「十字架の道」

聖書箇所;マタイの福音書26:47~56/メッセージ;「十字架の道」  ひとつ、仮定してみたいと思います。仮に、私たちがイエスさまにつき従う群れだったとしましょう。十二弟子の立場でも、十二弟子と一緒に行動をした女性たちの立場でもいいです。  イエスさまの日ごろの正しい言動が腹に据えかねていた宗教指導者たちが、夜の暗闇にまぎれて、イエスさまを捕まえにやってきました。それも、剣で武装した軍団を引き連れてです。さあ、私たちならそのとき、この群れを見てどのように振る舞いますか?  イエスさまが十字架におかかりになる前の夜、ついによい機会が訪れたとばかりに、裏切り者の弟子、イスカリオテのユダの手引きで、宗教指導者の軍団がやってきました。そのとき弟子のひとりは、大祭司のしもべに打ちかかり、その耳を剣で切り落としました。ほかの福音書を読むと、その弟子とはペテロであるということですが、イエスさまはそのペテロの行動を諫められ、しもべの耳をいやされました。  私たちもまた、もし剣を持っていたら、暴力で解決しようとするのでしょうか? 私たちにもはやる思いがあると思います。私たちの王、イエスさまに手を出す者は、この私が容赦しない……。  しかし、イエスさまはなんとおっしゃったのでしょうか? 私たちはこのおことばから何を学び取り、どんな決断をすることができますでしょうか?  52節のみことばからまいりましょう。――「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」  イエスさまがこのようにおっしゃった意味を考えてみましょう。なぜこのようにおっしゃったのか? 大前提として、神さまがその民に「殺してはならない」と戒めのみことばをお語りになったからです。モーセの十戒にあるとおりです。  人を殺すことがなぜ罪なのでしょうか? それは、そのいのちは神さまのものであり、その人を生かしていらっしゃる神さまのご主権を奪い取る行為だからです。いのちの主なる神さまの領域に挑戦する行為だからです。そのようなことをする者には神ののろいが臨みます。  出エジプト記や申命記には、「目には目を、歯には歯を」とあります。争っていて目を傷つけたなら、傷つけた者は目をもって償う、歯なら歯をもって償う、これがみこころの原則です。 イエスさまはしかし、このみことばの語るほんとうの意味を解き明かされ、「目には目を、歯には歯を、とみことばにあるのをあなたがたは知っているが、悪い者に手向かってはいけない」と、新たな戒めを与えられました。  ペテロは弟子として、このようなことをイエスさまから聞かされていたというのに、愚かにもこのとき、剣を振るいました。彼は、王でいらっしゃるイエスさまが捕らえられていくなど、到底受け入れられなかったのでした。 彼はイエスさまを守ろうとしましたが、しょせんそれは彼なりの肉に属したやり方にすぎず、とてもみこころにかなったやり方とは言えませんでした。それどころか、彼のしたことはいのちの主の領域に挑むことであり、彼の身に神ののろいを招きかねない野蛮な行いでした。「目には目を」ということでいえば、ペテロは耳を切り落とされるべき振る舞いをしたのでした。いえ、もし打ちどころが悪くて、耳どころではすまなかったら、ペテロはいったい何を差し出せばよかったというのでしょうか。  しかし、ルカの福音書を読みますと、イエスさまはそのようにしてペテロに耳を切り落とされたマルコスというしもべの、その耳に触って癒やしてくださったとあります。どういうことかというと、イエスさまは、ペテロのすべき償いを帳消しにしてくださったということです。言い換えれば、ペテロが自分の身に招いたのろいを帳消しにしてくださったということです。  それでも私たちは、イエスさまがペテロにおっしゃったみことばをよく心に留める必要があります。イエスさまはペテロにおっしゃいました。「剣をもとに収めなさい。」  主のしもべたち、弟子たちが争うのはみこころではありません。イエスさまはその争いをやめさせてくださいます。しかし、争いをやめる決断を下し、それこそ剣をもとに収める行動をする選択は、ほかならぬ主のしもべたちにかかっています。主のしもべたちが、「剣をもとに収めなさい」という主イエスさまのみことばを、まことに自分に語られたご命令であると受け取り、そのみことばに従順にお従いすることなしには、争いというものは絶えることはありません。  しかし、そのように「剣をもとに収める」ことを実際に実行することは、なんと難しいことでしょうか。今なおウクライナの地では、戦いがやむことがありません。これは国と国との争いの問題ですが、争いというものは私たちの日常生活にもついて回る問題です。 私たちはいろいろな場合に、人間関係の葛藤に投げ込まれるものですが、もしそのとき、自分の正しさだけを主張してそれに固執するならば、その正しさを主張することは相手に対して、もしかすると、剣を振るうような作用をしないでしょうか? もちろん私たちは、身体的な暴力など用いないかもしれません。しかし、たとえ身体的な暴力を用いなくても、ことばも充分に暴力になりえます。ことばで相手を傷つけるのです。  もちろん、そのようなことばを語るのは、クリスチャン、主のしもべとしてふさわしくないことは、私たちもよく知っていると思います。それでも、私たちが何かの拍子に、人を傷つけることばを語ってしまう、そういうことはあるのではないでしょうか?    私たちが、人を傷つける剣のようなことばを治める者になるためには、それだけ、主との交わりを欠かしてはなりません。主との交わり、それは御霊の満たしを生みますが、御霊に満たされるならば、ガラテヤ書5章22節と23節に書かれたとおりの9つの御霊の実を結びます。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制……。ことばがそうなりますし、品性がそうなります。 残念ながら、暴力で物事を解決しようとしたペテロは、祈るべき時に祈らなかった分、霊的な武装ができていなくて、愛してもいない、平安でもない、寛容でもない、柔和でもない、自制もできていない……ペテロはまさしく、御霊の満たしと反対の状態に陥っていたのでした。  剣をもとに収める。それができるのは、御霊に満たされている人です。そういう人こそが平和をつくり出す者として、神さまに用いていただけます。ウクライナを見ていても、平和に至る道はまだ遠いように思えます。しかし私たちはあきらめずに祈りましょう。私たちの祈りが平和をつくり出します。  そして私たちは、周りの方々と平和を保つために、御霊の満たしを心から求めましょう。それこそが、剣をもとに収めよというイエスさまのみことばに従順にお従いする道です。  さて、それなら、イエスさまは彼らと戦って勝つことができなかったのでしょうか? まずは53節をお読みしましょう。――「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。」  当然、イエスさまの配下に御使いの大軍隊を置いていただくことなど簡単です。イエスさまは全能の神さまであり、父なる神さまは子なるイエスさまのことを愛していらっしゃるからです。必ず守ってくださいます。  御使いの大軍隊がここに現れたらどうなるでしょうか? ただ単にイエスさまが守られるだけではありません。このようにイエスさまを逮捕しにやってきた宗教指導者の一味など、ひとたまりもなく滅ぼされます。第二列王記18章35節を見ると、神の民ユダを攻撃するアッシリアの軍勢18万5千人が、御使いによって一晩で全滅したという、ものすごい記述が出てまいります。日本の自衛隊員は14万8千人ですが、それよりも3万人以上多い数の兵士が、一晩で全滅……御使いの力はものすごいです。 その御使いの軍団が12軍団、それよりも多くの軍団、そんな御使いが臨んだら、死ぬのはこのとき逮捕しにやってきた一味どころでは済まないはずです。イエスさまを十字架につけようと考えた宗教指導者はことごとく、完膚なきまでに滅ぼされたはずです。 イエスさまが王の王であられる以上、十二軍団よりも多くの御使いをもって戦い、この地上において正真正銘の王になることがおできになりました。そうなさってもよかったのです。しかし、イエスさまは何とおっしゃったのでしょうか? 54節をお読みしましょう。――「しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」   イエスさまの受難、十字架は、旧約の時代、はるかむかしからみことばにおいて何度となく予告されていたことでした。その神さまのご計画が成し遂げられないならばどうなるでしょうか? 人は罪と死から解放されることがなく、滅びてしまいます。イエスさまが王になられるということは、彼ら宗教指導者が反キリストだからと、彼らのことを暴力的に滅ぼすことで成し遂げられることではありません。イエスさまはみことばが成就するために、十字架にかかりなさいという御父のみこころに、黙々と従順に従われたのでした。  そのみこころを妨げてはならない、イエスさまがペテロをお叱りになったのは、そういうことです。イエスさまがかつて、ご自身が十字架におかかりになることを弟子たちにほのめかされたとき、ペテロはイエスさまを脇にお連れして、そんなことがあってはなりません、と、イエスさまを諌めるような真似をしました。しかしイエスさまはそんなペテロに向かって、「下がれ、サタン」と一喝されました。  イエスさまの歩まれる道を妨げる者は、たとえイエスさまの一番弟子であろうとも「サタン」呼ばわりされて激しく叱責されるものです。しかし、ペテロに対して、「サタン」と呼びかけられたイエスさまは、間違ってはいらっしゃいません。ほんとうにそれはサタンのわざでした。サタンは、十字架によって自分が永遠に滅ぼされることを、何よりも怖れていました。その神さまのご計画がならないようにするためには、一番弟子の愛情たっぷり、思いやりたっぷりのことばを用いることさえしました。しかし、イエスさまのみこころは一貫していました。十字架におかかりになる。それだけです。  しかし、ここへきてペテロは、あのように叱責されたことを忘れたか、またもや人間的、肉的な方法を弄して、イエスさまを守ろうとしました。しかし所詮その行動は、十字架によって自分も含めた全人類が救われるというみこころを損なう手助けをしかねなかったものだということに、彼は気づく必要がありました。  私たちも気づく必要があります。イエスさまの十字架は、暴力と正反対の、神の愛の実践そのものです。戦争やけんかを含めた暴力的手段は、所詮人の怒りに起因するものであり、神の義を実現する手段にはなり得ません。神の義を実現する手段、それは、私たちのために身代わりに十字架にかかってくださったイエスさまの十字架の愛、それだけです。  イエスさまがこの地上に実現される御国は、私たちが十字架の愛をもってへりくだってこの地に住む人々に仕えることをとおして成し遂げられます。私たちは全能にして唯一の神さまにつく者だからと、この地を人間的に支配するのではありません。  私たちはそれでも、暴力的な力で解決したい欲望に駆られるような、強いようでいても実は弱い、そんな弱さを身にまとっているものです。自分がことばなどで攻撃されるようなとき、怒りをもって報いたくなるような、そんなことはないでしょうか? つい、そのような攻撃をしてくるような人に神の怒りが下されるようにと、そんな祈りをしてしまうようなことはないでしょうか?  イエスさまは祈られました。父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。イエスさまを十字架につけた宗教指導者たち、それに扇動されたユダヤの群衆、総督ポンテオ・ピラト、イエスさまを十字架に釘打ったローマの兵士たち……みんな、神の御子に迫害を加え、十字架の死に追いやった者たちです。 彼らは父なる神の怒りをまさしくこの瞬間、受けて滅ぼされるべきでした。しかしイエスさまは両手を広げ、御父が今まさに注いでおられる壮絶な御怒りを全身で受け止められ、彼らを、そして今なお何をしているかわからないで主の御前に罪を犯しつづけている私たちを、その御怒りからかくまってくださいました。  私たちが赦される道はただひとつ、このように神の怒りから私たちをかくまってくださった、イエスさまの十字架を信じることだけです。そうすれば私たちは神の怒りから救われ、罪赦され、永遠のいのちが与えられ、天国に入れていただけます。  私たちはそうして救っていただきました。しかし、私たちはこうして罪赦されてもなお、神の御前にふさわしくない罪人でありつづけてはいないでしょうか? 十字架を背負われたイエスさまのみあとを、自分の十字架を負ってお従いする、自己否定の道を歩むよりも、自分の力でなんとか生きることを選んではいないでしょうか? それでは、イエスさまが十字架につかないようにしようとあれこれ策を弄したペテロと五十歩百歩です。  それでもイエスさまは十字架の道を歩んでいかれました。私たちがすることは、イエスさまの十字架の前に自分自身を差し出し、心から悔い改めることです。そして、このように救いを成し遂げてくださったイエスさまのまことの弟子になりたいと願うならば、私たちもイエスさまにならって、自分を否定して十字架を背負う生き方をすることです。私たちも、十字架の道を歩むのです。神さま、イエスさまは、そのような私たちのことを喜んでくださいます。  しかし、私たちはまた同時に、十字架に至る道は歩もうとしても、なかなか歩めない弱い者であるということを、謙遜に認める必要もあります。55節、56節をお読みしましょう。――また、そのとき群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮で座って教えていたのに、あなたがたはわたしを捕らえませんでした。/しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。 彼ら宗教指導者の一味は、いかにもイエスさまを捕らえられそうな時を狙っていました。別の福音書を読むと、それはあなたたちの時、暗闇の力だからだと、イエスさまは彼らに対して喝破されています。  この、もっとも暗闇の支配するそのときに、弟子たちはイエスさまを見捨てて逃げ出しました。ここにおられたイエスさまからは、もはやユダヤを解放してくださる雄々しい王の姿など、少なくとも彼らの目には、まったく見出すことができませんでした。哀れな捕らわれ人にしか見えませんでした。自分たちも捕らえられたら、何をされるかわからない……弟子たちにものすごい恐怖が襲いかかってきました。われ先にと逃げ出しました。  こうして見ると、弟子たちはいざとなると極めて薄情なように見えます。ああはなりたくないものだ、私たちはそう思いますでしょうか? しかし、忘れてはなりませんが、弟子たちが去っていくことは、イエスさまがお許しになったことでした。ヨハネの福音書を見てみますと、宗教指導者の一行にイエスさまは、わたしがそれだ、ここにいるわたしの弟子たちはそのまま去らせなさい、とおっしゃっています。ここは彼ら弟子たちが去ることがイエスさまの願いでした。イエスさまは彼らのことを守ってくださったのでした。  さきほども申しましたが、私たちはイエスさまのみあとを、十字架を背負って生きるべき存在です。しかし、いざとなると十字架の道に行けない、そういう弱さもまた私たちが持っていることを、へりくだって認める必要があります。私たちは殉教した信仰の先達を見ていると、あのような生き方をしたいと思わないでしょうか。そう思うのはすばらしいことです。しかし、私たちはまた同時に、いざというときになったらそのように思ってきたほどイエスさまのために何かできるものではないことを知る必要があります。  しかし、聖書は続きまで読むべきです。このときイエスさまを見捨てた弟子たちは、その弱さを露呈してしまった過去を抱えたまま、のちにはイエスさまについて行く人に、聖霊なる神さまが変えてくださいました。そうです。イエスさまのみあとをついて行くのは、人間的な英雄信仰ですべきことではありません。すべては主の恵みによって主にお従いするのです。 私たちは今はまだ、いざとなったら主にお従いできないような弱さを抱えているかもしれません。しかし、祈ってみてはいかがでしょうか? このような私たちも、今はまだ弱い私たちですが、イエスさまの十字架と復活を経て、変えていただく、その御約束を握り、主が私たちを変えてくださるその御手にゆだねる私たちとなりますように。信じましょう。私たちは変えていただけるのです。終わりの日まで主にお従いする者にしていただけますように、主の御名によってお祈りいたします。