「神の国の力」

聖書箇所;マルコの福音書1:29~34(新p66)/メッセージ;「神の国の力」  「バプテスト教理問答書」の学びを再開します。今日は問24です。  問24 キリストは我々の贖い主として、どんな職務を行なうか。  答 キリストは我々の贖い主として、その謙卑と栄誉の状態で、預言者、祭司、王としての職務を行なう。  私たち罪人をその十字架の死により、罪と死とサタンの支配から贖い出してくださったイエス・キリストは、預言者であり、祭司であり、王であられます。イエスさまは王です。王ということは、イエスさまが王として統べ治める「国」があるということです。聖書はその国を「神の国」と呼びます。いま私たちは、マルコの福音書を学んでいますが、本日の箇所に先行する1章15節、イエスさまはお働きを開始されるにあたり、「時が満ち、神の国が近づいた」と宣言していらっしゃいます。  神の国、ということは、それは「国」なのです。統治する王さまもいれば、国民もいます。王さまはイエスさまです。国民は私たちです。私たちはこの地上においては、特定の国に住んでいますが、私たちのほんとうの国籍は天にあり、すなわち、神の国に国籍を置いています。この地上に生きながら、私たちの場合は日本に生きながら、天国の国民、イエスさまを王とする神の国の国民として生きています。  イエスさまは私たちにまことの神のことばを語ってくださる、まことの預言者です。イエスさまは十字架の死によって父なる神さまにご自身というまことのいけにえをささげられ、神さまと私たちとの仲立ちをしてくださった、まことの祭司です。そして、私たちに御力をもって振る舞われ、私たちを治めてくださる、まことの王です。  本日の箇所は、イエスさまがまことの王として振る舞われる、神の国を人々が具体的に体験してゆくさまを描いています。ともに学びましょう。 第一のポイントです。イエスさまは人を癒し回復されて、神の国を体験させられます。 29節から31節をお読みします。……シモン・ペテロのしゅうとめは熱を出して寝こんでいました。 単なる熱ではありません。ひどい熱です。イエスさまは、この熱により寝込んでいたシモン・ペテロのしゅうとめの手を取って起こされ、いやしてくださいました。 コリント人への手紙第一4章20節が語るとおり、神の国はことばにはなく、力にあります。これは、神の国とは上っ面のことばだけのものではなく、人間世界に実際に力をもって臨むものである、ということです。そういう点からすれば、神の国とは「論より証拠」のものです。 しかし、イエスさまというお方は、神のみことばが肉体をとってこの世界に来られたお方、神のみことばそのもののお方です。このお方がいやしのわざを行われるということは、神のみことばのわざでもあります。実際、この箇所の並行箇所であるルカの福音書4章を読みますと、イエスさまはシモン・ペテロのしゅうとめに取りついた熱を「叱りつけられた」とあります。まさに、イエスさまのお語りになったみことばが、イエスさまのみわざであったのです。   もうひとつのみわざ、32節から34節までをお読みしましょう。……ここでもイエスさまは、力強くみことばを語っていらっしゃいます。みことばをもって悪霊を追い出していらっしゃいます。このように、イエスさまが悪霊を追い出されるという御業は、神の国がすでに来ていることのしるしであると、ルカの福音書に記録されています。  重い病気になっていることであれ、悪霊に取りつかれていることであれ、人として問題を抱えているということです。神さまに創造された人間ならば、本来死ぬこともなく、したがって病気になることもありえず、また、神さまのものである以上、悪霊が取りつくということもありえないはずです。それが、病気になったり、悪霊に取りつかれたりして、人間の世界には悲惨と破壊がもたらされるようになりました。  イエスさまが来られたということは、人がそのような破滅と悲惨から救っていただき、完全なからだをいただいて神の国の民として永遠に主とともに生きる恵みが与えられる、ということです。イエスさまのみことばによるいやしや悪霊追い出しは、まさに、人が神の国に入れられることで、そのように人を神の国、救いに召してくださる、神の栄光が現れ、神さまがほめたたえられるべきことです。  私たちはやがて、復活のからだ、完全なからだをいただいて、永遠に主とともに住みます。そのときには、顔と顔を合わせて主にまみえることになります。私たちはその日を期待していますでしょうか? もし、私たちがこの地上でいろいろな悩みに苦しんでいるならば、私たちは実は、この地上ではなく、神の国を生きる者にしていただいていることを思い起こしましょう。  私たちは病に苦しんでいますか? 神の国は病のないところです。私たちは人間関係に苦しんでいますか? 神の国は罪赦されたどうし、イエスさまによって贖われたどうしが生きる、人間関係の葛藤により神の平安の損なわれることのないところです。私たちは知恵が欠けていることで悩んでいませんか? 神さまは惜しみなく知恵を与えてくださるお方だと、みことばをとおして信じ受け取り、大胆に知恵を求めればよいのです。  私たちは癒されるために、本来の神のかたちとしての人の姿を取り戻させていただくために、力ある主のみことばを求めましょう。主のみことばを味わいましょう。黙想しましょう。イエスさまがかつて、その地の人たちを愛し、癒され、回復されたそのみことばは、今この自分に語られていることを、信仰によって受け取りましょう。私たちは必ずいやさえ、回復されます。神の国の民にふさわしく整えられます。信じてまいりましょう。   第二のポイントです。イエスさまは共同体を拡大されて、神の国を体験させられます。  この箇所において癒されたのは、ペテロのしゅうとめでした。しゅうとめ、という以上、ペテロには妻がいて、その母親ということになります。ペテロには妻がいたことは、コリント人への手紙第二9章5節を見れば明らかです。 私たちは十二弟子というと、イエスさまとの共同体生活というものが真っ先に思い浮かぶでしょう。それだけに、彼らは実は結婚していたということをあまり考えないのではないでしょうか。しかし実際には、ペテロのように、妻がいる者もいたのでした。 この時代のイスラエルでは、人が成人して結婚する頃になると、その親はもう世を去っていたということは珍しくありませんでした。イエスさまの地上の父親であったヨセフも、イエスさまの公生涯の頃にはもういませんでしたし、ペテロとアンデレの兄弟の親や、ペテロの妻の父親も、おそらくもういませんでいた。 ペテロは、妻の母親であるしゅうとめをケアしていました。もしかしたらその家には、アンデレも一緒だったかもしれません。しかし今や、アンデレもペテロもイエスさまについて行ってしまいました。もう漁師として稼いでくれることはなくなったのでした。このように、ペテロやアンデレがイエスさまの弟子になるということは、彼ら自身だけではなく、その家族も犠牲を経験することだったのでした。 そんなペテロのしゅうとめが、ひどい熱を出しました。それは、イエスさまにつく信仰の共同体にとっての大事な家族が、重い病気になってしまったということです。イエスさまは、そのような家族など放っておいてわたしに従いなさい、とおっしゃったでしょうか?  とんでもありません。イエスさまは彼女の熱を癒し、彼女の手を取って立ち上がらせてくださったのでした。 ここで、イエスさまはシモンのしゅうとめを「起こされた」とありますが、この「起こされた」ということばは、聖書のほかの箇所を見てみると、「死人の中から起こされた」という意味にも用いられています。イエスさまはまさしく、死ぬべき彼女を神の御子イエスさまにあるいのち、永遠のいのちへと導き入れてくださったのでした。 そのようにして、イエスさまによって、いわば「よみがえり」にも似た体験をした彼女は、何をしたのでしょうか? いそいそと食事の支度をはじめ、イエスさまの一行をもてなしたのでした。当時のユダヤ教の厳格な教えによれば、女性が食卓の給仕をすることは厳しく戒められていたといいます。しかしイエスさまは、彼女のこの喜びの奉仕を受け入れられました。これは、まことの人の回復が、「奉仕」という形で実を結んでしかるべきである、ということの証拠ではないでしょうか? また、食卓とは何でしょうか? イエスさまがその輪の中心になり、イエスさまを囲んで持つ、喜びの交わりです。ここに、神の国の共同体が実現するのです。ペテロのしゅうとめはもはや、ペテロやアンデレがイエスさまのもとに行ってしまったからという「仕方ない犠牲」を払っているのではありません。喜びからささげる、「自発的な犠牲」です。 むろん、食事をすることそのものが神の国を実現するのではありません。パウロの手紙の送り先であった、ローマ教会、コリント教会は、かえってこの「食事」の問題が、本来麗しく保たれるべき教会における交わりをおかしくしてしまっていました。そのような問題を指摘するにあたり、パウロはこのように言っています。ローマ人への手紙14章17節です。――なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。 聖霊に満たされたイエスさまは、義なるお方であり、平和の君です。そして、このお方とともに食卓を囲むならば、喜びがあります。高い熱をたちどころに癒やしていただいた喜び、このお方ならば婿のことをお任せして安心だという喜び、そんな喜びに、厳格なユダヤの戒律も吹き飛び、思わず一行のために食卓を用意してしまった……そうです。ペテロのしゅうとめも神の国の一員に加わり、神の国の一員として堂々と振る舞ったのでした。 私たちにこのような喜びがありますでしょうか? 病み上がりの身でありながら奉仕したくてたまらなくなるような、そんな喜び。もし、私たちが久しくこの喜びを忘れているならば、今こそ私たちは神の国の民としてふさわしく、この喜びを回復させていただきましょう。それは個人のレベルでもですし、家族のレベルでもですし、教会の交わりのレベルでもです。 その喜びにみなが満たされたならば、「御国をきたらせたまえ」というお祈りは、現実のものとしていただけます。信じて祈り求めましょう。 最後に、第三のポイントです。イエスさまは人々を集められて、神の国を体験させられます。   あらためて32節から34節までを見てみますと、カペナウム中の人々が集まってきた様子が描かれています。「戸口」とありますが、これはおそらく、ペテロの家です。家の中に入るには狭かったので、外の道、あるいは共同の中庭に面した戸口に、人々が集まってきた、というわけです。 それは、夕方になって日が沈んでからのことでした。ユダヤの一日は日が沈んでから日が沈むまでです。それまでは安息日で、イエスさまのもとに人を連れて行くことも、働いてはならないという律法に触れる「労働」だからということで、律法の解釈上戒められていました。それで、こんなとっぷりと日が暮れてからみんな集まったのでした。 しかし、イエスさまはといえば、安息日といっても、会堂で教えるという働きをなさったばかりです。人々はそんなイエスさまに休む間もあげません。しかしイエスさまは、そのように連れてこられた病気の人をひとりひとり癒され、悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出されたのでした。 このようにペテロの家の戸口に集まってきた人たちは、その日の礼拝で、イエスさまが人から悪霊を追い出された様子を目撃していました。またこのときにも、イエスさまがペテロのしゅうとめを癒されたことを知っていました。イエスさまならば、八方手を尽くしても治らなかった、私の愛する人も治していただける! 家族でしょうか、友だちでしょうか、カペナウムの人々は、そんな愛する人、しかし今はやんだり悪霊に取りつかれたりしてどうにもならなくなっていた人のことを、イエスさまのもとに連れてきたのでした。 このいやしのわざ、悪霊追い出しのわざをとおして、彼らカペナウムの人々もまた、神の国を体験しました。そのように、神の国が力をもって臨むさまに、彼らはどんなに驚いたことでしょうか。イエスさまはこうして、彼らの中にある救霊の情熱、家族愛、隣人愛を呼び起こして、神の国をこのカペナウムに実現したのでした。 ただ、神の国というものは、それがどんなにその場に臨もうとも、また、その力を人々が体験しようとも、その神の国の力を体験した人々が、悔い改めて神の国の民になることをしないならば、意味がなくなってしまいます。 このカペナウムは、これだけのイエスさまのみわざが行われたというのに、どうなったでしょうか? マタイの福音書11章20節と23節、24節をご覧ください。――それからイエスは、ご自分が力あるわざを数多く行った町々を責め始められた。彼らが悔い改めなかったからである。「カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。おまえたちに言う。さばきの日には、ソドムの地のほうが、おまえよりもさばきに耐えやすいのだ。」 ソドムとゴモラのことは言うまでもありませんが、性的にものすごく乱れた、実に罪深い者たちの町でした。その町にはロトの家族以外に正しい者はまったくいなくて、結局、神さまは天から硫黄の火を降らせて、この町を滅ぼされました。しかし、カペナウムはなんとそのソドムやゴモラよりももっとひどいさばきにあう、ということを、イエスさまはおっしゃったのでした。 カペナウムはあれほどイエスさまのみわざ、つまり、御国そのものを体験していたはずなのに、なぜイエスさまはこんなことをおっしゃったのでしょうか? それは、彼らは御国を体験していたにもかかわらず、悔い改めなかったからです。悔い改めない者に、神さまは容赦ないさばきを下されます。 カペナウムがこのように、神さまの容赦ないさばきを受けることになることを裏づけるみことばがあります。ヘブル人への手紙6章、4節から6節のみことばです。――一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。 どうしなければならないのでしょうか? 主のみことばとみわざを体験し、神の国にあずかった者としてふさわしく、つねに悔い改めることです。 この日本は、かつて多くの人々がイエスさまを信じ、教会を津々浦々に形成していった国です。みな、御国を体験し、その喜びにあふれていたわけです。しかし、いま日本の教会は、ひと頃の力がないように見えます。 これは、御国の素晴らしさを味わったうえで、しかも堕落してしまった姿なのでしょうか? 神さまがご存じです。私たちはしかし、まだここで希望を持つべきです。私たちには悔い改めるチャンスが残っています。だから、悔い改めることです。悔い改めなくして、御国の力、救いの力をほんとうに体験することはできません。 いったい、悔い改めない者たちの群れに、神さまは教会成長を起こしてくださるでしょうか? そのような群れにおける教会成長など、むしろないほうがいいようなものです。 私たちがもし、かつて御国の素晴らしさを体験した過去があって、今そのようになっていないと嘆いているならば、信仰生活がマンネリに陥っているならば、今こそ神さまとの関係を結び直す必要があります。それは、悔い改めをとおして実現します。あれほどのみわざを見て体験したカペナウムに対するようなイエスさまの叱責を、私たちは聞きたいでしょうか? そんなはずはないでしょう。 私たちは悔い改め、今度こそまことの神の国を体験するものとなりますように、そして、このときのカペナウムの人々がそうだったように、まだイエスさまを知らない人々をイエスさまのもとにお連れして、すなわち、私たちがイエスさまをお伝えすることで、ともに神の国を体験するものとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 ①私たちは神の国の民としてふさわしく、回復されるべきところがありますでしょうか? 悩み、病を告白し、いやしを受けましょう。 ②私たちは神の国の民として、喜びを回復していただきましょう。このところ、内側からあふれ出る喜びがありませんでした。主よ、喜びに満たしてください。…