「神の国の力」

聖書箇所;マルコの福音書1:29~34(新p66)/メッセージ;「神の国の力」  「バプテスト教理問答書」の学びを再開します。今日は問24です。  問24 キリストは我々の贖い主として、どんな職務を行なうか。  答 キリストは我々の贖い主として、その謙卑と栄誉の状態で、預言者、祭司、王としての職務を行なう。  私たち罪人をその十字架の死により、罪と死とサタンの支配から贖い出してくださったイエス・キリストは、預言者であり、祭司であり、王であられます。イエスさまは王です。王ということは、イエスさまが王として統べ治める「国」があるということです。聖書はその国を「神の国」と呼びます。いま私たちは、マルコの福音書を学んでいますが、本日の箇所に先行する1章15節、イエスさまはお働きを開始されるにあたり、「時が満ち、神の国が近づいた」と宣言していらっしゃいます。  神の国、ということは、それは「国」なのです。統治する王さまもいれば、国民もいます。王さまはイエスさまです。国民は私たちです。私たちはこの地上においては、特定の国に住んでいますが、私たちのほんとうの国籍は天にあり、すなわち、神の国に国籍を置いています。この地上に生きながら、私たちの場合は日本に生きながら、天国の国民、イエスさまを王とする神の国の国民として生きています。  イエスさまは私たちにまことの神のことばを語ってくださる、まことの預言者です。イエスさまは十字架の死によって父なる神さまにご自身というまことのいけにえをささげられ、神さまと私たちとの仲立ちをしてくださった、まことの祭司です。そして、私たちに御力をもって振る舞われ、私たちを治めてくださる、まことの王です。  本日の箇所は、イエスさまがまことの王として振る舞われる、神の国を人々が具体的に体験してゆくさまを描いています。ともに学びましょう。 第一のポイントです。イエスさまは人を癒し回復されて、神の国を体験させられます。 29節から31節をお読みします。……シモン・ペテロのしゅうとめは熱を出して寝こんでいました。 単なる熱ではありません。ひどい熱です。イエスさまは、この熱により寝込んでいたシモン・ペテロのしゅうとめの手を取って起こされ、いやしてくださいました。 コリント人への手紙第一4章20節が語るとおり、神の国はことばにはなく、力にあります。これは、神の国とは上っ面のことばだけのものではなく、人間世界に実際に力をもって臨むものである、ということです。そういう点からすれば、神の国とは「論より証拠」のものです。 しかし、イエスさまというお方は、神のみことばが肉体をとってこの世界に来られたお方、神のみことばそのもののお方です。このお方がいやしのわざを行われるということは、神のみことばのわざでもあります。実際、この箇所の並行箇所であるルカの福音書4章を読みますと、イエスさまはシモン・ペテロのしゅうとめに取りついた熱を「叱りつけられた」とあります。まさに、イエスさまのお語りになったみことばが、イエスさまのみわざであったのです。   もうひとつのみわざ、32節から34節までをお読みしましょう。……ここでもイエスさまは、力強くみことばを語っていらっしゃいます。みことばをもって悪霊を追い出していらっしゃいます。このように、イエスさまが悪霊を追い出されるという御業は、神の国がすでに来ていることのしるしであると、ルカの福音書に記録されています。  重い病気になっていることであれ、悪霊に取りつかれていることであれ、人として問題を抱えているということです。神さまに創造された人間ならば、本来死ぬこともなく、したがって病気になることもありえず、また、神さまのものである以上、悪霊が取りつくということもありえないはずです。それが、病気になったり、悪霊に取りつかれたりして、人間の世界には悲惨と破壊がもたらされるようになりました。  イエスさまが来られたということは、人がそのような破滅と悲惨から救っていただき、完全なからだをいただいて神の国の民として永遠に主とともに生きる恵みが与えられる、ということです。イエスさまのみことばによるいやしや悪霊追い出しは、まさに、人が神の国に入れられることで、そのように人を神の国、救いに召してくださる、神の栄光が現れ、神さまがほめたたえられるべきことです。  私たちはやがて、復活のからだ、完全なからだをいただいて、永遠に主とともに住みます。そのときには、顔と顔を合わせて主にまみえることになります。私たちはその日を期待していますでしょうか? もし、私たちがこの地上でいろいろな悩みに苦しんでいるならば、私たちは実は、この地上ではなく、神の国を生きる者にしていただいていることを思い起こしましょう。  私たちは病に苦しんでいますか? 神の国は病のないところです。私たちは人間関係に苦しんでいますか? 神の国は罪赦されたどうし、イエスさまによって贖われたどうしが生きる、人間関係の葛藤により神の平安の損なわれることのないところです。私たちは知恵が欠けていることで悩んでいませんか? 神さまは惜しみなく知恵を与えてくださるお方だと、みことばをとおして信じ受け取り、大胆に知恵を求めればよいのです。  私たちは癒されるために、本来の神のかたちとしての人の姿を取り戻させていただくために、力ある主のみことばを求めましょう。主のみことばを味わいましょう。黙想しましょう。イエスさまがかつて、その地の人たちを愛し、癒され、回復されたそのみことばは、今この自分に語られていることを、信仰によって受け取りましょう。私たちは必ずいやさえ、回復されます。神の国の民にふさわしく整えられます。信じてまいりましょう。   第二のポイントです。イエスさまは共同体を拡大されて、神の国を体験させられます。  この箇所において癒されたのは、ペテロのしゅうとめでした。しゅうとめ、という以上、ペテロには妻がいて、その母親ということになります。ペテロには妻がいたことは、コリント人への手紙第二9章5節を見れば明らかです。 私たちは十二弟子というと、イエスさまとの共同体生活というものが真っ先に思い浮かぶでしょう。それだけに、彼らは実は結婚していたということをあまり考えないのではないでしょうか。しかし実際には、ペテロのように、妻がいる者もいたのでした。 この時代のイスラエルでは、人が成人して結婚する頃になると、その親はもう世を去っていたということは珍しくありませんでした。イエスさまの地上の父親であったヨセフも、イエスさまの公生涯の頃にはもういませんでしたし、ペテロとアンデレの兄弟の親や、ペテロの妻の父親も、おそらくもういませんでいた。 ペテロは、妻の母親であるしゅうとめをケアしていました。もしかしたらその家には、アンデレも一緒だったかもしれません。しかし今や、アンデレもペテロもイエスさまについて行ってしまいました。もう漁師として稼いでくれることはなくなったのでした。このように、ペテロやアンデレがイエスさまの弟子になるということは、彼ら自身だけではなく、その家族も犠牲を経験することだったのでした。 そんなペテロのしゅうとめが、ひどい熱を出しました。それは、イエスさまにつく信仰の共同体にとっての大事な家族が、重い病気になってしまったということです。イエスさまは、そのような家族など放っておいてわたしに従いなさい、とおっしゃったでしょうか?  とんでもありません。イエスさまは彼女の熱を癒し、彼女の手を取って立ち上がらせてくださったのでした。 ここで、イエスさまはシモンのしゅうとめを「起こされた」とありますが、この「起こされた」ということばは、聖書のほかの箇所を見てみると、「死人の中から起こされた」という意味にも用いられています。イエスさまはまさしく、死ぬべき彼女を神の御子イエスさまにあるいのち、永遠のいのちへと導き入れてくださったのでした。 そのようにして、イエスさまによって、いわば「よみがえり」にも似た体験をした彼女は、何をしたのでしょうか? いそいそと食事の支度をはじめ、イエスさまの一行をもてなしたのでした。当時のユダヤ教の厳格な教えによれば、女性が食卓の給仕をすることは厳しく戒められていたといいます。しかしイエスさまは、彼女のこの喜びの奉仕を受け入れられました。これは、まことの人の回復が、「奉仕」という形で実を結んでしかるべきである、ということの証拠ではないでしょうか? また、食卓とは何でしょうか? イエスさまがその輪の中心になり、イエスさまを囲んで持つ、喜びの交わりです。ここに、神の国の共同体が実現するのです。ペテロのしゅうとめはもはや、ペテロやアンデレがイエスさまのもとに行ってしまったからという「仕方ない犠牲」を払っているのではありません。喜びからささげる、「自発的な犠牲」です。 むろん、食事をすることそのものが神の国を実現するのではありません。パウロの手紙の送り先であった、ローマ教会、コリント教会は、かえってこの「食事」の問題が、本来麗しく保たれるべき教会における交わりをおかしくしてしまっていました。そのような問題を指摘するにあたり、パウロはこのように言っています。ローマ人への手紙14章17節です。――なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。 聖霊に満たされたイエスさまは、義なるお方であり、平和の君です。そして、このお方とともに食卓を囲むならば、喜びがあります。高い熱をたちどころに癒やしていただいた喜び、このお方ならば婿のことをお任せして安心だという喜び、そんな喜びに、厳格なユダヤの戒律も吹き飛び、思わず一行のために食卓を用意してしまった……そうです。ペテロのしゅうとめも神の国の一員に加わり、神の国の一員として堂々と振る舞ったのでした。 私たちにこのような喜びがありますでしょうか? 病み上がりの身でありながら奉仕したくてたまらなくなるような、そんな喜び。もし、私たちが久しくこの喜びを忘れているならば、今こそ私たちは神の国の民としてふさわしく、この喜びを回復させていただきましょう。それは個人のレベルでもですし、家族のレベルでもですし、教会の交わりのレベルでもです。 その喜びにみなが満たされたならば、「御国をきたらせたまえ」というお祈りは、現実のものとしていただけます。信じて祈り求めましょう。 最後に、第三のポイントです。イエスさまは人々を集められて、神の国を体験させられます。   あらためて32節から34節までを見てみますと、カペナウム中の人々が集まってきた様子が描かれています。「戸口」とありますが、これはおそらく、ペテロの家です。家の中に入るには狭かったので、外の道、あるいは共同の中庭に面した戸口に、人々が集まってきた、というわけです。 それは、夕方になって日が沈んでからのことでした。ユダヤの一日は日が沈んでから日が沈むまでです。それまでは安息日で、イエスさまのもとに人を連れて行くことも、働いてはならないという律法に触れる「労働」だからということで、律法の解釈上戒められていました。それで、こんなとっぷりと日が暮れてからみんな集まったのでした。 しかし、イエスさまはといえば、安息日といっても、会堂で教えるという働きをなさったばかりです。人々はそんなイエスさまに休む間もあげません。しかしイエスさまは、そのように連れてこられた病気の人をひとりひとり癒され、悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出されたのでした。 このようにペテロの家の戸口に集まってきた人たちは、その日の礼拝で、イエスさまが人から悪霊を追い出された様子を目撃していました。またこのときにも、イエスさまがペテロのしゅうとめを癒されたことを知っていました。イエスさまならば、八方手を尽くしても治らなかった、私の愛する人も治していただける! 家族でしょうか、友だちでしょうか、カペナウムの人々は、そんな愛する人、しかし今はやんだり悪霊に取りつかれたりしてどうにもならなくなっていた人のことを、イエスさまのもとに連れてきたのでした。 このいやしのわざ、悪霊追い出しのわざをとおして、彼らカペナウムの人々もまた、神の国を体験しました。そのように、神の国が力をもって臨むさまに、彼らはどんなに驚いたことでしょうか。イエスさまはこうして、彼らの中にある救霊の情熱、家族愛、隣人愛を呼び起こして、神の国をこのカペナウムに実現したのでした。 ただ、神の国というものは、それがどんなにその場に臨もうとも、また、その力を人々が体験しようとも、その神の国の力を体験した人々が、悔い改めて神の国の民になることをしないならば、意味がなくなってしまいます。 このカペナウムは、これだけのイエスさまのみわざが行われたというのに、どうなったでしょうか? マタイの福音書11章20節と23節、24節をご覧ください。――それからイエスは、ご自分が力あるわざを数多く行った町々を責め始められた。彼らが悔い改めなかったからである。「カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。おまえたちに言う。さばきの日には、ソドムの地のほうが、おまえよりもさばきに耐えやすいのだ。」 ソドムとゴモラのことは言うまでもありませんが、性的にものすごく乱れた、実に罪深い者たちの町でした。その町にはロトの家族以外に正しい者はまったくいなくて、結局、神さまは天から硫黄の火を降らせて、この町を滅ぼされました。しかし、カペナウムはなんとそのソドムやゴモラよりももっとひどいさばきにあう、ということを、イエスさまはおっしゃったのでした。 カペナウムはあれほどイエスさまのみわざ、つまり、御国そのものを体験していたはずなのに、なぜイエスさまはこんなことをおっしゃったのでしょうか? それは、彼らは御国を体験していたにもかかわらず、悔い改めなかったからです。悔い改めない者に、神さまは容赦ないさばきを下されます。 カペナウムがこのように、神さまの容赦ないさばきを受けることになることを裏づけるみことばがあります。ヘブル人への手紙6章、4節から6節のみことばです。――一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。 どうしなければならないのでしょうか? 主のみことばとみわざを体験し、神の国にあずかった者としてふさわしく、つねに悔い改めることです。 この日本は、かつて多くの人々がイエスさまを信じ、教会を津々浦々に形成していった国です。みな、御国を体験し、その喜びにあふれていたわけです。しかし、いま日本の教会は、ひと頃の力がないように見えます。 これは、御国の素晴らしさを味わったうえで、しかも堕落してしまった姿なのでしょうか? 神さまがご存じです。私たちはしかし、まだここで希望を持つべきです。私たちには悔い改めるチャンスが残っています。だから、悔い改めることです。悔い改めなくして、御国の力、救いの力をほんとうに体験することはできません。 いったい、悔い改めない者たちの群れに、神さまは教会成長を起こしてくださるでしょうか? そのような群れにおける教会成長など、むしろないほうがいいようなものです。 私たちがもし、かつて御国の素晴らしさを体験した過去があって、今そのようになっていないと嘆いているならば、信仰生活がマンネリに陥っているならば、今こそ神さまとの関係を結び直す必要があります。それは、悔い改めをとおして実現します。あれほどのみわざを見て体験したカペナウムに対するようなイエスさまの叱責を、私たちは聞きたいでしょうか? そんなはずはないでしょう。 私たちは悔い改め、今度こそまことの神の国を体験するものとなりますように、そして、このときのカペナウムの人々がそうだったように、まだイエスさまを知らない人々をイエスさまのもとにお連れして、すなわち、私たちがイエスさまをお伝えすることで、ともに神の国を体験するものとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 ①私たちは神の国の民としてふさわしく、回復されるべきところがありますでしょうか? 悩み、病を告白し、いやしを受けましょう。 ②私たちは神の国の民として、喜びを回復していただきましょう。このところ、内側からあふれ出る喜びがありませんでした。主よ、喜びに満たしてください。…

「最も大切な福音――十字架と復活」

聖書箇所;コリント人への手紙第一15:1~8/メッセージ題目;「最も大切な福音――十字架と復活」 あらためまして、主イエスさまのご復活をお祝いいたします。 講壇のお花をご覧ください。今日は白百合を飾っていただきました。白百合はキリスト教会においては、イエスさまのご復活の象徴として、特にこの復活祭において飾られるお花です。 白百合を飾ることについては、聖書に根拠があります。旧約聖書に、「雅歌」という文学的なみことばがありますが、その中にこんな一節があります。「私はシャロンのばら、谷間のゆり。わが愛する者が娘たちの中にいるのは、茨の中のゆりの花のようだ。」茨とは、十字架を負われたイエスさまの頭にかぶせられた冠です。先週も導入賛美で歌ったとおり、血に染む茨は栄えの冠、イエスさまの御頭(みかしら)を痛めつけ、血に染めた茨は、しかし、私たちのために苦しみを受けられることによって神の栄光をあらわされた、イエスさまの栄えの冠でした。 その茨の中にあって、暗闇の谷間の中にあって、イエスさまの麗しさは百合の花に例えられます。百合の花というものは、もともとが芳しい香りを放っていますが、踏みつけられれば踏みつけられるほど、さらに香りを放つといいます。イエスさまは私たちの罪のゆえに痛めつけられましたが、やがてイエスさまは白く輝くお姿をもって復活されました。イエスさまはまさしく、白百合に例えられるべきお方です。 メッセージはあまり長くしません。でも、このメッセージのあとに歌う讃美歌「うるわしの白百合」という歌は、メロディも歌詞もとても美しい歌です。メッセージのあとにはぜひ、この歌の美しさをじっくり味わいながら、歌っていただけたらと思います。 今日のメッセージのテーマは「福音」です。私が教会生活を始めた教会は、「北本福音キリスト教会」という名前でした。埼玉の田舎にあり、そこはちょうど、この教会の立っているあたりのような雰囲気でした。「福音」というものは、教会の名前にするくらい大切なことなのだな、と、当時中学生だった私は、わからないなりに思ったものでした。私たちキリスト教会は、「福音」というものを何よりも大切にします。 「福音」とは「よい知らせ」という意味です。英語では「グッド・ニュース」と言います。 聖書が語る「福音」、「グッド・ニュース」というものを知るには、もちろん、聖書を読むのがいちばんです。先ほどお読みした箇所は、まさしくこの「福音とは何か」について、私たちにはっきりした答えを語ってくれています。 まず、1節の箇所をお読みすると、こうあります。「私があなたがたに宣べ伝えた福音」、福音とは「宣べ伝える」ものです。この「コリント人への手紙第一」を書いたパウロは、聖書の教師、神学者でありましたが、同時に、今でいうところの「宣教師」でした。宣教師とは、別の民族、別の国家、別の言語を用いる人々のところに行って、聖書の教えを宣べ伝える人のことを指します。うちの妻は韓国人ですが、宣教師になるための訓練を受け、今から14年前、結婚式の翌日に、韓国の教会から宣教師として日本に派遣されました。 パウロもまた、宣べ伝える人でした。福音を宣べ伝えます。ユダヤ人のパウロはユダヤを離れ、ギリシャのコリントの教会に福音を宣べ伝えていますが、1節のみことばを読みますと、コリント教会の信徒たちは、パウロから聴いた福音を受け入れ、その福音によって立っている、とあります。 教会とは、福音を聴いて受け入れ、その福音によって立つ人々の群れです。福音はまず、聴いて教わることなしには、何を信じたらいいのかわかりません。聖書をしかるべく解き明かし、教えてくれる人が必要です。そして、ただ教わるだけではありません。その福音によって立つ、つまり、聴いて教わった福音を人生のあらゆる土台にする、ということが必要です。 人生のあらゆる場面において土台となる、福音とはそれほど大切なものであるのはなぜなのか、それは2節で語られているとおりです。人は、福音によって救われるからです。ただし、単に聞いてさえいればいい、というものではありません。「私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら」救われる……条件があります。聞いて学んだことをしっかり覚えるのです。 クリスチャンが教会に通って聖書を学びつづけるのは、福音とは何かをつねに心に留め、自分に対する神さまの救いを完成していただくためです。そのように、しっかり学んで教えにとどまらなければ、「あなたがたが信じたことは無駄になってしまう」のです。せっかく学んだことを無駄にしてはなりません。 福音によって救われる、とありますが、救い、ということは、聖書においても教会においてもよく語られることです。私たち人間はきよい神さまの御前に罪人です。 私たちは、しなければならないとわかっているのにできない、そういうことはないでしょうか? あるいは、してはならないとわかっているのにしてしまう、そういうことはないでしょうか? それだけではなく、頭の中で、あんな人にはいなくなってほしい、とか、人を呪うようなことを考えてしまう、そういうことはないでしょうか? 聖書は、そういったことをすべて、罪、と語っています。 このような罪を犯すから、私たちは罪人なのでしょうか? もちろん、そうとも言えますが、さらに根本的なことを言えば、私たちは「罪人だから罪を犯す」のです。 聖書は、この世界を創造された唯一の神さまのご存在について明確に語っています。人は、そのほかのあらゆるものと同様、神さまによって創造されました。しかし、人とほかの被造物の間には、明確な違いがあります。人だけが、神さまと人格的な交わりをすることができます。人だけが、神さまを礼拝することができます。 しかし、そのような存在に創造されたにもかかわらず、人は神さまに背を向けました。それぞれが自分勝手な道に向かっていきました。それは言ってみれば、神さまに対する手ひどい裏切りです。神さまはそのような人間に対し、怒りを注いでおられます。その怒りに触れ、人は滅ぼされる定めとなりました。 けれども神さまは、人を愛していらっしゃいます。ご自身に立ち帰るように、道を備えられました。全人類を救い、神さまご自身の民とするために、時至って、ご自身のひとり子、イエス・キリストを、人を救ってくださる救い主として、この世界に送ってくださいました。この、イエス・キリストというお方を神さまがこの世界、私たちのもとに送ってくださったということこそ、福音そのものです。 ただし、それなら、イエス・キリストというお方がこの世界に来られたということが福音、よき知らせなのはなぜなのか、それも私たちは心に留める必要があります。その福音の内容、それは、3節から8節のみことばに書いてあるとおりです。 要約すると次のとおりです。第一に、イエス・キリストは、私たちの罪のために死なれました。イエスさまは、十字架におかかりになりました。私たちが罪人ゆえに神さまから受けるべきその罰を、イエスさまは十字架の上で身代わりに受け、死んでくださいました。 そして、お墓に葬られました。ユダヤのお墓は横穴式で、ご遺体はそこに横たえられますが、イエスさまのお墓はご丁寧にも、入口に大きな石が転がしかけられて蓋がされていただけではなく、その蓋には十字架刑を下した総責任者であるローマ総督ポンテオ・ピラトの封印がされ、勝手に開ける者は重罰を受けるようにされていました。さらには番兵たちが配備されて、だれにも近づけないように番をしていました。 しかし、4節のみことばにはこうあります。「聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられた」……イエスさまが死なれて3日目に復活されることは、聖書をしっかり学べばわかることでした。そのように、むかしから聖書が予告していたとおり、イエスさまは墓からよみがえられました。天使が現れ、石の蓋は封印もろとも打ち破られ、番兵たちは倒れて死人のようになり、イエスさまはよみがえってお墓は空っぽになりました。 そのようにしてよみがえられたイエスさまは、弟子たち、イエスさまにつき従っていた人たちに現れ、ご自身が復活されたことを確かにお示しになりました。コリント教会に向けてパウロがこの手紙を書いたとき、中には殉教するなどして亡くなった人もいましたが、大部分は生きていて、そんな彼らは確かに復活の証人でもありました。 さて、この中で、8節のみことばはやや事情が異なります。パウロが自分のことを「月足らずで生まれたような者」と言っているのは、どういうことでしょうか? パウロは、生前のイエスさまに弟子として従っていた人物ではありません。イエスさまがこの地上で生きていらしたときは、全く関係ない律法学者、パリサイ人でした。 やがてイエスさまが天に上られ、教会が誕生していく中、イエスさまを十字架につけるもっとも大きな役割をしたパリサイ人の教えを受けていたパウロもまた、教会を迫害する者として悪名をとどろかせていました。 しかしある日、ユダヤの宗教指導者のかしらである大祭司の、教会から信者たちを逮捕してエルサレムに引っ張って来いとダマスコの宗教指導者に命じる手紙を手に、エルサレムからダマスコへと向かっていたとき、その途上で、イエスさまが現れました。パウロはまぶしい光に照らされ、地に倒れました。そして、声を聞きました。「なぜわたしを迫害するのか。」パウロは思わず、「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねました。すると天からの声は、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えました。 この体験はパウロをまったくちがう人へと変えました。それまで彼は、どんなに聖書を研究しても決して、神のひとり子イエスさまに出会うことはできず、イエスさまのあがめられる教会を迫害することしかしませんでしたが、この体験以降、彼はイエスさまを宣べ伝える者となりました。そして、福音を宣べ伝え、教会を形づくり、聖書を執筆する人として、神さまの働きのためになくてはならない人となったのでした。 これは、単なる奇跡ということ以上に、「復活のイエスさまに出会った体験」でした。パウロにとってそれまで、このイエスという人物は、十字架にかかって死んだ人物、それこそユダヤの掟によれば、木にかけられて呪われた人間以上のものではなく、そのようなイエスを主とあがめるなど、とんでもない連中だ、と、迫害を加えることしかしませんでした。しかし、パウロはここで、十字架に死なれたが今生きておられるイエスさまに出会ったのでした。 月足らず……イエスさまと寝食をともにし、3年にわたって訓練を受けてきた十二弟子に比べると、パウロはイエスさまのことを知らないも同然でした。しかし、復活のイエスさまは、そんなパウロにも現れてくださり、救ってくださったのでした。 これが、もっとも大切なことです。それをもっと要約すると、3節、4節のとおりになりますが、特に2つのことを語っています。キリストは聖書の語るとおりに私たちの罪のために死なれた、もうひとつ、キリストは聖書の語るとおりによみがえられた。 私たち罪人は、自分でこの罪を解決することができません。どんなによい人になろうとしても、どこかで悪いことを考えてしまう、どこかで悪いことを口にしてしまう、どこかで悪いことをしてしまう、それが私たちです。神さまはそんな私たちのことを憐れんで、私たちの罪の罰を身代わりに、ひとり子イエスさまに負わせてくださいました。 私たちは聖書を学ぶならば、イエスさまの十字架の贖い、またそれを実現してくださった神の愛のすばらしさを知ることができます。この教えの中にとどまるならば、私たちは幸いです。 そして、キリストは復活されました。イエスさまは死んで終わりのお方ではありません。イエスさまの復活にあずかって、私たちも罪と死に勝利します。それだけではありません。私たちもまた復活します。永遠に神さま、イエスさまとともにいるものとしていただきます。 ある神学者が言っていました。キリスト教はひと言で言って「神との交わり」であると。私たちにとって最も大切なこと、それは神さまとの交わり、十字架と復活を信じつづけるべく、聖書の教え、福音の中にとどまる、神さまとの交わりです。この復活祭、この恵みをともに味わい、神さまの御名をともにほめたたえましょう。そして、イエスさまの十字架と復活に感謝する復活祭は、ほんとうのことをいうと今日だけではありません。毎日です。毎日、イエスさまの十字架と復活をお祝いするのです。この恵みをともに味わい、心からの感謝を神さまにおささげする私たちとなりますように、主の御名によってお祈りします。

「十字架の道」

聖書箇所;マタイの福音書26:47~56/メッセージ;「十字架の道」  ひとつ、仮定してみたいと思います。仮に、私たちがイエスさまにつき従う群れだったとしましょう。十二弟子の立場でも、十二弟子と一緒に行動をした女性たちの立場でもいいです。  イエスさまの日ごろの正しい言動が腹に据えかねていた宗教指導者たちが、夜の暗闇にまぎれて、イエスさまを捕まえにやってきました。それも、剣で武装した軍団を引き連れてです。さあ、私たちならそのとき、この群れを見てどのように振る舞いますか?  イエスさまが十字架におかかりになる前の夜、ついによい機会が訪れたとばかりに、裏切り者の弟子、イスカリオテのユダの手引きで、宗教指導者の軍団がやってきました。そのとき弟子のひとりは、大祭司のしもべに打ちかかり、その耳を剣で切り落としました。ほかの福音書を読むと、その弟子とはペテロであるということですが、イエスさまはそのペテロの行動を諫められ、しもべの耳をいやされました。  私たちもまた、もし剣を持っていたら、暴力で解決しようとするのでしょうか? 私たちにもはやる思いがあると思います。私たちの王、イエスさまに手を出す者は、この私が容赦しない……。  しかし、イエスさまはなんとおっしゃったのでしょうか? 私たちはこのおことばから何を学び取り、どんな決断をすることができますでしょうか?  52節のみことばからまいりましょう。――「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」  イエスさまがこのようにおっしゃった意味を考えてみましょう。なぜこのようにおっしゃったのか? 大前提として、神さまがその民に「殺してはならない」と戒めのみことばをお語りになったからです。モーセの十戒にあるとおりです。  人を殺すことがなぜ罪なのでしょうか? それは、そのいのちは神さまのものであり、その人を生かしていらっしゃる神さまのご主権を奪い取る行為だからです。いのちの主なる神さまの領域に挑戦する行為だからです。そのようなことをする者には神ののろいが臨みます。  出エジプト記や申命記には、「目には目を、歯には歯を」とあります。争っていて目を傷つけたなら、傷つけた者は目をもって償う、歯なら歯をもって償う、これがみこころの原則です。 イエスさまはしかし、このみことばの語るほんとうの意味を解き明かされ、「目には目を、歯には歯を、とみことばにあるのをあなたがたは知っているが、悪い者に手向かってはいけない」と、新たな戒めを与えられました。  ペテロは弟子として、このようなことをイエスさまから聞かされていたというのに、愚かにもこのとき、剣を振るいました。彼は、王でいらっしゃるイエスさまが捕らえられていくなど、到底受け入れられなかったのでした。 彼はイエスさまを守ろうとしましたが、しょせんそれは彼なりの肉に属したやり方にすぎず、とてもみこころにかなったやり方とは言えませんでした。それどころか、彼のしたことはいのちの主の領域に挑むことであり、彼の身に神ののろいを招きかねない野蛮な行いでした。「目には目を」ということでいえば、ペテロは耳を切り落とされるべき振る舞いをしたのでした。いえ、もし打ちどころが悪くて、耳どころではすまなかったら、ペテロはいったい何を差し出せばよかったというのでしょうか。  しかし、ルカの福音書を読みますと、イエスさまはそのようにしてペテロに耳を切り落とされたマルコスというしもべの、その耳に触って癒やしてくださったとあります。どういうことかというと、イエスさまは、ペテロのすべき償いを帳消しにしてくださったということです。言い換えれば、ペテロが自分の身に招いたのろいを帳消しにしてくださったということです。  それでも私たちは、イエスさまがペテロにおっしゃったみことばをよく心に留める必要があります。イエスさまはペテロにおっしゃいました。「剣をもとに収めなさい。」  主のしもべたち、弟子たちが争うのはみこころではありません。イエスさまはその争いをやめさせてくださいます。しかし、争いをやめる決断を下し、それこそ剣をもとに収める行動をする選択は、ほかならぬ主のしもべたちにかかっています。主のしもべたちが、「剣をもとに収めなさい」という主イエスさまのみことばを、まことに自分に語られたご命令であると受け取り、そのみことばに従順にお従いすることなしには、争いというものは絶えることはありません。  しかし、そのように「剣をもとに収める」ことを実際に実行することは、なんと難しいことでしょうか。今なおウクライナの地では、戦いがやむことがありません。これは国と国との争いの問題ですが、争いというものは私たちの日常生活にもついて回る問題です。 私たちはいろいろな場合に、人間関係の葛藤に投げ込まれるものですが、もしそのとき、自分の正しさだけを主張してそれに固執するならば、その正しさを主張することは相手に対して、もしかすると、剣を振るうような作用をしないでしょうか? もちろん私たちは、身体的な暴力など用いないかもしれません。しかし、たとえ身体的な暴力を用いなくても、ことばも充分に暴力になりえます。ことばで相手を傷つけるのです。  もちろん、そのようなことばを語るのは、クリスチャン、主のしもべとしてふさわしくないことは、私たちもよく知っていると思います。それでも、私たちが何かの拍子に、人を傷つけることばを語ってしまう、そういうことはあるのではないでしょうか?    私たちが、人を傷つける剣のようなことばを治める者になるためには、それだけ、主との交わりを欠かしてはなりません。主との交わり、それは御霊の満たしを生みますが、御霊に満たされるならば、ガラテヤ書5章22節と23節に書かれたとおりの9つの御霊の実を結びます。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制……。ことばがそうなりますし、品性がそうなります。 残念ながら、暴力で物事を解決しようとしたペテロは、祈るべき時に祈らなかった分、霊的な武装ができていなくて、愛してもいない、平安でもない、寛容でもない、柔和でもない、自制もできていない……ペテロはまさしく、御霊の満たしと反対の状態に陥っていたのでした。  剣をもとに収める。それができるのは、御霊に満たされている人です。そういう人こそが平和をつくり出す者として、神さまに用いていただけます。ウクライナを見ていても、平和に至る道はまだ遠いように思えます。しかし私たちはあきらめずに祈りましょう。私たちの祈りが平和をつくり出します。  そして私たちは、周りの方々と平和を保つために、御霊の満たしを心から求めましょう。それこそが、剣をもとに収めよというイエスさまのみことばに従順にお従いする道です。  さて、それなら、イエスさまは彼らと戦って勝つことができなかったのでしょうか? まずは53節をお読みしましょう。――「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。」  当然、イエスさまの配下に御使いの大軍隊を置いていただくことなど簡単です。イエスさまは全能の神さまであり、父なる神さまは子なるイエスさまのことを愛していらっしゃるからです。必ず守ってくださいます。  御使いの大軍隊がここに現れたらどうなるでしょうか? ただ単にイエスさまが守られるだけではありません。このようにイエスさまを逮捕しにやってきた宗教指導者の一味など、ひとたまりもなく滅ぼされます。第二列王記18章35節を見ると、神の民ユダを攻撃するアッシリアの軍勢18万5千人が、御使いによって一晩で全滅したという、ものすごい記述が出てまいります。日本の自衛隊員は14万8千人ですが、それよりも3万人以上多い数の兵士が、一晩で全滅……御使いの力はものすごいです。 その御使いの軍団が12軍団、それよりも多くの軍団、そんな御使いが臨んだら、死ぬのはこのとき逮捕しにやってきた一味どころでは済まないはずです。イエスさまを十字架につけようと考えた宗教指導者はことごとく、完膚なきまでに滅ぼされたはずです。 イエスさまが王の王であられる以上、十二軍団よりも多くの御使いをもって戦い、この地上において正真正銘の王になることがおできになりました。そうなさってもよかったのです。しかし、イエスさまは何とおっしゃったのでしょうか? 54節をお読みしましょう。――「しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」   イエスさまの受難、十字架は、旧約の時代、はるかむかしからみことばにおいて何度となく予告されていたことでした。その神さまのご計画が成し遂げられないならばどうなるでしょうか? 人は罪と死から解放されることがなく、滅びてしまいます。イエスさまが王になられるということは、彼ら宗教指導者が反キリストだからと、彼らのことを暴力的に滅ぼすことで成し遂げられることではありません。イエスさまはみことばが成就するために、十字架にかかりなさいという御父のみこころに、黙々と従順に従われたのでした。  そのみこころを妨げてはならない、イエスさまがペテロをお叱りになったのは、そういうことです。イエスさまがかつて、ご自身が十字架におかかりになることを弟子たちにほのめかされたとき、ペテロはイエスさまを脇にお連れして、そんなことがあってはなりません、と、イエスさまを諌めるような真似をしました。しかしイエスさまはそんなペテロに向かって、「下がれ、サタン」と一喝されました。  イエスさまの歩まれる道を妨げる者は、たとえイエスさまの一番弟子であろうとも「サタン」呼ばわりされて激しく叱責されるものです。しかし、ペテロに対して、「サタン」と呼びかけられたイエスさまは、間違ってはいらっしゃいません。ほんとうにそれはサタンのわざでした。サタンは、十字架によって自分が永遠に滅ぼされることを、何よりも怖れていました。その神さまのご計画がならないようにするためには、一番弟子の愛情たっぷり、思いやりたっぷりのことばを用いることさえしました。しかし、イエスさまのみこころは一貫していました。十字架におかかりになる。それだけです。  しかし、ここへきてペテロは、あのように叱責されたことを忘れたか、またもや人間的、肉的な方法を弄して、イエスさまを守ろうとしました。しかし所詮その行動は、十字架によって自分も含めた全人類が救われるというみこころを損なう手助けをしかねなかったものだということに、彼は気づく必要がありました。  私たちも気づく必要があります。イエスさまの十字架は、暴力と正反対の、神の愛の実践そのものです。戦争やけんかを含めた暴力的手段は、所詮人の怒りに起因するものであり、神の義を実現する手段にはなり得ません。神の義を実現する手段、それは、私たちのために身代わりに十字架にかかってくださったイエスさまの十字架の愛、それだけです。  イエスさまがこの地上に実現される御国は、私たちが十字架の愛をもってへりくだってこの地に住む人々に仕えることをとおして成し遂げられます。私たちは全能にして唯一の神さまにつく者だからと、この地を人間的に支配するのではありません。  私たちはそれでも、暴力的な力で解決したい欲望に駆られるような、強いようでいても実は弱い、そんな弱さを身にまとっているものです。自分がことばなどで攻撃されるようなとき、怒りをもって報いたくなるような、そんなことはないでしょうか? つい、そのような攻撃をしてくるような人に神の怒りが下されるようにと、そんな祈りをしてしまうようなことはないでしょうか?  イエスさまは祈られました。父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。イエスさまを十字架につけた宗教指導者たち、それに扇動されたユダヤの群衆、総督ポンテオ・ピラト、イエスさまを十字架に釘打ったローマの兵士たち……みんな、神の御子に迫害を加え、十字架の死に追いやった者たちです。 彼らは父なる神の怒りをまさしくこの瞬間、受けて滅ぼされるべきでした。しかしイエスさまは両手を広げ、御父が今まさに注いでおられる壮絶な御怒りを全身で受け止められ、彼らを、そして今なお何をしているかわからないで主の御前に罪を犯しつづけている私たちを、その御怒りからかくまってくださいました。  私たちが赦される道はただひとつ、このように神の怒りから私たちをかくまってくださった、イエスさまの十字架を信じることだけです。そうすれば私たちは神の怒りから救われ、罪赦され、永遠のいのちが与えられ、天国に入れていただけます。  私たちはそうして救っていただきました。しかし、私たちはこうして罪赦されてもなお、神の御前にふさわしくない罪人でありつづけてはいないでしょうか? 十字架を背負われたイエスさまのみあとを、自分の十字架を負ってお従いする、自己否定の道を歩むよりも、自分の力でなんとか生きることを選んではいないでしょうか? それでは、イエスさまが十字架につかないようにしようとあれこれ策を弄したペテロと五十歩百歩です。  それでもイエスさまは十字架の道を歩んでいかれました。私たちがすることは、イエスさまの十字架の前に自分自身を差し出し、心から悔い改めることです。そして、このように救いを成し遂げてくださったイエスさまのまことの弟子になりたいと願うならば、私たちもイエスさまにならって、自分を否定して十字架を背負う生き方をすることです。私たちも、十字架の道を歩むのです。神さま、イエスさまは、そのような私たちのことを喜んでくださいます。  しかし、私たちはまた同時に、十字架に至る道は歩もうとしても、なかなか歩めない弱い者であるということを、謙遜に認める必要もあります。55節、56節をお読みしましょう。――また、そのとき群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮で座って教えていたのに、あなたがたはわたしを捕らえませんでした。/しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。 彼ら宗教指導者の一味は、いかにもイエスさまを捕らえられそうな時を狙っていました。別の福音書を読むと、それはあなたたちの時、暗闇の力だからだと、イエスさまは彼らに対して喝破されています。  この、もっとも暗闇の支配するそのときに、弟子たちはイエスさまを見捨てて逃げ出しました。ここにおられたイエスさまからは、もはやユダヤを解放してくださる雄々しい王の姿など、少なくとも彼らの目には、まったく見出すことができませんでした。哀れな捕らわれ人にしか見えませんでした。自分たちも捕らえられたら、何をされるかわからない……弟子たちにものすごい恐怖が襲いかかってきました。われ先にと逃げ出しました。  こうして見ると、弟子たちはいざとなると極めて薄情なように見えます。ああはなりたくないものだ、私たちはそう思いますでしょうか? しかし、忘れてはなりませんが、弟子たちが去っていくことは、イエスさまがお許しになったことでした。ヨハネの福音書を見てみますと、宗教指導者の一行にイエスさまは、わたしがそれだ、ここにいるわたしの弟子たちはそのまま去らせなさい、とおっしゃっています。ここは彼ら弟子たちが去ることがイエスさまの願いでした。イエスさまは彼らのことを守ってくださったのでした。  さきほども申しましたが、私たちはイエスさまのみあとを、十字架を背負って生きるべき存在です。しかし、いざとなると十字架の道に行けない、そういう弱さもまた私たちが持っていることを、へりくだって認める必要があります。私たちは殉教した信仰の先達を見ていると、あのような生き方をしたいと思わないでしょうか。そう思うのはすばらしいことです。しかし、私たちはまた同時に、いざというときになったらそのように思ってきたほどイエスさまのために何かできるものではないことを知る必要があります。  しかし、聖書は続きまで読むべきです。このときイエスさまを見捨てた弟子たちは、その弱さを露呈してしまった過去を抱えたまま、のちにはイエスさまについて行く人に、聖霊なる神さまが変えてくださいました。そうです。イエスさまのみあとをついて行くのは、人間的な英雄信仰ですべきことではありません。すべては主の恵みによって主にお従いするのです。 私たちは今はまだ、いざとなったら主にお従いできないような弱さを抱えているかもしれません。しかし、祈ってみてはいかがでしょうか? このような私たちも、今はまだ弱い私たちですが、イエスさまの十字架と復活を経て、変えていただく、その御約束を握り、主が私たちを変えてくださるその御手にゆだねる私たちとなりますように。信じましょう。私たちは変えていただけるのです。終わりの日まで主にお従いする者にしていただけますように、主の御名によってお祈りいたします。

「論の権威、証拠の権威」

祈祷/使徒信条/交読;詩篇30:1~12/主の祈り/讃美;讃美歌461「主われを愛す」/聖書箇所;マルコの福音書1:21~28/メッセージ題目;「論の権威、証拠の権威」/讃美;聖歌200「うれしきこのひよ」/献金;讃美歌391「ナルドの壺」/栄光の讃美;讃美歌541「父、御子、御霊の」/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 「バプテスト教理問答書」は、第23問答まで来ました。一緒に読みましょう。 問23 キリストは神の子でありながら、どのようにして人となったか。/答 神の子キリストは、真実の肉体と通常の霊魂とをとり、聖霊の力によって処女マリヤに宿り、しかも罪を持たずに生まれ、人となった。 イエスさまは、聖霊なる神さまの御力によって、完全な人としてこの世にお生まれになった神さまです。完全な神であり完全な人である、唯一のお方、それがイエスさまです。イエスさまは神として人々にみことばをお語りになり、神として人々にみわざを行われたのでした。 このお方、イエスさまは、神の権威に満ちあふれたお方です。今日のメッセージのキーワードは、「権威」です。イエスさまの権威を2つの側面から見てまいります。ひとつは「論の権威」、もうひとつは「証拠の権威」です。「論より証拠」ということわざがあります。「論」は説得力があるように思えても、ほんとうに説得力があるのは「証拠」のほうだ、という、とかく教えに走る人に対する皮肉を込めたことわざと言えますが、イエスさまにとっては「論」も「証拠」も、どちらも神の権威にあふれたものです。 今日の本文の内容ですが、イエスさまはペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネを弟子とされ、弟子たちを引き連れた群れで行動されました。その一行がカペナウムという町にやって来て、ユダヤ教の会堂に入りました。イエスさまは会堂で、人々に教えを語られました。するとそこに、悪霊にとりつかれた男がいました。イエスさまは彼から悪霊を追い出されました。 本文を読んでみますと、「権威」ということばが繰り返し登場します。イエスさまはまさしく、神の権威をもってこのカペナウムの会堂で振る舞われたのですが、神の権威は御教えと御業の両方で現れています。 まずは、御教えの権威のほうから見てみましょう。21節のみことばです。イエスさまは、安息日に会堂に入ってみことばを教えられました。 イエスさまは何を教えられたのでしょうか? 聖書を教えられました。ルカの福音書の中にもイエスさまが会堂で教えを語られる場面が出てきますが、それによると、まずみことばの書かれた巻物が渡され、それを朗読して、そのみことばに対する解説を述べられました。こんにち、私たちのような教会で説教者が、お読みしたみことばにメッセージという形で解説を加えるのに似ています。 しかし、イエスさまが教えられる場合と、牧師や伝道師のような説教者が教える場合とでは、決定的な違いがあります。牧師や伝道師はどこまでも人間であり、解説者にすぎません。むかし、ある牧師先生から、クイズを出されました。礼拝の中でいちばん大事なのはどの部分ですか? 私は、このちょっと意地悪な先生のことだから、「メッセージ」と答えたら、おそらくアウトだろう、と、先回りして、「使徒信条でしょうか?」とお答えしました。答えは、バツ。先生はおっしゃいました。「みんな、礼拝メッセージだと答えるんだよねー。でもそうじゃないんです。答えは、聖書を朗読する時間です。」 言われてみれば確かにそうです。礼拝は神さまにおささげするものですが、聖書のみことばをお聴きする時間は、神さまから御声を授けていただく時間であって、これほど重要な瞬間はありません。礼拝メッセージは、そのみことばに対する「解説」、身もふたもない言い方をすれば「添え物」にすぎません。 ところがイエスさまの場合はどうでしょうか? けっしてそれは、牧師や伝道師、当時でいえば律法学者のような宗教指導者のメッセージとは、根本から異なっていたのでした。22節のみことばです。 イエスさまは「権威ある者として」お教えになったのです。この権威の前に、聴衆はみな圧倒され、驚くばかりでした。ことばに権威があったのでした。ことばに権威があるということは、ことばを語るお方に権威が満ちあふれていた、ということです。聴衆はイエスさまのお語りになったみことばに、イエスさまの権威を認めるほかなかったのでした。 イエスさまの語られたおことばは、人間による聖書の解説とは次元を異にするものでした。それは神さまご自身による解説であり、すなわち、神さまご自身のみことばでした。権威があるのは当たり前です。 しかし、ここでひとつ、ガリラヤの人たちのみことばに対する態度にも注目したいと思います。彼らは普段、どのような教えをこの会堂で受けていたのでしょうか? ときの宗教指導者たちは、どんなことを教えていたのでしょうか? 彼ら宗教指導者がどのような人であったか、いみじくもイエスさまがおっしゃっているとおりです。「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうとはしません。」 彼らは確かに、正しいことを語っています。神のみこころは何であるかを語っています。だからこそ、それを聴く聴衆も、それが神のみこころであることを分かっているので、聴かざるをえません。しかし、彼らはあまりにも、語ることと行なっていることがかけ離れています。彼らは律法の厳しいところを語りながら、そこから救ってくださるお方について一切語りません。だから、疲れた者、重荷を負っている者をみもとにて休ませてくださるイエスさまに、聴衆はいつまでたっても出会うことができず、ただ自分の至らなさに悲しむしかなかったのでした。 ところが、イエスさまがみことばを語られたらどうなりましたか? 彼らは神に出会いました。神のみことばを直接聞きしました。そこに彼らは、いやがうえにも神の権威を認めるばかりでした。 宗教指導者の語っていた聖書の解説は、薬の能書きのようなものでしかありませんでした。私たちはテレビで薬の宣伝を視ます。コンピューター・グラフィックなども使って、いかにも効きそうです。でも、あの画面を視ただけでは、病気は治りません。あるいは、その宣伝を見て薬が欲しくなって、薬局に行きます。薬を買います。薬には必ず、その成分や効き目を書いた文書がついてきますが、それを読んだら病気は治りますか? どうしなければなりませんか? そうです。飲むことが必要です。宗教指導者はどんなに立派なことを言っても、薬を飲ませることをしていなかったわけです。 イエスさまというお方はちがいます。私たちをいやす神のみことばを、ご自身で私たちに直接語ってくださるお方です。よく、韓国教会でジョーク半分に語られることば、クリスチャンには2つの薬が必要です、それは、「きゅうやく」と「しんやく」です……。まさに、「しんやく」そのものであるイエスさまが、「きゅうやく」を解き明かしてくださる、それを聴く聴衆はどれほど、普段から彼らを支配している罪責感の縄目から自由にされる、まことのいやしを体験したことでしょうか! 私たちはイエスさまのみことばを福音書をとおしてお読みするとき、その教えの権威の前に圧倒されます。 ただしそれは、イエスさまのみことばを、あたかも薬の宣伝や効能書きを眺めることで済ませるのではなく、「飲んで」からだの一部とするようにして耳を傾けるからではないでしょうか? ご覧ください。日本はこれしかクリスチャンがいないにもかかわらず、聖書のみことばに触れる機会はいくらでもあります。その気になったら聖書が読めるのです。 しかし、いざそのようにして聖書を読む機会があったとしても、それで人が変わらないのはなぜでしょうか? このカペナウムのガリラヤ人のような、イエスさまのみことばを聴いたら驚くだけの心の備えができていないからです。私たち日本に住む者たちは、あまりにもイエスさまに対する先入観が多すぎます。聖書に対する先入観が多すぎます。しかしもし、そのような先入観をすっかり捨ててみことばに耳を傾けるならば、人は必ず、その権威に圧倒され、そのみことばの教えによってつくり変えられます。 私たちはイエスさまのみことばを聴いたとき、そのような「驚き」を覚えているでしょうか? 権威を認めて、その前にひれ伏していますでしょうか? 私たちに必要なのは、その霊的感覚です。もし、みことばをお読みしても驚きも何も感じないようでは、自然とみことばをお読みしなくなるでしょう。 イエスさまのみことばを聴いても驚かない。何とも思わない。これではパリサイ人のような宗教指導者と同じです。神さまはいったい、世の中から尊敬されていても御前ではそのような宗教指導者と、無学でもイエスさまのみことばに権威を認めて驚いたガリラヤ人と、どちらを受け入れてくださったでしょうか? しかし私たちは、長年のクリスチャン生活の、いわば「慣れ」で、いつしかみことばを読むことにそれほどの驚きを覚えなくなってしまうようになるかもしれません。そんな私たちは、何に驚いていますでしょうか? みことばよりも肉的なもののほうに、より驚きを覚えているようなら、私たちの感覚はそれだけ肉的になっているということです。 みことばに対して驚きを回復してください、と、主に心からお祈りする必要があります。そして、聖書を開きましょう。主は必ず、みことばをお読みする私たちに、驚きを与えてくださり、みことばを愛する者へと私たちのことを成長させてくださいます。今日からこの祈りを始めましょう。 もうひとつの「権威」についても見てみましょう。23節から26節をお読みします。……汚れた霊につかれた人。そういう人もまた、みことばを聴く人々の群れの中にいた、というわけです。 彼はイエスさまの教え、神の権威に満ち満ちた教えに反応しました。ただしその反応は、ひれ伏す、ですとか、礼拝する、ですとか、いっしょうけんめい傾聴する、ではありません。まるでイエスさまの教えを妨害するかのように、大声で叫び出したのでした。 この人のことばを見ると、いろいろなことがわかります。まず、彼は「ナザレの人イエス」と呼びかけています。ナザレのイエスの名には力があります。悪霊をも震え上がらせる力です。そんな悪霊が、「私たちと何の関係があるのですか」と語ります。「私たち」と言っているので、この悪霊は集団でこの人にとりついていたことがわかります。悪霊どもはそろいもそろってイエスさまを恐れました。 その人は、というより、その人にとりついた悪霊どもは、「私たちと何の関係があるのですか」とイエスさまに向かって叫びます。それまでカペナウムは、イエスさまが来る前は、この悪霊どもは影響力を発揮していました。彼らの縄張りともいえましょう。しかし、そこに神の子なるイエスさまが来られたなら、もはや彼ら悪霊どもに働く余地はありません。 だが、悪霊どもはここで精一杯の抵抗をしました。「私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。」悪魔と悪霊の軍団は、私たち人間よりもよほど、イエスさまがどなたなのか知っています。イエスさまが王の王、主の主であるゆえに、そのきよいご臨在の前に震え上がる存在、それが絶対的な悪の存在である、サタンと悪霊どもの軍団です。それでもこの悪しき存在は、イエスさまのかかとにかみつくかのように抵抗します。群衆がみことばに耳を傾けることができないように、大声を出すなどして妨害します。 しかし、イエスさまの権威を前にして、悪霊どもが勝てるはずもありません。「黙れ。この人から出て行け」、このひとことで悪霊どもは去りました。 このできごとに彼らカペナウムの聴衆は驚きました。彼らはイエスさまのこの、みことばによる御業に対して、こう言いました。「これは何だ。権威ある新しい教えだ。」このことからわかるのは、神の権威に満ちたイエスさまの御業というものは、みことばと密接につながっている、ということです。 イエスさまの伝記物語は、子ども向きにいろいろなものが出ていますが、欠かせないのは、イエスさまがこのように多くの奇跡、しるしを行われた、ということでしょう。しかし、それらの奇跡やしるしは、本来何のために行われたのでしょうか? 父なる神さまと無関係にイエスさまがあがめられ、礼拝されるためではありません。しるしや奇跡が行われたのは、それをとおして、みことばの確かさが証しされるためでした。 実際に聖書をご覧になってください。イエスさまは実にいろいろな御業を行われましたが、みことばの教えと無関係に行われた御業など、ひとつも存在しません。すべての御業は、イエスさまの御口から出た御教えの正しいことを証ししています。 時に私たちは、奇跡のような体験をします。科学や常識では説明できないような体験をするものです。それは私たちにとってはもちろん、神さまの特別なあわれみによって与えられた恵みの御業です。その体験を通して私たちはますます神さまを信じるようになります。素晴らしいことです。 しかし、その奇跡的な体験をだれかに話すのはいいとして、それでもって神さま、イエスさまを信じてくださいと語ることにおいては、注意が必要です。私たちがもし、主のみことばと関係のないような、単なる超常現象だけを切り取って語ったとしても、そういうことはほかの宗教でも普通にありふれていることです。その現象を語ることそのもので、もしだれかがイエスさまを信じたとしても、その人がみことばによって養われることがないならば、その信仰はむなしいものです。 奇跡というものはありふれている、と語りましたが、特定の宗教を信じる人には、奇跡というものはよく起こるもののようです。そのような不思議な体験をしたことで、より一層その宗教を信じる根拠になったりします。私の友達にある宗教の信者がいましたが、その人はちょっと変わった体験をしたらしく、それが、その人の信仰をより一層強くしていたものでした。いわば「論より証拠」です。 しかし、私たちにとっては、「証拠」のない「論」など、信じるべきではありません。ヨハネの手紙第一4章1節から3節には、このようなみことばがあります。……超常現象、それは起こります。しかし、私たちが受け入れるべきは、その超常現象が主イエスさまを証しする、みことばに根差したものでなければなりません。超常現象とまで極端なことは言わなくても、ドラマチックな体験をしてイエスさまに出会う、主の御名をほめたたえる、それはもちろん「あり」なのですが、その個人的な体験がだれにでも同じような感動を呼び起こし、主の御名をほめたたえるようにさせるとはかぎりません。 私たちはだれかに伝道するにあたっては、最優先に語るべきは聖書に根差した真理です。自分の証しを語るのももちろん結構なのですが、それがみことばを関係がなかったり、関係が薄かったりするならば、それがどんなにドラマチックであったとしても、語るのは控えるべきでしょう。 私たち自身のことを考えてみましょう。私たちはさきほど、「イエスさまのみことばに驚く」ということを語りましたが、聖書のみことばをお読みすることは同時に「イエスさまの御業に驚く」ことでもあります。私たちの信仰生活は「驚き」の連続であるべきですが、さきほどの繰り返しのようになりますが、その「驚き」は何よりも、聖書をお読みするときに体験すべきです。イエスさまのみわざは、聖書をとおして体験するものです。実際の生活に奇跡が起こらないからと、私たちの信仰を働かせることをなおざりにしてはなりません。 しかし、こうも言えます。もし、聖書に書かれたイエスさまの御業に驚き、その御業がほんとうに行われたと信じるならば、私たちは今のこの生活のただ中にも、イエスさまがみわざを行なってくださると信じ、みわざを行なってくださいと祈り求めるべきではないでしょうか? これは、ご利益信仰ではありません。たとえば、家族や知り合いに病気の人がいるとして、その人の病気をいやしてくださいと祈ることは、イエスさまもそのお弟子たちをとおしても癒やしの御業が行われたことがこれでもかと聖書に登場する以上、祈っていいこと、いや、祈るべきことです。また、経済的に困っている人や団体のために、お金を与えてくださいと祈ることも、実際聖書を読むと、貧しいやもめの経済的な必要が満たされたという記録がある以上、みこころにかなっていることですから、祈るべきであり、祈らなければならないのです。 しかし、みことばの最大の成就は何でしょうか? 十字架と復活です。人はイエスさまの十字架によって罪と死から贖われ、復活によって永遠に罪と死に勝利します。この、復活して生きておられるイエスさまがともにおられることこそ、みことばの証しする最大の奇跡、証拠です。この、創造の初めから聖書において証しされてきた「論」がイエスさまの十字架と復活をもってそのとおりになったという「証拠」、それを信じ受け入れることで、人は救われ、永遠のいのちが与えられ、天の御国に入れられます。私たちが宣べ伝えるべき「証拠」があるとすれば、イエスさまのこの「十字架と復活」をおいてほかにありません。 今日のみことばを振り返りつつ、祈りましょう。 ①私は、イエスさまのみことばに驚いていただろうか? みことばに対してそれほど驚かなくなっているほど、霊的な感覚がこの世のものに覆われてしまってはいなかっただろうか? その程度の飢え渇きしか覚えていなかったから、みことばを読むこともいい加減になってはいなかっただろうか? 主よ! 悔い改めます。みことばに対する飢え渇きをください。そのように願いますか? ②私は、いつの間にか普段ドラマチックな体験をしていなかった分、聖書に書かれたイエスさまの御業が充分に信じられないでいなかっただろうか? それゆえ、みことばがそのとおりになると信じて、信仰をもって祈ることをしないで済ましていなかっただろうか? 主よ! 私が祈らなかったことを悔い改めます。悔い改めて、心に浮かぶこと、主の奇跡を必要としていることを覚えて、切に祈ります。特に、私の愛するあの人が、イエスさまの十字架と復活を信じ、イエスさまとともに歩む生き方をすることができますように。