「有終の美に向かって」

聖書箇所;テモテへの手紙第二4:6~8/メッセージ題目;「有終の美に向かって」/ 目標を定めた競走、目標の定まった拳闘……先週私たちは、「ぶれない生き方」というものについてともに考えました。私たちが神さまにあって「ぶれない生き方」をするために、神さまが私たちに与えてくださっている「召命」は何だろうか、「賜物」は何だろうか、「志」は何だろうか……私たちは祈りのうちに考えました。そしてその3つ、召命・賜物・志が重なるところ、それに集中することで、ぶれない生き方ができるということをともに学びました。 さて、それではですが、その「ぶれない生き方」をしていくということを、私たちはどのようにイメージしていますでしょうか? 元気な精神と強い肉体で、いっしょうけんめいこなしているというイメージでしょうか? しかし、私たちはそのように生きていながらも、いずれは終わりというものを迎えます。その「終わり」をこそ、私たちはしくじらずに迎えたいものです。 アメリカのある神学校の先生がおっしゃっていたことだそうですが、主の働き人の中でよい終わりを迎える人というのは、3人に1人だそうです。これは、その講義を聴いていらっしゃった方が教えてくださったことです。その教授は、講壇から降りて学生たちの間を回りながら、順番に学生たちの頭に手を置いて、そのたびにこうおっしゃったそうです。「ダメ、ダメ、よし。ダメ、ダメ、よし。」なお、この話をしてくださった先生は、「ダメ」のほうだったそうです。 多くの働き人が、主のもとに召されるまでに牧会の働きを全うできないのだそうです。挫折してしまう。しかしこれは、主の召命に生きること、主の賜物を活かして生きること、主から与えられたやる気に満ちて生きることに挫折したともいえるわけで、そういう方は敗北感たっぷりに生きていないか、心配になります。事程左様に、召命・賜物・志をはっきりさせて生きることは必須なわけです。 ただし、これがそれこそ「空を打つ拳闘」「目標の定まらない走り方」にならないために、私たちはどこに向かって、走っていくようにして生きるものなのでしょうか? 以下、3つのみことばから学びます。 まず、ヘブル人への手紙12章1節から3節、「イエスさまから目を離さないで生きる」ことです。お読みします。 クリスチャンとはどのような人でしょうか? 雲のように多くの証人に取り囲まれている人です。旧新約聖書を読むと、信仰の先達がいかに神とともにあゆんだか、その記録に満ちていて、私たちはこれをお読みすることによって、自分と同じような平凡な人がこうして神とともに歩む祝福を受けたという事実に、励ましを受けます。 しかし、そのように雲のごとく自分を取り巻く証人の証しにふれるには、聖書のみことばをお読みすることが必要になります。ただ、このヘブル人への手紙の時代には、信徒各自が聖書を持っていたわけではありません。信徒の群れという共同体の中で分かち合われるみことばによって、信仰の先達のその歩みにふれていたわけです。 現代はその時代を考えると、各自に聖書が行きわたっていて、その点ではとても素晴らしい時代です。好きな時にいつでもみことばを読むことができます。スマートフォンを使ってでさえ、みことばが読めます。究極の携帯です。 これだけみことば全体がそばにいつもあると、それこそ、各自を雲のように主の証人が取り囲むような時代……もしかしたら、ヘブル人への手紙の筆者は予見していたのかもしれませんが、少なくともヘブル人への手紙が書かれた時代には、想像もつかなかった事態が、いま私たちの目の前に展開しています。私たちは主の証人たちの、すぐそばにいさせてもらっています。 さて、その証人は、どのようにして主とともに歩んだのでしょうか? 忍耐をもって歩みました。私たちがみことばから学ぶことは、彼らをとおして主が奇跡のわざを行われたことを、まるで彼らのすごさのように勘違いして、彼らは特別で自分とは関係ない、と思うことでは決してありません。私たちはむしろ、そんな彼らも大変な忍耐の中にいたこと、それは自分もまた体験させられていることであると受け取り、今日体験している苦しいことを、主からの訓練として耐え忍ぶ信仰を育てていただくことが必要です。 しかし、彼らはなぜ耐え忍ぶことができたのでしょうか? 2節のみことばです。……そう、それは、信仰というものの源であり、信仰というもののゴールである、イエスさまから目を離さなかったからです。私たちはイエスさまの十字架から目を離さないことによって、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、人生の競走を走りおおせることができます。 3節のみことばです。まず、イエスさまが忍耐されたのでした。イエスさまが忍耐されたゆえに、代々の聖徒たちは忍耐をすることができ、それゆえに私たちも忍耐するのです。私たちの心は元気を失っていないでしょうか? 疲れ果てていないでしょうか? イエスさまを見上げることです。 私たちが疲れてしまうのはなぜでしょうか? イエスさまが見えなくなっているからです。私たちはイエスさまのことを見上げるには、あまりにも忙しい環境に置かれています。次から次へと仕事が入ってきて、息をつく暇さえありません。でも、そんなときに、心のどこかに留めておいていただければ感謝なのですが、初代教会の使徒たちが祈りとみことばに専念することでその職務を全うしたように、私もみなさまに必要なみことばを備え、みなさまのためにお祈りしています。 特にお祈りすることは、みなさまがとてもお忙しい中にあったり、その忙しさから解放されてご自宅でしばし憩いのひとときをお持ちになったりしているとき、イエスさまから目を離さないでゆかれるように、ということです。私たちはあまりにも、この世のことに忙殺されて、結果的にイエスさまから目を離してしまうようなことの多いものです。 しかし、イエスさまはそのような私たちのことを、特別に憐れんでくださっています。世に対してよそ見してしまうような私たちのことを、イエスさまにその目を釘づけにするようにしてくださいます。 とはいいましても、私たちにもし、食べて生きていく上での時間以上に時間が残されているならば、その時間は何としてでも、イエスさまに目を留める時間に最優先で用いていただきたいのです。もちろん、じっくり時間を取るのがベストですが、たとえじっくり時間を取れなくても、一日の初穂の時間である、朝の時間を聖別して、イエスさまとの交わりの時間に充てることはできませんでしょうか? アーサー・ホーランド先生の本のタイトルではありませんが、「1ミリだけ難しく生きよう!」。ちょっとの努力で、イエスさまに少しでも目を留めてみましょう。いえ、イエスさまとの時間にこそ私たちが生き返る道があるならば、少しでもイエスさまのもとに行けるよう、私たちは積極的に取り組むことができないでしょうか? ともあれ、イエスさまから目を離さない生き方を、聖書のあらゆる聖徒から学び、私たちも実践する者となりますように、主の御名によってお祈りいたします。 2番目のみことば、それは、ピリピ人への手紙3章12節から14節です。 もちろん私たちは、イエスさまを信じる信仰によって、すでに神さまに救っていただきました。そこには何の努力もいりません。しかしだからといって、私たちはこのような救いを与えてくださった主と、無関係に生きるわけにはまいりません。このような素晴らしい救いを与えてくださる主と、私たちは全身全霊でお交わりし、このお方を人々に伝えるのです。 パウロは言っています。「私はすでに得たのではない」、「私はすでに完全にされているのでもない」、「私はすでに捕らえたなどと考えてはいない」。 考えてみればパウロは、ダマスコ途上でイエスさまに出会ったその瞬間から、イエスさまの福音を異邦人に宣べ伝えるという召命をすでにいただいていました。ただ、ダマスコ途上で救っていただいたから、その救いで充分、となっていたわけではなかったのです。パウロは、使命を全うしてこそ、この世で生きる意味がありました。でも、間違えてはいけません。パウロは「救っていただくために」使徒として働いたのではありません。「救っていただいたから」使徒として働いたのです。 この箇所をよく読みましょう。パウロは確かに、この救いを完全に自分のものとするように「捕らえる」ことに専念していると告白しています。 しかし「捕らえる」ようにしているのは、なぜであるか、それは、イエスさまが自分のことを「捕らえる」ように「捕らえて」くださっているからだ、というのです。 つまり、救いを「捕らえる」ということは、実は「捕らえるようにしてくださっている」、「捕らえさせてくださっている」ということです。救いの主体はパウロにはありません。イエスさまにあります。同じことで、私たちは救いの完成を目指して努力しますが、実際は、そう努力できるように、イエスさまが私たちのことをがっちりと捕らえていてくださるのです。 目標はわたしだよ、わたしがそばにいるから、あなたはわたしの備えたこの道を、力いっぱい走りなさい……イエスさまはいつもそばにいてくださり、私たちのことを励ましてくださっています。 14節をご覧ください。ここにも「賞」が出てきます。その「賞」とは何でしょうか?「キリスト・イエスにあって神が上に召してくださる」、これこそが「賞」です。私たちはイエスさまを信じれば天国に行けます。何かを差し出したから天国に行ける、というものではないことは、忘れずに押さえておく必要があります。しかし、日々主と交わり、天国に行くための備えを日々していくならば、いざ天国に行ける日のその喜びは計り知れぬほど大きくなります。私たちの人生は、天国に行くその日に完成するのです。そこから脱落しないためにも、いえ、消極的なことを言ってはいけません、天国に行ける喜びが日々増し加わるためにも、私たちは日々、主とともに歩む必要があります。 私たちは、救われているからもう充分、と考えはしないでしょう。この救いを完成させていただくために、召命に生き、召命に生きるうえでの賜物を見出し、賜物を活用するうえでの志を新たにしたいと思いませんでしょうか? 先週取り組んだ、ぶれない生き方をするための人生の3つの要素は、これからもはっきりさせてまいりたいものです。人生を神のみこころを顕すということにおいてぶれずに生きるということは、人生の完成に向けて歩みつづけるということです。 私たちはやがて、天の御国で再会します。それは、完成したお互いの人生の姿をお互いが見て、ともに神さまをほめたたえるということを意味します。その日に向けて、主の御前で恥ずかしくなく生きる私たちになりますように、主の御名によってお祈りいたします。 最後に、テモテへの手紙第二4章6節から8節のみことばをお読みします。 これは、パウロの書いた手紙類の中で、聖書に採録されている最後の手紙の、締めくくりの部分のことばです。そう考えると、これはパウロの遺言ともいえ、また、使徒として生き抜いた人生の総括のことばともいえます。こうなると、あまり解説を加えたりするのは、野暮というものかもしれません。 私たちは言えるでしょうか?「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」カッコイイ、とか言っている場合ではありません。このことばはクリスチャンとして生きる以上、人生の終わりを迎えるときには、すべからく口にすべきことばです。 とはいっても、パウロは人生をこれで終わりにしたわけではありません。13節をご覧ください。外套は、寒さをしのぐために必要なものでしょう。しかし、それにつづく「羊皮紙のもの」は何でしょうか。テモテにはそれが何であるか、たちどころに分かったはずです。いずれにせよパウロは、牢獄の中にいて外に出られないような人生、しかもいよいよ終わりを意識するような状況の中にあって、それでもなお、勉強を続けています。成長することを心がけていたのです。 この姿から私たちは何を学べるでしょうか。私たちの人生は、主が召されるその瞬間まで、終わりというものはない、ということです。パウロはこの、臨終の告白をしてもなお、成長するために勉強する意欲にあふれていました。私たちも成長するのです。よく、哺乳類の成長曲線、それはこのように伸びて、最後は緩やかに下っていく、それは人間も同じと思いますでしょうか? いえ、そんなの嘘っぱちです。 もちろん私たちは、時に落ち込みます。しかし、それで終わりなのではありません。私たちはときに落ち込んでも、また盛り返し、さらに成長します。成長しつづけて、完成する、これが私たちの人生なのです。 想像しましょう、イエスさまが義の冠を授けてくださるその瞬間を。その日に向けて、私たちが恥じることなく歩むために、今日、何ができるでしょうか? 今年……早くも5か月が経とうとしていますが……今年、何ができるでしょうか? ヤコブの手紙にあるとおり、主のみこころなら私たちは生きていて、このことを、またはあのことをしよう、それが私たちの生き方です。神さまに許されている中、完成に向けて、有終の美に向けて歩みます。その日を思い描き、今日の働きに種を蒔く私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りします。

「スポーツ選手のように」

聖書朗読;コリント人への手紙第一9:24~27/メッセージ題目;「スポーツ選手のように」 昨日私は妻と一緒に、娘の体育祭を観に行きました。全部で5つのクラスごとに分かれた組別対抗戦で、その代表選手がリレーで走る姿に、中学生になって成長した分、小学校のリレーよりもさらに迫力がありました。私どもも娘のチームを応援しましたが、残念ながら優勝はできませんでした。 スポーツ観戦というものは自分がプレーしているわけでもないのに、競技や試合をする選手に感情移入して、観ている方、応援する方も燃えます。やはりそれは、勝利したものが賞を得る、その賞に向かって全力を尽くす姿に、観ている者も燃えるわけです。聖書のむかし、古代コリントにはすでに、この「賞」を得るために競技するスポーツが存在しました。 さきほどお読みした箇所、コリント人への第一の手紙9章24節から26節のパウロのことばは、競走やボクシングのような古代スポーツで賞を得るためにあらゆる節制をするスポーツ選手の姿をみれば、私たちクリスチャンにとって賞を得る歩みをするとはどういうことかわかるではないか、と説いているわけです。 パウロはこの箇所の直前で、私は多くの人を獲得するためにすべての人の奴隷となる、と語っていますが、パウロはここで、お高くとまったユダヤの律法学者の姿を捨て、荒くれた港湾都市コリントの男どもの視点に立って、彼らが好きなスポーツというものをたとえに用いて神の国を語っているわけです。このメッセージはまさに、しもべとしてのパウロの姿勢を示しています。 それはともかく、ここでパウロは、スポーツ選手はどうあるべきだと語っていますでしょうか? まず24節、「賞を受けるのは一人」ということです。オリンピック最大の花形競技、マラソンはもちろん、最初にゴールのテープを切り、金メダルをもらうことが、選手にとって最大の目標であり、また栄誉です。それが許されるのは選手が多かろうが少なかろうが、たったひとりです。 賞を受けるのはひとり、ほかのだれでもない、クリスチャンに課せられた姿勢はそのような姿勢です。ペテロは、イエスさまによって弟子としての回復、働き人の回復をいただいたとき、すぐそばにいたヨハネがふと気になり、思わずイエスさまに、こういう意味のことをお尋ねしました。「主よ、彼はあなたについていけますか。」しかし、イエスさまはおっしゃいました。「イッツ・ナン・オブ・ユア・ビジネス。彼がどうなろうと、あなたには関係ありません。あなたはわたしに従いなさい。」人のことはいいのです。私たちが第一に考えるべきことは「自分が」イエスさまについて行き、賞を得る歩みをすることです。 25節をご覧ください。その賞はどんな賞でしょうか? 朽ちない冠です。マラソンの勝者は月桂冠をその頭にかぶらされ、栄誉を称えられます。そして、たっぷりの優勝賞金をもらいます。しかし、それらはみな、この世の富であり、この世の栄誉です。手にしたとしても一時的で、いずれは朽ちていきます。 私たちの賞はそのようなものではありません。私たちは人にほめられたり、多額の富を手にしたりするために主にある歩みをするのではありません。むしろ私たちは、この世においては名もなく貧しく歩むものかもしれません。名もなく貧しく、そんな私たちは人の目には美しくなく、しかし、神の目には美しいのです。わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。このみことばをいただいて、私たちは天の御国で永遠の賞、永遠の王としての冠を神さまからいただくのです。ハレルヤ! ただ、そのためには、私たちはあらゆることについて節制する必要があります。マラソン選手でよけいな贅肉でたっぷんたっぷんしている人はいません。とにかく贅肉をそぎ落とします。贅肉がつかないようにしっかりトレーニングし、食べ物にも気を遣います。睡眠時間も考えるでしょう。スポーツ選手がこの世の栄誉や富を得るためにそこまでしているのなら、いわんや、主のために努めるべき私たちは、主にあって努力せずにいられましょうか、ということです。 ただし、ここでいう私たちにとっての「節制」は、人間的な努力とはちがいます。もちろん、ある面では重なる部分もあるかもしれませんが、私たちにとっての「節制」は、「この世と調子を合わせない」という実を結ぶべきです。なぜならば、私たちは神の栄光を顕して生きるべきであり、この世と調子を合わせるようなら、神の栄光を顕すことなど望むべくもないからです。ローマ人への手紙12章2節をお読みしましょう。 変えていただき、とあります。私たちは自分で自分を変えようとする前に、神さまに変えていただく必要があります。そのために私たちは、お祈りするのです。私たちの弱さ、私たちの罪、私たちのこの世に傾いてしまう部分を正直に主の御前に告白し、主のお取り扱いをいただく、それがいつも私たちにとって必要なことです。こうして私たちは、主にあって節制することを学びます。そうさせてくださるのは聖霊なる神さまです。私たちが節制できるようになったとしてもそれは神さまのみわざですから、私たちは自分を誇るべきではありません。 26節。スポーツ選手はただトレーニングをすればいいのではありません。ゴールとはまったくちがった方に行ったり、ボクシングでパンチが空振りしても、何にもならないわけです。マラソンでは失格にしなりますし、ボクシングでは相手にやられます。目標を外さない、これが私たちに求められている姿勢です。 27節。こういうことをコリント教会に説くパウロは、自分自身が失格者とならないように、自分ことが努力すべき存在であると語ります。私もそうです。私もこうして、高いところから語らせていただいていますが、ここでお話ししているとおりのことを私ができていないならば、絵に描いた餅にしかなりません。みなさまがこのみことばを守り行なって合格しても、私だけは失格者、そんなことになってはいやです。 さて、ここまでパウロはスポーツ選手になぞらえて、自分を含めたクリスチャンの姿勢について語ってきましたが、スポーツ選手の名言は古今東西数あれど、私にとって近しいもののうち、とても対照的な発言を取り上げてみたいと思います。 私が中学生のとき、プロ野球で、公式戦連続出場の世界記録を達成し、国民栄誉賞を受賞した選手がいました。覚えていますか? 衣笠祥雄さんです。それはプロ野球では2人目の国民栄誉賞受賞で、その前に受賞したプロ野球選手は、国民栄誉賞というものそのものを創設するきっかけをつくった人でもありました。その選手はどなたか、もうお分かりですね、王貞治さんです。ホームランの世界記録をつくった人です。 王選手と衣笠選手は、それぞれの記録にまつわる発言を見ると、とても対照的です。王さんはこういう発言をしています。「ホームランというのは準備したことがちゃんとできてるだけの話。」「練習を怠る人が上手くなることはないんですよ。修練して上手くなった人がより上手くなるんです。」いかにも努力家の王さん、ストイックな王さんらしい発言です。 では、衣笠選手は何と言っているでしょうか? もちろん、努力の大切さも語っています。しかし一方で、こんなことをも言っています。「野球が大好きでした。こんな好きなことを一日たりとも休めますか。」 もちろん、これだけの記録を打ち立てることができたのは、王さんにしても衣笠さんにしても、恵まれた体格と天才的なセンスがあったからですが、その上で、努力しなければという強い義務感、そして、好きだから頑張ろうという自発的な思いがあったからということは、言うまでもありません。 私たちはどうでしょうか? 私たちが神さまの子どもならば、私たちのうちに住まわれる神の霊によって、私たちは神の子らしく歩もうという義務感が与えられ、それにふさわしく節制しますし、神の子として歩みたいという内的衝動が与えられ、その従順はすべて自発的なものとなり、それ以前に、神の子として歩めるという自分自身の存在意義を日々発見し、その歩みが全うできるように、主との交わりを日々深めていきます。 私たちがそのようにして、日々、的を外さない、ぶれない歩みをして、主の栄光を顕すべく用いられる者となりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

「聖書の語る弟子訓練」

聖書箇所;エペソ人への手紙4:7~13/メッセージ題目;「聖書の語る弟子訓練」 先週、東京に行ったとき、その帰り道で、学生時代の親友に、ほんとうに久しぶりに再会しました。15年ぶりでしたが不思議なもので、会ったとたんにそんな時の流れなどたちまち忘れました。 そんな彼が、「武井くんに渡すものがある」といいました。彼は実をいうとミュージシャンです。さては新しいアルバムを出したかな、それをプレゼントしてくれるのかな、と思っていると、彼はたくさんのCDの入った紙袋を渡してきました。彼の新しいアルバムではありません。なんとそれは、私の学生時代のコレクションで、音楽をつくっている彼の役に立つなら、と、神学校入学を前にして、彼にあげてしまっていたものでした。その自分のコレクションに、私は何と25年ぶりに再会したことになります。びっくりするやらうれしいやら、特にそのうちのひとつは、せめてYouTubeに上がっていたりしないかな、と、検索してみても何もなく、がっかり、ということの繰り返しで、喜びもひとしお、といったところでした。 彼と私は、今から29年前、「キャンパス・クルセード」という学生宣教の団体で友達になりました。その頃、うちの教会もそうだったと思いますが、若者たちが「リバイバル」ということばを合言葉に、教会成長に向けてとても盛り上がっていた時代でした。しかしその中で、キャンパス・クルセードは確かにその「リバイバル」の流れの中にいながらも、取り組んでいたことは、ひとに伝道できるように、また、そうして信仰を持ったクリスチャンのことを、リーダーとして訓練できるまでになれるように、学生たちを鍛えていた「弟子訓練」を主体とする、地に足ついた宣教団体でした。 この団体にはいろいろな教会から集まっていましたが、一部の教会を除いて、教会というところではなかなか、このような厳しくも楽しい「弟子訓練」というものを受けられる環境にはありませんでした。私はこの団体に身を置きながら、このような「弟子訓練」をそれぞれが通う教会で受けられるならば、教会もクリスチャンもどれほど成長するだろうか……そんなことを考えるようになりました。 やがて韓国の神学校に行き、私が神学生として在籍した教会は、弟子訓練に力を入れ、大きく成長を遂げていました。 特に、最後の奉仕教会だったサラン教会は、弟子訓練による教会形成という働きにおいて韓国を代表する教会で、サラン教会のみなさまは、私がゆくゆくは日本で弟子訓練の牧会ができるものとなるように、いつも祈ってくださっていました。 このたび、東京西部の山の中で行われた修養会は、そのように弟子訓練に取り組んでこられた牧師先生がた、これから取り組むために準備を進めていらっしゃる牧師先生がたの、分かち合いをとおして学び合うすばらしい時間で、それはけっして堅苦しいものではなく、むしろ、主の恵みの中でいやされました。私もこの3日間の中で、多くのことに気づかされ、今後の牧会を進めていくにあたっての方針を再確認させられることがたくさんありました。 今日はその中で、特に分かち合いたいこと、それは、「弟子訓練はなぜ行うのか」「弟子訓練はどのように、いつ、どこで行うのか」「弟子訓練はだれが行うのか」、この3つを学び、弟子訓練による教会形成の意義を、この共同体で共有したいと思います。 では、まず、「弟子訓練はなぜ行うのか」、これは、さきほどお読みした本文から発見することができます。7節のみことばです。ここからわかることは、人、特に、クリスチャンは、神さまから賜物という恵み、その人特有のプレゼントを与えられている、ということです。ひとくちに賜物といってもいろいろあるので、今日は本文のみことばの教える「賜物」に限定して考えますが、それはあとで見るとします。 8節から10節をお読みします。まず8節、捕虜とは、死と悪魔に捕らえられた捕虜ということであり、それはかつての私たちの姿です。主は、死と悪魔に捕らえられて滅びるべき私たち罪人を、その罪を十字架によって赦してくださり、私たちを救われて、ともに天国に入れてくださいました。そのようにして、救われた人間に、贈り物、賜物を与えてくださったというのです。 なぜ、人を罪と死から解放し、救ってくださり、そればかりか人に、賜物を与えられたのでしょうか? それは「すべてのものを満たすため」です。虚しさに服したこの地は、イエスさまによって満たされる必要があります。その、満たす働きは、だれがするのでしょうか? 死の虚しさから救っていただいた、私たちがするのです。 賜物とは何か、ということは、11節に列挙されているとおりですが、それはあとであらためて見ることにして、12節をご覧ください。この賜物の与えられた献身者がすること、それは、キリストのからだを建て上げる、ということです。そのために、聖徒を整えて奉仕の働きをさせるのです。 ですから、なぜ弟子訓練をする必要があるのか、それは、キリストのからだを建て上げるために聖徒を整える必要があるため、ということです。愛するみなさん、私たちはキリストのからだを建て上げる主体である、という意識を持っていますでしょうか? それが充分にできている、あるいは、できつつある段階に置かれている、という感覚をお持ちでしょうか? 私はみなさんに、私はキリストのからだを建て上げる主体として整えられている、そういう自覚、というと厳しいですが、感覚、を、少なくとも持っていただきたいと、心から願っています。ただし、そのためには、キリストのからだの主体として整えられるためには、それなりの環境に私たち自身を置く必要があります。 そこで「環境」についてお話しします。弟子訓練は、どのように、いつ、どこで受けるのか、という問題です。ここからは今日の聖書本文の解釈をしばらく離れますが、実際的な適用として聞いてください。まず「どのように」、これは、私の25年の献身者としての生活、33年のクリスチャンとしての生活から学んだ結果、つねに実践できたかどうかは別として、間違いのないこととして確信してきたことですが、クリスチャンが整えられるには、少なくとも3つの環境があるのが理想的です。 まずは「大礼拝」です。いまこうしてささげている礼拝、これが必須です。この礼拝は、私たちが水戸第一聖書バプテスト教会という共同体、主のからだのひと枝としてささげているものであり、ここで私たちは主のみことばと主の霊によって整えられます。これは「ともに整えられる」主のわざです。 次に「小グループ」です。イエスさまは何千人もの大会衆を導かれた一方で、十二弟子の訓練に集中していらっしゃいます。さらにイエスさまは、その中からペテロとヤコブとヨハネのわずか3人を選抜して訓練してもいらっしゃいます。小グループはお互いが話し合いながら、みことばの恵みや生活の分かち合いをするので、自分には気づけなかった主の恵みに、多角的に気づかされる時間となります。いまうちの教会で、Dコースという名前で持ってきた水曜日の集まり、金曜祈祷会が、この「小グループ」にあたります。わが家でも毎晩、家族で集まって家庭礼拝の時間を持っていますが、これはまさに「小グループ」です。 そして、「ディボーション」です。「礼拝」と「小グループ」が共同体のわざなら、「ディボーション」は個人のわざです。神さまが個人的に霊とみことばによって交わりを持ってくださる時間です。この「ディボーション」は、共同体で弟子訓練される以前に、個人が弟子訓練されるために必須のプロセスです。この、個人の訓練の集合が、共同体の訓練になるからです。 以上のことをもっと詳しく扱うと、メッセージの語り方や、小グループでの学びの持ち方や、ディボーションの持ち方など多岐にわたりますが、それは時間の都合でおいておきます。以上が「how」、どのように、ですが、以下はその3つを持つ上での「where」と「when」についてお話しします。 まず、日曜礼拝は言うまでもなく「日曜日」に行います。私は長い間、日曜日に休まないで仕事をしている公共交通機関やコンビニや電気・ガス・水道関係の方々の犠牲の上に日曜礼拝は成り立っているのだから、日曜日に休む方々をさばくべきではない、と考えてきました。その考えは今も基本的に変わっていませんが、そう考えるあまり、日曜日に礼拝にやってこないことに対して、極端に甘くなっていたことを、牧師として反省させられています。 聖書は「安息日を覚えてこれを聖とせよ」と教えています。これは、ユダヤ式に「今でいう金曜の日没から一日を礼拝に用いよ」ということを文字どおりに守りなさい、ということではなく、「教会は週に一度を共同体として主の御前にささげよ」という意味です。その集まりの日はイエスさまが復活された曜日である「主の日」、すなわち日曜日であったことは、すでに聖書にその起源を見ることができます。 この日を大切にすることは、そうしないとバチが当たる、とか、そんな日本的な発想で捉えてはなりません。しかし逆に、自分は律法から自由だから日曜日に礼拝することにこだわらなくていい、と考えるのも違います。私たちは礼拝において共同体がともに整えられる体験をすることで、この地を満たせというキリストのみこころを実現するのです。 みなさん、想像してみてください。全国には8000か所近くの礼拝堂がありますが、そのすべての礼拝堂が、日曜日に礼拝者でいっぱいになって礼拝をささげていると……それだけでも地は満ちていると思いませんか? いや、もっと満たされるように、礼拝者も礼拝の場所も増やされますように……そう思いませんか? 私たちが主の弟子として訓練され、整えられ、地を満たし回復するというキリストのみこころを実現するうえで、日曜日という週に一度のこの特別な日を聖別し、ともに集って礼拝をおささげすることは必須です。ともに弟子になるのです。イエスさまの説教、ペテロの説教を聴いた聴衆が大いなる立ち帰りを体験したのは、個別の体験ではなく、神の民としての集団の体験です。この礼拝は、私たちがともに主の弟子とされるためのプロセスでもあります。大事にしましょう。 場所ということでいえば、礼拝できる場所があるならば、断然礼拝堂に集まるべきです。現代はコロナ下も相まって、オンラインでの礼拝も行われ、うちの教会も実践しているわけですが、忘れてはいけないのは、これは「礼拝をささげないよりもいい」ということであって、間違っても、「ともに礼拝堂に集ってささげる礼拝に取って代わるもの」にはならない、ということです。そういうわけで、コロナ下ということは極めてきつい現実ですが、それだけに、今少しずつでも、日本の諸教会が集まれるようになったのはすばらしいことです。 次に小グループ、初代教会において、その場所となったのは「家庭」でした。家庭を開放して信徒が集まるわけです。現代の教会もこの考えをもとに、「家の教会」というものを実践しています。しかし、家庭が解放できることは家族全体の献身につながることで、それも素晴らしいことですが、うちの教会のように礼拝堂が存在し、集まる場所があるならば、礼拝堂に集まって小グループを持つことも、教会のわざという点で素晴らしいことです。集まるのは家だ、いや教会だ、などと、場所にこだわるよりも、信徒が互いに近い距離で交わり、みことばの恵みを分かち合える環境にあることが大事なわけです。 そしてディボーション。これはご自分が置かれている場所、どこででもです。毎日ささげるものなので、基本的にはご自宅ですが、出張や旅に出られても、そこでおささげする必要があります。ご飯を食べなければ弱るように、私たちはディボーションによって神さまと交わりを持たなければ弱ります。 場所と時間は、心が落ち着けて、だれにもじゃまされない環境。となると、やはり朝です。マルコの福音章1章を学びましたが、イエスさまは、朝早く暗いうちに、さびしいところに出ていかれました。朝という時間ははっきり言って眠い! 寝ていたい! 冬になると外も暗いし、布団はぬくぬくしているし、なおさら! いや、明るくなって暖かくなったらなったで、やはり寝ていたいのが私たちです。 しかし、ここはひとつ、起きましょう。このとき起きて主と交われば、最高です。俗に「早起きは三文の徳」といいますが、私たちは早起きして無為に過ごすのではありません。神さまと交わって、一日の初穂をささげるのです。それが、イエスさまにお従いする弟子の姿勢です。こうして私たちは、ディボーションによって弟子として整えられます。 以上、弟子訓練の「環境」について見てまいりましたが、最後に、弟子訓練は「だれが」施すのかを見てみます。さきほど飛ばした11節をご覧ください。……そうです。賜物が与えられていることを自覚し、主に献身した人が弟子訓練を行います。 使徒、預言者、伝道者、牧師、教師。この5つの働きのうち、使徒と預言者という働きはこんにち停止されているというのが、多くの教会において一般的に信じられている立場です。私も、聖書のみことばはこれ以上つけ加えられてはならないという点において、聖書を書く立場としての使徒と預言者はもう起こらないという立場には賛成します。 しかし、一方で、イエスさまに遣わされて、もといた場所から離れてみことばを携え、異言語、異文化、異民族に福音を宣べ伝えたのが使徒と理解するならば、こんにちの「宣教師」は、形を変えた「使徒」と理解できなくもありません。もちろん、霊的権威においては、みことばを書けるわけでもなく、初代教会の使徒とは比べ物にならず、宣教師を「使徒」と呼ぶなどとんでもないことです。しかし、使徒のした「役割」の一部に限定するならば、その役割はなぞることはできます。そう考えると、イエスさまが信徒たちにそれぞれ分け与えられた「使徒」という賜物は、こんにちにおいてもある面で有効と考えられなくもありません。 いえ、宣教師にかぎりません。こんにち存在するすべての教会は、この地に主から遣わされて存在する以上、本質において使徒の性質を帯びています。だれか特定の人が使徒なのではありません。教会というキリストのからだ全体が使徒の性質を帯びているのです。 「預言者」、これも注意を要することばです。いま、世界の教会には不思議な現象が起こっていて、かつてなく「預言」ということが強調されるようになりました。実際、幻を見るなど、特別なインスピレーションを受けるクリスチャンというのも、多く現れていますし、私の身近にもそういう人はちらほらいらっしゃいました。 もちろん、その預言なるものは必ずしも神さまから来るものとはかぎらないものという場合もあるので、このことに関しては慎重な態度が必要です。私個人は、主が特別にお語りになる、ということは、ある、と見ていますが、それでも、それをこの礼拝のような場所で大々的に語ることは、今のところ控えたいと思います。こんにちにおいて預言はない、という立場の先生方の主張にも一定の説得力があることは認めていますので、こんにちにも預言がある、という立場は、いまのところ、あくまで私個人の立場ということにかぎらせていただきます。 しかし、もっと一般的な意味に広げるならば、預言とは「神さまのみことばをお預かりしてお伝えする」ということであり、これは、特に聖書のみことばを学び、礼拝の講壇なり小グループや個別の牧会なりの場面でみことばを語ることで、相手を悔い改めに導いたり、励ましたり、慰めたりする働きといえるでしょう。献身者という立場は、まさにその訓練を受けている人です。もちろん、この働きはフルタイムの働き人のような「献身者」の働きにかぎりません。いわゆる一般信徒にも担える働きです。いや、働きというより、ふだんのみことばの分かち合いが、即、預言のような役割を果たすともいえます。 でも、語ることは、あくまで聖書のみことばです。聖書と無関係のインスピレーションは、間違っても語ってはなりません。だからこそ聴く側も、果たしてそのとおりか毎日聖書を調べた、ベレヤの信徒たちのように、ふだんからよくみことばに親しんでいる必要があります。 「伝道者」、福音を宣べ伝え、人々を救いに導く聖霊なる神さまの働きに用いていただく存在です。現代でも伝道者という働きがあり、古くはビリー・グラハムですとか、現代ならば岸義紘先生やアーサー・ホーランド先生といった方がそれにあたります。しかし、伝道というものは、所定の訓練を受けていればだれにでもできるものであり、私もさきほど申しましたキャンパス・クルセードで伝道の訓練を受け、まだ大学生だったときから、伝道を実際にしたものでした。そのように、クリスチャンが伝道をできるように訓練する働きをする方も、広い意味では伝道者といえます。以前、うちの教会にいらっしゃり、「爆発伝道」の手ほどきをしてくださった山中知義先生がこれにあたります。 牧師、いうまでもありません。牧会という名前で教会の信徒の全般的なケアをします。しかし、牧師はよほどの場合ではないかぎり、信徒の諸問題を代わりに解決する立場にはなく、教会という共同体が「完全な大人になって、キリストの満ち満ちた身丈にまで成長する」ためにケアをするのですから、もし信徒が成長しないような牧会をしているならば、その牧会はやはり正しくはないことになります。成長を目指して牧会するのです。 教師、聖書のみことばを教える人です。これはたとえば神学校の教師のような働きともいえますが、牧師とはみことばを教えることなしには成り立たない働きであるわけで、それゆえに「牧師また教師」と書かれているともいえます。教団教派によっては、牧師按手を受けて牧師の資格を持つ先生のことを「教師」という呼び方をします。 以上のことを見てみますと、この5つの働きは、献身者がみな、何らかの形で兼ね備えているものです。ほんとうのことをいうと、この5つの賜物が別々の兄弟姉妹に顕著に現れるほど、そのほど教会の中で「分担」というものができるほど、教会は成長しているべきなのですが、教会が小さい段階ではそれは理想の域を出ません。しかし、私たちはいずれ、そのようになれるほどに教会が成長し、虚しさに服したこの地を満たす働きに用いていただくように祈るべきです。 私たちは主の弟子として、遣わされた人から、みことばの預けられた人から、みことばを聴いて救いを確信し、みことばによってケアされて成長し、みことばをさらに深く学びます。それが、大礼拝、小グループ、ディボーションがふさわしいものとなるために必須のプロセスです。 だから、私たちがふさわしい聖書理解の中で、聖霊の訓練を受けて成長するものとなるために、その教えを語る牧師のために祈っていただきたいのです。牧師が祈ること、学ぶことに集中するだけ、教会は成長します。それは、私たちがともに主の恵みをいただいて成長するということです。 でも、教会成長のために献身すること、弟子訓練のために献身することは、ほんとうは牧師だけの働きではありません。献身というと大げさに聞こえるかもしれませんが、献身はフルタイムの働き人になることだけを指すのではありません。この5つの役職は、私たちもどこかで少しずつでも賜物としていただいているものです。私たちの賜物は何でしょうか? 発見させていただき、その賜物、召しにしたがって、なすべきことを実践させていただきましょう。 さあ、今日のメッセージを、私たちはどのように適用しますでしょうか? 私たちは成長することに無関心ではなかったでしょうか? あるいは、成長というものを、単に個人的なものに限定し、虚しさに服したこの地を満たせというキリストのご命令に従うためということを、忘れてはいなかったでしょうか? この、地を満たせという主のみこころに従順になるために、私たちも御霊に満たされてこの地を愛によって満たす訓練を受けます。それが弟子訓練です。私たちは礼拝、小グループ、ディボーションという3つの取り組みによって満たされ、その満たしによって、キリストの愛によって愛して地を満たします。 その主のみこころを実現するために、この者はみなさまを訓練させていただく者ですが、その働きを担う上での賜物は、私たちひとりひとりに、何らかの形であります。みことばを分かち合うだけでも、その行いは預言者のようであり、教師のようです。いえ、それで聞いた方が成長するならば、牧師のようでさえあります。そして将来、この教会がさらなる成長を遂げ、どこか別の場所に開拓教会するようなことにでもなれば、新約時代の使徒の働きにならうことにさえなります。いえ、天の御国からすでにこの地に遣わされてキリストのからだをここ茨城に形づくっていることからして、私たち教会は使徒としての性質を帯びています。 私たちはこれまで、自分をそのようなものと捉えてきましたでしょうか? もし、それが充分ではなかったならば、今日から始めましょう。弟子として訓練される、その訓練に飛び込み、あらゆる虚しさに陥ったこの地を満たす働きに、用いていただきましょう。

「過去と未来を贖う『現在』」

聖書箇所;マルコの福音書1:40~45(p67)/メッセージ題目;「過去と未来を贖う『現在』」  3週連続となりますが、バプテスト教理問答書の第24問答を今週もお読みします。  問24 キリストは我々の贖い主として、どんな職務を行なうか。  答 キリストは我々の贖い主として、その謙卑と栄誉の状態で、預言者、祭司、王としての職務を行なう。  本日のみことばは、ひとりの人がイエスさまに出会い、そのツァラアトをいやしていただくという場面を描いています。ツァラアト……それは重い皮膚病で、これにかかっている人は極めて重い苦しみをその身に受けなければなりませんでした。 まず、皮膚病そのものの苦しみです。肌が痛かったり痒かったりする、ただれていく、その苦しみはどれほどのものでしょうか。   社会的にも苦しめられます。隔離されるので、ただ人々の慈善にすがって生きるしかありません。  宗教的にも苦しめられます。旧約聖書のミリアムの箇所や、預言者エリシャの付き人で、ナアマン将軍に嘘をついて財物をせしめたゲハジの箇所などを読むと、ツァラアトは神のさばきの表れであり、そのような聖書的背景を知るユダヤの宗教共同体からは、ツァラアトの患者は神の呪いとさばきの表れと見なされ、忌み嫌われました。そうなるとやはり、人々の侮蔑の対象となります。また、人々にさわってももらえません。伝染するからです。共同体から外されながら生きることになります。  しかし、このツァラアトの患者もガリラヤに生まれ育っている以上、イスラエルの民、神の民として生きてきたわけです。神の民として生きる、それが本来の姿なはずなのに、ツァラアトという病を身に帯びているばかりに、神の民として生きることさえ許されない。彼の中にはどれほどの悲しみと飢え渇きがあったことでしょうか。  人が病を持ったり、障がいをもって生まれたりすることは、本来完全な神のかたちとしてつくられた人間が、アダムの罪によって堕落し、神との交わりが断絶した結果、人間の世界に罪がもたらされた結果といえます。このように体に不具合が生じるということは、それが顕著であればあるほど、人はそのように体の不自由な人を、ことさらに罪人扱いします。  しかし、ほんとうのところはどうでしょうか。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることはできない、と、みことばは語ります。神からの栄誉が受けられないほど罪に堕落し、罪に病んだ存在、それが人というものです。ツァラアトに冒された人だけがことさらに罪人なのではありません。  それでも、ツァラアトに冒されているということは、神さまの御目から見れば、神のかたちとして人間がきわめてふさわしくない状態に陥っていることなのは確かです。だからこそ、律法の書の中で、レビ記13章から14章にわたって、ツァラアトについて詳細に、多くの紙面を割いて、取り扱われているわけです。  この、皮膚病だけに目に見えやすい病であるツァラアトは、罪に堕落した人間の姿をわかりやすくあらわしたものと言えます。しかし、これは間違えてはいけませんが、人はだれでも、心とたましいがツァラアトに冒されているようなものです。その語ることば、取る態度は、どれほど神の栄光から遠い、罪人らしいことばづかいであり、また態度でしょうか。私たちはみな言わばツァラアトなのです。そんな罪人が、目に見える皮膚病患者だからと、ツァラアトに冒された人を差別するなど、もってのほかです。   私たちは罪に病んでいることを、どれほど自覚しているでしょうか? そこから救われたいと願っているでしょうか? もちろん私たちは、イエスさまの十字架を信じる信仰によって、これまで犯してきたすべての罪を赦していただいています。 しかし、それでも、私たちは罪に病んでいないでしょうか? 過去、ことばや行いで犯してしまった罪、今なおだれかのことを赦せない罪、だれかのことをさばいてしまっている罪が、今もなお、私たちの中にあって、その罪が雑草の根のように私たちの心の中にはびこって、私たちのことを苦しめ、病ませてはいないでしょうか?   そんな私たちは、自分がまことの神のかたちに回復され、神の国を生きるにふさわしい者となるために、何をすべきでしょうか。そこで、現在です。ツァラアトの人は、イエスさまに出会って、きよくしていただきました。  イエスさまがガリラヤをめぐっておられるという知らせを、彼は知りました。彼は居ても立ってもいられなくなり、直ちにイエスさまのもとに馳せ参じました。そして、彼は何と言ったのでしょうか?「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」  このことばには、いろいろな意味が込められています。まず、イエスさまはみこころにしたがって、全能者としてのわざを行われる神の子であるという告白です。そして、イエスさまは、ツァラアトという、神のかたちとしてふさわしくない姿からいやし、きよめてくださるお方だという告白です。さらに、そのようなみわざを行われるのは、イエスさまのみこころひとつであるという、主のご主権もともに告白し、本来自分は当然のようにその癒やしのみわざを受ける資格がないことも告白しています。彼の信仰告白は完璧でした。  イエスさまはそれに対し、何をなさったのでしょうか? まず、深いあわれみの心をお示しになりました。重い皮膚病で苦しんできたことに対するあわれみであったでしょう。社会的にも宗教的にも共同体から仲間外れにされてしまっていたことに対するあわれみでもあったでしょう。そして、神の民の共同体に加われず、民とともに受け取るべき主の恵みを受けられないで今まで過ごしてきたことに対するあわれみでもあったでしょう。実にイエスさまは、あわれんでくださるお方です。  それだけではありません。イエスさまはツァラアトの彼に手を伸ばし、さわってくださいました。ツァラアトの人にさわることは、律法で戒められています。だれもさわることはできませんし、さわらないのがあたりまえです。しかし、そのようにだれにもさわってもらえないとは、どれほどの悲しみの中にいたことでしょうか。それなのにイエスさまは、彼にさわってくださったのでした。   イエスさまは何とおっしゃったのでしょうか。「わたしの心だ。きよくなれ。」そのように完全な信仰告白をもってやってきた彼のことを癒し、回復させることは、「わたしの心」、イエスさまのみこころだったのでした。そして、彼のツァラアトは消えて、彼は癒されました。  あわれみ深いお方、人を癒されることがそのみこころでいらっしゃるお方、イエスさまと、きよめられたい、赦されたい、その切なる思いを持つ者との出会い……救いといやしとは、その出会いによって成り立ちます。イエスさまのもとに行くならば、そのあわれみのみこころによって、人は救っていただき、いやしていただけます。  そのような中で、イエスさまは癒された彼に対し、43節のように接していらっしゃいます。……イエスさまは厳しい、という印象をお持ちでしょうか? しかし、これには理由がありました。44節です。  イエスさまは癒し主でいらっしゃいますが、イエスさまのいちばんの本質は、人を罪から救ってくださる救い主であり、神の国の王です。そのように、神の国を宣べ伝えるにあたって、人々がわれもわれもと押し寄せて、いやしてもらおうとするならば、イエスさまは本来のお働き、神の国を宣べ伝えるお働きができなくなります。 しかし、イエスさまはまた同時に、彼が神の民として回復されることを願われました。イエスさまはモーセの律法に従って彼が振る舞うことを命じられました。イエスさまは、彼がどこまでもイスラエルの信仰共同体の一員として振る舞うことにより、神の民として公式的に回復されるように導かれたのでした。イエスさまはもちろん、いやしてもらってうれしい、という彼の気持ちがお分かりでしたが、それだからこそ、あえて厳しく、彼のほんとうにすべきことを命じられたのでした。 私たちも時に、喜びであれ悲しみであれ怒りであれ、感情的な高まりを体験することもあるでしょう。しかし、それはすべてとは言いませんが、往々にして、聖霊なる神さまが与えてくださる主のみこころに従った感情とイコールではない場合があります。聖霊なる神さまは教会を立て上げられるお方です。しかし、クリスチャンの中には「示された!」などと言って、教会と足並みをそろえないで勝手なことをして、教会を混乱に陥らせる人というのがいるものです。 これではいけません。私たちは、劇的な主の御業を体験して、興奮状態になるようなときであればあるほど、主は実際にどんなみこころを持っていらっしゃるか、落ち着いてみことばから受け取ることをしてまいりたいものです。 しかし、彼は結局どうしたでしょうか? イエスさまがあれほど厳しく戒められたにもかかわらず、言いふらして回ったのです。みことばに従順に従う行動をする前に、感情的になって、人々に伝えて回ったのです。 いくつかの注解書を読みましたが、このことに関しては意見が真っ二つに分かれています。ひとつは、それほどまでに喜びをもたらしたイエスさまの救いのみわざが素晴らしかった、彼は当然のことをした、という意見、もうひとつは、彼のしたことは神の国の拡大を妨げることだったから、やはりよくなかった、彼は間違ったことをした、という意見です。 それは、どちらも正しいでしょう。しかし、ここで私たちが考えなければならないことがあります。それは、彼のしたことは、イエスさまの厳しいみことばに対する「不従順」の罪を犯したことである、ということです。そんな、そう言うなんてかわいそう、と思いますでしょうか? しかし、不従順であることに変わりはなく、その結果、イエスさまは表立って神の国を宣べ伝えることができなくなっているわけですから、神の国の拡大という御業を妨げることにもつながったわけです。 もちろん、イエスさまのみわざが、彼をしてイエスさまの戒めを忘れさせ、みんなにふれて回らせてしまうほどにすばらしいものなのは疑いのないことで、イエスさまが彼に対してみわざを行われたことそのものには何の問題もありませんでした。彼がイエスさまの救いのみわざを、感情的にしか受け取ることをせず、それに対する不従順の反応をしてしまったことが問題だったのでした。 しかし、それなら、イエスさまは彼が、そのような不従順の行動に出てしまうことをご存知の上で、あえて彼のツァラアトをお癒しになり、しかもその上で、彼に厳しい戒めのおことばをお語りになったのでしょうか?  そのとおりです。イエスさまは、彼がこれまでの生活でどれほど苦しんできたか、よくご存じだったからこそ、彼をあわれまれたのでした。そして、彼をお癒しになろうというおこころをお示しになったのでした。その結果、彼がうれしさのあまり、イエスさまによる神の国の宣教を妨害することになろうとも、お赦しになっての上で、「わたしの心」を示されたのでした。 救われたばかりの彼は、いきなり主の弟子として振る舞うには、あまりにも整えられていませんでした。それゆえに感情が先走って、不従順の罪、みことばを守り行わない罪を犯してしまうものでした。しかし、そういう人とわかっていたら、イエスさまは彼のことをその信仰告白にしたがって、お癒しにならなかったのでしょうか? 彼の神となられることを拒否されたのでしょうか? そうではありません。彼が未来にそのような不従順の歩み、神の国の拡大を妨げる歩みをするとお分かりになってもなお、イエスさまは彼にさわられたのでした。彼が未来に罪を犯そうと、彼の神となってくださったのでした。 イエスさまのとの出会いは、病んで神のかたちを失った過去をきよめるだけではありません。未来の罪をもきよめてくださいます。私たちは、自分の過去の病がいやされているように、自分の過去の罪もまた赦していただいている者です。同じように、私たちは未来の罪をも、すでに赦していただいています。 このことは、主の晩さんの席上で、ペテロが体験していることです。イエスさまは、ペテロがご自身を裏切ることを予告されたうえで、なお、ペテロがのちにはイエスさまについて行くこともまた予告されました。これは、ペテロが未来に犯す罪、人々の前でイエスさまを知らないと言ってしまう罪をお赦しになった、ということです。 本来、人々の前でイエスさまを知らないという者は、イエスさまもまた、御父の前でその者を知らないとおっしゃるほどの大きな罪です。赦されざる罪です。だからこそペテロは、そんな罪は決して犯しませんと言い張ったのですが、結局はその罪を犯してしまいました。それなのに、イエスさまはその罪をすでに赦してくださっていたのでした。 全ての罪は、赦されないほどの罪です。その罪のゆえに、私たちは父なる神さまと断絶させられても、一切文句は言えません。私たちはそのような罪を未来に犯す可能性が、ゼロではありません。いえ、ゼロではないどころか、私たちはこの地上を生きる間、どうしても罪を犯す存在です。しかしイエスさまは、その未来の罪に至るまでも、私たちのことをすでに、ご自身の十字架によってすでに赦してくださっているのです。 とはいっても、私たちは感情が先走って、主への不従順の罪を犯すようでいてはなりません。このツァラアトがいやされた彼のことを弁護することばはいくらでも出てくるでしょう。うれしかったんだから! みわざが素晴らしかったんだから! 人々にイエスさまを証ししたかったんだから! しかしそれでも、彼はまず、イエスさまのお語りになった戒めとご命令に聞き従うべきでした。 同じことは私たちにも言えます。私たちが感情に流されて、主のみこころと関係のないことを行うことで、主への不従順の罪を犯してしまうことのないように、私たちはまず、何かの行動を起こす前に、みことばが何と言っているかをつねに聴く必要があります。毎朝ディボーションを行うのは、そのように、みこころに聴き従うことにより、少しでも感情に流されての不従順の罪を犯さないようにするためです。 それでも私たちが罪を犯してしまったとしても……それであきらめたりしないでください。イエスさまがその罪に至るまで、私たちがイエスさまを救い主と受け入れた瞬間から、すでに赦してくださっていることを、信じ受け入れてください。 本日のメッセージのタイトルを「過去と未来を贖う『現在』」と名づけたその意味をおわかりでしょうか?「現在」とはいつでも、イエスさまの十字架によってイエスさまとの関係を結んでいる「現在」です。イエスさまは過去の病んだ私たちを十字架によって贖われました。イエスさまは未来の罪に病むであろう私たちを十字架によって贖われました。しかし、十字架は過去のもの、未来のものである以上に、今ここに実現している現実、現在のものです。 お祈りしましょう。むかしから引きずってきて、今の自分を病ませている「過去」はありませんか? 私たちを不安にさせて、今の自分を病ませている「未来」はありませんか? 聖霊さまに心を探っていただきましょう。示される罪を告白しましょう。 しかし、この、イエスさまが罪深い「私」、ツァラアトに冒されているような「私」にさわってくださっている、その御手を今ここに感じ、過去の罪、現在の罪、未来の罪が赦され、きよめられ、いやされているということを、今ここに実感しましょう。

イエスさまの祈り

聖書箇所;マルコの福音書1:35~39/メッセージ題目;イエスさまの祈り 「バプテスト教理問答書」からまいります。本日は先週と同じ、問24です。 問24 キリストは我々の贖い主として、どんな職務を行なうか。 答 キリストは我々の贖い主として、その謙卑と栄誉の状態で、預言者、祭司、王としての職務を行なう。 イエスさまが神の国の「王」であられることは先週学んだとおりです。しかし、イエスさまはまた同時に「祭司」でもいらっしゃいます。それも、ご自身のみからだという究極のいけにえをもって父なる神さまに祈りをささげられた、究極の祭司、最上の祭司でいらっしゃいます。 福音書を読みますと、イエスさまはいつも御父に祈っておられたことがわかります。それはイエスさまが「祭司」として、私たちのためにとりなしの祈りを御父にささげていらっしゃったということです。 今日の箇所は、イエスさまが朝まだ暗いうちに祈っておられた、ということを語っています。イエスさまの祈りはどのようなものであり、私たちとどのような関係があるのでしょうか? ともに見てまいりましょう。 第一のポイントです。イエスさまは、御父と交わられるために祈られました。 35節をご覧ください。……イエスさまは多忙な中、そして間違いなくお疲れな中で、父なる神さまの御前に出て、お祈りをしていらっしゃいました。 私たちは、神であられるイエスさまに、果たしてお祈りをなさる必要があったのだろうか、と思いませんでしょうか? しかし、そうではないのです。そう思うのは、私たちがそもそもお祈りというものを、誤解している可能性があるからです。 イエスさまにとって最優先にすべき大事だったことは、御父との交わりでした。父なる神さま、御子なるイエスさま、御霊なる神さまの交わりは、三位一体の神さまのご本質という点で、欠かしてはならないものでした。お祈りというものは、そのためにどうしても必要なことでした。 イエスさまがその、三位一体の神としてのお交わりのために「朝早くまだ暗いうち」というお時間を選んでいらっしゃったことにも注目しましょう。 この時間はいかになんでも、だれかがやって来てお働きを行われる、ということはありません。だれにも妨げられない時間と場所で、イエスさまは神としての交わりを持っておられたのでした。 ここから私たちは、自分にとってのお祈りというものを考える必要があります。いったい私たちはお祈りというものを、どのように理解していますでしょうか? お祈りとは、御父、御子、御霊なる三位一体の神さまのお交わりに入れていただき、ともに交わらせていただくことです。私たちは御父に向けて、御子イエス・キリストの御名によって、御霊なる神さまの導きにしたがって祈るのですから、私たちはお祈りするとき、確かに私たちは三位一体の神さまとの交わりの中にいます。 私たちは東洋、極東の精神世界に生まれ育った分、お祈りというものを「只管打坐(しかんたざ)」のように考えてはいないでしょうか? ひたすらにお祈りに打ち込むことで悟りを開く、といったたぐいのもの。 しかし、私たちはひたすら祈る、ということを誤解してはなりません。私たちにとってのお祈りというものは、努力で打ち込もうとするものと考えてはいないでしょうか? そうなると、神さまが招いていらっしゃるご自身との豊かな交わりの世界を、自分の努力という枠に閉じこもってしまって、味わえなくなってしまう危険が伴います。 イエスさまにとってのお祈りは、そういうものではありません。イエスさまは「わたしと父は一つです」とおっしゃっています。御父と交わられてこそのイエスさまなのです。お祈りをなさってこそのイエスさまなのです。 私たちがもし、お祈りを厳しい修行のようなものと捉え、お祈りを敬遠するようならば、それは、私たちをお祈りさせまいとする、すなわち、神さまとの交わりに入れさせまいとする、サタンの妨げにあっているということです。 私たちはお互いが、そのような妨げから解き放たれ、お祈りする喜びに導き入れられることをと祈るばかりですが、そうしてお祈りするようになったならば、もはやそのお祈りは、義務感にせき立てられてのようなきついもの、それゆえに避けたくなるものには、決してなりません。 私が献身に導かれた1990年の松原湖バイブルキャンプで、講師のアーサー・ホーランド先生がおっしゃっていたことですが、毎日のお祈りは「イエスさまとのデートの時間」だというのです。デートとは! みんな目からうろこが落ち、キラキラした目で聴いていたことと思います。 デートならば、わくわくしてその時間を待つでしょう。デートならば、遅れないように、だらしない態度をしないように、自分から努力するでしょう。これは宗教的な「修行」のたぐいではなく、「喜び」から自発的にするものへと変わります。 イエスさまにとって御父の前に出て行くことは、義務、以上のものであったと考えるべきでしょう。そう、喜び。イエスさまがバプテスマを受けられ、公の生涯を開始されたとき、御霊が鳩のようにイエスさまに降(くだ)られ、天から御父の声がしました。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」そう、イエスさまのことを喜んでいらっしゃる御父との交わりこそ、イエスさまにとっての喜びでした。 私たちは何に喜びを覚えていますか? 神さまは私たちのことを喜んでいてくださるので、私たちが神さまとの交わりを持つならば、神さまはこの上なく、私たちのことを喜んでくださいます。そして、神さまのその喜びは、私たちにとっても最高の喜びとなります。 神さまは、ご自身の交わりのうちにみなさまが入って来られるのを、待っておられます。さあ、おいで! 交わろう! その御声が聞こえますでしょうか? 今日から始めましょう。ついテレビやネットを見てしまう時間を、神さまとの交わりに振り向けましょう。イエスさまがこの地上で体験していらっしゃった、神さまとの喜びの交わりを体験し、神さまに喜ばれる私たちとならせていただきましょう。 第二のポイントです。イエスさまは、御父の導きに従順になられるために祈られました。 36節から38節をお読みしましょう。……イエスさまはこのとき、働きを終えられたばかりのカペナウムにまだとどまっておられました。カペナウムの人たちは、新しい教えを語られ、癒やしと悪霊追い出しの驚くべきわざを行われたイエスさまに、もっといてほしいと願っていました。しかしイエスさまは、そのように引き留めるのを聞かず、ガリラヤ地方の次の町に出ていって働かれることを宣言されました。 カペナウムの人たちからすれば、自分たちの望みがかなえてもらえなかったということになるでしょう。しかし、イエスさまに向けられた御父のみこころは、イエスさまがいつまでもカペナウムにとどまりつづけることではありませんでした。ガリラヤ地方を巡回し、神の国を宣べ伝えられることでした。 これがもし、普通の人だったらどうでしょうか? 引き留める人たちの存在に、情(じょう)にほだされてその場にとどまりつづけるという選択をしたりはしないでしょうか? しかしイエスさまは違いました。ご自身の使命ははっきりしていて、どこにいくべきかを知っていらっしゃいました。 イエスさまがこのように毅然とした態度でおられたのは、なんといっても、父なる神さまがご自身に対してどのようなみこころを持っていらっしゃったかをよく知っておられたからでした。 みこころはどこまでも、ガリラヤ巡回! イエスさまはぶれなかったのでした。そのような確信は、その朝も持っておられた御父との交わりから生まれたものです。御父との交わりなくして、御父のみこころを知ることはできません。その交わりの時間、すなわち、今後どのようにお働きして御父のご栄光を顕されるかを知る時間を確保するために、イエスさまはだれにも妨害されない時間と場所を選ばれたのでした。 私たちも、何のために生きているのかを、自分のうちに確かにする必要があります。時に私たちは、人に好かれようとして、というより、嫌われることを恐れて、よくない選択、神さまのみこころにかなわない選択をすることはないでしょうか? しかし、そうして下した決断は、神さまに聴き従ったのではなく、人を恐れた結果でしかありません。 イエスさまは、カペナウムの人が何と思おうとも、ご自身に対する御父のみこころに従われました。その原動力となったものは、夜明け前からの御父との交わりでした。その交わりの中で、みこころを確かに受け取り、何を言われてもぶれないご意志を確かなものとされたのでした。 うちの教会で奨励されている「ディボーション」も、私たちに対する神さまのみこころを日々受け取り、その日に私たちひとりひとりに与えられたみこころを実践するために行うものです。言い換えれば、「人に左右されないように」、「人に惑わされて神さまのみこころが行えないことのないように」、ディボーションをするのです。 毎日割り当てられた聖書箇所は、とにかく、先に説明を読むことなく、聖霊なる神さまの導きによってお読みすることにチャレンジしてみてください。そこから悟ったみこころを、ただ頭の中で思うだけではなく、ノートに記録してみてください。その悟った真理を実生活に適用し、実践可能なことを書き出して、実際にその日に実践してみてください。一日の終わりには、それが実践できたかどうかを振り返り、実践できたならば神さまに感謝してください。さらには、この実践できたみことばの恵みを、教会の交わりの中で分かち合って、ともに神さまに感謝をささげてください。 だいじなのは、人に左右されないで神さまのみこころを守り行うことです。もしそれでも、神さまのみこころを受け取るうえで自信が持てなかったら、どうぞ牧師に相談にいらしてください。私は上から目線で教えることはしませんが、ともにみことばから学んでみこころを受け取るうえでのお手伝いをいたしたいと思います。 私たちひとりひとりが、そして教会が、ともにみこころを受け取り、揺れ動くことのない確信をもって神さまにお従いすることができますように、主の御名によってお祈りいたします。 最後に第三のポイントです。イエスさまは、御父の働きを執り行うために祈られました。 38節、39節をお読みしましょう。……このような力あるわざを行われたことには、原動力がありました。それは何といっても、祈りでした。祈りによってイエスさまは御力に満たされ、このような奇跡的なわざを行われたのでした。 いま奇跡的と申しましたが、イエスさまが行われたしるしや奇跡は、ナザレのイエスといういち人物の栄光を顕すためのものではありません。そのしるしや奇跡を行われることにより、父なる神さまの栄光、言い換えれば、父なる神さまのご存在を顕される、それが目的でした。 父なる神さまにお近づきするためには、イエスさまという羊の門を通らなければならない、そのことを人々が知るためには、イエスさまが父なる神さまから遣わされた神の子であるというしるしを見る必要がありました。したがって、癒やしや悪霊追い出しのようなしるしをイエスさまがお見せになったのは、人々がこのわざを行われるこのお方を信じることで、父なる神さまの御前に招かれるためです。 イエスさまにとっての祈りは、そのような、奇跡的な神のわざを行うためのものでした。このことをもっともはっきりと示した祈り、それは、ゲツセマネの園でイエスさまが御父に、血の汗を流して苦しみ悶えて祈られた、あの祈りでした。 イエスさまにとっての祈りとは、神との交わりであると申しました。しかし、十字架とは、御子イエスさまが人類のすべての罪を背負われ、父なる神さまとの交わりから断絶されるという、末恐ろしいできごとでした。人間の罪が、神の交わりを断ち切ったのです。御子イエスさまを十字架につけた私たち人間は、どれほど罪深い存在でしょうか! だが、その十字架によって、私たち人間は神の怒りから救われ、地獄に落ちるべき者が天国に入れていただく、これ以上の奇跡があるでしょうか? しかし、この奇蹟に先立っては、イエスさまの苦しみ悶えての祈りがありました。まさに、人類の歴史上空前絶後、唯一無二の奇跡、死んで滅びて地獄に行くべき罪人の人間が、罪赦され、神の子とされ、天国に入れられ、永遠のいのちが与えられるという、この上ない奇跡が実現しました。 イエスさまの地上のご生涯で行われた奇跡は、すべて、このような奇跡を行われるイエスさまを信じるならば神の子とされるという、神さまへの招きのために行われたものであり、その裏づけとなったものは、つねに御父にささげておられた祈りでした。祈りによりイエスさまは御父の御前に人々を導くわざをなされ、その究極のかたちは、ゲツセマネの園の祈りに裏づけされた十字架でした。 さきほど、イエスさまにとっての祈りとは喜びであると申しました。しかし、ゲツセマネの園の祈りに関しては、一見するととうてい、喜びと呼べるものではありませんでした。それでもイエスさまが祈られたのは、そのはるか向こうにある喜びを望み見ておられたからです。 ヘブル人への手紙12章2節をご覧ください。……これをお読みすると、イエスさまにとっての祈りの本質は、たとえゲツセマネの園の祈りのような苦悶に満ちた祈りであったとしても、やはり喜びであったことがわかります。 ひるがえって、私たちのことを考えましょう。私たちは本来、どれほど自己中心の存在でしょうか? どれほど愛のない存在でしょうか? どれほど神さまと無関係に生きていて平気な存在でしょうか? しかし、そんな私たちも、神と人を愛する者にしていただいています。そのために何ができるかをたえず考え、悩み、実践しようと努力したい思いが与えられています。これこそ奇跡ではないでしょうか? しかし、私たちにはこの奇跡を完成させられるだけの力はありません。つねに神さまとの交わりの中で、その奇跡を完成させていただけるだけの力をいただく必要があります。私たちの祈りは、そのような神と人を愛する力へと実を結びます。信じて祈ってまいりましょう。 3つのことをお祈りしましょう。 ①私たちは神さまといつ交わりますか? まずはこの1週間の計画を立てましょう。 ②私たちにとって最優先にお従いすべき神さまのみこころは何ですか? ③私たちは十字架こそ最高の奇跡であると信じ、すべてにおいて十字架の奇跡、贖いの奇跡があるようにと祈りましょう。具体的に私たちの周りのどの領域に、十字架の奇跡があるようにと祈りますか?

「神の国の力」

聖書箇所;マルコの福音書1:29~34(新p66)/メッセージ;「神の国の力」  「バプテスト教理問答書」の学びを再開します。今日は問24です。  問24 キリストは我々の贖い主として、どんな職務を行なうか。  答 キリストは我々の贖い主として、その謙卑と栄誉の状態で、預言者、祭司、王としての職務を行なう。  私たち罪人をその十字架の死により、罪と死とサタンの支配から贖い出してくださったイエス・キリストは、預言者であり、祭司であり、王であられます。イエスさまは王です。王ということは、イエスさまが王として統べ治める「国」があるということです。聖書はその国を「神の国」と呼びます。いま私たちは、マルコの福音書を学んでいますが、本日の箇所に先行する1章15節、イエスさまはお働きを開始されるにあたり、「時が満ち、神の国が近づいた」と宣言していらっしゃいます。  神の国、ということは、それは「国」なのです。統治する王さまもいれば、国民もいます。王さまはイエスさまです。国民は私たちです。私たちはこの地上においては、特定の国に住んでいますが、私たちのほんとうの国籍は天にあり、すなわち、神の国に国籍を置いています。この地上に生きながら、私たちの場合は日本に生きながら、天国の国民、イエスさまを王とする神の国の国民として生きています。  イエスさまは私たちにまことの神のことばを語ってくださる、まことの預言者です。イエスさまは十字架の死によって父なる神さまにご自身というまことのいけにえをささげられ、神さまと私たちとの仲立ちをしてくださった、まことの祭司です。そして、私たちに御力をもって振る舞われ、私たちを治めてくださる、まことの王です。  本日の箇所は、イエスさまがまことの王として振る舞われる、神の国を人々が具体的に体験してゆくさまを描いています。ともに学びましょう。 第一のポイントです。イエスさまは人を癒し回復されて、神の国を体験させられます。 29節から31節をお読みします。……シモン・ペテロのしゅうとめは熱を出して寝こんでいました。 単なる熱ではありません。ひどい熱です。イエスさまは、この熱により寝込んでいたシモン・ペテロのしゅうとめの手を取って起こされ、いやしてくださいました。 コリント人への手紙第一4章20節が語るとおり、神の国はことばにはなく、力にあります。これは、神の国とは上っ面のことばだけのものではなく、人間世界に実際に力をもって臨むものである、ということです。そういう点からすれば、神の国とは「論より証拠」のものです。 しかし、イエスさまというお方は、神のみことばが肉体をとってこの世界に来られたお方、神のみことばそのもののお方です。このお方がいやしのわざを行われるということは、神のみことばのわざでもあります。実際、この箇所の並行箇所であるルカの福音書4章を読みますと、イエスさまはシモン・ペテロのしゅうとめに取りついた熱を「叱りつけられた」とあります。まさに、イエスさまのお語りになったみことばが、イエスさまのみわざであったのです。   もうひとつのみわざ、32節から34節までをお読みしましょう。……ここでもイエスさまは、力強くみことばを語っていらっしゃいます。みことばをもって悪霊を追い出していらっしゃいます。このように、イエスさまが悪霊を追い出されるという御業は、神の国がすでに来ていることのしるしであると、ルカの福音書に記録されています。  重い病気になっていることであれ、悪霊に取りつかれていることであれ、人として問題を抱えているということです。神さまに創造された人間ならば、本来死ぬこともなく、したがって病気になることもありえず、また、神さまのものである以上、悪霊が取りつくということもありえないはずです。それが、病気になったり、悪霊に取りつかれたりして、人間の世界には悲惨と破壊がもたらされるようになりました。  イエスさまが来られたということは、人がそのような破滅と悲惨から救っていただき、完全なからだをいただいて神の国の民として永遠に主とともに生きる恵みが与えられる、ということです。イエスさまのみことばによるいやしや悪霊追い出しは、まさに、人が神の国に入れられることで、そのように人を神の国、救いに召してくださる、神の栄光が現れ、神さまがほめたたえられるべきことです。  私たちはやがて、復活のからだ、完全なからだをいただいて、永遠に主とともに住みます。そのときには、顔と顔を合わせて主にまみえることになります。私たちはその日を期待していますでしょうか? もし、私たちがこの地上でいろいろな悩みに苦しんでいるならば、私たちは実は、この地上ではなく、神の国を生きる者にしていただいていることを思い起こしましょう。  私たちは病に苦しんでいますか? 神の国は病のないところです。私たちは人間関係に苦しんでいますか? 神の国は罪赦されたどうし、イエスさまによって贖われたどうしが生きる、人間関係の葛藤により神の平安の損なわれることのないところです。私たちは知恵が欠けていることで悩んでいませんか? 神さまは惜しみなく知恵を与えてくださるお方だと、みことばをとおして信じ受け取り、大胆に知恵を求めればよいのです。  私たちは癒されるために、本来の神のかたちとしての人の姿を取り戻させていただくために、力ある主のみことばを求めましょう。主のみことばを味わいましょう。黙想しましょう。イエスさまがかつて、その地の人たちを愛し、癒され、回復されたそのみことばは、今この自分に語られていることを、信仰によって受け取りましょう。私たちは必ずいやさえ、回復されます。神の国の民にふさわしく整えられます。信じてまいりましょう。   第二のポイントです。イエスさまは共同体を拡大されて、神の国を体験させられます。  この箇所において癒されたのは、ペテロのしゅうとめでした。しゅうとめ、という以上、ペテロには妻がいて、その母親ということになります。ペテロには妻がいたことは、コリント人への手紙第二9章5節を見れば明らかです。 私たちは十二弟子というと、イエスさまとの共同体生活というものが真っ先に思い浮かぶでしょう。それだけに、彼らは実は結婚していたということをあまり考えないのではないでしょうか。しかし実際には、ペテロのように、妻がいる者もいたのでした。 この時代のイスラエルでは、人が成人して結婚する頃になると、その親はもう世を去っていたということは珍しくありませんでした。イエスさまの地上の父親であったヨセフも、イエスさまの公生涯の頃にはもういませんでしたし、ペテロとアンデレの兄弟の親や、ペテロの妻の父親も、おそらくもういませんでいた。 ペテロは、妻の母親であるしゅうとめをケアしていました。もしかしたらその家には、アンデレも一緒だったかもしれません。しかし今や、アンデレもペテロもイエスさまについて行ってしまいました。もう漁師として稼いでくれることはなくなったのでした。このように、ペテロやアンデレがイエスさまの弟子になるということは、彼ら自身だけではなく、その家族も犠牲を経験することだったのでした。 そんなペテロのしゅうとめが、ひどい熱を出しました。それは、イエスさまにつく信仰の共同体にとっての大事な家族が、重い病気になってしまったということです。イエスさまは、そのような家族など放っておいてわたしに従いなさい、とおっしゃったでしょうか?  とんでもありません。イエスさまは彼女の熱を癒し、彼女の手を取って立ち上がらせてくださったのでした。 ここで、イエスさまはシモンのしゅうとめを「起こされた」とありますが、この「起こされた」ということばは、聖書のほかの箇所を見てみると、「死人の中から起こされた」という意味にも用いられています。イエスさまはまさしく、死ぬべき彼女を神の御子イエスさまにあるいのち、永遠のいのちへと導き入れてくださったのでした。 そのようにして、イエスさまによって、いわば「よみがえり」にも似た体験をした彼女は、何をしたのでしょうか? いそいそと食事の支度をはじめ、イエスさまの一行をもてなしたのでした。当時のユダヤ教の厳格な教えによれば、女性が食卓の給仕をすることは厳しく戒められていたといいます。しかしイエスさまは、彼女のこの喜びの奉仕を受け入れられました。これは、まことの人の回復が、「奉仕」という形で実を結んでしかるべきである、ということの証拠ではないでしょうか? また、食卓とは何でしょうか? イエスさまがその輪の中心になり、イエスさまを囲んで持つ、喜びの交わりです。ここに、神の国の共同体が実現するのです。ペテロのしゅうとめはもはや、ペテロやアンデレがイエスさまのもとに行ってしまったからという「仕方ない犠牲」を払っているのではありません。喜びからささげる、「自発的な犠牲」です。 むろん、食事をすることそのものが神の国を実現するのではありません。パウロの手紙の送り先であった、ローマ教会、コリント教会は、かえってこの「食事」の問題が、本来麗しく保たれるべき教会における交わりをおかしくしてしまっていました。そのような問題を指摘するにあたり、パウロはこのように言っています。ローマ人への手紙14章17節です。――なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。 聖霊に満たされたイエスさまは、義なるお方であり、平和の君です。そして、このお方とともに食卓を囲むならば、喜びがあります。高い熱をたちどころに癒やしていただいた喜び、このお方ならば婿のことをお任せして安心だという喜び、そんな喜びに、厳格なユダヤの戒律も吹き飛び、思わず一行のために食卓を用意してしまった……そうです。ペテロのしゅうとめも神の国の一員に加わり、神の国の一員として堂々と振る舞ったのでした。 私たちにこのような喜びがありますでしょうか? 病み上がりの身でありながら奉仕したくてたまらなくなるような、そんな喜び。もし、私たちが久しくこの喜びを忘れているならば、今こそ私たちは神の国の民としてふさわしく、この喜びを回復させていただきましょう。それは個人のレベルでもですし、家族のレベルでもですし、教会の交わりのレベルでもです。 その喜びにみなが満たされたならば、「御国をきたらせたまえ」というお祈りは、現実のものとしていただけます。信じて祈り求めましょう。 最後に、第三のポイントです。イエスさまは人々を集められて、神の国を体験させられます。   あらためて32節から34節までを見てみますと、カペナウム中の人々が集まってきた様子が描かれています。「戸口」とありますが、これはおそらく、ペテロの家です。家の中に入るには狭かったので、外の道、あるいは共同の中庭に面した戸口に、人々が集まってきた、というわけです。 それは、夕方になって日が沈んでからのことでした。ユダヤの一日は日が沈んでから日が沈むまでです。それまでは安息日で、イエスさまのもとに人を連れて行くことも、働いてはならないという律法に触れる「労働」だからということで、律法の解釈上戒められていました。それで、こんなとっぷりと日が暮れてからみんな集まったのでした。 しかし、イエスさまはといえば、安息日といっても、会堂で教えるという働きをなさったばかりです。人々はそんなイエスさまに休む間もあげません。しかしイエスさまは、そのように連れてこられた病気の人をひとりひとり癒され、悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出されたのでした。 このようにペテロの家の戸口に集まってきた人たちは、その日の礼拝で、イエスさまが人から悪霊を追い出された様子を目撃していました。またこのときにも、イエスさまがペテロのしゅうとめを癒されたことを知っていました。イエスさまならば、八方手を尽くしても治らなかった、私の愛する人も治していただける! 家族でしょうか、友だちでしょうか、カペナウムの人々は、そんな愛する人、しかし今はやんだり悪霊に取りつかれたりしてどうにもならなくなっていた人のことを、イエスさまのもとに連れてきたのでした。 このいやしのわざ、悪霊追い出しのわざをとおして、彼らカペナウムの人々もまた、神の国を体験しました。そのように、神の国が力をもって臨むさまに、彼らはどんなに驚いたことでしょうか。イエスさまはこうして、彼らの中にある救霊の情熱、家族愛、隣人愛を呼び起こして、神の国をこのカペナウムに実現したのでした。 ただ、神の国というものは、それがどんなにその場に臨もうとも、また、その力を人々が体験しようとも、その神の国の力を体験した人々が、悔い改めて神の国の民になることをしないならば、意味がなくなってしまいます。 このカペナウムは、これだけのイエスさまのみわざが行われたというのに、どうなったでしょうか? マタイの福音書11章20節と23節、24節をご覧ください。――それからイエスは、ご自分が力あるわざを数多く行った町々を責め始められた。彼らが悔い改めなかったからである。「カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。おまえたちに言う。さばきの日には、ソドムの地のほうが、おまえよりもさばきに耐えやすいのだ。」 ソドムとゴモラのことは言うまでもありませんが、性的にものすごく乱れた、実に罪深い者たちの町でした。その町にはロトの家族以外に正しい者はまったくいなくて、結局、神さまは天から硫黄の火を降らせて、この町を滅ぼされました。しかし、カペナウムはなんとそのソドムやゴモラよりももっとひどいさばきにあう、ということを、イエスさまはおっしゃったのでした。 カペナウムはあれほどイエスさまのみわざ、つまり、御国そのものを体験していたはずなのに、なぜイエスさまはこんなことをおっしゃったのでしょうか? それは、彼らは御国を体験していたにもかかわらず、悔い改めなかったからです。悔い改めない者に、神さまは容赦ないさばきを下されます。 カペナウムがこのように、神さまの容赦ないさばきを受けることになることを裏づけるみことばがあります。ヘブル人への手紙6章、4節から6節のみことばです。――一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。 どうしなければならないのでしょうか? 主のみことばとみわざを体験し、神の国にあずかった者としてふさわしく、つねに悔い改めることです。 この日本は、かつて多くの人々がイエスさまを信じ、教会を津々浦々に形成していった国です。みな、御国を体験し、その喜びにあふれていたわけです。しかし、いま日本の教会は、ひと頃の力がないように見えます。 これは、御国の素晴らしさを味わったうえで、しかも堕落してしまった姿なのでしょうか? 神さまがご存じです。私たちはしかし、まだここで希望を持つべきです。私たちには悔い改めるチャンスが残っています。だから、悔い改めることです。悔い改めなくして、御国の力、救いの力をほんとうに体験することはできません。 いったい、悔い改めない者たちの群れに、神さまは教会成長を起こしてくださるでしょうか? そのような群れにおける教会成長など、むしろないほうがいいようなものです。 私たちがもし、かつて御国の素晴らしさを体験した過去があって、今そのようになっていないと嘆いているならば、信仰生活がマンネリに陥っているならば、今こそ神さまとの関係を結び直す必要があります。それは、悔い改めをとおして実現します。あれほどのみわざを見て体験したカペナウムに対するようなイエスさまの叱責を、私たちは聞きたいでしょうか? そんなはずはないでしょう。 私たちは悔い改め、今度こそまことの神の国を体験するものとなりますように、そして、このときのカペナウムの人々がそうだったように、まだイエスさまを知らない人々をイエスさまのもとにお連れして、すなわち、私たちがイエスさまをお伝えすることで、ともに神の国を体験するものとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 ①私たちは神の国の民としてふさわしく、回復されるべきところがありますでしょうか? 悩み、病を告白し、いやしを受けましょう。 ②私たちは神の国の民として、喜びを回復していただきましょう。このところ、内側からあふれ出る喜びがありませんでした。主よ、喜びに満たしてください。…

「最も大切な福音――十字架と復活」

聖書箇所;コリント人への手紙第一15:1~8/メッセージ題目;「最も大切な福音――十字架と復活」 あらためまして、主イエスさまのご復活をお祝いいたします。 講壇のお花をご覧ください。今日は白百合を飾っていただきました。白百合はキリスト教会においては、イエスさまのご復活の象徴として、特にこの復活祭において飾られるお花です。 白百合を飾ることについては、聖書に根拠があります。旧約聖書に、「雅歌」という文学的なみことばがありますが、その中にこんな一節があります。「私はシャロンのばら、谷間のゆり。わが愛する者が娘たちの中にいるのは、茨の中のゆりの花のようだ。」茨とは、十字架を負われたイエスさまの頭にかぶせられた冠です。先週も導入賛美で歌ったとおり、血に染む茨は栄えの冠、イエスさまの御頭(みかしら)を痛めつけ、血に染めた茨は、しかし、私たちのために苦しみを受けられることによって神の栄光をあらわされた、イエスさまの栄えの冠でした。 その茨の中にあって、暗闇の谷間の中にあって、イエスさまの麗しさは百合の花に例えられます。百合の花というものは、もともとが芳しい香りを放っていますが、踏みつけられれば踏みつけられるほど、さらに香りを放つといいます。イエスさまは私たちの罪のゆえに痛めつけられましたが、やがてイエスさまは白く輝くお姿をもって復活されました。イエスさまはまさしく、白百合に例えられるべきお方です。 メッセージはあまり長くしません。でも、このメッセージのあとに歌う讃美歌「うるわしの白百合」という歌は、メロディも歌詞もとても美しい歌です。メッセージのあとにはぜひ、この歌の美しさをじっくり味わいながら、歌っていただけたらと思います。 今日のメッセージのテーマは「福音」です。私が教会生活を始めた教会は、「北本福音キリスト教会」という名前でした。埼玉の田舎にあり、そこはちょうど、この教会の立っているあたりのような雰囲気でした。「福音」というものは、教会の名前にするくらい大切なことなのだな、と、当時中学生だった私は、わからないなりに思ったものでした。私たちキリスト教会は、「福音」というものを何よりも大切にします。 「福音」とは「よい知らせ」という意味です。英語では「グッド・ニュース」と言います。 聖書が語る「福音」、「グッド・ニュース」というものを知るには、もちろん、聖書を読むのがいちばんです。先ほどお読みした箇所は、まさしくこの「福音とは何か」について、私たちにはっきりした答えを語ってくれています。 まず、1節の箇所をお読みすると、こうあります。「私があなたがたに宣べ伝えた福音」、福音とは「宣べ伝える」ものです。この「コリント人への手紙第一」を書いたパウロは、聖書の教師、神学者でありましたが、同時に、今でいうところの「宣教師」でした。宣教師とは、別の民族、別の国家、別の言語を用いる人々のところに行って、聖書の教えを宣べ伝える人のことを指します。うちの妻は韓国人ですが、宣教師になるための訓練を受け、今から14年前、結婚式の翌日に、韓国の教会から宣教師として日本に派遣されました。 パウロもまた、宣べ伝える人でした。福音を宣べ伝えます。ユダヤ人のパウロはユダヤを離れ、ギリシャのコリントの教会に福音を宣べ伝えていますが、1節のみことばを読みますと、コリント教会の信徒たちは、パウロから聴いた福音を受け入れ、その福音によって立っている、とあります。 教会とは、福音を聴いて受け入れ、その福音によって立つ人々の群れです。福音はまず、聴いて教わることなしには、何を信じたらいいのかわかりません。聖書をしかるべく解き明かし、教えてくれる人が必要です。そして、ただ教わるだけではありません。その福音によって立つ、つまり、聴いて教わった福音を人生のあらゆる土台にする、ということが必要です。 人生のあらゆる場面において土台となる、福音とはそれほど大切なものであるのはなぜなのか、それは2節で語られているとおりです。人は、福音によって救われるからです。ただし、単に聞いてさえいればいい、というものではありません。「私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら」救われる……条件があります。聞いて学んだことをしっかり覚えるのです。 クリスチャンが教会に通って聖書を学びつづけるのは、福音とは何かをつねに心に留め、自分に対する神さまの救いを完成していただくためです。そのように、しっかり学んで教えにとどまらなければ、「あなたがたが信じたことは無駄になってしまう」のです。せっかく学んだことを無駄にしてはなりません。 福音によって救われる、とありますが、救い、ということは、聖書においても教会においてもよく語られることです。私たち人間はきよい神さまの御前に罪人です。 私たちは、しなければならないとわかっているのにできない、そういうことはないでしょうか? あるいは、してはならないとわかっているのにしてしまう、そういうことはないでしょうか? それだけではなく、頭の中で、あんな人にはいなくなってほしい、とか、人を呪うようなことを考えてしまう、そういうことはないでしょうか? 聖書は、そういったことをすべて、罪、と語っています。 このような罪を犯すから、私たちは罪人なのでしょうか? もちろん、そうとも言えますが、さらに根本的なことを言えば、私たちは「罪人だから罪を犯す」のです。 聖書は、この世界を創造された唯一の神さまのご存在について明確に語っています。人は、そのほかのあらゆるものと同様、神さまによって創造されました。しかし、人とほかの被造物の間には、明確な違いがあります。人だけが、神さまと人格的な交わりをすることができます。人だけが、神さまを礼拝することができます。 しかし、そのような存在に創造されたにもかかわらず、人は神さまに背を向けました。それぞれが自分勝手な道に向かっていきました。それは言ってみれば、神さまに対する手ひどい裏切りです。神さまはそのような人間に対し、怒りを注いでおられます。その怒りに触れ、人は滅ぼされる定めとなりました。 けれども神さまは、人を愛していらっしゃいます。ご自身に立ち帰るように、道を備えられました。全人類を救い、神さまご自身の民とするために、時至って、ご自身のひとり子、イエス・キリストを、人を救ってくださる救い主として、この世界に送ってくださいました。この、イエス・キリストというお方を神さまがこの世界、私たちのもとに送ってくださったということこそ、福音そのものです。 ただし、それなら、イエス・キリストというお方がこの世界に来られたということが福音、よき知らせなのはなぜなのか、それも私たちは心に留める必要があります。その福音の内容、それは、3節から8節のみことばに書いてあるとおりです。 要約すると次のとおりです。第一に、イエス・キリストは、私たちの罪のために死なれました。イエスさまは、十字架におかかりになりました。私たちが罪人ゆえに神さまから受けるべきその罰を、イエスさまは十字架の上で身代わりに受け、死んでくださいました。 そして、お墓に葬られました。ユダヤのお墓は横穴式で、ご遺体はそこに横たえられますが、イエスさまのお墓はご丁寧にも、入口に大きな石が転がしかけられて蓋がされていただけではなく、その蓋には十字架刑を下した総責任者であるローマ総督ポンテオ・ピラトの封印がされ、勝手に開ける者は重罰を受けるようにされていました。さらには番兵たちが配備されて、だれにも近づけないように番をしていました。 しかし、4節のみことばにはこうあります。「聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられた」……イエスさまが死なれて3日目に復活されることは、聖書をしっかり学べばわかることでした。そのように、むかしから聖書が予告していたとおり、イエスさまは墓からよみがえられました。天使が現れ、石の蓋は封印もろとも打ち破られ、番兵たちは倒れて死人のようになり、イエスさまはよみがえってお墓は空っぽになりました。 そのようにしてよみがえられたイエスさまは、弟子たち、イエスさまにつき従っていた人たちに現れ、ご自身が復活されたことを確かにお示しになりました。コリント教会に向けてパウロがこの手紙を書いたとき、中には殉教するなどして亡くなった人もいましたが、大部分は生きていて、そんな彼らは確かに復活の証人でもありました。 さて、この中で、8節のみことばはやや事情が異なります。パウロが自分のことを「月足らずで生まれたような者」と言っているのは、どういうことでしょうか? パウロは、生前のイエスさまに弟子として従っていた人物ではありません。イエスさまがこの地上で生きていらしたときは、全く関係ない律法学者、パリサイ人でした。 やがてイエスさまが天に上られ、教会が誕生していく中、イエスさまを十字架につけるもっとも大きな役割をしたパリサイ人の教えを受けていたパウロもまた、教会を迫害する者として悪名をとどろかせていました。 しかしある日、ユダヤの宗教指導者のかしらである大祭司の、教会から信者たちを逮捕してエルサレムに引っ張って来いとダマスコの宗教指導者に命じる手紙を手に、エルサレムからダマスコへと向かっていたとき、その途上で、イエスさまが現れました。パウロはまぶしい光に照らされ、地に倒れました。そして、声を聞きました。「なぜわたしを迫害するのか。」パウロは思わず、「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねました。すると天からの声は、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えました。 この体験はパウロをまったくちがう人へと変えました。それまで彼は、どんなに聖書を研究しても決して、神のひとり子イエスさまに出会うことはできず、イエスさまのあがめられる教会を迫害することしかしませんでしたが、この体験以降、彼はイエスさまを宣べ伝える者となりました。そして、福音を宣べ伝え、教会を形づくり、聖書を執筆する人として、神さまの働きのためになくてはならない人となったのでした。 これは、単なる奇跡ということ以上に、「復活のイエスさまに出会った体験」でした。パウロにとってそれまで、このイエスという人物は、十字架にかかって死んだ人物、それこそユダヤの掟によれば、木にかけられて呪われた人間以上のものではなく、そのようなイエスを主とあがめるなど、とんでもない連中だ、と、迫害を加えることしかしませんでした。しかし、パウロはここで、十字架に死なれたが今生きておられるイエスさまに出会ったのでした。 月足らず……イエスさまと寝食をともにし、3年にわたって訓練を受けてきた十二弟子に比べると、パウロはイエスさまのことを知らないも同然でした。しかし、復活のイエスさまは、そんなパウロにも現れてくださり、救ってくださったのでした。 これが、もっとも大切なことです。それをもっと要約すると、3節、4節のとおりになりますが、特に2つのことを語っています。キリストは聖書の語るとおりに私たちの罪のために死なれた、もうひとつ、キリストは聖書の語るとおりによみがえられた。 私たち罪人は、自分でこの罪を解決することができません。どんなによい人になろうとしても、どこかで悪いことを考えてしまう、どこかで悪いことを口にしてしまう、どこかで悪いことをしてしまう、それが私たちです。神さまはそんな私たちのことを憐れんで、私たちの罪の罰を身代わりに、ひとり子イエスさまに負わせてくださいました。 私たちは聖書を学ぶならば、イエスさまの十字架の贖い、またそれを実現してくださった神の愛のすばらしさを知ることができます。この教えの中にとどまるならば、私たちは幸いです。 そして、キリストは復活されました。イエスさまは死んで終わりのお方ではありません。イエスさまの復活にあずかって、私たちも罪と死に勝利します。それだけではありません。私たちもまた復活します。永遠に神さま、イエスさまとともにいるものとしていただきます。 ある神学者が言っていました。キリスト教はひと言で言って「神との交わり」であると。私たちにとって最も大切なこと、それは神さまとの交わり、十字架と復活を信じつづけるべく、聖書の教え、福音の中にとどまる、神さまとの交わりです。この復活祭、この恵みをともに味わい、神さまの御名をともにほめたたえましょう。そして、イエスさまの十字架と復活に感謝する復活祭は、ほんとうのことをいうと今日だけではありません。毎日です。毎日、イエスさまの十字架と復活をお祝いするのです。この恵みをともに味わい、心からの感謝を神さまにおささげする私たちとなりますように、主の御名によってお祈りします。

「十字架の道」

聖書箇所;マタイの福音書26:47~56/メッセージ;「十字架の道」  ひとつ、仮定してみたいと思います。仮に、私たちがイエスさまにつき従う群れだったとしましょう。十二弟子の立場でも、十二弟子と一緒に行動をした女性たちの立場でもいいです。  イエスさまの日ごろの正しい言動が腹に据えかねていた宗教指導者たちが、夜の暗闇にまぎれて、イエスさまを捕まえにやってきました。それも、剣で武装した軍団を引き連れてです。さあ、私たちならそのとき、この群れを見てどのように振る舞いますか?  イエスさまが十字架におかかりになる前の夜、ついによい機会が訪れたとばかりに、裏切り者の弟子、イスカリオテのユダの手引きで、宗教指導者の軍団がやってきました。そのとき弟子のひとりは、大祭司のしもべに打ちかかり、その耳を剣で切り落としました。ほかの福音書を読むと、その弟子とはペテロであるということですが、イエスさまはそのペテロの行動を諫められ、しもべの耳をいやされました。  私たちもまた、もし剣を持っていたら、暴力で解決しようとするのでしょうか? 私たちにもはやる思いがあると思います。私たちの王、イエスさまに手を出す者は、この私が容赦しない……。  しかし、イエスさまはなんとおっしゃったのでしょうか? 私たちはこのおことばから何を学び取り、どんな決断をすることができますでしょうか?  52節のみことばからまいりましょう。――「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」  イエスさまがこのようにおっしゃった意味を考えてみましょう。なぜこのようにおっしゃったのか? 大前提として、神さまがその民に「殺してはならない」と戒めのみことばをお語りになったからです。モーセの十戒にあるとおりです。  人を殺すことがなぜ罪なのでしょうか? それは、そのいのちは神さまのものであり、その人を生かしていらっしゃる神さまのご主権を奪い取る行為だからです。いのちの主なる神さまの領域に挑戦する行為だからです。そのようなことをする者には神ののろいが臨みます。  出エジプト記や申命記には、「目には目を、歯には歯を」とあります。争っていて目を傷つけたなら、傷つけた者は目をもって償う、歯なら歯をもって償う、これがみこころの原則です。 イエスさまはしかし、このみことばの語るほんとうの意味を解き明かされ、「目には目を、歯には歯を、とみことばにあるのをあなたがたは知っているが、悪い者に手向かってはいけない」と、新たな戒めを与えられました。  ペテロは弟子として、このようなことをイエスさまから聞かされていたというのに、愚かにもこのとき、剣を振るいました。彼は、王でいらっしゃるイエスさまが捕らえられていくなど、到底受け入れられなかったのでした。 彼はイエスさまを守ろうとしましたが、しょせんそれは彼なりの肉に属したやり方にすぎず、とてもみこころにかなったやり方とは言えませんでした。それどころか、彼のしたことはいのちの主の領域に挑むことであり、彼の身に神ののろいを招きかねない野蛮な行いでした。「目には目を」ということでいえば、ペテロは耳を切り落とされるべき振る舞いをしたのでした。いえ、もし打ちどころが悪くて、耳どころではすまなかったら、ペテロはいったい何を差し出せばよかったというのでしょうか。  しかし、ルカの福音書を読みますと、イエスさまはそのようにしてペテロに耳を切り落とされたマルコスというしもべの、その耳に触って癒やしてくださったとあります。どういうことかというと、イエスさまは、ペテロのすべき償いを帳消しにしてくださったということです。言い換えれば、ペテロが自分の身に招いたのろいを帳消しにしてくださったということです。  それでも私たちは、イエスさまがペテロにおっしゃったみことばをよく心に留める必要があります。イエスさまはペテロにおっしゃいました。「剣をもとに収めなさい。」  主のしもべたち、弟子たちが争うのはみこころではありません。イエスさまはその争いをやめさせてくださいます。しかし、争いをやめる決断を下し、それこそ剣をもとに収める行動をする選択は、ほかならぬ主のしもべたちにかかっています。主のしもべたちが、「剣をもとに収めなさい」という主イエスさまのみことばを、まことに自分に語られたご命令であると受け取り、そのみことばに従順にお従いすることなしには、争いというものは絶えることはありません。  しかし、そのように「剣をもとに収める」ことを実際に実行することは、なんと難しいことでしょうか。今なおウクライナの地では、戦いがやむことがありません。これは国と国との争いの問題ですが、争いというものは私たちの日常生活にもついて回る問題です。 私たちはいろいろな場合に、人間関係の葛藤に投げ込まれるものですが、もしそのとき、自分の正しさだけを主張してそれに固執するならば、その正しさを主張することは相手に対して、もしかすると、剣を振るうような作用をしないでしょうか? もちろん私たちは、身体的な暴力など用いないかもしれません。しかし、たとえ身体的な暴力を用いなくても、ことばも充分に暴力になりえます。ことばで相手を傷つけるのです。  もちろん、そのようなことばを語るのは、クリスチャン、主のしもべとしてふさわしくないことは、私たちもよく知っていると思います。それでも、私たちが何かの拍子に、人を傷つけることばを語ってしまう、そういうことはあるのではないでしょうか?    私たちが、人を傷つける剣のようなことばを治める者になるためには、それだけ、主との交わりを欠かしてはなりません。主との交わり、それは御霊の満たしを生みますが、御霊に満たされるならば、ガラテヤ書5章22節と23節に書かれたとおりの9つの御霊の実を結びます。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制……。ことばがそうなりますし、品性がそうなります。 残念ながら、暴力で物事を解決しようとしたペテロは、祈るべき時に祈らなかった分、霊的な武装ができていなくて、愛してもいない、平安でもない、寛容でもない、柔和でもない、自制もできていない……ペテロはまさしく、御霊の満たしと反対の状態に陥っていたのでした。  剣をもとに収める。それができるのは、御霊に満たされている人です。そういう人こそが平和をつくり出す者として、神さまに用いていただけます。ウクライナを見ていても、平和に至る道はまだ遠いように思えます。しかし私たちはあきらめずに祈りましょう。私たちの祈りが平和をつくり出します。  そして私たちは、周りの方々と平和を保つために、御霊の満たしを心から求めましょう。それこそが、剣をもとに収めよというイエスさまのみことばに従順にお従いする道です。  さて、それなら、イエスさまは彼らと戦って勝つことができなかったのでしょうか? まずは53節をお読みしましょう。――「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。」  当然、イエスさまの配下に御使いの大軍隊を置いていただくことなど簡単です。イエスさまは全能の神さまであり、父なる神さまは子なるイエスさまのことを愛していらっしゃるからです。必ず守ってくださいます。  御使いの大軍隊がここに現れたらどうなるでしょうか? ただ単にイエスさまが守られるだけではありません。このようにイエスさまを逮捕しにやってきた宗教指導者の一味など、ひとたまりもなく滅ぼされます。第二列王記18章35節を見ると、神の民ユダを攻撃するアッシリアの軍勢18万5千人が、御使いによって一晩で全滅したという、ものすごい記述が出てまいります。日本の自衛隊員は14万8千人ですが、それよりも3万人以上多い数の兵士が、一晩で全滅……御使いの力はものすごいです。 その御使いの軍団が12軍団、それよりも多くの軍団、そんな御使いが臨んだら、死ぬのはこのとき逮捕しにやってきた一味どころでは済まないはずです。イエスさまを十字架につけようと考えた宗教指導者はことごとく、完膚なきまでに滅ぼされたはずです。 イエスさまが王の王であられる以上、十二軍団よりも多くの御使いをもって戦い、この地上において正真正銘の王になることがおできになりました。そうなさってもよかったのです。しかし、イエスさまは何とおっしゃったのでしょうか? 54節をお読みしましょう。――「しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」   イエスさまの受難、十字架は、旧約の時代、はるかむかしからみことばにおいて何度となく予告されていたことでした。その神さまのご計画が成し遂げられないならばどうなるでしょうか? 人は罪と死から解放されることがなく、滅びてしまいます。イエスさまが王になられるということは、彼ら宗教指導者が反キリストだからと、彼らのことを暴力的に滅ぼすことで成し遂げられることではありません。イエスさまはみことばが成就するために、十字架にかかりなさいという御父のみこころに、黙々と従順に従われたのでした。  そのみこころを妨げてはならない、イエスさまがペテロをお叱りになったのは、そういうことです。イエスさまがかつて、ご自身が十字架におかかりになることを弟子たちにほのめかされたとき、ペテロはイエスさまを脇にお連れして、そんなことがあってはなりません、と、イエスさまを諌めるような真似をしました。しかしイエスさまはそんなペテロに向かって、「下がれ、サタン」と一喝されました。  イエスさまの歩まれる道を妨げる者は、たとえイエスさまの一番弟子であろうとも「サタン」呼ばわりされて激しく叱責されるものです。しかし、ペテロに対して、「サタン」と呼びかけられたイエスさまは、間違ってはいらっしゃいません。ほんとうにそれはサタンのわざでした。サタンは、十字架によって自分が永遠に滅ぼされることを、何よりも怖れていました。その神さまのご計画がならないようにするためには、一番弟子の愛情たっぷり、思いやりたっぷりのことばを用いることさえしました。しかし、イエスさまのみこころは一貫していました。十字架におかかりになる。それだけです。  しかし、ここへきてペテロは、あのように叱責されたことを忘れたか、またもや人間的、肉的な方法を弄して、イエスさまを守ろうとしました。しかし所詮その行動は、十字架によって自分も含めた全人類が救われるというみこころを損なう手助けをしかねなかったものだということに、彼は気づく必要がありました。  私たちも気づく必要があります。イエスさまの十字架は、暴力と正反対の、神の愛の実践そのものです。戦争やけんかを含めた暴力的手段は、所詮人の怒りに起因するものであり、神の義を実現する手段にはなり得ません。神の義を実現する手段、それは、私たちのために身代わりに十字架にかかってくださったイエスさまの十字架の愛、それだけです。  イエスさまがこの地上に実現される御国は、私たちが十字架の愛をもってへりくだってこの地に住む人々に仕えることをとおして成し遂げられます。私たちは全能にして唯一の神さまにつく者だからと、この地を人間的に支配するのではありません。  私たちはそれでも、暴力的な力で解決したい欲望に駆られるような、強いようでいても実は弱い、そんな弱さを身にまとっているものです。自分がことばなどで攻撃されるようなとき、怒りをもって報いたくなるような、そんなことはないでしょうか? つい、そのような攻撃をしてくるような人に神の怒りが下されるようにと、そんな祈りをしてしまうようなことはないでしょうか?  イエスさまは祈られました。父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。イエスさまを十字架につけた宗教指導者たち、それに扇動されたユダヤの群衆、総督ポンテオ・ピラト、イエスさまを十字架に釘打ったローマの兵士たち……みんな、神の御子に迫害を加え、十字架の死に追いやった者たちです。 彼らは父なる神の怒りをまさしくこの瞬間、受けて滅ぼされるべきでした。しかしイエスさまは両手を広げ、御父が今まさに注いでおられる壮絶な御怒りを全身で受け止められ、彼らを、そして今なお何をしているかわからないで主の御前に罪を犯しつづけている私たちを、その御怒りからかくまってくださいました。  私たちが赦される道はただひとつ、このように神の怒りから私たちをかくまってくださった、イエスさまの十字架を信じることだけです。そうすれば私たちは神の怒りから救われ、罪赦され、永遠のいのちが与えられ、天国に入れていただけます。  私たちはそうして救っていただきました。しかし、私たちはこうして罪赦されてもなお、神の御前にふさわしくない罪人でありつづけてはいないでしょうか? 十字架を背負われたイエスさまのみあとを、自分の十字架を負ってお従いする、自己否定の道を歩むよりも、自分の力でなんとか生きることを選んではいないでしょうか? それでは、イエスさまが十字架につかないようにしようとあれこれ策を弄したペテロと五十歩百歩です。  それでもイエスさまは十字架の道を歩んでいかれました。私たちがすることは、イエスさまの十字架の前に自分自身を差し出し、心から悔い改めることです。そして、このように救いを成し遂げてくださったイエスさまのまことの弟子になりたいと願うならば、私たちもイエスさまにならって、自分を否定して十字架を背負う生き方をすることです。私たちも、十字架の道を歩むのです。神さま、イエスさまは、そのような私たちのことを喜んでくださいます。  しかし、私たちはまた同時に、十字架に至る道は歩もうとしても、なかなか歩めない弱い者であるということを、謙遜に認める必要もあります。55節、56節をお読みしましょう。――また、そのとき群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮で座って教えていたのに、あなたがたはわたしを捕らえませんでした。/しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。 彼ら宗教指導者の一味は、いかにもイエスさまを捕らえられそうな時を狙っていました。別の福音書を読むと、それはあなたたちの時、暗闇の力だからだと、イエスさまは彼らに対して喝破されています。  この、もっとも暗闇の支配するそのときに、弟子たちはイエスさまを見捨てて逃げ出しました。ここにおられたイエスさまからは、もはやユダヤを解放してくださる雄々しい王の姿など、少なくとも彼らの目には、まったく見出すことができませんでした。哀れな捕らわれ人にしか見えませんでした。自分たちも捕らえられたら、何をされるかわからない……弟子たちにものすごい恐怖が襲いかかってきました。われ先にと逃げ出しました。  こうして見ると、弟子たちはいざとなると極めて薄情なように見えます。ああはなりたくないものだ、私たちはそう思いますでしょうか? しかし、忘れてはなりませんが、弟子たちが去っていくことは、イエスさまがお許しになったことでした。ヨハネの福音書を見てみますと、宗教指導者の一行にイエスさまは、わたしがそれだ、ここにいるわたしの弟子たちはそのまま去らせなさい、とおっしゃっています。ここは彼ら弟子たちが去ることがイエスさまの願いでした。イエスさまは彼らのことを守ってくださったのでした。  さきほども申しましたが、私たちはイエスさまのみあとを、十字架を背負って生きるべき存在です。しかし、いざとなると十字架の道に行けない、そういう弱さもまた私たちが持っていることを、へりくだって認める必要があります。私たちは殉教した信仰の先達を見ていると、あのような生き方をしたいと思わないでしょうか。そう思うのはすばらしいことです。しかし、私たちはまた同時に、いざというときになったらそのように思ってきたほどイエスさまのために何かできるものではないことを知る必要があります。  しかし、聖書は続きまで読むべきです。このときイエスさまを見捨てた弟子たちは、その弱さを露呈してしまった過去を抱えたまま、のちにはイエスさまについて行く人に、聖霊なる神さまが変えてくださいました。そうです。イエスさまのみあとをついて行くのは、人間的な英雄信仰ですべきことではありません。すべては主の恵みによって主にお従いするのです。 私たちは今はまだ、いざとなったら主にお従いできないような弱さを抱えているかもしれません。しかし、祈ってみてはいかがでしょうか? このような私たちも、今はまだ弱い私たちですが、イエスさまの十字架と復活を経て、変えていただく、その御約束を握り、主が私たちを変えてくださるその御手にゆだねる私たちとなりますように。信じましょう。私たちは変えていただけるのです。終わりの日まで主にお従いする者にしていただけますように、主の御名によってお祈りいたします。

「論の権威、証拠の権威」

祈祷/使徒信条/交読;詩篇30:1~12/主の祈り/讃美;讃美歌461「主われを愛す」/聖書箇所;マルコの福音書1:21~28/メッセージ題目;「論の権威、証拠の権威」/讃美;聖歌200「うれしきこのひよ」/献金;讃美歌391「ナルドの壺」/栄光の讃美;讃美歌541「父、御子、御霊の」/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 「バプテスト教理問答書」は、第23問答まで来ました。一緒に読みましょう。 問23 キリストは神の子でありながら、どのようにして人となったか。/答 神の子キリストは、真実の肉体と通常の霊魂とをとり、聖霊の力によって処女マリヤに宿り、しかも罪を持たずに生まれ、人となった。 イエスさまは、聖霊なる神さまの御力によって、完全な人としてこの世にお生まれになった神さまです。完全な神であり完全な人である、唯一のお方、それがイエスさまです。イエスさまは神として人々にみことばをお語りになり、神として人々にみわざを行われたのでした。 このお方、イエスさまは、神の権威に満ちあふれたお方です。今日のメッセージのキーワードは、「権威」です。イエスさまの権威を2つの側面から見てまいります。ひとつは「論の権威」、もうひとつは「証拠の権威」です。「論より証拠」ということわざがあります。「論」は説得力があるように思えても、ほんとうに説得力があるのは「証拠」のほうだ、という、とかく教えに走る人に対する皮肉を込めたことわざと言えますが、イエスさまにとっては「論」も「証拠」も、どちらも神の権威にあふれたものです。 今日の本文の内容ですが、イエスさまはペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネを弟子とされ、弟子たちを引き連れた群れで行動されました。その一行がカペナウムという町にやって来て、ユダヤ教の会堂に入りました。イエスさまは会堂で、人々に教えを語られました。するとそこに、悪霊にとりつかれた男がいました。イエスさまは彼から悪霊を追い出されました。 本文を読んでみますと、「権威」ということばが繰り返し登場します。イエスさまはまさしく、神の権威をもってこのカペナウムの会堂で振る舞われたのですが、神の権威は御教えと御業の両方で現れています。 まずは、御教えの権威のほうから見てみましょう。21節のみことばです。イエスさまは、安息日に会堂に入ってみことばを教えられました。 イエスさまは何を教えられたのでしょうか? 聖書を教えられました。ルカの福音書の中にもイエスさまが会堂で教えを語られる場面が出てきますが、それによると、まずみことばの書かれた巻物が渡され、それを朗読して、そのみことばに対する解説を述べられました。こんにち、私たちのような教会で説教者が、お読みしたみことばにメッセージという形で解説を加えるのに似ています。 しかし、イエスさまが教えられる場合と、牧師や伝道師のような説教者が教える場合とでは、決定的な違いがあります。牧師や伝道師はどこまでも人間であり、解説者にすぎません。むかし、ある牧師先生から、クイズを出されました。礼拝の中でいちばん大事なのはどの部分ですか? 私は、このちょっと意地悪な先生のことだから、「メッセージ」と答えたら、おそらくアウトだろう、と、先回りして、「使徒信条でしょうか?」とお答えしました。答えは、バツ。先生はおっしゃいました。「みんな、礼拝メッセージだと答えるんだよねー。でもそうじゃないんです。答えは、聖書を朗読する時間です。」 言われてみれば確かにそうです。礼拝は神さまにおささげするものですが、聖書のみことばをお聴きする時間は、神さまから御声を授けていただく時間であって、これほど重要な瞬間はありません。礼拝メッセージは、そのみことばに対する「解説」、身もふたもない言い方をすれば「添え物」にすぎません。 ところがイエスさまの場合はどうでしょうか? けっしてそれは、牧師や伝道師、当時でいえば律法学者のような宗教指導者のメッセージとは、根本から異なっていたのでした。22節のみことばです。 イエスさまは「権威ある者として」お教えになったのです。この権威の前に、聴衆はみな圧倒され、驚くばかりでした。ことばに権威があったのでした。ことばに権威があるということは、ことばを語るお方に権威が満ちあふれていた、ということです。聴衆はイエスさまのお語りになったみことばに、イエスさまの権威を認めるほかなかったのでした。 イエスさまの語られたおことばは、人間による聖書の解説とは次元を異にするものでした。それは神さまご自身による解説であり、すなわち、神さまご自身のみことばでした。権威があるのは当たり前です。 しかし、ここでひとつ、ガリラヤの人たちのみことばに対する態度にも注目したいと思います。彼らは普段、どのような教えをこの会堂で受けていたのでしょうか? ときの宗教指導者たちは、どんなことを教えていたのでしょうか? 彼ら宗教指導者がどのような人であったか、いみじくもイエスさまがおっしゃっているとおりです。「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうとはしません。」 彼らは確かに、正しいことを語っています。神のみこころは何であるかを語っています。だからこそ、それを聴く聴衆も、それが神のみこころであることを分かっているので、聴かざるをえません。しかし、彼らはあまりにも、語ることと行なっていることがかけ離れています。彼らは律法の厳しいところを語りながら、そこから救ってくださるお方について一切語りません。だから、疲れた者、重荷を負っている者をみもとにて休ませてくださるイエスさまに、聴衆はいつまでたっても出会うことができず、ただ自分の至らなさに悲しむしかなかったのでした。 ところが、イエスさまがみことばを語られたらどうなりましたか? 彼らは神に出会いました。神のみことばを直接聞きしました。そこに彼らは、いやがうえにも神の権威を認めるばかりでした。 宗教指導者の語っていた聖書の解説は、薬の能書きのようなものでしかありませんでした。私たちはテレビで薬の宣伝を視ます。コンピューター・グラフィックなども使って、いかにも効きそうです。でも、あの画面を視ただけでは、病気は治りません。あるいは、その宣伝を見て薬が欲しくなって、薬局に行きます。薬を買います。薬には必ず、その成分や効き目を書いた文書がついてきますが、それを読んだら病気は治りますか? どうしなければなりませんか? そうです。飲むことが必要です。宗教指導者はどんなに立派なことを言っても、薬を飲ませることをしていなかったわけです。 イエスさまというお方はちがいます。私たちをいやす神のみことばを、ご自身で私たちに直接語ってくださるお方です。よく、韓国教会でジョーク半分に語られることば、クリスチャンには2つの薬が必要です、それは、「きゅうやく」と「しんやく」です……。まさに、「しんやく」そのものであるイエスさまが、「きゅうやく」を解き明かしてくださる、それを聴く聴衆はどれほど、普段から彼らを支配している罪責感の縄目から自由にされる、まことのいやしを体験したことでしょうか! 私たちはイエスさまのみことばを福音書をとおしてお読みするとき、その教えの権威の前に圧倒されます。 ただしそれは、イエスさまのみことばを、あたかも薬の宣伝や効能書きを眺めることで済ませるのではなく、「飲んで」からだの一部とするようにして耳を傾けるからではないでしょうか? ご覧ください。日本はこれしかクリスチャンがいないにもかかわらず、聖書のみことばに触れる機会はいくらでもあります。その気になったら聖書が読めるのです。 しかし、いざそのようにして聖書を読む機会があったとしても、それで人が変わらないのはなぜでしょうか? このカペナウムのガリラヤ人のような、イエスさまのみことばを聴いたら驚くだけの心の備えができていないからです。私たち日本に住む者たちは、あまりにもイエスさまに対する先入観が多すぎます。聖書に対する先入観が多すぎます。しかしもし、そのような先入観をすっかり捨ててみことばに耳を傾けるならば、人は必ず、その権威に圧倒され、そのみことばの教えによってつくり変えられます。 私たちはイエスさまのみことばを聴いたとき、そのような「驚き」を覚えているでしょうか? 権威を認めて、その前にひれ伏していますでしょうか? 私たちに必要なのは、その霊的感覚です。もし、みことばをお読みしても驚きも何も感じないようでは、自然とみことばをお読みしなくなるでしょう。 イエスさまのみことばを聴いても驚かない。何とも思わない。これではパリサイ人のような宗教指導者と同じです。神さまはいったい、世の中から尊敬されていても御前ではそのような宗教指導者と、無学でもイエスさまのみことばに権威を認めて驚いたガリラヤ人と、どちらを受け入れてくださったでしょうか? しかし私たちは、長年のクリスチャン生活の、いわば「慣れ」で、いつしかみことばを読むことにそれほどの驚きを覚えなくなってしまうようになるかもしれません。そんな私たちは、何に驚いていますでしょうか? みことばよりも肉的なもののほうに、より驚きを覚えているようなら、私たちの感覚はそれだけ肉的になっているということです。 みことばに対して驚きを回復してください、と、主に心からお祈りする必要があります。そして、聖書を開きましょう。主は必ず、みことばをお読みする私たちに、驚きを与えてくださり、みことばを愛する者へと私たちのことを成長させてくださいます。今日からこの祈りを始めましょう。 もうひとつの「権威」についても見てみましょう。23節から26節をお読みします。……汚れた霊につかれた人。そういう人もまた、みことばを聴く人々の群れの中にいた、というわけです。 彼はイエスさまの教え、神の権威に満ち満ちた教えに反応しました。ただしその反応は、ひれ伏す、ですとか、礼拝する、ですとか、いっしょうけんめい傾聴する、ではありません。まるでイエスさまの教えを妨害するかのように、大声で叫び出したのでした。 この人のことばを見ると、いろいろなことがわかります。まず、彼は「ナザレの人イエス」と呼びかけています。ナザレのイエスの名には力があります。悪霊をも震え上がらせる力です。そんな悪霊が、「私たちと何の関係があるのですか」と語ります。「私たち」と言っているので、この悪霊は集団でこの人にとりついていたことがわかります。悪霊どもはそろいもそろってイエスさまを恐れました。 その人は、というより、その人にとりついた悪霊どもは、「私たちと何の関係があるのですか」とイエスさまに向かって叫びます。それまでカペナウムは、イエスさまが来る前は、この悪霊どもは影響力を発揮していました。彼らの縄張りともいえましょう。しかし、そこに神の子なるイエスさまが来られたなら、もはや彼ら悪霊どもに働く余地はありません。 だが、悪霊どもはここで精一杯の抵抗をしました。「私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。」悪魔と悪霊の軍団は、私たち人間よりもよほど、イエスさまがどなたなのか知っています。イエスさまが王の王、主の主であるゆえに、そのきよいご臨在の前に震え上がる存在、それが絶対的な悪の存在である、サタンと悪霊どもの軍団です。それでもこの悪しき存在は、イエスさまのかかとにかみつくかのように抵抗します。群衆がみことばに耳を傾けることができないように、大声を出すなどして妨害します。 しかし、イエスさまの権威を前にして、悪霊どもが勝てるはずもありません。「黙れ。この人から出て行け」、このひとことで悪霊どもは去りました。 このできごとに彼らカペナウムの聴衆は驚きました。彼らはイエスさまのこの、みことばによる御業に対して、こう言いました。「これは何だ。権威ある新しい教えだ。」このことからわかるのは、神の権威に満ちたイエスさまの御業というものは、みことばと密接につながっている、ということです。 イエスさまの伝記物語は、子ども向きにいろいろなものが出ていますが、欠かせないのは、イエスさまがこのように多くの奇跡、しるしを行われた、ということでしょう。しかし、それらの奇跡やしるしは、本来何のために行われたのでしょうか? 父なる神さまと無関係にイエスさまがあがめられ、礼拝されるためではありません。しるしや奇跡が行われたのは、それをとおして、みことばの確かさが証しされるためでした。 実際に聖書をご覧になってください。イエスさまは実にいろいろな御業を行われましたが、みことばの教えと無関係に行われた御業など、ひとつも存在しません。すべての御業は、イエスさまの御口から出た御教えの正しいことを証ししています。 時に私たちは、奇跡のような体験をします。科学や常識では説明できないような体験をするものです。それは私たちにとってはもちろん、神さまの特別なあわれみによって与えられた恵みの御業です。その体験を通して私たちはますます神さまを信じるようになります。素晴らしいことです。 しかし、その奇跡的な体験をだれかに話すのはいいとして、それでもって神さま、イエスさまを信じてくださいと語ることにおいては、注意が必要です。私たちがもし、主のみことばと関係のないような、単なる超常現象だけを切り取って語ったとしても、そういうことはほかの宗教でも普通にありふれていることです。その現象を語ることそのもので、もしだれかがイエスさまを信じたとしても、その人がみことばによって養われることがないならば、その信仰はむなしいものです。 奇跡というものはありふれている、と語りましたが、特定の宗教を信じる人には、奇跡というものはよく起こるもののようです。そのような不思議な体験をしたことで、より一層その宗教を信じる根拠になったりします。私の友達にある宗教の信者がいましたが、その人はちょっと変わった体験をしたらしく、それが、その人の信仰をより一層強くしていたものでした。いわば「論より証拠」です。 しかし、私たちにとっては、「証拠」のない「論」など、信じるべきではありません。ヨハネの手紙第一4章1節から3節には、このようなみことばがあります。……超常現象、それは起こります。しかし、私たちが受け入れるべきは、その超常現象が主イエスさまを証しする、みことばに根差したものでなければなりません。超常現象とまで極端なことは言わなくても、ドラマチックな体験をしてイエスさまに出会う、主の御名をほめたたえる、それはもちろん「あり」なのですが、その個人的な体験がだれにでも同じような感動を呼び起こし、主の御名をほめたたえるようにさせるとはかぎりません。 私たちはだれかに伝道するにあたっては、最優先に語るべきは聖書に根差した真理です。自分の証しを語るのももちろん結構なのですが、それがみことばを関係がなかったり、関係が薄かったりするならば、それがどんなにドラマチックであったとしても、語るのは控えるべきでしょう。 私たち自身のことを考えてみましょう。私たちはさきほど、「イエスさまのみことばに驚く」ということを語りましたが、聖書のみことばをお読みすることは同時に「イエスさまの御業に驚く」ことでもあります。私たちの信仰生活は「驚き」の連続であるべきですが、さきほどの繰り返しのようになりますが、その「驚き」は何よりも、聖書をお読みするときに体験すべきです。イエスさまのみわざは、聖書をとおして体験するものです。実際の生活に奇跡が起こらないからと、私たちの信仰を働かせることをなおざりにしてはなりません。 しかし、こうも言えます。もし、聖書に書かれたイエスさまの御業に驚き、その御業がほんとうに行われたと信じるならば、私たちは今のこの生活のただ中にも、イエスさまがみわざを行なってくださると信じ、みわざを行なってくださいと祈り求めるべきではないでしょうか? これは、ご利益信仰ではありません。たとえば、家族や知り合いに病気の人がいるとして、その人の病気をいやしてくださいと祈ることは、イエスさまもそのお弟子たちをとおしても癒やしの御業が行われたことがこれでもかと聖書に登場する以上、祈っていいこと、いや、祈るべきことです。また、経済的に困っている人や団体のために、お金を与えてくださいと祈ることも、実際聖書を読むと、貧しいやもめの経済的な必要が満たされたという記録がある以上、みこころにかなっていることですから、祈るべきであり、祈らなければならないのです。 しかし、みことばの最大の成就は何でしょうか? 十字架と復活です。人はイエスさまの十字架によって罪と死から贖われ、復活によって永遠に罪と死に勝利します。この、復活して生きておられるイエスさまがともにおられることこそ、みことばの証しする最大の奇跡、証拠です。この、創造の初めから聖書において証しされてきた「論」がイエスさまの十字架と復活をもってそのとおりになったという「証拠」、それを信じ受け入れることで、人は救われ、永遠のいのちが与えられ、天の御国に入れられます。私たちが宣べ伝えるべき「証拠」があるとすれば、イエスさまのこの「十字架と復活」をおいてほかにありません。 今日のみことばを振り返りつつ、祈りましょう。 ①私は、イエスさまのみことばに驚いていただろうか? みことばに対してそれほど驚かなくなっているほど、霊的な感覚がこの世のものに覆われてしまってはいなかっただろうか? その程度の飢え渇きしか覚えていなかったから、みことばを読むこともいい加減になってはいなかっただろうか? 主よ! 悔い改めます。みことばに対する飢え渇きをください。そのように願いますか? ②私は、いつの間にか普段ドラマチックな体験をしていなかった分、聖書に書かれたイエスさまの御業が充分に信じられないでいなかっただろうか? それゆえ、みことばがそのとおりになると信じて、信仰をもって祈ることをしないで済ましていなかっただろうか? 主よ! 私が祈らなかったことを悔い改めます。悔い改めて、心に浮かぶこと、主の奇跡を必要としていることを覚えて、切に祈ります。特に、私の愛するあの人が、イエスさまの十字架と復活を信じ、イエスさまとともに歩む生き方をすることができますように。

「イエスさまの弟子とは」

聖書箇所;マルコの福音書1:16~20/メッセージ題目;「イエスさまの弟子とは」 今日の箇所にまいりたいと思います。イエスさまは何をしていらっしゃいましたでしょうか? 人をご自身の弟子とされました。イエスさまの弟子。今日の箇所は、これがキーワードです。イエスさまの弟子とはどのような存在なのか、ひとつひとつ説き起こしたいと思います。 第一に、イエスさまの弟子とは、イエスさまがお選びになった存在です。 イエスさまはガリラヤ湖のほとりを歩いていらっしゃいました。するとその湖上で、シモンとその兄弟のアンデレが、網を投げて漁をしていました。イエスさまは彼らに声をかけられました。「わたしについて来なさい。」 これだけをお読みしますと、イエスさまの呼びかけは唐突な印象を受けるかもしれません。しかし、ほかの福音書と合わせて読んでみますと、どうも、シモン、アンデレの兄弟とイエスさまは、これが初対面ではなかったようです。特に、ヨハネの福音書1章35節から42節に記録されているできごとを見ると、それがはっきりします。 アンデレはもともと、バプテスマのヨハネの弟子でした。しかし、彼らのところをイエスさまが歩いて行かれるのを見たヨハネが、アンデレたちに「見よ、神の子羊」と、イエスさまを指し示したところ、アンデレともうひとりの弟子は、イエスさまについていき、イエスさまの泊まっておられるところに行って、イエスさまと一緒にとどまりました。いろいろおことばも聴かせていただいたことでしょう。 そのアンデレは、自分はメシア、キリストに出会ったと、兄弟のシモンをイエスさまのもとに連れて行きました。そのときイエスさまはシモンを見つめておっしゃいました。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます。」 このことから、これがアンデレとペテロにとって、イエスさまのとの初対面がこのときだったことがわかるのですが、ともかく、アンデレは漁師でありながら、もともと、バプテスマのヨハネについていくだけの、弟子になる心構えのできていた人でした。イエスさまがお選びになったのは、そのような弟子の心を持つアンデレだったのです。 シモン・ペテロはどうでしょうか? あれほど熱心にバプテスマのヨハネについて行っていたアンデレと、何せ同じ舟の中でいつも夜通し漁をするような兄弟であり、仕事仲間です。アンデレとペテロの乗ったその舟は、有名な演歌のフレーズを借りれば「俺と兄貴の夢の揺り籠」といったところでしょう。まさしく「兄弟船」。 そのアンデレは、大好きな兄弟シモン・ペテロに、ふだんからバプテスマのヨハネのことを説いて聴かせていたはずです。いや、それだけでしょうか? そのヨハネの預言したとおりのお方、メシアがついに現れた! 聞いてよ、俺はメシアとご一緒して、いろいろお話ししたんだぜ! なあ、一緒に来いよ! アンデレは、シモンならば直接イエスさまに出会ったらきっと信じるはずだと、確信があったはずです。いや、それ以上に、何としても会わせたい! 大好きな兄弟だから! そんな思いがあったはずです。 聖書を読むと、アンデレはシモン・ペテロに比べると、ちょっと影が薄いという印象を受けないでしょうか? しかし、これはことばを換えれば、アンデレの存在がシモン・ペテロという偉大な使徒を生んだ、ということでもあります。アンデレがイエスさまの恵みを独り占めして、シモンをイエスさまに出会わせなかったら、あの偉大な使徒ペテロは生まれなかったわけです。 私の母教会、北本福音キリスト教会の日曜学校中高生科は、「アンデレ会」という名前がつけられていました。これは、連れてきた友達がペテロのようになる、という祈りが込められたネーミングです。私は中学2年から教会に集い、アンデレ会のメンバーになりました。最初はお祈りもできなかった私でしたが、今は、その世代で唯一の牧師になりました。私はペテロと比べるべくもない存在ですが、アンデレ会の存在が私を牧会者の道へと導いたのは確かなことです。そういう意味でもアンデレの役割をする人は必要です。 ペテロとアンデレの召命に関しては、ルカの福音書5章にきわめてドラマチックな描写が出てまいります。イエスさまはシモン・ペテロの舟に乗って、湖上から湖畔に群れなす群衆にメッセージを語られました。しかし、このとき、ペテロは夜通し漁をしても全く何も獲れなかったという、一晩の重労働が徒労に終わるという体験をしていました。 そんなペテロにイエスさまは、「深みに漕ぎ出して、網を下ろして魚を捕りなさい」とおっしゃいました。ふつうならば、とんでもない! となるでしょう。疲れています。魚が獲れないのはわかっています。しかしペテロはこのとき、「おことばですので、網を下ろしてみましょう」とお答えし、イエスさまのみことばに対する従順を、一晩中の重労働に優先させたのでした。そうして網を下ろすと……大漁、大漁、また大漁! イエスさまは、ヨハネに弟子入りするほどのアンデレの探求心、向学心、また兄弟愛を見抜いておられたことでしょう。そして、重労働による疲れよりもイエスさまへの従順の行動を優先させるようなペテロの純粋さ、行動力を見抜いておられたことでしょう。まさに、彼らは、弟子になるにふさわしい人だったわけです。 イエスさまは続いて、ヤコブとヨハネにも声をかけていらっしゃいます。やはりイエスさまは、彼らが弟子としてついていけるだけの素質があることを見抜いていらっしゃったわけでした。 さて、ここまで見てみますと、私たちはどう思いますでしょうか? いや、彼らはイエスさまに見いだされるだけの、弟子としての素質があった。私なんかはそんな人間じゃないです。そう思いますでしょうか? しかし、それはちがいます。私たちは聖書を開くと、「わたしについて来なさい」というイエスさまのみことばを目にします。これは、私たちひとりひとりに語っていらっしゃるおことばです。私たちからイエスさまに弟子入りを志願する前に、イエスさまの側から、私たちをのことを弟子に招いてくださるのです。 神の御子が私たちを弟子にしてくださるのです。なんと光栄なことでしょうか! このように、礼拝に集っている私たちはすでに、招いていただくにふさわしいと見込んでいただいています。私たちは自分の意志でこの礼拝に集っていると思ってはなりません。その意志を与え、礼拝させてくださっているのは、神さまです。そのようにして神さまは、イエスさまの弟子になるように、私たちのことを招いていてくださいます。 さきほど、素質のことを申しましたが、私たちはだれもが、イエスさまの弟子になれるだけの素質を持っています。なぜでしょうか? 私たちは神さまの似姿に造られているからです。神さまの似姿に造られているということは、私たちの創造主である神さまにますます似ていこう、そのためには神の御子イエスさまからしっかり訓練を受けよう、という意志が、私たちの中にある、ということです。もし、私たちが素直に、神さま、イエスさまの御前に出ていくならば、主は私たちのそのような、弟子としての素質を見抜き、ご自身の弟子に取ってくださいます。 ペテロやアンデレ、ヤコブやヨハネは、私たちと次元の違う人ではありません。平凡な漁師でしたが、イエスさまがご自身の弟子になれると見込んでくださった人です。私たちもイエスさまに、ご自身の弟子になれると見込んでいただいていると、信じていただきたいのです。イエスさまは私たちに声をかけてくださっています。「わたしについて来なさい。」 第二に、イエスさまの弟子とは、イエスさまに召されたとおりの働きをする存在です。 イエスさまはシモン・ペテロとアンデレをお招きになったとき、何とおっしゃいましたか?そうです、「人間をとる漁師にしてあげよう。」 ペテロはすでに、イエスさまからそれまでにも「あなたは人間をとる漁師になる」と言われていました。ペテロにはその意味が最初わからなかったかもしれません。しかし、イエスさまの教えを聴きに多くの人がついていっていた様子を見るに至り、そうか、このように、イエスさまと同じように働くことが、人間をとることなのか、と、わかっていったことでしょう。 先ほど挙げましたルカの福音書5章のみことばは、腕利きの漁師が創造主に完全に降伏したという内容でもあります。イエスさまに言われたとおりにすると、一匹も獲れなかったはずの魚が、網が破れそうになるほどに獲れた。まさしく、イエスさまが創造主であられたということですが、イエスさまはこの奇蹟をとおして、ペテロのことを、漁師からご自身の弟子、ひいては使徒へとお導きになったのでした。創造主であるわたしの言うとおりにしなさい。ペテロはその、イエスさまのお導きをいただいたのでした。 イエスさまは、魚を捕ることにいのちを懸けてきたペテロの生活にもっとも寄り添う形で、「あなたは人間をとる漁師になる」とおっしゃいました。ペテロにとってもっともふさわしい「天職」は、魚を捕る漁師ではなかったのでした。魚を獲れるようにも、獲れないようにもなさる神の御子、イエスさまにしたがって、人々を救いに導く働きをすること、これがペテロにとっての「天職」であったわけです。 それにしてもみなさん、「人間をとる漁師」という表現、味わい深いみことばだと思いませんか? イエスさまはシモン・ペテロとアンデレが、「漁師」という働きにいのちを懸けてきたことを否定していらっしゃいません。「あなたは漁師ではありません」ですとか、「あなたは漁師をしていてはいけません」とおっしゃったのではないのです。あなたは漁師です、ただし、あなたがこれから捕らえるのは、魚ではありません、人間です。これがイエスさまのみこころでした。 ペテロにとっては、漁師という仕事は、いのちを懸けて取り組んできた働きでした。イエスさまはそれを否定されていません。それは同時に、ペテロという人の刻んできた人生を否定せず、受け入れていらっしゃるということです。イエスさまはそれでも、魚を捕るために執拗に夜の湖に網を放つようなペテロの粘り強さが、人をとらえるためにいのちを懸ける献身につながると見込まれました。 イエスさまの弟子に招かれた人であるならば、イエスさまの望んでいらっしゃる働きを行うことで、神さまのご栄光をあらわすことが、最高の祝福につながります。私たちは何をすることが、イエスさまの願っている働きだと捉えていますでしょうか? さて、このように、イエスさまはご自分の弟子としてペテロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネを招かれました。彼らはどうしましたか? そこで第三のポイントです。第三に、イエスさまの弟子とは、イエスさまの招きに応える存在です。 ペテロとアンデレは網を打って漁をしていました。しかしイエスさまの「わたしについて来なさい」というおことばを聞くや否や、網を捨ててイエスさまについていきました。網はもちろん、漁師にとってはいのちの次に大事なもの、戦士にとっての刀のようなものです。仕事中にもかかわらず、彼らはいのちのような網を捨ててイエスさまについていったのです。 ヤコブとヨハネはどうでしょうか? 彼らは、舟の中で網を繕っていました。それは、これから漁に行くための準備をしていた、ということです。さあ、これから仕事だ、というタイミングで、イエスさまは彼らに声をおかけになったのでした。すると彼らは、父親のゼベダイと雇い人たちを舟に残して、イエスさまについて行きました。 あっという間の献身です。この聖書本文に「すぐに」ということばが繰り返し登場することにもご注目ください。ほんとうに「すぐに」だったのです。イエスさまというお方は、「すぐに」ついていくべきお方、それほどのお方なのです。ただ、この「すぐに」には、伏線がありました。 ルカの福音書5章をお読みになればわかりますが、ペテロとアンデレの大漁の奇蹟は、ヤコブとヨハネもすぐそばで目撃していました。そんな彼らが、イエスさまのそばに、あのペテロとアンデレが一緒にいるのを見て、あっ、ついに彼らはついていくことを決断したのか! そう思ったにちがいありません。するとイエスさまは自分たちにもおっしゃった。「わたしについて来なさい。」 イエスさまについて行くには、それにふさわしい「時」があります。このときが、彼ら4人にとってのそのふさわしい「時」であったのです。先週学んだみことばの中に「時は満ち」というイエスさまのおことばがありましたが、私たちもイエスさまの定められた「時」に従って生きていくとき、そこには最高の祝福があります。 イエスさまは、強制的に人を弟子とされるわけではありません。ついて行く側の決断が必要になります。その決断が可能になるのは、決断の向こうにある御国の祝福を確信できているからです。 ただし、その祝福をいただくためには、私たちはときに、後生大事にしているものを捨てる決断をする必要に迫られることもあります。彼らは仕事道具を捨てました。それは仕事を捨てたということであり、また、親を残していきました。 私たちはしかし、弟子になるにはこれほどまでに徹底したことをしなければならないのか、と、ひるみませんでしょうか? そんなことなど自分にはできない! 弟子じゃなくて結構! と、諦めたりしないでしょうか? しかし、間違えてはなりませんが、イエスさまはすべてのクリスチャンに、フルタイムの献身者、教職者になることがみこころだとおっしゃっているわけではありません。ただ言えることは、弟子になるには、それ相応の献身が必要である、ということです。 ただ、聖書をよく読めばわかりますが、ペテロはイエスさまの弟子になっていたときにはすでに結婚していた模様で、その妻の母親のところにイエスさまは行って、病気を癒していらっしゃいます。ヤコブとヨハネも、親子の縁を切った、というほどのものではなかったようで、母親がイエスさまに口出しする場面が出てきます。私たちはイエスさまに従う弟子になることを、この世の係累を断ち切ることのように、極端に捉えてはなりません。 それでも、私たちはイエスさまに従うために、自分が大事にしているものを「捨てる」ように、主から決断を迫られるときがあり、そのときどう決断するかによって弟子としての真価が問われるものです。 韓国にはオンヌリ教会という有名な教会があります。私の韓国留学時代、オンヌリ教会は、今もそうですが「ワーシップ&プレイズ」の働きが盛んでした。そのバンドのドラム担当の兄弟は日本人で、私はその方と同じ語学学校に通っていましたので、交わりのためにときどきお会いして食事をしたりしていました。この方のドラムは一級品で、私も聴いたことがありますが、とにかくすごい技術でした。 ところがある日、私がドラムのことを話題に出すと、彼は、今はドラムを叩いていない、とおっしゃるのでした。どうしてなのか聞いてみると、ドラムが自分にとっての偶像になってしまっていたから、とおっしゃるのです。 私はびっくりしました。その素敵なドラムで、神さまの栄光をあらわす賛美をするのではいけないのですか……それでも彼は、自分にとって偶像だからドラムは叩いていない、とおっしゃるのです。 しかし、あれから25年以上過ぎた今となっては、彼が自分のドラムを偶像と見なしたその気持ちがわかるようになりました。自分の肉的な技術に頼って、霊的でなくなったならば、ドラムを叩くたびに問われる思いになり、とても平安と言えなくなっていたことでしょう。 私たちはいろいろなものに囲まれて暮らしています。テレビやインターネット、噂話、趣味、食べ物や飲み物……そういったものが、純粋にイエスさまの弟子として歩んでいこうとする意志を阻むことは大いにあるものです。そんなとき、私たちは問われる思いになり、心の中から平安が失われることになりはしないでしょうか。 私たちは、イエスさまに従うための大きな決断はできないかもしれません。しかし、ほんの小さなことでも、イエスさまの弟子としてまっすぐな歩みをするために捨てて、その積み重ねでやがて、すべてを捨ててイエスさまに従う者となるようにしていただく、というお導きは、必ずいただくことができます。決断の積み重ねです。 ペテロたちにしても、復活のイエスさまに出会った後でも、あの捨てたはずの舟に戻り、漁をしにいくようなことをしています。捨てきれなかったのです。しかし、イエスさまはそのときにも現れてくださり、彼らに対して、イエスさまの弟子としての総仕上げをしてくださいました。 私たちも時に、すべてを捨てられない自分の姿を見てしまうかもしれません。しかし、信じていただきたいのです。主がひとたび私たちのことをご自身の弟子として召されたなら、私たちは必ず、すべてを捨てて主にお従いできるようになります。諦めないで、お導きに従ってまいりましょう。主が私たちの弟子の歩みを完成してくださるのです。私たちを弟子としてくださる、主のこのご主権に信頼し、主にお従いする私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。