あなたは神の国から遠くない

聖書箇所;マルコの福音書12章28節~34節 メッセージ題目;あなたは神の国から遠くない 映画のような娯楽で好んで取り上げられる題材に「道場破り」というものがあります。腕に覚えのある者がいきなり他の流派の道場に乗り込んでいって、そこの師範代など主だった門弟をはじめ、すべて倒し、道場の看板を持ち去ったりする、というものです。もちろん、失敗することもあるわけですが、道場破りが現れたら血が騒ぐ、というような道場主や門弟もいたのだろうか、と、想像力をたくましくします。私がむかし好んで投稿していた週刊朝日の「山藤章二の似顔絵塾」というコーナーでも、単純な似顔絵ではなく、信じられないような描き方をする投稿者が老若男女、日本のあちこちから投稿してきて、塾長の山藤画伯はそういう人のことを「道場破り」と呼んでいました。そのような「道場破り」は、やがてプロの絵描きさんになった人も多く、山藤画伯はそういう人たちのことを、頼もしく、また誇らしく思っていたのではないかと思います。 しかし、「わたしが道である」とおっしゃったイエスさまに、あたかも道場破りのように立ち向かうならばどうでしょうか。今日の箇所に登場する律法学者は、一種の「道場破り」のたぐいと言えるかもしれません。パリサイ人やヘロデ党、サドカイ人の「刺客」にも似た者たちを次々と論破するのを見て、それなら、と立ち上がったのが彼でした。イエスさまは彼との対話を通じて、イスラエルの人たちにとって、というより、私たち人間にとって何がいちばん大事なことか、教えてくださいました。 28節のみことばです。……この律法学者はどのような動機があって、イエスさまにお尋ねしようと思ったのでしょうか。ほぼ同じことが書いてあるマタイの福音書22章によれば、この人はイエスさまを試みよう、試そうとしてやってきた、とあります。イエスさまがサドカイ人たちのことを黙らせたと聞いたパリサイ人たちが話し合って、そのひとりを送った、ということです。もし、このパリサイ人と、今日の箇所に登場する律法学者が同じ人物ならば、彼の目的はイエスさまを試みることにありました。 しかし、今日の箇所の全体のトーンを見てみると、彼はイエスさまをやり込める態度満々ではなかったようです。そのことはあとでお話ししますが、ともかく、イエスさまはほぼ、律法学者たちに対して厳しかった中で、例外的に、この律法学者に関しては認め、受け入れることさえなさっています。 話の流れからすると、マタイの福音書のパリサイ人とこの箇所の律法学者は同じ人物と判断できますので、その前提でお話してまいりますが、パリサイ人の集団は、イエスさまを試みて、あわよくば当局に引き渡してやろうという、どす黒い野望を持っていました。しかし、この律法学者の代表選手に関しては、たしかにイエスさまを試みよという命(めい)を受け、それに従って行動しようとしてはいたものの、イエスさまのみことばを受け入れる下地はあった模様です。 この律法学者は、すべての戒めの中で最も大事な戒めは何ですか、と、お尋ねしました。イエスさまは、律法学者たちからしてみれば、きよめの洗いについてですとか、安息日を守ることについてですとか、あまりに急進的な律法の解釈をしているように見えました。何とかしてイエスさまのラディカルな聖書解釈をあげて罠にかけよう、という、パリサイ人たちの謀略があったのかもしれないことが、この質問から透けて見えます。 もっとも、この律法学者がこの質問をした意図は、パリサイ人たちの考えとはまったくちがうところにあった可能性もあります。彼はこの質問を投げかけることで、イエスさまが何を大切にすべきかということが結果的に教えていただける、そこまで考えて質問したとも言えます。 人はときに、私たちクリスチャンに意地悪な質問をしてくるように思える時があります。しかし、そういう質問をする人は、案外、真理とは何かを知りたくて、そのように一見意地悪に思える問いを投げかけることもあると考えるべきです。意地悪な質問を恐れてはなりません。聖霊なる神さまは。いざというそのとき、私たちに最も素晴らしい知恵を授けてくださり、神の真理をその人の前で解き明かさせてくださいます。恐れないで信じて行動していただきたいのです。 律法学者たちは、聖書から導き出して、合わせて613にもなる戒めを集大成していました。これは、248の「しなさい」という戒めと、365の「してはならない」という戒めから成り立っています。「しなさい」の248は、成人の人間の関節の数、365はもちろん、一年365日を意味します。これは、毎日、神さまがしてはならないとおっしゃった戒めを覚え、神さまが命じられたことを全身で守り行う、という意味があります。しかし、これだけたくさん戒めがあると、律法の軽さ、重さに優劣をつけるようになります。そういうことからも、すべての戒めの中でどれがいちばん大切か、という問いは、律法学者たちにとっても、とても大事なものでした。 しかし一方で、あれだけ普段からラディカルな教えを語っておられるイエスさまのことです。パリサイ人たちは、イエスさまがお答えになるその内容次第で、イエスさまをしょっぴいていける、と計算したとも言えます。その点で、なかなか難しいところを攻めた、と、彼らはこの問いを考え出して、得意になっていたことでしょう。 しかし、さすがはイエスさまです。このような彼らの意図に関係なく、私たちのお従いすべき真理を堂々と教えてくださいました。29節、30節です。……「聞け、イスラエルよ。」に始まるこのみことばは、申命記6章4節と5節のみことばです。聞け、は、ヘブライ語では「シェマー」であり、この申命記6章4節、5節に始まる「シェマーの祈り」というものを、敬虔なユダヤ人は朝と晩の一日に2回唱和します。今もそうです。それほど、このみことばはユダヤ人にとって大切なみことばです。 だから、このみことばこそ第一の大切な戒めだということは、さすがのパリサイ人も反論できません。まず、主は唯一のお方です。唯一の神さまだから、このお方のほかに神があってはなりません。それ以外のものを神とするならば、それは「偶像」です。 それなら、人はこのまことの神さまをどうしなければならないのでしょうか?「愛する」のです。それも、「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして」愛するのです。あらゆる意志と行動を動員して、主なる神さまを愛するのです。したがって、頭の中や感情の次元で神さまを愛するのでは充分ではなく、ひたすらに行動して、神さまを愛するのです。 それでは具体的に、どのようにして神さまを愛するのでしょうか? それは「神さまの戒めを守る」、つまり「神さまのみことばを守り行う、実践する」ことによって、神さまを愛するのです。神さまをほんとうに愛しているならば、神さまが私たちに「せよ」と命じられたことを守り行い、「してはならない」とおっしゃったことはしない、そうなれるはずです。 それでは、みことばを守り行うことは、具体的に何をすることによって実践するのでしょうか? イエスさまは続けて、第一の戒めだけではなく、第二の戒めについても語っていらっしゃいます。31節です。……神さまが「せよ」と命じられたこと、また「してはならない」と命じられたことは、人との関係において実践されるものです。人に対して「せよ」、人に対して「してはならない」、これがすべて、神を愛することと同じだというわけです。 それゆえ、何を人に対してしてもよく、何をしてはいけないのか、私たちはみことばから学び、身につける必要があります。しかし、そういうことは、訓練によらなければ身につけることはできません。学校でも家庭でも、子どもは人を大切にするための教育を受けて大きくなります。しかし、私たちが神を愛することを、人を愛することによって身につけることは、一生ものです。ある牧師先生がうまいことをおっしゃっていました。教会は学校です、それも、一生卒業のない学校です。まことにそのとおりです。 なお付け加えれば、私たちはこの「学校」から帰り、また集まるまでの一週間、「学校」から出される課題としての「宿題」をこなします。聖書を読み、お祈りし、そうして教えていただいたことを、人を愛することにおいて、普段の生活の中で実践するのです。 さて、それでは私たちは、どのように人を愛するのでしょうか?「自分を愛するように」、そのようにイエスさまはおっしゃっています。よほど病んでいる人でもないかぎり、人は自分のことを大切にします。自分のことを大切にするのは当たり前のことです。悪口を言われるとか、貸したものを返してもらわないとか、されたら嫌なことというものが、人にはあります。そういうことを他人にはしない、これも立派に「愛する」ことです。また逆に、私たちはおいしいものを食べたいですし、もてなしを受けたり、プレゼントをもらったりすればうれしいものです。だから人にごちそうし、人をもてなし、贈り物をする、そうして、私たちは人を愛するのです。 自分を愛するように、ということは、自分のことしか考えない、ということではありません。というより、正反対のことです。自分を大切にできる人は人のことも大切にできますし、逆に、人のことを大切にできる人は自分のことを大切にしている人です。一方で、自分のことしか考えない人は、人のことなど大切にできませんし、結局は自分のことも大切にできていないのです。 わかりやすいたとえを使いましょう。おいしいからとジャンクフードやコーラやジュースばかりを食べたり飲んだりして、怠けてばかりいたら、からだをおかしくします。その結果、人にも迷惑をかけることになります。これは、このみことばが言う「自分を愛する」こととはちがいます。しかし、自分を大切にする人は、みことばをお読みし、お祈りし、賛美することで、つねに御霊の満たしをいただき、霊的な健康を保ちます。肉体においても、きちんと栄養のあるものを食べ、睡眠も適切にとり、運動もきちんとします。趣味を持ってリラックスすることでストレスをためません。そうして霊肉ともに健康を維持することで、人の役に立つ行動ができるようになります。これがほんとうの意味で自分を愛することで、結果として人を愛することです。 さて、そうなると「だれが隣人か」ということになります。実は、この律法学者と同じような問答をイエスさまと交わした律法学者のことが、ルカの福音書の10章に出てきます。そのときイエスさまは、あなたがたにとっての隣人とは、ひとつの例話をお用いになり、半殺しの目にあって倒れているユダヤ人を親身になって助けたサマリア人のことだ、とおっしゃいました。ユダヤ人にとっては受け入れがたい存在、軽蔑の対象、そんなサマリア人が隣人だなんて! しかし、このサマリア人と同じように振る舞うこと、少なくとも宗教的けがれを気にして瀕死のユダヤ人に一切手を差し伸べなかった宗教指導者のようにならないことがまことのいのちの道であると、イエスさまはおっしゃいました。 イエスさまはまた、山上の垂訓において、あなたの敵を愛しなさい、とおっしゃいました。これはただごとではない命令です、言ってみれば、いま、イスラエルの人に向かってハマスを愛しなさいと言うようなものではないでしょうか。ウクライナの人に対して、ロシアを愛しなさいと言うようなものではないでしょうか。身近なケースを見ても、インターネットには中国や北朝鮮、そして韓国を憎悪することばにあふれています。しかし、憎っくき隣人でも、愛しなさい、というのが、神さまのみこころ、この律法のことばのほんとうに語ることであるというのです。 私たちにとっても、顔も見たくない人がひとりやふたりは必ずいると思います。いない、とおっしゃるなら、その人はきっと天使です。私にも正直、会いたくない人はいます。それでも、愛しなさい、と言われたら、私たちは苦しくなるでしょう。あるいは反発を覚えるでしょうか。しかし、覚えておいていただきたいのですが、「愛する」ということは「好きになる」ということでは、ありません。おわかりでしょうか? 「好きになる」というのは感情の問題です。しかし、「愛する」ということは、「神さまが敵を愛するように命じられた」という「事実」に対し、信仰によってお従いするという「意志」と「選択」の伴うことであり、「好き」という感情とはまったく別の次元のことです。 さらに言えば、たとえその人に対してどうしても「好き」という感情がわかなくても「愛する」ことはできるのです。私たちはその人のことを「好き」になる必要はありません。好きでもない人を好きになろうとすると苦しくなりますし、好きでもないのにその人のことを好きだということは、嘘をついていることになります。しかし、「愛する」ことはできます。なぜならば「愛する」ことは主の命令だからであり、ということは、主は私たちに「愛する」力をくださるということだからです。できもしないことを主はお命じなりません。 もっとも、私たちは愛せないことの限界を突きつけられ、自分の自己中心を思い知らされます。そんなとき私たちは落ち込むか、抵抗したりするでしょう。しかし、そんな私たちのすることは、それほどまでの自己中心の罪人である私のことを、イエスさまは十字架にかかってくださるほどに愛してくださった、その愛を思うことです。そうすればイエスさまは、私たちに「愛する」力をくださいます。 「愛する」選択をした結果、その人のことが「好き」になるかどうかは置いておいて、私たちはまず「愛する」ことから始めたいものです。うまくいけば今までの「嫌い」「苦手」という感情が「好き」という感情に代わるかもしれませんが、そうでなかったとしても、私たちに求められていることは「愛する」という意志です。そこから、良きサマリア人のように行動が実を結ぶ祝福がありますようにお祈りします。 さて、この律法学者はイエスさまにお答えします。32節です。……彼は、主が唯一の方であることが、主こそ愛するお方であるということの、大前提であることを理解していました。また33節、隣人愛こそが究極のいけにえ、ささげ物であることを、彼は旧約聖書のいくつものみことばから理解していました。サムエル記第一、箴言、ホセア書に、まことのすぐれたいけにえとは何か、それは形式的な宗教行為ではないことがほのめかされていますが、この律法学者は、それをわかっていたのでした。あるいは、イエスさまのみことばによって、それこそがふさわしいみことばの解釈であるという導きをいただき、そのとおりに告白した、と言えます。まさにイエスさまをとおして、彼は正しいみことばの理解、そして信仰告白に導かれたのでした。 イエスさまはそんな彼に対し、なんとおっしゃったのでしょうか? 34節です。……「あなたは神の国から遠くない。」この律法学者は、イエスさまを亡き者にしようとするパリサイ人の群れの者でした。しかしイエスさまは、彼はそんな反キリストのパリサイ人だから、などと、彼のことをラベリングすることはなさいませんでした。イエスさまはひとりひとりのことを見ていらっしゃいます。 この私たちからしてもそうだったのではないでしょうか? 宣教師の墓場と言われている日本、家という家に仏壇や神棚があり、お寺や神社に霊的に縛られて生きるのが当たり前の日本人は、はた目から見れば、福音が伝わることが絶望的に見えます。私は日本の外に合わせて6年住んだから実感しますが、外から日本を見ると、ほんとうにそのように見えるのです。 しかし神さまは、日本という異教の国の民として私たちのことをご覧にならず、永遠のご計画の中で私たちを救ってくださいました。イエスさまはこの律法学者に「あなたは神の国から遠くない」とおっしゃいましたが、私たちもまた、神の国から遠くなかったのです。しかし、これこそが神の国の福音であるという理解もまた、神さまの恵みによって与えていただいたものです。ゆえに私たちは、誇れるものは何もない、ただイエスさまの十字架を誇るのみで、神さまにすべてのご栄光をお帰しするものです。 最後に、ローマ人への手紙の12章1節のみことばをお読みしましょう。みことばの実践こそ最高のいけにえ、それも霊的ないけにえです。それは私たちが、人を愛することによって、それも、到底愛せない人のことを愛しますと決断することによって、意味を持つようになります。 しばらく祈りましょう。私たちは愛する人になれますように。今はまだ、愛する行動がとれなくても、愛することを選び取るという、その第一歩の行動に踏み出せますように。そうして、神の国の民としてふさわしく歩みますように。