神の子となる特権

聖書箇所;ヨハネの福音書1章9~13節 メッセージ題目;神の子となる特権 聖書では、光とはイエスさまのことを指し、また、イエスさまという光をこの闇の世に照り輝かせる私たちのことを指しています。この「光」をめぐって、三者三様の立場がこのみことばに登場します。順を追って見てみましょう。   一番目に、光を照らすお方、イエスさまです。9節のみことばをお読みします。……世を照らすことは、主のみこころでした。この世はいつも、人の思い図ることは悪に傾きます。それは、人が罪人だからです。罪を犯すから罪人なのではありません。罪人だから罪を犯すのです。  このような世界は、それこそノアの時代の洪水のような全地球規模の災害により、何度滅ぼされたとしても当然でした。しかし神さまは、ノアと結ばれた契約ゆえに、この地をそのような破滅にあわせることをなさらないと約束されました。その代わりにしてくださったこと、それは、ひとり子イエスさまという光によってこの地を照らしてくださることでした。   イエスさまは、すべての人を照らすまことの光であると聖書は語ります。イエスさまという光によって、この世界の暗やみに閉ざされていた人々は照らされ、まことのいのちの道を歩みます。  そのように、神さまが人々をイエスさまという光で照らされるのは、この世界が暗やみのままであってはいけない、というみこころゆえでした。考えてみましょう。私たちの子どもたちが、光を避け、暗やみの中に生きることを、果たして私たちは望むでしょうか? 神さまのみこころも同じことです。光をつくられた主は、ご自身が愛をもってつくられた人間たちが、イエスさまという光のうちを歩むことを願っていらっしゃいます。 人は神のかたちにつくられているので、神さまのみこころどおり、この世をよくしていきたい本能が与えられている。その現れとして、医学においても産業においても哲学においても、優秀な指導者が現れ、この世が決定的に悪くなるのを防いできた、とも。それでも人の努力で世の中をよくしていくには限界があります。 といいますのも、やはり人の心の思うことは、はじめから悪であるとおり、人の力ではこの世をよくしていくには限界があるからです。神さまはそのような世を憐れんで、まことの光であられるイエスさまを送ってくださり、この世を明るく照らすというみこころを示されたのでした。 しかし、このように世界をイエスさまという光によって照らしてくださった神さまのみこころを、人はどのように受け取ったのでしょうか? 二番目に、光を拒んだ存在、世について見てみましょう。まず、10節を見てみましょう。……そうです。この世は、イエスさまという光を知らなかったとあります。   知らなかったのはなぜでしょうか? イエスさまではないものを、光と見なして生きていたからです。といいますよりも、そういうイエスさま以外のものを光と見なして生きる方が、彼らには都合がよかったからです。イエスさまの時代の宗教指導者たちをご覧ください。あれだけ聖書に通じていたはずの人々が、いざ神の御子イエスさまを前にしても、そのお方がまことの光であることがわからなかったのです。彼らは頑なになり、民衆がイエスさまのことを救い主と言おうとも、このお方が神の子であることを、頑として認めませんでした。   彼らにとって光とは、自分たちの教え、言い伝えであって、それらの物は一見するととても神がかっていて、有難い教えのように思えます。しかし実際のところは、人を立て上げるどころか、人を罪に閉じ込め、落ち込ませる教えです。それでも、その教えの中に民衆を閉じ込めておくかぎり、宗教指導者たちは安全です。イエスさまはそんな彼らのことを偽善者と呼ばれ、天国の鍵を持ち去ったと激しく非難されました。   そのようにしてイエスさまがわからなかったということは、どのような結果を生んだのでしょうか? 11節です。イエスさまはユダヤに来られました。神さまを王とすることに誇りを持った国、神の民であることに誇りを持った民のところです。しかし彼らはそのアイデンティティに反して、結局のところ、神の子なるイエスさまを受け入れなかったのでした。彼らは、一時(いっとき)はイエスさまを救い主と受け入れたように見えましたが、彼らのしたことは、声を合わせてイエスさまを十字架につけるようにと訴えたことでした。彼ら群衆こそがイエスさまを十字架につけたようなものです。 民がイエスさまという光を受け入れない、それはまさに、イエスさまを十字架につけて亡き者にしたほど拒絶したということです。しかし、このようにイエスさまを拒絶するということは、その時代にかぎったことではありません。イエスさまの時代以来2000年にわたって行われてきた宣教のわざにおいて、いったいどれほどの人が、イエスさまを拒絶してきたことでしょうか? しかし、世の勢力が支配しているかぎり、イエスさまという光に照らされることを人々が嫌がるのは当然のことなのです。  いえ、過去や現代だけのことでしょうか? 未来においてもそうなのです。今私たちは、毎日のディボーションのみことばで、ヨハネの黙示録を通読しています。ヨハネの黙示録は、第一義的には迫りくるローマ帝国の滅亡を預言した書物ですが、巨視的に見れば、これが私たちの生きるこの世界の終わりを預言した書物であることを疑うクリスチャンはいないでしょう。このヨハネの黙示録を見ると、どれほどの災害に合おうとも人々が決して悔い改めない、その頑なな様子がこれでもかと描写されています。全知全能なる神さまが未来を見通されたレベルにしてそうなのです。私たちはそれでも世の終わりのリバイバルを願いつつ宣教に励むものですが、世界は最後までイエスさまを拒絶する者たちで満ちることもまた、私たちは受け入れる必要があります。   しかし、それなら私たちは絶望したままでいなければならないのでしょうか? 決してそうではありません。三番目、光を受け入れた存在、私たちについても、聖書は語っています。12節をお読みしましょう。……ご覧ください!「神の子どもとなる特権」です! 全知全能なる神さまを「お父さん」と呼べること、それはどれほどの特権でしょうか!  そして、天のお父さんのものは、みな私のもの、ということにもなります。すごいことです。私たちは、天の御国の王子、王女であり、やがてイエスさまとともに御国を継ぐ者です。   しかし、この御国の世継ぎはだれでもなれるものではありません。この方、つまりイエスさまを受け入れた人、すなわちその名を信じた人、その人が神の子どもにしていただけるのです。   イエスさまを受け入れるということは、イエスさまが神の子であるとか、人の罪のために十字架にかかったとか、そういうことを単なる情報、インフォメーションとして知っていればいいのではありません。「私」が罪人であることを認め、「私の罪」のためにイエスさまが十字架にかかって死んでくださったことを信じ受け入れるのでなければ、ほんとうの意味でイエスさまを受け入れたことにはならないのです。  しかし、人がひとたびイエスさまを受け入れるならば、その人は神の子どもになります。罪が完全に赦されます。過去の罪、現在の罪、未来の罪が赦されるのです。永遠のいのちが与えられ、天国に入れられます。それだけではなく、この地上の生涯を、神の栄光を現して生きようという、何よりも素晴らしい目的が与えられます。  信じるということは、何か難しいことをすることではありません。それこそ、ただ信じることです。しかし、このただ信じることはなんと難しいことでしょうか。私たちはこうして信じることができましたが、それが素晴らしいからと人々に伝道しようとすると、私たちはどんなに、この特権を得られることがやさしいことをいっしょうけんめい伝えたとしても、聞いてもらえないことなどしょっちゅうです。  その秘密は、13節で語られています。……信仰を持たせてくださる、すなわち救いに導いてくださるということは、完全に神さまのご主権の領域です。もし、救いというものが血筋によって得られる者だとするならば、その血筋に生まれた人と生まれなかった人との間に、人間的な差別をもうけてよいということになってしまいます。また、単なる欲望や意志によっても信仰を持つことはできないことをこのみことばは語ります。ただ、神によって、神さまの恵みによって人は信仰を持ち、神の子どもとしていただくのです。  そういうところから、私たちは個人的な回心の体験というものがどうしても必要になります。私たちはみな、聖霊なる神さまによって、イエスさまの十字架を信じる信仰に導いていただいた存在です。私たちはほんとうの意味で家族です。私たちはこの地上においても、天国においても、永遠に変わることのない家族です。 私たちはこの地上を生きるかぎり、神さまを父とする家族としての役割を果たしてまいりたいものです。また、その家族の一員としての生き方を、隣人を愛するという生き方をもって全うしてまいりたいものです。学校でも、職場でも、近所づきあいにおいても、私たちが神の家族、神さまの子どもらしく振る舞うならば、いつしかその愛は隣人に伝わっていきます。その中から、主に召された人は特別な恵みを受けて、イエスさまを信じ受け入れて神の家族に加えられます。  私たちは祈ってまいりましょう。私たちが隣人を愛する人になれますように、また、その隣人とともに、同じキリストのからだなる教会を形づくるビジョンを思い描けますように。主がこのお祈りを聞いてくださると、信じて祈ってまいりたいものです。  イエスさまは、この世を照らす光として来られました。しかし、人はその光を拒みました。罪人ゆえに、その行いが悪く、イエスさまに照らされたくなかったのです。私たちもそのうちのひとりではなかったでしょうか? しかし、私たちはあわれみをいただいて、イエスさまを信じ受け入れる信仰を聖霊なる神さまに与えていただき、天の神さまを父と呼ばせていただく立場、神の子どもとならせていただきました。ほんとうにもったいないことですが、この貴い立場にしていただいたことにただひたすらに感謝し、この一週間も、そして生涯、神の子どもらしく、光の子どもらしく、ともに歩んでまいりましょう。