恵みの契約 前篇

聖書箇所;創世記17:1~8/メッセージ題目;恵みの契約 前篇  本日から、長らくお休みしていたアブラハムのお話を、半年ぶりに再開します。これまではコロナウイスル流行の非常時を意識して、祈りとは何かという主題に集中したり、ヨハネの福音書のみことばを連続して学んだりしました。 しかし、もうここまで来てもコロナウイルス流行は収まる気配がなく、「ウィズコロナ」でいくしかないようで、そうなったらもう、特別バージョンなどと言っている場合でもありません。あらためてメッセージを通常運転に戻し、創世記の学びを再開したいと思います。 本日の箇所は、アブラハムが神さまと結んだ契約に関する場面です。私たちは神さまと契約を結ぶということを、聖書に書かれているアブラハムをモデルにして学ぶことができます。 モデルとしてのアブラハムの存在に注目しましょう。聖書においてアブラハムの存在が、きわめて基礎的な位置を占めるということは、みなさんもご存じのとおりです。聖書はなぜ、アブラハムのことをこれほどまでに語っているのでしょうか? 主はみことばによりアブラハムの姿を私たちにお見せになっています。そのことにより神さまは、ご自身と契約を結ぶ者はこのようである、ということを示され、その恵みの中に入ることの素晴らしさを私たちに教えてくださっています。  アブラハムはどんな状態で神さまと契約を結んだのでしょうか? それは創世記12章から16章までのみことばに書かれているとおりです。 アブラハムは神さまの御声にしたがって、父祖の地を離れて遠い旅に出ました。それは、信仰的に大胆な冒険に出たということで、素晴らしいことです。その旅の途上で、アブラハムは甥のロトを伴っていましたが、別れて別々の道を行くことになったとき、アブラハムはロトに、とても潤った良い地を選択させました。若い者にチャンスを与えた上に自分は譲るような、そういう意味で人格者です。 しかしその新たな土地で、ロトは敵に攻められて窮地に陥りました。アブラハムはそのことを聞くと、自分の群れの屈強な者たちを引き連れて敵と戦い、ロトを助け出しました。アブラハムはそういうわけで、身を挺して犠牲を払い、人のために生きることを知っている人でもあります。 それだけではありません。アブラハムは、その戦いに勝利した感謝を、いと高き神の祭司メルキゼデクに、戦利品の十分の一をささげることで表明しました。アブラハムはそういうわけで、敬虔な信仰者としての姿も示しました。アブラハムの生涯はなんとも、褒められることの多かった人です。  しかしその一方で、アブラハムは、まるで証しにならないことも多くした者でした。ききんを避けて妻とともにエジプトに落ち延びたとき、アブラハムは、自分がエジプトの権力者に殺されないようにと方便を使い、妻サラをエジプトのファラオに召し入れさせるがままにしました。これは言わば、妻を売ったという行為です。 もちろん、神さまは特別な計らいで、サラのこともアブラハムのことも助け出してくださいましたが、それにしてもアブラハムはとんでもないことをしたものでした。 それだけではありません。アブラハムは、神さまが必ずアブラハムに子孫を与えてくださるというその約束を待ちきれなくて、召使のハガルとの間に子どもを設けました。おかげで、サラとの間に葛藤が生じ、サラがハガルのことを苦しめるがままにさせ、結果としてハガルをいたく傷つけました。 そのように私たちがアブラハムを見ると、いったいこれが信仰の人だろうかと疑わしくなる行動も見られます。しかしさきほども申しましたとおり、アブラハムは一方で、とても素晴らしい行いもしているわけです。しかしそれなら、アブラハムはそのようなよい行い、正義の行動で神さまとの契約を勝ち取ったのでしょうか。決してそうではありません。良い点、褒められる点もたくさんあった一方で、とても褒められない行いをしてもいます。 一般的には、人が神的な存在に認められるためには、よい行いを積み重ねるだけ積み重ね、悪い行いをしないようにしよう、となるでしょう。しかし、それはだれにもできないことです。人はどこかで罪を犯すものです。きよい神さまがその罪をご覧になるかぎり、救われる人など、この世界には一人もいません。 アブラハムが神さまと契約を結んだ理由は、罪を犯しているかどうかという、そういう基準で見るべきではありません。アブラハムが神さまと契約を結ぶことができたのは、行動の良し悪しを神さまが判断されたこととは関係なく、ただ、神さまが契約にふさわしい存在として、選んでくださったからです。  この救いに定める選びを、聖書は、恵み、と呼びます。まことに、神さまが契約を結んでくださるのは、人の行いではなく、神さまの恵みゆえです。神さまの恵みをいただいた人は、素直に神さまを信じる信仰を持たせていただけます。神さまがこの罪深い私のために、ひとり子イエスさまを身代わりに十字架にかけてくださった、そのことを信じるだけ……それで自分は神さまに充分に受け入れていただける……この素直な信仰が与えられます。  さて、神さまがアブラハムとの間に立てられた契約はいかなるものかが、この17章で語られています。まず何とおっしゃったでしょうか? 1節です。 「わたしは全能の神である。」まず、神さまのこの宣言に始まります。すべては、神さまがすべての上に君臨される全能なるお方であると認め、そう告白することから始まります。 私たちにとっての信仰は、「キリストを信じる」、すなわち、キリストに信頼してお従いする、神との交わりの歩みです。形だけの宗教として「キリスト教」という宗教を信じるのではありません。 神との交わり。この、神との交わりの歩みをするためには、何よりも、私たちのお従いするお方が全能の神であるということを信じ受け入れ、そのように告白することが大前提となります。礼拝のたびに唱和する、「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と、私たちが告白するとおりです。 では、この、全能なる神さまは、アブラハムに何をお求めになったのでしょうか?「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」いつ、いかなるときにも、神さまとの健全な関係を保ち、その御前に徹底して生きることをお求めになりました。 ここで神さまが要求された「全き者であれ」ということは、道徳的に、宗教的に完璧であれ、とおっしゃったのではないことに、注意する必要があります。それは不可能なことです。 私たちのあるべき「全き者」という姿は、「完全」ではなく、言ってみれば「健全」です。「健全」という意味での「全き者」ということです。あなたはわたしの前に健全でありなさい。そのようにお命じになった上で、神さまはアブラハムと契約を結ぶことを宣言されたのでした。 健全ということは、神さまとの関係が正しく保たれている、ということです。まことのぶどうの木であるイエスさまとそのみことばにいつもとどまり、そのみことばを守り行う生き方、よい実を結ぶ生き方をいつも目指していく、そういう人になれるように祈る……そういうことが私たちに求められているわけです。 聖書の本文に戻ります。神さまは今後アブラハムがどのようになるとおっしゃったのでしょうか?「あなたを、おびただしくふやそう。」 このおことばには、神さまがアブラハムに奇蹟を起こして、アブラハムから肉の子孫を増やしてくださるという意味ももちろんあります。しかしもうひとつ、アブラハムのように、神さまとの健全な関係を保って幸せに生きる「信仰の人」を増やしてくださるという宣言でもあります。 「信仰の人」とはほかならぬ、信仰によって神さまの子どもとしていただいた、すべてのクリスチャンのことで、当然、私たちも含まれます。だからこそアブラハムは私たちにとって「信仰の父」となるのです。 それでは、神さまはこの約束を成し遂げるために、アブラハムに何をしてくださったのでしょうか?   まず、彼の名前を変えてくださいました。それまで彼はアブラムという名前でしたが、それがアブラハムとなったのでした。この名前はなんといっても、神さまご自身が名づけられた名前です。 名は体(たい)を表す、ということわざがあります。名前というものは、その人そのもの、その人のすべてを表しているといえます。神さまが、過去の名前を捨てさせ、新たな名前を直接名づけられたということは、神さまがアブラハムのことをまったく新しい人生に導かれた、ということを意味しています。 神さまが直接名づけられたアブラハムという名前は、私たち神の民すべてにとっても重要な意味を持ちます。 有名な、コリント人への第二の手紙5章17節のみことば、これは、このようなみことばです。暗唱できる方は暗唱しましょう。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」   アブラハムは、神さまによって新しい名前が付けられたことが象徴するように、まったく新しくされたのでした。では、アブラハムはどのように新しくされたのでしょうか? これもまた、名は体を表す、ということわざのとおりですが、アブラハムという名前の意味を考えれば、神さまがどのようにアブラハムを出発させられたかがわかります。  アブラハムのもともとの名前は、アブラムといいました。アブラムの意味は、「高貴な父」、「高められた父」という意味です。これに対してアブラハムは、「多くの国民(くにたみ)の父」という意味になります。 名前の語感はとてもよく似ていますが、「アブラハム」という名は、「アブラム」という名のほんとうの意味を、さらにはっきりとさせています。神さまが彼をアブラハムと名づけてくださることにより、なぜ彼がもともと、「高められる父」だったのか。彼から多くの国民(くにたみ)、数えきれないほどの神の民が生まれ出てくるから、その意味で「高められる父」だったのです。 アブラハムに与えられた新しい名は「多くの国民の父」でした。まさに、主を単純に信じる信仰を持つ者がまことの神の国の民となるということを、神さまはアブラハムと契約を結ぶことによって示してくださったというわけです。私たちは、アブラハムにつづき、信仰をもって神さまと契約を結んでいただいた存在、天国の民です。 私たちは、イエスさまの救いをいただいて、天国に入れていただき、永遠のいのちをいただきました。その天国の民としてのアイデンティティをもって、私たちはこの地上の生活、神の栄光を顕す生活をしていくように召されています。    さて、聖書本文のアブラハムをつづけますが、主は、アブラハムから生まれる神の民から、王たちが生まれると語られました。この預言のとおり、のちの時代においてダビデ王をはじめ、多くの王が生まれました。また、カナンの地を永遠に所有するとも語られました。   これらのみことばは実際には、どのような形で実現したのでしょうか? 神さまを信じる信仰を持つ者として、数えきれないほどの神の民が生まれました。 彼らのことを聖書は、ヨハネの黙示録22章5節にあるとおり、「彼らは世々限りなく王として治める」と語っています。また、ペテロの手紙第一2章9節にあるとおり、「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です」とも表現しています。 そうです。神さまは私たちのことを王として扱ってくださっているのです。そうです、私たちは王なのです。私たちはいま自分のことを見て、貧しいなあ、とか、弱いなあ、と思ってはいないでしょうか。神さまの宣言に立ちましょう。私たちは王です。この地を祈りによって統べ治める王さまです。このことを忘れないでいたいものです。 そして、この信仰の民である私たちに対し、永遠の王である私たちに対して、神さまは、永遠に受け継ぐ地を与えてくださいました。それは、天にある御国です。 アブラハムは、カナンの地を受け継ぐという神さまの約束をいただきました。その約束のとおり、アブラハムが神さまと契約を結んではるかのちの時代に、イスラエルの民は、約束の地カナンを所有しました。ただ、その地を所有するために、イスラエルは戦いを経験することになります。 その、カナンを奪い取るための地上の戦いは、いわば、私たちが努力して狭い門より入り、天の御国に定住するための戦いを比喩していると言えます。こんにちを生きる私たちにとっての戦いは、血肉に対するものではありません。血肉に対する戦いは先週もお話ししたとおり、イエスさまがはっきり否定されたことです。 そうではなく、私たちにとっての戦いとは、サタンとその支配下にある悪霊どもの支配から、この世の捕らわれの民を奪還する戦いです。それは逆説的ですが、隣人を愛する愛をもって平和をつくり出す私たちのたえざる努力によってなるものです。それが戦いです。 この戦いに召されている者とは、それは神さまの一方的な恵みによって、全能の神さまに対する信仰を持たせていただき、神さまとの間に永遠のいのちの契約、罪の赦しの契約を結んでいただいた私たちです。私たちはいま一度、神さまが結んでくださった契約の意味を考えたいと思います。 私たちの行いは何一つ誇れません。私たちが誇るべきは、一方的なあわれみと愛で私たちを神の子どもとして召してくださった、イエスさまの、十字架です。今日このとき、イエスさまの十字架をもって私たちといのちの契約を結んでくださった主の恵みを覚え、主の恵みに思いを巡らしましょう。 主の御前に健全な信仰を保ちますように、新しい存在とされているにふさわしい、肉の生き方を脱ぎ捨てた生き方へと踏み出していけますように、この世を祈りをもって統べ治める王の働きをもって、この世に捕らわれている人々を悪の手から奪還する戦いに打ち勝つべく、祈りとみことばをもって主にお従いする私たちとなりますように……。 しかし、すべては主の恵みを受け取り、主の恵みにお応えするゆえに実践すべきことです。恵みにいかにしてお応えできるか、主の導きを求める祈りをささげてまいりたいと思います。