗を流して祈られる場面をずっと見つめながら、自分たちも祈らなければならなかったのです。ともに祈ってくれ! これが、イエスさまの招きなのです。 よく、クリスチャンたちを毎日のディボーションの習慣に招くメッセージで語られているとおり、主の働きをなす人がすべからく、日々主との交わりを持つべきなのは、イエスさまが働きの場からも、弟子たちからも離れ、静かな場所にて一対一で御父と交わる、リトリートの時間をしっかり持っておられ、私たちもそのイエスさまのお姿にならうべきだからです。イエスさまは、弟子たちを意識してオープンな祈りをされたときを除いては、基本的にとても個人的に、御父とお交わりを持っておられたことがうかがえます。 しかし、このゲツセマネの園での祈りにおいてはどうでしょうか。恥も外聞もかなぐり捨てたようなこの祈りの戦いを、イエスさまはあますことなく、弟子たちにお見せになりました。 御父のみこころを前に、血を流すほどの抵抗をなさったイエスさまのこのお姿、またおこころを見て、私たちはそれでも、いえ、どうか十字架にかかってください、そうでないと私たちは赦されません、などと言う資格があるでしょうか。口が裂けても言えないことです。イエスさまの十字架はどこまでも恵みです。私たちきたならしい罪人のために、あんなお姿で亡くなってくださる義理などあるわけがないのです。しかし御父はイエスさまに、それにもかかわらず十字架にかかってのろいを受けて死になさい、というみこころを示されるのみでした。 この、祈りの戦いに勝利されたゆえに、私たちのすべての罪が赦され、神さまの怒りから救われ、神さまの子どもにしていただいたことを、私たちはもっとありがたく思っていいはずです。クリスチャンはすべからく、この祈りの戦いに勝利してくださったイエスさまに感謝すべきです。 しかしここで、私たちはこの祈りの場に、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを招かれたイエスさまの意図を、もう少し黙想してみたいと思います。みんな、悲しんでいました。みなさまもご存じのとおり、悲しむということはとても体力のいることです。彼らが泣いたとはみことばは語りませんが、この箇所では弟子たちの様子を、まぶたが重くなっていた、と語っています。また、悲しみのあまり眠り込んでいた、と、並行箇所は表現しています。そこから察するに、彼らはイエスさまのおことばに、ただひたすらに悲しくて、悲しくて、何度となく涙を流し、まぶたが腫れてしまったかもしれません。そして、疲れ切ってしまったことでしょう。こうなってしまうと、きびしいのは肉体の弱さが燃える心よりも先に立ってしまうことです。 弟子たちはついさきほどまで、たとえ全部の者がつまずいても私は決してつまずきません、などと大見得を切ってみせていました。イエスさまのおことばをあまりに額面通りに受け取って、人を傷つけ、あやめる道具である剣を2本も取り出してみせたりもしました。彼らの心は、悲しみに満たされる一方で、イエスさまのためなら死ぬことも覚悟しようという、燃える思いでいっぱいになっていました。彼らは確かに、心が燃えていたのです。 だが、肉体の弱さとは、なんと残酷なものでしょう。心が燃えているときは、その燃える思いは永遠に続くように錯覚します。よもやこの思いがすっかり冷めてしまって、イエスさまを裏切るようなことをすることはもうあるまい、などと思ってしまうものです。しかし、この心の入れ物である肉体は、パウロが喝破したように、しょせん土の器です。弱い肉体がついに燃える心に勝ってしまうことなど、いくらでもあるものです。 私たちは、全能なる神さまの御力をいただいています。神さまの知恵もいただいています。それがクリスチャンの素晴らしさです。しかし、神さまは全能でも、だから私たちが全能なのではありません。私たちが信仰を働かせるのは結構ですが、神さまはそんな私たちに、はっきり、被造物としての限界を定めていらっしゃいます。そうです、私たちがしょせん、土の器にすぎないことを、気づかせてくださるのです。 では、しょせん私たちが土の器ならば、私たちは主にあって、主にお従いするビジョンを思い描くことは不遜なことであり、してはいけないことなのでしょうか? そうではありません。もしそうだとするならば、神さまは私たちに、全能の神さまそのものでいらっしゃる聖霊さまを注がれることなどなかったはずです。私たちは聖霊さまの満たしと導きにより、神さまのみこころにかなうことは、何でもできます。そうです、それこそ、何でもです。 それでも私たちが心に留めるべきことがあります。私たちが有限であることを認めることです。無限なのは、死んでよみがえられたイエスさまおひとりだけです。私たちは、主の恵みがなければ、どんなに心が燃えようとも、肉の弱さに征服されてしまう被造物である、そのことを謙遜に認める必要があります。   では、イエスさまは彼ら弟子たちがそのように、心が燃えていても現実の肉体は弱くて、もはや1時間でも起きて祈ることなどできなかったと、ご存じなかったのでしょうか? もちろん、そうではありません。イエスさまは彼らの肉体が限界になっていたことをご存知の上で、あえてこの、決死の祈りの場に招かれたのでした。  このことから私たちは何を学びますか? お祈りすべきときには、いかなる理由があろうともお祈りすることを主は求めていらっしゃる、ということです。いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことについて感謝しなさい、テサロニケ人への手紙第一5章16節から18節のみことばで、とても有名ですが、絶えず祈りなさい、とみことばで命じられている以上、私たちは何があっても、絶えず祈りつづけなければならないのです。  しかし、実際の私たちはどうでしょうか? イエスさまのじきじきの命令により招かれた祈りの場で、3度にわたって眠り込んでしまった、1時間も目を覚まして祈ることができなかった、それが、十二弟子のリーダーであったペテロ、ヤコブ、ヨハネの現実の姿でありました。いわんや私たちは、もっとお祈りすることもできないものであることを、まず認める必要があります。  それでも祈らなければ! 私たちは、祈りにおいて怠惰な自分に気づかされるとき、悔い改めて、心を新たにして祈りに取り掛かろうとするでしょう。しかし、やはり肉体の弱さに呑み込まれてしまいます。あとに残るのは、自分は目を覚まして祈ることができなかったなんてという、罪責感ばかりです。  何がいけないのでしょうか? それは何よりも、私たちの決心が、肉的な頑張りによってなされるものにすぎない、ということです。決心する、頑張ることは、一見するととても素晴らしいことに見えます。その一定の効果はもちろん認めるべきなのですが、しかし、肉的な決心や頑張りでお祈りが継続するわけではありません。 しかし、ひとたび私たちがお祈りする恵みをいただいたならば、私たちは肉の弱さに打ち勝ち、祈れるようになります。私たちはいま、祈りに燃えることができますでしょうか?「一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか」とイエスさまに問われたならば、果たしてまともにお答えすることができますでしょうか? まっすぐイエスさまの目を見て、「はい、あなたさまの恵みによって、あなたさまの求めていらっしゃるだけのお祈りをさせていただきました」と言えますでしょうか? 私はみなさまとともに、全員そろって、その告白をイエスさまにさせていただきたいのです。  イエスさまがこのとき、お祈りの時間の基準としておっしゃったのは、一時間。みなさん。一日とはいいません、せめて一週間のうち、一時間をささげてお祈りするとしたら、それはいつでしょうか。私たちは、くつろいだり、テレビやインターネットを視聴したり、携帯電話をいじったりと、好きなことをしているうちに、あっという間に一時間を費やしてしまうものです。しかし、神さまの前に祈るには、それなりの戦いの姿勢が必要です。大げさではなく「戦い」です。私たちの肉の弱さを当たり前に動かそうとするサタンの誘惑は、どんなときにも襲いかかってきます。神さまの恵みを求めるのです。  ただ、この戦いは、イエスさまの戦いのような、孤独な戦いではありません。私たち信徒たちが相互に祈りの課題を交換し合い、お互いを覚えて祈るならば、私たちは決してひとりで戦っているのではないことがわかります。まるでイエスさまの祈りの場に、御使いが現れて力づけてくれるようなものです。コロナウイルスの流行により集まりが制限されるというこの非常事態は、逆に考えれば、私たちひとりひとりが主の御前にともに進み出るという、またとないチャンスの時です。ともに祈りましょう。