祈りは聞かれるから

聖書朗読;ヨハネの福音書11:38~45/メッセージ題目;祈りは聞かれるから  みなさんにお伺いしたいと思います。みなさんにとって、祈りとは何でしょうか?  今も心痛む、忘れられない想い出をお話しします。それは私が大学生のときのことで、ある人から別れ際に、こんなひと言を言われたのでした。「いいか、よく覚えておけ。祈りは、演技だ!」それまで私は彼のことをクリスチャンと思ってつき合い、つい今しがた、別れる前に彼の祝福を祈ったばかりでした。そして返ってきたことばがこれでした。「よく覚えておけ、祈りは、演技だ!」  私も若くて、どう言い返せばよいかわかりませんでしたし、それに彼は、ストレートに福音を受け入れるには、あまりにも傷が深い人でした。そういう状況で聞いたことばであることを割り引いても、そのとき聞いた「祈りは、演技だ!」ということばは、28年経った今も、ときどきに私の心の中で首をもたげてきます。  みなさんならば、大事にしている人から「祈りは、演技だ!」と吐き捨てるように言われたら、どう答えますか。ほんとうに、祈りとは演技にすぎないものなのですか。実を申しますと、私は今に至るまで、彼に対してその答えを言ったことはありません。振り返ってみると、私の人生は祈りが応えられたことの連続でしかなかったのですが、それを言ったところで、もし今もなお彼が考えを変えていなかったとしたら、彼はけっして私に起こされた祈りの応答など認めないでしょう。私がどう祈ろうと、それは演技なのでしょう。  彼がそう思うのは、しかたないのです。第一コリントに書かれているとおり、御霊のことは御霊によってわきまえる、とありますが、最初から御霊のわざなる祈りというものを疑ってかかるならば、祈りというものほどリアルなものはないこと、祈りは実に愛にあふれた神さまとのコミュニケーションであることを、わかるわけがなく、演技と見なす自分を正当化するばかりでしょう。なぜなら、不信仰であることをやめないことにより、御霊の導きが自分に臨むことを拒否しているからです。  でも私たちは、祈りというものを身近にした生活をしていますでしょうか? 早い話が、祈っていますでしょうか? あなたのしていることはしょせん演技です、などと言いがかりをつける人が現れたとしても、少なくとも私たちの心の中は平安でしょうか?  本日のみことばは、その真ん中の部分に、イエスさまが御父にお祈りすることばが出てまいります。まさしく、祈りです。しかしこの祈りは、兄弟ラザロを生き返らせてくださいとイエスさまにすがった、マルタとマリアの声なき声の祈りに応えられての祈りであると言えましょう。 本日の箇所から、私たちにとって祈りとは何か、受け入れていただける祈りとは何か、ということを、ともに学んでまいりたいと思います。 イエスさまは憤っておられました。アダムの堕落以来、人を悲しみに陥れる死というものがなお人の世界を支配している現実……イエスさまはこの、死というものへの怒りをいだいておられたのでした。 この怒りはまた、よみがえりであり、いのちであるイエスさまのご存在を見えなくさせてしまうほどの死の持つ力に対する怒りとも言えました。この怒りに私たちは共感できないでしょうか?  あれは私が大学生のときでしたが、芸能界のおしどり夫婦として知られていたあるカップルの、奥様が亡くなったときのことです。奥様はクリスチャンで、教会でご葬儀をした様子までワイドショーで報道されていました。私も知っていた教会だったので、ちょっと驚いたものでした。それはともかく、その教会でインタビューに応じていた旦那さんが、口元に笑みさえ浮かべながら、「妻はいま天国にいますから」と答えていらしたのが、とても印象的だったものでした。 しかし、ワイドショーのコメンテーターは、こんなことを言うのでした。「天国にいますから、なんておっしゃるそのおことばに、とても深い悲しみが感じられました。謹んでご冥福をお祈りいたします。」私は旦那さんの平安に満ちた表情を見て、すこしも悲しみをこらえた様子が見えなかっただけに、このコメンテーターのコメントは的を外れていると思い、天国の福音をちゃんと伝えようとしないワイドショーのあり方に、怒りを覚えたものでした。しかし世の中とはそういうものです。永遠のいのちなるイエスさまがわからないものだから、天国よりも死のほうをよほど現実的に捉えてやまないのです。 それは、ここにいる人たちも同じでした。いのちなるイエスさまがここにおられるというのに、イエスさまが見えず、ラザロの死という現実の前に打ちのめされて、泣いていました。そして、一度は正しい復活信仰を持ったマルタさえも、揺れ動いてしまいました。   新約聖書のヤコブの手紙を読んでみますと、私たちが祈るとき、少しも疑わずに信じて願いなさい、疑う人は風に吹かれて揺れ動く海の大波のようであり、そういう人は主から何かをいただけると思ってはなりませんと書かれています。この箇所は明らかに、イエスさまの呼ぶ声にこたえると湖の上を歩けた、しかし波を見ると急に怖くなって、そのとたんおぼれかかった、ペテロのことを念頭に置いていると言えるでしょう。   湖の上など渡れるわけがない、これが常識です。しかし、イエスさまのみわざはときに常識を超える、なぜならばイエスさまは全能なる神さまだから……その信仰を働かせるとき、主が私たちのただ中にみわざを起こしてくださる余地が生まれます。  マルタはついさきほど、イエスさまがラザロを実際によみがえらせてくださると信じ受け入れたばかりでした。しかし墓を前にすると、マルタのその信仰は揺れ動きました。死んで4日経った、そんな人は生きているはずなどないという現実的な考えに圧倒されました。その考えは、イエスさまが全能なる神さまであることを忘れさせてしまうのです。  この病気は治らない、この人間関係はもう修復できない、このあやまちからはもう立ち直れない……常識というものは私たちの実生活を支配しますが、それは何のためでしょうか? そのために私たちが絶望するしかなくなったならば、罪責感たっぷりになって自分を責めるしかなくなったならば、そんな常識など何の役に立つのでしょうか? しかし、こういうときに私たちは、祈ることができるのです。私たちにできないことを、全能なる神さまが必ずしてくださるという信仰を働かせるのです。  私たちはときに、常識という現実の前に圧倒されます。このときのマルタがそうだったようにです。しかし、イエスさまはマルタになんと語りかけられましたか? 40節です。主は、私たちが不信仰だからとおさばきになり、もう知りませんとお見捨てになることはけっしてありません。私たちの信仰が弱いことをご存じの上で、強い信仰へと成長させてくださいます。 要は、私たちがあきらめないことです。マルタは確かに揺れ動いていましたが、それでもイエスさまを呼び寄せるだけの信仰の行動はありました。イエスさまはマルタの信仰を表面的に評価することはなさらず、その奥底の心を汲んでマルタの信仰を一段と成長させてくださったのでした。 私たちも、心で信じたならばそれ相応の行動が伴ってしかるべきでしょう。しかし、信仰というものはいわば「内的衝動」とでも言うべきものであり、ほんとうに信じた人の中には、主のために何かせずにはいられないという衝動が大きくなり、行いという形で実を結ぶものです。 でも、このようなことを申しますと、自分は主のために何もできていない、と、落ち込む方がいらっしゃるかもしれない、と心配にもなります。しかし大丈夫です。問われる思いがあるならば、それは主がそれぞれの殻を破るように信仰を成長させてくださる前段階(ぜんだんかい)にあると考えるべきです。私たちは弱さを弱さとしたままで落ち込んでそれで終わりにするのではなく、弱さを強さに変えてくださる神さまに祈って、変えていただくのです。ここに、私たちは信仰を働かせるのです。 さて、それでは、イエスさまが祈りを聞いてくださるとはどういうことなのかを、41節、42節から考えてみましょう。お読みします。 ここでイエスさまは、御父がイエスさまの願いを聞いてくださったことを感謝しています。これこそが、祈りというものです。おわかりでしょうか? 祈りとは、イエスさまが御父に願うことです。 私たちはお祈りするとき、「イエスさまの御名によって祈ります」と言ってお祈りを締めくくります。これは、単なる決まり事とか、習慣のようなものではありません。お祈りはイエスさまの御名によって祈らなければ、御父に届かないのです。 人間は、神的な存在に対して祈ります。ギリシャ語で人間とは、アンスローポスといいますが、これは「上を見上げるもの」という意味で、人間とはみな宗教的な存在であることが暗示されています。だから人は祈ります。しかし問題は、「イエスさまの御名によって祈っているか」ということです。イエスさまの御名によって祈り、その結果として祈りが父なる神さまに届いているかということです。 もし私たちがイエスさまの御名によって祈るなら、その祈りの内容は、イエスさまが御父に祈る祈りと一致している必要があります。そうするとき、私たちの祈りははじめてかなえられるのです。私たちの肉的な欲望、願望が、いくら祈ってもかなえられないのは、それが、イエスさまが御父に祈るべき祈りの内容ではないからです。 そうだとすると、私たちの祈りは、なんと形式的なものに終わっていたり、自己中心だったりして、イエスさまの祈りに一致していないことが多いことでしょうか! それは単にことばを羅列しているだけで、神さまとのコミュニケーションという意味でのお祈りにはなっていないのです。もちろん、かなえられるはずもありません。 もっとも、みこころにかなうお祈りというものは、かなえられるかどうかで判定されるものではありません。イエスさまご自身がそうでした。ゲツセマネの園で苦悶の中で、この杯をわたしから取り除けてください、と御父に祈られたお祈りは、結果として十字架にかかられたということを見ると、かなえられたわけではありません。 しかし、このお祈りは、十字架という主のみこころが成るうえでどうしても必要なお祈りでした。イエスさまのこのお祈りは、かなえられなかったお祈りだったからといって、ふさわしくないお祈りだったのではありません。 私たちにしてもみこころにかなう祈りであると知ってもそれがかなえられないからと、失望してはなりません。祈りつづけることです。家族の救い、病気のいやし、教会の成熟、人格の成長……みな、みこころにかなっています。一朝一夕にかなえられなくても、祈りつづけることが大事です。 ともかく、祈りというものは、どんな祈りであっても、聖霊なる神さまの導きの中でささげるべきものです。聖霊の導きに敏感になるなら、私たちの祈りはイエスさまの祈りと一致した、的を外さないものへと整えられていきます。祈りが整えられるためには、まず祈ることです。そして祈りのうちに、私たちのすべてを、聖霊さまの導きに明け渡すことです。 御霊に満たされなさい、というみことばがあります。御霊は私たちクリスチャンを、いつでも満たしてきよめようとしてくださっているのです。みこころにかなうものへと整えようとしてくださっているのです。要は、私たちが御霊の導きに明け渡すかどうかです。御霊の導きに明け渡すならば、私たちの祈りは、イエスさまが御父に祈られる祈り、すなわち御父が聞き届けて栄光を顕してくださる祈りへと整えられます。 さきほど、若き日の私に向かって「祈りは演技だ」と言い放った人のことを言いましたが、これはもしかすると、耳に痛いことばとして受け取るべきなのかもしれません。思い返せば、私はなんと、形ばかりの、それこそ演技のような祈りをすることで済ましてきたことかと、悔い改めさせられるものです。そのような通り一遍のことばの羅列で祈ったような気分になっていたとき、聖霊なる神さまはどれほど悲しんでおられたことか、それを思い起こすなら、私はどれほど悔い改めなければならないことかと思います。 私たちの祈りは果たしてどうでしょうか? 私たちの祈るそのお祈りを、イエスさまがまったく同じことばで、父なる神さまに祈っておられる姿が想像できますでしょうか? 恥ずかしくならないでしょうか? はたして、私たちの祈りのことばはふさわしいでしょうか? しかし、イエスさまの御名で祈るにふさわしいお祈り、みこころにかなう祈りなら、イエスさまがそのとおりを御父に祈られ、御父は聞いてくださいます。ラザロをよみがえらせるのがみこころであったように、私たちにみわざを起こされるのがみこころなら、すなわち、そのみわざにより、私たちを通してご自身の栄光を顕してくださるのがみこころなら、必ず私たちの祈りは聞かれます、信じて、祈ってまいりたいものです。 さあ、イエスさまは祈られたあと、何とおっしゃったでしょうか。43節です。……この命令のことばに応えて、ラザロが出てきました。生き返ったのです! 特に44節の表現に注目しましょう。ラザロ、とは書いてありません。死んでいた人、という表現をしています。この表現は、ラザロが特にイエスさまに愛されていたからよみがえるということではなく、死んでいた人はだれもがイエスさまに引き出されるならばよみがえる、ということを暗示しています。イエスさまとはまさしく、死んでいた人をよみがえらせるいのちの主なるお方だということです。 私たちも、罪と罪過の中に死んでいた者でした。しかしあわれみ深いイエスさまは、罪からの報酬である死の中に閉じ込められていた私たち、まさしく、死んだ者が閉じ込められた墓の中にいたような私たちに、「出てきなさい!」と大声で呼びかけられ、死からいのちに移してくださいます。 もう私たちは死んではいません。永遠のいのちに生かしていただいています。しかしこのように贖っていただいた今、かつての自分の姿を考えてみましょう。私たちはどれほど死んでいたことでしょうか? どれほど神さまと断絶して、自分でも何をしているかわからないまま生きていたことでしょうか? しかしイエスさまは、そんな死につながれていた私たちのことを、「出てきなさい!」と、呼び出してくださったのです。 ラザロは最初、布に巻かれたままでした。この時点ではまだ、生き返った死体です。イエスさまはこの布をほどかせました。こうなるとラザロはもう、生き返った死体ではありません。生きているラザロです。 ラザロのその生きる姿は、イエスさまがよみがえりであり、いのちであることを証しする姿そのものとなりました。このラザロを見てユダヤ人たちはイエスさまを信じましたし、のちに生き返ったラザロを一目見たいと、ユダヤ人たちがぞろぞろとやってくることにもなりました。 そうです、罪と死のただ中から「出てきなさい!」と呼び出された者は、いのちに生き生きしてしかるべきです。その姿は、いのちなるイエスさまを証しし、こんな素晴らしい生き方があるだろうか、なんと素晴しいのだろうか、と、人を惹きつけてやまないのです。 こんなふうに生きる祝福が約束されているのならば、私たちは用いていただくべく、祈らずにはいられなくなりませんでしょうか? 主よ、ここに私がおります、用いてください、と祈る祈りは、間違いなく、イエスさまが御父に祈られるにふさわしい祈りです。 私たちは、もはや不信仰ではいられません。形だけの祈りをささげて済ましてはいられません。死んでいた私たちに直接大声で「出てきなさい!」と呼びかけ、永遠のいのちを与えてくださったイエスさまの御声が、今も聞こえますか? もう一度信仰を働かせ、祈りましょう。 私たちが祈るのは、祈りは聞かれるからです。いまともに生きておられる神さまは、私たちを死からいのちに移してくださった贖い主です。このお方に、みこころにかなうお祈りをささげるならば、必ず聞かれます。不信仰を信仰に変えていただき、死からいのちに移していただいた恵みに感謝して、祈りましょう。