ひとつの教会の成長を目指して

聖書箇所;エペソ人への手紙4:1~16 メッセージ題目;ひとつの教会の成長を目指して 以前のことになりますが、私は長いこと、日本の教会成長におけるモデルとなる教会を探していました。そのような中で出会ったのが、たとえば韓国のサラン教会であったわけですが、私はやがて気がつくことになりました。それは、モデル教会はどこまでもモデルであって、自分の牧会する群れはそのモデルに似せてではなく、どこまでも自分に与えられた健全な牧会哲学にしたがって形成しなければならない、ということです。 教会に集う信徒ひとりひとりが、ほんとうの意味で主からいただいたいのちを生き生きと、喜びをもって生きる、そのような牧会を目指していきたい、そのように切に思います。そのためにも、どうかみなさんには、みなさんおひとりおひとりがそのいのちを生きる、教会の主体であることを、いつも心に留めながら生きていっていただきたいと、切に願います。 そのような私たちにとって、今日学びます箇所は、とても示唆に富むみことばです。ともに学んでまいりましょう。 第一のポイントです。私たちはひとりなる主の中で一致する存在です。 1節から6節の中で、漢数字の「一」という数字、何回登場するでしょうか? 6回も登場します。そして、神さまがひとりなるお方、という、この「ひとり」まで含めると、実に8回にもなります。それほど、ひとつ、ひとり、ということは、だいじなことなのです。 神さまというお方は、交わりの中に永遠に生きておられるお方です。父、御子、御霊の、三位一体の交わりです。この三位一体の神さまを、旧約聖書では「エローヒーム」と言いますが、これは複数形です。「神々」という複数形を充てるべき、まことの神さまではない存在も「エローヒーム」で、やはり複数形なわけですが、「エローヒーム」がまことの神さまか、そうではない神々かということは、文脈で判断します。 そういうわけで、創造主なる唯一のお方はいわゆる八百万の神々ではないのだから「神」と呼ぶべきではないという御意見は、一理あるとは思いますが、この「エローヒーム」という原語のことを考えますと、「神」とか「神さま」とお呼びして不都合なことはないというのが、私なりの意見です。 ともかく、このまことの神さまは、複数形であるということは、つねに交わりの中に生きておられ、完全な一致を保っておられるお方ということです。これこそ、三位一体ということです。そのように、三位なる神さまが一体であるように、私たち、主のからだなる教会も、ひとつの中に交わりを保つ存在である、というわけです。 そのような存在であることを私たちが自覚するために必要なこと、それはまず、1節にあるとおり、主の召しにふさわしく歩みなさい、ということです。 このお奨めをしたパウロは、自分のことを何者だと言っていますか? そう、主にある囚人、です。主にお従いするあまり、囚人という、この上なく不自由な存在になった、しかしそれでもなお、みことばを伝え続ける者である、そのように告白しています。そんなパウロは、たとえ自分が囚人であろうとも、主の中で大いなる喜びにあふれていました。そんな私から確信をもってあなたがたに言います、召しにふさわしく歩みなさい。 パウロにとって召しにふさわしいことが、たとえ囚人となろうとも主に従順に歩むことであったならば、エペソの人、そしてこの手紙の読者である私たちにとっては、どのように歩むことでしょうか? それが2節と3節に書かれていることです。お読みします。 なぜ謙遜でなければならないのでしょうか? なぜ柔和でなければならないのでしょうか? 寛容であることも、愛することも、忍耐し合うことも、平和を保つことも、なぜ必要なのでしょうか? それが、三位一体なる神さまが交わりのうちに一致を保っておられるように、御霊による一致を保つことであるからです。そしてそのように一致を保つことを、神さまが私たち主の教会に願っていらっしゃるからです。 神さまは、人や群れによって別の存在となるお方ではありません。神さまは唯一であり、神さまへの信仰を持たせてくださった聖霊なるお方も唯一です。この唯一のお方によって、私たちは同じ信仰を持ち、同じバプテスマを受け、同じ主のからだなる教会に連ならせていただくのです。 先週、水谷先生もおっしゃっていた表現を借りれば、教会というものは個人競技ではなく、団体競技です。ひとりの力で信仰生活や教会形成など、できるものではありません。では、どのようにすれば、私たちは一致を保てるのでしょうか? それは、私たちがともに、主を見上げることによって可能となります。では、私たちは具体的に、どのようにすることで一致できるのでしょうか? 第二のポイントです。私たちはひとりなる主が、多様な働きを与えてくださっていることを互いに認め合うことで一致する存在です。 7節のみことばをお読みします。……ひとりひとりが、キリストの賜物の量りにしたがって、とあります。私たちはそれぞれが、さまざまな個性という形で、キリストより賜物をいただいています。それぞれに合った賜物を、イエスさまは私たち各自にくださっているというわけです。 8節から10節のみことばをお読みします。……イエスさまは天の御国から地上に下られて、人々とともに生活されました。 この、地上の人々は、この世とサタンの捕虜として、罪の縄目にしばられて生活していた者でした。しかし、そのような世とサタンの捕虜だった者を、キリストは解放し、天の御国のいのちを与えてくださいました。 イエスさまの十字架と復活を信じる信仰によって罪とサタンから解放された者たちは、もはやこの世の捕虜のように生きる必要はありません。この世において、天の御国に属する賜物をいただきつつ、そしてその賜物を用いつつ、生きる者と変えていただいたのです。 11節をご覧ください。……ここには、4つ、ないしは5つの働き、または立場が列挙されています。これを見てみますと、キリストのからだなる教会に仕える存在は、さまざまである、ということがわかります。 使徒、これはキリストに直接遣わされた人です。イスカリオテのユダを除くイエスさまの十二弟子、それを充当する形で加わったマッティア、そして、復活のイエスさまに実際に会って遣わされたパウロがこの使徒にあたります。この使徒が、それから2000年にわたって聖書のみことばを残すことを考えると、パウロがこの働きを一番目に持ってきたのも当然と言えます。 次に預言者です。これは、主からの啓示を直接受けて伝える人です。旧約時代にこの預言者は存在し、活動してきました。新約時代に入っても、新約聖書が整備されるまではたびたびこの預言者が起こされ、人々に神さまからの啓示を伝えました。神さまのみことばを受けて伝えるという点で、この預言者はとても大事な仕事です。 そして伝道者です。みことばをたずさえて、まだ福音を聞いたことのない人にみことばを語り伝えます。 最後に、牧師または教師とあります。人々をみことばによって教え、みことばによって養う働きです。この「牧師」という用語は聖書においてはここだけに登場しますが、使徒の働き20章28節など、ほかの聖書箇所と照らし合わせると、パウロがテモテへの手紙などにおいて「監督」と呼んでいる職分と共通することがわかります。 こんにちにおいて使徒と預言者という職分は復活しつつある、と説く立場は、たしかにキリストの教会の中に存在しますが、私はその立場には賛成しかねます。私たちは、使徒と預言者が書き残した旧新約聖書の啓示で、充分と考えるべきです。聖書はすでに完成しています。 それにもかかわらず、それにつけ加えていろいろなことを言う者は、「異端」と見なすべきであり、そのような存在に対してはヨハネの黙示録の最後の箇所で、ぞっとするようなさばきのことばが宣告されています。 ここでいう「使徒」と「預言者」は、聖書の完成をもってその立場は停止しました。では、私たちはわざわざこのように職分が書かれたみことばの意味を、どのように解釈すべきなのでしょうか? それは、教会形成にはさまざまな立場の人が用いられる、というにとどめたいと思います。 こんにちはたしかに、使徒や預言者は存在しません。しかし、伝道者や牧師、教師ならばどうでしょうか? 福音というものは、伝道者の存在によって宣べ伝えられます。私たちの教会の支援している宣教師の先生方や、KGKやキャンパス・クルセードといった宣教団体のスタッフといった方、もっと広範囲に活動する方では、むかしならばビリー・グラハムや本田弘慈先生、現在ならば岸義紘先生や福澤満雄先生のような方が挙げられるでしょう。こういう方々の存在によって、福音は広く増え広がり、伝えられます。 牧師はもちろん、教会を牧会する働きをする人です。教師はそのような中で、みことばを伝える働きであり、教団教派によっては、牧師を教師とも呼んでいます。この牧師と教師をあえて分けるとするならば、担任する教会がある場合は牧師、神学校のような神学教育機関で教鞭をとるのが専門の場合は教師と言えるかもしれません。 いずれにせよ、「みことばを教える」専門職をひとつ取ってみても、これだけ多岐にわたるわけです。使徒と預言者がみことばを受ける人であるならば、伝道者や牧師や教師は、それぞれの立場でその受けたみことばを伝える人です。 時に、人によっては、この3つの賜物を兼ね備えている人もいるかも知れません。しかし、その働きをバランスよく一人で担うには、限界があると言うべきです。 どうすればいいのでしょうか? この、「教える」ということを、専門職に独占させず、信徒で分かち合うのです。ここに、私たちの賜物を見分け、その賜物にしたがって活用する余地が出てまいります。 ある人は、人間関係を形成するのが上手で、福音を伝えるのもその分上手でしょう。そういう人は、「伝道者」の賜物があるのではないでしょうか? 祈りつつ、その賜物を磨くべきです。現在私が取り組んでいる「爆発伝道」は、私自身の伝道のスキルを開発するために取り組んでいることというより、信徒のみなさんが効果的に伝道できるように、まず私が取り組んでいることであるわけです。ぜひとも、自分は伝道に召されていると考える方は、この爆発伝道のメソッドを身に着けることにトライしていただきたいと思います。 またある人は、信徒をお世話するのが好きでしょう。そういう人には、「牧師」の賜物があるかもしれません。なにも、牧師按手を受けて、わざわざ牧師と名乗らなくてもいいのです。 そういう人でもそれなりの訓練を受ければ、牧師のような働きができるのです。世の中には、経済的な理由もありますが、お仕事にかなり集中しておられる牧師先生もいらっしゃいます。そればかりか、れっきとした本業があって、日曜日に牧師を名乗られる先生もいます。そういう方々のことを考えると、私たちにやれないということはないはずです。按手を受けているかどうかのちがいだけではないですか! 私のむかしいたサラン教会は、だいたい1200個ぐらいの小グループによって成り立っていた教会です。そのそれぞれの、だいたい6人から8人くらいの小グループのリーダーは、すべてが信徒です。主婦であったり、社会人であったり、とにかく、専門の牧師がするのではありません。そのリーダーになるためには1年の基礎訓練、さらに1年の応用訓練を受けますが、それでも専門職の牧師になるというわけではありません。しかし、彼らは立派に「牧会」をしていました。自分のグループの信徒のために祈り、励ましの言葉をかけ、みことばを教えていました。専門職ではない信徒であろうとも、牧会はできるのです。 あるいは、人づきあいはそんなに得意でなくても、聖書研究やキリスト教会の研究が好きという人は「教師」の賜物がありそうです。あるいは、教えることに秀でている人も「教師」の賜物はあると考えていいでしょう。そういう方にはどんどん本を読んでいただきたいですし、日曜学校の教師のような働きにもチャレンジしていただきたいところです。 以上見て来て分かりますことは、このようにキリストが天上の賜物を分け与えておられることは、この箇所においてはもっぱら、「みことばを教える」ことに特化されているということです。 しかし、このみことばを語られたお方はおひとりであり、したがってみことばもひとつです。それぞれが同じみことばを学び、また語ること、そのことが、一致して主を見上げるということであるわけです。 では、3つの目のポイントでは、みことばを学ぶことで一致して主を見上げる、その目的について学びます。 第三のポイントです。私たちはひとりなる主に向かって、ひとりなる主によって成長し、一致する存在です。 12節のみことばをご覧ください。……これは、教会がさまざまな教える賜物を持った人たちによって教えられることの益を語っています。 まずそれは、整えられるためです。この「整える」という漢字は、幼いころから私にとって、とても近しい漢字です。と言いますのも、私の父が、「整形外科」の医者だったからです。整形外科なので、実家の入口にはどーんと、この「整」という字が看板になって書かれていました。 整形外科には、けがをした人、筋肉を傷めた人、骨の具合の悪い人がやってきます。彼らが患者さんとしてかかりに来るのは、筋肉や骨が本来あるべき位置にないため、激痛を伴ったり、からだ全体にいちじるしい不具合を生じさせたりしているからです。しかしそのような患部を治すことで、患者さんの骨や筋肉はあるべき位置に戻り、痛みは取れ、からだの不具合は取れます。これが整形外科の役割、整えるということです。 教会というキリストのからだにおいても、それは同じことです。教会を形づくる信徒たちは、そのままでは罪の性質、肉の性質そのままに生きてしまうため、教会が主のからだとは名ばかりで、あちこちが肉の働きによって歪んでしまいます。そうなると教会には、実にいろいろな不具合が生じ、痛んだり病んだりすることになります。だから私たちは、正しくみことばを教えられる必要があるわけです。これが「整えられる」ということです。 そのようにみことばによって整えられることによって、はじめて私たちはふさわしく奉仕をすることができるようになります。世の中には、ボランティア活動が好きな人というものがいるものです。しかし、教会の奉仕と一般のボランティア活動は、似ているようで根本から異なるものです。 一般的なボランティア活動の奉仕は、いわば人に対するものであり、人に対して誠心誠意尽くすことで、すばらしいことです。これに対して私たちキリスト教会における奉仕は、唯一の神さまに向けて、一致してささげる奉仕です。出発点も、到着点も、一般的な奉仕と根本から異なるのです。 その奉仕の目的は、私たちが一致すること、私たちがともに成長し、キリストの満ち満ちた身たけにまで達すること、ここに究極の目標、目的があります。見るべきところは自分たちであるというよりは、キリストなのです。 では、私たち教会が成長することは、なぜ必要なのでしょうか? 14節をお読みします。成長していない者は、子どもです。子どもらしいといって褒められるのではなく、子どもっぽいということでけなされる、そういう意味での「子ども」です。 このみことばによれば、教会が子どもであることのしるしは、悪巧みや悪賢い策略、妙な教義にやられてしまうほど純真で分別力がない、ということです。しかしそれは、みことばをよく学んでいないからにほかなりません。みことばをよく学ぶならば、鳩のように素直になる一方で、蛇のようにさとくもなります。…