「聖書の語る弟子訓練」

聖書箇所;エペソ人への手紙4:7~13/メッセージ題目;「聖書の語る弟子訓練」 先週、東京に行ったとき、その帰り道で、学生時代の親友に、ほんとうに久しぶりに再会しました。15年ぶりでしたが不思議なもので、会ったとたんにそんな時の流れなどたちまち忘れました。 そんな彼が、「武井くんに渡すものがある」といいました。彼は実をいうとミュージシャンです。さては新しいアルバムを出したかな、それをプレゼントしてくれるのかな、と思っていると、彼はたくさんのCDの入った紙袋を渡してきました。彼の新しいアルバムではありません。なんとそれは、私の学生時代のコレクションで、音楽をつくっている彼の役に立つなら、と、神学校入学を前にして、彼にあげてしまっていたものでした。その自分のコレクションに、私は何と25年ぶりに再会したことになります。びっくりするやらうれしいやら、特にそのうちのひとつは、せめてYouTubeに上がっていたりしないかな、と、検索してみても何もなく、がっかり、ということの繰り返しで、喜びもひとしお、といったところでした。 彼と私は、今から29年前、「キャンパス・クルセード」という学生宣教の団体で友達になりました。その頃、うちの教会もそうだったと思いますが、若者たちが「リバイバル」ということばを合言葉に、教会成長に向けてとても盛り上がっていた時代でした。しかしその中で、キャンパス・クルセードは確かにその「リバイバル」の流れの中にいながらも、取り組んでいたことは、ひとに伝道できるように、また、そうして信仰を持ったクリスチャンのことを、リーダーとして訓練できるまでになれるように、学生たちを鍛えていた「弟子訓練」を主体とする、地に足ついた宣教団体でした。 この団体にはいろいろな教会から集まっていましたが、一部の教会を除いて、教会というところではなかなか、このような厳しくも楽しい「弟子訓練」というものを受けられる環境にはありませんでした。私はこの団体に身を置きながら、このような「弟子訓練」をそれぞれが通う教会で受けられるならば、教会もクリスチャンもどれほど成長するだろうか……そんなことを考えるようになりました。 やがて韓国の神学校に行き、私が神学生として在籍した教会は、弟子訓練に力を入れ、大きく成長を遂げていました。 特に、最後の奉仕教会だったサラン教会は、弟子訓練による教会形成という働きにおいて韓国を代表する教会で、サラン教会のみなさまは、私がゆくゆくは日本で弟子訓練の牧会ができるものとなるように、いつも祈ってくださっていました。 このたび、東京西部の山の中で行われた修養会は、そのように弟子訓練に取り組んでこられた牧師先生がた、これから取り組むために準備を進めていらっしゃる牧師先生がたの、分かち合いをとおして学び合うすばらしい時間で、それはけっして堅苦しいものではなく、むしろ、主の恵みの中でいやされました。私もこの3日間の中で、多くのことに気づかされ、今後の牧会を進めていくにあたっての方針を再確認させられることがたくさんありました。 今日はその中で、特に分かち合いたいこと、それは、「弟子訓練はなぜ行うのか」「弟子訓練はどのように、いつ、どこで行うのか」「弟子訓練はだれが行うのか」、この3つを学び、弟子訓練による教会形成の意義を、この共同体で共有したいと思います。 では、まず、「弟子訓練はなぜ行うのか」、これは、さきほどお読みした本文から発見することができます。7節のみことばです。ここからわかることは、人、特に、クリスチャンは、神さまから賜物という恵み、その人特有のプレゼントを与えられている、ということです。ひとくちに賜物といってもいろいろあるので、今日は本文のみことばの教える「賜物」に限定して考えますが、それはあとで見るとします。 8節から10節をお読みします。まず8節、捕虜とは、死と悪魔に捕らえられた捕虜ということであり、それはかつての私たちの姿です。主は、死と悪魔に捕らえられて滅びるべき私たち罪人を、その罪を十字架によって赦してくださり、私たちを救われて、ともに天国に入れてくださいました。そのようにして、救われた人間に、贈り物、賜物を与えてくださったというのです。 なぜ、人を罪と死から解放し、救ってくださり、そればかりか人に、賜物を与えられたのでしょうか? それは「すべてのものを満たすため」です。虚しさに服したこの地は、イエスさまによって満たされる必要があります。その、満たす働きは、だれがするのでしょうか? 死の虚しさから救っていただいた、私たちがするのです。 賜物とは何か、ということは、11節に列挙されているとおりですが、それはあとであらためて見ることにして、12節をご覧ください。この賜物の与えられた献身者がすること、それは、キリストのからだを建て上げる、ということです。そのために、聖徒を整えて奉仕の働きをさせるのです。 ですから、なぜ弟子訓練をする必要があるのか、それは、キリストのからだを建て上げるために聖徒を整える必要があるため、ということです。愛するみなさん、私たちはキリストのからだを建て上げる主体である、という意識を持っていますでしょうか? それが充分にできている、あるいは、できつつある段階に置かれている、という感覚をお持ちでしょうか? 私はみなさんに、私はキリストのからだを建て上げる主体として整えられている、そういう自覚、というと厳しいですが、感覚、を、少なくとも持っていただきたいと、心から願っています。ただし、そのためには、キリストのからだの主体として整えられるためには、それなりの環境に私たち自身を置く必要があります。 そこで「環境」についてお話しします。弟子訓練は、どのように、いつ、どこで受けるのか、という問題です。ここからは今日の聖書本文の解釈をしばらく離れますが、実際的な適用として聞いてください。まず「どのように」、これは、私の25年の献身者としての生活、33年のクリスチャンとしての生活から学んだ結果、つねに実践できたかどうかは別として、間違いのないこととして確信してきたことですが、クリスチャンが整えられるには、少なくとも3つの環境があるのが理想的です。 まずは「大礼拝」です。いまこうしてささげている礼拝、これが必須です。この礼拝は、私たちが水戸第一聖書バプテスト教会という共同体、主のからだのひと枝としてささげているものであり、ここで私たちは主のみことばと主の霊によって整えられます。これは「ともに整えられる」主のわざです。 次に「小グループ」です。イエスさまは何千人もの大会衆を導かれた一方で、十二弟子の訓練に集中していらっしゃいます。さらにイエスさまは、その中からペテロとヤコブとヨハネのわずか3人を選抜して訓練してもいらっしゃいます。小グループはお互いが話し合いながら、みことばの恵みや生活の分かち合いをするので、自分には気づけなかった主の恵みに、多角的に気づかされる時間となります。いまうちの教会で、Dコースという名前で持ってきた水曜日の集まり、金曜祈祷会が、この「小グループ」にあたります。わが家でも毎晩、家族で集まって家庭礼拝の時間を持っていますが、これはまさに「小グループ」です。 そして、「ディボーション」です。「礼拝」と「小グループ」が共同体のわざなら、「ディボーション」は個人のわざです。神さまが個人的に霊とみことばによって交わりを持ってくださる時間です。この「ディボーション」は、共同体で弟子訓練される以前に、個人が弟子訓練されるために必須のプロセスです。この、個人の訓練の集合が、共同体の訓練になるからです。 以上のことをもっと詳しく扱うと、メッセージの語り方や、小グループでの学びの持ち方や、ディボーションの持ち方など多岐にわたりますが、それは時間の都合でおいておきます。以上が「how」、どのように、ですが、以下はその3つを持つ上での「where」と「when」についてお話しします。 まず、日曜礼拝は言うまでもなく「日曜日」に行います。私は長い間、日曜日に休まないで仕事をしている公共交通機関やコンビニや電気・ガス・水道関係の方々の犠牲の上に日曜礼拝は成り立っているのだから、日曜日に休む方々をさばくべきではない、と考えてきました。その考えは今も基本的に変わっていませんが、そう考えるあまり、日曜日に礼拝にやってこないことに対して、極端に甘くなっていたことを、牧師として反省させられています。 聖書は「安息日を覚えてこれを聖とせよ」と教えています。これは、ユダヤ式に「今でいう金曜の日没から一日を礼拝に用いよ」ということを文字どおりに守りなさい、ということではなく、「教会は週に一度を共同体として主の御前にささげよ」という意味です。その集まりの日はイエスさまが復活された曜日である「主の日」、すなわち日曜日であったことは、すでに聖書にその起源を見ることができます。 この日を大切にすることは、そうしないとバチが当たる、とか、そんな日本的な発想で捉えてはなりません。しかし逆に、自分は律法から自由だから日曜日に礼拝することにこだわらなくていい、と考えるのも違います。私たちは礼拝において共同体がともに整えられる体験をすることで、この地を満たせというキリストのみこころを実現するのです。 みなさん、想像してみてください。全国には8000か所近くの礼拝堂がありますが、そのすべての礼拝堂が、日曜日に礼拝者でいっぱいになって礼拝をささげていると……それだけでも地は満ちていると思いませんか? いや、もっと満たされるように、礼拝者も礼拝の場所も増やされますように……そう思いませんか? 私たちが主の弟子として訓練され、整えられ、地を満たし回復するというキリストのみこころを実現するうえで、日曜日という週に一度のこの特別な日を聖別し、ともに集って礼拝をおささげすることは必須です。ともに弟子になるのです。イエスさまの説教、ペテロの説教を聴いた聴衆が大いなる立ち帰りを体験したのは、個別の体験ではなく、神の民としての集団の体験です。この礼拝は、私たちがともに主の弟子とされるためのプロセスでもあります。大事にしましょう。 場所ということでいえば、礼拝できる場所があるならば、断然礼拝堂に集まるべきです。現代はコロナ下も相まって、オンラインでの礼拝も行われ、うちの教会も実践しているわけですが、忘れてはいけないのは、これは「礼拝をささげないよりもいい」ということであって、間違っても、「ともに礼拝堂に集ってささげる礼拝に取って代わるもの」にはならない、ということです。そういうわけで、コロナ下ということは極めてきつい現実ですが、それだけに、今少しずつでも、日本の諸教会が集まれるようになったのはすばらしいことです。 次に小グループ、初代教会において、その場所となったのは「家庭」でした。家庭を開放して信徒が集まるわけです。現代の教会もこの考えをもとに、「家の教会」というものを実践しています。しかし、家庭が解放できることは家族全体の献身につながることで、それも素晴らしいことですが、うちの教会のように礼拝堂が存在し、集まる場所があるならば、礼拝堂に集まって小グループを持つことも、教会のわざという点で素晴らしいことです。集まるのは家だ、いや教会だ、などと、場所にこだわるよりも、信徒が互いに近い距離で交わり、みことばの恵みを分かち合える環境にあることが大事なわけです。 そしてディボーション。これはご自分が置かれている場所、どこででもです。毎日ささげるものなので、基本的にはご自宅ですが、出張や旅に出られても、そこでおささげする必要があります。ご飯を食べなければ弱るように、私たちはディボーションによって神さまと交わりを持たなければ弱ります。 場所と時間は、心が落ち着けて、だれにもじゃまされない環境。となると、やはり朝です。マルコの福音章1章を学びましたが、イエスさまは、朝早く暗いうちに、さびしいところに出ていかれました。朝という時間ははっきり言って眠い! 寝ていたい! 冬になると外も暗いし、布団はぬくぬくしているし、なおさら! いや、明るくなって暖かくなったらなったで、やはり寝ていたいのが私たちです。 しかし、ここはひとつ、起きましょう。このとき起きて主と交われば、最高です。俗に「早起きは三文の徳」といいますが、私たちは早起きして無為に過ごすのではありません。神さまと交わって、一日の初穂をささげるのです。それが、イエスさまにお従いする弟子の姿勢です。こうして私たちは、ディボーションによって弟子として整えられます。 以上、弟子訓練の「環境」について見てまいりましたが、最後に、弟子訓練は「だれが」施すのかを見てみます。さきほど飛ばした11節をご覧ください。……そうです。賜物が与えられていることを自覚し、主に献身した人が弟子訓練を行います。 使徒、預言者、伝道者、牧師、教師。この5つの働きのうち、使徒と預言者という働きはこんにち停止されているというのが、多くの教会において一般的に信じられている立場です。私も、聖書のみことばはこれ以上つけ加えられてはならないという点において、聖書を書く立場としての使徒と預言者はもう起こらないという立場には賛成します。 しかし、一方で、イエスさまに遣わされて、もといた場所から離れてみことばを携え、異言語、異文化、異民族に福音を宣べ伝えたのが使徒と理解するならば、こんにちの「宣教師」は、形を変えた「使徒」と理解できなくもありません。もちろん、霊的権威においては、みことばを書けるわけでもなく、初代教会の使徒とは比べ物にならず、宣教師を「使徒」と呼ぶなどとんでもないことです。しかし、使徒のした「役割」の一部に限定するならば、その役割はなぞることはできます。そう考えると、イエスさまが信徒たちにそれぞれ分け与えられた「使徒」という賜物は、こんにちにおいてもある面で有効と考えられなくもありません。 いえ、宣教師にかぎりません。こんにち存在するすべての教会は、この地に主から遣わされて存在する以上、本質において使徒の性質を帯びています。だれか特定の人が使徒なのではありません。教会というキリストのからだ全体が使徒の性質を帯びているのです。 「預言者」、これも注意を要することばです。いま、世界の教会には不思議な現象が起こっていて、かつてなく「預言」ということが強調されるようになりました。実際、幻を見るなど、特別なインスピレーションを受けるクリスチャンというのも、多く現れていますし、私の身近にもそういう人はちらほらいらっしゃいました。 もちろん、その預言なるものは必ずしも神さまから来るものとはかぎらないものという場合もあるので、このことに関しては慎重な態度が必要です。私個人は、主が特別にお語りになる、ということは、ある、と見ていますが、それでも、それをこの礼拝のような場所で大々的に語ることは、今のところ控えたいと思います。こんにちにおいて預言はない、という立場の先生方の主張にも一定の説得力があることは認めていますので、こんにちにも預言がある、という立場は、いまのところ、あくまで私個人の立場ということにかぎらせていただきます。 しかし、もっと一般的な意味に広げるならば、預言とは「神さまのみことばをお預かりしてお伝えする」ということであり、これは、特に聖書のみことばを学び、礼拝の講壇なり小グループや個別の牧会なりの場面でみことばを語ることで、相手を悔い改めに導いたり、励ましたり、慰めたりする働きといえるでしょう。献身者という立場は、まさにその訓練を受けている人です。もちろん、この働きはフルタイムの働き人のような「献身者」の働きにかぎりません。いわゆる一般信徒にも担える働きです。いや、働きというより、ふだんのみことばの分かち合いが、即、預言のような役割を果たすともいえます。 でも、語ることは、あくまで聖書のみことばです。聖書と無関係のインスピレーションは、間違っても語ってはなりません。だからこそ聴く側も、果たしてそのとおりか毎日聖書を調べた、ベレヤの信徒たちのように、ふだんからよくみことばに親しんでいる必要があります。 「伝道者」、福音を宣べ伝え、人々を救いに導く聖霊なる神さまの働きに用いていただく存在です。現代でも伝道者という働きがあり、古くはビリー・グラハムですとか、現代ならば岸義紘先生やアーサー・ホーランド先生といった方がそれにあたります。しかし、伝道というものは、所定の訓練を受けていればだれにでもできるものであり、私もさきほど申しましたキャンパス・クルセードで伝道の訓練を受け、まだ大学生だったときから、伝道を実際にしたものでした。そのように、クリスチャンが伝道をできるように訓練する働きをする方も、広い意味では伝道者といえます。以前、うちの教会にいらっしゃり、「爆発伝道」の手ほどきをしてくださった山中知義先生がこれにあたります。 牧師、いうまでもありません。牧会という名前で教会の信徒の全般的なケアをします。しかし、牧師はよほどの場合ではないかぎり、信徒の諸問題を代わりに解決する立場にはなく、教会という共同体が「完全な大人になって、キリストの満ち満ちた身丈にまで成長する」ためにケアをするのですから、もし信徒が成長しないような牧会をしているならば、その牧会はやはり正しくはないことになります。成長を目指して牧会するのです。 教師、聖書のみことばを教える人です。これはたとえば神学校の教師のような働きともいえますが、牧師とはみことばを教えることなしには成り立たない働きであるわけで、それゆえに「牧師また教師」と書かれているともいえます。教団教派によっては、牧師按手を受けて牧師の資格を持つ先生のことを「教師」という呼び方をします。 以上のことを見てみますと、この5つの働きは、献身者がみな、何らかの形で兼ね備えているものです。ほんとうのことをいうと、この5つの賜物が別々の兄弟姉妹に顕著に現れるほど、そのほど教会の中で「分担」というものができるほど、教会は成長しているべきなのですが、教会が小さい段階ではそれは理想の域を出ません。しかし、私たちはいずれ、そのようになれるほどに教会が成長し、虚しさに服したこの地を満たす働きに用いていただくように祈るべきです。 私たちは主の弟子として、遣わされた人から、みことばの預けられた人から、みことばを聴いて救いを確信し、みことばによってケアされて成長し、みことばをさらに深く学びます。それが、大礼拝、小グループ、ディボーションがふさわしいものとなるために必須のプロセスです。 だから、私たちがふさわしい聖書理解の中で、聖霊の訓練を受けて成長するものとなるために、その教えを語る牧師のために祈っていただきたいのです。牧師が祈ること、学ぶことに集中するだけ、教会は成長します。それは、私たちがともに主の恵みをいただいて成長するということです。 でも、教会成長のために献身すること、弟子訓練のために献身することは、ほんとうは牧師だけの働きではありません。献身というと大げさに聞こえるかもしれませんが、献身はフルタイムの働き人になることだけを指すのではありません。この5つの役職は、私たちもどこかで少しずつでも賜物としていただいているものです。私たちの賜物は何でしょうか? 発見させていただき、その賜物、召しにしたがって、なすべきことを実践させていただきましょう。 さあ、今日のメッセージを、私たちはどのように適用しますでしょうか? 私たちは成長することに無関心ではなかったでしょうか? あるいは、成長というものを、単に個人的なものに限定し、虚しさに服したこの地を満たせというキリストのご命令に従うためということを、忘れてはいなかったでしょうか? この、地を満たせという主のみこころに従順になるために、私たちも御霊に満たされてこの地を愛によって満たす訓練を受けます。それが弟子訓練です。私たちは礼拝、小グループ、ディボーションという3つの取り組みによって満たされ、その満たしによって、キリストの愛によって愛して地を満たします。 その主のみこころを実現するために、この者はみなさまを訓練させていただく者ですが、その働きを担う上での賜物は、私たちひとりひとりに、何らかの形であります。みことばを分かち合うだけでも、その行いは預言者のようであり、教師のようです。いえ、それで聞いた方が成長するならば、牧師のようでさえあります。そして将来、この教会がさらなる成長を遂げ、どこか別の場所に開拓教会するようなことにでもなれば、新約時代の使徒の働きにならうことにさえなります。いえ、天の御国からすでにこの地に遣わされてキリストのからだをここ茨城に形づくっていることからして、私たち教会は使徒としての性質を帯びています。 私たちはこれまで、自分をそのようなものと捉えてきましたでしょうか? もし、それが充分ではなかったならば、今日から始めましょう。弟子として訓練される、その訓練に飛び込み、あらゆる虚しさに陥ったこの地を満たす働きに、用いていただきましょう。