奇蹟への献身

聖書箇所;マタイの福音書14章13~21節 メッセージ題目;奇蹟への献身 私たちの礼拝するお方、イエスさまは全能なるお方です。イエスさまが全能であるということを、私たちは聖書のみことばから知り、信じることができます。 イエスさまは実にいろいろな奇蹟をなさいましたが、その奇蹟の中でも、本日お読みした、五つのパンと二匹の魚の奇蹟は、特筆すべきものです。といいますのも、この奇蹟は、四つの福音書、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、すべての福音書に記録されているみわざだからです。イエスさまの復活を別にして、四つの福音書すべてに記録されている奇蹟は、この五つのパンと二匹の魚の奇蹟、これだけです。 しかし、私たちはこの奇蹟について学ぶにあたって、まず覚えておくべきことがあります。それは、イエスさまにとっては、とても大事な人、バプテスマのヨハネを、たいへん不幸な形で失ったという、その背景の中でこの奇蹟が行われたということです。 「刎頚之友」ということばがあります。この親友のためならば首を斬られてもかまわない、という、中国の故事成語です。ヨハネは、イエスさまにとって、刎頚之友となりました。バプテスマのヨハネは、聖書の教えに殉じた人でした。この殉教は、言うなればイエスさまのことばの正しさを証明したということであり、バプテスマのヨハネはほんとうの意味で、イエスさまにとっての「刎頚之友」となってその生涯を果てたのでした。 そしてその殉教が、ヨハネの弟子たちによってイエスさまに知らされました。そのときのイエスさまのお気持ちを考えてみましょう。イエスさまは、ご自身にやがて来たる十字架の死を思われなかったでしょうか。そして、それと同時に、どれほどヨハネの死を悲しまれたことでしょうか。イエスさまには祈りの時間が必要でした。ただちに寂しいところに退かれ、祈りの時間を過ごすことにされました。 しかし、群衆はそんなイエスさまを目ざとく見つけました。イエスさまのそんなお気持ちを知ってか知らずか、イエスさまを放っておきませんでした。ぞろぞろとついてきました。 ここでイエスさまは、ひとつの決断をされました。御父なる神さまのもとに行って一対一の祈りの時間を持つ前に、まず目の前の群衆にみことばを語り、病気の者をいやさなければ……。 イエスさまは、ひとり寂しいところに向かおうと漕ぎ出していた舟を岸辺につけ、群衆をお迎えになりました。 しかし、ここで群衆の気持ちも考えてみましょう。群衆はイエスさまの前に出ることに、どれだけ差し迫っていたことでしょうか? とにかくイエスさまの話を聞きたかった! イエスさまに触れていただいて、いやしていただきたかった! その思いにあふれていました。しかし、彼らはそれで満足するあまり、肝腎のご飯を食べることを忘れていました。 弟子たちの中には、村に行ってめいめいに食べ物を食べさせればよい、群衆を解散させましょうと言う者もいました。しかし、ここに集っているのは男性だけで5000人はいます。近くにあるのが都会でも、そんな大量のパンなどおいそれと調達できるものではありません。いわんや近くにあるのは単なる村里です。何もできません。 しかし、イエスさまはさすがです。ご自身についてくる人たちを、決して飢えさせたままにはされないお方です。イエスさまは彼らに、必要なだけのご飯を分けてあげるという奇蹟を行われました。そうです! イエスさまの手にかかれば、私たちは養われるのです。私たちは安心して、イエスさまについて行っていいのです。イエスさまが必ず、私たちのことをあらゆる面で養ってくださるからです。 私たちは、イエスさまが全能なるお方であることを知っています。また、イエスさまは全能なるお方であると告白します。しかし私たちは心のどこかで、イエスさまよりも、この世の常識のほうを拠り所として、計算しながら信仰生活を送ってはいないでしょうか? 私たちがもし、全能なる神さまのみわざを見たいと願うならば、疑わずに全能なる神さまを全面的に信じ、その信仰を働かせてお祈りする必要があります。 さて、このイエスさまの奇蹟を前にして、三種類の人が登場します。第一は、五つのパンと二匹の魚を差し出した少年、第二は弟子たち、そして第三は、食べて満腹した群衆です。 まず、少年から見てみましょう。マタイの福音書では、食べ物を差し出したのがだれかを明記していませんが、ほかの福音書では「少年」と書いています。 少年は幼い分、充分にこの世の経験を積んでいないかもしれません。しかしはっきりしているのは、それだけ世間ずれしていなくて、イエスさまに対する純粋な信仰を持っている、ということです。 大人になると、いろいろな世間のしがらみによって、とかく発想が窮屈になります。いちばんいけないのは、イエスさまに対する信仰が「理詰め」になることです。しかし、この少年はちがいました。少年にとって、お弁当はもちろん大事です。しかし、このお弁当をもしイエスさまに差し出したならば、みんなのことをいやしてくださっているイエスさまのことだもの、きっと何かしてくださる……そう信じきっていたのでした。 しかし少年は、ただ純真だっただけでしょうか? そうではなかったはずです。少年は、イエスさまと一緒に過ごす時間が、おそらくかなり長くなるのではないか、そうかんがえていたはずです。だからこそ、腹ごしらえができるようにお弁当を持ってくることを忘れなかったのでした。 この少年はイエスさまについていくにあたって、お弁当を忘れなかったように、やるべきことは抜かりなく行なっていました。その備えをしていたという点で、ほかの群衆とはちがっていました。その結果、主に用いられる栄光に浴したのでした。 私たちは常識にとらわれて信仰を働かせないのも困りますが、むやみやたらに無鉄砲なことをしてもいけません。「人事を尽くして天命を待つ」ではありませんが、神さまが人に与えてくださった能力を最大限に生かし、それでも自分の努力ではどうしようもない領域に全能なる神さまが働いてくださるように御手にゆだねる……これでまいりたいものです。 次は弟子を見てみましょう。群衆はどれほどの数だったでしょうか。成人男子だけで5000人いたとありますから、女性ですとか、それこそこのお弁当を差し出した少年を含む、子どもまで入れたらとんでもない数になります。この群衆に、たった12人の弟子で食べ物を配りなさいとイエスさまはおっしゃいました。一人で1000人は担当しなければならない計算です。 しかし、弟子たちはやり遂げました。弟子たちは、イエスさまがパンと魚を信じられないほどに増やされる奇蹟を目撃しただけではありません。このたいへんな働きに、「用いていただく」光栄にあずかったのです。 イエスさまのみわざは、単独で行われるものではありません。いかにイエスさまがパンと魚を増やされたとしても、それを配る人が必要です。イエスさまのみわざは、イエスさまに聴き従う弟子たちによってなされます。主の働きというものは、教会奉仕にしても、伝道にしても、取り組んでいるときに、時に疲れを覚えることもあるかもしれません。しかしそんなとき……この重労働とさえ言える奉仕に取り組んでいた十二弟子を考えてみましょう。彼らの顔を想像してみましょう。彼らは、イエスさまのみわざを今まさに目撃している喜び、イエスさまに今まさに用いていただいている喜びに輝いていたにちがいありません。 イエスさまとともに、イエスさまによって、これが、私たちの信仰生活にとって何よりも大事なことです。この、イエスさまの御前に生きる意識がなければ、私たちの信仰生活はことごとく、人に見せるために行うものにすぎなくなってしまいます。礼拝堂のお掃除をしないとほかの兄弟姉妹の目が気になる、食事の準備や片づけをしないとほかの兄弟姉妹の目が気になる……もちろん、奉仕は大事ですが、イエスさまの御前でする意識を持つのと、ほかの兄弟姉妹の目を気にするのとでは、同じことをしているようで、まったくちがうことをしていることになります。信仰生活とは、人の目を気にして行うものではありません。 イエスさまが私のことを喜んで用いてくださるから、私も喜んで取り組む、主人であるイエスさまの喜びを、この信仰生活によってともに分かち合う、それでこそ私たちは、この十二弟子にならう本物の信仰生活を送っていると言えるのではないでしょうか? みことばは語ります。「受けるより与える方が幸いである。」私たちはとかく、恵みを受けることばかり求めるものです。しかし、主に用いていただくときに味わう喜びは、主から何かを受けるときに味わう喜びとはまた違う、すばらしいものです。用いていただく体験をした人しかその素晴らしさは分かりません。この喜びに、私たちがひとりももれなくあずかれますようにお祈りします。 最後に、群衆を見てみましょう。彼らは、イエスさまが好きでたまりませんでした。イエスさまがお祈りをしようというのに追いかけていき、みことばを聴き、病気を治してもらい、そればかりか、奇蹟のようにご飯を食べさせてもらった……群衆はまさしく、イエスさまを追いかけただけの祝福をいただきました。 しかし、ヨハネの福音書を読んでみますと、この話には続きがあります。イエスさまはこの群衆に対して、あなたがたは食べて満腹したからわたしについてきただけだ、とおっしゃいました。そのおことばにつづけて、ほんとうの食べ物とは、イエスさまご自身のからだ、そして血であるとおっしゃいました。これを口にする者にまことのいのちがあるということです。 もちろん、これは私たち人間を救う、イエスさまの十字架を指して語られたおことばでしたが、このおことばに、群衆はふるいにかけられました。このことばは彼らに難解すぎたのです。あるいは、群衆はこのおことばに、血なまぐささ、野蛮さを感じたのかもしれません。もちろん、その意味を深く尋ねて、さらにイエスさまにしがみつけばよかったのですが、単なる肉的な祝福で満足しようとした群衆は、イエスさまのおことばに、今風の表現でいえば、「引いた」のでした。 残ったのは十二弟子でした。あの何万人もいた群衆はどこに行ってしまったのでしょうか。残ったのはほんとうにわずかな人、しかし、それがイエスさまの方法でした。イエスさまが何を語られようと、イエスさまのおことばにとどまり、分からなければ何度でもイエスさまに教えていただく、それが、群衆と弟子を分けるものです。主に用いられるのは、弟子です。主に用いていただくことに恵みを覚え、感謝できるのは、弟子です。私たちは自分のことを、群衆でいいと思っていますでしょうか、それとも、弟子でありたいと願いますでしょうか? 私たちは、イエスさまのみわざを茫然と眺め、ただ単にイエスさまが神さまであると告白するところにとどまったままでいてはいけません。イエスさまは、ご自身に献身する人を求めていらっしゃいます。お弁当を差し出した少年も、食べ物を配った弟子たちも、共通しているのは、「イエスさまに用いていただいた」ということです。イエスさまに用いていただくということ、これは、イエスさまの奇蹟を体験し、満たされること以上に恵まれること、喜びにあふれることです。 私たちもイエスさまの御手によって用いられる、その恵みをともに体験していきますように、主の御名によってお祈りいたします。