「祈りとは『主を試みる』ことではない」

招詞 詩篇125篇/祈り(各自でお祈りください)/使徒信条/讃美 讃美歌515/主の祈り/聖書朗読 士師記6章36節~40節/ メッセージ題目 「祈りとは『主を試みる』ことではない」 しかしそれなら、私たちはいついかなるときも、奇蹟を求めてはいけないのでしょうか?……本日お読みしたみことばは奇蹟に関する箇所ですが、聖書全体の中でも異彩を放っています。イスラエルの士師ギデオンは、ミディアンやアマレクの連合軍と戦うにあたって、なんと2度にわたって、奇蹟を求めています。それも、自分の言うとおりに奇蹟を起こしてほしい、というものです。そして、神さまはギデオンの祈ったとおりにみわざを成してくださいました。 でも、私たちはほかの聖書の個所で、あなたの神である主を試みてはならない、というみことばも知っています。そんな私たちは、当惑しないでしょうか? 神さまはなぜ、ご自身を試すような、ギデオンの言うことを聞かれたのでしょうか? 今日の箇所から、果たしてギデオンのささげた祈りは、神を試みるというものであったのか、ということを学び、その上でこの学んだことを私たちに適用し、新型コロナウイルス流行という、今置かれている状況においていかに祈りをささげるべきか、ともに探ってまいりたいと思います。 まずは、神さまを試すことは許されない、ということから学びましょう。ギデオンは神さまから選ばれたイスラエルの士師、さばきつかさですから、当然、律法のみことばが何を語っているか知っていました。その律法のみことばは、神を試みることを厳格に禁じています。律法のみことば、申命記6章16節には何と書いてありますでしょうか?「あなたがたがマサで行ったように、あなたがたの神である主を試みてはならない。」 マサとは、「試みる」という意味です。出エジプトの途上、荒野の中にあったイスラエルの民は、飲み水を欲しがって神とモーセに不平を鳴らしました。民がこうして不平を鳴らしたは、このような苛酷な荒野の生活の中にあっても神さまが絶対的に守ってくださるということを信じない、不信仰のゆえでした。主は私たちの中におられるのか、おられないのか……イスラエルは今や、神さまを試みて、大胆不敵にも神さまに挑戦する態度を示していました。神さまはそのような民に譲歩し、モーセを用いて、岩から水を湧き出させるようにしてくださいました。しかし、この水の湧き出た土地の名前は、メリバ、争い(つまり神さまと争う)、という意味の地名とともに、マサ、試み、と名づけられ、民が主を試みる不信仰を犯したことが悪い意味での記念となってしまいました。 時は下り、この申命記6章16節のみことばをイエスさまが用いて、サタンの誘惑を退けるというできごとがありました。マタイの福音書の4章、5節から7節です。お読みします。……もし、この神殿の屋上から飛び降りて、しかもみことばの約束どおり、天使たちに守られて傷一つ負わなかったならば、人々は拍手喝采して、このお方こそメシアだ、と迎え入れたことでしょう。しかしイエスさまは、もしそのようなことをするならば、それはみことばに書かれているとおり、神を試みることである、と拒絶されたのでした。 いえ、サタンは、詩篇91篇のみことばを用いているではないですか。そのみことばに従順になれば、それは神のみことばに従順になることであり、神さまの護りをいただけたのではなかったでしょうか。しかし、そうではありませんでした。イエスさまは、それ以前に、神を試みてはならない、というみことばこそ絶対であると、サタンの誘惑をはねつけられたのでした。なぜそれが、神を試みることになるのでしょうか? そして、それのどこがいけないのでしょうか? それは、従順を実践する対象、という問題になります。 イエスさまは、御父の栄光を顕すことを何よりも願っておられたお方です。しかし、神殿の屋上から身を投げるなら、もし仮に、仮にです、みことばどおり、御使いによって守られたとしても、神の御子キリストの栄光、すなわち御父の栄光が顕れることにはなりません。なぜかというと、御父に従順になることではなく、サタンに従順になることだからです。現れるのは、サタンの栄光です。 サタンの栄光を顕すこと。それは、神の名を利用して、自分のしたいように生きることです。ときには、みことばさえも好き勝手に利用します。それは、神に仕えているのではありません。サタンに仕えているのです。 神を試みることが問題になるのは、そういうときです。みことばに照らしても、明らかにみこころではない。わがうちにおられる御霊なる主は平安を与えていらっしゃらない。しかし、大丈夫だとばかりに押し切る、ときにはその自分の欲を押し通すためにみことばさえも利用する、そのような自分に祝福が与えられるようにと自分勝手な祈りをささげる、それがみこころだとばかりに人々を扇動する……。 よく考えましょう。そのような態度で祈ったとして、その祈りのとおりに事がかなったとします。もちろんそれは、結果としては神さまのみこころどおりになったと言えましょうが、果たしてそれを神さまの祝福と言い切ることができるでしょうか? 神の栄光ではなく、人の栄光が顕れる結果にしかならないならば、それは罪としか言いようがありません。これが、神を試みてはならないケースです。では、ギデオンの祈りもそのようなものだったのでしょうか? ギデオンはもともと、ミディアンを恐れてこそこそ隠れていた人でした。しかし、主はギデオンを選んで勇士としてくださいました。主の使いがギデオンに現れ、主は、ギデオンの供え物を、火をもって受け入れる奇蹟を見せてくださいました。勇士となったギデオンは、父親の礼拝していたバアルの祭壇とアシェラの像を壊すように主に導かれました。ただ、やはり彼にはまだ恐れがあり、それを白昼堂々行うことはせず、夜目に隠れて行いました。そのようなギデオンも主の霊によってだんだんと士師として整えられ、彼につく軍団が増えていきました。そのとき、今日お読みしたとおり、ギデオンはちょっと変わった祈りをささげたのでした。 もしあなたが言われたとおり、私の手によってイスラエルを救おうとされるのでしたら、羊の毛にだけ露がおり、土が乾いているようにしてください。すると、そのようになりました。羊の毛を搾ると、鉢が水でいっぱいになったというから、この奇蹟は相当なものです。 しかし、ギデオンはなおも祈りました。39節です。……すると、神さまはやはり、ギデオンの祈りを聴かれたのでした。なーんだ、神さまを試みてもいいのか、神さまはこんな無茶な祈りも聞いてくださるじゃないか……そう考えるのは早とちりです。ここでは、「なぜ」神さまはこんな、一見すると無茶な祈りを聞いてくださったのか、考えてみたいと思います。 神さまがギデオンによってイスラエルを救うことはみこころでした。それは、直接主の使いがギデオンに現れ、6章14節と16節にあるように、主がギデオンによってイスラエルをミディアンからお救いになることが告げられているとおりです。 このようにギデオンは、主が自分のことを選んでおられるという主のみこころを受け取っていました。しかし、ギデオンの側にはまだ確信がありませんでした。恐れもありました。ギデオンが整えられていなかったのです。このとき主は、ギデオンの言うとおりに奇蹟をお示しになることによってギデオンを整えることをよしとされました。 ギデオンは確かに恐れの中にありました。しかし彼は、主が全能であることにかけたのでした。主が全能であるかぎり、この臆病な私のこともつくりかえ、勇士として大きく用いてくださる……ギデオンは、自分の無茶な要求は神さまを怒らせるかもしれない、という恐れも一方ではありました。しかし、それにもかかわらず、大胆に神さまに要求したのは、神さまを信じる信仰、また、全能なる神さまへの大きな信頼があったからでした。 ゆえに、ギデオンの、一見すると神を試しているような祈りは、不信仰のようでいて、実は大いなる信仰に裏打ちされたものだったのです。 信仰をもってみこころにかなう祈りをささげるには、ギデオンのように、主との明確な出会いが必要です。もちろん、何年何月何日、という正確な日付まで覚えている必要はありません。要は「いま、主に出会っている確信がある」かどうかです。 主がイエスさまの十字架と復活を信じる信仰を与えてくださり、私を新しく生まれさせてくださったことにより、みこころにかなう祈りはどんな祈りでも聞いてくださる……この信仰をもって主の御前に進み出るのです。 私たちはときに、祈っている内容が「主を試す」ことになっていないだろうか、と恐れることはないでしょうか。しかし、安心していただきたいのです。聖書には、なんと主ご自身が、主の民に「わたしを試してみよ」と語られる箇所があります。旧約聖書のいちばん最後、マラキ書の3章、8節から10節をお読みしましょう。 これは、多くの教会で導入されている、「什一献金」の根拠とされているみことばです。しかしこれは、収入の十分の一を形式的に、宗教的にささげればそれでよし、ということではありません。ここでは、「なぜ」主を試してみよということになるのか、それを見てみましょう。 それは、主が民を祝福することを願っておられる、ということです。しかし民は、主に従順に従うことをせず、本来は主のものとしてささげられるべき十分の一のささげものを自分のものにするなど、自分かって、自分中心に生きていました。 神さまはしかし、この民が立ち帰るように耐え忍ばれ、ご自身の祝福の交わりを分かち合うように道を開いていらっしゃいます。十分の一のささげものをもってわたしに従順になってみなさい。試してみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。わたしはあなたがたをあふれるばかりに祝福しよう。 そうです。主は、ご自身の民を祝福してくださることによって、ご栄光をお受けになります。ご自身の民を祝福されることは、みこころの中のみこころなのです。問題はそのことを、肝心の主の民がわかっていないで、不信仰と不従順を繰り返している、ということです。そのような神の民に向けて、あなたを祝福するかどうか、わたしを試してみなさい! 主はこのようにおっしゃいます。 この生き方は、マサのできごとで戒めとなった「主を試みること」とはまるで違うことをご理解いただけると思います。ギデオンにとっては、主に選ばれ、主に用いられることがみこころである以上、主に求めたとおりのしるしは起こされたのです。また、マラキの言ったとおりの祝福を、主に求める者は受けるのです。 以上のことから、私たちはこのご時世においていかに祈るべきかを考えましょう。 私たちが神さまに求める祈りは、どのような動機でなされているのでしょうか。自分の欲望のために神を利用するのか、神さまのご栄光を求めて祈るのか。マサのできごとをはじめ、出エジプトの途上で神さまに不平を鳴らしたイスラエルの民の「祈り」は、自分の欲望のための祈りでした。神さまはそんな人間を憐れんで、祈りを聞いてくださることもありますが、しかし人間の側が、「神を試みる」罪を犯したことには変わりはありません。 しかし、イエスさまを信じる信仰が与えられ、主のみこころが何であるかを御霊によって悟らされるべく、日々へりくだって主の御前に進み出る者たちの祈りは、そうではありません。神さまがこの世界を「なぜ」祝福し、「なぜ」癒そうとしていらっしゃるか、知っています。私たちはそれが「みこころだから」ということを知っています。そのみこころを握って祈るのです。神さま、あなたさまは私たちを祝福することがみこころではないですか! 私たちを癒されることがみこころではないですか! そのみわざを私たち神の民に施してくださることによって、あなたさまはご栄光をお受けになるのではないですか! 私たちを癒してください! そう信じて主のみわざを求めて祈ることは、罪ではありません。そればかりか、主のご命令です。 コロナウイルスという災厄が取り去られることは、私たちにとって悲願でしょう。では、なぜ悲願なのですか? 神さま抜きの楽な生活を味わえるようになるためですか? もしそれが願いならば、私たちの祈りは、自分の欲望に神さまを用いる、神さまを試みることにほかなりません。 そうではなくて、神さまのみこころは回復にある、いやしにある、祝福にある……私たちはそのように、主がみわざを行われ、御名があがめられることを願って、祈るのです。 ゆえに、コロナウイルスから、あらゆる病気や事故から、人間関係の葛藤から、サバクトビバッタから、山火事から、大地震から、放射能から、マイクロプラスチックから、主がこの世界を救い出してくださることはみこころであり、そこに全能の御手を伸べてくださることを信じて、祈るのです。目的は、神さまがみわざを行なってくださることにより、神さまの御名があがめられるためです。 私たちはギデオンの祈りを、無茶だとか、途方もないなどと言って片づけてはなりません。祈りとはそもそも、すべてが無茶なものです。人間業では不可能なことが叶えられるようにと、本気で願うことだからです。しかし、私たちの祈る対象は全能なる神さまです。私たち神の民を祝福するというみこころのゆえに、みこころにかなってどんなことでも成し遂げてくださいます。信じますか? そのようにみわざを主が成し遂げて、私たちを祝福してくださるとき、そこには主のご栄光が顕れ、私たちは主の御名をほめたたえ、主にすべてのご栄光をお帰しするのです。祈りをもって、主にすべてのご栄光をお帰しする私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 では、ともに祈りましょう。 聖歌511/献金 讃美歌391(お手元に献金をご用意ください)/頌栄 讃美歌541/祝福の祈り「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン」 」