現代のティキコ、それは私たち

聖書箇所;エペソ人への手紙6章21~24節 メッセージ題目;現代のティキコ、それは私たち  暑い夏にぴったりのみことばを、ひとつご紹介します。箴言25章13節のみことばです。……言うべきことを忠実に伝言してくれる人がもしいるならば、それはその人にとってとてもすばらしいことです。    私たちにもそんな人がいるといいですね。パウロにはいました。それが、今日学びます、ティキコという人です。このティキコという人は、それこそ、夏の雪のようにすごい役割を果たしたわけです。夏に行きが味わえるということは、ただ爽快というだけではありません。ありえないようなことです。この、ありえないような恵みをもたらしたティキコについて、そして、このティキコの人となりから学べることを、これから見てまいりたいと思います。    第一に、ティキコはパウロと初代教会をつなぐ人となりました。  ティキコは脇役です。黒子です。しかし、私たちにみことばの教えが届くうえで、大きな役割を果たした人です。21節をご覧ください。……パウロはティキコのことを、主にある忠実な奉仕者であると、わざわざエペソ教会に向けて紹介しています。このティキコがエペソ教会にとって大事な存在であるパウロのことを伝えるということは、それは同時に、このエペソ人への手紙という書簡を言づけされていたことを推測させます。同じようにパウロが書簡の巻末でティキコのことに言及しているものには、コロサイ人への手紙、テトスへの手紙、テモテへの手紙の第二があります。   獄中のパウロが万感の思いをこめて書いた手紙を、パウロの指導してきた教会や弟子に届ける、それは、よほど信頼されていなければできないことです。パウロは獄中という限られた空間の中においても、ティキコがその任を全うできると見抜き、彼にすべてを任せたのでした。その結果、私たちはいまこうして、聖書を手にすることができているわけです。   パウロにしても、獄中ではなくて自由の身であったならば、それだけ人々にみことばを伝えて回り、より効果的に教会や指導者を訓練できたかもしれません。しかし、パウロは福音の正しさを立証する道を歩み続けた結果、こうして獄につながれることになったわけです。こうしてつながれることは、パウロにとっては避けられない道でした。   しかし、パウロは獄につながれようとも、愛をもって育てた教会や指導者を養育する道が残されているかぎり、最善を尽くしました。そのパウロのことばが届くために働いた無名の人、それがティキコでした。   ティキコのしたことは一見すると、パウロのしたことに比べるととても地味なもののように思えるかもしれません。しかし、彼のしたことは、パウロの手紙を忠実に、教会や指導者に送り届けたということです。   パウロの書簡の巻末の部分を見てみると、だれだこれは? というような名前が結構登場します。たとえばローマ書を見てみると、すごいです。プリスカとアキラは使途の働きとか、ほかの箇所に出てきたからまだ知っているとして、エパイネト、マリア、アンドロニコ、ユニア、アンプリアト、ウルバノ、スタキス、アペレ、アリストブロ、ヘロディオン、ナルキソ、トリファイナ、トリフォサ……。   まだまだ続く、ここ以外には出てこない名前が、これでもか、これでもか、と書かれています。しかし、こういう信徒たちがローマ教会を支え、それがこのローマ人への手紙を書く原動力になったと考えるならば、彼ら無名の信徒たちの存在は、実は私たちと関係があることになります。私たちがみことばによって生かされるというとき、その背後にはこのような無名の信徒たちがいたことを、私たちは忘れてしまうそうになりますが、彼らの存在は使徒パウロにとって、かけがえのないものでした。   私たちは、無名であっていいのです。要は、主に用いられるかどうかです。新約聖書、コリント人への手紙4章、1節と2節をお読みください。……パウロは、初代教会の指導者のチームを指して、「神の奥義の管理者」と言っています。その管理者になる資格は「忠実であることと」というわけです。そういう点では、諸教会や指導者に手紙を届けたティキコも立派な初代教会指導者チームの一員であり、パウロが「忠実」と太鼓判を押すだけのことはあるわけです。   有名じゃない、黒子のようだった、しかし忠実だった、そういう人によって、こんにち私たちが手にしているように、神のみことばである聖書を読めていることを、私たちは深く心に留め、そのような人を備えてくださった神さまに感謝をおささげしたいものです。    第二のポイントにまいります。ティキコは現代の働き人のモデルです。 ティキコは、パウロの様子を伝えただけではありません。23節、24節をご覧ください。……この祈りをもって締めくくられるエペソ人への手紙を、過不足なくエペソ教会に届けたことにありました。   ほんとうの働き人は、ほかでもない、みことばをこそ届ける人です。私たちの信仰生活は、たとえ有名ではなかったとしても、忠実にみことばをもって神と人とに仕える、多くの人の支えによって成り立ってきました。中には、名前さえ挙げられない人もいるかもしれません。しかし、そういう日本中、世界中の、あらゆる歴史に存在した有名無名の聖徒たちによって、私たちは支えられてきました。    私たちにもだれか手本になる人がいると思います。それは有名人である必要はありません。要は、私たちにとってのティキコがだれなのかを思い、その人との交わりの中で神さまに育てられることが必要です。   私たちにもだれかそのように、信仰を保つように祈ってくれた人、働きかけてくれた人がいるのではないでしょうか。ちょっと思い巡らしてみましょう。それはだれでしょうか? 有名な牧師のような実力者でなくてもいいのです。無名であっても信仰を支えてくれた、そのような方の存在はどんなにありがたいでしょうか。そういう方々に支えられてキリスト教会は成り立ち、私たちは成長するのです。このような方々を備えてくださった神さまに感謝いたしましょう。    第三のポイントです。ティキコは私たちのモデルです。 このエペソ人への手紙は、「恵みがありますように」ということばで締めくくられています。そうです、だいじなのは恵みです。私たちが救われ、神の子どもとなっていることは、ひとえに神さまの恵みによるものです。私たちが何かいい人であったり、努力をしたりしたからではありません。   エペソ人への手紙の中から、一箇所、だいじなみことばを抜き出すとしたら、どこになるでしょうか。それはおそらく、2章の8節と9節です。お読みしましょう。……これこそがクリスチャンです。恵みのゆえに、信仰によって。神からの賜物。賜物とは、プレゼントです。   私は一時期、トランプをたくさん持っていました。教会の子どもお楽しみ会などでかなり分けましたが、それでも手もとにはまだいくつか残っています。なんでこんなにたくさんトランプがあるのでしょうか? それは、トランプのコレクションが趣味の友人からもらったからです。   このあいだ、山中先生がこちらにいらっしゃったとき、私は山中先生と一緒にその友達に会い、伝道しました。そのとき、恵みということを説明するとき、私はこんなことを言いました。もし君がくれたトランプの値段をいちいち僕が計算して、じゃあ、これだけ払うよ、と、財布からお金を取り出したらどう思うかい。彼は、そんなのはいやだ、と、はっきり言いました。プレゼントにお金で応えてはならないのです。同じことは、救いというものにも言えることで、何かの努力の報酬として救われるのではありません。人は罪人ですから、罪がある以上、何をどうしても聖い神さまのもとには行けません。   神さまは人を愛しているから、さばきたくない。しかし、人には罪がある以上、きよい神さまは罪をさばかなければならない。その神の愛と神の正義を同時に実現したものが、イエスさまの十字架でありました。   このイエスさまの十字架を信じる信仰により、私たちは救いを受け、天国に入れていただけるのです。このプレゼントは、ただ受け取るだけでいいのです。何の努力もいりません。   このような恵みを受け取った者として、その恵みがあるように人のために祈る、また、その恵みのみことばを人に伝える、その働きを担うことは、難しいことではありません。私たちはだれかを愛しているならば、その人に主を信じる恵みがあるように祈るのではないでしょうか? その人が恵みのみことばを受け取れるように、努力できるようになるのではないでしょうか?   私も、講壇から語るメッセージが、難しくなりすぎないようにしなければ、と思います。予告しますが、9月からは創世記を1章から学びます。メッセージの仕方ももっとわかりやすくする取り組みもしていくつもりです。私は有名な牧師などではありませんが、ティキコのように、無名だけれども忠実、これを目指していきたいのです。   みなさんにも励んでいただきたいのです。この水戸第一聖書バプテスト教会という、キリストのからだなる教会を建て上げるために、神さまと人の前に、まず忠実であることを目指していただきたいのです。そのように忠実であるならば、第一コリント4章のみことばのように、神さまは私たちに、みことばの奥義を管理する働き、すなわち、みことばを学び、その学んだことを人々にふさわしく宣べ伝える働きを委ねてくださいます。忠実であることを目指してまいりましょう。   私たちがティキコのようであるために、ティキコのようになるために、しばらく祈りましょう。神さまがティキコの存在を通してこの恵みのみことばをこの地に残してくださったこと、私たちにもティキコのような信仰の先輩、信仰の友を備えてくださり、私たちの信仰を成長させてくださったこと、私たちもまたティキコのようになれるように、忠実さを増し加えてくださいますように、しばらく祈りましょう。